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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

Posted on 2020年7月27日 by cool-jupiter

もののけ姫 90点
2020年7月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:松田洋治 石田ゆり子
監督:宮崎駿

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確か高3の夏に最初はメルパルク岡山で観た。その後、神戸の駿台予備校に通いながら、神戸国際会館で5回ぐらい観たと記憶している。それぐらいの衝撃作だった。宮崎駿の狂暴なまでのメッセージは、当時も今も健在である。

 

あらすじ

東国の勇者アシタカ(松田洋治)は、村を襲ったタタリ神を討ち、呪いをもらってしまった。掟に従い村を去ったアシタカは、呪いを解く術を求めて西国に旅立つ。その旅先で、森を切り拓き、鉄を作るたたら場とそこに生きる人々、そして山犬と共に生きる少女サン(石田ゆり子)と出会う・・・

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ポジティブ・サイド

宮崎駿作品全般に言えることであるが、やはり映像が素晴らしく美しい。森、山、川、空、雲のいずれもが、独自の色彩を持っている。Jovianの嫁さんは「日本の森や山に見えない」と言っていたが、それはたぶん間違い。室町時代あたりの日本の山川草木は、本作に描かれているようなものだったはず。戦後の植林政策などで人為的に作り出された山や森ではない姿が確かにそこにあった。特に昼なお暗く、シダ植物や地衣類が旺盛に繁茂するシシ神の森には、元始の日本を強く意識させられた。また、これから劇場やDVDなどで鑑賞する人は、アシタカがヤックルに乗って疾走するシーンの背景の森に注目してほしい。緑一色と効果線だけで済ませてしまってよいところだが、この細部へのこだわりが宮崎駿のプロフェッショナリズムであり、なおかつ本当に表現したいものの一つであったことは疑いようがない。

 

久石譲のサウンドトラックもパーフェクト。Jovianは高3の冬に神戸で久石譲のコンサートに行ったが、そこで最も感銘を受けたのは『 ソナチネ 』の“Sonatine I”(久石本人も「我々が最も得意にしている」と語っていた)と“アシタカせっ記”だった。『 風の谷のナウシカ 』の疾走感と浮遊感溢れるサントラとは対照的に、地の底から響いてくるようなコントラバスとドラムが通奏低音になり、弦楽器がアシタカの旅に悲壮感と勇壮感を与えている。宮崎駿と久石譲は、日本のセルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネであると評しても良いだろう。

 

宮崎アニメにしては珍しい Boy Meets Girl なストーリーと言えるが、甘ったるいロマンスなどは存在しない。あるのは人間の業への飽くなき思索である。『 風の谷のナウシカ 』では語られるのみで描かれることがなかった、“火”と“水と風”のコントラストが本作では描かれる。火の力によって鉄を作り出す人間が、その火をもって太古からの神々を焼き払う。人間の叡智を、これは正しく使えているのだろうか?しかし、その火を使わなければ生きていけない、自衛もできないというたたら場の現実を無視できるのか。一方で、もののけ姫サンとエボシ御前の一騎討ちを取り囲んで「殺せ!」と連呼するたたら場の民。そして、そのたたら場の隙をついて来襲する地侍。人の優しさや温かさではなく人の醜さや汚さを真正面から描く本作は、子ども向きとは言い難いが、それこそが宮崎駿が時代を超えて子どもに見てほしいと感じていることである。

 

本作も公開から20年以上が経過しても全く古くなっていない。それは映像や音楽の素晴らしさ以上に、本作が描く数々のテーマによる。例えば、世界的な政治のテーマとなっているものに“分断”がある。本作に描かれる森の精たちは決して一枚岩ではない。猪や猩々、山犬らは一致団結ができない。人間同士が争う世界は珍しくも何ともないが、人間と激しく対立する神々や動物が団結できないというのは何と象徴的であることか。そのような世界観の中、人間にもなれず山犬でもないサンと流浪の異邦人であるアシタカの関係の、なんと遠くて近いことか。この二人が清いかと言われれば決してそうではない。アシタカは呪われた身で、いかに英雄的に振る舞おうとも、憎しみと恨みにその身をゆだねる瞬間があるし、サンも悲しみと怒りを隠すことがない。けれど、それもまた人の姿ではないのか。アシタカの右手にわずかに残る呪いの痣に、負の感情は決して消えることは無いという人間の業を垣間見たように思うし、サンの言う「アシタカは好きだが、人間は許せない」というセリフもそれを裏付けている。

 

公開当時はタタリ神をエイズやエボラ出血熱の象徴であると感じていたし、今もそれは変わらない。そこにCOVID-19が加わって来たのかなと思う。一方で、シシ神の生首を欲する帝や師匠連というのは、特効薬やワクチンを欲しがる上級国民の謂いなのかとも感じたし、荒ぶるデイダラボッチはまさに森を切り拓きすぎたがために解き放たれた致死性病原体なのかと思った。コロナの思わぬ副産物として世界各国の環境改善が報じられているが、そうした文脈から本作を再評価・再解釈することもできそうだ。

 

人間の業の深さと自然界との距離、そして他者との共生。圧倒的なスケールの映像と音楽でこうした問いとメッセージを放つ本作を劇場で鑑賞せず、どうするのか。これは現代の古典となるべき名作である。

 

ネガティブ・サイド

宮崎駿のポリシーなのだから仕方がないが、石田ゆり子のサン役はかなり無理がある。強い声が出せないし、感情がイマイチ乗っていない。

 

エボシの庭にいるハンセン病患者たちの長の台詞に、もっと余韻を持たせるべきだ。ナウシカがじい達の手を「きれいな手」と言うところからさらに踏み込んで、「腐った手を握ってくれる」というエボシ御前の行為の持つ意味は大きい。自然を破壊する一方で、穢れとされる存在を内包するたたら場、それを率いるエボシの業を物語る重要な場面なのだから。

 

総評

『 風の谷のナウシカ 』と並んで、宮崎駿の天才性を証明する作品である。『 響 -HIBIKI- 』にも見られたように、天才は社会性をまとわない。宮崎自身はかなり偏屈なじいさんで、スタッフの心をへし折るような発言をすることもしばしばであると言われる。だからといって、その作品に社会性や娯楽性がないわけではない。異民族、動植物、神々との共生。これはそっくりそのまま現代にも当てはまる、というよりも20年前と比べれば、現代にこそ当てはまるテーマである。ショッキングなシーンも多い作品であるが、小学校の低学年ぐらいから鑑賞させてもよい。保護者の皆さんは夏休みにはお子さんを可能な限り劇場に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get in one’s way

アシタカが何度か言う「押し通る、邪魔するな!」の後半、「邪魔する」の意味である。しばしば、Don’t get in my way. = 俺の道に入って来るな=俺の邪魔をするな、と命令形で使われる。仕事に集中している時にいきなり電話が鳴ったりした時、自宅でテレワーク中にいきなり呼び鈴が鳴った時などに“Don’t get in my way.”と心の中で悪態をつこう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, S Rank, アニメ, ファンタジー, 日本, 松田洋治, 歴史, 監督:宮崎駿, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 もののけ姫 』 -日本アニメ映画の最高峰の一角-

『 パブリック 図書館の奇跡 』 -Don’t shoot me, I’m only a librarian.-

Posted on 2020年7月26日2021年1月21日 by cool-jupiter

パブリック 図書館の奇跡 70点
2020年7月24日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:エミリオ・エステベス アレック・ボールドウィン ジェナ・マローン
監督:エミリオ・エステベス

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タイトルだけ読むと『 図書館戦争 』的な世の中で、それでも本を愛する人たちが・・・のような物語を想像するが、実際は全然違う。むしろ『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』を舞台にヒューマンドラマを作った。それが本作の紹介として最も端的かもしれない。

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あらすじ

シンシナティ公共図書館員のスチュアート(エミリオ・エステベス)は、体臭を理由にある人物を図書館から退去させたことで訴訟を起こされてしまう。失意の彼がその日の勤務を終えようとすると、いつもの馴染みのホームレスたちが図書館から去ろうとしない。大寒波の夜、シェルターも満杯。行き場がなく、居座ろうとする彼らを前に、図書館員のスチュアートが取った行動は・・・

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ポジティブ・サイド

図書館の存在意義については『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』で自分なりにかなり深く考察したつもりだが、こんな現世的な図書館の利用方法があったのか。確かにニューヨーク公共図書館でも求職者たちに各種セミナーやサービスを提供していたが、シンシナティ公共図書館はホームレスたちにとっては昼間のシェルターなのだ。『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』でもシェルターや教会がLGBTQにとって重要な生活の拠点になっていたことが思い出される。

 

利用者たちは真面目な学習者から、ちょっとおかしな人まで様々だ。個人的に笑ったのは「ジョージ・ワシントンのカラー写真が載った本はありますか?」と尋ねる市民だ。ホームレスたちも多士済々。退役軍人もいれば、やたらと博識な者、対人恐怖症かと見せかけてメンタルに少々困難を抱える者など、素顔は様々だ。特に博識男のシーザーは愉快だ。トリビアを披露しては「ヘイル、シーザー!」と仲間に叫ばせる。キャラを立たせると同時に、彼らがどれだけ息が合っているのか、彼らがいかに長く図書館で過ごしているのか、どんな本を読んでいるのか。そういったことがわずか数分で明らかになる。この図書館のトイレのシーンはビジュアル・ストーリーテリングの極致である。

 

本作には明確な悪役が存在する。それはクリスチャン・スレーター演じる検察官だ。検察官というと、検察庁のナンバー2という要職にありながら常習的なテンピン麻雀で御用・・・とならなかった上級国民が今年はニュースになった。本作の検察官は市長選に立候補しており、「法と正義を執行する」ことで街を良くしていくのだと言う。実に分かりやすい。つまり、この男の言う法と正義の執行とは、主演兼監督のエミリオ・エステベスが「問題である」と感じ、自身のメッセージとして世に問いたい事柄なのだ。法の文言を守ることが重要なのか、それとも法の精神を守ることが重要なのか。個の領域に属すもの、例えばプライバシーなどに、法はどこまで効力を及ぼすのか。市民として守るべき法と職業人として守るべき法、それらが対立する時に、自分はどうすればよいのか。本作が投げかけてくる問いは、我々一般人も一度は深く考えてみるべきことばかりだ。

 

メディアの在り方についても問われている。フェイクニュースが各国で問題となる中、それが生み出される過程を本作は描く。Black Lives Matter運動以前に制作された作品であるにも関わらず、「無抵抗の黒人を殺すなよ」などというドキリとさせられる発言を警察官同士で行ったりしている。フェイクニュースとは、事実ではない報道のことだ。ここでの事実でないこととは何か。それは差別的な先入観であったり、偏見であったりだ。事実をまずは虚心坦懐に受け入れる姿勢ではなく、いかにセンセーショナルものなのか、いかにニュース・バリューがあるのかで判断する姿勢がメディアの側の問題点である。同時に、報じられるニュースがいかに自分と関係があるのか、それとも無いのかで我々はニュースに接する。コロナに罹患した人を「自己責任」と切って捨てるのは、自分はコロナには罹らないという過信から来ている。過信とはつまり、想像力の欠如のことである。メディアは自分たちが扱う事件や人物に対して、我々は報道の向こう側の事象や人物に対して、偏見ではなく想像力で接さねばならない。

 

図書館立てこもり組と交渉人刑事(演じるのはベテラン俳優のアレック・ボールドウィン)との間のちょっとしたサブプロットもあり、またエミリオ・エステベス演じるスチュアート自身の隠された過去もあり、単なる思想的な映画では終わらない。籠城組に対して思わぬ援軍が現れ、ことは図書館だけではなく街全体をも巻き込んでいく。そして、いざ武装警官が突入か、という緊張感マックスの場面で、スチュアートたちが取った起死回生の策とは?うーむ、すごい。確かに伏線というか前振りはあったが、それをここまで大胆にやってしまうのか。公共とは何かという問いをブッ飛ばすと同時に、法や正義とは何かという問いも同時にブッ飛ばす驚きの解決策である。社会派映画としても娯楽映画としても、高い水準で完成された作品である。

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ネガティブ・サイド

事の発端は大寒波の襲来だったはず。にもかかわらず、街行く人の吐く息がまったく白くない。誰も寒さで震えていないし、スチュアートとの交渉で下手をうった検察官が路上で上着を脱いで寝かされても、まったく震えもしない。いくらなんでもこれはおかしい。狭い路地裏で数人が固まれば、何とかしのげるんじゃ?と思ってしまった。

 

スチュアートやマイラの図書館員としてのプロフェッショナリズムの描写が、特に序盤に弱かった。『 水曜日が消えた 』は駄作だったが、深川麻衣は図書館員として本の整理や貸し出し以外の仕事をしていた。本をプロモートするか、セミナーやワークショップをどう開催するか。そうしたことも図書館員の仕事である。立てこもったホームレスの面々に思い思いに時間を過ごさせるのではなく、図書館員としての知識やスキルで人々をまとめるシーンが欲しかった。

 

スチュアートの隣人のアンジェラとの情事は必要だったか。やたら遅い時間に図書館を訪れてくるのを見て、本当は貸し出しカードを作りに来たのではないだろうと誰もが思うはず。この描き方では、夜の営みに手ごろな相手が見つかったぐらいにしか見えない。スチュアートとアンジェラの最初のシーンは、これから何かが始まるかもしれないぐらいの予感を漂わせる程度に抑えておくべきだった。

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総評

これは良作である。2018年制作ということだが、同じ頃の日本では、某大学が蔵書数万冊を焼却処分したことが話題になっていた。本を廃棄・焼却することの是非はともかく、図書館はどんな書籍にも差別はしない。何でも受け入れるのが図書館だ。その図書館という「民主主義の最後の砦」を舞台に繰り広げられる一夜の攻防は、エンタメ作品として合格。法と何か、正義とは何かという社会派な面でも及第点以上の出来である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン 

look for ~

~を探す、の意である。人でも物でも、この表現で探すことができる。

I’m looking for a Brad Pitt movie.

Where have you been? I’ve been looking for you.

What kind of job are you looking for?

など、「探す」=look for である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, アレック・ボールドウィン, エミリオ・エステベス, ジェナ・マローン, ヒューマンドラマ, 監督:エミリオ・エステベス, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 パブリック 図書館の奇跡 』 -Don’t shoot me, I’m only a librarian.-

『 アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 』 -不器用なラブレター-

Posted on 2020年7月24日 by cool-jupiter

アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 65点
2020年7月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンナ・カリーナ
監督:デニス・ベリー

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『 気狂いピエロ 』などの代表作を持ち、2019年12月に亡くなったアンナ・カリーナのドキュメンタリー。カリーナは4度結婚しているが、その最後の夫であるデニス・ベリー監督が本作を撮影・制作。なんとも不器用なラブレターになっている。

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あらすじ

第二次大戦の最中、デンマークの母子家庭にアンネ・カリン・ベイヤーは生まれた。チャップリンの無声映画を観て、ミュージカルに魅了され、女優になることを夢見た少女は、17歳にしてフランスのパリに移住。デザイナーのココ・シャネルからアンナ・カリーナへ改名するようにアドバイスされ、そして映画監督のジャン=リュック・ゴダールと出会い、彼女は花開いていく・・・

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ポジティブ・サイド

アンナ・カリーナという女優の生い立ち、そして当時の社会状況しっかりとカバーしているところが素晴らしい。父の不在、そして母の再婚相手の父親との折り合いの悪さ。アンナの人生の前半に、positive male figureがいなかったことは明白である。監督のデニス・ベリーは黙して語らないが、自分だけがアンナにとってのpositive male figureだったとの自負があるのだろう。また、戦争や軍国主義が娯楽や文化、芸術に対して抑圧的に働くことは『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』でも述べた。アンナ・カリーナは一個人ではあるが、その一個人を通じて歴史を語ることも可能なのだ。

 

10代のアンナの石けんのCM動画やポスターが明らかにするのは、彼女のまばゆいばかりの魅力である。決して絶世の美女だとか、スタイル抜群のセックス・シンボルというわけではない。彼女の一番の特徴である、その大きな目。その瞳に見つめられると、自分という人間の虚飾がすべて見透かされそうな気持になる。アンナ・カリーナに惹かれているということを隠せなくなる。だからこそゴダールは率直に彼女を口説き、誘った。こうした女性にあれやこれやの恋愛の手練手管は無用の長物である。

 

カリーナのフィルモグラフィーや歌手としてのキャリア、小説家としてのキャリアも描き出しており、実に興味深い。特にフランス初の長編映画の主役兼監督がアンナ・カリーナであるというのは非常に興味深い。グレタ・ガーウィグといった女優兼監督という存在の、彼女は嚆矢だったのである。時代で言えば『 ドリーム 』で描かれた人間コンピュータのキャサリン・G・ジョンソンの頃である。劇中で彼女は「アーティスト」と形容されるが、至言だろう。

 

往時のカリーナの歌唱シーンやダンスシーンは美しい。白黒映画には白黒映画の良さがあり、またデジタル撮影ではないフォルム映像には、写真やLPレコードと同じく、歴史性が感じられる。彼女はキャリアの後半に活躍の場をアメリカに移すが、そこでも巨大なレガシーを残している。Q・タランティーノは、そうした影響を受けた一人である。彼女は日本にも歌手としてやって来ていた。コンサートに『 気狂いピエロ 』のマリアンヌと同じ衣装を着てきた日本のファンもいたそうだ。スターやアイドルという言葉で語られるクリエイターやアーティスト、俳優は多いが、アイコンと呼べる人間はごく少数だ。アンナ・カリーナは、間違いなくアイコンである。

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ネガティブ・サイド

アンナ・カリーナの幼少期に焦点を当てていながら、彼女の後半生や晩年がそれほど丹念に描かれていない。別に容色が衰えた、作品数が少ない、シネマティックではない。そうした理由でデニス・ベリー監督がこのような構成にしたのであれば、それは失敗ではなかろうか。彼女のような、激動の人生を送ってきた人間ほど、現代人に届けるべきメッセージがあるはずだ。たとえば移民の問題、たとえば女性の社会進出の問題。彼女の語る言葉を金科玉条のごとく扱う必要はない。ただ、歴史の証人にして稀有なアーティストの一意見として、記録に残されるべきはないだろうか。

 

収められているのがカリーナ自身の肉声と、業界人の声だけである。アンナ・カリーナというアイコンが、一般庶民に与えた影響、そのインパクトの大きさや深さを語る当時の一般人の肉声が聞いてみたかった。

 

終わりがあまりにも唐突である。元々は劇場公開を想定していたのではなく、テレビの1時間番組枠か何かにきっちりハマるように作られていたのだろうか。これほどの知り切れトンボ感は近年なかなか味わえない。余韻が残らないのだ。もうちょっと何とかならなかったのか。アンナに最後まで歌わせてやって欲しかった。

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総評

アンナ・カリーナという人間を名前だけでも知っていれば、観る価値はあるだろう。単なる過去のフランスの名女優という切り取り方ではなく、しっかりした歴史の遠近法の中で捉えられているドキュメンタリーで、ちょっと風変わりなラブレターでもある。デートムービーには向かないかもしれないが、Jovianが鑑賞した回はオールド夫婦がかなり多かった。オールド映画ファンは是非とも劇場鑑賞しよう。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

cinéma

英語でもフランス語でも、シネマは「シネマ」である、フランスは近代映画発祥の地で、発明者はリュミエール兄弟。cinémaは元々古代ギリシャ語のkínēma=キネマ=動き、から来ている。テレキネシス=念動力などと言うが、テレ=遠い(telephone, telescope, televisionからも分かるだろう)、キネシス=運動である。映画の歴史というのはTOEFL iBTのリーディングやリスニングでしばしば取り上げられる重要トピックの一つ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アンナ・カリーナ, ドキュメンタリー, フランス, 伝記, 監督:デニス・ベリー, 配給会社:オンリー・ハーツLeave a Comment on 『 アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 』 -不器用なラブレター-

『 ウィーアーリトルゾンビーズ 』 -人生は絶妙なクソゲーか?-

Posted on 2020年7月24日 by cool-jupiter

ウィーアーリトルゾンビーズ 70点
2020年7月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:二宮慶多 中島セナ 水野哲史 奥村門人
監督:長久允

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MOVIXあまがさきで割と短期間だけ上映していたように記憶している。その時に見逃したので、近所のTSUTAYAでレンタル。『 デッド・ドント・ダイ 』と同じく、現代は「生きる」ということをそろそろ再定義すべき時期である。邦画の世界に同じような問題意識を抱き、それを映画で表現しようとした作り手がいたことを、まずは素直に喜びたい。

 

あらすじ

中学生のヒカリ(二宮慶多)は両親をバス事故で亡くしても、涙を流せなかった。そんなヒカリがイクコ(中島セナ)やイシ(水野哲史)、タケムラ(奥村門人)たち、親の死に泣けなかった同世代と出会い、感情を取り戻すために冒険に出て・・・

 

ポジティブ・サイド

映画というのはコンテンツ=内容とフォーム=見せ方の形式の二つを評価すべきだが、後者がユニークな映画というのは少ない。本作は間違いなく、後者の少数派に属する。

 

まず人生=ゲーム、それもRPGという世界観が、JovianのようにFFやDQを初期からほぼリアルタイムに経験してきた世代に刺さる。ドット絵や8ビットの音楽は、それだけでノスタルジーを感じさせられる。単純だね、俺も。

 

カメラアングルなども実験的。コップの底からの視点や溜池の鯉の視点、トラックの後部座席からの視点は面白かった。

 

ゲームはしばしば人生に譬えられるが、それはあながち間違いではない。ゲームにはルールがある。ドラゴンクエストなら、職業やキャラによって装備できるものが異なっていたり、使える呪文が違っていたりする。また、ゲームにはゴールがある。やはりドラクエならば、それは往々にして魔王を倒すことだ。人生にもルールやゴールがある。それは意味や目的があるとも言い換えられるだろう。ヒカリらがパーティーを組んで、失った感情を探し求めるという冒険の旅に出るのは、そのままズバリ、人生の意味や目的を探すことに他ならない。イシの父が息子に「強さとは何か」を語り、タケムラの父が息子に「カネとは何か」を語るのは、彼らなりの人生訓である。つまり、彼らはゲームで言えばそれなり重要なヒントを語ってくれる街の住人なのだ。ヒカリたちが感情を探し求めるというのは、何も難しい話ではない。誰でも仕事が終わって自宅に帰ってきて、風呂上りに缶チューハイをゴクゴクやって「プハーッ、生き返る!」となった経験があるだろう。それは生物学的に死んでいた自分が蘇生したのではなく、自分が自分らしくなれた自己承認、自分で自分を好きになれたという自尊感情、自分がやるべきことをやったという達成感の表れである。ヒカリたちゾンビーズが求めるものは、究極それなのだ。それが彼らの人生のゴールなのだ。彼らが金魚を川に放つのは、死なないように生きるのではなく、生存の意味や目的を探る旅に出ろということの暗喩である。人間という庇護者をなくした金魚は、親という保護者をなくしたゾンビーズにそのまま喩えられるだろう。

 

点から点へと、まさにRPGのパーティーさながらに忙しく動き回るヒカリたちは、とあるゴミ捨て場でどういうわけかリトルゾンビーズという音楽バンドを結成することになる。音楽のエモさに気付いたゾンビーズは、旅の目的を果たしたかに思えたが・・・ ここでイシやタケムラの父の言葉が重みを持つ展開へと突入していく。同時に、ゾンビーズの旅がRPG的なそれから、実存主義的なそれへと変わっていく。このあたりのトーンの転調具合は見事である。イクコが写真の現像に興味を示さず、写真を撮影するという営為に没頭するのは、ハイデガー風の言葉で表現すれば、現存在が現在に己を投企しているのだ、となるだろうか。もしくはゲーテの『 ファウスト 』をそのまま引用すれば「時よ止まれ、お前は美しい」となるだろうか。このあたりについて、ワンポイント英会話レッスンでほんの少しだけ補足してみたい。生きるとは何か。旅とは何か。本作はそういったことを、考えさせてくれる契機になる。

 

子役たちは皆、それなりに演技ができている。特にイクコのクールビューティーぶりはなかなか堂に入っている。次代の芳根京子になれるか。主役の二宮慶多は、今からでも本格的に英語の勉強を始めるべき。といっても塾に通うとかではなく、英語の歌を聞いて歌いまくる。英語の名作映画を観て、その英語レビューをYouTubeで英語で視聴しまくる。そうした勉強法を実践して、英語ができる10代の役者を目指してみてはどうか。

 

ネガティブ・サイド

こういう作品に有名な俳優をキャスティングする理由はあるのか?佐野史郎とか池松壮亮、佐々木蔵之介などを画面に出した瞬間に、作り物感が強化される。もちろん映画はフィクション。そんなことは百も承知。だが、人生にリアルさを感じられず、ゲームに没頭する少年が主人公であるという世界に、顔も名前も声もよく知られた俳優は起用すべきでない。世界観が壊れる。

 

作中のリアル世界のネット上の特定班の動きをチャットだけで表してしまうのは安直に過ぎる。『 Search サーチ 』のような超絶的なネットサーフィンやザッピングの様子を映し出すことはできなかっただろうか。それがあれば、ドット絵との対比で、リトルゾンビーズら哲学ゾンビたちとスモンビあるいは行動的ゾンビたちが、もっと明確に異なる者たちであることが描けただろう。現代人はとかく、行動の動機を自身の内面ではなく外部世界に求める。一時の祭りや炎上騒ぎに興じて終わりである。自分自身の内側に生へのモチベーションが欠けているのだ。だからこそ、他人の生に首を突っ込み、関係のない正義を振りかざす。そうした人間(もどきのゾンビ)の顔を映し出してほしかった。『 電車男 』の毒男スレの住人たち(といっても映画では老若男女に置き換えられたが)の逆バージョンを映し出すべきだった。

 

少し不可解に感じたのは終盤近くのヒカリの独白。中学生が塾で相対性理論なんか習うか?しかも電車が光の速さと同じ時、その中で走る僕らは光よりも速い?時間は光の速さと同じ?ムチャクチャだ。脚本家はもう一度、相対性理論とは何か、光速度不変とは何かを勉強しなおした方がいい。過去-現在-未来を別の形で捉え直したいなら、妙な理論をこねくり回さず、終わらない旅そのものを人生のメタファーにするべきだ。またはバンドの音楽そのものをメタファーにすればよい。歌とは、始まりから終わりまでがセットで一つの歌になる。どこかの音符を一つ取り出しても、それは楽曲にはならない。そうしたvisual storytellingができれば、本作は一気に75~80点レベルになれたかもしれない。

 

総評 

非常に実験的な作品である。初見では意味がよく分からないという人もいるだろうし、「タコの知能は三歳児」のところで離脱した人もいるかもしれない。それでも昨今の邦画で珍しい、ストレートではなく変化球での人間ドラマである。子ども向けでありつつも、同時に大人向けでもある。というよりも、人生も音楽もゲームも、始まりから終わりまですべてひっくるめて一つなのだ。知らない間に産み落とされたこの世界で、それでも何とか生きてほしい。そうしたメッセージが本作にはある。隠れた名作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ここではJovianが行ってきたカナダのバンクーバー空港で見られる旅の格言をシェアしたい。リトルゾンビーズの旅路と奇妙な共通点がたくさんあることに気付くだろう。

A journey is best measured in friends, rather than miles.

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The journey not the arrival matters.

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One’s destination is never a place, but a new way of seeing things.

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He who does not travel does not know the value of men.

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There are no foreign lands. It is the traveller who is foreign.

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 中島セナ, 二宮慶多, 奥村門人, 日本, 水野哲史, 監督:長久允, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 ウィーアーリトルゾンビーズ 』 -人生は絶妙なクソゲーか?-

『 パッセンジャーズ 』 -ライトな映画ファン向けか-

Posted on 2020年7月23日 by cool-jupiter

パッセンジャーズ 50点
2020年7月20日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:アン・ハサウェイ パトリック・ウィルソン
監督:ロドリゴ・ガルシア

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飛行機墜落ものというと『 ノウイング 』(監督:アレックス・プロヤス 主演:ニコラス・ケイジ)を思い出す(冒頭だけだが)。これがけっこうな珍品で、面白くもあり、つまらなくもあった。以来、飛行機墜落ものにはあまり食指が動かくなくなった。しかし、心斎橋シネマートで『 アフターマス 』(監督:エリオット・レスター 主演:アーノルド・シュワルツェネッガー)あたりから墜落ものも、ポツポツと再鑑賞し始めた。これもそのうちの一本。

 

あらすじ

飛行機墜落事故が発生。多数が死亡したが5名は生き残った。その生存者のカウンセリングを担当することになったクレア(アン・ハサウェイ)だったが、セッションを欠席した生存者が1人また1人と姿を消していく。クレアは事故の真相を何とか探ろうとするのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

アン・ハサウェイが相変わらず魅力的である。『 プラダを着た悪魔 』から『 シンクロナイズドモンスター 』まで、年齢を重ねつつも、魅力を増している。おそらく本作ぐらいが、いわゆる girl と woman のちょうど境目ぐらい(実際の役でもそうだ)で、それゆえに無垢な学生、姉との関係に悩む妹、男性と情事に耽る大人の女性などの多彩な面を見事に演じ分けている。彼女のキャリアにおけるベストではないが、間違いなく on the right side の演技である。

 

作品としては非常に分かりにくい。それは、「はは~ん、これは実はこういう話だな」ということがすぐに読めるからである。たいていの人は「これはアン・ハサウェイがセラピーをしていると見せかけて、実はセラピーを受けている側なのだ」と思うことだろう。Jovianは割とすぐにそう直感したし、映画や小説に慣れた人なら、あっさりとそう思えるだろう。それこそが本作の仕掛ける罠である。

 

「なるほど、そう来るか」

 

素直にそう感心できる twist が待っている。

 

本作の最初の展開に騙される人、あるいはそれを見破れる人は、以下のような作品に親しんでいる人だろう。以下、白字。

 

『 シックス・センス 』

『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』

『 ラスト・クリスマス 』

『 ムゲンのi 』

 

人によっては ( ゚Д゚)ハァ? となるだろうが、真相に至るまでには結構フェアに伏線が張られている。例えば寒中水泳のシーン、あるいは線路のシーン。このあたりをちょっと考えれば、誰もが何かがおかしいと感じられることだろう。それに、多くのキャラクターのふとした言動や、人間関係、他キャラとの交流のあり方もヒントになる。2000年代にもなると、ありふれた謎解きにも変化球が色々と混ざって来る。本作は、ただのシュートかと思ったらシンカーだった。そんな一品である。

 

ネガティブ・サイド

ちょっと風呂敷を広げ過ぎている。こういうのは中盤と終盤の twist のインパクトで勝負するしかない作品で、そこに至るまでがかなり間延びしているように感じられる。93分の映画だが、75分でも良かったのではないかと思えるのだ。エリックが壁を塗りたくるシーンや屋上にクレアを誘うシーンは削除できた。あるいは大幅に短縮しても、特にラストのインパクトに影響を及ぼさないだろう。

 

事故を起こした航空会社が、その自己の生存者を監視し、追跡し、拉致しているのではないかというクレアの推理は、はっきり言って迷推理である。生存者の名前は大々的に報じられるだろうし、そうした人間が本当に失踪したならば、周囲の人間が絶対に気付くし、捜索届を出したり、マスコミにも知らせたりするだろう。人間は陰謀論が大好きなのだから。一人ひとり消えていくのではなく、単にセラピーを欠席して、日常生活に帰っていった、という説明はできなかったか。

 

クレアとエリックのロマンスがどうにもこうにも陳腐である。アン・ハサウェイ演じるクレアから見たエリックが、一人の男性としての魅力に欠ける。いや、説得力に欠けると言うべきか。アン・ハサウェイから見て、危なっかしい弟のような存在、あるいは幼馴染のような友達以上恋人未満のような存在に見えないのだ。多面的なアン・ハサウェイの魅力とパトリック・ウィルソンのキャラ設定が、どこかミスマッチなのだ。

 

総評

アン・ハサウェイのファンならば観よう。こういった作品はドンデン返しを楽しむためのもので、そこに行くまでに退屈してしまうという向きにはお勧めできない。ディープな映画ファンならば、あれこれと先行作品を思い浮かべるだろうし、もっと鍛えられた映画ファンならば、この変化球が曲がり始めた瞬間に軌道を見切ってしまうかもしれない。結局、お勧めできるのはアン・ハサウェイのファンであるというライトな映画ファンになるだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

work one’s ass off

「働きまくる」の意である。もうすぐ子どもが生まれるのか?じゃあ、がむしゃらに働かないとな!=You’re going to have a baby soon? Well, someone has got to work his ass off! などのように使う。同じような表現に、laugh one’s ass off = 爆笑する、というものがある。こちらは laugh my ass off = LMAO や、rolling on the floor laughing my ass off = ROFLMAO などの略語の形でネット上で見たことがある人もいるかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, アン・ハサウェイ, サスペンス, パトリック・ウィルソン, ミステリ, 監督:ロドリゴ・ガルシア, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 パッセンジャーズ 』 -ライトな映画ファン向けか-

『 悪人伝 』 -The Gangster, The Cop and The Devil-

Posted on 2020年7月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

悪人伝 65点
2020年7月19日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:マ・ドンソク キム・ムヨル キム・ソンギュ
監督:イ・ウォンテ

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『 犯罪都市 』の暴力刑事から一転、マ・ドンソクが極道の組長として、連続殺人鬼を追うという悪人vs悪人、そこに刑事も加わるという三つ巴のクライムドラマ。少々意味不明な部分もあるが、全体的にはソリッドにまとまった秀作。

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あらすじ

ヤクザの組長チャン・ドンス(マ・ドンソク)はある夜、追突事故に遭う。穏便に済ませようとしたところ、突然相手に刺される。何とか撃退したもののドンスは重傷を負う。一方でチョン刑事(キム・ムヨル)は犯行を連続殺人鬼によるものと推測。ドンスに情報を渡すように迫るが・・・

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ポジティブ・サイド

原題はThe Gangster, The Cop, The Devilである。『 続・夕陽のガンマン 』=The Good, The Bad and The Uglyを彷彿させる。三つ巴の戦いには独特の面白さがある。それが極道、警察、連続殺人犯というところが、いかにも韓国らしいではないか。韓国映画における警察はしばしば無能もしくは腐敗の象徴として描かれる。つまり、この戦いに一見すると善人がいないのである。つまり、そこに裏切りの予感が常に漂っている。それが物語にサスペンスをもたらしている。

 

刑事が異様な熱血で、正義と法の執行のためなら、正義と法を曲げても構わない。そこまで暴走する雰囲気を湛えている。まるで『 エンドレス 繰り返される悪夢 』に出てくるもう一人のループ現象に囚われた男のような必死さで、各方面に突っかかって食らいついて行く。『 アウトレイジ ビヨンド 』における小日向文世演じる刑事のように、悪と悪を争わせて漁夫の利を狙うなどということはしない。どこまでも直情径行で、だからこそ自分の信念を法に優先させるという暴走をしそうだと感じられる。相手が極道の組長でもシリアルキラーであろうと妙に自信満々で、どこかの時点と唐突にサクッと刺される、あるいは撃たれる予感も漂わせる、何とも危ういキャラである。そんな男がどういうわけかだんだんと応援したくなる奴に見えてくるから不思議だ。傍若無人な暴力刑事が、血気盛んな熱血刑事に華麗なる変貌を遂げるその仕組みに興味がある方は、ぜひ鑑賞しよう。

 

対するヤクザのマ・ドンソクも、いわゆる任侠道を往くような男ではなく、己の欲望と野望のために無法を是とし、殺人を厭わない悪人だ。子どもに少々甘いというか、妙に優しい側面を見せたりもするが、そうした顔は決して前面に出てこないし、まなじりを下げることはあっても、それは優しさではなく暴力を予感させる不敵な笑み。実は良い人的なエピソードを取り入れそうなところで、そうしたシーンはことごとく回避される。実際はドンス組長のちょっと意外な優しい側面を強調するシーンも撮ったかもしれない。しかし、それを編集でそぎ落としたのは英断だった。また、『 アジョシ 』のマンソク兄弟のような、人間を人間と思わないような非人道的なビジネスに手を出していないことで、悪(あく)ではなく悪(わる)にとどまっている。ワルはワルのままの方が生き生きしていて、見ていて面白いから。腕っぷしにモノを言わせて殴りまくるのは『 犯罪都市 』と同じ。違うのは、そこに明確な血の臭いと痛みがあること。中盤の大立ち回りや、クライマックスの殺人鬼への殴打の連発シーンでは、爽快感と痛みを両方同時に味わえる。まさに“マ・ドンソク”時間とも言うべき、不思議な味わいの時間である。

 

これだけ濃いメンツに追われる殺人鬼=The Devilもしっかりとキャラが立っている。次から次に行きずりに人を殺し、ニーチェやキルケゴールなどの哲学書を読み、熱心に教会に通うというキャラで、高い知能と人生への深い思索を備えたサイコパスである。だが、そんなインテリ設定など吹っ飛ばすような不気味な目、そして笑いがこの悪魔にはある。他者の生殺与奪の権を握ることに快感を覚えるというパーソナリティは間違いなく異常者であり、『 暗数殺人 』のテオとは方向性こそ異なるものの、異常性では全く引けを取っていない。こんな奴でも法治国家で逮捕されれば、人権が確保され、弁護士が付き、そして心神耗弱を理由に罪が軽くなる。直接的な証拠がないために法廷で裁けない。それを知っているから、どこまでも強気でいる。韓国の殺人鬼というのは、アメリカやロシアの大量連続殺人犯に負けず劣らずの異常者で、日本ではちょっと見られないタイプである。キム・ソンギュという役者の狂いっぷりには感銘を受けた。

 

何をどうやってもハッピーエンドにはならないストーリー展開だが、一つ言えることは、一度歩むと決めた道なら死ぬまでその道を歩き続けなければならないということか。法が裁けぬ悪ならば無法者が裁いてくれようというプロットは爽快であり痛快である。勧善懲悪に飽きたという向きは是非とも劇場へ。

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ネガティブ・サイド

アクションとアクションのつなぎ目が少々粗いシーンがある。具体的には中盤のドンスとチョン刑事が、刺客集団を撃退するシーン。『 オールド・ボーイ 』の廊下での大立ち回りを再現せよ、とまでは思わないが、もっと一連の格闘アクションの一つ一つを編集で連続したものに見せるのではなく、実際にひとつの連続したアクションとして撮影できなかったか。

 

警察の捜査を描く過程が少々ずさんだ。例えば殺人鬼が飲食をしたと思われる店のゴミである焼酎の瓶を選り分けるシーンは何だったのか。結局、目当ての瓶は見つかり、そこから唾液は採取できたのか、できなかったのか。また若手連中に犯人のクルマを鑑識させるが、ハンドルカバーに残った血痕を見つけるのに、そこまで時間がかかるか?犯人が手で触れているはずの箇所なのだから、真っ先に調べると思うが。それに途中でドンスの策謀で、犯人の遺留品を使って敵対するヤクザの組長をヒットマンに暗殺させるが、これまでの殺人鬼の殺しの手口と全く異なるのに、道具だけで同一犯と断定するのは少々性急に過ぎはしないか。韓国映画では警察はしばしば無能の極みに描かれるが、ここまで無能ではないはずだ。

 

そろそろ終わりかという終盤での展開が少し中だるみする。最後の刑務所うんぬんのくだりはバッサリとカットして、ビジュアルで説明すればそれで事足りたはずだ。また最後のマ・ドンソクの台詞も蛇足だったと感じた。

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総評

マ・ドンソクのマ・ドンソクによるマ・ドンソクのための映画である。北野武の往事は、「バカヤローッ!」、「この野郎!」と凄みながら相手を殴っていたが、それをマブリーの腕力でやると何かが違う。コメディの度合いと同時に恐怖の度合いも上がるという、なんとも不思議な現象が起きる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ヒョンニム

あちらのヤクザの世界は親子ではなく兄弟関係になるらしい。下の者は上の者をヒョンニム=兄様と呼ぶ。ヒョン=兄、ニム=様である。ただ実際は兄貴ぐらいの意味合いでも使われる。吉本でも同門の若手は先輩をしばしば兄貴や兄さんと呼ぶ。『 トガニ 幼き瞳の告発 』で校長の双子の弟が兄を「ヒョン」と呼んだところ、「学校ではそう呼ぶな」とたしなめられていた。他には、『 パラサイト 半地下の家族 』のポン・ジュノ監督がアカデミー賞監督賞の受賞スピーチでタランティーノを指して「クエンティン・ヒョンニム」と言っていたのが印象的だ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, キム・ソンギュ, キム・ムヨル, クライムドラマ, マ・ドンソク, 監督:イ・ウォンテ, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 悪人伝 』 -The Gangster, The Cop and The Devil-

『 風の谷のナウシカ 』 -日本アニメ映画の最高峰の一つ-

Posted on 2020年7月19日 by cool-jupiter

風の谷のナウシカ 90点
2020年7月18日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:島本須美 榊原良子
監督:宮崎駿

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たしか初めて観たのは小学2年生の時、学校の体育館でだった。その後もテレビのロードショーで何度か観たし、大学の寮で留学生たちと一緒にも観た。おそらくそれが最後の鑑賞だった。今回はおよそ20年ぶりの鑑賞となる。ごく最近、駄作を観てしまったがために、どうしても口直しが必要だった。劇場の大画面で鑑賞して、あらためて本作は傑作だと再確認できた。

 

あらすじ

世界を焼き尽くした「火の七日間」から1000年。人類は、腐海と虫に脅かされながら生きていた。風の谷の姫ナウシカは、メーヴェを駆って、腐海を巡り、世界の真実を探求していた。だが、列国は貧困と恐怖の中でも戦争を行っていた。そしてナウシカと風の谷も、否応なくその戦いに巻き込まれていく・・・

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ポジティブ・サイド

30年以上前の作品であるにも関わらず、そのテーマの現代性に驚かされる。一つには、行き過ぎた技術文明への警鐘があり、もう一つには大自然が人類を脅かすことである。小説家の新城カズマに言わせれば「SF作品とは、人類と文明の遠近法」だが、その意味では1980年代のSFは、『 ターミネーター 』や『 ロボコップ 』といったロボットものか、そうでなければスペース・オペラまたはスペース・ファンタジーだった。中には『 ブレードランナー 』のような異色作もあったが、そこにあるのは人間が「機械」を見る眼差しだった。本作はそこに「生命」を見出している。腐海という、一見すれば究極のディストピアを、単なる恐怖や脅威の領域ではなく、ある大きな仕組みの一部として見ている。そこが非常に独特で、宮崎駿の異能あるいは異端さが際立っている。

 

本作は様々な戦争作品を取り入れつつも、それ自体が全く新しいジャンルを切り拓いたという点でも、日本映画史に残る作品である。巨神兵という、一見すれば『 ゴジラ 』にインスパイアされたように見えるモンスターが、その後の『 新世紀エヴァンゲリオン 』をインスパイアした点も興味深い。1980年代のゴジラと言えば、『 ゴジラ(1984) 』が本作と関連が深い。内容が、ではなく背景がである。オープニングでユパが探索している村に降る胞子は、どうしても核戦争後の「死の灰」を我々に想起させる。『 ゴジラ(1984) 』ではゴジラが原発を破壊し、そして日本の上空で核爆発が起きる。腐海の瘴気=放射能と見るのはいとも容易い。そして、COVID-19の第二波または第一波の揺り返しに遭っている現代日本では、もはや必携アイテムになってしまったマスクが本作では重要なガジェットになっている。世界観に普遍性があるのだ。「姫様、マスクをしてくだされ、死んじまうー!」という爺さんたちの叫びは、ブラックジョークにも悲痛な叫びにも聞こえる。時代を超えたユーモアがあり、恐怖感もあるのだ。時代と時代、ジャンルとジャンルの結節点である本作らしいと言えはしないか。

 

本作を傑作たらしめている最大の要因は、やはり主人公のナウシカのカリスマ性だろう。20年ぶりに観て、その戦闘力や指導力、カリスマ性、英知、博愛の精神に打ちのめされた。「お姫様」という存在は、基本的に王または王子なしには無力な存在である。宮崎駿はそこをひっくり返した。病に倒れた王ではなく、その娘のナウシカこそが風の谷の事実上の王である。そして指導者たる王が肉体労働を厭わず、自己犠牲に躊躇しない。国民が姫、あるいは王族の姿を見て結束、連帯する、あるいは分断、抗争していくのは世の常。それは上皇后・美智子様への国民的な感情と、親王妃・紀子様、あるいはJovianの後輩にあたる眞子内親王や佳子内親王への国民的な感情を比較してみれば分かる。2010年代のハリウッドが「機は熟した」とばかりに、優秀な“女性”にフォーカスした作品を陸続と送り出してきたが、それはほとんど『 ドリーム 』のような歴史に埋もれていた女性たちの物語だった。ナウシカのように、誰かに構想されたキャラクターはいなかった。ここでもクリエイターとしての宮崎駿の天才性が見える。もちろん、他キャラも素晴らしい。苛烈なクシャナとどこか憎めないクロトワの名コンビに、風の谷の爺さん連中、そしてよく働く子どもたちも強く印象に残る。

 

今の若い世代、10代の中学生や高校生は本作のアニメーションを見て、どのような感想を抱くのだろうか。「場面によってはあまり動かない絵があるな」とか、「画質が粗いな」と感じるのだろうか。一応説明しておくと、これは全て手描きのアニメーションなのだ。美しいかどうか、精巧かどうかという点で現代のアニメ映画、たとえば『 ウォーリー 』などとは比較にならない。だが、作画に注ぎ込まれたエネルギーの総量は決して負けていないのである。昨年(2019年)に放火被害に遭った京アニはジブリ作品にも深く関わってきたのである。

 

音楽も素晴らしい。宮崎駿作品と中期までの北野武作品には久石譲の音楽が欠かせないが、宮崎と久石のコラボとは、セルジオ・レオーネとエンニオ・モリコーネが組む、あるいはジョージ・ルーカスとジョン・ウィリアムズが組むようなものである。特にナウシカの飛ぶシーンのBGMが最高に情景にマッチしている。また効果音を聞き逃せない。『 スター・ウォーズ 』のミレニアム・ファルコン号やTIEファイターの飛行音、またライトセイバーのヴゥンという効果音は、そのオブジェそのものと不可分になっているが、本作ではメーヴェがそれにあたる。「飛ぶ」という行為を、視覚的にだけではなく聴覚的にも表現した宮崎の大いなる勝利である。

 

物語の内容と展開にも文句のつけようがない。劇作の基本として、物語には、キャラクターによって動かされるものと状況によって動かされるものに大別される。本作はその両方がパーフェクトなバランスで使われている。ナウシカは常に点から点へとせわしなく動くが、それは彼女自身の意思と、状況に応じた柔軟な判断である。同時に、彼女の意思とは無関係な他国の侵略や他国間の戦争によってでもある。ナウシカという万能に近い主人公が、状況をコントールしながらも状況に翻弄される。そのバランスが絶妙としか言いようがない。ストーリーの内容だけではなく、ストーリーの構成や展開も完璧である。

 

ネガティブ・サイド

ユパが「良い名を贈らせてもらう」と言った赤ちゃんの名前は結局どうなったのか。

 

巨神兵を積載したトルメキアの大型艦は、過積載で風の谷に墜落したが、それではそもそもどうやって離陸したのだろうか。他の航空機にえい航されながら滑走および離陸をしたとでも言うのか。また、蟲に襲われていたが、その蟲たちもどこで拾ってきたのだろうか。ウシアブは空を飛べるから分かるが、小型王蟲のような飛べなさそう蟲が船体に張り付いていたのは不可解だった。

 

声優陣はさすがの仕事ぶりだったが、唯一アスベルの声だけは、素人っぽく聞こえた。

 

総評

問答無用の大傑作である。小中高校生は、夏休みの宿題として本作を観るようにと各学校がお達しを出してもよいくらいである。三密を満たさないように、それこそ体育館で各学校で一日中、上映してもよい。宮崎駿がこれだけヒット作を連発できるということは商業性や大衆性というものをよく理解している証拠だが、一方で異能性や天才性も併せ持っている。ぶっちゃけた言い方をすれば、黒澤明や小津安二郎に並ぶクリエイターであると言っても良い。岩井俊二や是枝裕和は、まだ宮崎駿には及ばないというのがJovianの勝手な私見である。その宮崎の作品の中でも本作は一、二を争うクオリティである。親や祖父母は子や孫を是非とも映画館に連れて行ってあげてほしい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン 

Please put on the mask!

put on ~ = ~を身に着ける、の意である。対して(文脈にもよるが)、Wear a mask. は「普段からマスクを着用せよ」の意になる。日本の英語学習者はしばしばPlease relax. =どうぞおくつろぎください、のように言ってしまうが、Pleaseを頭につける命令文というのは、(これも文脈や口調によるが)かなり切羽詰まって聞こえる。「頼むからリラックスしてくれ」のような感じである。その意味で「姫様、マスクをしてくだされ」の英訳にはPleaseをつけるのがふさわしい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 1980年代, S Rank, SF, アニメ, 島本須美, 日本, 榊原良子, 監督:宮崎駿Leave a Comment on 『 風の谷のナウシカ 』 -日本アニメ映画の最高峰の一つ-

『 SPACE BATTLESHIP ヤマト 』 -邦画の欠点が凝縮されている-

Posted on 2020年7月18日 by cool-jupiter

SPACE BATTLESHIP ヤマト 15点
2020年7月16日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:木村拓哉 黒木メイサ
監督:山崎貴

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『 アルキメデスの大戦 』を観ても分かる通り、この国はどんづまりになると起死回生の大艦巨砲主義を選ぶ。緊急事態宣言然り、秋に囁かれる解散総選挙然り。GO TOキャンペーンなど狂気の沙汰、亡国政策だろう。劇場公開当時、華麗にスルーした本作だが、今という時に観返して何か発見があるかどうか。なかった。ただただ邦画の限界、弱点、欠点を見せつけられただけだった。

 

あらすじ

ガミラスの遊星爆弾攻撃により放射能汚染された地球。人類は地下に潜り、なんとか生き延びていた。そんな時、遠い宇宙から謎のメッセージが届く。そこには宇宙のとある座標と波動エンジンの設計図が込められていた。人類は戦艦ヤマトを駆って、宇宙へと飛び立っていく・・・

 

ポジティブ・サイド

ヤマトのワープの使い方に頷けるものがあった。これは確かに最高のヒット・アンド・アウェイである。ワープの演出がアニメ版の瞬間移動的なものとは異なっているが、これは確かに瞬間移動だと、ここだけは得心した。

 

緒形直人演じる島大介だけは良かった。

 

後はBGM。『 スーパーマン リターンズ 』でも John Williams のあの音楽が流れる瞬間は鳥肌が立ったようなもの。

 

ネガティブ・サイド

どこからツッコミを入れていいのかどうか分からないが、とにかく『 宇宙戦艦ヤマト 』の精神を受け継いでいないし、キャラクターの再現度も極めて低い。さらに同時代に送るメッセージもない。

 

古代進が「あのさぁ」とか言って、人に話しかけるか?森雪が平手打ちならまだしも、グーで人を殴るか?なぜ西田敏行が佐渡医師ではなく機関長なのだ?山崎努は、第二次大戦映画ならまだしも、沖田艦長のイメージでもないし、本人も似せようとしていない。また監督もそのような演出をしていない。何がしたいのだ?

 

言葉の使い方もいろいろとおかしい。「ガミラス機を捕獲しろ」ではなく「ガミラス機を鹵獲しろ」ではないのか?古代が「第三艦橋に取り残された者たちを見殺しにしました」と沖田艦長にサラッと大嘘を報告するのもどうなのか。実際は見殺しではなく、自分から切り捨てたというのに。妙なところでリアリズムが欠如している。というか、虚偽が混じっている。

 

行動も妙だ。直前のシーンでぜえぜえ言っているキャラが、次の瞬間に呼吸が落ち着いている。シーンとシーンがつながっていない。敬礼も沖田だけ脇を開く角度を極端に小さくする海軍式。その他のキャラは陸軍もしくは空軍式。混成軍だと言ってしまえばそれまでだが、宇宙戦艦という狭い空間内なら海軍式に統一すべきだ。あるいは人類最後の希望は寄せ集めであるというを見せる描写が必要だ。パイロット連中が最終出撃前に「ウェーイ!!!」というハイテンションになっているのは何故なのか。凡作だった『 空母いぶき 』でもパイロット連中は冷静さを保っていた。というかパイロット然り、キャビンアテンダント然り。空を飛ぶ連中、あるいは海に潜る連中に何よりも求められる資質は、冷静さを保てることだ。こんな連中がよく生き残れたな。またキムタク・・・じゃなかった、古代進のクライマックスでの「波動砲は撃てるか?」の問いにもズッコケである。軸線上に地球があるのに波動砲を撃とうという狂った発想は、一体全体どこから湧いてくるのか。

 

戦闘シーンも『 スター・ウォーズ 』と『 インディペンデンス・デイ 』を自分流にやってみたかったんだよね~、という山崎監督のエゴの声が聞こえてきそうな陳腐さ。CGやYFXの質に文句をつけているのではない。オリジナリティの欠如を嘆いている。あるいは、低いハードルを越えて満足している姿を憂いているのである。

 

細かいところではあるが、地球から42万キロメートルにいるシーンで、地球が異様に小さく映るのは何故か。月よりもほんのちょっと遠いだけだろう。編集時点で誰も気付かなかったのか。

 

ガミラスを個にして全、アルファにしてオメガな存在に描く必要はあったのか?『 風の谷のナウシカ 』や聖書を堂々とパクって開き直れる姿勢は称賛、ではなく硝酸に値する。

 

総評

ネガティブな評だけで5000~6000字は書けそうだが、それはあまりにも生産性が低い行為である。総評を書くのも面倒だ。何故ここまで原作をレイプできるのか。そして時代に向き合わないのか。何も原発事故やコロナ禍を予見しろなどと言っていない。だが、この中身スッカスカの実写版を観て、何を感じ取れと言うのか、誰か教えてほしい。キムタクが古代で森雪が黒木メイサ?役者を責めているのではない(演技面で褒められるものはなかったが)。そうしたキャスティングをしてしまう業界の構造や企画立案のプロセスにこそ邦画制作の病巣がある。そのことが再確認できただけの作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I want to forget about this awfully bad film ASAP.

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, F Rank, SF, 日本, 木村拓哉, 監督:山崎貴, 配給会社:東宝, 黒木メイサLeave a Comment on 『 SPACE BATTLESHIP ヤマト 』 -邦画の欠点が凝縮されている-

『 ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 』 -英国流・痛快コメディ-

Posted on 2020年7月18日 by cool-jupiter

ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 75点
2020年7月12日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ペッグ ニック・フロスト
監督:エドガー・ライト

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“映画館の危機は、俺たちにまかせろ!” 何とも頼もしいキャッチコピーではないか。塚口サンサン劇場で『 ゾンビランド 』がリバイバル上映された時にも感じたし、コロナ禍で新作を後悔しづらい、あるいは客席を全て埋められないからこそ、ジブリ映画のtheatrical re-releaseを行っている日本の各劇場を見ても強く感じた。すなわち、良い映画は劇場公開10年が経過したら再上映をすべきだということ。

 

あらすじ

ロンドンの超エリート警官ニコラス・エンジェル(サイモン・ペッグ)は、「お前がいると我々が無能に見える」という理由で上層部に疎まれ、田舎町サンドフォードに左遷される。そこでも張り切るエンジェルだが、所長のボンクラ息子バターマン(ニック・フロスト)と相棒を組まされる。ある日、怪死事件が発生。これは殺人事件だとエンジェルは直感するも、署長以下の面々はただの事故だと言って取り合わない。エンジェルは独自に捜査を開始するのだが・・・

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ポジティブ・サイド

「栴檀は双葉より芳し」と言うが、本作にもエドガー・ライト監督らしさが随所に見て取れる。最も印象的なのはシーンの入れ替わりのテンポの良さ。ドアノブや手錠のアップのカットをアクションとアクションの合間の一瞬に挿入して、次の展開へと進んでいくのがエドガー・ライト作品の様式美である。本作の、特に序盤における圧倒的なテンポの良さは、観る者を一気に物語世界に引きずり込む。そして主人公エンジェルの悲喜こもごもにシンクロさせる。

 

音楽や映画とのコラボも同監督のスタイル。BGMではなく歌そのものがシーンとよくマッチしている。このスタイルが『 ベイビー・ドライバー 』で結実、完成する。特にエンジェルが英国流・都井睦雄とでも名状すべきいで立ちと武装でサンドフォードの町に再臨する際の楽曲(“Blockbuster!”か?)は、異様なまでにシーンと似合っている。

 

サイモン・ペッグとニック・フロストのコンビが『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』以上にハマっている。エリート警察官と地方警察署所長のボンクラ息子がふとしたことから徐々に意気投合し、バディになっていく様は、男なら誰もが納得できるようなアホな過程を通じて描かれる。具体的には酒と深夜のビデオ鑑賞である。男が友情を育むには、このどちらかがあれば良い。

 

謎解きもそれなりに意外性があり、伏線の張り方もフェアである。イングランドのお国柄はそこまで深くは知らないが、統計不正や公文書改ざん、あるいは統計学的に優位とされるサンプル数を集めようとしないどこかの島国の政府は、本作のサンドフォードを奇矯な町として笑うことはできないだろう。この毒のあるユーモアも面白い。

 

アクションシーンでも魅せる。『 チェイサー 』を彷彿とさせる緊迫した追走劇に容赦の無いギャグを放り込んでくるのもエドガー・ライト流。韓国映画は警察を徹底的に夢想な組織として描くことが多いが、英国映画は警察をユーモラスに描く。『 フィルス 』などは好個の一例だろう。そして、もう終わるかな?と思わせたところからもう一押しのアクション。しかも、古き良き時代の怪獣映画、特撮映画のテイストを盛り込んでくれているのだから、これには『 ゴジラ 』好きのJovianは個人的に大満足。CGがもはや現実と区別できないレベルに到達しているが、だからこそ特撮的な演出の良さが際立つ。鬼才エドガー・ライトが自身の欲望や願望を渾身の力で映像化した一作である。

 

ネガティブ・サイド

機雷などは片田舎の警察では処理しきれないのではないだろうか。もちろん、警察にも危険物や爆発物処理のプロフェッショナルはいくらでもいるだろうが、それはロンドンのような中央の話。エンジェルは即座にロンドンもしくは軍に報告すべきでなかったか。

 

バターマンのジャムでの悪ふざけはかなり陳腐に感じた。見た瞬間に「あ、これは『 チ・ン・ピ・ラ 』と同じや」と直感した。小道具の使い方も同じ、その後の展開のさせ方も同じ。洋の東西や時代を問わないクリシェな手法なのだろう。もう少し捻った、あるいはさりげない演出を求めたい。

 

せっかくビル・ナイを起用しているのだから、最後の最後にもっとギャフンと言わせる展開を作っても良かったのではないか。序盤に少々嫌味な上役にこれだけの大御所が出てくるのだから、終盤に何かあるだろうと普通は期待するだろう。

 

総評

こういう古い、しかし面白い作品というのを映画館はもっともっとリバイバル上映すべきだろう。哀しいニュースであるが、先日エンニオ・モリコーネが御年91歳で旅立ってしまった。今こそ『 続・夕陽のガンマン 』などのドル箱三部作を再上映する機運が高まっていると思う。“一生に一度は映画館でジブリを観よう”と言うが、一生に一度は名作西部劇や『 スター・ウォーズ 』、『 ゴジラ 』を劇場の大画面と大音響で堪能したいではないか。感染症が流行中だからではなく、もっと積極的に過去の名作や傑作を掘り起こすべきだ。それが過去の映画ファンを取り戻すことにも、新たな映画ファンを発掘することにもつながるはず。そして、なによりも現今の邦画のレベルの低さを白日の下にさらけ出し、業界の自浄作用を働かせ、ライトなファンの鑑賞眼を養うことにもつながるのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You are pulling my leg.

pull one’s leg=からかう、冗談を言う、ふざける、ということである。DVDを観るかと尋ねられたエンジェルが、バターマンに一言こう返す。定時間際に上司にドサドサドサッと「明日までに頼む」と仕事を渡されたら、“You’re pulling my leg, aren’t you?”と心の中で毒づこうではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, イギリス, サイモン・ペッグ, ニック・フロスト, ブラック・コメディ, 監督:エドガー・ライト, 配給会社:ギャガ・コミュニケーションズLeave a Comment on 『 ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン! 』 -英国流・痛快コメディ-

『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

Posted on 2020年7月14日 by cool-jupiter

MOTHER マザー 70点
2020年7月11日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:長澤まさみ 奥平大兼 阿部サダヲ 夏帆
監督:大森立嗣

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3歳娘を自宅に放置して脱水、そして餓死に至らしめたとして母親が逮捕される事件が世間を賑わせている。個人的にはどうでもいいことだ。そんな母親はどこの国や地域にも、いつの時代にもいる。そして、それは父親であっても祖父母であっても、血縁のある保護者であっても血縁のない保護者でも同じこと。にもかかわらず、なぜ我々は母親という存在に殊更に「子を愛せ」と命じるのか。本作を鑑賞して、個人的に何となくその答えを得たような気がしている。

 

あらすじ

秋子(長澤まさみ)は仕事も続かず、男にもだらしのないシングルマザー。息子の周平を虐待的に溺愛しながら、周囲に金を無心して生きている。そんな時に、秋子はとあるホストとの出会いから家を空けて・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200714222300j:plain
 

ポジティブ・サイド

長澤まさみのこれまでのイメージをことごとく破壊するような強烈な役柄である。年齢的に少々厳しい(若すぎる)のではないかというのは杞憂だった。日本の女優というのは、キャンキャンと甲高い声を出すことはできても、怒鳴り声の迫力はイマイチというのが定例だったが、長澤まさみはその面でも非常にドスの利いた声を出せていた。また、息子の横っ面をまさにひっぱたく場面があるが、これがロングのワンカットの一部。自身の顔のしわを気にしながら、口答えする息子に一発お見舞いし、また何事もなかったかのようにコンパクトを覗き込みながら顔のしわを気にする様子には震えてしまった。

 

全編にわたってロングのワンカットが多用されており、それが目撃者としての自分=観客にもその場の展開への没入感を高めている。冒頭の秋子の家族の大ゲンカや、阿部サダヲとのラブホの一室での取っ組み合いの大ゲンカなどはその好例である。物を投げたり、あるいはベッドシーツが乱れたりするので、テイクを重ねるのはなかなかに大変だっただろう。一発勝負で撮ったにせよ、複数回のテイクから良いものを選んだにせよ、こうした絵作りに妥協しない姿勢は高く評価されてしかるべきだ。昨今の邦画の演技力の低下を見ると、尚のことそう感じる。

 

周平役の奥平大兼の演技もなかなか良かった。自分で考えたのか、それとも監督の演出・演技指導なのか、まともな教育やしつけを受けてこないままに大きくなったという感じがありありと出ていた。その最も印象的なシーンは、夏帆演じる市役所職員に喫茶店に連れていかれるシーン。周平の箸の持ち方がめちゃくちゃなのである。幼稚園児の頃から、箸の持ち方を誰にも教わってこなかったことが容易に察せられる。事実、小児の周平がカップラーメンもお湯でもどさず、固い乾麺のままバリボリと手で持って食べるシーンが序盤にある。青年期と小児期の周平はあまり似ていないのだが、それでも同一人物なのだということが、この橋の持ち方ひとつで強く印象付けられた。

 

本作は鑑賞する人間の多くを不快にさせる。それは徹頭徹尾、秋子を救いのない人物として描いているからだ。だがそれ以上に、我々が無意識のうちに抱く「母」という存在のイメージ、もっと言えば固定観念が本作によって揺さぶられるのも、不快感の理由に挙げられはしないだろうか。これが例えば父親なら『 幼な子われらに生まれ 』のクドカンのようなキャラなら、「まあ、そういうクズはたまに見るかな」ぐらいの感覚を抱かないだろうか。育メンなる言葉が生まれ、一時期はもてはやされたが、「育メンと呼ぶな、父親と呼べ」という強烈かつ当たり前すぎるツッコミによって、この新語はあっさりと消えていった。対照的に母にまつわる言葉や概念のあれやこれやには、「母性」、「母性愛」、「聖母」、「慈母」、「母は強し」、「母なる大地」、「母なる海」、「母なる星」、「母なる故郷」など、往々にして愛、包容力、受容、癒し、庇護などのイメージと不可分である。それが高じると「母源病」などという、非科学的かつ差別的な言葉や概念が生まれる。だが、そうした母に対する迫害的な意識は我々には希薄なようだ。今でも書店に行けば、子育てや受験、果ては就職や結婚に至るまで、この人生の節目における成功と失敗の多くを、母親の功績あるいは責任であると説く書物は山と存在する。それは我々が母親に愛されたいという願望を隠しきれていないからだろう。ちょっとしたボクシングファンならば、本作を観て亀田親子をすぐに思い浮かべたはずだ。亀田三兄弟の母親がパチンコ屋でインタビューを受けながら「自分の子のボクシングの試合は見ない」と答えていた番組を見たことのある人もいるだろう。ちょっとリサーチすればわかることだが、亀田三兄弟の母も秋子ほどではないが、母親失格(という表現を敢えて使う)の部類の人間である。だが、そんな母に対しても長男・興毅は「お母さん、俺を産んでくれてありがとう」と疑惑のリング上で吠えた。はたから見れば、自分を愛してくれない育ててくれない母親に、である。また次男・大毅は内藤大助戦で父親に反則を教唆され、それを忠実に実行した。のみならず、マスコミからの「父親からの指示ですか?」という質問に対して「違います、僕の指示です」という珍回答を行った。どこからどう見ても真っ黒な父を、それでも健気にかばったのである。秋子と周平の関係を歪だと断じるのはたやすい。だが、そんな親子関係はありえない、極めてまれなケースだと主張するのは、実は難しい。『 万引き家族 』によって揺さぶられた日本の家族関係・親子関係は、本作によってもう一段下のレベルで揺さぶられている。このメッセージをどう受け取るのかは個々人による。だが、受け取らないという選択肢はないと個人的には思っている。多くの人によって見られるべき作品である。

 

ネガティブ・サイド

長澤まさみは確かに体を張ったが、いくつかのラブシーン(?)には、はなはだ疑問が残る演出がされている。たとえばラブホテルの一室での仲野大賀との絡み。ベッドの上でゴロンゴロンしているだけで、長澤まさみが上を脱ぐのを嫌がったのだろうか。大森監督は『 光 』で橋本マナミを脱がせた(とはいっても、乳首は完全防御だったが)実績があるので、期待していたが・・・ いや、長澤の裸が見たいのではなく、迫真の演技が見たいのである。『 モテキ 』では谷間を見せて、胸も一応軽く触らせていたのだから、それ以上の演出があってもよかったはずだ。やっぱり長澤まさみの裸が見たいだけなのか・・・

 

真面目に論評すると、『 “隠れビッチ”やってました 』の主人公ひろみと同じく、本当にアブナイ男、それこそ『 チェイサー 』の犯人のような男に出会わなかったのは何故なのか。その男癖の悪さから、本当にやばい相手だけは見抜ける眼力、もしくは女の勘のような描写が一瞬だけでも欲しかった。

 

メイクにリアリティがなかった。あんな生活でこんな肌や髪の質は保てないだろうというシーンがいくつもあった。このあたりは取材やリサーチの不足、もしくはメイクアップアーティストの意識の欠如か。最終的には監督の責任だが。

 

これは個人差があるだろうが、BGMが映像や物語と合っていない。特にクライマックス前の神社のシーンのBGMはノイズに感じられた。全体的に音楽や効果音が使われていないため、余計にそう感じられた。ただし、このあたりの感性は個人差が大きい。

 

少々残念だったのは、ラストか。以下、白字。呆然自失の長澤まさみを映し続けるが、その表情が崩れる瞬間を見たかった。それも、泣き出すのか、それとも笑い出すのか、その判別がつかない一瞬を捉えて暗転、エンドロールへ・・・という演出は模索できなかったか。『 殺人の追憶 』のラストのソン・ガンホの負の感情がないまぜになった表情。『 ゴールド/金塊の行方 』のラストのマシュー・マコノヒーの意味深な笑顔。こうした表情を長澤まさみから引き出してほしかった。

 

総評

こうした映画はテアトル梅田やシネ・リーブル梅田のようなミニシアターで公開されるものだった。だが、長澤まさみという当代随一の女優を起用することで全国的に公開されるに至った。多少の弱点がある作品ではあるが、それを上回るパワーとメッセージを持っている。母の愛、母への愛。自分と母との距離を見つめなおす契機にもなる作品だろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

bring up

「育てる」の意。直訳すれば「持ち上げる」となるように、小さな子どもの背丈がぐんぐん伸びる手伝いをしてやるイメージで、「体が大きくなるまで育てる」のような意味である。名詞のupbringingには「養育」、「生い立ち」、「しつけ」のような意味があり、やはり幼少から成人に至る時期ぐらいまでを指して使われることが多い。劇中で秋子が叫ぶ「私が育てたんだよ!」は、“I brought him up!”となるだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 夏帆, 奥平大兼, 日本, 監督:大森立嗣, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズ, 長澤まさみ, 阿部サダヲLeave a Comment on 『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

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