Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: 日本

『パンク侍、斬られて候』 ―実験的な意欲作と見るか、製作者の自慰行為と見るか―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

パンク侍、斬られて候 30点

2018年7月1日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:綾野剛 北川景子 東出昌大 染谷将太 浅野忠信 國村隼 豊川悦司
監督:石井岳龍
脚本:宮藤官九郎

まず30点というのは、Jovianの個人的感覚であって、この点数が他のサイトやレビュワーさんの点数よりも正確であるとは思わない。また観る者全員が傑作もしくは駄作であると一致した意見を見る作品は比較的少ないはずだ。Roger Ebertのようなプロの映画評論家の意見であっても、必ずしも賛成する必要は無い。自分の感性を信じるとともに、他者の感性も尊重すべきだ。現に映画館では、Jovianの嫁とその右隣のお客さん、さらには右側少し下のお客さんは映画のかなりの部分を熟睡していた。一方で、映画のちょっとしたギャグシーンで「クスッ」「ハハハ」「ワハハハ」というような声も聞こえてきた。彼ら彼女らはこの映画を楽しんだことだろう。重畳である。問題は、何故自分が楽しめなかったのか、というよりも、この映画のどのあたりが自分と波長が合わなかったのかを考えた方が建設的かもしれない。

まず、人によっては開始1分でずっこけるだろう。どうみても江戸時代で日本人にしか見えない綾野剛がルー大柴のようなカタカナ交じりの日本語を話す。それ自体は見る人によっては面白いのかもしれないが、リアリティを重視する自分としては全く面白くなかった。むしろ興醒めだった。また主要キャストに女性は北川景子しかいないのだが、そのせいでその登場シーンの印象が薄れるというか、「いや、このタイミングでこの登場の仕方をするってことは、冒頭のあのキャラが北川景子で決定やないか」と、キャスティングそのものがプロットをばらしてしまっているも同然なのだ。脚本のクドカンは何をやっているのか。

もちろん評価すべき点もある。家老として対立関係にある國村隼と豊川悦司は邪悪な笑みでその演技力の高さを見せつけるし、北川景子も無表情に清楚に踊る。反対にクスリでもやっているんじゃないのかというトリッピーな目で踊る染谷将太は、エキセントリックな役を演じさせれば同世代のトップランナーの一人であることをあらためて証明した。『新宿スワンⅡ』で綾野剛と共演した浅野忠信は今回は肉体派の演技に加えて、イカれたメンタルの持ち主を違和感なく演じることができることを教えてくれた。役者の面々には褒めるところが非常に多いのだが、これが映画全体を通して見ると、エンターテインメント性を思ったよりも持っていないのだ。

それは細部への過剰なこだわりによるものであろう。観賞中にやたらと気に障ったのは、アクションに対して効果音を多用しすぎであるということ、その効果音もやたらと大きく、音そのものが前面に出しゃばっていることだ。またCGの多用も文字通り目についた。『不能犯』の松坂李桃の目を覗き込んだ時の視覚効果もそうだったが、あまりにカクカクした、あるいはきれいすぎる曲線や、人工的にしか見えないクリアに色分けされた領域など、製作者側が限られた予算でこんなビジュアル、あんなビジュアルを使いたいと張り切った結果が、面白さに反映されないのだ。

本当に、これは観る側と作る側の波長の問題で、あらゆる作品について認識の乖離は起こりうる。シネマティックな作品は必ずしもドラマティックではないのだ。それだけはどうしようもない。ただし、これだけは言わねばなるまい。

パンク侍、斬られずに候!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, コメディ, 北川景子, 日本, 監督:石井岳龍, 綾野剛, 配給会社:東映Leave a Comment on 『パンク侍、斬られて候』 ―実験的な意欲作と見るか、製作者の自慰行為と見るか―

