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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 ザ・ホスト 美しき侵略者 』 -侵略映画の変化球-

Posted on 2018年8月26日2020年2月13日 by cool-jupiter

ザ・ホスト 美しき侵略者 45点

2018年8月23日 レンタルDVDにて観賞
出演:シアーシャ・ローナン
監督:アンドリュー・ニコル

シアーシャ・ローナン目当てで借りてきたレンタルDVD。人間の体を乗っ取る宇宙生命体の話と言えば、近年の邦画では、まず『散歩する侵略者』が思い浮かぶし、名作漫画原作の『寄生獣』もこのジャンルに分類できるだろう。さらに人間そのものに擬態するものでは古典的名作の『遊星からの物体X』や『ゼイリブ』が外せない。今作のエイリアンは人間のボディを乗っ取ると眼が白く光る。まるで『光る眼』だ。ことほどさように、古今東西のSFのパッチワークになっているのが本作であり、またそのような特徴を併せ持つ作品は、ちょっと大きめのTUSTAYAに行けば軽く50本以上は見つかるであろう。つまり、本作を観る目的は、大雑把に言ってしまえば2つしかない。

1.シアーシャ・ローナンを見ること。

2.雨や風の日、気温が高すぎて出歩けない日の暇つぶし。これである。

本作で少し面白いなと思うのが、メラニー(シアーシャ・ローナン)がしっかりと宇宙人として扱われるところ。物語の序盤過ぎに男だらけのコミュニティに加わることになるのだが、侵略してきたエイリアンとはいえ、人畜無害な若い女子がやってきたら、あっという間に嬲りものにされてもおかしくないように思うが、そこは一応、ライフル片手に叔父さんがグループのイニシアチブを握っているからか。もう一つは、男は女のキャラクターを愛するのか、それとも体を愛するのかという問題。公開間近の『寝ても覚めても』の主題もこれに近そうだ。人は人の外面を愛すのか、内面を愛すのか。人は、中身が人でなくとも外見が人であれば、無節操に愛することができるのか。このあたりは文学よりも、SFこそが追求すべきテーマになっている。なぜなら、人工知能に代表されるようなテクノロジーの進歩は確実に人間の人間性を狭める、もしくは拡張していくからだ。また、パラリンピックの走り幅跳び記録が、追い風参考とはいえ、オリンピックのそれを上回るということは、生身の体を超える可能性を持つ<義体>の萌芽が既にそこに見られるということだ。個人的に最も興味を惹かれたのは『第9地区』でのクリストファー・ジョンソンが茫然と佇立するシーンの焼き直しが本作にあったこと。人間の無慈悲さこそが、人間性の根源にあることを抉りだすシーンだ。

一つ素朴な疑問が。この地球外生命体、いったいどうやって繁殖しているのか。おそらくこの生態では、交配しても生まれてくるのは『寄生獣』と同じく、ホストと同じ生命が再生産されるはず。ソウルの名の通り、人類には及びもつかない方法で生殖しているのか。SFの文法に、論理的(≠科学的)に辻褄が合う世界を創り出すというものがあるが、オカルト・ホラー小説家のリチャード・マシスン著『地球最後の男』的などんでん返しっぽい展開もある。劇場で観賞するにはきついが、自宅でのひまつぶしになら最適だろう。シアーシャ・ローナンのファンであるならば、観ておいて損は無いだろう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, シアーシャ・ローナン, 監督:アンドリュー・ニコル, 配給会社:ハピネット, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ザ・ホスト 美しき侵略者 』 -侵略映画の変化球-

『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

Posted on 2018年8月26日2020年10月25日 by cool-jupiter

検察側の罪人 60点

2018年8月25日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:木村拓哉 二宮和也 吉高由里子 平岳大 大倉孝二 芦名星 山崎紘菜 松重豊
監督:原田眞人

SMAP解散により、図らずも実現してしまったキムタクと二宮の共演、または競演。相乗効果を生んだとまでは思わないが、新鮮に映ったことは間違いない。

タイトルが物語る通り、検察の側に罪人が存在する。法という武器を手に、容疑者を起訴する。しかし、その検察(だけではなく警察、司法などのシステム全体)が数多くの冤罪を生んできたことは誰もが知るところである。それこそ昭和の中期頃までの日本の警察および検察は、ヤクザよりも遥かに酷かったとすら聞く。何がどうヤクザよりも酷いのか。それは二宮の演技の見せ場に絡めて後述したい。

エリート検事の最上毅(木村拓哉)は、民間高利貸しおよび不動産業を営む老夫婦の殺人事件に携わるうち、捜査線上に、自らの同級生だったとある女子の殺人事件の容疑者と目される男が浮上したことを知る。不起訴となり、過去の亡霊となっていた殺人事件の被疑者、松倉重生(酒向芳)が思いがけず現れたのである。現在の事件と過去の事件、両方を結ぶ線を探るべく、最上は信頼できる弟子とも言うべき沖野啓一郎(二宮和也)に取り調べを委任する。

本作の主題は、検察官同士の対決であるが、その奥に潜むテーマは深く、暗い。最上は自らの信じる正義を執行するために法の定める手続きを無視し、犯し、隠蔽する。客観的な正義が存在すると信じる沖野は、その力を振るいながらも最上に師事し、最上を支持するが、そこに不正を嗅ぎつけた時、袂を分かち、対決する道を選ぶ。二つの異なる正義のぶつかり合い・・・がテーマであれば、実は話が早い。本作が追究しようとするのは、正義の相対性である。絶対の正義と絶対の正義のぶつかり合いは相対的である、と主張したいわけではない。人は、絶対の正義である信じていたものですら、あっさりと捻じ曲げてしまうような非常に強靭な、ある意味で都合の良い精神構造をしている。人は法が定める正義に粛々と従いながら、自らの信じる正義をいとも簡単に上位に置いてしまう。最上は裏社会の人間である諏訪部利成(松重豊)と持ちつ持たれつの関係なのだ。警察や検察がヤクザとズブズブというのは公然の秘密だが、そこに越えてはならない一線があるのも事実だ。それを踏み越えてしまうのは最上だけではなく、沖野もそうなのだ。検察官という職務の上で知り得た情報を、弁護側に渡すなどという無節操なことができるのならば、公安なり内調なりに転職すれば良いのである。成り行きでベッドインする事務官の橘沙穂(吉高由里子)ともども、それがお似合いだ。

本作のもう一つのテーマは、暴力の構造を暴き出すことだ。作中でやたらと強調されるインパール作戦。無謀、無責任、無駄死に、犬死になど、兵士の命を軽んじることこの上ない作戦であった。なぜこのような命を粗末にする作戦が罷り通ってしまったのか。それは、軍の上層部は、自分たちが下士官、下級兵から反抗や反逆を喰らうことは無いと確信していたからという部分も大きい。インパール作戦の立案者は、無謀な作戦と累々の死者の責任を全うすることも無く悠々と生き、悠々と死んだ。一方で、インパールから独自の判断で撤退した師団長は、真実を証言できる法廷に立つ機会すら与えられなかった。一方が他方を一方的に殴ることができるのは、反撃が来ないことを知っているからだ。沖野は松倉に対し、過剰なまでの人格攻撃や脅迫的言辞を弄し、最上の意図する有罪のストーリー作りに途中までは加担しようとする。そこで見せる攻撃的、威圧的、高圧低、脅迫的な言動は圧倒的である。これは個人の正義感や職務上の義務感以上に、やり返されないという確信あってこその態度に思えて仕方がなかった。なぜなら、「真実を解明したいという強い動機」がそこには一切無かったからだ。そこにあったのは、最上へのリスペクトであり、自らの正義と権力を執行するというエゴイスティックな考え方だけだったからだ。

本作の最後のテーマは、人間と、その人間の行使する力は、どこまで不可分なのかということであろう。我々は往々にして「罪を憎んで人を憎まず」と言ったりするが、実際は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の方が多いではないか。冤罪が証明され、裁判の勝利を祝う。それ自体は喜ばしいことである。だが、その人間が過去に罪を犯し、まんまと時効まで逃げ切っていたとしたら、我々はそれを素直に受け入れられるのか。そこまで極端な例ではなくとも、我々はしっかりお務めを果たした前科者の社会復帰を喜ぶよりも忌避する傾向の方が強いのではないか。トレイラーにもある「正義の剣」なるものが存在するとしよう。だが、その剣自体は、振るう者が正義であることを何ら証明しはしない。むしろ、我々は最上の持つ力を法律という国家権力よりも、裏社会、闇社会の人間である諏訪部とのつながりの方に見出す。最上は家族との関係も必ずしも上手く行っているわけではない。妻とセンテンスで会話もできないのだ。こうした人間が「正義の剣」を振るう様は、異様とすら映る。それこそが原田監督の意図であろう。本来、犯罪者と犯罪は別個に分けて考えるべきで、それは検察や警察にしてもそうである。検事=正しい行いをする人などというのは先入観であり偏見である。

物語のそこかしこに某ホテルチェーンとしか思えない一族の偏った思想や、どこかの島国の一党独裁政権を揶揄しているとしか思えない言葉が数多く聞かれる。そうした風刺の最も強烈なものは前述したインパール作戦であろう。これがプロット全体の通奏低音になっており、正しいと信じ抜いた道の先には死屍累々の結果しかなかった。残念ながら、これは歴史的な事実である。我々は客観的な正義や客観的な悪が存在するという思考に慣らされているが、それらは実は極めて恣意的なものであるということを本作は提示する。

登場人物たちのいくつかの行動は理解に苦しむというか、あまりにご都合主義的な面が見られるところもあり、そのあたりは減点せざるを得ない。特にいくつかのアイテムを調達しようとするキャラが、あんな大声で電話するか?とリアルタイムで訝しむ人は多いだろうし、一般人にも逮捕の権利はあるのだから、某女性キャラはその場で取り押さえられていたら、そこで何もかもが水泡に帰していただろう。そうした目立つ欠点を持ちながらも、非常にパワーのある作品であるとの評価は変わらない。一国の総理大臣が推定無罪の原則を無視して民間人を「詐欺師」と断罪してお咎めなしという亡国、もとい某国の国民は『三度目の殺人』とともに本作を鑑賞すべきだ。個人の信じる正義の拠って立つ基盤の強固さ故の脆さと、客観的な正義なるものがどこかに佇立するのだという幻想を見せつけられる。人を選ぶ映画であるが、単なるエンターテインメント以上の作品に仕上がっている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, 二宮和也, 吉高由里子, 日本, 木村拓哉, 監督:原田眞人, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

『プリティ・プリンセス』 -王子様不在のシンデレラ・ストーリー-

Posted on 2018年8月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

プリティ・プリンセス 55点

2018年8月23日 レンタルDVDにて観賞
出演:アン・ハサウェイ ジュリー・アンドリュース ヘクター・エリゾンド 
監督:ゲイリー・マーシャル

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180825092540j:plain

原題は”The Princess Diaries”、つまりは『お姫様日記』である。冴えない女子高生のミア(アン・ハサウェイ)は、母と二人暮らし。誕生日に毎年プレゼントだけを贈ってくれる父が亡くなった聞いてから2カ月。親友はいるものの、学校ではカリスマを持っているわけではなく、むしろスピーチコンテストで緊張しすぎて嘔吐してしまうようなタイプである。そんなミアを訪ねて、ヨーロッパから父方の祖母がやって来る。その人こそジェノヴィアの女王クラリス(ジュリー・アンドリュース)であった。ミアの父は実は皇太子で、今や王位継承権はミアにあるとクラリスは言うのだ。王室主催のボール(ダンスパーティ)までにプリンセスにふさわしい立ち居振る舞いを身につけることができるかどうか、ひとまずは訓練する。実際に王位を継承するかどうかはそれから考えればよい。かくしてミアの日常の風景は一変する・・・

何と言ってもアン・ハサウェイの映画初主演である。若い、細い、初々しい。しかし、演技力はすでにある。表情の作り方、話し方の抑揚と緩急、立ち居振る舞い、コメディカルな動き、我々の知るアン・ハサウェイがすでにそこにいる。着替え途中のバスタオルシーンもある。セックスしましたの描写はいくつかの出演作にはあっても、ベッドシーンそのものの描写は少ないハサウェイの、数少ないサービスショットである。ただし、非常に胸糞が悪くなるサービスシーンである。彼女が王位継承者、つまりはセレブとして認められたとしても、学校という、ある意味では究極の閉鎖空間には、外界の常識や知識が及ばないことがある。もちろん、こうした意地の悪い生徒がいるおかげで、ミアのステータスではなく、ミアのパーソナリティを認めてくれる友人の存在が際立つわけだが。他にも、青春のお定まりの、女の友情が見られる。男子校の学生あたりは観ておくべきだ。

そして『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア先生との再会。『ゲティ家の身代金』でもクリストファー・プラマーが、わずか2週間という準備期間で完璧とも言える演技を見せてくれたのは記憶に新しい。ジュリー・アンドリュースも同じく、気品ある西ヨーロッパの王国の君主を演じることに成功していた。ほんのわずかな目線や立ち方、歩き方、話し方に現れる女王らしさは、日本の皇室のプリンセスたちよりも、どちらかというと故ダイアナ妃に近い。といっても、おそらく平成生まれの若者にはイメージしづらいかもしれない。美智子様や雅子様、さらには眞子様でもなく、佳子様あたりを思い浮かべれば、何となくわかるだろう。

そしてヘクター・エリゾンド演じるジョーが、この2人を優しく包み込む。こういう男のことをchaperoneと呼ぶ。ナイスミドルにしか出せない味というものがあり、ジョーにはそれが出せている。ミアの親友と、ミアに恋する冴えないイケメン(この名詞にこの形容詞を使えるのが彼の魅力なのだ)も物語に興を添えてくれる。あなたが男性で、いきなり眞子様と結婚することになったら、どう変わってしまうだろうか。また周囲の人間は自分にどう接してくるだろうか。それによって、それまでの関係の本質が炙り出されることがある。それは決して心地よいばかりのものではない。もちろん、これまで自分を歯牙にもかけなかった相手がすり寄って来ることもあり得るし、そのことを好ましく思ってしまうことにも罪は無い。しかし、自分の価値を決めるのは自分自身なのだ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「幸福とは、他者の助けなしに達成できるもの」と定義した。こうしてみると、名声や評判、人気というのは、自分の心が決めるものではなく、他者に依存したステータスであることがわかる。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』でローズを演じたケリー・マリー・トランがSNSで人種差別的な誹謗中傷を受けていたことがニュースになったことを覚えている人も多いだろう。彼女は「自分の心よりも他人の言葉を信じてしまっていた」と言う。こうした状態では、幸福にはたどり着けないのだ。もちろん、ケリーが悪いといっているわけではない。悪いのは差別的な嗜好と思考の持ち主だ。大切なのは、自分が何者であるのかを決めるべきなのは自分自身であるということだ。お姫様という属性を維持するためには、その名に傅く臣民の存在が不可欠だ。そうではなく、自分が姫になるのだという決意こそが幸福に結びつく。ミアの決意はそのことを我々に教えてくれる。さあ、続編も借りてくるとしよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, アン・ハサウェイ, ジュリー・アンドリュース, ヒューマンドラマ, ヘクター・エリゾンド, ロマンス, 監督:ゲイリー・マーシャルLeave a Comment on 『プリティ・プリンセス』 -王子様不在のシンデレラ・ストーリー-

『主人公は僕だった』 -ライトノベル風味のタイトルに騙されることなかれ-

Posted on 2018年8月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

主人公は僕だった 55点

2018年8月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ウィル・フェレル マギー・ギレンホール ダスティン・ホフマン クイーン・ラティファ エマ・トンプソン
監督:マーク・フォースター

原題は”Stranger Than Fiction”、小説よりも奇なり、の意である。国税庁の会計監査員のハロルド・クリック(ウィル・ファレル)は寝る時間から起きる時間、歯磨きの時の縦方向と横方向のストロークの数まで決まっている真正の型物である。ある時、いつも通りのルーティンをこなしていると、どこからか自分の物語を描写するナレーションが聴こえてくる。幻聴かと思ったハロルドはカウンセリングを受けるも、問題は解決しない。ある時、時計が突如故障し、街頭で見知らぬ人に時刻を訪ねたハロルドだが、「この一見、何の変哲もない行為が、死につながるとはハロルドには知る由もなかった」というナレーションを聴いてしまう。文学者のヒルバート教授(ダスティン・ホフマン)に相談したハロルドは「人生は悲劇か喜劇。死にたくなければ喜劇を生きろ」とのアドバイスを受ける。そして、税金を確信犯的に部分滞納する菓子職人のアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)と恋人同士になるのだが・・・

どこかで見たり聞いたり、あるいはゲームとしてプレーしたこともあるような内容である。2006年製作の映画だが、それでもプロットとして真新しいものはない。妻が借りてきたDVDだが、10年ぐらい前にWOWOWか何かで観たことを覚えていた。冒頭からのナレーション(エマ・トンプソン)の非常に典型的なスタンダード・ブリティッシュ・イングリッシュが印象的だ(ちなみに最もオーソドックスなブリティッシュ・イングリッシュは『ハリー・ポッター』シリーズで聴くことができる)。アメリカ映画でブリティッシュ・イングリッシュが聞こえてきたら、たいていその話者は悪者だ。このあたりのクリシェにアメリカという国の潜在意識を垣間見ることができる。本作は、もしも自分の人生が誰かの創作物で、自分の命が自分の意図しない時、場所、方法で奪われるとしたら、一体どうすべきなのかを問う。大袈裟に解釈すれば、被造物たる人間が、創造主たる神に文句を言うべきか否かということである。それが大袈裟すぎるというのなら、『ターミネーター2』におけるサラ・コナーを思い浮かべてほしい。”No fate but what we make”=自分たちで作りだすもの以外に運命など無い、の精神である。

コメディとしては弱いし、原題通りの小説映画として捉えるべきである。日本で言えば、竹本健治、山口雅也、牧野修あたりが本作のようなプロットを思いつきそうだ。我々が小説のページを繰る時、物語の結末はすでに決定されているのだろうか。それとも、我々が読み進むにつれて、物語も紡がれていくのだろうか。もし自分の人生の結末を知ってしまったら、または知る機会を与えられたとしたら、あなたはどう生きるか、またはどう死ぬのか。人生はしばしば線路に譬えられる。電車は自分からは線路を外れられない。しかし、運転士ならばそれができる。運命にその身を委ねるのか、それとも運命にも抗うのか。生きることに疲れた人が、雨の日や強風の日に自宅でゆっくり鑑賞するのに適した一本である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, ウィル・フェレル, コメディ, ダスティン・ホフマン, 監督:マーク・フォースター, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『主人公は僕だった』 -ライトノベル風味のタイトルに騙されることなかれ-

『アイ、ロボット』 -近未来にあり得たかもしれない世界への警鐘-

Posted on 2018年8月22日2020年2月13日 by cool-jupiter

アイ、ロボット 45点

2018年8月13日 レンタルDVD観賞
出演:ウィル・スミス ブリジット・モイナハン ブルース・グリーンウッド アラン・テュディック
監督:アレックス・プロヤス

採点はあくまで現在の視点からによるもの。ある程度、アンフェアであることは意識している。AIの発展・発達が目覚ましく、一方で人型ロボットの開発は端緒についてから久しいものの、人間のような動きをすることができるロボットを生みだすことの難かしさばかりを研究者は思い知らされるばかりだと言う。技術の進歩は曲線的に、しかも我々に思い描いていたのとは異なる方向に進むのが常であるようだ。『2001年 宇宙の旅』が描いた世界は到来しなかったし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が描き出した2015年はやってこなかった。漫画『ドラえもん』や『火の鳥 生命編』を挙げるまでもなく、我々はロボットの到来と進化を予測していた。それは巨匠アイザック・アシモフにしても同じだったわけだが、ロボットという存在に対して我々は心のどこかに生理的な嫌悪感を抱くようにプログラムされているのかもしれない。いわゆる「不気味の谷現象」である。このことにいち早く気が付いていたクリエイターの一人にアレックス・ガーランド監督で、その作品の『エクス・マキナ』はまさに不気味の谷現象を我々に引き起こす。『ターミネーター』もこの系列の作品と呼んでも差し支えはなさそうだ。本作も同じで、スプーナー刑事(ウィル・スミス)も「何故こいつらに顔をつけた?」とカルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)に問いながら、ロボットに発砲するシーンがある。観る者に嫌悪感を催させるシーンで、その嫌悪感は顔のあるロボットを破壊することから来るのではなく、中途半端に人間に似ているものが存在することから来るのだ。ゾンビがその好例だ。我々は死んでいるはずのものが動くから恐れるのではない。ゾンビという人間の姿かたちをしたものが、およそ人間らしさを感じさせない動きを見せるところに、我々は不安と恐怖を掻き立てられるのである。実際に、Jovianが本作で最も嫌悪感や恐怖感を催したシーンは、『BLAME!』の大量のセーフガードさながらに、人間の形をしたロボット群が昆虫のような動きで建物の外壁をよじ登るところであった。

本作の主題はロボット三原則であるが、その奥に潜むテーマは複雑多岐である。上に挙げたような手塚作品のビジョンもあれば、『ブレードランナー』にも通底する人間と非人間の境、人間と非人間の混じり合うところ、人間と非人間の交流もある。このような世界が数年というスパンで到来することは到底なさそうだが、ありうべき他の世界線として考えるならば、全ての優れたSFがそうであるように、思考実験の場と機会を提供してくれるものとしての価値は十分にあった。

難点はあまりにもCGのクオリティが低いこと。同時代に観賞する分には良かったのだろうが、それでも本作に先行して作られた『マイノリティ・リポート』の方が遥かに自然に近いCGが見られたことから、残念ながら減点が生じてしまう。

カルヴィン博士はアンセル・エルゴートとシャーリーズ・セロンを足して2で割ったような顔が印象的。そんなに映画は出てないのね。妙に存在感があって、良い女優さんだと思うので、もう少しスクリーンに出てきてほしいものである。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ウィル・スミス, 監督:アレックス・プロヤス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『アイ、ロボット』 -近未来にあり得たかもしれない世界への警鐘-

『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

Posted on 2018年8月21日2019年4月30日 by cool-jupiter

君の膵臓をたべたい 70点

2018年8月16日 レンタルDVD観賞
出演:浜辺美波 北村匠海 小栗旬 北川景子 上地雄輔 矢本悠馬
監督:月川翔

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180821120209j:plain

タイミングが合わなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、本作を昨年のうちに劇場で観ることを選択しなかった我が目の不明を恥じる。いくつかの欠点に目をつぶれば、非常に優れた作品である。

“僕”(小栗旬)は高校の国語教師。ある仕事をきっかけに高校時代の友人の山内桜良(浜辺美波)を思い出す。彼女は膵臓の病を患っていた。そんな彼女と過ごしたかけがえの無い高校時代の自分(北村匠海)の回想を通じて、桜良が未来に宛てたメッセージを受け取ることになる。

浜辺は、南沙良と並んで、現在売り出し中の若手女優のトップランナーの地位を本作で築き上げ、『センセイ君主』で確たるものにしたと評してもよいだろう。病気と笑顔で向き合う。しかし、一瞬だけ垣間見せるその表情に我々は桜良が心の奥底にひた隠す死への恐怖と生への渇望を見逃すことは無い。さりげなく、それでいてハッと気づいてしまう。卓越した演技力の持ち主であることを随所で見せつけてくれる。 

桜良が“僕”に好意を抱くきっかけの一つに、“僕”が桜良の病気のことを知っても動じなかった(ように見えた)ことが挙げられる。看護師さんらによると、病院という場所では患者はしばしば「病気」で呼ばれるということだ。医者はしばしば「あの305号室の肺がんの人だけど云々」などと言うらしい。これは実は医療従事者だけに特有の考え方だったというわけではない。一昔前は障がい者を、disabled peopleと英語で言っていたが、その後はpeople with disabilitiesに、今ではspecial needs peopleまたはpeople with special needsと言っている。病気や障害を、その人と最も特徴づける属性として捉えていた時代があったのだ。今では医療や介護の世界にもセルフケアという概念が浸透し、「何ができないのか」ではなく、「何ができるのか」で人間を評価するようになっている。“僕”は意識的にも無意識的にも、桜良が何ができないのかを考えることは無く、桜良ができることに寄り添う姿勢や態度を見せていた。これは惚れるしかない。北村匠海の過去の出演作品を今回チェックしてみて驚いた。ほとんど全部観ているし、確かに印象的な演技を見せてくれていたことは思い出せた。しかし、俳優としての北村匠海の印象が極めて希薄なのだ。例えばニコラス・ケイジやトム・クルーズは、どんな作品に出ても、どんな役を演じても、結局は本人にしか見えないことがほとんどである。日本で言えば福士蒼汰や東出昌大がこれに該当する。北村匠海は違う。窪田正孝の系列の役者であると評しても間違いではないだろう。この若い二つの才能のぶつかり合いが作品に深みと奥行きを与えている。

残念ながらいくつかのマイナス点も指摘しなければならない。ホテルに泊まるところで、「僕」が髪をタオルで拭きながら出てくるシーンがあるのだが、いかにも不自然だ。髪も本当に濡らして、それをドライヤーで生乾きぐらいまで乾かした感じで出てくるぐらいでいい。また、小栗旬と北村匠海は、表情や目の動き、歩き方などでかなりお互いがお互いを同一人物として意識した役作りおよび演技ができていたが、他のキャストがあまりにも似ていない。というか、似せる努力をしていない。世界的に『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』が批判されているのは、オールデン・エアエンライクの演技力の低さではない。ハリソン・フォード演じるハン・ソロを意識した演技ができていなかったからだ。これは監督の罪でもあるが、本人の罪でもある。まあ、ハリソン・フォード自体がトム様やニコケイのような、ほとんどの役で「これはハリソン・フォードである」と認識されてしまう役者であるのだが。矢本と上地が同一人物設定というのはどうなのだ?また、大友花恋が北川景子に変身するのも、説得力がなさすぎる。だからこそ、このタイミングでアニメーション作品の制作および公開に至ったのだろうが。

Back on track. 本作は「生きることの意味」を追求する作品でもある。「君がいなくなったら、みんな、僕のことなんか忘れるよ」という“僕”の台詞に「そんなの死ぬに死ねないよ」と返す桜良。二人は死を心停止などという生物学的な意味では捉えていない。死ぬ=誰にも思い出されなくなる、と捉えている。これは『ウインド・リバー』でランバートが語っていたことと全くの同義である。生とは、ある一面では、思い出の中に宿るものなのだ。桜良が死ぬまでにやりたいこと=誰かの中の思い出として生き続けたいという欲求なのだ。

桜良はもう一つ、本や文字にも自分の生を託す。学校の図書館に眠る本の数々が、ある意味での永続性を象徴している。文字は一種のタイムマシーンだ。その場所が取り壊されることが決まってしまった時、桜良からのメッセージが見つかる。図書館の窓の外に覗くは、散り行く桜。我々はここで否応なく桜良の「桜は散ったふりして咲き続けている。散ってなんかいない。みんなを驚かせるために隠れているだけ」という台詞に思いを馳せずにはいられなくなる。健気に生きる姿だけが美しいわけではない。生きることは時に残酷なまでの悲劇を生む。死んでも、それでも生きていたいという想いの強さに打ちのめされるラストシーンに、観る者は大いに涙するだろう。

 

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ロマンス, 北村匠海, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

『カメラを止めるな!』 -予備知識なしで、とにかく観に行くべき傑作-

Posted on 2018年8月20日2019年5月6日 by cool-jupiter

カメラを止めるな 85点

2018年8月19日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:濱津隆之 真魚 しゅはまはるみ 竹原芳子 秋山ゆずき
監督:上田慎一郎

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180820002247j:plain

とにかく予備知識無しで観に行ってほしい、というレビューや、口コミで静かに、しかし確実に広まっていく評判の良さに、観に行かねばと思いながらも、なかなかタイミングが合わなかった作品であった。しかし、やっとタイミングが合い、観に行くことができた。まず、びっくりしたのがシネ・リーブル梅田が超満員で立ち見チケットまで販売されていたということ。近年でここまで一つの劇場を埋めた作品というのは、いずれも東宝シネマズなんばにて『シン・ゴジラ』と『君の名は』ぐらいしかなかったように思う。観客が皆、ある種の期待を抱きながら、座席を一つまた一つと埋めていく予告編前のあの空気というのは、それこそ『シン・ゴジラ』前となると神戸国際会館で『もののけ姫』を観た時となるだろうか。とにかく、それほどの異様な熱気が確かに劇場に充満していた。実際に上映中、そこかしこから「わははは!」という笑いが聞こえてきた。これはユーモアやコメディ性から来る笑いというよりも、カタルシスから来る笑いなのである。何言っているのかさっぱり分からねーぞ、という向きはとにかく観るべし。メタメタにやられること請け合いである。

本作に関しては、ネタバレめいたことは一言たりとも発することができない。一部の劇場やポスターには、不要な一言が書いてあったりするが、とにかく前評判が高い作品であるということだけ頭に入れて、期待に胸を膨らませて観に行くだけで良い。Yahoo映画や映画.comのレビューなどは極力見ないように努めるべし。正鵠を射たレビューもあるが、一部とんでもなく的を外したレビューや、映画を観ているにもかかわらず、作品を観ていないとしか言えないようなレビューもある。そんな目が節穴の人間のレビューなどは絶対に目にするべからず。とにかくチケットを予約して劇場へGO!である。

かといって、何がどうなっているか少しぐらいは知りたいのが人情というもの。なので、本作を観賞した上でJovianの頭に浮かんだ作品を以下に白字で記すので、興味のある方だけ観て頂きたい。

                                                                                                                

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』および『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』

『ムカデ人間』および『ムカデ人間2』

『デットプール』および『デットプール2』

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

『The Disaster Artist』(日本では劇場未公開)

『地獄でなぜ悪い』

『雨に唄えば』

『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』

『ファンボーイズ』

『街の灯』

『ヒューゴの不思議な発明』

『ショーン・オブ・ザ・デッド』

『パルプ・フィクション』

『シックス・センス』

『オール・ユー・ニード・イズ・キル』

『主人公は僕だった』

『ネバー・エンディング・ストーリー』

『クローバー・フィールド/HAKAISHA』

『クロニクル』

『ヴィジット』

 

ざっとこんなところだろうか。小説まで含めてしまうと、さらにこのリストが長くなるので割愛させて頂くが、人によってはこれだけでとんでもないネタバレになっていることに気がつくであろうし、筋金入りの映画オタクなら「いやいや、もっとアレやらコレもあるでしょ」と言えるのは間違いない。ひとつ言えるとすれば、この映画はゾンビ映画ではないということ。ホラーはちょっと・・・、スプラッタ要素はちょっと・・・、という向きにこそ自信を持ってお勧めしたい。

冒頭からのワンカット映像に、あなたはいくつも違和感を覚えるに違いない。その感覚を大切にしてほしい。また、一部のポスターやパンフレットには、エンドロールまで席を立たないでくださいという旨の注意書きがあるが、これはやや不親切な案内かもしれない。なぜなら、Jovianが観ていた夜にも、数名ではあるがエンドロール中に席を立ってしまった客がいたからだ。劇場が明るくなるまで観賞を続けてください、というのがあるべき案内文であろう。最後に、「映画を観てみたけど、いまいち理解できねーぞ」という方向けに、最後のネタバレ白字を。この映画は「映画を作っている人たちを撮影する映画を撮影している人たちが映画を作っている映画」である。Jovianが上で映画.comやYahoo映画の当てにならないレビューだと揶揄したのは、本作を「映画を作っている人たちを撮影した映画」であると見た人たちのことである。かの北野武は映画の面白さを「編集である」と言い切った。本作を観賞する/した人は、この言葉の意味をエンドロールまで全て見た時に噛みしめることができる/できたはずである。

最後に、上田慎一郎監督へ「おめでとう」と「ありがとう」と言いたい。今後、日本の高校や大学、インディ映画界で本作の模倣作品がどっさりと製作されるだろうと予想される。あなたは邦画に勇気とインスピレーションを与えてくれた。本当に本当にありがとう。

さて、このレビューにも白字以外でネタバレをしている箇所があることにお気づき頂けただろうか。作品を観ずに気がつくことは絶対ないだろうけれど・・・一応、ね。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, コメディ, しゅはまはるみ, 日本, 濱津隆之, 監督:上田慎一郎, 真魚, 秋山ゆずき, 笹原芳子, 配給会社:ENBUゼミナール, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『カメラを止めるな!』 -予備知識なしで、とにかく観に行くべき傑作-

ピッチ・パーフェクト2 -女子寮のノリの女子大生成長物語-

Posted on 2018年8月19日2019年4月30日 by cool-jupiter

ピッチ・パーフェクト2 65点

2018年8月14日 レンタルDVD観賞
出演:アナ・ケンドリック ヘイリー・スタインフェルド ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:エリザベス・バンクス

前作が女子高生のノリなら、今作は女子大生、特に女子寮(sorority)に暮らす若者のノリが強く出ていた。大学時代に寮で暮らした人、特に相部屋や共同トイレ、共同風呂を経験した人ならば、同じ屋根の下で暮らす者に家族以上の親近感を抱くあの感じを理解できるだろう。同じようなことは大学のサークルにも当てはまる。寮は往々にして24時間活動しているサークルだったりする。ベラーズはこの両方を兼ねた、歌って踊って恋してケンカする、洗練されたお下品女子大生たちの物語なのである。キャスティングは前作を引き継いでいるため、ここから観始めることは決してお勧めできない。必ず『ピッチ・パーフェクト』から観るように。

ゲロ吐きオーブリーは卒業してしまったが、ベラーズはその後も強豪アカペラチームとして君臨。ついにはオバマ米大統領の誕生日に本人の前でパフォーマンスをするに至った。完璧な歌唱、完璧な振り付け、そして太っちょエイミーが空中ブランコさながらにリボンを体に巻きつけて天井から舞い降りようとする時、それは起こった。エイミーのユニフォームが裂け、大統領夫妻に下腹部およびそれ以外の場所をモロ見せしてしまったのである。さあ、『ピッチ・パーフェクト ラストステージ』のオープニングではどのようなハプニングが起こるのか、期待は否が応にも高まるばかりである。

このお下劣アクシデントにより、ベラーズはコンテストへの出場を認められなくなってしまう。天の計らいによって何とか大会出場は果たせうようになったものに、コペンハーゲンでの世界大会では、ドイツのDSM=ダス・サウンド・マシーンに、その圧倒的な実力を見せつけられてしまう。ベッカも負けずに挑発するものの、なぜか「汗がシナモンの臭いなのよ!」と褒めてしまう(シナモンが一体何なのかを知りたい人はUrban Dictionaryで調べるか、『ジャッカス/クソジジイのアメリカ横断チン道中』を観てみよう)。ベラーズは本調子ではなく、一枚岩でもなくなっていた。なぜなら、4年生になったベッカは、ベラーズでの活動よりも敏腕音楽プロデューサーの元でのインターンシップに精を出しながら、そのことはメンバー達には秘密にしていた。一方で前作から引き続き登場しているクロエは、ベラーズでの活動を続けたいがために2回も留年をしているという始末。まるで漫画『げんしけん』の斑目のようだ。斑目は留年していたわけではないが。オーブリーは無事にグループからも大学からも卒業したものの、こんな牢名主のようなキャラがいては現役はやりにくくて仕方がない。そんなロックボトム状態のベラーズに新戦力が加入する。ヘイリー・スタインフェルド演じるエミリーである。母親がベラーズOGという、何とも頼もしい新戦力である。

チームをリセットするにはどうするか。古今東西を問わず、ここは合宿である。そして合宿所にいるのは、ゲロ吐きオーブリー。ビシバシ指導するのが好きなので、合宿所の経営/運営を仕事にしたという。ここでは女子寮的な要素がさらに濃く出てくる。詳しくは観てもらうとして、面白いのはベッカの恋愛模様がややマンネリ状態であるのに対し、太っちょエイミーと、宿敵トレブルメーカーズのお騒がせ男のセックスフレンド関係が、いつの間にかシリアスな関係にまで発展していくこと。この時のエイミーのパフォーマンスは『マジック・マイクXXL』のリッチーのとあるパフォーマンスに匹敵する。『マジック・マイク』、『マジック・マイクXXL』は男子寮のノリだな、と書きながら気がついた。いつかこれらも紹介したい。

Back on track. もちろん、新加入のエミリーも、爽やかとは言えない相手と爽やかな関係を結ぶようになるのが、これが成就するのかどうかは次作まで待たなくてはならないようだ。そして、このエミリーの持つ才能がベッカの夢を後押しする。そしてベッカの夢が動き出すことで、ベラーズは逆説的に強くなる。このあたりは前作と同じ構造なのだが、4年生になっても就職活動もあまりせず、サークルやら何やらに血道を上げる先輩や、一方でしっかり将来を見据えながら、仲間と微妙な距離を保つ先輩、そうした少しぎくしゃくした人間関係の修復模様が一気にラストのパフォーマンスに結実する様は圧巻である。さあ、これで10月の『ラストステージ』への準備は万端。『マンマ・ミーア!』の続編も公開間近というわけで、ミュージカル一色で夏の終わりと秋の始まりに備えよう。

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, ロマンス, 監督:エリザベス・バンクス, 配給会社:東宝東和, 音楽Leave a Comment on ピッチ・パーフェクト2 -女子寮のノリの女子大生成長物語-

ピッチ・パーフェクト -女子高のノリの女子大生成長物語-

Posted on 2018年8月18日2019年4月30日 by cool-jupiter

ピッチ・パーフェクト 65点

2018年8月14日 レンタルDVD観賞
出演:アナ・ケンドリック ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:ジェイソン・ムーア

バーデン大学への新入生ベッカ(アナ・ケンドリック)は、DJ志望の今時女子。父親とは微妙な関係で、ルームメイトとも打ち解けられそうにない。しかし、ひょんなことからオール女子で構成されたアカペラ部のバーデン・ベラーズに入部するベッカ。ゲロ吐きオーブリーやらファット・エイミー、セクシー美っち(誤変換だが採用)のステイシーら個性的すぎる問題児らと共にアカペラに励むようになっていく。同大の男子アカペラグループのトレブルメーカーズとは悪い意味でのライバル関係を築いており、ベラーズ加入に際してはトレブルメーカーズの男子とは肉体関係を結びませんという宣誓までさせられる。女子、特に日本映画の典型的な女子高生というのは親友=仲間、仲間=親友と捉え、その関係を男に乱されることを極度に嫌う傾向がある。それは『虹色デイズ』でも『君の膵臓をたべたい』でも、変化球であるが『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』でもそうだった。それと同じノリで展開するのが本作である。ベラーズは元々強豪で知られていたのだが、全国大会のパフォーマンス真っ最中に盛大に嘔吐してしまったオーブリーのせいで、一挙に全国レベルで笑い草にされるようになってしまった。そこから新入生勧誘に力を入れるようになって入ってきたのがベッカというわけである。

ストーリーは、まさに女子高のノリで進む。禁断の恋あり、笑いあり、涙あり、友情あり、ケンカあり、仲直りありのローラーコースター映画である。その瞬間瞬間に歌と踊りが効果的な彩りを加えてくれている。個人的に強く印象に残ったのは太っちょ(ファット/Fat)エイミー。『パティ・ケイク$』のパティを、その体型から思わせるが、肥満と歌い手であるという以外の共通点は見当たらない。ピッチ・パーフェクトとは「まったくもって完璧」という意味だが、それは個々人の在り様ではなく、ベラーズというチームの上がり下がりの仕方のことだ。テレビドラマ的な展開と言おうか、よくこれだけの要素をてんこ盛りに出来るなと感心する。女の友情の美しさと醜さを的確に描写し解説するのは自分の手には余ることなので、そのあたりは他サイト、ブログを参照されたい。

本作であらためて勉強になると思ったことは『パティ・ケイク$』でも描写があったストリートでのラップ対決さながらの、riff-offというアカペラバトル。互いに歌を歌い合うのだが、その途中の歌詞と同じ語を引き継いで、別の歌に即座に歌い替えるという非常に広範囲な知識と瞬発力が要求されるバトルだ。日本のストリートでも実際にこんなバトルが行われているだろうか。ブレイクダンスさながらの対決だ。日本では漫画『ヤスミンのDANCE!』ぐらいしか思いつかないが、アカペラとなると寡聞にして何も思いつかない。個人的にわずか10分弱のこのシークエンスをハイライトに挙げておきたい。

Jovianはこういう作品に触れるたびに英語の勉強になると思っているが、向こうの若い世代(アナ・ケンドリックが若いかどうかはさておき)にスポットライトを当てた映画は、往々にしてトンデモナイ英語を喋る。ベッカがオーブリーに言い放つ”You are not the boss of me!!”はその最たる例であろう。本当は、文法的には破綻していても、状況とセットで聞けば(読めば、ではないところがポイント)自ずと意味が理解できるような教材、つまり映画こそ、日本の公教育に取り入れていってほしいと思っている。それは英語だけではなく、社会や理科、道徳についても当てはまることだと思っているし、本ブログでも何度かそういった指摘や提言をしてきた。今後も、文科省のお歴々の耳には絶対に入らないと確信しつつも、意見だけは述べ続けていこうと思う。

この映画のもう一つの私的な見どころは、アカペラの実況解説の二人組。『ピッチ・パーフェクト2』にもしっかり登場して存在感をアピールしてくれる愉快なデュオだが、特に男性の方はアメリカ人的な価値観をめちゃくちゃ露骨に、露悪的と言えるほどにあっけらかんと開陳してくれる。彼の実況をよくよく聞いてから『チア☆ダン~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~』を観賞してみよう。大谷翔平のキャンプ中の評価とシーンズ開幕後の評価のギャップに戸惑った多くの日本人が、なるほどと納得できるだろう。

青春映画の王道で、ミュージカル映画としても佳作である。トリロジーの最後を飾る作品が2018年10月には日本でも公開される。復習観賞するなら今がベストのタイミングである。さあ、近くのレンタルショップかネット配信にゴーである。

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, ヒューマンドラマ, ロマンス, 監督:ジェイソン・ムーア, 配給会社:武蔵野エンタテインメント, 音楽Leave a Comment on ピッチ・パーフェクト -女子高のノリの女子大生成長物語-

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』 -居場所を巡る闘争と逃走の青春物語 -

Posted on 2018年8月17日2019年4月30日 by cool-jupiter

志乃ちゃんは自分の名前が言えない 85点
2018年8月16日 シネ・リーブル神戸にて観賞
出演:南沙良 蒔田彩珠 萩原利久 渡辺哲
監督:湯浅弘章

これは『羊と鋼の森』に並ぶ、年間ベスト級の傑作である。このような映画が作られ、ミニシアターで公開されるということに忸怩たる思いと誇らしさの両方を抱く映画ファンは多いはずだ。一方には、マル秘面白映画を自分だけが知っているという独占感と優越感があり、他方には、なぜこのような良作が広く世に問われないのかという疑問や無念さがあるからだ。

大島志乃(南沙良)は吃音に悩み苦しむ高校一年生。クラス初日の自己紹介に備えて鏡の前でも登校途中の坂道でもぶつぶつと自分の名前を呟く。もうこの時点でただならぬ雰囲気が漂うのだが、第一のクライマックスは早くも教室内での自己紹介の時にやってくる。吃音で「お、おおっ・・・、おおおっ、おおし、しししっししし、」という感じで全くもって自分の名前を言うことができず、空気を読めない男子、菊池強(萩原利久)に馬鹿にされてしまう。もうこの時点でクラス内カーストの最下層に属してしまうことが決定するのだが、本作はそのような陰鬱な景色を直接に映し出すことはしない。他にもひょんなことから知り合うミュージシャンを目指す岡崎加代(蒔田彩珠)も、明らかにクラスに溶け込もうという努力を拒否してみせる。前述の菊池にしても、その無理やりなコミュニケーション方法が普通のそれとは異なるということを自己紹介の一瞬で描き切っている。つまり、この物語は集団に馴染めない、もっと言えば世界に居場所を確保できない者たちの物語なのだ。オープニングからタイトルバックまでのわずか数分で物語の導入を過不足なく描き切る。ナレーションが有効に作用するケースもあるし、ナレーション無しに映像と音声だけで観る側に伝えきることが難しいテーマというのは確かにある。前者である程度の成功を収めているものには『図書館戦争』や『孤狼の血』があるが、映画の本領は映像と音声にあるということを再認識させてくれたという意味で、本作には最初のシークエンスから心を掴まされ、ぐいぐいと引き込まれた。

吃音と言えば誰もが思い浮かべるのが『英国王のスピーチ』だろう。コリン・ファース一世一代の演技が堪能できる傑作である。吃音は、おそらく小学校ぐらいの頃には1~2クラスに一人ぐらいはいたのではないか。実際にJovianの周りにも2人いた。が、問題は吃音を持つ彼ら彼女らが自身をどう受け止めるか、ということなのだ。そして、吃音はリラックスして解決もしくは軽減できるものでは決してない。そういう意味で、冒頭で登場してすぐに消えていく担任の先生は非常に罪深く、それゆえに志乃の世界には二度と出てこなくなるのも当然のことだ。Jovianの身近に2人いた吃音者の一人は進学と共に別れ、もう一人の幼馴染はカラオケで吃音を克服した。このエピソードは鬱病から最近復帰した棋士・先崎学にも共通しており、彼は田中角栄に倣って浪曲で吃音を克服したようだ。

加代と知り合った志乃は、隠し持っていた強引さで加代にギターを弾き、歌うようにせがむのだが、加代の天性とも言える音痴さに失笑してしまう。加代は志乃の吃音を決して笑わなかったのに。このあたりは本当に難しいところで、青春時代だけではな青年壮年中年老年になってもつきまとう問題だ。なぜなら何が人を傷つけ、何が人を傷つけないのかは誰にもわからないからだ。それゆえに孔子は「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と説いたのではなかったか。この後、志乃は加代のピンチに思わぬ形で介入するのだが、その時の演技は特筆大書に値する。鼻水をタラーリと垂らす渾身の演技を見せるのだ。加代はしかし、無条件に志乃を赦したりはしない。吃音を「言い訳できる逃げ場所」と指摘し、志乃の抱える問題を鋭く抉りだす。この点については後述する。

なんだかんだでバンドを組むことになった二人は、路上デビューも果たす。その時に二人に接する掃除のおっちゃん(渡辺哲)が良い味を出している。世界は基本的に自分には無関心だと若い頃には往々にして思うものだが、そんな自分を見つめてくれる視線があるということを無言のままに教えてくれるのが、このおっちゃんなのだ。『シン・ゴジラ』における片桐はいりと同等の存在感を放っていた。その小さな世界に、菊池という闖入者が舞い込んでくることでその風景は一変する、少なくとも志乃にとっては。好きな歌手やCDについて言葉を交わす加代と菊池に、自分の居場所を侵害された、もしかするとそれ以上に、自分の存在価値=バンド仲間、音楽について語り合える、高め合える仲間としての意義を傷つけられた、またはそんなものはそもそも無かったのだと思い込まされた志乃の心中は察して余りある。志乃が本当に疎外を感じているものの正体の一端がここで明らかになる。吃音は、そのものの一側面に過ぎない。ここでフリッツ・パッペンハイムの言葉を引用する。「人間が自分が当面している決断を避けようとしている場合には、人間は、ほんとうは、自分自身の自我から逃げようとしているのである。人間は逃げることのできないもの……、自分があるところのもの……から逃げようとしているわけである」(『近代人の疎外』)。

自分自身から逃げる志乃を見る我々には、THE BLUE HEARTSの『青空』が聴こえてくる。志乃はバスにも乗れないのだ。行き先ならどこでも良いわけではなく、行く先々に自分がいるのだ。そんな志乃と加代が最後に至った境地とは・・・ アメリカのテレビドラマでは80年代が花盛りだが、日本では90年代がノスタルジーの対象であるようだ。作り手側の力あるポジションがその世代に移行してきたことの表れであろう。そうした潮流の一つとして本作や『SUNNY 強い気持ち・強い愛』があるのだろう。劇中で最も歌われる歌に『あの素晴しい愛をもう一度』がある。「同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わない」のか。それとも「もう一度」があるのか。それはレンタルもしくはネット配信で是非とも確かめてみてほしい。

一つだけ大きな減点要素を挙げるとすれば、それはカメラワーク。自転車のとあるシークエンスに手ぶれは完全に不要だった。その他、細かい点ではあるが、砂浜に文字を書くシーンの陰鬱さと海の開放的な明るさを対照的に映し出したかったのだろうが、光の度合いが少し強すぎると感じるシーンもわずかながらあった。しかし、これら重箱の隅をつつくような粗さがしか。

主演の南沙良は、ついに広瀬すずや土屋太凰を駆逐してしまうかもしれないようなポテンシャルを感じさせる本格派である。音痴であることを見事な歌唱力で表現しきった蒔田彩珠は、その容貌も相俟って第二の門脇麦であると評したい。鼻につくほどのうざさを発揮した萩原利久は、『帝一の國』もしくは『虹色デイズ』に出演しても普通に違和感なく解け込めてしまえそうな存在感だった。今後この3人を使った映画が陸続と生まれてくることが容易に予想される。

同じ『 あの素晴らしい愛をもう一度 』を楽曲に使った邦画としては『 ラブ&ポップ 』がある。共に1996年と1998年あたりの世相を抉りながら、自分というものの最大の存在意義が、女性性と貨幣の交換にあると信じ込んでしまった女子高生(たち)の物語だ。携帯電話がまったく一般的ではなく、映画を観ようと思い立った時には新聞や雑誌の映画・劇場情報欄の細かな文字を追いかけなければならなかった時代。そんな時代を背景に生きる志乃ちゃんの物語は、きっと多くの人の胸に突き刺さるに違いない。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 南沙良, 日本, 監督:湯浅弘章, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』 -居場所を巡る闘争と逃走の青春物語 -

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