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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 未分類

『 星屑の町 』 -映画の形をした舞台劇-

Posted on 2020年12月30日 by cool-jupiter

星屑の町 60点
2020年12月28日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:のん(能年玲奈) 大平サブロー ラサール石井 小宮孝泰
監督:杉山泰一

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201230120235j:plain
 

『 私をくいとめて 』は劇場鑑賞できたが、こちらはたしか春に緊急事態宣言で見逃した。能年玲奈に再会したいと願い、近所のTSUTAYAでレンタル。思いがけないヒューマンドラマであった。

 

あらすじ

売れない歌謡グループ「山田修とハローナイツ」は、リーダーの修(小宮孝泰)の故郷に巡業にやってきた。修の弟・英二は、自分の息子とその幼なじみ・愛(のん)に結ばれてほしいと思っていた。けれども愛には東京に出て歌手になりたいという夢があった。ひょんなことから自分の父親が「ハローナイツ」にいるのではないかと考えるようになった愛はハローナイツへ加入したいと言い出し・・・

 

ポジティブ・サイド

のん、普通に歌が上手い。もちろん口パクなのだが、それはほとんどすべての音楽映画に当てはまること。特に感心したのはギターを弾きながらオーディションを受けるシーン。のんの新たな魅力を本作は開拓したと言える。

 

愛が一度上京して悪徳プロダクションに騙されたという背景情報も説得力がある。まるで能年玲奈からのんに改名するという現実世界での経緯が、本作のプロットを重複するように感じる。売れようと必死になることは決して否定されてはならない。大切なのは、売れようとする手段であり、そのためにいかに努力できるか。のんと愛がその点で大きく重なって見えた。

 

同じように、ナイツのボーカル役を務めた大平サブローも意外な歌唱力を披露。ナイスガイと見せかけたその裏に色々な因果を含めた男で、これも吉本の闇営業問題でのサブロー自身のコメントを思い起こさせる。売れることと売れないこと。そこに至る手段の是非は別として、売れることそのものは決して否定されるべきではない。

 

全編を通じて歌われる楽曲が一部を除いてノスタルジーを呼び覚ます。本格的な昭和の歌謡曲をなんとなくしか知らないJovian世代だが、1975年よりも前の生まれの世代なら、歓喜の涙に濡れる選曲になっているだろう。

 

ドラマパートも大いに盛り上がる。特にハローナイツの面々が小学校内の控室内で繰り広げる暴露劇の連続から生まれる緊張感は『 キサラギ 』の会話劇に勝るとも劣らない。各シーンを別アングルから撮影したのではなく、各アングルから複数のワンカットを撮影してつなぎ合わせたのだろうか。それほどの臨場感が生まれている。

 

地方と東京、若者と高齢者、男と女、個と集団。様々な対立軸が描かれ、時に衝突し時に融和する。これはなかなかの秀作である。

 

ネガティブ・サイド

歌のパートとドラマパートのつなぎが非常にぎくしゃくしていると感じられた。ある歌の歌詞にある“テールランプ”や“窓ガラス”などは、作中で効果的にそのビジュアルをいくらでも示すことができたはずだ。オリジナル曲の“Miss You”にしても同じで、この旋律をBGMに愛の幼馴染の男が農作業に勤しむ姿、あるいは愛の母親がスナックで一人寂しく食器を洗うシーンなどを挿入することで、歌のメッセージをより際立たせることもできたのにと思う。全体的に舞台をそのまま映画にしたようなもので、映画の技法(特に撮影における)が効果的に使われているとは言い難い。

 

全体的なトーンも一貫しない。のんの本格的な登場までが長すぎるし、のんが登場してもストーリーに本格的に絡んでくるまでが、またも長い。ナイツの面々の職人芸の域に達した丁々発止のやり取りは痛快ではあるが、そこへの力の入れ具合が強すぎる。これなら「のん」抜きで物語を作れてしまうではないか。愛の父親は誰なのか?それはナイツの中にいるのか?というサブ・プロットについても消化不良のまま終わってしまうのは頂けない。

 

また、個人的にはこの結末は受け入れがたい。愛がナイツに新規加入後、とんとん拍子に売れていく過程のあれやこれやや、ナイツの面々とのチームワークを醸成するシーンを描かないことには、愛の最後の選択に説得力が生まれないだろう。

 

歌詞が画面にスーパーインポーズされるのはありがたいサービスだが、一か所にミスが「二人で書いたこの絵、燃やしましょう」は、正しくは「描いた」である。

 

総評

のんの魅力は遺憾なく発揮されているものの、その絶対量が少ない。また、ストーリーのつなぎや一部キャラクターの心情や行動がぎくしゃくしてしまっている。けれど、古き良き歌謡曲が全編を彩り、今や遠くになりにけりな昭和という時代の懐かしむという意味では、本作は成功している。若い映画ファンはのんを、中年以上の映画ファンは歌謡に注目して観るのが吉である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

look back

「後ろを見る」の意。劇中でのんが「わだず、もう後ろは振り返らね」という台詞。物理的に後ろを向く場合と過去に目を向ける場合の両方に使う。後者の意味で使う場合は、look back on ~という形になる。使用例としてはOasisの『 Don’t look back in anger 』を聴いてほしい。

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, C Rank, のん, ヒューマンドラマ, ラサール石井, 大平サブロー, 小宮孝泰, 日本, 監督:杉山泰一, 能年玲奈, 配給会社:東映ビデオLeave a Comment on 『 星屑の町 』 -映画の形をした舞台劇-

『 ミセス・ノイズィ 』 -事実、必ずしも真実ならず-

Posted on 2020年12月13日 by cool-jupiter

ミセス・ノイズィ 75点
2020年12月12日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:篠原ゆき子 大高洋子 新津ちせ
監督:天野千尋

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2020年現在、30歳以上なら奈良の「騒音おばさん」を覚えていることだろう。本作は、あの事件にインスピレーションを得つつも、現代的に翻案し、見事なドラマに仕立て上げられている。Jovianはしかし、どちらかと言うと、別の事件のことも思い出した。

 

あらすじ

小説家の吉岡真紀(篠原ゆき子)は、引っ越し先の隣人・若田美和子(大高洋子)が毎朝早くから布団を叩く音のせいで、スランプから脱却できず、お互いの小競り合いに発展していった。しかし、このことをネタに『 ミセス・ノイズィ 』という小説を執筆したところ、騒動の動画のヒットもあって好評を博すのだが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201213130442j:plain

 

ポジティブ・サイド

90年代からゼロ年代まで、数多くの宗教団体による信者の拉致監禁事件があった。そしておそらく現代にもある。そのことは『 星の子 』でも示唆されていた通りである。一方で、カルト宗教に洗脳された信者を脱会させ、家族の元に奪還してくる団体が、また別の洗脳手法を使っていることが物議をかもしたこともあった。けれども90年代末だったか、ワイドショーを騒がせた「女性ばかりを拉致監禁して地方を転々とするカルト」が、実はDV被害者や無理やり苦界(もはや死後だろうか?)に落とされた者たちを救出していた団体だった判明したことがあった。当時、高校生だったJovianはこのニュースに驚かされた。そして、マスコミが誤報を詫びず、しれっと新しい情報を流して終わりにしてしまうことに強烈な違和感も覚えた。物事を一面から見る。そこには確かに事実がある。しかし、真実は事象を多角的に捉えないと見えてこないのだ。

 

本作も同じである。物語の前半は真紀視点から語られ、そこでは真紀は騒音の被害者で、若田さんは異常な隣人である。特に大高洋子は圧巻の存在感で、風貌や声の出し方までが「騒音おばさん」を彷彿させる鬼気迫る演技である。若田さんが嫌がらせをしてくるのは、彼女が異常な人物だからであると思いたくなる。典型的な“行為者-観察者バイアス”(Actor-Observer Bias)の陥穽に真紀はハマってしまう。それを補強するような衝撃的なエピソードが真紀の愛娘から語られることで、我々はますます怖気を震ってしまう。どうすればこの「騒音おばさん」を撃退できるのか、懲らしめられるのかを考えてしまう。

 

しかし、後半に差し掛かるところで、物語は若田さんの視点から描かれる。そこで我々は若田さんの抱える様々な事情を知ることになる。彼女の背景が明確にセリフで語られるわけではないが、一目見ればすべてが理解できる。このシーンでは強烈な左フックをチンに一発もらったかのような衝撃を覚えた。我々はしばしば知覚は十全に世界を捉えていると思い込んでいるが、実際には知ることのできない「超越」的な領域があるというのが、現代哲学である。我々が見聞きするものは事実であるが、すべてではない。他方から見た事実も存在する。真実とは、事実の側面ではなく総体なのだ。若田さんが路上でとるちょっとした行動が、少し角度を変えれば全く違うものに見える場面が存在する。世の中のたいていの事象はこうなっているのではないか。

 

世間をも巻き込む大騒動に発展する隣家同士の小競り合いは、とんでもない展開を見せる。そして日本人が大好きな“謝罪”の意味を問う展開につながっていくが、ここで差し伸べられる救いの手が意外なもの、いや、予想通りのものと言うべきか。『 響 -HIBIKI-  』でも主人公の響が「自分は当事者に謝った。世間に何を謝れと言うのか」とマスコミに問うシーンがあったが、メディアは時に真実を捉え損なう。それどころか一方(メディア側)から見た事実だけを拡大再生産していく。そして、その波に普通の一般人たちもどんどんと乗っていく。単なるメディア批判ではなく、世間一般の危険な風潮に対して警鐘を鳴らしている点を大いに評価したい。

 

ネガティブ・サイド

真紀を金儲けの種にしか思っていないアホな甥っ子(従弟?)に天誅が下るシーンがないのはいかがなものか。天誅と言っても、大袈裟なものである必要はない、キャバクラで嬢に相手にされず、バーでも仲間から軽く無視される。そんな程度の描写で十分だったのだが。もしくは、エンドロールの最後で良いので、「盗撮はプライバシーの侵害です。盗撮した映像をネットで公開するのはやめましょう」みたいなdisclaimerが必要だったと思われる。

 

真紀の夫が役立たずもいいところである。『 滑走路 』の水川あさみの夫と同じく、妻に向き合わず、子どものことに関しても主体的に関与しようとしない。まるで自分を見るようだと自己嫌悪に陥る男性が、全国で200万人はいるのではないだろうか。最後の最期で歩み寄りを見せるのが真紀なのだが、なぜ夫の方ではないのか。この夫が最後の最後まで傍観者的な立ち位置から離れないのは納得しがたい。

 

総評

『 白ゆき姫殺人事件 』に並ぶ面白さである。ネットの誹謗中傷に耐えられず自死を選んだリアリティ・ショー出演者が残念ながら出て、大きな話題となった2020年の締めに本作が公開されたことの意義は大きい。我々は傍観者(observer)としても当事者(actor)としても、真実を追求することが求められるのではないか。向き合おうとする、知ろうとする、語ろうとする、そんな姿勢こそが必要なのではないか。エンタメとしても社会批判としても、今年の邦画としてはトップレベルの良作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

superficial

「薄っぺらい」の意味。物理的に厚みがないという意味ではなく、物語やキャラクター造形に深みを欠く、の意。現代日本の政治や芸能の世界には、superficialなコメントやsuperficialな謝罪が溢れている。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 大高洋子, 新津ちせ, 日本, 監督:天野千尋, 篠原ゆき子, 配給会社:ヒコーキ・フィルムズインターナショナルLeave a Comment on 『 ミセス・ノイズィ 』 -事実、必ずしも真実ならず-

『 佐々木、イン、マイマイン 』 -He lives in you-

Posted on 2020年12月2日2020年12月6日 by cool-jupiter
『 佐々木、イン、マイマイン 』 -He lives in you-

佐々木、イン、マイマイン 75点
2020年11月29日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:藤原季節 細川岳 遊屋慎太郎 森優作 河合優実
監督:内山拓也

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このタイトルのインパクトは大きい。『 我が心の佐々木 』でもなく『 佐々木よ、お前を忘れない 』でもなく、『 佐々木 イン マイ マインド 』でもなく、『 佐々木、イン、マイマイン 』。なんかよく分からんが、凄いタイトルであることだけは分かる。そして中身も負けず劣らずに凄かった。

 

あらすじ

役者として芽が出ない悠二(藤原季節)は、職場で偶然、高校の同級生で親友だった多田(遊屋慎太郎)と再会する。変わっていく他人。変わっていない自分。それを意識する悠二は、佐々木(細川岳)という奇妙な親友のことも思い起こしていき・・・

 

ポジティブ・サイド

何というか、まるで自身の高校時代、そして紆余曲折あった20代をまざまざと見せつけられたように感じた。もちろん、悠二の人生とJovianの人生はまったく異なるものだが、この物語には普遍性がある。プロット自体はありふれたもの。夢を追い求めているものの、その夢に届かないまま現実に埋没していく男が、過去の輝いていた、少なくとも楽しんでいた、笑えていた時期を思い起こして、今を生きるためのエネルギーを得るというもの。読み飽きた、見飽きた物語である。では、何が本作をユニークにしているのか。

 

それはタイトルロールにある佐々木である。誰しも中学や高校、または大学の同級生に「そういえば〇〇というアホな奴がいたなあ」と思い出せることだろう。だが、本作で映し出される佐々木はただのアホではない。無邪気に笑う少年で、苦悩する男で、血肉のある人間なのだ。回想シーンでは、佐々木のアホな面ばかりが強調されるが、真に見るべきはそこではない。一昔前の言い方をするならば母親のいない欠損家庭の育ちであり、父親も家にはあまり帰ってこず、命綱はカップラーメンという高校生である。佐々木コールでスッポンポンになる姿は微笑ましいと同時に痛々しい。下の名前を呼んでくれる存在がいないのだ。

 

『 セトウツミ 』の川べりでのしゃべりのように、家でゲームをし、球にバッティングセンターに行く4人組。親友であることは間違いない。だが、上京する者あり、地元に残って就職する者あり、地元に残って就職しない者もありと、いつの間にか離散してしまっている。このあたりの描写が中年には結構きつい。身につまされる思いがする。あの友情はどこに行ってしまったのか。出会えば幼馴染のように一気に昔の関係に戻れるが、一方がスーツで既婚、もう一方がヨレヨレの私服でバイト暮らしでは、その関係性も昔のままのようにはなかなか行かない。そうした友情の在り方を本作は一面では問うている。その反面、そうした友情を愚直に、無邪気に、馬鹿正直なまでに大切にし、ずっと心の中で維持し続けてくれる友人もいる。それが佐々木なのだ。佐々木とは、我々中年が本当ならば保っているべき友への感謝、信頼、期待などの気持ちの代弁者であり体現者なのだ。

 

佐々木という豪快で繊細な男を演じ切った細川岳のパフォーマンスは見事の一語に尽きる。親友、そして事実上の喪主とも言える女性と巡り合えたことは僥倖だったし、そのことを我が事のように嬉しく感じられた。芝居で芽が出ない悠二も、自分の生き方と「役者」としての生き様が交錯するラストも万感胸に迫るものがある。10代20代よりも30代40代50代にこそ突き刺さる、青春映画の傑作の誕生である。

 

ネガティブ・サイド

悠二と同棲している元カノの存在が微妙にノイズであると感じた。夢の中身を「今日はどんな世界だった」と尋ねるのも奇異だ。別れた女と同棲しているのなら、そんなロマンティックな会話は慎めよと思うが、どうやらそれがルーティンらしい。だったらフラれた後にも、しっかりと口説き続けろと悠二には言いたい。

 

村上虹郎に「僕はあなたの芝居が好きだ」と評された悠二の芝居の独特なところや印象的なところ、佐々木にも「お前は続けなきゃだめだ」と言われた演技力が、回想シーンでは一度も描かれなかったのは残念である。

 

総評

佐々木には実在のモデルがいるということには驚かないが、これが長編デビュー作という内山監督のポテンシャルには驚く。次作以降へも期待が高まる。傑作を作るのに有名キャストや有名監督は必ずしも必要だとは限らないという好個の一例である。仕事にくたびれた中年サラリーマンよ、疲れているかもしれないが劇場へ行こう。その労力以上のエネルギーを本作から受け取ることができる。保証する。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

chant

日本語で言うところの「コール」である。「佐々木コールやれよ!」というのは、“Do the Sasaki chant!”または“Break out the Sasaki chant!”となり、「イチローコールは忘れられない」というのも“The Ichiro chant is unforgettable.”となる。応援などで言うcall=コールは典型的なジャパングリッシュなので注意のこと。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 森優作, 河合優実, 監督:内山拓也, 細川岳, 藤原季節, 遊屋慎太郎, 配給会社:パルコ, 青春Leave a Comment on 『 佐々木、イン、マイマイン 』 -He lives in you-

