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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: B Rank

『 ヒンディー・ミディアム 』 -インド版パパママお受験奮闘記-

Posted on 2019年9月13日2020年4月11日 by cool-jupiter

ヒンディー・ミディアム 70点
2019年9月8日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:イルファン・カーン サバー・カマル ティロタマ・ショーム
監督:サケート・チョードリー

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日本でも一頃、お受験をテーマにしたテレビドラマが流行していた。日本でも受験の低年齢化が進んだが、結局は学力レベルの二極化を推し進めてしまっただけのように感じる。だが、インドという国に根強く残る格差は、日本のそれとの比ではない。だからこそ、インドは自国の問題点を映画にして世界に発信するのだろう。

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あらすじ

デリーで生地屋を営むラージ(イルファン・カーン)とその妻ミータ(サバー・カマル)は娘に最高の教育を与えたいと思い、進学先を選ぼうとする。しかし、学校によっては親の学歴や住所までが合否の判断材料になると分かり、家族は高級住宅地に引っ越すも、受験結果は全滅。しかし、貧困層救済のための受験枠があることが分かり、彼らは貧民街へと引っ越すが・・・

 

ポジティブ・サイド

よく言われることであるが、小さな子どもほど有望かつ確実な投資先は存在しない。そして、その投資とは教育に他ならない。それはスポーツかもしれないし、音楽や芸術かもしれないし、学業かもしれない。いずれの分野に投資するにしても、その投資効率を最大化する為には、できるだけ早い段階で教育を始めることである。この場合、子ども自身の嗜好や適性を考慮すべきかどうかは、タイガー・マザーという言葉がアメリカで聞かれるようになって以来、常に論争の的となっている。

 

インドでも事情は似たり寄ったりのようである。ただし、急激な発展を遂げている最中とはいえ、その発展の波に乗れない、あるいは乗せてもらえない地域や集団も存在する。そうした特定の弱者やマイノリティーへの配慮が存在するところ、そして、裕福な家庭の子女がそうした制度を悪用としようとするところ、さらに、そうして入学した学校の校長がとんでもない人物であるところに、本作の見どころがある。コメディでありながら、刺すべきところが鋭く刺し、抉るべきところは深く抉る。

 

イルファン・カーンは『 ジュラシック・ワールド 』では真面目そうなビジネスマンだったが、元々はコメディ畑の人なのかな。嫁さんの尻に敷かれっぱなしの姿に、自分を見出す男性観客は多いだろう。そして、最後に見せる雄姿にエンパワーされる男性諸賢もきっと数多くいることだろう。

 

ラージの妻を演じたミータ役のサバー・カマルは初めて見たが、笑ってしまうほどにchew up the sceneryな役者さんである。パキスタン人とのことだが、『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』で描かれていたように、インドとパキスタンは政治的緊張をはらみながらも、文化交流は絶やしていないようである。どこかの島国と半島は両国の関係を見習うべきであろう。

 

『 あなたの名前を呼べたなら 』のティロタマ・ショームも教育コンサル役で良い味を出している。鼻持ちならない感じをギリギリで抑えつけているようで、主演を張った前作とはまるで別人。役者というのはこうでなければ。

 

貧民窟での迫害と交流、日雇い労働現場の劣悪な就業環境と冷徹なビジネスの論理、教育の崇高さと学歴社会の邪悪さ、そうした社会問題を全て包括した笑えないようで笑えてしまうコメディである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のラージとミータの馴れ初めのシーンは必要だっただろうか。美しい歌の調べに乗って、二人の距離が縮まっていくのは良いが、それらのシーンが主題=お受験とのつながりを欠いているように感じた。このシークエンスはバッサリとカットしてしまうか、そうでなければ10分ほどを費やして、二人の学校生活やインド社会全般における受験戦争の模様などを映像で語るべきだった。二人の若い頃の関係がもう少し丹念に描かれていれば、つまり、ラージがどれくらいミータに惚れこんでいるのかを観る側にもっと共感させることができていれば、ラストのラージの告白(二重の意味で!)がもっとドラマチックに、そしてロマンチックになっただろうと思えてならない。

 

グラマー校の校長を演じたアムリター・シンの迫力と圧力が、何故かもう一つ伝わってこなかった。うちの卒業生は云々の脅し文句が、『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のトラスク校長と丸かぶりしているからだろうか。

 

これは日本の広報担当を責めるべきかもしれないが、「英語が話せないなんて!」というキャッチフレーズをあまりにも大きく目立たせ過ぎだ。愛娘を私立にやるか公立にやるかというテーマの裏には、英語の運用能力ではなく愛情があるのである。教育とは科目や学歴ではなく、親や保護者の愛情が形を変えたものなのだ。教育が目指すべきは能力の獲得以上に、人間性の向上なのだ。英語云々を大々的に押し出すのは皮相的である。

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総評

本作もインド社会の発展と矛盾を間近に見ることができて、非常に興味深い。また、そこに自国の事情や自分自身の家族を重ね合わせてみることで、様々な反省作用も生まれてくるだろう。減点材料にしたが、英語は確かに重要な技能だ。入試改革で、英語の民間試験の導入については大揉めに揉めているが、日本も遅かれ早かれ、英語の運用能力は自動車の運転免許のように、必須ではないが持っていないことで「え?持ってないの?」と言われるような一種のコモディティになるだろう。ピアぐらいの年齢の子を持つ親世代の日本人こそ観るべき作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

The customer is a god, but a wife is a goddess.

 

ラージの台詞である。「お客様は神様だが、妻は女神様なんだ」のような字幕だった気がする。イスラム以外のインドの宗教は基本的に多神教なので、冠詞のaを上ではつけている。英語の正式な慣用表現では、“The customer is always right.”と言う。機会があれば、これも使ってみよう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イルファン・カーン, インド, カバー・サマル, コメディ, ティロタマ・ショーム, 監督:サケート・チョードリー, 配給会社:カラーバード, 配給会社:フィルムランドLeave a Comment on 『 ヒンディー・ミディアム 』 -インド版パパママお受験奮闘記-

『 バットマン 』 -ダークヒーロー誕生物語-

Posted on 2019年9月9日 by cool-jupiter

バットマン 70点
2019年9月3日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マイケル・キートン ジャック・ニコルソン ビリー・ディー・ウィリアムズ
監督:ティム・バートン

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やはり新作DC映画『 ジョーカー 』の封切を前に、復習の意味で鑑賞。ちなみに『 スーサイド・スクワッド 』を見直す予定はない。ハーレイ・クインの単独映画リリース前には最鑑賞するかもしれない。

 

あらすじ

ゴッサムシティには犯罪が絶えない。しかし、警察が取り締まれない悪人たちを夜毎に制裁するバットマン(マイケル・キートン)がいた。その正体は大富豪のブルース・ウェイン。そして、犯罪組織内の仲間割れでジャック・ネイピア(ジャック・ニコルソン)は警察とバットマンに追われる。辛くも逃れた彼はしかし、ジョーカーへと変貌してしまった・・・

 

ポジティブ・サイド

オープニングのダークでおどろおどろしい雰囲気の映像に、ダニー・エルフマンのTheme Musicが奮っている。アニメの「バットマ~ン!」ではなく、「ダダダダーダ」の旋律が、どこか危うい力強さを感じさせる。これによって観る者は一気にゴッサムに入っていくことができる。素晴らしいシークエンスである。

 