『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 65点

2018年6月28日 梅田ブルク7にて観賞
出演:榮倉奈々 安田顕 大谷亮平 野々すみ花
監督:李闘士男

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180701023943j:plain

『 電車男 』と同じく、ネットの投稿が起源という珍しい作品である。しかし、数年後にはそれほど珍しくなくなっているのではないか、ということも予感させる。

最近の俳優や女優は誰もが若々しさをキープしているが、榮倉奈々もその一人である。しかし、それは若々しさであって若さではない。そのことは、ほんのちょっとした料理の時の仕草などにも表れていた。本人の結婚がキャリアに良い作用を及ぼしている好例である。そして、安田顕である。『HK 変態仮面』で、ある意味で鈴木亮平以上のインパクトを残した安田である。疲れを見せてはいるものの草臥れきってはいない中年サラリーマン役をこれ以上ないほど好演してくれた。サラリーマンなどという存在は、酒でも飲まなければ生き生きできないのだ。

家に帰って来ると、妻(加賀美ちえ)が死んだふりをしている。それがどんどんエスカレートする。仕舞いには死体ですらなく、宇宙人、猫、スフィンクスなど、なんでもござれである。夫(加賀美じゅん)はその真意を測りかね、会社の後輩の佐野壮馬(大谷亮平)に相談する。そうした日々が続いて行くなか、夫婦同士の付き合いが始まり、結婚という制度の本質、男女の理解について、理解と誤解が生じては消えて・・・

劇中でJovianに最も刺さったのは、課長の「お前はお見合い結婚じゃなくて恋愛結婚だろ?だったら、合わないなら別れりゃいいだろ」という言葉である。日本社会全体の未婚化・晩婚化の原因の一つに、お見合いの減退が挙げられるのは間違いない。お見合いとは、小説家にして在野の異端の歴史家、八切止夫に言わせれば「家格と家格の取り組み」であった。昭和の中期ごろまでは、地方に行けば、結婚の許可は両親・親族だけではなく、学校の恩師や勤め先の上司にまで相談や報告が必要だったというから、その濃密すぎる血縁関係、地縁関係、ゲマインシャフトとしての学校や会社の側面が知れよう。対照的に、確か日本文学史においても「恋愛?それは美男美女がやるもの」みたいな観念が支配的だったはずである。そもそも恋愛という語も、英語のloveを翻訳する必要に駆られて生み出されたものだった。このloveの概念をどう捉えるのか。同じシーンで課長が決定的に意味不明な台詞を吐くのだが、課長の謎の論理展開とloveの関連を、観ている最中によくよく咀嚼してみてほしい。

「優しい言葉は人を傷つける」、これが本作の打ち出しているテーマの一つである。何も珍しいことはない。人間関係においては、自分の意図しないところで誰かが傷つき、誰かの意図しないところで自分が傷つくこともある。だから言葉が信用ならない、というわけではない。劇中でも安田顕と大谷亮平がそろって「口に出してくれなきゃ分からないよ」と言うが、これなどは典型的な日本の夫であろう。誤解しないでほしい。Jovianが言っているのは、日本の夫は共感力に欠けるということではない。言葉という論理で動くものではあるが、決してそれに縛られる存在ではないのだ。劇中のクライマックスで、かなりの数の男性視聴者が課長とちえの父の言葉を思い浮かべるであろう。

ちえが死んだふりを繰り返すのは何故か。そもそも何故、死んだふりなのか。この映画を観ながら、あちらこちらに死のモチーフが挿入されていることに驚かされる。しかし、それは不吉な事柄としての死ではなく、必然的な事象としての死である。Jovianは唐突に大昔プレーした『クロノ・トリガー』というゲームを思い出した。とあるキャラクターが「お前達 生きていない 死んでいないだけ」と言うのだ。次の瞬間には『ファイナルファンタジー9』でビビが「生きてるってこと証明できなければ死んでしまっているのと同じなのかなぁ…」と呟くシーンが、十数年ぶりに脳内再生されたような気がした。生きるとは何か。夫婦であるとは何か。愛とは何か。自分ひとりで観賞してじっくり考察するもよし、パートナーと共に観て、ディスカッションをするのも良いだろう。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 日本, 榮倉奈々, 監督:李闘士男, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』 ―独身はパートナーと、既婚者は配偶者と観るべし―