『 フード・ラック!食運 』 -焼肉愛〇 映画愛△~×-

Posted on 2020年11月22日 by cool-jupiter

フード・ラック!食運 50点
2020年11月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:EXILE NAOTO 土屋太鳳 りょう 石黒賢 松尾諭
監督:寺門ジモン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201122231928j:plain
 

『 ハルカの陶 』で書いてしまったが、Jovianの実家は焼肉屋であった。自分でも店に短期だが関わったことがあるし、家族で焼肉研究をしていた時期もある。今年の4~5月、さらにその後にも続く飲食業界の惨状を焼肉業界は1996年のO-157、そして2001年の狂牛病ですでに経験していた。だからこそ今も存続している、あるいは新規にこの業界にチャレンジしてきた店には個人的には満腔の敬意を表している。ちなみに監督の寺門ジモンは顔も名前も知らなかったし、今も知らない。嫁さんから「ダチョウ俱楽部やん!」と言われたが、ダチョウ倶楽部というのも名前しか知らない。浮世離れと言わば言え。

 

あらすじ

類まれな食運を持つ良人(EXCILE NAOTO)は、新庄(石黒賢)の依頼で竹中静香(土屋太鳳)と組んで、本当においしい焼肉屋だけを取り上げたグルメサイトを立ち上げることに協力する。静香と二人であちこちの名店を訪れていく良人は、やがて自らの実家、「根岸苑」と母・安江の味の秘密にも迫っていくことになる・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20201122231948j:plain
 

ポジティブ・サイド

焼肉愛が画面を通じて伝わってくる。なんでもかんでも炭火を良しとする向きがあるが、劇中で良人の指摘する通り、炭火はムラがある。本当に炭火に特化した焼肉を提供するなら、タンもカルビもロースもホルモン系もすべて切り方や厚みを変えなければならない。本作はガス焼きの店ばかりが登場し、そのいずれもが薄切り肉に特化している。この一貫性は見事である。

 

また焼肉という料理の特性もしっかりと捉えた議論ができている点も素晴らしい。焼肉というのは一部のお好み焼きや鍋料理と並んで、最後の調理部分を客が担う料理である。だからこそ、店は客と信頼関係を結んでいて、場合によっては一見さんお断りも可能になるとJovianは解釈している(そういう意味では寿司屋の一見さんお断りは意味がちょっとわからない)。良人が焼き方にとことん真剣にこだわる姿勢は元焼肉屋として非常に好ましいものとして映った。

 

良人というキャラが食のライターとして葛藤するところも良い。自分の書いたものが正しく解釈されず、店を苦境に追いやってしまう。それはとても恐ろしいことだ。実際にそうした影響力を持つ個人というのは存在するし、ごく最近でもとある前科者のIT実業家が餃子店の経営を窮地に追いやった。Jovianも映画の出来をコテンパンに酷評することがあるが、それによってダメージを受けている人がいるのかもしれないと感じた(ただし、自分はクソ作品にも美点を見出す努力を忘れていないつもりである)。良人のまっとうな人間としての感覚が、彼の人間ドラマの部分、すなわち母親との関係性や食への向き合い方にリアリティを与えている。

 

相棒となる竹中静香というキャラも悪くない。はっきり言って仕事ぶりはちょっとアレだが、その分、良人の母親への接し方に素の人間性がよく出ていたように思う。余命いくばくもない人間には元気に接するぐらいでいい。息子のパートナーとなるかもしれないと母親に予感させるような女性は、妙にへりくだるよりも堂々としているぐらいがいい。土屋太鳳も年齢的に演じる役柄の転換点を迎えているが、女子高生役ではなく新卒社会人役をまずは違和感なくこなせていた。そして安江役のりょうの若作りと病床での痩せ具合。首筋にしわが大きく見えていたのは、特殊メイクではなく本当に減量した結果なのだろうと思わせてくれた。本作はある意味で一から十まで安江の幻影を追うストーリーである。様々な焼肉職人らと時代や地域を超えて協業してきた安江とその夫のストーリーは描かれることはないものの、その立ち居振る舞いと存在感でキャラクターの重厚性を表現したのは見事の一語に尽きる。

 

焼肉を提供する側の努力や工夫をさりげなく見せているところも好感度が高い。エンドクレジットで一瞬映る厨房には包丁がパッと見で10本ほどあった。Jovianの実家は8本。回らない寿司屋だと1~4本ぐらいが多い気がする。焼肉屋は実は日本で一番包丁を使い分けているところなのだ。また熟成肉を解体するシーンが見られるところもポイントが高い。なぜそれが熟成肉だと分かるのか。店で解体しているからだ。つまり、〇月×日から□月△日まで冷蔵庫で寝かせておいたということが証明できる。今はどうか知らないが、20年ほど前は「熟成肉でござい」と言って売ってくる業者もいたのである(しかも港のマイナス60度とかの倉庫で半年眠っていたような肉)。上等かつ良心的な焼肉屋の舞台裏を大スクリーンで見せるところに寺門ジモンの肉愛が感じられる。エンドクレジットというのが心肉い、いや心憎いではないか。

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ネガティブ・サイド

寺門ジモンに焼肉愛があることは分かったが、映画愛はそれほどでもないのだろう。愛とは愛情だけではなく造詣や、新境地を切り拓いてやろうというフロンティア・スピリットは感じ取れなかった。たとえば「焼肉が最高の演技をしたらどうなる?」とトレイラーは散々煽ってくれたが、果たして肉に熱が加えられていく様をこれまでにない角度で撮影できたか?その音をこれまでにないクオリティで録音できたか?全くダメだった。肉の焼ける様を鉄板や網の裏側から映す、あるいは俯瞰視点からズームインして秒単位で経時的に肉の表面の焼き色がどう変化していくかを捉える“通”の目線など、新規の実験的なカメラワークはまったくなかった。音響にしても同じで、肉が焦げ、脂がはじける音に究極的にフォーカスしたか。一切していない。既存の映画の調理シーンとなんら変わることのないアプローチで、これで「焼肉が最高の演技をした」ところを捉えたとはとても言えない。肉好き、肉通ではあっても映画好き、映画通の作劇術ではない。

 

ストーリーにも説得力がない。本物の店だけを掲載するサイトを作るというが、そんなものの需要がいったいどこにあるのか。Jovianは食べログを盲信してはいないが、集合知というものに対しては楽観的な見方をしている。ごく少数の人間が意見や情報を世に発信するというのはインターネット以前のマスメディア的な権威のやり方そのものであり、敢えて時代に逆行するやり方を採用するからには、既存の集合知(たとえば食べログ)の弱点を修正する、あるいは補完するという意義が必要である。だが結局やっているのは古山というもう一人の権威者との対決で、だったら食べログなどの設定は一切無視して世の中の権威と称される人間に挑戦していく筋立てにするか、食べログには乗らない上質なお店を丹念に救い上げていく筋立てするか、そのどちらかで良かった。安江と良人の関係性を描いていくのなら前者だけにフォーカスすればよく、やたらと「食べログが~、食べログで~」というのは単なるノイズになってしまった。

 

また良人が食運を持っているという設定がまったくもって活かされていない。独特の感覚で上手い店を発掘するという才能も、結局は冒頭の一軒だけ。あとはすべて静香に連れられて行く食べログで星が云々の店がメイン。せっかくの食運という魅力的な属性設定が台無しの脚本である。また静香も正攻法の取材をするのか覆面取材をするのかがはっきりしない。このあたり、脚本を通読した時に誰も何も思わなかったのだろうか。

 

全体的に肉にばかり目が行ってしまい、焼肉屋のその他の工夫を救い上げられていない。冒頭で古山と鉢合わせする店は無煙ロースターがあったにもかかわらず、もくもくと煙が上がっていて、「これは煙とにおいに関するうんちくが聞けそうだ」と期待したが何もなし。その他の無煙ロースターを敢えて使わない店で「いよいよ何か語ってくれるか?」という店でも何もなし。それやったら最初の店は煙の演出いらんやろ・・・結局のところ、牧場の直売契約や仲買業者との付き合いができるかどうかで手に入れられる肉の味は大きく左右される。であるならば焼肉屋で本当に見るべきところはタレや各種調味料であったり、キムチやスープ類などのサイドメニューである。そのあたりをもう少し物語に組み込むべきだったと思う。

