Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: イギリス

『ズーム/見えない参加者 』 -Zoomらしさをもっと前面に出せ-

Posted on 2021年1月16日 by cool-jupiter

ズーム/見えない参加者 30点
2021年1月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ヘイリー・ビショップ
監督:ロブ・サベッジ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20210116131630j:plain
 

Jovianは2017年の秋ごろから当時の仕事およびプライベートでZoomを使っていた。有料版を使い始めたのは2020年からだが、Zoomにはまあまあ詳しい方だと自負している。劇場予告を観て「遂に出るべくして出できたな」と感じた。が、甘かった。これは英国版『 真・鮫島事件 』であった。

 

あらすじ

コロナ禍でロックダウン中の英国で、ヘイリー(ヘイリー・ビショップ)は友人たちとZoom降霊会を開催する。だが、参加者のジェマが実在しない死者の話をしてしまったことで、本来呼び出されるべきではない霊が現れてしまい、ヘイリーたちは数々の怪異に見舞われてしまい・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20210116131721j:plain
 

ポジティブ・サイド

無名に近い俳優たちだらけだが、そのおかげでリアリティが生まれている。『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』でも顕著だったが、こうしたアイデア一発勝負のホラーには有名キャストはノイズとなる。どうしても作り物感が生まれてしまうからだ。彼ら彼女らの話し振りも、なかなかにダーティーで、それが逆に親密さを感じさせる。実際にZoom飲み会をやっている面々というのは、往々にしてこういう関係性なのだろうと思わせる。ヘイリーとジェマの迫真の演技は見ものである。

 

スマホの顔認証や、コンピュータ音声に特有のサーっというホワイトノイズやクリック音もなかなか効果的。下手に大きな効果音を使うよりも、静かな耳慣れた音の方が恐怖感を演出しやすい。これはZoomに慣れた人ほど感じやすいはずだ。

 

科学的な知識の普及と浸透により、超自然的な現象は一時期後退していった。それでも携帯の普及と共に『 着信アリ 』が出てきたように、Zoomに代表されるウェブ会議システムのような新しいテクノロジーが生まれれば、やはりホラー映画がそこから生まれる。凡作ではあるが、暇つぶしにはなる。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20210116131742j:plain
 

ネガティブ・サイド

全編がZoom上で行われること以外は、凡百のホラー映画と何一つ変わらない。「ここで大きなが音がするぞ」とか「ここでこけおどしのオブジェが出てくるぞ」という予感がことごとく的中する。まるでホラー映画の作り方の教科書を読んだ高校生あたりが作ったかのようにすら感じられる。実際に、細部にこだわらなければ、類似の作品は高校生に手に入るリソースだけでも十分に制作可能だろう。低予算であるならば、それこそアイデアにこだわるべきで、ホラーとして新しい何かを提供しようという製作者側の気概は一切感じ取ることができなかった。

 

いわゆるZoomらしさが一切なかったのは残念で仕方がない。Zoomが他のウェブ会議システムに比べて優っている(優っていた)点は、主に

 

1.お手軽さ

2.画面共有

3・ブレイクアウトルーム

 

だった。もっとこれらの特徴を生かしたホラーを構想すべきだろう。たとえばZoomはその参加の「お手軽さ」ゆえにZoom爆撃と呼ばれる悪質な乱入事件が世界で相次いで行われていた。そうした愉快犯(高校生男女数人がいいだろう)が大学のオンライン授業に爆撃を仕掛けて楽しんでいたところ、ランダムに入力したミーティング・パスコードによって入ってはいけない領域に迷い込んでしまい・・・というようなストーリーである。

 

「画面共有」や、それに類するファイル交換にフィーチャーするなら、例えば画面共有をすると参加者を映すウィンドウが縮小する。そこで共有を解除してギャラリービューに戻してみると、参加者が増えている。それも他人が乱入してきたのではなく、参加者Aと参加者A’が生まれて、自分同士で通話できてしまう。他の参加者は呆然とそれを眺めて・・・というようなプロットも割と簡単に思いつく。

 

ブレイクアウトルームでも恐怖は生み出せる。Jovianは大学の英語の非常勤講師を自身で行っていたり、あるいは派遣元企業の担当者としてそうした講師の授業をオブザーブ(ビデオをマイクもOFF)してフィードバックすることもある。某大学のオンライン授業をオブザーブした際に、ブレイクアウトルームに割り振られたので、学生のペアワークの様子を見学させてもらおうと思ったが、スクリーンネームを適当な6桁の数字にしていたせいで「え、誰これ?なんで6桁なん?学生じゃない?やばいやばい、怖い怖い、誰?」と学生に言われてしまった苦い経験がある。なので舞台を大学にして、オンライン授業でブレイクアウトルームに参加者を割り振るごとに、一人また一人で学生がZoom上からも、そして自宅からも消えていく。あるいはブレイクアウトルームの中だけで起きる怪奇現象があり、ホストも他の参加者もそのことになかなか気づいてくれず・・・といった物語も作ろうと思えば作れるのではないか。

 

Zoomならではの恐怖要素をもっともっと追求した作品は、今後インディーズで、もしくは高校生や大学生の映研やら、サンデー・アート・スクールのプロジェクトなどから生まれてくると思われるが、それに先立って本作はZoomの魅力と魔力を世に発信すべきだった。

 

そうそう、Zoomのギャラリー・ビューでは喋っている人の表示枠が黄色の太線で囲われるが、本作にはそれが無かった。監督および編集者の完全なるミスだろう。

 

最後のメイキング映像は完全なる蛇足。観ずに劇場を後にしてもなんの問題もない。

 

総評

クソホラー映画である。『 search サーチ 』のようなクオリティを期待するとがっかりさせられること必定である。68分(本編後のボーナス映像を除けば、おそらく60分)という短さで、なおかつ1000円でチケットを購入できるので、暇つぶしと割り切れるホラー愛好家のみにお勧めしておく。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be on lockdown

ロックダウン中である、の意。London is on lockdown.のように使う。どこかのアホな知事が不用意に発話したことから、意味や解釈に誤りが生じた語。決して「都市封鎖」という意味ではない。字義どおりに解釈すれば、都市封鎖=都市へ入ること、そしてその都市から出ることを禁じる措置であって、都市内での人々の移動は自由である。「国境を封鎖する」と聞けば、入国や出国が禁じられるが、国内の移動が制限されるとは誰も受け取らないだろう。Lockdown = 外出制限または移動制限と訳すべきと思う。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, イギリス, ヘイリー・ビショップ, ホラー, 監督:ロブ・サベッジ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『ズーム/見えない参加者 』 -Zoomらしさをもっと前面に出せ-

『 ジェイン・オースティン 秘められた恋 』 -社会的属性から偏見を取り除くべし-

Posted on 2020年9月7日 by cool-jupiter

ジェイン・オースティン 秘められた恋 70点
2020年9月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アン・ハサウェイ ジェームズ・マカヴォイ
監督:ジュリアン・ジャロルド

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200907231322j:plain
 

商業柄、TOEFL iBTという英語の資格検定を教えることがある。そこで、出てくることがあるのがJane Austen。Official Guidebookにも出てくる。オースティンは一般には『 高慢と偏見 』の作者として知られているのだろう。彼女は『 メアリーの総て 』のメアリー・シェリーよりもさらに一世代前の人物で、まさに女性小説家の始祖の一人と言える。

 

あらすじ 

イギリスはハンプシャーの貧農家に生まれ育ったジェイン(アン・ハサウェイ)。両親は彼女を裕福な名士と結婚させたがっていた。だが、ジェインは財産ではなく愛を結婚に求めていた。良家との縁談も断ってしまうジェインだったが、法律家の卵であるトーマス・ルフロイ(ジェームズ・マカヴォイ)と出会い・・・

 

ポジティブ・サイド

何よりも目立ったのアメリカ人であるアン・ハサウェイがBritish Englishを流暢に操ること。一般的には『 ブレス しあわせの呼吸 』のアンドリュー・ガーフィールドのように、アメリカ人が英国風の英語を話すのは結構骨が折れる。その逆はそうでもない。アメリカ英語を使いこなす英国人やオーストラリア人の俳優は多い。その意味でアン・ハサウェイの演技は際立つ。また、目の大きさが特徴でもあるハサウェイは、その目の演技でも光っていた。初対面のルフロイから得た最悪の第一印象。朗読会の後に、ルフロイに生まれた静かな怒りの炎がその目の奥で燃え盛り始める瞬間の演技はベテラン女優の風格。当時のハサウェイは20代のはずだが、これは凄いと素直に感じられた。

 

対するはジェームズ・マカヴォイ。Jovianが世界で最も実力を評価している俳優である。常に自信満々で、弁が立つ。まさに法律家の卵という感じだが、その根底には男らしさがある。登場早々にボクシングをしているが、その拳闘の腕を力自慢のためではなく自らが信じる正義のために振るう、つまり自らの信念に準じて行動する様は見ていて気持ちがよい。一方で、どれほど頭脳明晰であろうと男はこと色事に本気になるとアホになるという、男の真理も体現している。

 

この主役二人に共通するのは、時代という抗いようのない外形的な圧力を受けながらも、心の中にはしっかりと個人を持っているところである。過剰とも思えるほどに会釈を繰り返すのは、それがマナーであり社会のコードであるからだが、一方でそうしたしきたりめいたものに抗おうとするのは、まさに地域や時代は違えど、ロミオとジュリエット的である。つまり、観る者の胸を打つ。

 

印象に残るのは舞踏会。反目しながらも惹かれ合いつつあるジェインとトムが踊りながら言葉を交わすシーンは大勢の人間に囲まれているにもかかわらず、とてもロマンチックだ。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』のレイ・とベン・ソロのような関係を作る、つまり自分たちだけの時空に没入してコミュニケーションを取っているからだ。ロミオとジュリエットよろしく、駆け落ちをしようとするも上手くいかない二人の姿に、言いようのないもどかしさを抱くが、それが時代や社会の違いなのか、それとも自分自身の感性によるものなのかは観る人によって異なるだろう。また男女でもこのあたりの感想は異なって来ると思われる。時間があればRotten Tomatoesあたりのレビューを渉猟してみたい。

 

ラストも泣かせる。『 僕の好きな女の子 』の加藤ではないが、男は自身の恋愛を「名前を付けて保存」する生き物である。そのことを何よりも雄弁に物語るエンディングに、心揺さぶられずにいられようか。このシーンは他の意味でも特に印象的だ。邦画の世界も、メイクアップにこれだけの労力を是非割いてもらいたいと思う。アメリカに逃げられてもいいではないか。第二・第三のカズ・ヒロを生み出そうではないか。

 

ネガティブ・サイド

冒頭の牧師の言葉はあまりにも直接的すぎる。もっと当時の普通の暮らしぶりの中で、女性が個性を発揮することができず、ステレオタイプな役割のみに従事する、あるいはステレオタイプな人格のみを有することが求められる時代と社会だということを、もっと映画的に語る方法はあるはずだ。そうしたシーンを冒頭で一気に見せるか、あるいは牧師の言葉(「女性に機知は無用」云々)は中盤に持ってくるべきだった。

 

『 プライドと偏見 』とのつながりがよく見える、というよりも『 プライドと偏見 』から逆に計算して作られたかのようで、捻りがない。すべてがある意味で予定調和的である。もっと自由に話を盛ってしまっても良かったのではないか。たとえばトムがジェインの作品を評して「(恋愛)経験が不足している」と言い放つが、であるならばトムがリードする形での恋愛の手ほどきや、あるいは同衾するシーンがあってもよかったのではないか。直接そうしたシーンを見せずともよい。『 博士と彼女のセオリー 』でジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)がジョナサンのテントを訪ねたようなシーン、あのような間接的な描写でもってジェインとトムが一夜を共にしたのだな、と観る側に思わせる大胆な演出があってもよかった。

 

最後にジェイン・オースティンという人物の歴史的な役割を総括するシーン、あるいは簡潔な説明が欲しかった。『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語 』にも共通するが、作家の残した物語は有名でも、作家自身はそれほど知られていないことはよくあるからである。

 

総評 

2000年代の映画であるが、まったく古くない。LGBTQについて世の中の理解は進みつつあるが、やはり男と女が一番のマジョリティであり、それだけ背負わされる社会的属性も多い。そうした社会的属性の中からいかに“偏見”をなくしていくかが21世紀に生きる我々のミッションの一つだろう。そうした原点を思い起こす意味でも本作は幅広い層にお勧めができると思う。ジェイン・オースティンという人物へのある程度の知識や興味がないと難しいかもしれないが、その場合は『 プライドと偏見 』を鑑賞してみるとよい。そんな時間はないという向きには、カーペンターズの “All You Get From Love Is A Love Song” をお勧めしておきたい。

www.youtube.com

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

S have seen better days

直訳すれば「Sはすでに(今よりも)良い日々を見てきた」=Sは今はすでに盛りを過ぎている、ということ。

 

This part of Osaka has seen better days.

大阪のこのあたりも以前に比べて寂れてしまった。

 

That boxing champion has seen better days.

あのボクシング王者も全盛期は終わったな。

 

という具合に使う。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, アン・ハサウェイ, イギリス, ジェームズ・マカヴォイ, ラブロマンス, 伝記, 歴史, 監督:ジュリアン・ジャロルド, 配給会社:ヘキサゴン・ピクチャーズ:Leave a Comment on 『 ジェイン・オースティン 秘められた恋 』 -社会的属性から偏見を取り除くべし-

『 オフィシャル・シークレット 』 -公と私の関係性を鋭く問う-

Posted on 2020年8月30日 by cool-jupiter

オフィシャル・シークレット 70点
2020年8月28日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:キーラ・ナイトレイ レイフ・ファインズ マット・スミス
監督:ギャビン・フッド

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200830133727j:plain
 

原題は“Official Secrets”、本編中では「公務秘密」と訳されている。公文書の改竄が公然と行われ、公務員がそれを苦に自殺までしているというのに、この国(日本)は何も変わらない。だが、それは海の向こうの島国、英国でも同じらしい。10年以上前の実話に基づく本作が、日本社会の「今」をこれほど鋭く抉っているのは、日本がそれだけ英米の後追いをしている証拠なのだろう・・・

 

あらすじ

マンダリンに堪能なキャサリン・ガン(キーラ・ナイトレイ)は、GCHQで中国関連の盗聴に従事していた。ある日、国連安保理の非常任理事国の担当者たちを盗聴するようにとの通達が部署全体に届く。正当性のない戦争を国連で正当化させるための裏工作だと感じ取ったキャサリンは、そのメールをリークすることを決断するが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200830133747j:plain
 

ポジティブ・サイド

イラク戦争そのものについては無数の映画が作られている。政治の側からCIAの闇を暴いた『 ザ・レポート 』や『 バイス 』のように国の権力構造の不正を分析するもの、『 記者たち 衝撃と畏怖の真実 』のように弱小メディアが国家の大嘘を暴くというものまで、アメリカがアメリカ自身を暴く作品が生み出されるようになってきた。もちろん『 ウォードッグス 』のような戦争にちゃっかり寄生する輩を面白おかしく活写する作品も作られており、イラク戦争という大義なき虐殺に関してはアメリカは徐々に正しい距離感を学びつつあるようである。本作はそうしたイラク戦争の不当性をイギリス側から見たという点が新しい。

 

それにしても本作で要所要所に挿入される2003~2004年の実際のニュース映像の生々しさよ。特に盲目的な対米従属路線を突っ走る当時の英国首相のトニー・ブレアを見ると、当時の小泉内閣総理大臣、そして現(元と言うべきか)安倍内閣総理大臣を見るようである。WMD=Weapons of Mass Destruction=大量破壊兵器を「まだ見つかっていないが存在を確信している」というブレアにも頭を抱えてしまうが、「無いものを無いと証明できなかったイラクが悪い」と平然と言ってのけた小泉純一郎を思い出して、五十歩百歩という諺を思い出した。なぜか英国の告発スキャンダルとは思えず、日本映画をイギリス風にリメイクしたのかとすら感じられるのである。

 

イギリス映画ファンならば本作の俳優陣の演技に納得することだろう。特にキーラ・ナイトレイは Career High と言ってよいほどの圧巻のパフォーマンス。表情と口調、立ち居振る舞いでキャラの心情をダイレクトに届けてきた。特に自分こそが告発者だと名乗り出るシーン、そしてクルド系トルコ人の夫とのテレビのチャンネル争いおよび熱の入った口論は途轍もなくリアルに感じられた。彼女の告発内容を記事にする記者を演じるのはマット・スミス。『 新聞記者 』のシム・ウンギョンとは全く異なるテイストのジャーナリストだが、幅広い人脈でスパイ顔負けの取材や情報収集活動を行う敏腕記者で、不正のにおいを感じ取れば、社の方針がどうであれ、とことん突き詰める行動型の記者という点ではシム・ウンギョンそっくり。もしも戦地のイラクに派遣されれば『 プライベート・ウォー 』のメリー・コルビンのような雄々しい従軍記者になるのだろう。キャサリン・ガンの無罪を主張する弁護士を演じるレイフ・ファインズも圧倒的な存在感を放つ。弁護士は社会正義の追求だけではなく、紛争の予防および調停を最も大事にすると言われるが、クライアントの要望に応えることも大きな責務だ。そこで放たれる論理のウルトラCには誰もが腰を抜かすこと請け合いである。事件に巻き込まれた時には、このような弁護士を頼りたい。

 

冒頭の裁判開始のシーンは、そのままクライマックスの法廷シーンにつながるが、ここでの検察と判事と弁護士のやりとりは余りにも予想外である。歴史的な(といって2020年からすれば十数年前だが)事実や経緯を知らない者からすれば、この裁判は類まれなる茶番であり、なおかつ壮大なドラマであると言える。この弁護士が構築した論理とそれを証明する手続きについてよくよく考えてみれば、何のことはない、この弁護士とキャサリン・ガンは根っこの部分では同じなのだ。つまり、公私の公=職業人としての使命と、私=個人としての使命が相反した時、「私」を選ぶという点だ。それはプライベートな付き合い云々ではなく、自分の心に何が正しいかを問い続ける姿勢である。重ねて言うが、英国の話なのに日本の話に見えるところが多々ある。現代人必見の一作だろう。

 

ネガティブ・サイド

キャサリン・ガンというキャラクターのバックボーンをもう少し掘り下げる描写があれば、イギリス国内的にも、イギリス国外の映画市場でも、もっと観客を呼び込めたのではないだろうか。キャサリンはアジア滞在歴が長く、特に日本の広島にいたということはもっと強調されてよかったと感じる。また、夫との馴れ初めについても、会話以上の描写があってもよかった。またブッシュやブレアのニュース映像がふんだんに使われているのだから、このキャサリン・ガンの告発事件を報じた本物の新聞記事や本物のニュース映像も見てみたかった。

 

イギリスが歴史的に盗聴で世界の強国の地位を維持してきたという説明もどこかで少しだけ欲しかった。『 イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 』で描かれたエニグマ解読器を独自開発することに成功した英国は、そのことを秘匿。ナチス・ドイツ敗戦後にエニグマを世界各国の諜報に使わせつつ、自らはちゃっかりとそれらの暗号を解読し続けるという詐欺的な行為で世界の指導的地位を固めていたという歴史的事実の延長線上に本作はあるのだ、ということをもっと明確にすべきだった。

 

キャサリン・ガンの言う「国家ではなく国民に仕えている」というセリフは印象的であるが、ドラマチックではない。ここまでストレートに表現する必要はあるのだろうか。GCHQの職員である以上に一個人なのだということを表明するセリフが望まれていたと思う。この部分だけは妙に理屈っぽく感じられ、キャサリンという感情に強く動かされるキャラクターが首尾一貫性を欠いていたように思う。

 

総評

これは傑作である。こうした一個人の奮闘が国家の、そして国際的な欺瞞を暴くという実話がこれほどリアルに物語化された例は少ない。一方で、ブッシュやブレアといった列強のトップの政治家が今も戦争責任を問われずにいるという慄然とさせられる。歴史はわずか20年足らずで風化してしまうのか。今というタイミングで本作が制作されたことそのものが大きなメッセージになっている。すなわち、己の正義を常に問い続けよ、精神は国家に完全従属させるなということである。なんと耳の痛い教訓ではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Whistleblower

『 スノーデン 』でも紹介した表現。日本ではwhistleblowerはだいたい冷や飯を食わされる羽目になるが、そうした社会風土もさすがにそろそろ変わっていかなければならないだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イギリス, キーラ・ナイトレイ, サスペンス, マット・スミス, レイフ・ファインズ, 伝記, 家督:ギャビン・フッド, 歴史, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東北新社Leave a Comment on 『 オフィシャル・シークレット 』 -公と私の関係性を鋭く問う-

『 海底47m 古代マヤの死の迷宮 』 -クリシェ満載のサメ映画-

Posted on 2020年8月4日2020年8月14日 by cool-jupiter

海底47m 古代マヤの死の迷宮 55点
2020年8月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ソフィー・ネリッセ コリーヌ・フォックス ブリアンヌ・チュー システィーン・スタローン
監督:ヨハネス・ロバーツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200804001423j:plain
 

ジェイミー・フォックスの娘にシルベスター・スタローンの娘。ハリウッドにも親の七光りがあるようだ。それでもあちらのショービズは冷酷無比な生態系。結局はコネよりも実力あるもの生き残るはずだ。そういう意味でサメのように何億年も進化せずに生き残る生物というのは、完成形に近いのかもしれない。

 

あらすじ

ミア(ソフィー・ネリッセ)とサーシャ(コリーヌ・フォックス)は、親の再婚で姉妹となったが、まだお互いに打ち解けられていない。考古学者の父親は、二人でサメを観ることができる遊覧船に乗ることを提案する。しぶしぶ了承する二人だが、遊覧船乗り場には学校のいじめっ子が。二人はサーシャの友人が知るというダイビングスポットの穴場に向かうことにするが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200804001455j:plain
 

ポジティブ・サイド 

前作(といってもストーリー上の関連はない)『 海底47m 』で主人公姉妹がダイビングに至るまでの背景があまりにもアホ過ぎたと監督と脚本家も考え直したのか、本作の女子高生4人組が海に潜る理由はそこまで荒唐無稽ではない。女子高生=学校に通っている=冷酷非情な生態系に住んでいる、ということであり、いじめっ子から遠ざかるために穴場スポットに向かうという流れには説得力もある。また、この序盤の展開が終盤に活きてくる。このあたりも監督と脚本家が前作よりも真面目にプロットを練ってきた証拠である。予算もしっかりついたのだろう。

 

