Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

カテゴリー: 国内

『青夏 きみに恋した30日』 -青春よりも青臭さの方が目立つ-

Posted on 2018年8月16日2019年4月30日 by cool-jupiter

青夏 きみに恋した30日 35点

2018年8月12日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:葵わかな 佐野勇斗 古畑星夏 久間田琳加 水石亜飛夢 岐洲匠 橋本じゅん 佐藤寛太
監督:古澤健

東京の女子高生が上湖村という田舎で一夏を過ごす。そして運命の恋に落ちる。少女漫画のプロットとしても平凡すぎるが、物語に必要なのは往々にして陳腐さである。あまりにも奇を衒った演出を施してしまうと、物語世界に没入できなくなってしまう。かといって、平々凡々すぎてもいけない。このあたりのさじ加減は本当に難しい。普通に詩作が好きな男が普通に暮らす『パターソン』が絶妙なさじ加減と言える。では本作はどうか。残念ながら、少女漫画としては成立しても、銀幕に映える物語ではなかった。このあたりはJovianの主観なので、女子が見れば評価も大いに異なる可能性は高い。

厳しい目で見れば、本作にはあまりにも不自然な点が多すぎる。それらは登場人物の言動や心情であったり、映画的演出そのものであったりだ。例えば理緒(葵わかな)が序盤早々に山道を自転車で走っているところを転倒して山に入って(落ちて)しまうシーンがあるのだが、そこで理緒の携帯に表示される時刻が19:09、しかし空はすでに真っ暗闇。劇中でこの時は2018年7月21日(前後)であると明らかにされているので、いくら山中といえども空が暗すぎる。せいぜい逢魔時、黄昏時だろう。その一方で8月下旬の夕焼けの映えるシーンでは時計が17:40を指しており、こちらは我々の体感にも実際の日の入り時刻から逆算した夕焼けにも合う。細かいところだが、重要なところでもある。他にも吟蔵(佐野勇斗)が足裏を少し怪我するシーンがあるのだが、あの傷の長さと出血から予測される深さからして、その後の歩行に少し支障が出て然るべきだが、そんな描写も無かった。吟蔵は、大谷翔平も受けたPRP注射でも受けたとでもいうのか。

演出とストーリーの関連で言えば、ちぐはぐさが残る場面が多かった。登場人物的には関係ないのかもしれないが、いきなりアブラゼミを素手でパッと捕まえてしまう理緒に「東京の人の意見も聞いてみたい」という上湖村の高校生連中や、「東京もんに川に飛び込む勇気があるとは思わなかった」と言われても、うーむ・・・という感想しか抱けない。そもそも理緒は冒頭の東京での合コンカラオケシーンから浮きまくっていたではないか。

また本作の主題は、高校生男子の一夏の恋ではあるが、その恋模様が炙り出すテーマはなかなかにシリアスだ。過疎にあえぐ村を盛り立てるために若者は村に残るのか、それとも自分の才能を伸ばしたい、試してみたいという願望を成就させるために都会を目指すのか。しかし、現実的に考えるならば吟蔵とその許嫁とされる万理香(古畑星夏)がめでたく結婚し、子どもを5人ぐらいもうけたところで、上湖村の過疎は止まらないし、移住者や観光客が増えるわけでもない。にも関わらず周りの大人や同世代たちは無責任に吟蔵に期待をかける。いったい何なのだ、この村は。また村恒例の夏祭りのイベント販促(若い客を増やしたい!)を高校生に丸投げしていたり、さらにそこでアイデアを出すのが理緒で、なおかつそれがフライヤー作りだというのだから笑っていいのやら、呆れるべきなのやら。理緒と吟蔵の二人で隣町(村?)の花火大会(光と音が同時に届くというCG丸出し花火!)を見に行くのだが、フライヤーで呼び込める客の範囲もせいぜい隣町までだろう。しかし、これは見方によれば、そんな狭い範囲でしか吟蔵のデザインの才能を活かせないのは宝の持ち腐れであるということを強調しているのかもしれない。というか吟蔵の友人にはプロの高校生漫画家がいるのだから、そいつとのコラボというのは誰も考え付かないのか。何から何まで吟蔵に寄りかかるこの村および理緒の思考はどうなっているのか。そんな悩める吟蔵の夢を父(橋本じゅん)がアシストしようとするシーンがある。夏祭りでのライブでTHE BLUE HEARTSの『情熱の薔薇』を熱唱する(実際は吹き替え)シーンである。この部分と、もう一つ別の酒を酌み交わすシーンだけは、大人の大人らしさを感じさせてくれたが、全体的に見れば映画そのものが映し出す光景の美しさと、村の奥底にあるどうしようもない地方特有の駄目さ(と敢えて言う)が、何とも言えないギャップを生みだしている。劇中で山の頂上から海と村を一望するシーンがあるが、その時点で「三重かな?」と直感して正解。確かに自然は美しい。そして理緒自身も上湖村の長所として、空気の美味しさや水の美しさを挙げるが、それらは実は日本中の津々浦々で手に入るものだったりする。それを売り物にしようとするのは、観ているこちら側としては歯痒いばかりだった。マイクロファンディングが根付きつつある日本だが、一番早く目標金額に達するのはやはり地酒らしい。伏見や灘、西条に並ぶような酒どころを目指す、ような話にしてしまっては一夏の恋ではなく、夏休みの自由研究になってしまうか。

劇場の客の入りはまあまあだったが、半分以上は女子中高生だった。目線をそのあたりに持っていけば、案外楽しめる作品なのかもしれないが、大学生以上あたりになってくると、色々と粗というか突っ込みどころが自然と目に入ってきてしまうだろう。主演の二人を初め、俳優陣はいずれも健闘していたが、重要キャラクターである岐洲匠は別。監督の指示なのか、単に未熟なだけか、『BLEACH』のMIYAVIに並ぶ大根役者だった。決して映画ファンを唸らせるような一本ではない。そもそもタイトルからして妙だ。『青夏 きみに恋した40日』ではないのか。内実よりも語呂を優先したのか。時間とチケット代に余裕があるという方のみ、試してみてはどうだろうか。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ロマンス, 佐野勇斗, 日本, 監督:古澤寛太, 葵わかな, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『青夏 きみに恋した30日』 -青春よりも青臭さの方が目立つ-

