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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

人魚の眠る家 65点
2018年11月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:篠原涼子 西島秀俊 坂口健太郎 稲垣来泉 斎藤汰鷹
監督:堤幸彦

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人魚と聞けば、たいていの人は八百比丘尼を思い浮かべるのではないか。その肉を食らえば、不老長寿が手に入るとされる伝説的な存在で、それゆえに本作のタイトルが示唆するものも生と死の境目をぼやけさせる不思議な力場となった家、そして家族の物語であるとぼんやりと理解していたが、予告編が次々と公開されていくのを観て、その認識を改め、なおかつ日本の映画制作および配給会社の宣伝の下手さに慨嘆させられるのであった。本作の予告編の最新版は、それさえ見れば本編の6割を予想できてしまうではないか。業界人たちにはもっと勉強をしてもらいたい。

 

あらすじ

薫子(篠原涼子)とその夫の和昌(西島秀俊)に、長女の瑞穂(稲垣来泉)がプールで溺れたとの連絡が入る。病院での治療の甲斐あって心臓は動いたが、脳には深刻なダメージがあり、瑞穂の意識は戻らない。脳死判定を受け、娘の臓器を移植のために供す決意を固めた両親の手はしかし、瑞穂の手が確かに動いたのを感じ取った。薫子は瑞穂は死んでいないと確信。在宅介護を決心する。和昌の部下の星野(坂口健太郎)の研究成果により、瑞穂の体を人工的に動かせるようになるも、そのことが薫子の愛と狂気を暴走させて・・・

 

ポジティブ・サイド

篠原涼子と吉田洋は属性が重複している。40代にして、その衰えぬ容色。自立した女性としての役柄が多いが、母親役もこなせる。慈愛に満ちた母親ではなく、狂気にも似た愛情を内包する母親を演じられるところが特にそうだ。優劣をつけられるものではないが、元々が役者ではなく歌手であることを考えれば、篠原も表現力という点ではど素人ではないのである。

 

本作の呈示するテーマは深い。単に脳死の意味や臓器移植の是非を扱うからではない。人間が人間を、生きているのか死んでいるのか判断する基準のゆらぎを描くからこそ深くなっている。たとえば冒頭で意識不明の状態に陥ってしまった瑞穂を見た時、和昌は「大きくなったなあ」という感想を漏らす。別居しているのだから、ある意味当然の感想である。一方で薫子にとっては瑞穂は現実にも心の中にもありありと存在する個人である。そのことは、全編を通して瑞穂の顔のどアップの回想シーンが薫子によってこれでもかと思い起こされることからも明らかである。つまり、和昌にとっては瑞穂は非常に肉体的・物理的な存在である一方で、薫子にとっての瑞穂は「瑞穂」という意識の容れ物なのだ。それゆえに、意識のない瑞穂の体を人工的に作れられた電気信号によって動かすことには抵抗を示さなかった和昌は、作られた笑顔には嫌悪感を催した。そこに意識の存在を読み取ってしまったからだ。しかし、薫子にとっては、プレゼントをもらえた瑞穂はきっとほほ笑むに違いないとの確信(=意識)から、瑞穂を笑顔にさせることに何の抵抗も抱かない。

 

これは墓参に譬えることもできるかもしれない。お墓参りでご先祖様に語りかけることはあるだろう。声に出してもいいし、心の中で語りかけるのでもよい。ただし、それは自分と相手(=死者)に特別な関係がある時だけに限られる。ここで言う特別な関係とは、相手の存在を自分の意識において再生できるような関係ということだ。と、ここまで書いてきて気がついた。原作者の東野圭吾は前野隆司の『 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 』を下敷きにした、というのは言い過ぎかもしれないが、参考ぐらいにはしているのだろう。ものすごく端折って説明してしまえば、前野の説は「意識とは、意識が意識を意識した時に現れてくる意識である」ということだ。何を言っているのか分からないという人は、本書を買ってよむべし。何を言っているのか分かったという人は、J・P・サルトルの『存在と無』を読もう。

 

Back on topic. もしも公共の墓地などで赤の他人に「これ、うちの祖父ちゃんです。よければ挨拶してあげてやってください」などとお墓を指して他人に話しかける人がいれば、ちょっと怖いだろう。なぜなら、その人は自分の心の中に存在しないからだ。死が不気味であるかどうかは、理性と感情の境目で決まるようだ。和昌は瑞穂の脳に生死の境目を見出し、薫子は瑞穂の心に生死の境目を見出そうとする。肉体は脳の容れ物なのか心の容れ物なのか。それは個と個の繋がり、その在り様で決まるとしか言いようがない。しかし、本作品が描き出す世界では、薫子は非常に孤独である。その薫子の姿を自分と重ねられるか否か、そこで本作の評価が定まると言ってもよい。その意味では篠原涼子は実に大きな仕事を果たした。お見それしました。

 

後は、子役たちが誰もかれもが素晴らしい。子役の演技というのは、天性の素質もあるのだろうが、指導者の影響力も大きいということは、音楽や芸術、スポーツなどの他分野を観察に基づくまでもなく、言えることだろう。本作は撮影の現場に演技指導者が常駐していたという。『 万引き家族 』の上映後舞台あいさつで是枝監督は「子役にはその場で台本を読ませて演技してもらった」旨を語ってくれたが、今後は子どものインスピレーションを大事にする派と、徹底的に指導を叩き込むスタイルのどちらが主流になっていくのだろうか。そんなことも考えさせられた。

 

ネガティブ・サイド

西島秀俊の演技力の低さは何とかならないのだろうか。この人は基本的に一本調子の棒読みで、唯一上手く話せるじゃないかと感じさせてくれた出演作は珍品『 ゲノムハザード ある天才科学者の5日間 』での韓国語ぐらい。

 

坂口健太郎も『 ヒロイン失格 』と『 俺物語!! 』を観た時には、「とんでもない大根が出てきたな」と慨嘆させられたが、珍品『 ナラタージュ 』で評価をかなり上げた。しかし、そこから成長していない。声のボリュームの大小だけで感情を表現しきろうとするのには無理がある。型どおり以上の表情も研究した方が良い。

 

最後に物語の主たる舞台となる「人魚の眠る家」の庭にあふれるスタジオ内のセット感は、もう少し何とかならなかったのだろうか。不自然なまでの人工の光、とってつけたような鳥のさえずり、全く荒れていないのは適切な世話をしたからと言えるかもしれないが、全てが一様にそろった芝目など、作り物感が満載だった。創作物のリアリティは細部にこそ宿るのだから、こうした点にこそもっと注力をしてほしかった。

 

総評

この子役たちをあらぬ方向に連れて行ってしまわぬよう、親、保護者、ハンドラー達、さらにその周囲の人間たちは決して軽々に動かぬようにしてもらいたい。そして東野圭吾という名前だけで作品を忌避する傾向にあった自分自身にも喝を唱えたい。大人の鑑賞に堪える作品に仕上がっている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, 坂口健太郎, 日本, 監督:堤幸彦, 篠原涼子, 西島秀俊, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

Posted on 2018年11月16日2019年11月22日 by cool-jupiter

マイ・プレシャス・リスト 60点
2018年11月11日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ベル・パウリー ガブリエル・バーン ネイサン・レイン
監督:スーザン・ジョンソン

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原題は“Carrie Pilby”、すなわち主人公である少女の名前である。アメリカの映画は実在の人物であれ、架空の人物であれ、人名だけのタイトルの本や映画を結構作っている。これはお国柄の違いだろう。近年だと『 バリー・シール/アメリカをはめた男 』が当てはまる。キャリー・ピルビーは天才ではあるが、『 響  -HIBIKI- 』における響のような異能の天才ではなく、秀才が高じたような天才である。『 gifted/ギフテッド 』のメアリー(マッケナ・グレイス)ではなく、『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』のリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)のような少女が主役である。それゆえに、凡人たる我々にも共感しやすい物語に仕上がっていると言える。

 

あらすじ

飛び級で14歳にしてハーバード大学に入学(映画.comのあらすじは間違えている)、18歳で卒業したものの、定職を持たず、ニューヨークのアパートで気ままに一人暮らしするキャリー。明晰な頭脳はしかし、社会に還元されず、彼女が唯一まともに話せる相手はカウンセラーのDr. ペトロフだけだった。ある日、キャリーはペトロフから6つの課題が書かれた紙を受け取る。その課題をこなせれば、世界の見方が変わると言われたキャリーは、課題に着手していくが・・・

 

ポジティブ・サイド 

この分野には『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』という優れた先行作品が存在する。天才でありながらも心に抱えた傷のために自分に素直に向き合えないウィル(マット・デイモン)と妻の喪失を受け止めきれないショーン(ロビン・ウィリアムズ)の生々しい交流と清々しい別離の物語で、これを超える作品を産み出すのは難しい。しかし、同じようなテーマに違う角度からアプローチすることはできる。その一つの試みが本作である。そしてそれは一定の成功を収めた。

 

まず主役を女の子に設定したこと。『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』ではスカイラーという女子が、「そんなこと言うなら、もう抱かせてあげない」とウィルを窘めながら、「男って馬鹿ね」と呆れながら安心するシーンがあるが、本作はこれと裏腹なシーンが存在する。そう、古今東西、男は馬鹿なのである。その男の馬鹿さ加減を大いなる包容力で受け入れてくれる女性こそが男の理想像なのである。では、女性目線で見た時、この男の馬鹿さ加減にはどのように対応すべきなのか。しかも、その女子の頭脳は天才的で、その天才が自分よりも賢いと認められるような男が、一皮むけばやっぱり馬鹿だった、となった時、どうすれば良いのか。本作の最大のテーマはある意味でここに尽きる。そして、そうした男の馬鹿さ加減を、あっちでもこっちでも嫌と言うほど見せつけてくれる。世の男性諸氏は居た堪れなくなるであろう。なぜなら、そこに我々が見出すのは、キャリーの天才的な頭脳というフィルターを通して見える世界ではなく、誰がどう見ても馬鹿な男の性(さが)だからである。世の男はこれを観て、大いに縮こまることであろう。そして世の女性はこれを観て、男のことを「本当に馬鹿なんだから」と生暖かい目で見守ってあげるべし。

 

ネガティブ・サイド

キャリーの天才性の描き方が少し弱い。文学作品をいくつか暗唱したぐらいで、もっともっとキャリーの天才性を描き出してくれないことには、物語中盤の大きな山場が盛り上がらない。赤川次郎が何らかのエッセイか、自作のあとがきで「小説や文学で描かれている恋愛はたくさん読んできたが、現実の自分の恋愛も全く同じように始まって、全く同じように終わっていった」と述べていたが、キャリーにもこうした背景が必要だったように思う。極端に頭でっかちな女子が、自分のキャパシティを超えるような事態に遭遇した時にどうするのか、そうした時にこそ頭脳をフル回転させて局面の打開を試みるも上手く行かず・・・という展開を期待したくなったのは、やはり自分が馬鹿な男で、天才女子に嫉妬というか潜在的な恐れを抱いているからなのだろうか。

 

他に弱点として挙げられるのは、キャリーが初めてする仕事や、初めて持つ学校以外の場での人間関係の描写が極端に少ないということである。キャリーの課題は、コミュニケーション力の欠如ではなく、むしろ過剰なコミュニケーション力だからだ。トレーラーにもあったが、カフェでイスを貸して欲しいだけの男性客に「私を口説こうとしても・・・/ Before you move into your moves …」などと言ってしまうあたり、コミュニケーションが下手なのは、能力の欠如ではなく過剰であるのは明らかだ。だからこそ、キャリーの成長とは、キャリーが世界に受容されることではなく、キャリーが世界を受容することなのだ。そしてそれは、冒頭のカウンセリングでマシンガンの如く喋り倒して、ペトロフの言うことなど聞くつもりはないのだという姿から、友人たちに普通に話し、普通に話しかけられるようになる姿に変わっていくことで表現されてしかるべきだったと思うのである。

 

総評 

日本とアメリカを始めとした西洋世界では、幸せの概念が異なる。HappinessはHappenと語源を同じくするのである。ハッピーとは、自分の力でなにがしかのコトを起こす力を持つことを言うのだ。そう考えれば、メーテルリンクの『 青い鳥 』(The Blue Bird)というチルチルとミチルのアドベンチャー物語が、日本では『 幸せの青い鳥 』と訳されたというのは名訳と言うべきであろう。本作も、欠点は抱えながらも、幸せを追求する少女の物語として鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ペル・パウリー, 監督:スーザン・ジョンソン, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

Posted on 2018年11月9日2019年11月22日 by cool-jupiter

日日是好日 75点
201811月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:黒木華 樹木希林 多部未華子
監督:大森立嗣

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樹木希林との惜別のために劇場へ。彼女の作品で印象に残っているのは『 風の又三郎 ガラスのマント 』、『 39 刑法第三十九条 』、『 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 』、『 海街diary 』、『 万引き家族 』。平成の日本映画史を支えた女優が逝ってしまった。合掌。

 

あらすじ

20歳の典子(黒木華)は、自分が本当にやりたいことを見つけられないまま、惰性で大学に通っていた。ある時、母が茶道を習ってみたらと提案するも乗り気になれない。しかし、従妹の美智子(多部未華子)が乗り気になったことから典子も茶道教室へ。それが典子と武田先生(樹木希林)、そして自分が探していた何かとの邂逅だった・・・

 

ポジティブ・サイド

黒木華は幸薄そうな役がよく似合う。『 散り椿 』、『 ビブリア古書堂の事件手帖 』は正直なところ、物語世界の構築には成功しなかった。しかし、そうした作品においても黒木華はキャラクターに息吹を与えていた。黒木華が出ているだけで「観ようかな」と思わせられるだけの存在感を発するようになってきた。今後も楽しみである。

 

本作は典子と美智子の茶道に対するアプローチの対照が前半の見どころである。何でも理屈で解釈しようとする美智子と、五感で茶菓子や茶器、茶室、書、掛け軸、生け花、そしてお茶を賞翫する典子、という構図である。茶道の作法に意味があるのか、それとも無いのか。これはそのまま典子の抱える疑問、大学に行くことに意味があるのか、それとも無いのか。古い映画を観ることに意味があるのか、それとも無いのか。将来の仕事を決めることに意味があるのか、それとも無いのか。これらは頭で考えてどうにかなる性質の問いではない。もちろん、無理やり答えを出して前に進むこともできる。ただ、それは典子の性(さが)ではないのだ。前半は観る者に、「あなたは典子型ですか?美智子型ですか?」と尋ねてくるかのようだ。それが不思議と心地よい。どちらの生き方も否定されないからだろう。

 

茶道が主題となると、画的にさびしいと思ってしまうが、さにあらず。『 クレイジー・リッチ! 』でも用いられた手法だが、多種多様なガジェットを画面いっぱいに次々と映していくことでもダイナミックさは生まれるのである。『 クレイジー・リッチ! 』では色々な食べ物が印象的で、本作では茶器と茶菓子、掛け軸が特に印象的である。特に掛け軸の瀧直下三千丈は、その書の雄渾さだけではなく視覚的なイメージで典子に、つまり我々に訴えかける。こうした技法はピーター・J・マクミランが『 英語で読む百人一首 』の三番、柿本人麻呂の「足引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む」という有名な句を英訳する際に使用している技法である。瀧という文字を、意味ではなく視覚で受け止めるべしというメッセージであり、同時に茶道というものを理性ではなく感覚で経験すべしというメッセージでもある。ナレーションもなく、わざとらしい説明の台詞もなく、ただただ書に見入る典子の姿を映し出すことで、観る者にメッセージを送る。これこそ映画の基本にして究極の技法である。このシーンだけでもチケット代の半分以上の価値がある。

