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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『ペンギン・ハイウェイ』 -異類、異界、そしてお姉さんとの遭遇-

Posted on 2018年8月26日2020年2月13日 by cool-jupiter

ペンギン・ハイウェイ 75点

2018年8月26日 大阪ステーションシネマにて観賞
出演:北香那 蒼井優 釘宮理恵 能登麻美子 西島秀俊 竹中直人
監督:石田祐康

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180826235745p:plain

以下、ネタバレ?に類する記述あり

『未知との遭遇』が傑作であることは論を俟たない。『E.T.』が傑作であることも論を俟たない。異類との交流は、良い意味でも悪い意味でも常に刺激的である。『銀河鉄道の夜』(猫アニメ版)や『千と千尋の神隠し』のような、異世界への旅立ちも、物語が数限りなく生産され、消費されてきたし、今後も不滅のジャンルとして残るのは間違いない。本作『ペンギン・ハイウェイ』は、こうした優れた先行作品に優るとも劣らない、卓抜した作品に仕上がっている。「アニメーションはちょっと・・・、」という向きや、「夏休みの子供向け作品でしょ?」と思っている方にこそ、ぜひお勧めしたい作品である。

以下にJovianの感想を記すが、これはもう全くの妄言であると思って読んで頂きたい。おそらく各種サイトやブログで十人十色の感想が百家争鳴していることであろう。何が正しい解釈なのかを考えることに意味は特にないと思うが、この映画からは絶対に何かを感じ取って欲しい。その何かを個々人が大切にすれば良いと心から願う。

本作は小学四年生のアオヤマ君(北香那)が歯科クリニック受付のお姉さん(蒼井優)という超越的な存在にアプローチしていくストーリーである。ここで言う“超越”とはフッサールの言う超越だと思って頂きたい。この世界には人間の知覚では捉えられない領域があり、それらは全て超越と見なされる。本作で最も超越的なのは、アオヤマ君の目から見たお姉さんのおっぱいであろう。その服の向こう側には何があるのか。もちろん、おっぱいがあるのだが、アオヤマ君にはそれが何であるのか知覚できない。つまり、見えないし嗅げないし触れもしないということだ。しかし、アオヤマ君は科学の子でもある。鉄腕アトムという意味ではなく、自らに課題を課し、科学的に仮説を立て、実験を通じて検証し、成長を自覚するという、大人顔負けの子どもである。そんなアオヤマ君の住む町に、突如ペンギンの大群が現れ、そして消える。アオヤマ君はこの謎にお姉さんが関連していることを知り、さらに研究を進めていく。そんな中、《海》という森の中の草原に浮かぶ謎の存在/現象にも出くわし、同級生のウチダ君やハマモトさんと共同で研究をすることになる。その《海》とお姉さんとペンギンが相互に関連しているというインスピレーションを得たアオヤマ君は・・・、というのがストーリーの骨子である。

まずはJovian自身がストーリーを観賞して、第一感で浮かんできたのは、CP対称性の破れである。何のことか分からん、という方はググって頂きたい。物語の中盤にアオヤマ君が父親から問題解決のアプローチ方法を教授されるシーンがある。アオヤマ君は忠実にそれを実行する。そして終盤、エウレカに至る。これは京都産業大学の益川敏英先生がCP対称性の破れの着想を得た時の構図の相似形である。考えに考えて考え抜いて、もう駄目だ、考えるのをやめてみたら、全てがつながったというアレである。スケールの大小の違いはあれど、誰でもこのような経験は持っているはずである。相似形になっているのは、ペンギンと海の関係が、物質と反物質になっているところにも見られる。《海》は『インターステラー』のワームホールを、どうやっても想起させてくる。であるならばペンギンの黒と白のコントラストはブラックホールとホワイトホールのメタファーであってもおかしくない。川がそれを強く示唆しているように思えてならない。ペンギンという鳥であるのに飛べない、鳥であるのに泳ぎが達者という矛盾した存在は、陰と陽の入り混じった様を思い起こさせる。生物学、動物学が長足の進歩を遂げたことで、鳥類は最も浮気、不倫をする動物であることが知られているが、ペンギンはかなり貞淑な鳥として認識されている。一途な愛情は、アオヤマ君の科学への姿勢であり、将来への希望であり、お姉さんへの憧憬にもなっているように思えるのは考え過ぎか。ハマモトさんがこれ見よがしに見せつける相対性理論の本から、どうしたって物語世界に理数系的な意味を付与したくなる。ましてや原作者は森見登美彦なのだ。その一方で、チェスもまた重要なモチーフとして物語のあちらこちらで指されている。「物理学は、ルールを知らないチェスのようなものだ」という言葉がある。宇宙の中でポーンが一マス進むのを見て、ポーンは一マスずつ進むと科学者は観測の末、結論を出すが、もしかすると我々はまだポーンがプロモーションの結果、クイーンになるという事象を見たことがないだけなのかもしれない。森見は理系のバックグラウンドを持っているが、その作品は常に文系的、哲学的な意味に満ち満ちている。「夜とは観念的な異界である」と喝破したのは、折口信夫だったか山口昌男だったか。お姉さんがアオヤマ君にぽつりと呟く「君は真夜中を知らないのか」という台詞は、「君は異世界を知らないのか」と解釈してみたくなる。事実、本作の指すところのペンギン・ハイウェイは牧歌的な雰囲気を醸し出しつつも、黄泉比良坂の暗喩であるとしか思えなかった。

おそらく他にもこうした印象を受けた人はいるであろうが、この見方こそが正解なのだと主張する気はさらさらない。本作は、謎の正体ではなく、謎にアプローチするアオヤマ君と愉快な仲間達の交流が楽しいのであり、逆にそれだけを楽しむことも可能なのだ。とにかく凄い作品である。今も思い返すだけで脳がヒリヒリしてくる。原作小説も買おう。『四畳半神話大系』も読み直そう。映画ファンのみならず、ファミリーにも、学生にも、大人にも、老人にもお勧めをしてみたくなる、この夏一押しの怪作、いや快作である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アニメ, ファンタジー, 北香耶, 日本, 監督:石田祐康, 蒼井優, 配給会社:東宝映像事業部Leave a Comment on 『ペンギン・ハイウェイ』 -異類、異界、そしてお姉さんとの遭遇-

『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

Posted on 2018年8月21日2019年4月30日 by cool-jupiter

君の膵臓をたべたい 70点

2018年8月16日 レンタルDVD観賞
出演:浜辺美波 北村匠海 小栗旬 北川景子 上地雄輔 矢本悠馬
監督:月川翔

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タイミングが合わなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、本作を昨年のうちに劇場で観ることを選択しなかった我が目の不明を恥じる。いくつかの欠点に目をつぶれば、非常に優れた作品である。

“僕”(小栗旬)は高校の国語教師。ある仕事をきっかけに高校時代の友人の山内桜良(浜辺美波)を思い出す。彼女は膵臓の病を患っていた。そんな彼女と過ごしたかけがえの無い高校時代の自分(北村匠海)の回想を通じて、桜良が未来に宛てたメッセージを受け取ることになる。

浜辺は、南沙良と並んで、現在売り出し中の若手女優のトップランナーの地位を本作で築き上げ、『センセイ君主』で確たるものにしたと評してもよいだろう。病気と笑顔で向き合う。しかし、一瞬だけ垣間見せるその表情に我々は桜良が心の奥底にひた隠す死への恐怖と生への渇望を見逃すことは無い。さりげなく、それでいてハッと気づいてしまう。卓越した演技力の持ち主であることを随所で見せつけてくれる。 

桜良が“僕”に好意を抱くきっかけの一つに、“僕”が桜良の病気のことを知っても動じなかった(ように見えた)ことが挙げられる。看護師さんらによると、病院という場所では患者はしばしば「病気」で呼ばれるということだ。医者はしばしば「あの305号室の肺がんの人だけど云々」などと言うらしい。これは実は医療従事者だけに特有の考え方だったというわけではない。一昔前は障がい者を、disabled peopleと英語で言っていたが、その後はpeople with disabilitiesに、今ではspecial needs peopleまたはpeople with special needsと言っている。病気や障害を、その人と最も特徴づける属性として捉えていた時代があったのだ。今では医療や介護の世界にもセルフケアという概念が浸透し、「何ができないのか」ではなく、「何ができるのか」で人間を評価するようになっている。“僕”は意識的にも無意識的にも、桜良が何ができないのかを考えることは無く、桜良ができることに寄り添う姿勢や態度を見せていた。これは惚れるしかない。北村匠海の過去の出演作品を今回チェックしてみて驚いた。ほとんど全部観ているし、確かに印象的な演技を見せてくれていたことは思い出せた。しかし、俳優としての北村匠海の印象が極めて希薄なのだ。例えばニコラス・ケイジやトム・クルーズは、どんな作品に出ても、どんな役を演じても、結局は本人にしか見えないことがほとんどである。日本で言えば福士蒼汰や東出昌大がこれに該当する。北村匠海は違う。窪田正孝の系列の役者であると評しても間違いではないだろう。この若い二つの才能のぶつかり合いが作品に深みと奥行きを与えている。

残念ながらいくつかのマイナス点も指摘しなければならない。ホテルに泊まるところで、「僕」が髪をタオルで拭きながら出てくるシーンがあるのだが、いかにも不自然だ。髪も本当に濡らして、それをドライヤーで生乾きぐらいまで乾かした感じで出てくるぐらいでいい。また、小栗旬と北村匠海は、表情や目の動き、歩き方などでかなりお互いがお互いを同一人物として意識した役作りおよび演技ができていたが、他のキャストがあまりにも似ていない。というか、似せる努力をしていない。世界的に『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』が批判されているのは、オールデン・エアエンライクの演技力の低さではない。ハリソン・フォード演じるハン・ソロを意識した演技ができていなかったからだ。これは監督の罪でもあるが、本人の罪でもある。まあ、ハリソン・フォード自体がトム様やニコケイのような、ほとんどの役で「これはハリソン・フォードである」と認識されてしまう役者であるのだが。矢本と上地が同一人物設定というのはどうなのだ?また、大友花恋が北川景子に変身するのも、説得力がなさすぎる。だからこそ、このタイミングでアニメーション作品の制作および公開に至ったのだろうが。

Back on track. 本作は「生きることの意味」を追求する作品でもある。「君がいなくなったら、みんな、僕のことなんか忘れるよ」という“僕”の台詞に「そんなの死ぬに死ねないよ」と返す桜良。二人は死を心停止などという生物学的な意味では捉えていない。死ぬ=誰にも思い出されなくなる、と捉えている。これは『ウインド・リバー』でランバートが語っていたことと全くの同義である。生とは、ある一面では、思い出の中に宿るものなのだ。桜良が死ぬまでにやりたいこと=誰かの中の思い出として生き続けたいという欲求なのだ。

桜良はもう一つ、本や文字にも自分の生を託す。学校の図書館に眠る本の数々が、ある意味での永続性を象徴している。文字は一種のタイムマシーンだ。その場所が取り壊されることが決まってしまった時、桜良からのメッセージが見つかる。図書館の窓の外に覗くは、散り行く桜。我々はここで否応なく桜良の「桜は散ったふりして咲き続けている。散ってなんかいない。みんなを驚かせるために隠れているだけ」という台詞に思いを馳せずにはいられなくなる。健気に生きる姿だけが美しいわけではない。生きることは時に残酷なまでの悲劇を生む。死んでも、それでも生きていたいという想いの強さに打ちのめされるラストシーンに、観る者は大いに涙するだろう。

 

Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ロマンス, 北村匠海, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい』 -生きることの新たな意味を伝える傑作-

『JUNO ジュノ』 -妊娠することと母親になることは同義ではないし、妊娠は属性であって人格ではない-

Posted on 2018年8月9日2019年4月30日 by cool-jupiter

JUNO ジュノ 75点

2018年8月2日 レンタルDVD観賞
出演:エレン・ペイジ マイケル・セラ ジェニファー・ガーナー ジェイソン・ベイトマン アリソン・ジャネイ J・K・シモンズ オリビア・サールビー
監督:ジェイソン・ライトマン

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『センセイ君主』に我々は『3年B組金八先生』へのオマージュを見出したが、やはりかの伝説的テレビドラマで最も印象に残るエピソードの一つは「十五歳の母」であろう。日米の文化の差や時代の違いもあるが、10代の妊娠が軽い事柄でないことだけは確かだ。そうした時、妊婦はどうするのか、妊娠させた相手の男は何をすべきなのか、友人は?教師は?家族は?地域社会は?金八先生を用いての比較文化論は、実際にどこかの日本の中学か高校に任せたいが、本作のような映画こそ夏休みに入る前の中高生たちに観てほしいと願うし、学校関係者も訳の分からん長広舌を振るったり、やっつけ仕事の冊子を渡すぐらいなら、真剣に映像授業というものを考えるべきだ。特に日本の現場(の先生方はまあまあ頑張っているが)を監督する側の石頭連中に対して、切に願う。

16歳のジュノ(エレン・ペイジ)は親友のポーリー(マイケル・セラ)と成り行きでベッドイン、一度のセックスで妊娠してしまった。産むべきか、産まざるべきか。それが問題である。産むとなると、父親(J・K・シモンズ)や継母(アリソン・ジャネイ)の手を借りるのか、借りないのか。自分には小さな妹がいるが、両親は自分の妊娠と出産を喜んでくれるのか、歓迎してくれないのか。変わらないのは親友リア(オリビア・サールビー)だけなのか。ジュノは冷静に考え、中絶を選択することを決断する。しかし、クラスメイトのスー・チンが中絶クリニック前で一人シュプレヒコールをしているところに出くわし、わずかに心が揺れる。妊娠何週目かを知ったスー・チンの言う「もう胎児には爪が生えている」という言葉に、自分を重ね合わせるジュノ。彼女が命に人格を見出した、非常に印象的なシーンである。

ジュノはならばと、里親を探す選択をする。そして理想的な夫婦をローカル・コミュニティ誌で見つけ出す。ヴァネッサ(ジェニファー・ガーナー)とマーク(ジェイソン・ベイトマン)である。実際に出会ってみると、確かに理想的な夫婦で、ジュノは里親に彼らを選択するのだが・・・

本作を名作たらしめているのは、何と言っても主人公ジュノの型破りなキャラクターである。70年代のパンクロック好きで、B級ホラー映画好きで、ギターはGibsonかFenderかに一家言あり、しかし、テイストの異なるスプラッターも受け入れるだけの柔軟さも持ち合わせている。物語のある時点からマークが乱心するのだが、男はなかなか父親になれないのだ。一方で、女性は母親になっていなくても、母親になれる。想像妊娠という現象は動物にも人間にも現実に見られる生理学的反応なのである。『スプリット』で心理カウンセラーが「多重人格者は脳内物質の力で人体そのものも変化させてしまう可能性がある」と言うシーンがあるが、想像妊娠というのは確かに上の言を裏付けている。男の狼狽というか、頼りなさ、情けなさについては漫画『美味しんぼ』で山岡およびその友人一味が、マークとよく似た(しかし、それほど深刻ではない)症状を呈するというエピソードがどこかにあったが、何巻のどこかを探す気にならない。

もちろん、出てくるキャラクターは全て魅力的な味付けがなされており、特に強面のJ・K・シモンズがジュノに父親としての愛の深さを淡々と語る場面は観る者の胸を打つし、妊娠の相手がポーリーであると知った時に「次に会った時にはアソコをぶん殴ってやる(punch the kid in the weiner)」と言ったのは極めて正常な父親としての反応だ。そして継母のブレンは、アリソン・ジャネイそのままの迫力で、超音波検査技師に凄む。このシーンは圧倒的な迫力で我々に迫って来る。10代で妊娠、出産する家庭は劣悪な環境であるというバイアスを我々はいとも簡単に形成してしまうが、それこそが男がなかなか父親になれないマインドセットの裏返しである。人は変われるし、変わるべきである。そして妊娠というのは、決して女性が母親になるための儀式や生理現象であるとも本作は言っていない。Jovianは実際にとある産婦人科の女医先生に教えてもらったことがある。先生曰く、「妊娠は通常ではないが、正常であって、決して異常ではない」と。10代の妊娠、そして出産を考える時、変わるべきものは何なのか、変わる必要の無いものは何なのか。これらの問いに一定の答えを提示する本作は、若い中高生たちのみならず、結婚を考えているカップル、子作りを計画している夫婦、孫の世話を焼きたいと気を揉む高齢者など、見る人によって様々に異なるヒントを得られるはずだ。時代や地域を越えて観られるべき傑作である。

ちなみに本作と全く裏腹の、妊娠していないのに(実際は妊娠したのを中絶した)妊娠している振りをする15歳のミランダを主人公とする傑作ミステリ・サスペンスの『泣き声は聞こえない』(シーリア・フレムリン著)も余裕があれば手に取ってみてはいかがだろうか。

Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, J・K・シモンズ, アメリカ, アリソン・ジャネイ, エレン・ペイジ, ヒューマンドラマ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『JUNO ジュノ』 -妊娠することと母親になることは同義ではないし、妊娠は属性であって人格ではない-

『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

Posted on 2018年8月7日2019年4月25日 by cool-jupiter

センセイ君主 70点

2018年8月5日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:竹内涼真 浜辺美波 佐藤大樹 川栄李奈 矢本悠馬 新川優愛
監督:月川翔

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率直に言う。近年の製作過多気味の少女漫画原作映画の中では突出した面白さである。そして、その面白さのおそらく50%は主演の浜辺美波のコメディックな演技力の高さから来ているのは間違いない。『となりの怪物くん』や『君の膵臓を食べたい』では抑えつけられていた(のかもしれない)ポテンシャルが一気に花開いた感がある。松屋で牛丼定食を数千円分も頬張り、パッドを入れまくって巨乳をアピールするヒロインというのは、寡聞にして知らなかった。メジャーな漫画があらかた映画化されてきたこともあるが、今後はこうしたメインストリームではない物語も脚光を浴び始めるだろう。一頃は広瀬すずや土屋太凰で埋め尽くされていた少女漫画原作の映画に新しい息吹を感じられたことを素直に喜ぼうではないか。

佐丸あゆは(浜辺美波)は女子高生。恋に恋する女子高生。漫画『スラムダンク』の桜木花道ばりの告白失敗連続記録を作ろうとしていた。松屋(食券制ではなかったか?)で牛丼をやけ食いするも、代金を払えなかったところを見知らぬ男に助けられる。翌日、めげずに次の恋へと走ろうとする健気なあゆはを神は見捨てていなかった。ロッカーにラブレターが入っていたからだ。告白を受け、さっそくデートに行くも相手の粗ばかりが目につき、結局は破局。そんな時に松屋で助け舟を出してくれた男が新任の担任教師(数学)、弘光由貴(竹内涼真)であることを知ったあゆはは、由貴のひねくれ過ぎた性格をものともせず告白するも撃沈。挙句に「俺を落としてみなよ」とまで挑発されてしまう。かくして佐丸あゆはの奮闘が始まった・・・

原作のテイストなのか、映画的演出なのか、過剰とも思えるほどの間テクスト性に溢れている(関テクスト性の具体例を知りたいという人は、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の作者コラムを読んでみよう)。もちろん『レディ・プレーヤー1』のようなクレイジーな量ではないが、『ロッキー』から『3年B組金八先生』、『ドラゴンボール』に『進撃の巨人』ネタまで放り込んでくるそのノリは嫌いではない。むしろ大いに笑わされたし、他の作品でもこうした手法は取り入れられるべきであろう。実際に劇中でジュディマリを歌うシーンがあるが、スクリーンの中の世界がこちら側の世界と地続きであると実感することで生まれる感覚というのは確かに存在する。「ああ、このキャラ達もあの作品を観たり読んだりしたんだな」という感覚が自分の中に生まれた時、確かに“さまるん”を応援したくなった自分がいた。もちろん、こうした試みを嫌がる向きもいるだろう。二時間の間は、フィクションの世界に没頭したいという人には少々酷な演出かもしれない。このあたりは観賞者の好み次第なので、自分と波長が合わないからといって、無下に否定してはならないように、自分でも注意をしたいものだ。

教師とは思えないほど薄情でシラケた態度の由貴に、一部の女子が授業のボイコットを計画するが、話してみればむしろ天然の面白キャラとして認知される。大人と子どものギャップを描き出すシーンだが、実はどちらも子どもであるということを伝える重要なシーンでもある。詳しくは作品を実際に観賞してもらうべきだが、敢えて近い対象を探すならば、『L・DK』の久我山柊聖がそのまま年齢を重ねて教師になってしまったような感じか。空手家の角田信朗は曙戦前だったか、「おっさんのかっこいいところは、かっこ悪いことを全力でやること」と喝破していた。つまりはそういうことなのだろう。ここでのおっさんを「大人」に置き換えれば、この物語での大人は誰なのか、子どもは誰なのかが逆転する。このことはさまるんの親友やその彼氏、さらにさまるんに恋心を抱く幼馴染らにも当てはまる。何がどう当てはまるのかを知りたい人は、ぜひ本作を観よう。そして本作を観たら『恋は雨上がりのように』と比較をしてみよう。大人になりきれていない大人の男が、若い女の子に迫られた時、どうするべきなのか。両作品とも非常に示唆に富む回答を提示している。本作のもう一つの特徴というかユニークさは、ヒロインとその親友のトークのえげつなさだ。トレーラーにあった「バーロー、ガチ恋したら胸ボンババボンだっつーの!」みたいな会話が当たり前のように交わされるのは、実はかなり健全な関係を築けている証拠だったりする。アメリカ映画でハイスクールが舞台だと、邦画では考えられないような容赦の無い女子トークが往々にして展開される。『スウィート17モンスター』や『JUNO ジュノ』、『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』などが好例だ。あまりに優等生的な関係だけではなく、多少の毒の混じった関係ぐらいがちょうど良いのである。お盆休みの予定が決まらない人は、劇場で本作を観るべし。

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ロマンティック・コメディ, 日本, 浜辺美波, 監督:月川翔, 竹内涼真, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『センセイ君主』 -少女漫画の映画化文法を破壊する会心のコメディ-

『セッション』 -責める者と攻める者の一体化がもたらす究極のカタルシス-

Posted on 2018年7月27日2020年1月10日 by cool-jupiter

セッション 70点

2018年7月23日 WOWOW録画観賞
出演:マイルズ:テラー J・K・シモンズ
監督:デイミアン・チャゼル
製作総指揮:ジェイソン・ライトマン

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  • ネタバレに類する記述あり

原題は”Whiplash”、鞭打ちとジャズの名曲のタイトルのダブルミーニングである。または、第三の意味を持つTriple Entendreなのかもしれない。文字通り、鞭で打つが如くの言葉の暴力と折檻を繰り返す音楽学校の鬼教官テレンス・フレッチャー(J・K・シモンズ)と世界一のジャズドラマーになることを志す若きアンディ・ニーマン(マイルズ・テラー)。アンディの青春というか、ボーイ・ミーツ・ガール的展開もあるが、安心してほしい。すぐに終わる。というかアンディが終わらせる。君と会う時間も惜しい、練習をしたい、君と会ってもケンカを繰り返すばかりになってお互いに気まずくなる、だから今のうちにきれいに別れよう。それがアンディの言い分である。アホである。ドラム馬鹿である。よく失うものが何もない者は強いと言われるが、果たしてそうだろうか。守るものを持っている者の方が強いと思われる例も多々あると思うが。本作はそうした命題にも一つの答えを提示する。非常に興味深い答えである。

鬼教官と夢見る学生のぶつかり合いと言えば聞こえは良いし、激しいぶつかり合いが互いへのリスペクトにいつしか昇華するのだろうと予想するのはいとも容易い。しかし冒頭から物語が描き出すのはフレッチャーによる一方的な虐待である。正しくはアンディとフレッチャーの出会いの二日目からというべきだろう。フレッチャーの第一印象は、少なくともアンディにとってはすこぶる良かったからだ。フレッチャーはアンディのドラムの腕を認め、血筋や親の教育にその才能の源泉を求めたがるが、フレッチャーは音楽一家の生まれ育ちではない。それゆえに音楽学院の教授に、ある意味で見初められたのは、望外の僥倖だったことだろう。そして、翌日から、彼は地獄の責め苦を味わわされる。

その責めの苛烈さは実際の映画を観てもらうしかない。これまでJ・K・シモンズと言えば、色んな映画に脇役として色彩を添えることが多かった。最も印象的なのはサム・ライミの『スパイダーマン』シリーズの編集長だろう。『サンキュー・スモーキング』でも主人公のエッカートの上司として、ウィリアム・H・メイシーと共にどこかで観たことあるオッサンを好演していた。これらの役どころでは、本人はいたってシリアスであるにも関わらず、我々はそこに巧まざるユーモアを見出してしまうのである。けだし匠の技である。近年では『ワンダー 君は太陽』でオーウェン・ウィルソンが、『ハクソー・リッジ』ではヴィンス・ヴォーンが同じような路線の演技を堪能させてくれたが、本作におけるJ・K・シモンズは、ついにキャリアを代表する作品を手に入れた、というよりも自ら作り出したと言えよう。ブラック企業の経営者、あるいは軍隊にいる鬼教官、そうした言葉でしか名状しようのない情け容赦のない指導である。しかし、単にどなり散らすだけの役ではない。指先に至るまで神経を張り巡らさせたその演技により、我々はこの男に本物の指導者としての姿を見出すのである。アンディが学外でフレッチャーがピアノを演奏するのを見る機会を得る。鍵盤を慈しむかのようにピアノを弾くその姿に、アンディはフレッチャーの音楽への愛を見出す。そこで二人は言葉を交わす。フレッチャーは「第二のチャーリー・パーカーがいたとすれば、その男は絶対に諦めない」と切々と語る。その言葉にアンディは世界一のジャズドラマーになる夢を持つ自身を重ね合わせる。観る者はチャーリー・パーカーが誰であるかを知らなくても、何となくその凄さを理解できるようになっているのが脚本と演出の妙であろう。Jovian自身もRod Stewartの“Charlie Parker Loves Me”で名前だけ知っているぐらいだったが、フレッチャーの鬼のしごきの裏にある理想を追求してやまない、ある意味での求道者としての姿を見た時、クライマックスはこの歪な師弟の和解になるのかと思っていた。そんな予想は見事に打ち砕かれた。興味のある向きは日野皓正でググってみるとよいだろう。一頃、ワイドショーを賑わせたので、覚えている方もおられよう。あの時、日野氏はどう振る舞うべきだったのか、何をすれば良かったのか。その答えが本作にはある。というよりも、このドラマーは『セッション』を観ていたのではなかろうか。ヴォーカルと楽器の対話で個人的に最も印象に残っているのはB’zの『Calling』のイントロのギターと稲葉の歌唱、洋楽ではベタだが、やはりRod StewartとRon Woodが『Unplugged… and seated』で魅せた“Maggie May”か。音楽をやる人間というのは往々にして我が強く、音楽性の違いで解散するバンドは結局、カネの取り分で揉めて解散しているんだろうと思っていたが、実は結構な割合のバンドが“音楽性の違い”を理由に本当に解散しているという。フレッチャーが否定に否定を重ねるアンディーの音楽性が爆発するクライマックスは必見である。まるでボクサー同士が激しい殴り合いの末に互いへの尊敬の念を育むかのようなぶつかり合いは、観る者に息を吸うことすら忘れさせかねない迫力がある。爆音上映をしている時に、無理して観ておけばよかったと、後悔だけが今も募っていく。

本作のマイルズ・テラーのドラム演奏に感銘を受けた向きは、Rod Stewart & The Facesによる

www.youtube.com

のケニー・ジョーンズのドラムソロを観賞してみよう。若かりしロッドとロンも見られる貴重な映像である。それにしてもマイルズ・テラーはボクサーからドラマーまで何でもやる男だ。ハリウッドで売れるためには、渾身で臨まねばらないということを教えてくれる俳優だ。時間を見つけて、この男の出演作は一通り全てチェックしてみたいと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, J・K・シモンズ, アメリカ, ジェイソン・ライトマン, ヒューマンドラマ, マイルズ・テラー, 監督・デイミアン・チャゼル, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『セッション』 -責める者と攻める者の一体化がもたらす究極のカタルシス-

『ビニー 信じる男』 -Because I can’t sing or dance.に替わる、もう一つの答え-

Posted on 2018年7月24日2020年2月13日 by cool-jupiter

ビニー 信じる男 70点

2018年6月 レンタルDVDにて観賞
出演:マイルズ・テラー アーロン・エッカート
監督:ベン・ヤンガー

原題は”Bleed For This”、「この為に血を流せ」である。実在のボクサー、ビニー・パジェンサのカムバック・ストーリーである。一定年齢以上の熱心なボクシングファンであれば、世界タイトルマッチが15ラウンド制だった頃のことを覚えているだろう。若い世代には、具志堅用高より下で、辰吉丈一郎より上の世代のボクサーだと言えば、何となく伝わるだろうか。

この映画はボクシング映画というよりも、夢追い人の物語だ。赤井英和がかなり昔に朝日新聞か毎日新聞かの紙面インタビューで「ボクシングはピークの時の自分のイメージが強く残る。だからやめるにやめられない」と語っていたし、吉野弘幸もおそらく最もアドレナリンが分泌された試合はクレイジー・タイガー・キム(金山俊治)だったのだろう。そこで引退しておけば良いものを、キャリアの晩節は連戦連敗だった。それもこれも、ピークの自分のイメージが忘れられないからだ。または、ジョー・カルザゲの言うように「歓声とスポットライトには中毒性がある」からだ。

ビニー・パジェンサを演じるはマイルズ・テラー、そのトレーナーのケビン・ルーニーを演じるはアーロン・エッカート。エッカートはいぶし銀の代名詞のようだ。主役も張れるが、縁の下の力持ち的な役割が似合う。それにしてもマイルズ・テラーはボクシングの型が相当に出来ている、身に付いている。どれくらいトレーニングを積んで撮影に臨んだのか。シルベスター・スタローンは『ロッキー』では相当ストイックにトレーニングを積み、ボクサーを演じる(acting)を通り越して、ボクサーになっていた(being)が、『ロッキー2』では一転して、明らかに当たっていないパンチをもらった演技になっていた。大金を稼ぐと誰でも一度は堕ちてしまうものなのだろうか。しかし、テラーや、最近では『レッド・スパロー』で、バレーシーンはダブルを使って、後からデジタル処理したのではないかという疑惑を一蹴したジェニファー・ローレンスなど、演技を通り越して「役そのものになりきる」役者が増えている。もちろん、日本にもそうした役者は数多くいるが、なりきりの到達度の面でどうか。MLBとNPBを比較するようだが、『セッション』におけるマイルズ・テラーのドラム演奏と『坂道のアポロン』における中川大志のドラム演奏は、同列には語れないだろう。日本にも『ボックス!』や『百円の恋』などの佳作があるが、『サウスポー』や『ミリオンダラー・ベイビー』に匹敵するかと言われれば、あくまで個人の主観ではあるが、残念ながら答えは否である。

本作のある意味での最大の見どころは、最後のインタビューにある。現在のビニー本人にJovianがインタビューすれば、違う答えが返ってくるかもしれないが、1990年代のビニーに「貴方が闘う理由は●●●なのか?」「貴方がカムバックする理由は■■■なのか?」と尋ねれば、おそらくビニーは「然り」と答えるだろう。●や■には、冒頭で書いたようなボクシングそしてボクサーに特有の思考や感性を当てはめてくれればよい。ちなみに記事のタイトルにある“Because I can’t sing or danec.”は『ロッキー』でロッキーとエイドリアンがスケートリンクで会話をしている時の一言。「なぜ闘うの?」とエイドリアンに尋ねられたロッキーの答えがこれである。本作は、ボクサーが闘う理由に、もう一つ別の解を与えたとも言えるだろう。スポーツドラマとしても秀作だが、打ちひしがれた男の再生を、セミドキュメンタリー風の再現VTRにしたものとしても鑑賞に堪える優良映画である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アーロン・エッカート, アメリカ, スポーツ, マイルズ・テラー, 監督:ベン・ヤンガー, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『ビニー 信じる男』 -Because I can’t sing or dance.に替わる、もう一つの答え-

『耳をすませば』 -心の原風景の夢と将来叶えるべき夢-

Posted on 2018年7月15日2020年2月13日 by cool-jupiter

耳をすませば 70点

2018年7月11日 レンタルDVDにて観賞
出演:本名陽子 高橋一生
監督:近藤喜文

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180715141611j:plain

『故郷』に歌われるような、兎を追いかけられるような山も小鮒を釣れるような川もほとんど絶えて久しくなった現代でも、何故かこの歌には我々の本能的な部分に訴えかけるような力を有している。同じことが『カントリー・ロード』(原題:“Take Me Home, Country Roads”)についても言えるのだろう。この歌を聞いて『キングスマン:ゴールデン・サークル』を思い出す人もいれば、マニアックなところでは『エイリアン・コヴェナント』を思い起こす人もいるだろう。だが、日本の映画ファンの心に最も深く強く刻み込まれているのは本作『耳をすませば』ではなかろうか。

月島雫(声:本名陽子)は中三の受験生。家庭環境からか読書好き(bibliophile)に育った。Cinephile=映画好き、Bibliophile=本好き、ということである。自分が図書室から借りてくる本のいずれもが天沢聖司(声:高橋一生)という男子生徒に先んじん手借りられていることから、雫は相手をどんな男だろうと淡い幻想を抱くようになる。ある日、電車に乗っている奇妙な猫を追いかけていくと、「地球屋」という不思議な店に行きつく。その店の主人の孫が、何という奇縁か ― それとも必然か ― 天沢聖司だった。聖司の弾くバイオリンに合わせてオリジナルの作詞を施した『カントリー・ロード』を歌う雫、そこにimprovisationalに加わってくる店主とその音楽仲間たち。アンサンブルとしては日本アニメの中でも白眉であると思う。

中学を卒業したら、イタリアでバイオリン職人を目指すという聖司。『羊と鋼の森』は、もしかしたら本作に少し着想を得ていたりするのかもしれないと、ふとあらぬことも考えた。現代でも、本作の時代(色々と鑑みるに1980年代半ばか)でも、中学生にして職人の道を志す者は少ないだろう。しかし聖司の決意は固く強い。その確乎たる姿勢は好ましいものとして映るが、聖司に惹かれる雫にはどう映るのか。雫は聖司を引き留めようなどとはしない。むしろ、自分の進路が空虚なものであるかのように感じてしまう。しかし、雫には物語を紡いでみたいという欲求があった。学校の勉強などをほったらかして、全てを物語の著述に費やしてみよう。そして出来上がった作品を、まず聖司のお祖父さんに読んでもらおうと決心する雫。自分が中学生の頃、ここまで純粋にひたむきに、何かに打ち込んだ、誰かに感動させられたことがあっただろうかと自問させられた。

猫が重要な役割を演じる本作であるが、その猫がまた良い。まるで漫画およびアニメの『じゃりン子チエ』に出てきても違和感の無さそうな不思議な猫なのだ。もちろんムーンのことであって、バロンのことではない。バロンはというと、『銀河鉄道の夜』(猫アニメの方)に出てきそうなキャラだ。両方とも日本アニメーションの一つの到達点と言える作品なので、興味のある向きは一度ご観賞を。

本作のもう一つのモチーフは冒頭でも言及した『カントリー・ロード』だ。オリジナルの歌詞には“Country roads, take me home to the place I belong. West Virginia, Mountain Mama, take me home, country roads”とあるが、雫は作中でこれを「コンクリート・ロード」や「ウェスト東京」と読み替える。笑ってしまう言い換えだが、故郷と聞いた時に我々がつい思い浮かべてしまう自然豊かな郷里の里はもはや存在しないも同然である。ただ、故郷というもののイメージを創造的に破壊することはできる。コンクリート・ロードに郷愁を感じる者がいても良いではないか。故郷のイメージはそれを想う者の心の中にある。その原風景を雫は紙とペンで再現しようとしていたのだ。英語に”Home is home”という表現がある。聖司も自分の心の原風景に雫が刻みつけられたのだろう。だからこそイタリアに旅立てるのだ。

中高生ぐらいで普通に観賞してしまえば見過ごしてしまいそうなメッセージがあふれている。それでも、中高生ぐらいが最も観るべき層である作品であると思うし、家族そろって観ても良いし、小中学校あたりで道徳の授業、もしくは進路について考える時間に上映してやっても良いのではないだろうか。Timeless Classicである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, B Rank, アニメ, ロマンス, 日本, 本名陽子, 監督:近藤喜文, 配給会社:東宝, 高橋一生Leave a Comment on 『耳をすませば』 -心の原風景の夢と将来叶えるべき夢-

バトル・オブ・ザ・セクシーズ -性差を乗り越えた先にあるものを目指して-

Posted on 2018年7月9日2020年2月13日 by cool-jupiter

バトル・オブ・ザ・セクシーズ 75点

2018年7月8日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:エマ・ストーン スティーブ・カレル アンドレア・ライズボロー サラ・シルバーマン ビル・プルマン エリザベス・シュー オースティン・ストウェル ジェシカ・マクナミー エリック・クリスチャン・オルセン
監督:バレリー・ファリス ジョナサン・デイトン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180709010218j:plain

往年のテニスファンならばビリー・ジーン・キングのことはご存知だろう。キング夫人の方が通りがいいかもしれない。USTAビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニス・センターという全米オープンの会場名を熱心なテニスファンなら聞きおぼえがあることだろう。Jovian自身がリアルタイムでテレビで観たことがあり(幼少の頃だが)、なおかつ本作に出てくる実在の人物というとクリス・エバートである。この試合自体をリアルタイムで観た、もしくは結果を知ったという人は、時代というものがどれほど変わったのか、流れた月日の長さよりも、その変化の大きさから受ける衝撃の方が大きいのではないか。この世紀の ≪性別戦≫ は1973年のことだが、日本ではこれに数年遅れて某企業が「私作る人、ボク食べる人」というキャッチフレーズのCMを流していた。この同時代の日米のコントラストはなかなかに味わい深いではないか。

当時の女子の賞金は男子のそれの1/8。現代のグランドスラムの賞金は男女同額。この格差の是正に乗り出しのがビリー・ジーン・キングその人に他ならない。では、この男女の格差を埋める契機となった出来事は何か。それこそが、バトル・オブ・セクシーズであった。歴史について興味のある向きはネットでいくらでも調べられる。ここからは純粋に映画の感想のみをば。

エマ・ストーン!ビリー・ジーン・キングになりきっている。架空のキャラクターを演じるのと、実在の人物を演じるのとでは、役者によってアプローチが異なる。例えば、Jovianは東出昌大を根本的には大根役者だと評しているが、『聖の青春』の羽生善治役は良かった。一方で『OVER DRIVE』の整備工役では、整備する部分では良かったが、兄という部分を演じきれていなかったように感じた。東出はあくまで例であって、東出が嫌いであるというわけではないので悪しからず。エマ・ストーンの何が際立って素晴らしいかは、そのテニスを見れば分かる。ライジングショットやドライビング・ボレーなど、この時代に存在していただろうか?と疑問に感じるショットも2つほどあったが、全体的にテニスが古かった。これは褒め言葉である。ラケットの形状および材質、性能の点からトップスピンがそれほどかけられず、スライス主体のテニスにならざるを得なかった。また、フィジカル・トレーニングや栄養学の知識が現代ほどの発達を見ていなかった時代なので、ベースラインの真上もしくはすぐ後ろあたりでコート全面をカバーしながら、隙あらば一撃で撃ち抜くテニスではなく、チャンスと見ればネットに詰めてボレーでポイントを稼ぐテニスである。今現在、コーチとして活躍している中で、この頃のテニスの名残と現代テニスの萌芽の両方を経験しているのは、ボリス・ベッカーやステファン・エドバーグであろう。もちろん、試合のシーン、特にテレビカメラ視点のテニスのボールはCGだが、それでも『ママレード・ボーイ』のような、どこからどう見てもCG丸出しではないCGが良い。アレは本当に酷かった。あれなら若い役者にしこたまテニス特訓させて、監督が満足できるショットが撮れるまで粘れば良かったのだ。Back on track. エマことビリー・ジーンがもたらしたのは男女の賞金格差解消だけではない。原題の Battle of the Sexes が意味する性は、男女だけではない。劇中で描かれる女同士の関係とその後のカミングアウトは、かのマルチナ・ナブラチロワに巨大な影響を与えた。そのマルチナ・ナブラチロワの名前を受け継いだのが天才マルチナ・ヒンギス。彼女がライジング・ショットの応酬で伊達公子を圧倒したのを見て、時代の一つの転換点を感じ取ったファンも多かった。そのヒンギスを圧倒したのがヴィーナスとセレナのウィリアムス姉妹であった。この姉妹がテニスにもたらしたのは、パワーだけではなく黒人のアスレティシズムそのものであった。そのことは劇中でも、「テニスに色がもたらされる」という形で表現されていた。この色とはテニスウェアやシューズの色のことだ。今でもウィンブルドンは厳格なドレスコードを維持しているが、全米オープンその他の大会は本当に華やかだ。しかし、テニスが単なるプロフェッショナリズムではなくエンターテインメントに進化し始めたのも実はこの時代だった。他スポーツで同じぐらいのインパクトを残した女性アスリートと言えば、寡聞にしてクリスティ・マーティンぐらいしか知らない。それでも女子ボクシングが男性ボクシング以上または同等に人気がある国というのは韓国ぐらいであろう。そういう意味でも、ビリー・ジーンの残した足跡の巨大さは他の追随を許さない。コート夫人で知られるマーガレット・コート、マルチナ・ナブラチロワ、シュテフィ・グラフらは All Time Great であることに論を俟たない。そしてビリー・ジーン・キングは Greatness そのものである。

世紀の対決のもう一方の主役であるボビー・リッグスにはスティーブ・カレルをキャスティング。『プールサイド・デイズ』でもきっちりクズ男を演じていたが、今作ではクズはクズでも意味が異なる。ギャンブル依存症で女性蔑視のお調子者、テニスの練習はするものの真摯に向き合っているとは思えない姿勢、二人いる腹違いの息子の片方には見放されるような男である。しかし、このダメ野郎が試合を通じて少しずつ真剣味と情熱を取り戻していく様がプレーを通して我々に伝わって来るのだ。もちろん演出や編集の手腕もあろうが、この役者の本領発揮とも言えるだろう。

細部にこだわって観るも良し。世紀の一戦までのビルドアップのサスペンスとスリルに身を任せるも良し。テニスファンのみならず、スポーツファン、映画ファン、そして広く現代人にこそ見られるべき作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・ストーン, スティーブ・カレル, スポーツ, ヒューマンドラマ, 監督:ジョナサン・デイトン, 監督:バレリー・ファリス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on バトル・オブ・ザ・セクシーズ -性差を乗り越えた先にあるものを目指して-

『ALONE アローン』 ―実存主義的な問いからのプレッシャーに如何に抗うか―

Posted on 2018年7月6日2020年2月13日 by cool-jupiter

ALONE アローン 70点

2018年7月5日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:アーミー・ハマー アナベル・ウォーリス トム・カレン
監督:ファビオ・レジナーロ ファビオ・ガリオーネ

*以下、少量のネタバレあり

これはアーミー・ハマーの代表作になるのではないか、そんな印象を劇場でまず受けた。『ソーシャル・ネットワーク』では嫌な双子の両方を、『君の名前で僕を呼んで』では最初は少し取っ付きにくそうなあんちゃんを見事に演じてくれていたが、今作では意志の強さと肉体の強靭さ、そしてそれらに似合わない(というよりも、それらにふさわしい)人間性の持ち主を演じている。ふと、ジェームズ・P・ホーガンの小説『 星を継ぐもの 』のコリエルを演じさせるとすれば、それはアーミー・ハマーしかいない。個人的にはそう思えるほどだった。恐ろしいほどのハマり役である。『 ベイビー・ドライバー 』におけるアンセル・エルゴート並みにハマっているし、キマっている。

あらすじでご存知の通り、砂漠で地雷を踏んでしまって動けない。救助まで52時間。なにをどうやって凌ぐのか。襲い来る砂嵐、夜の闇としじまに紛れて忍び寄る狼の群れ、容赦なく照りつける太陽、凍てつく夜の冷気、飢え、そして渇き。極限状況を生き延びるために必要なことは何なのか。この映画のキーワードに”Move on”というものがある。「前に進む」という意味だが、これは物理的に体を動かしてそうするの意と、出来事や話題を振り切って新しいものに向かって進んでいくの意、両方を持っている。足を一歩前に踏み出せないことで、ハマー演じるマイクは過去に踏み出せなかった数々の一歩が胸に去来する。陳腐ではあるが『 モリーズ・ゲーム 』や『 ハクソー・リッジ 』にも見られたような父親殺しもその中には含まれている。念のために言うが、犯罪としての殺人ではなく文学的・精神的な意味での父殺しである。また重要な狂言回しとしてベルベル人の男が登場する。彼は片言の英語でマイクの心の隙間を浮き彫りにする。それはこんな具合だ。

「なぜ地雷を踏んだ?」
『ここが地雷原だと知らずに迷い込んだからだ』
「なぜここに来た?」
『任務があったからだ』
「なぜ任務があった?」
『戦争だからだ』
「なぜ戦争に来る?」
『俺が兵士だからだ』
「なぜ兵士になった?」
『俺には守るべきものがもうないからだ』

(あくまで記憶を頼りにしているので、多少の不正確さはご容赦を)

ここで、序盤に散々ほのめかされていた恋人ジェニーとの関係、母との別離、その他多くのしがらみについて、観客は知ることになる。それでも一歩を踏み出せないマイク。それは本当はその一歩を誰よりも踏み出したかったからなのだ。ベルベル人の男の言葉に、マイクは自分でも気づいていなかった本心を知ることになる。第一次および第二次湾岸戦争に従事した兵士が帰国後PTSDを発症する率が異様に高かったとされるのは、戦場での悲惨な体験が一番の要因であると思われるが、極限的な状況に追い込まれることで、マイクのように過去のトラウマが一時に刺激されてしまうことも事由の一部としてあったのではなかろうか。お前は一体何者なのだという実存主義的な問いほど恐ろしいものは、実はこの世にはないのかもしれない。

劇場鑑賞でもレンタルでもストリーミングサービスでも何でも良い。マイクの生のこの一瞬をぜひ追体験してほしいと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, イタリア, スペイン, スリラー, 監督:ファビオ・ガリオーネ, 監督:ファビオ・レジナーロ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『ALONE アローン』 ―実存主義的な問いからのプレッシャーに如何に抗うか―

『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

Posted on 2018年6月24日2019年4月18日 by cool-jupiter

焼肉ドラゴン 75点

2018年6月23日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:キム・サンホ イ・ジョンウン 真木よう子 井上真央 桜庭ななみ 大泉洋
監督・原作・脚本:鄭義信

『 血と骨 』の脚本家が、監督・原作・脚本の全てを手掛けた本作は、限りなくダークでエログロな要素を持っていた『 血と骨 』とは異なり、どこかコミカルで、それでいて本気で頭に血が上るシーンあり、思わず涙があふれるシーンありの、期待以上の作品に仕上がっていた。

時は大阪万博(1970)直前、舞台は兵庫県伊丹市。おんぼろのあばら家が立ち並ぶ、行動経済成長が取り残されたその場所に彼らはいた。店主は韓国人の金田龍吉。龍の字をとって、いつの間にやら店の名は人呼んで焼肉ドラゴン。そのこじんまりとした焼肉屋を舞台に、小さな家族が慎ましやかに、けれど幸せに暮らしていく話・・・だと思って、劇場に行った人は混乱させられるであろう。これは時代に翻弄されながらも、時代に抗い、時代に折り合いをつけ、時代に飲み込まれながらも、確かに歴史に足跡を刻んだ家族の物語である。

父(キム・サンホ)、母(イ・ジョンウン)、長女の静花(真木よう子)、二女の梨花(井上真央)、三女の美花(桜庭ななみ)、末っ子の時生(大江晋平)、梨花の婚約者の哲男(大泉洋)らは、家族でありながらも実は血がつながっていたり、いなかったりのやや複雑な家族。このあたりはどこか『 万引き家族 』を彷彿とさせる。最初から違和感を覚えるシーンがいくつかある。哲男があまりにも慣れ慣れしく静花に接するシーンや、時生がまったく言葉を発しないところなど。しかし、そんな小さな違和感は脇に置き、物語はアホそのもの痴話喧嘩を交えながら陽気に進んでいく。龍吉が時生のいるトタン屋根の屋上で一緒に眺める夕陽は、沈んでいくもの、光を失うものの象徴でありながらも、必ずまた昇るもの、必ずまた光を与えてくれるものの象徴でもある。ここから物語は、家族のダークな一面を少しずつ掘り下げていくのだが、決して『血と骨』のようなバイオレントなものではない。むしろ、人間らしいというか、人間の最も根源的な本能から生まれてくる衝動のようなものにフォーカスをしていく。ある者にとってはそれは自己承認欲求かもしれない。ある者にとってはそれは認知的不協和かもしれない。ある者にとってはデストルドーであるかもしれない。

物語は適齢期3人娘たちが男とくっついてく過程を追いながら、つまり新たな家族を生み出していくための巣立ちを描きながらも、飛び立つことができなかった、いや、飛べないままに、飛行機の如く飛べると勘違いしてしまった若鳥も描く。時生が学校で受けるイジメは陰惨であり、過酷であり、残虐ですらある。こうした排除の論理と力学的構造は現代においても決して弱まってはいないと思う(ネトウヨ春のBAN祭りは、おそらく一過性のイベントとして記録および記憶されるのではなかろうか)。

それでも3人娘たちはそれぞれに自分にふさわしい男を見つける。それは決して美しい恋愛の末に勝ち取った相手ではなく、本当に本能的な、動物的なカップリングであるとしか名状できないようなものもある。そして、どんな映画であっても、このシーンではなぜか自分まで必ず緊張してしまう、父親との対面シーンが美香とその男にやってくる。ここで龍吉が語る言葉は訥々としていながらも万感胸に迫る圧倒的な説得力を有して観る者に訴えかけてくる。2018年の演技のハイライトを挙げるなら、安藤サクラとキム・サンホの二人は絶対に外せない、外してはならない。真木よう子、大泉洋、桜庭ななみ、イ・ジョンウンらの演技も堂に入ったもので、韓国ドラマ的スラップスティックコメディとなってもおかしくないシーンを、各役者が表情や声でしっかりと抑えつけていた。何という日韓のケミストリーか。個人的には今作の演技力ナンバーワンは期待も込めて大江晋平に送りたい。飛行機を睨め付ける表情とアアアーーーッッ!!という奇声からは、『 ディストラクション・ベイビーズ 』の柳楽優弥に匹敵する不気味な迫力を感じた。

それにしても印象的なワンショットの多い映画であった。特に飲み比べのシーンと龍吉の昔話のシーンは、真木とキムの表情やちょっとした仕草に注意を払って見てほしい。特に訳の分からないワンカットのロングショットを多用して『 ママレード・ボーイ 』という駄作を作ってしまった廣木隆一監督は本作から大いに学ばねばならない。

朝鮮戦争終結という歴史的なイベントを目の当たりにするかもしれない現代、そして日韓の間の歴史認識にこれ以上ないほど乖離が存在する現代にこそ、答えではなく真実(≠史実)を探すきっかけとして、多くの人に観てほしいと思える傑作である。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, キム・サンホ, ヒューマンドラマ, 大泉洋, 日本, 監督:鄭義信, 真木よう子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

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