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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: スリラー

『 ザ・ミスト 』 -フランス産パニック・ムービーの珍作-

Posted on 2019年5月19日2020年2月8日 by cool-jupiter

ザ・ミスト 40点
2019年5月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ロマン・デュリス オルガ・キュリレンコ
監督:ダニエル・ロビィ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190519103838j:plain
TSUTAYAは時々、TSUTAYAだけでしかレンタルできません!的な作品を出してくる。本作もその一つ。大体において、この手の商品はただの製品であって作品ではないことが多い。が、Sometimes, I am in the mood for garbage. 駄作と分かっていて観るのも、亦悦しからずや。

 

あらすじ

マチュー(ロマン・デュリス)とアナ(オルガ・キュリレンコ)には、免疫疾患のため、金魚鉢的なコンテナに隔離された娘がいた。ある時、パリが地震に見舞われ、地下から謎の霧が噴出。それを吸った人々は倒れていく。娘は無事だが、機械のバッテリーがもたない。愛娘を助けるべく、マチューとアナは霧と対峙するが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ゲティ家の身代金 』のチンクアンタを熱演したロマン・デュリスが本作でも額に汗して、子どもを守ろうとする。火事場の馬鹿力ならぬ霧場の馬鹿力で、一般人では少々無理目なアクションを易々とこなしていく・・・というような安易な展開を見せないところが良かった。リミッターが外れれば、ひょっとしたらこれぐらいなら出来るかもしれないと思わせてくれた。

 

また、金魚鉢に閉じ込められた娘が同病相哀れむように同じ疾患を抱える他の者と通信していることに意味があることも評価できる。単なるパニック・ムービー、もしくはディザスター・ムービーの場合、多くの場合は自然 vs 文明、地球 vs 人間 といったような単純、単調なテーマがモチーフになっている。謎の霧の正体は何か?いつ、どこで、どのように発生したのか?そんなことは追及しない。このあたりがハリウッド映画とフランス映画の違いなのだろう。小説にしろ、映画にしろ、人間関係を広げ過ぎず、なおかつそこにエスプリを織り交ぜてくるのがフランス流で、フランス料理のフルコースとフランス産の映画、小説は全く趣が異なる。アメリカ映画で胃もたれをおこした時には、フランス映画で中和するのも一つの手かもしれない。

 

ネガティブ・サイド

パニック・ムービー、スリラー映画とはいえ、キャラクター達の行動原理がよく分からない。いや、子どものために必死になっているということは分かる。しかし、合理的とはとても言えない行動の数々を選択するのは何故なのか。単にサスペンスフルなシーンを演出したいがためにしか見えなかった。娘のための防護服が破損していても代用品はある。例えば、『 MEG ザ・モンスター 』でも一瞬映っていたアクアボールなどは、いくらパリが海から遠いとはいえ、冷静に考えればどこかしらで調達はできるアイテムだ。変に街をかけずり回るよりも、知識と知恵をフルに活用するような展開をもっと織り交ぜられたはずだ。

 

母親の行動も、美しいと見る向きもあれば、???となる向きも多かろう。Jovianは後者である。必要なのは電池であって伝者ではない。これも無用なドラマを無理やり仕立てるというプロットありきで、人間を描くことには失敗していたように思う。

 

字幕で父親が軍隊に、「自己免疫疾患の娘がいる」と言っていたが、これは誤訳ではないだろうか。自己免疫疾患は自分の免疫系が、細菌やウィルスではなく、自分の細胞を排除の対象として攻撃してしまう疾患だからだ。もちろん、隔離に意味が無いとは言わないが、それなら娘に必要なのは免疫抑制剤なのでは?と思えてしまった。フランス語に堪能な方がおられれば、是非お確かめ頂きたい。ただし、名作傑作と言える類の映画でないことだけはご承知いただきたい。

 

総評

それなりに捻りの効いたオチもあるが、それもオリジナルというわけではない。これなら、小松左京の小説およびその映像化作品の『 首都消失 』(YouTubeで視聴可能)を鑑賞し、返す刀でハヤカワSF文庫の『 アトムの子ら 』を読んだ方が面白いだろう。あれ、微妙にネタばれしてしまったかな?どちらも相当に古い作品なので、お目こぼしいただきたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, オルガ・キュリレンコ, カナダ, スリラー, フランス, ロマン・デュリス, 監督:ダニエル・ロビィ, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズLeave a Comment on 『 ザ・ミスト 』 -フランス産パニック・ムービーの珍作-

『 映画 賭ケグルイ 』 -続編ありきの序章-

Posted on 2019年5月4日 by cool-jupiter

映画 賭ケグルイ55点
2019年5月3日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:浜辺美波 高杉真宙 池田エライザ
監督:英勉

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190504004514j:plain

元は漫画、そしてテレビドラマ化された作品が満を持して銀幕に登場。これが意味するところは、よほど原作およびドラマが面白いということか。Jovianが南沙良と並んで最も買っている若手女優の浜辺美波が主演とあらば、観ないという選択肢は存在しない。

 

あらすじ

 

舞台はギャンブルの強さで学園内の序列が決まる百花王学園。そこに転校してきた蛇喰夢子(浜辺美波)は、学園の頂点に君臨する生徒会長、桃喰綺羅莉(池田エライザ)とのギャンブル勝負を渇望していた。しかし、学園にはギャンブルを拒絶する集団「ヴィレッジ」も台頭しつつあった。夢子とヴィレッジ、両方を一挙に叩き潰そうと画策する生徒会は、「生徒代表指名選挙」を開催する。夢子は鈴井涼太(高杉真宙)を相棒に参戦するが・・・

 

ポジティブ・サイド

前向きなヒロイン像から少女漫画の定型を外れるヒロイン像、それらの加えてギャンブルにエクスタシーを感じるヒロイン像を浜辺美波は開拓した。これはファンとして大いに歓迎したい。天然で、それでいてシニカルで、ユーモラスでもあり、賢しらさを隠さない狡猾さを、その口調や佇まいで悟らせない。そんな複雑なキャラをしっかりと演じた浜辺をまずは称えようではないか。

 

歩火樹絵里を演じた福原遥の演技力にも舌を巻いた。彼女はテレビや映画よりも、舞台上で演じる方が映えるのではないか。カリスマ性すら感じさせる演技で、今後も多方面での活躍を期待できるだろう。今作のような世界観の作品やキャラクターばかりを演じると、藤原竜也のように chew up the scene の役者になってしまう恐れがあるので、彼女のハンドラー達には注意をしてもらいたいものである。ちなみにJovianは藤原竜也を高く買っていることをを申し添えておく。

 

その他には小野寺晃良、中村ゆりか、秋田汐梨らも印象に残った。この世代の若手俳優は、一頃のサッカー日本代表とは異なり、人材難ではなさそうだと思えた。それが一番の収穫だったと言えるかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

個人的な嗜好の問題も多分にあるのだろうが、先行作品の世界観の構築の点で『 カイジ 人生逆転ゲーム 』に劣り、勝負の駆け引きや頭脳性の描き方において『 ライアーゲーム ザ・ファイナルステージ 』に劣る。ライアーゲームやカイジは原作を読んでいて、こちらに関しては原作漫画、テレビドラマ、いずれも鑑賞していないので、このあたりの評価に偏りが生じているのは承知している。

 

浜辺美波は良い仕事をしたが、クライマックスのシーンを販促物に載せる必要は一切ない。究極のドヤ顔を、上映前に見せまくってどうする。それをするのであれば、プロローグの夢子の紹介シーン全てで賭け狂っている時の必殺の顔として観る側に認知させておくべきだった。こういうのは出し惜しみしておくべきだと切に思う。

 

肝心のギャンブルについても突っ込みどころが満載である。票争奪じゃんけん勝負を先手必勝とあるキャラクターコンビは結論付けたが、これはおかしい。普通に考えれば、1/3の確率で敗北する勝負に先手必勝などあり得ない。まずは自分の手札を秘密にし、素早く勝負が発生する場に行き、誰がどの手を有しているかを観察しなければならない。1/3の確率であいこが発生するのだから、その勝負を見届けてから動く方が合理的だ。というか、自分から真っ先に手札をばらしに行くというのは、どうなのだろうか。誰か他の者に獲物をさらわれるのがオチだと思うのだが。

 

トランプの1~7+ジョーカーを使うデュアルクラッシュ・ポーカーにも突っ込みたい。これも普通に考えれば、チームで相談し、第1ターンは2人そろって最弱の1を出して、相手チームの手札を削りにかかるのではないだろうか。というか、チームで相談することなく、つまりバッティングをいつ起こすのか、もしくは起こさないようにするのかを相談しないなどということは、ゲームの性質上、ありえないし、考えられない。このあたりが本作がライアーゲームに及ばないと感じる一番の理由である。

 

森川葵の生脚は眼福であるが、池田エライザは何故、生脚ではないのか。そして、ああいう座り方をする以上は『 氷の微笑 』の審問シーン的なサービスショットを盛り込んでくれても良いではないか。オッサン映画ファン100人に訊けば100人が賛同してくれるだろう。

 

全体的には、賭けに狂っている高校生達というよりは、ゲームを楽しんでいる若者達という印象の方が強い。そこがディレクションの一番の問題点であろう。

 

総評

浜辺の新たな一面を切り拓いた作品と言えるが、その他のキャストに関してはどうだろうか。以前にも評したが、英勉監督は『 貞子3D 』および『 貞子3D2 』という超絶クソ作品を世に送り出した。一方で、『 あさひなぐ 』のような佳作を作る力もある。今作では若手俳優たちの演技力に救われた感があるが、監督としてはかなり伸び悩んでいるのかもしれない。劇場に行く際には、ドラマもしくは漫画である程度の予習が必要かもしれない。また、続編政策にかなり色気を見せたエンドクレジットを作っているが、その時には英監督以外を起用することも選択肢に入れるべきであろう。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, スリラー, 日本, 池田エライザ, 浜辺美波, 監督:英勉, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 映画 賭ケグルイ 』 -続編ありきの序章-

『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

Posted on 2018年12月4日2019年11月23日 by cool-jupiter

リピーテッド 50点
2018年11月28日 レンタルDVD鑑賞
出演:ニコール・キッドマン コリン・ファース マーク・ストロング
監督:ローワン・ジョフィ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181204033832j:plain

少ない登場人物でサスペンスを生み出すのがフランス流だが、本作はイギリス・フランス・スウェーデンの合作とのこと。納得の仕上がりである。カトリーヌ・アルレーが現代によみがえったら、きっとこんな小説を書くのだろう。

あらすじ

クリスティーン(ニコール・キッドマン)が目を覚ますと、ベッドには見知らぬ男が。彼(コリン・ファース)はベンと名乗り、自分は夫であると言う。クリスティーンは事故により、一日しか記憶を保持できないのだ。一方、ナッシュ医師(マーク・ストロング)からの電話でビデオカメラの録画を観るように促された彼女は、過去の自分からの語りかけに次第に混乱させられていく。信じるべきはベンなのか、それともナッシュなのか・・・

 

ポジティブ・サイド

まずキャスティングだけで本作は一定の成功を収めている。早い話が、ベンとナッシュ、どちらが怪しいのだ、というのがクリスティーンの疑惑であり、観る者の関心である。英国の誇るコリン・ファースが果たして悪役なのか、それとも強面でありながら、結構良い人ばかりを演じるマーク・ストロングが悪役なのか。物語が始まって、すぐに我々は引き込まれる。

 

物語は二転三転し、ある日はナッシュを疑ったかと思えば、次の日にはベンを疑う。クリスティーンが一日の終わりに撮り溜めていくビデオはどんどんと積み重なっていく。それがある閾値に達しつつある時、クリスティーンの記憶の鍵も外れ始める。この演出は陳腐ながら見事である。記憶喪失ものは往々にして、完璧なタイミングで完璧な記憶を取り戻すからだ。ご都合主義の極みである。本作は安易なご都合主義は取らないし、人間の記憶の確かさと曖昧さの両方を、非常に説得力ある方法で描き出す。その点で凡百の記憶喪失ものとは一線を画している。

 

ネガティブ・サイド

いくつか不可解というか、設定が生かされない点もあった。クリスティーンは毎朝20代に戻るわけだが、そのことを強く示唆するようなシーンが必要だった。それが無いために、終盤で真実の一端が明かされるシーンの迫力が減じてしまっていた。また、二人の男性以外に出てくる重要人物のもたらす情報が、クリスティーンの記憶を刺激しないというのは、やや腑に落ちなかった。

 

記憶喪失とタイムトラベルもしくはタイム・パラドクスは、序盤の面白さを生み出すことにおいては数あるジャンルの中でもトップクラスであろう。それは間違いない。問題は着地なのだ。サスペンスフルな展開でせっかくここまで引っ張ったのだから、最後までそのトーンを維持して欲しかった。ファイトシーンなどは無用であった。

 

総評

名作かと言われれば否だが、駄作と言うほどでもない。雨の日のレンタルにちょうど良いだろうか。ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロングのファンなら、押さえておいて損は無いだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, イギリス, コリン・ファース, サスペンス, スウェーデン, スリラー, ニコール・キッドマン, フランス, マーク・ストロング, ミステリ, 監督:ローワン・ジョフィ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

Posted on 2018年11月23日2019年11月23日 by cool-jupiter

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 75点
2018年11月18日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ルーニー・マーラ
監督:デビッド・ロウリー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181123010828j:plain

どんな文化にも、太陽と月に関する神話、そして幽霊に関する物語が存在するものである。そして太陽、月、幽霊の中で最も多彩に解釈されるのは幽霊ではないだろうか。小説や映画の世界では、幽霊は往々にして悲哀または恐怖をもたらすものとして描かれてきた。本作はそこを転換させ、幽霊のパトス、そこから生まれるエートスを描く。視点が人間→幽霊ではなく、幽霊→人間なのである。これは全く新しい視点からの物語であると言える。

 

あらすじ

ある若い夫婦が郊外の一軒家に暮らしていた。誰もいないはずのところで物が落ちたりするなどの不可解なこともあるが、二人は平和に暮らしていた。ある時、夫が死んでしまった。悲嘆に暮れる妻。しかし、夫は遺体安置所のベッドからシーツをかぶった姿のまま起き上がり、歩いて妻の待つ家へと帰る。幽霊となった男の不思議な旅が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

本作のプロットについて説明するのは非常に難しい。ほんのちょっとしたことが重大なネタばれになりかねないからである。幽霊となった男が、妻を見守る話・・・というわけではない。それは話の一側面であって、テーマではない。ある意味で、映画製作者は観る者をかなりの程度まで信用しているとも言える。何と言っても『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』でアカデミー主演男優賞を受賞したケイシー・アフレックに、真っ白のシーツをかぶせて、目と鼻の部分にだけ穴を開けた幽霊を演じさせるのである。『 るろうに剣心 京都大火編 』と『 るろうに剣心 伝説の最期編 』で藤原竜也が顔面に包帯をぐるぐる巻きにした際の演技も素晴らしかった。顔が一切見えないというのは、表現をする上で翼を半分もがれたようなものだが、あれにはまだ音声とアクションという片翼が残されていた。本作のケイシー・アフレックは、全身を白いシーツで覆う、小さな子どもが考え付いたようなゴースト像でほぼ全編を通して登場する。台詞もない。過激なアクションもない。それでいて幽霊の感じる執着、困惑、怒りなどのパトスを見事なまでに我々に伝えてくる。歩き方であったり、振り返り方であったり、ほんのちょっとした指先の動きであったりで、これほどまでに内面の心理を描き出せるものなのかと驚嘆させられる。この幽霊の動きや仕草は、大学の映画サークルや同好会のシリアスなメンバー(特に役者志望や劇団員)は必見であろう。

 

今作はできれば英語字幕で鑑賞することをお勧めしたい。というのも、ある時点では言語が英語ではなくスペイン語に切り替わるからだ。といっても字幕などは一切出ない。スペイン語が分からない人には、画面上で何が起こっているのかを把握するのが全くもってお手上げ・・・とはならないのである。ビジュアルストーリーテリングの極致とも言うべきで、幽霊とスペイン語ファミリーの存在のコントラストが、何よりも雄弁に一連のシーンを語ってくれるのである。このシーンもまた、映画製作を志す者にとっては必見であろう。

 

本作はここから、予想外の展開を見せる。というよりも観る側の想像力を裏切る、または試すかのような展開と言うべきかもしれない。ここで幽霊の生前の職業を思い起こすべきだろう。彼は音楽家だったのだ。作曲し、歌い、レコーディングもする、コンポーザーにしてシンガーにしてオーディオ・エンジニアでもあったわけだ。音楽が瞬間ではなく全体で成り立っていることは、アンリ・ベルクソンの時間=意識の持続という説を援用せずとも理解できる。時間は直線でも等間隔でもない。メロディがありリフレインがあるのだ。これ以上は、劇場で本作を鑑賞して考察をしていただきたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

パーティーで酔ってべらべらと喋る男は果たして必要だったのだろうか。あまりにも説明的で、観ている最中は「ほうほう、なるほど」と思えたが、観終わってしばらくしてからは印象が変わった。このシーンはノイズである。

 

もうひとつ弱点を挙げるとするなら、序盤の妻の食事シーンだろうか、おそらく4分ほど固定カメラでロングのワンカットを映すシーンがあるが、ここは2分程度に抑えられなかったのだろうか。典型的な悲嘆のシーンで、物語の進行上ではずせないことは理解できるが、Jovianの嫁さんや左隣の人などは、ここで寝てしまっていた。惜しいかな、序盤でもっと多くの人を引き付けることさえできていればと思う。

 

総評

細部に突っ込むべきところや、説明されないままの箇所も残る。そうしたモヤモヤを許容できなければ、観るべきではないのだろう。しかし、この幽霊を通じて世界を追体験すれば、「生」の意味に新たな発見があるであろう。死および死以後に関しての新たな仮説が提示されたわけで、文学ではなく映画がこれを行ってくれたことに意義を認めたい。非常に野心的な傑作映画である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ケイシー・アフレック, スリラー, ルーニー・マーラ, 監督:デビッド・ロウリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

Posted on 2018年11月18日2019年11月22日 by cool-jupiter

プラネタリウム 30点
2018年11月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン リリー=ローズ・デップ エマニュエル・サランジェ
監督:レベッカ・ズロトブスキ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181118020552j:plain

降霊術の歴史は長い。科学の発達と共に霊の領域はどんどんと狭められていっているが、日本でも30歳以上の年齢なら、こっくりさんについて聞いたことがあるはずだし、実際にやってみた人もいるだろう。霊とは、それが無くなった肉親の霊であろうと、見も知らぬ他人の霊であろうと、常に好奇の対象である。しかし、霊とは同時に現世から疎外された者でもある。そして、疎外は生者と死者を分けるだけではなく、生者と生者の間でも起きる事象である。

 

あらすじ

ローラ(ナタリー・ポートマン)とケイト(リリー=ローズ・デップ)のアメリカ人姉妹は、パリで死者を呼び寄せる降霊術を行い、日銭を得ていた。ある時、映画会社役員のコルベン(エマニュエル・サランジェ)は二人の降霊術に感銘を受け、自分でもそれを体験したいと言いだした。二人の呼ぶ霊との交流に感激したコルベンは、姉妹の力を使って映画を撮影しようと考える。時あたかも第二次大戦前夜。異邦人にとっては忍従の時代だった・・・

 

ポジティブ・サイド

ナタリー・ポートマンの美貌とリリー=ローズ・デップの爛熳さについてはくどくどとのべつ必要性は無い。Their blossoming beauty and innocence speak for themselves. である。それ以上にエマニュエル・サランジェの存在感が際立つ。目は口ほどにものを言うというのは往々にして事実(Maybe your smile can lie, but your eyes would give you away in a second.)であるが、それを演技で表現できる役者は存外に少ないのではないか。サランジェはそれができる俳優だ。パリジャン然とした伊達男ばかりがフランスの俳優ではないということを見せつける様は、清々しくもある。本作を観る人の半分以上はナタリー・ポートマンの熱心なファンであろうが、こうした未知のタレントとの出会いがあれば、それだけで20点増しである。

 

ネガティブ・サイド

あまりにもストーリーに起伏がない。いや、姉妹の協力と成功、そこからの失敗と破局的な結末と上がり下がりはするのだが、それがあまりにも典型的というか、妹を霊媒師に設定する意味は特になかった。というか、科学の力で霊の存在を証明するというプロットは、現代人たる我々の目から見て、意義あるものではない。なぜなら科学の発展は世界の神秘の数々を解き明かしていくほどに、科学で説明できないものはストレートにそのまま信じるべし、という信念の持ち主も増加しつつあるからだ。そこまで極端な考えをしないまでも、天文学者や物理学者には無神論はほとんどいないと言われている。1930年代を舞台にすることで、科学的に霊を証明しようとする試みが逆に陳腐化してしまった感は否めない。

 

また、ビジネスの世界を描く必要もあったのだろうか。リュミエール兄弟が産み育てたフランスを舞台にするのだから、あくまで映画という文化・芸術・科学という媒体で姉妹の力と秘密に迫っていくようなプロットで良かった。ただでさえ戦争勃発前の陰鬱な時代に金勘定やら役員の追放やらを見ても感動も興奮もしない。ただ溜息が出るだけである。

 

本作は establishing shot の段階で結末が見えているとも言える。タイトルがプラネタリウムなのだから、汽車が疾走する平原の頭上に広がる無窮の星空がプラネタリウムであることが何を暗示、いや明示するのかを観る者はあまりにもあっさりと悟ってしまう。映画の基本的な文法、技法に則ったものとは言えるが、それが面白さを増すことに資するのかというと甚だ疑問であった。

 

総評

なにやら軸の定まらない映画である。その場に属すことのできないアウトサイダーの悲哀を描き出したいのは分かるが、様々な要素を盛り込もうと欲張ったせいで、何もかもが中途半端になってしまった残念な作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, エマニュエル・サランジェ, スリラー, ナタリー・ポートマン, フランス, ベルギー, ミステリ, リリー=ローズ・デップ, 監督:レベッカ・ズロトブスキ, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』 -ハリウッドへの痛烈な皮肉映画-

Posted on 2018年10月21日2019年11月3日 by cool-jupiter

アンダー・ザ・シルバーレイク 65点
2018年10月21日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド
監督:デビッド・ロバート・ミッチェル

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181022025940j:plain

『 イット・フォローズ 』の監督の最新作。前作は、正体不明の何者か、というか何者かは分かっている=姿は完全に見えている者が、ゆっくりと歩いてついてくるという異色ホラー。特にイットがドアをノックするシーンは、笑いながらも怖気を奮ってしまった。あのシュールさをもう一度味わためなら1800円は惜しくない。だが、しかし、本作を真に鑑賞したと言えるようになるには1800円では足りないようだ。

 

あらすじ

サム(アンドリュー・ガーフィールド)は30歳過ぎても働かず、LAの街で自堕落に過ごしていた。上半身裸で過ごす同じコンドミニアムに住む中年女性を覗いたり、女優を夢見てオーディションを受けまくっているセックスフレンドがいたり、レトロゲーム機で共に遊ぶナーディな男友達がいたりと、家賃は滞納しながらも、それなりに何とかやっていた。ある日、ミステリアスな美女サラと良い雰囲気になりながらもベッドインできず、翌日にもう一度来てと言われたので尋ねてみたら、部屋はもぬけの殻。しかし、怪しい女がサラの部屋から何かを回収していった。その女を尾行するうち、サムはLAの街のアンダーグラウンドな領域に徐々に近づいていく・・・

 

ポジティブ・サイド

数多くの映画を想起させる作品である。『 マルホランド・ドライブ 』のように、ある意味で脳髄に損傷を与えかねない映画である。普通のサスペンスやスリラー、またはミステリだと思って劇場に行くと、予想や期待を裏切られることは必定である。しかし、それが良い。何もかもを説明してほしいと思うのは、あまりにもおこがましいのではないか。本作には、LAの街やハリウッドで功成り名遂げた人物は隠されたメッセージを発していて、それを受け取ることができるのはスーパーリッチな一部の人だけであるという、サムの妄想的な考えを通じて、観客に訴えかけてくる。すなわち、「この映画には秘密のメッセージが仕込まれているのですよ」ということだ。

 

我々はとんでもない量の小ネタを見せつけられる。とても書き切れるものではないが、おそらく誰もが初見でピンと来るのは、サムの手がネチャネチャと糸を引くシーンであろう。何をどうしたってスパイダーマンを思い出す。ニヤリとすべきなのだろう。小ネタというか直接ネタというか、ある映画を語るに際して別の映画にも言及しなくてはならなくなるという点では『 レディ・プレーヤー1 』的であると言える。劇中ではアルフレッド・ヒッチコックがfeature されるシーンがある。さらにサムの部屋には『 サイコ 』のポスターが貼ってあるのだ。彼の頭の中には一体何が詰まっているのだ、と思わされても仕方がない言動がどんどんと繰り出され、もはや彼の妄想なのか、全ては現実世界の偶然なのか、虚実が定かならぬ領域にまでストーリーが進んだところで、臨界点を迎え・・・ないのである!まるでジョニー・デップの『 ナインスゲート 』のエンディングを思わせる城に入っていくシーンには鳥肌が立った。

 

