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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 三大怪獣グルメ 』 -ミシュランの格付けでマイナス二つ星-

Posted on 2020年7月4日2021年1月21日 by cool-jupiter

三大怪獣グルメ 30点
2020年7月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:植田圭輔
監督:河崎実

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シネ・リーブル梅田でパンフレットを見た瞬間に「間違いなくクソ映画だ!」と直感した。『 哭声 コクソン 』でグチャグチャにかき回された脳みそを回復させるためには、脳みそを使わず、ただ1時間半暗転した劇場の椅子に座っている時間が有効だろうと素人の民間療法を実施。案の定のクソ映画だったが、別の意味で脳の活性化に役立ったと思う。

 

あらすじ

寿司屋の息子、田沼雄太(植田圭輔)は神社に奉納するイカ、タコ、カニの配達中にそれらを紛失してしまう。同時に東京にイカ、タコの巨大怪獣が出現してしまう。イカラ、タッコラと命名された怪獣を倒すべく、SMATが結成され、元・超理化学研究所員だった田沼も参加を要請されるのだが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200704114954j:plain
 

ポジティブ・サイド

『 シン・ゴジラ 』は紛れもない傑作だったが、着ぐるみ+スーツアクターという伝統的な怪獣映画の文法に則っていないところが寂しいところでもあった。こちらの怪獣は紛れもなく日本の怪獣映画・特撮映画の伝統を重んじたオーガニックな手法で作り出されている。チープと呼ばば呼べ。一定以上の年齢の者は、本作によって少年時代のウルトラマンや何やかんやの特撮ヒーローものの記憶が呼び起こされるだろう。それは郷愁である。在りし日の思い出である。思い出は美化されているのである。

 

怪獣に食べられるではなく、“怪獣を食べる”という本作のコンセプトもなかなかに新しい。東宝怪獣のマンダやエビラを「あいつら、ひょっとしたら食べられるかも?」と思った少年少女は一定数いたと思われる。けれども、そのアイデアを作品の肝にしてしまおうという試みはほとんどなかったのではないか。小ネタとして思いつくのは漫画『 ドラゴンボール 』でヤジロベーがピッコロ大魔王の手下を食べてしまうことぐらいか。

 

そうそう、政権与党の権力者を思いっきりパロってコケにするシーンがいくつかあるが、ここはちょっと笑ってしまった。新型コロナ対策を見て分かるように、我が国の政府は恐ろしいほど無能であるという事実が白日の下に晒されてしまった。そのことを下敷きに本作を観れば、『 シン・ゴジラ 』のキャッチコピーである 現実 対 虚構 の意味が鮮やかに反転する。怪獣というのは災害の謂いであり、それをどう乗り越えるか、どう災い転じて福となすのか。そうした視点で見るといっそう興味深くなる。

 

ネガティブ・サイド

脚本が悪い。ストーリーが悪いというのではなく、何もかもが第一稿という段階で撮影に入ってしまっているのではないか。言葉の誤用などの構成のミスも目立つし、プロットの一貫性にも欠けている。たとえばSMATが使用する主兵装に酢砲という馬鹿馬鹿しいにもほどがある武器がある。それは良い。怪獣と言う存在がそもそも馬鹿馬鹿しいのだ。問題は、一万キロリットルの酢をタンクローリーに積載して、怪獣めがけて撃つという設定だ。キロリットル=1,000リットル、1万キロリットル=10,000,000リットルである。水で考えれば、その重さは10,000,000キログラム、トンに換算すれば1万トンとなる。酢も同じに考えてよいだろう。1万トンをタンクローリーで運ぼうとすれば、それこそ『 シン・ゴジラ 』のヤシオリ作戦並みの物量と機動力が必要となる。だが、実際にはジープ2台が出動とはこれいかに。

 

また主人公のライバル敵キャラが酢法の知的所有権が自分に帰属することを高らかに主張するが、政府管轄のSMATに参加しながらそれを主張するのは無理がある。また兵器は特許として出願されうるとは思うが、酢という食品を使用している点が微妙である。というよりも、料理法に着想を得たと自信満々に語っているが、これでは偶然に着想を得たとは言えない。つまり特許庁は特許を認めない可能性が極めて高いだろう。

 

プロット上の矛盾としては、SMATに正式加入していない、というか高らかに不参加を宣言した田沼がイカラやタッコラを試食するところが、まずおかしい。料理人は退院だけに振る舞ったとテレビで断言していたではないか。またSMAT隊長のナレーションで、国立競技場に追い詰めたはずが「大自然が生み出した怪獣が、予想もしない行動に出た」と語るが、三大怪獣はそもそも大自然が生み出したものではなく人間の作ったゼタップZが生み出したもの。そのセタップZも「細胞の核融合を起こす」と説明しながら、実際は細胞分裂を促進するだけ。空想科学研究所の柳田理科雄に言わせれば、全身が癌化してすぐに死亡すると断言されそうだ。また、「予想もしない行動に出た」のは怪獣ではなく人間だった。

 

ことほど左様に本作の脚本は言葉とプロットの面で稚拙である。まさに初稿のまま一切の推敲や校正を経ず、そのまま採用されたかのようである。とてもここには書ききれないが、細かな言葉のミスやプロット上の矛盾は他にも数限りなくある。怪獣の寸法が場面ごとに全然違うなどというのはその最たるものである。怪獣という巨大な虚構を成立させるためには、細かな部分のリアリティこそが肝である。イカラの肝の塩辛はきっと絶品に違いない。

 

キャラクター同士のロマンス要素もノイズだ。そもそもヒロイン役のアイドルの演技力が絶望的に低い。学芸会レベルである。そして頭も悪い。「アワビ、フォアグラ、フカヒレを巨大化させて、世界の食糧事情を改善させる」というアイデアに目を輝かせるが、ちょっと待て。アワビはまだしもフォアグラやフカヒレは生物の体の一部であって生物そのものではない。こいつは水族館では魚の切り身が泳いでいると錯覚するタイプなのか。そして完璧なシチュエーションにもかかわらず告白できない幼馴染の田沼に、それでも愛想をつかさないというキープ癖。あそこで告れない男に冷めない女子というのは、脚本家や監督の願望の投影なのだろうか。キモチワルイ。

 

序盤の何気ない会話があまりにもあからさまな伏線であることに失笑を禁じ得ない。これではまるでクライマックスの展開を読んでくださいと言っているようなものではないか。いくらなんでも、もう少し工夫した見せ方をすべきである。

 

他にも撮影や大道具小道具美術衣装に言いたいことは山ほどあるが、割愛させてもらう。本当は20点だと思っているが、怪獣ジャンルということで10点オマケしておく。

 

総評

期間限定上映である。行くなら今である。さあ、本作を観て、一週間以内に海鮮丼を食べよう。そしてきれいさっぱり本作を記憶から消してしまおうではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

in a state of emergency

主人公・田沼の「今が緊急事態宣言中ってこと、忘れてるんじゃないの?」というセリフがある意味でとても生々しい。Japan is in a state of emergency. = 日本は緊急事態にある。今年になって最も使われるようになった言葉であり、残念ながら今後も使われるかもしれない言葉である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, 怪獣映画, 日本, 植田圭輔, 監督:河崎実, 配給会社:パル企画Leave a Comment on 『 三大怪獣グルメ 』 -ミシュランの格付けでマイナス二つ星-

『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

Posted on 2020年6月22日2021年1月21日 by cool-jupiter
『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

水曜日が消えた 30点
2020年6月20日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:中村倫也 石橋菜津美 深川麻衣
監督:吉野耕平

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多重人格ものと記憶喪失もの、そしてタイムトラベルあるいはタイムパラドックスものは、たいてい始まりは抜群に面白い。その面白さをいかに維持するか、それが共通のテーマとなるが、それに成功した作品はごく少数である。本作はどうか。Fizzle outした。

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あらすじ

幼い頃の交通事故の影響で“僕”(中村倫也)は曜日ごとに異なる人格に入れ替わるようになってしまった。成長し、各人各様に生きるようになった“僕”だが、その中でも火曜日は掃除やゴミ捨てなど損な役回りを押し付けられていた。だが、ある日、目覚めてみると、水曜日だった。“水曜日”が消えて、“火曜日”が火曜と水曜を生きるようになったのだ。火曜日はいなくなった“水曜日”を不審に思いながらも、水曜日の生活を堪能するのだが・・・ 

ポジティブ・サイド

“火曜日”と深川麻衣とのロマンティックな関係が、平凡ながらも幸せの意味を実感させる良いシークエンスだった。テレビドラマ『 まだ結婚できない男 』でなかなか売れない芸能人役がハマっていたように、元がアイドルとは思えない地味さが深川麻衣の魅力だ。褒めている。決してけなしてなどいない。実際に本人を目の前にしたとすれば、相当にキュートであろう。しかし、スクリーンで見ると地味なのだ。そのギャップが良いのである。

 

“僕”の友人を演じた石橋菜津美もなかなかに奥ゆかしい。ベリーショートで、体の曲線をまったく感じさせない服装で、言動もかなりの男前。その一方で、そうした態度はすべて“僕”への好意の裏返しであることがバレバレというとても分かりやすいキャラ。そんな人物が「じゃあ、深夜らしいことするか」というシーンは、「お?お色気シーンがあるのか?」と期待させてくれた。もちろん、そんなものはない。『 月極オトコトモダチ 』はやはりファンタジーだ。そういったサバサバ系女子の因果は、ちゃんと後半に明らかにされるし、そこにはそれなりの説得力がある。

 

“火曜日”が別の人格とコミュニケーションを取るシーンの演出はそれなりに斬新か。どこか初代『 グレムリン 』を思わせる深夜のルールも、序盤から中盤のサスペンスを効果的に盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド

なんというか、プロットだけ見れば『 セブン・シスターズ 』と『 ジョナサン -ふたつの顔の男-   』を足して2で割ったようなストーリーである。つまり、オリジナリティが無い。他に類似作品としては新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』の某キャラや漫画『 嘘喰い 』の某キャラなどが挙げられる。とにかくキャラクター設定が陳腐だ。

 

また多重人格ものの定石として、物語の割と早い段階でそれぞれの人格がいかに異なり、独立したものであるのかをオーディエンスに明確に示す必要がある。観客の一定数は役者の演技力を堪能したいがために鑑賞しているからだ。そうした意味でも、本作の構成には不満が残る。『 スプリット 』のジェームズ・マカヴォイのレベルは別に求めない(そんなことができる役者は世界的にも40~50人しかいないと思われる)。しかし中村倫也の一人七役というのは過剰広告であった。実質的には一人二役で、それも正反対のキャラクター。こういうのは非常に演じ分けやすく、はっきり言って役者のポテンシャルをとことんまで引き出す演出にはなりにくい。スマホの録画機能で対話するシーンは現代的だが、それも『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』が似たようなことを先に行っている。スマホと対話するのではなく、スマホで録画するシーンを交互に映し出せなかったか。あるいは、スマホを右手に構えながらシームレスに人格同士が語り合うシーンは撮れなかったか。そこまでやらないのなら多重人格ものを撮る意味は薄い。

 

映像演出の面でも不満が残る。割れたサイドミラーに映る鳥が分裂していくのは、どう考えても『 スプリット 』のジャケットやポスターの二番煎じだし、そもそもそのシーンを繰り返し再生しすぎである。またキーとなる図書館が『 図書館戦争 』 のそれ。もっと別の図書館を探せなかったのか。同じ図書館を使うにしても、上方からの俯瞰のショットや、円周部分の書棚など、『 図書館戦争 』で飽きるほど見た構図である。もっと別の角度からのショットを監督や撮影監督は模索すべきでなかったか。

 

腑に落ちないのは、“火曜日”の態度。普通は“水曜日”が消えたら、第一に「自分も消えてしまうのではないか」という恐怖、第二に「他にも消えている曜日がいるのではないか」という疑念を抱くはずである。そうはならずに、いきなり未知の水曜日を楽しんでしまうところに、とんでもないご都合主義およびDIDへの無知と無理解を感じた。『 スプリット 』のカウンセリングシーンや『 ISOLA 多重人格少女 』を観ろ、そして原作小説『 十三番目の人格 ISOLA 』を読めと吉野耕平監督に強く言いたい。『 セブン・シスターズ 』も“月曜日”が姿をくらませたことで残りの曜日たちは大混乱に陥ったではないか(あちらは七つ子だが)。普通に考えれば10年単位で付き合いのある人間がいなくなれば困惑するだろう。あるいは、“水曜日”が水曜日を拒否したくなるような出来事があったのかと、水曜日に警戒することはあっても、ウキウキはしないだろう。七重人格という設定だけを先走らせて、人間というものが描けていない。

 

“僕”の面倒を看るべき医療関係者たちの目も節穴なのだろうか。脳への器質的なダメージでDIDを発症した、あるいは器質的なダメージの回復過程でDIDを発症したということは、“各曜日”との面談(カウンセリング)とメディカル・チェックが人格の独立あるいは統合という、いわゆる治療への道筋を立てるための大きなカギとなる。それを火曜日に“火曜日”相手にしか行っていない。アホなのだろうか。脚本および監督を務めた吉野耕平は、どこまで取材し、どこまで考察し、どこまで七重人格へリアリティを付与しようと努力したのか。おそらく満足にしていない。様々な先行作品の色々な要素をつまみ食いしただけの企画に予算とゴーサインを出した配給会社と制作委員会の罪である。ということは邦画という産業構造の罪でもある。勘弁してくれ。

 

メインキャスト以外の演技が総じて学芸会レベルである。特にきたろうと若い医者。これで出演料を受け取っていいと感じているのか。監督も何テイク撮ったのか。編集にどこまで関わったのか。どこまで現場で演出や演技指導をしたのか。せっかく昨今珍しい小説や漫画原作ではない邦画だというのに、この出来はあまりにも無残であり残念である。

 

総評

邦画のダメなところが凝縮されたような作品である。映画館が徐々に日常(withコロナだが)を取り戻しつつある中、割と楽しい気分で劇場に向かったのだが。これがTOHOシネマズ梅田のScreen 1というスクリーンの大きさと画質、そして音質に優れた劇場でなければ、もうマイナス5点したい。それぐらいの酷い出来である。某映画サイトなどで好評レビューが多いが、サクラだと思いたい。そうでなかれば映画ファンの劣化も甚だしい。というのはさすが言い過ぎか。はっきり言って中村倫也のファンでなければ、観る価値は極小である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get along

劇中で火曜日の言う「僕たち、仲良いんだよ」を英語にすれば、“We get along.”となるだろうか。A and B get along. = AとBは仲良くやっている、We get along = 僕たちは仲良くやっている、である。一定以上の世代の人間ならば“We can get along together.”と言えば通じるだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, ミステリ, 中村倫也, 日本, 深川麻衣, 監督:吉野耕平, 石橋菜津美, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

『 パズル 戦慄のゲーム 』 -韓国製ピエロ映画の失敗作-

Posted on 2020年5月11日 by cool-jupiter

パズル 戦慄のゲーム 30点
2020年5月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:チ・スンヒョン
監督:イム・ジンスン

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近所のTSUTAYAがうるさいぐらいに『 ジョーカー 』と『 IT イット THE END “それ”が見えたら、終わり。 』を宣伝している。ひねくれ者のJovianは、だったら別の道化ものを借りてやるぜ、とジャケットだけでレンタルを決めた。

 

あらすじ

広告代理店で順調に出世を重ねるドジュン(チ・スンヒン)だったが、妻と娘は遠くカナダはバンクーバーに暮らしていた。妻に対して猜疑心を抱くドジュンは、偶然に知り合った女性セリョンと怪しげなクラブで一夜の関係を持つ。だが、気が付くとセリョンが殺害されていた。誰が、何の目的で?ほどなくして、ドジュンの携帯に脅迫のメッセージが届き・・・

 

ポジティブ・サイド

同じ駄作は駄作でも『 パズル 』よりは良い出来である。オープニング・シーンが『 聖女 Mad Sister 』と同じで、ハンマーを引きずる主人公の姿なのだが、制作はこちらの方が早いらしい。まさか本作が『 聖女 Mad Sister 』に影響を与えたとは思わないが・・・

 

以外にも色々な形で伏線はフェアに張られている。特に中盤の追走シーンでは、多くの人が「何だこれは?」と違和感を覚えるところがあるが、これは監督の意図したものであることは間違いない。終盤あたりからその「演出」がもっと目に見える形で現れてくる。はっきり言ってクリシェであるが、これはこれで一応受け入れてよいのだろう。

 

アクションシーンはなかなかに面白い。何故に普通のリーマンがここまでスラッシャーに変貌するのだと思わせるが、たとえ無意味に思えてもバイオレンスを放り込んでこその韓国映画。『 殺人の告白 』も無意味なアクションだと思えるところに限って、やたらと力が入っていた。

 

ネガティブ・サイド

主人公のhand to hand combatのアクションはまだ許せても、銃を触ったことがないような一般人女性が引き金を引くのが気に入らない。のみならず、ズドンと急所に命中させるところはもっと気に入らない。実弾を撃ったことがある方にはお分かりいただけようが、素人は5m離れれば、まず的には当たらない。十数年前にLAで5mの距離から20発ほど外したJovianが断言する(そういう意味では『 アジョシ 』のラストのガンアクションにはリアリティがあったと改めて妙に納得)。

 

ストーリーの発端となるドジュンの濡れ場のシーンにはエロスが足りない。というか、敢えて嫌な言葉使いをさせてもらえれば商売女なのだから、もっとサービスしろと言いたい。『 オールド・ボーイ 』のミドのまぐわいを100回鑑賞しろと言いたい。脱ぐだけではダメなのだ。脱いだからには色気を感じさせなければならないし、極端に言えば脱ぐ前から色気を発していなければダメだ。それがプロだろう。

 

肝心のオチが正直なところ、あまりにもひどい。二十数年前の『 世にも奇妙な物語 』で見たことがある気がするし、洋の東西を問わずアホほど量産されてきたプロットの焼き増し再生産に過ぎない。そこに新味を加えるべく一捻りを加えてきたが、これは逆効果。このあたりについてはイム・ジンスン監督は『 イニシエーション・ラブ 』を100回鑑賞してみてほしいもの。

 

総評

一言、失敗作である。アクションと流血描写だけはまあまあ楽しい。が、それだけである。ピエロものを観たいのならば『 仮面病棟 』や『 ピエロがお前を嘲笑う 』を観るべし。よほど手持無沙汰な人がちょうど90分を潰したい、という向きにしか本作はお勧めできない。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語会話レッスン

チンチャミアナダ

 

「本当にごめんな」の意である。チンチャは『 母なる証明 』で紹介した言葉で、ミアナダは『 国家が破産する日 』で紹介したミアネの語尾が変化したもの。外国語学習ではある程度ボキャブラリーを蓄えたら、今度はそれを組み合わせる段階に進むべきである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, スリラー, チ・スンヒョン, 監督:イム・ジンスン, 韓国Leave a Comment on 『 パズル 戦慄のゲーム 』 -韓国製ピエロ映画の失敗作-

『 マーターズ(2016) 』 -完全なる劣化リメイク-

Posted on 2020年3月28日 by cool-jupiter

マーターズ(2016) 20点
2020年3月26日 Amazon Prime Videoにて鑑賞
出演:ベイリー・ノーブル トローヤン・べリサリオ
監督:ケビン・ゴーツ マイケル・ゴーツ

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かの怪作『 マーターズ 』のアメリカ版劣化リメイクである。パスカル・ロジェの持つ生々しいビジュアルへの感覚と哲学・死生観といったものが、本作からはごっそり欠落している。

 

あらすじ

リュシーはかつての監禁のPTSDに悩まされながらも、アンナの介護によって回復していった。しかし15年後、リュシー(トローヤン・べリサリオ)は自分を監禁していた者たちを見つけてしまう。復讐心に駆られた彼女は、銃を手に取り、彼らのアジトに踏み込んでいく。しかし、それは監禁と拷問の幕開けだった・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianの嫁さんがハマっていたテレビドラマ『プリティ・リトル・ライアーズ 』のトローヤン・べリサリオは美人である。原作のモルジャーナ・アラウィに負けていない。

 

クライマックス手前のショベルのアクションシーンは良かった。原作にはない暴れっぷりと流血シーンで、ここだけはちょっと「お!」となった。

 

ネガティブ・サイド

悲しくなるくらいに何もかもがダメである。モンスターの幻影・幻覚も劣化、暴力描写も劣化、中盤のアンナとリュシーを巡る主役交代もなし、そして何とも知り切れトンボな幕切れ。ケビンとマイケルのゴーツ兄弟は、オリジナル作品から何を読み取ったのか。そして本作を通じで何がしたかったのか。

 

まずもってべリサリオが脱がないのは何故なのか。PLLでは、トップレスではなかったとはいえ、裸体の結構な部分を見せてくれていたではないか。いや、ヌードを見せろと言っているわけではない。人間の尊厳を失うような暴力描写がもっと必要なのではないかということだ。女性の裸に性的な魅力を認めるのではなく、むしろ逆に「女の命」である髪を情け容赦なく切っていくオリジナルの方が、はるかに迫力が感じられたし、すべてはある崇高な目的のためという、オリジナルにあったマドモアゼルたちの狂信性が、本作からはごっそりと抜け落ちていた。

 

原作でリュシーが見たビジョンも本作では再現されず。いや、別にダンテの『 神曲 』的なビジョンでなくてもよいのだ。監禁・拷問・虐待の果てに見出せる境地があるとすれば、それはとても禍々しいものか、その逆にひょっとしたら神々しいものなのかもしれない。そうしたビジョンの特徴を、観る側と共有できるような共通の記号あるいはガジェットとして、オリジナルはダンテの『 神曲 』的なイメージを効果的に使った。本作にはそれがない。裸でもない、髪を切られたわけでもない、生皮をはがされたわけでもないべリサリオが白目を剥いているだけ。拍子抜けもいいところである。

 

最後の最後もシラケる。オリジナルのambivalentでenigmaticな雰囲気が、文字通りの意味で吹っ飛ばされる。オリジナルでマドモアゼルはなぜ念入りに化粧をしていたのか。狂信的なまでの信念の持ち主とは思えない言葉を吐いたのは何故なのか。そうした謎をすべてぶっ飛ばす本作の終わり方には失望を禁じ得ない。

 

総評

90分をドブに捨てた気分である。COVID-19がオーバーシュートしそうなクリティカルなフェーズなため、シアターでムービーをウォッチすることにもためらいが生まれてしまう(小池百合子風)。オリジナルを観たら、本作を観る必要はない。逆に本作から観たという人は、絶対にパスカル・ロジェの『 マーターズ 』を観るべきだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You tell me.

本作の字幕では「見れば分かる」だったが、この訳も微妙である。本来は文字通りに「あなたが私に教えて」であるが、転じて「知らんがな」というような意味でも使われる。『 ベイビー・ドライバー 』で、ベイビーに予定を尋ねられたデボラが“You tell me.”と返していた。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アメリカ, トローヤン・べリサリオ, ベイリー・ノーブル, ホラー, 監督:ケビン・ゴーツ, 監督:マイケル・ゴーツ, 配給会社:AMGエンタテインメントLeave a Comment on 『 マーターズ(2016) 』 -完全なる劣化リメイク-

『 AI崩壊 』 -ありきたりの天才科学者サスペンス-

Posted on 2020年2月6日2020年9月27日 by cool-jupiter

AI崩壊 35点
2020年2月2日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:大沢たかお
監督:入江悠

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AIの進化が著しい。日本は良きにつけ悪しきにつけ新しいものを使っていくことを好まない。しかし将棋棋士がAIを効果的に使い、今も棋力を向上させているように、普通の仕事でもAIを使い、効率や能率を上げていくことが期待される。だが、AIが『 ターミネーター 』のスカイネットにならない保証はどこにもない。本作はそんな物語・・・とはちょっと違う。

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あらすじ

桐生浩介(大沢たかお)は病気の妻を救えなかった。しかし、彼の開発したAI「のぞみ」は医療と健康管理のため国民的ツールとして普及し、日本人の健康増進に寄与していた。だが「のぞみ」は突如、暴走。国民を「生存」と「死亡」にカテゴライズし始める。その原因を開発者の桐生にあると判断した警察は、桐生の逮捕に乗り出す。桐生は逃げ延び、「のぞみ」暴走の原因を解明できるのか・・・

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ポジティブ・サイド

一部の分野ではAIが人間の能力をはるかに凌駕していることは周知の事実である。完全自動操縦の自動車がリリースされない理由は、費用が高くなりすぎること、そして事故があった時の責任の所在がどこ(製造者?所有者?運転していない同乗者?)にあるのかが議論しつくされていないという政治的・倫理的理由からである。逆に言えば、技術的には可能なわけで、ならば健康管理AI「のぞみ」という存在も荒唐無稽とは言い切れない。実際には飛行機は、離陸と着陸以外はオートパイロットで飛ばしている。厳密にはAIとは言えないものにも、我々はすでに命を預けているのである。

 

本作ではドローンも大活躍する。特に地下道で放たれるドローンのデザインはなかなか良い。Droneとはミツバチの雄を指す言葉で、蜂を模した形の超小型ドローンは近未来的でクールである。

 

微妙なネタバレになるが、本作には現実の政治批判の意味も込められている。序盤早々に女性総理大臣が死亡するが、その跡を継ぐ副総理の姓は、亡国の・・・いや、某国の総理大臣に縁のある姓だからである。入江監督の思想がどのようなものかは寡聞にして知らないが、国民を「上級国民」と「下級国民」に選別することは止めよ、というメッセージを入江監督は持っているようである。その意気や良し。

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ネガティブ・サイド

『 プラチナデータ 』と重複する部分が多い。犯人の思想もそっくりであるし、警察が使用するAI「百眼」による捜査方法もそっくりである。つまり、新鮮な驚きがない。いや、『 プラチナデータ 』の公開当時、歩行パターン認識などはまだまだマイナーな技術だった。その点に、説得力はあまりなかったが、驚きは十分にあった。一方、本作の「百眼」の性能には驚きを感じられるものがなかった。それがマイナス点である。後発作品は、先行作品を何らかの意味で乗り越える努力をすべきである。また、百眼も高度に発達したAIである割には、自律的思考力を持っているとは到底思えない判断を最終盤で連続して下している。もはやギャグの領域で、ここまで来るとリアリティも何もない。また、桐生が下水道の中を逃げる時の足音を聞いて、「これは桐生である」と百眼が判断する場面もあるが、元データをいつ採取したのだろうか。百眼という存在のアイデアは悪くはないが、才物の詰めの設定が甘すぎる。

 

また、百眼を使う警察があまりにも最初から強引すぎる。これではのぞみ暴走の黒幕が誰であるのか、あっという間に分かってしまう。本作はSFサスペンスであり、ミステリ要素は確かに薄い。しかし、謎の見せ方にはもう少し節度を持ってもらいたい。ミランダ宣告をしないのはまだしも、容疑者かどうかも怪しい段階でいきなり銃を突きつけるか?最初は「話はとにかく署で聞く」ぐらいの堅物さ、強引さで、そこからのぞみ暴走のカウントダウンが進んでいくとともに警察も過激になっていく、という展開で良かったのにと思う。

 

逃げる桐生を警察官の描写にも不満がある。土地勘があるとは思えない桐生が、土地勘を持っていないとおかしい所轄の警察官たちを、路地裏などを通って次々と振り切っていくシークエンスには説得力がない。元警察官のJovianの義父が本作を観たら、笑うか呆れるか、さもなくば警察官たちに憤慨するであろう。

 

「のぞみ」の暴走にもリアリティが不足している。「のぞみ」が命の選別をすることにリアリティがないのではない。「のぞみ」のカメラアイは『 2001年宇宙の旅 』のHALをどうしても想起させるが、人を殺害するAIというアイデアは大昔から存在してきたのである。問題は、AIが人を殺すことを考えたときに、その思考過程をわざわざ人に見せるだろうか、ということである。もちろん、それを見せてくれないことには物語が前に進まないのだが、「のぞみ」暴走のカウントダウンにどうしても緊張感が生まれなかった。というのも、パッと見た限り、「のぞみ」は命の選別を1秒間に6人ほど行っているように見えるが、この計算で行くと、1分で360人、1時間で21,600人、24時間でも518,400人である。10年後の日本の人口が1億人にまで減っていたとしても、全く届いていないではないか。「のぞみ」がモニター越しに見せる命の選別の過程がスロー過ぎて、観ている側に焦燥感や恐怖などの負の感情が生まれてこないのだ。

 

黒幕は命の暴走によって日本を救いたいわけだが、その思想もすでに漫画『 北斗の拳 』のカーネルが「神はわれわれを選んだのだ!!」という言葉で先取りしている。実際に命の選別をやってしまえば、諸外国から非人道的との烙印を押され、あっという間に中露、あるいはアメリカあたりに力での侵略を許す口実を与えるだけになると考えられる。それに墓場はともかくとしても(全部無縁仏扱いしてしまえばよいので)、火葬場などで死体を荼毘に付す処理が絶対に追いつかないだろう。それとも、死体の大部分は腐敗するに任せるというのか。馬鹿馬鹿しいようであるが、こうしたことまで考えられて作られた物語に見えないのである。

 

桐生も『 逃亡者 』のリチャード・キンブルさながらに逃げまくるが、盗んだノートPCであまりにも多くのことを成し遂げ過ぎではないか。「俺はもう人工知能の開発はやっていない」と言いながら、発砲を辞さない警察に追われるという極限の緊張の下、5年ぶりであっても流れるようにコードを書くというのは、プログラマーならぬJovianの目にはスーパーマンに見える。桐生が卓越した頭脳と肉体の両方を備えていることが、物語を逆につまらなくしている。桐生が百眼やのぞみと対峙し、たとえば『 search サーチ 』のように、カメラなどを通じてではなく各種のウェブ上に記録を多角的に総合的に分析することで、AIとの“対話”を行うような形での対決をしてくれれば、もっとリアルに、もっとスリリングになっただろう。発想は陳腐だが悪くない物語である。物語の進め方にもっと工夫の余地があったはずである。

 

総評

桐生にも警察にもリアリティがない上に、肝心のAIも過去作品の模倣の域を出ない。AIを巡る思想についても、山本一成が『 人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか? 』で語った「いいひと」理論が先行している。映画館はかなりの人が入っていたが、正直なところ、映画ファンの期待には届かなかったと思われる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

trigger-happy

『 図書館戦争 』ほどではないが、本作は警察がバンバンと発砲する。そのような、すぐに撃つ短慮な性格を指してtrigger-happyと言う。40歳以上の世代なら、『 おそ松くん 』における本官さんを思い出してもらえればよい。『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』でも、ホルドがポーを指して“trigger-happy flyboy”と揶揄していた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, SF, サスペンス, 大沢たかお, 日本, 監督:入江悠, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 AI崩壊 』 -ありきたりの天才科学者サスペンス-

『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2020年1月27日2020年2月9日 by cool-jupiter
『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

キャッツ 25点
2020年1月26日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:フランチェスカ・ヘイワード テイラー・スウィフト
監督:トム・フーパー

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『 マンマ・ミーア! 』のレビューで「Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『 オズの魔法使 』と『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』で、次点は『 ウエスト・サイド物語 』」であると述べた。それらに続くのが『 オペラ座の怪人 』と『 キャッツ 』である。両親が劇団四季・友の会の会員だったのだ。劇は確か5回観た。サントラはオリジナル・ロンドン・キャストで数限りなく聞いた。その上で言う。これは映画化失敗である。

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あらすじ

ロンドンの片隅。新参猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)が迷い込んだのは年に一度のお祭り、ジェリクル・ボールだった。オールド・デュトロノミーによって選ばれた一匹の猫は天上に昇り、新たな生を得るのだ。その座を競って、猫たちは夜を徹して歌い、踊って・・・

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ポジティブ・サイド

オールド・デュトロノミーを雌に変えたことに最初は戸惑ったが、これはこれでありだろう。英語では、猫の人称(猫称?)代名詞はしばしばsheになるし、イングランドに君臨するのは女王である。ロンドンの猫たちの頂点が雌であっても不都合は何もないし、それぐらいの設定変更をしないと、映画化の意義もない。実際にジュディ・デンチは良かった。

 

また、アスパラガスをイアン・マッケランに演じさせるというのはキャスティングの大いなる勝利である。老人が時代を嘆くのは滑稽かもしれないが、それを実力者が演じることで大いに説得力が増している。

 

アンドリュー・ロイド・ウェバー御大とテイラー・スウィフトの手による“Beautiful Ghosts”は言葉で説明するのが難しいほどに感情を揺さぶる音楽であり歌詞であり歌唱である。劇中で歌うヘイワードとエンディング・ロールで歌うテイラーに最敬礼する。

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ネガティブ・サイド

見た目や動きの気持ち悪さは英語でも日本語でも死ぬほど語られているので、敢えてJovianが触れるまでもないだろう。ジェニエニドッツとゴキブリどもとの大きさの比率がおかしいし、水を飲むバストファー・ジョーンズの顔が一切濡れないのも不自然である。どうしても言わないと気が済まないのはこれぐらいか。

 

夜中~深夜にかけて街中を散歩していると、公園の砂場で猫たちが集会を開いている場面に遭遇することがある。そうした経験のある人は多いだろうし、人からそのような話を聞いたことがある人も多いことだろう。その中には首輪をした猫もいれば、ボロボロに傷を負った野良もいるのである。まさかジェリクル・ボールを本当に開いているとは思わないが、それでも猫たちの営為には、人知の及ばないミステリアスな領域が常に存在しているようである。『 キャッツ 』というのは、そうした人間の与り知らない猫の世界の物語である。であるにも関わらず、オープニングでいきなりロンドンの街のネオンライトを浴びながら自己紹介をしていく猫たちに強い違和感を覚えた。“月明かりの中”で密やかに、しかし盛大に行われるのがジェリクル・ボールではないのか。夜目が効く猫があんな光を浴びたら動けなくなるのではないのか。というか、人間の世界の片隅で繰り広げられるドラマのはずが、人間の世界のど真ん中で行われるかのような演出を入れるのには感心しない。舞台演出をそのまま映像にしてしまうとシネマティックにならないというフーパー監督の判断なのだろうが、それは間違っている。映像的に煌びやかであることと、それが素晴らしいものであるということは必ずしもイコールではない。キャッツのような物語は特にそうである。

 

色々と演出にも首尾一貫性がない。ジェニエニドッツが躾けるゴキブリやネズミの寸法がおかしかったかと思えば、バストファー・ジョーンズの言う高級クラブ通いは実際は高級残飯漁りという猫の生活のリアルさを描いている。一方で、舞台版ではスキンブルシャンクスが車掌を務める“魔法列車”はゴミとして捨てられた廃品の寄せ集めで作られたものという、これまた猫の生活のリアルさを表現していた一方で、こちらの映画では本物の線路に本物の鉄道を見せていた。なぜ人間の領域に出てくるのだ?ロンドンの片隅でこっそりやってくれ。シネマティックな演出をするなら、猫のリアルな生態とミステリアスな側面を絶対に外してはいけないのである。

 

マキャビティとグロールタイガーが手を組むというのも妙に感じた。犯罪世界のナポレオンが海賊と組むか?フーパー流の新規の味付けなのだろうが、これは個人的には受け入れられなかった。またイドリス・エルバ演じるマキャビティがどこかユーモラスになってしまっていたのも減点対象である。神出鬼没で猫世界のルールもお構いなしというのが、マキャビティの魅力であり、怖さでもあった。それが生まれ変わりを切望して、オールド。デュトロノミーを脅迫するチンピラに成り下がるとは・・・ 舞台版ではジェリクル・キャッツ候補たちが総力を結集して追い払う悪の権化が、なんともみみっちく矮小化されてしまったという印象である。

 

ハイライトであるはずのグリザベラが歌う“Memory”のシークエンスにも不満である。心の底からの“TOUCH ME!”という悲痛ともいえる叫び、そして歌い終わって、猫たちに背を向けながらも、後ろに手をそっと差し出し、誰かがその手に触れてくれるのを恐る恐る待つグリザベラ、そこにデュエットを歌ってくれたシラバブがグリザベラの手をそっと撫でる。そして猫たちが次々にグリザベラに触れていくという、あの流れが感動を呼ぶのではないか。天に昇る猫を選ぶのはオールド・デュトロノミーだと言いながらも、その場の猫たち全員がデュトロノミーの宣告を待たずにグリザベラを認めるという、あのシークエンスが胸を打つのではないか。それを序盤からヴィクトリアがべたべたとグリザベラに触り、あまつさえジェリクル・ボールに招き入れる。違う。ボロボロに打ちひしがれていながらも、それでも誰かに触れてほしい、抱いてほしいというグリザベラの勇気と圧巻のパフォーマンスが我々の心を震わせるのである。無理やり連れてきてはいけないのだ。なぜトム・フーパーとリー・ホールはこのような脚本を書いてしまったのか。理解に苦しむ。最も感動的であるはずのシーンで萎えてしまうった。おそらく舞台『 キャッツ 』を愛する人の多くが、このように感じたのではないだろうか。

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総評

舞台版をこよなく愛する人と、本作を映画で初めて観る人によって、評価はガラリと変わるのだろう。実際にJovianの嫁さんはミュージカルを未見の状態で本作を鑑賞し、高い評価を与えていた。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』の評価が割れているのも、従来通りの物語を期待するファンと、新世代の物語を期待するファンの間で評価が割れていて、それが予想以上の低評価につながっている。SWでは後者の勢力がマジョリティであるが、本作『 キャッツ 』では前者の勢力が優勢なようである。舞台版『 キャッツ 』を愛する人は、期待をせずに劇場へ向かわれたし。

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ghost

幽霊、の意ではない。テイラー・スウィフトが歌う“Beautiful Ghosts”というのは、おそらく Beautiful Ghosts(from the past)のことかと思われる。a ghost from the past は「過去の亡霊」という意味ではなく、「長らく出会っていなかった過去の知り合い」ぐらいの意味である。生まれ変わるグリザベラに「あなたはこれだけ多くの素晴らしい猫たちに祝福された」というメッセージを送っている・・・のだと思う。猫とポエムを真面目に解釈しようとしてはいけない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, テイラー・スウィフト, フランチェスカ・ヘイワード, ミュージカル, 監督:トム・フーパー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 キャッツ 』 -映画化の意義を捉え損なっている-

『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

Posted on 2020年1月14日 by cool-jupiter

ティーンスピリット 20点
2020年1月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エル・ファニング
監督:マックス・ミンゲラ

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Jovianはエル・ファニングのファンである。しかし、それでも言わなければならない。これは駄作である。完全なる失敗作である。2020年は始まったばかりだが、海外クソ映画オブ・ザ・イヤー候補の最右翼であると言える。

 

あらすじ

ヴァイオレット(エル・ファニング)は英国に暮らす、歌手を夢見るポーランド系移民。ある時、“ティーンスピリット”の予選が地元で開催されることを知ったヴァイオレットは、オーディションに申し込みを行う・・・

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ポジティブ・サイド

オープニング直後にエル・ファニングが歌う“I was a fool”という歌は雰囲気があった。ストーリーの向かうところを暗示するEstablishing ShotならぬEstablishing Songだった。

 

またクライマックスの“Good Time”からのファニングの独唱そして熱唱は、『 ソラニン 』よりも上、『 リンダ リンダ リンダ 』に並ぶカタルシスをもたらしてくれた。

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ネガティブ・サイド 

Jovianが古い人間なのだろうか。今世紀の歌手の歌の数々にあまり魅了されなかった。『 アリー / スター誕生 』でも同じことを感じたが、音楽映画であるにもかかわらず、無条件に入っていける、ノセテくれる楽曲があまりにも少ないのは致命的である。そういう意味では『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は秀逸だった。

 

また、このタイトルからは何をどうやってもNirvanaの“Smells Like Teen Spirit”を想起せずにはいられない。しかし、映画全体を通じてカート・コバーンのような「叛逆」や「打破」といった荒ぶるパワーは感じられなかった。もっと言えば、アイデンティティに悩む10代特有のドラマがない。敬虔なカトリックであるヴァイオレットの母親とヴァイオレット自身の距離感の描写が不足しているし、学校で特別に影が薄い存在として描かれているわけでもない。家庭や学校でヴァイオレットが疎外を感じる描写や演出があまりなく、ヴァイオレットが馬の世話と音楽に逃避することへの説得力が生まれていない。その馬が買われていく時にも、取り乱しはするものの、鬱になるでもなく、さりとて音楽の力で立ち直るでもない。オープニングで、ブルーアワーの牧草地で馬を世話しながらiPodの音楽に耽溺する様はいったい何だったのだろうか。

 

ヴラドというキャラクターの構築も中途半端だ。呼吸法のレクチャーには、亀の甲より年の功といった趣が感じられたが、それだけ。元プロのオペラ歌手として、精神論以外のアドバイスを送ることはできなかったのか。大手レーベルとの駆け引きでも、クロアチアで培った経験や業界の裏事情通であるところなどを披露し、ナイーブでいたいけなヴァイオレットを金の亡者の大人たちから守るのかと期待させて、それもなし。唯一褒められるのは、甘やかされてダメになりそうなクソガキをぶっ飛ばしたところだけ。

 

ヴァイオレットの成功があまりにトントン拍子で、彼女自身が抱えていた問題の描写も弱いことから、サクセス・ストーリーがサクセス・ストーリーに見えない。同じく音楽にフォーカスしていた『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は、成功を掴めば掴むほどに、自身の抱える心の闇がより深まっていくことがはっきりと描写されていた。だからこそ、最後のステージでカタルシスが爆発した。ヴァイオレットは違う。元々抱えていたアイデンティティの問題や学校や家庭での疎外もいつの間にやら解消、というかそんなものは最初からなかったかのようである。

 

これにより、ヴァイオレットが自らの人生に欠いているpositive male figureとしてヴラドを受け入れるようになる、というプロットが空回りしている。ネックレスの件も同じである。実の父親を心のどこかで求めていながら、しかし、父親代わりの人物を実の父以上に慕うようになるという下地が描かれていない。ヴラドが母親に花束を贈っただけでは説得力など生まれない。それともお互いにポーランドとクロアチアからの移民で、同病相哀れむということなのだろうか。母子家庭であるヴァイオレットの家族と、ヴラドと自身の娘の関係の描写がとにかく薄くて浅くて弱い。この出来で、ヒューマンドラマで盛り上げれと言われても無理である。

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総評

エル・ファニングの熱烈ファン以外にはお勧めできない。というよりも、エル・ファニングの熱烈ファンにすらお勧めしづらい。単に彼女の体の線が露わになるタンクトップで髪を振り乱して踊り狂うところを見たいというファンぐらいしか堪能できない作品である。脚本および監督のマックス・ミンゲラの力量不足は明らかである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get that a lot.

「よくそう言われる」の意味である。ヴラドに年齢を尋ねられ、ヴァイオレットは21歳だとサバを読む。そこでヴラドに「もっと若く見えるぞ」と言われ、“I get that a lot.”と返した。このthatは、

“Let’s go for a drink after work.”

“That sounds awesome.”

のように、一つ前の事柄全般を受ける代名詞のthatである。それをしょっちゅうgetする=「よくそう言われる」となる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, E Rank, アメリカ, イギリス, エル・ファニング, 監督:マックス・ミンゲラ, 配給会社:KADOKAWA, 音楽Leave a Comment on 『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

『 ロード・オブ・モンスターズ 』 -典型的C級怪獣映画-

Posted on 2020年1月9日 by cool-jupiter

ロード・オブ・モンスターズ 30点
2020年1月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エイドリアン・ブーシェ
監督:マーク・アトキンス

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TSUTAYAのボックスカバーは、思いっきり『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』をパクっていて、これはクソ映画に違いないと確信した。I was in the mood for some American garbage, especially after watching a great Korean film and a great French film.

 

あらすじ

海底資源探査の会社を経営するフォード(エイドリアン・ブーシェ)は、偶然にも巨大な“怪獣”に遭遇してしまう。マグマを血液に持つ規格外の生物“テング”に立ち向かうため、フォードは地質神話学者や沿岸警備隊と連携する。そして、テングを倒すには伝説の怪獣“生きた山”を目覚めさせるしかないと分かり・・・

 

ポジティブ・サイド

原題はMonster Island、これだけ聞くと『 怪獣総進撃 』を思い出してしまうし、敢えてそうさせようというマーケティング上の理由があるのだろう。中身はゴジラとは似ても似つかない怪獣が現れるストーリーからである。少しでもビューワーの気を惹くためなら、多少の無理めな邦題やパッケージ・デザインでも行ってまえ!というノリは買いである。

 

設定は荒唐無稽だが、劇中で披見される科学的知識や地質神話学の知見は、まあまあ納得できる。太古、“怪獣”とは地震や火山噴火、津波の謂いであったとうのは宗教学専攻だったJovianにも首肯できる意見である。

 

また遠洋に船を出す爺さんが良い味を出している。いきなり映画『 アビス 』を持ちだして、“They are down there. = 未知の生命は海底にいる”と呟く様は渋い。海の男は、海を知り尽くしているという雰囲気よりも、海はどこまでも奥深い領域であると弁えた雰囲気を湛えているものなのだろう。その方が東洋の世界観の産物である“怪獣”とよくマッチすると、あらためて思わされた。

 

ネガティブ・サイド

科学的な知識はそれなりに正しいのに、主人公たちは自分で使っている機材やテクノロジーについての設定をすぐに忘れてしまう。間抜けにも程がある。海中探査用ROVの映像には1分のタイムラグがある、と冒頭で説明しておきながら、その後の描写ではほぼリアルタイムで映像を見ているとしか思えない反応を示す。監督兼脚本のM・アトキンスは何をやっているのか。また40メートル級の津波はどこへ行った?

 

またテングの質量が250万トンというのは無茶苦茶にも程がある。最新ゴジラが9万トンなのだから、その30倍弱の重量というのは規格外過ぎる。怪獣映画の基準はゴジラであるべきで、そこから逸脱しすぎるとファンタジーになる。

 

またテングの卵から生まれるのが、似ても似つかぬクリーチャーというのは何故だ?テングがヒトデで、なおかつメスで、オスを探しているのではないか?という仮説は「お?『 GODZILLA ゴジラ 』のMUTO的な展開か?」と期待させてくれたが、それもなし。興奮を煽っておきながら、おあずけされるとはこれ如何に。怪獣映画ファンはマゾでないと務まらないのか。

 

そしてクライマックスの“テング”と“生きた山”の激突とその結末は・・・とんでもない拍子抜けである。男性キャラクターはあっさりと死ぬ、というポリシーを持っていた本作であるが、最後の最後に来てそれを引っ繰り返した。これをドンデン返しと受け取れというのは、いくらなんでも無理である。ポリシーは一貫してこそポリシーである。ひどいクソ映画であり、ひどいクソ結末である。

 

総評

超低予算、超短期間撮影、超ローテクで作った割には、クソ映画レベルにまとまっている。決して、超絶駄作ではない。怪獣好き、洋画の中で唐突に日本語が聞こえてくるのが好き、という変わった趣向の持ち主なら楽しめるかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

They are down there.

英語のWe, You, Theyというのは奥深い人称代名詞である。日本語ではWeの用法があるが、それは主に企業や組織で使われている。保険会社やクレジットカード会社のコールセンターのオペレーターは例外なく「私ども」という言葉を使うが、複数形にすることで組織代表になるわけである。Theyには、その場にいない者たち全般の意味となり、SF映画や生物学者、天文学者たちはしばしば

“We are not alone. But where are they?”

という問いを立てる。「我々地球人は(この広い宇宙の中で)孤独ではない。だが彼ら=宇宙の他の生命体たちはどこにいるのだ?」の意である。ここまでスケールが大きくなくとも、Theyというのは英語ネイティブがあらゆるレベルで頻繁に使う言葉である。これを自然に使えるようになれば、英会話力は中級以上である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アメリカ, エイドリアン・ブーシェ, 怪獣映画, 監督:マーク・アトキンスLeave a Comment on 『 ロード・オブ・モンスターズ 』 -典型的C級怪獣映画-

『 アニー・イン・ザ・ターミナル 』 -全てがクリシェのクソ映画-

Posted on 2020年1月5日 by cool-jupiter

アニー・イン・ザ・ターミナル 30点
2019年1月4日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マーゴット・ロビー サイモン・ペッグ デクスター・フレッチャー
監督:ボーン・ステイン

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前々から気になっていたので、TSUTAYAで準新作になったので早速レンタル。マーゴット・ロビーとサイモン・ペッグに惹かれたが、中身はイマイチであった。

 

あらすじ

ロンドン地下鉄のとあるターミナルの24時間営業カフェで働くアニー(マーゴット・ロビー)は、地下クラブで働くコールガールでもあり、フィクサーの下で街のトラブルを裏で解決する仕事人でもあった。彼女の真の狙いは・・・

 

ポジティブ・サイド

マーゴット・ロビーの怪演とサイモン・ペッグの熟練の演技ぐらいしかい観るべきものはない。赤のストロボライトの明滅の合間に妖しい笑顔と平然とした表情を織り交ぜるのは絵としては良かった。

 

またロンドンは20km離れれば、日本で言えば200km離れたぐらいに違う言葉を話すと言われているが、劇中では確かにそのように感じられた。殺し屋稼業の二人組とサイモン・ペッグ、夜間管理人の男たちは、同じLondonerでも、日本で言えば大阪弁と岡山弁ぐらい違う言葉を話していた。

 

ネガティブ・サイド

クリシェだらけである。

 

時系列を狂わせて物語を見せるのは『 市民ケーン 』以来の一つの型であるが、そのことが結末の驚きにつながってこない。というか、それなりに型破りな見せ方をするのであれば、結末にもっとアッと驚く仕掛けを持ってきてほしい。邦画の『 イニシエーション・ラブ 』の方がはるかに優っている。

 

また『 グッドウィル・ハンティング 』以来、掃除人には何かがあると考える癖が映画ファンにはついてしまった。またはテレビドラマ『 家なき子 』の庭師のじいさんでよいだろう。こうしたjanitorは往々にして見かけ以上の役割を担っている。

 

また、地下世界への案内人が白ウサギという“アリス”以来の伝統にも変化球が必要である。『 マトリックス 』のように、ウサギはウサギでも、ウサギっぽくなさそうなキャラを用意すべきである。うさ耳カチューシャをつけたコールガールというのは、あまりにも下品である。

 

なによりもクリシェなのはアニーそのものに仕込まれたトリックである。まさか2010年代にもなってこのようなネタを使ってくるとは、脚本家は何を考えているのか。せめて『 シンプル・フェイバー 』ぐらいの変化球を放るべきである。このような手垢のついたトリックはもはや害悪である。そういう設定で観る者を驚かせたいなら、邦画『 キサラギ 』や同じく邦画『 アヒルと鴨のコインロッカー 』を参考にすべきだろう。

 

総評

はっきり言って観る価値はない。マーゴット・ロビーの熱烈なファン以外に勧めることはできない。といっても、マーゴット・ロビー信者でもこのプロットには腹を立てると思われるが・・・ 中盤まではひたすらに眠くなるような展開なので、一種の睡眠導入剤にはなるのかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

have bigger fish to fry

実は今作で初めて耳にした表現である。しかし、ストーリーの文脈から意味はすぐに分かった(アニーは ”We got bigger fish to fry.” と言った)。直訳すれば「揚げるべきもっと大きな魚がいる」だが、その意味は「もっと大事な用事がある」である。調べてみたところイギリス英語らしいが、コンテクストが明らかであればアメリカ人にも通じると思われる。フィッシュ&チップスのお国らしい、面白い表現である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, E Rank, アメリカ, イギリス, サイモン・ペッグ, ハンガリー, マーゴット・ロビー, ミステリ, 監督:ボーン・ステイン, 配給会社:アットエンタテインメント, 香港Leave a Comment on 『 アニー・イン・ザ・ターミナル 』 -全てがクリシェのクソ映画-

『 カツベン! 』 -リアリティの欠落した駄目コメディ-

Posted on 2019年12月23日2020年9月26日 by cool-jupiter

カツベン! 30点
2019年12月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:成田凌 黒島結菜 永瀬正敏 高良健吾
監督:周防正行

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成田凌は個人的にかなり買っている。出演作の多さとパフォーマンスの高さから、2018年の国内最優秀俳優の候補にも考えていた。本作ではどうか。素晴らしい演技だった。しかし作品としてはダメダメである。

 

あらすじ

時は大正。染谷俊太郎と栗原梅子は、活動写真館に潜り込んでは活動写真を楽しんでいた。しかし、俊太郎はキャラメルを万引きしたことで捕まってしまう。時は流れ、俊太郎(成田凌)は泥棒一味の中でニセ活動弁士になっていた。アクシデントからカネと共に足抜けを果たした俊太郎は、正道に立ち返るべく、青木館という活動写真館に住みこみで働き始めるが・・・

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ポジティブ・サイド

今年の夏、大阪でJAZZ講談を聞いた時、玉田玉秀斎氏の話芸に驚嘆した。日本には数百年にわたる噺の伝統があり、それが外来の活動写真と結びついたのは必然であったとも言える。そこに周防監督が目を付けたのには、おそらく2つの事由がある。

 

一つには、映画と人々との関わりの変化である。『 アバター 』あたりから少しずつ、しかし本格的に興隆し始めた3D映像体験、IMAXやドルビーシネマといった映像や音響技術の進歩、さらに4DXやMX4Dといった視覚や聴覚以外の感覚にも訴える映画体験技術の導入と普及、さらにイヤホン360上映など、映画館や劇場という場所でしか提供できない価値が生み出されている。ケーブルテレビやネット配信など、映画と人々との距離や関わり方は過去10年で劇的に変化した。今一度、映画の原点を振り返ろう、そして日本の映画が世界的にも実は相当にユニークなものであったという歴史的事実を再確認しようという機運が、映画人たちの中で盛り上がったことは想像に難くない。

 

もう一つには、技術の進歩によって仕事を奪われることになる人間の悲哀の問題である。歴史的な事件としてのラダイト運動や、映画『 トランセンデンス 』のような科学者襲撃事件が起こる可能性は高いと思っている。AIが将棋や囲碁のプロを完全に上回り、レントゲンなどの画像の読影でも専門医を凌駕するようになった。今後10年、20年で消える職業も定期的なニュースになっている。また、RPAにより定型的な事務作業のほとんどが代替される時代も目前である。活動弁士だけではなく、映写技師や楽師といった職業がかつて存在し、映画という媒体の黎明期を支えていたという事実を顕彰することには意義がある。そこになにがしかのヒントを見出すことが、現代人にもできるはずである。

 

成田凌は2018年から2019年にかけて最も伸びた俳優の一人である。それを支える永瀬正敏や音尾琢真は(最後の最後を除いて)素晴らしい仕事をしたと思う。ポジティブな面は以上である。

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ネガティブ・サイド

本作は『 閉鎖病棟 それぞれの朝 』と同じく、一部の役者の演技力に頼るばかりで、プロットの面白さや細部のリアリティが突きつめられていない。非常に残念な出来である。

 

まず、関西人以外が作った、あるいは関西人以外が演じた役者の関西弁というのは、どうしてこれほど下手くそなのか。下手くそという表現が過激ならば、稚拙と言おう。大俳優の小日向文世にして「 血ぃは争えんな 」を「 地位は争えんな 」と発話してしまっている。関西弁は一文字語をしばしば伸ばして発音する。「 目 」は「 目ぇ 」、「 手 」は「 手ぇ 」、「 胃 」は「 胃ぃ 」、「 蚊 」は「 蚊ぁ 」となる。この時、抑揚はつかない。語尾に来る小文字の音程は前音のままとなるのが絶対的ルールである。関西以外の人はテレビなどで関西人の喋りに耳を傾けて頂くか、あるいは身近な関西出身者に尋ねてみて頂きたい。

 

また、最終盤で音尾琢真もやらかしている。ネタばれにならないと思うので書いてしまうが、「 手間かけやがって! 」という謎の日本語を吐く。文脈によってはこれも正しくなるだろう。たとえばお弁当箱を開けてみると、非常に凝った食事が入っていた時などは、弁当の作り手に感謝をこめて「 手間かけやがって 」と言うことはありうる。しかし、この場面は違う。正しい日本語は「 手間取らせやがって! 」か「 手間かけさせやがって! 」である。脚本段階のミスか?それとも、撮影段階に気付かなかった監督はじめスタッフのミスである。『 旅猫リポート 』でも不可思議な日本語があったが、邦画の世界にまで日本語の乱れが広がっているのだろうか。憂うべきことである。

 

大正時代の雰囲気を出そうと頑張っているのは分かるが、細部にリアリティが宿っていない。まず街が清潔すぎる。舗装されていない往来を人や自転車や大八車や自動車が行き交えば土ぼこりも舞う。しかし建物や看板がどれもこれもあまりにもきれいすぎる。作り物感がありありである。また、ネタばれにならない程度に書くが、当時の火消しや官憲がまったくの無能のように描かれているのは、いったい何なのか。現代の官憲の無能さを遠回しに揶揄する意図があるわけでもなさそうであるし、火消し=消防に周防監督はいったい何の不満があるというのか。

 

本作はコメディに分類されるべきなのだろうが、ギャグやユーモアに笑えるところが本当に少ない。タンス攻撃の応酬のいったいどこを笑えというのか。こういうのは吉本新喜劇の舞台のように、やりあう二者が同時に目に入ってこそ面白いのである。一回ごとにカットして場面転換しては面白さが激減してしまう。しかも、くどい。笑いというのは一瞬で喚起されるべきもので、何度も何度も同じことを繰り返して笑わせる手法というのは、故・島木譲二以外が使ってはいけないのである。

 

キャラクター造形もおかしい。俊太郎が活動写真の撮影に割り込むのは、子どものすることなので許せないこともない。しかし、万引きはれっきとした犯罪で、長じてから泥棒一味に加わることに違和感はない。問題は、「自分は騙されたのだ」という俊太郎の被害者意識である。『 ひとよ 』の斎藤洋介の言を借りるまでもなく、万引きは小売業の天敵である。俊太郎の幼少期の万引き常習者という背景は不要である。普通に梅子が引っ越していく。俊太郎はその後、騙されて泥棒の片棒を担がされる。どうしてこのような流れにならなかったのか。これで充分に納得できるはずだし、カネを奪って逃げたのも咄嗟のことで魔が差してしまったで説明できるはずだ。小さな頃から泥棒というのは、キャラクターの高感度を著しく下げるだけで、逆効果である。

 

クライマックスのカメラワークにも不満が残る。活動写真ではなく弁士や楽士のアップをひたすら映す意図がよくわからない。時代に翻弄された職業人たちであるが、これはドキュメンタリーや伝記ではないだろう。映すべきは彼らの仕事=彼らの遺産たる活動写真とそれを鑑賞、堪能する観衆たちとの一体感ではないのか。個々人の顔面を延々と映し出すことに芸術的な意味も娯楽的な意味も見出せない。本当に訳が分からないクライマックスである。

 

総評

『 それでもボクはやってない 』はまぐれだったのか。周防監督の手腕を疑問視せざるを得ない。成田凌のファンでなければ、チケット代と2時間をつぎ込む価値は認められない。時代の転換点に映画はどうあるべきかを考えるきっかけを与えてくれはするものの、それに対して一定の答えを出しているわけでもない。残念ながら駄作と評価せざるを得ない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let me do it.

俊太郎の言う「俺にやらせてください」の英訳である。Let は「させてやる」の意で、ビートルズの名曲“Let it be”やアナ雪主題歌“Let it go”でもお馴染みである。また『 ロケットマン 』でも“Don’t Let The Sun Go Down”が使われていた。つまり、よく使われる動詞ということである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, コメディ, 成田凌, 日本, 永瀬正敏, 監督:周防正行, 配給会社:東映, 高良健吾, 黒島結菜Leave a Comment on 『 カツベン! 』 -リアリティの欠落した駄目コメディ-

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