『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

Posted on 2018年8月7日2019年4月25日 by cool-jupiter

センセイ君主 70点

2018年8月5日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:竹内涼真 浜辺美波 佐藤大樹 川栄李奈 矢本悠馬 新川優愛
監督:月川翔

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180807021734j:plain

率直に言う。近年の製作過多気味の少女漫画原作映画の中では突出した面白さである。そして、その面白さのおそらく50%は主演の浜辺美波のコメディックな演技力の高さから来ているのは間違いない。『となりの怪物くん』や『君の膵臓を食べたい』では抑えつけられていた(のかもしれない)ポテンシャルが一気に花開いた感がある。松屋で牛丼定食を数千円分も頬張り、パッドを入れまくって巨乳をアピールするヒロインというのは、寡聞にして知らなかった。メジャーな漫画があらかた映画化されてきたこともあるが、今後はこうしたメインストリームではない物語も脚光を浴び始めるだろう。一頃は広瀬すずや土屋太凰で埋め尽くされていた少女漫画原作の映画に新しい息吹を感じられたことを素直に喜ぼうではないか。

佐丸あゆは(浜辺美波)は女子高生。恋に恋する女子高生。漫画『スラムダンク』の桜木花道ばりの告白失敗連続記録を作ろうとしていた。松屋(食券制ではなかったか?)で牛丼をやけ食いするも、代金を払えなかったところを見知らぬ男に助けられる。翌日、めげずに次の恋へと走ろうとする健気なあゆはを神は見捨てていなかった。ロッカーにラブレターが入っていたからだ。告白を受け、さっそくデートに行くも相手の粗ばかりが目につき、結局は破局。そんな時に松屋で助け舟を出してくれた男が新任の担任教師(数学)、弘光由貴(竹内涼真)であることを知ったあゆはは、由貴のひねくれ過ぎた性格をものともせず告白するも撃沈。挙句に「俺を落としてみなよ」とまで挑発されてしまう。かくして佐丸あゆはの奮闘が始まった・・・

原作のテイストなのか、映画的演出なのか、過剰とも思えるほどの間テクスト性に溢れている(関テクスト性の具体例を知りたいという人は、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の作者コラムを読んでみよう)。もちろん『レディ・プレーヤー1』のようなクレイジーな量ではないが、『ロッキー』から『3年B組金八先生』、『ドラゴンボール』に『進撃の巨人』ネタまで放り込んでくるそのノリは嫌いではない。むしろ大いに笑わされたし、他の作品でもこうした手法は取り入れられるべきであろう。実際に劇中でジュディマリを歌うシーンがあるが、スクリーンの中の世界がこちら側の世界と地続きであると実感することで生まれる感覚というのは確かに存在する。「ああ、このキャラ達もあの作品を観たり読んだりしたんだな」という感覚が自分の中に生まれた時、確かに“さまるん”を応援したくなった自分がいた。もちろん、こうした試みを嫌がる向きもいるだろう。二時間の間は、フィクションの世界に没頭したいという人には少々酷な演出かもしれない。このあたりは観賞者の好み次第なので、自分と波長が合わないからといって、無下に否定してはならないように、自分でも注意をしたいものだ。

教師とは思えないほど薄情でシラケた態度の由貴に、一部の女子が授業のボイコットを計画するが、話してみればむしろ天然の面白キャラとして認知される。大人と子どものギャップを描き出すシーンだが、実はどちらも子どもであるということを伝える重要なシーンでもある。詳しくは作品を実際に観賞してもらうべきだが、敢えて近い対象を探すならば、『L・DK』の久我山柊聖がそのまま年齢を重ねて教師になってしまったような感じか。空手家の角田信朗は曙戦前だったか、「おっさんのかっこいいところは、かっこ悪いことを全力でやること」と喝破していた。つまりはそういうことなのだろう。ここでのおっさんを「大人」に置き換えれば、この物語での大人は誰なのか、子どもは誰なのかが逆転する。このことはさまるんの親友やその彼氏、さらにさまるんに恋心を抱く幼馴染らにも当てはまる。何がどう当てはまるのかを知りたい人は、ぜひ本作を観よう。そして本作を観たら『恋は雨上がりのように』と比較をしてみよう。大人になりきれていない大人の男が、若い女の子に迫られた時、どうするべきなのか。両作品とも非常に示唆に富む回答を提示している。本作のもう一つの特徴というかユニークさは、ヒロインとその親友のトークのえげつなさだ。トレーラーにあった「バーロー、ガチ恋したら胸ボンババボンだっつーの!」みたいな会話が当たり前のように交わされるのは、実はかなり健全な関係を築けている証拠だったりする。アメリカ映画でハイスクールが舞台だと、邦画では考えられないような容赦の無い女子トークが往々にして展開される。『スウィート17モンスター』や『JUNO ジュノ』、『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』などが好例だ。あまりに優等生的な関係だけではなく、多少の毒の混じった関係ぐらいがちょうど良いのである。お盆休みの予定が決まらない人は、劇場で本作を観るべし。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ロマンティック・コメディ, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 竹内涼真, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

『BLEACH』 -続編の製作は必要なし-

Posted on 2018年7月23日2020年1月10日 by cool-jupiter

BLEACH 20点

2018年7月22日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:福士蒼汰 杉咲花 吉沢亮 長澤まさみ 江口洋介 真野恵里菜 田辺誠一 早乙女太一 MIYAVI
監督:佐藤信介

* 以下、ネタバレあり

Jovianは原作を読んだことがないし、これからも読む予定は無いが、残念ながら本作は2018年の邦画ワースト5に入るであろうということは直感的に分かる。『修羅雪姫』に始まり、『図書館戦争』『GANTS』『アイアムアヒーロー』『いぬやしき』で我々を魅了してくれた佐藤信介はどこに行ってしまったのだ?まあ、『デスノート Light up the NEW world』のような珍作もこの人は作ってしまったこともあるのだけれど。もしかして青年漫画は上手く映画化できても、少年漫画は不得手なのだろうか。

黒崎一護(福士蒼汰)は、幼い日に母(長澤まさみ)を亡くしてしまう。その原因が何であるのかを知ることがないままに高校生になったが、一護には霊が見えるという特異体質があった。ある時、突如自宅に大穴が空き、妹が謎の存在に攫われる。その化け物、虚(ホロウ)と闘う謎の少女の姿をした死神、朽木ルキア(杉咲花)。そのルキアから死神の力を与えられることになってしまった一護は、人間世界の理とは異なる存在たちとの戦わなくてはならなくなってしまう。

これだけなら、なかなか面白そうな導入である。実際に日本のエンタメCG製作では間違いなく最高峰の白組が手掛けるホロウたちの迫真性は見事なものである。ただ、白組に関しても『寄生獣』、『シン・ゴジラ』では素晴らしい仕事をしたと思うが、『DESTINY 鎌倉ものがたり』はあまりにもCG臭さがあふれていて、全てを手放しで評価できるわけではないと思っている。本作の問題点は大きく3つに大別できる。

1つは、登場人物たちの関係の描写があまりにも希薄であるということ。その最たるものは一護の母(長澤まさみ)と父(江口洋介)であろう。冒頭のシーンは一護という男の子の心根の優しさを描くことはできていたが、母の愛情についてはあと一歩踏み込んだ描写がなかった。それが無かったが故にか、「時々母の夢を見る」と呟く一護に対して、父は「俺は毎日見る」と返す。そのコントラストは父親の大きさの影に隠れた弱さと、生意気盛りの息子の奥底に隠れている母への思慕を浮き彫りにする非常に重要なシーンだ。だが、その冒頭とクライマックスバトル直前の江口のキャラのあまりの軽さと軽率さが、せっかくの良いシーンの余韻を台無しにした。その他で目立った欠点は、一護とクラスメイトたちの関係性。ここが深掘りされないままなので、一護が死んだという冗談を繰り返す級友や、一護が好きであるというキャラ(真野恵里菜)やチャド?というポテンシャルを秘めていそうで結局そのポテンシャルを発揮しなかったキャラが、クライマックスで輝けなかった。

問題の2つ目は、まさにそのクライマックスシーンである。なぜ一護は郊外の山奥もしくは山頂近くに現れた因縁のホロウを市街地に誘い込む、もしくはそのホロウ相手に市街地に逃げ込むのか。原作もおそらくそうなっているのだろうが、なぜそうしたアホな行動を取ってしまうのかについての合理的な、あるいは論理的に納得できる説明も描写もなかった。それ以外にも細かい部分ではクインシー?とかいう種族の生き残りの石田雨竜(吉沢亮)がホロウを多数おびき寄せるシーンがあったが、結局退治したホロウは一匹だけで、後はどうなったのか説明は一切なし。また田辺誠一のキャラも、異様な雰囲気を発することには成功していたが、ルキアに謎のアイテムを渡したり、一護のクラスメイトに唐突に話しかけたりと、とても身を隠していなければならない元・死神とは思えない行動の数々。とにかく各キャラの行動原理や関係性があまりにも浅く薄く、とても観る側の共感や納得を得られるものではない。

問題の3つ目は、あちこちで行われていた(としか感じられない)アフレコに見られる無造作としか言えない編集である。いや、アフレコ自体はありふれた技術や編集過程なので全く問題ないが、それがすぐに分かってしまうような形で世に送り出すのはプロフェッショナリズムの欠如と批判されても仕方がないだろう。その他にも、意図的としか思えない学習塾関連のステマ。最も原作ファンが多い層に、何か訴えかけたいものがあるのかも知れないが、最後のバトルシーンでも、甚大なダメージを被った駅前繁華街で、なぜか塾関連の看板や表示がやたらと生き残っていた。原作がそうなのか、それとも監督から中高生へ何らかのメッセージを送っているのか。またMIYAVIという役者はどうにかならなかったのだろうか。OKテイクを何とか継ぎ接ぎしてあの出来ならば、途中からでもキャスティングを変更することはできなかったのだろうかと頭を抱えざるを得ない程の大根役者ぶりを発揮してくれた。

もちろん収穫もある。土屋太凰に続く、アクションができる女性俳優として、杉咲花には大いに期待が持てる。吉沢亮も、『ママレード・ボーイ』では孤軍奮闘の感があったが、今作でも存在感は示した。スルー予定だったが『猫は抱くもの』を観たいと思えてきた。しかし、総じて欠点ばかりが目立つ作品となってしまった。続編を作る気満々のエンドクレジットには辟易したが、逆に『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』の続きが観たくなってしまうという、思わぬ副作用というか副産物をもたらしてくれた。まあ、それぐらい酷い作品だったということ。頼むぜ、佐藤さんよ!

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, E Rank, アクション, 吉沢亮, 日本, 杉咲花, 監督:佐藤信介, 福士蒼汰, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 長澤まさみLeave a Comment on 『BLEACH』 -続編の製作は必要なし-

『君が君で君だ』 -この映画に共感する人は犯罪者予備軍か熱心な映画ファンか-

Posted on 2018年7月20日2022年2月20日 by cool-jupiter

君が君で君だ 65点

2018年7月19日 梅田ブルク7にて観賞
出演:池松壮亮 キム・コッピ 満島真之介 大倉孝二 YOU 向井理 高杉真宙 光石研
原作・脚本・監督:松居大悟 

  • ネタばれは白字で表示

韓国から日本にやってきたパク・ソンヨン(キム・コッピ)にストーカー行為をする尾崎豊(池松壮亮)、ブラッド・ピット(満島真之介)、坂本龍馬(大倉孝二)の話である。以上、終わり。で、済ませてもよいが、それではあまりに芸が無いし、不親切であるし、記録にもならない。ストーカー映画というジャンルが映画において確立されているかどうかは寡聞にして知らないのだが、小説には傑作がいくつもある。Jovianの印象に強く残っているのは大石圭の『アンダー・ユア・ベッド』と吉村達也の『初恋』である。Amazonの関連商品を見るに、まだ他にもたくさんの未読の傑作がありそうだ。

元々、ブラピが恋人に振られた日に、尾崎とやけくそカラオケをしていた店で働いていたのがソンヨン、通称ソンであった。その夜、繁華街で酔った勢いで誰かれ構わず難癖をつけて行くブラピと尾崎は、女性に絡むチンピラに勢いで特攻する。当然返り討ちにあうわけだが、ソンがビール瓶を割って、男たちを脅かすことで事態は収拾。怪我で流れた血をハンカチで拭ってくれたソンに、二人は一気に恋に落ちる。そこにソンの元彼の坂本龍馬も加わり、ソンの家の裏手のアパートを借り、3人でソンを守る国を建国し、日夜ストーカー行為に励む。そんな奇妙な生活も10年目になっていた・・・

ストーカーという概念が認知されるようになったのはいつごろだったか。個人的に思いだせるのは、確かテニス選手のマリー・ピアースが元彼だったか父親だったかに付きまとわれていて、警察に相談した。裁判所は男の方に、半径20mだか50mだかに近づいてはならないと命じた、というような話をテニス中継の実況中に聞いた覚えがある。現代ではストーキングは、単に物理的に付きまとうだけではなく、ゴミ漁りや盗聴、無言電話および実際の電話、さらにはSNSでのストーキングなど、その行為のエスカレートする一方のようだ。

尾崎、ブラピ、坂本の三人は、ソンを姫に、そして自らを兵士に譬える。これは上手い比喩だ。軍の格言に「良い兵士とは考えない兵士だ」というものがある。言い得て妙であろう。軍の作戦行動には大抵の場合、損耗が織り込まれている。その現実を頭から追い出せないような者は従軍などできはしない。この三人組も同工異曲である。自分たちの好意を客観視できれば、このような犯罪行為を続けられはしないし、ソンが同居の恋人(高杉真宙)から虐待されるのを盗聴していながら、それを助けず、通報もせず、不気味な祈祷に耽る姿には嫌悪感を抱くしかない。

ことほど然様に狂った男たちを現実に呼び戻せるものは何か。本作のその回答として、カネと暴力を提示する。ソンの恋人が作った借金の取り立てにやって来る。友枝(向井理)とそのボスの星野(YOU)である。2人は彼らの国の入管を経ずに文字通り土足で入り込んでくる。それでも3人組は偏執な愛情を変えることなく、なぜか王子に借金返済の手伝いをさせて下さいとまで申し出る。ここまで来るとコメディだが、彼らの執拗な愛情に純粋さと美しさを見出した借金取りたちにも変化が表れ始める・・・

この映画の結末は賛否両論を巻き起こす。それは間違いない。しかし、純愛派が賛成するわけではないだろうし、否定派が異常な愛情そのものを否定するわけではないだろう。そのことは友枝というキャラクターの「自分は半端でいいっすわ」という台詞とその後の言動に現れる。おそらく中途半端なスタンスを取る、この結末を受け入れることができる自分と受け入れられない自分がいるというモヤモヤ感を良しとできれば、それで良いのではなかろうか。

エンドクレジットは絶対にその目に焼き付けてほしい。こういう効果を狙って松居大悟監督はこのようなキャスティングにしたのだろうか。自分がストーカー被害に遭うことも、自分自身がストーカーになることも、これはどちらも起こりうる。観客という立場からこの物語を眺めていた自分の頭を、監督にガツンと殴られたかのような衝撃を感じるクレジットであった。あのタイミングで、最後にYOUとか表示されたら、「え、俺もこの映画に登場してたの?」みたいになるでしょうよ、そりゃあ。惜しむらくは、“女子高生の頃から20年間同じ女性にストーカー行為をしていた男が逮捕された”というニュースが割と最近あったことで、映画のインパクトが薄まってしまった感は否めない。そういえば福山優治の『そして父になる』も、そんな感じだったな。現実は時に映画よりも奇なり。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, キム・コッピ, ロマンス, 日本, 池松壮亮, 監督:松居大悟, 配給会社:ティ・ジョイLeave a Comment on 『君が君で君だ』 -この映画に共感する人は犯罪者予備軍か熱心な映画ファンか-

『コクリコ坂から』  -戦争の傷跡残る時代の青春群像劇-

Posted on 2018年7月19日2020年2月13日 by cool-jupiter

コクリコ坂から 65点

2018年7月18日 レンタルDVDにて観賞
声の出演:長澤まさみ 岡田准一 竹下景子 石田ゆり子 柊瑠美 風吹ジュン 内藤剛志 風間俊介 大森南朋 香川照之
監督:宮崎吾朗 

ジブリっぽいイントロから、韓国ドラマにありがちな展開に進み、最後はきれいに着地をした。そんな印象の作品である。1963年という第二次大戦の終了後10年を経ていない時代に生きる高校生の海(長澤まさみ)、通称メル。フランスで海の意である。よく言われることであるが、日本語では「海」の中に「母」がおり、フランス語では「母」の中に「海」がある。イントロはまさに無言のままに海というキャラクターの属性を描き切る。それは母親の不在を見事にカバーする母としての海である。海たちが住むコクリコ荘は太平洋に臨み、妹の空と弟の陸、祖母の花、その他の居候たちと穏やかに暮らしていた。陸海空と聞けば、それだけで軍を想起するが、海の父親も海軍の軍人で、朝鮮戦争で戦死していた。海はそれでも父の眠る海に向けて、信号旗を毎日上げる。それに応える詩が、学校で発行される週刊カルチェラタンに掲載され、それを読んだ海は顔を赤らめる。私情ではなく詩情にほだされるところが時代の違いをあらためて浮き彫りにしている。

そんな海はある日、学生食堂で友達と食事をしている時に、カルチェラタンという学校の部室棟を取り壊すという計画に抗議するため、校舎の屋根から貯水池に飛び込んだ男子に手を差し伸べた。風間俊(岡田准一)との邂逅である。田舎育ちの今の70歳代ぐらいの親戚に言わせれば、「手をつないだら、もう相手には妊娠するものぐらいに感じていた」と言う空気が当時はあったらしい。しかし舞台は横浜。神戸や長崎と同じく、いやそれ以上に先進的で開けた都市だ。メルもそこまでうぶではなかった。本当の意味でメルが俊にキュンとなるのは集会の場だったのだろう。カルチェラタンの取り壊しに賛成する生徒と反対する生徒の弁論による対決である。俊は高らかと述べる、「古いものを壊すのは、そこにある文化や歴史を壊すのと同じではないのか」と。何というマルキズム! 何という唯物史観的思考!おそらく今の(2010年代)の高校生でも同じように考える者はいるだろうし、それは原作発刊当時の1980年代でも同様だろう。ただ、そうした知識や思考を彼ら彼女らがどこでどのように得たのかを思うと、感動に近いような気持ちになる。Wikipediaがあるような時代ではないのだ。戦後10年も経ない時代、脱亜入欧政策は失敗だったと認めつつも、学ぶべきものは素直に学び、間違いであると思えるものに対しては疑義を差し挟むことを恐れない若者が本当にいたかどうかは別にして、学生運動とはそういうものだったはずだ。現に我々は、かなり頼りない存在および現象に映っていたが、SEALDsという物言う若者の集団に、ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、大いに刺激を受けたではないか。そういうわけで、メルが弁論する俊にコロッといってしまっても不思議は無いわけだ。というか、相手を曲学阿世と罵ることができる高校生が今日日、どれくらいいるだろうか。まあ、こうした言葉がどのような人間を指すのかを、我々が原発擁護に血道を上げる東大教授達の姿を見て知るわけである。

閑話休題。メルと俊の二人は順調に距離を縮めるが、ある戦争の傷跡が二人の間に壁を生じさせる。それでもカルチェラタンの大掃除や週刊誌のガリ版の原稿作りなどを通じて健気につながりを保つ二人にしかし、そのカルチェラタン取り壊しが正式に決定したという悲報が届く。生徒会長の水沼と二人は理事長に直談判しに、東京へ向かうが・・・

ここまででクライマックスの手前になるのだが、かなりテンポよく物語が進む。近所のTSUTAYAで借りてきてから1回通して観て、その後英語字幕で2回観た。ペーシングが素晴らしい。無駄なカットや台詞が一切排除され、物語を引き締めている。その一方で、主題は若い2人のほろ苦すぎる青春である一方、戦争の残した爪痕がテーマとして重くのしかかるストーリーでもある。話の重要な舞台装置であるカルチェラタン同様に、かなり衒学的な要素もあり、正直なところ、中高年がノスタルジアに浸るには良い作品だが、現代の青少年に、上辺の物語の底に流れる重いテーマを消化してほしいと願うのは少々しんどいかもしれない。お盆の帰省で田舎に帰る大学生や、もしくはそうした都会から帰って来て携帯をいじるくらいしかすることがない大学生と一緒に、家族や親せきと観賞するのも一興かもしれない。『火垂るの墓』では重たすぎるから。

本作は、観終った直後にもう一度、イントロのシーンに戻って欲しい。全く同じ構図のシーンが音楽の違いだけで観る者に全く異なる印象を与えてくれることに軽い驚きを覚えることだろう。その他、複数回の観賞に耐えるディテールへのこだわりも多い。観る人は選ばないが、楽しめる、もしくは何かを得られるという人をかなり選びそうな作品である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ロマンス, 岡田准一, 日本, 監督:宮崎吾朗, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『コクリコ坂から』  -戦争の傷跡残る時代の青春群像劇-

『虹色デイズ』 -裏のヒロインは日本版スウィート17モンスター-

Posted on 2018年7月19日2020年2月13日 by cool-jupiter

虹色デイズ 60点

2018年7月16日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:佐野玲於 中川大志 高杉真宙 横浜流星 吉川愛 恒松祐里 堀田真由 坂東希 山田裕貴 滝藤賢一
監督:飯塚健

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180719003056j:plain

男子校のノリを共学に持ちこんだら、きっとこんな感じなのだろう。もしくは男子寮か。Jovianはどちらもよく知っているのでなおさらそう感じた。男は基本アホな生き物だが、恋は盲目とはよく言ったもので、片思い中の男は本当にアホになる。ここで言うアホというのは認知的不協和を起こしているということ。毎朝必死で自転車をこいで、目当ての子の乗る電車に追い付いて、何とか話をして、タオルを貸してもらえるところまで行ったのに、連絡先も訊けない。なぜなら「そんなことはしてはいけないんじゃないか。不純ではないのか」と思いこんでしまうから。何も心理学用語を使うまでもなく、思考と行動に矛盾があることは分かる。

主人公は一応、羽柴夏樹=なっちゃん(佐野玲於)ということらしい。この男が上のような行動に出て、小早川杏奈(吉川愛)といかにお近づきになるのか。それがメインの物語である。ではサブのプロットは何なのか。夏樹の親友(悪友というか悪童連というか)に松永智也=まっつん(中川大志)、直江剛=つよぽん(高杉真宙)、片倉恵一=恵ちゃん(横浜流星)は夏樹の恋を応援しながらも、高2=17歳という難しい局面にいかに対峙すべきか、自分なりに模索し始める時期を自覚していた。進学どころか進級も疑わしい者、進学するにしても地元に残るのか東京を目指すのか、女友達に囲まれてそれなりに楽しく過ごすのか、恋をするのかしないのか、エトセトラエトセトラ。

はっきり言って、どこかで観たり読んだりしたようなサブプロットのモンタージュである。メインのストーリーも少年漫画の王道と少女漫画の王道を足して2で割ったような話である。だが古い革袋に新しい酒を入れると、存外に芳醇な味わいに仕上がることもある。そしてその味わいの多くは、ヒロインである小早川杏奈(吉川愛)ではなく、その友人の筒井まり(恒松祐里)から来ている。このまりは、まさに日本版の『スウィート17モンスター』のネイディーンである。もちろん、杏奈が自分の兄と衝動的に寝てしまうという展開などは無いので安心してほしい。ただ、この兄という存在が、まりがひねくれてしまった大きな原因であると同時に、その歪みを正すべき相手に対して、まさに兄らしい言葉を投げつけるところが本作のある意味で最も重要なハイライトである。山田裕貴は良い仕事をした。まりの変化と、それを引き起こし受け止めたまっつん(中川大志)も良い仕事をした。『ちはやふる 上の句』冒頭で野村周平に啖呵を切っただけの女子高生がここまで来たかと感慨深くなる。特に本屋では、このキャラの内面と周囲との関係性を一瞬で描き切る素晴らしいシークエンスがあるので注目して見てほしい。

もう一人、滝藤賢一演じる数学教師も、ほんのわずかしか登場しないものの、強烈なインパクトを残した。実際にこういう教師はいたし、今もいることだろう。特に追試に関しては、合格者ではなく落第者を発表するというところに、アメリカ横断ウルトラクイズ的な意地の悪さを感じた。この男が進路相談で直江に投げかける言葉は案外と重い。あの一言をポジティブに受け取るかネガティブに受け取るかで、その後の直江がガールフレンドとの関係を維持できるかどうかを問われて、返す言葉に対する解釈がまるっきり異なってくるからだ。これは脚本の大いなる勝利であろう。

メインを張った佐野と吉川は大いに奮闘したものの、あの決定的なシーンにあれだけのわざとらしさ-もしくは不自然さと言い換えても良い-が残ったまま、劇場で放映されてしまったというのは、監督が妥協したか、もしくは佐野か吉川のどちらかがギブアップしたのであろう。この点は大いにプロフェッショナリズムを欠いたとしか判断できず、減点材料だ。『娼年』を10回見てこいと言いたくなる。

サブのはずの中川と恒松の物語が、メインの佐野と吉川よりも前に出てきてしまったという、オムニバス形式で作ろうとしたものが、どこかで破綻してしまったような作品で、ヒロインの吉川は漂わせる橋本愛または堀北真希のような雰囲気に辛うじて救われたという印象である。戦国武将を思わせる名字だらけのキャストのいずれかを見たいというのであれば、チケット代分の満足は得られるだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ロマンス, 佐野玲於, 日本, 監督:飯塚健, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『虹色デイズ』 -裏のヒロインは日本版スウィート17モンスター-

『ルームロンダリング』 -死んでいない ≠ 生きるの不等式、再び-

Posted on 2018年7月17日2020年2月13日 by cool-jupiter

ルームロンダリング 65点

2018年7月15日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:池田エライザ オダギリジョー 渡辺えり 田口トモロヲ つみきみほ 木下隆行 渋川清彦 伊藤健太郎 光宗薫 
監督:片桐健滋

【ありそうでなかった奇抜な職業“ルームロンダリング”】というのがパンフレットの惹句であるが、10年ちょっと前に東京には存在していた。実際にはJovian自身もそうした一時しのぎの仕事に手を出そうとしたこともある。それはさておき、今作の主題はルームロンダリング=自己物件の居住者歴の浄化であるが、今作のテーマは「生きること」の定義である。ちなみに主題とは、目に見える、もしくは手で触れられるような形で呈示されるもので、しばしば名詞で表現可能なもの。テーマとは、しばしば主題に潜む/隠されている事柄で、しばしばセンテンスもしくは名詞節の形で表現されるものと思えば良いだろう。例えば映画『ゴジラ』の主題は巨大怪獣、そのテーマは核の恐怖であり、戦争という災厄がもたらす破壊の悲惨さである。本作のテーマは『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』に通底するものがある。

八雲御子(池田エライザ)は訳あり物件に入居し、一定期間で引っ越していくルームロンダリングで生活費を稼いでいた。父はいない。母も失踪。自分を育ててくれた祖母(渡辺えり)も他界。天涯孤独だった。そこに父親の葬儀で真っ向を投げつけたとされる信長もかくや、とばかりに乱入してきたのは母親の弟、御子の伯父にあたる雷土悟郎(オダギリジョー)。悪態をついたかと思うと、おもむろに御子を連れ去り、以後、自分の経営する不動産会社(という名目の裏社会に足を突っ込んだ怪しい稼業)のアルバイトとしてルームロンダリングを任せる。足りない生活費はポケットマネーから渡す。思いやりがあるのか無いのか分からない男である。その御子はというと、自殺したパンク歌手の春日公比古(渋川清彦)、殺人事件の被害者、千夏本悠希(光宗薫)、団地の公園に住みつく少年幽霊らと奇妙な交流を通じて、自分を見失っていく。ココがまず面白い。凡百のシナリオなら、幽霊との交流を通じて、天涯孤独の少女が徐々に心を開いて、現実の社会に足を踏み入れられるようになっていく・・・となるはずだが、そうはならない。そもそも裏稼業をやっている会社のアルバイトで、経営者たる伯父も叩けばホコリが出るどころではない。また、パッと見でロマンスを予感させる二軒目のアパートの隣人の虹川亜樹人(伊藤健太郎)も、ある重大な秘密を抱えている、陰のキャラ。映像やストーリーはコメディタッチでありながら、そこで語られる物語は非常に暗い。御子が常に携帯しているアヒルは、観客にとっては信号機のような役割を果たすアイテムであるが、御子にとってはある種の精神安定剤かつ幼稚さの象徴になっている。『グーニーズ』のマイキーが喘息の薬の吸入器をなかなか手放せなかったのと同じである。あるいはスティーブン・キングの『イット』のエディと言えば分るだろうか。

その御子が変化を遂げていくきっかけとなる、橋の上のシーンがある。これは近年の邦画では稀に見る計算されたシークエンスで、電車は合成だろうか、それともタイミングを完璧にリサーチした上でのテイクだったのだろうかと、劇場鑑賞中に我あらず考え込んでしまった。また、もしもあの電車のタイミングが偶然であるのなら、伊藤健太郎のアドリブ力というか、臨機応変さは大したものである。『チア☆ダン〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜』で中条あやみに延々と告白し続け、最後にはステージで踊りながら顰蹙を買うという印象的な役割を無難にこなしていたあの子がここまで来たかと感心させられた。

その相手役にしてヒロインの池田エライザは、今後は少女漫画原作の映画のヒロインにはなるべく使わず、本格的な女優への道を歩ませてやって欲しい。今作のようなオリジナル脚本の作品への出演が望ましい。彼女のハンドラー達には切にそうしてほしいと願う。日本とフィリピンのミックスというのは良い。Jovianがマニー・パッキャオ(昨日は予想外の勝利! でも早く現役を引退してくれ!!)好きなのもあるのだろうが、この子には華がある。色気、もしくは妖艶さと言い換えても良い。本作でも、ほんのわずかではあるが着替えシーンや入浴シーンがあるから、スケベ映画ファンは少しだけなら期待してもいい。個性的な目鼻立ち、意外と巨乳、確かな演技力・表現力というのが、どこかアナ・ケンドリックを思わせる。小松菜奈に続いてハリウッド映画から出演オファー来ないかな。そんな期待も抱かせてくれる良作である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, オダギリジョー, コメディ, ヒューマンドラマ, 日本, 池田エライザ, 監督:片桐健滋, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『ルームロンダリング』 -死んでいない ≠ 生きるの不等式、再び-

『耳をすませば』 -心の原風景の夢と将来叶えるべき夢-

Posted on 2018年7月15日2020年2月13日 by cool-jupiter

耳をすませば 70点

2018年7月11日 レンタルDVDにて観賞
出演:本名陽子 高橋一生
監督:近藤喜文

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180715141611j:plain

『故郷』に歌われるような、兎を追いかけられるような山も小鮒を釣れるような川もほとんど絶えて久しくなった現代でも、何故かこの歌には我々の本能的な部分に訴えかけるような力を有している。同じことが『カントリー・ロード』(原題:“Take Me Home, Country Roads”)についても言えるのだろう。この歌を聞いて『キングスマン:ゴールデン・サークル』を思い出す人もいれば、マニアックなところでは『エイリアン・コヴェナント』を思い起こす人もいるだろう。だが、日本の映画ファンの心に最も深く強く刻み込まれているのは本作『耳をすませば』ではなかろうか。

月島雫(声:本名陽子)は中三の受験生。家庭環境からか読書好き(bibliophile)に育った。Cinephile=映画好き、Bibliophile=本好き、ということである。自分が図書室から借りてくる本のいずれもが天沢聖司(声:高橋一生)という男子生徒に先んじん手借りられていることから、雫は相手をどんな男だろうと淡い幻想を抱くようになる。ある日、電車に乗っている奇妙な猫を追いかけていくと、「地球屋」という不思議な店に行きつく。その店の主人の孫が、何という奇縁か ― それとも必然か ― 天沢聖司だった。聖司の弾くバイオリンに合わせてオリジナルの作詞を施した『カントリー・ロード』を歌う雫、そこにimprovisationalに加わってくる店主とその音楽仲間たち。アンサンブルとしては日本アニメの中でも白眉であると思う。

中学を卒業したら、イタリアでバイオリン職人を目指すという聖司。『羊と鋼の森』は、もしかしたら本作に少し着想を得ていたりするのかもしれないと、ふとあらぬことも考えた。現代でも、本作の時代(色々と鑑みるに1980年代半ばか)でも、中学生にして職人の道を志す者は少ないだろう。しかし聖司の決意は固く強い。その確乎たる姿勢は好ましいものとして映るが、聖司に惹かれる雫にはどう映るのか。雫は聖司を引き留めようなどとはしない。むしろ、自分の進路が空虚なものであるかのように感じてしまう。しかし、雫には物語を紡いでみたいという欲求があった。学校の勉強などをほったらかして、全てを物語の著述に費やしてみよう。そして出来上がった作品を、まず聖司のお祖父さんに読んでもらおうと決心する雫。自分が中学生の頃、ここまで純粋にひたむきに、何かに打ち込んだ、誰かに感動させられたことがあっただろうかと自問させられた。

猫が重要な役割を演じる本作であるが、その猫がまた良い。まるで漫画およびアニメの『じゃりン子チエ』に出てきても違和感の無さそうな不思議な猫なのだ。もちろんムーンのことであって、バロンのことではない。バロンはというと、『銀河鉄道の夜』(猫アニメの方)に出てきそうなキャラだ。両方とも日本アニメーションの一つの到達点と言える作品なので、興味のある向きは一度ご観賞を。

本作のもう一つのモチーフは冒頭でも言及した『カントリー・ロード』だ。オリジナルの歌詞には“Country roads, take me home to the place I belong. West Virginia, Mountain Mama, take me home, country roads”とあるが、雫は作中でこれを「コンクリート・ロード」や「ウェスト東京」と読み替える。笑ってしまう言い換えだが、故郷と聞いた時に我々がつい思い浮かべてしまう自然豊かな郷里の里はもはや存在しないも同然である。ただ、故郷というもののイメージを創造的に破壊することはできる。コンクリート・ロードに郷愁を感じる者がいても良いではないか。故郷のイメージはそれを想う者の心の中にある。その原風景を雫は紙とペンで再現しようとしていたのだ。英語に”Home is home”という表現がある。聖司も自分の心の原風景に雫が刻みつけられたのだろう。だからこそイタリアに旅立てるのだ。

中高生ぐらいで普通に観賞してしまえば見過ごしてしまいそうなメッセージがあふれている。それでも、中高生ぐらいが最も観るべき層である作品であると思うし、家族そろって観ても良いし、小中学校あたりで道徳の授業、もしくは進路について考える時間に上映してやっても良いのではないだろうか。Timeless Classicである。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, B Rank, アニメ, ロマンス, 日本, 本名陽子, 監督:近藤喜文, 配給会社:東宝, 高橋一生Leave a Comment on 『耳をすませば』 -心の原風景の夢と将来叶えるべき夢-

『パンク侍、斬られて候』 ―実験的な意欲作と見るか、製作者の自慰行為と見るか―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

パンク侍、斬られて候 30点

2018年7月1日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:綾野剛 北川景子 東出昌大 染谷将太 浅野忠信 國村隼 豊川悦司
監督:石井岳龍
脚本:宮藤官九郎

まず30点というのは、Jovianの個人的感覚であって、この点数が他のサイトやレビュワーさんの点数よりも正確であるとは思わない。また観る者全員が傑作もしくは駄作であると一致した意見を見る作品は比較的少ないはずだ。Roger Ebertのようなプロの映画評論家の意見であっても、必ずしも賛成する必要は無い。自分の感性を信じるとともに、他者の感性も尊重すべきだ。現に映画館では、Jovianの嫁とその右隣のお客さん、さらには右側少し下のお客さんは映画のかなりの部分を熟睡していた。一方で、映画のちょっとしたギャグシーンで「クスッ」「ハハハ」「ワハハハ」というような声も聞こえてきた。彼ら彼女らはこの映画を楽しんだことだろう。重畳である。問題は、何故自分が楽しめなかったのか、というよりも、この映画のどのあたりが自分と波長が合わなかったのかを考えた方が建設的かもしれない。

まず、人によっては開始1分でずっこけるだろう。どうみても江戸時代で日本人にしか見えない綾野剛がルー大柴のようなカタカナ交じりの日本語を話す。それ自体は見る人によっては面白いのかもしれないが、リアリティを重視する自分としては全く面白くなかった。むしろ興醒めだった。また主要キャストに女性は北川景子しかいないのだが、そのせいでその登場シーンの印象が薄れるというか、「いや、このタイミングでこの登場の仕方をするってことは、冒頭のあのキャラが北川景子で決定やないか」と、キャスティングそのものがプロットをばらしてしまっているも同然なのだ。脚本のクドカンは何をやっているのか。

もちろん評価すべき点もある。家老として対立関係にある國村隼と豊川悦司は邪悪な笑みでその演技力の高さを見せつけるし、北川景子も無表情に清楚に踊る。反対にクスリでもやっているんじゃないのかというトリッピーな目で踊る染谷将太は、エキセントリックな役を演じさせれば同世代のトップランナーの一人であることをあらためて証明した。『新宿スワンⅡ』で綾野剛と共演した浅野忠信は今回は肉体派の演技に加えて、イカれたメンタルの持ち主を違和感なく演じることができることを教えてくれた。役者の面々には褒めるところが非常に多いのだが、これが映画全体を通して見ると、エンターテインメント性を思ったよりも持っていないのだ。

それは細部への過剰なこだわりによるものであろう。観賞中にやたらと気に障ったのは、アクションに対して効果音を多用しすぎであるということ、その効果音もやたらと大きく、音そのものが前面に出しゃばっていることだ。またCGの多用も文字通り目についた。『不能犯』の松坂李桃の目を覗き込んだ時の視覚効果もそうだったが、あまりにカクカクした、あるいはきれいすぎる曲線や、人工的にしか見えないクリアに色分けされた領域など、製作者側が限られた予算でこんなビジュアル、あんなビジュアルを使いたいと張り切った結果が、面白さに反映されないのだ。

本当に、これは観る側と作る側の波長の問題で、あらゆる作品について認識の乖離は起こりうる。シネマティックな作品は必ずしもドラマティックではないのだ。それだけはどうしようもない。ただし、これだけは言わねばなるまい。

パンク侍、斬られずに候!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, コメディ, 北川景子, 日本, 監督:石井岳龍, 綾野剛, 配給会社:東映Leave a Comment on 『パンク侍、斬られて候』 ―実験的な意欲作と見るか、製作者の自慰行為と見るか―

『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 65点

2018年6月28日 梅田ブルク7にて観賞
出演:榮倉奈々 安田顕 大谷亮平 野々すみ花
監督:李闘士男

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180701023943j:plain

『 電車男 』と同じく、ネットの投稿が起源という珍しい作品である。しかし、数年後にはそれほど珍しくなくなっているのではないか、ということも予感させる。

最近の俳優や女優は誰もが若々しさをキープしているが、榮倉奈々もその一人である。しかし、それは若々しさであって若さではない。そのことは、ほんのちょっとした料理の時の仕草などにも表れていた。本人の結婚がキャリアに良い作用を及ぼしている好例である。そして、安田顕である。『HK 変態仮面』で、ある意味で鈴木亮平以上のインパクトを残した安田である。疲れを見せてはいるものの草臥れきってはいない中年サラリーマン役をこれ以上ないほど好演してくれた。サラリーマンなどという存在は、酒でも飲まなければ生き生きできないのだ。

家に帰って来ると、妻(加賀美ちえ)が死んだふりをしている。それがどんどんエスカレートする。仕舞いには死体ですらなく、宇宙人、猫、スフィンクスなど、なんでもござれである。夫(加賀美じゅん)はその真意を測りかね、会社の後輩の佐野壮馬(大谷亮平)に相談する。そうした日々が続いて行くなか、夫婦同士の付き合いが始まり、結婚という制度の本質、男女の理解について、理解と誤解が生じては消えて・・・

劇中でJovianに最も刺さったのは、課長の「お前はお見合い結婚じゃなくて恋愛結婚だろ?だったら、合わないなら別れりゃいいだろ」という言葉である。日本社会全体の未婚化・晩婚化の原因の一つに、お見合いの減退が挙げられるのは間違いない。お見合いとは、小説家にして在野の異端の歴史家、八切止夫に言わせれば「家格と家格の取り組み」であった。昭和の中期ごろまでは、地方に行けば、結婚の許可は両親・親族だけではなく、学校の恩師や勤め先の上司にまで相談や報告が必要だったというから、その濃密すぎる血縁関係、地縁関係、ゲマインシャフトとしての学校や会社の側面が知れよう。対照的に、確か日本文学史においても「恋愛?それは美男美女がやるもの」みたいな観念が支配的だったはずである。そもそも恋愛という語も、英語のloveを翻訳する必要に駆られて生み出されたものだった。このloveの概念をどう捉えるのか。同じシーンで課長が決定的に意味不明な台詞を吐くのだが、課長の謎の論理展開とloveの関連を、観ている最中によくよく咀嚼してみてほしい。

「優しい言葉は人を傷つける」、これが本作の打ち出しているテーマの一つである。何も珍しいことはない。人間関係においては、自分の意図しないところで誰かが傷つき、誰かの意図しないところで自分が傷つくこともある。だから言葉が信用ならない、というわけではない。劇中でも安田顕と大谷亮平がそろって「口に出してくれなきゃ分からないよ」と言うが、これなどは典型的な日本の夫であろう。誤解しないでほしい。Jovianが言っているのは、日本の夫は共感力に欠けるということではない。言葉という論理で動くものではあるが、決してそれに縛られる存在ではないのだ。劇中のクライマックスで、かなりの数の男性視聴者が課長とちえの父の言葉を思い浮かべるであろう。

ちえが死んだふりを繰り返すのは何故か。そもそも何故、死んだふりなのか。この映画を観ながら、あちらこちらに死のモチーフが挿入されていることに驚かされる。しかし、それは不吉な事柄としての死ではなく、必然的な事象としての死である。Jovianは唐突に大昔プレーした『クロノ・トリガー』というゲームを思い出した。とあるキャラクターが「お前達 生きていない 死んでいないだけ」と言うのだ。次の瞬間には『ファイナルファンタジー9』でビビが「生きてるってこと証明できなければ死んでしまっているのと同じなのかなぁ…」と呟くシーンが、十数年ぶりに脳内再生されたような気がした。生きるとは何か。夫婦であるとは何か。愛とは何か。自分ひとりで観賞してじっくり考察するもよし、パートナーと共に観て、ディスカッションをするのも良いだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 日本, 榮倉奈々, 監督:李闘士男, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来 』 -吹き替え鑑賞-
  • 『 プレデター バッドランド 』 -Clan Over Family-
  • 『 羅小黒戦記~ぼくが選ぶ未来~ 』 -劇場再鑑賞-
  • 『 爆弾 』 -佐藤二朗のベストアクト-
  • 『 さよならはスローボールで 』 -これは一種の同窓会の終わり-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年11月
  • 2025年10月
  • 2025年9月
  • 2025年8月
  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme