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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2020年1月

『 記憶屋 あなたを忘れない 』 -The Worst Film of 2020-

Posted on 2020年1月30日2020年1月30日 by cool-jupiter

Kioku-ya: Anata wo wasurenai / The Memory Eraser: Forget You I Will Not  10/100
At MOVIX Amagasaki, on January 30th, 2020
Main Cast: Ryosuke Yamada, Kuranosuke Sasaki, Kyoko Yoshine
Director: Yu-ichiro Hirakawa

 

記憶屋 あなたを忘れない 10点
2020年1月30日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:山田涼介 佐々木蔵之介 芳根京子
監督:平川雄一朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200130172252j:plain
 

I assumed Signal 100 was the front-runner to be chosen as the worst film of the year, but surprise surprise, there will always be something far worse. This film is the worst one by far I’ve seen in the last five years.

 

『 シグナル100 』が国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補かと思っていたが、それをさらに上回る駄作がもうすでにあったとは驚きである。本作は、過去5年にJovianが鑑賞した作品の中でも群を抜いて駄作である。

 

Plot Summaries

Ryoichi – played by Ryosuke Yamada – is a college student who is going after the person called Kioku-ya, The Memory Eraser. His girlfriend’s memory of Ryoich was erased, and since then, he has been seeking clues of The Memory Eraser with the aim of restoring her lost memory…

 

あらすじ

大学生の遼一(山田涼介)は記憶屋を追っている。恋人の記憶から、遼一に関するものが消されてしまったのだ。以来、彼女の失われた記憶を取り戻そうと遼一は記憶屋に関する手がかりを探し求めるが・・・

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Warning: Mild Spoilers Ahead!

 

注意!軽いネタバレあり

 

Positives

Sorry, no positives to mention. That’s proof of how awful this film is.

 

ポジティブ・サイド

残念ながら無い。それが、この映画の酷さを証明していると言えるだろう。

 

Negatives

First of all, what’s the heck is with lawyers and medical doctors in this movie’s world? Don’t they know a jack shit about what the duty of confidentiality is all about? It’s OK to give away a little bit of information, because we are all human and to err is human. Nobody is impeccable. With that being said, there is absolutely no need to write down on the whiteboard every F-ing detail of the victims of the criminal cases. There is something wrong with the doctor’s head, too. What’s the point of allowing a girl’s boyfriend to be right there while asking her some serious questions? A doctor should have no problem anticipating a flashback especially when dealing with a patient who could be deeply traumatized. Why no female doctors? Why not allowing her to lie down during the medical interview? The stupid and senseless boyfriend should know better.

 

The problem with this film is that the true identity of The Memory Eraser is so blatantly obvious that avid movie-goers will find out who it is only about 15 minutes into the film. Nevertheless, no characters picked up on the clue that leads to The Memory Eraser until much later, which I didn’t like at all. All you have to do is connect the dots, and no one fucking does it. Why?

 

I am also unhappy with the sequence where Ryoichi makes his sincere apology for what he thought was a terrible mistake. However, they say that kidnapping was rampant in the area in those days. Nonetheless, the adults in the area allowed their 5 – 6 year-old children to go outside AT NIGHT, ON THEIR OWN, so that they could go see a fireworks event. WTF? Heck, it wasn’t Ryoichi’s fault. It was the adults and the police who were to blame. And the ex-cop old man just saying to Ryoich, “It has fallen under the statute of limitations.” is simply unthinkable and unacceptable. This man really has dementia. If not, he should have turned in his badge waaaaay before his retirement.

 

Ryoich’s odyssey for The Memory Eraser culminates at the lowest of the low point. It was such an anti-climactic ending sequence. With this, the director and the screenwriter didn’t seem to give much thought to the impact of what happens at the end on the people around the main characters. I also found it extremely difficult to relate to any of the characters, and almost all of the things they did in the course of this entire story didn’t come across as compelling or meaningful. I could not help but get up from the seat and leave the theater as soon as the ending credit began to roll.

 

I could keep talking forever, but I want to wrap all this up by saying that I have no idea why this film exists.

 

ネガティブ・サイド

まず、この物語世界における医師や弁護士の職業倫理はどうなっているのか。守秘義務という概念が存在しない世界なのか。いや、多少の秘密をばらすのは人間のやることだから許容できる。だが、どこの誰がどんな事件でどんな被害を受けたのか、それを事細かくホワイトボードにでかでかと記しておく必要が一体どこにあるのか。医師も頭がどうかしている。心因性の記憶障害だとしても、いやしくも脳外科医であるならば女性医師に変わるか、あるいはフラッシュバックを予期してベッドに寝かせて問診するだろう。いや、そもそもボーイフレンドは同席させないだろう。いくら親密とはいえ、親や保護者ではないのだ。

 

また記憶屋の正体があまりにも簡単に分かってしまうにも問題である。ちょっと映画を見慣れた人であれば、開始15分で記憶屋が誰であるかが分かってしまうだろう。にもかかわらず、登場人物の誰も記憶屋につながるヒントに物語後半まで気が付かないということが不満である。点と点をつなげば記憶屋の正体は自ずから明らかなのに、何故そうしない?

 

主人公の遼一が過去の自分の過ちを詫びるシークエンスにも納得がいかない。誘拐事件が地域で頻発している。にもかかわらず当時の大人たちは未就学児童の集団を夜に外出させ、花火大会に行かせた。悪いのは遼一ではなく、大人たちであり、注意喚起を怠った警察である。遼一の謝罪を「時効だ」と言って流してしまう元・警察官の爺さんは、本物の認知症である。さもなければ、無責任極まりない警察官である。

 

主人公の遼一の記憶屋を求める旅の終着点、その結末。そのことが周囲にもたらす影響について何らの考察もされていないように思える。はっきり言って、登場人物の誰にも感情移入できないし、彼ら彼女らの行動原理がこれっぽっちも理解できない。エンドロールが始まって、すぐに席を立ってしまった。

 

このままいくらでも酷評を続けていくこともできるが、きりがないので以下をもって結論とする。Jovianは何故この映画が存在できるのかが分からない。

 

Recap

This is a complete disaster. Hardly anything in this film makes sense, and I was fed and fed and fed with so much meaningless information till the end. I say this film is a steaming load of bullshit. Only those who are gullible and naive are encouraged to buy a ticket and check this out.

 

総評

完全なる失敗作である。劇中で起こるほとんどの出来事の意味が分からない上に、意味のない情報ばかりを次から次へと終わりまで与えられ続ける。これはもうデタラメもいいところの作品である。極めて無邪気な人だけがチケットを買って鑑賞すべきなのだろう。

追記

遼一も弁護士も記憶屋を追うなら綿密に記録を残せ。それぐらいの自衛行為は当たり前だ。『 リピーテッド 』を観ろ。もしくは新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』を読め。

また記憶屋が仕事をしようがしまいが、遼一のところには警察なり何なりが来るだろう。それとも、この物語世界の警察は無能の集団だから、来ないのだろうか。

エンディングも酷い。『 バタフライ・エフェクト 』を模したつもりだろうか。そんな名作に張り合おうとするよりも前に、まずは『 パラレルワールド・ラブストーリー 』と勝負してはどうか。それでも本作の方が劣るだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, ヒューマンドラマ, 佐々木蔵之介, 山田涼介, 日本, 監督:平川雄一朗, 芳根京子, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 記憶屋 あなたを忘れない 』 -The Worst Film of 2020-

『 風の電話 』 -身を寄せ合い生きることの尊さと美しさ-

Posted on 2020年1月30日 by cool-jupiter

風の電話 85点
2020年1月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:モトーラ世理奈 三浦友和 西島秀俊 西田敏行
監督:諏訪敦彦

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地震大国の日本であるが、それでも阪神淡路大震災と東日本大震災による打撃は群を抜いている。そして、あまりにも多くの犠牲者が出たことで、我々は被害を個々の人間ではなく、単なる数字として捉えてしまう。阪神大震災を間接的にではあるが経験したJovianでさえ、東日本大震災がもたらした悲劇については想像が及ばなかった。これはそうしたドラマである。

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あらすじ 

3.11によって父と母と弟が行方不明になってしまったハル(モトーラ世理奈)は、広島の叔母の家で暮らしていた。そんな叔母が倒れてしまった。また独りになってしまうかもしれないという不安から、ハルは家族と別れることになった地、岩手を目指して旅に出る。そして、道中で様々な人々と触れ合って・・・

 

ポジティブ・サイド

ワンカットがとにかく長い。が、それが気持ちよい。BGMも最小限に抑えられている。ジャンルとしてはヒューマンドラマ、ロードトリップになるのだろうが、まるでドキュメンタリー映画のようである。プロットは全く異なるが、『 存在のない子供たち 』のようである。ゼインは子どもとは思えない逞しさやしたたかさを備えていたが、ハルの時間はある意味では8年間ずっと止まったままである。子どものままなのである。誰かの庇護がなければ生きていけない存在。しかし、その庇護を与えてくれる人間が存在しない。そんな中途半端な状態で、ハルは死んではいないが、生きてもいない。17歳という子どもではないが大人でもないという中途半端な存在。そんなハルが、ロードトリップを経て、守られる側から守る側になる。目指す先に着いた後、さらなる目的地を見つけるというストーリーには、我にもなく涙を流していた。

 

三浦友和演じる公平は言う、「生きてるからには、食べて、出して、食べて、出して、しないとな」と。その言葉の通りに、本作の登場人物たちは常に皆、何かを食べている。まるで『 食べる女 』のようである。そのレビューで「失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『 万引き家族 』は我々に見せつけた」と指摘したが、本作はそうした描写からさらに一歩踏み込んだ。すなわち、孤食の解消である。詳しくは鑑賞してもらうべきだが、常に誰かが何かを食べている本作で、ハルが一人で食物を消費するシーンは剣呑である。そのことがすぐに伝わってくる。本作は、非常に逆説的にではあるが、【 日本全国を子ども食堂化しようプロジェクト 】のキャンペーンの一環であり、プロモーションビデオなのである。

 

広島の叔母の家でも、三浦友和の家でも、名もなき姉弟が連れて行ってくれた場末の食堂でも、西田敏行の家でも、Happy Kebabでも、トルコ人家族の家(ここは家の様子はほとんど映らないが)でも、どこもかしこも『 万引き家族 』的な物で溢れかえった家ばかりである。そこに小奇麗さは一切ない。比較的経済的に余裕のある家庭の子ども達が集まり、肝心の貧困層や孤食を余儀なくされる子ども達が来てくれないと嘆く子ども食堂の運営者の方々は本作を参考にされたい。さっぱりとしていてお洒落で明るい空間などを演出しても、ターゲットにしている子どもたちは入りづらいだけである。他人同士が身をぎゅうぎゅうに寄せ合い、カップ麺にお湯を注いだり、大人が缶ビールを開けたりするぐらいがちょうど良い・・・かどうかは分からないが、そうした雰囲気に救われる子どもはきっと数多くいるはずである。本作が映し出すのは、徹頭徹尾、社会的な弱者たちの連帯なのである。美しく頼もしいのは空間ではなく、人なのである。

 

不勉強にして“風の電話”の存在を本作鑑賞まで知らなかった。これは一種の自己内対話を促す装置である。『 ウインド・リバー 』で語られた、「子どもの死を受け入れろ。そうすれば、心の中でその子の笑顔が見られる」という悟りにも似た感覚を励起させる。死者と通話できるということは、その電話ボックスに入った時点で、相手の死を受け入れているということだ。これは辛く、悲しい。しかし、そうしなければ前に進めないことも事実である。本当に苦しいのは、家族や友人知人の遺体を見つけた人ではなく、彼彼女らが行方不明なままの人たちだろう。ハルが行う“風の電話”での通話は『 ラストレター 』における自己内対話と相通するものがある。この通話のシーンは万感胸に迫るものがある。観る者はハルの悲しみに同調し、あるいはハルの勇気に感動することだろう。

 

認知症の老婆、高齢の妊婦、家族が崩壊した中年男性、何もなくなってしまった故郷で死ぬと決めた老夫婦、家族の死に責任を感じる男たちが、意識的にも無意識にでもハルに生命力を分け与えていく姿に、観る側も大きな力を与えられたように感じられる。それらを受け止め、与える側へと成長していくハルの姿は究極のビルドゥングスロマンである。そんなハルを見事に体現したモトーラ世理奈は、2020年国内最優秀俳優に1月末にして内定した。

 

西田敏行が劇中で語る『 警察日記 』はモノクロ映画である。それが映し出した美しい福島の山や川とは何であったのか。諏訪監督の答えは明快である。西島秀俊演じる森尾とハルが、ハルの実家跡を訪ね、そして去るシーンの得も言われぬ美しさがその答えである。“美”とは風景の中に存在する客観的な実体ではない。人と人とが純粋な気持ちで触れ合い、響き合う姿の中に存在するきわめて主観的なものであることを、ここで我々は知るのである。このシーンの美しさに、Jovianは打ちのめされた。

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ネガティブ・サイド

2時間30分の長編である。そのことは別に構わない。セリフの少なさに比して、本作に込められている情報やメッセージは圧倒的に多いからである。ただ、これだけの尺を取るからには、ハルの旅先での数々の経験を、その次のシークエンスに生かしてほしかったと思う。例えば、三浦友和からもらった果物をかじるシーンや、トルコ人の同世代の女子の「看護師になろうかな」という想いを受けて、車窓から病院や看護学校に目が留まる、などの演出があればパーフェクトだった。

 

あとは、最初に倒れた広島の叔母さん、もしくは入院先の病院に電話なり何なりをハルがするシーンが一瞬でもあれば、いや、電話したと分かるような素振りか何かが最終盤にあればとも感じた。しかし、これは下手をすると余韻を壊すかな。ドラマの演出と編集のせめぎ合いになるか。

 

総評

2020年が始まって1か月も過ぎていないが、本作は年間ベスト候補である。モトーラ世理奈が邦画界から数々の賞を受け取る姿が早くも目に浮かぶ。また貧困問題や格差社会、移民問題までも含む、様々な問題提起もなされている。エンターテインメント作品かと言われれば否であるが、芸術作品であるかと問われれば間違いなく芸術作品である。観る者をかなり選ぶだろうが、脚本、演技、演出、撮影のどれを撮っても一級品である。是非とも劇場鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’m back.

帰ってきたよ、というハルの心の叫びである。come backやget backを過去形や完了形で使ってしまうと受験英語となる。かのマイケル・ジョーダンが野球からバスケに帰ってきたときの記者会見の第一声も“I’m back.”だった。状況的に“I’m home.”とも言えそうだが、家が破壊されている状況では使いにくい表現かもしれないと感じた。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, A Rank, ヒューマンドラマ, モトーラ世理奈, 日本, 監督:諏訪敦彦, 配給会社:ブロードメディア・スタジオLeave a Comment on 『 風の電話 』 -身を寄せ合い生きることの尊さと美しさ-

『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年1月29日2020年11月11日 by cool-jupiter

サヨナラまでの30分 40点
2020年1月28日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:北村匠海 新田真剣佑 久保田紗友
監督:萩原健太郎

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入れ替わり系のストーリーは時代や地域を問わずに生産され続けている。それだけ思考実験しやすいジャンルであり、またテクノロジーの進化とも相性が良いジャンルなのだろう。本作は新しい視点は提供してくれたが、様々な描写が不足しているため、説得力がなかった。

 

あらすじ

アキ(新田真剣佑)はギタリスト兼ヴォーカリスト。バンドのメジャーデビューを前に不慮の交通事故で世を去ってしまう。カセットテープとウォークマンを残して。そのウォークマンを偶然に拾った颯太(北村匠海)は、カセットテープを再生している間は、颯太の体にアキが入り、颯太は幽霊状態になってしまうことが分かり・・・

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ポジティブ・サイド

以外と言っては失礼かもしれないが、北村匠海の歌唱力が目立った。声を張り上げる役をあまり演じてこなかったというのもあるが、アマチュアの声ではなかった。それとも本職がアテレコしているのか?いや、そうは聞こえなかった。一応歌手もやっているようだが、もしまだタバコを吸っているのなら止めたほうがよい。また演技力でも成長を見せた。『 累 かさね 』における土屋太鳳と同じく、一人二役とは言っても、実際は北村が1.5、新田真剣佑が0.5ぐらいの配分に感じられた。

 

邦画の青春映画というと、おそらく7割以上が高校を舞台に高校生が繰り広げるが、大学生や社会人ものというのも味わい深いものがある。ある程度、酸いも甘いも嚙み分けてきて、その上で自分の道にのめりこめるからだ。好きという気持ちだけで突っ走る中高生も、それはそれで甘酸っぱく感じないわけでもないが、オッサンにはもうそろそろキツイ。自分がそれなりに謳歌した大学時代を軸にした映画の方が楽しみやすい。

 

本作のテーマである“上書き”は、おそらく意見がかなり割れることだろう。Jovian自身は賛と否、両方の意見を持っている。ここでは賛の意見を。バンドというのは不思議なもので、英単語のbandは音楽のバンドだけではなく、ひも、縄など、ぐるぐる巻きにして留めるもの、縛るものなどを指す。ボクシンググローブをつける前に、ボクサーは拳にバンデージを巻くのである。アキは、自分自身が生き返ることではなく、バンドの存続を願った。虎は死して皮を残すではないが、自分抜きにバンドが続くことを承認している。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のレビューでは、「フレディ死すともクイーンは死せず」と書いた。フレディ在りし頃のQueenは記録にも記憶にも残っている。そして、フレディが死に、ディーコンも事実上脱退したQueenは今も活動中で、まさに日本ツアーを敢行中である。もっと卑近な例を挙げればモーニング娘。やAKB48などは、メンバーが入れ替わってもグループとしては存続を続けている。大切なのは、人間同士のつながりそのものよりも、そのつながりによって何を生み出すのかである、という主張にも一理はある。本作はそのことをファンタジー形式で提示したと言える。我々はすぐにスマホで録音をし、写真や動画を撮るようになってしまったが、萩原監督は本作を通じて、「人とつながれ、何かを生み出せ」という現代人批判を行っているのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

厳密には入れ替わりものではないが、それでもオリジナリティはなかった。カセットテープというのも、『 ルーム・ロンダリング 』で渋川清彦が「バカヤロー、デモと言えばテープと相場が決まってんだよ」と喝破している。

 

また肝心の入れ替わりにおいても、高畑京一郎の小説『 ダブル・キャスト 』のプロット、すなわち入れ替わり可能時間がどんどん短くなっていく、が遥かに先行している。その上、サスペンス要素や謎解き要素でも面白さでも、高畑の小説の方が優っている。今風に言えばラノベに分類されてしまうかもしれないが、一昔前のジュブナイル小説の傑作なので、今の若い世代にもぜひ読んでほしいと思う。

 

閑話休題。本作は『 小さな恋のうた 』のパラレル・ストーリーであるとも言える。バンドの主要メンバーが死んでしまった。さあ、どうする?という問いに、“上書きする”という一定の答えを出した。それは良い。だが、その過程でアキの霊体?が随時にツッコミを入れるのが気に入らない。「俺がいないと何もできない奴らが・・・」というセリフは本当に必要だったのだろうか。また、肝心のアキと颯太の対話劇がもう一つ盛り上がらない。この点でも同じ音楽にフィーチャーした作品『 さよならくちびる 』に及んでいないと感じられた。絵的にも、オリジナリティに欠ける。颯太とカナが連弾でトロイメライを弾くところなどは、『 蜜蜂と遠雷 』の月の光の連弾シーンに重なる。とにかく、どこかで観た構図のオンパレードなのだ。

 

本作は颯太のビルドゥングスロマンであるが、肝心の颯太のキャラが一貫性を欠いている。アキが地獄と感じる透明人間状態を天国だと言いながら、ちゃっかりECHOLLのメンバーとの交流を楽しんでいる。アキと自分の間に即席カーテンを設けながら、いつの間にかそれも消えている。駄作の『 L・DK 』でも、雷鳴に怯えて思わず手を伸ばしてしまったというベタな描写は為されていた。そもそも颯太の音楽のバックグラウンドに関する描写が何もないままにストーリーが進行していくのはご都合主義であるし、アキが無断でアップした曲の評価も最後まで判明しなかった。このアキと颯太の対話劇の欠如・不足により、颯太が「彼女も共有すべきでしょ」と不敵に言い放つ流れが、とてつもない違和感を生み出す。

 

細かいツッコミになるが、クライマックス前も颯太もカナも汗一つ流していない。真夏に自転車を全力で飛ばしてきた、もしくは走ってきたのなら、汗ぐらい流そう。別に久保田紗友の白シャツを汗で濡らして透け透けにしろ、などと言っているわけではない。シーンとシーンの連続性を大事にしなさいと言いたいのだ。バラバラに撮影したものが、一つの流れに見える。それが映画の技法なのだ。

 

総評

単体で見れば、鑑賞には耐えうる。しかし、他の先行作品や類似作品と比べた時に、ストーリーの面でも音楽の面でも、光る点が少ない。北村や新田のファンならチェックしておくべきだろうが、熱心な映画ファンを満足させうるクオリティに達しているとは感じなかった。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

live on borrowed time

借りられた時間を生きる、の意。本作のアキのような状況を指す。すなわち、死んだも同然の身だが、天から与えられたかりそめの時間を奇跡的に生きている、という意味である。または、余命が残りわずかな状態で生きている、という意味にもなる。ボクサーがまぶたから大量に出血して、それでもTKOにならず戦い続けている様を指して、“He’s fighting on borrowed time!”という実況を2~3度聞いたことがある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ファンタジー, 久保田紗友, 北村匠海, 新田真剣佑, 日本, 監督:萩原健太郎, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 サヨナラまでの30分 』 -オリジナリティが決定的に足りない-

『 デンジャラス・バディ 』 -やや凡庸な女刑事バディもの-

Posted on 2020年1月27日2020年1月28日 by cool-jupiter

デンジャラス・バディ 55点
2020年1月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:サンドラ・ブロック メリッサ・マッカーシー
監督:ポール・フェイグ

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嫁さんが借りてきて、一緒に観た。まあ、普通の出来ではないだろうか。真犯人はこの二人のどっちかだろう、と迷っている最中にヒントが。まあ、ミステリではないので謎解き要素を求めなければ、そこそこ楽しめるはず。

 

あらすじ

敏腕FBI捜査官のアッシュバーン(サンドラ・ブロック)は上司の昇進に伴って、空いたポジションを得ようと意気込むが、その上司からボストンの事件を担当するに命じられる。そこでは粗野で乱暴な女刑事マリンズ(メリッサ・マッカーシー)とコンビを組むことになってしまった。水と油の二人は果たしてバディとして認め合って、事件を解決できるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

劇場公開2014年の作品であるが、アラフィフのサンドラ・ブロックが胸元をかなり露出し、悪玉にお色気作戦で近づき、そしてバディ役であるメリッサ・マッカーシーに酒場その他の猥談で完敗を喫するのだから面白い。サンドラ自身も、こういう映画を大ヒットさせようとはあまり思っておらず、気分転換にたまには映画製作を気軽に楽しもうというノリでいるのではないか。そう思えるほどに脚本はぺらっぺらである。次の展開が見え見えである。だが、それで良いのである。アッシュバーンというキャラもどこかで観たキャラ要素の寄せ集め。美人で頭脳明晰な腕利き刑事。しかし男には縁がなく40代で独身。Single cat ladyをしているが、肝心の猫はお隣さんの借り物。吉田羊とテイラー・スウィフトを足して二で割ったようではないか。

 

バディ役を努めるメリッサ・マッカーシーは『 ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン 』をテアトル梅田で観た記憶がある。そして『 ゴーストバスターズ(2016) 』でも。レベル・ウィルソンと渡辺直美とフランシス・マクドーマンドを足して三で割ったようなキャラである。美貌はないが、勘の良さと腕っぷし、そして正義感と報われない家族愛とセックス・フレンドを持っているという、アッシュバーンとは正反対のキャラ。こういう二人を組ませようというのは、作ったような話でリアリティはない。だからこそ、逆に安心して観られるのである。

 

アッシュバーンとマリンズが互いを人間として認め合えるようになるため二つのクラブが重要な役割を果たすが、これらのシークエンスは誠にユーモラスである。我々が笑うのは、たいてい意味や認識にずれが生じている時だが、アッシュバーンの服装をマリンズが強制的に変えてしまうところに、ニヤリとさせられてしまう。決してエロティックな意味ではなく(それもないことはないが)、服をビリビリと破いてしまうことで、逆に男っ気のなさが際立ってしまうからである。このあたりから、この一風変わった女刑事たちが本格的な凸凹コンビに見えてくる。そして、次なるクラブのシークエンスで、凸凹コンビはバディとなる。酒というのは人間関係の潤滑油にも燃焼材にもなるが、酔っぱらった女二匹の乱痴気騒ぎは、確かに観る側をして彼女らを応援したくなる気持ちにさせてくれる。

 

事件の解決の仕方も明快だ。アッシュバーンに男はいりませんよ、というビジュアル・メッセージである。陳腐ではあるが、死線を共に潜り抜ける経験は「血よりも濃いものを作ることがある」(B’zの“RUN”)のである。

 

ネガティブ・サイド

ドジでお茶目なアッシュバーンが序盤から中盤にかけてどんどん冴えてくるのが、ちょっと不満である。敏腕であることは十分に伝わる。ただ、バリバリに仕事ができる女刑事ではなく、どういうわけか事件を解決できてしまう不思議ちゃん的なキャラが面白さの源泉なのだから、その設定を崩してはダメである。終盤でそのおっちょこちょいのダメ設定が復活するが、流血ネタにする必要はあったのだろうか?また仮にも警察官であればハイムリッヒ法ぐらい知っているのではないかと思うが。

 

マリンズのファック・バディが一人だけしか出てこないのも不満である。ファックの相手は10人中9人が黒人だというなら、黒人のバディも出すべきだ。そうすることでアッシュバーンとマリンズの女の艶のコントラストがくっきりと浮かび上がってきたことだろう。それによってアッシュバーンがマリンズ相手にシャッポを脱ぐのもスムーズになっただろうと思われる。そうしたシーンがないと、麻薬のディストリビューターの黒人男が追いかけて痛めつけるシークエンスが一種の弱いものイジメに見えてしまう。

 

また、内勤の黒人刑事も色々な情報を渡してくれるが、結局は主役の女性二人の引き立て役になってしまっている。サポート役ではなく引き立て役である。彼に警察官らしい見せ場を作ってほしかった。

 

総評

基本的にコメディであって、サスペンスやミステリ要素を期待してはいけない。とにかくメリッサ・マッカーシーのパワフルなパフォーマンスと、サンドラ・ブロックの微妙にずれた変なおばさんっぷりを楽しむ映画である。まあ、典型的なrainy day DVDだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Same page

縁の下の力持ちポジションの黒人捜査官のセリフである。正しくは“We are on the same page.”だが、略してsame pageとなっている。be on the same page = 同じページにいる = 共通の認識を持っている、という意味である。外資系企業の会議では“Are we on the same page?”や“I believe they and we are on the same page on this deal.”というように使われているはずである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, コメディ, サンドラ・ブロック, メリッサ・マッカーシー, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:エスピーオーLeave a Comment on 『 デンジャラス・バディ 』 -やや凡庸な女刑事バディもの-

『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2020年1月27日2020年2月9日 by cool-jupiter
『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

キャッツ 25点
2020年1月26日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:フランチェスカ・ヘイワード テイラー・スウィフト
監督:トム・フーパー

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『 マンマ・ミーア! 』のレビューで「Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『 オズの魔法使 』と『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』で、次点は『 ウエスト・サイド物語 』」であると述べた。それらに続くのが『 オペラ座の怪人 』と『 キャッツ 』である。両親が劇団四季・友の会の会員だったのだ。劇は確か5回観た。サントラはオリジナル・ロンドン・キャストで数限りなく聞いた。その上で言う。これは映画化失敗である。

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あらすじ

ロンドンの片隅。新参猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)が迷い込んだのは年に一度のお祭り、ジェリクル・ボールだった。オールド・デュトロノミーによって選ばれた一匹の猫は天上に昇り、新たな生を得るのだ。その座を競って、猫たちは夜を徹して歌い、踊って・・・

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ポジティブ・サイド

オールド・デュトロノミーを雌に変えたことに最初は戸惑ったが、これはこれでありだろう。英語では、猫の人称(猫称?)代名詞はしばしばsheになるし、イングランドに君臨するのは女王である。ロンドンの猫たちの頂点が雌であっても不都合は何もないし、それぐらいの設定変更をしないと、映画化の意義もない。実際にジュディ・デンチは良かった。

 

また、アスパラガスをイアン・マッケランに演じさせるというのはキャスティングの大いなる勝利である。老人が時代を嘆くのは滑稽かもしれないが、それを実力者が演じることで大いに説得力が増している。

 

アンドリュー・ロイド・ウェバー御大とテイラー・スウィフトの手による“Beautiful Ghosts”は言葉で説明するのが難しいほどに感情を揺さぶる音楽であり歌詞であり歌唱である。劇中で歌うヘイワードとエンディング・ロールで歌うテイラーに最敬礼する。

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ネガティブ・サイド

見た目や動きの気持ち悪さは英語でも日本語でも死ぬほど語られているので、敢えてJovianが触れるまでもないだろう。ジェニエニドッツとゴキブリどもとの大きさの比率がおかしいし、水を飲むバストファー・ジョーンズの顔が一切濡れないのも不自然である。どうしても言わないと気が済まないのはこれぐらいか。

 

夜中~深夜にかけて街中を散歩していると、公園の砂場で猫たちが集会を開いている場面に遭遇することがある。そうした経験のある人は多いだろうし、人からそのような話を聞いたことがある人も多いことだろう。その中には首輪をした猫もいれば、ボロボロに傷を負った野良もいるのである。まさかジェリクル・ボールを本当に開いているとは思わないが、それでも猫たちの営為には、人知の及ばないミステリアスな領域が常に存在しているようである。『 キャッツ 』というのは、そうした人間の与り知らない猫の世界の物語である。であるにも関わらず、オープニングでいきなりロンドンの街のネオンライトを浴びながら自己紹介をしていく猫たちに強い違和感を覚えた。“月明かりの中”で密やかに、しかし盛大に行われるのがジェリクル・ボールではないのか。夜目が効く猫があんな光を浴びたら動けなくなるのではないのか。というか、人間の世界の片隅で繰り広げられるドラマのはずが、人間の世界のど真ん中で行われるかのような演出を入れるのには感心しない。舞台演出をそのまま映像にしてしまうとシネマティックにならないというフーパー監督の判断なのだろうが、それは間違っている。映像的に煌びやかであることと、それが素晴らしいものであるということは必ずしもイコールではない。キャッツのような物語は特にそうである。

 

色々と演出にも首尾一貫性がない。ジェニエニドッツが躾けるゴキブリやネズミの寸法がおかしかったかと思えば、バストファー・ジョーンズの言う高級クラブ通いは実際は高級残飯漁りという猫の生活のリアルさを描いている。一方で、舞台版ではスキンブルシャンクスが車掌を務める“魔法列車”はゴミとして捨てられた廃品の寄せ集めで作られたものという、これまた猫の生活のリアルさを表現していた一方で、こちらの映画では本物の線路に本物の鉄道を見せていた。なぜ人間の領域に出てくるのだ?ロンドンの片隅でこっそりやってくれ。シネマティックな演出をするなら、猫のリアルな生態とミステリアスな側面を絶対に外してはいけないのである。

 

マキャビティとグロールタイガーが手を組むというのも妙に感じた。犯罪世界のナポレオンが海賊と組むか?フーパー流の新規の味付けなのだろうが、これは個人的には受け入れられなかった。またイドリス・エルバ演じるマキャビティがどこかユーモラスになってしまっていたのも減点対象である。神出鬼没で猫世界のルールもお構いなしというのが、マキャビティの魅力であり、怖さでもあった。それが生まれ変わりを切望して、オールド。デュトロノミーを脅迫するチンピラに成り下がるとは・・・ 舞台版ではジェリクル・キャッツ候補たちが総力を結集して追い払う悪の権化が、なんともみみっちく矮小化されてしまったという印象である。

 

ハイライトであるはずのグリザベラが歌う“Memory”のシークエンスにも不満である。心の底からの“TOUCH ME!”という悲痛ともいえる叫び、そして歌い終わって、猫たちに背を向けながらも、後ろに手をそっと差し出し、誰かがその手に触れてくれるのを恐る恐る待つグリザベラ、そこにデュエットを歌ってくれたシラバブがグリザベラの手をそっと撫でる。そして猫たちが次々にグリザベラに触れていくという、あの流れが感動を呼ぶのではないか。天に昇る猫を選ぶのはオールド・デュトロノミーだと言いながらも、その場の猫たち全員がデュトロノミーの宣告を待たずにグリザベラを認めるという、あのシークエンスが胸を打つのではないか。それを序盤からヴィクトリアがべたべたとグリザベラに触り、あまつさえジェリクル・ボールに招き入れる。違う。ボロボロに打ちひしがれていながらも、それでも誰かに触れてほしい、抱いてほしいというグリザベラの勇気と圧巻のパフォーマンスが我々の心を震わせるのである。無理やり連れてきてはいけないのだ。なぜトム・フーパーとリー・ホールはこのような脚本を書いてしまったのか。理解に苦しむ。最も感動的であるはずのシーンで萎えてしまうった。おそらく舞台『 キャッツ 』を愛する人の多くが、このように感じたのではないだろうか。

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総評

舞台版をこよなく愛する人と、本作を映画で初めて観る人によって、評価はガラリと変わるのだろう。実際にJovianの嫁さんはミュージカルを未見の状態で本作を鑑賞し、高い評価を与えていた。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』の評価が割れているのも、従来通りの物語を期待するファンと、新世代の物語を期待するファンの間で評価が割れていて、それが予想以上の低評価につながっている。SWでは後者の勢力がマジョリティであるが、本作『 キャッツ 』では前者の勢力が優勢なようである。舞台版『 キャッツ 』を愛する人は、期待をせずに劇場へ向かわれたし。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ghost

幽霊、の意ではない。テイラー・スウィフトが歌う“Beautiful Ghosts”というのは、おそらく Beautiful Ghosts(from the past)のことかと思われる。a ghost from the past は「過去の亡霊」という意味ではなく、「長らく出会っていなかった過去の知り合い」ぐらいの意味である。生まれ変わるグリザベラに「あなたはこれだけ多くの素晴らしい猫たちに祝福された」というメッセージを送っている・・・のだと思う。猫とポエムを真面目に解釈しようとしてはいけない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, テイラー・スウィフト, フランチェスカ・ヘイワード, ミュージカル, 監督:トム・フーパー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

『 ハルカの陶 』 -元・備前市民によるやや甘口かつ辛口レビュー-

Posted on 2020年1月27日2020年10月18日 by cool-jupiter
『 ハルカの陶 』 -元・備前市民によるやや甘口かつ辛口レビュー-

ハルカの陶 70点
2020年1月25日 プラット赤穂シネマにて鑑賞
出演:奈緒 平山浩行 笹野高史
監督:末次成人

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Jovianは岡山県備前市伊部に8年住んでいたことがある。まさに伊部駅から高校へ通学していたし、映画にはJovianの実家があった場所も一瞬だけ映ったし、実家そのものも映った(というか身バレ上等で書くが、スナックがずばりそれである。あそこは昔、焼き肉ハウス「ジャン」という店でJovianの両親が経営していた)。またほんの数年前までは毎年1~2回は帰省していた土地である。それなりに最新の状況も見聞している。なので、好意的にレビューしているところもあるし、かなり厳しめにレビューしているところもある。

 

あらすじ

東京でOLをしていたハルカ(奈緒)は偶然に目にした備前焼の大皿に心を奪われてしまった。そして、その作者である若竹修(平山浩行)に弟子入りするために、岡山家備前市伊部を訪れたのだが・・・

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ポジティブ・サイド

劇中登場人物たちの岡山弁はまあまあ上手い。程度の低い邦画では、むちゃくちゃな関西弁が幅を利かせていたりするが、『 ちはやふる 』における福井弁のように、地方の方言に対するリスペクトを欠かさない映画監督はまだまだいる。こうした作り手は大切にしたいし、こちらもリスペクトしたい。

 

ハルカが備前焼に惹かれるようになるまでを一瞬で描き切るのも潔い。生まれ育ちがどうで、交友関係がどうで、こんな仕事をしていて、今はこんな日常を送っています、というような描写をほとんど全部省いてしまうことで、我々観る側もハルカと共にまっさらな状態で備前焼の世界に入っていくことができる。備前焼というのはメジャーな世界ではメジャーだが、全国規模で考えれば全くもってマイナーな陶器であり、芸術であろう。だからこそ、描くべきは備前焼の世界であって、ハルカというキャラクターの背景はノイズになる。だからそぎ落とした。末次監督のこの判断は正解である。

 

ハルカの師匠となる若竹修の造形も良い。真に迫っている。職人というのは往々にして、気が乗らないと仕事をしないし、逆に興が乗ってくるといつまでも仕事をしている。その姿は時に神々しくもあるだろう。ハルカのスイッチが本格的に入ってしまったのにも納得ができる。少し例は違うが、Jovianは実際に窯出しされてすぐの作品を作家(同級生の父)がポイっとその場で投げ捨てるのを見たことがある。芸術家の美意識というのは、普通の人間とは異なるのである。その点でハルカが若竹修(の作品)と波長が合ったという事実が、ハルカは東京で没個性的に生きていたのだという背景情報を補足してくれている。Aを描くことでBを明らかにするという、大人の手法である。それにしても、この若竹修を演じた平山浩行には感じ入った。おそらく彼のキャリアの中でベストのパフォーマンスではないか。心の鎧を脱いだ瞬間に流す滂沱の涙は改悛の涙であり、子ども返りの涙であり、恐怖や不安から解放された安堵の涙でもあった。近年の邦画の男泣きの演技の中では白眉であろう。

 

そのハルカを陰に日向に支える人間国宝の榊陶人(笹山高史)も良い味を出している。イメージ的には金重陶陽か藤原啓だろうか。岡山弁もかなり練習しており、また作務衣が異常によく似合っている。ハルカにとっても修にとってもpositive male figureを体現しており、彼の存在が物語のリアリティを一段高めている。

 

ハルカが菊練りやろくろの実演に悪戦苦闘するところも好感が持てる。やってみれば分かるが、ろくろを回して形を作る時には、指の腹を使わないとあっという間に粘土がペラペラになってしまう。そのことを師匠の修や同世代の弟子練習から教わるのではなく、野良仕事に精を出す「宮本のおばあちゃん」なるキャラから間接的に教わる描写が秀逸である。一か所に集中するためには全体像を見なければならない。そうした気づきを直感ではなく、人との関わりから学ぶ様が心地よい。ハルカが妙な土ひねりの才能を発揮したりしないところが良いのである。そんなハルカだからこそ修や陶人、その他の備前焼作家の卵たちとの交流や衝突がリアルであり説得力を生んでいる。

 

小ネタだが、伊部小学校の校長室に過去の小学生の優秀作品が飾られているというのは確かにJovianも聞いたことがある。細かいところをしっかり取材しているのは素晴らしい。これは原作者のディスク・ふらい氏の取材力を褒めるべきか。また修が「備前焼は用の器」と言い切る言や良し。実際は茶器やマグには使えるし、一部の和食を盛り付ける平皿や大皿にも使えるが、直火や高熱に弱い、表面がざらついているのでパクついて食べるような料理には使いづらい。だが、直火に弱いところや釉薬を使うことなく表面が滑らかな備前を作ろうと奮闘する若い世代がいるのも事実。Jovianの同級生も若干名が新生面を切り拓こうと奮励している。若竹修というキャラクターに、そうした気概を見出すことができたし、小山ハルカというキャラクターにそうした未来を託せるような気がした。備前のことを肌で知っているJovianにこのように言わしめるのだから、本作品のクオリティは高いと判断してもらってよい。

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ネガティブ・サイド

残念ながら大きな粗もいくつかある。最大のものは時計の示す時刻。午前8:00前に車で飛び出した修が、駅についてみると11:15とはこれいかに。修の窯から伊部の駅は、車なら5分ほどのはずだが。撮影や編集の時点で誰も気づかなかったのか。ありえない。こういう時はCGで時計盤を修正してもよいのだ。

 

また伊部周辺の地理の描写がめちゃくちゃである。一部のブログ記事やレビューに、「伊部でロケをしていて、町並みの描写は実際のものに忠実」というような解説が見られるが、残念ながらかなりテキトーな記述であると言わざるを得ない。関西人に分かりやすく説明するとしたら、「ハルカは大阪から京都に行こうとした。大阪を出発したハルカはまずは新大阪に着き、そこから尼崎、伊丹を経て、高槻へ。高槻から交野を経て、京都に着いた」というような移動をしていたりする場面がある。ただ、これは地元民や地元をよく知る人間以外にはネガティブとはならないだろうが。

 

備前焼は「土と火と人が作る」というセリフが語られるが、土と火へのフォーカスが不足していると感じた。備前焼の材料となる土は粘土とも呼ばれ、伊部の田んぼだった土地の地下深くから掘り出されることが多い。小ネタになるが、山陽新幹線を新大阪―岡山間に通すとき、基礎工事で伊部の土を掘り返したとき、地元の住民はこれ幸いとばかりにその土を回収したと言われている。単なる土が黄金のような価値を持っているのである。そうした良質な粘土を生む土地、その元となる田んぼの描写が欲しかった。火も同様である。プロの作家はその目で炎の様子を見て、顔に水膨れを作りながら、窯の番をする人もいるのだ。炎の大きさや色合い、それによって生まれる熱風の流れ、だからこそ登り窯という独特の窯が生まれたのだという説明的な映像演出も欲しかった。

 

全体的にハルカ/奈緒にカメラが寄り過ぎであると感じた。奈緒というキャラクターも大切であるが、漫画という媒体では困難で、映画という媒体で可能なこと、色鮮やかに、さまざまな角度から、事物の変化を見せることである。土の粘り気や炎を揺らめき、小川の流れや田んぼ、畑、山などの土地や、備前焼の作品そのものを、もっと画面に映し出してほしかったと思う。

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Jovian所有の備前焼の一部

 

豆知識

店頭販売もしている窯元の人間は、若竹修とまではいかないが、不愛想な人間が多い。これは彼らは商売の売り上げの3割~5割を年に二日開催される備前焼祭りで稼ぐ、そしてもう3割~5割をお得意様相手の通販で稼ぐからである。畢竟、一見さんや旅行客にはぶっきらぼうになる。残念ながらこうした傾向は事実である。もしも備前を尋ねて「愛想がない人が多いな」と感じたら、「偏屈な職人だからしょうがない」と気持ちを切り替えて頂ければ幸いである。

 

本物の備前焼のとっくりは、あの程度では割れないし、折れない。

 

陶人の娘が苦悩しているのは非常にリアルである。Jovianの小学校の一つ上の学年には金重陶陽の親戚の孫にあたる生徒がいたようだが、彼は頑なに土ひねりはしなかったそうである。プレッシャーのためだろう。

 

『 哲人王 李登輝対話篇 』で少しだけ紹介した閑谷学校も本作では一瞬だけ映っている。瓦が全部備前焼で出来ているというユニークな特徴があるので、備前焼に興味のある向きは備前観光のついでに寄ってみても良いだろう。

 

備前焼は武骨な感じがしてちょっと・・・と敬遠する向きには播州赤穂の雲火焼きを紹介したい。備前焼が1000年の歴史を伝えるものなら、雲火焼きはここ数十年の間に“復活”した、現在進行形で進化中の陶器である。播州赤穂は塩と忠臣蔵だけの土地ではないのである(と、こっそり兵庫県もアピール)。

 

総評

備前焼をフィーチャーした作品というのは、この原作漫画以外にほとんど無いのではないか。せいぜい漫画『 美味しんぼ 』で2、3度取り上げられたぐらいだろう。そんなマイナーな文物を題材にした作品が映画化されるのだから、邦画の世界もまだまだ捨てたものではない。役者陣もなかなかに頑張ってくれている。土地や備前焼の周辺へのフォーカスが甘いと感じられるが、これはかなり厳しめの評価だと思っていただきたい。是非とも多くの人々に観て頂きたい作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

apprentice

「弟子」の意である。『 スター・ウォーズ 』世界におけるジェダイやシスは師=masterと弟子=apprenticeの関係が基本となっている。とにかく、弟子とくれば英語ではapprenticeが第一変換候補である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 奈緒, 平山浩行, 日本, 監督:末次成人, 笹野高史, 配給会社:ブロードメディア・スタジオLeave a Comment on 『 ハルカの陶 』 -元・備前市民によるやや甘口かつ辛口レビュー-

『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ 』 -Let’s go crazy!-

Posted on 2020年1月27日 by cool-jupiter

テリー・ギリアムのドン・キホーテ 70点
2020年1月24日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アダム・ドライバー ジョナサン・プライス ステラン・スカルスガルド オルガ・キュリレンコ
監督:テリー・ギリアム

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アダム・ドライバーと『 2人のローマ教皇 』のジョナサン・プライスの競演を、テリー・ギリアムが監督する。見逃す理由はない。

 

あらすじ

若手CM映画監督のトビー(アダム・ドライバー)はスペインでドン・キホーテの映画を撮影していた。ある時、トビーはDVDを渡される。収録されていたのは10年前にトビーが作った『 ドン・キホーテを殺した男 』だった。ドン・キホーテを演じた老人ハビエル(ジョナサン・プライス)とトビーは再会するが、ハビエルは自分が本当にドン・キホーテだと思い込んでいた。かくしてハビエルはトビーを従者サンチョだと勘違いし、二人は何故か冒険の旅に出ることになってしまった・・・

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ポジティブ・サイド

『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』などのインド映画の持つ色彩感覚と、『 荒野の用心棒 』や『 続・夕陽のガンマン 』といったウェスタンの乾いた世界観が、ほどよくブレンドされている。目に優しいというわけではないが、entertainingでinspiringな世界を切り取ることは、映画作りにおいて重要なパートである。

 

アダム・ドライバーも新境地を切り拓いたかもしれない。『 パターソン 』での妻を愛する平々凡々な男から『 マリッジ・ストーリー 』での泥沼離婚調停中の舞台演出家まで、基本的に何でもこなせる男だが、今作では現実と妄想の間を揺れ動く役を見事に演じきった。自分が狂っているのであれば自分で自分を狂っているとは認識できない。眼前で起こる不可思議な事態の数々が事実であるのか虚構であるのか、その虚実皮膜の間に囚われた男の混乱を、非常にシリアスに、また非常にコメディックに表現した。特に、アンジェリカが炎にその身を今まさに焦がされようとしているシーンは、とてつもないサスペンスを感じつつも、不謹慎にも笑ってしまった。悔しい!舞台演劇などで、ちらほら目にする演出なのに!それでも、トビーのリアクションのクソ真面目さによって逆にコメディの色合いがより濃くなっている。真面目にやればやるほど馬鹿馬鹿しくなるのである。その塩梅が素晴らしいと感じた。

 

だが、それでも本作はジョナサン・プライスの独擅場であると言わねばならない。「我こそは崇高なる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ!」と高らかに宣言し、愛馬と共に時に荒野を、時に宮廷(に見せかけた修道院)を堂々と闊歩する姿はいっそ神々しい。自身とサンチョの旅をアドベンチャーともクエストとも表現するが、それは実に正しい。冒険の旅は、しばしば冒険そのものが目的になる。『 アクアマン 』や『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でも、Aという目的のためにはBというアイテムが必要、しかしそのアイテムはCという人物にしか在処が分からず、そのCはDという街に住んでいて・・・ という構造になっていたが、これは我々が慣れ親しんできたゲーム『 ドラゴンクエスト 』の典型的なパターンである。魔王を倒すでも巨人を倒すでもいい。しかし、冒険の旅というものは旅立ち、放浪し、各地を巡り、未知なる人と邂逅するだけで目的のほとんどを遂げていると言っていい。まるで人生のようだ。盲目的に自分の使命を信じるハビエルは滑稽ではあるが、リスペクトに値する。その思いにおいて、いつしか我々観る側はトビーの思いとシンクロしてしまう。ドン・キホーテという世界で最も有名な狂人を、これほどまでに血肉化させてくれたジョナサン・プライスの姿に、ますますアカデミー賞助演男優賞獲得の予感が強まった。

 

ネガティブ・サイド

ロシアのウォッカ王の迫力と言うか、貫禄と言うか、存在感がもう一つだった。財力にモノを言わせて、ある意味でとても無垢な老人を引っかけて笑い者にしてやろうという企みは、映画の作り手としても人生においても老境に入った自分を笑う人間を、さらに笑ってやろうというメタメタな構造のユーモアなのかもしれない。だが構想30年、企画と頓挫が9回にしてやっと作品が完成し日の目を見たのだから、出資者をパロディにするにしても、もう少し敬意を持ったやり方はなかったのだろうか。まあ、テリー・ギリアム御大には何を言っても無駄かもしれないが。

 

ペーシングにやや難がある。序盤のトビーの監督シーンなどはもう少し圧縮できると思われる。また、荒野を放浪するシーンや行き倒れそうになるシークエンスも、もう少し圧縮できたと思う。全体的にテンポが一定しておらず、一部のシーンでは眠気を誘われてしまった。

 

総評

ドゥルシネア姫への忠節、愛、敬慕の念で動くドン・キホーテが恐ろしくカッコ悪く、逆にそれがカッコ良く見えてくるのだから不思議なものである。そのキホーテが狂乱の喧騒から目覚める時に、確かにバトンは受け渡された。周囲の声に惑わされることなく、自らの信じる道を突き進めという、ギリアム御大の、ある意味での遺言なのかもしれない。ドン・キホーテに関する基礎的な知識が必要とされるが、冒険譚であると思えば、多少の意味不明な旅路のイベントも消化できるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I feel it in my bones.

劇中で三回ぐらい使われるセンテンスである。「直感的にそれが分かる」の意で、それはしばしば直前に言及された事柄を指す。I know it in my bones. またはI knew it in my bones.とも言う。it以外を目的語に取ることも可能である。映画で用例を確認している暇はないという大多数の向きは、One Directionの“Story of My Life ”か作詞作曲エルトン・ジョン、歌唱ロッド・スチュワートの“Country Comfort ”を視聴してみてはどうだろうか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アダム・ドライバー, アドベンチャー, イギリス, コメディ, ジョナサン・プライス, スペイン, フランス, ベルギー, ポルトガル, 監督:テリー・ギリアム, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ 』 -Let’s go crazy!-

『 シグナル100 』 -2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補-

Posted on 2020年1月25日 by cool-jupiter

シグナル100 15点
2020年1月24日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:橋本環奈 小関裕太
監督:竹葉リサ

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土橋真二郎の小説『 扉の外 』のような設定か?とトレイラーで感じた。地雷臭がプンプン漂ってきていたが、そこに突っ込むのも時には乙なものである。There are times when you dare to go into a mine field.

 

あらすじ

文化の日の特別授業で、樫村怜奈(橋本環奈)、榊蒼汰(小関裕太)ら同じクラスの36名は催眠によって、特定のシグナルにより自殺をしてしまうという強力な暗示を受けてしまう。半信半疑の生徒たちだが、一部の生徒が携帯を使うと、彼ら彼女らは自殺をしてしまった・・・

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以下、ネタバレに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

教師が生徒に暗示をかけるという視点は面白い。大人と子どもという関係以上に、教師と生徒というのは支配-被支配の関係にあり、前者は後者に暗示をかけやすいからである。

 

導入部は非常にスピーディーである。早く催眠にかかる部分を観たいという観客の欲求と、早く生徒たちがバタバタと死んでいく場面を見せたい監督の思惑が、ぴったりとシンクロする。変にキャピキャピした序盤を長引かせなかった竹葉監督の、その部分は評価したい。

 

あとは白熱電球で死ぬ男子生徒が個人的にはツボだった。彼には大いに笑わせてもらった。

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ネガティブ・サイド

まずシグナル100の基準があまりにも曖昧過ぎる。他者への暴力を禁じるといっても、どの程度の行為が暴力なのか判然としない。序盤の金髪ヤンキー風の生徒は教師の胸倉を掴んで自殺に追い込まれたが、その後も生徒同士で胸倉を掴むぐらいの行為は頻繁に行われる。が、それが引き金で死んだ生徒はいない。

 

他にも不可解なシグナルはいくらでもある。自分だけは生き延びようと他人を次々に自殺に追い込もうとする奴が当然のように出てくるわけだが、あまりにも不用心だ。たとえば、「他人の血液を飲む」というシグナルがあるにもかかわらず、女子と濃厚なディープキスを交わすのは何故だ?相手がたまたま歯槽膿漏か何かで口内で微量でも出血していたらどうするのだ?

 

酒を飲む、あるいは酒を浴びるというシグナルも意味不明だ。もちろん酒が何かを知らない高校生など存在しないだろうが、このような類の暗示は未就学児童には効くのだろうか。もしくは、認知症の持ち主には?日本語を解さない相手には?そもそも、なぜ学校に缶ビールがあるのだ?

 

10秒以上見つめ合うというシグナルも頻発しているように見えるが、なぜ自殺が励起されない?7人以上に指差されるというシグナルも、ディスカリキュア(算数障害)の持ち主には通じるのか?そもそも、7人以上に指差されたとしても目をつぶればどうなるのだ?朝の定義も何なのだ?空が白むことか?朝日が地平線や水平線から昇ることか?朝日を直接見ることなのか?それとも時刻を認識することなのか?

 

だいたい高校生にしては頭が悪すぎる奴らが多すぎる。図書館に行くのはグッジョブと言えるが、事の発端である教師の死体を調べようとしないのは何故だ?職員室のデスクなどを調べるのも重要だが、なぜ遺体のところに行かない?衣服のポケットを漁ろうとは思わいのか?教師がまだ生きていて、何かを聞き出せるかもしれないとは誰一人として思わなかったのか?サバイバルに必要なのは、食料ではなく情報だという大原則を誰も知らないのか・・・

 

また催眠の小道具であるDVDそのものを調べることに、誰も思い至らないのは何故だ?あの世界では誰も小説『 リング 』を読んで、あるいは映画『 リング 』を観ていないのか?催眠を解く方法が実質的に無いというのなら、その催眠をさらに別の催眠で上書きしてみようということは誰も思いつかないのか?ひょっとしたら、高校生というのはそんなものなのかもしれない。しかし、「今あいつに一人で出会うのは危険だ。みんなで手分けして探そう!」というシーンは、さすがに脚本や監督の罪だろう。一人で出くわしたら危険な相手を、なぜ個別に散らばって探そうというのか。冷静な判断力を欠いていたという言い訳では済まない。とにかく登場人物がどいつもこいつもアホすぎる。観ていてイライラしてくるため、みんなに生き残ってほしいと思えないのである。

 

総評

はっきり言ってクソつまらない。これを観るぐらいなら、『 催眠 』や『 神様の言うとおり 』、『 不能犯 』をレンタルや配信で観た方がはるかに有意義である。または野崎まどの小説『 [映]アムリタ 』を読むべきだ。原作の漫画を読んでいないので何とも言えないが、かなり大部の物語を無理やり1時間30分に詰め込んだのだろうか。だとしたら完全な脚本レベルでの失敗である。こうしたシチュエーション・スリラー、デス・ゲームは不可解な死と、それを裏付ける/説明する合理的な仕組みの解明の両輪でストーリーを前進させなければならない。本作には後者が欠けている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I can’t seem to remember anything that’s worth a lesson.

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, F Rank, シチュエーション・スリラー, 小関裕太, 日本, 橋本環奈, 監督:竹葉リサ, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 シグナル100 』 -2020年の国内クソ映画オブ・ザ・イヤー候補-

『 ラストレター 』 / Last Letter

Posted on 2020年1月24日 by cool-jupiter

Last Letter  70 / 100
At MOVIX Amagasaki, on January 24th, 2020
Main Cast: Masaharu Fukuyama, Ryūnosuke Kamiki, Nana Mori, Suzu Hirose, Takako Matsu,
Director: Shunji Iwai

 

ラストレター 70点
2020年1月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:福山雅治 神木隆之介 森七菜 広瀬すず 松たか子
監督:岩井俊二

 

Before going in, I was a bit apprehensive because the trailers seemed to give away a bit too much. However, this film proved to be a lot better than I assumed it would be.

 

鑑賞前は、トレイラーがややネタバレ過ぎではないかと心配していた。しかし、実際の映画は思っていたよりも遥かに良い出来だった。

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Plot Summaries

Yuri – played by Takako Matsu – was attending a class reunion on behalf of her deceased elder sister Misaki – played by Suzu Hirose. Mistaken for her sister, Yuri had to start corresponding with Kyoshiro Otosaka – played by Masaharu Fukuyama –, her own first love and her sister’s ex boyfriend. And so, their bizarre correspondence began …

 

あらすじ

裕里(松たか子)は死去した姉・未咲(広瀬すず)の同窓会に出席して、姉の死を知らせようとした。だが、姉と間違われてしまった裕里は、自身の初恋の人であり、姉の大学時代の交際相手だった乙坂鏡史郎(福山雅治)と文通を始めることになってしまった。それは自分の娘と姉の娘が、未咲の人生を追体験することにも重なっていき・・・

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Positives

Great camerawork. The director of photography really did an awesome job framing nearly every shot so beautifully and quietly. Most of the shots in Acts 1 & 2 were dimly lit as hardly any lighting was provided, or so it seemed. However, that’s what made the picture of two girls walking together amazingly impressive as they shone in broad daylight in their full glory. It just made me feel as if the two girls, Ayumi and Soyoka, were reincarnations of their mothers. This is the kind of scene you have to see in a darkened theater.

 

I also liked the background music. The piano sounds make you feel serene and calm. Lately, there are many Japanese films that use orchestra as if to say “This is where you shed tears, Go ahead!” and those films just get on my nerves. I think director Shunji Iwai, along with Takeshi Kitano, is the best filmmaker in Japan who knows how to use discreet, transparent music. The tick tuck sound of a clock in Ayumi’s home was memorable as it made it much clearer that there was no one around. A beautiful entanglement of light and shade and sound and silence was simply breathtaking. While there are many creators who try to be artistic but end up being artsy, Shunji Iwai is definitely the one who is artistic not because he tries to be but because HE IS. You have got to love his works.

 

The scene where Kyoshiro visited his deceased first love was purely heart-wrenching. He hadn’t been able to move on for 25 years, and now he has to. The fact that the girl you were once in a relationship with is gone forever without you knowing that life was such a bi*ch to her is crushing. Whatever happened, Kyoshiro left Misaki, and that’s where her life began to get darkened. Being about as old as Kyoshiro, I was able to what was going on in his head. If I was a teenager or in my twentieth, it would be virtually impossible for me to sympathize with him in this moment. Tears welled up in my eyes as his lonely soul finally had the moment of redemption.

 

To think, when writing a letter, you are conversing with yourself. You write as you read and you read as you write. In your head is the person who will receive the letter. This is how Kyoshiro, an unpopular novelist, created his first and only book whose title was Misaki. That was his way of keeping Misaki alive. Now, the bizarre correspondence has brought Misaki back to life one more time, and that is the beauty of this story. All the characters relived the life of Misaki, and so, they start to live their lives. The Last Letter from Misaki, the mother, to Ayumi, her daughter, was meant to pass the torch of life. Great stuff.

 

ポジティブ・サイド

何とも美しい、そして計算されたカメラワークである。基本的には序盤から中盤にかけてのほとんどのショットは暗く、極力照明を使わず自然光のみを頼りに撮影されているが、だからこそ終盤の陽光をいっぱいに浴びる鮎美と颯香の姿が際立って美しい。暗転した劇場の大画面で観るとなおさらにそう感じる。

 

ピアノをメインにした控えめで淡い旋律も心地よい。壮大なオーケストラで「はい、ここが涙を流す場面ですよ」と出しゃばる邦画は結構多い。削ぎ落された、透明感あるBGMの使い手となると日本では北野武と岩井俊二が双璧だろうか。鮎美の家の時計のチクタク音も、周囲の静寂を引き立てている。光と影と音と静寂のコラボレーションが素晴らしい。芸術的であろうとして失敗する作家は多いが、岩井俊二は芸術的であろうとして芸術的な作品を送り出せる稀有な監督である。

 

未咲の思い出に囚われて前に進むことができなかった鏡史郎が、美咲の仏壇を訪れ、沈黙のうちに語らうシーンは胸が締め付けられるようだ。未咲の暗く、辛い人生の責任の一端が自分にもあるのだと自分を責める鏡史郎の気持ちが手に取るように分かる。これはおっさんにしかできないだろう。10代では到底不可能。20代後半でも無理だろう。そんな不甲斐ない男の魂も最後には救済されることに、落涙した。

 

思うに手紙というのは、自己内対話なのだ。書きながら読む、読みながら書く。その自己内対話の繰り返しが未咲という小説として結実した。そして今また文通という形で未咲が語られることで、それぞれの人生が動き出す。未咲は生きていたし、今後も未咲は語りかけてくる。なぜなら未咲の思い出は鮎美に受け継がれたから。

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Negatives

The biggest gripe I have with this film is that there are a couple of characters whose story arcs were left half-explored, one being that of Yuri’s husband and the other being that of Yuri’s mother in law.

 

Also, I just didn’t understand why Kyhoshiro never picked up on the difference between the handwriting of the letters. His knowing that Yuri was pretending to be Misaki wasn’t a good explanation, for there were two kinds of letters, those sent by Yuri and those sent by Ayumi. It’s unthinkable that Kyoshiro, a novelist who is into writing stuff with pencils, never noticed the handwriting differences

 

I wish that the makeup artists could have done a better job. Misaki and Ayumi, both played by Suzu Hirose, and the high school girl Yuri and Soyoka, both played by Nana Mori, matched the description right down to a tee and that caused me some confusion. If they resembled just a little less, the drama revolving around them would have been much more compelling.

 

ネガティブ・サイド

裕里の義母と夫をめぐる物語にしっかりとして決着(という表現は大げさかもしれないが)をつけてほしかったと思う。裕里はある意味で過去に一区切りをつけて現実に帰っていくわけで、その現実の先にある少々やっかいな夫と義母の姿を見たかったと思うのである。

 

また鏡史郎が手紙の筆跡の違いに気が付かないことにも納得がいかない。裕里が未咲のふりをしていたと知っていたということは答えにならない。いずれにしても裕里の筆跡と鮎美の筆跡は異なっているはずで、文筆を生業にする者の端くれの鏡史郎がそのことを一顧だにしないのは不自然である。塾かどこかで手書きの作文か小論文を教えているのだから猶更にそう感じる。

 

メイクアップアーティストの方々がもうひと頑張りして、未咲と鮎美、裕里と颯香をもう少しだけ「似ていない」ように見せてくれたらと思った。そっくりな親子というのは存在するが、これではまるで一卵性双生児である。髪型だけではなく、肌の色や肌質、鼻の形、目尻などはもう少し細工をできたのにと思う。似ていないところを出すことで、似ているところを強調する技法を追求してほしかった。

 

Recap

This is a well-shot, well-acted and well-directed film. Going back and forth between the past and the present and Miyagi and Tokyo felt like a smooth ride. Retelling the story of a deceased person is kind of a cliché, but the letter correspondence is such an old communication that it’s new today. And when a new story is penned by a director as good as Shunji Iwai in a well thought-out and well-executed manner, you get a masterpiece.

 

総評

カメラワークが素晴らしく、演技も良い。そしてディレクションにも文句なし。過去と現在、宮城と東京とを行き来する構成にも混乱はなく、スムーズに進行する。亡くなった人物の物語を語ることはクリシェであるが、文通という形を現在に蘇らせたのはユニークである。そして岩井俊二に物語を紡がせれば、傑作が生まれるのである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 広瀬すず, 日本, 松たか子, 森七菜, 監督:岩井俊二, 神木隆之介, 福山雅治, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ラストレター 』 / Last Letter

『 ブラックホール 』 -隠れた古典的SFの佳作-

Posted on 2020年1月24日 by cool-jupiter

ブラックホール 65点
2020年1月23日 INTERNET ARCHIVEにて鑑賞
出演:マクシミリアン・シェル ロバート・フォスター
監督:ゲイリー・ネルソン

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小学校5年生ぐらいの頃、実家にあったVHSで観た。テレビでも何度か放映されたように記憶している。ずんぐりむっくりのV.I.N.CENT.がR2-D2的でとても可愛らしかった一方で、初めてマッド・サイエンティストという存在に触れたのも今作だったように思う。こちらの方が後発作品だが、『 ソイレント・グリーン 』の真相に驚かなかったのは、本作を先に観たからだと自己分析している。

 

あらすじ

地球外に新天地を求める航行に出たホランド船長(ロバート・フォスター)らクルーは、超巨大ブラックホール近傍にシグナス号を発見する。ラインハート博士(マクシミリアン・シェル)は、シグナス号で孤独にブラックホールの謎を解き明かすために研究開発をしていたというのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

謎の天体ブラックホールの姿がはじめて観測されたとのニュースが近年あったが、今作で示されるブラックホールの姿は、我々の感覚的なものに近い。科学的に正しい姿ではないかもしれないが、我々がイメージするブラックホールは、『 インターステラー 』の黒い球体ではなく、こちらの渦巻く降着円盤を備えた“穴”である。

 

またテレパシーが存在する世界観も悪くない。宇宙に飛び出すことで人類の一部が新たな環境に適応し、進化するということはありうる。『 機動戦士ガンダム 』におけるニュータイプは、本作のケイトから着想を得たものだったとしても不思議はない。

 

世捨て人かつマッド・サイエンティストのラインハート博士は『 アド・アストラ 』のトミー・リー・ジョーンズを思い起こさせる。というよりも、乗員を犠牲にし、無限の虚空で独り内的な世界に閉じこもる老科学者像という点で、彼ら二人は全く同じである。ラインハート博士は、現代においてもインスピレーションの源になっているのかもしれない。

 

本作は一部ホラー映画である。特にヒューマノイドの頭部・顔面が鏡面になっていて、「話せるのか?」と尋ねるハリーの顔が映り込む姿は、否が応にも観る側の不安と恐怖を駆り立てる。これはなかなか上手い演出である。

 

終盤のV.I.N.CENT.とマクシミリアンの一騎打ちは手に汗握る対決である。ロボットとロボットの対決としては、SF映画史においてもかなりユニークなものだろう。その後の脱出のシークエンスは山本弘に影響を与え、小説『 アイの物語 』の「ブラックホール・ダイバー」のヒントになった・・・かもしれない。

 

エンドクレジットに映るダイヤモンド・リングは、間違いなく偶然の一致だろうが、実際に撮影されたブラックホールの画像と不思議によく似ている。オープニングと同じくジョン・バリー作曲の不気味なシンフォニーが、ブラックホールという謎の天体の不可解さを最後まで際立たせている。

 

ネガティブ・サイド

子どもの頃に何度か観た時は、「スケール大きいなあ」と素直に感心できていたが、おっさんになって再鑑賞してみると「先行作品のパクリが目立つなあ」となる。パクリという表現はディズニーを刺激しかねないので、オマージュと言い換えるべきか。『 スタートレック 』『 スター・ウォーズ 』の宇宙船内の造形にそっくりだし、超弩級宇宙船シグナス号の船体をサーチライトで照らしながら、その巨大さを強調しつつ、光の当たらない闇の部分の多さを強調するのは、『 エイリアン 』の宇宙船ノストロモ号の見せ方と同じ。この船はやばいですよと視覚的に教えてくれているが、その方法は陳腐である。というか、これらもすべて『 2001年宇宙の旅 』をちょっと味付けしなおしたものだ。制作・公開当時でも、オリジナリティは感じられなかったことだろう。

 

また行進するヒューマノイドの部隊の目を避けて脱出しようとするシーンや、隊列を組んだヒューマノイドとの赤いレーザービームでの銃撃戦は『 スター・ウォーズ 』のパクリだろう。ここまでくるとオマージュではすまない。

 

またラインハート博士が生涯をかけて解き明かそうとしているブラックホールの謎のかなりの部分は、実はすでに解けているのではないか。V.I.N.CENT.もB.O.B.もマクシミリアンも半重力装置によって浮遊している。つまり、キグナス号でラインハートが開発したとされるブラックホールの重力を遮断する技術は、彼以前に発明され、実用化されている。しかも、ブラックホールの重力を遮断するどころか、それを無効化し、逆らってすらいる。クライマックスでV.I.N.CENT.がチャーリーを救い出しているのが、その証拠である。この設定、科学的な考証の破綻は当時の知識水準でも指摘できたはずだ。

 

総評

多くの優れた先行作品のおいしいところを大胆に取り入れ、その後に続く数々のSF作品に影響を及ぼしと思しき作品である。ディズニーは黒歴史にしているのかもしれないが、実験的な作品としては高いクオリティを持っていると感じる。現代のCGだらけの映像よりも、特撮は目に優しいし、実物感や実在感がある。英語リスニングに自信がある、またはストーリーをよく知っている、過去に何度も観たことがあるという人は、INTERNET ARCHIVE で鑑賞してみよう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I told you.

「言わんこっちゃない」、「だから言ったのに」の意味である。I told you so. とも言う。自分が注意、警告したにもかかわらず誰かがやらかしてしまった時に、心の中で唱えよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1970年代, C Rank, SF, アメリカ, マクシミリアン・シェル, ロバート・フォスター, 監督:ゲイリー・ネルソン, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 ブラックホール 』 -隠れた古典的SFの佳作-

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