 

ひとつ気になったのが和牛と米国産輸入牛の違いを良人が古山と議論していた場面。「お、禁断の和牛と国産牛の違いに触れるのか?」と期待したが、それは無し。興味のある方は「和牛 国産牛 違い」でググられたし。日本の食肉業界および行政の闇が垣間見えることだろう。

 

余談だが、Jovianの実家の店のタレは醤油ベースの至ってノーマルなものだったが、隠し味にピーナッツを炒ったものを粉末にして混ぜていた。同じくキムチも至ってノーマルだったが、味付けのために殻をむいたエビを電子レンジで15~20分加熱してパリパリにしたものをゴマすり器で粉末状にしたものを一緒に漬け込んでいた。良い機会なのでここに記録を残しておく。

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総評

肉通には面白い作品かもしれないが、では映画通を唸らせるか?というとはなはだ疑問である。お笑い芸人が映画監督をやってみましたという作品なら『 洗骨 』の方が優っている。こうして考えてみると北野武というのは相当に特異な才能の持ち主なのだなとあらためて思わされる。焼肉好きなら劇場へ行こう。映像美やドラマを求めるなら、スルー可である。

 

Jovian先生のお勧め焼肉屋 

岡山県岡山市の焼肉韓国料理 『 南大門 』

肉も内蔵も鮮度抜群。ユッケやナマセンも超美味だった。岡山の親戚、ホテルOZやホテルmesaのオーナー御用達の名店。もう7~8年行っていないが、食べログによるとまだまだ頑張っているようだ。

 

大阪府大阪市の『 万両 』(南森町店)

某法律事務所の専従経営者の方のお勧め。グルメリポートをやる芸能人やアナウンサーは極度のボキャ貧で「美味し~、やわらか~い」ぐらいしか言えないが、それは主に「脂」の味と触感。ここは「肉」の味と触感を重視している。肉の繊維質まで味わえる、王道でありながら数少ない焼肉屋。

 

大阪府大阪市の和匠肉料理 『 松屋 』(阪急うめだ本店)

文の里の商店街のポスターの文句「いいものを安くできるわけないやろ!」の精神を発揮して、「いいものやから高いに決まってるやろ!」で商売している。肉の柔らかさと噛み応えの両方を堪能させてくれる稀有な店。Jovianは夫婦の誕生日や結婚記念日に行く。それぐらい値段が高く、しかしプレミアム感のあるお店。機会があればぜひ来店されたし。ちなみに『 松屋 』はJovianの大学の後輩の弟が現社長だったりする。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, D Rank, EXILE NAOTO, ヒューマンドラマ, りょう, 土屋太鳳, 日本, 松尾諭, 監督:寺門ジモン, 石黒賢, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 フード・ラック!食運 』 -焼肉愛〇 映画愛△~×-

『 ウィーアーリトルゾンビーズ 』 -人生は絶妙なクソゲーか?-

Posted on 2020年7月24日 by cool-jupiter

ウィーアーリトルゾンビーズ 70点
2020年7月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:二宮慶多 中島セナ 水野哲史 奥村門人
監督:長久允

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MOVIXあまがさきで割と短期間だけ上映していたように記憶している。その時に見逃したので、近所のTSUTAYAでレンタル。『 デッド・ドント・ダイ 』と同じく、現代は「生きる」ということをそろそろ再定義すべき時期である。邦画の世界に同じような問題意識を抱き、それを映画で表現しようとした作り手がいたことを、まずは素直に喜びたい。

 

あらすじ

中学生のヒカリ(二宮慶多)は両親をバス事故で亡くしても、涙を流せなかった。そんなヒカリがイクコ(中島セナ)やイシ(水野哲史)、タケムラ(奥村門人)たち、親の死に泣けなかった同世代と出会い、感情を取り戻すために冒険に出て・・・

 

ポジティブ・サイド

映画というのはコンテンツ=内容とフォーム=見せ方の形式の二つを評価すべきだが、後者がユニークな映画というのは少ない。本作は間違いなく、後者の少数派に属する。

 

まず人生=ゲーム、それもRPGという世界観が、JovianのようにFFやDQを初期からほぼリアルタイムに経験してきた世代に刺さる。ドット絵や8ビットの音楽は、それだけでノスタルジーを感じさせられる。単純だね、俺も。

 

カメラアングルなども実験的。コップの底からの視点や溜池の鯉の視点、トラックの後部座席からの視点は面白かった。

 

ゲームはしばしば人生に譬えられるが、それはあながち間違いではない。ゲームにはルールがある。ドラゴンクエストなら、職業やキャラによって装備できるものが異なっていたり、使える呪文が違っていたりする。また、ゲームにはゴールがある。やはりドラクエならば、それは往々にして魔王を倒すことだ。人生にもルールやゴールがある。それは意味や目的があるとも言い換えられるだろう。ヒカリらがパーティーを組んで、失った感情を探し求めるという冒険の旅に出るのは、そのままズバリ、人生の意味や目的を探すことに他ならない。イシの父が息子に「強さとは何か」を語り、タケムラの父が息子に「カネとは何か」を語るのは、彼らなりの人生訓である。つまり、彼らはゲームで言えばそれなり重要なヒントを語ってくれる街の住人なのだ。ヒカリたちが感情を探し求めるというのは、何も難しい話ではない。誰でも仕事が終わって自宅に帰ってきて、風呂上りに缶チューハイをゴクゴクやって「プハーッ、生き返る!」となった経験があるだろう。それは生物学的に死んでいた自分が蘇生したのではなく、自分が自分らしくなれた自己承認、自分で自分を好きになれたという自尊感情、自分がやるべきことをやったという達成感の表れである。ヒカリたちゾンビーズが求めるものは、究極それなのだ。それが彼らの人生のゴールなのだ。彼らが金魚を川に放つのは、死なないように生きるのではなく、生存の意味や目的を探る旅に出ろということの暗喩である。人間という庇護者をなくした金魚は、親という保護者をなくしたゾンビーズにそのまま喩えられるだろう。

 

点から点へと、まさにRPGのパーティーさながらに忙しく動き回るヒカリたちは、とあるゴミ捨て場でどういうわけかリトルゾンビーズという音楽バンドを結成することになる。音楽のエモさに気付いたゾンビーズは、旅の目的を果たしたかに思えたが・・・ ここでイシやタケムラの父の言葉が重みを持つ展開へと突入していく。同時に、ゾンビーズの旅がRPG的なそれから、実存主義的なそれへと変わっていく。このあたりのトーンの転調具合は見事である。イクコが写真の現像に興味を示さず、写真を撮影するという営為に没頭するのは、ハイデガー風の言葉で表現すれば、現存在が現在に己を投企しているのだ、となるだろうか。もしくはゲーテの『 ファウスト 』をそのまま引用すれば「時よ止まれ、お前は美しい」となるだろうか。このあたりについて、ワンポイント英会話レッスンでほんの少しだけ補足してみたい。生きるとは何か。旅とは何か。本作はそういったことを、考えさせてくれる契機になる。

 

子役たちは皆、それなりに演技ができている。特にイクコのクールビューティーぶりはなかなか堂に入っている。次代の芳根京子になれるか。主役の二宮慶多は、今からでも本格的に英語の勉強を始めるべき。といっても塾に通うとかではなく、英語の歌を聞いて歌いまくる。英語の名作映画を観て、その英語レビューをYouTubeで英語で視聴しまくる。そうした勉強法を実践して、英語ができる10代の役者を目指してみてはどうか。

 

ネガティブ・サイド

こういう作品に有名な俳優をキャスティングする理由はあるのか?佐野史郎とか池松壮亮、佐々木蔵之介などを画面に出した瞬間に、作り物感が強化される。もちろん映画はフィクション。そんなことは百も承知。だが、人生にリアルさを感じられず、ゲームに没頭する少年が主人公であるという世界に、顔も名前も声もよく知られた俳優は起用すべきでない。世界観が壊れる。

 

作中のリアル世界のネット上の特定班の動きをチャットだけで表してしまうのは安直に過ぎる。『 Search サーチ 』のような超絶的なネットサーフィンやザッピングの様子を映し出すことはできなかっただろうか。それがあれば、ドット絵との対比で、リトルゾンビーズら哲学ゾンビたちとスモンビあるいは行動的ゾンビたちが、もっと明確に異なる者たちであることが描けただろう。現代人はとかく、行動の動機を自身の内面ではなく外部世界に求める。一時の祭りや炎上騒ぎに興じて終わりである。自分自身の内側に生へのモチベーションが欠けているのだ。だからこそ、他人の生に首を突っ込み、関係のない正義を振りかざす。そうした人間(もどきのゾンビ)の顔を映し出してほしかった。『 電車男 』の毒男スレの住人たち(といっても映画では老若男女に置き換えられたが)の逆バージョンを映し出すべきだった。

 

少し不可解に感じたのは終盤近くのヒカリの独白。中学生が塾で相対性理論なんか習うか?しかも電車が光の速さと同じ時、その中で走る僕らは光よりも速い?時間は光の速さと同じ?ムチャクチャだ。脚本家はもう一度、相対性理論とは何か、光速度不変とは何かを勉強しなおした方がいい。過去-現在-未来を別の形で捉え直したいなら、妙な理論をこねくり回さず、終わらない旅そのものを人生のメタファーにするべきだ。またはバンドの音楽そのものをメタファーにすればよい。歌とは、始まりから終わりまでがセットで一つの歌になる。どこかの音符を一つ取り出しても、それは楽曲にはならない。そうしたvisual storytellingができれば、本作は一気に75~80点レベルになれたかもしれない。

 

総評 

非常に実験的な作品である。初見では意味がよく分からないという人もいるだろうし、「タコの知能は三歳児」のところで離脱した人もいるかもしれない。それでも昨今の邦画で珍しい、ストレートではなく変化球での人間ドラマである。子ども向けでありつつも、同時に大人向けでもある。というよりも、人生も音楽もゲームも、始まりから終わりまですべてひっくるめて一つなのだ。知らない間に産み落とされたこの世界で、それでも何とか生きてほしい。そうしたメッセージが本作にはある。隠れた名作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ここではJovianが行ってきたカナダのバンクーバー空港で見られる旅の格言をシェアしたい。リトルゾンビーズの旅路と奇妙な共通点がたくさんあることに気付くだろう。

A journey is best measured in friends, rather than miles.

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The journey not the arrival matters.

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One’s destination is never a place, but a new way of seeing things.

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He who does not travel does not know the value of men.

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There are no foreign lands. It is the traveller who is foreign.

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 中島セナ, 二宮慶多, 奥村門人, 日本, 水野哲史, 監督:長久允, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 ウィーアーリトルゾンビーズ 』 -人生は絶妙なクソゲーか?-

『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』 -垂直・水平的なポン・ジュノ研究本-

Posted on 2020年7月23日 by cool-jupiter

ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 75点
2020年7月20日~7月23日にかけて読了
著者:下川正晴
発行元:毎日新聞出版

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『 パラサイト 半地下の家族 』のアカデミー賞4冠はまだまだ記憶に新しい。ポン・ジュノ監督のフィルモグラフィーやバイオグラフィーにあらためて光を当てるにはこれ以上ないタイミングで、やはり出た。最初は「Wikipediaの内容をちょっと膨らませた程度かな」と思っていたが、本作の目次に目を通して、そうした懸念は消えてなくなった。これは極めて学究的なポン・ジュノ研究の試みである。

 

あらすじ

本作は、第1章『パラサイトの真実』で映画『 パラサイト 半地下の家族 』の研究と考察を、第2章『ポン・ジュノの正体』ではポン・ジュノの作家としての変態性(perversion)と変態(metamorphosis)を語る。第3章『ポン・ジュノのDNA』ではポン・ジュノの家族史と韓国史を垂直かつ水平に分析し、第4章『韓国映画産業の現在』では韓国の国家戦略、映画との距離(ブラックリスト問題と国家的振興策)が議論される。どれも刺激的な論考である。

 

ポジティブ・サイド

本書の真価は2、3、4章にある。第1章はちょっとネットの世界に潜れば、いくらでも手に入る類の情報である。つまり、少々軽い。それゆえに、非常に堅苦しい論考が続く中盤以降に向けてのちょうど良い入り口になっている。

 

第2章では、作家としてのポン・ジュノを深く掘り下げる。特にポン・ジュノが各種メディアに語った言葉を引用しながら、その当時のポン・ジュノの成長=変化=変態の過程の背景を明らかにしていく。その切り口がユニークだ。韓国の国家的な成長とポン・ジュノの個人的な成長を重ね合わせて見るとともに、両者の成長・変態の過程を世界史的な視点からも見つめている。ポン・ジュノの青春時代の政治的激動と、国際的な文化の流入(それはアメリカのテレビ映画であったり、あるいは日本の漫画や映画であったりする)を一体的に論じる本章は、個人的に最も刺激を受けた。

 

第3章は、ポン・ジュノの先祖、特に母方の祖父・朴泰遠が小説家として日本による朝鮮半島の植民地政策や近代化とどのように向き合い、いかに「越北」するに至ったのかを考察する。その過程で、下川正晴の関心が朴泰遠の「二人の妻」にあてられるところに、著者の現代的関心が見て取れる。また、こうした家族史、つまり父母や祖父母の物語が戦争や非植民地化、国家と民族の分断と密接不可分であるところに、近代日本と近代韓国の歴史観の違いが如実に表れている。小林よしのりや百田尚樹といった言論人は、日本の兵士であった当時の日本の兵士を父や祖父、兄や弟といった限定的な関係からしか描かず、彼らの戦いもきわめて内面的な動機の面からしか描かない。いや、描けない。それはそうだ。解放戦争の兵士という姿は、一歩引いたところから見れば、侵略者・征服者になるからだ。そうした侵略される側、征服される側の朝鮮半島の一知識人の生活史を通じて、ポン・ジュノのDNAを解き明かそうという試みは非常に客観的であり、同時に野心的でもある。本章の迫力は、本書の中でも随一である。

 

第4章では、韓国エンタメ産業の世界戦略が、イ・ミギョンという老婦人を通して描かれるところに、やはり著者の問題意識が垣間見える。この大財閥創始者の孫娘である女性の個人史は、朝鮮半島の近代史と不思議なシンクロを見せる。興隆と分断、そのトラウマとそこからの新規巻き返し。一経営者を世界経済的な視点から分析することで、CJエンターテインメントの、ひいては韓国の国家的な戦略を現在進行形で活写していく。本書の第4章を材料に、ケース・スタディおよびディスカッションを行うビジネス・スクールがあっても驚かない。それほど緻密な取材と資料の分析に基づいた論考になっている。

 

思想の左右で売り上げが上がり下がりするという末期的な症状を呈している日本の出版業界にも、まだまだ真っ当な書き手は存在することを教えてくれる良書である。

 

ネガティブ・サイド

率直に、日本の記述が少ないと感じた。日本そのものではなく、日本が韓国に及ぼした文化的な影響や、韓国の娯楽産業の興隆と日本の娯楽産業の興隆の歴史比較などがあっても良かったのにと感じる。ポン・ジュノが日本の文化で影響を受けたものと言えば、本書にもある通り漫画である。その漫画の神様・手塚治虫やアニメーターの宮崎駿は太平洋戦争終結後にすぐに頭角を現してきた。戦争、というよりも戦争を可能にするような国家体制が、いかにクリエイティブな個の才能を抑えつけるかを証明している。一方の韓国で映画文化・映画産業が豊かに花開いた背景に、長く続いた軍事政権が1980年代後半にようやく終焉を迎えたという事情がある。このあたりの近現代史にもう少しページを割いても良かったのではないだろうか。

 

また、韓国の民主化以降、外国文化(当然日本も含まれる)の輸入を始めた韓国が、初めて触れた日本の映画作品の多くが北野武の作品だったこと、北野武のテイストがいかに当時の韓国の映画人に影響を及ぼしたのか、などの考察があればパーフェクトだった。しかし、このあたりは著者も本書の冒頭で述べている通り、後に出版されるであろうその他多くの研究本の課題・宿題だろう。

 

参考文献に書籍しか載っていないのがまことに惜しい。英語や韓国語のウェブサイトも多数参照したのは間違いないはず。そうしたサイトのURLも載せなければダメだ。Google Translateを活用すれば、どんな言語であっても、大意を把握することが可能な時代である。著者および編集者はかなり古い体質の書き手であり出版人なのだろう。ネット上の参考資料をもっと読者とシェアすべきである。それが今後の「参考文献」の在り方だろう。

 

総評

おそらく今後、ポン・ジュノや韓国映画研究本が多数出版されるであろう。本作は間違いなくその嚆矢である。新聞記者らしく多くの資料を渉猟して、極めて客観的に事実を記述し、さらに主観的な意見を述べる時の舌鋒は鋭い。単なるポン・ジュノ監督の伝記以上に、ポン・ジュノの家族史と韓国社会の歴史を水平方向と垂直方向の両方向に追究しようとした労作である。韓国映画ファンのみならず、広く映画ファン全般、さらにエンタメ業界人や同業界を志す大学生にお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

metaphor

「暗喩」の意。日本語でもカタカナでメタファーと書くことがよくある。映画ではしばしば visual metaphor が用いられ、ポン・ジュノ監督はその名手であると目されている。『 パラサイト 半地下の家族 』では、階段が重要な visual metaphor として用いられていた。映画を観る際には、様々なオブジェや風景が意味するものが何であるのかを考えながら鑑賞してみよう。そうすれば、監督の意図や映画のメッセージを理解する手助けになる。

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Posted in 国内, 書籍, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, 日本, 発行元:毎日新聞出版, 著者:下川正晴Leave a Comment on 『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』 -垂直・水平的なポン・ジュノ研究本-

『 悪の偶像 』 -信じさせる者は救われるのか-

Posted on 2020年7月5日2021年1月21日 by cool-jupiter

悪の偶像 70点
2020年7月4日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:ハン・ソッキュ ソル・ギョング チョン・ウヒ
監督:イ・スジン

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『 哭声 コクソン 』に続いて、またも人間の信念や信仰、信条を揺るがすような作品である。ただし、こちらはホラーではなくポリティカル・サスペンス。しかし、韓国映画お得意のグロ描写は健在。どこまで行くのか、韓国映画界よ。

 

あらすじ

市議会議員にして時期知事の有力候補のミョンヒ(ハン・ソッキュ)の息子ヨハンが飲酒ひき逃げ事件を起こし、あろうことか死体を自宅に持ち帰ってきた。死体遺棄を隠し、ひき逃げだけでミョンヒはヨハンを自首させる。しかし、目撃者である被害者の新妻リョナ(チョン・ウヒ)の存在が判明。真相が判明することを防ぐためにミョンヒはリョナを追う。一方、被害者の父親であるジュンシク(ソル・ギョング)も、リョナが妊娠していることを知り、なんとかして彼女を見つけ出そうと奮闘するが・・・

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ポジティブ・サイド

『 母なる証明 』は問答無用の大傑作だった。韓国における母と息子の絆の強さとその闇の深さには圧倒されるものがあった。本作は、半分は『 父なる証明 』であると言ってよいだろう。議員ミョンヒのボンクラ息子、小市民ジュンシクの知的障がいを持っていた息子。特に後者の父子関係は強烈だ。冒頭のナレーションで、父が息子の射精を手伝ってやったと語られるのだ。『 母なる証明 』でも息子の立ち小便をキム・ヘジャ演じる母がじーっと凝視するという異様なシーンがあったことが思い出される。親と子の距離が異様に近いのだ。『 37セカンズ 』でも母と子のやたらと近い入浴シーンがあったが、それでも障がいを持つ子と親の距離感というものに驚かされるし、そうしたものを描き切る韓国映画の凄みよ。

 

そして“父”というワードに神を見出すことは、韓国がキリスト教国であるという背景を考えれば、それほど難しいことではない。劇中およびエンドクレジットで流れる“Agnus Dei”は神の子羊、すなわちイエス・キリストの象徴である。イエスは原罪を背負って死に、人類を救済したとされる。本作で死んだのは誰か。そしてイエスの母マリアは処女懐胎したと言われている。本作で懐胎したのは誰か。そして、それは誰の子なのか。父のイメージに挑戦し、それを壊そうとする本作は、韓国という国全体の家父長的な社会制度を糾弾していると見るのは、それほど穿った見方ではないだろう。

 

現代は誰もがイメージに生きている時代と言える。大昔から人間はイメージを相手に押し付けてきた生き物であったが、現代はその性向がさらに強化された時代であると言える。ソーシャル・ディスタンスならぬサイコロジカル・ディスタンスとでも言おうか。心理的に自分に近い人間を応援し、心理的に自分から遠い人間を排撃しようとする。それが本作におけるテーマの一つである。イメージを駆使して他者との心的距離を縮めようとする政治家ミョンヒの、恐るべき策略が炸裂する中盤以降、物語は一気に暴力と破壊と殺人の色合いを濃くしていく。

 

自らも誘拐・監禁・暴行に手を染めるハン・ソッキュ、買春や偽装結婚など愛する家族のためなら犯罪もなんのそののソル・ギョング。彼ら名優の演技対決も見ものであるが、一番はチョン・ウヒの狂気だろう。弱い立場にありながらも彼女自身は決して弱くはない。追われ、監禁され、虐待されても、感覚を研ぎ澄ませてチャンスをうかがっている。まさに獣である。日本で渡り合えるのは安藤サクラぐらいか。顔が怖いから怖いのではない。『 パラサイト 半地下の家族 』でも強調されたある感覚を何気なく語るシーンの秘めた迫力が恐ろしいのである。繰り返しになるが、まさに獣である。弱肉強食である。

 

そして最終盤の事件。人間がいかにイメージに弱いかを物語る大事件が起きる。いや、起こされる。例えるのが非常に難しいが、敢えて言えば芸能人のスキャンダルに近いか。別に自分に被害が生じたわけでもないのに、我々はそれまでに好感を抱いていた人物を蛇蝎のごとく忌み嫌うようになることがある。まさに心理的なdistancingである。父と父との対決は、ここに来て一気に国家・国民を揺るがすレベルに到達する。そしてエンディング。原作ではどうなっているのだろうか。字幕が途中から一切表示されなくなる。当然韓国語なので、韓国語が分かる人間にしか分からない。だが、それで良いのだろう。そこに映し出されないイメージ(具体的には身体のあるパーツ)を我々は想像し、そこで語られるメッセージを我々は想像する。そしてエンディングの讃美歌、Agnus Dei。生贄としてささげられているのは誰なのか。ここでミョンヒの肩書が原発対策委員長だったことを思い出して背筋が凍る人もいるだろう。

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ネガティブ・サイド

本作のキーパーソンの一人であるリョナは『 哀しき獣 』でフォーカスされた朝鮮族の女性である。つまりは外国人である。もちろん強制送還や不法滞在というキーワードでそれは十分に理解できるが、世界をマーケットにしたい映画であるなら、もう少しキャラクターの背景を深掘りする描写が必要ではなかったか。事実、Jovian妻はストーリー展開に時々ついていけなかったようである。

 

ミョンヒの息子はどうなったのだ?事件の発端のこの男の罪状や体調が途中から皆目わからなくなってしまった。

 

ジュンシクがリョナのために用意した証明書。これが思わぬところで思わぬ人物に大ダメージを与えるが、狙っていたことなのだろうか。それとも本人が語るように「書類上のこと」に過ぎなかったのだろうか。序盤に思わぬ嫌疑を受けるジュンシクであるが、中盤にしっかりとビジュアル・ストーリーテリングを通じてredeemされる。そうした描写が欲しかった。このスッキリしない感じは少々気持ちが悪い。

 

総評

父なる証明の物語。つまり父の狂気の愛情の物語としては傑作である。また、サスペンスとしてもクライムドラマとしても、韓国映画来意容赦の無いテイストで描かれており、このジャンルでも及第点以上である。だが、本作をより面白くしているのは日本の政治状況ではないだろうか。奇しくも今日(2020年7月5日)は東京都知事選。横文字の濫用とメディア露出を駆使する、つまりはイメージ戦略第一の現職は勝てるのか。勝つとしたら、他候補にどれだけの差をつけるのか。または差がつかないのか。今秋にも衆議院解散の噂がささやかれるが、「やってる感」の演出、つまりはイメージ戦略だけの政権与党はどうなのか。結果はどう出るのか。そうしたことを頭の片隅で意識しながら鑑賞すれば、自分が迷える子羊なのか、迷わされる子羊なのかが明確になるかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

idol

idol = 偶像である。つまりは憧憬の対象である。日本語で言うアイドルは往々にしてpop starと訳される。この語で感慨深く思い出されるのは2008年12月6日のボクシング、マニー・パッキャオvsオスカー・デラホーヤ戦。勝者のパッキャオが敗れたデラホーヤに“You’re still my idol.”と伝えると、デラホーヤが“No, now you are my idol.”と応えた。その様子はこの動画の40:50で視聴可能だ。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, ソル・ギョング, チョン・ウヒ, ハン・ソッキュ, 監督:イ・スジン, 配給会社:アルバトロス・フィルム, 韓国Leave a Comment on 『 悪の偶像 』 -信じさせる者は救われるのか-

『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

Posted on 2020年6月29日2021年1月21日 by cool-jupiter

ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー

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『 イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。

 

あらすじ

 

ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・

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ポジティブ・サイド

刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。

 

昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトもカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。

 

『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。

 

『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランド、ジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。

 

そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートとジェームズ・マカヴォイなのである。

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ネガティブ

ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。

 

母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。

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総評

音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out of place

場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で

 

Wear this, don’t wear that, don’t step out of place

Just smile, don’t say too much, put that makeup on your face

Just keep pretendin’ you’re having a good time

‘Cause that’s the price of fame when you’re standing in the line

 

という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ジュリー・ウォルターズ, ソフィー・オコネドー, ヒューマンドラマ, 監督:トム・ハーパー, 配給会社:ショウゲート, 音楽Leave a Comment on 『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

Posted on 2020年6月20日 by cool-jupiter

チェイサー 80点
2020年6月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ユンソク ハ・ジョンウ ソ・ヨンヒ
監督:ナ・ホンジン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200620190125j:plain
 

『 PMC ザ・バンカー 』のハ・ジョンウの出演作。鬱映画だと聞いていたが、この作品は確かに精神的にくるものがある。

 

あらすじ

元刑事のジュンホ(キム・ユンソク)はデリヘルを経営している。しかし、所属する女性二人が行方をくらます。誰かに売り飛ばされたと直感したジュンホはミジン(ソ・ヨンヒ)使って独自におとり捜査を開始。自店に他店にも記録のあるヨンミン(ハ・ジョンウ)という客をジュンホは追走して捕まえるが・・・

 

ポジティブ・サイド

2000年代の作品だが、やはりここにも『 国家が破産する日 』の傷跡が見える。刑事を辞めて、どういうわけかデリヘル経営者になっているジュンホが、最初は自社の商品を誰かに奪われていると憤慨し、行動を起こす。それが徐々に、社会的な弱者を自分が守らねばという使命感へと変わっていく。警察はあてにならない。所詮は権力者の犬である。ナ・ホンジン監督のそんな信念のようなものが物語全体を通じて聞こえてくるようである。

 

それにしても、ジュンホ演じるキム・ユンソクの妙な迫力はどこから生まれてくるのか。『 オールド・ボーイ 』でオ・デスを演じたチェ・ミンシクもそうだが、一見すると普通のオッサンが豹変する様は韓国映画の様式美なのか。『 アジョシ 』の悪役、マンソク兄のように三枚目ながら、やることはえげつない。こうしたギャップが、決してlikeableなキャラクターではないジュンホを、観ている我々がだんだんと彼のことを応援したくなる要因だ。最初の15分だけを観れば、ジュンホが主役であるとは決して思えない。むしろ、こいつが悪役・敵役なのでは?とすら思える。普通に社会のゴミで、普通に女性の敵だろうというキャラである。何故そんな男を応援したくなるのか。その絶妙な仕掛けは、ぜひ本作を観て体験してもらうしかない。アホのような肺活量と無駄に高い格闘能力も、何故か許せてしまう。なんとも不思議なキャラ造形である。

 

だが、キャラの面で言えばハ・ジョンウ演じるヨンミンの方が一枚も二枚も上手。『 殺人の追憶 』の真犯人はこんな顔だったのではないかと思わせるほど平凡な見た目ながら、その内面は鬼畜もしくは悪魔。このギャップにも震えた。それも『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクター博士のような超絶知性のサイコパスではなく、『 殺人の追憶 』や『 母なる証明 』などのポン・ジュノ作品でも静かにフィーチャーされた知的障がい者を思わせる男で、どこまでが素なのかが全くつかめない。本当に知的に問題のあるキャラかと言うと違う。ミジン(そして、その前の二人も)を自宅に連れ込んで、あっさりと監禁してしまうまでの流れは、非常に知性溢れる犯罪行為である。けれど、警察の取り調べにあっさりと口を割ってしまうところなど、どこか幼い子どもを思わせる素直さ。これほど掴みどころのない猟奇殺人者はなかなか見当たらない。その語り口はどこか『 ユージュアル・サスペクツ 』のケビン・スペイシーを彷彿させる。実在の事件と犯人に基づいているというところに韓国社会の闇と、その闇に多くの人に目を向けてほしいという韓国映画人の気迫を感じる。

 

それにしても韓国映画のバイオレンス描写というのは、いったい何故にこれほど容赦がないのか。ミジンを殺そうと金槌で特大の釘を後頭部にぶち込もうとするシーンは、観ているだけで痛い。『 ソウ 』でとあるキャラクターが壮絶な自傷行為を行うシーンも視覚的に痛かったが、本作はもっと痛い。路上のチェイスでついにジュンホがヨンミンを捕らえ、マウント状態からアホかというぐらい殴るシーンも痛い。邦画にありがちな口から血がタラリといったメイクや演出ではない。顔が腫れる、出血する、傷跡が残る、痛みで目がチカチカする。殴られる側の痛みが観る側にまで伝染してくるかのような描写だ。

 

鬱映画とは聞いていたが、エンディングも救いがない。まさしく韓国版『 セブン 』である。奇しくもこれもケビン・スペイシーか。猟奇殺人者やシリアル・キラーの恐ろしいところは、殺人行為そのもの以上に、何が彼ら彼女らを殺人に駆り立てるのかが不明なところにある。弁護士との接見シーンでヨンミンが性的に不能だから、その腹いせに女性を殺したのだという説が開陳される。単純で分かりやすい説明だ。だが、ヨンミンの甥っ子の負った頭の大怪我はいったい何なのか。ヨンミンが女刑事の“性”を揶揄するシーンは何を意味するのか。宗教的なシンボルを半地下の部屋の壁に描きたくったのは、いったいどういう衝動に突き動かされたからなのか。ヨンミンという殺人鬼の内面に迫ることなく閉じる物語は、我々に圧倒的な無力感と敗北感を味わわせる。だが、その先に一縷の望みもある。社会の底辺に生きる者同士の連帯を予感させて、物語が終わるからだ。後味の悪さ9、光の予感1である。それでも光は差しこんでくると信じたいではないか。

 

ネガティブ・サイド

ギル先輩とその仲間たちとジュンホの絡みが欲しかった。何の説明も示唆もないままに、「またお前が何かやりやがったのか!」という態度は、下手をすると偏見や差別になりかねない。もちろん偏見や差別に対する糾弾の意味合いも本作には込められている。けれど、偏見・差別は関係性が全く存在しない相手との間に発生する傾向のあるものだ。彼らの態度は、悪を許すまじというある意味で度を超えた正義感の持ち主であるジュンホという人間へのまなざしではなく、デリヘル経営者という社会のはみ出し者への視線に感じられた。

 

ジュンホの部下であるチンピラは最後はどこに行った?素晴らしく良い顔の俳優である。この男の活躍をもっと堪能したかったのだが。

 

クライマックスの展開の引っ張り方が少々強引かつ冗長だった。検事から12時間以内に証拠を出せと言われて、タイムリミットが設定されているうちはよいが、それを過ぎてしまった後の流れとテンションが中盤から後半のそれに比べて、やや落ちた。

 

総評

傑作と評して良いのかどうかわからないが、それでも最後までハラハラドキドキを持続させる良作である。グロ描写や暴力描写が多めなので観る人を選ぶ作品だが、社会矛盾を穿つメッセージ性と、社会的弱者を救うのはまた別の社会的弱者という希望とも絶望とも取れる内容は、これまた観る人を選ぶ。サスペンスの面だけ見れば、迷うことなく傑作である。この緊張感はちょっと他の作品では得られない。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

アニ

日本語では「いいや」ぐらいの軽い否定語。アニアニ=いやいや、も韓国映画ではちらほら聞こえてくるような気がする。外国語学習のコツの一つに「はい」、「いいえ」と1~10の数字をまずは覚えろ、という教えがある(ボクシングジャーナリスト・マッチメーカー・解説者のジョー小泉)。なかなか機会は訪れないだろうが、韓国旅行や韓国出張の際に土産物屋であれこれ売りつけられそうになったら「アニアニ」と言ってやんわりと断ろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, A Rank, キム・ユンソク, サスペンス, スリラー, ソ・ヨンヒ, ハ・ジョンウ, 監督:ナ・ホンジン, 配給会社:アスミック・エース, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

Posted on 2020年6月14日 by cool-jupiter

ハーフェズ ペルシャの詩 60点
2020年6月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:メヒディ・モラディ 麻生久美子
監督:アボルファズル・ジャリリ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200614230819j:plain
 

近所のTSUTAYAでジャケットだけ見て借りてきた。あるすじも読まなかった。ジャケ買いならぬジャケ借りである。それにしても難解であった。一応、宗教学や比較人類学をやっていたJovianにも理解が及ばない部分が多くあった。

 

あらすじ

シャムセディン(メヒディ・モラディ)はコーランの暗唱者“ハーフェズ”の称号を得たことで、大師の娘ナバート(麻生久美子)がチベットからやって来た際に、家庭教師に任命された。コーランの教えを読み聞かせするうちに、シャムセディンはナバートに恋心を抱く。だが、それは許されぬ恋慕であった・・・

 

ポジティブ・サイド

シリアスなラブロマンスのはずだが、冒頭のシーンから笑ってしまった。シャムセディンと詩塾の先生との対峙が、まるで『 パティ・ケイク$  』や『 ガリーボーイ 』のストリート・ラップバトルと重なって見えたからだ。言葉と言葉の格闘技、詩歌の空中戦である。笑ってしまったと同時に唸らされもした。詩文を即座に暗唱するのは、記憶力に拠るものではなく熱情によるものだということが、このシーンでは強く示唆されていたからである。頭で考えてみると答えはXだが、心で考えてみると答えはYになる。そうした時に、人はどうすべきなのか。それが本作のテーマであることが、あらすじを読まずとも冒頭のシーンだけで伝わってきた。この監督は手練れである。

 

面白いなと思うのは、同じ名前を持つ二人の男という設定だ。厳格なシーア派優位のイラン・イスラム社会では、一昔前の日本など比較にならないほど家父長および共同体の長の権限が強い。婚姻も裁判も、法治主義国家ではなく人治主義国家のそれである。個人の自由がない社会で、共同体の規範からはみ出る者には容赦の無い排除の論理が適用される。このあたりは、程度の差こそあれ、日本も「人の振り見て我が振り直せ」であろう。片方の男は妻を愛しながらも、妻に愛されない。片方の男は、女を愛しながらも女への愛を忘れるように強要される。どこでもある物語だが、ハーフェズのシャムセディンが辿る忘却の旅は、行く先々で様々な社会矛盾をあらわにしていく。

 

なぜ処女信仰(という名目で、実際は女性への差別と抑圧に他ならない)をここまで大っぴらにするのか。愛を忘れるために処女7人に儀式に協力してもらうというのは、人の心をコントロールしたいという願望か、あるいはコントロールできるという過信の表れだろう。そしてジャリリ監督は、ある意味でそうしたイスラム社会の因習を嗤っている。それもユーモアのある笑いではない。毒を含んだ笑いだ。この村の処女は私だけだ、と語る老婆の一連のシークエンスは、悲劇であると同時に喜劇である。外国人(日本人)キャストを起用したのは、本作を諸外国に売り込むためで、その目的の一つは外部世界の視線を自国に集めることだろう。近年、レバノンが『 判決、ふたつの希望 』や『 存在のない子供たち 』を世に問うているように、2000年代のイランも、自国の矛盾を外部に観てほしいと感じていたのだ。

 

詩想の面でも本作はとても美しく、また力強い。数々の言葉が空中戦、銃撃戦のように繰り広げられるが、その中でも最も印象に残ったのはハーフェズのシャムセディンの「あなたの歩いた道の砂さえ愛おしい」というものだった。これは『 サッドヒルを掘り返せ 』のプロジェクト発起人の一人が「クリント・イーストウッドの踏んだ石に触れたかった。理由はそれだけで十分だ」という考え方に通じるものがある。クリミア戦争の前線の野戦病院では、ランプを手に夜の見回りをするナイチンゲールの影にキスをする兵士がたくさんいたと言う。このような間接的なものへの愛情表現は、一歩間違うと下着泥棒などに堕してしまうが、だからといってその気持ち、心の在りようまでは決して否定はできない。宗教でも哲学でも道徳でも、なんでもかんでも行き過ぎてしまうと有害になる。まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」である。なかなかに複雑な悲恋であり、なおかつ恋愛の成就である。

 

ネガティブ・サイド

イラン社会に関する説明があまりにも少なすぎる。チベット帰りという設定のナバートにコーランの読み聞かせの家庭教師をつけているのだから、コーランの文言以外にも、イラン社会の風俗習慣についてもっと語るべきだった。あるいは公序良俗についてもっと映像をもって説明すべきだった。

 

「シャムセディンが二人いる、二人に見える」というセリフが繰り返し子ども達などによって放たれるが、これも分かりにくい。シャムセディンはおそらく男性性の象徴(性的な意味ではなく)で、それが分裂している、あるいは統合失調症的症状を呈していると言いたいのだろうか。または、男性性が社会・文化・宗教によって引き裂かれている、システムの一員としてのパーソナリティと独立した個人としてのパーソナリティに分裂していることの表れなのだと思うが、どちらのシャムセディン自身の交友関係も描写がないので、内面の事象なのか外面の事象なのかが分かりづらい。というか分からなかった。

 

鏡というのは比喩的なアイテムであるが、それを処女に拭いてもらうことの意義もよく分からなかった。ペルシャ語やペルシャ文化が精通すればよいのだろうか。最大の問題は、ハーフェズという歴史上の詩人が現代イランでどのように受容され、評価されているのかが観る側に伝わってこないところだ。『 ちはやふる -上の句- 』の中で1千年前の藤原定家の歌が唐紅のイメージで描写されたように、ハーフェズの詩の世界観を、ほんの少しで良いので映像や画像で表してみてほしかった。そうすれば、言葉ではなくイメージで、ハーフェズの詩歌の影響力や遺産、その功績の大きさなどが多少なりとも伝わったのではないか。

 

総評

なんとも解釈が難しいストーリーである。はっきり言ってちんぷんかんぷんな部分も多い。ただし、一つ言えることは、今後の日本社会を考えるうえでヒントになる作品であるということである。『 ルース・エドガー 』と同じく、異文化育ちながら日本に“帰って来る”者たち(大坂なおみetc)は、今後増えることはあっても減ることは無い。そうした者たちをどのように受け入れるのか。問われているのそこである。そうした意味で本作を観れば、個の尊重と共同体の維持のバランスがいかに難しいかが肌で感じられるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント語学学習レッスン

今回は勉強法である。麻生久美子は『 おと・な・り 』でもフランス語を熱心に勉強していたが、大人(おおむね20歳以上)の語学学習はインプット→アウトプットが原則である。耳で聞く、文字を読む、それを声に出す。このサイクルを崩してはならない。もしもあなたの通う英会話スクールや、あなたが使っている教科書・参考書が「四技能をバランスよく学習する」と謳っていれば、勉強法を変えた方が良いかもしれない。語学をやるなら、リスニング50、リーディング20、スピーキング20、ライティング10ぐらいの配分で良い。中級者以前ならなおさらである。

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Posted in 国内, 映画, 未分類, 海外Tagged 2000年代, C Rank, イラン, メヒディ・モラディ, ラブロマンス, 日本, 監督:アボルファズル・ジャリリ, 配給会社:ビターズ・エンド, 麻生久美子Leave a Comment on 『 ハーフェズ ペルシャの詩 』 -人治主義世界の悲恋-

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