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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: フランス

『 バクラウ 地図から消された村 』 -僻地の村を侮るなかれ-

Posted on 2020年12月19日 by cool-jupiter
『 バクラウ 地図から消された村 』 -僻地の村を侮るなかれ-

バクラウ 地図から消された村 65点
2020年12月13日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:バルバラ・コーレン ソニア・ブラガ ウド・キア
監督:クレベール・メンドンサ・フィリオ ジュリアノ・ドネルス

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カンヌで『 パラサイト 半地下の家族 』とカンヌで各種の賞を争った作品。なるほど、寓話的であり社会批判であり、エンタメでもある。ただし、物語のトーンとペーシングに難があるか。

 

あらすじ

祖母が亡くなったことからテレサ(バルバラ・コーレン)は故郷の村、バクラウに戻ってきた。しかし、その後、不可解な事象が発生する。村がインターネットから消え、給水車のタンクには発砲されて穴が開いていた。また、村はずれの牧場から馬が大量に脱走、牧場主たちは惨殺されていた。さらに、ある村人は、空飛ぶ円盤に追跡された。バクラウに何が起こっているのか・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭の宇宙空間からゆっくりと南米、ブラジルへとカメラ映像がズームインしていく様は、非常に不穏で不吉な感覚をもたらしてくれた。とても小さな領域で起こる事柄を俯瞰する視点を持て、という Establishing Shot である。

 

豊かな自然の中を走る給水車が、道路わきの棺桶を次々に轢いて破壊していく様は異様なである。人が死んだことを明示している一方で、そんなことは俺の知ったことじゃないよと言わんばかりのドライバーにも剣呑な雰囲気を感じ取らざるを得ない。これまで見事な Establishing Shot だった。

 

近代人にとって村という共同体は、もはや異世界なのだろう。小説の『 八つ墓村 』も『 龍臥亭事件 』も村を舞台にしているし、映画では『 ミッドサマー 』や『 哭声 コクソン 』、さらに『 光る眼 』(原題はVillage of the Damned)もそうだ。こうした村へやって来る闖入者は往々にして招かれざる客である。それがバイクに乗って現れるのだから、『 アンダー・ザ・スキン 種の捕食 』を思い起こした人も多いだろう。

 

物語中盤でバクラウを襲う怪異の正体が明らかになった時、我々はこれが現代社会の縮図の物語なのだということを知る。ポスターその他の販促物が壮大にネタバレしているが、血で血を洗う闘争が本作の本質ではない・・・と思う。正直なところ、解釈が非常に難しい。が、ひとつだけ言えるのは、地元の人間の言うことには耳を傾けておくべきだということ。コロンブスの大航海時代以上に、現代世界は広がっている。なぜなら旅することができる領域が格段に広くなり、また知るべき事柄も格段に増えているからだ。これ以上は言わぬが花だろう。と書いてきて、ふと思った。これは世界ではなく、宇宙レベルで考えても、同じことが言えるのではないか、と。

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ネガティブ・サイド

主人公が誰であるのかが分かりにくい。結局はバクラウという村落共同体そのものが主人公となるのだろうが、そのことが明らかになるまでがとにかく長い。『 エイリアン 』のように、序盤はクルー全体が主人公なのだと思わせておいて、突如リプリーが覚醒し、リーダーシップを発揮し始めたようなシークエンスを、テレサを使って撮れなかったのか。

 

“地図から消された村”という副題は必要だったか。『 犬鳴村 』じゃないんだから。ネットから消したとしても、市販の地図や書籍からは消せないし、昔あった「はてなマップ」のようなサービスがブラジルにあれば、誰かがバクラウの存在を地図上に復活させてしまうだろう。この副題は無い方がよかった。

 

『 サウナのあるところ 』以来の男性器丸見えはOKとして、そのじいさんの活躍がイマイチである。いや、活躍はしているんだけれど、このじいさんに求められているのはそういうことじゃないでしょ。『 夕陽のガンマン 』のラストのようなスケールで襲撃者たちの死体を運ばないとダメでしょ。

 

子どもが殺されるシーンは胸が痛む。だが、水も電気も手に入らず、近隣で大量殺人も起きているのに、真夜中に子ども達を無邪気に外で遊ばせておく大人がいるか?普通に徘徊老人が殺された、ではダメなのか。その方がテレサの祖母の死に続いて、バクラウの長老がまた死んでしまった、バクラウという共同体を何としても維持していこう、という機運も盛り上がると思うが。

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総評

正直に告白すると、前半の40分のうち、おそらく7~8分は寝てしまった。それぐらい盛り上がりに欠ける立ち上がりである。そこさえ乗り越えてしまえば、訳の分からない異様な雰囲気の高まりに、you’re in for a ride. 本当は怖いメルヒェンのように感じるも良し、格差社会における一種の下克上と受け取るも良し。インドや韓国も似たような映画を作れそうだ。日本でもインディーズ系の野心的な作家が日本流に翻案した作品を作れそう。自己流解釈を楽しめる人向きの映画である。

 

Jovian先生のワンポイントポルトガル語レッスン

Obrigado

「ありがとう」の意。多くの人が聞いたことぐらいはあるはずだ。劇中の前半でもかなりの頻度で使われている。いろんな国の映画を観ていて思うのは、日本は謝ってばかりで、感謝することを忘れつつあるのかな、ということだ。それは少し悲しい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, ウド・キア, サスペンス, ソニア・ブラガ, バルバラ・コーレン, ブラジル, フランス, 監督:クレベール・メンドンサ・フィリオ, 監督:ジュリアノ・ドネルス, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 バクラウ 地図から消された村 』 -僻地の村を侮るなかれ-

『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』 -軽妙洒脱なフレンチ・コメディ-

Posted on 2020年11月17日 by cool-jupiter

シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 75点
2020年11月14日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:トマ・ソリベレ
監督:アレクシス・ミシャリク

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『 シラノ恋愛操作団 』という佳作があったが、戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』はいつの時代、どの地域でも、男性の共感を得るだろう。その戯曲の舞台化の舞台裏を映画にしたのが本作である。

 

あらすじ

エドモン・ロスタン(トマ・ソリベレ)に大物俳優クランの主演舞台の脚本を書く仕事が舞い込んできた。だが決まっているのは「シラノ・ド・ベルジュラック」というタイトルだけ。そんな中、エドモンは親友レオの恋の相手とレオの代わりに文通することに。そのことに触発されたエドモンは次第に脚本の執筆にも興が乗っていくが・・・

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ポジティブ・サイド

『 コレット 』と同じくベル・エポック華やかなりし時代である。舞台となったパリの街並みが美しい。街並みだけでなく、家屋や劇場の調度品も、その細部に至るまでが絢爛なフランス文化を表している。まさにスクリーンを通じてタイムトラベルした気分を味わえる。

 

主役のエドモンを演じたトマ・ソリベレがコメディアンとして良い味を出している。特に、周囲の事物をヒントにしてコクランの指定する文体で物語の内容を即興で諳んじていく様は、そのテンポの軽やかさと文章の美しさや雄渾さ、そしてユーモアと相まって、非常にエンタメ色あふれるシークエンスになっている。

 

同じく、親友のレオに成り代わって即興でジャンヌと言葉を交わし合うシーンでもエドモンが才気煥発、女心はこうやって掴めというお手本のように言葉を紡いでいく。このあたりはイタリア人の領域だと勝手に思っていたが、フランス人男性の詩想もどうしてなかなか優れているではないか。

 

現実世界でのエドモンの影武者的な活躍が、エドモンの手掛ける舞台劇に投影されていくところにメタ的な面白さがあり、さらにその過程を映画にしているところがメタメタ的である。エドモンが実際に生きた時代と地域を歴史に忠実に再現してみせる大道具や小道具、衣装やメイクアップアーティストの仕事のおかげで、シラノが先なのかエドモンが先なのかという、ある意味でメタメタメタな構造をも備えた物語になっている。

 

さらに劇中の現実世界=エドモンが代理文通を行っていることが、エドモンの家庭の不和を呼びかねない事態にもなり、コメディなのにシリアス、シリアスなのにコメディという不条理なおかしみが生まれている。そう、エドモンがコクランの無茶ぶりに必死に答えるのも、エドモンがレオの恋慕をアシストするのも、エドモンが妻にあらぬ疑いをかけられるのも、すべては不条理なおかしみを生むためなのだ。

 

主人公たるシラノも、レオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こさせる万能の天才でありながら、その醜い鼻のためにコンプレックスを抱くという不条理に見舞われている。しかし、それこそが本作のテーマなのだ。本作に登場する人物は、皆どこかしらに足りないものを抱え、それを埋めるために奔走している。それが劇を作り上げるという情熱に昇華されていくことで、とてつもないエネルギーが生まれている。

 

テレビドラマの『 ER緊急救命室 』で多用されたカメラワークを存分に採用。劇場内の人物をじっくりを追い、ズームインしズームアウトし、周囲を回り、そして他の人物にフォーカスを移していく。まさに舞台上の群像劇を目で追うかのようで、実に楽しい。随所でクスクスと笑わせて、ラストにほろりとさせられて、エンドロールでほうほうと唸らされる。そんなフランス発の歴史コメディの良作である。

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ネガティブ・サイド

マリアをあそこまで文字通りに奈落の底に突き落とす必要があったのだろうか。この瞬間だけは正直なところ笑えなかった。

 

またジャンヌをめぐってエドモンとレオの仲がギクシャクしてしまう瞬間が訪れるが、元はと言えばその元凶はレオその人の発した何気ない一言ではないか。不条理がテーマの本作とは言え、ここだけは得心しがたかった。ここで懊悩すべきはエドモンではなくレオその人ではないのだろうか。

 

リュミエール兄弟の映画発明と同時期なのだから、もっと「活動写真」の黎明期の熱を描写してほしかったと思う。その上で、舞台の持つ可能性や映画との差異をもっと強調する演出を全編に施して欲しかった。コロナ禍において、映画は映画館で観るものから、自宅のテレビやポータブルなデバイスで観るものに変わりゆく可能性がある。古い芸術の表現形態が新しい技術に取って代わられようとする中での物語という面を強調すれば、もっと現代の映画人や映画ファンに勇気やサジェスチョンを与えられる作品になったはずだ(こんなパンデミックなど誰にも予想はできなかったので、完全に無いものねだりの要望であはあるのだが)。

 

総評

戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』のあらすじはある程度知っておくべし。それだけで鑑賞OKである。ハリウッド的な計算ずくで作られた映画でもなく、韓国的な情け容赦ないドラマでもない、とてもフランスらしい豪華絢爛にして軽妙洒脱な一作である。エンドクレジットでも席を立たないように。フランスで、そして世界で最もたくさん演じられた劇であるということを実感させてくれるエンドロールで、『 ファヒム パリが見た奇跡 』のジェラール・ドパルデューの雄姿も見られる。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語レッスン

Non merci

英語にすれば、“No, thank you.”、つまり「いえいえ、結構です」の意である。Oui merci = Yes, thank you.もセットで覚えておけば、フランス旅行中に役立つだろう。別に言葉が通じなくても、相手のちょっとしたサービスや気遣いに対して、簡単な言葉で返していくことも実際にはよくあることだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, コメディ, トマ・ソリベレ, フランス, ベルギー, 歴史, 監督:アレクシス・ミシャリク, 配給会社:キノフィルムズ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』 -軽妙洒脱なフレンチ・コメディ-

『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

Posted on 2020年8月16日 by cool-jupiter
『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

ファヒム パリが見た奇跡 75点
2020年8月14日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:アサド・アーメッド ジェラール・ドパルデュー
監督:ピエール=フランソワ・マンタン=ラバル

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Jovianはチェスの基本的なルールしか知らない。指したことは3~4回だけである。チェスの映画は『 完全なるチェックメイト 』ぐらいしか観ていないし、それに関連して『 完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 』を読んだぐらいである。フィッシャー=小池重明以上の人格破綻者、と言えば、そこそこディープな将棋ファンには伝わるだろう。それぐらいのチェスの世界の知識でも本作は楽しめるし、むしろチェスの知識がない方が人間ドラマに集中できるかもしれない。

 

あらすじ

ファヒム(アサド・アーメッド)はバングラデシュの天才チェス少年。チェスのグランドマスターに会うという名目で、父に連れられてフランスのパリにやってきた。ファヒムはチェスのクラブに通い、チェスを学び、フランス語を覚え、同世代の子らと友情を育み、シルヴァン(ジェラール・ドパルデュー)とも奇妙な師弟関係を結んでいく。しかし、ファヒムの父の不法滞在が明らかになり、国外退去が時間の問題となってしまい・・・

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ポジティブ・サイド

ファヒムを演じたアサド・アーメッドの演技力に鳥肌が立った。『 存在のない子供たち 』の主人公ゼインや『 アジョシ 』のキム・セロンに並ぶ存在感。緊迫した政治状況にあるバングラデシュで屈託なく生きる子どもが、母との別離、外国での暮らし、友情、師弟関係、親子関係、そしてチェスを通じて成長していく様には純粋に胸を打たれた。印象的だったのは、チェスの対局時に一手指すごとに相手を射抜くような目を見せること。将棋の対局では盤上から視線をそらさない者と対戦相手に視線を向ける者の両方がいるが、チェスのでも同様らしい。その目に宿る力強さには名状しがたいものがあった。目は口程に物を言うものである。

 

ファヒムを取り巻く同世代のチェス仲間たちも良い味を出している。特にファヒムにフランス語のスラングを教え込む男の子には、『 IT イット “それ”が見えたら、終わり。 』のリッチー・トージアと共通するものを感じた。下品なスラングを教える/教わるというのは、友情を育む一つの有効な方法である。Jovianも大学の寮で“Hold on a minute, playa.”だとか“Sup, pimp?”などの、今では絶対に使えないようなアレやコレな表現を教えてもらったことを懐かしく思い出した。また、ファヒムが難民センターの子らと意思疎通をしていくシーンでは、ジェスチャーの有効性と文脈理解の重要性の両方が示されている。外国語学習者は、言葉だけではなくもっと“コミュニケーション方法”を学ぶべきだとの自説の意を強くした次第である。

 

Back on track. 本作はファヒムの文学的な意味での「父殺し」の物語でもある。チェスや将棋というのは、だいたい子どもは父親から教わるものだろう。そして、最初はどうやったって経験者には敵わない。だが、長じるにつれて上達し、子どもはだいたい父親を負かすものだ。本作でもファヒムは実の父親をチェスで負かし、そして精神的な父親であるジェラールのトラウマを、彼の代理として打ち消す。単純にチェスの勝ち負けだけでその過程が描かれるのではなく、ファヒムの内面の葛藤や対戦相手との関係、そしてジェラール自身の過去が投影されていることが、本作のクライマックスを大いに盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド 

ファヒムの父親の描き方が少々乱暴であるように感じた。バングラデシュでは消防士という非常に堅い仕事に就きながら、フランスではまったくの愚鈍な足手まといになってしまっていた。それは別に構わない。ただ、文化や風俗習慣の違いを素直に受け入れられないのは良いとしても、なにか見せ場の一つや二つは用意できなかったか。たとえば難民センターの消火器の置き場所をもっと適切なところに変更するとか、プロフェッショナルでありながらもその能力を発揮する場や時がない、という描き方もできたはず。そうしたシーンがないため、この父親が善人ではあるが無能であるというふうに映ってしまう。移民が無能なのではなく、環境がそうさせるのだというメッセージを発するべきだったのではないだろうか。

 

難民センターで知り合ったサッカー少年たちのその後はどうなったのだろう。ファヒム親子の土壇場の大逆転劇は確かに感動的であるが、ひとつ間違えれば「フランスは才能ある移民だけしか歓迎しない」というメッセージにもなりうる。今日、政情が不安定という国の多くは、その原因が現在の国連常任理事国のかつての帝国主義的政策に端を発するのだから、フランスは責任ある国家として世界の融和を目指すという立場を表明すべきだったと感じる。

 

総評

色々とフランス社会の描かれ方に不満もあるが、本作は紛れもない良作である。こういうドラマを見せられると、ボビー・フィッシャーを拘留したのは職務に忠実だったと言えるが、精神的に相当ダメージを与えるような処遇をしたとされる日本の出入国管理局について、あらためて考えさせられる。本作はフランス映画として観るよりも、明日の日本社会を描いた作品として観るべきである。『 ルース・エドガー 』のレビューでも述べたが、日本にもファヒムのような天才児が出現または到来する、あるいは将棋界に藤井聡太並みの外国人棋士が生まれても全く不思議はないのである。そうした一種の未来シミュレーションとして本作を鑑賞することも可能である。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語レッスン

parfait

英語で言えば“Perfect”、日本語で言えば「完璧」である。ただ、日本語でもそうだが、完璧でなくてもバンバン使う表現である。カナダ人が好んで使う表現だという印象を持っている。実際にカナダに旅行に行った時、どこのウェイターもウェイトレスも、注文を言い終わると“Perfect!”を連発していた。フランス旅行の際に、ホテルやレストランの従業員に一声かける時に使えるかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アサド・アーメッド, ジェラール・ドパルデュー, ヒューマンドラマ, フランス, 伝記, 監督:ピエール=フランソワ・マンタン=ラバル, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

『 アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 』 -不器用なラブレター-

Posted on 2020年7月24日 by cool-jupiter

アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 65点
2020年7月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンナ・カリーナ
監督:デニス・ベリー

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『 気狂いピエロ 』などの代表作を持ち、2019年12月に亡くなったアンナ・カリーナのドキュメンタリー。カリーナは4度結婚しているが、その最後の夫であるデニス・ベリー監督が本作を撮影・制作。なんとも不器用なラブレターになっている。

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あらすじ

第二次大戦の最中、デンマークの母子家庭にアンネ・カリン・ベイヤーは生まれた。チャップリンの無声映画を観て、ミュージカルに魅了され、女優になることを夢見た少女は、17歳にしてフランスのパリに移住。デザイナーのココ・シャネルからアンナ・カリーナへ改名するようにアドバイスされ、そして映画監督のジャン=リュック・ゴダールと出会い、彼女は花開いていく・・・

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ポジティブ・サイド

アンナ・カリーナという女優の生い立ち、そして当時の社会状況しっかりとカバーしているところが素晴らしい。父の不在、そして母の再婚相手の父親との折り合いの悪さ。アンナの人生の前半に、positive male figureがいなかったことは明白である。監督のデニス・ベリーは黙して語らないが、自分だけがアンナにとってのpositive male figureだったとの自負があるのだろう。また、戦争や軍国主義が娯楽や文化、芸術に対して抑圧的に働くことは『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』でも述べた。アンナ・カリーナは一個人ではあるが、その一個人を通じて歴史を語ることも可能なのだ。

 

10代のアンナの石けんのCM動画やポスターが明らかにするのは、彼女のまばゆいばかりの魅力である。決して絶世の美女だとか、スタイル抜群のセックス・シンボルというわけではない。彼女の一番の特徴である、その大きな目。その瞳に見つめられると、自分という人間の虚飾がすべて見透かされそうな気持になる。アンナ・カリーナに惹かれているということを隠せなくなる。だからこそゴダールは率直に彼女を口説き、誘った。こうした女性にあれやこれやの恋愛の手練手管は無用の長物である。

 

カリーナのフィルモグラフィーや歌手としてのキャリア、小説家としてのキャリアも描き出しており、実に興味深い。特にフランス初の長編映画の主役兼監督がアンナ・カリーナであるというのは非常に興味深い。グレタ・ガーウィグといった女優兼監督という存在の、彼女は嚆矢だったのである。時代で言えば『 ドリーム 』で描かれた人間コンピュータのキャサリン・G・ジョンソンの頃である。劇中で彼女は「アーティスト」と形容されるが、至言だろう。

 

往時のカリーナの歌唱シーンやダンスシーンは美しい。白黒映画には白黒映画の良さがあり、またデジタル撮影ではないフォルム映像には、写真やLPレコードと同じく、歴史性が感じられる。彼女はキャリアの後半に活躍の場をアメリカに移すが、そこでも巨大なレガシーを残している。Q・タランティーノは、そうした影響を受けた一人である。彼女は日本にも歌手としてやって来ていた。コンサートに『 気狂いピエロ 』のマリアンヌと同じ衣装を着てきた日本のファンもいたそうだ。スターやアイドルという言葉で語られるクリエイターやアーティスト、俳優は多いが、アイコンと呼べる人間はごく少数だ。アンナ・カリーナは、間違いなくアイコンである。

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ネガティブ・サイド

アンナ・カリーナの幼少期に焦点を当てていながら、彼女の後半生や晩年がそれほど丹念に描かれていない。別に容色が衰えた、作品数が少ない、シネマティックではない。そうした理由でデニス・ベリー監督がこのような構成にしたのであれば、それは失敗ではなかろうか。彼女のような、激動の人生を送ってきた人間ほど、現代人に届けるべきメッセージがあるはずだ。たとえば移民の問題、たとえば女性の社会進出の問題。彼女の語る言葉を金科玉条のごとく扱う必要はない。ただ、歴史の証人にして稀有なアーティストの一意見として、記録に残されるべきはないだろうか。

 

収められているのがカリーナ自身の肉声と、業界人の声だけである。アンナ・カリーナというアイコンが、一般庶民に与えた影響、そのインパクトの大きさや深さを語る当時の一般人の肉声が聞いてみたかった。

 

終わりがあまりにも唐突である。元々は劇場公開を想定していたのではなく、テレビの1時間番組枠か何かにきっちりハマるように作られていたのだろうか。これほどの知り切れトンボ感は近年なかなか味わえない。余韻が残らないのだ。もうちょっと何とかならなかったのか。アンナに最後まで歌わせてやって欲しかった。

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総評

アンナ・カリーナという人間を名前だけでも知っていれば、観る価値はあるだろう。単なる過去のフランスの名女優という切り取り方ではなく、しっかりした歴史の遠近法の中で捉えられているドキュメンタリーで、ちょっと風変わりなラブレターでもある。デートムービーには向かないかもしれないが、Jovianが鑑賞した回はオールド夫婦がかなり多かった。オールド映画ファンは是非とも劇場鑑賞しよう。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

cinéma

英語でもフランス語でも、シネマは「シネマ」である、フランスは近代映画発祥の地で、発明者はリュミエール兄弟。cinémaは元々古代ギリシャ語のkínēma=キネマ=動き、から来ている。テレキネシス=念動力などと言うが、テレ=遠い(telephone, telescope, televisionからも分かるだろう)、キネシス=運動である。映画の歴史というのはTOEFL iBTのリーディングやリスニングでしばしば取り上げられる重要トピックの一つ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アンナ・カリーナ, ドキュメンタリー, フランス, 伝記, 監督:デニス・ベリー, 配給会社:オンリー・ハーツLeave a Comment on 『 アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 』 -不器用なラブレター-

『 気狂いピエロ 』 -古典的な男女の刹那の物語-

Posted on 2020年6月7日 by cool-jupiter

気狂いピエロ 70点
2020年6月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジャン=ポール・ベルモンド アンナ・カリーナ
監督:ジャン=リュック・ゴダール

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相も変わらず近所のTSUTAYAは『 ジョーカー 』推しのようである。ひねくれ者のJovianは、ならばと『 パズル 戦慄のゲーム 』を借りて失敗した。というわけで今回は間違いのないようにゴダール作品をチョイス。

 

あらすじ

フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は結婚生活に飽いていた。そんな時にかつての恋人マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と出会い、一夜を共にした。だが、翌朝の部屋には謎の男の死体が。そして、その部屋にまた別の男が訪ねてくる。二人は男を始末し、あてのない逃避行に出るが・・・

 

ポジティブ・サイド

とにかくマリアンヌを演じたアンナ・カリーナの魅力的である。Jovianは英会話講師として延べ数百人以上教えてきた中で、最も美人だった女性と髪型と輪郭、なによりも目がよく似ているのである。まさにfem fatalだな、と感じる。男というのは美女に破滅させられてナンボなのかもしれない。それは古今東西に普遍の真理なのかもしれない。

 