またマイケル・キートンも、ベン・アフレック並みにハマっている。というか、ベン・アフレックがマイケル・キートン並みにハマっていると評すべきか。クリスチャン・ベールはバットマンとして卓越した演技を見せたが、最もブルース・ウェインに近いのはキートンであるように感じる。鼻持ちならない金持ちで、プレイボーイなところがよく似合っている。また、バットマンとしての演技でも魅せる。特に、振り向き様や真上を見上げる瞬間の身のこなし、その時にピタリと動きを止めて見せるところから、原作コミックの絵を忠実に再現しようとしていることが分かる。ティム・バートンの美意識とマイケル・キートンのプロフェッショナリズムが上手く相互作用した。

 

だが、何と言ってもジャック・ネイピアおよびジョーカーを演じたジャック・ニコルソンだろう。『 シャイニング 』はホラー映画の金字塔として今も燦然と輝いている。そのことは『 レディ・プレイヤー1 』を観てもよく分かる。その狂気が今作でも爆発。しかも真っ白の顔がルージュの口紅のようなもので常に笑った顔にメイクアップされ、しかも紫のスーツ!完全にイカれているのが外見からだけでも分かるが、行動もinsaneの一言。曲撃ちで元々の組織のボスを撃ち殺したかと思えば、『 ゴーストバスターズ(1984) 』のマシュマロマン的な人形に詰め込んだ毒ガスを散布したりと、犯罪者を通り越して大量殺人者、無差別テロリストである。このジョーカーも相当に恐い。バットマン自身が原作コミックに忠実に動いていたり、ゴッサムの街そのものが『 シザーハンズ 』や『 スリーピー・ホロウ 』的な世界観を纏っている、つまり、この世ならざる幻想世界のような雰囲気を醸し出す中で、容赦なく人を殺して回るジョーカーは決して道化師ではない。また、『 ダークナイト 』の名シーンである、バットマンがジョーカーを轢き殺さんと真正面から対峙する構図は、すでに本作で描かれていた。すなわちバットウィングで上空からジョーカーを射撃するバットマンと、超長砲身の銃でバットウィングを撃墜せんとするジョーカーの対決シーンである。このシーンを観るのは三度目だが、何度観ても手に汗握る名シーンである。

 

もう一つ、ジャック・ネイピアの若い頃を演じた俳優が良い。ジャック・ニコルソンを若返らせれば、確かにこうなるだろうという容姿である。ハンニバル・レクター/アンソニー・ホプキンスの若き頃を演じたギャスパー・ウリエルを思い起こした。余談だが、Jovianの同僚イングランド人はマッツ・ミケルソンをホプキンス以上と激賞する。

 

コミカルなダークさ、hand to handの格闘アクション、バットモービルやバットウィングなどの大型ガジェットなども見物で、バットマンというアメリカで最も有名な(Jovian調べ:同僚アメリカ人2人にアンケート調査)スーパーヒーローとそのarchnemesisであるジョーカーとの対決を堪能できる逸品である。

 

ネガティブ・サイド

ゴードンやデントの存在感の無さ。特にビリー・ディー・ウィリアムズは空気なのかと思えるほど、劇中で存在感を発揮しない。ハービー・デントの名が泣くではないか。

 

また執事アルフレッドの存在感も今一つだ。両親を早くに亡くして、というか殺されてしまったブルース・ウェインの心の拠りどころの大部分はこの老執事にあるのだから、彼にもそれなりの見せ場が欲しかった。飲食物を手配したり、取材費を渡してやったり以外にもするべきことはあったはずだ。アルフレッドがブルース人生におけるpositive male figureである演出があってしかるべきだった。この部分が欠けてしまっているが為に、バットマンがなぜ夜な夜な悪と戦うのかという動機づけの説明、または観る側に推測させる材料が不足してしまっている。

 

キム・ベイシンガーのキャラクターが個人的にはハマっているようには見えなかった。大富豪と二人っきりでディナーを楽しみ、同衾しながら、翌朝には「普段の自分はこんなことしない」と、そのことを後悔するなど、キャラクターがぶれまくっている。ゴッサムにカマトトは似つかわしくない。

 

総評

ジョーカーの登場シーンで頻繁に流れる“Beautiful Dreamer”が摩訶不思議な雰囲気を生み出している。ティム・バートン世界とゴッサムは相性が良さそうだ。リアル路線のバットマンおよびスーパーヒーローものも悪くないが、幻想的な世界で繰り広げられるバットマンとジョーカーの攻防の面白さは、とてもユニークである。『 ダークナイト 』のジョーカーはカリスマ性を感じさせるが、波長が合えばこちらのジョーカーの方がチャーミングかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

How much do you weigh?

 

「体重はどれくらいだ?」の意味である。“What do you weigh?”も同じくらい良く使われる表現である。こんな表現を頻繁に使うのはボクシング関係者および熱心なボクシングファンくらいであろうが、覚えておいて損になるものでもない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, B Rank, アクション, アメリカ, クライムドラマ, ジャック・ニコルソン, ビリー・ディー・ウィリアムズ, マイケル・キートン, 監督:ティム・バートン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 バットマン 』 -ダークヒーロー誕生物語-

『 ダークナイト 』 -ヒーローの限界を露わにする野心作-

Posted on 2019年9月8日2019年9月8日 by cool-jupiter

ダークナイト 75点
2019年9月2日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クリスチャン・ベール ヒース・レジャー アーロン・エッカート
監督:クリストファー・ノーラン

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DC映画『 ジョーカー 』の封切を前に、復習の意味で鑑賞。シーザー・ロメロが演じたジョーカーまでは、さすがにさかのぼる余裕はなかった。

 

あらすじ

犯罪の絶えないゴッサム・シティに新たな犯罪者、ジョーカー(ヒース・レジャー)が現れた。ブルース・ウェイン/バットマン(クリスチャン・ベール)はゴードン警部補やハービー・デント検事と共に、次から次へと引き起こされるジョーカーの犯行を止めるべく奔走するが・・・

 

ポジティブ・サイド

バットマンというキャラは時代と共に変化する。当初は殺人も厭わないキャラで、生み出された時代背景を反映し、栄えあるfirst villainは日本人マッドサイエンティストだったようである。バットマンというキャラは顔がほとんど隠れてしまっているわけで、表情の演技が難しい。そこをクリスチャン・ベールは目と声、そして立ち居振る舞いと格闘アクションで存分に表現した。

 

だが、月並みではあるが、本作で称賛すべきはヒース・レジャーなのだろう。ジョーカーに関しては、ジャック・ニコルソンのイメージが最も強くJovianには残っているが、このジョーカーはこのジョーカーで類稀なる説得力を有している。冷酷無比、悪逆非道だからヴィランであるわけではない。見方を変えれば、スーパーヒーローというのは、悪役たちを片っ端から問答無用で始末しているわけで、彼ら彼女らこそ冷酷無比にして、悪逆非道であるとの見方も成り立つわけである。ジョーカーをそこをさらにひっくり返した。端的に言えば「バットマンよ、俺を殺せ」というのジョーカーのメッセージなわけで、正義と悪が戦っているわけではない。戦っているのはどちらも悪だと言いたいわけだ。仮面を脱げ、というのは、善人ぶるのをやめろ、ということだ。そのことは、クライマックスの客船と囚人船の対比で明らかになる。だが、ここでストーリーは見事に転換する。多くの人が既に本作を鑑賞済みと思われるが、まだ観ていないという方も当然おられよう。タイトルがダークナイト=闇の騎士であることには大いなる意味が込められている。武士道は主君のために死ぬことを是とし、騎士道は名誉や正義や真実といった抽象概念に奉仕し、それらを具現化することを是としていることの対比が思い起こされよう。バットマンが掲げる正義の理想は、決して赫耀たる光輝を帯びた正義ではない。陳腐ではなるが、我々はヴィランやヒーローを超えたところに正義を見出す。このパラダイム・シフトこそが本作の最大の貢献だろう。

 

ネガティブ・サイド

トゥー・フェイスの存在感が今一つである。完全にジョーカーに呑まれているように思う。だが、作品自体のテーマが正義と悪の不可分性、両者の境目の不可知性なのだから、その境界線上の存在であるトゥー・フェイスには相応の存在感が求められる。これでは、ただの頭脳明晰な悪人ではないか。バットマンが必殺仕事人なら、デントは長谷川平蔵であるべきではないか。コイントスの結果によって正義と悪の両方向に極端に揺れ動く様が、もう一つ弱かった印象である。まあ、このヒース・レジャーと共演するというのは、ライブ・エイドでクイーンの後にパフォームするようなものではあるが・・・

 

ジョーカーの異常性や危険性を際立たせる演出がもう少しあってもよかった。『 ダークナイト ライジング 』でアルフレッドが、「ベインと戦ってはいけない。あなたに勝ち目はない」と忠告したような演出が、今作のジョーカーにあっても良かった。ジョーカーの危険性はその強さではなく、その狂った哲学にあるからだ。戦いの土俵に上がってしまうことそれ自体が危険な行為であるという映画的な技法による説明があってもよかった。

 

総評

ジョーカーが取調室で不敵に言い放つ、“You complete me.”が全てである。人間は陰と陽が入り混じって生きているように、絶対的に正義を悪を区別できるものではない。Marvel Cinematic Universeではなトニー・スターク/アイアンマンの営為が、しばしば破壊的なアフターマスをもたらすが、今作のジョーカーは、スケールでは大きく劣るものの、残すインパクトはアイアンマンのそれに全く負けていない。むしろ上回っている。スーパーヒーローものとしては異色の作品にして大胆不敵な野心作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Ta-da!

 

Tah-dah!と書かれることもある。ジョーカーが序盤に鉛筆を消して見せるシーンで言い放つ。感嘆表現で、日本語の「ジャジャーン!」にあたると思ってよい。『 デッドプール 』でも盲目老婆のルームメイトであるアルが、棚を組み立て、イスに座る瞬間に発している台詞である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, アーロン・エッカート, アクション, アメリカ, クライムドラマ, クリスチャン・ベール, ヒース・レジャー, 監督:クリストファー・ノーラン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ダークナイト 』 -ヒーローの限界を露わにする野心作-

『 ガーンジー島の読書会の秘密 』 -絆と信頼の物語-

Posted on 2019年9月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

ガーンジー島の読書会の秘密 70点
2019年9月1日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:リリー・ジェームズ
監督:マイク・ニューウェル

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Jovianはアンニャ・テイラー=ジョイ、ヘイリー・スタインフェルド、そしてリリー・ジェームズ推しである。『 シンデレラ 』以来、彼女の虜なのである。どれくらいファンなのかというと、彼女が脱いでいる『 偽りの忠誠 ナチスが愛した女 』は観ないと決めているほどである。なので、どうしても点数が甘くなるのである。

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あらすじ

 

作家のジュリエット(リリー・ジェームズ)は、偶然からガーンジー島の住民と文通を始める。そして、ナチス占領下で始まったガーンジー島の読書会に惹かれ、ついに島を訪れる。しかし、そこには会の創始者であるエリザベスの姿がなかった。ジュリエットは島民たちとの交流を通じて、真相を追うが・・・

 

ポジティブ・サイド

ナチス・ドイツに占領されていた島の住民が抱える秘密となれば、その中の一人あるいは相当数がダブル・エージェントだったと考えるのが自然だろう。冷戦時代をフィーシャーしたスパイ小説や現代のスパイ映画に余りにたくさん接してしまうと、戦時の秘密=裏切りという思考の陥穽にはまってしまう。本作はそのようなclichéにはあらず。また、島民たちの人間関係にもダークな面はあるものの、横溝正史が描いたりするような日本の閉鎖的な田舎のそれではないので、安心してほしい。

 

リリー・ジェームズは本作でも可憐である。しかし、単なる可憐な花ではない。彼女は文通から始まったガーンジー島の住民との交流と、島への訪問、そして読書会への参加に大いなる喜びを感じながらも、その喜びがロンドンで得られるそれはとは異なる類のものであることにも気づいてしまう。これは、ジュリエットが与えられる幸せではなく、自らが幸せを掴み取りにいく物語なのである。女性に対しては自立を促すメッセージ性を有しており、男性に対しては自身を持つように促すメッセージ性を有している。

 

『 ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男 』と同じく、リリー・ジェームズがタイプライターをカタカタと叩き、『 マイ・ブックショップ 』的な雰囲気がほんのり漂うガーンジー島の物語は、戦争後に個人が依って立つべき生きる基準のようなものが示してくれる。

 

ネガティブ・サイド

ガーンジー島の読書会の面々は、少し口が軽すぎる。スリルやサスペンスが今一つ盛り上がらない。なぜエリザベスの姿が見えないのか。彼女が消えた理由は何か、どこへ行ったのか。それらが解き明かされる際のカタルシスが弱い。というのも、それがある意味でデウス・エクス・マキナ的にもたらされるからである。

 

またジュリエット自身が少々無節操に見えてしまうのも弱点である。アメリカ人の婚約者とガーンジー島の読書会のメンバーの間で揺れ動くのは、clichéと言えばclichéであるが、許容可能な定番設定である。しかし、編集者の男性にまで思わせぶりな態度を取る必要はない。というよりも、このキャラは普通に女性で良かったのではないか。何でもかんでも現代的にアレンジすれば良いというわけではない。

 

島の人間関係に、あまりにも戦争が影を落とし過ぎているのも、ちと気になった。日本ほどではないだろうが、英国も多様な文化を誇る島国。それはつまり、多種多様な人間関係の模様があるということである。それが、あまりにも戦争一色に塗り変えられたように感じられた。島民たちの間にはもっと清々しく、もっとドロドロした人間模様が戦争前からあったはずだ。それが感じ取れなかった。そういうものを消し去ってしまうのが戦争だと言ってしまえばそれまでかもしれないが。

 

総評

ヒューマンドラマの佳作である。ミステリ要素もサスペンス要素もそれほど強くないが、島民たちが触れようとしない真実の物語が、主人公の成長の軌跡と不思議なシンクロをしているところが印象的である。ぜひ劇場にどうぞ。一人でも多くの方に、リリー・ジェームズのファンになってもらいたいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Off you go.

 

『 デッドプール 』でもエド・スクラインが使用していた台詞である。「もう行ってくれ」、「出て行け」、「さあ、行った行った」のようなニュアンスで捉えればよいだろう。

 

I am all ears.

『 GODZILLA ゴジラ 』でデヴィッド・ストラザーンが渡辺謙に言う台詞でもある。「聞こう」、「ぜひ聞きたい」、「あなたの話をしっかりと聞くつもりだ」というニュアンスと思えばよい。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, フランス, ラブロマンス, リリー・ジェームズ, 監督:マイク・ニューウェル, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ガーンジー島の読書会の秘密 』 -絆と信頼の物語-

『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

Posted on 2019年8月27日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

ロケットマン 70点
2019年8月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:タロン・エガートン リチャード・マッデン ブライス・ダラス・ハワード
監督:デクスター・フレッチャー

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ブライアン・シンガーが降板した『 ボヘミアン・ラプソディ 』を、ある意味で立て直したデクスター・フレッチャーの監督作品である。それだけでも話題性は十分だが、日本との関係で言えば、テレビドラマの『 イグアナの娘 』のテーマ曲だったことを覚えている30代、40代は多いだろう。Jovian自身のエルトン・ジョンとの邂逅はロッド・スチュワートのアルバム『 スマイラー 』収録の“レット・ミー・ビー・ユア・カー”だった。ライトなエルトン・ジョンのファンとしては、本作はそれなりに楽しめた。

 

 

あらすじ

レジー・ドワイト少年はピアノの神童だった。奨学金を得て王立音楽院に通えるほどの才能に恵まれていながら、彼はいつしかロックに傾倒していった。そして、名前をエルトン・ジョン(タロン・エガートン)に変え、音楽活動を本格化する。そして作詞家バーニー・トーピンと出会い、意気投合。彼らは成功を収めるも、エルトンは満たされたとは感じられず・・・

 

 

ポジティブ・サイド

タロン・エガートンの歌唱力、ピアノの演奏、そしてエルトンの動きの模倣。これらはラミ・マレックが『 ボヘミアン・ラプソディ 』でフレディ・マーキュリーを演じたの同じレベルにある。ただ、あまりにもあからさまなので、アカデミー賞は取れないだろうが。それでも、容姿の点ではマレックとマーキュリーよりも、エガートンとジョンの方が近い。その点は素晴らしいと称賛できるし、何よりもエルトンの幼年期を演じた子役のシンクロ度よ。写真で見比べて「うおっ!」と感嘆の声を上げてしまうほどだ。

 

そしてブライス・ダラス・ハワードは、ますますmilfy(気になる人だけ意味を調べてみよう)になったようだ。『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』でアリソン・ジャネイが演じた母親とは一味違う、恐怖の母親を演じた。子どもにとって生みの親に愛されないことほど辛いことはない。その愛情がスパルタ教育という形で表れるのは、まだましな方なのかもしれない。愛の反意語は無関心であると喝破したのは、マザー・テレサだったか。この母親は子どもの持つ並はずれた才能にも頓着せず、カネの無心ばかり。このあたりの演技と演出方法が抜群であるため、物語の開始早々から我々はレジーの心象風景であるミュージカルシーンに違和感なく入っていくことができる。この冒頭のシークエンスは、どこか『 グレイテスト・ショーマン 』の“A Million Dreams”に通じるものを感じた。子どもというのは空想、イマジネーションの世界に遊ぶことができるのだ。その媒体としての音楽=LPレコードとの出会いを、今度は父親が無下に拒否する。我々の心はさらに締め付けられる。かくしてレジーは音楽へ没入せざるを得なくなる。

 

そのレジーが生涯の友のバーニーと邂逅するシーンはリアルである。エルトン・ジョン自身が監修しているのだから当然と言えば当然だが。初対面の二人は互いの音楽の趣味嗜好を確かめ合うのだが、それがぴたりと合う。そこからは意気投合あるのみ。このあたりは『 はじまりのうた 』でマーク・ラファロがキーラ・ナイトレイと互いの音楽の趣味について語り合った場面と共通するが、あれをもっと一気に凝縮した感じである。音楽家同士が理解し合うのに百万言は必要ないのである。このカフェのシーンは実に印象的だ。

 

楽曲面で言えば、すべてを自らの声で歌いきったタロン・エガートンには称賛することしかできない。特に“Your song”は、歌詞からインスピレーションを得て生まれてくるメロディにピアノと声で生命を与えていくシークエンスには、魂が震えるような衝撃を受けた。また個人的にはストーリー中盤のライブでの“Pinball Wizard”が白眉だった。発声可能上映が期待される。

 

エンターテインメントとして完成度が高く、ダンスシーンも圧巻の迫力。なによりもエルトン・ジョンのファンではなくとも、彼の抱える苦悩と共感しやすい作りになっている。愛情を得られない子ども、仮面をかぶり自分を偽る大人、自分という存在を認めてくれる別の存在を求めて彷徨するvagabond。自己を表現することで自己を隠していた天才的パドーマー。愛されるためには、愛さねばならない。そんな人生の真理のようなものも示唆してくれる。稀代の歌い手の前半生を追体験できる伝記映画にして娯楽映画の良作だ。

 

ネガティブ・サイド

映画がフィーチャーしている時代が異なるので仕方がないと言えば仕方がないのだが、エンドクレジットにおいてすら“Candle in the wind”が流れないのは解せない。もしかして、最初から続編の予定ありきなのだろうか。

 

また、一部のニュースによると、ラミ・マレック演じるフレディを作中に登場させるという構想もあったらしいが、それも色気を出し過ぎだし、話題を無理やり作りたい=商業主義的な考え方が透けて見えてしまう。そんなにクロスオーバーをしたいのであれば、悪徳マネージャーのジョン・リードをエイダン・ギレンに演じさせれば良かったのだ(クイーンにとってのジョン・リードはそこまで悪辣ではなかったらしいが)。

 

また、せっかくエルトン・ジョンの前半生に焦点をあてるのなら、レジー・ドワイトの時代にもう数分を割いてもよかった。『 ボヘミアン・ラプソディ 』の構成で最も印象深かったのは、フレディ・マーキュリーがファルーク・バルサラであった時代に光を当て、なおかつフレディがライブ・エイドの最中にファルークに戻って、母親にキスを送るシーンだ。もちろん、別人の物語なので全く同じ構成にはできないが、もっと王立音楽院での学びが後のキャリアに生きてくる描写なども欲しかった。B’zの松本も音楽の専門学校でジャズを学んだことが創作活動に活かされていると常々語っているではないか。

 

最後に、やはり締めには壮大なライブシーンが欲しかった。『 リンダリンダリンダ 』や『 ソラニン 』もそうだったが、音楽の映画の締めにはライブこそふさわしいと思うのである。

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総評

これは素晴らしい作品である。色々と注文をつけたくなるのも、それだけ素材が良いからである。1970~1980年代に青春を過ごした日本のシニア層には『 ボヘミアン・ラプソディ 』並みに刺さるのではないか。エルトン・ジョンを知らない世代でも、両親や親戚、会社の先輩などと一緒に(気が向けば)鑑賞に出かけてほしい。サム・スミスのような新世代の歌手が生まれてきた下地を作ったのは、エルトン・ジョンやジョージ・マイケルのような偉大な先達なのだから。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

“We’ll be in touch.”

『 殺人鬼を飼う女 』で日→英で紹介したフレーズがさっそく登場した。ビジネスパーソンならば、是非とも使ってみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イギリス, タロン・エガートン, ヒューマンドラマ, ブライス・ダラス・ハワード, ミュージカル, リチャード・マッデン, 監督:デクスター・フレッチャー, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

Posted on 2019年8月17日2020年4月11日 by cool-jupiter

あなたの名前を呼べたなら 70点
2019年8月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ティロタマ・ショーム ビベーク・ゴーンバル
監督: ロヘナ・ゲラ

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原題は Sir である。インドは国策として映画作りを推進しているが、だんだんとインド特有の歌や踊りを減らしていくという。個人的にそれはつまらないと感じるが、グローバルなマーケットで売ろうとするためには、柔軟さも必要か。本作はそうした、ある意味ではデタラメなパワーを持つインド映画らしさではなく、普通に近い技法で作られたインド映画なのである。

 

あらすじ

建設会社の御曹司アシュヴィン(ビベーク・ゴーンバル)は挙式目前。しかし、婚約者の浮気が発覚し、結婚は破談した。通いのメイドのラトナ(ティロタマ・ショーム)は、そんなアシュヴィンに甲斐甲斐しく尽くす。彼女には夢があった。いつかファッションデザイナーになり、自立した女性となる夢が。だが、彼女は19歳で結婚した身。今は未亡人でも、新たな恋愛や結婚は因習的に許されない。いつしか惹かれ合い始める二人だが・・・

 

ポジティブ・サイド

とてもとても静かな立ち上がりである。アシュヴィンとラトナの間に恋愛感情が芽生えることは誰もが分かっている。そのbuild-upをどうするのかが観る側の関心なのであるが、ロヘナ・ゲラ監督は淡々と二人の日常生活を描いていくことで、二人の間の距離感を丁寧に描写していく。食事のシーンが好例である。ラトナがアシュヴィンに供する食事は、どれも一皿に一品で、ナイフとフォークで食するようなものばかりである。一方で、自分がとる食事は大皿にナンや野菜や鶏肉などを全て乗せた、いわゆるインド的なカレーであったりする。この対照性が二人の距離である。

 

だが、二人には共通点もある。ラトナはファッションデザイナーになるという夢があり、将来は妹とともに独立して自分たちの力でビジネスを営みたい。そのために妹の学費を自らの稼ぎから工面している。一方でアシュヴィンはアメリカに留学し、ライター稼業をしていたが、兄の死によって自らが事業継承になるためにインドに帰国してきた。つまり、ラトナもアシュヴィンも、本当の意味での自己実現を果たしているわけではないのである。全くとなる背景を持つ二人であるが、自分にはどうしようもない事情で現在の自分があることを受け入れている。だからこそアシュヴィンはラトナが仕立て屋に通うことや裁縫学校に行くことを快く承諾してくれるし、ラトナはアシュヴィンに執筆業への回帰を促す。それが互いへの思いやりであり配慮である。そのことが、しっかりと伝わってくる。安易にさびしさに負けて、なし崩し的にキスからベッドインなどという展開にはならない。しかし、二人が互いに秘めていた想いを一瞬だけ露わにするシーンは、見ているこちらが緊張するほどぎこちなく、それでいて甘く、激しい。近年のラブロマンスにおいては、白眉とも言えるシークエンスである。

 

ラストシーンが残す余韻も素晴らしい。終わってみれば「なるほどね」なのだが、この一瞬のために、ここまでドラマを積み上げてきたのかと得心した。そのドラマとは、ラトナの精神的、そして経済的な自立への旅路であり、アシュヴィンにとっては家族、そして友人関係のしがらみからの解放への旅路でもある。そして、二人はインドの因習からの独立を目指す同志でもあるのだ。使用人とその主人という縦の関係を、水平的な関係に転化させる一言を絞り出すラトナの表情に、我々は心の底から祝福のエールを送りたくなるのだ。

 

アシュヴィンを演じたビベーク・ゴーンバルはアメリカ帰りという設定ゆえか、非常に流暢な英語を操る。彼の台詞のかなりの割合が、非常にスタンダードな英語なので、英語悪習者の方は、ぜひ彼の台詞に耳を傾けて欲しい。本作の感想ではないが、インド人はそこそこの割合で英語を話せる。また、人口の結構な割合の人々が英語を聞いて理解できると言われている。確かに『 きっと、うまくいく 』の講義は英語だったし、『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』でも、ラクシュミは英語を話すのは苦手だったが、リスニングはできていた。英語の運用能力を持つことがそれなりのステータスであるという点で、日本はインドとよく似ている。しかし、インドにおいて英語力というものは、おそらく運転免許証のようなものなのだと推測する。なくてもそこまでは困らないが、だいたい皆が持っている。そういうことである。

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ネガティブ・サイド

アシュヴィンのone night standは必要だったのだろうか。別にこのシーンがなくとも、ストーリーはつなげられるように感じた。もちろん、結婚が破談になったアシュヴィンが人肌恋しく思うのは理解できるが、その相手をバーで調達してしまうというのは、あまりにも安易ではないか。また、ラトナに「彼女はもう帰ったのか」と尋ねるのもいかがなものか。自分が求めているのは刹那的な関係ではなく、長期にわたって真剣に互いを高め合える、あるいは補い合えるような関係であると気付くのであれば、破談になった相手との関係を振り返る、あるいはアシュヴィンの姉や友人に劇中以上にそのことを喋らせれば良かった。このあたりはゲラ監督とJovianの波長は合わなかった。

 

もう一つ。アシュヴィンが最初からあまりにも物分かりの良いご主人様で、少々ご都合主義のようにも感じられた。召使いとして甲斐甲斐しく恭しく使えるラトナは、メイド仲間の愚痴を聞くシーンが何度か挿入されるが、その仲間の愚痴がことごとくアシュヴィンに当てはまらないのだ。そうではなく、仲間が愚痴ってしまうようなシチュエーションが自分にも訪れた時に、主人であるアシュヴィンがどのように反応するのか、そうした展開があってこそ、ハラハラドキドキ要素がより一層盛り上がるというものだ。それが無かったのは惜しいと言わざるを得ない。

 

総評

静かな、大人のラブストーリーである。韓国ドラマのように、互いが互いを想いながらも絶妙にすれ違う展開にイライラさせられることはなく、むしろ近くて、けれどなかなか縮まらない距離感をじっくりと鑑賞できる構成である。そこにインド独特の因習や女性蔑視への眼差しもあるのだが、決してそれらに対して批判的にならず、そうした障害を乗り越えていく予感を与えてくれる作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

アシュヴィンが友人からの誘いに対して“Rain check?”と返す場面がある。これは野球の試合が雨天順延になった時に、rain check=再試合のチケットを受け取ることから、「別の機会にまた誘ってくれ」という意味で使われる表現である。主に北米=野球が行われる地域でしか通用しない。なので、オーストラリアやニュージーランドの人間に使うと「???」と返されることがある。アシュヴィンのアメリカ帰りという設定、そして野球にちょっと似ているクリケットが盛んなインドのお国柄を考えてみると面白い。ちょっとした慣用表現の向こうに、様々な世界が見えてくる。同表現は『 パルプ・フィクション 』でJ・トラボルタも使っている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, インド, ティロタマ・ショーム, ビベーク・ゴーンバル, フランス, ラブロマンス, 監督:ロヘナ・ゲラ, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

『 ブレス あの波の向こうへ 』 -青春&サーフィン映画の佳作-

Posted on 2019年8月15日2020年4月11日 by cool-jupiter

ブレス あの波の向こうへ 70点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ベイカー エリザベス・デビッキ
監督:サイモン・ベイカー

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嫁さんは以前はTVドラマ『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』にハマっていた。そして今は『 メンタリスト 』の最終シーズンおよび『 グッド・ワイフ 』を鑑賞中である。サイモン・ベイカーを映画で観るのは『 プラダを着た悪魔 』以来だろうか。『 メンタリスト 』のリズボンといつか映画で共演を果たしてほしい。

 

あらすじ

やや内気な少年パイクレットは無鉄砲なルーニーと、危険を顧みずに遊びまわっていた。ある日、彼らは海でサーファーたちが波に乗るのを見て、えもいわれぬ感覚に襲われる。自分たちもサーフィンをしてみたいと思い立った彼らは、サンドー(サイモン・ベイカー)とその妻イーヴァ(エリザベス・デビッキ)と知り合う。サンドーに導かれ、彼らはどんどんとサーフィンに魅せられていくが・・・

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ポジティブ・サイド

BGMを極力排して、風の音、潮騒、鳥の鳴き声などのオーガニックな音を聞かせようとするところが、『 君の名前で僕を呼んで 』とよく似ている。オーストラリアと言えば砂漠のイメージが強いが、一切はグレート・バリア・リーフのように海も巨大な観光資源になっている。大自然と言えば、夏。夏と言えば山か海が定番である。オーストラリアならば海だ。その海の波も、葛飾北斎の名画『 神奈川沖浪裏 』のような大波荒波である。その波の青と白を雄大な波音を交えてスクリーンいっぱいに叩きつけんばかりの勢いで映し出せば、大自然=wildernessの力強さがそのままこちらに伝わってくる。特に、何を海面下から見上げるショットは海の深さ、荒々しさ、激しさを伝える興味深いショットだった。

 

サイモン・ベイカーのオーストラリア英語を始めて聞いたように思うが、『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でスウェーデン語を話すステラン・スケルスガルドのように、本来の素の自分を出せていた。彼の演じるサンドーという男はミステリアスでセクシーでワイルドながらも、父親らしさがある。ルーニーとパイクレットの二人がある意味で飢えていた、人生におけるpositive male figureを巧みに体現していた。

 

そのルーニーは『 スタンド・バイ・ミー 』におけるテディ(コリー・フェルドマン)、または『 IT~”それ”が見えたら終わり~ 』におけるリッチー・トージアのようなクソガキで、確かに男というものは悪い奴、またはアホな奴とつるんでしまう時期というものがある。若気の至りや若気の無分別という言葉そのままに突っ走るルーニーは、愛せそうで愛せない、しかし憎むこともできない困ったキャラクターを存分に表現した。

 

主人公たるパイクレットは前半と後半でまるで違う人間になっている。つまり、少年から大人になったのである。子ども=労働と性から疎外された存在、という近代的な定義をこれまでにも何度か紹介したが、パイクレットが一夏の間に持つ性体験は、言葉そのままの意味で劇的である。同級生の良い感じの女子とボール(ダンス)で良い感じに燃え上がりながら、相手の娘の方からセックスに誘ってきたのに、それに乗らない。その代わりに、サンドーとルーニーがインドネシアに旅立っている間、孤閨を託つイーヴァとのセックスに耽る。イーヴァの元に自転車で猛スピードで向かうパイクレットを観て、苦笑する大人は多かろう。セックスそのものよりも、セックスを求める様が滑稽で、なおかつ真剣味に溢れているからだ。サンドーが良き父親代わりを演じる反面で、イーヴァはパイクレットやルーニーの恋人になるには年齢が上過ぎるし、かといって母親的な役割を演じるには年齢的に若すぎる。つまり、イーヴァはパイクレットにとって、恋人でも母親でもない存在として立ち現われてくるのである。この展開は見事である。

 

パイクレットはサーフィンと出会い、海に魅了されながらも、翻弄はされなかった。海に出ることの怖さを知ったからだ。しかし、彼は臆病になったのではない。自分にできることとできないことを弁別できるようになったのだ。爽やかな余韻を残して物語は幕を閉じる。これはビルドゥングスロマンの佳作である。

 

ネガティブ・サイド

昔にMOVIXあまがさきで観た『 ソウル・サーファー 』との共通点も感じる。海とは異界への入り口であり、芳醇な恵みをもたらしてくれると共に、容赦なく命を奪う凶暴なる存在でもある。劇中でも示唆されたように、ホオジロザメなどは恐怖の対象である。だが、それが出てこない。バーニーとは結局のところ何だったのか。『 ハナレイ・ベイ 』のような展開を予感させつつ、これではただの虚仮脅しではないか。

 

パイクレットと父親の距離感も気になった。もう少しだけで良いから、ラストの親子の対話に至る前振りが欲しかった。洋の東西を問わず、父親と息子の対話は一大テーマなのである。

 

前半と後半の転調の落差が激しく、違う映画になってしまったのかとすら感じてしまった。一夏のアバンチュールを機にストーリーの方向が変わっていくのはクリシェである。トーンの一貫性が映画監督サイモン・ベイカーの今後の課題なのかもしれない。

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総評

嫁さんに連れられて行ってみたが、これは思わぬ掘り出し物である。スクリーンに広がる大自然の驚異、サーフィンの躍動感はそれだけでfeast to the eyeである。また、エリザベス・デビッキの美貌とエロチシズムはおっさん観客を満足させるであろう。ストーリーはどこかで観たり読んだりした映画や文学のパッチワーク的ではあるが、少人数の大人と子どもが限られた時間と空間で濃密な時を共有するドラマは、静かでいて力強さに満ちている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, エリザベス・デビッキ, オーストラリア, サイモン・ベイカー, ヒューマンドラマ, 監督:サイモン・ベイカー, 配給会社:アンプラグドLeave a Comment on 『 ブレス あの波の向こうへ 』 -青春&サーフィン映画の佳作-

『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

Posted on 2019年8月1日2020年5月23日 by cool-jupiter

アバウト・レイ 16歳の決断 70点
2019年7月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エル・ファニング ナオミ・ワッツ スーザン・サランドン
監督:ゲイビー・デラル

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LGBTは、おそらく人類誕生の昔から存在していた。“生産性が低い”とどこかの島国のアホな政治家が主張する彼ら彼女らが、歴史を通じて存在してきたのは何故か。それには諸説ある。日本でも、江戸川乱歩の傑作長編『 孤島の鬼 』などは歴史に敵に新しい方で、安土桃山時代の織田信長や、室町初期の足利義満、またはそれ以上にまで遡る歴史がある。近年、LGBTをテーマにした作品が数多く生産されている。メジャーなものでは『 ボヘミアン・ラプソディ 』、マイナーなものでは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』など。本作は諸事情あって公開が延期されるなどした作品であるが、それもまた時代であり世相であろう。

 

あらすじ

レイ(エル・ファニング)はトランスジェンダー。生物学的には女性だが、精神的には男性、そして肉体的にも男性として生きたいと強く願っている。しかし、未成年のレイがホルモン療法を受けるには、両親の同意が必要。母マギー(ナオミ・ワッツ)は悩んだ末に、レイをサポートすることを決断する。そのために、レイの父、自らの元夫の協力と理解を得ようとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

エル・ファニングが好演している。おそらく、この撮影前であれば、肉体的な成熟具合が不十分であるため、男性的な肉体を欲するようになる動機が弱くなる。これよりも後のタイミングで撮影するとなると、完全に女性になってしまい、中性さが失われる。つまり、決断の遅さが目立ってしまい、観る側の共感を得ることが困難になる。公開が遅れたことは残念であるが。それゆえに『 孤独なふりした世界で 』との距離感、つまり中性性と女性性の差が際立つ。つまり、ベストタイミングでの撮影だったわけである。とても年頃の女の子とは思えない、大股開きでの座り方。男子との取っ組み合いのけんかの後に、気になる女子に「女を殴るなんて、あいつらサイテー」と言われた時の複雑な表情。胸の膨らみをサラシで隠し、ダボダボの服で身体の曲線を目立たなくさせ、生理が止まると医者に説明を受けた時には心底嬉しそうに笑う。エル・ファニングのキャリア屈指のパフォーマンスではないだろうか。But as for her career, the best is yet to come!

 

女三世代で暮らす中には緊張が走る瞬間や女性特有の人間関係、B’zの『 恋心 ~KOI-GOKORO~ 』が言うところの「女の連帯感」を感じさせる場面もある。祖母ちゃんが立派なゲイで、彼女とパートナーの間には、家族といえども入り込めない空気が存在するのである。だが、そこに冷たさはない。自分の信じる道、生きると決めた道を行く姿勢を見せることが、レイの生き方をexemplifyすることになるからだ。三世代それぞれに異なる女性像を描くことで、単なる家族の物語以上の意味が付与されている。

 

それにしてもナオミ・ワッツの脆さと強さ、健気さと不完全さを同居させる演技はどうだ。日本では篠原涼子、アメリカではジュリア・ロバーツらがタフな母親を演じ、好評を博しているが、それもこれもナオミ・ワッツのようなactressがバランスをとってくれているからだろう。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーの一番の肝である、父親からホルモン療法の同意書を得るというミッションをこれ見よがしに引き延ばすのはよろしくない。すれっからしの映画ファンならずとも。この筋道は簡単に読めてしまう。

 

レイが地域や学校で苦悩する姿の描写が足りなかった。例えば、ゲイならばパートナーを見つけることができれば、それが自身の幸福にも相手の幸福にもつながる。しかし、トランスジェンダーというのは、自分自身の身体と精神が折り合えないところに辛さがある。パートナーを見つけることが問題解決になるわけではない。自分が自分を見るように、他人が自分を見れくれない。だからこそ、自分の身体を変えて、新しいコミュニティで新しい生活を始めたいという、レイの切なる気持ちを見る側が素直に共感できるような描写がもっと欲しかったと思う。

 

総評

ライトではなく、しかし、シリアスになりすぎないLGBTの物語、そして家族の別離と再生の物語である。日本で誰かリメイクしてくれないだろうか。こういったストーリーは現代日本にこそ求められているはずだ。その時は行定勲監督で製作してもらいたい。日本映画界でも出来るはずだし、やるべきだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エル・ファニング, スーザン・サランドン, ナオミ・ワッツ, ヒューマンドラマ, 監督:ゲイビー・デラル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

『 The Witch 魔女 』 -韓流サイキック・バトル・アクション-

Posted on 2019年7月28日2020年8月26日 by cool-jupiter

The Witch 魔女 70点
2019年7月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ダミ チョ・ミンス チェ・ウシク パク・ヒスン
監督:パク・フンジョン

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シネマート心斎橋で観たいと思っていて、タイミングが合わせられなかった作品。ようやくDVDにて鑑賞。韓国映画はインド映画と同じく、でたらめなパワーを感じさせるものが多い。本作の出来具合も相当でたらめである。しかし、パワーもすごい。

 

あらすじ

血まみれの少女ク・ジャユン(キム・ダミ)は森を駆け抜け、追手から逃れた。子のいない酪農家夫婦に育てられたジャユンは、親友の誘いでソウルのテレビ番組に出演し、ちょっとしたマジックを披露する。しかし、次の瞬間から謎の男たちに追われることになり・・・

 

ポジティブ・サイド

タイトルロールを演じるキム・ダミの純朴さと不気味さ。『 テルマエ・ロマエ 』でルシウスは日本人を指して「平たい顔族」と呼称するが、彼女の顔も相当平たい。しかし、この顔が中盤から後半にかけて、魔女のそれに一変する。素朴な少女が凶悪な殺人者に変貌する瞬間の表情とアクションは必見である。

 

R15+指定であるのは、セクシーなシーンが含まれるからではく、バイオレンスシーンが存在するからだ。Jovianは暴力シーンをそれほど好まない。ただ、時々「さて、血しぶきでも見るか」という気分になることがある。そうした時に北野武の過去の映画を観返したりすることはある。年に一回ぐらいだろうか。近年だと『 ディストラクション・ベイビーズ 』が暴力を主軸にした邦画だったろうか。邦画は顔面の痣などをメイクアップで作り出すことには結構熱心だという印象がある。『 岸和田少年愚連隊 』シリーズのサダやチュンバが思い出される。本作は自身が受けたダメージよりも、返り血(という言葉では生ぬるい)で自身が敵に与えたダメージを表現する。その血の量は余りにも過剰である。ジャユンが魔女として覚醒するシーンで、とある男を掌底でぶちのめすが、このシーンでは思わず『 ターミネーター2 』でT-800がT-1000に顔面を鉄器具で少しずつ破壊されていくシークエンスを思い出した。1分足らずのシーンであるが、一回ごとに顔面に特殊メイクを施すので撮影に5~6時間かかったとレーザーディスクの付録小冊子に書かれていたと記憶している。ジャユンが男をボコるシーンはさすがに5時間はかかっていないだろうが、男を殴るたびに新たに血反吐を浴びるため、メイクアップアーティストはさぞかし大変であっただろうと推察する。容赦の無い流血描写および遠慮の全くない返り血描写こそ本作の肝である。

 

本作のもう一つの醍醐味はアクションである。『 ジョン・ウィック 』ばりのガン・アクション、『 LUCY / ルーシー 』を彷彿させるサイキック・アクション、往年のブルース・リーばりの格闘アクション、こうしたバトルを盛り上げてくれる要素のほんの少しでもいいから、超絶駄作『 ストレイヤーズ・クロニクル 』に分けて欲しいものである。いくつかコマ送りを使っているところもあるだろうが、スタントマンやダブルは使わず、全てのアクションはキム・ダミが行っているようである。日本の女優でこれだけ動けるのは、土屋太鳳にどれだけいるか。杉咲花もいけるか。決してセクハラだとかエロいだと捉えないで頂きたいのだが、彼女たちとキム・ダミの体型を比較することは、それはそのまま浅田真央とキム・ヨナの比較をすることになろう。彼女らに技術的な差はなかったように思うし、あったしても決定的な差ではなかったはず。単純にキム・ヨナの方が背が高く、手足がスラリと長かったので、見映えが良かったのだろうと思う。

 

Back on topic. 本作の最大の特徴は脚本の緻密さにある。冒頭のモノクロのオープニング映像こそ刺激的だが、前半の30分はかなり退屈というか、起伏に乏しい。しかし、それも全て計算された作りになっていることに驚かされた。映画の面白さの大本は演技、撮影、監督術にあるが、映画の面白さの根本は脚本にあると言ってよいだろう。本作は文句なしに面白い。

 

ネガティブ・サイド

Infinity世界のライプリヒ製薬のような会社が諸悪の根源であるらしいが、その全貌がほとんど見えない。本社がおそらくアメリカにあること、子どもを使った人体実験を屁とも思っていないこと、しかし、サイキッカーたちの軍事兵器化などには乗り気ではないということぐらいしか分からない。巨悪の存在の大きさや異様さを、出てくる情報の少なさで語るというのは常とう手段である。ただ、今作における会社、本社の情報は余りにも少なすぎる。架空の社名で良いので、一言だけでも言及して欲しかった。

 

漫画『 AKIRA 』や、前述した『 LUCY / ルーシー 』と同じく、一定の間隔でクスリを摂取しなければならないという設定も陳腐だ。もっと別の設定は考えられなかったのだろうか。例えば、凶暴性を開発された子どもとは逆に、治癒の超能力を持った者がおり、その者を味方につけなければならない、といったような。何から何までバトルにするのは爽快ではあるが、そこにほんの少しでも癒しや救いのある展開があっても良かったのに、と個人的には感じる。

 

これは製作者というよりも、日本の提供会社、配給会社への注文。開始早々から「第一部」とは明言されているが、ジャケットにもそのことを強調しておいてもらいたい。

総評

傑作である。どこかで見たシーンのパッチワーク作品であるとも言えるが、そこは韓流のでたらめなパワーで押し切ってしまっている。続編の存在の匂わせ方に稚拙さがあるが、続編そのものは非常に楽しみである。『 ラプラスの魔女 』など比較にはならない、本物の魔女が解き放たれるのだろう。さあ、この魔女のもたらす破壊と暴力と殺人の妙技を皆で堪能しようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, キム・ダミ, サスペンス, チェ・ウシク, チョ・ミンス, ミステリ, 監督:パク・フンジョン, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズ, 韓国Leave a Comment on 『 The Witch 魔女 』 -韓流サイキック・バトル・アクション-

『 今日も嫌がらせ弁当 』 -Mothering, The World’s Toughest Job-

Posted on 2019年7月11日2020年4月11日 by cool-jupiter

今日も嫌がらせ弁当 70点
2019年7月7日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:篠原涼子 芳根京子
監督:塚本連平

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数年前に“World’s Toughest Job”という動画がバズった。記憶に新しい人も多いかと思う。洋の東西を問わず、母親業というものは過酷を極めているようである。そのような現実において、本作のような作品が世に出ることには大変な意義がある。一つには、本作は実話をベースにしているということ。もう一つには、本作の物語が完全に市井の人のそれであるということ。「ディテールを観察していけば、この世に普通の人間はいない」とイッセー尾形は見抜いた。普通の人の、ちょっと普通ではない物語。そうしたものが今、求められているように思う。

 

あらすじ

八丈島に住む持丸かおり(篠原涼子)はシングルマザー。次女の双葉(芳根京子)はもうすぐ高校生にして反抗期。態度は横柄、口を開くことは無く、伝えたいことは全てLINEで伝えてくる。そんな娘にどうやってお灸をすえてやろうかと考えるかおりに天啓が下りる、「双葉のお弁当を全てキャラ弁にしてしまえ」と。かくして母娘の闘争の幕が上がる・・・

 

ポジティブ・サイド

篠原涼子と吉田羊は女優としての立ち位置が被っているように思っていたが、本作あたりからはっきりと差別化されてきたようだ。すなわち篠原は母親らしい母親で、吉田は母親らしくない母親を演じることが多い、と。人間性ではなくオファーされる役柄のことである。では母親らしさとは何か。それを一言で説明したり、定義づけたりするのは難しい。子どもを産むことではない。それは母親らしさではない。思うに、母親らしさとは、子どもの巣立ちを促すことなのかもしれない。かおりがキャラ弁を作るのは、嫌がらせが目的なのではない。娘を反抗期から次の段階に進ませようとする親心だ。そのことは、双葉が初めて母に寄り添おうと、幼い頃に交わした約束を持ち出してきたところ、優しく、しかし力強く拒絶する様には震えた。篠原自身がインタビューで「 女同士は友達みたいな感じになるんだなと思いましたね。男の子を持つ母親は、親という感じがすごくするけども、女同士だと、一緒に買い物したり、ランチしたり、映画を見に行ったり……女友達と行動しているのと変わらないところがありますよね 」と語っているが、これなどは『 レディ・バード 』のシアーシャ・ローナンとローリー・メットカーフの母娘関係にぴたりと当てはまる。母親らしさというのは、娘を対等に扱えること、娘と正面から向き合えることなのかもしれない。そう考えれば、父と息子が向き合うには大袈裟な仕掛けが必要であるとする万城目学の『 プリンセス トヨトミ 』とは好対照である。昼の仕事、夜の仕事、自宅での内職に家事、そして弁当作り。男親にこれらができないとは思わないが、これらを行った上でなおかつ、娘の昼食時間を不敵な笑みで待ち構えることはできない。しみじみそう思う。生物学的に女の方が生命力が強いのだろう。心底敵わないなと思われた。

 

本作は映像美にもこだわりが見られる。ハリウッドで色使いにこだわる代表的な監督はM・ナイト・シャマランだろうか。インド映画の大作は、どれも暴力的なまでに色彩を駆使する。日本では、先日『 Diner ダイナー 』を送り出してきた蜷川実花監督が色彩美へ一方ならぬこだわりを見せている。しかし、『 Diner ダイナー 』の人工的な色ではなく、本作は八丈島の非常にオーガニックな環境の色を直接的に、また間接的に見せてくれる。かおりの私服は一際派手であでやかという感じだが、それが山を背景にしたり、あるいは潮風が吹いているシーンにはめ込むと、不思議なコントラストが生まれる。そうした風や陽光などの豊かな自然の描写を下敷きに、食材を、キャラ弁というある意味で最も人工的な料理に加工していく過程に、人間の人間らしさ、母親の動物的な母親らしさと人間的な母親らしさの両方が垣間見られる思いがする。最近の邦画では、自然と人工の色使いの巧みさ、そのコントラストの際立たせ方では群を抜いているという印象である。

 

ネガティブ・サイド

佐藤隆太のパートは不要である。この父子のサブプロットは劇場鑑賞中にもノイズであると感じたし、今この記事を書きながら思い起こしても、やはりノイズであるとの印象は変わらない。父と息子のドラマを描きたいのなら、単品でいくらでも作れるはずだ。無理にこのような展開をねじ込む必要性も必然性もない。

 

フェイクのエンディング演出も不要である。もちろん、物語をコメディックに語るための演出としては機能していたが、この物語の主眼は、母親による娘の巣立ちの支援であることは明白である。その区切り区切りの場面でこのような演出を挟むのは、コメディ要素を増強することはあっても、ヒューマンドラマの要素を深めることにはならない。バランス的に難しいところだが、個人的には好ましい演出とは映らなかった。

 

トレイラーにもあったが、かおりが倒れるという展開にも不満が残る。もちろん、ドラマチックな演出は必要なことではあるが、脳梗塞である必要はあるのか。ちょっとした過労では駄目だったのだろうか。または胆石だとか急性膵炎だとか。過労が主な原因で罹患する疾患では駄目だったのだろうか。脳梗塞だとリアルすぎて、必要以上にシリアスさが増してしまっていたように思う。

 

キャラ弁当が途中からキャラ弁当でなくなったしまったのも少し残念。メッセージを伝える手段としては受け入れられるが、勉強ネタは過剰であるように思った。特に漢字の穴埋め問題は難しすぎるし、あれだけの難易度なら、もう5秒は考えさせてほしかった。

 

総評

全世代が安心して観られる良作である。題材に普遍性があり、演じる役者に演技力があり、監督が映像にこだわりを持っているからである。元ネタがブログであるというのも良い。パソコン通信からインターネットへの移行期に、この世にはたくさんの濃い方々がおられるのだなと大学生の頃にしみじみ感じたことを思い出す。ネット発で映像化されたメジャーなコンテンツの嚆矢は『 電車男 』であると思われるが、今後そのような作品がますます増えてくるのだろう。テクノロジーの進歩、ネット世界の成熟によって、玉石混交のコンテンツから玉を見出すことが容易になっているからだ。呉エイジ氏の「我が妻との闘争」などは、映画化したら絶対に面白いと思うのだが。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:塚本連平, 篠原涼子, 芳根京子, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 今日も嫌がらせ弁当 』 -Mothering, The World’s Toughest Job-

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