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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

セント・オブ・ウーマン/夢の香り

Posted on 2018年5月27日2019年3月4日 by cool-jupiter

『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』 90点
1995年 WOWOWで視聴 以後、VHSとDVDで複数回観賞
主演:アル・パチーノ
監督:マーティン・ブレスト

日本一の学生数を誇るマンモス大学が揺れている。そのブランドが揺らいでいる。学校という組織が一学生に全てを押しつけようとしている(ように見える)構図は異様ですらある。己の良心が咎める行動を人は取るべきなのか否か。その良心を裏切る行動に駆り立てる背景にあるものは何か。そうしたことを考える時、多くの映画ファンの頭には本作がよぎったのではないか。対立の構図は異なるものの、プレッシャーを与えてくる校長と、自分の良心に最後まで従うチャーリー。どこぞのアメフト部の監督・コーチと部員のようではないか。

ハイライトシーンはいくつかあるが、やはりタンゴのシーン、アル・パチーノがチャーリーを擁護する大演説、最後の”ダフネ”のシーンだろうか。時代を超える作品(Timeles Ageless Classic)で、時々思い返して見てみたくなる傑作である。

アル・パチーノ+アメリカンフットボールでは『 エニイ・ギブン・サンデー 』も良作。勝利を目指すことは大切なことではあるが、勝利以上に大切なものがある。自分というものが存在できるのは他人というものがいるからだ。チームとして戦うことの意義を力強く語るアル・パチーノとそのことを受け止める若きジェイミー・フォックスに胸打たれる感動作だ。

フットボールを通じた差別克服と友情の傑作『 タイタンズを忘れない 』も捨てがたい。某大学の元コーチは「相手のQBと友達なのか」と尋ねたらしいが、そこには友達でなければ潰していいという論理が透けて見える。友達と友達ではない者の境界線など、実は非常にあやふやなもので、いつの間にかその線を超えている者、勇気を出して踏み越えていく者、時間をかけて踏み越えて行く者たちが描かれる本作は、アメフトをプレーする、志す者なら誰もが見るべき良作であろう。

Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, S Rank, アメリカ, アル・パチーノ, ヒューマンドラマ, 監督:マーティン・ブレスト, 配給:ユニヴァーサル・ピクチャーズLeave a Comment on セント・オブ・ウーマン/夢の香り

『 恋は雨上がりのように 』 -おっさん映画ファンはとにかく観るべし-

Posted on 2018年5月27日2020年2月13日 by cool-jupiter

『恋は雨上がりのように』 70点
2018年5月26日 MOVIXあまがさきにて観賞
主演:小松菜奈 大泉洋
監督:永井聡

*本文中に映画のプロットに関するやや詳しい記述あり

小松菜奈のキャリアにおいて、この作品はベストである。原作の橘あきらの再現度の高さもさることながら、その目力を遺憾なく発揮することのできる作品と監督にようやく巡り合えたか。これまでの出演作、たとえば『 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』にせよ『 バクマン 』にせよ、小松の存在感に頼っていた感があった。しかし本作はまぎれもなく小松の演技力によって成立した力作である。

小松菜奈演じる橘あきらは陸上選手として優秀な記録も持ち、将来も嘱望されていたが、アキレス腱断裂により部活動は半引退状態。ファミレスのアルバイトに精を出す日々。バイト仲間や職場の古株は大泉洋演じる店長をうだつの上がらない男として全く評価しない。しかし、そんな冴えない中年男に惹かれ、思い切り素直に気持ちをぶつけていくも、最初の告白は全くの空振り(ここまではトレイラーにあるのでネタバレにはならないと判断)に終わってしまう。

「誰かのことをたまらなく好きだ」という気持ちが溢れ出る時、人はとんでもない行動を取ってしまうことがある。しかし、それが恋愛感情というモノなのだ。シャツのシーンはドン引きする向きよりも、共感出来てしまう向きの方が遥かに多いのではないか。なぜなら恋する若者であのようなことをできたら・・・と夢想しない者はいないだろうし、好きな女の子のリコーダーを実はこっそり吹いたことがある、などというのはこの数十年間、日本の津々浦々で実際のネタとして報告されてきているではないか。そして病院に連れて行ってもらったその日の夜の悶々とした様子や、車中での小悪魔的な目線など「小松菜奈って、ここまで色気あったっけ?」と思わされた諸兄も多いはず。永井聡監督、なかなかの手練れである。同工異曲の面白作品ではアメリカ映画の『 スウィート17モンスター 』がある。十七歳の女子高生が暴走してしまうシーンだけなら、こちらも負けていない。

一方の店長は、くたびれた大人の男よろしく、頭で考えた結果、色々なものを拒絶する。それはあきらとの仲であったり、別れた妻との関係修復であったり、あるいは小説家への志してあったり、会社での出世もそうである。年齢や世間からの目(「その世間様っつうのを連れてこんかい!!」と怒鳴る『 焼肉ドラゴン 』も楽しみである)などを理由に、まっすぐに迫って来るあきらをとにかく受け流そうとする姿勢に、元TOKIOの山口メンバーにもこのような思料があれば・・・と不謹慎にも考えてしまった。