まだ本作を観ていないという人は、サムが自室でセックスしているシーンをしっかりと見ておくべし。見るのは彼の尻ではなく、壁に貼ってあるポスターである。万が一、それが何であるのか、もしくは誰であるのか分からないということであれば、このYouTube動画を見てみよう。それでも知らないというのなら、とにかく自分の中でカリスマと思える人物をしっかり思い描いて鑑賞に臨むようにしてほしい。

 

物語はここから一挙に漫画的領域にまで到達する。それは『 ゲット・アウト 』的な領域に到達するという意味でもあり、ノストラダムス予言のトンデモ研究者・川尻徹的な手法で暗号解読をする現代版geekであるとも言える(ちなみにnerdとは、『 X-ファイル 』のスピンオフ『ローン・ガンメン』3人組のような連中を指す)。普通に考えればサムはクレイジーであるとしか言いようがないのだが、途中では実際に人が死ぬ。しかし、それすらもサムの妄想であるかもしれないと思わせる仕掛けが施されている。サムのマスターベーションにも注目だ。

 

お前の言っていることはサッパリ意味が分からんし、何故こんな卑猥なレビューを読まされねばならんのだと思われる向きもあるだろう。しかし、冒頭で述べたように本作は一回こっきりの鑑賞では意味不明な箇所が多すぎる。それが魅力にも磁力にもなっている。吸い寄せられるように映画館に向かってしまう自分が想像できて怖いのだ。不思議な魅力が詰まった映画なのだ。

 

ネガティブ・サイド

LAが舞台だと聞いて胸を躍らせるような人、特に『 ラ・ラ・ランド 』に感動した人などは、本作には辟易させられることは間違いない。『 ノクターナル・アニマルズ 』や『 ドニー・ダーコ 』、あるいは『 ブレードランナー 』のように複数回見てようやく意味が分かる、もしくは見れば見るほどに発見があるというタイプは、DVDやブルーレイが手に入るようになるまで、非常に悶々とした気持ちにさせられる。おそらくカジュアルな映画ファンが10人いれば、そのうちの9人が一回鑑賞で満腹になるのではないだろうか。また、ハードコアな映画ファンが10人いても、そのうちの6人は一回で満腹になってしまうのではなかろうか。自分としては日本語と英語の両方でリサーチの上、何度でも観てみたいが、そうするとチケット代と時間が問題になる。そこを減点して良いものかどうか迷うが、『 ラ・ラ・ランド 』と同点になる程度には楽しめた。これは褒めているのだろうか・・・

 

総評

主人公サムの『 アイム・ノット・シリアルキラー 』的な行動が許容できる人、もしくはとんでもないシネフィルなら、本作を絶賛できるだろう。あるいは糞味噌に酷評できるかもしれない。案外、純愛ジャンルが好きだ、という人が最も本作を堪能できるのかもしれない。一人で鑑賞して、帰り道にリサーチをしたりレビューを渉猟するも良し、連れを誘って鑑賞し、帰りに喫茶店であーだこーだと解釈をぶつけ合うのも良いだろう。面白さは人によって異なるだろうが、手応えの重さがずっしりとあることだけは請け合える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, スリラー, 監督:デビッド・ロバート・ミッチェル, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 アンダー・ザ・シルバーレイク 』 -ハリウッドへの痛烈な皮肉映画-

『クワイエット・プレイス』 -突っ込みどころ満載のSFスリラー-

Posted on 2018年10月9日2019年8月24日 by cool-jupiter

クワイエット・プレイス 50点
2018年10月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エミリー:ブラント
監督:ジョン・クラシンスキー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181009020309j:plain

以下、ネタばれに類する情報あり

あらすじ

地球はいつの間にか静寂の支配する世界に変貌してしまった。音を立てるものを容赦なく抹殺する謎の侵略が原因である。そんな世界でも、エヴリン(エミリー・ブラント)とリー(ジョン・クラシンスキー)の家族は、手話やその他の工夫を凝らしながら生き延びていた。しかし、末っ子が音の出るおもちゃで遊んでしまい、あえなく襲われ死亡。その遠因となってしまった聴覚に障害を持つ姉は、罪悪感に苛まされる。それから約1年、エヴリンはお腹に新たな子を宿していた。しかし、謎の侵略の魔手がすぐそこまで迫っていた・・・

 

まず、この映画は突っ込みどころが満載である。その点を最初に指摘しておかねばならない。何故、人類は滅亡の一歩手前まで追いやられてしまったのか。何故、そこに至るまで音を立ててはいけないという鉄則に気付かなかったのか。許容される音の大きさや波長はどうなっているのか。次から次へと疑問が湧いてくる。しかし、それらのマイナス点と同じくらいプラスな点もある。まずはそれらを見ていこう。

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントとジョン・クラシンスキーの演技の全てが圧巻である。実生活でも夫婦である二人だからこそか、手話や、本当に小さな囁き声でしか会話ができない世界でも、ほんのちょっとした表情や仕草でコミュニケーションが成立するのは見事である。といっても、我々も実は同じようなことをやっている。例えば、ベテラン夫婦になってくると、「なあ、アレってどこやったっけ?」という夫に対して「ほら、コレやろ?」というように返す妻はそれほど珍しくないだろう。必要最低限以下の言葉でも通じてしまうのが、夫婦の絆の一つの証明と言えるかもしれない。

 

またクラシンスキーのキャラは、科学者でありエンジニアでもある。文明が崩壊した世界でも川で魚を獲り、住処の周りに警戒網と信号を張り巡らし、他都市との通信もあきらめず、娘のために補聴器を試作したりさえする。まさにアメリカ社会の思い描く Positive Male Figure の体現というか理想形のような男である。『 オデッセイ 』が強く打ち出していたことであったが、科学的な知識と技術はサバイバルの基礎であり土台である。そのことが分かっているから、エヴリンも息子への教育を怠らない。この一家は未来への希望を捨てていないのだ。話の設定上、台詞で状況を説明することができないのだが、それを逆手にとって濃密な人間ドラマを構築する。SFホラー映画のはずが、いつの間にやら見事なヒューマンドラマ、ファミリードラマに仕上がっている。クラシンスキーは監督としてもなかなかの手練れである。

 

ネガティブ・サイド

一方で否定的にならざるを得ない面も確かに存在する。本作は『 フィフス・ウェイブ 』と『 クローバーフィールド HAKAISHA 』的な事態が地球上で展開され、『10 クローバーフィールド・レーン』および『 死の谷間 』的な世界に取り残された一家が、『サイン』さながらに『スーパー8』のモンスターから逃れようとする映画である。つまり、どこかで観たようなシーンのツギハギ、パッチワークなのである。そこに「 音 」という要素をぶち込んできたのが、古い革袋に新しい酒というやつで、本作の売りになる部分なのだが、とにかくストーリーが余りにも弱すぎる。その他のオリジナリティが無さ過ぎる。

他には、冒頭の末っ子が殺されてしまうシークエンスについて。あの世界のあのシチュエーションで目を離すか?何をするか分からないのが子どもという存在で、夫婦としての経験値の高さと親としての経験値の低さの同居を見せられたような気がして、その後の展開にもう一つ釈然としない場面が出てきた。ああでもしないことには平穏無事に一家が過ごしてしまっては映画にならないのは分かるが、しかし・・・

 

また、音を立ててはいけない世界でジャンプスケアを使うというのは、あまりにも陳腐ではないか。我々が恐怖を感じるのは、恐怖を感じる対象の正体が不明だからであって、ジャンプスケアには恐怖を感じない。あれはただ単にびっくりしているだけなのだ。というか、ジャンプスケアのタイミングも余りにも予定調和すぎる。ホラー映画初心者ならいざ知らず、ある程度の映画鑑賞経験の持ち主には子供だまし、こけおどしに過ぎない。音でびっくりさせるのではなく、いつ、どこで、どのように音が鳴ってしまうのか分からない。そんなシチュエーションでこそスリルやサスペンスが生まれるし、それこそが本作が目指すべき王道のホラー路線だったはずだ。いきなり化け物や悪霊、エイリアンが姿を現すのではなく、その姿を見せながらゆっくりとゆっくりと近づいていくる異色のホラー作品『イット・フォローズ』のように、もしかしたらホラー映画にパラダイム・シフトを起こし得たかもしれないポテンシャルを秘めていたのにと思う。続編があるらしいが、期待できるのだろうか。

 

総評

もしも観るとするなら、レイトショーがお勧めかもしれない。本作のような作品を芯からじっくりと味わうためには、真っ暗な劇場で、少数の観客と互いに呼吸や衣擦れの音さえも意識し合いながら、大画面に没入したい。中学生辺りが劇場にいると、空気を読まずにポップコーンをボリボリと頬張ったり、隣の奴とひそひそ声で話したりするからだ。エミリー・ブラントが体現する「女は弱し、されど母は強し」を味わうも良し。クリシェ満載と知りながら、敢えてホラー要素を楽しむも良し。チケット代の価値は十分にあるだろう。

 

考察

あの侵略者は、上位の異性文明のペット動物か人工生命体だよね?続編を作るなら、世界観を壊すことなくリアリティを確保しなければならないけれど、『 インディペンデンス・デイ:リサージェンス 』の続編(出るの?)みたいに、嫌な予感しかしない。You have to prove me wrong, John Krasinski !!

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, エミリー・ブラント, サスペンス, ジョン・クラシンスキー, スリラー, 監督:ジョン・クラシンスキー, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『クワイエット・プレイス』 -突っ込みどころ満載のSFスリラー-

『ノクターナル・アニマルズ』 -虚実皮膜の間に観る者を誘う-

Posted on 2018年10月6日2019年8月22日 by cool-jupiter

ノクターナル・アニマルズ 65点

2018年10月3日 レンタルDVD鑑賞
出演:エイミー・アダムス ジェイク・ジレンホール マイケル・シャノン アーロン・テイラー=ジョンソン アイラ・フィッシャー アーミー・ハマー 
監督:トム・フォード

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181006015321j:plain

大阪ステーションシネマで上映中にずっと気になってはいたのだが、タイミングが合わず見逃してしまった。今回、満を持してTSUTAYAで借りてきたが、観終わって「うーむ」と唸ってしまった。即座に思ったのは、男から女への復讐劇ということだが、それ以上の意味もありそうだということ。もしかして、全て妄想の可能性も・・・?

画商として成功し、豪邸に住むスーザン(エイミー・アダムス)。夫のハットン(アーミー・ハマー)との仲が微妙になりつつあり、また記憶の欠落もちらほらと起こしつつある。不眠症のせいなのか。そんな中、元夫のエドワード(ジェイク・ジレンホール)から、『夜の獣たち』(Nocturnal Animals=ノクターナル・アニマルズ)という小説の草稿が送られてくる。眠れぬ夜にその小説を読むことで、スーザンは虚実皮膜の間に落としこまれて行く・・・

夜の獣というのは、明らかに不眠症のスーザンを指すと思われるが、なぜ原題はそれが複数形なのか。あの頃のスーザン、今のスーザン、画商としてのスーザン、一人の女性としてのスーザンなど、スーザンその人の多面性のことなのか。

また小説に現れる不審者レイ(アーロン・テイラー=ジョンソン)が象徴するものは何か。なぜトニー=(≠?)エドワードに絡んでくるのか。彼の妻と娘を凌辱したのは何故なのか。トニーの余りの不甲斐なさと、対称的に西部の保安官の理想像を体現したかのようなボビー(マイケル・シャノン)の強さと弱さが同居したキャラクターは、エドワードの心のどの部分の象徴なのか。

奇妙なシンクロを見せるのはキャラクター達だけではない。小説場面と現実世界が絵画やオブジェを通じてシームレスにつながるシーンが複数あり、そうした場面が訪れるたびに観る者は混乱させられる。それは心地よい混乱であり、なおかつ不安を掻き立てる。なぜなら次のシークエンスが待ち遠しくなると同時に、見てはいけないエンディングに近づきつつあるとの予感がどんどん強くなってくるからだ。

ひとつ不思議なのは、なぜスーザンは『夜の獣たち』を読みながら、トニーをエドワードの顔で想起するのか。ふと思うのは、彼女はアートディーラーであり、彼女自身が美術芸術を創作することは無いということ。コロンビア大学の大学院で美術を専攻しながらも、創作の道ではなくビジネスの世界に進んだ彼女は、表面的には成功を収めているのかもしれない。しかし、心の奥底にある衝動を作品という形に昇華させることができない。それはストレスであり、自己実現の妨げである。対称的にエドワードは『夜の獣たち』を書き上げた。おそらくは彼の心象世界の描写であるこの作品は、スーザンが決して実現できなかった、内的衝動の外在化・具体化である。物語の内容もそうであるが、それ以上に作品として完成させ、送りつけるだけでエドワードの目的は果たされているのではないか。読んだ小説が、凶暴なまでのリアリティで迫ってくるのは、まるで鈴木光司の小説『リング』のようだ。また、小説を読むスーザンを、別の角度から観察する我々観客の感覚は、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』の郷田三郎を観察する読者の気持ちとオーバーラップする。そして、まるで『複製された男』の如く、観る者を混乱させ、それでいてその映像美で魅了する。評価が難しいが、見て損をしたとは決して思わない、大人の映画に触れたなという思いでいっぱいである。2日前から、断片的に、非連続的にではあるが、本作をリピート再生するばかりだ。何なのだ、この作品は・・・

個人的にはギレンホールという発音に気持ち悪さを感じるので、ジレンホールと表記している。今後も本ブログでは、できるだけ英語の発音に近い表記を心がけていこうと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アーロン・テイラー=ジョンソン, アメリカ, エイミー・アダムス, サスペンス, ジェイク・ジレンホール, スリラー, マイケル・シャノン, ミステリ, 監督:トム・フォード, 配給会社:パルコ, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『ノクターナル・アニマルズ』 -虚実皮膜の間に観る者を誘う-

『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

Posted on 2018年9月12日2020年2月14日 by cool-jupiter

累 かさね 70点
2018年9月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:土屋太鳳 芳根京子 浅野忠信 筒井真理子 生田智子 檀れい
監督:佐藤祐市

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180912022429j:plain

主人公もしくは主役級のキャラクターの容姿の醜さを主題に持つ作品は、古今東西で無数に生み出されてきた。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を始め、小説およびミュージカルにもなったガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(ミュージカルは複数のバージョンがあるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーのもの一択)、芥川龍之介の小説『鼻』の禅智内供、漫画の神様・手塚治虫の分身ともいえる猿田博士および系列のキャラ、百田尚樹作品の中でJovianが唯一評価している小説および映画『モンスター』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』、作者に目を向けるならば岡田斗司夫や本田透の自己認識も挙げられるだろう。今年の映画で言えば『ワンダー 君は太陽』を忘れてはならない。また『サニー 永遠の仲間たち』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』にも、重要なモチーフとして現れるテーマであり、『デッドプール』のウェイド・ウィルソン、『美女と野獣』の野獣、『エレファント・マン』、『フランケンシュタイン』(ボリス・カーロフver)の怪物、漫画およびテレビドラマ『イグアナの娘』など、顔・容姿の美醜を扱う作品は数限りなく存在する。そこに、なんと“顔を入れ替える”というアイデアをぶち込んだ時点で、原作漫画のある程度の成功は約束されていた。『フェイス/オフ』のように、ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの顔を入れ替えても、話は面白いかもしれないが、それが目の保養になるかと言えば、ならない。しかし、土屋と芳根の顔を入れ替えるのである。発想の勝利である。監督がこの原作を選んできたのは、この二人がキスをする画を撮りたかったからではないかとすら邪推する。

大女優の淵透世(檀れい)は死の前に、我が子の累(芳根京子)に顔を入れ替える不思議な力を持つ口紅を遺していった。顔に醜い傷を持つ累は、母譲りの天才的な演技力を有しながら、自分に対する劣等感を拭えないままに生きてきた。そこに羽生田釿互(浅野忠信)が現れ、丹沢ニナ(土屋太鳳)という美女ではあるものの演技力には欠ける女優の替え玉となる話が持ちかけられる。戸惑いながらも、ニナの顔を一時的に得ることで、周囲の人間の見る目が変わることを実感した累は、気鋭の舞台演出家の烏合零太(横山裕)の劇のオーディションにも見事に合格。ニナと累の二人は、奇妙な共犯関係を築いていく・・・

まず何と言っても、土屋太鳳が殻を破ったことを何よりも称えたい。山崎賢人が『羊と鋼の森』で殻を破ったのと同じ、あるいはそれ以上の飛躍が見られた。なぜなら、キャピキャピの、もしくは過度に大人しい女子高生役から遂に脱皮を果たしたからだ。後は有村架純が『ナラタージュ』で見せたような濡れ場シーン解禁を待つばかり・・・というのは冗談だが、それにしても「演じること」を演じるというのは、非常に難しいことだ。それを、プロット上でいくつか気になるというか無理な点はあるにしても、最後までやり遂げたことに拍手を送りたい。相対する芳根京子も、最初から顔が整い過ぎているのがチト気になるが、根暗な雰囲気だけではなく、対人スキルに問題を抱える、ある種の人間特有の挙動不審さ、表情や目線の不自然さまでを上手く表現できていた。この目立たないが、確かに累の者であると言える仕草や姿勢を体現したことが、一人二役、二人一役を実質は土屋太鳳が1.5人分を担っていたにもかかわらず、ダブル主演として売り出すことができ、なおかつ観る者もそれに納得できる最大の理由であろう。

容姿・容色に劣るものは内面まで劣るのか。それとも、心の内の美しさや清らかさは、外見とは無関係なのか。我々は往々にして、両者は反比例の関係にあるのだという風に、人の属性を画一的に断じてしまいたくなる。しかし、冒頭で述べたように、顔の美醜と内面の美醜は実に複雑な関係にあり、分類するとなると累はオペラ座の怪人の系譜に連なるキャラクターである。怪人はクリスティーヌへの思慕故に、シャニュイ子爵を殺そうとする。累も、烏合への想いを契機に、ニナの人生までも乗っ取ろうとする。これなどは、本田透が著作でたびたび言及するように、オタク的な生活と奇妙な相似形を為している。オタクは対人関係に障害を抱えるが故にキャラクターおよびキャラクター世界に没入する。累は、対人への劣等感故に、丹沢ニナという美少女キャラに没入する。自分ではないキャラクターを通じて何らかの世界と関わりを持つという点で、累は重度の「コミュニケーション不全症候群」に罹患していると見てよい。

そんな累を変えるのは、美しい顔を得ること以上に、顔ではなく内面に興味を抱いてくれる烏合の存在。どうせ誰も自分には話しかけてくれない、笑いかけてくれない、触ってもくれない、愛してもくれないし、抱いてもくれない。グリザベラだ。そんな思いに凝り固まった累を見る時に、我々は劣等感とは自分で自分を自分ではない者に貶める時に生じる感情であることを知る。劣等感とは幻想なのだ。現に、累の顔になっている時のニナは、周囲の目線など一切気にすることなく街を歩いていくし、芝居の稽古の現場にだって踏み込んでいく。こうした行動に、我々は清らかさを感じない。予告編にもあるのでネタバレに当たらないはずだが、ニナは累に「私はアンタみたいに中身まで醜くないから」と言い放つ。しかし、物語前半のニナはどこからどう見ても醜い内面の持ち主で、それがほんの些細な言動や表情に表れる嫌な女の典型だった。優越感も、実際に他者よりも優れているから得られるわけではなく、これまた幻想なのだ。

顔を入れ替えることで、浸食されていくニナの人生。同時に、累の思考や行動にも変化が生じるが、それらは決して気持ちの良いものではないことだけは言っておかねばならない。これは決して醜いアヒルの子のようなおとぎ話ではないのだ。それでも、『不能犯』とはまた異なる方向で、このようなダークストーリーが産生されることには大きな意味があるし、あまりにも典型的かつ定型的な漫画ばかりが映画化されるこのご時世に、大きな楔を打ち込む作品がもっと生み出されるべきなのだ。昨年、カナダ旅行に行った時に、現地の子供向けアニメの主人公が補聴器を使う女の子だったことにビックリしたことを覚えている。それだけではなく、その壊れた補聴器を修理してくれる人は義足を嵌めていた。障がいも個性。そうした考えに日本が追いつくのには今しばらくの時間がかかりそうだ。本作は単なるエンターテイメントとしてだけではなく、傷のある人間を初めて大々的にフィーチャーした作品として記憶されるのかもしれない。

本作にも残念ながら、いくつかの減点要素が存在する。その最大のものは、累とニナが相互に仕掛けるトリックだ。舞台に携わったことのある人なら、タイムキーピングの難しさは「骨の髄まで」分かっているはずだ。ふとしたことで全てが崩れ去ってしまうような、そんな危うい賭けに、ニナはともかく累が乗るだろうか。ここだけがどうしても納得できなかった。またニナにはとある秘密があるのだが、その秘密がよくもそこまで都合よくコントロールできたものだ、と呆れてしまうような類のものとして利用される。もし、累がニナの演技に気付かなかったら・・・、いや、そこは気がつくのだろうが、もしニナが復讐を企図しなかったら、窮地に陥っていたのは累だったはずだ。何がそこまで、累を確信させていたのだろうか。この点も最後の最後は気になって仕方がなかった。

という具合に最後に文句を垂れてしまったが、本作は普通に面白い。時間とカネを使って、劇場まで観に行く価値ありと声を大にして言える秀作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, スリラー, 土屋太鳳, 日本, 浅野忠信, 監督:佐藤祐市, 芳根京子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

『ALONE アローン』 ―実存主義的な問いからのプレッシャーに如何に抗うか―

Posted on 2018年7月6日2020年2月13日 by cool-jupiter

ALONE アローン 70点

2018年7月5日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:アーミー・ハマー アナベル・ウォーリス トム・カレン
監督:ファビオ・レジナーロ ファビオ・ガリオーネ

*以下、少量のネタバレあり

これはアーミー・ハマーの代表作になるのではないか、そんな印象を劇場でまず受けた。『ソーシャル・ネットワーク』では嫌な双子の両方を、『君の名前で僕を呼んで』では最初は少し取っ付きにくそうなあんちゃんを見事に演じてくれていたが、今作では意志の強さと肉体の強靭さ、そしてそれらに似合わない(というよりも、それらにふさわしい)人間性の持ち主を演じている。ふと、ジェームズ・P・ホーガンの小説『 星を継ぐもの 』のコリエルを演じさせるとすれば、それはアーミー・ハマーしかいない。個人的にはそう思えるほどだった。恐ろしいほどのハマり役である。『 ベイビー・ドライバー 』におけるアンセル・エルゴート並みにハマっているし、キマっている。

あらすじでご存知の通り、砂漠で地雷を踏んでしまって動けない。救助まで52時間。なにをどうやって凌ぐのか。襲い来る砂嵐、夜の闇としじまに紛れて忍び寄る狼の群れ、容赦なく照りつける太陽、凍てつく夜の冷気、飢え、そして渇き。極限状況を生き延びるために必要なことは何なのか。この映画のキーワードに”Move on”というものがある。「前に進む」という意味だが、これは物理的に体を動かしてそうするの意と、出来事や話題を振り切って新しいものに向かって進んでいくの意、両方を持っている。足を一歩前に踏み出せないことで、ハマー演じるマイクは過去に踏み出せなかった数々の一歩が胸に去来する。陳腐ではあるが『 モリーズ・ゲーム 』や『 ハクソー・リッジ 』にも見られたような父親殺しもその中には含まれている。念のために言うが、犯罪としての殺人ではなく文学的・精神的な意味での父殺しである。また重要な狂言回しとしてベルベル人の男が登場する。彼は片言の英語でマイクの心の隙間を浮き彫りにする。それはこんな具合だ。

「なぜ地雷を踏んだ?」
『ここが地雷原だと知らずに迷い込んだからだ』
「なぜここに来た?」
『任務があったからだ』
「なぜ任務があった?」
『戦争だからだ』
「なぜ戦争に来る?」
『俺が兵士だからだ』
「なぜ兵士になった?」
『俺には守るべきものがもうないからだ』

(あくまで記憶を頼りにしているので、多少の不正確さはご容赦を)

ここで、序盤に散々ほのめかされていた恋人ジェニーとの関係、母との別離、その他多くのしがらみについて、観客は知ることになる。それでも一歩を踏み出せないマイク。それは本当はその一歩を誰よりも踏み出したかったからなのだ。ベルベル人の男の言葉に、マイクは自分でも気づいていなかった本心を知ることになる。第一次および第二次湾岸戦争に従事した兵士が帰国後PTSDを発症する率が異様に高かったとされるのは、戦場での悲惨な体験が一番の要因であると思われるが、極限的な状況に追い込まれることで、マイクのように過去のトラウマが一時に刺激されてしまうことも事由の一部としてあったのではなかろうか。お前は一体何者なのだという実存主義的な問いほど恐ろしいものは、実はこの世にはないのかもしれない。

劇場鑑賞でもレンタルでもストリーミングサービスでも何でも良い。マイクの生のこの一瞬をぜひ追体験してほしいと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, イタリア, スペイン, スリラー, 監督:ファビオ・ガリオーネ, 監督:ファビオ・レジナーロ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『ALONE アローン』 ―実存主義的な問いからのプレッシャーに如何に抗うか―

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