逃げていく先々で小さな犯罪を繰り返していくフェルディナンとマリアンヌの姿に、どうしたってハッピーエンドなどはありえない。ならば破滅が訪れるまでに、精一杯に生を謳歌するまで。詩想に欠けた思想の持ち主であるフェルディナンは、とにかく衒学的な言葉ばかりを呟く。対照的にマリアンヌの紡ぎ出す言葉は豊かな感情に彩られていて、運動的であり行動的なものだ。つまり、ゴダールが映し出そうとしたのは、この二人のキャラクターの対比ではなく、男性性と女性性の対比でもあったのだろう。現にフェルディナンは「時が止まってほしい」などどファウストのようなセリフを吐くロマンティストだし、相方のマリアンヌはセンチメンタルでミステリアスでセクシーだ。そして、この物語の主題はマリアンヌに属することは、序盤に登場するサミュエル・フラー監督の言葉、すなわち「 映画=エモーション 」からも明らかだ。

 

本作は物語というよりも芸術作品の性格の方が強いと感じる。フェルディナンとマリアンヌがアパルトマンの最上階で繰り広げる殺人劇と逃走のワンカットは芸術的である。またガソリンスタンドでの疑似ボクシングシーンや、別のガソリンスタンドで車を盗み出すシーンには舞台演劇的な面白おかしさがある。なによりマリアンヌが自らの掌の運命線の短さを面白おかしく嘆きながら歌い、海辺の木々の間を縫うようにフェルディナンと走り抜けていき、語り合い歌い合うシークエンスには、陽気な絶望感がある。マリアンヌは執拗にフェルディナンをピエロ呼ばわりするが、これは非常に象徴的なことだ。『 ジョーカー 』のキャッチフレーズ、“Put on a happy face.”を引用するまでもなく、ピエロの顔は笑っていても、頭は非常に冷静に笑いを狙っているか、もしくは心が怒りや悲しみに支配されているものだからである。そう考えれば、見ようによってはアホな結末にも、それなりに納得がいくものである。物語ではなく場面場面のドラマを楽しむように鑑賞するのが良いのだろう。

 

ネガティブ・サイド

南仏のビーチでアメリカ人観光客を相手にベトナム戦争を茶化して小金を稼ぐシーンは、フランス流の、というよりもゴダール流の反米・反ベトナム戦争宣言なのだろうが、もっと間接的な描写はできなかったのだろうか。『 サッドヒルを掘り返せ 』(最近、Blu-rayを買った)でセルジオ・レオーネは「主義主張を宣言する映画ではなく、人々の語りを促進するような映画を作りたい」という旨を語っていた。Jovianは別に映画人でも何でもないが、レオーネの意見に与する者である。

 

また、この時のベトナム人女性の化粧や衣装が、VCに川上貞奴を足して2で割ったようなものに映った。貞奴をご存じない方は伝説の踊り手ロイ・フラーを描いた『 ザ・ダンサー 』を鑑賞されたい。

 

全体的にロングのワンカットのシーンは印象的だが、フェルディナンが風呂場で水責めされるシーンだけはちゃちいと感じた。それこそ息ができないというところまで追い込んでも良かったはず。線路に座り込ませたり、結構高いところからジャンプさせたりという演出をしているのだから、水責めシーンにもっと注力できたはずだ。

 

総評

なにやら『 太陽がいっぱい 』と『 ファム・ファタール 』と『 テルマ&ルイーズ 』と『 俺たちに明日はない 』のごった煮を観たよう気分である。ということは、それだけ古典的なキャラクター造形や物語構成になっているわけで、見ようによっては新しいとも古いとも言える。ただ一つだけ確かなのは、去年の暮れに亡くなったアンナ・カリーナと再会するのであれば、本作はそのベストな一作だろうということだ。

 

Jovian先生のワンポイント仏語レッスン

À la recherche du temps perdu

In search of lost time = 失われた時を求めて、の意。言わずと知れたマルセル・プルーストの大部の労作、『 失われた時を求めて 』である。Temps=Timeである。これがtempoにそっくりだということが分かれば、temporaryやcontemporaryといった語の意味を把握しやくなるだろう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1960年代, B Rank, アンナ・カリーナ, ジャン=ポール・ベルモンド, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:ジャン=リュック・ゴダール, 配給会社:オンリー・ハーツLeave a Comment on 『 気狂いピエロ 』 -古典的な男女の刹那の物語-

『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

Posted on 2020年5月16日 by cool-jupiter

愛人/ラマン 75点
2020年5月15日 レンタルBlu rayにて鑑賞
出演:ジェーン・マーチ レオン・カーフェイ
監督:ジャン=ジャック・アノー

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『 月極オトコトモダチ 』とは裏腹のテーマの作品を鑑賞してみたいと思い、本作があったなと思い出した。確か大学生3年生ぐらいの時に、当時急成長中だったTSUTAYAでVHSを借りて観た。当時、純情だったJovian青年は『 ロミオとジュリエット 』のオリビア・ハッセーを観た時と同じくらいの衝撃を味わったのだった。

 

あらすじ

20世紀初頭のフランス領インドシナ。少女(ジェーン・マーチ)は偶然にも裕福な華僑青年(レオン・カーフェイ)と知り合い、性的な関係を持つようになる。愛のないセックスに耽る二人だが、少女も青年も家族に問題を抱えており・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の一人、レオン・カーフェイが、『 グリーンブック 』で言及した韓国系カナダ人にそっくりなのである。それが原因なのかもしれないが、異邦人の悲哀が確かに感じられた。YouTubeに行けばいくらでもinterracial relationshipにあるカップルたちの日常の動画や結婚生活、喧嘩の模様などが赤裸々に語られている時代である。それは取りも直さず、ようやく時代がinterracial relationshipを許容できるようになってきたことの表れでもある(移動や情報公開のテクノロジーが行き渡った面も無論あるが)。一方で20世紀前半のインドシナで、華僑の青年と宗主国フランスの少女という、互いにアウェーな状況は、どこか『 ロスト・イン・トランスレーション 』を彷彿させた。実際に、日本語に英訳がつかなかったように、本作でも中国語に字幕が存在しない。仕事をせずとも暮らしていける富裕なこの男は世界に居場所がない。その居場所として少女を見出していく様ははかなげで悲しい。スーパーリッチなアジア人青年キャラクターとして『 クレイジー・リッチ! 』のニックが思い出される。本作の華僑青年のキャラクター造形はニックに影響を与えていてもおかしくない。

 

もう一人の主演であるジェーン・マーチは、まさにこの限られた時期にしか発揮することのできない魅力や魔力を存分に発揮したように思う。『 ガール・イン・ザ・ミラー 』でも感じたことだが、邦画の世界には脱げる役者が少ない。男でも女でもである。その意味では本作は、30年前の映画でありながら邦画の30年先を行っている。つまりは stand the test of timeな作品である。脱ぐから偉いのではなく、その瞬間にしか作れない作品をしっかりと作り、世に送り出している。本邦では、脱ぐ=話題作り、落ち目女優の勝負、体当たりの演技ぐらいにしか捉えられない。まことに貧相で皮相的である。脱ぐからセクシーだとかエロティックになるわけではない。聴診器で心音を聞いたり、マンモグラフィー検査や乳房の触診で興奮する男性医師などいない。物質としての女体に男は興奮するのではない。それへの距離を詰めていく過程に最も興奮するのである。嘘だと思うなら本作を具に観よ。最も官能的なのは、車中で男が少女の指に自らの指を重ねていくシークエンスであり、前戯やセックスそのもののシーンではない。

 

監督のジャン=ジャック・アノーは『 薔薇の名前 』でもかなり唐突なセックスシーンを描いていた。確か隠れていたところを見つかった少女が、自分から少年の手を取り、自分の胸を触らせて篭絡していく過程が妙に艶めかしかった。自身の問題意識の中に人間関係とセックスがあったのだろう。セックス=愛情表現と考えがちな男のちっぽけな脳みそではなかなか消化しきれないが、セックス=自己表現の一つとしていたフランス人少女の姿は、色々な因習を突き破ったという意味で本土ではなく植民地における『 コレット 』だったと言えなくもない。

 

主演二人に名前がない設定も素晴らしい。『 母なる証明 』の母にも名前がなかったが、名前を持たないことでその人間の“属性”が一気に肥大化し、かつ“個性”が一気に矮小化される。COVID-19における報道を考えてもらいたい。志村けんや岡江久美子のように、“名前”のある人が死亡すると、我々は戦慄させられる。一方で名前が一切出てこない報道、たとえばイタリアやアメリカの死者数を伝えられても「あの国、ヤバいな」ぐらいにしか感じない。男と女、華僑と白人、青年と少女。様々な属性に縛られる二人の関係を、どうか堪能してほしい。そして、男というアホな生き物の生態に一掬の涙を流してほしい。

 

ネガティブ・サイド

寄宿舎でもう一人いる白人少女との語らいのシーンがもっとあっても良かった。どこの誰が売春をやっていてだとかいう話よりも、男に〇〇したら幼児返りしただとか、演技で男を喜ばせてやっただとか、そういう男を震え上がらせるようなトークが聞ければ、このラマンはファム・ファタール的な属性をも帯びたことだろう。

 

またお互いの家族とのシーンも少々物足りなかった。居場所となるべき家で地獄の責め苦を味わう、あるいは虚無的な気分にさせられる。だからこそ、市場の喧騒のただ中にある“部屋”でセックス三昧になってしまう。それはとてもよくわかる。ただ、「中国人と寝やがって!」と激昂する兄や不甲斐ない母の描写がもっと序盤にあれば、ジェーン・マーチを性に積極的な少女以上の存在に描けていたと思うのである。

 

総評

時を超えて観られるべき作品である。汚らしいメコン川が、なぜか美しく懐かしく感じられる映像世界も素晴らしい。世に悲恋は数多くあれど、たいていは結ばれないままに終わってしまう。本作はいきなり結ばれる。そこから先にどうしても進めないというジレンマが痛々しい。官能シーンも良いが、鑑賞すべきは人間ドラマの部分である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Repeat after me.

リピート・アフター・ミー、つまり「 続けて言ってみましょう 」の意である。セックスの前、最中、もしくは後に女性に何かを言わせたいという男性は多い、というか大多数だろう。それを実際にやったカーフェイに拍手。そして、その行為の余りの悲しさと虚しさに胸が押しつぶされそうになった。Jovianは商売柄、しょっちゅうこのフレーズを使うが、プライベートでこれを言う、もしくは言われるようになれば、あなたは英会話スクールを卒業する時期に来ていると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, イギリス, ジェーン・マーチ, フランス, ラブロマンス, レオン・カーフェイ, 監督:ジャン=ジャック・アノー, 配給会社:日本ヘラルド映画Leave a Comment on 『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

『 バハールの涙 』 -女、命、自由の時代を求めて-

Posted on 2020年3月14日 by cool-jupiter

バハールの涙 70点
2020年3月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゴルシフテ・ファラハニ エマニュエル・ベルコ
監督:エバ・ユッソン

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『 パターソン 』でパターソンの愛妻ローラを演じたゴルシフテ・ファラハニの主演映画。英語、フランス語、ペルシャ語にクルド語まで解すとは、いったいどんな才媛なのだ。本作では一転、武器を取り、女性部隊を率いる勇猛な女性役。日本からこういう女優が出てこないのは何故なのだ?

 

あらすじ

バハール(ゴルシフテ・ファラハニ)はある日、ISの襲撃を受け、夫は殺され、息子は連れ去られ、自らと妹も拉致され、凌辱された。なんとか脱出したバハールは、女性部隊「太陽の女たち」を結成する。彼女たちを取材するジャーナリストのマチルド(エマニュエル・ベルコ)も、徐々にバハールの信頼を得ていく・・・

 

ポジティブ・サイド

ゴルシフテ・ファラハニの憂いを帯びた表情が何とも言えず良い。閉ざされ冷え切った心の奥底には、しかし、マグマが煮えたぎっている。そんな相反するような属性を併せ持つキャラクターをしっかりと体現した。バハールという女性は架空の存在のようであるが、その存在感は群を抜いている。小説や映画にありがちな、一見すると小市民だが、実は特殊部隊上がりだったとか、幼少から格闘技や暗殺術を叩き込まれていたといったような、ある意味でお定まりの背景を持っていないことが、逆にリアリティを高めている。平塚らいてうは「元始、女性は太陽だった」という言葉を残した。太陽は光と熱の塊であるが、表面よりも内部の方に圧倒的なエネルギーを蓄えている。植物にその無限のエネルギーを分け与え、我々動物はそのおこぼれに頂戴している。バハールをはじめとした「太陽の女性たち」が歌う「女、命、自由の時代」の歌には、名状しがたい力が溢れている。彼女らの歌う「女 命 自由の時代」というのは、それこそ「男 死 束縛の歴史」が続いてきたことへの痛烈な批判である。これを中東だけの事象であると思い込むことなかれ。ほんの1世紀前の極東の島国は、アジア中に死と破壊をもたらす戦争への道を、男だけの論理の世界で突き進んでいったのである。バハールが常に虚無的な表情で銃を手に持っているのは、それだけ目の前の現実に抑圧されているからに他ならない。我々も妻や母が虚無的な表情になっていないか、少しは気を配ろうではないか。

対照的に、エマニュエル・ベルコ演じるマチルドは、明らかに『 プライベート・ウォー 』のメリー・コルビンだろう。ホムスで逝ったコルビンの意思を受け継ぐかのように、マチルドはホムスの爆撃で片目を失明し、それ以来眼帯を巻いている。そのマチルドも、ジャーナリストとしての報道の使命を果たすことや真実を追求するために記者をしているわけではない。コルビンと同じく、市井の名もなき人々との出会いを羅針盤に、彼女は戦地を取材している。「我々は世界のことを考えすぎている」と養老孟司は喝破したが、本当は生身の人間に思いを馳せるべきなのだ。空爆があったとか、災害があった、疫病が流行したというニュースに触れる時、その地域にリアルタイムで生きる人々を想像する力を育むべきなのだ。彼女が自らを突き動かす行動原理を語る時、我々はバハールとマチルドが同志であることを知る。「女は弱し、されど母は強し」とはよく言ったものである。

 

本作は赤と黒が入り混じった光の使い方が印象的である。人間の内部のドロドロとした感情と、「太陽の女たち」を取り巻く現実のダークさ、不透明さを象徴しているかのようである。どこか『 エイリアン2 』を思わせる光の使い方である。

 

良いところなのかどうかは微妙だが、本作を鑑賞するにあたって、中東情勢やイスラム国の台頭、クルド人の歴史などを詳しく知っている必要はない。バハール、そしてコルビン・・・ではなくマチルドという個人の生き様に注目すべし。

 

ネガティブ・サイド

アクションやヒューマンドラマの演出がやや弱い。ストーリーそのものが充分にドラマチックであるからだろうか。ペルシャ絨毯の上に女性たちがどっかと腰を下ろして、各自銃の手入れに余念のない様子は印象的だった。いかにも非日常、緊急事態である。このような何気ない描写の中に感じる違和感=非常時、異常事態のただ中、というものをもっと使ってほしかったと思う。

 

後は石頭の男性司令官を、もうちょっと柔軟に描けなかっただろうか。あれでは融通さに欠けるただの無能、しかも下手をすればへっぴり腰のオッサンにしかならない。女性・母というもののしたたかさを描くために、男性をことさらアホに描く必要はない。男は元来、アホである。だからこそISを作ったり、そこに参加したりするわけである。

 

総評

一言、良作である。派手なドンパチはないが、それでも戦闘の緊迫感は伝わってくるし、なによりもバハールとコルビンの生き様がこの上なく inspirational である。戦争、紛争のニュースに接する時、我々は「あー、なんかやってるな」ぐらいにしか感じないが、それでもそこには生きた人間、死んでいく人間が存在することをこのような映画を通してあらためて知らされた。戦地のスーパーマンではなく、人間として強さの純度を高めた個人の物語であり、非常に現代的な作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You name it.

序盤の英語とフランス語とクルド語が入り混じっている場面で使われていた。意味は「その他にも色々ある」のような漢字である。実際の使い方についてはこの動画を見てもらえるとよく分かるだろう。こういった何気ない表現を会話やスピーチ、プレゼンの中で自然に使えれば英会話の中級者である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, エマニュエル・ベルコ, ゴルシフテ・ファラハニ, ジョージア, スイス, ヒューマンドラマ, フランス, ベルギー, 監督:エバ・ユッソン, 配給会社:コムストック・グループ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 バハールの涙 』 -女、命、自由の時代を求めて-

『 スノーピアサー 』 -階級社会の打破と脱出-

Posted on 2020年2月14日2020年4月20日 by cool-jupiter

スノーピアサー 65点
2020年2月11日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:クリス・エヴァンス ソン・ガンホ
監督:ポン・ジュノ

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『 パラサイト 半地下の家族 』がアカデミー賞を席捲したのには、びっくりした。確かに相当に面白い作品だと感じた(75点をつけた)が、自分としては大穴的に『 ジョーカー 』が作品賞まで獲ると勝手に思っていた。この快挙を祝福すべく、シネマート心斎橋へ。ここは韓国映画推しの劇場で、2019年11月か12月の時点でポン・ジュノ特集を決めていた。劇場支配人の慧眼、恐るべしである。

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あらすじ

地球温暖化を止めるために人類は大気中にCW-7という薬品を散布した。結果として、予想以上に気温が低下し、地表は氷に覆われた。人類はスノーピアサーと呼ばれる列車の中でかろうじて生き延びていた。その列車の前方には上流階級が住み、後方には下層社会が形成されていた。後方車両の住人カーティス(クリス・エヴァンス)は仲間と共に前方車両へ反旗を翻すが・・・

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ポジティブ・サイド

WOWOWで放映されていたのを観たことがあったので、二度目の鑑賞になる。アカデミー賞受賞監督の作品という先入観を持って鑑賞しているわけだが、なかなかに凝った作りであると感じる。

 

まず、絶滅寸前の人類が、地下や海底、あるいはスペース・ステーションなどではなく、列車に暮らしているというのが面白い。我々も日頃から電車には乗るわけだが、電車には優等列車や優等車両というものがある。新幹線のグリーン車に日常的に乗るという人は、決してマジョリティではあるまい。一般庶民にして勤め人である我々は、満員電車で押し合いへし合いしながら奇妙な連帯感を育む。そうした我々の生活の究極の延長線上にあるのが、スノーピアサーの世界である。何をどうしたって、クリス・エヴァンス演じるカーティスを応援したくなるではないか。

 

こうしたディストピアもので思い出されるのは『 ソイレント・グリーン 』である。人口が爆発した世界とは対照的に、こちらの世界では人口が数百のオーダーにまで減ってしまっているが、いずれにしても頭を悩ませるのは食糧生産と管理である。『 ソイレント・グリーン 』もなかなか衝撃的であったが、こちらもかなりショッキングである。だが、見方を変えれば非常にリアリティのある設定とも言える。昆虫食は人類の人口爆発を支えるポテンシャルを秘めているし、あるいは人口が極限的に減ってしまった時にも、手間が家畜ほどにはかからないとも考えられる。似たような極限状態を描いた作品には『 白鯨との闘い 』がある。どこまで行っても人間の本質は、Homo homini lupusなのかもしれない。

 

人類最後の砦となるものが塔だとか迷宮だとか地下の要塞であれば、爆破するなどの破壊的な強硬手段も考えられるが、半永久的に走り続ける列車なので、爆破してしまうと先頭車両に置いて行かれてしまう。なので、一車両ごとに律義に攻略していかねばならない。これも設定の妙である。その扉を一つ一つ開けていくソン・ガンホ演じるナムグン・ミンスが良い味を出している。これほど美味そうに、かつ気だるい感じで煙草を吸うのは、石原裕次郎ぐらいしか他には思いつかない。また、眼の奥にただならぬ力を感じさせる顔面の表現力はアジア随一であろう。

 

反乱は成功するのか。先頭車両には何が待ち受けているのか。『 Vフォー・ヴェンデッタ 』のジョン・ハートは、やはり正義を標榜した悪役が似合う。

 

本当は60点だが、ご祝儀で5点オマケしておく。

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ネガティブ・サイド

スノーボール・アースとなってしまった説明はそれなりに納得がいくものの、何故スノーピアサーという列車が走っているのか。そもそも何故そんな列車の建造が計画され、世界を一周するような線路が敷設されたのか。そのあたりの説明が不足していた。ましてやスノーピアサーが運行を開始して、たった17年である。これが走り始めて100年も経っていたなら、もはや何故、どのようにしてスノーピアサーが走り始めたのかは歴史以前のこととして受け止められるが、17年というのはいかにも短い。このあたりはキャラクター同士の人間関係というものもあり、なかなか設定が難しかったのかもしれないが、何らかの説明が必要であるとは感じた。

 

COVID-19が収束を見ない状況だからかもしれないが、後方車両の人間たちはあの衛生状態では長く生きられないだろうと思われる。一度でも何らかの感染症がアウトブレイクしてしまえば一網打尽だろう。閉鎖環境であっても病人は発生するし、異所性感染のリスクも常に存在するのである。

 

後は仏像にこだわる日本人というのが面白くなかった。もちろん、日本は朝鮮半島を植民地にして多くの文物を奪っていったわけだが、グローバルな視点からジャパン・バッシングをしたいのなら、妙な精神世界を持っているという特徴よりも、徹底的な集団同調主義かつ日和見主義に描いた方が面白くなったはずである。

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総評

祝日ということを差し引いても、いつも以上の客の入りだった。シネマート心斎橋の席が8割以上埋まっているというのは初めて見たように思う。それだけアカデミー賞4冠のインパクトは大きいのだろう。本作も標準以上の面白さを備えた佳作であり、ポン・ジュノ監督の問題意識の萌芽が色濃く反映された痛烈な現実批判映画でもある。格差に対しては二通りの対処がある。1つには、格差を生む構造そのものをぶち壊すこと。もう1つには、自分が「持たざる者」から「持てる者」にとって代わること。本作の結末が示唆するのは何か。それは、レンタルや配信でお確かめ頂きたい。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

How’s it hanging?

How is it hanging?とは言わない。必ずHow’s it hanging?という短縮形で使われる。Hello. や What’s up? と同じ意味で、よりカジュアルな言い方である。ほぼ男同士のしゃべりでしか使われない。その意味はこのフレーズを直訳してみた時に、itが何を指すかを考えてみれば分かるはずである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, SF, アクション, アメリカ, クリス・エヴァンス, ソン・ガンホ, フランス, 監督:ポン・ジュノ, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ビターズ・エンド, 韓国Leave a Comment on 『 スノーピアサー 』 -階級社会の打破と脱出-

『 テルアビブ・オン・ファイア 』 -秀逸なブラック・コメディ-

Posted on 2020年2月12日2020年9月27日 by cool-jupiter

テルアビブ・オン・ファイア 70点
2020年2月11日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:カイス・ナシェフ
監督:サメフ・ゾアビ

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イスラエル・パレスチナ問題にはそれほど詳しくないものの、基本的な知識さえあれば楽しめるし笑える作品である。『 判決、ふたつの希望 』や『 エンテベ空港の7日間 』のように、中東やイスラエル関連のストーリーにはシリアスなものが多いが、中にはこのような愉快な作品もあるのである。

 

あらすじ

人気ドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」。その制作現場で発音指導をするパレスチナ人青年サラム(カイス・ナシェフ)は、毎日イスラエルの検問所を通っている。ある日、検問所の主任アッシに呼び止められたサラムは、自身を「テルアビブ・オン・ファイア」の脚本家だと偽ってしまう。ところが、ひょんなことからサラムは本当に脚本担当に出世してしまう。困ったサラムは、毎日検問所でアッシからヒントをもらうようになり・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianがイスラエル・パレスチナ問題を本当に意識するようになったのは、高校生の時おラビン首相暗殺のニュースだった。確か中3ぐらいの時に『 JFK 』をビデオ2巻で見て、「本能寺の変よりスケールでかいことが、ほんの数十年前に起きてたんだなあ」と呑気な感想を抱いていた後のことだったので、イスラエル首相の暗殺のニュースとその後の識者による解説や新聞記事で、問題の根の深さを知った次第である。前提となる知識にこれぐらいあれば望ましいのだろうが、「片方が片方を占領して揉めている」という理解があれば十分であろう。

 

本作の面白さの第一は、作り手と受け手の温度差である。パレスチナ人制作のドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」のプロットをイスラエルの軍人であるアッシに相談するという逆転の発想である。めちゃくちゃ乱暴に例えると、英国統治下のアメリカが、独立戦争前夜のドラマや戯曲を作るのに、英国軍人にアドバイスを求めているようなものである。そして英国人のアドバイスに従って作ったドラマが、アメリカ人に好評を博すということである。もしくはGHQの統治下にあった日本が、太平洋戦争前夜にアメリカにスパイを送り込むドラマを作り、そしてそのドラマのプロットのアドバイザーにアメリカ人を据える。そして、アメリカ人好みに作られたドラマが日本人に大ウケするということである。この一見するとありえないような馬鹿馬鹿しさが面白い。発想の勝利である。

 

本作の面白さの第二は、兎にも角にもアッシというイスラエル軍人のキャラ設定にある。我々は軍人というと、融通の利かない石頭であると考えがちである。しかし、このアッシという男は、軍人の目から見てもリアリティあるドラマに仕上がるようにと、非常に的確でリアリティのあるアドバイスを送る。特に機密文書の在処や、それを保管しておく場所の鍵、その鍵をどうやって手に入れるのかetcについての議論は、漫画『 ゴルゴ13 』的であった。それが本当かどうかは別にして、リアリティが濃厚に感じられるということである。『 シン・ゴジラ 』的であるとも言えるかもしれない。このアッシはまた、家族や恋愛関係においても、非常に有益なアドバイスをサラムに送る。そのサラムはどうやら母子家庭で、父親はどこに?という疑問や、サラム自身のちょっとした特徴に関する疑問が、終盤のシリアスな展開で鮮やかに紐解かれる。そこで初めてアッシという男が、サラムにとっての家父長的な意味での父親、つまりユング心理学的な父親であり、同時に人生における positive male figure の役割も果たしていたことが分かるのである。それはすなわち、イスラムの神アッラーにイスラエルの神ヤハウェに共通する属性である。彼らは同じ神を違う角度から見ている・・・というのは考えすぎか。一つ言えるのは、アッシの言動が物語を強力にドライブするという存在であるということである。彼の言う「愛し合う者たちが行うことは何か?」という問いへの答えは、多くの独身および既婚者の、特に男性(日本では)を頷かせ、また震え上がらせることであろう。既婚男性諸君は今からでも遅くないのでアッシの忠告を実践に移すべし。これから結婚しようかという諸賢には、結婚生活の最初からアッシの中高を実践されたし。恋人がいるという男性は、付き合うまでは必死に彼女を口説いたことと思うが、付き合いがスタートしてしてからは、やはりアッシのアドバイスを忠実に実行せねばならない。余裕があれば『 ハナレイ・ベイ 』の吉田羊のアドバイスも聞いておくべし。アッシの助言と村上春樹の助言に、人類普遍の真理を見ることができるだろう。

 

Back on track. 面白さの第三は、イスラエル側の市民の反応である。もっと言えば、アッシの家族の反応である。アッシの母や妻は当然ごとくイスラエル人であるが、アラブ系の女スパイとイスラエル軍の将軍とのロマンスを手に汗握って見つめる様子である。これも適切ではない例えかもしれないが、日韓関係は歴史の時々で悪化を見てきた。今も関係は決して良くない。だが政治的な関係が良好ではなくても、その他の関係までもが悪化するとは限らない。日本には今日もキムチや焼肉を食べ、韓国映画や韓流ドラマを観て、K-POPを聴いている人が少なくとも数十万人、多ければ数百万人はいるはずである。イスラエルとパレスチナも、市民レベルでは似たような関係であると推察されるし、またそうあって欲しいと願うし、そうあるべきだと信じている。そうした、ある種の能天気とも言える市民レベルのリアクションは、本作のようなブラック・コメディが言葉そのままの意味で悪い冗談にならないためにも必要である。

 

面白さの第四は、主人公サラムのビルドゥングスロマンである。金もない、恋人もいない、借金はあるというダメ男のサラムが、脚本家という職を得て、借金を返し、かつて好いた女性マリアムとの距離を再び縮めては広げ、広げては縮めていく過程は、全世界の男性を勇気づけるはずである。特に日本では、いわゆる氷河期世代の男性の共感を呼びやすいのではないか。サラムがドラマの登場人物の口を借りて、マリアムにメッセージを届けることには二重の意味がある。一つは、彼は決してマリアムのことを諦めたわけではないということ。もう一つは、アッシという良い意味で悪い意味でも父親的存在のアドバイスで仕事をこなしていたはずが、いつの間にか独力で仕事ができるように成長していっているということである。脚本も務めたサメフ・ゾアビ監督が、パレスチナの若い世代にエールを送っているかのようである。パレスチナを離れ、パリやニューヨーク、東京でも仕事ができるかもしれない。そう夢想するサラムと現実路線のマリアムの対話には、インド映画の『 ボンベイ 』のヒンドゥーとイスラムの夫婦のような言い難い難しさがある。

 

現実の人間関係とドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」が不思議にリンクしながらも、結末は文字通りにすべてを吹っ飛ばす。ここに来てストーリーは一気にブラック・コメディからギャグ漫画の域に到達する。ここにもおそらく二つの意味がある。一つは、商業的な理由でイスラエル・パレスチナ関係を終わらせたくないという人々がいることをユーモラスに批判しているということ。もう一つは、映画というフィクションの世界では夢を見てもいいでしょう?ということである。これが果たして結末にふさわしいかどうかは、観る人によって解釈が分かれるだろう。しかし、笑ってしまう結末であることだけは保証する。

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ネガティブ・サイド

冒頭のシーンで、できれば簡単な静止画もしくは映像付きでイスラエル・パレスチナ問題の説明があれば親切であったと思う。ドラマ撮影のシーンをそのまま導入に使うというのも悪いアイデアではないが、メタな展開を見せることそれ自体は観客の大部分はすでに知っているのだから。

 

また個人的な要望になるが、サラムとマリアムの恋愛未満の関係の描写をもう少し見てみたかった。本作は97分であるが、105分ぐらいに拡大しても誰も文句は言わないだろう。サラムの家庭環境やマリアムの実家の店での買い物シーンをもうちょっと拡大もしくは丁寧に描写することは十分に可能だったはずである。

 

冒頭のシーンからずっと不思議に思っていたことだが、テレビドラマの脚本家というのは、通常ならドラマのエンディングのスタッフロールでその名がしっかりと確認できるはずである。別にドラマの放送まで待たずとも、その場でスマホでドラマの公式サイトを検索して調べることもできたはずである。アッシがちょっと間抜けでお茶目な軍人さんという設定であれば、こうしたご都合主義的な展開もありなのかもしれない。しかし、終盤にサラムがイスラエルとパレスチナを隔てる壁の存在に打ちのめされる無言のシーンが存在する。その圧倒的にリアルな壁の存在とずさんなIDチェックが、どうしてもJovianの中では両立しなかった。

 

総評

政治風刺の色が濃いが、専門的な知識はなくても楽しむことは可能である。日本と近隣諸国の関係を投影して鑑賞してもいいし、サラムという主人公に自分の人生を重ね合わせて鑑賞することもできる。と同時に、観終わってすぐにイスラエル・パレスチナ問題について勉強したくもなるだろう。鑑賞後に「あー、面白かった/つまらなかった」という感想だけで終わる作品は多いが、「これはもっと調べてみなければ」という行動変容を起こさせる映画はそんなに多くはない。本作は、その数少ない一本だろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I don’t give a shit.

『 アップグレード 』でも紹介した表現。「そんなもん知るか、コノヤロー」のような意味である。この後に5W1H S + Vのような形が続くことが多い。

I don’t give a shit what you think.

あんたがどう思っても私には関係ねーんですよ。

I don’t give a shit where they live.

あいつらがどこに住もうと、どうでもいい。

心の中で“Boss, I don’t give a shit what you think about me.”と思う頻度が高くなってきたら、転職活動を始める時期が近付いていると考えてよいかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イスラエル, カイス・ナシェフ, ブラック・コメディ, フランス, ベルギー, ルクセンブルク, 監督:サメフ・ゾアビ, 配給会社:アットエンタテインメントLeave a Comment on 『 テルアビブ・オン・ファイア 』 -秀逸なブラック・コメディ-

『 人生、ただいま修行中 』 -看護師の卵に光を当てた異色ドキュメンタリー-

Posted on 2020年2月9日 by cool-jupiter

人生、たたいま修行中 75点
2020年2月8日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:看護師の卵たち
監督:ニコラ・フィリベール

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2019年にシネ・リーブル神戸で上映していたのを見逃したが、塚口サンサン劇場のおかげでキャッチアップ。何を隠そう、Jovianは大学卒業→就職→退職→内定取り消し→看護学校入学→看護学校中退→再就職→現在に至る、という経歴の持ち主である。看護学校には2年ちょい通っていたが、体を壊したのと他にも諸々あって辞めてしまったが、本作を観て I genuinely felt redeemed.

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あらすじ

フランスはパリ郊外の看護学校。そこには年齢や性別、人種などが異なる学生たちが看護師になるべく学んでいた。彼ら彼女らは、座学、実技を学び、看護実習を経て、教師らとの対話を持って、成長していく・・・

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ポジティブ・サイド

本作は

1.座学と実技
2.病院実習
3.学校で教師と共に実習を振り返る

の三部構成になっている。Jovianは冒頭のシーンから、言葉そのままの意味でスクリーンに引き込まれてしまった。血圧測定に挑む看護学生が動脈の位置を探り、マンシェットを巻き、聴診器を肘当たりに当てて、エアを送り込み始めたあたりから、ザワザワとしていた周囲の医療スタッフが一斉にシーンと静まったからである。まさに看護学校の空気である。初回にバルブ調整を失敗し、一気に空気を抜いてしまうのは、多くの看護学生が通る道である。また、その学生が収縮期血圧を聞き取れなかったのに対し、指導スタッフがそれを読み取っていた、というのも「看護学生あるある」である。また看護倫理に関わる講義の内容は、Jovianが学んだものとまったく同じであった。余談として、映画では触れられていなかったものの、看護の世界で学んだSOAP記録方式や14の基本的ニーズの考え方は、職業人としてMECEを意識する際の大いなる助けになっている。特にSOAP方式は語学学習に悩む人に適切なカウンセリングや学習コンサルテーションを提供する際に非常に重宝する思考ツールになっている。

 

Back on track. 看護学校で繰り広げられる座学や実技の演習には、キラキラとした青春の輝きなどはない。日本と違ってフランスでは、看護学生というのはある程度酸いも甘いも嚙み分けた人間、20代後半以上の者が通っているようである。このことが、個人的なredemptionにつながってきた。本作にはナレーションもBGMもない。製作スタッフからのインタビューに答えるような形での独白も挿入されてはいない。徹頭徹尾『 サウナのあるところ 』と同じく、人が心情を素直に吐露する瞬間を収めることに努めている。それが非常に心地よく映る。映画というのは基本的には100%作為が働いて作られるものであるが、ドキュメンタリー映画の登場人物や台本通りに動く役者ではない。だからこそ出せる味というものがあり、本作にはその“味”が随所で濃厚に出ている。

 

病院実習の場面も看護学生あるあるのオンパレードである。初回の実習というのは症状がかなり軽い、あるいは退院目前の方の問診程度であるが、Jovianは確か4人組で行ったと記憶している。そして、その4人が4人、思い思いに自分のしたい質問を患者さんにぶつけてしまい、深い情報、欲しい情報は誰も取れなかった。あの時は自分の実習のことを考えてしまい、患者さんの容態や気持ちについて考えていなかった。その余裕がなかったのではなく、そうすべきであるということ思い至っていなかった。シチュエーションは全く違うが、急変した患者さんにわらわらと群がり、口々に質問を投げかける実習生たちに10年以上前の自分の姿を見た。そして心の底から「頑張れ!」とエールを送ることができた。「何やってんだ、このボンクラ!」と普段の自分なら思いそうなところで、肯定的な気持ちになれた。看護学校中退を黒歴史だとか人生の汚点だとは思わないが、肯定的に思えたこともなかった。本作によって、過去の自分に対してポジティブに向き合えた気がした。思いがけない収穫だった。この章で個人的に最も首肯したのは、「白衣の有無について」だった。学生であろうとプロであろうと、白衣を着ている限り頼りになる人、あるいは人によっては「敵」と見なしたりすることもある。本作には出てこないが、小児科の患者、つまり小さな子どもは時々そういう態度をとるし、症状の軽い整形外科の喫煙患者などもその傾向がある。白衣で心を開く人もいれば、白衣によって心を閉ざす人もいる。これはその他多くの仕事にも当てはまるかもしれないと思う。また、Jovianは看護師の母の勤める病院で血液検査を受けたことがある。その時に母の同僚の看護師さんが採血するにあたって、「あら、どっちの血管で取ろうかしら!」と言った後、思いついたように「学生さーん!!」と実習生を呼んで、練習台にさせられた。良い思い出である。同じように、患者さんは実習生に対して優しく接してくれているのを見て、癒された。「俺は注射が大好きだぜ!」と笑っていいのかどうか分からないジョークを飛ばす患者も登場する。もしも採血の時に学生を呼ばれたら、それはあなたの血管が非常に太く、見やすく、練習に適しているからである。どうか看護師の卵に寛大に接してあげてほしい。

 

教師と共に実習を振り返る最終章では、多様性についての温かな眼差しがあった。「自分は技術屋で事務仕事はしてこなかった。採血や注射はいいが、書類仕事は勘弁してほしい」という男子学生や、「自分は頭を使って色々考えることはできたが、他の学生やスタッフとうまくコミュニケーションが取れなかったし、患者の心にも寄り添えなかった」という、やはり男子学生に大いに共感した。そして、そんなある意味で不器用な男たちに「色々な看護師が存在して良いのだ」というフィードバックを与える教員に、Jovianは赦しを与えられたように感じた。Redemptionである。漫画『 おたんこナース 』の最終話と同じく、多様性を許容する土壌と度量がフランスにはある。伝え聞くところによると日本の看護学校は大昔から、知識、器用さ、寄り添う心のすべてを学生に求めるようである。Jovianは自分で言うのもアレだが知識面は問題なかったが、寄り添いの心と手先の器用さに当時は難があった。そのことを教員に責められもした。受け持ちの患者さんが急変し、緊急手術になったと泣いていた学生を怒鳴りつける教員などもいたのである。泣いても解決にならないのは確かであるが、しかし、死にそうになっている人に対して動揺し、涙を流してしまうという感性は決して否定されるべきではないはずだ。十人十色という多様性を肯定することわざの意味を考えるべきであろう。本作に出てくる教員の一人が言う「自分の感性を受け入れれば、それは仕事の妨げにはならない」という言葉は、多くの看護学生への励ましになるだろうし、ドロップアウトしたJovianのような人間にとっては福音にも聞こえる。

 

看護師というと白衣の天使だとか何だとか言われるが、実際には苦悩する血肉のある人間なのである。学生ならば尚更である。そうした学生と教員、指導現場のスタッフとのやりとりをほとんどありのままに切り取った本作は、ドキュメンタリーとしては異色であるが、人間の根源に迫っているという意味では王道である。

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ネガティブ・サイド

一部のテクニカルタームは一般人にはさっぱりであろう。というか看護学校中退のJovianにもよくわからない話が時々あった。カジュアルであろうとディープであろうと、通常の映画ファンにはわかりづらい場面が多いかもしれない。特に頭で場面場面を分析しながら観るスタイルの人には疲れる映画だろう。

 

また、当然至極ではあるが、スペクタクルなカメラワークなども存在しないし、視覚的に訴えてくるような演出もない。BGMすらない。つまりは、シネマティックではないということである。そのためかどうかは分からないが、Jovianの嫁さんは前半は船を漕いでいた。

 

また特定の登場人物にフォーカスしていないので、感情移入しづらいかもしれない。彼ら彼女らの名前も一切明らかにされないので、シーンごとに入り込めないと、非常に傍観者的な気分にさせられるだろう。

 

総評

エンターテインメントではないが、上質なドキュメンタリーである。看護師の卵たる学生や本職のプロの看護師、それに医療従事者、さらに教育者や親やサラリーマンなども、本作からは多大な示唆を得られるだろう。人と人との対話や交わりに関して、非常に inspirational な作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

Oui, s’il vous plait

英語では“Yes, please.”、日本語では「はい、お願いします」となる。学生が教員「に実際に手本を見せようか?」と言われて、“Oui, s’il vous plait”と返すシーンがある。“Non merci”とセットで身につけておきたいフランス語の基本的表現である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, ドキュメンタリー, フランス, 監督:二コラ・フィリベール, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 人生、ただいま修行中 』 -看護師の卵に光を当てた異色ドキュメンタリー-

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