 

作中では、ある重大な出来事を受け止めた典子が、止め処なく溢れ出てくる気持ちを爆発させるシーンがある。どことなくニヒリスト的であった典子が、自分のこれまでの生を肯定できるようになる重要なシーンである。ニーチェの言うニヒリズムと永劫回帰は、茶道の一期一会と、案外と近縁の思想なのかもしれない。ゲーテの『 ファウスト 』にも通底する思想で、生の一瞬一瞬を愛でることができれば、人生に悔いを残さないようになれるのかもしれない。小説『 神様のパズル 』で綿さんがコメを食べながら得た「閉じた」という感覚を、典子も抱いたことだろう(ちなみに、映画版の『 神様のパズル 』は原作小説の改悪なので、映画はスルーして小説の方を読むことをお薦めする)。茶道の向こうに人生の真実が、確かに見えてくる。

 

ネガティブ・サイド

典子のライフコースにおける一大イベント前に、美智子が絶対に現れると思っていたが、元々の脚本になかったのか、それとも編集でカットされたのか。序盤のコメディ・タッチがどんどんと鳴りをひそめ、シリアスとまではいかないものの、それなりに重いテーマを扱う後半こそ、美智子の軽さが必要だったのではないだろうか。

 

また、シーンごとのメリハリに一貫性も欠いていた。BGMやナレーションを極力使わず、映像と音だけでストーリーを紡ぐシーンもあれば、あまりにもナレーションや心の声を聞かせすぎるシーンもあった。中学生以下ならいざ知らず、高校生以上であれば、本作の各シーンが持つ意味や意義は掴めるはずだ。もう少し、受け手を信用した作りをしてほしいと思う。

 

総評

扱う主題は茶道だが、その奥に潜むテーマは深いとも浅いとも言える。それは観る者の人生経験や哲学、識見によって変わってくる。しかし、これをきっかけに両親や祖父母に電話をしよう。あいさつをしよう。部屋をちょっと模様替えしてみよう。料理の組み合わせを少し考えてみよう。などなどの、目の前の瞬間を大切に生きてみようという気持ちにさせてくれる力を持つ作品に仕上がっている。劇場でいつまで公開されているか分からないが、是非とも多くの方に観てもらいたい映画である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 多部未華子, 日本, 樹木希林, 監督:大森立嗣, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトル, 黒木華Leave a Comment on 『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

Posted on 2018年11月3日2020年9月21日 by cool-jupiter

ハナレイ・ベイ 70点
2018年10月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉田羊 佐野玲於 村上虹郎 佐藤魁 栗原類 
監督:松永大司

 

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原作は村上春樹とのこと。Jovianは読書家であると自負しているが、村上春樹は読んだことが無い。これからも読まないだろう。同じことは東野圭吾にも当てはまる。彼の作品は2冊だけ買ったが、どちらも最初の20ページで挫折した。本作品を鑑賞するに際して、一抹の不安があったが、それは杞憂であった。

 

あらすじ

サチ(吉田羊)は一人息子のタカシ(佐野玲於)がハワイのハナレイ・ベイで死亡したと連絡を受ける。サメに襲われ、右足を噛みちぎられた死体の身元確認を粛々と行うサチ。手形を取ったので持ち帰ってほしいという地元の女性の声も聞き入れることができない。息子との関係は決して良好なものではなかった。しかし、あまりに突然の息子の死を受け止める術を知らないサチは、それから10年間、毎年ハワイのハナレイ・ベイを訪れ、日がな一日、読書をして過ごすようになる。ある時、日本人サーファーから「片足の日本人サーファーがいる」との噂を耳にしたサチは・・・

 

ポジティブ・サイド

ハワイの自然の美しさと恐ろしさは誰もが知るところである。キラウエア火山からの噴石が遊覧船を直撃したというニュースもあった。しかし、そんな自然の猛威、暴威などは描写されない。冒頭のタカシの死で充分だ。島民が「この島を嫌いにならないでほしい」という切なる願いは、しかし、サチには受け入れられない。まるでDV被害に遭った妻が、それでも家に帰ってしまうように、カウアイ島を毎年訪れてしまうサチに対して、無性に悲しみと憐れみを感じてしまった。サチは島を愛しているのではない。島を受け入れようとしても、それができない。息子の命が絶たれた呪われた土地に縛りつけられているのだ。一人息子を失ったという、行き場を無くした悲しみを胸にハワイを彷徨するサチは、まるで鬼子母神のようですらある。

 

鬼夜叉にも心は有る。E・キューブラー・ロスの『 死ぬ瞬間 』の考え方を敷衍、援用するとすれば、サチはタカシの死を「 受容 」する段階の手前で止まってしまっている。死とは、『 君の膵臓をたべたい 』や『 サニー 永遠の仲間たち 』で述べたことがあるが、生物学的な意味での生命活動を終えること=死では決してない。死とは、相手が生き生きとしていた記憶をこれからも持ち続けるのだという決意によって規定される現象である。葬式とは死を確認する儀式ではなく、思い出を共有する儀式だ。その意味で、サチは息子の死を受け入れられない。タカシの生の記憶があまりにもネガティブなそれであるからだ。そんな形で息子と離別したくはなかった。そのような後悔の念に心の奥底で苛まされている女の心情を、あてどもなく彷徨い続けることでこれ以上なく描出してくれた吉田羊は、表現者としての階段をまたさらに一歩上ったのではないか。『 ラブ×ドック 』や『 コーヒーが冷めないうちに 』といった珍品への出演が目立っていたが、ここに来て一気に株を上げてきた。この母親像は『 スリー・ビルボード 』のミルドレッドに迫るものがあるし、片親像としては『 ウィンド・リバー 』のランバートと相通ずるものがある。

 

本作は大人の映画でもある。安易にナレーションや、説明的な台詞を使わない。ドラマチックなBGMを挿入しない。兎にも角にも、ひたすら吉田羊にフォーカスすることで、いかに彼女の抱える闇が暗く、深いものであるのか、それが逆説的に愛の大きさを表すのだということ、観る者に明示しない手法を称賛したい。何でもかんでも説明したがる作品が増えてきている中、もう少し観客を信用してもよいのではないかと常々思っていた。本作には我が意を得たりとの思いをより一層強くさせられた。

 

そうそう、吉田羊の英語。あれこそが、日本の普通の学習者が目指す姿であるべきだ。はっきり、ゆっくり、難しい語彙などは用いずに、相手の目を見て話す。外国語を話すときは、この姿勢が大切だ。自身の英語力の低さに悩まされるサラリーマンも、ここから何某かのインスピレーションを得られるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

これは監督の意向なのだろうが、サーファー役の二人は、少し滑舌が悪いのではないだろうか。素人っぽさを意識したと言えばそれまでなのだろうが、この2人組が喋ると、ただでさえゆったりと感じられるハワイの時間が、さらにスローに感じられた。また、ブルーシートを使った疑似サーフィンシーンでのカメラ目線は必要だったか。全体的にスリムダウンすれば、もう5~10分は短縮できたはずだ。本作のように、ただひたすらに歩くシーンを追う映画は、存外に観る者の体力を消費させる。90分ちょうどぐらいが望ましかった。

 

総評

これは高校生~大学生ぐらいの男子向けなのではないだろうか。男という生き物は、どういうわけか何歳になっても、母親に何か言われると反発してしまう性の持ち主だ。だが、本作を見て何かを感じ取れれば、それは男として一皮むけた証になるかもしれない。静かだが、力強い余韻を残してくれる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ファンタジー, 吉田羊, 日本, 監督:松永大司, 配給会社:HIGH BROW CINEMALeave a Comment on 『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』 -考えるな、感じろ-

Posted on 2018年11月1日2019年11月21日 by cool-jupiter

ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 65点
2018年10月28日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アナ・ケンドリック レベル・ウィルソン ヘイリー・スタインフェルド ブリタニー・スノウ アンナ・キャンプ ジョン・リスゴー ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:トリッシュ・シー

 

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女子高生がそのまま女子大生になり、女子寮でワイワイギャーギャーと騒ぐノリの本シリーズも遂に卒業、完結編。前二作で発展を見せたベラーズの主要な面々とトレブルメーカーズやその周辺の男子らとの関係を、本作は開始3分で切って捨てるかのごとく説明してしまう。なるほど、ベラーズの面々が思い悩む対象はもはや男ではないというわけだ。さて、では本作で彼女らは何から卒業するのだろうか。

 

あらすじ

バーデン大学の名門アカペラ部ベラーズ。世界大会で優勝を成し遂げ、アカペラに注いだ青春も終わりを告げた。メンバーそれぞれが社会の荒波に乗り出していったが、ある者は父親不明の子を宿し、ある者は会社を辞め、ある者は失業中で、と皆が皆、順風満帆というわけではなかった。 そんな折に元ベラーズの面々にエミリー(ヘイリー・スタインフェルド)からリユニオンの招待状が届く。ベッカ(アナ・ケンドリック)やエイミー(レベル・ウィルソン)らは勇んで駆けつけるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

こうしたシリーズ物の常として、過去のキャラとの再会は絶対に不可欠の要素である。ゲロ吐きオーブリ-やステイシーらもしっかりと登場してくれる。もちろん例の審査員二人組もいるので安心してほしい。ステイシーに至っては、妊娠中だ。時の流れだけではなくキャラクターたちの年齢の積み重ね、状況や人間関係の変化、それでも変わらないアカペラへの情熱やベラーズへの愛着が、開始10分で全て描かれる。『 ジュラッシク・ワールド 』が不評だったのは、懐かしのグラント博士やマルコム博士を登場させなかったことが一因だ。一方で、『 スター・ウォーズ/フォースの覚醒 』は過去作の振り返りやファンサービス要素をてんこ盛りにしてしまったところが一部のファンの不興を買った。本作は、そのあたりをかなり良い塩梅にまとめていると言える。何よりもシリーズ恒例だった、ステージ・パフォーマンス中の粗相がないのだ。アホな女子大生物語では最早ないのですよ、と製作者がファンにメッセージを送っているのである。

 

一方で、しっかりと笑うべきシーンも用意してくれている。何よりも笑ってしまったのが、ジョン・リスゴーがChicagoの“素直になれなくて”のあの一節を熱唱するところ。『 マンマ・ミーア! 』でピアース・ブロスナンが歌うS.O.Sを上回る惨劇である。周りが皆、本職ではないとはいえ、それなりに歌唱力のあるメンツ揃いだから、なおさらその酷さが光り輝く。

 

本作は色々な意味で、父親というpositive male figureたるべき存在がフォーカスされる。家父長制的な面を家庭内に色濃く残すアメリカ社会に女性として出ていく面々がいる中で、ある者は戦い、抗い、ある者は素直に愛情を打ち明ける。家族の在り方を社会の在り方に重ね合わせているわけだ。のみならず、ベラーズというファミリーの物語にも一つの終止符が打たれるわけだが、そこには『 焼肉ドラゴン 』に見られた家族像と共通するものが確かにあった。少しだけだが、ほろりとさせられた。

 

ネガティブ・サイド

監督がころころ変わるシリーズなので仕方がないのかもしれないが、アフレコの多用はいかがなものか。シリーズで一番アガるのは、やはりリフ・オフ対決で、本作でも漏れなくリフ・オフはある。しかしながら、そこでアフレコをあからさまに用いてしまうと対決の臨場感が薄れてしまう。ここはどうしてもマイナスの評価をつけざるを得ない。

 

またコンテストが米軍基地慰問ツアーというのは、あまりにも能天気すぎやしないか。今作の大きな肝は、体は大きくなっても頭や心はどこか子どものままのベラーズの面々が、精神的な成長と成熟を果たすことだったはずだ。米軍のためにエンターテインメントを提供するというのはWWEなどもやってきたことで、それ自体は別に構わない。しかし本作のテーマに沿っているかと言われれば疑問である。キャラ設定の都合でこうなりましたという感が拭えない。一方で、メンバーが巻き込まれるアクシデントの解決には米軍は動かない。もう少し何か、ストーリーにリアリティというか深みというか、一貫性が欲しかった。

 

総評

前二作(『 ピッチ・パーフェクト 』、『 ピッチ・パーフェクト2 』)を鑑賞していないと何のことやら分からないシーンや人間関係もあるが、本作からいきなり見始めても、なんとなく楽しむ分には問題ないだろう。できればレンタルやネット配信で復習してから劇場へ行ってもらいたいが、何かの間違いでチケットが手に入った、友人知人に誘われたという人は、臆することなく行ってみよう。

 

ところで、本作鑑賞前にグッズ売り場を覗いていたら、とある観客が売り場の係員に本作を指して「これってどういう映画なんですか?」と尋ねていた。その答えが奮っていた。『いやあ、僕も観たわけじゃないんですが、たしかオペラの話だったような・・・』いやいや、アカペラとオペラは全くの別物やで?と無関係ながら突っ込みを入れられなかった自分に今も悔いが残っている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:トリッシュ・シー, 配給会社:シンカ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』 -考えるな、感じろ-

『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

Posted on 2018年10月29日2019年11月4日 by cool-jupiter

ここは退屈迎えに来て 50点
2018年10月25日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:橋本愛 門脇麦 成田凌 渡辺大知
監督:廣木隆一

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以下、ネタばれに類する記述および私的考察あり

 

小説でも映画でもゲームでも、まず手に取ってみたくなる、もしくはクリックしてみたくなるのは、そのタイトルが魅力的なものである時だ。タイトルが魅力的というのは、こちらがそのタイトルの意味をもっと深く知りたい、と思わせるような妖しい力を持っているということだ。少年時代に『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』と出会った方々ならば、そのタイトルの不可思議さに惹き付けられた記憶、印象が鮮明であると思う。本作はしかし、先行する魅力的なタイトルを持つ映画と同じレベルに達しなかった作品である。

 

あらすじ

私(橋本愛)は東京で過ごすこと10年、「何者」かになることができず地元に帰り、フリーのタウン誌の記者をしている。ある時、友人の誘いで高校時代の憧れの存在だった椎名(成田凌)に会いに行くことになる。一方では、高校時代の椎名の彼女「あたし」(門脇麦)は、地元の冴えない男と付き合いながらも、椎名のことを吹っ切れずにいる。青春の輝き、東京への憧憬、椎名という太陽のような存在。誰もが何かを抱えて生きていく姿を、時系列を変えて、オムニバス的に活写していく作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、最も強く印象に残ったのは渡辺大知演じる新保だった。Jovianの気のせいなのかも知れないが、おそらくゲイもしくはバイセクシャル、もしかしたらトランス・ジェンダーなのではなかろうか。本人がそれを自覚できていないのかもしれないが。煙草の吸い方が、男のそれではないように思えて仕方がなかった。また、終盤に新保が原付きで疾走する場面があるのだが、そこでの光の使い方には是非とも注目してほしいと思う。あれは乳房の象徴にしか見えなかった。独特の哲学を持つキャラで、「幸福であるためには、まず何よりも孤独であれ」などとまるでアリストテレス哲学のような思想を披歴してくれる。彼の幸福論および死生観は、Jovianのそれと近く、ある観客によっては非常に強く共感でき、また別の観客によっては嫌悪の対象となろう。どう感じるか気になる方は、劇場へ行くべし。

 

本作は『 桐島、部活やめるってよ 』と同工異曲の青春群像劇である。青春というよりも、モラトリアムと言った方が近いだろうか。椎名という太陽のような存在に照らされていた高校時代が、ある者にとっては神話的な崇高さを帯びているところが、滑稽ではあるがリアリティの源泉にもなっている。程度の差こそあれ、こうした傾向は青春を完全な過去という遠近法で見られる人にならば、ある程度共通してみられるものだ。アメリカのちょっとしたテレビドラマや映画の同窓会シーンでは、アメフトの試合のあのパスが云々、野球の試合のあの補殺が云々、プロムで誰それと誰それが云々・・・ 人は誰もが否応なく成長するが、その成長を拒む人もいるし、個人の内面レベルで成長を拒む部分も存在する。そうした、ある意味では非常にダークな心の領域を本作は見事にあぶり出す。同様のテーマの作品に興味があれば、『ワン・ナイト』(原題は”Ten Years”)をお勧めしたい。

 

この作品の特徴として、閉鎖空間でのロングのワンカットを多用するということが挙げられる。ワンカットと言えば『 カメラを止めるな! 』が近年の白眉だが、こちらは車内、室内、ファミレス内、ラブホ内、ゲーセン内と、とにかく閉鎖空間での撮影にこだわりを見せる。このことが、観る者に否応なしに最も閉鎖された空間=人間の心を意識させる。本作は椎名という太陽に照らされた者たちと、椎名の陽の部分にまったく興味のない者たちとに二分される。そんな彼ら彼女らの紡ぐアンソロジーを、時系列をバラバラに描くのだが、全てが終盤近くのとあるシーンに収斂するにつれて、その意図が見えてくる。製作者が観客を信頼しているということで、私的に評価したい。

 

そうそう、本作はタイトルをスクリーンに映し出すシーンが完璧なのである。『 アメリカン・アサシン 』並みに素晴らしい。これがあるから、色々とケチをつけたくなる箇所があっても、上手くまとまったなという印象を持てるのだ。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 勝手にふるえてろ 』で使われたネタである。こうしたトリックというかツイストは、どうやっても最初に使った者/物の勝ちなのである。もしも『 勝手にふるえてろ 』を未見なら、すぐに観よう。

 

渡辺大知と片山友希以外の若手キャストが、全体的に力不足である。特に橋本愛は、役者業は厳しいかもしれない。『 貞子3D 』や『 Another アナザー』のように、あまり喋らない役であれば良いが、基本的に台詞に抑揚が無さ過ぎる。棒読みとまでは言わないが、どんな作品に出ても、結局は「ああ、いつもの橋本愛か」と思えてしまう。これがニコラス・ケイジやトム・クルーズのレベルにまで突き抜けてしまえば良いのだが、日本でそんな俳優はあまり見当たらない。強いて言えば北野武ぐらいか。本人が本人を演じるのが一番うまいというタイプの役者だ。あるいは、どんな役も自分色に染めてしまうという、演技力ではなく素の存在感、カリスマ、オーラ、そういったもので勝負できる力。橋本愛はそのレベルにはいないし、今後も行かないだろう。と書いてきて、もう一人思い当たった。樹木希林である。一癖あるおばあちゃんキャラは全部この人だった。『 万引き家族 』然り、『 海街Diary 』然り、『 我が母の記 』然り。合掌。

 

閑話休題。本作の最大の弱点(になっているかもしれない)ポイントは、東京に住んでいる人間に、果たしてどれだけ響くかということだろう。ここで言う東京とはもちろん東京都のことではない。地理的あるいは行政的な区分での東京は、東京ではない。Jovianも東京のど真ん中(地理的な意味で)に10年半住んでいたことがあるから分かる。我々が東京と言う時、それは往々にして山手線の内側もしくは周辺であったり、吉祥寺、高円寺、中野などのちょっとした離れ、隠れ家的な雰囲気の街までである。立川は決して東京ではない。況や奥多摩をや。実際にJovianの大学のクラスメイト(正確にはセクションメイト)が、「私は浦和(当時はまだ浦和市だった)に住んでるから、池袋まで40分ぐらい。八王子の人は新宿に出るのに50分ぐらいかかるから、その意味では浦和は八王子より東京なんだよ」と言ったのをよく覚えている。また寮の同級生も「木更津は確かに遠いけど、アクアライン通ったら近いんだっつーの」と言っていたのも覚えている。東京には強烈な重力がある。東京までの距離の近さを競うような意識が近隣の県や市町村にあり、それは東京都内でも同じだった。そうした東京の内部にどっぷり浸かっている人は、本作を見て「超楽しい」と言うだろうか。それとも悲憤慷慨するだろうか。おそらくどちらでもない。無関心を装うか、無関心を貫くかだろう。東京に住んだことがある、あるいは東京の空気がどんなものかを知っていなければ、本作のアイロニーが届かないというのは残念なことだ。

 

総評

観る人を相当に選ぶだろうなと思う。高校生以下はおそらく除外されるし、40代以上の男性にとっては精神的にきつい描写がある。ガールズトークが花開くシーンはそれなりに楽しめるので、「私」もしくは「あたし」に近いアラサー女子にこそ観られるべき作品であるのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 成田凌, 日本, 橋本愛, 渡辺大知, 監督:廣木隆一, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

Posted on 2018年10月24日2019年11月3日 by cool-jupiter

泣き虫しょったんの奇跡 60点
2018年10月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松田龍平 渋川清彦 イッセー尾形
監督:豊田利晃 

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将棋界が熱い。昨年2017年の羽生善治の前人未到、空前絶後の永世七冠達成と藤井聡太フィーバー、さらに加藤一二三の完全タレント化、それ以前にも映画化された『 聖の青春 』やアニメおよび映画化された『 三月のライオン 』など、将棋ブームが到来し、定着しつつあるようだ。もちろん、コンピュータ将棋の恐るべき進化、特に将棋電王戦でのプロ棋士の通算成績での負け越しや叡王戦での名人・佐藤天彦の完敗を忘れるべきではないだろう。もちろん将棋は偉大なるボードゲームで、その目的の第一は楽しむことである。当然、そこから派生するエンターテインメントも豊かに生まれてきた。近年だけでも小説『 盤上のアルファ 』がNHKでテレビドラマ化される見込みであるし、元奨作家による『 サラの柔らかな香車 』、『 サラは銀の涙を探しに 』も上梓された。そんな中、満を持して瀬川晶司の『 泣き虫しょったんの奇跡 』が映画化と相成った。

 

あらすじ

しょったんこと瀬川晶司は、勉強でも運動でも特に取り柄のない小学生。しかし将棋が大好きな子だった。兄やクラスメイト、隣の家の子らと切磋琢磨するうちに、プロ棋士の存在を知り、それに憧れ、奨励会に入会する。しかし、そこは天才少年、神童たちが鎬を削る過酷な世界だった。しょったんは青春を将棋に懸けるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

松田龍平の演技が光る。顔は瀬川棋士に似ているとも似ていないとも言えるのだが、それはオールデン・エアエンライクがハリソン・フォードに似ている程度には似ていると言えよう。つまり、それほど似ていない。が、雰囲気が実によく似ている。

 

だが、松田よりも特筆すべきは豊川孝弘役(と敢えて書く)を演じた渋川清彦だ。豊川はNHK杯での二歩による反則負けで一躍その名を全国に轟かせ、その後も地味にB1に昇給したり、バラエティやネット配信などで得意の親父ギャグを連発するなど、加藤一二三には及ばないものの、棋界の変人の末席に連なる人物と言える。風貌も相当に似ているし、話し方や表情などもかなり似せる努力をしていたのが見て取れる。その豊川本人が久保役で出演していることにも笑ってしまった。

 

しかし、本作で最も強烈なインパクトを残してくれたのはイッセー尾形である。しょったんの通う将棋道場の席主であり、将棋の技術ではなく、心構えの師匠役を完璧に演じてくれた。はっきり言って序盤の主役はイッセー尾形である。人によっては松たか子であると言うかもしれないが、Jovianの目にはイッセー尾形がより強力な輝きを放っているように映った。

 

将棋というのは躍動感にはどうしても欠けてしまう。それは『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』でも、しっかりと描くことはできなかった部分だが、本作は飛車が盤の端から端まで動くのを接写することで、躍動感を生み出した。ありきたりなようでいて、実は新しいこの撮影手法には大いに喝采を送りたい。漫画『 月下の棋士 』の氷室将介のように大きく振りかぶって駒を打ちつけてしまうような演出は一二三だけで十分だ。

 

瀬川の少年時代に少し時間を割きすぎとの印象も受けたが、松たか子演じる小学校の担任の言葉が瀬川にとっての心の拠り所でもあり、またある意味での呪いになってしまっていることを描き出すためには致し方なかったのだろう。実際に将棋指し=芸術家+研究家+勝負師なわけで、この勝負師という部分の弱さ=優しさが対局の相手を利することになってしまう場面がある。情けを知るトップのプロ棋士ならいざ知らず、奨励会の、しかも3段リーグという鬼の棲家では、この甘さは致命傷だ。実際に妻夫木聡演じる奨励会員が「ここでは友達を無くすような手を指さないと勝てない」とこぼすが、これは紛れもない事実だ。激辛流で名人位まで獲った男もいるのだ。そうした弱さを、非常に分かりやすい形で観客に伝えることは、将棋指しの世界の厳しさをそれだけ浮き彫りにしてくれる。元奨の監督ならではであろう。

 

なお、もしもまだ本作を未見で劇場鑑賞を考えている方がいれば、ぜひこちらのニコニコ動画を参照されたい。原作書籍『 泣き虫しょったんの奇跡 』以外に予習しておくべきものがあるとすれば、この動画である。1から5まであるが、ぜひ参照されたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、いくつかの弱点も存在する。現実世界に符合しないものが多々描写もしくは説明されるのだ。いくつか気になった点を挙げると、しょったんと親友が将棋道場に足繁く通う描写と説明だ。土日になると開店時間の11:00にすぐに入店したと言うが、瀬川が小学校高学年から中学生にかけての時代はまだ学校週休二日制は導入されていなかった。小学校でも5-6年生は3~4時間目までは授業があったはずで、土曜の11:00に入店は難しいのではないか。また1980年代初頭(‘80~’82)に、電車の駅にはアイスクリームの自販機は無かった。

 

他にも明らかに事実とは異なる描写が見られた。プロ編入試験がプロ相手に3勝と説明されたが、実際は奨励会員に女流棋士も試験官を務めたのだから、この説明はおかしい。一般人の監督であればリサーチ不足と切って捨てるだけだが、元奨の監督なのだから、ここは厳しく減点せざるを得ない。他にも、棋士や奨励会員が一手を指す時に、持ち駒を使う描写がやけに多い。素人のへぼ将棋ならまだしも、プロ一歩手前の実力たちの対局を描くにあたって、この辺は少し気になった。

 

また、瀬川のプロ編入試験の5局目で席主や元奨連中が一様に瀬川のニュースを知って驚くのだが、これも不自然極まりない演出だ。将棋の駒の動かし方すら知らない人間であればいざ知らず、瀬川のプロ編入試験は大々的に報じられていたし、一局ごとにテレビやネットで中継され、藤井聡太の連勝中ほどではないが社会現象化していたのだ。

 

最後に、日本将棋連盟執行部にプロ編入を嘆願する際のプロ側の態度。あれはどれほど事実に即しているのだろうか。当時の連盟会長の米長は、常に“行乞の精神”を説いていた。名人戦の移管問題でとんでもない騒動を引き起こしたが、逆に言えば話題作りに長けた男でもあった。名人位には特権的な意識を抱いていただろうが、プロ棋士という地位や肩書に胡坐をかいて、あれほどの特権意識をひけらかす男だっただろうか。このあたりに豊田監督の限界を見るように思う。元奨の残念さという点では、電王戦FINALで21手で投了した巨瀬亮一を思い出す。FINALはハチャメチャな手が飛び出しまくる闘いの連続で、特に第一局のコンピュータの水平線効果による王手ラッシュ、第二局のコンピュータによる角不成の読み抜け(というか、そもそも読めない)など、ファンの予想の斜め上を行く展開が続いた。特に第二局は、▲7六歩 △3四歩 ▲3三角不成 という手が指されていれば一体どうなっていたのか。

 

閑話休題。元奨の中には将棋界に憎悪を抱く者も少なくない。豊田監督は駒の持ち方、指し方に強いこだわりを示していたそうだが、心のどこかに将棋および将棋界へのネガティブな感情がなかっただろうか。監督が強くこだわるべきリアリティにこだわれなかったせいで、傑作になれたであろうポテンシャルを発揮できないままに本作は完成させられてしまった。そんな印象を受けた。

 

総評

ライトな将棋ファンには良いだろう。特に観る将ならより一層楽しめるだろう。将棋は何も指すだけが魅力ではなく、それを指す人間の面白さも大事なのだ。でなければ、誰が棋士の食事にまで関心を持つというのか。一方でディープでコアな将棋ファンの鑑賞に耐えられる作品かと言うと、そこは難しい。シネマチックにすることとドラマチックにすることは似て非なるもので、リアリティをそぎ落とすことでしか追求できない面白さもあるが、本作には当てはまらない。良い作品ではあるが、将棋ファンを唸らせる逸品ではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, イッセー尾形, ヒューマンドラマ, 伝記, 日本, 松田龍平, 渋川清彦, 監督:豊田利晃, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

バーバラと心の巨人 75点
2018年10月18日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:マディソン・ウルフ シドニー・ウェイド イモージェン・プーツ ゾーイ・サルダナ
監督:アナス・バルター

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原題は ”I Kill Giants” 、「私は巨人殺し」の意である。小林繁を連想してはいけない。西洋文明世界において、竜と並ぶ邪悪で強力な存在、それが巨人である。西洋世界では常識とされていることも東洋ではそうではない。逆もまた然り。生き物ではないところでは、指輪の魔力を描いた『 ロード・オブ・ザ・リング 』シリーズが好個の一例である。主人公のバーバラが闘おうとする巨人は何であるのか。邦題を読まずしても、巨人が象徴するものは何であるのかを考えさせられるが、その正体についても、また映画の技法としても、こちらの予想の上を行くものがあった。

 

あらすじ

バーバラ(マディソン・ウルフ)は小学5年生。いつか町に襲来する巨人に備えて、罠、毒、武器、そして秘密基地まで拵えている。ひょんなことから知り合う転校生のソフィア(シドニー・ウェイド)も、心理カウンセラーのモル(ゾーイ・サルダナ)も、バーバラが主張する巨人の存在を信じてくれない。家でもTVゲームに熱中する兄、残業多めの職場に勤める姉も、バーバラのやろうとしていることに理解を示してはくれない。しかし、バーバラだけは確信していた。いつか必ず巨人がやって来るのだ、と。

 

ポジティブ・サイド

マディソン・ウルフという新鋭との出会い、これだけでもう満足ができる。ジェイソン・トレンブレイ以上の才能かもしれない。もちろん、年齢も性別も、出演している作品のジャンルも違うが、主演を張ったマディソンには『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の主演・南沙良を見た時と同じような衝撃を受けた。くれぐれもハーレイ・ジョエル・オスメントのようにならないように、彼女のハンドラー達には慎重な舵取りをお願いしたい。バーバラという大人と子どもの中間、現実世界と空想世界の狭間を生きる存在にリアリティを与えるという非常に難しい仕事を、満点に近い形でやってのけたのだ。今後にも大いに期待できるが、トレンブレイが『 ザ・プレデター 』なる駄作に出演してしまったような間違いは見たくない。

 

本作では冒頭に、巨人という存在が何であるのかを絵本形式で教えてくれる。これは有りがたい。物語の背景を理解するには、その物語が生み出された地域や時代、文化の背景を知る必要がある。我々が巨人と聞いてイメージするものは、他の文化圏の人々がイメージするものと必ずしも一致しないからだ。J・P・ホーガンの傑作SF小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『巨人たちの星』(ついでに『 内なる宇宙 』も。”Mission to Minerva”はいつ翻訳、刊行されるのだ?)を読んで、「巨人とは心優しい、素晴らしい頭脳の持ち主なのだな」と思うのは正しい。しかし、それは必ずしも西洋世界の一般的な巨人像とは合致しない。映画を観る人に、巨人とはこういう存在ですよと知らせることは、存外に大切なことなのである。

 

その巨人を殺すために、バーバラが学校や森、海岸に張り巡らせるトラップの数々、自作のアイテム、それらの有効性を検証したノートなどが、バーバラというキャラクターと巨人の実在性にリアリティを付与する。同時に、我々はこのいたいけな少女の奇行の数々に戦慄させられる。その発言のあまりの荒唐無稽さに困惑させられる。少女の抱える心の闇の濃さと深さは、それだけ目を逸らしたくなる現実が存在することの証左でもある。余談であるが、バーバラのトラウマと全く同質のものを『 ペンギン・ハイウェイ 』のとあるキャラが劇中で示した。幼年期から思春期にかけて、このような想念に取り憑かれたことのない者は少ないだろう。あるいは『 火垂るの墓 』の節子をバーバラに重ね合わせて見てもいいのかもしれない。最後の最後のシーンは『 グーニーズ 』のマイキーを思い起こさせてくれた。まさしくビルドゥングスロマン。

 

ネガティブ・サイド

まず配給会社に言いたいのは、ハリー・ポッターと殊更に絡めようとしなくてもよいのだ、ということだ。もちろん、実績のある会社、スタッフが製作に加わっていることをPR材料にすることは悪いことでも何でもない。むしろ当然のことと言える。しかし、それが misleading なものであってはいけない。本作はファンタジー映画ではなく、ヒューマンドラマ、ビルドゥングスロマン=成長物語なのだから。

 

邦題は、ほとんど常に批判に晒される。近年でも『 ドリーム 』が「 ドリーム 私たちのアポロ計画 」なるアホ過ぎる邦題を奉られるところだったが、本作も下手をすると猛烈な批判に晒されてもおかしくない。“心の巨人”としてしまうこと、巨人はバーバラの心が生み出す幻影であることが明示されてしまうからだ。だが、それは同時にハリー・ポッターの製作者が今作に関わっているというPRと矛盾しかねない。一方では巨人は現実であると言いながら、もう一方では「この映画はファンタジーですよ」と言っているようなものなのだから。日本の配給会社はもう少し、思慮と配慮を以って邦題を考えるべきだ。

 

ひとつストーリー上の弱点を上げるなら、モル先生の活躍が少ないことだろうか。GOGのガモーラというキャラクターの皮を脱ぎ去り、母性溢れる魅力的な女性を演じていたが、それをもう少し前面に押し出してくれた方が、バーバラの苦境と苦闘がより際立ったかもしれない。

 

総評

誰しもが抱えてもおかしくな心の闇を見事に視覚化した作品である。小学校の低学年でもストーリーは理解できるだろうし、高校生あたりが最も楽しめる作品でもある。親子で観るのにも適しているし、ぜひそのように観て欲しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イモージェン・プーツ, シドニー・ウェイド, ゾーイ・サルダナ, ヒューマンドラマ, ファンタジー, マディソン・ウルフ, 監督:アナス・バルター, 配給会社:REGENTS, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

負け犬の美学 50点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:マチュー・カソビッツ
監督:サミュエル・ジュイ

 

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勝ち組、負け組・・・ いつの頃からか、一億総中流だった日本も、経済的に裕福な家庭・世帯とそうではない家庭・世帯に二極分化が始まった。そうした中、可分所得の多くを自分の趣味に費やす者に、オタクの蔑称もしくは別称がつけられた。そして時は流れ、今では多くの人間が自分の趣味に生きることに充実感を見出している。好きなことをして生きる。それは幸せなことだ。しかし仙人ならぬ我々は霞を食っては生きられない。金を稼ぎ、食い物を喰い、わが子を育てなければならない。これはボクシング映画ではなく、泥臭く生きるオッサンとその家族の物語なのである。

 

あらすじ

スティーブ・ランドリー(マチュー・カソビッツ)はしがない中年プロボクサー。戦績は見るも無残な49戦13勝3引き分け33敗。45歳という年齢を考えれば、普通のボクサーならとうの昔に引退しているか、引退勧告を受け入れざるを得ないところだ。愛する妻と子どもには、50戦したら引退すると約束している。ある日、ひょんなことから欧州王者を目指すボクサー陣営がスパーリング・パートナーを探していることを知ったスティーブは、食いぶちのためと必死に自分を売り込み、見事にその仕事をゲットする。しかし、年齢や緊張から体が動かず、一日で解雇宣告。それでもしがみつくスティーブ。家族のために、自分のために、スティーブのキャリア最後の大勝負が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、マチュー・カソビッツが相当にボクシングのトレーニングを積んできたことが分かるし、監督が切り取ってくる画にリアリティを感じた。そこは評価せねばなるまい。冒頭の試合後のスティーブが、トイレで血尿を流すシーンがあるが、これなどは実際にボクサーに取材をしなければ出てこない画だろう。中には血尿など出したことがないというボクサーもたまにいるのだが(日本ではキャリア最盛期までの長谷川穂積など)。

 

そして元プロボクサーのソレイマヌ・ムバイエの起用。本人は実はカソビッツとそれほど年齢は変わらないが、減量無しで数分間のスパーなら、まだまだキレのある動きができるのだということを、これでもかと見せつける。日本で現役・引退を問わずにドラマや映画に出演したというと、『 乙女のパンチ 』で若き蟹江敬三役を(一瞬だけ演じた)河野公平がまず思い浮かぶ。清水智信も何かにちらっと出ていたような・・・ それでも日本のボクサーが、ドラマや映画、何なら舞台でもいい、でボクシング技術を披露することはあまりなかったし、今後もなさそうだ。これは不幸なことであると思う。一時期、内藤大助がバラエティで島田紳助らを相手にマスボクシング(もどき)や本格的(っぽい)スパーをしていたが、ボクシングおよぼボクサーをそういう風に扱うのは止めてもらいたい。

 

閑話休題。ボクシング映画と言えば何を措いてもやはり『ロッキー』シリーズだが、2や3あたりでは、明らかに当たっていないパンチでスタローンがのけぞるなどのショットが散見された。本作にはそれはない。そこは安心して観ていられる。また、ロッキーとエイドリアンのちょっとしたデートがたまらなくロマンティックに思えたの同様に、スティーブとその妻との間にも、実にほんわかとした夫婦ならではなショットがある。具体的に言うと、妻がスティーブの顔を手当てしている最中に、自分の尻を触らせるのだ。これは、同じくフランス映画の『 ロング・エンゲージメント 』でベッドで眠るマチルドがマネクに胸を触らせた瞬間と、画的にも意味的に相通じるものがある。

 

また、スティーブをただのボクシング馬鹿にしてしないところも良い。彼は何よりも父親で、才能ある娘のためにもピアノ代を稼がねばならない。そのためには何だってやるしかない。娘にはパリの学校に行かせたいのだとショー・ウィンドー前で決意する姿は、『 リトル・ダンサー 』におけるビリー・エリオットの父親を彷彿させた。この映画はボクシング映画ではなく、父親映画、中年オヤジの奮闘記なのだ。ボクシング映画はちょっと・・・という向きにも、そうした意味ではお勧め可能である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、いくつかの欠点、弱点も存在する。最も大きなものは2つ。一つはスティーブがロッカールームで着替える時に、ファウルカップを装着しなかったこと。下着の上から装着して、そのままボクシング・トランクスを履く場合と、スパーリング限定だが、トランクスの上からそのままつけるファウルカップというのもある。そのいずれもスティーブはつけずにスパーに臨む。考えられないボーンヘッドだ。製作者は誰も気がつかなかったのだろうか。最初に観ていた時は、パンチドランカーになって認知症的な症状を呈し始めているのか?と疑ってしまったほどだ。映画の面白さを支えるのは何よりもリアリティなのだ。血尿シーンをさりげなく挿入できる監督にしてこのミスは痛い。

 

もう一つは、スティーブがスーパーで野菜や果物を買う場面。あろうことか重さを誤魔化すのだ。もちろん、そういうせこい真似をする人間は、洋の東西を問わずどこにでも存在する。しかし、誰よりもウェイトに気を使うべきボクサーという人種を描写するに際して、これだけはやってはいけない。一時期、世界トップのボクシングシーンでは、キャッチウェイトなる興行優先主義の体重設定が人気カードで多く採用され物議をかもした。最近ではキャッチウェイトでの試合というのは、ほぼ耳にしなくなったし、目にも入ってこない。良いことである。ボクシング関係者がいかにウェイトに重きを置くかは、今春に行われた山中慎介 vs ルイス・ネリの再戦で知ったという人も多いのではなかろうか。個人的には、ネリは縛り首にすべきとすら感じたし、試合も断行すべきではなかったと感じている。それは同じく今春の比嘉大吾のウェイとオーバーにも当てはまる。これはハンドラーの具志堅が悪いのだが、とにかく体重、ウェイトに対して真摯で誠実であるべきボクサーが、野菜や果物を重量を誤魔化すというのは、個人的にどうしても受け入れられなかった。スティーブがダメボクサーであることは、煙草を吸う描写で十分だろう。

 

他にも、ムバイエやスティーブがスーパー・ミドル級というのは、少し無理があるのではないか。ムバイエは現役時にスーパー・ライト級で、両階級では12 kg以上のウェイトの開きが存在する。スーパー・ミドル連中の walk-around weight は80キロ台後半だ。スティーブをこの階級に持ってくるのは、画的にも現実的にも無理があった。ハードコアなボクシングファンには、片目をつぶって観るように、というアドバイスを送るしかない。

 

総評

小学校高学年ぐらいの子どもなら話の趣旨は理解できるだろうし、日本でもスティーブに共感する中年オヤジは数多くいることは間違いない。デート・ムービーには向かないが、ある程度以上の年齢の娘や息子がいる父親は、家族の団らんに本作を利用するのも一つの手かもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, フランス, マチュー・カソビッツ, 監督:サミュエル・ジュイ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

Posted on 2018年10月11日2019年8月24日 by cool-jupiter

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 50点
2018年10月9日 レンタルDVD鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン
監督:パブロ・ラライン

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これは観る人を相当に選ぶ映画である。JFK関連の作品というのは、ある意味でオリバー・ストーン監督の『 JFK 』で完成してしまっているわけで、これを超えるには2028年から暫時に公開される膨大な量の資料を基にした作品が作られるまで待たねばならないだろう。しかし、それもあと10年の辛抱と思うべきなのか、まだ10年も辛抱しなければならないのかと思うべきなのか。

 

あらすじ

1963年11月22日のJFKの暗殺からの4日間を、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの視点から独自に描く。非業の死を遂げたケネディの喪に服すに際して、名家であるケネディ家の意向や、大統領警護のシークレット・サービス、ホワイトハウス関連のお歴々、リンドン・B・ジョンソン大統領らの思惑を超えたところで、JFKの死を悼み、悲しみ、国民にその死の衝撃の大きさを物語ることで、逆に彼の生の大きさ、深さ、豊かさを印象付けることに成功した、稀代のファーストレディ。その地位を徐々に喪失していくさまが、自身のアイデンティティ喪失に重なる。だからこそ、夫の死を誰よりも効果的に演出しようと抗う夫人の姿を描く、ユニークな作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、主演のナタリー・ポートマンの演技力が光る。1960年代の口調を自分の物として吸収し、使いこなしている。なおかつ、記者に語る時の口調とホワイトハウスで語る口調が明らかに異なるのだ。これは脚本や演出の妙とも言えるが、翻訳・字幕のレベルで再現するのは難しい。なお、吹き替えがどうなっているのかは未鑑賞ゆえ評価を措きたい。これは、たとえば前アメリカ大統領のバラック・オバマが大統領職に立候補した時から大統領就任中まで一貫して、スピーチのレジスター(言語の使用域)を巧みに変えていたことに通じる。例えばオバマは、アメリカ南部の労働者階級が多い地域で演説する際には、”We’re gonna ~” と言い、逆にアメリカ北部の都市地域での演説では、”We are going to ~” と言っていた。作中のジャッキーもこれと同じで、実際の本人もおそらくファーストレディとして口調や立ち居振る舞いは、ジャクリーン一個人のものとは違っていたはずだ。こうした些細かもしれない違いを、ノン・ネイティブであるナタリーがしっかりと把握し、演じていたことは大きなプラス評価につながる。

 

また、ジャッキーが美術品を蒐集していた理由も非常に興味深い。なぜなら、『ゲティ家の身代金』におけるジャン・ポール・ゲティと全く同じ哲学、芸術観を彼女が有していたことが明らかになるからだ。この彼女の直観と、それに基づく卓越した実行力は確かにJFKの名を不滅にした。アメリカ人は、ちょっと教養ある階級であれば歴代の大統領の名前をだいたいは暗唱できるらしい。だが日本に住む我々はどうであろうか?伊藤博文の名前はパッと出てきても、例えば第二次世界大戦への参戦時の総理は東条英機であるとパッと言える人は多いだろうが、敗戦時の総理大臣の名前が出てくるだろうか?そんな歴史に疎い日本人でも、アメリカ史において暗殺された大統領は?と尋ねれば、秒でリンカーンとケネディの名前を出すであろう。もちろん、暗殺というインパクトは要因としては大きい。それでも、世界の歴史において暗殺された人は?と問いの範囲を広げてみても、人々が真っ先に挙げるであろう名前はJFKであると予想される。直近のインパクトとしては、北朝鮮の金正男の方が圧倒的に記憶に残っているはずだが、それでもJFKだろう。その最大の要因をジャッキー夫人に求めることはさほど難くない。そのことを確認することができるのが本作の功績である。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、マイナス点も目立つ。それは、アメリカ史に興味のない人は、ほぼ惹きつけられないだろうということだ。また、アメリカ史に興味のある人は、ある意味でもっと惹きつけないかもしれない。JFK暗殺の真相の一端、もしくは新解釈でも見せてくれるのかと期待してしまうとガッカリすること請け合いである。Jovian自身がまさにそうだった。この分野に関心を持つ人は、トランプ現大統領が検討中の1960年代当時の捜査資料の一般公開の前倒しと共に期待しようではないか。

 

本作の弱点としてもう一つ述べておかねばならないのは、ファーストレディとしてのジャッキーと一人の女性としてのジャッキーの境目が非常に曖昧模糊としている、ということである。もちろん、ファーストレディとしての人格と、その人の人格は別物であるべきだが、某島国のファーストレディが用いた(と疑われている)奇妙な政治力学を目の当たりにした我々からすると、少し釈然としないものが残るのも事実である。これはあくまで実話をベースにしたセミドキュメンタリー風の娯楽映画であるのだから、第一婦人のアッキー、ではなくジャッキーと一個人としてのアッキー、じゃなかったジャッキーを、混然とした形で描く必要はなかったのではないかと思うのである。もちろん、アイデンティティ・クライシスが大きなテーマになっているのだから、そうした内面のせめぎ合いを外面の演技に反映させることは大事だが、そこをもう少し見る者に分かりやすい形に dumb down / water down させることはできなかったか。いや、演技レベルを下げろというわけではないのだが・・・

 

総評

冒頭に評したように、見る者を選ぶ映画である。アクションもなく、サスペンスもない。しかし、響く人には響く映画であろう。内面の悲しみを強さに転化させ、健気に気丈に振る舞う女性の姿から何某かを受け取れる感性があれば、レンタルして来ても損はないだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, チリ, ナタリー・ポートマン, ヒューマンドラマ, フランス, 歴史, 監督:パブロ・ラライン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

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