暗い海底に適応したために視力をなくしたサメというのも、なかなかに興味深い。前作では、見えているにもかかわらず目標に噛みつき損ねるばかりという、実に情けないサメであったが、本作はそこを逆手に取った。だったら、サメから視力を奪ってやれ、と。これも面白い試みである。山口県の秋芳洞に行ったことがある人であれば、鍾乳洞に適応して、目をなくした魚を見たことがあるだろう。進化の完成形のサメにも、こうしたことが起きても不思議はない。実際に『 ダーウィンが来た! 』で紹介されたことがあるように、ニシオンデンザメという、ほぼ100%目に寄生虫が住み着いて失明してしまっているサメも実在する。盲目のサメにも、それなりのリアリティがあるわけだ。

 

ストーリーは単純である。迷路状のマヤの海底遺跡に巣食う巨大ザメからどのように逃れるのか、これだけである。そこに酸素ボンベという究極のタイムリミットもついてくる。否が応にもハラハラドキドキさせられる。

 

本作は色々な先行作品への、よく言えばオマージュに満ち溢れている。悪く言えば、パクリだらけ。控えめに言えばクリシェ満載ということである。けれど、それで良いではないか。サメ映画などというのは大量生産され過ぎて、今さら新奇なアイデアというのはなかなか望めない。だからこそギャグとしか思えないサメ映画が陸続と生み出され続けている。本作でも小説版『 メグ 』を読んでいる人なら、思わずニヤリとさせられる展開が序盤にあり、これが終盤に効いてくる。ヨハネス・ロバーツ監督は『 MEG ザ・モンスター 』を観て、「あ、これは原作に忠実じゃない」と感じて、「だったら俺が小説にオマージュを捧げるぜ」と意気込んだに違いない。また、『 ディープ・ブルー 』のサミュエル・L・ジャクソンのあっけない最期を知っている人からすれば、本作のとある瞬間に強烈なデジャブを覚えることだろう。Jovianはそうだった。そして、思わず小さくガッツポーズしてしまった。多くのサメ映画は『 ジョーズ 』を超えようとして失敗してきた。ジョーズに敬意は払っても、越えられない。だったら他作品に敬意=オマージュを払うまで。そうした割り切りは嫌いではない。

 

ティーンエイジャー4人組のワーワーキャーキャーのパニック映画であり、それ以上でもそれ以下でもない。家族の絆だとか古代文明の謎だとか、そんなものは一切考慮する必要はない。夏と言えば海、海と言えばサメなのである。海に行けないならば映画館に行こう。ライトなファンならば、本作で充分に涼はとれる。

 

ネガティブ・サイド

海の中ということで、必然的に画面は暗くなる。それが前作では不吉な予感を増大させ、サメが出て来ずとも、状況そのものが恐ろしいのだという雰囲気につながっていた。本作には、そうした視覚的な効果はない。ライトで照らすとそこには・・・というのは洞窟やら地底世界、あるいは夜の森などでお馴染みのクリシェで、サメ映画の文法ではない。そもそもこのサメは光に反応しないので、そこから恐怖が生まれないのだ。

 

キャラクターの掘り下げも不十分だ。特に主役のミア。いきなりいじめっ子にプールに突き落とされるが、その時にびしょびしょに濡れてしまった教科書は、いったいどの分野の何というテキストなのか。それが海の生態系やサメに関する書籍であれば、引っ込み思案に見えるミアが一転、海の中で大化けを見せる、といったプロットも構想できるし、あるいは目が見えないサメは、嗅覚と聴覚が鋭いに違いない。だから、逃げ切るためにはこうした行動が必要で・・・といったリーダーシップを発揮する場面を生み出せただろう。実際はそんな構図はほとんどなし。どのキャラもピーチクパーチク騒がしいだけ。

 

酸素ボンベの酸素の減り方もムチャクチャだ。ゆっくり泳いでいる前半に大半を消費し、激しく動き回る後半に残り少ない酸素で激しく運動するという???な展開。サメ遭遇時点でのボンベの残量を40%ではなく、60%程度にしておくべきだった。

 

最終盤のミアとサーシャの行動も不可解の一語に尽きる。パニックになっていたと言われればそれまでだが、サメが嗅覚と聴覚、どちらを優先するかを冷静に判断すべきだった。血の臭いが充満する海を突っ切って泳ぐか?そこは冷静に迂回すべきだっただろう。海でも山でも空でも、パニックになる者が死亡し、冷静さを保つものが survive するのである。

 

総評

サメ映画というのは、『 シャークネード 』や『 シャークトパス 』のような真面目なギャグ路線と、『 MEG ザ・モンスター 』や本作のような真面目なホラー・スリラー・パニック路線の二つの系統に分化、進化しつつあるようである。どちらのジャンルにも良さがある。もしも夏恒例のサメ映画を観たいのなら、本作は格好の暇つぶしの一本である。大画面と大音響で鑑賞してほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

slip

滑る、の意。Oops, my hand slipped. = おっと、手が滑った、となる。英語でも日本語でも、これほど嘘くさい表現はあまりない。ちなみに「舌が滑った」は、a slip of the tongueと言う。Sorry, that was a slip of the tongue. = すまん、今のは失言だった、というように使う。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, イギリス, コリーヌ・フォックス, システィーン・スタローン, ソフィー・ネリッセ, パニック, ブリアンヌ・チュー, 監督:ヨハネス・ロバーツ, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 海底47m 古代マヤの死の迷宮 』 -クリシェ満載のサメ映画-

『 海底47m 』 -二兎を追うべからず-

Posted on 2020年8月3日 by cool-jupiter

海底47m 50点
2020年8月1日 Amazon Prime Videoにて鑑賞 
出演:マンディ・ムーア クレア・ホルト
監督:ヨハネス・ロバーツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200803000349j:plain
 

夏と言えば海、海と言えばサメ。映画ファンにとってはサメ、そしてゾンビの季節が到来した。アメリカでの評判がイマイチ、というか賛否両論あって劇場公開時にスルーしてしまった作品。続編からC級パニックスリラーの臭いしか漂ってこないので、これは見るしかないと思い、本作を予習鑑賞。

 

あらすじ

リサ(マンディ・ムーア)とケイト(クレア・ホルト)は仲の良い姉妹。メキシコでリサのボーイフレンドであるステュを交えて楽しいバカンスを過ごすはずが、リサはすでにフラれてしまったことを言い出せずにいたのだった。傷心のリサを「つまらない女じゃない」と分からせてやろう、と励ますケイト。二人は遊びに出かけたクラブで会った男たちから勧められたシャーク・ケイジ・ダイビングに挑戦することになったのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

パニックものは大きく二つに分けられる。未知の生物あるいは現象によって人々がパニックになるもの、そして状況そのものによって人々がパニックになるもの。COVID-19は未知のウィルスであるが、コロナウィルスに属する、または類するという点では既知とも言える。だからこそ人々はそこまでパニックに陥ってはいないし、どこか現実感も薄い。相手が目に見えないからだ。もう一つの状況型だが、これの良いところは、その怖さをたいてい体験したことがある、あるいはありありと想像できるところにある。その意味では本作の「海の底に沈められる」というのは、とてつもなく怖いシチュエーションである。窒息および溺死の恐怖が常にそこにあるからだ。

 

そこにサメ、しかも狂暴なホオジロザメを放り込んでくるのだから豪勢だ。サメ映画とはすなわち、人間がホオジロザメに襲われる、または喰われる。これである。サメなんか見たことないよ、という人も古典的名作『 ジョーズ 』のタイトルは聞いたことぐらいはあるだろうし、ジョーズのテーマ曲は絶対に聞いたことがあるはずだ。殺されるよりも怖いことの一つに、生きたまま喰われるというものが挙げられるだろう。ホオジロザメはその恐怖を味わわせてくれる数少ない生き物である。

 

海中および海底で酸素が徐々に尽きていくという恐怖。そしてどこにいるか分からない、いつ襲ってくるか分からないホオジロザメの恐怖。これらが二重に組み合わさった本作は、夏の風物詩であるB級サメ映画として、近年ではなかなかの掘り出し物である。オチも適度にひねりが効いている。#StayHomeしてレンタルやストリーミングで楽しむには充分だろう。

 

ネガティブ・サイド 

まずシャーク・ケイジ・ダイビングをやろうとする動機が不純である。というか、つまらない。男にフラれた。その男に振り向いてもらいたい、自分は退屈な女じゃないと証明したい・・・って、リサ、お前はアホかーーーー!!!何故そこでサメが出てくるのか?元カレを振り向かせたいのなら、色々な男と遊びまくって、それでもステディは誰にも決めていないということをアピールせえよ!姉妹で遊ぶのもいいけど、普通の男友達数人と普通に遊べよ。その方がよっぽどアピールになるはず。まず、シャーク・ケイジ・ダイビングをするまでのプロットに無理があり過ぎる。おそらく元カレ役の俳優を出すと、それだけギャラが生じて、映画全体の budget を圧迫したのだろう。

 

海中でも、サメは思ったほどは出てこない。これも低予算ゆえか。観る側はサメ映画だと期待しているわけだが、サメの登場頻度が高くなく、なおかつこのサメ、目は見えているにも関わらず、次から次へと目標を外す。サメの登場シーンを作るためだけのシーンで、真に迫ったスリルと恐怖が生み出せていない。観る側にハラハラドキドキを起こさせたいのなら、その対象を一つに明確に絞るべきだった。サメを優先するなら、救助に来たダイバーたちを次々に食い殺すといった展開が考えられるし、酸素ボンベの残量を優先するなら、起死回生の頭脳プレー、例えば海中に不法投棄されたゴミやら何やらを使って酸素を作る、あるいは海上と連絡をつけるなどの展開も考えられる。本作は贅沢にも両方の展開を盛り込もうとして、サメの方が疎かになってしまった。本末転倒である。

 

Jovianはダイビングをしたことがないが、本作にはツッコミどころが山ほどある。テイラーやハビエルはシャーク・ケイジ・ダイビングでビジネスをする許可を当局から得ているのか?また、ケイジの底が板や網ではなく、目の大きい格子になっているのもおかしい。あれだと足がハマって動けなくなったり、もしくは飛び出た足をサメに食いつかれたりするかもしれないではないか。体長1メートルぐらいのサイズのサメなら、飛び出た足や腕をガブリとやることも十分に考えられる。

 

また、リサとケイトは顔の前面だけをマスクで覆っているが、あれで耳は聞こえるのか?いくら水の方が空気よりも音の伝導効率が高いとはいえ、マスクの中の空気の振動は水にまでは伝わらないだろう。本作の水中での会話シーンは何から何まで不可解だ。海上の船とも無線で交信するが、骨伝導型の無線でも使っているというのか。監修にプロのダイバーを起用しなかったのは、これも低予算ゆえか。

 

最大のツッコミどころは、ストーリーのオチだろうか。これはこれでアリだとは思うが、『 ゴーストランドの惨劇 』のように、そこからもう一波乱を生み出せれば、“ちょっと面白いサメ映画”から“かなり面白いサメ映画”になれただろうにと感じる。

 

総評

ちょっと面白いサメ映画であり、ツッコミどころ満載のシチュエーション・スリラーである。細かいストーリーや様々なガジェットのディテールを気にしては負けである。ハラハラドキドキを期待して、そしてハラハラドキドキできる場面を最大限に味わうのが本作の正しい鑑賞法である。90分とコンパクトにまとまっているので、#StayHomeに最適だろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

break up with ~

~と別れる、の意である。しばしば romantic relationships の文脈で使われる。同じような表現に、split up with ~やpart ways with ~があるが、恋愛のパートナーと別れるという時の最も一般的な表現といえば、break up with ~で決まりである。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, イギリス, クレア・ホルト, シチュエーション・スリラー, パニック, マンディ・ムーア, 監督:ヨハネス・ロバーツ, 配給会社:ギャガ・プラスLeave a Comment on 『 海底47m 』 -二兎を追うべからず-

『 ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 』 -英国流・痛快コメディ-

Posted on 2020年7月18日 by cool-jupiter

ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 75点
2020年7月12日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ペッグ ニック・フロスト
監督:エドガー・ライト

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200718113502j:plain
 

“映画館の危機は、俺たちにまかせろ!” 何とも頼もしいキャッチコピーではないか。塚口サンサン劇場で『 ゾンビランド 』がリバイバル上映された時にも感じたし、コロナ禍で新作を後悔しづらい、あるいは客席を全て埋められないからこそ、ジブリ映画のtheatrical re-releaseを行っている日本の各劇場を見ても強く感じた。すなわち、良い映画は劇場公開10年が経過したら再上映をすべきだということ。

 

あらすじ

ロンドンの超エリート警官ニコラス・エンジェル(サイモン・ペッグ)は、「お前がいると我々が無能に見える」という理由で上層部に疎まれ、田舎町サンドフォードに左遷される。そこでも張り切るエンジェルだが、所長のボンクラ息子バターマン(ニック・フロスト)と相棒を組まされる。ある日、怪死事件が発生。これは殺人事件だとエンジェルは直感するも、署長以下の面々はただの事故だと言って取り合わない。エンジェルは独自に捜査を開始するのだが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200718113541j:plain
 

ポジティブ・サイド

「栴檀は双葉より芳し」と言うが、本作にもエドガー・ライト監督らしさが随所に見て取れる。最も印象的なのはシーンの入れ替わりのテンポの良さ。ドアノブや手錠のアップのカットをアクションとアクションの合間の一瞬に挿入して、次の展開へと進んでいくのがエドガー・ライト作品の様式美である。本作の、特に序盤における圧倒的なテンポの良さは、観る者を一気に物語世界に引きずり込む。そして主人公エンジェルの悲喜こもごもにシンクロさせる。

 

音楽や映画とのコラボも同監督のスタイル。BGMではなく歌そのものがシーンとよくマッチしている。このスタイルが『 ベイビー・ドライバー 』で結実、完成する。特にエンジェルが英国流・都井睦雄とでも名状すべきいで立ちと武装でサンドフォードの町に再臨する際の楽曲(“Blockbuster!”か?)は、異様なまでにシーンと似合っている。

 

サイモン・ペッグとニック・フロストのコンビが『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』以上にハマっている。エリート警察官と地方警察署所長のボンクラ息子がふとしたことから徐々に意気投合し、バディになっていく様は、男なら誰もが納得できるようなアホな過程を通じて描かれる。具体的には酒と深夜のビデオ鑑賞である。男が友情を育むには、このどちらかがあれば良い。

 

謎解きもそれなりに意外性があり、伏線の張り方もフェアである。イングランドのお国柄はそこまで深くは知らないが、統計不正や公文書改ざん、あるいは統計学的に優位とされるサンプル数を集めようとしないどこかの島国の政府は、本作のサンドフォードを奇矯な町として笑うことはできないだろう。この毒のあるユーモアも面白い。

 

アクションシーンでも魅せる。『 チェイサー 』を彷彿とさせる緊迫した追走劇に容赦の無いギャグを放り込んでくるのもエドガー・ライト流。韓国映画は警察を徹底的に夢想な組織として描くことが多いが、英国映画は警察をユーモラスに描く。『 フィルス 』などは好個の一例だろう。そして、もう終わるかな?と思わせたところからもう一押しのアクション。しかも、古き良き時代の怪獣映画、特撮映画のテイストを盛り込んでくれているのだから、これには『 ゴジラ 』好きのJovianは個人的に大満足。CGがもはや現実と区別できないレベルに到達しているが、だからこそ特撮的な演出の良さが際立つ。鬼才エドガー・ライトが自身の欲望や願望を渾身の力で映像化した一作である。

 

ネガティブ・サイド

機雷などは片田舎の警察では処理しきれないのではないだろうか。もちろん、警察にも危険物や爆発物処理のプロフェッショナルはいくらでもいるだろうが、それはロンドンのような中央の話。エンジェルは即座にロンドンもしくは軍に報告すべきでなかったか。

 

バターマンのジャムでの悪ふざけはかなり陳腐に感じた。見た瞬間に「あ、これは『 チ・ン・ピ・ラ 』と同じや」と直感した。小道具の使い方も同じ、その後の展開のさせ方も同じ。洋の東西や時代を問わないクリシェな手法なのだろう。もう少し捻った、あるいはさりげない演出を求めたい。

 

せっかくビル・ナイを起用しているのだから、最後の最後にもっとギャフンと言わせる展開を作っても良かったのではないか。序盤に少々嫌味な上役にこれだけの大御所が出てくるのだから、終盤に何かあるだろうと普通は期待するだろう。

 

総評

こういう古い、しかし面白い作品というのを映画館はもっともっとリバイバル上映すべきだろう。哀しいニュースであるが、先日エンニオ・モリコーネが御年91歳で旅立ってしまった。今こそ『 続・夕陽のガンマン 』などのドル箱三部作を再上映する機運が高まっていると思う。“一生に一度は映画館でジブリを観よう”と言うが、一生に一度は名作西部劇や『 スター・ウォーズ 』、『 ゴジラ 』を劇場の大画面と大音響で堪能したいではないか。感染症が流行中だからではなく、もっと積極的に過去の名作や傑作を掘り起こすべきだ。それが過去の映画ファンを取り戻すことにも、新たな映画ファンを発掘することにもつながるはず。そして、なによりも現今の邦画のレベルの低さを白日の下にさらけ出し、業界の自浄作用を働かせ、ライトなファンの鑑賞眼を養うことにもつながるのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You are pulling my leg.

pull one’s leg=からかう、冗談を言う、ふざける、ということである。DVDを観るかと尋ねられたエンジェルが、バターマンに一言こう返す。定時間際に上司にドサドサドサッと「明日までに頼む」と仕事を渡されたら、“You’re pulling my leg, aren’t you?”と心の中で毒づこうではないか。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村   

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, イギリス, サイモン・ペッグ, ニック・フロスト, ブラック・コメディ, 監督:エドガー・ライト, 配給会社:ギャガ・コミュニケーションズLeave a Comment on 『 ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 』 -英国流・痛快コメディ-

『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

Posted on 2020年7月5日 by cool-jupiter

カセットテープ・ダイアリーズ 70点
2020年7月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ビベイク・カルラ ネル・ウィリアムズ ヘイリー・アトウェル
監督:グリンダ・チャーダ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200705002649j:plain
 

“Born to Run”と“Born to be Wild”なら、おそらく後者の方が有名で、なおかつ多くの人の耳にも馴染みがあると思われる。しかし、ブルース・スプリングスティーンの“Born to Run”には、何か人間の心の根源に訴えかけてくるような不思議な力が宿っている。スプリングスティーンをほんの少ししか知らなかったJovianでもそれは感じることができた。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200705002838j:plain
 

あらすじ

1987年のイングランド。パキスタン系移民のジャベド(ビベイク・カルラ)は不景気と人種差別のはびこる田舎町ルートン、そして保守的な家族からの脱出を夢見ていた。ある時、カレッジで知り合ったループスからブルース・スプリングスティーンのカセットを渡される。その音楽を聴いたジャベドは、世界観を一変させられるような影響を受けて・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200705002857j:plain
 

ポジティブ・サイド

ボブ・ディランがノーベル文学賞を贈られるのだから、ブルース・スプリングスティーンが再評価を受けても良い。まさに世に出るべきタイミングで出てきた作品であるというのが第一印象。『 イエスタデイ 』がビートルズを再評価し、日本でも『 君が君で君だ 』という怪作で尾崎豊が(妙な意味で)再解釈された。スプリングスティーンを知らなくても、彼の音楽そして歌詞が一部の人間の心に突き刺さるというのは理解しやすい。日本でも1970年代生まれなら、尾崎豊や甲本ヒロトの歌の世界観に魂を持っていかれた人はかなりいるはずだ。今の若い世代なら誰だろう?あいみょんなどだろうか。そうした自分にとっての偶像を重ね合わせて見れば、本作の持つパワーは十分に理解可能である。

 

政治的なメッセージが込められている点も邦画はもっと見習うべきだ。マーガレット・サッチャーの死去から7年。死亡直後は「鉄の女」として、何はともあれ改革の旗手として数々の経済政策を断行した点が評価された。しかし、冷静に分析してみれば、サッチャーの遺産が現在の英国の経済成長の足かせになったことは否めない。また、その政策が社会的に弱い層への負担増につながったことも事実である。そうした時代を批判的に見つめる視点が盛り込まれている。本作には、Black Lives Matter運動をリアルタイムに目撃している我々からすると非常に興味深いデモの風景が収められている。もちろん原作の執筆中、あるいは映画の撮影中にそうした運動の勃興など予想出来ようはずもない。しかし、『 ジョーカー 』が示したように、弱者から奪うことは極めてリスキーな行為である。本作は、人間の強弱の源を経済的な富裕さにではなく人間関係の充実に求めた。これはこれで正解かどうかは分からないが、一つの解答だろう。家族や友人、恋人との関係が良好であれば、それだけで人生は何とかなるものだ。

 

恋人。そう、ジャベドにはおらず、しかし、親友のマットには恋人がいる。そのことを開始早々に見せつけられ、イングランド人だとかパキスタン系移民だとかいうことではなく、一匹の雄として負けている。そのように見る側は思わされる。だからこそ、ジャベドがイライザと距離を縮め、デートにこぎつけ、門限も破り、そして晴れて童貞を卒業する流れに素直に祝福の気持ちを抱くことができる。ジャベドとイライザ、そしてループスがスプリングスティーンの“Born to Run”に乗って町を駆け巡るシーンは、本作のハイライトの一つである。

 

本作の特徴として、保守的な家族の中での子どもたちだけではなく、夫婦の在り方に踏み込む描写があることだ。一見すると独裁者にしか見えないジャベドの父にも、ハンサムで優しく愛妻家な頃があったのだ。そして、一見して被征服者である妻が暴君の夫と渡り合う。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリーの一家にも、このような家族だけの秘話があったのではないか。そのように思わされた。

 

本作は、そのフレディ・マーキュリーと同じく、アイデンティティを鋭く問う作品でもある。その中でも上手いなと思わされたのは、昼興行(デイタイマー)のシーン。パキスタンの伝統的な音楽とブルース・スプリングスティーンの間を揺れ動くジャベドの姿に、思いがけない好感を抱いた。アイデンティティに悩む者は、アイデンティティを人よりも多く持っているから悩むのである。つまりはジレンマだ。だが、自分が複数のルーツを持つことをそのまま受け入れることができれば、それで良いのではないだろうか。大坂なおみが日本の(アホな)メディアに「あなたはアメリカ人ですか、日本人ですか?」と問われて、「私は私」と答えたのと同じである。家族との約束事を破ることが、家族との和解の素地になるという演出には感じ入った。『 ルース・エドガー 』でスッキリしない気分にさせられたという向きは、本作で口直しが可能である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200705002916j:plain
 

ネガティブ・サイド 

1980年代の町の不景気具合とその悲哀は、ほぼ同時体の設定の『 リトル・ダンサー 』の描写の方が上手であると感じた。また、なけなしのカネを息子の教育につぎ込むことの意味、その背景が本作は軽い。「ユダヤ人の真似をしろ」というのがレイシズムかどうかはさておき、パキスタン系移民ならば医師か弁護士、公認会計士を目指せというのは間違いなくステレオタイプである。また勉強に打ち込まなかったらタクシー・ドライバーで一生を終えるぞという脅し文句は映画『 タクシードライバー 』を遠回しにディスっているように聞こえた。

 

ジャベドの周囲の人間関係の描写の濃淡にメリハリがなかった。近所の親友マットとの距離と、カレッジで知り合うループスとの距離、それらをジャベドが詩に書きつけるような描写や、または友情についてのくさい歌詞の一つや二つでいいから描き出されていればと思う。それらがあれば、“父と息子”の詩の威力がもっと増したと思われる。

 

個人的に気になったのは、カレッジの学長らしき先生が「ブルース・スプリングスティーンは良いが、現在流行中のこの歌手はrubbish=ゴミだというのは皆が知っている」というセリフ。またマットの父親(典型的な60~70年代の髪型!)の「ビリー・ジョエル?アホか、お前は。これだから子育ては難しい」というセリフも地味に子の心を抉る。世俗の流行や個人の嗜好に対してそこまで言うか?一歩間違うと立派な差別になると思ったが・・・

 

総評

“Thunder Road”と“Born to Run”を親父が昔持っていたオールディーズのCDで聞いたことがあるレベルのJovianでも、本作は十分に堪能することができた。また70年代の洋楽にはさっぱり疎いJovian嫁も本作を堪能できた。なので、ブルース・スプリングスティーンのことを特に知らなくても、本作は楽しめるはずである。『 イエスタデイ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』など、英国初の音楽をフィーチャーした映画は外さない。劇場の大スクリーンと音響で味わうべき一作。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

history

言わずと知れた「歴史」の意味だが、文脈によっては「過去のもの」、「もう終わってしまったもの」という意味でも使われる。

 

Forget Nicolas Cage, he’s history.   ニコラス・ケイジはもう忘れろ、奴はもう終わった。

She and I are history.   僕と彼女はもう終わってるんだ。

Is Gamera going to be history?   ガメラはこのまま終わってしまうのか?

 

色々と応用してみよう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ネル・ウィリアムズ, ビベイク・カルラ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・アトウェル, 伝記, 監督:グリンダ・チャーダ, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

Posted on 2020年6月29日2020年6月29日 by cool-jupiter

ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200629193747j:plain
 

『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。

 

あらすじ

 

ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200629193822j:plain
 

ポジティブ・サイド

刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。

 

昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトもカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。

 

『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。

 

『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランド、ジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。

 

そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートとジェームズ・マカヴォイなのである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200629193847j:plain
 

ネガティブ

ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。

 

母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200629193909j:plain
 

総評

音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out of place

場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で

 

Wear this, don’t wear that, don’t step out of place

Just smile, don’t say too much, put that makeup on your face

Just keep pretendin’ you’re having a good time

‘Cause that’s the price of fame when you’re standing in the line

 

という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。

 にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ジュリー・ウォルターズ, ソフィー・オコネドー, ヒューマンドラマ, 監督:トム・ハーパー, 配給会社:ショウゲート, 音楽Leave a Comment on 『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

『 17歳のエンディングノート 』 -Live as if you were to die tomorrow-

Posted on 2020年5月23日 by cool-jupiter

17歳のエンディングノート 65点
2020年5月21日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング カヤ・スコーデラリオ
監督:オル・パーカー 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200523101421j:plain
 

『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー 』の監督作。COVID-19禍が縮小傾向とはいえ、第二、第三波は来る。まさか『 フィフス・ウェイブ 』ような間抜けにもほどがある第五波が来るとは思っていないが、世界の死者数などを知ると命のはかなさについて考えざるを得ない。そこで本作をチョイス。

 

あらすじ

テッサ(ダコタ・ファニング)は若くして癌を患っている。そしてついに医師に余命宣告を受けた。彼女は死ぬまでにやりたいこと決めて、それらを実行していく。そしてテッサは最近隣に引っ越してきたアダムとの距離を確実に縮めていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

こういうストーリーでは、死に行く主人公よりも、その周辺のキャラクターが光り輝く。本作も例外ではない。テッサの父がアダムと出会って語る言葉の前半は、全ての父親に共通する心理だろう。そしてその言葉の後半は、『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』におけるロブ・リグルや『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』の杉本哲太のそれと同じである。病気の娘を輝かせるのは父親というのは、古今東西の映画文法のようである。ベタではあるが、やはりオッサンの好演に心を揺さぶられる。

 

テッサの家族が一致団結していないことが本作のアクセントになっている。必死で娘に向き合う父親、その父親とは離縁していて、娘の看病や介護ができずにおろおろする母親、そして姉の病気を正しく理解するにはまだ幼すぎる弟。こうした、ちょっと普通ではない家族だからこそ、テッサは時に傷つき、そして救われもする。そして若くして妊娠する親友に、とある秘密を抱えた隣家の青年と、家族外でテッサを取り巻く面々も多士済々だ。テッサの親友のゾーイと恋人アダムが絡まないのも潔い。変に人間関係をこねくり回すよりも、これぐらいがちょうど良いと感じた。

 

『 マトリックス レボリューションズ 』のエージェント・スミスは“The purpose of life is to end.”と喝破したが、本作はその逆のテーマを非常にベタな手法で力強く称揚する。生きるからには愛し愛されたいものである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のテッサの屋内スカイダイビングのシーンは、おそらく顔だけ差し替えている。このアトラクションはフェイスマスクをつけることが多い。つけない場合は、鼻の穴や唇が常にプルプルすることになる。ダコタ・ファニングの変顔を、監督が見せたくなかったのか、それとも本人が嫌がったのか。いずれにせよ、死ぬまでにやりたいことをやるというのが本作のコンセプトなのだから、変にCGなどは使わないでほしかった。

 

中盤にアダムが街中に思わぬ仕掛けを施すが、時間的に、また労力的にちょっとこれは不可能ではないかという仕事をやってのけている。非常に良いサプライズなのだが、もうちょっとリアリスティックにしてほしかったところ。

 

テッサが自室の壁に書いていくTo do リストが少々弱い。というよりも、始まりと終わりが上手くつながっていないというか、死ぬまでにやりたいことと、開き直ってもうやっていることが、ごっちゃになっている部分があった。「明日死んでもいいように今日を生きろ」というのが本作のメッセージの一つである。ならば、そのようにテッサが思い立って行動を始める瞬間を、もっとドラマチックに描いてほしかったと思う。

 

総評

よく練られた話である。100分ほどと、コンパクトにまとまっているし、ストーリーやキャラクター同士の関係も適切な範囲でのみ盛り上がる。Jovianはエル・ファニング推しであるが、姉ダコタも素晴らしい役者であると感じる。躊躇なく下着姿になって海に向かって突撃するシーンはまさに青春である。女子高生の娘を持つ父親が、家族で鑑賞して、そして泣いて見せればよいのではと思う。娘が父の愛の大きさと深さに感動するか、それとも気持ち悪いと感じるか、そこは諸刃の剣だろうが。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

drift away

訪問看護師がテッサに「疼痛緩和が進めば、やがて意識がなくなる」と語った、“意識がなくなる”の意味である。物理的にドリフト的に本来の場所から逸れて行ってしまうという意味と、意識が今この瞬間から離れて行ってしまうという意味の二つがある。後者については、オールド・ロックンロールのファンならばロッド・スチュワートやレイ・チャールズ、ドゥービー・ブラザーズやローリング・ストーンズが歌った“Drift Away”=『 明日なきさすらい 』を知っているはずだ。I wanna get lost in your rock and roll and drift away!

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, イギリス, カヤ・スコーデラリオ, ダコタ・ファニング, ラブロマンス, 監督:オル・パーカー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 17歳のエンディングノート 』 -Live as if you were to die tomorrow-

『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

Posted on 2020年5月16日 by cool-jupiter

愛人/ラマン 75点
2020年5月15日 レンタルBlu rayにて鑑賞
出演:ジェーン・マーチ レオン・カーフェイ
監督:ジャン=ジャック・アノー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200516181911j:plain
 

『 月極オトコトモダチ 』とは裏腹のテーマの作品を鑑賞してみたいと思い、本作があったなと思い出した。確か大学生3年生ぐらいの時に、当時急成長中だったTSUTAYAでVHSを借りて観た。当時、純情だったJovian青年は『 ロミオとジュリエット 』のオリビア・ハッセーを観た時と同じくらいの衝撃を味わったのだった。

 

あらすじ

20世紀初頭のフランス領インドシナ。少女(ジェーン・マーチ)は偶然にも裕福な華僑青年(レオン・カーフェイ)と知り合い、性的な関係を持つようになる。愛のないセックスに耽る二人だが、少女も青年も家族に問題を抱えており・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の一人、レオン・カーフェイが、『 グリーンブック 』で言及した韓国系カナダ人にそっくりなのである。それが原因なのかもしれないが、異邦人の悲哀が確かに感じられた。YouTubeに行けばいくらでもinterracial relationshipにあるカップルたちの日常の動画や結婚生活、喧嘩の模様などが赤裸々に語られている時代である。それは取りも直さず、ようやく時代がinterracial relationshipを許容できるようになってきたことの表れでもある(移動や情報公開のテクノロジーが行き渡った面も無論あるが)。一方で20世紀前半のインドシナで、華僑の青年と宗主国フランスの少女という、互いにアウェーな状況は、どこか『 ロスト・イン・トランスレーション 』を彷彿させた。実際に、日本語に英訳がつかなかったように、本作でも中国語に字幕が存在しない。仕事をせずとも暮らしていける富裕なこの男は世界に居場所がない。その居場所として少女を見出していく様ははかなげで悲しい。スーパーリッチなアジア人青年キャラクターとして『 クレイジー・リッチ! 』のニックが思い出される。本作の華僑青年のキャラクター造形はニックに影響を与えていてもおかしくない。

 

もう一人の主演であるジェーン・マーチは、まさにこの限られた時期にしか発揮することのできない魅力や魔力を存分に発揮したように思う。『 ガール・イン・ザ・ミラー 』でも感じたことだが、邦画の世界には脱げる役者が少ない。男でも女でもである。その意味では本作は、30年前の映画でありながら邦画の30年先を行っている。つまりは stand the test of timeな作品である。脱ぐから偉いのではなく、その瞬間にしか作れない作品をしっかりと作り、世に送り出している。本邦では、脱ぐ=話題作り、落ち目女優の勝負、体当たりの演技ぐらいにしか捉えられない。まことに貧相で皮相的である。脱ぐからセクシーだとかエロティックになるわけではない。聴診器で心音を聞いたり、マンモグラフィー検査や乳房の触診で興奮する男性医師などいない。物質としての女体に男は興奮するのではない。それへの距離を詰めていく過程に最も興奮するのである。嘘だと思うなら本作を具に観よ。最も官能的なのは、車中で男が少女の指に自らの指を重ねていくシークエンスであり、前戯やセックスそのもののシーンではない。

 

監督のジャン=ジャック・アノーは『 薔薇の名前 』でもかなり唐突なセックスシーンを描いていた。確か隠れていたところを見つかった少女が、自分から少年の手を取り、自分の胸を触らせて篭絡していく過程が妙に艶めかしかった。自身の問題意識の中に人間関係とセックスがあったのだろう。セックス=愛情表現と考えがちな男のちっぽけな脳みそではなかなか消化しきれないが、セックス=自己表現の一つとしていたフランス人少女の姿は、色々な因習を突き破ったという意味で本土ではなく植民地における『 コレット 』だったと言えなくもない。

 

主演二人に名前がない設定も素晴らしい。『 母なる証明 』の母にも名前がなかったが、名前を持たないことでその人間の“属性”が一気に肥大化し、かつ“個性”が一気に矮小化される。COVID-19における報道を考えてもらいたい。志村けんや岡江久美子のように、“名前”のある人が死亡すると、我々は戦慄させられる。一方で名前が一切出てこない報道、たとえばイタリアやアメリカの死者数を伝えられても「あの国、ヤバいな」ぐらいにしか感じない。男と女、華僑と白人、青年と少女。様々な属性に縛られる二人の関係を、どうか堪能してほしい。そして、男というアホな生き物の生態に一掬の涙を流してほしい。

 

ネガティブ・サイド

寄宿舎でもう一人いる白人少女との語らいのシーンがもっとあっても良かった。どこの誰が売春をやっていてだとかいう話よりも、男に〇〇したら幼児返りしただとか、演技で男を喜ばせてやっただとか、そういう男を震え上がらせるようなトークが聞ければ、このラマンはファム・ファタール的な属性をも帯びたことだろう。

 

またお互いの家族とのシーンも少々物足りなかった。居場所となるべき家で地獄の責め苦を味わう、あるいは虚無的な気分にさせられる。だからこそ、市場の喧騒のただ中にある“部屋”でセックス三昧になってしまう。それはとてもよくわかる。ただ、「中国人と寝やがって!」と激昂する兄や不甲斐ない母の描写がもっと序盤にあれば、ジェーン・マーチを性に積極的な少女以上の存在に描けていたと思うのである。

 

総評

時を超えて観られるべき作品である。汚らしいメコン川が、なぜか美しく懐かしく感じられる映像世界も素晴らしい。世に悲恋は数多くあれど、たいていは結ばれないままに終わってしまう。本作はいきなり結ばれる。そこから先にどうしても進めないというジレンマが痛々しい。官能シーンも良いが、鑑賞すべきは人間ドラマの部分である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Repeat after me.

リピート・アフター・ミー、つまり「 続けて言ってみましょう 」の意である。セックスの前、最中、もしくは後に女性に何かを言わせたいという男性は多い、というか大多数だろう。それを実際にやったカーフェイに拍手。そして、その行為の余りの悲しさと虚しさに胸が押しつぶされそうになった。Jovianは商売柄、しょっちゅうこのフレーズを使うが、プライベートでこれを言う、もしくは言われるようになれば、あなたは英会話スクールを卒業する時期に来ていると言える。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, イギリス, ジェーン・マーチ, フランス, ラブロマンス, レオン・カーフェイ, 監督:ジャン=ジャック・アノー, 配給会社:日本ヘラルド映画Leave a Comment on 『 愛人/ラマン 』 -セックスから始まる悲恋の物語-

投稿ナビゲーション

過去の投稿

最近の投稿

  • 『 ミッドナイト・スカイ 』 -ディストピアSF風味の人間ドラマ-
  • 『 カリキュレーター 』 -平均的なロシアSF-
  • 『ズーム/見えない参加者 』 -Zoomらしさをもっと前面に出せ-
  • 『 おとなの事情 スマホをのぞいたら 』 -平均的なコメディ-
  • 『 スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち 』 -究極の裏方たち-

最近のコメント

  • 『 TENET テネット 』 -細かい矛盾には目をつぶるべし- に cool-jupiter より
  • 『 TENET テネット 』 -細かい矛盾には目をつぶるべし- に skinjob より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 新聞記者 』 -硬骨のジャーナリズムを描く異色作- に cool-jupiter より

アーカイブ

  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿の RSS
  • コメントの RSS
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme