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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2020年代

『 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』 -歴史を総括せよ-

Posted on 2020年3月30日 by cool-jupiter

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 60点
2020年3月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三島由紀夫
監督:豊島圭介

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悪質タックル問題からまんまと逃げきった感のある日大の田中理事長だが、このオッサンが学内で権力を掌握する過程の発端は日大全共闘にまでさかのぼるということは、多くのメディアが指摘した。その全共闘の東大版が本作である。日大・田中理事長は、いわば暴力でのし上がったが、本作は全共闘の弁論、いわば言葉と言葉のぶつかり合いに焦点を当てている。

 

あらすじ

1969年5月、東京大学駒場キャンパス900番教室。保守論壇の大物として君臨していた三島由紀夫は東大全共闘から体制側の人間と見られ、集会に“招待”されていた。暴力を辞さない全共闘の招きに応じた三島は、言論で彼らと渡り合うが・・・

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ポジティブ・サイド

『 坂道のアポロン 』の時代が、まさにここである。と、したり顔で語ってみても、Jovian自身が当時に生きていなかったのだから偉そうなことは言えない。それでも、人並み程度には歴史に関心を持っている身としては、やはり色々と調べた時期もあったのである。なによりもJovianの母校である国際基督教大学(ICU)は、おそらく他の日本の大学よりも学生運動に対するアレルギーが格段に強い。今はどうかは分からないが、少なくとも2000年前後、Jovianがまだ青い大学生であった頃はそうであった。そのことは、当時のICUと他大学のキャンパスの模様を比較してみれば一目瞭然であった。同時期の法〇大学や学●院大学、東京□立大学(当時)のキャンパスには、「総長の辞任を要求する!」だの「学生食堂値上げ断固反対!」だの「サークルにも部室を与えよ!」だのといった、過激(当社比)な立て看板が散見されたのである。学生運動とはつまり、子どもの駄々なわけである。駄々という言葉が酷ならば、若気の無分別と言い換えてもよい。それが時代の機運もあってか、極めて組織的かつ反体制的に盛り上がった。同時期の他国の運動はいざ知らず、日本の学生運動の一番の本質を、Jovian自身はそのように見ている。

 

と私的に総括してしまうと、これは映画のレビューではなく歴史の解釈になってしまう。ここからは、少々真面目に映画をレビューしたい。

 

まず、なぜ今になって三島由紀夫なのか。東大全共闘なのか。そうした疑問が当然に沸き起こる。様々な答えが考えられるが、豊島圭介監督やプロデューサー達の問題意識の根っこに、現代日本における思想と言論の変遷(または変質や変異と言ってもいい)があることは間違いない。元々、右派・右翼とは「体制の維持を是とする集団および思想」であり、左派・左翼とは「体制の変革を是とする集団および思想」を指す。ところが、どういうわけか現代日本では右翼(ネトウヨ)が憲法改正を声高に叫ぶ一方で、左翼(パヨク)が平和主義や基本的人権の尊重をあらためて強調するという奇怪な状況が生まれている。こうした状況の萌芽が、1968~1969年という“内乱の時代”に見つけられるのではないか、というのが本作の制作者たちの主張だろう。そして、それはかなりの程度、的を射ているものと考える。その理由は後述する。

 

本作はドキュメンタリー映画として、非常に上質であり、また秀逸である。三島由紀夫という人物の生涯ではなく、全共闘との討論の場にスポットライトを当てることで、三島の人物像、そして思想の全体像が逆にくっきりと浮かび上がってきた。特にエンターテインメント性が高いと感じられたのは、演劇作家の芥正彦との噛み合わない議論である。文学者の三島は、コミュニケーションを“Not real space, Not real time”でも成立しうるものとして、演出家・劇作家の芥は“Real space, Real time”でしか成立しないものとして議論する。滑稽だ。三島ならば本能的、直感的に芥と自身の立ち位置の違いを冷静に指摘することもできたはずだ。また、芥がとことんまで理論武装して語る言葉の空虚さを突くことも可能だったはずだ。芥の思想の根幹にあるのは、マルクスの“歴史”やサルトルの“対自存在”への批判的意識である。三島は反知性主義の根源を、知性の極みにあると見るか、知性の底辺にあると見るか、それについては分かりかねると述べる。だが、芥を見る限りにおいては、反知性主義は知性の極みから生じるようである。賢哲の愛智家の言葉をいくら借りても空虚にしか聞こえない。なぜなら、芥の思想は常に何かに対する批判という形でしか存在していないからだ。芥に限らず、全共闘の連中は、世界は諸事実との関係から成るのだから、まずは存在する個々の事物との関係の在り方を問わねばならない云々と「お前らはヴィトゲンシュタインの出来損ないか!」と一喝してやりたくなる主張を繰り返すが、彼らは一様に自分自身の存在と向き合わなかったし、今も向き合っていない。三島ほどの賢者なら、全共闘の連中が言う物象化論を逆手にとって、「お前たちこそ、その拳を武器にして、その手にゲバ棒を掴んで、自分自身をモノ化、武器化している」と容易に反論できたはずだ。それをしなかったという事実それ自体が、基地外を基地外(敢えてこう変換している)として扱わず、主体性ある人間として扱っている証拠である。こうした三島の思想を現代人に問うのは、製作者が現代人の知性とコミュニケーション能力に一縷の望みを抱いているからだろう。

 

非常に興味深く、また勉強になったと感じられたのは三島の天皇観。天皇機関説と天皇主権説がごっちゃになっていて「なんじゃ、こりゃ?」と面食らった。しかし、三島の生きた時代背景、そして三島が個人的に得た天皇体験に裏打ちされたものと知り、得心することができた。「天皇は反日」なるキチガイとしか思えない発言をするネトウヨ連中や神社庁のトップ、さらに日本会議のお歴々には、個人的な天皇体験というものがないのだろう。ゆえに、天皇=国体=自身の理想とする国家像がめでたく等号で結ばれることとなる。そうした者たちにとって、天皇とは人間ではなく記号なのである。泉下の三島は現在の保守論壇をどのように見つめているのだろうか。

 

1969年というのは、実に象徴的な時代である。東京オリンピックの数年後であり、大阪万博のまさに前夜であった。つまり、日本という国が強烈な外部の視線にさらされ続けた時代だったのだ。そこで日本という国の在り方を自身の在り方に重ね合わせて希求した三島由紀夫と、反動と反抗という形でしか希求できなかった全共闘。もとより言論に勝敗も何もないものだが、どちらが大人でどちらが子どもかは火を見るよりも明らかである。経済格差以外に、日本でも思想の“分断”が見られる。これも内乱の火種になるだろう。アメリカはオバマが分断を生み出し、結果トランプ政権が爆誕した。今や、その反動でバイデン勝利の芽がどんどんと成長しつつある。そして、そこからまた分断が生まれ、内乱状態になるのだろう。日本とて同様である。我々がこの作品から受け取るべきメッセージは何か。様々なものがあるが、最も陳腐なものは「対話を志向せよ」ということだろうか。

 

Jovianは実は三島の作品を読んだことがない。不勉強の誹りは甘んじて受ける。

 

ネガティブ・サイド

何かとお騒がせの東出昌大のナレーションは、はっきり言って下手である。『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』の田辺誠一と大塚寧々と同じくらいに下手である。言葉に抑揚や強弱がないのだ。別にナレーターまでが熱情をほとばしらせて喋るべし、とまでは思わない。だが、本読みしているだけにしか聞こえない。臨場感を生み出してやろうという気概が感じられないし、実際には作品に緊張感や深みを与えていない。もっとマシな人選はできたはずだ。

 

三島および東大全共闘を現代から語る面々にインパクトがない。瀬戸内寂聴はそれなりに著名人だが、もっと他にインタビューすべき相手や、過去の映像や活字を掘り起こすべき対象はいくらでもいるはずだ。パッと思いつくだけでも菅直人や猪瀬直樹といった政治家(いや、政治屋か)や、高橋源一郎といった文筆家にもインタビューができたはずだし、するべきだった。もしくは石原慎太郎に三島や当時の日本のアカデミアや論壇の在り方がどのようなものだったか証言させてもよかった(耄碌していて無理だったのかもしれないが)。もしくは、それこそ丸山眞男その人も引っ張り出せたはずだ。本人へのインタビューはもはや不可能だが、それでも丸山の講義や講演の多くはテープに残されている。実際にJovianも在学中に聞いたことがある。丸山自身が全共闘を語った記録が残っていないわけがない。そうしたものを発掘してこそ「報道のTBS」ではないのか。全共闘の主要メンバーが「なぜ全共闘は敗北したのか」という問いに「敗北はしていない。運動は市井の中に拡散していったのだ」と詭弁を弄するが、これなどは三島が批判していた「暴力を闘争と言い換える」という行為そのままである。こうした点を批判する声を上げられる人間を連れてくるべきだったのだ。

 

本作の弱点は、現代に対するメッセージが非常に貧弱な点である。もちろん、三島の言葉や、あるいは全共闘の歴史から一義的なメッセージのみを受けとったとすれば、それはそれで失敗だろう。それでも、今という時代を狙って三島および全共闘にスポットライトを当てたことの意義を、製作者はいくらかでも自らの言葉で語るべきだった。その意味では『 主戦場 』には大きく劣っている。

 

総評

非常にスリリングな議論が収録されているが、はっきり言って、東大全共闘の面々の論理が過去も現在も破綻している。三島と全共闘の共通の敵として「猥褻な日本」があると芥は言うが、これも詭弁だ。三島の言うエロティシズムの定義をよくよく思い起こされたい。芥は自分たちの存在が「猥褻な日本」という観念に侵害されていた。だから闘ったと言う。だが、それこそまさに自分たちが三島を集団レイプしようとしていたことと表裏一体であることにどうして気づけないのか。これこそ、Jovianが全共闘や学生運動を駄々っ子だと断じる理由である。あれは、ちょっと過激な部活動に過ぎなかった。もちろん、これはJovianの私見に過ぎない。感想は観た人の数だけあってよい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

believe in ~

三島が言う「私は諸君らの熱情は信じる」の“信じる”である。believe ~ = ~を(良い・正しいものとして)信じる、という意味である。一方、believe in ~ = ~に対して強い信念を持つ、という意味である。このあたりの使い分けができれば、英語初級者は卒業である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ドキュメンタリー, 三島由紀夫, 伝記, 日本, 歴史, 監督:豊島圭介, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』 -歴史を総括せよ-

『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

弥生、三月 君を愛した30年 45点
2020年3月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 成田凌 杉咲花
監督:遊川和彦

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一つの物語の中でキャラクターの成長や老いを描く作品は星の数ほどある。だが、本作は三月の一日から三十一日の1日を経るごとに、1年(何年か飛ばすところもあるが)が経過していく。この見せ方と構成は非常にユニークである。

 

あらすじ

山田太郎(成田凌)と結城弥生(波瑠)は、心の奥底では惹かれ合いながらも、親友のサクラ(杉咲花)の病気、そして死によって、いつしか別々の人生を歩むことになった。互いに結婚や別離を経験しながらも、二人はいつしか引き寄せられて・・・

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ポジティブ・サイド

専門家は映画を評価する際には Form と Content の面から行う。Formとは本で言うならば、装丁であり、文字のサイズやフォントであり、テキストのレイアウトであると言える。一方でContentは物語の中身そのものである。一般に映画や本の面白さは、コンテンツで決まる。だが、時にFormそれだけで桁違いの面白さやユニークさを生み出す作品が現れることがある。クリストファー・ノーラン監督の『 メメント 』が好個の一例である。本作の、一日経つごとに一年が過ぎていくという見せ方は非常に面白い。

 

高校生から50歳手前までを同一の役者で描く試みもユニークだ。『 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 』でも、小松菜奈が大学生から35歳ぐらいまでを演じていた。本作はその幅をはるかに上回っており、ある意味で大河ドラマ並みである。こういった大胆な試みにもっともっと邦画も取り組んでもらいたい。たとえその作品が大ヒットはしなくても、たとえばメイクアップアーティストやヘアドレッサーの技、照明の調節や光の当て方といった裏方スタッフの技術は確実に蓄積され、向上していくことだろう。その先に、第二第三のカズ・ヒロを生む土壌ができていく。突然変異を待ってはならない。豊かな才能の種を発見し、開花させなければならない。

 

本作では光と影の使い方も印象に残った。明るい背景では明るい場面と心情、薄暗い場面ではどこか沈みがちな心情、黄昏時の西日には関係の終わりが暗示されていたり、あるいは西日で満たされた病室を去る人物が完全に黒いシルエットとして映しだすことで、キャラクターの内面の闇、虚無感を表すなど、随所に工夫が目立った。なんでもかんでも光あふれる演出を施す作品が邦画には特に多い(『 君は月夜に光り輝く 』などはダメな一例だ)。真っ暗な映画館で見るからこそ光を強くしたいと思うのは理解できる。だが、真っ暗な映画館だからこそ光と影のコントラストも映えるのである。

 

今作はいまのところ波瑠のベスト・パフォーマンスになるのかな。笑顔よりも仏頂面の方が絵になる女性も一定数いる。波瑠はそんな一人だろう。『 コーヒーが冷めないうちに 』では、神経質な女性役だったが、どちらかというと感情表現を抑えた役柄の方が似合っている。ドラマや映画なら社長秘書や医師がマッチしそう。クール・ビューティー路線ではなく、満島ひかりや南果歩のような実力派路線を目指してほしい。

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ネガティブ・サイド

フォームには感銘を受けたが、コンテンツ=内容には少々興ざめした。ストーリーのほとんどはトレイラーで分かってしまう。なぜにあのような予告編を作ってしまうのか。様々なシーンの演出やメッセージも、古今東西の映画で使い古されてきたものばかり。あらゆるシーンでデジャヴを感じたと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、本作がオリジナリティに欠けるのは確かである。

 

まずもって病気で死んでいく高校生の名前が「サクラ」という時点で『 君の膵臓をたべたい 』の桜良ともろにかぶっている。そして、満開の桜に過ぎ去った幾星霜とかつての友の姿を見出すのも『 君の膵臓をたべたい 』の二番煎じである。

 

また、ラストの教室のシーンは『 傷だらけの悪魔 』と『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のクライマックスをそれぞれ足して10で割ったような迫力のなさ。というか震災をプロットに組み込むのはまだしも、放射能関連のイジメを絡める必要はあるか?いや、それをやるなら『 風の電話 』並みに取り組んでもらいたい。

 

サクラの好きだったという歌が作中の随所で重要な役割を果たすが、最後のデュエットは必要だったか。それに最後の最後のスキットも必要だろうか。日が昇り、そして沈んでいく。時は流れ、また物語が繰り返す。普遍的な事象であり、それゆえに既に陳腐化したテーマである。現に近年でも『 ライオンキング 』が再制作され、“Circle of Life”が熱唱されている。敢えて邦画がそれを繰り返す必要はない。

 

細部のリアリティに関しても改善の余地を認める。特にサクラの墓や、そこに佇立する桜の木が30年にわたって変化なしに見えるのはいかがなものか。サンタか、あるいは弥生が墓をきれいにしているという描写が一瞬でもあれば、まだ納得できたのだが。

 

電車のドアが閉まる瞬間に抱きよせる、あるいは飛び出るという描写もクリシェ以外の何物でもない。ボールを追いかけて車道に飛び出る子どもというのも、いい加減見飽きた。新しい形の表現を模索することにエネルギーの大半を費やしたのかもしれないが、中身にもほんの少しでいいから新奇さを求めてほしかった。

 

サンタの息子の歩の台詞にもおかしいところがあった。「おばさんに、『 ボールを蹴れ! 』って叱られた」と回想していたが、そんなシーンはなかった。あるいは撮影段階ではあったにせよ、編集作業の段階で誰もこの矛盾に気が付かなかったのだろうか。細部の詰めが甘いという印象ばかりが残った。

 

総評

このような新しい表現の形態は歓迎されるべきである。一方で、中身がほとんどすべてどこかで見た構図や展開のパッチワークである。評価が非常に難しい。ただ、固定電話が携帯電話に代わっていく時代の流れは面白い。40~50歳ぐらいの世代の人は本作の時間の流れに違和感なく入っていけるだろうし、若い世代は逆に古い世代のもどかしい恋愛模様を客観的に見て楽しめるのではないだろうか。ストーリーは陳腐だが、だからこそ万人に受け入れられやすいとも考えられる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let’s not meet anymore.

「もう会わないようにしよう」の私訳。~しよう = Let’s ~。~しないようにしよう = Let’s not ~ である。Let’s not V. というのは実際によく使う表現なので、積極的に使っていきたい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ラブロマンス, 成田凌, 日本, 杉咲花, 波瑠, 監督:遊川和彦, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 弥生、三月 君を愛した30年 』 -表現〇、内容×-

『 ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY 』 -Be Yourself-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY 65点
2020年3月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マーゴット・ロビー ユアン・マクレガー
監督:キャシー・ヤン

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『 スーサイド・スクワッド 』で唯一(と言っていいだろう)輝きを放ったハーレイ・クインが、ついにピンとなった。マーゴット・ロビーは『 ワンダーウーマン 』のガル・ガドットに勝るとも劣らないはまり役を手に入れたと言えるだろう。

 

あらすじ

ジョーカーと破局したことを、思い出の化学プラントを爆破することで吹っ切ったハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)。ゴッサムの悪人たちは今こそ復讐の好機とばかりにハーレイに襲い掛かって来る。そんな時、ブラックマスクの異名を持つローマン・シオニス(ユアン・マクレガー)の手下からダイヤを盗んだ少女をハーレイは成り行きで救うことになり・・・

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ポジティブ・サイド

女性が男性をぶっ飛ばす様が痛快というたぐいのストーリーは近年とくに量産傾向にあり、本作も例外ではない。しかし、それが本作の主題というわけではない。ハーレイ・クインが独立不羈の奇人・狂人・極悪人に成長していくのがストーリーの眼目だ。

 

面白いと感じたのは主に二つ。一つは、ハーレイ・クインの人間性。当たり前だが、ハーレイは生身の人間で、人間であれば『 風の電話 』の三浦友和の言うように、「食べて出して」を繰り返さねばならない。極上エッグサンドにかぶりつこうとするハーレイに、我々は彼女も人間であるという事実を思い知らされる。DCUEだけではなくMCUでも同じで、『 アベンジャーズ 』のエンドクレジット後にも、スーパーヒーロー連中がケバブを黙々と食べていた。「スーパーヒーローも腹が減るのか」と妙に印象に残った。また、へべれけになって嘔吐したり、失恋の痛手から涙したりと、序盤で描かれるハーレイは市井に普通に生きる人間と何ら変わるところがない。親近感が湧いてくるのである。ヒーローの人間性を巧妙に突いた例としては『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 』のレックス・ルーサーJr.(スーパーマンの母マーサの誘拐)や『 スパイダーマン 』シリーズのピーター・パーカーが正義のヒーローでいることとMJやグウェン・ステイシーらのガールフレンドとの間で引き裂かれることなどがお馴染みだ。だが、悪人の人間性をここまで鮮やかに描いた作品は記憶にない(未見の作品にいっぱいあるのかもしれないが)。『 スーサイド・スクワッド 』のデッドショットは人間性や人間味というよりは、ただの良き父親だったが、今作のハーレイは血肉を持った一人の人間になっている。

 

二つ目は、アクションである。スーパーパワーを持たないハーレイは銃にバット、そして自らの肉体を武器に戦う。一番の見どころは中盤と終盤の hand to hand combat である。Jovianは『 ブラックパンサー 』の異例とも言える規模のヒットの要因は、他のスーパーヒーロー連中が実はそこまでやらない肉弾戦を前面に押し出していたからではないかと勝手に分析している。ブルース・リーへの壮大なオマージュである『 マトリックス 』もそうだった。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 』でも、一番面白かったのはバットマンが素手で雑魚敵をバッタバッタと倒していくシーンだった。WWEのディーバのごときマニューバーで留置場の男たちを蹴散らすハーレイは、単純に見ていて楽しくなる。また終盤の遊園地のアトラクションの中での女性軍のバトルは、多様な足場や背景もあり、 eye candy だった。ガン・アクションやレーザービームが飛び交うバトルも悪くないが、プロレス風ロイヤル・ランブルはそれ以上に楽しい。

 

ロマンスや友情は人間にとってこの上なく大切なものである。だが同じくらい大切なことは、自分が自分らしくあることではないだろうか。ハーレイが一人の人間としてたくましく雄々しく一歩を踏み出していく様は、老若男女を問わず多くの人を勇気づけることだろう。

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ネガティブ・サイド

序盤の展開がかなりもたもたしている。化学プラントをタンクローリーで吹っ飛ばすところまでがスローで、そこから一気にテンポを加速させていくかと思いきや、またもスローダウン。序盤の展開の遅さには少々眠気を催された。

 

ヴィランであるはずのローマン・シオニスが怖くない。ゴッサムでジョーカーやバットマンと渡り合えるような器の持ち主に見えない。異名の元であるブラックマスクをかぶっても何がどうなるわけでもない。ベイン(『 ダークナイト 』シリーズの方)がよほど迫力も貫禄もあった。完全にユアン・マクレガーの使い方を間違えている。

 

ハーレイのペットであるハイエナのブルースも、特に活躍しない。『 野性の呼び声 』のバックとまでは言わないが、それなりの見せ場はあるだろうと思ったが、全くなし。せいぜいゴッサムのチンピラの恨みの原因の一部になったぐらい。完全にこけおどしの設定である。これなら金魚とかヘッジホッグといった、もっと乙女チックなペットで良かったのではないか。

 

エンドクレジットの最後にハーレイのちょっとしたトークがあるが、映像はなく声だけ。『 デッドプール 』的なスキットにはできなかったのか。続編作る気満々のようだが、『 バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生 』が暗殺者ウィルソンを出してきたように、何らかのライバルの存在を示唆してほしかった。あるいはデッドプールがケーブルの登場を予告したように、バディでもよい。バットマンの情報は要らない。バットウーマンやキャットウーマン、またはポイズン・アイビーの情報が欲しいのだ。

 

総評

Bird of Prey結成がストーリーの本筋に絡んでこないのだが、それでも女性軍団が立場を超えて結束し、拳で男どもをなぎ倒していくのは爽快である。悪vs悪などと考えず、自分らしさとは何かを追求しようとする人間たちの物語として見ること。何が善で何が悪かなど誰にも分からない。確かなことは、自分が自分の生き方に満足しているかどうか。そのことを素直に前面に押し出してくるハーレイは、その行為の過激さは別にして、多くの人の手本になることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I dare you

通常、命令形に続けて“I dare you”と言うことで「やってみろよ」的な意味になる。作中ではハーレイが“Call me a softie, I fucking dare ya.”=「私を弱虫だって呼んでみなさいよ、コノヤロー」と言っていた。英語学習中級者なら、このCyanide & Happinessの意味が分かるはずである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アクション, アメリカ, マーゴット・ロビー, ユアン・マクレガー, 監督:キャシー・ヤン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY 』 -Be Yourself-

『 一度死んでみた 』 -バランスが少々悪いコメディ-

Posted on 2020年3月22日2020年9月26日 by cool-jupiter

一度死んでみた 55点
2020年3月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:広瀬すず 吉沢亮 堤真一
監督:浜崎慎治

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『 一度死んでみた 』の映画化作品。映画化されても、原作の持っている構造的な欠点は何一つ解消されていない。だが、映像化には成功したと言えるだろう。なぜなら、キャラクターが血肉を得て、背景が色鮮やかに再現されたからだ。

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あらすじ

野畑七瀬(広瀬すず)は製薬会社社長の野畑計(堤真一)が大嫌い。そんな父が死んだ。「一度死んで二日後に蘇る薬」を飲んだからだ。開発中の若返りの薬を巡る競合他社からのスパイを炙り出すためだったが、復活を前に計は荼毘に付されることに。七瀬は、存在感の希薄な社員、松岡(吉沢亮)と共に計を救おうと奔走するが・・・

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ポジティブ・サイド

原作ではスッカスカだった様々な事物の描写が見事に映像化された。これは素晴らしい。特に「デスデスデス」のメタル『 一度死んでみた 』は、劇場では予告編の前の時間にかなり流されていて、その再現度(というか説得力)の高さにびっくりした。本編でもフルで見られるので是非とも堪能してほしい。『 サヨナラまでの30分 』のライブよりも、こちらの告別式・・・ではなくミサの方が、個人的には楽しめた。他にも「ま・さ・に」や、藤井さんの不思議なたたずまいや、ドラムソロと山手線駅名歌唱、さらに「ここよー!」など、ぼんやりとしたイメージでしか把握できていなかったディテールがリアリティのある映像になっていた。このあたりは浜崎慎治監督の手腕によるものと認められる。CMというのは見た目一発で視聴者に色々なものを伝えなくてはならない。そのあたりの手練手管は見事だった。

 

全編を93分にまとめたのも見事。変に細部に凝ることなく、原作の持ち味であるテンポの良さをそのまま映像化する際に保ったのは好判断であった。タイムリミットのある物語というのは、どこかで緩急をつけることで終盤のリミット近くのサスペンスを盛り上げるのが定石。本作はその部分をクリスマスイブのお通夜を情感たっぷりに、ロマンティックな予感を漂わせつつ、しかしコメディ路線にのっとって描いた。つまりはファミリーや中高生カップルでも安心して観られる作りになっているということである。アップダウンにメリハリがあるので、体感では75分ぐらいの上映時間に感じられた。ジェットコースター的な展開の映画としては、なかなかにハイレベルな作品である。

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ネガティブ・サイド

テンポの良さとは対照的に、物語全体のトーンは全くもって一貫性を有していない。大部分はスラップスティック・コメディなのだが、一部にシリアスなドラマあり、一部にロマンスありと、ところどころで監督が変わったのかと思うぐらいに変調する。最も違和感を覚えたシークエンスは、葬儀場(?)を確保するまでのコメディ調と、そこからのライブ・・・ではなくミサだった。“水平リーベ僕の船”も悪くないのだが、原作に逆らってでも“一度死んでみた”と順番を入れ替えてもよかった。「デスデスデスデス!」で一気にミサを盛り上げ、このエモーショナルなバラードを後ろに持ってきた方が終盤の流れに調和するし、しんみりとしたムードの中、これ幸いとばかりに悪人たちが棺桶を運ぶ絵の卑劣さと間抜けさが際立ったはずだ。

 

広瀬すずのハイキックについても・・・浜崎監督はまだまだ分かっていない。見せてはダメなのだ。いや、見えてはいないが、演出が実に中途半端だ。『 ダンス ウィズ ミー 』の三吉彩花のように照れることなく恥じることなく見せてしまうか、あるいは『 はじまりのうた 』のキーラ・ナイトレイの教えのごとく、見る者に想像をさせねばならない。

 

これでもかと原作小説に忠実だったのに、何故に最後の最後で小説の描写と異なる画を撮ってしまったのか。本作のメッセージの一つは「言葉にしないと分からない」だったのではないか。最後の最後のシーンが全体のトーンを壊してしまった。終わりよければすべて良しなのだが、終わり悪ければすべて悪しである。

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総評

コンテンツの面では十分に面白い。フォームの面では改善の余地がある。ただ、ひねくれた映画マニアでもないかぎり、フォームなどは気にするべきではないし、気にしてもしょうがない。料理がそれなりに美味しければ、食器が多少おかしくても許容すべきだろう。そのことで過度の料理人を責めても意味はあまりない。逆に言えば、長編映画初監督にしてこれだけディテールを再現する力があるのだから、浜崎慎治というオールド・ルーキーには期待できるのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You stink.

「くーさーい!」の英訳である。年頃の娘にこう言われる男親の悲哀はいかばかりか。なお、同様の台詞は『 トップガン 』でマーヴェリックがスライダーに言い放っていた。ちなみに国際的に活躍する公認会計士の方から「“These numbers stink.”とは時々言いますね」と聞いたことがある。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, コメディ, 吉沢亮, 堤真一, 広瀬すず, 日本, 監督:浜崎慎治, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 一度死んでみた 』 -バランスが少々悪いコメディ-

『 Red 』 -マジックアワーにぶっ飛ばす-

Posted on 2020年3月16日2020年9月26日 by cool-jupiter

Red 65点
2020年3月14日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:夏帆 妻夫木聡
監督:三島有紀子

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『 幼な子われらに生まれ 』の三島有紀子が監督した。それだけでチケットを購入する価値はある。『 ロマンスドール 』と同じく、梅田ブルク7で鑑賞したが、COVID-19もなんのそのなシネフィルが集まっていた。公開から3週間でも客の入りは6~7割。ほとんどが女性。世相を反映しているのか、それとも女性の内面に響くものが本作にあるのか。おそらくその両方だろう。

 

あらすじ

村主塔子(夏帆)は商社勤めの夫と年長クラスの娘を持つ専業主婦。何不自由ない生活ではあったが、しかし、結婚や母親業にどこか満足できていなかった。ある日、娘が小学校に上がるというタイミングで建築事務所に就職した。そこで10年ぶりに鞍田(妻夫木聡)と再会し・・・

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ポジティブ・サイド

シェークスピアの言葉、「弱き者よ、汝の名は女なり」を思い起こさせる内容である。だからといって、女性が全面的にか弱く、男性の庇護なくば生きていけない存在であると言っているわけではない。逆に、女性を弱くさせる社会的・心理的なシステムというものが強固に存在していることを時に遠回しに、時にダイレクトに批判している。

 

あくまで日本においてのことだが、女性というのは年齢と共に自身のアイデンティティの構成要素を奪われて、新たな属性を半ば強制的に付与される存在であると考えられる。最初は○○ちゃん、○○さんと自分の名前で呼ばれていたのが、結婚と同時に姓を変えざるを得ないことがほとんどである。そして子どもを産むと、次には〇〇ちゃん、〇〇君のお母さんという具合に、個人名ではなく関係性で呼ばれてしまう。これは、家族内や子どもを含むグループ内では、自分の人称を一番小さな子どもに合わせるという日本語の特性も関わっているため、一概には女性差別とは言えないかもしれない(自分の子どもと話すときに、「俺は・・・」、「私は・・・」ではなく「お父さんは・・・」、「ママは・・・」となるのは外国語に見られない日本語の特徴である)。だが、差別的でないからといって、疎外を感じないというわけではない。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』では、志乃ちゃんは肉体的にも心理的にも成熟していなかったために自分自身から逃げきれなかったが、本作の塔子は自分に張り付けられた属性を脱ぎ去ってしまう。セックスシーンはオマケのようなもので、ハイライトは“脱ぐ”という行為が象徴しているものである。フィクションの世界では、裸の死体が見つかって、身元の特定が困難とされたりする。アイデンティティの多くは、身にまとっているものなのだ。

 

塔子は決して肉欲に溺れているわけではない。自分が自分らしくあることができる居場所を確保しようともがいている。それは生存の一環でもある。人間の本能に、闘争・逃走反応というものがある。危険を感じた時に、戦うか逃げるか、どちらかの反応を示すということである。塔子は逃げるばかりではなかった。しかし、戦うには相手があまりにも巨大で強大だった。塔子が旅先である女性と共に煙草を一服するシーンでかけられる「女って大変だね」という言葉に、すべてが集約されているように感じる。女を、「おんな」あるいは「オンナ」とも表記できそうに感じたシーンである。ということは、我々は普段から女性にそれだけの属性やラベルを押し付けているということでもある。このシーンでは思わず自分の頭をコツンした。「愚昧な者よ、汝の名は男なり」である。

 

エンディングは非常に美しい。タイトルの Red の意味はここに集約されているのではないか。『 真っ赤な星 』の虚無的で、それでいて力強いエンディングに通じるものがあった。

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ネガティブ・サイド

話題になっていた濡れ場は、『 ナラタージュ 』以上ではあったが、『 ロマンスドール 』並み、『 火口のふたり 』未満であった。もちろん、エロスが主題なのではなく、社会的な制度(結婚制度や親子関係etc)に縛られた個人の解放が主題なのだとは承知している。けれどもベッドシーンがどこか中途半端に見えてくるのは何故なのだろうか。別に夏帆が乳首を見せないからとか、そういう露出の問題ではない。蒼井優だって見せてくれない。たぶん、“脱ぐ”という行為に主体性が感じられないからだろう。一度目のセックスシーンでは妻夫木が夏帆を脱がせた。違う。夏帆が自分から脱いでナンボのはずだ。そうでないと、ストーリーの主題と不倫・不貞行為が一致しない。二度目では、もう最初から脱いでいた。うーん、何だろうか、この「それじゃない」感は・・・

 

行為中のカメラアングルにも改善の要ありと認む。夏帆の表情にばかりズームアップするのではなく、天井や部屋の壁からのアングルがあっても良かった。または『 アンダー・ユア・ベッド 』のように、ベッドの軋みと嬌声を強調するアングルも面白かったのではないか。鞍田の部屋は色々な本来あるべき虚飾が削ぎ落された空間なのだから、そこで男と女になってまぐわう二人を遠景で映し出すことで、社会的な衣装をもはやまとっていない二人という構図を強調することができたと見る。

 

塔子が仕事に復帰する流れも、少々唐突に映った。『 “隠れビッチ”やってました 』のひろみもそうだったが、デザイナーならデザイナーのバックグラウンドを持っているということを暗示するシーンを序盤に入れてほしかった。キッチンのレイアウトについて一瞬だけでも考え込むようなシーンがあれば、「仕事に戻りたい」という塔子の欲求をもっと素直に受け止められるのだが。

 

総評

なんか女性の考察やらベッドシーンの文句ばかり書いてしまったが、映画的な意味での見どころは随所にある。最も印象に残るのは余貴美子と塔子の対話シーンだろう。老若男女問わず、塔子の母のセリフには痺れるはずである。エンディングは賛否が分かれるだろう。Jovianは賛、嫁さんは否であった。夫婦で鑑賞すれば、互いの人生観や結婚観を語り合うきっかけにできる作品かもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

not ~ a bit

「全く~ない」の英語表現といえば not ~ at all が定番だが、not ~ a bit もかなり頻繁に使われる。鞍田が塔子に言う「君は少しも変わってないな」を英語にすれば“You haven’t changed a bit.”となるだろう。同窓会などで使ってみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ラブロマンス, 夏帆, 妻夫木聡, 日本, 監督:三島有紀子, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 Red 』 -マジックアワーにぶっ飛ばす-

『 エスケープ・ルーム 』 -現代的シチュエーション・スリラー-

Posted on 2020年3月15日2020年9月26日 by cool-jupiter

エスケープ・ルーム 55点
2020年3月14日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:テイラー・ラッセル
監督:アダム・ロビテル

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2016年だったか、JovianはMOVIXあまがさきでリアル脱出ゲーム「ある映画館からの脱出」にトライしたことがある。結果は、本の半分くらいまでしか進められなかった。あと1時間半あれば、もしかしたら全部解けた・・・かもしれない。そういうわけで、ある意味でリベンジを期して本作に臨んだが、頭脳系というよりはアクションとサスペンスの風味が強めだった。

 

あらすじ

このエスケープ・ルームを最初に攻略した者には賞金1万ドル。各地から集まってきたゾーイ(テイラー・ラッセル)ら6人は、シカゴのビルの一室でゲーム開始を待っていた。だが、部屋のドアノブが外れたのを合図に脱出ゲームがいきなり開始された。この脱出ゲーム、エンターテイメントというにはあまりにもシリアスで過酷なもので・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭からただなぬら雰囲気である。足を怪我していると思しき男が、上階から天井を突き破って落下してきた。そしてドアに取り付けられた暗号鍵のヒントを探す。だが、そうする間にも部屋はみるみると縮まっていき、調度品を押しつぶしていく・・・

 

まるでスペインの怪作『 キューブ■RED 』(ちなみにこれは『 キューブ:ホワイト 』と同じで、いわゆる『 CUBE 』の名を模しただけの作品である)のクライマックスにそっくりである。色々な部屋に恐ろしい趣向が凝らしてあるというのは、まさに『 CUBE 』の精神を受け継いでいる。

 

一つ一つの部屋も、しっかりと作りこまれている。このあたりも『 CUBE 』的である。また、一見して建物の中とは思えない部屋も存在する。扉が開くごとに異世界に放り込まれる感覚は、『 キラー・メイズ 』を格段にシリアスにしたようにも感じられた。『 ジュマンジ 』はゲームのキャラになる話だが、こちらはリアル脱出ゲーム。どこかコミカルな前者と違い、全編に緊張感・緊迫感があふれている。

 

集められてきた面々にも「ある要素」が仕込まれており、そのことが物語の早い段階でフェアな形で暗示されている。このあたりは巧みな構成であると感じた。また、彼ら彼女らは集められてきたわけであるが、では集めた側はどうなっているのか。このあたりは米澤穂信の小説および映画化もされた『 インシテミル 』の経済格差社会バージョン。我々が昔、TBSのスポーツエンタメ番組『 SASUKE 』を見ているようなものか。構造は『 インシテミル 』と似ていても、観る側がスーパーリッチ(その姿は当然見えない)であるというところは現代的であると感じた。

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ネガティブ・サイド

キャラクターがほとんど全員立っていない。優等生で内気な少女やゲームヲタクの少年などはその最たる例だろう。死んでいく順番も手に取るように分かってしまう。このあたりにもう少し意外性を期待したかった。

 

ゲームの主催者がビルから一切合切の痕跡を残さず去ってしまうのも、相当に無理がある。現実にゲーム参加者ではない者の死体、それも銃殺されたものがある以上、本腰を入れて捜査せざるを得ないはずだ。なので、捜査は行われるも一切進展せず。警察はあてにならない。という流れの方が説得力があったと思われる。

 

また用意されていた各参加者の死亡新聞記事も、つじつま合わせとしては少々苦しい。特にゲーオタ少年などはほぼ100%、ネット上で活発に発言し、行動するナードだろう。「これから最難関の脱出ゲームに行ってきます!」のようなブログ記事やオンラインメッセージ、メールや友人知人への吹聴などがあったに決まっている。そういったもの全てを消し去る、あるいは歪曲するのは、不可能に思える。

 

総評

続編作る気満々で、実際に早々に続編制作をも決まったらしいが、どうなることやら。こういう作品は単体では面白いが、シリーズ化されてしまうと途端に陳腐になってしまう。それは『 CUBE 』や『 ソウ 』の証明するところである(特にJovianは開始10~15分で『 ソウ 』の仕込みを見破ったから猶更そう感じる)。あまり深く考えず、遊園地のアトラクション的なノリで鑑賞するのが正解かもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

work

劇中で何度か“It didn’t work.”というセリフが使われたが、「働く」という意味ではない。「上手くいく」という意味である。“It didn’t work.”は「(入力したパスコードが)ダメだった」ということである。日常生活でも

“Your advice worked.”

“This medicine will work.”

などという具合に使ってみるべし。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, D Rank, アメリカ, シチュエーション・スリラー, テイラー・ラッセル, 監督:アダム・ロビテル, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 エスケープ・ルーム 』 -現代的シチュエーション・スリラー-

『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

Posted on 2020年3月10日2020年9月26日 by cool-jupiter

スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 40点
2020年3月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:千葉雄大 成田凌 白石麻衣
監督:中田秀夫

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前作『 スマホを落としただけなのに 』の続編。前作はスマホという文明の利器の闇を描いたという点では意欲的な作品だったが、本作はただのハッキング+シリアル・キラーもの。それも先行する作品のおいしいところばかりを頂戴して、ダメな料理を作ってしまった。

 

あらすじ

刑事の加賀谷(千葉雄大)が天才ハッカーにしてシリアル・キラーの浦野(成田凌)を逮捕して数か月後。浦野が死体を埋めていた山中から新たな死体が発見される。浦野は加賀谷に「それはカリスマ的なブラック・ハッカー、Mの仕業ですよ」と語る。時を同じくして、加賀谷の恋人である美乃里(白石麻衣)に魔の手が忍び寄っていく・・・

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ポジティブ・サイド

千葉雄大が前作に引き続き好演。闇を秘めたキャラであると見ていたが、それなりに納得のいくバックグラウンドを持っていた。こういうところでも、日本は律義にアメリカに20年遅れている。しかし、こうしたことがリアルに感じられるのも現代ならではである。最近、自動相談所が小学生女児を親の元に帰してしまったことで悲劇が起きたが、こうしたことは実は全国津々浦々で起こってきたのではないか、そして見過ごされてきたのではないか。そうした我々の疑念が、加賀谷という刑事の背景に逆に説得力を持たせている。

 

白石麻衣、サービスショットをありがとう。

 

役者陣では、成田凌の怪演に尽きる。まあ、ハンニバル・レクターもどき、もといハンニバル・レクター的アドバイザーを体現しようとしているのは十分に伝わってきた。犯罪を楽しむ、いわゆる愉快犯ではなく、社会的な規範にそもそも収まらない異常者のオーラは前作に引き続き健在だった。千葉と成田(というと地名みたいだが)のファンならば、劇場鑑賞もありだろう。

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ネガティブ・サイド

何というか、ありとあらゆる先行作品を渉猟しまくり、あれやこれやの要素をパッチワークのようにつなぎ合わせたかのような作品という印象を受けた。『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクターとスターリング捜査官の関係、『 トップガン 』のマーヴェリックの入隊理由、『 ハリー・ポッターと賢者の石 』のスネイプ先生など、さらには高畑京一郎の小説『 クリス・クロス 混沌の魔王 』および『 タイム・リープ あしたはきのう 』の「あとがきがわりに」に登場する江崎新一など、メインキャストの二人、千葉と成田を評すにはクリシェ以外の言葉がなかなか見当たらない。千葉は童顔とのギャップで、成田は持ち前の演技力でなんとかこれらの手あかのつきまくった設定を抑え込もうとしたが、残念ながら成功しなかった。作品全体を通じて感じたのは、スリルでもサスペンスでもなく退屈さである。

 

凶悪な犯罪者が野に放たれたままであるという可能性が高い。そいつを捕まえんと警察も全身全霊で奮闘するが及ばない。獄中の天才犯罪者の力をやむなく借りるしかないのか・・・ こうした描写があればストーリーに説得力も生まれる。だが、本作における警察はアホと無能の集団である。しかも、そうした設定に意味はない。単に観る側にネットやスマホの技術的な解説や悪用方法を説明したいからだけにすぎない。この室長(?)キャラはただただ不愉快だった。無能でアホという点では、浦野の監視についた脳筋的ギャンブル男もどうかしている。浦野の食事に嫌がらせをするから不快なのではない。相手が大量殺人鬼であると分かっていながら油断をするからだ。というよりも、PCを使うのに支障がない程度に、浦野は両手両足は拘束されてしかるべきではないのか。ハンニバル・レクター博士並みというのは大げさだが、それぐらい警戒しなければならない相手のはずである。だいたい、なぜ監視が一人だけなのだ?現実の警察(富田林署除く)がこれを見たら、きっと頭を抱えることだろう(と一市民として信じている)。

 

浦野がMを追う手練手管はそれなりに興味深いものだったが、ブログ解説はいかがなものか。いや、ブログの中身ではなく、ブログ記事執筆者としての加賀谷の写真をいつどうやって撮影したのか。シリアスな事件の捜査中に、笑顔でPCに向かう写真を撮ったというのか。考えづらいことだ。それとも合成・生成なのか。また【 Mに告ぐ 】というメッセージをクリックさせるという罠にはめまいがした。そんなもの、M本人がクリックするわけないだろう。ダークウェブに潜み、あらゆるネット犯罪に精通するカリスマ的ブラックハッカーが聞いて呆れる。そもそも、こいつが怪しいですよというキャラクターをこれ見よがしに登場させるものだから、すれっからしの映画ファンやミステリファンならずとも、Mを名乗る者の正体は容易に分かってしまう。こういうのはもう、スネイプ先生に端を発するお定まりのキャラである。

 

他にも珍妙な日本語も目立った。脳筋ギャンブラーによる、ラーにアクセントを置く“ミラーリング”や、「とりあえずメール送った相手に注意勧告してください」(そこは注意喚起だろう・・・)など。撮影中、最悪でも編集中に誰も気付かないのだろうか?こんなやつらがサイバー犯罪を取り締まっているようでは、邦画の中での日本の夜明けは遠いと慨嘆させられる。

 

後はリアリティか。獄中生活が長い浦野が、毛根まで銀髪というのはどういうことなのか。最近の留置場は髪染めもOKなのだろうか。普通に黒髪でいいだろうに。

 

総評

ミステリやサスペンスものの小説や映画に馴染みがない人ならば、前作と併せて楽しめるのだろうか。ストーリーの根幹の部分は悪くないのだ。ネット社会、PC社会の闇というのは今後広がっていくのは間違いない。だが、そこに至るまでの過程に説得力がない。『 羊たちの沈黙 』とはそこが最大の違いである。続編作る気満々のようだが、原作者、脚本家、監督の三者で相当にプロットを練りこまないことには、さらなる駄作になることは目に見えている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

the most safest

劇中のダークウェブ侵入前にブラウザに上の表現を使った文章が現れていた。the most safestは、もちろん文法的には誤りである。the safestか、またはthe most safeとすべきだろう(後者のような形はどんどん受け入れられつつある eg. the most sharp, the most clearなど)。受援英語で the most 形・副 estと書けば間違いなく×を食らうが、実際にポロっとネイティブが使うことも多い表現である。Jovianの体感だと、the most awesomestという二重最上級が最もよく使われているように思う。受験や大学のエッセイ、ビジネスの場では使わないこと!

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, サスペンス, スリラー, ミステリ, 千葉雄大, 成田凌, 日本, 白石麻衣, 監督:中田秀夫, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

『 仮面病棟 』 -面白さは小説 > 映画-

Posted on 2020年3月10日2020年9月26日 by cool-jupiter
『 仮面病棟 』 -面白さは小説 > 映画-

仮面病棟 45点
2020年3月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:坂口健太郎 永野芽郁
監督:木村ひさし

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小説『 仮面病棟 』の映画化である。小説=活字であれば上手く誤魔化せていた部分の粗が映像では目立ったという印象。さらに、映画化に際して加えたちょっとした改変が、リアリティを損なってしまっているシーンもある。脚本には原作者の知念実希人の名もあったが、彼が関与できたのはどの程度なのだろうか。

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あらすじ

速水(坂口健太郎)は、先輩医師の代打で急遽、当直医のバイトを引き受ける。だが、出向いた病院にピエロの仮面をかぶった銃を持つコンビニ強盗が押し入って、負傷した若い女性を治療しろと強要してきた。女性・川崎ひとみ(永野芽郁)をなんとか治療した速水だったが、ピエロは病院を立ち去らない。事態を打開しようとする速水だが、院長も看護師も病院そのものも、どこか不審な点ばかりでで・・・

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  • 以下、ネタバレに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

本作はミステリ風味の脱出系シチュエーション・スリラーに分類されるのだろうか。病院まるごとを一種の密室にして、そこに『 エスケープ・ルーム 』(近く観たい)と『 パニック・ルーム 』の要素を混ぜてきた。ミステリ要素がサスペンスを呼び、サスペンス要素がミステリを盛り上げる。原作小説の持っている面白さを損なうことなく映像化した点は、間違いなく加点対象である。

 

大根役者だと思っていた坂口健太郎が、いつの間にか普通の役者になっている。『 人魚の眠る家 』では、まだ少しぎこちなさがあったが、本作ではピエロに怯えながらも知力と胆力で堂々と渡り合う若い医師を見事に演じきった。坂口よ、3年間みっちり英語を勉強して英語圏の映画に出ることを目標にしてみないか?その気になったら、Jovianが学習プランを立てて、コーチングして、時々実際のレッスンも提供しようではないか。

 

Back on track. 小説にあった病院の秘密を、映画化に際してはさらにパワーアップ。社会的なメッセージを放り込んできた。小説の出版は2014年12月。当時と今とで、日本の何が異なったのか。一つには、経済格差がさらに進んだこと。一億総中流というのはもはや幻想にすぎない。ごく一部の富裕層(それを上級国民と言い換えても良いのかもしれない)と、マジョリティである中の下クラスの庶民、そして貧困層が固定化されつつあるのが日本のみならず、いわゆる先進国に共通する現象である。そうした中、若さや命をカネで買おうとする者が現れるのは、理の当然と言える。

 

松竹系の劇場だけだろうか。最近、頻繁にドナーカードのCMが予告編前に流れるが、なかなかに意味深で趣がある。『 AI崩壊 』も、AIが命の選別をしてしまうというプロットだったが、命の価値についての問題提起をフィクション、そしてエンターテインメントの形で行ったことには一定の意義を認めたい。

 

ネガティブ・サイド

銃創がいくらなんでも不自然すぎる。というか、服の上をほぼ真横から撃たれたというのに、服は一切損傷しておらず、腹に傷を負わせるとは、いったいどんな擦過射創なのだ。『 JFK 』で言及された“魔法の銃弾”なのか。

 

小説のレビューで期待交じりに書いた「映画化に際して、永野芽郁の下着姿が拝めるかもしれない」という部分は実現せず。なんじゃそりゃ・・・

 

もしもJovianが速水と同じ状況になったら、病院にあるカネを全てピエロに渡し、全員が二階に上がったところで階段の鉄格子を鎖と鍵で封印してもらい、なおかつピエロに一回のエレベーターにソファを突っ込んで(『 十二人の死にたい子どもたち 』

の仕掛けの一つ)、扉を閉められなくなる=他の階から一階に移動できなくなるようにするということを提案する(その上で院長が5階のエレベーターに同じ細工を施せばいい)。金目当てなら、乗ってくるだろう。この提案を飲まないのなら、それは目的がカネ以外にあるということになる。だが、普通に考えれば、互いが互いを隔離できる上のような提案が生まれなかったというのは、やや不自然にも感じられた。

 

セリフのつながりがおかしいところがある。ずばり、トレーラーの「あいつだけじゃない」の部分である。坂口演じる速水は、小説版では即座にピエロの仲間、もしくはピエロが二人いる可能性に思考を巡らせるが、映画の速水はさにあらず。なにやら頓珍漢な応答をする。あの状況で「あいつ」と言われて、それが誰を指すのか分からないというのは無理がある。説得力ゼロである。

 

ズバリ書いてしまうが、上のセリフを言う看護師もおかしい。普通は院長に言うだろう。もしくは速水に言うべきだ。なぜ永野に耳打ちするのか。いや、普段から羊しかいない牧場に、ふらりと狼がやってきたら絶対に警戒するだろう。ましてや女、それも同性。さらに勘が鋭い(はずの)看護師。一発で気が付かないとおかしい。活字では誤魔化せるだろうが、映像では無理だ。粗が目立ちすぎである。

 

警察の対応も間抜けの一言である。普通は監禁された人間の安否をまずは確認する。それはいい。だが次に確認すべきは位置だろう。犯人および人質が1階なら「はい」、2階なら「いえ」、3階なら「ええと、まあ」などと符丁を使ってやり取りすべきだ。元警察官のJovianの義父がこれを観たら、頭を抱えることだろう。また、SITも機動力が無さすぎるし、突入前に病院の間取りを確認したのかどうか怪しい挙動をする者もいる。なぜ特殊事件捜査係をことさらに無能に描くのか。

 

無能なのはマスコミも同じである。『 ホテル・ムンバイ 』でも米メディアがリアルタイムで軍の突入を報じたことで、ホテル内部のテロリストが一般人を殺傷するというシーンがあったが、同じことをここでも繰り返している。アホなリポーターがリアルタイムで警察の突入の様子をテレビで報じている。ご丁寧に、警察の配置なども丸見えの絶好のポジションを映している。マスコミは警察の味方なのか、ピエロの味方なのか。2020年1月に島根で立てこもり事件があったが、その時もマスコミは建物は遠くからだけ映し、警察官などは映り込まないように配慮していた。木村ひさし監督よ、リアリティというものを学んでくれ・・・

 

またラスト近くの絵が非常にシュールである。どうやって手術台に乗せたのだろうか。というか、一般人がオペ室に入れてしまうのは何故なのか。病院のセキュリティが緩すぎる。

 

記者会見での魂の叫びもシュールである。現実にこんなやつはいないだろうということ。そして、原作にあったロマンス要素を取っ払い、代わりに婚約者を交通事故で死なせてしまったという背景を速水にくっつけたのは悪いアイデアではなかった。だが、この映画版の背景と上述の叫び声が必ずしもリンクしない。原作通りに、患者に惚れる医師で良かった。その上で「生きてくれ!」と叫ぶのなら、まあ分からんでもない。医者が私的に告発するというのは、ダイヤモンド・プリンセス号に乗りこんだドクター岩田がやってくれた。そのおかげで、記者会見のくだりだけはそれなりに説得力があった。

 

総評

端的に言って、映画化失敗である。映画単独で観ればそれなりに面白いのかもしれないが、原作のスパッとした切れ味がなくなり、冗長性ばかりが目立つ作りになってしまった。1時間30分~1時間40分にまとめることもできたはずだ。原作を読んだ人なら、劇場鑑賞する意味はない。キャストに惹かれる、あるいは予告編に何かを感じたという人は劇場にどうぞ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

clown around

『 仮面病棟(小説) 』でも紹介したが、clown around=(道化師のごとく)ふざけた真似をする、の意である。トレーらーにもある「ふざけるな」というセリフはいかようにも訳しうるが、せっかくピエロが出ているのだから、それに絡めた訳をしてみた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, サスペンス, シチュエーション・スリラー, ミステリ, 坂口健太郎, 日本, 永野芽郁, 監督:木村ひさし, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 仮面病棟 』 -面白さは小説 > 映画-

『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

Posted on 2020年3月8日2020年9月26日 by cool-jupiter
『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

野性の呼び声 65点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ハリソン・フォード ダン・スティーブンス オマール・シー
監督:クリス・サンダース

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Jovianは小さい頃にアニメ『銀牙 -流れ星 銀- 』が好きだった。ある程度活字にはまるようになってからは本作の原作者ジャック・ロンドンの『 白い牙 』も繰り返し読んだ(文庫や単行本ではなく、巻末に付録がたくさんついた児童文学書だった)。本作は『 白い牙 』とは裏腹に、飼い犬が野性に帰っていくストーリーである。

 

あらすじ

19世紀末。飼い犬だったバックは、盗難の末に売り飛ばされ、そり犬となる。郵便配達人のそりを引く群れに加わったことでバックは徐々に野性を取り戻していく。しかし、その郵便配達チームも解散。数奇な運命をたどるバックは、ジョン・ソーントン(ハリソン・フォード)と再会を果たして・・・

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ポジティブ・サイド

本作には厳然たるテーマが存在する。バックが最初に連れて来られるアラスカ州、そしてユーコン準州は大自然という言葉では言い表せない自然の威厳、驚異、そして美がある。日本人は「自然」という英語をしばしば nature と訳すが、本作に描かれる自然はまさに wilderness である。本作の大部分はカナダだが、鑑賞中にアメリカの裸足の郵便配達人(ジェームズ・E・エド・ハミルトンが特に著名)を思い起こした。本作の描く一つ目のテーマは現代社会にも共通するものである。

 

一つには、テクノロジーの発展により仕事を奪われる者が出てくることである。そして、仕事を奪われるのは人間だけとも限らない。犬もそうである。時と場所を変えれば、牛や馬もそうだろう。郵便配達人として犬そりを操るペロー(オマール・シー)の情熱と、それゆえに仕事を失った時の落胆のコントラストは、現代社会に生きる我々にも大きな説得力を持って迫って来る。

 

二つには、大自然への憧憬である。今という時代ほど、科学が日進月歩し、人類全体の世界に対する知識が向上しつつある時代はなかった。GoogleアースやGoogleマップ、Googleストリートビューは、良いか悪いかは別にして、地球上の大部分から未知の土地という概念を奪い取ってしまった。人間はすでに持っているものよりも、持っていないものを欲しがる生き物である。文学『 野性の呼び声 』が時を超えて何度も映画化されるのは、我々がそれだけ大自然への憧憬、さらには畏怖を求めているからに他ならない。そうした文脈で考えれば、なぜキングコングが現代に復活し、ゴジラと対決するのかにも意味を見出すことができる。地図にない土地を目指すソーントンとバックのコンビは、逆説的であるが現代人の姿をそのまま反映したものである。

 

三つには、人間性とは何かという問いである。本作のテーマの柱はバックが野性の呼び声を聞き、野性に回帰していくことであるが、それが同時にバックの相棒であるソーントンが人間性を取り戻す旅路でもある。人間とは何かを定義、説明することは難しい。だが我々は直感的に人間らしくない事柄は理解することができる。「血も涙もない奴だな。それでもお前は人間か!」と思ったことは誰でもあるだろう。もしくは「そこまでやっちゃあ、人間おしまいだよ」でも良い。我々は本能的にありうべき“人間像”を持っている。ソーントンを巡っては大きく二つの物語がある。一つは彼の家族、もう一つは彼と揉めて、彼を狙うゴールド・ハンターである。家族との別離に懊悩するのも人間であるが、その苦しみから逃れるために人里離れたユーコンに引きこもるのは人間らしいとは言えない。そのソーントンがバックとの交流を通じて変化していく様には迫真性がある。特に砂金を集めて何をするのかを自問するソーントンの姿は、ともすれば経済活動に没頭しがちな現代人への遠回しな批判となっている。

 

ハリソン・フォードのナレーションが耳にとても心地よい。『 ショーシャンクの空に 』におけるモーガン・フリーマンの何とも言えないゆったりとしたナレーションにそっくりで、それが耳にとてもよく馴染む。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でも、息子と難しい関係を持つ父親を演じていたが、本作のフォードの演技はそれよりも遥かに味わい深いものがある。

 

動物にとっての自然なこと、そして人間にとって自然なこと。そうした雄大なテーマをユーコンやアラスカの大自然を背景に描く本作は、ファミリーで観るのにうってつけだろう。小中学生の息子と父親というペアをお勧めしたい。

ネガティブ・サイド

『 ライオンキング 』のCGと同じで、バックという犬、その他の犬や動物たちの再現度も非常に高い。にもかかわらず、やはりCG酔いを起こしてしまいそうになるのは、本作はテーマにおいても映像面においても、自然と人工物(CG)の対比がこれ以上なく露になるからである。『 ライオンキング 』のように、全編にわたって一切人間が出てこないのであれば、CG動物たちにも映像的な一貫性が感じられる。だが、人間との交流や動物同士の交流や対立をふんだんに描く本作では、バックがあまりにも擬人化されていると感じられたり、他の犬とバックとの関係にあまり動物らしさを感じられなかったりもした。『 ハチ公物語 』や『 マリリンに逢いたい 』のような、本物の犬を起用した映画はもう作れないのだろうか。JovianはAnimal rightsの考え方に大方では同意するが、それでも動物に危害を加えない方法での映画撮影というのはできると思っている。

 

全編を通じて、本作はBGMが弱い。BGMのクオリティが低いという意味ではない。音量が全体的に小さすぎると思う。犬ぞりが疾走するシーンや雪崩のシーン、カヌーで川下りをするシーンなどでは特にそう感じた。本作は会話劇やアクションで魅せるタイプの映画ではない。映像と音楽・効果音で観る者の想像力を刺激しなければいけないタイプの作品である。その意味では、音質ではなく音量の低さが少々気になったところである。せっかくの素晴らしいBGMが、腹にまで響いてこなかった。

 

総評

チケット代の元は十分に取れるクオリティの作品である。単なる動物物語ではなく、そこに時代を切り結ぶテーマがあり、さらに普遍的なテーマもある。だからといって小難しい理屈が分からないと楽しめないというわけではない。アニメの『 フランダースの犬 』が理解できる子どもであれば、人間と犬は非常に濃密な関係を構築することが肌で理解できることだろう。今般の事情では難しいが、親子連れで映画館で鑑賞してほしいと思える作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Here be dragons

作中で直接使用される表現ではないが、地図の範囲外、あるいは地図はあっても誰もその内部を探検したことがないという領域は“Here be dragons”と呼称される。外資系に勤めている方で、完全に新規の事業を興したり、あるいは新規の地域での顧客開拓を目指すとなった時に、「そこは“Here be dragons”ですね」と(心の中で)呟いてみてはどうだろうか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アドベンチャー, アメリカ, オマール・シー, ダン・スティーブンス, ハリソン・フォード, ヒューマンドラマ, 監督:クリス・サンダース, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

『 ジュディ 虹の彼方に 』 -愛は虚妄ではない-

Posted on 2020年3月7日2020年9月26日 by cool-jupiter

ジュディ 虹のかなたに 75点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:レニー・ゼルウィガー ジェシー・バックリー フィン・ウィットロック
監督:ルパート・グールド

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『 オズの魔法使 』は『 スター・ウォーズ 』と並んで、Jovianにとってオールタイム・ベストの一つである。そこでドロシーを演じたジュディ・ガーランドの晩年を描いた物語とあれば、観ないという選択肢は存在しない。

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あらすじ

ジュディ(レニー・ゼルウィガー)は子どもと共にステージに上がって、日銭を稼ぐ日々。カネが底を尽き、ホテルとの契約も解消となったジュディは元夫の家に駆けこむ。子どもと一緒に暮らすための家、そして親権を手に入れるため、ジュディはロンドンでの公演に臨むが・・・

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ポジティブ・サイド

ジュディ・ガーランドについては、実はそれほど多くは知らない。ただ、一般的な意味での幸せな人生を歩んでこなかった人であるということは、どこかで読んでいた。彼女はバイセクシャルで、『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリー、『 ロケットマン 』のエルトン・ジョンのような、マイノリティの悲哀を誰よりも先に体現した、一種の先駆者だったのだ。『 イミテーション・ゲーム 』で描かれた頃の英国が舞台で、いわゆるLGBTが枕を高くして寝られる地域でも時代でもなかった。そうした状況で、彼女が同性愛の男性カップルとささやかな交流を持つシーンに、大女優にして大歌手であるジュディ・ガーランドではなく、一人の“普通”の人間の姿を垣間見るようだった。

 

本作は、過酷な生活環境に置かれたジュディの子役時代と現在を行き来する。そうすることで、現在の彼女の苦しみの根の深さを浮き彫りにする。同時に、彼女が何を求め、何を得られなかったのかをも明らかにする。ジュディが求めていたもの、それは愛である。愛ほど定義に困る概念はないが、本作でジュディの求める愛は「求めること」である。あの虹の彼方に夢の国がある。夢の国にたどり着くことではなく、その旅路そのものに意味があるのだ。ラストの“Over the Rainbow”のもたらす感動は圧倒的である。『 サウンド・オブ・ミュージック 』の“エーデルワイス”、そして『 キャッツ 』の“メモリー”、そして“Beautiful Ghosts”を合わせたかのようである。

 

『 アリー / スター誕生 』の冒頭のタイトルが浮かび上がってくるシーンでレディー・ガガが口ずさんでいたのが“Over the Rainbow”である。『 スタア誕生 』で得られるはずだったオスカーは、しかし、ジュディの手には渡らなかった。それをゼルウィガーが今年、手に入れた。泉下の人となって久しいジュディも、get happy したことと思う。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200220194207j:plain
 

ネガティブ・サイド

LGBT、ドラッグ、乱れた生活、壊れていく人間関係。成功する人間が堕ちていく様には一定のルールでも存在しているのだろうか。もちろん、ジュディ・ガーランドは20世紀半ばの人物で、彼女こそが成功と失敗のジェットコースターに乗った第一世代ではあるのだが、ストーリーそのものにも真新しさはなかった。

 

また、ある人物の特定の時期にスポットライトを当てるやり方も『 スティーブ・ジョブズ 』などでお馴染みである。もっと『 オズの魔法使 』制作当時に比重を置いた作りでも良かったのかもしれないと感じる。

 

後はエンディングのクレジットシーンで、ジュディ・ガーランド本人の映像や写真が絶対に映されると期待していたが、それがなかった。何故だ。権利関係なのか。作りはハリウッドのbiopicのクリシェなのに、こうしたところでは王道を外してくる。何故なのだ、ルパート・グールド監督?

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総評

ジュディ・ガーランドの名を知らなくても、“Over the Rainbow”を知らないという人はいないだろう。歌手としても歌の方が、女優としてよりも作品の方が大きいという存在。それがジュディ・ガーランドである。そんな彼女がジュディ・ガーランドとしてではなく、一人の人間としてステージ上で“愛”を求めて歌う。若い世代で本作に感銘を受けたならば、ぜひとも『 オズの魔法使 』や『 スタア誕生 』を観てほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

take ~ seriously

「 ~を真剣に受け取る 」、「 ~を真面目に捉える 」といったような意味である。『 ダークナイト 』でジョーカーが【 昼間のセラピー・セッション 】から立ち去る時に、“Why don’t you give me a call when you wanna take things a little more seriously?”と言い放つときにも使われている。これの反対表現は take ~ lightly である。ちなみに『 グーグル ネット覇者の真実: 追われる立場から追う立場へ 』には“Are you taking me lightly?”というフレーズは一時グーグル社内で流行したというくだりがある。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, イギリス, ジェシー・バックリー, ヒューマンドラマ, フィン・ウィットロック, レニー・ゼルウィガー, 伝記, 歴史, 監督:ルパート・グールド, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ジュディ 虹の彼方に 』 -愛は虚妄ではない-

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