この手の映画ではやや珍しくあきらは女友達と対立してしまう。部活とバイト、友情と色恋、どちらが大切なのだ、と。しかし、唐突ではなく、ほんのちょっとした前振りを積み重ねて行きながらのケンカなので、たとえば『 ママレード・ボーイ 』であったような唐突過ぎるケンカになっていない。この対立の構図そのものが、まさに雨降って地固まるを描いており、ここでも作品全体に通低する”雨”が現れてくる。

雨で印象的なシーンは2つ。学校からの帰り道で店長との出会いを回想するシーンと、バイトのシフト外で店長を訪ねてしまうシーン。特に後者では、そろそろフィジカルコンタクトを描く頃合いかと思わせて・・・ 割と簡単に手をつないだりキスしたりしてしまう最近のコミックの映画化作品は、今作のビルドアップから大いに学ぶべきだろう。こうした積み重ねが停電シーンという一つのピークに向けて、上手く収斂されていっている。

最近の邦画(などと書くと自分がオッサンになってしまったことを白状しているようだが)が少しおざなりにしている風景や街中のワンショット、ワンカットが時間の経過や登場人物の心情、物語の行く末をさりげなく、しかし確実に描写することに成功しており、これは大学の映画学科の教科書に載せるのは大袈裟にしても、アマチュア作家などは大いに真似をすべき解りやすさだ。

脇役陣では、淡々と、しかしせっせと母親役に勤しむ吉田羊に何故かホッとさせられ、店長の旧友役を好演した戸次重幸に勇気をもらった。しかし、この映画はやはり小松菜奈の出演作ではベストである。そう断言する根拠はエンディングの邂逅シーンに凝縮されている。陸上競技の描写については門外漢なので避けたいが、あなたが小松菜奈ファンであるならば文句なしにお勧めできるし、特に小松菜奈のファンではないというのなら、これを機に彼女のファンになってほしい。近年の漫画原作の映画化では『 坂道のアポロン 』に並ぶ、いや超える作品だ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ロマンス, 大泉洋, 小松菜奈, 日本, 監督:永井聡, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 恋は雨上がりのように 』 -おっさん映画ファンはとにかく観るべし-

『 娼年 』 -性愛を通じての承認-

Posted on 2018年5月26日2020年2月13日 by cool-jupiter

娼年 65点
2018年4月30日 大阪ステーションシティシネマにて観賞
主演:松坂桃李
監督:三浦大輔

賛否両論入り乱れる本作だが、自分としては好意的に評価したい。この作品が焦点を当てているのは様々なセックスではなく、様々な満たされない人、様々な日蔭者、様々な虐げられている者たちではないか、と感じたからである。これはまさに『 シェイプ・オブ・ウォーター 』が是々非々の意見にぴったりと別れてしまったように、観る側が何を見るのか(何を見たがっているのか)によって、作品そのものの見え方も大きく変わってしまう好個の一例と言える。作品の多面性や奥深さの証明になるからだ。

松坂演じるリョウはバーでバイトしながら、大学にもあまり顔を出さず、特に決まった交際相手も持たず、お気楽に暮らしていた。そこへ中学の同級生が御堂静(真飛聖)を伴ってバーへやって来る。そしてひょんなことから御堂にスカウトされたリョウは娼婦ならぬ娼年としての生き方を模索するようになる・・・

ここで「なんだ、松坂桃李が次から次に客を抱いていくだけの話か」と思うなかれ。彼が出会う女性は皆、心の隙間とも言うべきものを抱えており、セックスはそれを埋めるための一つの手段にすぎない。最も分かりやすいのは最初の顧客、大谷麻衣演じるヒロミだろう。課題は、年上の女性に欲情できるかではなく、年齢と魅力は決して反比例するわけではない、ということを再確認させてやることなのだ。某レビューで「出来の悪いAVを見せられているようだ」というものがあったが、それはあまりにも皮相な見方であると思う。

松坂桃李の大学生役というのは少々無理があるのではないかと思ったが、不思議のもので桜井ユキと並ぶことで、かなり違和感が緩和された。『 今日、恋をはじめます 』で武井咲と並んだ時には、どう頑張っても高校生に見えなかったが、このあたり、まさにキャスティングの妙であると言える。

もしもあなたが自分の心に空虚さを感じるのであれば、性別・年齢を問わず、本作が何某かの正の影響を与えてくれるだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ロマンス, 松坂桃李, 監督:三浦大輔, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 娼年 』 -性愛を通じての承認-

『 GODZILLA 決戦機動増殖都市 』 -奇を衒い過ぎたゴジラ映画-

Posted on 2018年5月24日2020年2月13日 by cool-jupiter

『GODZILLA 決戦機動増殖都市』 65点
2018年5月21日 東宝シネマズ梅田にて観賞
主演:宮野真守(ハルオ役)
監督:静野孔文 瀬下寛之

* 本文中でネタバレになるような部分は白字で記入

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非常に評価が難しい作品である。劇場で観賞中、「面白いじゃないか」と感じている自分と「はぁ?」と感じている自分が同居していたからだ。近いうちに『 GODZILLA 怪獣惑星 』(45点ぐらいに思えたが、再採点の要ありと認む)をレンタルで観て、もう一度劇場で観賞したいと思う。それから追記するのも、それはそれでありだろう。

まずはポジティブな感想から。ストーリー全体を通して、非常に明確にテーマを打ち出している。今作のテーマは2つ。人とは何か。そして怪獣とは何か。前作の段階では、なぜ二万年後の世界なのか、なぜ宇宙人との邂逅と交流が描かれなければならないのか、釈然としないまま物語が進んだが、今作ではその理由が明らかになる。人が人たる所以は、人間らしさを発揮できるということだ。Human であることの条件は humane であることだ。フツアの民を原始人と見下すビルサルドは、自らの肉体と精神に対してすら不寛容であることを貫く。この一貫性は観る者にショックを与えると同時にカタルシスももたらす。なぜなら自分たちと彼らとは違う人間なのだ、と自分を安心させることができるからだ。人間らしさとは寛容であるべき対象と不寛容であってもいい対象を選り分けるのだ。同じことはエクシフにも当てはまる。彼らの神を信じる者を増やすべく前作から謎の布教活動に勤しんでいるが、その意図の裏にあるものが本作では垣間見られた。一応それが何であるのか明示されるのかがエンドクレジット後に明かされるので、最後まで席を立たないように(ただし、そこで言及されるものの正体に全く見当がつかないという人は、そもそもこの作品を観る資格がまだないのかもしれない)。ここでも、種族を超えて共通の神を信じる者が人間であるという、寛容と不寛容の同居が見られる。このことが、おそらく2つ目のテーマ、怪獣の怪獣性に関わっている。ゴジラ映画に特に代表される怪獣の怪獣性とはハイデガー哲学の世界の世界性みたいなもの、と解してよい。怪獣という存在に接するとき、人は憂慮する。なぜなら怪獣は、世界を破壊するからだ。それは時に、原水爆の恐怖(初代ゴジラ)であったり、公害による環境破壊(ヘドラ)であったり、自然災害と人災(シン・ゴジラ)といった形で立ち現れる。本アニメシリーズでは、怪獣は人間を超える者として描かれる。科学技術の埒外、宗教などの精神世界の領域、生物と非生物の境界線上の存在として現れてくる怪獣は、それに接する者に解釈を委ねる。これは庵野監督がシン・ゴジラで取った方法論と共通している。シン・ゴジラのシンに漢字を当てるなら?という問いに長谷川博己と竹野内豊は神の字を、石原さとみは芯の字を、松尾諭は進の字をあてていた。個人的には侵または震の字をあてている。斯様に人によって解釈が別れるのが怪獣の怪獣性たる所以で、前作ではっきりとしなかったゴジラという<存在>の<存在性>がハルオたちだけではなく観る者にも突き付けられてくるのが本作の魅力になっている。

ここからはネガティブな感想を。斬新性とは裏腹に、あまりにもどこかで観たことがある要素が多すぎる。加古作品へのオマージュであればよいのだが、どうもそうではないらしい。まずヴァルチャー。名前を聞いた瞬間に、マイケル・キートンか?と思ってしまった。さらにその性能や見た目も『 アイアンマン 』シリーズのウォーマシンのようだ。また決戦機動増殖都市というタイトルから『 BLAME! 』か?と連想したら、本当にそれっぽいものだった。もしくはエヴァンゲリオンの第三東京市か。フツアの民も、もののけ姫+小美人にしか見えなかった。またGODZILLAそのものもシン・ゴジラを想わせるフォルムで、それはそれで悪い選択ではないが、アニメ作品であり、これだけ独自の解釈を施した作品でもあるからには、もっと新しいゴジラの側面を見てみたかった。メカゴジラは、ゴジラ世界の文法からは外れているが、広く日本の漫画やジャパニメーションの文脈には合致するものであり、本家本元のゴジラも多少は時代に合わせたアップデートがあってもいい。もう少しだけオリジナリティを持ったゴジラと出会いたかった。

本作は三部作の2つ目にあたる。卵、双子、小美人、神と言えば<彼女>しかいないし、星を滅ぼす存在、金色、三つ首と言えば、アイツしかいない。つまり、次作で〇〇〇とも◎◎◎とも我々は出会えるわけだ。そのことに一抹の不安を抱きつつも、喜ばない、興奮しない理由はまるで見当たらない。2018年11月を首を長くして待ちたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, 宮野真守, 日本, 監督:瀬下寛之, 監督:静野孔文, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 GODZILLA 決戦機動増殖都市 』 -奇を衒い過ぎたゴジラ映画-

『 モリーズ・ゲーム 』 -The fact is stranger than fiction-

Posted on 2018年5月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

題名:モリーズ・ゲーム 75点
場所:2018年5月21日 東宝シネマズなんばにて観賞
主演:ジェシカ・チャステイン
監督:アーロン・ソーキン

今の日本で最も売れていて最もノッている40代女性の役者はおそらく吉田羊だろう。では今のアメリカで最も売れていて最もノッている40代女性の役者はおそらくジェシカ・チャステインだろう。『ツリー・オブ・ライフ』、『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』、『ゼロ・ダーク・サーティ』、『インターステラー』、『 女神の見えざる手 』などの傑作に貢献する一方で、『 スノーホワイト 氷の王国 』や『 オデッセイ 』といった駄作にも出演してしまった。だがしかし、映画が作品としてパッとしなくとも、チャステイン自身がパッとしなかったということはこれまで決してなかった。今後も無いであろう。

厳格な父の元、幼少の頃から勉強とモーグルに打ち込んできたが、背骨に故障。医師の助言もあり、ここでスキーをあきらめるかと思いきや、あっさり復帰。五輪代表にあと一歩というところに迫る中で不運なアクシデント。「スポーツで最悪なのは五輪で4位になること?マジで?ふざけんな!」で締めくくられる一連の怒涛のナレーションで、主人公モリーの前半生があっさりと描かれる。まさにモーグル的なアップダウンと疾走感で一気に観客を物語世界に引き込む。2017年の私的ベスト『 ベイビー・ドライバー 』の冒頭のカーチェイス・シークエンスに優るとも劣らない見事なイントロである。

モリーがいかにしてロースクール進学を先延ばしし、職を得、そして失い、自分でポーカールームをマネジメントするまでに至ったのか。彼女を突き動かす原動力が何であるのかは物語終盤に明らかになるが、これはある意味で予想されていたこと。しかしその見せ方とタイミングが絶妙だ。ケビン・コスナー演じるモリーの父親は、アメリカ的な父親、つまり家父長制度の長であることを体現する一方で、いわゆる幻想の良き父をも体現するという離れ業をやってのける。スーパーマンのリメイクや『 ドリーム 』などでもそうだったが、父親的なフィギュアで好演を見せ続ける今、まさに円熟期であると言えよう。ネタバレにならない程度に留めて書くならば、この物語はほとんど全て、モリーが父親的存在を殺し、父親的存在を許していく過程を描く話、つまりは父殺しだ。モリーが挑発的な服装と言動を見せつつも、決して性を売り物にしない理由もそこにある。

もう一人のモリーにとっての重要な父親的存在としてイドリス・エルバ演じる弁護士についても言及せねばならない。『 マイティ・ソー 』シリーズ、そして『 ダークタワー 』などで重要な役割を演じてきたが、彼のキャリアの中でもこれは Best Performance である。クライアントであるモリーを時に諭し、時に叱り、時に寄り添い、そして全力で守る。『 ダークタワー 』では我が子を千尋の谷に突き落とすような父親像を打ち出していたが、本作ではモリーの実父を演じたケビン・コスナー以上に、父親としての温かみ、厳しさ、生々しさを観る者に感じさせた。エルバが娘にどのように接しているのか、そしてモリーがそれをどのように受け取っているのか、エルバの登場シーンからはそこにも注目しながらストーリーを堪能してほしい。

モリーが掴み取っていく成功と遭遇する悪意や恐怖、それらが絡まり合い限界点に達する時、父親像の破壊と再創造の瞬間がやってくる。詳しくは述べられないが、ぜひこの父娘の反発と和解を味わってもらいたい。そしてクライマックスの裁判から感動のエンディングへ一気になだれ込んでほしい。そこで初めてモリーが言った「スポーツで最悪なのは五輪で4位になること?マジで?ふざけんな!」の言葉の意味を悟るからだ。そこで受け取るメッセージはきっと観る者を勇気づけるはずだ。2時間20分の長丁場の映画だが、体感では1時間50分ほどだったか。ぜひ多くの人に観てもらいたい作品である。

 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジェシカ・チャステイン, ドラマ, 監督:アーロン・ソーキン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 モリーズ・ゲーム 』 -The fact is stranger than fiction-

『 私はあなたのニグロではない 』 -差別の構造的問題を抉り出す問題作-

Posted on 2018年5月22日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:私はあなたの二グロではない 70点
場所:2018年5月20日 テアトル梅田にて観賞
主演:ジェームズ・ボールドウィン
監督:ラウル・ペック

自分の無知と無理解、想像力の欠如を思い知らされ、恥ずかしくさえ思ってしまう、そんなドキュメンタリー映画だった。メドガー・エバース、マーティン・ルーサー・キング・Jr、マルコムXらを軸に、アメリカという国でどのような差別が生まれ、行われ、助長され、継続され、そして解消されないのかを、ジェームズ・ボールドウィンの未完の原稿(タイトルは”Remember This House”)を元に紐解いていくのだ。

これまで映画における語りで最も印象に残っていたのは、ありきたりではあるが『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンだったが、本作のサミュエル・L・ジャクソンの静かで、怒りも憎しみも感じさせない語りの奥底にはしかし、強さと悲哀も確かにあった。哀切の念が胸に響いてくる、というものではなく、知って欲しいということを力強く、それでいて淡々と訴えかけてくるこの語り、ナレーションを持つことでこのドキュメンタリーは完成したとさえ言えるかもしれない。

人種差別の問題に肯定的に取り組んでいく話としてパッと思い浮かぶのは『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』、『 タイタンズを忘れない 』、『 ドリーム 』、『 それでも夜は明ける 』、差別の恐ろしさを前面に押し出した作品としては『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』あたりか。

本作はドキュメンタリーなので、ドラマ性を強調するのではなく、事実に対するJ・ボールドウィンの解釈、それに対する様々な人々の反応を追っていく形で展開していく。しかし、その方法が時にはクリシェ/clicheであり、時には非常に大胆に観客の不意を突いてくる。遊園地やスポーツの映像を交えながら、無邪気にレポーターがアメリカの娯楽を素晴らしさを称えながら、語りはそのままに突然、警官が民衆に暴力をふるうシーンに切り替わっていく。まるでこれもアメリカという国の娯楽なのですよ、と言わんばかりに。

また討論番組で、イェール大学の哲学教授が颯爽と現れ、ボールドウィンに「君の主張には重要な見落としがある。人と人が触れ合うのに、人種は関係ない。絆を結び方法も一つだけではない。私は無知な白人よりも教養ある黒人の方を身近に感じる」と述べるのだ。もっともらしい意見に聞こえるが、ボールドウィンは毅然と反論する。「私は警察官とすれ違うたびに、後ろから撃たれるのではないかという恐怖に苛まれてきた。そしてそれは私の思い込みではないく現実の脅威だった」と。

こうした場面が鮮やかなまでに対比して映し出すのは、差別者には恐怖心が無く、被差別者には恐怖心しかない・・・ということではない。ボールドウィンは言う、「私は二グロではない。私は人間だ。もしもあなたが私を二グロであると思うのなら、あなたの中にそう思いたい理由があるのだ」と。これこそが恐怖の核心であろう。よく差別者は「差別ではない。区別だ」と理屈を述べるが、その根底には被差別者に対する恐怖が存在する。これは黒人に限ったことではく、ネイティブ・アメリカンに対してもそうであるし、女性差別も構造的にそうであろう(そのことを端的に描き出した作品に『 未来を花束にして 』がある)。

アメリカという国に住む人間という意味で、皆は家族なのだ。家族でありながら、断絶があるのは何故か。ボールドウィンが書こうとして書き切れなかった “Remember This House” という本のタイトルの意味がここでようやく見えてくる。家族というのは、自分で選べない、気がつけばそこに存在しているという意味では、究極のファンタジーなのだ。アメリカという国に生まれ育ったものが、家族として一つ屋根の下に暮らせないことの欺瞞を嘆きつつも、融和への希望を捨てず、歴史を背負い、未来を見据えるボールドウィンの目に映るは、果たしてヒューマニズムかヒューマニティか。

アメリカ史をある程度知らなければ、チンプンカンプンとまでは言わないけれども、物語として咀嚼することが難しいだろう。しかし、このドキュメンタリーを観て、某かの意味を見出せないとすれば、それは余程の幸せ者か、さもなければドストエフスキー的ではない意味での白痴であろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジェームズ・ボールドウィン, スイス, ドキュメンタリ, フランス, ベルギー, 監督:ラウル・ペック, 配給会社:マジックアワーLeave a Comment on 『 私はあなたのニグロではない 』 -差別の構造的問題を抉り出す問題作-

『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

Posted on 2018年5月21日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:スプリット 75点
場所:2017年5月21日 東宝シネマズ梅田にて観賞
主演:ジェームズ・マカヴォイ アニャ・テイラー=ジョイ
監督:M・ナイト・シャマラン

*注意 本文中に本作のネタバレあり

M・ナイト・シャマランの映画は当たりと外れの落差が大きすぎる。しかし、本作は当たりなので安心して観賞してほしい・・・と言えないのが難しいところ。まず『スプリット』を本当の意味で理解し、咀嚼するためには『シックス・センス』、『アンブレイカブル』、『サイン』の全て、もしくはいずれかを観ておかなければならないからだ。

ストーリーは単純で、ジェームズ・マカヴォイ演じる正体不明の男がアニャ・テイラー・ジョイ演じるケイシーを含む女子高生3人を誘拐・監禁するところから始まる。そこで彼女らは自分たちを攫った男はDID(dissociative identity disorder)=解離性同一性障害、つまりは多重人格であることを知る。複数の人格の中には若い女性、9歳児、デザイナー、屈強な成人などがおり、中には話の通じる人格、上手く利用できそうな人格として現れるものもいるのだが、どういうわけケイシーはあまり動揺を見せず、淡々と状況に対処し、9歳児を上手く騙す手前までは行く。ここに至って観る者は「何故ケイシーはこの状況に対処できるのか」と不審に思うが、巧みに挿入されるケイシー自身の過去のフラッシュバックが徐々にその全体像を現わしてくることで、彼女の冷静さや強かさに納得できてしまう。

マカヴォイは定期的にカウンセラーと会いながらも、カウンセラーを欺こうとする。その一方で彼女の理解や協力を得ようとする動きも見せるなど、誘拐・監禁と同じく、観る者に疑念を植え付けていく。同時にビーストという人格の出現を予期させるも、カウンセラーは当初、「それはファンタジーである」として受け容れない。一体、このストーリーはどこに向かって進んでいくのか、観客が予測をつけられないままにビーストが出現し・・・

というのが大筋だが、詳しくは観て確かめてもらうしかない。賞賛すべきは、まず何と言っても複数人格を見事に演じ分けたジェームズ・マカヴォイに尽きる。圧巻なのは物語中盤のカウンセラーとの面談シーンで、数十秒、時には数秒間隔で人格を切り替えてみせるという離れ業を成し遂げた。また終盤にも人格が次々に入れ替わりながら心の声を叫んでいくというシーンは鳥肌もの。またこの時のカメラワークは恐ろしいほど完ぺきな角度とタイミングでマカヴォイの表情を捉えている。練りに練られて撮影されたシーンで、映画製作の時のお手本として取り上げたくなるような名シーンだった。

ケイシー役のアニャも負けていない。9歳児を巧みに操縦したかと思えば、その9歳児の迫力に圧倒されてしまうのだが、恐怖を飲み込む演技が非常に上手い。恐怖していることを9歳児には悟らせないように、しかし観る者に非常に分かりやすい形で伝えるという、矛盾する演技を堪能させてくれる。またそのシーンで9歳児バージョンのマカヴォイがダンスを披露してくれる。不気味さという点では、劇中随一だ。シャマラン監督に言わせると、死んでしまった人格がそのダンスを通じて蘇ってくることを表現しているとのことで、実に不安を掻き立てるワンシーンに仕上がっている。

物語の締めには何とデイビッド・ダンが登場し、ミスター・グラスに言及する。この瞬間、あるシャマラン信者は歓喜したであろうし、あるシャマラン信者は茫然自失したであろう。『スプリット』は『アンブレイカブル』の世界のスーパーヴィラン誕生の物語であり、この多重人格男は次回作でアンブレイカブルを体現するD・ダンことブルース・ウィリスとの対決が決定しているのだ。ダンがこの多重人格男に触れた時、一体何を読み取るのか、そして狂人ミスター・グラスは何をたくらみ、仕掛けてくるのか。今から2019年の新作『グラス(仮題)』公開が待ち遠しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, ジェームズ・マカヴォイ, スリラー, 監督:M・ナイト・シャマラン, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

『 モーガン プロトタイプ L-9 』 -父親殺しの失敗作-

Posted on 2018年5月20日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:モーガン プロトタイプ L-9 40点
場所:2017年8月 レンタルDVDにて自宅観賞
出演:アニャ・テイラー=ジョイ ケイト・マーラ ミシェル・ヨー
監督:ルーク・スコット

巨匠リドリー・スコットの息子ルークの監督作品、となればある種の期待と一抹の不安を抱いて観賞に臨まざるを得ない。ましてテーマが人工生命。人工知能をいきなり通り越して人工生命ともなれば、そこで描かれる物語は、倫理、技術、文化、文明、政治、経済などを何かしらの形で反映させていなければならない。ちょうど『エイリアン』の世界では、超長距離貨物宇宙船が現代の貨物船ぐらいのノリで描かれていたように、人工生命の前段階にあるであろう、ロボットや人工知能についてもある種の説得力を以ってその存在を示唆してくるであろうと予想していた。そしてその予想は裏切られた。父を殺そうとして失敗する息子は大洋の向こうにもこちら側にもいるものである。

はっきり言って、出てくるキャラの行動が全て不可解すぎる。特に主役の人工生命モーガン(アニャ・テイラー=ジョイ)と面談セッションを持つ男性があまりにも非合理的で、モーガンが危険であるというよりも、モーガンというプログラムにバグを人為的に生じさせるのが狙いなのかと勘繰ってしまうほどだった。

SFサスペンス、もしくはSFスリラーの趣を漂わせながら進んで行くのが、ある時点からSFアクション映画になってしまうのも残念なところ。この手の失敗の最大級の見本としてはトム・クルーズ主演の『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』が挙げられる。元々はホラーであることが期待されていたはずが、開始2分でアドベンチャーを予感させ、その1分後にはアクション物になり、ようやくホラーの雰囲気が漂ってきたところでコメディ要素を放り込み、中盤から終盤にかけてははモンスター映画になるという、まさに軸が定まらない話だった。

本作はそこまで迷走はしていないものの、観る者が抱く予感を悪い意味で裏切ることが多い。また副題にもう少し細工を凝らしても良かったのではないか。普通に考えれば、プロトタイプL-1からL-8はどこに行った?となるだろう。

色々と酷評してしまったが、光る部分もある。それはやはりアニャ・テイラー=ジョイ。元々は『スプリット』を劇場観賞して、驚天動地のエンディングに打ち震えたのだが、結末と同じくらいアニャ・テイラー=ジョイの演技にも感銘を受けたし、将来性も感じた。無邪気でなおかつ残酷さも秘める少女から、弱さと強かさを同居させるキャラまで演じてきたが、なかなか二面性のある役というのは演じ切れるものではない。それをキャリアの若い段階でこれほど立て続けにオファーが来ているというのは、やはり業界でも注目の若手として高く評価されているのだろう。今後も応援をしていきたい女優である。というわけで、本作はアニャ・テイラー=ジョイのファンにだけお勧めできる映画である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, 監督:ルーク・スコット, 配給会社:20世紀フォックスLeave a Comment on 『 モーガン プロトタイプ L-9 』 -父親殺しの失敗作-

『 ウィッチ 』 -魔女映画の新境地-

Posted on 2018年5月20日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:ウィッチ 70点
場所:2017年7月 シネリーブル梅田にて観賞
主演:アニャ・テイラー=ジョイ
監督:ロバート・エガース

魔女映画の傑作(公開当時)と言えば『 ブレアウィッチ・プロジェクト 』が想起される。レンタルビデオで観た時はあらゆるシーンの意味が分からず、その場でもう一度見直したら、いくつか背筋が凍るような場面があった。ホラー映画は一部の傑作を除いてあまり楽しむことはそれ以来なかったが、本作は久しぶりの個人的ヒットであった。

冒頭、主人公一家が追放されるシーンの直後に森の遠景を映し出す、いわゆるEstablishing Shotがあまりにも暗く、家族の今後の生活に暗雲が立ち込めていることを明示していた。

しばらくは平穏に過ごす家族に、しかし災いが訪れる。赤ん坊がいきなり消えてしまうのだ。その場で子守りをしていたアニャ・テイラー=ジョイ演じるトマシンは家族の中で立場を失っていく。

この作品を観賞する上では、アメリカの家族文化やキリスト教に関する一定の理解があることが望ましい。それによって主導的な役割を果たそうとする父親を見る目が大きく変わってくるだろう。

本作では魔女が何度かその姿を見せる。時に不気味な老婆であったり、時に妖しい美女であったりと、観る者をも惑わせる。魔女は姿を変えるのか、と。姿かたちが特定できない魔物のような存在を描いたホラーの傑作と言えば『遊星からの物体X』が思い出される。一人また一人と隊員が死んでいく中で、誰が”The Thing”であるのかが分からないのが最大の恐怖。それと同じように、家族は次第に疑心暗鬼に駆られていく。中盤においては双子の妹が重要な役割を担うが、彼女らを見ていて不覚にもニコラス・ケイジ版の『ウィッカーマン』を思い浮かべてしまった。時に幼い少女の無邪気さほど邪悪なものは無いということを我々は思い知らされてしまう。

物語が進む中で、ついにはトマシンの弟も魔女の手にかかり死んでいくのだが、このシーンは筆舌に尽くしがたい恐ろしさを醸し出すことに成功している。観る者は魔女の呪いの恐ろしさと、家族の反応の異様さの両方に恐怖を感じるであろう。魔女がもたらす災いにより家族が崩壊していく様を目の当たりにすることで、人間が本質的に恐れるのは人間ならざる者ではなく、人間そのものであることが露わになる。そのことは実は、冒頭で共同体から追放される家族自身がすでに経験していることでもあったのだ。人間関係の崩壊、それこそが本作のテーマであると思わせておきながら、しかし思いもよらぬ結末が待っている。この結末をあるがままに受け取ることによって、劇中の魔女の不可解さが説明される。それと同時に、ある肝心なシーンが意図的に映し出されていないことが別の解釈の余地を観る者に与えている。この映画の視聴後の虚脱感はヘレン・マクロイの『暗い鏡の中に』を想わせる。こちらも同工異曲の小説で、かなり古い作品ではあるものの、現代にも通じる面白さを秘めている。

本作で他に注目すべきは、音楽の恐ろしさと英語の古さ。一瞬の不協和音でびっくりさせてくるようなこけおどしではなく、脳に響いてくる不協和音とでも言おうか。また英語の古さがリアリティを与え、非現実的な物語に逆に更なる深みを与えることに成功している。カジュアルな映画ファンにはキツイかもしれないが、スリラーやサスペンスが好きな向きにもお勧めしたい一本。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, カナダ, ホラー, 監督:ロバート・エガース, 配給会社:インターフィルムLeave a Comment on 『 ウィッチ 』 -魔女映画の新境地-

『 君の名前で僕を呼んで 』 -映像美と音声美と一夏の恋-

Posted on 2018年5月17日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:君の名前で僕を呼んで 80点場
所:2018年5月6日 MOVIX尼崎にて観賞
主演:アーミー・ハマー ティモシー・シャラメ
監督:ルカ・グァダニーノ

*注意 本文中に本作および他作品のネタバレあり

部隊は1983年の北イタリア、大学教授が大学院生のオリヴァーを別荘に招くところから物語は始まる。知的かつマッチョな大学院生(アーミー・ハマー)は教授の息子のエリオ(ティモシー・シャラメ)と徐々に距離を縮めていく。公開前や公開当初はゲイ同士の恋愛と誤解する向きもあったようだが、主演の2人はストレートもしくはバイセクシュアルである。惹かれ合うきっかけなど何でもいい。男が女に最初に、かつ最も強力に惹かれるのは往々にしてフィジカル面の魅力だ。そのことを恐ろしいほど分かりやすく我々アホな男性映画ファンに突き付けてきたのは『ゴーストバスターズ』(2016)だった。ヘムズワース演じるアホなイケメン受付男を救うのに、なぜ彼女らはあれほど血道を上げたのか。

本作品は逆に、男同士が惹かれ合うのにどれほど重大な理由が必要なのかを大いに疑問視する。北イタリアでの一夏のアバンチュールだと言ってしまえばそれまでなのだが、それがあまりにも美しく描かれている。ここでいう美しさとは”自然な美しさ”ということ。開放的・解放的な気分になって、ついついベッドインしてしまいました、的なノリではなく、芸術論や歴史的な認識に纏わる知的な会話から、一緒に街までサイクリングするなど、観る者がゆっくりと彼らの交流に同調していけるように描かれているのだ。『無伴奏』はお互いが雄になって相手を激しく求め過ぎていたように見えたし『怒り』では一方の男が他方の男を乱暴に犯しているように見えた。もちろん、異なる物語の似たようなシーンを比較しても意味は無いのだが、相手のことを徐々に、しかし確実に好きになっていくというプロセスを邦画2作は欠いていた。この交流の美しさは是非多くの映画ファンに味わってほしいと思う。

テクニカルな面で注目すべき点は2つ。一つはBGM。多くは合成されたり編集されたものだと思われるが、実に多くの小川のせせらぎ、木々のそよめき、牛の鳴き声、蝿の飛ぶ音などが効果的に使われていた。ほんの少しのオーガニックな音で、観客はその場にいるような気持ちになれるものなのだ。『ラ・ラ・ランド』の冒頭の高速道路のダンスシーンに、ほんのちょっとした風の音やクルマの走行音やクラクション、遠くの空から聞こえてくる飛行機のジェットエンジン音などがあれば、「あなたがこれから体験する世界は全て作りものですよ」的ながっかり感を味わわなくても済んだのだが。ぜひ本作では、映像美だけではなく音声の美も堪能してほしいと思う。

もう一つの注目点は、やたらと画面に映りこむ蝿だ。ほんの少しネタばれになるが、エンディングのシークエンスでエリオの肩にずっと蝿が止まっているのだ。これが何を意味するのかは見る者それぞれの解釈に委ねられるべきなのだろう。

この映画の結末部分のカタルシスは『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い 』に並ぶものがある。息子が男相手に一夏の秘め事に耽るのを、親としてはどう見守るべきなのか。ロッド・スチュワートの代表曲の一に”Killing of Georgie”というものがある。Georgieというゲイの男を人生を歌ったものだ。我が子がストレートでないということに戸惑う親は、ぜひ本作に触れてほしい。何かしらのインスピレーションを必ず受け取ることができるはずだ。

日本では、同性婚を巡っては自治体レベルで認めるところが出てきてはいるものの、国民全体で考えるべきという機運の高まりはまだ見られない。「同性とも結婚できるようになる」ということを何故か「同性と結婚せねばならぬ」と感じる人が多いようだ。また夫婦は必ず同姓であるべしという、ある意味で完全に世界に取り残された日本という国に住まう人に、なにかしらのインパクトを与えうる傑作としてお勧めできる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, イタリア, ティモシー・シャラメ, ブラジル, フランス, ロマンス, 監督:ルカ・グァダニーノ, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 君の名前で僕を呼んで 』 -映像美と音声美と一夏の恋-

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