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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ラブロマンス

『 17歳のエンディングノート 』 -Live as if you were to die tomorrow-

Posted on 2020年5月23日 by cool-jupiter

17歳のエンディングノート 65点
2020年5月21日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング カヤ・スコーデラリオ
監督:オル・パーカー 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200523101421j:plain
 

『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー 』の監督作。COVID-19禍が縮小傾向とはいえ、第二、第三波は来る。まさか『 フィフス・ウェイブ 』ような間抜けにもほどがある第五波が来るとは思っていないが、世界の死者数などを知ると命のはかなさについて考えざるを得ない。そこで本作をチョイス。

 

あらすじ

テッサ(ダコタ・ファニング)は若くして癌を患っている。そしてついに医師に余命宣告を受けた。彼女は死ぬまでにやりたいこと決めて、それらを実行していく。そしてテッサは最近隣に引っ越してきたアダムとの距離を確実に縮めていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

こういうストーリーでは、死に行く主人公よりも、その周辺のキャラクターが光り輝く。本作も例外ではない。テッサの父がアダムと出会って語る言葉の前半は、全ての父親に共通する心理だろう。そしてその言葉の後半は、『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』におけるロブ・リグルや『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』の杉本哲太のそれと同じである。病気の娘を輝かせるのは父親というのは、古今東西の映画文法のようである。ベタではあるが、やはりオッサンの好演に心を揺さぶられる。

 

テッサの家族が一致団結していないことが本作のアクセントになっている。必死で娘に向き合う父親、その父親とは離縁していて、娘の看病や介護ができずにおろおろする母親、そして姉の病気を正しく理解するにはまだ幼すぎる弟。こうした、ちょっと普通ではない家族だからこそ、テッサは時に傷つき、そして救われもする。そして若くして妊娠する親友に、とある秘密を抱えた隣家の青年と、家族外でテッサを取り巻く面々も多士済々だ。テッサの親友のゾーイと恋人アダムが絡まないのも潔い。変に人間関係をこねくり回すよりも、これぐらいがちょうど良いと感じた。

 

『 マトリックス レボリューションズ 』のエージェント・スミスは“The purpose of life is to end.”と喝破したが、本作はその逆のテーマを非常にベタな手法で力強く称揚する。生きるからには愛し愛されたいものである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のテッサの屋内スカイダイビングのシーンは、おそらく顔だけ差し替えている。このアトラクションはフェイスマスクをつけることが多い。つけない場合は、鼻の穴や唇が常にプルプルすることになる。ダコタ・ファニングの変顔を、監督が見せたくなかったのか、それとも本人が嫌がったのか。いずれにせよ、死ぬまでにやりたいことをやるというのが本作のコンセプトなのだから、変にCGなどは使わないでほしかった。

 

中盤にアダムが街中に思わぬ仕掛けを施すが、時間的に、また労力的にちょっとこれは不可能ではないかという仕事をやってのけている。非常に良いサプライズなのだが、もうちょっとリアリスティックにしてほしかったところ。

 

テッサが自室の壁に書いていくTo do リストが少々弱い。というよりも、始まりと終わりが上手くつながっていないというか、死ぬまでにやりたいことと、開き直ってもうやっていることが、ごっちゃになっている部分があった。「明日死んでもいいように今日を生きろ」というのが本作のメッセージの一つである。ならば、そのようにテッサが思い立って行動を始める瞬間を、もっとドラマチックに描いてほしかったと思う。

 

総評

よく練られた話である。100分ほどと、コンパクトにまとまっているし、ストーリーやキャラクター同士の関係も適切な範囲でのみ盛り上がる。Jovianはエル・ファニング推しであるが、姉ダコタも素晴らしい役者であると感じる。躊躇なく下着姿になって海に向かって突撃するシーンはまさに青春である。女子高生の娘を持つ父親が、家族で鑑賞して、そして泣いて見せればよいのではと思う。娘が父の愛の大きさと深さに感動するか、それとも気持ち悪いと感じるか、そこは諸刃の剣だろうが。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

drift away

訪問看護師がテッサに「疼痛緩和が進めば、やがて意識がなくなる」と語った、“意識がなくなる”の意味である。物理的にドリフト的に本来の場所から逸れて行ってしまうという意味と、意識が今この瞬間から離れて行ってしまうという意味の二つがある。後者については、オールド・ロックンロールのファンならばロッド・スチュワートやレイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズやローリング・ストーンズが歌った“Drift Away”=『 明日なきさすらい 』を知っているはずだ。I wanna get lost in your rock and roll and drift away!

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, イギリス, カヤ・スコーデラリオ, ダコタ・ファニング, ラブロマンス, 監督:オル・パーカー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 17歳のエンディングノート 』 -Live as if you were to die tomorrow-

『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

Posted on 2020年5月16日 by cool-jupiter

愛人/ラマン 75点
2020年5月15日 レンタルBlu rayにて鑑賞
出演:ジェーン・マーチ レオン・カーフェイ
監督:ジャン=ジャック・アノー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200516181911j:plain
 

『 月極オトコトモダチ 』とは裏腹のテーマの作品を鑑賞してみたいと思い、本作があったなと思い出した。確か大学生3年生ぐらいの時に、当時急成長中だったTSUTAYAでVHSを借りて観た。当時、純情だったJovian青年は『 ロミオとジュリエット 』のオリビア・ハッセーを観た時と同じくらいの衝撃を味わったのだった。

 

あらすじ

20世紀初頭のフランス領インドシナ。少女(ジェーン・マーチ)は偶然にも裕福な華僑青年(レオン・カーフェイ)と知り合い、性的な関係を持つようになる。愛のないセックスに耽る二人だが、少女も青年も家族に問題を抱えており・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の一人、レオン・カーフェイが、『 グリーンブック 』で言及した韓国系カナダ人にそっくりなのである。それが原因なのかもしれないが、異邦人の悲哀が確かに感じられた。YouTubeに行けばいくらでもinterracial relationshipにあるカップルたちの日常の動画や結婚生活、喧嘩の模様などが赤裸々に語られている時代である。それは取りも直さず、ようやく時代がinterracial relationshipを許容できるようになってきたことの表れでもある(移動や情報公開のテクノロジーが行き渡った面も無論あるが)。一方で20世紀前半のインドシナで、華僑の青年と宗主国フランスの少女という、互いにアウェーな状況は、どこか『 ロスト・イン・トランスレーション 』を彷彿させた。実際に、日本語に英訳がつかなかったように、本作でも中国語に字幕が存在しない。仕事をせずとも暮らしていける富裕なこの男は世界に居場所がない。その居場所として少女を見出していく様ははかなげで悲しい。スーパーリッチなアジア人青年キャラクターとして『 クレイジー・リッチ! 』のニックが思い出される。本作の華僑青年のキャラクター造形はニックに影響を与えていてもおかしくない。

 

もう一人の主演であるジェーン・マーチは、まさにこの限られた時期にしか発揮することのできない魅力や魔力を存分に発揮したように思う。『 ガール・イン・ザ・ミラー 』でも感じたことだが、邦画の世界には脱げる役者が少ない。男でも女でもである。その意味では本作は、30年前の映画でありながら邦画の30年先を行っている。つまりは stand the test of timeな作品である。脱ぐから偉いのではなく、その瞬間にしか作れない作品をしっかりと作り、世に送り出している。本邦では、脱ぐ=話題作り、落ち目女優の勝負、体当たりの演技ぐらいにしか捉えられない。まことに貧相で皮相的である。脱ぐからセクシーだとかエロティックになるわけではない。聴診器で心音を聞いたり、マンモグラフィー検査や乳房の触診で興奮する男性医師などいない。物質としての女体に男は興奮するのではない。それへの距離を詰めていく過程に最も興奮するのである。嘘だと思うなら本作を具に観よ。最も官能的なのは、車中で男が少女の指に自らの指を重ねていくシークエンスであり、前戯やセックスそのもののシーンではない。

 

監督のジャン=ジャック・アノーは『 薔薇の名前 』でもかなり唐突なセックスシーンを描いていた。確か隠れていたところを見つかった少女が、自分から少年の手を取り、自分の胸を触らせて篭絡していく過程が妙に艶めかしかった。自身の問題意識の中に人間関係とセックスがあったのだろう。セックス=愛情表現と考えがちな男のちっぽけな脳みそではなかなか消化しきれないが、セックス=自己表現の一つとしていたフランス人少女の姿は、色々な因習を突き破ったという意味で本土ではなく植民地における『 コレット 』だったと言えなくもない。

 

主演二人に名前がない設定も素晴らしい。『 母なる証明 』の母にも名前がなかったが、名前を持たないことでその人間の“属性”が一気に肥大化し、かつ“個性”が一気に矮小化される。COVID-19における報道を考えてもらいたい。志村けんや岡江久美子のように、“名前”のある人が死亡すると、我々は戦慄させられる。一方で名前が一切出てこない報道、たとえばイタリアやアメリカの死者数を伝えられても「あの国、ヤバいな」ぐらいにしか感じない。男と女、華僑と白人、青年と少女。様々な属性に縛られる二人の関係を、どうか堪能してほしい。そして、男というアホな生き物の生態に一掬の涙を流してほしい。

 

ネガティブ・サイド

寄宿舎でもう一人いる白人少女との語らいのシーンがもっとあっても良かった。どこの誰が売春をやっていてだとかいう話よりも、男に〇〇したら幼児返りしただとか、演技で男を喜ばせてやっただとか、そういう男を震え上がらせるようなトークが聞ければ、このラマンはファム・ファタール的な属性をも帯びたことだろう。

 

またお互いの家族とのシーンも少々物足りなかった。居場所となるべき家で地獄の責め苦を味わう、あるいは虚無的な気分にさせられる。だからこそ、市場の喧騒のただ中にある“部屋”でセックス三昧になってしまう。それはとてもよくわかる。ただ、「中国人と寝やがって!」と激昂する兄や不甲斐ない母の描写がもっと序盤にあれば、ジェーン・マーチを性に積極的な少女以上の存在に描けていたと思うのである。

 

総評

時を超えて観られるべき作品である。汚らしいメコン川が、なぜか美しく懐かしく感じられる映像世界も素晴らしい。世に悲恋は数多くあれど、たいていは結ばれないままに終わってしまう。本作はいきなり結ばれる。そこから先にどうしても進めないというジレンマが痛々しい。官能シーンも良いが、鑑賞すべきは人間ドラマの部分である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Repeat after me.

リピート・アフター・ミー、つまり「 続けて言ってみましょう 」の意である。セックスの前、最中、もしくは後に女性に何かを言わせたいという男性は多い、というか大多数だろう。それを実際にやったカーフェイに拍手。そして、その行為の余りの悲しさと虚しさに胸が押しつぶされそうになった。Jovianは商売柄、しょっちゅうこのフレーズを使うが、プライベートでこれを言う、もしくは言われるようになれば、あなたは英会話スクールを卒業する時期に来ていると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, イギリス, ジェーン・マーチ, フランス, ラブロマンス, レオン・カーフェイ, 監督:ジャン=ジャック・アノー, 配給会社:日本ヘラルド映画Leave a Comment on 『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

『 ベイビー・ドライバー 』 -音楽+クルマ+犯罪+ロマンス=Baby Driver-

Posted on 2020年3月29日 by cool-jupiter

ベイビー・ドライバー 85点
2020年3月28日 所有Blu-rayにて鑑賞
出演:アンセル・エルゴート リリー・ジェームズ
監督:エドガー・ライト

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200329114230j:plain
 

これは2017年の夏に梅田ブルク7で鑑賞して以来、劇場で6~7回観た。それぐらい衝撃を受けた作品だった。4DXを体験しに、わざわざ四條畷のイオンモールまで遠征したり、爆音上映を楽しむためにMOVIX京都まで出向いたのだった。心斎橋シネマートで『 幼い依頼人 』や『 娘は戦場で生まれた 』を観たかったのだが、外出自粛要請&嫁さんからのストップ。なので自宅のテレビで本作を改めて鑑賞している。

 

あらすじ

ベイビー(アンセル・エルゴート)は逃がし屋ドライバー。音楽を聴くことで運転のスキルが極限にまで高まる。数々の強盗事件の犯人を、自慢の運転スキルで逃がしてきた。しかし、ある日ダイナーでデボラ(リリー・ジェームズ)に出会ったことで、足を洗おうと決意するが・・・

 

ポジティブ・サイド

何といっても冒頭の6分間の銀行強盗からの逃走シーンが秀逸だ。The Jon Spencer Blues Explosionの“Bellbottoms”で一気にハイになったベイビーが、天才的なドライビング・テクニックでパトカーの大群を振り切り、ヘリコプターの追跡からも見事な機転で逃げ切るのは、2010年代の映画の中でも最高のオープニングの一つだろう。市街地でドリフトで疾走する様は、まさにドライバーがやりたいという願望を持っていても絶対にやれないことを代わりに実現してくれたようで、実に爽快かつ痛快である。

 

大柄で童顔なアンセル・エルゴートが“ベイビー”というのもいい。ベイビーのごとくほとんどしゃべらないこと、幼少の頃の事故のトラウマから今も抜け出せていないこと、母親(母親的な人物)を探し求めていることなど、様々な属性を持つキャラクターであるベイビーだが、まさに名は体を表す。記憶力(retention)も抜群で、テレビをザッピングしながら様々なセリフを一瞬で気暗記していく。そのセリフを再生することで他キャラと思わぬinteractionが生まれる。まさに周囲の真似っこをするという意味で“ベイビー”=赤ん坊なのだが、そのベイビーがどんどんと自分の言葉を獲得していく過程も興味深い。

 

そのベイビーを成長させるようとして本作は2つの基軸を提示する。すなわち、疑似的な父親との関係と恋人との関係である。本作に登場する疑似的な父親はケビン・スペイシーが演じるドク、ジェイミー・フォックスが演じるバッツ、ジョン・ハムが演じるバディ、そしてCJ・ジョーンズ演じるジョーである。特にCJ・ジョーンズは本当に耳が聞こえないそうで、このような役者を起用できるところにあちら側の懐の深さを感じる(日本でもようやく『 37セカンズ 』という秀作が出たが)。文学的な意味で言えば父親とは殺すべき対象であり、実際の人間の成長過程においては乗り越えるべき対象であり、またその支配や庇護から独立すべき対象である。両親のいないベイビーに対して、虐待的な父親=バッツ、趣味を同じくする父親=バディ、支配的な父親=ドク、そして世話をしなければならない父親=ジョーとの関係、そしてそれらの関係の終わりには、何とも味わい深いものがある。アクションだけではなく、このあたりのキャラクター造形、キャラクターの関係の深さと豊かさが、2017年のJovianをrepeat viewingに走らせたのだ。

 

だが、何といってもデボラとベイビーのロマンスだ。冒頭のコーヒーを買う時のロングのワンカット(実際は30回以上の撮影を経てワンカットに見えるように編集したらしい)で、ベイビーが恋に落ちる瞬間が視覚的に表現されている。このシーンは“Harlem Shuffle”の歌詞と壁や電柱の落書き、つまり音声と文字との一致ばかりに目が行きがちだが、どうかそれ以外のアートにも注目をしてほしい。Jovianは劇場で、確か4度目ぐらいの鑑賞であるオブジェの色の変化に気が付いて、感嘆の声を漏らしたのを覚えている。そのデボラとの出会いがカフェというのも良い。運命の相手とは、しばしば日常的なシーンで出会うものだからだ。一際良かったのはベイビーが実際に恋に落ちる瞬間の演出、というより恋に落ちたと確信する瞬間の演出か。わざとらしいスローモーションやズームインを全く使わず、淡々とした会話だけでそれを表現したのが逆に非常に新鮮に映った。デボラは母親的な存在ではない。が、いずれベイビーと結婚するのだろうと予感させてくれる。そのことはベイビーがダイナーで言う“Yes, I do.”というバディの質問への返答に表れている。

 

本作のBGMは、ほとんどすべて既存の歌であり楽曲である。シーンや演出に合わせて音楽が生まれたのではなく、エドガー・ライトが使いたい音楽がまずそこにあり、それに合うようなシーン演出がなされている。それが最も端的に表れているのが、中盤の“Tequila”に合わせた銃撃戦シーンと、終盤手前の“Hocus Focus”に合わせた銃撃戦シーンである。Jovianは今でもBGMと役者の演技の融合の白眉(ミュージカル作品除く)は、『 ニューヨーク東8番街の奇跡 』で、地上げ屋が車載電話でプーッ・プーッ・プ・プーッとダイヤルするシーンだと思っているが、本作の音楽とアクションのシンクロ具合は、間違いなく映画演出の最高峰である。

 

エンディングもひたすらに美しい。ジュディ・ガーランドの『 オズの魔法使 』の如く、白黒がカラーに転じる瞬間に一瞬垣間見える虹に、自分の幼少期の映画体験の原点が強烈に思い起こされた。おそらく、エドガー・ライトも同様の経験を幼少期に持ったのではないか。白黒がカラーに転じるあの瞬間に、カンザスとオズ、つまり現実と夢幻の世界の境界が溶けたのだ。それと同じく、ベイビーとデボラが再び出会い、音楽を流し、あてどないRoad Tripに出るというビジョンが現実なのか幻想なのかはもはや重要ではないのである。

 

本作では数々の名曲がフィーチャーされているが、オッサン映画ファンとしては、本作を機に若い世代にコモドアーズの“Easy”を特に堪能してほしいと思う。

 

ネガティブ・サイド

奥手であるとしか思えないベイビーがバッカナリアという高級レストランで如才なく振る舞えるのには少々違和感を覚えた。バディの台詞をコピーして、それでデボラをディナーに誘うのはいいが、そこから先がトントン拍子過ぎる。テレビをザッピングしながら、モテる男のデートでの振る舞い方のようなものを一瞬だけでも良いのでインプットするシーンがあれば良かったのだが。

 

個人的にはベイビーがピザ屋として働くシーンや、何気ないデボラとの逢瀬のシーンがもう2~3分欲しかった。BabyからBoyに、そしてBig Boyになっていく過程がもう少しだけあれば、それぞれの疑似的な父親たちとの対決や別離がもっともっとドラマチックに感じられことだろう。

 

総評

カーチェイス映画であり、アクション映画であり、クライム映画であり、歌と音楽とダンスの映画であり、アングラノワールであり、ラブロマンスであり、コメディーであり、ヒューマンドラマであり、ビルドゥングスロマンでもあり、ファンタジー映画ですらある。古い革袋に新しい酒と言うが、全てのシーンが古くて新しい。どこかで観たような映画の構図がてんこ盛りなのだが、それがまったく気に障らず、適度なオマージュとして機能している。エドガー・ライトの才気煥発、面目躍如の一作である。鬱々とした気分をぶっ飛ばしたい時にこそお勧めの逸品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

talk shop 

劇中ではドクが“Shop, let’s talk it.”と言う。talk shopで「仕事の話をする」という意味である。商談の場であいさつやちょっとした雑談をして、本格的に仕事の話をするときなどに使ってみよう。shopを使う表現としては他に、set up shop=開業する、事業を始める、というものがある。He set up shop as a lawyer recently. =彼は最近、弁護士として開業した、という具合に使う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アメリカ, アンセル・エルゴート, ラブロマンス, リリー・ジェームズ, 監督:エドガー・ライト, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ベイビー・ドライバー 』 -音楽+クルマ+犯罪+ロマンス=Baby Driver-

『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

弥生、三月 君を愛した30年 45点
2020年3月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 成田凌 杉咲花
監督:遊川和彦

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一つの物語の中でキャラクターの成長や老いを描く作品は星の数ほどある。だが、本作は三月の一日から三十一日の1日を経るごとに、1年(何年か飛ばすところもあるが)が経過していく。この見せ方と構成は非常にユニークである。

 

あらすじ

山田太郎(成田凌)と結城弥生(波瑠)は、心の奥底では惹かれ合いながらも、親友のサクラ(杉咲花)の病気、そして死によって、いつしか別々の人生を歩むことになった。互いに結婚や別離を経験しながらも、二人はいつしか引き寄せられて・・・

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ポジティブ・サイド

専門家は映画を評価する際には Form と Content の面から行う。Formとは本で言うならば、装丁であり、文字のサイズやフォントであり、テキストのレイアウトであると言える。一方でContentは物語の中身そのものである。一般に映画や本の面白さは、コンテンツで決まる。だが、時にFormそれだけで桁違いの面白さやユニークさを生み出す作品が現れることがある。クリストファー・ノーラン監督の『 メメント 』が好個の一例である。本作の、一日経つごとに一年が過ぎていくという見せ方は非常に面白い。

 

高校生から50歳手前までを同一の役者で描く試みもユニークだ。『 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』でも、小松菜奈が大学生から35歳ぐらいまでを演じていた。本作はその幅をはるかに上回っており、ある意味で大河ドラマ並みである。こういった大胆な試みにもっともっと邦画も取り組んでもらいたい。たとえその作品が大ヒットはしなくても、たとえばメイクアップアーティストやヘアドレッサーの技、照明の調節や光の当て方といった裏方スタッフの技術は確実に蓄積され、向上していくことだろう。その先に、第二第三のカズ・ヒロを生む土壌ができていく。突然変異を待ってはならない。豊かな才能の種を発見し、開花させなければならない。

 

本作では光と影の使い方も印象に残った。明るい背景では明るい場面と心情、薄暗い場面ではどこか沈みがちな心情、黄昏時の西日には関係の終わりが暗示されていたり、あるいは西日で満たされた病室を去る人物が完全に黒いシルエットとして映しだすことで、キャラクターの内面の闇、虚無感を表すなど、随所に工夫が目立った。なんでもかんでも光あふれる演出を施す作品が邦画には特に多い(『 君は月夜に光り輝く 』などはダメな一例だ)。真っ暗な映画館で見るからこそ光を強くしたいと思うのは理解できる。だが、真っ暗な映画館だからこそ光と影のコントラストも映えるのである。

 

今作はいまのところ波瑠のベスト・パフォーマンスになるのかな。笑顔よりも仏頂面の方が絵になる女性も一定数いる。波瑠はそんな一人だろう。『 コーヒーが冷めないうちに 』では、神経質な女性役だったが、どちらかというと感情表現を抑えた役柄の方が似合っている。ドラマや映画なら社長秘書や医師がマッチしそう。クール・ビューティー路線ではなく、満島ひかりや南果歩のような実力派路線を目指してほしい。

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ネガティブ・サイド

フォームには感銘を受けたが、コンテンツ=内容には少々興ざめした。ストーリーのほとんどはトレイラーで分かってしまう。なぜにあのような予告編を作ってしまうのか。様々なシーンの演出やメッセージも、古今東西の映画で使い古されてきたものばかり。あらゆるシーンでデジャヴを感じたと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、本作がオリジナリティに欠けるのは確かである。

 

まずもって病気で死んでいく高校生の名前が「サクラ」という時点で『 君の膵臓をたべたい 』の桜良ともろにかぶっている。そして、満開の桜に過ぎ去った幾星霜とかつての友の姿を見出すのも『 君の膵臓をたべたい 』の二番煎じである。

 

また、ラストの教室のシーンは『 傷だらけの悪魔 』と『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のクライマックスをそれぞれ足して10で割ったような迫力のなさ。というか震災をプロットに組み込むのはまだしも、放射能関連のイジメを絡める必要はあるか?いや、それをやるなら『 風の電話 』並みに取り組んでもらいたい。

 

サクラの好きだったという歌が作中の随所で重要な役割を果たすが、最後のデュエットは必要だったか。それに最後の最後のスキットも必要だろうか。日が昇り、そして沈んでいく。時は流れ、また物語が繰り返す。普遍的な事象であり、それゆえに既に陳腐化したテーマである。現に近年でも『 ライオンキング 』が再制作され、“Circle of Life”が熱唱されている。敢えて邦画がそれを繰り返す必要はない。

 

細部のリアリティに関しても改善の余地を認める。特にサクラの墓や、そこに佇立する桜の木が30年にわたって変化なしに見えるのはいかがなものか。サンタか、あるいは弥生が墓をきれいにしているという描写が一瞬でもあれば、まだ納得できたのだが。

 

電車のドアが閉まる瞬間に抱きよせる、あるいは飛び出るという描写もクリシェ以外の何物でもない。ボールを追いかけて車道に飛び出る子どもというのも、いい加減見飽きた。新しい形の表現を模索することにエネルギーの大半を費やしたのかもしれないが、中身にもほんの少しでいいから新奇さを求めてほしかった。

 

サンタの息子の歩の台詞にもおかしいところがあった。「おばさんに、『 ボールを蹴れ! 』って叱られた」と回想していたが、そんなシーンはなかった。あるいは撮影段階ではあったにせよ、編集作業の段階で誰もこの矛盾に気が付かなかったのだろうか。細部の詰めが甘いという印象ばかりが残った。

 

総評

このような新しい表現の形態は歓迎されるべきである。一方で、中身がほとんどすべてどこかで見た構図や展開のパッチワークである。評価が非常に難しい。ただ、固定電話が携帯電話に代わっていく時代の流れは面白い。40~50歳ぐらいの世代の人は本作の時間の流れに違和感なく入っていけるだろうし、若い世代は逆に古い世代のもどかしい恋愛模様を客観的に見て楽しめるのではないだろうか。ストーリーは陳腐だが、だからこそ万人に受け入れられやすいとも考えられる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let’s not meet anymore.

「もう会わないようにしよう」の私訳。~しよう = Let’s ~。~しないようにしよう = Let’s not ~ である。Let’s not V. というのは実際によく使う表現なので、積極的に使っていきたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ラブロマンス, 成田凌, 日本, 杉咲花, 波瑠, 監督:遊川和彦, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

『 Red 』 -マジックアワーにぶっ飛ばす-

Posted on 2020年3月16日2020年9月26日 by cool-jupiter

Red 65点
2020年3月14日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:夏帆 妻夫木聡
監督:三島有紀子

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『 幼な子われらに生まれ 』の三島有紀子が監督した。それだけでチケットを購入する価値はある。『 ロマンスドール 』と同じく、梅田ブルク7で鑑賞したが、COVID-19もなんのそのなシネフィルが集まっていた。公開から3週間でも客の入りは6~7割。ほとんどが女性。世相を反映しているのか、それとも女性の内面に響くものが本作にあるのか。おそらくその両方だろう。

 

あらすじ

村主塔子(夏帆)は商社勤めの夫と年長クラスの娘を持つ専業主婦。何不自由ない生活ではあったが、しかし、結婚や母親業にどこか満足できていなかった。ある日、娘が小学校に上がるというタイミングで建築事務所に就職した。そこで10年ぶりに鞍田(妻夫木聡)と再会し・・・

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ポジティブ・サイド

シェークスピアの言葉、「弱き者よ、汝の名は女なり」を思い起こさせる内容である。だからといって、女性が全面的にか弱く、男性の庇護なくば生きていけない存在であると言っているわけではない。逆に、女性を弱くさせる社会的・心理的なシステムというものが強固に存在していることを時に遠回しに、時にダイレクトに批判している。

 

あくまで日本においてのことだが、女性というのは年齢と共に自身のアイデンティティの構成要素を奪われて、新たな属性を半ば強制的に付与される存在であると考えられる。最初は○○ちゃん、○○さんと自分の名前で呼ばれていたのが、結婚と同時に姓を変えざるを得ないことがほとんどである。そして子どもを産むと、次には〇〇ちゃん、〇〇君のお母さんという具合に、個人名ではなく関係性で呼ばれてしまう。これは、家族内や子どもを含むグループ内では、自分の人称を一番小さな子どもに合わせるという日本語の特性も関わっているため、一概には女性差別とは言えないかもしれない(自分の子どもと話すときに、「俺は・・・」、「私は・・・」ではなく「お父さんは・・・」、「ママは・・・」となるのは外国語に見られない日本語の特徴である)。だが、差別的でないからといって、疎外を感じないというわけではない。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』では、志乃ちゃんは肉体的にも心理的にも成熟していなかったために自分自身から逃げきれなかったが、本作の塔子は自分に張り付けられた属性を脱ぎ去ってしまう。セックスシーンはオマケのようなもので、ハイライトは“脱ぐ”という行為が象徴しているものである。フィクションの世界では、裸の死体が見つかって、身元の特定が困難とされたりする。アイデンティティの多くは、身にまとっているものなのだ。

 

塔子は決して肉欲に溺れているわけではない。自分が自分らしくあることができる居場所を確保しようともがいている。それは生存の一環でもある。人間の本能に、闘争・逃走反応というものがある。危険を感じた時に、戦うか逃げるか、どちらかの反応を示すということである。塔子は逃げるばかりではなかった。しかし、戦うには相手があまりにも巨大で強大だった。塔子が旅先である女性と共に煙草を一服するシーンでかけられる「女って大変だね」という言葉に、すべてが集約されているように感じる。女を、「おんな」あるいは「オンナ」とも表記できそうに感じたシーンである。ということは、我々は普段から女性にそれだけの属性やラベルを押し付けているということでもある。このシーンでは思わず自分の頭をコツンした。「愚昧な者よ、汝の名は男なり」である。

 

エンディングは非常に美しい。タイトルの Red の意味はここに集約されているのではないか。『 真っ赤な星 』の虚無的で、それでいて力強いエンディングに通じるものがあった。

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ネガティブ・サイド

話題になっていた濡れ場は、『 ナラタージュ 』以上ではあったが、『 ロマンスドール 』並み、『 火口のふたり 』未満であった。もちろん、エロスが主題なのではなく、社会的な制度(結婚制度や親子関係etc)に縛られた個人の解放が主題なのだとは承知している。けれどもベッドシーンがどこか中途半端に見えてくるのは何故なのだろうか。別に夏帆が乳首を見せないからとか、そういう露出の問題ではない。蒼井優だって見せてくれない。たぶん、“脱ぐ”という行為に主体性が感じられないからだろう。一度目のセックスシーンでは妻夫木が夏帆を脱がせた。違う。夏帆が自分から脱いでナンボのはずだ。そうでないと、ストーリーの主題と不倫・不貞行為が一致しない。二度目では、もう最初から脱いでいた。うーん、何だろうか、この「それじゃない」感は・・・

 

行為中のカメラアングルにも改善の要ありと認む。夏帆の表情にばかりズームアップするのではなく、天井や部屋の壁からのアングルがあっても良かった。または『 アンダー・ユア・ベッド 』のように、ベッドの軋みと嬌声を強調するアングルも面白かったのではないか。鞍田の部屋は色々な本来あるべき虚飾が削ぎ落された空間なのだから、そこで男と女になってまぐわう二人を遠景で映し出すことで、社会的な衣装をもはやまとっていない二人という構図を強調することができたと見る。

 

塔子が仕事に復帰する流れも、少々唐突に映った。『 “隠れビッチ”やってました 』のひろみもそうだったが、デザイナーならデザイナーのバックグラウンドを持っているということを暗示するシーンを序盤に入れてほしかった。キッチンのレイアウトについて一瞬だけでも考え込むようなシーンがあれば、「仕事に戻りたい」という塔子の欲求をもっと素直に受け止められるのだが。

 

総評

なんか女性の考察やらベッドシーンの文句ばかり書いてしまったが、映画的な意味での見どころは随所にある。最も印象に残るのは余貴美子と塔子の対話シーンだろう。老若男女問わず、塔子の母のセリフには痺れるはずである。エンディングは賛否が分かれるだろう。Jovianは賛、嫁さんは否であった。夫婦で鑑賞すれば、互いの人生観や結婚観を語り合うきっかけにできる作品かもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

not ~ a bit

「全く~ない」の英語表現といえば not ~ at all が定番だが、not ~ a bit もかなり頻繁に使われる。鞍田が塔子に言う「君は少しも変わってないな」を英語にすれば“You haven’t changed a bit.”となるだろう。同窓会などで使ってみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ラブロマンス, 夏帆, 妻夫木聡, 日本, 監督:三島有紀子, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 Red 』 -マジックアワーにぶっ飛ばす-

『 初恋 』 -粗が目立つ意欲作にして珍作-

Posted on 2020年3月5日2020年9月26日 by cool-jupiter

初恋 50点
2020年3月1日 MOVIあまがさきにて鑑賞
出演:窪田正孝 大森南朋 染谷将太 小西桜子
監督:三池崇史

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『 ラプラスの魔女 』をはじめ、多くの奇作・珍作を作ってきた三池監督。本作もやはり、珍品であった。

 

あらすじ

新進気鋭のボクサー葛城レオ(窪田正孝)は、格下相手にラッキーパンチをもらいKO負け。病院行きとなってしまった。その病院で脳に腫瘍があり、余命幾ばくもないと告知されてしまう。自暴自棄になっていたところ、レオは夜の街で薬物依存症の娼婦モニカ(小西桜子)と巡り合う。それにより、レオはヤクザや刑事、中華マフィアをも巻き込んだ騒動の渦に否応なく巻き込まれていく・・・

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ポジティブ・サイド

窪田正孝は意外にボクシングの型ができている。試合のシーンでも左フックのダブルトリプルを見せたが、これは鬼塚勝也の得意技だった。ボクサーにフィーチャーした映画は色々あるが(『 あゝ荒野 』を早く鑑賞せねば・・・)、左オンリーのコンビネーションはかなり珍しいように思う。この一瞬のシーンを撮るためだけに、かなりの鍛錬を積んできたことが伺える。一瞬、角海老が映っていたように見えた。角海老と言えば坂本博之。坂本博之と言えばvs畑山隆則。レオが素手で格闘するシーンは、坂本vs畑山、あるいは吉野弘幸vs金山俊治のような“熱”が確かにあった。

 

染谷将太のヤクザ役はそれなりに堂に入っていた。チンピラ的な小物オーラから殺人を厭わない冷酷無比な暴力男の顔まで、硬軟自在に演じていた。予告編のパープリンな顔に騙されてはならない。『 君が君で君だ 』で向井理がヤクザ役を演じて新境地を拓いたように、また『 ザ・ファブル 』でも安田顕がヤクザを好演したように、少々伸び悩みやキャリアのプラトーにある役者がヤクザを演じるのは、良い転換になるのかもしれない。

 

中華マフィアの存在や暗躍にも説得力がある。『 ギャングース 』でも中華料理屋が中華マフィアの隠れ蓑になっていたが、これも日本の国力の衰えが顕著になっているひとつの証拠か。中国人が高倉健の“仁”に魅せられるというのも面白い。任侠は元々は古代中国に起源を持つとされているが、文化は辺境に残るものなのだ。ヤクザという非常に暗く狭い領域にも、高齢化以上にグローバル化の波が訪れている。外圧である。非常に屈折した形ではあるものの、これは三池監督流の日本へのエールであろう。そのことは終盤の「日本車を信じろ」という一言にも端的に表れている。

 

終盤のチャンバラも迫力十分。剣戟と言えば昭和の頃のVシネ任侠映画のクライマックスと相場が決まっていたが、北野武あたりから一方的な銃撃戦になってきた(それも非常に乾いた世界観にマッチしていて悪くなかったが)。やはりヤクザの喧嘩の華は昔も今もチャンバラなのである。

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ネガティブ・サイド

ベッキーの怪演が凄い!という評判が先に立っていたが、Don’t get your hopes up. 『 ディストラクション・ベイビーズ 』の小松菜奈の切れ具合と同程度では?あるいは本格的な役者ではないが、半狂乱を超えた全狂乱でヒール街道をひた走ったこともあるWWEのマクマホン家の娘、ステファニー・マクマホンの方がよほど迫力と凄みがあった。目を見開いてバイオレンスなアクトをすれば怪演・・・というわけではない。ギャップによる意外さはあっても演技として格別に優れていたとは感じられなかった。

 

ストーリーの上で、レオが天涯孤独であるということにいまひとつ必然性を感じられなかった。別に両親が離婚して施設に預けられたでも、小さなころに両親と死別したでも、なんでもよかった。生まれてすぐに捨てられた、だから親の顔も何も知らない。そのことがレオというキャラクターの性格にも天性のボクシングセンスを持っていることにも関連がない。つまりはキャラが立っておらず、薄いのである。冒頭でレオに取材に来る記者も笑わせる。人気のコラムのタイトルが「あしたのチャンピオン」とは、いかにも漫画『 あしたのジョー 』の「明日のために」をパロった、あるいはパクったものだろう。どうせパクるなら「熱病的観戦法」のような、一般人にはさっぱりでも古くからのボクシングファンならば思わずニヤリとしてしまうようなものにすれば良いのにと思う。作りが無難なのだ。

 

これは一種のファンタジー映画なのでリアリティ云々は興ざめであることは自覚している。それでも言わねばならない。

 

血は水では洗い落とせない!ボクサーであるレオがそれを知らないはずはない。いや、血ほど布から落ちにくいものはないというのは、鼻血でも何でもいいので、とにかく血を福に垂らしてしまった人ならば誰でも知っていることだろう。冷水シャワーを浴びて、肌はまだしも、衣服からもきれいに血の跡が消えてしまうのは不自然極まりない。

 

中華マフィアが使う刀剣が大刀(巷間言われる青龍刀)ではなく日本刀というのも疑問符である。確かに高倉健を憧憬する中国人女性は出てくるが、ポン刀を使う中国人はそこまで高倉健ファンではなかっただろう。せっかくの迫力あるチャンバラシーンなのだが、これが青龍刀と日本刀の戦いなら、もっともっと絵的に映えたように思えてならない。

 

最大の問題点は「日本車」である。日本車の性能云々ではなく、その描写である。本作は一種のファンタジーであるが、クライマックスで一挙に漫画、それもギャグマンガの域に到達する。三池監督でなければ「は?」となるが、三池監督なので「ま、ええか」となる。これは決してポジティブに評価しているわけではない。匙を投げているのである。

 

プロットもまんま『 ガルヴェストン 』である。死の宣告を受けた男が、娼婦を連れて逃避行に出る。そして行く先々でイザコザが起きる。ほら、『 ガルヴェストン 』でしょ。もうちょっとオリジナル要素を入れるべきだ。モニカが離脱症状(いわゆる禁断症状)で見てしまう幻覚にも、ギャグ要素は不要である。ホラーのテイストをそのまま保てばよかった。幻覚に怯えるモニカに目の前で渾身の右ストレートを一閃。そのあまりの鋭さに幻覚が霧散。生身の人間のパンチに宿る威力を思い出して、離脱症状に苦しむときにもそのパンチを思い出して、自身を奮い立たせる。モニカにそうした描写があればよかったが、ない。そして、『 ガルヴェストン 』のオチと同じオチが本作にも訪れる。って、ちょっとは捻らんかいな・・・

 

総合的に見て同じ東映でも『 孤狼の血 』にかなり劣る。一部にかなりのバイオレンス描写があるが、韓国映画の『 The Witch 魔女 』や『 ブラインド 』の暴力描写にも負けている。まあ、近年の三池クオリティの作品である。

 

総評

突出して面白いわけではないが、どこをとってもダメというわけでもない。とにかくオリジナリティがない。一部の役者の熱演に支えられてはいるが、かえってそのことが作品全体のトーンから一貫性を奪っている。ただし、映画を事細かにexamineしてやろうという目で見なければ、そこそこに楽しめる作品になっているのではないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Yakuza don’t belong in the sun.

「ヤクザに朝日は似合わねえ」というセリフの私訳。ヤクザはinternational languageでyakuzaとなり、これは単複同形である。受験英語ではしばしばbelongと来たらto、と教えるようだが、This belongs in a museum. (これは美術館に所蔵されるべきだ)だとか、あるいはテイラー・スウィフトの“You Belong With Me”のように、belongの後にto以外の言葉を自然につなげられるようになれば、英語の中級者である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, アクション, ラブロマンス, 大森南朋, 小西桜子, 日本, 染谷将太, 監督:三池崇史, 窪田正孝, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 初恋 』 -粗が目立つ意欲作にして珍作-

『 箱入り息子の恋 』 -細部とクライマックスに難あり-

Posted on 2020年1月11日 by cool-jupiter

箱入り息子の恋 50点
2020年1月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:星野源 夏帆
監督:市井昌秀

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劇場公開されたのは2013年の作品である。日本の少子化、それを加速させる要因の一つである未婚および晩婚化の傾向を描いているわけではないが、主役の星野源は、阿部寛とは全く異なる意味での『 結婚できない男 』の属性が付与されている。ただ、正しくは『 結婚の準備ができていない男 』というべきなのだろう。なかなかに面白いドラマであった。

 

あらすじ

天滴健太郎(星野源)は年齢=彼女いない歴の、うだつの上がらない市役所職員。そんな息子を見かねた両親は、代理見合いパーティーに出席し、今井夫妻の娘、菜穂子(夏帆)と健太郎の見合いをセッティングする。しかし、見合いの場で初めて分かったのだが、菜穂子は全盲だった・・・

 

ポジティブ・サイド

星野源が非常になよなよしている。これは褒め言葉である。無表情で、声も小さく、職務に精勤してはいても昇進は一度も無し。そして趣味は貯金。こうした属性に共感できる男性は実は多いのではないか。養老孟司が何かのエッセイで「しつけというのは、本来は不自然なもの。「 男の子に、『 男の子らしく外で遊べ 』と言うのは、そう言わないとインドア派に育つから。女の子に、『 女の子らしくおしとやかにしなさい 』と言うのは、そう言わないと活発に育つから 」と書いていたのを思い出した。つまり、星野源演じる健太郎は、ある意味ではとても自然な男の姿なのだ。甘やかされて育てられたという背景も臭わされるが、非常に現代的な日本男児の姿が見えた。本作はそんな健太郎のビルドゥングスロマンなのである。

 

男が変わる契機というのは、現実でもフィクションでも大体は女絡みと相場は決まっている。天滴という名字が牽強付会にも思えるが、健太郎と菜穂子の最初の出会いはそれなりに印象的だったし、二回目のお見合いも開始1分で修羅場に突入というテンポの良さ。当事者不在で火花を散らす親同士に、案外日本の少子化の原因の一つはこれなのかもしれない、などと考えた。つまり、親が子どもなのだ。親が幼稚なままなら、その子どもも、子どもは作らんわなと思う。

 

Back on track. 非モテの高齢童貞と全盲の美女との関係が徐々に発展していく過程は悪くなかった。一歩間違えれば『 タクシードライバー 』のトラヴィスのようなアホなデートになってしまってもおかしくないのだが、吉野家が絶妙なバランスの上で良い味を出している。テーブルの店でいきなり隣同士に座るのは難しいが、吉野家のようなカウンター席主体の店なら、隣同士に座れる。吉野家というのは殺伐とした、女子供はすっこんでいるべき場所のはずだが、菜穂子にはそんなものは関係ない。このロマンチックさのかけらもないデートがこの上なくロマンチックに映るのは、星野源のカッコ悪さと夏帆の飾らない可憐さのバランスが取れているからであろう。健太郎は菜穂子も、筋金入りの箱入りであるという意味では似た者同士なのである。この不器用な二人の歩みは、2020年代でも共感呼べることだろう。

 

ネガティブ・サイド

夏帆の盲目の演技は普通に良かったが、演出がそれをダメにしている。『 マスカレードホテル 』はヒントとしてそれを行っていたが、本作はうっかりだろう。もしくはそこまで考えていなかったか。全盲の菜穂子が夜にピアノを弾く時に、なぜ電気をつけているのか。普通はつけない。『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』でも『 見えない目撃者 』でも、全盲の人間は自分のプライベートな空間では、夜でも照明は必要としないのである。初めてのラブホテルの室内が暗かったので、余計に気になってしまった。

 

また、健太郎の趣味が格闘ゲームとカエルの飼育だけ、というのも気にかかった。というのも、あまりにも察しが良いからである。菜穂子は健太郎に「言葉にしてくれて嬉しい」と伝えた。対照的にするなら、菜穂子は言葉に出しづらいので態度や仕草、たとえば健太郎の手を取り、手のひらを自分のほほに置かせる、あるいは期するところありげに小さく舌なめずりをしてしまう(少しはしたないか・・・)、もしくは相手の胸に顔をうずめるでも何でもよい。もじもじした様子だけで朴念仁の健太郎が察するというのには違和感を覚えた。健太郎の趣味に映画鑑賞や小説を読むことなどがあれば、まだ納得しやすかったのだが。

 

また、韓国ドラマや韓国映画的な唐突な交通事故というのは、あまりにもクリシェである。しかも悪いのは菜穂子ではなく、どう考えても運転手だろう。大杉漣と黒木瞳の迫真の修羅場に水を指す、不自然極まりないイベントであった。

 

最終盤はギャグである。飼育槽から何とか脱出しようと試みるカエルは、まさに健太郎という“男性自身”である。だが、それなら何故、健太郎と菜穂子のまぐわいの在り方にまでこだわらないのか。メスに後ろから覆いかぶさるのがカエルのオスなのではないか。ドレープカーテンを使ったペッティングは、カエルではなくナメクジに見える。非常にシネマティックでロマンチックなシーンであるはずなのに、ただのギャグにしか見えない。演出が何もかも中途半端なのである。そして全盲の成人の部屋のベランダの柵がそんな落ちやすく作られているわけがない。菜穂子の父親はカネなら充分持っているはずだし、菜穂子の為に家のリフォーム代をケチるような男ではない筈だ。ベランダからの転落にはリアリティがまったく存在しない。無理やりで滅茶苦茶なまとめ方である。

 

総評

障がい者との付き合い方について一考を促される作品である。また、草食系などと呼称される男性や、その家庭の在り方などについても、まあまあ上手く描けているように思える。何よりも夏帆が可憐である。百戦錬磨の感じが出ていないのが新鮮である。細部のリアリティが色々と欠落しているが、全体的にはきれいにまとまった作品である。ラブシーンもあるが、高校生ぐらいからなら視聴しても問題ないだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

When A Man’s In Love

www.youtube.com

歌詞はここでどうぞ。

健太郎は表情にもジェスチャーにも乏しい男だが、男が恋をした時にはこの歌のようになるものである。健太郎も内面はそうだったはずだ。

以下は真面目なレッスン。

A special needs person / A person with special needs

本ブログでも「障害者」とは書かずに、「障がい者」と表記するようにしているが、英語でもhandicapped personやdisabled personとは最早言わない。A person with disabilities または a special needs person / a person with special needsという表現が一般的である。特別なケアを必要とする人、ぐらいに訳せるだろうか。れいわ新撰組によって、日本人の意識も変わってくるだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 夏帆, 日本, 星野源, 監督:市井昌秀, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 箱入り息子の恋 』 -細部とクライマックスに難あり-

『 ラスト・クリスマス 』 -ワム!のファンならずとも必見-

Posted on 2019年12月7日2020年4月20日 by cool-jupiter

ラスト・クリスマス 70点
2019年12月7日 東宝シネマズなんばにて感想
出演:エミリア・クラーク ヘンリー・ゴールディング ミシェル・ヨー エマ・トンプソン
監督:ポール・フェイグ

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英国には偉大なシンガーを生み出す土壌がある。『 イエスタデイ 』のビートルズ、なかんずくジョン・レノン、『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリー、『 ロケットマン 』のエルトン・ジョン、そして現代ではサム・スミス。本作はワム!、特にジョージ・マイケルの楽曲で彩られている。上に挙げた歌い手に共通するのは、愛を求めて彷徨ったということだろうか。永遠の名曲“Last Christmas”にインスパイアされた本作も、大きな愛を歌っている。

 

あらすじ

ユーゴスラビアからの移民であるケイト(エミリア・クラーク)は、“サンタ”(ミシェル・ヨー)の経営するクリスマスショップで働きながら、歌手としてデビューすることを夢見て、オーディション参加を繰り返していた。家族と疎遠であるケイトは、友人宅などを泊まり回るも、トラブルばかりで行き先をなくしてしまう。そんな時、店先に現れた不思議な青年(ヘンリー・ゴールディング)と知り合って・・・

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ポジティブ・サイド

名曲“Last Christmas”に新たな解釈を施したエマ・トンプソンに満腔の敬意を表したい。失恋からの立ち直りの歌をこうも鮮やかに再解釈するのかと唸らされた。何をどう解説してもネタばれの恐れがあるので、敢えて類似の作品を挙げるだけに留める。

 

『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』

『 イソップの思うツボ 』

『 思い出のマーニー 』

『 勝手にふるえてろ 』

 

パッと思いつくのは、これらだろうか。作品タイトルだけでネタばれになりかねないので、シネフィルな方々におかれては、鑑賞前に上の白字部分を読むのは自己責任でお願いしたい。

 

『 シンプル・フェイバー 』でもヘンリー・ゴールディングを起用したポール・フェイグ監督だが、そのヘンリー・ゴールディングは『 クレイジー・リッチ! 』に続いてアジアのレジェンド女優ミシェル・ヨーと共演。アジア人がメインキャストを占めて、舞台がロンドン、製作国はアメリカというところに、時代の変化を感じざるを得ない。また、主人公がユーゴスラビア移民であること、国際化・多様化が極度に進むロンドンを舞台にしていることにも大きな意味がある。そしてJovianが冒頭でF・マーキュリーやE・ジョンやS・スミスに言及したことにも意味がある。ミシェル・ヨーというマダムがメインキャストを張ることにも意味があるのである。生きるとは、助け合うことであるということを本作は高らかに宣言する。

 

エミリア・クラークは『 ターミネーター:新起動 ジェニシス 』ではウブ、『 ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 』ではウブから百戦錬磨に、本作では逆に百戦錬磨からウブに戻って行く感じがして、非常に健康的な魅力を物語中盤からふりまくようになった。特にスケートリンクでのシーンは『 ロッキー 』でのロッキーとエイドリアンの語らいを彷彿とさせた。

 

小説『 クリスマス・キャロル 』では、スクルージは悔い改め、クリスマスは孤独に過ごすものではなく、家族と過ごすものだと気付いた。本作ではケイトも同じことに気付く。そう、これは家族の物語だったのだ。ケイトが見つけ出した家族とは誰か?それは劇場で確認して欲しい。クライマックスに楽曲と共にもたらされるカタルシスは『 リンダ リンダ リンダ 』のそれに匹敵する。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーが本当の意味で始まるまでに、かなりの時間を要する。また、ケイトのあまりのダメ人間っぷりは、何らかの精神的な疾患もしくは障がいをも疑わせるレベルである。もしくは『 女神の見えざる手 』のスローン女史のような、セックス依存症一歩手前なのかとも考えた。終盤になってこのあたりの事情が明かされるのだが、これは少々アンフェアというか、非常に分かりづらかった。青春の真っただ中を空爆されるユーゴスラビアで恋を知らずに生きてきた反動で、bitchになってしまったのかと思ったが、そういうわけでもない。このへんの見せ方とストーリー上の秘密を、もう少し上手い具合に組み合わせるべきだった。

 

ビミョーにネタばれになるが、“Last Christmas”を一曲まるごと、どこかの場面で歌う、もしくは流してほしかった。『 ロケットマン 』でも“Your Song”がフルで流れることがなかったように、少々フラストレーションがたまる構成である。また、ワム!というよりは、ジョージ・マイケルにフォーカスした楽曲の選定になっているので、ワム!のファンは少々物足りなく感じるかもしれない。

 

総評

ジョージ・マイケルのファンにもワム!のファンにも観て欲しい。彼らのファンではない方々にも観てもらいたい。聖歌ではないクリスマス・ソングとしては、おそらくビング・クロスビーの “White Christmas” に並ぶ知名度の“Last Christmas”を聴いたことがないという人は、日本でも超少数派だろう。ジョージ・マイケルが泉下の人となって3年。この偉大なアーティストへのR.I.P.の念も込めて、是非多くの人にこの物語を味わってほしい。

そうそう、本作をきっかけにユーゴスラビアに興味を持った向きには、米澤穂信の小説『 さよなら妖精 』をお勧めしておく。

 

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・トンプソン, エミリア・クラーク, ヘンリー・ゴールディング, ミシェル・ヨー, ラブロマンス, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ラスト・クリスマス 』 -ワム!のファンならずとも必見-

『 空の青さを知る人よ 』 -閉塞感に苛まされたら、空の青さを思い出せ-

Posted on 2019年10月28日2020年9月26日 by cool-jupiter

空の青さを知る人よ 75点
2019年10月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉沢亮 吉岡里帆 若山詩音
監督:長井龍雪

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これはJovianの観た限りの邦画アニメでは2019年で1,2を争う良作である。一部で『 天気の子 』とそっくりの構図(それも『 千と千尋の神隠し 』や『 天空の城ラピュタ 』から来ているのだが)があったりするが、全体的に音楽プロモ・ビデオ的だった『 天気の子 』とは違い、ミュージシャンをフィーチャーした本作の方が、より確かな人間ドラマを描いているのは皮肉なものである。つまり、それだけ本作の完成度が高いということである。

 

あらすじ

埼玉県秩父市。相生あかね(吉岡里帆)と相生あおい(若山詩音)の姉妹は両親を亡くして以来、二人暮らし。あかねは18歳の時に恋人のプロのミュージシャンを夢見る慎之介(吉沢亮)の上京にはついて行かず、地元の役所に就職した。そして今、18歳になったあおいは音楽で身を立てるために上京しようとするが、そこに13年前の慎之介の生霊が現れ・・・

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ポジティブ・サイド

良い意味で期待を裏切られた。吉沢亮が出ている作品はだいたい駄作か凡作。吉岡里帆の出ている作品はだいたい珍品。そうした私的ジンクスを2人そろってたたき壊してくれたからである。

 

まずは吉沢亮の意外なvoice actingの上手さに驚かされた。『 二ノ国 』というクソ作品のクソな声の演技や、『 HELLO WORLD 』の至ってオーソドックスでアベレージな声の演技と比較すれば、その技量は際立っている。もしも本職の声優たちが本作で脇を固めていても、これだけハイレベルな声の演技ができるのなら、素人っぽさで浮いてしまうこともなかっただろう。18歳のシンノと31歳の慎之介を演じ分けるだけではなく、キャラクターの表情や仕草に合わせた、今ここではこの声が欲しい、という声を出せていた。監督のディレクションの賜物だろうが、本人の努力もあったはず。『 キングダム 』で秦王・政をシンクロ率95%で演じ切ったが、あれはflukeではなかった。高良健吾の後継者はこの男で間違いない。

 

吉岡里帆の感情を抑えた、控え目な声の演技も見事だった。『 見えない目撃者 』で殻を破ったと感じたが、その印象は誤りではなかった。慈しみや愛情を豊富に感じさせながらも、拒絶する時の声音には芯の強さがあった。これも監督の演技指導と本人の探究心と練習によるものだろう。順調にキャリアを積み重ねていけば、30歳ごろには演技派と呼ばれるようになれるかもしれない。この調子で覚醒を続けて欲しい。

 

あかねとあおい、二人の姉妹が二人の慎之介と相対する時に交錯する想いは何とも複雑玄妙だ。青春をすでに過ごし終えた者とまさに青春を謳歌している者が、それぞれに異なる悲哀を経験するからだ。誰かを好きになるという気持ちは、素晴らしいものだ。だが、それは往々にしてままならない感情でもある。あかねはある意味で閉じた土地に自分を縛りつけ、止まった時間の中に生き続けている。それがあおいから見た姉の姿である。それを引っ繰り返す終盤のシークエンスは、お涙頂戴ものの典型でありながら、それでも万感胸に迫るものがあった。これは男女の複雑な恋模様であるだけでなく、家族愛であり、姉妹愛であり、自己愛の物語だからでもある。

 

ストーリーはドラマチックであるが、終盤では実にシネマティックになる。つまり、画面いっぱいにスペクタクルが展開されるということである。冒頭で述べた『 天気の子 』そっくりな構図がここで描かれるが、浮遊感や爽快感は本作の方が上であると感じた。ここではあいみょんのタイトルソングが絶妙な味付けになっている。彼女の楽曲が最高の調味料なのであるが、それは歌が主役であるということではない。音楽が映像を盛り立てているのであって、逆ではない。『 天気の子 』はこのあたりのさじ加減を誤っていたと個人的には感じる次第である。もしも良作アニメ映画を観たいという人がいれば、本作を強く推したい。

 

ネガティブ・サイド

本作は変則的なタイムトラベルものと言えないこともないが、多くの作品が犯してしまう間違いをやはり犯してしまっている。最大のものは生霊シンノの「あんとき」という表現である。その話のコンテクストを映像で表現しているので気付かなかったのかもしれないが、そこから読み取れるのは、シンノの体感では成長したあおいと出会ってしまったのは18歳のあかねと別れることになってから1日後である、ということだ。昨日のことを自分から、あるいは誰かに求められて説明する時に「あんとき」というのは、違和感のある日本語である。ここは「そのとき」であるべきだったと思う。

 

本作のグラフィックは非常に美しい。一部、実写をそのままフルCG化したようなショットが随所に挿入されていたようだが、そうした美麗なグラフィックがノイズになってしまっていたように思う。公園内の木々や落ち葉のショットが特に印象的だったが、そこあるべき動き、例えばちょっとした風のそよぎなどが、一切感じられなかった。そのため、かえって非常に無機質な印象を与える風景のショットが見られる。『 あした世界が終わるとしても 』では、実際の人間の如くゆらゆら揺れるキャラクターCGが不気味な印象を与えてきたが、本作の風景の一部は美しさと引き換えに生々しさ、リアルさを失ってしまっていた。それが残念である。

 

キャラクター造形で言えば、31歳の慎之介があかねと再会した場面にも違和感を覚えた。帰ってきたくなかった地元で再会したくなかった(多分)初恋あるいは初交際の相手に、あそこまでだらしなく迫るものだろうか。音楽に操を立てて、それが報われなかったからと言って、昔の女に慰めを求めるのは端的に言ってカッコ悪すぎる。同じ夢破れかけた男として、余りに見るのが忍びない。そうか、だからあかねは「がっかりさせないで」と言ったのか。オッサンが見るにはキツイが、ストーリー上は整合性があるシーンである。これは減点対象ではないか。

 

総評

観終わって、実に爽やかな気分になれる。それは本作が人間の心のダークな領域に恐れることなく光を当てているからだ。ダークと言っても、サイコパス的な心理ではない。普段、他人には決して見せない心の在り様を、ある者は人目を憚って、ある者は赤裸々に、スクリーン上で見せてくれるからだ。ビターなロマンス要素あり、優れた楽曲と優れた声の演技があり、カタルシスをもたらしてくれる映像演出もある。中高生から中年ぐらいまで、幅広くお勧めできる上質なアニメである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I don’t like those who say they like me.

 

あおいの「私は私を好きだと言う人は嫌い」という台詞である。those who + Vは、しばしば「~する人々」、「~する者たち」など、誰とは特定せずに一般的な人間全般を指す時に用いられる。書き言葉でも話し言葉でも、どちらでもよく使われる。昔、ハマっていたシリーズ物のゲームのトレイラー

www.youtube.com

でも確認できるので、興味のある人はどうぞ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, ラブロマンス, 吉岡里帆, 吉沢亮, 日本, 監督:長井龍雪, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 空の青さを知る人よ 』 -閉塞感に苛まされたら、空の青さを思い出せ-

『 もしも君に恋したら。 』 -不器用な男の不器用な恋-

Posted on 2019年10月14日 by cool-jupiter

もしも君に恋したら。 60点
2019年10月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダニエル・ラドクリフ ゾーイ・カザン アダム・ドライバー マッケンジー・デイビス
監督:マイケル・ドース

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禁断の恋はいつでもドラマチックである。最もドラマチックなのは韓国ドラマでお馴染みの、実は二人は兄妹でした的な展開であるが、日常的なレベルでの禁断の恋は、彼氏彼女持ちを好きになってしまうことだろう。これは独身でも既婚者でも、自分にパートナーがいてもいなくても起こりうることで、それゆえに本作は共感を呼びやすく、同時に陳腐でもある。

 

あらすじ

ウォレス(ダニエル・ラドクリフ)は、内向的な青年。友人のアラン(アダム・ドライバー)に呼ばれて行ったパーティでシャントリー(ゾーイ・カザン)に出会い、ひと目惚れする。しかし、シャントリーには恋人がいた。しかし、ある日、映画館の外で偶然に再会した二人は意気投合。ウォレスとシャンとリーは友人関係を結ぶことを約束するが・・・

 

ポジティブ・サイド

ハリー・ポッター=ダニエル・ラドクリフだった頃の、あの少年はもういない。『 スイス・アーミー・マン 』で見事に生気のない役、というか死体を演じた演じる前だが、生気があまり感じられないという点では、本作の役と共通点は多い。ラドクリフ演じるウォレスには共感しやすい。男は基本的に奥手で受け身で自分が傷つきたくないという考える生き物だ。相手を傷つけたくないという配慮は、自分が傷つきたくないという軟弱な精神構造の裏返しなのだ。そんな典型的なダメ男を演じたラドクリフは、世界中のイケてない男の羨望の的である。

 

アダム・ドライバー演じる彼の親友のアランもいい。邦画の、特に少女漫画を映画化した作品では、主人公の親友はたいていの場合、物分かりの良い縁の下の力持ちに終始するが、アランは違う。極めて実践的なアドバイス、すなわち自分を清いままに保とうなどという甘ったれた観念をぶち壊せという助言をしてくれるし、あと一歩を踏み出せない友人と従妹シャントリーに、その一歩を超えられるような舞台設定もしてくれる。一見すると女性=セックス・オブジェクトとしてしか見ていないような男なのだが、実はそうではない。責任を取れる男なのだ。野郎同士の関係、特に悪友とのそれはなかなか変化しない。それは、あまり気持ちの良い例えではないが『 宮本から君へ 』のピエール瀧とそのラグビー仲間のオッサン悪童連を見ればよく分かる。だが、関係が変化せずとも人間は変わる。そして、人間が変わった時、その相手に差し向かう自分も変化を突き付けられる。これは遅れてきた男のビルドゥングスロマンであり、そういう意味ではダニエル・ラドクリフという俳優の人生をある意味で象徴している。まさに面目躍如である。

 

ゾーイ・カザンは安定のクオリティ。下着姿やセミヌードを惜しみなく披露してくれる女優で、容赦ないエロトークやエロティックな演技もできる一方で、slutty な感じを一切出さない。健康的なのだ。日本で比較できそうな女優は高畑充希か。芳根京子の今後の成長に期待。ベタではあるが、怒ったり拗ねたりした時の方が魅力が増す女子というのは、大切にしなければならないのである。

 

ネガティブ・サイド

ゾーイ・カザン演じるシャントリーの商業がアニメーターという設定が今一つ生きていない。ペンだこひとつない綺麗な手というのはどういうことなのだろう?例えば、ウォレスとの友情を誓い合う握手の時に、ウォレスが「ちょっと普通の手の感触と違うね?」みたいなことを言えば、彼女が真摯に仕事に打ち込むキャラクターであることも伝わるし、ウォレスはただのヒッキーではなく、実はそれなりに経験を積んだ男であることを仄めかすこともできただろう。シャントリーの職業的背景が、変てこアニメーション演出以外に特に活かされなかったのは遺憾である。

 

シャントリーのボーイフレンドであるベンを必要以上に dickwat に描く必要はあったのだろうか。高度な知識と技能を持つプロフェッショナルで5年も付き合ってきた女性にプロポーズもできていない時点で、ある意味ではウォレスに負けず劣らずのヘタレなのである。もう少し正攻法のウォレスとベンの対決を見てみたかった。

 

 

総評

全体的に予想を裏切る展開が少なく、予定調和的である。ただ、日本の少女漫画の映画化作品に食傷気味の向きには、A Rainy Day DVD または A Typhoon Day DVDとしてお勧めできるかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Did you guys meet?

 

Meetの意味は出会うではなく、「出会って挨拶や簡単な会話をする」ところまでを含む。『 モリーズ・ゲーム 』でも、ジェシカ・チャステインがイドリス・エルバに娘を紹介された時に“We met.”と返していた。またmeetは名詞としても使う。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも水泳大会=Swim Meetと表現されていた。会=Meetと理解すれば、出会って何かを行う、というイメージをより強く持つことができるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アイルランド, アダム・ドライバー, カナダ, ゾーイ・カザン, ダニエル・ラドクリフ, マッケンジー・デイビス, ラブロマンス, 監督:マイケル・ドース, 配給会社:エンターテイメント・ワンLeave a Comment on 『 もしも君に恋したら。 』 -不器用な男の不器用な恋-

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