Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: D Rank

『 スマホを落としただけなのに 』 -スマホという楔は人間関係を割るのか繋ぎ止めるのか-

Posted on 2018年11月5日2019年11月21日 by cool-jupiter

スマホを落としただけなのに 40点
2018年11月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北川景子 田中圭
監督:中田秀夫

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181105012648j:plain

原作とほんの少しだけ異なるところもあれば、大胆な改変を加えたところもある。それらの変化を好意的に受け止めるか、それとも否定的に評価するかは、意見が分かれるところだろう。しかし、一つはっきりと言えることがあるとすれば、今作のトレーラーを作った人間は万死に値する・・・とまでは言わないが、はっきり言って猛省をしなければならない。これから本作を観ようと思っている人は、できるだけ予告編やトレーラーの類からは距離を取られたし。

 

あらすじ

富田誠(田中圭)は営業先に向かうタクシーにスマホを置き忘れてしまう。恋人の稲葉麻美(北川景子)が電話したところ、たまたまそのスマホを拾ったという男に通じ、横浜の喫茶店に預けるというので、ピックアップすることになった。しかし、その時から富田のクレジットカードの不正利用やSNSのアカウント乗っ取りなど、誠と麻美の周辺に不穏な動きが見られるようになる。時を同じくして、山中から黒髪の一部を切り取られた女性の遺体が次々と見つかり・・・

 

ポジティブ・サイド

犯人の怪演。まずはこれを挙げねば始まらない。少年漫画と少女漫画を原作に持つ映画が溢れ、役者というよりもアイドルの学芸会という趣すら漂う邦画の世界で、それでもこのような役者が出て来てくれることは喜ばしい。頑張れば香川照之の後継者になれるだろう。

 

童顔と年齢のギャップでかわいいと評判の千葉雄大もやっと少し殻を破ってくれたか。刑事として奮闘するだけではなく、序盤に見せた容疑者を鼻で笑う表情に、何かが仕込まれた、もしくは何かを背負ったキャラなのかと思わされたが、その予感は正しかった。役者などというものはギャップを追求してナンボの商売なのだから、もっともっとこのような演出やキャスティングを見てみたいものだ。

 

本作は観る者に、現代の人間関係がいかに濃密で、それでいていかに空虚で希薄なのかを思い知らせてくれる。ちょっとした録音メッセージ、メール、テキスト、スタンプなど、生身の触れあいなどなくとも、スマホを介在して何らかのコンタクトをするだけで、人は人を生きているものと考えてしまうことに警鐘を鳴らしている。この点について実にコンパクトにまとめているのが、THIS IS EXACTLY WHAT’S WRONG WITH THIS GENERATIONというYouTube動画である。英語のリスニングに自信がある、または自動生成の英語字幕があれば意味は理解できるという方はぜひ一度ご視聴いただきたい。

 

ネガティブ・サイド

原作小説と映画版では色々と違いが見られるが、その最大のものは麻美の設定であろう。はっきり言ってネタばれに類する情報なのだが、なぜかトレーラーで思いっきり触れられている。なぜこのようなアホなトレーラーを作ってしまうのか。そのトレーラーの北川景子も髪の長さが全く違って、なおかつ踏切の中に佇立するという、いかにもこれから死にますよ的な雰囲気を漂わせている。もうこれだけで、原作を既読であろうと未読であろうと、仕込まれた設定がほぼ読めてしまう。実際にJovianは観る前からこの展開の予想はできていたし、そのような人は日本中に1,000人以上はいたのではなかろうか。原作のその設定が映画的に活かしきれない、難しい、微妙だ、というのなら、その痕跡自体も消し去ってほしかった。なぜ冒頭のシーンで北川景子のキャット・ウォークをヒップを強調するカメラアングルで捉える必要があったのか。それは麻美がアダルトビデオに出演していた過去を持っていたからに他ならない。このあたりは中高生も注意喚起の意味で見るべき作品としての性格からか、全く別の設定に変えられているが、それなら痕跡すら残さず一切合財を変えてしまうべきだった。この辺りはエンディングのシークエンスでも強調されていることなので、なおのことそう思ってしまった。

 

また犯人像があまりにも分かりやす過ぎる。これも原作の既読未読にかかわらず、分かる人にはすぐ分かってしまう。もちろん、トリックらしいトリックを使う、いわゆるミステリとは異なるジャンルの作品なのだから、そこは物語の主眼ではない。しかし、驚きは最も強烈なエンターテインメントの構成要素なのだ。だからこそ我々は「ドンデン返し」というものに魅せられるのである。本作はこの部分が圧倒的に弱い。これはしかし、同日に『 search サーチ 』という近いジャンルに属する圧倒的に優れた作品を鑑賞したせいであるかもしれない。いや、それでも映画化もされた小説『 アヒルと鴨のコインロッカー 』というお手本であり、乗り越えるべき先行作品もあるのだから、そのハードルは超えて欲しかったが、本作はそのレベルにも残念ながら達していない。

 

総評

もっともっと面白い作品に仕上げられたはずだが、残念ながら原作小説以上の出来にはならなかった。時間とお金に余裕があるという人は、是非『 search サーチ 』と本作の両方を観て、比較をしてみよう。前者の持つ突き抜けた面白さが本作にはなく、極めて無難な映画になっていることに否応なく気付かされてしまうだろう。北川景子ファンならば観ておいても損は無い。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, ミステリ, 北川景子, 日本, 田中圭, 監督:中田秀夫, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 スマホを落としただけなのに 』 -スマホという楔は人間関係を割るのか繋ぎ止めるのか-

『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

Posted on 2018年10月29日2019年11月4日 by cool-jupiter

ここは退屈迎えに来て 50点
2018年10月25日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:橋本愛 門脇麦 成田凌 渡辺大知
監督:廣木隆一

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181029013048j:plain

以下、ネタばれに類する記述および私的考察あり

 

小説でも映画でもゲームでも、まず手に取ってみたくなる、もしくはクリックしてみたくなるのは、そのタイトルが魅力的なものである時だ。タイトルが魅力的というのは、こちらがそのタイトルの意味をもっと深く知りたい、と思わせるような妖しい力を持っているということだ。少年時代に『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』と出会った方々ならば、そのタイトルの不可思議さに惹き付けられた記憶、印象が鮮明であると思う。本作はしかし、先行する魅力的なタイトルを持つ映画と同じレベルに達しなかった作品である。

 

あらすじ

私(橋本愛)は東京で過ごすこと10年、「何者」かになることができず地元に帰り、フリーのタウン誌の記者をしている。ある時、友人の誘いで高校時代の憧れの存在だった椎名(成田凌)に会いに行くことになる。一方では、高校時代の椎名の彼女「あたし」(門脇麦)は、地元の冴えない男と付き合いながらも、椎名のことを吹っ切れずにいる。青春の輝き、東京への憧憬、椎名という太陽のような存在。誰もが何かを抱えて生きていく姿を、時系列を変えて、オムニバス的に活写していく作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、最も強く印象に残ったのは渡辺大知演じる新保だった。Jovianの気のせいなのかも知れないが、おそらくゲイもしくはバイセクシャル、もしかしたらトランス・ジェンダーなのではなかろうか。本人がそれを自覚できていないのかもしれないが。煙草の吸い方が、男のそれではないように思えて仕方がなかった。また、終盤に新保が原付きで疾走する場面があるのだが、そこでの光の使い方には是非とも注目してほしいと思う。あれは乳房の象徴にしか見えなかった。独特の哲学を持つキャラで、「幸福であるためには、まず何よりも孤独であれ」などとまるでアリストテレス哲学のような思想を披歴してくれる。彼の幸福論および死生観は、Jovianのそれと近く、ある観客によっては非常に強く共感でき、また別の観客によっては嫌悪の対象となろう。どう感じるか気になる方は、劇場へ行くべし。

 

本作は『 桐島、部活やめるってよ 』と同工異曲の青春群像劇である。青春というよりも、モラトリアムと言った方が近いだろうか。椎名という太陽のような存在に照らされていた高校時代が、ある者にとっては神話的な崇高さを帯びているところが、滑稽ではあるがリアリティの源泉にもなっている。程度の差こそあれ、こうした傾向は青春を完全な過去という遠近法で見られる人にならば、ある程度共通してみられるものだ。アメリカのちょっとしたテレビドラマや映画の同窓会シーンでは、アメフトの試合のあのパスが云々、野球の試合のあの補殺が云々、プロムで誰それと誰それが云々・・・ 人は誰もが否応なく成長するが、その成長を拒む人もいるし、個人の内面レベルで成長を拒む部分も存在する。そうした、ある意味では非常にダークな心の領域を本作は見事にあぶり出す。同様のテーマの作品に興味があれば、『ワン・ナイト』(原題は”Ten Years”)をお勧めしたい。

 

この作品の特徴として、閉鎖空間でのロングのワンカットを多用するということが挙げられる。ワンカットと言えば『 カメラを止めるな! 』が近年の白眉だが、こちらは車内、室内、ファミレス内、ラブホ内、ゲーセン内と、とにかく閉鎖空間での撮影にこだわりを見せる。このことが、観る者に否応なしに最も閉鎖された空間=人間の心を意識させる。本作は椎名という太陽に照らされた者たちと、椎名の陽の部分にまったく興味のない者たちとに二分される。そんな彼ら彼女らの紡ぐアンソロジーを、時系列をバラバラに描くのだが、全てが終盤近くのとあるシーンに収斂するにつれて、その意図が見えてくる。製作者が観客を信頼しているということで、私的に評価したい。

 

そうそう、本作はタイトルをスクリーンに映し出すシーンが完璧なのである。『 アメリカン・アサシン 』並みに素晴らしい。これがあるから、色々とケチをつけたくなる箇所があっても、上手くまとまったなという印象を持てるのだ。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 勝手にふるえてろ 』で使われたネタである。こうしたトリックというかツイストは、どうやっても最初に使った者/物の勝ちなのである。もしも『 勝手にふるえてろ 』を未見なら、すぐに観よう。

 

渡辺大知と片山友希以外の若手キャストが、全体的に力不足である。特に橋本愛は、役者業は厳しいかもしれない。『 貞子3D 』や『 Another アナザー』のように、あまり喋らない役であれば良いが、基本的に台詞に抑揚が無さ過ぎる。棒読みとまでは言わないが、どんな作品に出ても、結局は「ああ、いつもの橋本愛か」と思えてしまう。これがニコラス・ケイジやトム・クルーズのレベルにまで突き抜けてしまえば良いのだが、日本でそんな俳優はあまり見当たらない。強いて言えば北野武ぐらいか。本人が本人を演じるのが一番うまいというタイプの役者だ。あるいは、どんな役も自分色に染めてしまうという、演技力ではなく素の存在感、カリスマ、オーラ、そういったもので勝負できる力。橋本愛はそのレベルにはいないし、今後も行かないだろう。と書いてきて、もう一人思い当たった。樹木希林である。一癖あるおばあちゃんキャラは全部この人だった。『 万引き家族 』然り、『 海街Diary 』然り、『 我が母の記 』然り。合掌。

 

閑話休題。本作の最大の弱点(になっているかもしれない)ポイントは、東京に住んでいる人間に、果たしてどれだけ響くかということだろう。ここで言う東京とはもちろん東京都のことではない。地理的あるいは行政的な区分での東京は、東京ではない。Jovianも東京のど真ん中(地理的な意味で)に10年半住んでいたことがあるから分かる。我々が東京と言う時、それは往々にして山手線の内側もしくは周辺であったり、吉祥寺、高円寺、中野などのちょっとした離れ、隠れ家的な雰囲気の街までである。立川は決して東京ではない。況や奥多摩をや。実際にJovianの大学のクラスメイト(正確にはセクションメイト)が、「私は浦和(当時はまだ浦和市だった)に住んでるから、池袋まで40分ぐらい。八王子の人は新宿に出るのに50分ぐらいかかるから、その意味では浦和は八王子より東京なんだよ」と言ったのをよく覚えている。また寮の同級生も「木更津は確かに遠いけど、アクアライン通ったら近いんだっつーの」と言っていたのも覚えている。東京には強烈な重力がある。東京までの距離の近さを競うような意識が近隣の県や市町村にあり、それは東京都内でも同じだった。そうした東京の内部にどっぷり浸かっている人は、本作を見て「超楽しい」と言うだろうか。それとも悲憤慷慨するだろうか。おそらくどちらでもない。無関心を装うか、無関心を貫くかだろう。東京に住んだことがある、あるいは東京の空気がどんなものかを知っていなければ、本作のアイロニーが届かないというのは残念なことだ。

 

総評

観る人を相当に選ぶだろうなと思う。高校生以下はおそらく除外されるし、40代以上の男性にとっては精神的にきつい描写がある。ガールズトークが花開くシーンはそれなりに楽しめるので、「私」もしくは「あたし」に近いアラサー女子にこそ観られるべき作品であるのかもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 成田凌, 日本, 橋本愛, 渡辺大知, 監督:廣木隆一, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

『 アラサー女子の恋愛事情 』 -邦題をつけた担当者に天誅を-

Posted on 2018年10月28日2019年11月3日 by cool-jupiter

アラサー女子の恋愛事情 45点
2018年10月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キーラ・ナイトレイ クロエ・グレース・モレッツ サム・ロックウェル
監督:リン・シェルトン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181028010707j:plain

原題は ”Laggies” である。監督のリン・シェルトンは当初は本作の舞台をオレンジ・カウンティにしようとしていたようである。オレンジ・カウンティと聞いてピンとくる人はかなりの大谷翔平ファンであろう。そう、カリフォルニア州オレンジ郡なのである。しかし、様々な事情から舞台はシアトルに移る。このYouTube動画によると、シアトル(の一部の界隈、一部の世代?)では、Laggieという言葉を、友人や仲間を指す時に使うらしい。本作を鑑賞すれば、Laggiesとは誰のことを指すのかが分かる。それにしても、このようなふざけた邦題が付けられてしまうメカニズムとは一体何であるのか。映画ファンはもっと真剣に呆れ、怒ってもよいはずだ。

 

あらすじ

大学院卒の肩書を有しながら、仕事と言えば公認会計士の父親の事務所の看板持ちという28歳のメーガン(キーラ・ナイトレイ)は、女友達やボーイフレンドに囲まれ、それなりに幸せに暮らしていた。しかし、あるパーティーであるものを目撃したことでパニックになる。ひょんなことから知り合ったアニカ(クロエ・グレース・モレッツ)の家に匿ってもらうのだが、アニカやその友人たちの交流、そしてアニカの父親のクレイグ(サム・ロックウェル)との出会いにより、彼女は変化を自覚し始める・・・

 

ポジティブ・サイド

主要キャラの中では、キーラ・ナイトレイが最も素晴らしかった。コテコテのブリティッシュ・イングリッシュしか話せないと思っていたが、どうしてなかなかアメリカン・イングリッシュも上手い。また、同世代の仲間たちとの微妙なズレを知ってか知らずか際立たせてしまう、いわゆる空気の読めないキャラクターであることを絶妙な不器用さで序盤はに描き切った。この部分の説得力の有無が、物語のクライマックスの成否に関わってくるのだが、ひとまず合格点を与えられる。

 

サム・ロックウェルはちょいワル親父の雰囲気を存分に醸し出す安定の演技力を披露。この人の真価は、『 グリーンマイル 』や『 スリー・ビルボード 』のように、目には見えないものの、しっかりと圧を発するというか、ヤバい奴オーラとでも言おうか、底知れなさが魅力なのだが、どうしてなかなか普通のおっさんキャラもいける。『 プールサイド・デイズ 』のような、positive male figureを演じられる役者として、まだまだ出番は絶えないだろう。

 

ネガティブ・サイド

このあたりは主観になるが、キーラ演じるメーガンと観る側の距離感によって、彼女は最高のキャラであり、また最低のキャラにもなりうる。Jovianの目には、最低に近いキャラに映った。それは演技力の勝利でもあるのだが、脚本としては失敗であろう。第一に、自分の親が過ちを犯してしまうところで酷く動揺するのだが、自分も全く同じ構図の過ちを犯してしまうところ。しかも、こちらの方が性質が悪いというおまけ付き。第二に、人間関係というのは常に変化し続けるものだという尊い教えを得たというのに、結局その人間関係に引きずられて、切るべきところを切らずに、切らなくていいところを切ってしまうというトンデモな決断をしてしまう。これは我が妻もドン引きしていたので、あながち男目線だけによる一方的な分析ではないはずである。第三に、アニカという10歳も年下の女子相手にすることで自尊心を回復させてはいけない。もちろん、そんなことをするようなダメ人間だからこそ愛おしいと思える人もいるはずだ。しかし、『 はじまりのうた 』でヘイリー・スタインフェルドに余裕たっぷりに講釈を垂れたのとは、画的にはそっくりでも、その内実は全くもって異なる。あちらは大人と子ども、こちらは子どもと子どもだからだ。

 

サム・ロックウェルも、弁護士という、ある意味で人間の真実と嘘の最前線に立つ職業でありながら、キーラの咄嗟の出まかせにあっさり騙されるのは少し不可解だった。

 

全体的に見れば、アラサー女子なる不可解なワードは、映画の内容をしっかり伝えるためではなく、本作を手にして安心をしてほしい(と広告代理店などが思う)人、つまり30歳前後の仕事もプライベートもどこか地に足のつかない女性を対象にしているからなのかと妙に納得できる。『 ブリジット・ジョーンズの日記 』よろしく、ある意味で自分は何も変わらずに幸せを掴みたいという夢を見るだけの人は、本作で大いに勇気づけられるのかもしれない。そんな人は少数派だろうと信じでいるが。

 

総評

邦題に騙されてはいけない。そこまで浅はかな作りではない。しかし、練りに練られた作品かと問われれば、答えは否。結婚を意識していないカップルが、雨の日のお部屋デートに鑑賞して、気まずくなるのか、それとも真剣に将来に向き合おうとするのか、そこは分からないが、なにやらそうしたカップルのリトマス試験紙的な意味でなら、鑑賞する価値はあるかもしれない。すでに結婚している人や、高校生以下の人は敢えて観るまでもない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 未分類Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, クロエ・グレース・モレッツ, サム・ロックウェル, ラブロマンス, 監督:リン・シェルトンLeave a Comment on 『 アラサー女子の恋愛事情 』 -邦題をつけた担当者に天誅を-

『 ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬 』 -可もなく不可もないファンタジー-

Posted on 2018年10月25日2019年11月3日 by cool-jupiter

ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬 50点
2018年10月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ブルー・リチャーズ ヨアン・グリフィズ ティム・カリー
監督:ガボア・クスポ

 

近所のTSUTAYAで、“J・K・ローリングのお気に入り”という触れこみに惹かれてレンタル。あまり期待はしていなかったが、王道というか正直というか、素直に100分ほどの時間が流れた。当たりではないが、外れと断じるほどでもないという印象。

 

あらすじ

父をがギャンブルで借金をこさえたまま死亡してしまったため、マリア(ダコタ・ブルー・リチャーズ)はロンドンから遠く離れたムーンエーカーの領主ベンジャミン・メリウェザー(ヨアン・グリフィズ)に引き取られることとなる。父の残した本と養育係ヘリオトロープだけを共にムーンエーカーへ向かうも、ド・ノワール族に襲われたり、不思議な幻を見たりと、マリアの身の回りに不可解な出来事が頻発する。それは、ムーンプリンセスの伝説とその呪いが原因で、その呪いを解くためのタイムリミットはすぐそこまで迫っていたのだった・・・

 

ポジティブ・サイド

マリアを演じたダコタ・ブルー・リチャーズは、ロシアのフィギュア・スケーターのようと言おうか、妖精のような妖しい魅力を放っていた。彼女を見るだけでもオッサン映画ファンは癒されるのではないか。

 

そして『 ファンタスティック・フォー 』シリーズのミスター・ファンタスティックでお馴染みの好漢ヨアン・グリフィズの嫌な男の演技。これが以外にハマる。しかし、どういうわけか物語が進むにつれて、嫌さが薄れ、可哀そうな男に見えてくるから不思議だ。本作では存分にウェールズ訛りで話しているので、余計に生き生きと聞こえる。それが気難しい領主役に味わいを与えている。

 

副題にある、秘密の館の秘密の大部分を司るファンタジーには非常にありがちなキャラが、実に重厚な存在感を発揮する。こういう重々しくも、軽いノリのキャラクターを演じきれるキャラクターは、ミゼットを除外するにしても、日本にはなかなか見当たらない。子のキャラだけで、ファンタジー要素の半分以上を体現したと言っても過言ではない。

 

ネガティブ・サイド

マリアに付き添うミス・ヘリオトロープが事あるごとに burp = げっぷをするのには何か意味があったのだろうか。『 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 』(アニメ版)の「いい女を見るとうんこしたくなる」並みにどうでもいいネタだ。

 

また、ティム・カリーの存在感がイマイチなのは、やはり IT = イットのピエロ役の影響が強すぎるからか。ティム・カリーとジョニー・デップは、素顔またはメイクが薄い役をやると外れになる率が高い気がする。『 シザーハンズ 』、『 パイレーツ・オブ・カリビアン 』は当たりで、他は・・・『 ダークシャドウ 』など例外もあるが、『 トランセンデンス 』は酷い出来だった。

 

閑話休題。キャストで最も残念なのは初代のムーン・プリンセス。ちと大根過ぎやしないか?特にムーンエーカー谷に呪いがかけられる大事な場面での長広舌はあまりに硬すぎるし、棒読み過ぎる。

 

また、ややネタばれ気味だが、副題にもあるまぼろしの白馬は特に重要な役割を果たすことはない。まあ、原題は ” The Secret of Moonacre” =「ムーンエーカー峡谷の秘密」なので、これはちと説明過剰である。

 

総評

大人が真剣に鑑賞するには厳しい部分もあるものの、『 くるみ割り人形と秘密の王国 』に出演しているマッケンジー・フォイ以上にインパクトのあるダコタ・ブルー・リチャーズとの出会いだけでもレンタルの価値はある。ライトなファンタジーを楽しみたい向きならば、鑑賞しても時間の無駄になることはないだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, イギリス, ダコタ・ブルー・リチャーズ, ティム・カリー, ファンタジー, ヨアン・グリフィズ, 監督:ガボア・クスポLeave a Comment on 『 ムーンプリンセス 秘密の館とまぼろしの白馬 』 -可もなく不可もないファンタジー-

『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』 -聖書的寓話を詰め合わせた説教映画-

Posted on 2018年10月21日2019年11月3日 by cool-jupiter

アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 50点
2018年10月19日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:サム・ワーシントン オクタビア・スペンサー
監督:スチュアート・ヘイゼルダイン 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181021222129j:plain

説教と評させてもらったが、いわゆるお小言の意味ではない。言葉そのままの意味での説教である。つまり、宗教的な教えを説くことである。では、宗教とは何か。宗教はどのように定義されているのか。これについては古今東西のあらゆる思想家が、まさしく百家争鳴してきた。いくつかの卓抜な定義の一つに、加地伸行がその著書『 儒教とは何か 』で開陳した「宗教は、死および死以後の説明者である」というものがある。これだけで宗教なるものの十全な定義とは個人的には承服しがたいが、しかし宗教を定義するに際して欠くべからざる部分をしっかりと押さえているのは間違いない。人は何故に死ぬのか。特に無辜の良民が戦争や災害に巻き込まれて死ぬのは何故なのか。罪のない幼子が病魔や犯罪によって命を奪われるのは何故なのか。こうした悲劇と無縁な人もいるだろうが、それでもこうした問いと無縁な人がいるとは思われない。その意味で、欠点は多々あるものの、本作は十分に世に送り出される意味はあったのかもしれない。

 

あらすじ

マック(サム・ワーシントン)は、父の振るう理不尽な暴力に母と共に耐える少年時代を過ごした。そんなマックも成人し、結婚し、子を持つようになった。ある湖畔に家族でキャンプをしている時、マックの愛娘が姿を消す。連続誘拐殺人藩にさらわれた可能性が高い。ある小屋で娘の血染めの服が見つかるが、本人は見つからず。遺体のないまま葬儀が執行される。家族の不和は広がる。ある日、「あの小屋で待っている」という謎の手紙がマックに届く。差出人はパパ、これは家族の中だけで通じる暗喩で神のことだ。マックは家族を遠出させ、山小屋に一人で向かっていく・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭からオクタビア・スペンサーが世話焼きなおばちゃんとして登場するが、何故に彼女はこうした役が異様に似合うのだろうか。『 ヘルプ ~心がつなぐストーリー~ 』然り、『 シェイプ・オブ・ウォーター 』然り、『 gifted ギフテッド 』然り、『 ドリーム 』然り。日本で今、母親役と言えば吉田羊なのかもしれないが、アメリカでおばちゃん役と言えば、オクタビア・スペンサーであろう。彼女の豊満で包容力ある演技を堪能したい向きはぜひ観よう。

 

ネガティブ・サイド

サム・ワーシントンは、broken-heartedの父親役で存在感を示した。ただ、ちょっと男前過ぎるか。ニコラス・ケイジが『 ノウイング 』で見せた哀切と安堵の入り混じった二律背反的な演技を求めるのは少し酷だろうか。彼の父親としての苦悩が、より静かに、しかし確実に観る者に伝われば、ドラマはもっと盛り上がったに違いないのだが。

 

本作の最大の弱点は、あまりに宗教色を強く出しすぎたところだろうか。登場人物が足繁く教会に通うからではなく、あまりにも聖書的な寓話の要素が強いからだ。旧約聖書のヨブ記に描かれる義人ヨブの如く、マックは苦難と絶望に何の前触れもなく落とされる。ヨブのように声高く神に抗議しないのは、自身の信仰心の薄さを自覚していたからなのか。神の愛については、小説および映画の『 沈黙 サイレンス 』が逆説的に描いた。これがあまりにもハードすぎるのであれば、旧約聖書のヨナ書がお勧めだ。わずか4ページほどの非常に人間味あふれる寓話である。神は小市民のヨナに対して、誠に人情味ある答えをしてくれる。もちろん、異なる宗教の神は異なる方法で人間に接するものであるのだが。

 

本作のテーマは“赦し”であると言えよう。娘の死を受け止められない父親が、それを芯から受け止めるためには、下手人をその手で殺すことが考えられる。だが、それをしても娘は決して浮かばれない。『 ウィンド・リバー 』、『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』が一定の答えを提示した、愛する者の死の受容と赦しが本作でも描かれるが、その点に弱さを感じる。本作は果たしてドラマなのか、それともファンタジーなのか。『 オズの魔法使 』的に、観る者を惑わせるのだが、その手法もやや陳腐だ。そうした見せ方そのものは批判しないが、もう少し洗練された方法で説得力を持たせてほしかった。

 

総評 

誰にでも手放しで絶賛してお勧めできるタイプの作品ではない。人によっては怒り心頭に発してもおかしくない描写があるので、異なる文化圏の異なる思想信条を持つ人たちの物語であることを踏まえなければならない。ここのところを納得できれば、もしくは適切な距離感を自分で保つことができれば、大人の鑑賞に耐えうる作品にはなっていると言えよう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, オクタビア・スペンサー, サム・ワーシントン, ファンタジー, 監督:スチュアート・ヘイゼルダイン, 配給会社:アルバトロス・フィルム, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』 -聖書的寓話を詰め合わせた説教映画-

『 スターシップ9 』 -どこかで観た作品のパッチワーク-

Posted on 2018年10月19日2019年11月1日 by cool-jupiter

スターシップ9 40点
2018年10月16日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クララ・ラゴ アレックス・ゴンザレス
監督:アテム・クライチェ

 

シネマート心斎橋またはシネ・リーブル梅田で鑑賞するはずだったが、色々と重なり未鑑賞のままだった作品。閉鎖空間SFは、Jovianのまあまあ好物テーマなのである。この分野の傑作と言えば『 エイリアン 』であり『 CUBE 』だろう。また、少ない登場人物でスリルやサスペンスを生み出すのはフランスの小説や映画の技法だが、今作はスペインとコロンビアの合作である。期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

エレナ(クララ・ラゴ)は、独り恒星間宇宙船に乗っていた。ある時、空気の循環システムに故障が発生、近くの船に救難信号を送った。そこにやって来たのはエンジニアのアレックス(アレックス・ゴンザレス)。朴念仁のアレックスだったが、すぐにクララとまぐわい、惹かれ合う。故障も修理され、アレックスは自分の船に還っていく。クララも自分の旅を続けていく。しかし、アレックスにはある秘密があった・・・

 

ポジティブ・サイド

宇宙に漂う船に乗組員は一人。船内には無機質な機械音と、AIによる音声だけが響く。誰がどう見ても『 2001年宇宙の旅 』を想起させる設定である。もちろん、ほとんどの全てのSF(Space Fantasy)映画はキューブリックに多くを負っているわけで、そこから陸続と名作、傑作が生まれてきた。『 エイリアン 』や『 スター・ウォーズ 』のオープニングの巨大な宇宙船のショットは、いずれも『 2001年宇宙の旅 』にインスパイアされたものだ。本作はどうか。少し違う。本作がその名を連ねるべき系譜は『 パッセンジャー 』や『 月に囚われた男 』のそれである。非常に狭い空間を描くことで、宇宙の広大さと人間の心の孤独の深さの両方を描いているからだ。同時に、これらの映画(だけではなく、あれやこれらのSF作品)に通じている人は、本作の見せる展開に満足するであろうし、同時にがっかりもするであろう。この辺りは完全に個人差と言うか、style over substance とでも言おうか。雨の日にSFでも観るかぐらいの気分で再生するのが吉だ。

 

ネガティブ・サイド

自分の中で盛り上がりすぎていたせいか、イマイチ話に乗って行けなかった。例えば『 エイリアン 』は、それこそクルーの面々があまりにも普通にプロフェッショナルだった。宇宙船を飛ばすのは、船の操舵や飛行機の操縦よりも簡単な、大型バスを走らせるような、もしくは工場のアセンブリーラインを操作するかのようなカジュアルさが、テクノロジーの進化を何よりも如実に物語っていた。本作は、いきなり船が故障するわけで、もちろんそこから発生する素晴らしい物語も無数に存在する。賛否両論の『 ゼロ・グラビティ 』が一例か。

 

本作は、多くの先行作品に敬意を払うあまりに、オリジナリティをどこかに忘れてきてしまっている。率直に言わせてもらえば、本作のプロットは(そのツイスト=どんでん返しも含めて)下北沢の芝居小屋で見れそうなほど陳腐だ。構造的に全く同じ物語は『 世にも奇妙な物語 』でも見られた。そして、またもや森博嗣の『すべてがFになる』ネタである。SFはたいていの場合、時間と共に風化してしまう。なぜならテクノロジーや知識の進歩が、ほとんど常に物語を陳腐化させる方向に働くからだ。それを防ぐには、根源的な問いを作品をして発せしめるか、何よりもユニークな方向に作品を持っていくかをするしかない。本作は、残念ながら、そのいずれも果たせていない。

 

総評

新しいもの、もしくはSF的なアクションを期待すると失望を覚えること必定である。SF映画はそれこそ星の数ほどあるのだから、レンタルショップで適当に借りてきても、おそらく5割程度の確率でこれよりも面白い作品に出会えるはずだ。もちろん、この数字はその人の映画鑑賞歴によって上下する。ただし、もしも貴方が自らをして熱心なSF映画ファンであると任じるなら、本作に過度の期待を抱いてはならない。もしも貴方がライトなSFファンということであれば、本作を手に取る価値はあるだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アレックス・ゴンザレス, クララ・ラゴ, コロンビア, スペイン, 監督:アテム・クライチェ, 配給会社:熱帯美術館Leave a Comment on 『 スターシップ9 』 -どこかで観た作品のパッチワーク-

『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

負け犬の美学 50点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:マチュー・カソビッツ
監督:サミュエル・ジュイ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181018164103j:plain

勝ち組、負け組・・・ いつの頃からか、一億総中流だった日本も、経済的に裕福な家庭・世帯とそうではない家庭・世帯に二極分化が始まった。そうした中、可分所得の多くを自分の趣味に費やす者に、オタクの蔑称もしくは別称がつけられた。そして時は流れ、今では多くの人間が自分の趣味に生きることに充実感を見出している。好きなことをして生きる。それは幸せなことだ。しかし仙人ならぬ我々は霞を食っては生きられない。金を稼ぎ、食い物を喰い、わが子を育てなければならない。これはボクシング映画ではなく、泥臭く生きるオッサンとその家族の物語なのである。

 

あらすじ

スティーブ・ランドリー(マチュー・カソビッツ)はしがない中年プロボクサー。戦績は見るも無残な49戦13勝3引き分け33敗。45歳という年齢を考えれば、普通のボクサーならとうの昔に引退しているか、引退勧告を受け入れざるを得ないところだ。愛する妻と子どもには、50戦したら引退すると約束している。ある日、ひょんなことから欧州王者を目指すボクサー陣営がスパーリング・パートナーを探していることを知ったスティーブは、食いぶちのためと必死に自分を売り込み、見事にその仕事をゲットする。しかし、年齢や緊張から体が動かず、一日で解雇宣告。それでもしがみつくスティーブ。家族のために、自分のために、スティーブのキャリア最後の大勝負が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、マチュー・カソビッツが相当にボクシングのトレーニングを積んできたことが分かるし、監督が切り取ってくる画にリアリティを感じた。そこは評価せねばなるまい。冒頭の試合後のスティーブが、トイレで血尿を流すシーンがあるが、これなどは実際にボクサーに取材をしなければ出てこない画だろう。中には血尿など出したことがないというボクサーもたまにいるのだが(日本ではキャリア最盛期までの長谷川穂積など)。

 

そして元プロボクサーのソレイマヌ・ムバイエの起用。本人は実はカソビッツとそれほど年齢は変わらないが、減量無しで数分間のスパーなら、まだまだキレのある動きができるのだということを、これでもかと見せつける。日本で現役・引退を問わずにドラマや映画に出演したというと、『 乙女のパンチ 』で若き蟹江敬三役を(一瞬だけ演じた)河野公平がまず思い浮かぶ。清水智信も何かにちらっと出ていたような・・・ それでも日本のボクサーが、ドラマや映画、何なら舞台でもいい、でボクシング技術を披露することはあまりなかったし、今後もなさそうだ。これは不幸なことであると思う。一時期、内藤大助がバラエティで島田紳助らを相手にマスボクシング(もどき)や本格的(っぽい)スパーをしていたが、ボクシングおよぼボクサーをそういう風に扱うのは止めてもらいたい。

 

閑話休題。ボクシング映画と言えば何を措いてもやはり『ロッキー』シリーズだが、2や3あたりでは、明らかに当たっていないパンチでスタローンがのけぞるなどのショットが散見された。本作にはそれはない。そこは安心して観ていられる。また、ロッキーとエイドリアンのちょっとしたデートがたまらなくロマンティックに思えたの同様に、スティーブとその妻との間にも、実にほんわかとした夫婦ならではなショットがある。具体的に言うと、妻がスティーブの顔を手当てしている最中に、自分の尻を触らせるのだ。これは、同じくフランス映画の『 ロング・エンゲージメント 』でベッドで眠るマチルドがマネクに胸を触らせた瞬間と、画的にも意味的に相通じるものがある。

 

また、スティーブをただのボクシング馬鹿にしてしないところも良い。彼は何よりも父親で、才能ある娘のためにもピアノ代を稼がねばならない。そのためには何だってやるしかない。娘にはパリの学校に行かせたいのだとショー・ウィンドー前で決意する姿は、『 リトル・ダンサー 』におけるビリー・エリオットの父親を彷彿させた。この映画はボクシング映画ではなく、父親映画、中年オヤジの奮闘記なのだ。ボクシング映画はちょっと・・・という向きにも、そうした意味ではお勧め可能である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、いくつかの欠点、弱点も存在する。最も大きなものは2つ。一つはスティーブがロッカールームで着替える時に、ファウルカップを装着しなかったこと。下着の上から装着して、そのままボクシング・トランクスを履く場合と、スパーリング限定だが、トランクスの上からそのままつけるファウルカップというのもある。そのいずれもスティーブはつけずにスパーに臨む。考えられないボーンヘッドだ。製作者は誰も気がつかなかったのだろうか。最初に観ていた時は、パンチドランカーになって認知症的な症状を呈し始めているのか?と疑ってしまったほどだ。映画の面白さを支えるのは何よりもリアリティなのだ。血尿シーンをさりげなく挿入できる監督にしてこのミスは痛い。

 

もう一つは、スティーブがスーパーで野菜や果物を買う場面。あろうことか重さを誤魔化すのだ。もちろん、そういうせこい真似をする人間は、洋の東西を問わずどこにでも存在する。しかし、誰よりもウェイトに気を使うべきボクサーという人種を描写するに際して、これだけはやってはいけない。一時期、世界トップのボクシングシーンでは、キャッチウェイトなる興行優先主義の体重設定が人気カードで多く採用され物議をかもした。最近ではキャッチウェイトでの試合というのは、ほぼ耳にしなくなったし、目にも入ってこない。良いことである。ボクシング関係者がいかにウェイトに重きを置くかは、今春に行われた山中慎介 vs ルイス・ネリの再戦で知ったという人も多いのではなかろうか。個人的には、ネリは縛り首にすべきとすら感じたし、試合も断行すべきではなかったと感じている。それは同じく今春の比嘉大吾のウェイとオーバーにも当てはまる。これはハンドラーの具志堅が悪いのだが、とにかく体重、ウェイトに対して真摯で誠実であるべきボクサーが、野菜や果物を重量を誤魔化すというのは、個人的にどうしても受け入れられなかった。スティーブがダメボクサーであることは、煙草を吸う描写で十分だろう。

 

他にも、ムバイエやスティーブがスーパー・ミドル級というのは、少し無理があるのではないか。ムバイエは現役時にスーパー・ライト級で、両階級では12 kg以上のウェイトの開きが存在する。スーパー・ミドル連中の walk-around weight は80キロ台後半だ。スティーブをこの階級に持ってくるのは、画的にも現実的にも無理があった。ハードコアなボクシングファンには、片目をつぶって観るように、というアドバイスを送るしかない。

 

総評

小学校高学年ぐらいの子どもなら話の趣旨は理解できるだろうし、日本でもスティーブに共感する中年オヤジは数多くいることは間違いない。デート・ムービーには向かないが、ある程度以上の年齢の娘や息子がいる父親は、家族の団らんに本作を利用するのも一つの手かもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, フランス, マチュー・カソビッツ, 監督:サミュエル・ジュイ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

Posted on 2018年10月16日2019年11月1日 by cool-jupiter

散り椿 50点
2018年10月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:岡田准一 西島秀俊 麻生久美子
監督:木村大作

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181016103251j:plain

散り椿

すっかりアイドル路線から俳優路線にシフトした岡田准一である。しかし、出身地である大阪府枚方市ではご当地ひらパー園長を務め、大真面目に面白おかしいひょうきん兄さんを演じる好漢でもある。ヒット作品もイマイチな作品も、岡田准一なのだからと妙に納得できる力をつけてきている。そして、出番こそ少ないものの麻生久美子である。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』では男子高校生の欲情を微妙に、絶妙にそそる駐在妻を演じ、『 シーサイドモーテル 』では娼婦を、『 モテキ 』、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、『 ラブ&ピース 』あたりでは幸薄い大人の女を演じるなど、常にそこはかとない色気を振りまいてきた麻生久美子である。これだけで映画の成功は半分は約束されていたはず、だったが・・・

 

あらすじ

剣の達人にして清廉の武士、瓜生新兵衛(岡田准一)は、藩の上層部の不正を届け出た。しかし調査の最中、ある藩士が殺害された。その下手人としての疑いが新兵衛にかけられたことで、新兵衛は、妻の篠(麻生久美子)と共に出奔。それから八年、篠の死を看取った新兵衛は、藩政の正道化を目指すかつての仲間にして出奔の原因ともなった榊原采女(西島秀俊)のいる国もとを訪れる。藩政の行方が懸かった権力闘争に、新兵衛も巻き込まれていく・・・

 

ポジティブ・サイド

殺陣の迫力と、その長回しでの収録には恐れ入った。西部劇にドンパチ対決がなくてはならないように、時代劇には必ず殺陣がなくてはならない。その殺陣を、編集の力を極力借りることなく一気に描き切り、撮り切ったことに、役者、照明、音声収録、カメラオペレーターらの苦労を思い知る。武士を描く、もしくはチャンバラを描く映画は定期的に生み出されるが、これほどしっかりとした時代劇は『 一命 』以来である。

 

岡田准一の存在感は相変わらず高いレベルで安定している。本来ならば馬を称えるべきなのだろうが、暴れ馬を一瞬で御してしまうシーンを冒頭に持ってくることで、新兵衛は単なる剣術馬鹿なのではなく、一廉の武士であることを明示した。これがあることで悪代官の権化のような石田玄蕃(奥田瑛二)と対峙しても、その格を保っていられる。また悪役側の雄たるべき新井浩文の役に対しても格上であることを観客に一瞬で知らしめた。これこそが映画の技法である。

 

篠の妹の里美(黒木華)や、新兵衛や采女の盟友の娘、美鈴(芳根京子)らの女優陣も作品に落ち着きと生活感をもたらしている。『 クレイジー・リッチ! 』でも顕著であったが、ある特定の地域や時代、もしくは家庭や生活の背景を物語る際に、家政のシーンを描写するというのは非常に効果的である。もしくは『 万引き家族 』を思い出しても良いだろう。あのごちゃごちゃした空間は、生活レベルの低さ、貧しさを言葉ではなく映像で如実に説明した。本作も里美が忙しなく動き回るシーンをいくつか挿入することで、新兵衛が帰ってきた藩、そして家に生活感があることが感じられる。最愛の妻を亡くした新兵衛が、落ち着いて逗留できる場所を見つけられたことの新兵衛の安堵の気持ちを、縁側のシーンで鮮やかに描き切った。これもまた映画の技法である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、指摘しておかねばならない弱点もある。物語が余りにも特定の人物の周辺だけで展開されている。農民のために新田を開墾するというのなら、武家の坂下家だけではなく、ほんの数ショット、時間にして20秒で良いので藩の農民の生活ぶりを映し出す必要があったと思う。それがあれば、後半の殿の江戸からの帰還の重みと采女の心情と信条の強さがより際立ったであろうと思う。

 

もう一つ残念なのは、後半に颯爽と登場する殿がデウス・エクス・マキナになるのかと期待させながら、狂言回しにすらならないことだ。また石田玄蕃の終盤での行動の必然性が分からない。何故あそこで、このキャラクターを狙ったのか。それは玄蕃の思惑というよりも作者の思惑だ。物語を進め、ドラマを盛り上げたい以上の意図が読み取れない事件が発生するのである。ここから本作は一挙に陳腐化する。水戸黄門であれば印籠を出して最後にシャンシャンで済むわけであるが、本作はテレビドラマではなく、小説を基にした映画である。殺陣の迫力のみでクライマックスを押し切ってしまうのは大したものと言えなくもないが、悪役の玄蕃の言動や行動原理が首尾一貫せず、また死に様にも美しさが無い。もっと陳腐な死に方でよいのだ。結局は小物だったのだから。もしくは福本清三や、あるいは斬られ侍の藤本長史が決して出来ない(してはならない)顔芸で死んでいっても良かった。クライマックスに至る過程とその決着の必然性と美しさの欠如が、本作から大きく減点しなくてはならない要素になってしまっている。

 

最後にもう一つ細かい点を追加するなら、雪のシーンは何とかならなかったのだろうか。黒と白のコントラストは映画館では特に映えるものだが、そこに映像美以外のものが込められていなければ、それは製作者の自慰に過ぎない。手を血で染め、愛する人もなくし、友を支えることもできずに悶々とした日々を過ごして新兵衛と、前途に洋々たる希望を抱く若武者の坂下藤吾(池松壮亮)が対比されるシーンがあったが、これで良いのだ。逆にオープニング早々の雪がしんしんと降るシーンは画としては美しくとも、映画としては失敗であると断じさせていただく。

 

総評

時代劇というのは年々難しくなっているジャンルである。水戸黄門すら打ち切られて久しい。今後も戦国時代をパロディ化した原作を基に映画を作るというトレンドは続くと思われるが、本格的な時代劇映画の再興は遠いと思われる。が、岡田准一、西島英俊というキャスティングからも、製作者たちは本作をカジュアルな女性ファンにも届けたいと願っているのは明白である。そうした層に向けてのヘビーな絵作り、ライトな物語というのであれば、納得できないことはない出来である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, 岡田准一, 日本, 時代劇, 監督:木村大作, 西島秀俊, 配給会社:東宝, 麻生久美子Leave a Comment on 『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

Posted on 2018年10月11日2019年8月24日 by cool-jupiter

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 50点
2018年10月9日 レンタルDVD鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン
監督:パブロ・ラライン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181011185603j:plain

これは観る人を相当に選ぶ映画である。JFK関連の作品というのは、ある意味でオリバー・ストーン監督の『 JFK 』で完成してしまっているわけで、これを超えるには2028年から暫時に公開される膨大な量の資料を基にした作品が作られるまで待たねばならないだろう。しかし、それもあと10年の辛抱と思うべきなのか、まだ10年も辛抱しなければならないのかと思うべきなのか。

 

あらすじ

1963年11月22日のJFKの暗殺からの4日間を、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの視点から独自に描く。非業の死を遂げたケネディの喪に服すに際して、名家であるケネディ家の意向や、大統領警護のシークレット・サービス、ホワイトハウス関連のお歴々、リンドン・B・ジョンソン大統領らの思惑を超えたところで、JFKの死を悼み、悲しみ、国民にその死の衝撃の大きさを物語ることで、逆に彼の生の大きさ、深さ、豊かさを印象付けることに成功した、稀代のファーストレディ。その地位を徐々に喪失していくさまが、自身のアイデンティティ喪失に重なる。だからこそ、夫の死を誰よりも効果的に演出しようと抗う夫人の姿を描く、ユニークな作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、主演のナタリー・ポートマンの演技力が光る。1960年代の口調を自分の物として吸収し、使いこなしている。なおかつ、記者に語る時の口調とホワイトハウスで語る口調が明らかに異なるのだ。これは脚本や演出の妙とも言えるが、翻訳・字幕のレベルで再現するのは難しい。なお、吹き替えがどうなっているのかは未鑑賞ゆえ評価を措きたい。これは、たとえば前アメリカ大統領のバラック・オバマが大統領職に立候補した時から大統領就任中まで一貫して、スピーチのレジスター(言語の使用域)を巧みに変えていたことに通じる。例えばオバマは、アメリカ南部の労働者階級が多い地域で演説する際には、”We’re gonna ~” と言い、逆にアメリカ北部の都市地域での演説では、”We are going to ~” と言っていた。作中のジャッキーもこれと同じで、実際の本人もおそらくファーストレディとして口調や立ち居振る舞いは、ジャクリーン一個人のものとは違っていたはずだ。こうした些細かもしれない違いを、ノン・ネイティブであるナタリーがしっかりと把握し、演じていたことは大きなプラス評価につながる。

 

また、ジャッキーが美術品を蒐集していた理由も非常に興味深い。なぜなら、『ゲティ家の身代金』におけるジャン・ポール・ゲティと全く同じ哲学、芸術観を彼女が有していたことが明らかになるからだ。この彼女の直観と、それに基づく卓越した実行力は確かにJFKの名を不滅にした。アメリカ人は、ちょっと教養ある階級であれば歴代の大統領の名前をだいたいは暗唱できるらしい。だが日本に住む我々はどうであろうか?伊藤博文の名前はパッと出てきても、例えば第二次世界大戦への参戦時の総理は東条英機であるとパッと言える人は多いだろうが、敗戦時の総理大臣の名前が出てくるだろうか?そんな歴史に疎い日本人でも、アメリカ史において暗殺された大統領は?と尋ねれば、秒でリンカーンとケネディの名前を出すであろう。もちろん、暗殺というインパクトは要因としては大きい。それでも、世界の歴史において暗殺された人は?と問いの範囲を広げてみても、人々が真っ先に挙げるであろう名前はJFKであると予想される。直近のインパクトとしては、北朝鮮の金正男の方が圧倒的に記憶に残っているはずだが、それでもJFKだろう。その最大の要因をジャッキー夫人に求めることはさほど難くない。そのことを確認することができるのが本作の功績である。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、マイナス点も目立つ。それは、アメリカ史に興味のない人は、ほぼ惹きつけられないだろうということだ。また、アメリカ史に興味のある人は、ある意味でもっと惹きつけないかもしれない。JFK暗殺の真相の一端、もしくは新解釈でも見せてくれるのかと期待してしまうとガッカリすること請け合いである。Jovian自身がまさにそうだった。この分野に関心を持つ人は、トランプ現大統領が検討中の1960年代当時の捜査資料の一般公開の前倒しと共に期待しようではないか。

 

本作の弱点としてもう一つ述べておかねばならないのは、ファーストレディとしてのジャッキーと一人の女性としてのジャッキーの境目が非常に曖昧模糊としている、ということである。もちろん、ファーストレディとしての人格と、その人の人格は別物であるべきだが、某島国のファーストレディが用いた(と疑われている)奇妙な政治力学を目の当たりにした我々からすると、少し釈然としないものが残るのも事実である。これはあくまで実話をベースにしたセミドキュメンタリー風の娯楽映画であるのだから、第一婦人のアッキー、ではなくジャッキーと一個人としてのアッキー、じゃなかったジャッキーを、混然とした形で描く必要はなかったのではないかと思うのである。もちろん、アイデンティティ・クライシスが大きなテーマになっているのだから、そうした内面のせめぎ合いを外面の演技に反映させることは大事だが、そこをもう少し見る者に分かりやすい形に dumb down / water down させることはできなかったか。いや、演技レベルを下げろというわけではないのだが・・・

 

総評

冒頭に評したように、見る者を選ぶ映画である。アクションもなく、サスペンスもない。しかし、響く人には響く映画であろう。内面の悲しみを強さに転化させ、健気に気丈に振る舞う女性の姿から何某かを受け取れる感性があれば、レンタルして来ても損はないだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, チリ, ナタリー・ポートマン, ヒューマンドラマ, フランス, 歴史, 監督:パブロ・ラライン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

『クワイエット・プレイス』 -突っ込みどころ満載のSFスリラー-

Posted on 2018年10月9日2019年8月24日 by cool-jupiter

クワイエット・プレイス 50点
2018年10月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エミリー:ブラント
監督:ジョン・クラシンスキー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181009020309j:plain

以下、ネタばれに類する情報あり

あらすじ

地球はいつの間にか静寂の支配する世界に変貌してしまった。音を立てるものを容赦なく抹殺する謎の侵略が原因である。そんな世界でも、エヴリン(エミリー・ブラント)とリー(ジョン・クラシンスキー)の家族は、手話やその他の工夫を凝らしながら生き延びていた。しかし、末っ子が音の出るおもちゃで遊んでしまい、あえなく襲われ死亡。その遠因となってしまった聴覚に障害を持つ姉は、罪悪感に苛まされる。それから約1年、エヴリンはお腹に新たな子を宿していた。しかし、謎の侵略の魔手がすぐそこまで迫っていた・・・

 

まず、この映画は突っ込みどころが満載である。その点を最初に指摘しておかねばならない。何故、人類は滅亡の一歩手前まで追いやられてしまったのか。何故、そこに至るまで音を立ててはいけないという鉄則に気付かなかったのか。許容される音の大きさや波長はどうなっているのか。次から次へと疑問が湧いてくる。しかし、それらのマイナス点と同じくらいプラスな点もある。まずはそれらを見ていこう。

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントとジョン・クラシンスキーの演技の全てが圧巻である。実生活でも夫婦である二人だからこそか、手話や、本当に小さな囁き声でしか会話ができない世界でも、ほんのちょっとした表情や仕草でコミュニケーションが成立するのは見事である。といっても、我々も実は同じようなことをやっている。例えば、ベテラン夫婦になってくると、「なあ、アレってどこやったっけ?」という夫に対して「ほら、コレやろ?」というように返す妻はそれほど珍しくないだろう。必要最低限以下の言葉でも通じてしまうのが、夫婦の絆の一つの証明と言えるかもしれない。

 

またクラシンスキーのキャラは、科学者でありエンジニアでもある。文明が崩壊した世界でも川で魚を獲り、住処の周りに警戒網と信号を張り巡らし、他都市との通信もあきらめず、娘のために補聴器を試作したりさえする。まさにアメリカ社会の思い描く Positive Male Figure の体現というか理想形のような男である。『 オデッセイ 』が強く打ち出していたことであったが、科学的な知識と技術はサバイバルの基礎であり土台である。そのことが分かっているから、エヴリンも息子への教育を怠らない。この一家は未来への希望を捨てていないのだ。話の設定上、台詞で状況を説明することができないのだが、それを逆手にとって濃密な人間ドラマを構築する。SFホラー映画のはずが、いつの間にやら見事なヒューマンドラマ、ファミリードラマに仕上がっている。クラシンスキーは監督としてもなかなかの手練れである。

 

ネガティブ・サイド

一方で否定的にならざるを得ない面も確かに存在する。本作は『 フィフス・ウェイブ 』と『 クローバーフィールド HAKAISHA 』的な事態が地球上で展開され、『10 クローバーフィールド・レーン』および『 死の谷間 』的な世界に取り残された一家が、『サイン』さながらに『スーパー8』のモンスターから逃れようとする映画である。つまり、どこかで観たようなシーンのツギハギ、パッチワークなのである。そこに「 音 」という要素をぶち込んできたのが、古い革袋に新しい酒というやつで、本作の売りになる部分なのだが、とにかくストーリーが余りにも弱すぎる。その他のオリジナリティが無さ過ぎる。

他には、冒頭の末っ子が殺されてしまうシークエンスについて。あの世界のあのシチュエーションで目を離すか?何をするか分からないのが子どもという存在で、夫婦としての経験値の高さと親としての経験値の低さの同居を見せられたような気がして、その後の展開にもう一つ釈然としない場面が出てきた。ああでもしないことには平穏無事に一家が過ごしてしまっては映画にならないのは分かるが、しかし・・・

 

また、音を立ててはいけない世界でジャンプスケアを使うというのは、あまりにも陳腐ではないか。我々が恐怖を感じるのは、恐怖を感じる対象の正体が不明だからであって、ジャンプスケアには恐怖を感じない。あれはただ単にびっくりしているだけなのだ。というか、ジャンプスケアのタイミングも余りにも予定調和すぎる。ホラー映画初心者ならいざ知らず、ある程度の映画鑑賞経験の持ち主には子供だまし、こけおどしに過ぎない。音でびっくりさせるのではなく、いつ、どこで、どのように音が鳴ってしまうのか分からない。そんなシチュエーションでこそスリルやサスペンスが生まれるし、それこそが本作が目指すべき王道のホラー路線だったはずだ。いきなり化け物や悪霊、エイリアンが姿を現すのではなく、その姿を見せながらゆっくりとゆっくりと近づいていくる異色のホラー作品『イット・フォローズ』のように、もしかしたらホラー映画にパラダイム・シフトを起こし得たかもしれないポテンシャルを秘めていたのにと思う。続編があるらしいが、期待できるのだろうか。

 

総評

もしも観るとするなら、レイトショーがお勧めかもしれない。本作のような作品を芯からじっくりと味わうためには、真っ暗な劇場で、少数の観客と互いに呼吸や衣擦れの音さえも意識し合いながら、大画面に没入したい。中学生辺りが劇場にいると、空気を読まずにポップコーンをボリボリと頬張ったり、隣の奴とひそひそ声で話したりするからだ。エミリー・ブラントが体現する「女は弱し、されど母は強し」を味わうも良し。クリシェ満載と知りながら、敢えてホラー要素を楽しむも良し。チケット代の価値は十分にあるだろう。

 

考察

あの侵略者は、上位の異性文明のペット動物か人工生命体だよね?続編を作るなら、世界観を壊すことなくリアリティを確保しなければならないけれど、『 インディペンデンス・デイ:リサージェンス 』の続編(出るの?)みたいに、嫌な予感しかしない。You have to prove me wrong, John Krasinski !!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

 

Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, エミリー・ブラント, サスペンス, ジョン・クラシンスキー, スリラー, 監督:ジョン・クラシンスキー, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『クワイエット・プレイス』 -突っ込みどころ満載のSFスリラー-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 桐島です 』 -時代遅れの逃亡者-
  • 『 あの夏、僕たちが好きだったソナへ 』 -青春を追体験する物語-
  • 『 ジュラシック・ワールド/復活の大地 』 -単なる過去作の焼き直し-
  • 『 近畿地方のある場所について 』 -見るも無残な映画化-
  • 『 入国審査 』 -移住の勧め・・・?-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年8月
  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme