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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2020年代

『 僕の好きな女の子 』 -Boys be romanticists-

Posted on 2020年8月19日2021年1月22日 by cool-jupiter

僕の好きな女の子 70点
2020年8月17日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:渡辺大知 奈緒
監督:玉田真也

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テレビドラマの『 まだ結婚できない男 』と邦画『 ハルカの陶 』を観て、奈緒という女優を今後マークしようと思っていた。その奈緒と、Jovian一押しの俳優、渡辺大知の共演である。というわけで平日の昼間から劇場へ行ってきた。

 

あらすじ

加藤(渡辺大知)は脚本家。美帆(奈緒)は写真家兼アルバイター。二人は大の親友だが、加藤は美帆に恋心を抱いていた。けれど、告白することで、二人の関係が変わってしまうことを恐れている。加藤は美帆との距離を縮められるのか・・・

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ポジティブ・サイド

渡辺大知が『 勝手にふるえてろ 』の二とは真逆のキャラクターを好演。好きだという気持ちを意中の相手にストレートにぶつけられない世の男性10億人から、無限の共感を呼ぶパフォーマンスである。または『 愛がなんだ 』のテルコと同じく、好きだというオーラを全身から発しながらも、相手がそれに気づいてくれない、それでも満足だという少々屈折した一途キャラ。これまた世の男性5億人からの共感を呼ぶであろう。人は誰でもできない理由を思いつくことに関しては天才かつ饒舌なのだが、そのことが加藤とその悪友たちとの他愛もない喋りの中によく表れている。単なる喋りではなく、渡辺の目の演技にも注目である。さりげない演技ではなく分かりやすい演技、しかし、わざとらしい演技ではない。目で正の感情や負の感情を語っていて、美帆と共有する時間を知っているオーディエンスには伝わるが、美帆と共有する時間を知らない悪友たちには、その目の語る事柄が伝わらないという憎い演出である。

 

奈緒演じるヒロインの美帆をどう捉えるかで本作の評価はガラリと変わる。加藤の悪友の言うようにビッチ(という表現は不穏当だと思うが)と見るか、計算ずくで加藤をキープし続ける小悪魔なのか、それとも本当に男女の友情を信じて維持している、ある意味で非常に純粋な女なのか。Jovianは小悪魔であると感じた。理由は二つ。1つには写真。被写体に対する愛情がないと撮れない写真というものがある。それは、例えば『 思い、思われ、ふり、ふられ 』のカズが撮った写真であったり、『 マーウェン 』のマークが撮る人形の写真だったりする。そうしたものは一目見れば分かるし、そうした写真を無意識で撮ったとすれば、撮影者は小悪魔ではなく悪魔であろう。理由のその二は、公園で泣く美帆と、その彼氏である大賀の所作。大賀に責められたから泣いたのではなく、自分の意識していない薄汚れた面に気付いてしまって泣いたのだろう。大賀が慰めるように肩に手をかけていたのは、美帆を思いやる以上に「今は涙をこらえろ。加藤にその涙を見せるな」という意味だと受け取った。このあたりは観る人ごとに解釈が分かれるものと思う。

 

大賀と渡辺の喫茶店での対峙シーンは素晴らしい。『 聖の青春 』の松山ケンイチと東出昌大の食堂での語らいを彷彿とさせた。大賀は登場時間こそ少ないものの、スクリーンに映っている時間は、画面内のすべてを支配したと言っても過言ではない。

 

全編が芝居がかっていて、劇作家である玉田真也監督の真骨頂という感じである。居酒屋のシーンや加藤の自宅のシーンなど、下北沢の芝居小屋で見られそうなトーク劇だった。あれだけ軽妙かつ切れ味鋭いシーンをどうやって撮ったのだろう。すべて台本通りなのだろうか。それとも、大まかな方向性だけを与えて、役者たちのインスピレーションに任せて何パターンか撮影して、その中から良いものを選んできたのだろうか。

 

Jovianは東京都三鷹市の大学生だったので、井の頭公園はまさに庭だった。渡辺大知の卓抜した演技だけではなく、馴染みのある風景がいくつも出てきたことで、作品世界に力強く引き込まれた。井の頭公園で歌うギタリストの歌も素晴らしくロマンチックだった。世の細君および女子にお願いしたいのは、パートナーが沈思黙考していたら、是非そっとしておいてやってほしい。本当に考え事に耽っていることもあるが、過去の美しい思い出を反芻している時もあるから。

 

ネガティブ・サイド

加藤の職業が脚本家というのは、少々無理があると感じた。実際にテレビで放映されているわけで、美帆がそれを観ないという保証はどこにもない。又吉のエッセイが原作ということだが、加藤は駆け出しの小説家ぐらいで良かったのではないか。それなら出版前の原稿を仲間内でわいわいがやがやと論評合戦してもなんの問題もない。ジュースもケーキも手渡せないようなヘタレな加藤が、美帆との時間をそのままテレビドラマのネタにしてしまうというのは、キャラ的に合っていないと思えた。

 

萩原みのり演じる加藤の女友達、または徳永えり演じる美帆のビジネスパートナーに、何か波乱を起こして欲しかった。自分が誰かを好きな気持ちを、その誰かは決して気付いていてくれない。そのことを加藤自身が図らずも実践してしまうというサブプロットがあれば、またはそうした思考実験的なもの(たとえばドラマの脚本の推敲の過程で)を挟む瞬間があれば、よりリアルに、よりドラマチックになったのではと思う。

 

総評

カップルのデートムービーに向くかと言われれば難しい。かといって友達以上恋人未満な関係の相手と観に行くのにも向かない。畢竟、一人で観るか、あるいは夫婦で観るかというところか。Jovianは一人で観た。井の頭公園や渋谷が庭だ、という人には文句なしにお勧めできる。ラストは賛否両論あるだろうが、男という面倒くさい生き物の生態の一面を正確に捉えているという点で、Jovianは高く評価したい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

lover

「恋人」の意。日常会話ではほとんど使わない。日本語でも「カレシ」、「カノジョ」の方が圧倒的に使用頻度が高いのと同じである。劇中で二度歌われる『 友達じゃがまんできない 』の歌詞、「あなたの恋人になりたい」が泣かせる。「あなたの恋人にしてほしい」ではないのである。加藤にはTaylor Swiftの“You Are In Love”と“How You Get The Girl”、そしてRod Stewartの“No Holding Back”と”When I Was Your Man“を贈る。いつかドラマの挿入歌にでも使ってほしい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 奈緒, 日本, 渡辺大知, 監督:玉田真也, 配給会社:吉本興業Leave a Comment on 『 僕の好きな女の子 』 -Boys be romanticists-

『 思い、思われ、ふり、ふられ 』 -撮影と展開が雑過ぎる-

Posted on 2020年8月18日2021年1月22日 by cool-jupiter

思い、思われ、ふり、ふられ 45点
2020年8月15日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:浜辺美波 北村匠海 福本莉子 赤楚衛二
監督:三木孝浩

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映画ファンなら「この監督の作品は観ることに決めている」、「この役者が出ているなら観ようかな」と感じる対象がいるものと思う。Jovianは浜辺美波のファンであり、彼女の出演作は一応チェックすることに決めているし、本作でも及第の演技を見せた。だが、邦画の弱点というか、漫画や小説の映像化(≠映画化)の限界をも思い知らされた気もする。

 

あらすじ

朱里(浜辺美波)と理央(北村匠海)は高校生。親同士の再婚によって姉弟になったが、理央は朱里への思いを胸に秘めていた。同じマンションに暮らす朱里の親友の由奈(福本莉子)やカズ(赤楚衛二)を含めた4人の恋模様が交差していき・・・

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ポジティブ・サイド

浜辺美波の顔芸は今作でも健在である。『 センセイ君主 』のような笑いを取りに行く顔芸ではなく、表情で心情を伝える演技だ。目は口程に物を言うという諺通りである。

 

浜辺よりもっとそれが顕著だったのは、気弱な由奈を演じた福本莉子だったように思う。明らかに胸の内を隠す、あるいは取り繕うための過剰な表情、「演技をしているという演技」をしていた浜辺とは対照的に、恋に臆病で、それでも恋に真剣な少女を好演。演技をしているのだけれども、それを感じさせない演技力。特に雨宿りの最中に理央に告白するシーンは、序盤ながらも本作のハイライトとなった。

 

血はつながっていないが兄弟姉妹である、それゆえに好きでも告白できない関係、というのは駄作『 ママレード・ボーイ 』でも描かれたが、本作はそこに親友や同級生を混ぜてきた。これによって各キャラクターの story arc の密度が減少するというデメリットは生まれたものの、邦画では絶対に描けない禁断の恋愛関係の手前のあれやこれやな時間つぶし的エピソードが挿入されずにすんだというメリットもある。

 

本作は漫画原作には珍しく、主要キャラが堂々と将来の夢を語る。誰々とこのままずっと一緒に幸せに生きていきたい・・・的な安易なエンディングにならないところには好感を持てる。特に通訳になりたいという朱里と映画関係の仕事をしたいというカズの二人は、素直に応援してやりたいという気持ちになれた。特にカズは、単なる映画好きではなく、映画が現実からの一時的な逃避先であるということが効果的に描写されていたので、余計に「頑張れ」と思えた。

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ネガティブ・サイド

端的に言って、エピソードを詰め込み過ぎである。これは漫画原作の方が全般に言えることだが、もう夏祭りとか文化祭とか部活風景とか授業風景とか教室での昼食風景とか登下校風景には飽き飽きである。そうしたシーンを見せられることに飽きたのではなく、そうしたシーンのカメラワークやコマ割り、時間配分などにウンザリなのである。映画が2時間だとすれば、最初の山場は30分あたりに持ってきて、最後の山場は1時間50分、主人公とヒロインが見つめ合う、あるいは抱擁を交わすシーンで主題歌を大音量で挿入とか、漫画の実写化の公式が存在するかのようで、本作もその例に当てはまるところが多い。というよりも三木孝浩監督こそ、そうした定番の構成を作り上げることに多大な貢献をした先般の一人とも言うべきで、多分もう彼は知恵を振り絞って映画を作っていない。少なくとも漫画の実写化についてはそう言える。ほとんどすべてのシーンに既視感を覚える人は多いだろう。

 

細かなディテールも破綻しているシーンが多い。一番「何じゃこりゃ?」と頭を抱えたのは、朱里とカズが夜の帰り道で高台に寄り道するシーン。二人の10~20メートル後ろを歩いていたスーツの男性が、ズームアウトした視点に切り替わった瞬間に影も形もなく消えていた。映画作りとは編集の痕跡を消す作業なのだ。誰も気付かなかったのか。気付いていたけれど、時間の節約のためにもうワンテイク撮ることを断念したのか。いずれにしろめちゃくちゃなシーンであった。

 

その他の季節の移り変わりの描写も乱暴だ。「寒い」と言いながら吐く息は全く白くない。だったら手袋したり、あるいは両手をこすり合わせたりなど、ちょっとした小道具や演技で観る者に寒さを伝える工夫はできるはず。それをしないのは監督の怠慢だろう。通学路や校庭の木々は青々していたり枯れていたりというシーンが混在しているのも編集のミス、または怠慢だ。

 

また劇場の予告編で散々流れていたトレイラーのLINEメッセージは何だったのか。「既読にならない」ということに理央は思い悩んでいたのではなかったのか。トレイラーでは朱里は思いっきり既読にしている。劇場で当該シーンを観た時、「???」となってしまった。誰がトレイラーを作っていて、誰が編集担当なのか?

 

ストーリー展開上の演出や小道具大道具も雑である。まず朱里と理央の家に生活感がなさすぎる。中年カップルの結婚は普通にあることとして、年頃の娘と息子が暮らす家で、風呂場のドアに何らかのサインぐらい用意しないのか?それこそ「父 使用中」とか「朱里 使用中」とか、朱里の母のあわてふためき具合を見れば、そうした小道具ぐらいあってしかるべきだろうと感じる。

 

一番よく理解できないのはカズと理央の距離感。「マッドマックス」「の、どれ?」という具合に初対面から意気投合できるのに、その後のビミョーな距離が腑に落ちない。特に学校の下駄箱で同級生が理央と朱里を茶化すシーンに介入するのは男らしいが、だったら何故同じ迫力と剣幕で理央に迫らないのか。倫理の二重基準があると言われても仕方がないだろう

 

総評

首を傾げざるを得ないシーンやストーリー展開が多い。主要キャラを4人にしたいのなら、もっと密度の濃い映画にすべきである。手垢のついたエピソードを、これまた手垢のついた撮影方法と編集で料理してはいけない。そうするぐらいなら、ばっさりとカットしていい。ストーリーはどうでもいい。若い売れっ子の役者たちを観たいという向きにはお勧めできるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

interpret

「通訳する」の意味だが、一般的には「解釈する」で知られているだろう。通訳者=interpreter、翻訳者=translatorである。有名な通訳者のエピソードに以下のようなものがある。ある日本人のスピーカーが日本語でダジャレを言った。通訳者は「今、この人は冗談を言いました。なので皆さん、笑ってくださると嬉しいです」と当意即妙に“通訳”を行い、結果として聴衆から笑いを引き出し、スピーカーからは更なる信頼を得た。InterpreterとTranslatorの違いが、少しお分かり頂けただろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, 北村匠海, 日本, 浜辺美波, 監督:三木孝浩, 福本莉子, 赤楚衛二, 配給会社:東宝, 青春Leave a Comment on 『 思い、思われ、ふり、ふられ 』 -撮影と展開が雑過ぎる-

『 君が世界のはじまり 』 -鮮烈な青春の一ページ-

Posted on 2020年8月2日2021年1月22日 by cool-jupiter

君が世界のはじまり 65点
2020年8月1日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:松本穂香 中田青渚 片山友希 
監督:ふくだももこ

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『 わたしは光をにぎっている 』の松本穂香の主演と聞いて食指が動いた。舞台は大阪。主要キャストは関西人で固められている。コロナの第二波で映画館が再びシャットダウンされる前に観ようとテアトル梅田へ出向く。

 

あらすじ

縁(松本穂香)は優等生。親友の琴子(中田青渚)は恋多き女。父への苛立ちから学校とショッピングモールにしか居場所がない純(片山友希)。それぞれが心の奥底に秘める鬱屈と同じ学校の男子への恋心が芽生える時、互いの関係が徐々に変化していき・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭から不穏なスタートである。父親を殺害したと見られる高校生が警察によって連行されていくシーンから始まる。その高校生の顔は見えない。なるほど。この高校生が誰であるのかを予想しながら鑑賞せよ、ということか。Jovianは「こいつだろう」と変化球的に予想して見事に外した。これから観る人も、このシーンを常に頭の片隅に置きながら鑑賞してみよう。

 

本作の舞台は大阪とはいっても、いわゆるキタやミナミが舞台ではないし、北摂のハイソな住宅地でもない。南海もしくは近鉄の支線のやや先っぽの方であろう。なんとなく雰囲気的に貝塚や富田林のように思えた。それとももう少し先の方だろうか。『 岸和田少年愚連隊 』ではお好み焼き屋のばあさんから「早うここから出て行きさらせ」と罵倒されたチュンバと利一だったが、出て行こうにも行けるのが地元のショッピングセンターぐらいしかないという閉塞感が通奏低音として全編を貫いていた。同時に、そのショッピングセンターが間もなく閉店するということに、自分たちの小さな世界が一つの終わりを迎えるということを高校生たちが感じ取る。代り映えしない退屈な日常がショッピングモールに仮託されているわけだ。

 

 

『 ここは退屈迎えに来て 』で描かれた幹線道路沿いに延々と続く代わり映えのしない店や施設の繰り返しと同じく、BELL MALLというショッピングモールが代わり映えしない世界の象徴になっている。それをぶち壊す一つの契機が、純が検索する「気が狂いそう」というフレーズである。そう、THE BLUE HEARTSの『 人にやさしく 』だ。2019年になっても甲本ヒロトの歌詞と歌唱に救われる若者がいることに、何故か心が震わされた。THE BLUE HEARTSの楽曲はクライマックス近くでも本作を彩る重要な要素になっている。そこは本作のハイライトリールでもある。

 

モール以外にもう一つの重要なモチーフとして現れるのが、タンクである。中身は水か、コンクリートか、何だから分からない。まるで、それを見つめる縁と業平の胸の内のようである。そのタンクの向こうに夕焼けが広がるシーンの美しさに、我あらず、日暮れて道遠しなどと感じてしまった。青春映画の夕焼けにこのような感慨を抱くことは稀である。

 

本作の見どころは、各キャラクターの青春との向き合い方である。琴子は業平に一目惚れし、セックスだけの関係から「真剣交際」の道を模索する。それを母親(江口のりこ)は「あの子もようやく初恋か」と感慨深げに見守る。東京から引っ越してきた伊尾(金子大地)は、純との衝動的な、刹那的な肉体関係のその先に踏み出せない。伊尾の抱える闇もなかなかに暗く、深い。普通に被虐待児なのではないかと思う。そして家庭でも学校でも優等生であるはずの縁も、心の内を見透かされることの羞恥に耐えられずメルトダウンを起こす。どれもこれも鮮烈な青春の1ページだ。

 

主演の松本穂香は闇の中でもきらりと光る目の力と、フェロモンを放たずに魅力をアピールするという子どもと大人の中間、少女と女性の中間的な存在を見事に体現した。親友の琴子役の中田青渚はビッチでありながらも乙女チックに変身しようとする、これまた難しい役どころを熱演。父と距離と母の不在に思い悩む純役の片山友希は、闇を抱える少年に一歩も引かずに向き合う「人にやさしい」を体当たりで実現した。

 

全員が関西人なので、しゃべりもノイズに聞こえない。本当はこういう映画こそミニシアターではなく、TOHOシネマズあたりでやってほしいのだけれど。邦画の青春映画としてはかなりの力作である。

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ネガティブ・サイド

主要な女子3人と男子3人の関係が途中まであまりにも希薄すぎる。BELL MALLで実は同時刻に違う場所にいたのだという描写がもっとたくさん欲しかった。それと同時に、モール内に同じ制服を着て、同じように時間を潰す高校生たちを映してほしかった。彼ら彼女らが、時に屈託なく、時に深刻な表情でモールで過ごす様が映し出されていれば、主要な6人だけではなく、その地域の高校生たちが抱える閉塞感や刹那的な享楽・歓楽への傾倒をもっと印象付けることができた。そうすることで殺人事件の犯人像にもっと説得力を持たせられたのにと思う。

 

琴子はしばしば買い食いするが、それがお好み焼きだったりたこ焼きだったりするが、もっとマニアック(?)かつディープに串カツやらイカ焼きやらカスうどんやらを食べさせることはできなかったか。一般的な映画ファンが思い浮かべるだろう大阪は道頓堀やら通天閣あたりだろうが、舞台はもっと南あるいは南東の方、ある意味でモールぐらいしか拠点がない没個性な町である。だからこそ、ちょっとした食べ物ぐらいは個性的なものを採用してほしかった。縁の家での晩餐についても同じことが言える。粉もんをオカズにご飯を食べるのは、らしいと言えばらしいのだが、そうした大阪大阪した描写は本作のメッセージとは相反するところがある。

 

後は縁、純、業平の父親像をもう少しだけ深掘りしてほしかった。特に縁の父親の放屁のシークエンスはもう少し追求できただろうにと思う。あれで笑える家庭、あれを受け入れられる業平という角度から、逆に業平とその父親の関係をもっと推測させることもできただろうにと、そこは少し残念だった。

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総評

青春時代の閉塞感というのは誰にでもある。それは環境の変化であったり、自身の肉体的精神的変化だったり、あるいは人間関係の変化であったりである。そうした青春の暗い側面と、暗いからこそ光を放つ一瞬を本作は活写している。大学一年生あたりは入学式もなくオリエンテーションもなく登校することなく、オンライン授業と課題とバイトの毎日で気が滅入っている。そうした大学生たちにこそ観てほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

drive someone nuts

「誰かの気を狂わせる」、「頭をおかしくさせる」の意味。This is driving me nuts. や Both my boss and my client always drive me nuts. のように使う。THE BLUE HEARTSの『 人にやさしく 』の歌い出しが耳に聞こえたら、このフレーズに変換しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, 中田青渚, 日本, 松本穂香, 片山友希, 監督:ふくだももこ, 配給会社:バンダイナムコアーツ, 青春Leave a Comment on 『 君が世界のはじまり 』 -鮮烈な青春の一ページ-

『 アルプススタンドのはしの方 』 -異色の青春群像劇-

Posted on 2020年7月28日2021年1月21日 by cool-jupiter

アルプススタンドのはしの方 70点
2020年7月26日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:小野莉奈 平井亜門 西本まりん 中村守里
監督:城定秀夫

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これは快作である。『 カメラを止めるな! 』のようなインパクトがある、というのはほめ過ぎだが、非常にユニークなフォームの映画である。『 セトウツミ 』の亜種にして、ついに現れた『 キサラギ 』の後継作品でもある。

 

あらすじ

夏の高校野球県大会のアルプススタンドのはしの方で、演劇部員のあすは(小野莉奈)とひかる(西本まりん)は野球のルールもよく分からないままに応援していた。そこに補習上がりの元野球部の藤野(平井亜門)と学校一の優等生、宮下(中村守里)も徐々に加わり・・・

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ポジティブ・サイド

正にタイトルの通り、アルプススタンドのはしの方だけで展開される会話劇である。『 キサラギ 』の密室での推理談義、そして『 セトウツミ 』の川辺の階段での他愛のない雑談に続く作品だと言えるだろう。高校や大学の映研が本作の模倣作品を作り始めるのは間違いない。アイデア次第で、演劇をそのまま映画にできるし、なおかつ面白さも保てるのだ。

 

本作をユニークにしているものはいくつかあるが、一つには野球を一切映すことなく野球を見せていることである。彼女たちのスタンドでの位置や立ち居振る舞いだけでも彼女たちがスクール・カーストの上位者でないことが分かるし、野球のことをよく知らない女子というだけで男子と“活発に交流する”タイプでないことも伝わってくる。娯楽やスポーツの多様化が進んで久しいが、それでも野球は日本ではまだまだメインストリームの球技である。

 

そんな彼女たち+男子一人+時々教師一名が繰り広げる会話劇がべらぼうに面白い。女子高生同士の他愛のない野球に関わるトークに男子が一人加わることで奥行きが生まれ、優等生が加わることで深みも生まれた。元は兵庫県の高校生の演劇脚本のようだが、資金も道具も人員もないからこそ生まれる面白さが本作にはある。Jovianがあっさりとプロットを見破った『 ソウ 』も、資金不足から大部分をスタジオ内=監禁部屋で撮影したことで、面白さが増したと言われている。同じように、会話劇から徐々に明らかになる様々な背景情報、そして目に見える形で変わっていく登場人物同士の距離。それが、すぐそこで行われている野球の試合展開と奇妙にシンクロしている。強豪に立ち向かう自校のチームと、人生の壁にぶつかっているあすはや藤野。決して青春群像劇の主人公的なキャラクターたちではないが、それゆえに我々一般人の共感を得やすい。少女漫画原作の青春映画の主役キャラに「ああ、俺にもこんな青春があったな」と感じられる人間はごく少数だろうし、そうした人間はそもそも青春映画など見ないだろう。普通の大人が普通に共感できる邦画が生まれたと評してもいいだろう。

 

本作は『 桐島、部活やめるってよ 』の亜種でもある。本作で桐島にあたるのは矢野である。といっても、矢野はスクール・カーストの上位者ではないし、野球部のレギュラーでもない。(オーディエンスに)姿は見えないが、その存在が他者に絶大な影響を及ぼしていくところが桐島と共通している。矢野とはどんな男か。「うおおおおお、矢野ーー!!!大好きだーーー!!!俺はお前を応援するぞおおおおおお!!」と叫びたい気持ちにさせてくれる男である。何がそうさせるのか。アルプススタンドのはしの方にいるキャラクターたちは、みな自己効力感が低い。けれど、彼女たちが徐々に自身を信じ、一歩を踏み出す勇気を得て、他者に声援を送るようになる過程が丹念に描かれることで、我々も知らず知らずのうちに物語世界に引き込まれていく。その過程は劇場で体験してほしい。

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ネガティブ・サイド

城定監督は真夏の炎天下、野球場で野球を見たことがないのだろうか。あんなピーカンだと、ステンレスの手すりに両手を乗せていた宮下のてのひらは軽度の火傷を負うぞ。あすはとひかるも同じ。座っていられない。尻の下にタオルを敷くのが定石である。妙な陽炎を後から映像に加えていたようだが、完全なる蛇足。「日焼け止め持ってたりする?」のようなセリフが一つあれば、暑さも伝えられたはず。会話劇なのだから、会話で堂々と気温や日差しに言及してもよかった。

 

藤野はいくら投手だとはいっても、バッティングフォームが窮屈すぎる。完全なる手打ちフォームで、とても野球経験者には見えない。ここはもっと演出や演技指導が必要だった。

 

また吹奏楽部やベンチ入りできなかった野球部連中が試合を観ている時の顔の向きとあすはたちが試合を観ている時の顔の向きが一致していない。いや、一致はしないのだが、どう考えてもそっちはピッチャーマウンドまたはホームベースの方向ではないだろうというシーンのつなぎが何度かあった。一塁側アルプススタンドの外野側のはしの方にいるあすはたちが左45度を剥いているのに、スタンドの野球部連中が真正面を向いていたりする。いったいどこのどんなプレーを見ているのか。

 

打球音からホームランの弾着までの時間が異様に短かったのは弾丸ライナーだったからと納得はできても、藤野がナイスキャッチしたファウルボールはおかしい。打球音と打球の軌道、さらに打球のスピードのどれ一つとして一致していない不思議なボールが飛んできた。監督もしくは助監督は、アルプススタンドで野球観戦することを、もう少し綿密に取材すべきだった、あるいは自身で体感してみるべきだった。

 

総評

こうしたユニークな映画が日本でもっと生みされてほしい。久しぶりに邦画を応援したくなった。本作はそういう気持ちにさせてくれる映画である。Jovianはやたら藤野にもひかるに宮下にも、やたら大声を張り上げる教師にも共感できた。もっとこの世界を見守りたいと感じた。2020年は映画にとって不幸な年だが、本作はその中でも異色の面白さを持った映画である。中年映画ファンも劇場へGoだ。高校生や大学生のデートムービーにも最適である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

make a catch

野球やアメフトでボールをキャッチすることをmake a catchと言う。do a catchとは言わない。~する=do ~と理解している人が多いが、実際にはmake ~もよく使われる。do homework, do laundry, do the dishes。make a mistake, make a speech, make a catch. do は手順や対象がすでに定まっていることを「する」、一方でmakeは自分で一から生み出すようなものを「する」。このように理解しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, 中村守里, 小野莉奈, 平井亜門, 日本, 監督:城定秀夫, 西本まりん, 配給会社:SPOTTED PRODUCTIONS, 青春Leave a Comment on 『 アルプススタンドのはしの方 』 -異色の青春群像劇-

『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』 -垂直・水平的なポン・ジュノ研究本-

Posted on 2020年7月23日 by cool-jupiter

ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 75点
2020年7月20日~7月23日にかけて読了
著者:下川正晴
発行元:毎日新聞出版

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『 パラサイト 半地下の家族 』のアカデミー賞4冠はまだまだ記憶に新しい。ポン・ジュノ監督のフィルモグラフィーやバイオグラフィーにあらためて光を当てるにはこれ以上ないタイミングで、やはり出た。最初は「Wikipediaの内容をちょっと膨らませた程度かな」と思っていたが、本作の目次に目を通して、そうした懸念は消えてなくなった。これは極めて学究的なポン・ジュノ研究の試みである。

 

あらすじ

本作は、第1章『パラサイトの真実』で映画『 パラサイト 半地下の家族 』の研究と考察を、第2章『ポン・ジュノの正体』ではポン・ジュノの作家としての変態性(perversion)と変態(metamorphosis)を語る。第3章『ポン・ジュノのDNA』ではポン・ジュノの家族史と韓国史を垂直かつ水平に分析し、第4章『韓国映画産業の現在』では韓国の国家戦略、映画との距離(ブラックリスト問題と国家的振興策)が議論される。どれも刺激的な論考である。

 

ポジティブ・サイド

本書の真価は2、3、4章にある。第1章はちょっとネットの世界に潜れば、いくらでも手に入る類の情報である。つまり、少々軽い。それゆえに、非常に堅苦しい論考が続く中盤以降に向けてのちょうど良い入り口になっている。

 

第2章では、作家としてのポン・ジュノを深く掘り下げる。特にポン・ジュノが各種メディアに語った言葉を引用しながら、その当時のポン・ジュノの成長=変化=変態の過程の背景を明らかにしていく。その切り口がユニークだ。韓国の国家的な成長とポン・ジュノの個人的な成長を重ね合わせて見るとともに、両者の成長・変態の過程を世界史的な視点からも見つめている。ポン・ジュノの青春時代の政治的激動と、国際的な文化の流入(それはアメリカのテレビ映画であったり、あるいは日本の漫画や映画であったりする)を一体的に論じる本章は、個人的に最も刺激を受けた。

 

第3章は、ポン・ジュノの先祖、特に母方の祖父・朴泰遠が小説家として日本による朝鮮半島の植民地政策や近代化とどのように向き合い、いかに「越北」するに至ったのかを考察する。その過程で、下川正晴の関心が朴泰遠の「二人の妻」にあてられるところに、著者の現代的関心が見て取れる。また、こうした家族史、つまり父母や祖父母の物語が戦争や非植民地化、国家と民族の分断と密接不可分であるところに、近代日本と近代韓国の歴史観の違いが如実に表れている。小林よしのりや百田尚樹といった言論人は、日本の兵士であった当時の日本の兵士を父や祖父、兄や弟といった限定的な関係からしか描かず、彼らの戦いもきわめて内面的な動機の面からしか描かない。いや、描けない。それはそうだ。解放戦争の兵士という姿は、一歩引いたところから見れば、侵略者・征服者になるからだ。そうした侵略される側、征服される側の朝鮮半島の一知識人の生活史を通じて、ポン・ジュノのDNAを解き明かそうという試みは非常に客観的であり、同時に野心的でもある。本章の迫力は、本書の中でも随一である。

 

第4章では、韓国エンタメ産業の世界戦略が、イ・ミギョンという老婦人を通して描かれるところに、やはり著者の問題意識が垣間見える。この大財閥創始者の孫娘である女性の個人史は、朝鮮半島の近代史と不思議なシンクロを見せる。興隆と分断、そのトラウマとそこからの新規巻き返し。一経営者を世界経済的な視点から分析することで、CJエンターテインメントの、ひいては韓国の国家的な戦略を現在進行形で活写していく。本書の第4章を材料に、ケース・スタディおよびディスカッションを行うビジネス・スクールがあっても驚かない。それほど緻密な取材と資料の分析に基づいた論考になっている。

 

思想の左右で売り上げが上がり下がりするという末期的な症状を呈している日本の出版業界にも、まだまだ真っ当な書き手は存在することを教えてくれる良書である。

 

ネガティブ・サイド

率直に、日本の記述が少ないと感じた。日本そのものではなく、日本が韓国に及ぼした文化的な影響や、韓国の娯楽産業の興隆と日本の娯楽産業の興隆の歴史比較などがあっても良かったのにと感じる。ポン・ジュノが日本の文化で影響を受けたものと言えば、本書にもある通り漫画である。その漫画の神様・手塚治虫やアニメーターの宮崎駿は太平洋戦争終結後にすぐに頭角を現してきた。戦争、というよりも戦争を可能にするような国家体制が、いかにクリエイティブな個の才能を抑えつけるかを証明している。一方の韓国で映画文化・映画産業が豊かに花開いた背景に、長く続いた軍事政権が1980年代後半にようやく終焉を迎えたという事情がある。このあたりの近現代史にもう少しページを割いても良かったのではないだろうか。

 

また、韓国の民主化以降、外国文化(当然日本も含まれる)の輸入を始めた韓国が、初めて触れた日本の映画作品の多くが北野武の作品だったこと、北野武のテイストがいかに当時の韓国の映画人に影響を及ぼしたのか、などの考察があればパーフェクトだった。しかし、このあたりは著者も本書の冒頭で述べている通り、後に出版されるであろうその他多くの研究本の課題・宿題だろう。

 

参考文献に書籍しか載っていないのがまことに惜しい。英語や韓国語のウェブサイトも多数参照したのは間違いないはず。そうしたサイトのURLも載せなければダメだ。Google Translateを活用すれば、どんな言語であっても、大意を把握することが可能な時代である。著者および編集者はかなり古い体質の書き手であり出版人なのだろう。ネット上の参考資料をもっと読者とシェアすべきである。それが今後の「参考文献」の在り方だろう。

 

総評

おそらく今後、ポン・ジュノや韓国映画研究本が多数出版されるであろう。本作は間違いなくその嚆矢である。新聞記者らしく多くの資料を渉猟して、極めて客観的に事実を記述し、さらに主観的な意見を述べる時の舌鋒は鋭い。単なるポン・ジュノ監督の伝記以上に、ポン・ジュノの家族史と韓国社会の歴史を水平方向と垂直方向の両方向に追究しようとした労作である。韓国映画ファンのみならず、広く映画ファン全般、さらにエンタメ業界人や同業界を志す大学生にお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

metaphor

「暗喩」の意。日本語でもカタカナでメタファーと書くことがよくある。映画ではしばしば visual metaphor が用いられ、ポン・ジュノ監督はその名手であると目されている。『 パラサイト 半地下の家族 』では、階段が重要な visual metaphor として用いられていた。映画を観る際には、様々なオブジェや風景が意味するものが何であるのかを考えながら鑑賞してみよう。そうすれば、監督の意図や映画のメッセージを理解する手助けになる。

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Posted in 国内, 書籍, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, 日本, 発行元:毎日新聞出版, 著者:下川正晴Leave a Comment on 『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』 -垂直・水平的なポン・ジュノ研究本-

『 悪人伝 』 -The Gangster, The Cop and The Devil-

Posted on 2020年7月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

悪人伝 65点
2020年7月19日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:マ・ドンソク キム・ムヨル キム・ソンギュ
監督:イ・ウォンテ

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『 犯罪都市 』の暴力刑事から一転、マ・ドンソクが極道の組長として、連続殺人鬼を追うという悪人vs悪人、そこに刑事も加わるという三つ巴のクライムドラマ。少々意味不明な部分もあるが、全体的にはソリッドにまとまった秀作。

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あらすじ

ヤクザの組長チャン・ドンス(マ・ドンソク)はある夜、追突事故に遭う。穏便に済ませようとしたところ、突然相手に刺される。何とか撃退したもののドンスは重傷を負う。一方でチョン刑事(キム・ムヨル)は犯行を連続殺人鬼によるものと推測。ドンスに情報を渡すように迫るが・・・

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ポジティブ・サイド

原題はThe Gangster, The Cop, The Devilである。『 続・夕陽のガンマン 』=The Good, The Bad and The Uglyを彷彿させる。三つ巴の戦いには独特の面白さがある。それが極道、警察、連続殺人犯というところが、いかにも韓国らしいではないか。韓国映画における警察はしばしば無能もしくは腐敗の象徴として描かれる。つまり、この戦いに一見すると善人がいないのである。つまり、そこに裏切りの予感が常に漂っている。それが物語にサスペンスをもたらしている。

 

刑事が異様な熱血で、正義と法の執行のためなら、正義と法を曲げても構わない。そこまで暴走する雰囲気を湛えている。まるで『 エンドレス 繰り返される悪夢 』に出てくるもう一人のループ現象に囚われた男のような必死さで、各方面に突っかかって食らいついて行く。『 アウトレイジ ビヨンド 』における小日向文世演じる刑事のように、悪と悪を争わせて漁夫の利を狙うなどということはしない。どこまでも直情径行で、だからこそ自分の信念を法に優先させるという暴走をしそうだと感じられる。相手が極道の組長でもシリアルキラーであろうと妙に自信満々で、どこかの時点と唐突にサクッと刺される、あるいは撃たれる予感も漂わせる、何とも危ういキャラである。そんな男がどういうわけかだんだんと応援したくなる奴に見えてくるから不思議だ。傍若無人な暴力刑事が、血気盛んな熱血刑事に華麗なる変貌を遂げるその仕組みに興味がある方は、ぜひ鑑賞しよう。

 

対するヤクザのマ・ドンソクも、いわゆる任侠道を往くような男ではなく、己の欲望と野望のために無法を是とし、殺人を厭わない悪人だ。子どもに少々甘いというか、妙に優しい側面を見せたりもするが、そうした顔は決して前面に出てこないし、まなじりを下げることはあっても、それは優しさではなく暴力を予感させる不敵な笑み。実は良い人的なエピソードを取り入れそうなところで、そうしたシーンはことごとく回避される。実際はドンス組長のちょっと意外な優しい側面を強調するシーンも撮ったかもしれない。しかし、それを編集でそぎ落としたのは英断だった。また、『 アジョシ 』のマンソク兄弟のような、人間を人間と思わないような非人道的なビジネスに手を出していないことで、悪(あく)ではなく悪(わる)にとどまっている。ワルはワルのままの方が生き生きしていて、見ていて面白いから。腕っぷしにモノを言わせて殴りまくるのは『 犯罪都市 』と同じ。違うのは、そこに明確な血の臭いと痛みがあること。中盤の大立ち回りや、クライマックスの殺人鬼への殴打の連発シーンでは、爽快感と痛みを両方同時に味わえる。まさに“マ・ドンソク”時間とも言うべき、不思議な味わいの時間である。

 

これだけ濃いメンツに追われる殺人鬼=The Devilもしっかりとキャラが立っている。次から次に行きずりに人を殺し、ニーチェやキルケゴールなどの哲学書を読み、熱心に教会に通うというキャラで、高い知能と人生への深い思索を備えたサイコパスである。だが、そんなインテリ設定など吹っ飛ばすような不気味な目、そして笑いがこの悪魔にはある。他者の生殺与奪の権を握ることに快感を覚えるというパーソナリティは間違いなく異常者であり、『 暗数殺人 』のテオとは方向性こそ異なるものの、異常性では全く引けを取っていない。こんな奴でも法治国家で逮捕されれば、人権が確保され、弁護士が付き、そして心神耗弱を理由に罪が軽くなる。直接的な証拠がないために法廷で裁けない。それを知っているから、どこまでも強気でいる。韓国の殺人鬼というのは、アメリカやロシアの大量連続殺人犯に負けず劣らずの異常者で、日本ではちょっと見られないタイプである。キム・ソンギュという役者の狂いっぷりには感銘を受けた。

 

何をどうやってもハッピーエンドにはならないストーリー展開だが、一つ言えることは、一度歩むと決めた道なら死ぬまでその道を歩き続けなければならないということか。法が裁けぬ悪ならば無法者が裁いてくれようというプロットは爽快であり痛快である。勧善懲悪に飽きたという向きは是非とも劇場へ。

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ネガティブ・サイド

アクションとアクションのつなぎ目が少々粗いシーンがある。具体的には中盤のドンスとチョン刑事が、刺客集団を撃退するシーン。『 オールド・ボーイ 』の廊下での大立ち回りを再現せよ、とまでは思わないが、もっと一連の格闘アクションの一つ一つを編集で連続したものに見せるのではなく、実際にひとつの連続したアクションとして撮影できなかったか。

 

警察の捜査を描く過程が少々ずさんだ。例えば殺人鬼が飲食をしたと思われる店のゴミである焼酎の瓶を選り分けるシーンは何だったのか。結局、目当ての瓶は見つかり、そこから唾液は採取できたのか、できなかったのか。また若手連中に犯人のクルマを鑑識させるが、ハンドルカバーに残った血痕を見つけるのに、そこまで時間がかかるか?犯人が手で触れているはずの箇所なのだから、真っ先に調べると思うが。それに途中でドンスの策謀で、犯人の遺留品を使って敵対するヤクザの組長をヒットマンに暗殺させるが、これまでの殺人鬼の殺しの手口と全く異なるのに、道具だけで同一犯と断定するのは少々性急に過ぎはしないか。韓国映画では警察はしばしば無能の極みに描かれるが、ここまで無能ではないはずだ。

 

そろそろ終わりかという終盤での展開が少し中だるみする。最後の刑務所うんぬんのくだりはバッサリとカットして、ビジュアルで説明すればそれで事足りたはずだ。また最後のマ・ドンソクの台詞も蛇足だったと感じた。

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総評

マ・ドンソクのマ・ドンソクによるマ・ドンソクのための映画である。北野武の往事は、「バカヤローッ!」、「この野郎!」と凄みながら相手を殴っていたが、それをマブリーの腕力でやると何かが違う。コメディの度合いと同時に恐怖の度合いも上がるという、なんとも不思議な現象が起きる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ヒョンニム

あちらのヤクザの世界は親子ではなく兄弟関係になるらしい。下の者は上の者をヒョンニム=兄様と呼ぶ。ヒョン=兄、ニム=様である。ただ実際は兄貴ぐらいの意味合いでも使われる。吉本でも同門の若手は先輩をしばしば兄貴や兄さんと呼ぶ。『 トガニ 幼き瞳の告発 』で校長の双子の弟が兄を「ヒョン」と呼んだところ、「学校ではそう呼ぶな」とたしなめられていた。他には、『 パラサイト 半地下の家族 』のポン・ジュノ監督がアカデミー賞監督賞の受賞スピーチでタランティーノを指して「クエンティン・ヒョンニム」と言っていたのが印象的だ。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, キム・ソンギュ, キム・ムヨル, クライムドラマ, マ・ドンソク, 監督:イ・ウォンテ, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 悪人伝 』 -The Gangster, The Cop and The Devil-

『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

Posted on 2020年7月14日 by cool-jupiter

MOTHER マザー 70点
2020年7月11日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:長澤まさみ 奥平大兼 阿部サダヲ 夏帆
監督:大森立嗣

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3歳娘を自宅に放置して脱水、そして餓死に至らしめたとして母親が逮捕される事件が世間を賑わせている。個人的にはどうでもいいことだ。そんな母親はどこの国や地域にも、いつの時代にもいる。そして、それは父親であっても祖父母であっても、血縁のある保護者であっても血縁のない保護者でも同じこと。にもかかわらず、なぜ我々は母親という存在に殊更に「子を愛せ」と命じるのか。本作を鑑賞して、個人的に何となくその答えを得たような気がしている。

 

あらすじ

秋子(長澤まさみ)は仕事も続かず、男にもだらしのないシングルマザー。息子の周平を虐待的に溺愛しながら、周囲に金を無心して生きている。そんな時に、秋子はとあるホストとの出会いから家を空けて・・・

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ポジティブ・サイド

長澤まさみのこれまでのイメージをことごとく破壊するような強烈な役柄である。年齢的に少々厳しい(若すぎる)のではないかというのは杞憂だった。日本の女優というのは、キャンキャンと甲高い声を出すことはできても、怒鳴り声の迫力はイマイチというのが定例だったが、長澤まさみはその面でも非常にドスの利いた声を出せていた。また、息子の横っ面をまさにひっぱたく場面があるが、これがロングのワンカットの一部。自身の顔のしわを気にしながら、口答えする息子に一発お見舞いし、また何事もなかったかのようにコンパクトを覗き込みながら顔のしわを気にする様子には震えてしまった。

 

全編にわたってロングのワンカットが多用されており、それが目撃者としての自分=観客にもその場の展開への没入感を高めている。冒頭の秋子の家族の大ゲンカや、阿部サダヲとのラブホの一室での取っ組み合いの大ゲンカなどはその好例である。物を投げたり、あるいはベッドシーツが乱れたりするので、テイクを重ねるのはなかなかに大変だっただろう。一発勝負で撮ったにせよ、複数回のテイクから良いものを選んだにせよ、こうした絵作りに妥協しない姿勢は高く評価されてしかるべきだ。昨今の邦画の演技力の低下を見ると、尚のことそう感じる。

 

周平役の奥平大兼の演技もなかなか良かった。自分で考えたのか、それとも監督の演出・演技指導なのか、まともな教育やしつけを受けてこないままに大きくなったという感じがありありと出ていた。その最も印象的なシーンは、夏帆演じる市役所職員に喫茶店に連れていかれるシーン。周平の箸の持ち方がめちゃくちゃなのである。幼稚園児の頃から、箸の持ち方を誰にも教わってこなかったことが容易に察せられる。事実、小児の周平がカップラーメンもお湯でもどさず、固い乾麺のままバリボリと手で持って食べるシーンが序盤にある。青年期と小児期の周平はあまり似ていないのだが、それでも同一人物なのだということが、この橋の持ち方ひとつで強く印象付けられた。

 

本作は鑑賞する人間の多くを不快にさせる。それは徹頭徹尾、秋子を救いのない人物として描いているからだ。だがそれ以上に、我々が無意識のうちに抱く「母」という存在のイメージ、もっと言えば固定観念が本作によって揺さぶられるのも、不快感の理由に挙げられはしないだろうか。これが例えば父親なら『 幼な子われらに生まれ 』のクドカンのようなキャラなら、「まあ、そういうクズはたまに見るかな」ぐらいの感覚を抱かないだろうか。育メンなる言葉が生まれ、一時期はもてはやされたが、「育メンと呼ぶな、父親と呼べ」という強烈かつ当たり前すぎるツッコミによって、この新語はあっさりと消えていった。対照的に母にまつわる言葉や概念のあれやこれやには、「母性」、「母性愛」、「聖母」、「慈母」、「母は強し」、「母なる大地」、「母なる海」、「母なる星」、「母なる故郷」など、往々にして愛、包容力、受容、癒し、庇護などのイメージと不可分である。それが高じると「母源病」などという、非科学的かつ差別的な言葉や概念が生まれる。だが、そうした母に対する迫害的な意識は我々には希薄なようだ。今でも書店に行けば、子育てや受験、果ては就職や結婚に至るまで、この人生の節目における成功と失敗の多くを、母親の功績あるいは責任であると説く書物は山と存在する。それは我々が母親に愛されたいという願望を隠しきれていないからだろう。ちょっとしたボクシングファンならば、本作を観て亀田親子をすぐに思い浮かべたはずだ。亀田三兄弟の母親がパチンコ屋でインタビューを受けながら「自分の子のボクシングの試合は見ない」と答えていた番組を見たことのある人もいるだろう。ちょっとリサーチすればわかることだが、亀田三兄弟の母も秋子ほどではないが、母親失格(という表現を敢えて使う)の部類の人間である。だが、そんな母に対しても長男・興毅は「お母さん、俺を産んでくれてありがとう」と疑惑のリング上で吠えた。はたから見れば、自分を愛してくれない育ててくれない母親に、である。また次男・大毅は内藤大助戦で父親に反則を教唆され、それを忠実に実行した。のみならず、マスコミからの「父親からの指示ですか?」という質問に対して「違います、僕の指示です」という珍回答を行った。どこからどう見ても真っ黒な父を、それでも健気にかばったのである。秋子と周平の関係を歪だと断じるのはたやすい。だが、そんな親子関係はありえない、極めてまれなケースだと主張するのは、実は難しい。『 万引き家族 』によって揺さぶられた日本の家族関係・親子関係は、本作によってもう一段下のレベルで揺さぶられている。このメッセージをどう受け取るのかは個々人による。だが、受け取らないという選択肢はないと個人的には思っている。多くの人によって見られるべき作品である。

 

ネガティブ・サイド

長澤まさみは確かに体を張ったが、いくつかのラブシーン(?)には、はなはだ疑問が残る演出がされている。たとえばラブホテルの一室での仲野大賀との絡み。ベッドの上でゴロンゴロンしているだけで、長澤まさみが上を脱ぐのを嫌がったのだろうか。大森監督は『 光 』で橋本マナミを脱がせた(とはいっても、乳首は完全防御だったが)実績があるので、期待していたが・・・ いや、長澤の裸が見たいのではなく、迫真の演技が見たいのである。『 モテキ 』では谷間を見せて、胸も一応軽く触らせていたのだから、それ以上の演出があってもよかったはずだ。やっぱり長澤まさみの裸が見たいだけなのか・・・

 

真面目に論評すると、『 “隠れビッチ”やってました 』の主人公ひろみと同じく、本当にアブナイ男、それこそ『 チェイサー 』の犯人のような男に出会わなかったのは何故なのか。その男癖の悪さから、本当にやばい相手だけは見抜ける眼力、もしくは女の勘のような描写が一瞬だけでも欲しかった。

 

メイクにリアリティがなかった。あんな生活でこんな肌や髪の質は保てないだろうというシーンがいくつもあった。このあたりは取材やリサーチの不足、もしくはメイクアップアーティストの意識の欠如か。最終的には監督の責任だが。

 

これは個人差があるだろうが、BGMが映像や物語と合っていない。特にクライマックス前の神社のシーンのBGMはノイズに感じられた。全体的に音楽や効果音が使われていないため、余計にそう感じられた。ただし、このあたりの感性は個人差が大きい。

 

少々残念だったのは、ラストか。以下、白字。呆然自失の長澤まさみを映し続けるが、その表情が崩れる瞬間を見たかった。それも、泣き出すのか、それとも笑い出すのか、その判別がつかない一瞬を捉えて暗転、エンドロールへ・・・という演出は模索できなかったか。『 殺人の追憶 』のラストのソン・ガンホの負の感情がないまぜになった表情。『 ゴールド/金塊の行方 』のラストのマシュー・マコノヒーの意味深な笑顔。こうした表情を長澤まさみから引き出してほしかった。

 

総評

こうした映画はテアトル梅田やシネ・リーブル梅田のようなミニシアターで公開されるものだった。だが、長澤まさみという当代随一の女優を起用することで全国的に公開されるに至った。多少の弱点がある作品ではあるが、それを上回るパワーとメッセージを持っている。母の愛、母への愛。自分と母との距離を見つめなおす契機にもなる作品だろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

bring up

「育てる」の意。直訳すれば「持ち上げる」となるように、小さな子どもの背丈がぐんぐん伸びる手伝いをしてやるイメージで、「体が大きくなるまで育てる」のような意味である。名詞のupbringingには「養育」、「生い立ち」、「しつけ」のような意味があり、やはり幼少から成人に至る時期ぐらいまでを指して使われることが多い。劇中で秋子が叫ぶ「私が育てたんだよ!」は、“I brought him up!”となるだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 夏帆, 奥平大兼, 日本, 監督:大森立嗣, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズ, 長澤まさみ, 阿部サダヲLeave a Comment on 『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

『 三大怪獣グルメ 』 -ミシュランの格付けでマイナス二つ星-

Posted on 2020年7月4日2021年1月21日 by cool-jupiter

三大怪獣グルメ 30点
2020年7月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:植田圭輔
監督:河崎実

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シネ・リーブル梅田でパンフレットを見た瞬間に「間違いなくクソ映画だ!」と直感した。『 哭声 コクソン 』でグチャグチャにかき回された脳みそを回復させるためには、脳みそを使わず、ただ1時間半暗転した劇場の椅子に座っている時間が有効だろうと素人の民間療法を実施。案の定のクソ映画だったが、別の意味で脳の活性化に役立ったと思う。

 

あらすじ

寿司屋の息子、田沼雄太(植田圭輔)は神社に奉納するイカ、タコ、カニの配達中にそれらを紛失してしまう。同時に東京にイカ、タコの巨大怪獣が出現してしまう。イカラ、タッコラと命名された怪獣を倒すべく、SMATが結成され、元・超理化学研究所員だった田沼も参加を要請されるのだが・・・

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ポジティブ・サイド

『 シン・ゴジラ 』は紛れもない傑作だったが、着ぐるみ+スーツアクターという伝統的な怪獣映画の文法に則っていないところが寂しいところでもあった。こちらの怪獣は紛れもなく日本の怪獣映画・特撮映画の伝統を重んじたオーガニックな手法で作り出されている。チープと呼ばば呼べ。一定以上の年齢の者は、本作によって少年時代のウルトラマンや何やかんやの特撮ヒーローものの記憶が呼び起こされるだろう。それは郷愁である。在りし日の思い出である。思い出は美化されているのである。

 

怪獣に食べられるではなく、“怪獣を食べる”という本作のコンセプトもなかなかに新しい。東宝怪獣のマンダやエビラを「あいつら、ひょっとしたら食べられるかも?」と思った少年少女は一定数いたと思われる。けれども、そのアイデアを作品の肝にしてしまおうという試みはほとんどなかったのではないか。小ネタとして思いつくのは漫画『 ドラゴンボール 』でヤジロベーがピッコロ大魔王の手下を食べてしまうことぐらいか。

 

そうそう、政権与党の権力者を思いっきりパロってコケにするシーンがいくつかあるが、ここはちょっと笑ってしまった。新型コロナ対策を見て分かるように、我が国の政府は恐ろしいほど無能であるという事実が白日の下に晒されてしまった。そのことを下敷きに本作を観れば、『 シン・ゴジラ 』のキャッチコピーである 現実 対 虚構 の意味が鮮やかに反転する。怪獣というのは災害の謂いであり、それをどう乗り越えるか、どう災い転じて福となすのか。そうした視点で見るといっそう興味深くなる。

 

ネガティブ・サイド

脚本が悪い。ストーリーが悪いというのではなく、何もかもが第一稿という段階で撮影に入ってしまっているのではないか。言葉の誤用などの構成のミスも目立つし、プロットの一貫性にも欠けている。たとえばSMATが使用する主兵装に酢砲という馬鹿馬鹿しいにもほどがある武器がある。それは良い。怪獣と言う存在がそもそも馬鹿馬鹿しいのだ。問題は、一万キロリットルの酢をタンクローリーに積載して、怪獣めがけて撃つという設定だ。キロリットル=1,000リットル、1万キロリットル=10,000,000リットルである。水で考えれば、その重さは10,000,000キログラム、トンに換算すれば1万トンとなる。酢も同じに考えてよいだろう。1万トンをタンクローリーで運ぼうとすれば、それこそ『 シン・ゴジラ 』のヤシオリ作戦並みの物量と機動力が必要となる。だが、実際にはジープ2台が出動とはこれいかに。

 

また主人公のライバル敵キャラが酢法の知的所有権が自分に帰属することを高らかに主張するが、政府管轄のSMATに参加しながらそれを主張するのは無理がある。また兵器は特許として出願されうるとは思うが、酢という食品を使用している点が微妙である。というよりも、料理法に着想を得たと自信満々に語っているが、これでは偶然に着想を得たとは言えない。つまり特許庁は特許を認めない可能性が極めて高いだろう。

 

プロット上の矛盾としては、SMATに正式加入していない、というか高らかに不参加を宣言した田沼がイカラやタッコラを試食するところが、まずおかしい。料理人は退院だけに振る舞ったとテレビで断言していたではないか。またSMAT隊長のナレーションで、国立競技場に追い詰めたはずが「大自然が生み出した怪獣が、予想もしない行動に出た」と語るが、三大怪獣はそもそも大自然が生み出したものではなく人間の作ったゼタップZが生み出したもの。そのセタップZも「細胞の核融合を起こす」と説明しながら、実際は細胞分裂を促進するだけ。空想科学研究所の柳田理科雄に言わせれば、全身が癌化してすぐに死亡すると断言されそうだ。また、「予想もしない行動に出た」のは怪獣ではなく人間だった。

 

ことほど左様に本作の脚本は言葉とプロットの面で稚拙である。まさに初稿のまま一切の推敲や校正を経ず、そのまま採用されたかのようである。とてもここには書ききれないが、細かな言葉のミスやプロット上の矛盾は他にも数限りなくある。怪獣の寸法が場面ごとに全然違うなどというのはその最たるものである。怪獣という巨大な虚構を成立させるためには、細かな部分のリアリティこそが肝である。イカラの肝の塩辛はきっと絶品に違いない。

 

キャラクター同士のロマンス要素もノイズだ。そもそもヒロイン役のアイドルの演技力が絶望的に低い。学芸会レベルである。そして頭も悪い。「アワビ、フォアグラ、フカヒレを巨大化させて、世界の食糧事情を改善させる」というアイデアに目を輝かせるが、ちょっと待て。アワビはまだしもフォアグラやフカヒレは生物の体の一部であって生物そのものではない。こいつは水族館では魚の切り身が泳いでいると錯覚するタイプなのか。そして完璧なシチュエーションにもかかわらず告白できない幼馴染の田沼に、それでも愛想をつかさないというキープ癖。あそこで告れない男に冷めない女子というのは、脚本家や監督の願望の投影なのだろうか。キモチワルイ。

 

序盤の何気ない会話があまりにもあからさまな伏線であることに失笑を禁じ得ない。これではまるでクライマックスの展開を読んでくださいと言っているようなものではないか。いくらなんでも、もう少し工夫した見せ方をすべきである。

 

他にも撮影や大道具小道具美術衣装に言いたいことは山ほどあるが、割愛させてもらう。本当は20点だと思っているが、怪獣ジャンルということで10点オマケしておく。

 

総評

期間限定上映である。行くなら今である。さあ、本作を観て、一週間以内に海鮮丼を食べよう。そしてきれいさっぱり本作を記憶から消してしまおうではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

in a state of emergency

主人公・田沼の「今が緊急事態宣言中ってこと、忘れてるんじゃないの?」というセリフがある意味でとても生々しい。Japan is in a state of emergency. = 日本は緊急事態にある。今年になって最も使われるようになった言葉であり、残念ながら今後も使われるかもしれない言葉である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, 怪獣映画, 日本, 植田圭輔, 監督:河崎実, 配給会社:パル企画Leave a Comment on 『 三大怪獣グルメ 』 -ミシュランの格付けでマイナス二つ星-

『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

Posted on 2020年6月23日2021年2月23日 by cool-jupiter

暗数殺人 75点
2020年6月21日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:キム・ユンソク チュ・ジフン チン・ソンギュ
監督:キム・テギュン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200623132521j:plain
 

心斎橋シネマートで予告編を観た時から気になっていた。これはタイトルの勝利である。暗数という聞き慣れない言葉それ自体が強烈なインパクトを持って我々に迫って来る。そして本編も実に強烈なサスペンスであった。

 

あらすじ

刑事キム・ヒョンミン(キム・ユンソク)は恋人殺しの容疑をかけられたカン・テオ(チュ・ジフン)から、「全部で7人殺した」という告白を受ける。テオが死体を埋めたと供述した場所を掘ってみると確かに白骨死体が発見された。だが、テオは突如、「自分は死体を運んだだけだ」と供述を翻して・・・
 

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ポジティブ・サイド

まずはカン・テオという殺人者を演じたチュ・ジフンの迫真の演技に満腔の敬意を表したい。ADHDなのかと思わせるほどの落ち着きのなさの中に、冷酷冷徹な計算が働いている。テオという男は警察や検察がどういう論理で動き、どういう論理では動かないのかを熟知している。人を食ったような態度はその余裕の表れである。同時に、警察や刑事の個人的な心情や信条を巧みに利用する。狡知に長けたサイコパスで、「他人の命はゴキブリと同じ。けど俺の命は違う」という酒鬼薔薇聖斗のような二重倫理の持ち主である。また『 チェイサー 』の殺人鬼ヨンミンが語っていたように、血抜きに言及するところ、死体の重さを生々しく語るところに、韓国映画と邦画の決定的な差を思い知らされるようだった。銀幕の世界の殺人者をどこか神秘的な存在に描いてしまいがちな邦画と、文字通りの意味で血肉の通った人間として描く韓国映画の違いである。命が鴻毛よりも軽く、理不尽な理由であっさりと奪われる。その背景には、お定まりの悲惨な過去があり、うっかり同情させられそうになる。

 

対するキム・ユンソクの刑事役は、警察という「組織でこそ力を発揮できる組織」の一員にはとても馴染まない男である。検挙数や起訴数がそのまま手柄になり昇進に直結するとなれば、誰も暗数殺人などに興味は示さないだろう。では何故、キム・ヒョンミン刑事はテオの供述する暗数殺人に殊更に執着するのか。明確には語られないが、そこには死別した妻に対する愛情が感じられた。悪気はなく、むしろ善意から「結婚はしないのか?」と声をかけてくる同僚警察。だがヒョンミンにそのつもりはない。詳しい説明はなされないが、彼は妻を忘れていないし、忘れるつもりもない。だが、周囲は自分の妻がまるで最初から存在していなかったかのように扱う。そのギャップが刑事ヒョンミンの静かな原動力になっているかのような描写には唸らされた。最後に彼が語る刑事としての捜査の哲学は、韓国社会全体に向けたキム・テギュン監督のメッセージなのだろう。

 

本作のキーワードの一つに「再開発」というものがある。村落の墓地の再開発、アーバンスプロールによって無秩序になってしまった地域の再開発。そうした社会の姿勢は否定されるべきものではない。『 パラサイト 半地下の家族 』で注目されたエリアは再開発と保存の間で揺れていると報道された。開発は、それがsustainableなものである限り、許容されるべきとは思う。一方で、開発されることによってその痕跡を消し去られてしまう者も確実に存在する。

 

『 トガニ 幼き瞳の告発 』のように、韓国映画は実在の事件から着想を得るのが得意なようである。それはつまり、社会を揺るがすような事件は風化させてはならないという韓国映画人の気概の表れなのだろう。本作も同様である。少し異なるのは、大きなスポットライトを浴びた事件ではなく、そもそも日の目を見なかった事件の深淵に光を当てようという試みであることだ。これは現代日本にとっても関連が無いこととは言えない。COVID-19がどこか他人事のように扱われていた2020年2月~3月であったが、志村けんや岡江久美子といった「名前のある」人物が相次いで死亡したことで、国民全体に危機意識が急激に高まった。逆に言えば、名前のない人間が死亡しても、特に誰も気にしないということである。そして名前とは認知・認識の最たる道具である。余談だが、この「名前」というものに意識を持ちながら本作を観ると、名優キム・ユンソク演じる刑事キム・ヒョンミンにある瞬間に同化することができる。

 

認識されない。それは取りも直さず、その人間がいなくなったとしても社会が回っていくということである。だが、個人のレベルではどうか。御巣鷹山への日航機墜落事故、尼崎の福知山線脱線事故など、被害者の遺族の多くが望むのは「事故を風化させないこと」である。事件の被害者も同じだ。忘却しないこと。あなたという人間が存在したこと、その痕跡を消さないこと。それは推し進めるべきは分断ではなく連帯だという強力なメッセージであると思えてならない。

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ネガティブ・サイド

中盤にヒョンミンが失態を犯して、刑事から交番勤務の警察官に降格および左遷させられるが、ヒョンミンは気にすることなく捜査を継続する。果たしてそんなことは可能なのだろうか?交番勤務でも警察のデータベースにはアクセス可能だが、足を使った捜査は無理だろうし、何より上司に報告の義務があるだろう。それとも韓国の交番勤務の警察官は日本とはまったく違う仕組みで働けるのだろうか。エンドクレジット前の字幕で、キム・ヒョンミン(仮名)は2018年時点でも刑事として捜査継続中とされるが、こうした降格・左遷劇は脚色なのか。だとすれば少々やり過ぎである。

 

『 エクストリーム・ジョブ 』でブレイクを果たしたチン・ソンギュの活躍が少ない。コミカルな役から大悪人まで演じ分けられる遅咲きの役者だが、見せ場がいかんせん少ない。目立たないバディで終わってしまったのが残念である。

 

総評

韓国映画らしい骨太のメッセージと、娯楽映画として申し分のないサスペンスに満ちた良作である。社会の暗部から決して目をそらさないというあちらの映画人の哲学や思想信条を感じる。静のキム・ユンソクと動のチュ・ジフンの演技対決も見応えがある。映画館に足を運ぶ価値がある一作である。 

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

ソンベ

先輩の意味である。先=ソン、輩=べ。『 建築学概論 』でも聞こえてきていたように思う。日本語も韓国語も結構な部分を中国語に負っていることは否めない。上下関係に厳しい韓国社会にも日本語と同じように「先輩」が存在する。階級社会の警察なら、辞めても関係は残る、または続くのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, キム・ユンソク, サスペンス, チュ・ジフン, チン・ソンギュ, 監督:キム・テギュン, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

Posted on 2020年6月22日2021年1月21日 by cool-jupiter
『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

水曜日が消えた 30点
2020年6月20日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:中村倫也 石橋菜津美 深川麻衣
監督:吉野耕平

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多重人格ものと記憶喪失もの、そしてタイムトラベルあるいはタイムパラドックスものは、たいてい始まりは抜群に面白い。その面白さをいかに維持するか、それが共通のテーマとなるが、それに成功した作品はごく少数である。本作はどうか。Fizzle outした。

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あらすじ

幼い頃の交通事故の影響で“僕”(中村倫也)は曜日ごとに異なる人格に入れ替わるようになってしまった。成長し、各人各様に生きるようになった“僕”だが、その中でも火曜日は掃除やゴミ捨てなど損な役回りを押し付けられていた。だが、ある日、目覚めてみると、水曜日だった。“水曜日”が消えて、“火曜日”が火曜と水曜を生きるようになったのだ。火曜日はいなくなった“水曜日”を不審に思いながらも、水曜日の生活を堪能するのだが・・・ 

ポジティブ・サイド

“火曜日”と深川麻衣とのロマンティックな関係が、平凡ながらも幸せの意味を実感させる良いシークエンスだった。テレビドラマ『 まだ結婚できない男 』でなかなか売れない芸能人役がハマっていたように、元がアイドルとは思えない地味さが深川麻衣の魅力だ。褒めている。決してけなしてなどいない。実際に本人を目の前にしたとすれば、相当にキュートであろう。しかし、スクリーンで見ると地味なのだ。そのギャップが良いのである。

 

“僕”の友人を演じた石橋菜津美もなかなかに奥ゆかしい。ベリーショートで、体の曲線をまったく感じさせない服装で、言動もかなりの男前。その一方で、そうした態度はすべて“僕”への好意の裏返しであることがバレバレというとても分かりやすいキャラ。そんな人物が「じゃあ、深夜らしいことするか」というシーンは、「お?お色気シーンがあるのか?」と期待させてくれた。もちろん、そんなものはない。『 月極オトコトモダチ 』はやはりファンタジーだ。そういったサバサバ系女子の因果は、ちゃんと後半に明らかにされるし、そこにはそれなりの説得力がある。

 

“火曜日”が別の人格とコミュニケーションを取るシーンの演出はそれなりに斬新か。どこか初代『 グレムリン 』を思わせる深夜のルールも、序盤から中盤のサスペンスを効果的に盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド

なんというか、プロットだけ見れば『 セブン・シスターズ 』と『 ジョナサン -ふたつの顔の男-   』を足して2で割ったようなストーリーである。つまり、オリジナリティが無い。他に類似作品としては新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』の某キャラや漫画『 嘘喰い 』の某キャラなどが挙げられる。とにかくキャラクター設定が陳腐だ。

 

また多重人格ものの定石として、物語の割と早い段階でそれぞれの人格がいかに異なり、独立したものであるのかをオーディエンスに明確に示す必要がある。観客の一定数は役者の演技力を堪能したいがために鑑賞しているからだ。そうした意味でも、本作の構成には不満が残る。『 スプリット 』のジェームズ・マカヴォイのレベルは別に求めない(そんなことができる役者は世界的にも40~50人しかいないと思われる)。しかし中村倫也の一人七役というのは過剰広告であった。実質的には一人二役で、それも正反対のキャラクター。こういうのは非常に演じ分けやすく、はっきり言って役者のポテンシャルをとことんまで引き出す演出にはなりにくい。スマホの録画機能で対話するシーンは現代的だが、それも『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』が似たようなことを先に行っている。スマホと対話するのではなく、スマホで録画するシーンを交互に映し出せなかったか。あるいは、スマホを右手に構えながらシームレスに人格同士が語り合うシーンは撮れなかったか。そこまでやらないのなら多重人格ものを撮る意味は薄い。

 

映像演出の面でも不満が残る。割れたサイドミラーに映る鳥が分裂していくのは、どう考えても『 スプリット 』のジャケットやポスターの二番煎じだし、そもそもそのシーンを繰り返し再生しすぎである。またキーとなる図書館が『 図書館戦争 』 のそれ。もっと別の図書館を探せなかったのか。同じ図書館を使うにしても、上方からの俯瞰のショットや、円周部分の書棚など、『 図書館戦争 』で飽きるほど見た構図である。もっと別の角度からのショットを監督や撮影監督は模索すべきでなかったか。

 

腑に落ちないのは、“火曜日”の態度。普通は“水曜日”が消えたら、第一に「自分も消えてしまうのではないか」という恐怖、第二に「他にも消えている曜日がいるのではないか」という疑念を抱くはずである。そうはならずに、いきなり未知の水曜日を楽しんでしまうところに、とんでもないご都合主義およびDIDへの無知と無理解を感じた。『 スプリット 』のカウンセリングシーンや『 ISOLA 多重人格少女 』を観ろ、そして原作小説『 十三番目の人格 ISOLA 』を読めと吉野耕平監督に強く言いたい。『 セブン・シスターズ 』も“月曜日”が姿をくらませたことで残りの曜日たちは大混乱に陥ったではないか(あちらは七つ子だが)。普通に考えれば10年単位で付き合いのある人間がいなくなれば困惑するだろう。あるいは、“水曜日”が水曜日を拒否したくなるような出来事があったのかと、水曜日に警戒することはあっても、ウキウキはしないだろう。七重人格という設定だけを先走らせて、人間というものが描けていない。

 

“僕”の面倒を看るべき医療関係者たちの目も節穴なのだろうか。脳への器質的なダメージでDIDを発症した、あるいは器質的なダメージの回復過程でDIDを発症したということは、“各曜日”との面談(カウンセリング)とメディカル・チェックが人格の独立あるいは統合という、いわゆる治療への道筋を立てるための大きなカギとなる。それを火曜日に“火曜日”相手にしか行っていない。アホなのだろうか。脚本および監督を務めた吉野耕平は、どこまで取材し、どこまで考察し、どこまで七重人格へリアリティを付与しようと努力したのか。おそらく満足にしていない。様々な先行作品の色々な要素をつまみ食いしただけの企画に予算とゴーサインを出した配給会社と制作委員会の罪である。ということは邦画という産業構造の罪でもある。勘弁してくれ。

 

メインキャスト以外の演技が総じて学芸会レベルである。特にきたろうと若い医者。これで出演料を受け取っていいと感じているのか。監督も何テイク撮ったのか。編集にどこまで関わったのか。どこまで現場で演出や演技指導をしたのか。せっかく昨今珍しい小説や漫画原作ではない邦画だというのに、この出来はあまりにも無残であり残念である。

 

総評

邦画のダメなところが凝縮されたような作品である。映画館が徐々に日常(withコロナだが)を取り戻しつつある中、割と楽しい気分で劇場に向かったのだが。これがTOHOシネマズ梅田のScreen 1というスクリーンの大きさと画質、そして音質に優れた劇場でなければ、もうマイナス5点したい。それぐらいの酷い出来である。某映画サイトなどで好評レビューが多いが、サクラだと思いたい。そうでなかれば映画ファンの劣化も甚だしい。というのはさすが言い過ぎか。はっきり言って中村倫也のファンでなければ、観る価値は極小である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get along

劇中で火曜日の言う「僕たち、仲良いんだよ」を英語にすれば、“We get along.”となるだろうか。A and B get along. = AとBは仲良くやっている、We get along = 僕たちは仲良くやっている、である。一定以上の世代の人間ならば“We can get along together.”と言えば通じるだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, ミステリ, 中村倫也, 日本, 深川麻衣, 監督:吉野耕平, 石橋菜津美, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

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