『わたしに××しなさい!』 -ポスターのようなシーンは無いから、スケベ視聴者は期待するな-

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

わたしに××しなさい! 50点

2018年6月24日 梅田ブルク7にて観賞
出演:玉城ティナ 小関裕太 佐藤寛太 山田杏奈 金子大地 佐藤寛太
監督:山本透 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180624213244j:plain

*以下、ネタバレに類する記述あり

まず、こんなポスターを作った配給会社の担当者および責任者は記者会見を開いて謝れ。景品表示法違反の疑いがある。というのは冗談だが、別に過激ミッションでも何でもない。単なるこじらせウェブ小説家女子高生(雪菜=玉城ティナ)が、自身の作品に恋愛要素を織り交ぜていくために、自分でも恋愛的な体験をしていくことで、作品の質も上がるだけではなく、当初予想もしていなかった自分自身の変化に戸惑いを感じ初めて・・・という、そこだけ見ればよくある話。むしろ、このストーリーを支えるのは、疑似恋愛の相手役である生徒会長(北見時雨=小関裕太)や、ウェブ小説のライバルである氷雨(=金子大地)、雪菜の従兄弟の霜月晶(=佐藤寛太)、さらには時雨の幼馴染の水野マミ(=山田杏奈)や小説の編集者(=オラキオ)などだ。

主人公は『 暗黒女子 』で輝けそうで輝けなかった玉城ティナ(清水富美加に光をかき消されたという印象)。『 あさひなぐ 』の西野七瀬もそうだったが、メガネが似合う女子というのは、一昔前に比べて確実に増えているらしい。それでもこのメガネ女子は、冒頭のクレジットシーンで見事なキャットウォークを披露して、独立不羈で我儘、甘えたい時に甘えて、無視する時は無視しますよ、というキャラクターであることを観る者に予感させてくれる。そして、その期待は裏切られない。

ウェブ小説が好評を博している雪菜は、編集者や読者からの要望もあり、恋愛要素を作品に取り入れようとする。しかし、空想するばかりで実体験の無い自分にはそれはできそうにない。そうか、それなら疑似恋愛体験をして、それを自作に盛り込めばよい、と考える。ここで候補として従兄弟の昌が浮上してくるが、雪菜はあっさりと拒絶。その代わりに、ひょんなことからダークサイドを秘めていた北見時雨の弱みを握り、ミッションと称して、手を握らせたり、ハグさせたりして、その心象風景を小説に取り入れていく。それにより、ライバル作家の氷雨に一歩リードするものの、時雨の幼馴染には何かを感づかれ・・・

というように、どこかで見たり聞いたりしたようなプロットのモンタージュ作品である。それによってある意味、安心して観賞もできるが、興奮させられたり驚かされたりすることも少ない作品である。したがって、観る側の興味は畢竟、役者の演技や作品の演出に移行していく。

まずは主演の玉城ティナ。何度でも言うが、メガネが似合う。そして定番中の定番、女友達がいない。これは安心して見ていられる。女の友情は一定年齢以上の男には共感できないところが多い(理屈である程度の理解はできるのだが、長々と大画面で見せつけられるのは正直キツイ。『 図書館戦争 』での柴崎と笠原の関係ぐらいが清々しくていい)。特徴的なのは容姿だけではない。話し方もだ。当り前だが、活字と発話は異なる。漫画や一部のライトノベルなどでおなじみの手法として、特徴的な語彙を多用する、または語尾を特定の形に統一する、などがある。雪菜の喋りは、この文法に映画的に正しく則っており、メガネ以外のもう一つの特徴としてキャラ立ちに大きく貢献しており、彼女の役者としての力量を見た気がする。

相手役の古関は『 覆面系ノイズ 』では学ランがパツパツで、高校生役はちょっと無理では?という印象を受けたが、ブレザーなら充分に通用する。また終盤では素の顔と仮面の顔を一瞬で入れ替えるシーンがあるが、こんな演技力あったっけ?とも思わされた。どこか坂口健太郎を思わせるルックスもあって、同じぐらいの活躍を期待したい。

その他、三白眼が印象的な佐藤寛太、武田玲奈とキャラもろ被りに思える山田杏奈、普通に出版社もしくは証券会社あたりにいそうな会社員役のオラキオなど、若手を中心に今後に期待を持てるキャストが集まっていた。だからこそ、もっとユニークなテーマを追求してほしかったと思う。「誰かを傷つけたくない」というのは恋愛(に限らず人間関係全般)において、美しいお題目ではあるが、ただ臆病であることを誤魔化したいからこその台詞。そんなことは誰もが分かっている。それを乗り越えるのが青春の、醍醐味であり、ある意味では終わりでもある。実験的なテーマの作品に、ポテンシャルを秘めた若手キャストで挑むからには、監督にも何らかのチャレンジが求められるが、エンディングのあのバレット・タイムは何とかならなかったのだろうか。他にもっと印象的な絵作りはできなかったのか。監督と自分の波長が合わなかっただけなのだが、最後の最後の着地で少しミスってしまった作品、そんな感想を抱いた。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 古関裕太, 日本, 玉城ティナ, 監督:山本透, 配給会社:ティ・ジョイLeave a Comment on 『わたしに××しなさい!』 -ポスターのようなシーンは無いから、スケベ視聴者は期待するな-

『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

Posted on 2018年6月24日2019年4月18日 by cool-jupiter

焼肉ドラゴン 75点

2018年6月23日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:キム・サンホ イ・ジョンウン 真木よう子 井上真央 桜庭ななみ 大泉洋
監督・原作・脚本:鄭義信

『 血と骨 』の脚本家が、監督・原作・脚本の全てを手掛けた本作は、限りなくダークでエログロな要素を持っていた『 血と骨 』とは異なり、どこかコミカルで、それでいて本気で頭に血が上るシーンあり、思わず涙があふれるシーンありの、期待以上の作品に仕上がっていた。

時は大阪万博(1970)直前、舞台は兵庫県伊丹市。おんぼろのあばら家が立ち並ぶ、行動経済成長が取り残されたその場所に彼らはいた。店主は韓国人の金田龍吉。龍の字をとって、いつの間にやら店の名は人呼んで焼肉ドラゴン。そのこじんまりとした焼肉屋を舞台に、小さな家族が慎ましやかに、けれど幸せに暮らしていく話・・・だと思って、劇場に行った人は混乱させられるであろう。これは時代に翻弄されながらも、時代に抗い、時代に折り合いをつけ、時代に飲み込まれながらも、確かに歴史に足跡を刻んだ家族の物語である。

父(キム・サンホ)、母(イ・ジョンウン)、長女の静花(真木よう子)、二女の梨花(井上真央)、三女の美花(桜庭ななみ)、末っ子の時生(大江晋平)、梨花の婚約者の哲男(大泉洋)らは、家族でありながらも実は血がつながっていたり、いなかったりのやや複雑な家族。このあたりはどこか『 万引き家族 』を彷彿とさせる。最初から違和感を覚えるシーンがいくつかある。哲男があまりにも慣れ慣れしく静花に接するシーンや、時生がまったく言葉を発しないところなど。しかし、そんな小さな違和感は脇に置き、物語はアホそのもの痴話喧嘩を交えながら陽気に進んでいく。龍吉が時生のいるトタン屋根の屋上で一緒に眺める夕陽は、沈んでいくもの、光を失うものの象徴でありながらも、必ずまた昇るもの、必ずまた光を与えてくれるものの象徴でもある。ここから物語は、家族のダークな一面を少しずつ掘り下げていくのだが、決して『血と骨』のようなバイオレントなものではない。むしろ、人間らしいというか、人間の最も根源的な本能から生まれてくる衝動のようなものにフォーカスをしていく。ある者にとってはそれは自己承認欲求かもしれない。ある者にとってはそれは認知的不協和かもしれない。ある者にとってはデストルドーであるかもしれない。

物語は適齢期3人娘たちが男とくっついてく過程を追いながら、つまり新たな家族を生み出していくための巣立ちを描きながらも、飛び立つことができなかった、いや、飛べないままに、飛行機の如く飛べると勘違いしてしまった若鳥も描く。時生が学校で受けるイジメは陰惨であり、過酷であり、残虐ですらある。こうした排除の論理と力学的構造は現代においても決して弱まってはいないと思う(ネトウヨ春のBAN祭りは、おそらく一過性のイベントとして記録および記憶されるのではなかろうか)。

それでも3人娘たちはそれぞれに自分にふさわしい男を見つける。それは決して美しい恋愛の末に勝ち取った相手ではなく、本当に本能的な、動物的なカップリングであるとしか名状できないようなものもある。そして、どんな映画であっても、このシーンではなぜか自分まで必ず緊張してしまう、父親との対面シーンが美香とその男にやってくる。ここで龍吉が語る言葉は訥々としていながらも万感胸に迫る圧倒的な説得力を有して観る者に訴えかけてくる。2018年の演技のハイライトを挙げるなら、安藤サクラとキム・サンホの二人は絶対に外せない、外してはならない。真木よう子、大泉洋、桜庭ななみ、イ・ジョンウンらの演技も堂に入ったもので、韓国ドラマ的スラップスティックコメディとなってもおかしくないシーンを、各役者が表情や声でしっかりと抑えつけていた。何という日韓のケミストリーか。個人的には今作の演技力ナンバーワンは期待も込めて大江晋平に送りたい。飛行機を睨め付ける表情とアアアーーーッッ!!という奇声からは、『 ディストラクション・ベイビーズ 』の柳楽優弥に匹敵する不気味な迫力を感じた。

それにしても印象的なワンショットの多い映画であった。特に飲み比べのシーンと龍吉の昔話のシーンは、真木とキムの表情やちょっとした仕草に注意を払って見てほしい。特に訳の分からないワンカットのロングショットを多用して『 ママレード・ボーイ 』という駄作を作ってしまった廣木隆一監督は本作から大いに学ばねばならない。

朝鮮戦争終結という歴史的なイベントを目の当たりにするかもしれない現代、そして日韓の間の歴史認識にこれ以上ないほど乖離が存在する現代にこそ、答えではなく真実(≠史実)を探すきっかけとして、多くの人に観てほしいと思える傑作である。

 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, キム・サンホ, ヒューマンドラマ, 大泉洋, 日本, 監督:鄭義信, 真木よう子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『焼肉ドラゴン』 -働いた、働いたお父さんとお母さんの生き様と、それを受け継ぐ子どもたち-

『図書館戦争 THE LAST MISSION』 -この恐るべき想像のパラレルワールドでいかに生きるか-

Posted on 2018年6月18日2020年2月13日 by cool-jupiter

図書館戦争 THE LAST MISSION 55点

2015年10月18日 大阪ステーションシネマおよびWOWOWにて観賞
出演:岡田准一 榮倉奈々 松坂桃李
監督:佐藤信介

*『図書館戦争』および本作に関するネタバレあり

 子どもたちのために有害図書を追放する。耳障りは確かに良い。だが、例えばごく最近の新幹線内での無差別殺傷事件の犯人が読んでいた本がハイデガーやドストエフスキーだったということに対して、識者からは特に何も聞こえてこない、少なくとも宮崎勤事件の時のような欺瞞と偏見に満ちたようなコメントは。

前作が追求したテーマが思想の対立であったとすれば、今作が追求するテーマは対立を解消するために思想を捨てられるか、ということだ。言い換えれば、命と信念、どちらをより大切に感じるのかということでもある。3秒以内にどちらかを選べ、と言われればたいていの人は「命」を選ぶのではないか。だが、ちょっと待て。人類の歴史、なかんずく戦争という視点から見れば、人間は命よりも大切なものをずいぶんとたくさん見出してきたようである。「命より大切なものがあるというのが戦争を始める口実で、命より大切なものは無いというのが戦争を終える口実」というのは誰の言葉だったか。けだし本質を突いた言葉であろう。本作で図書隊タスクフォースの面々は、本を読む自由、思想の自由、検閲に対抗するための力の存在の必要性のために勇敢に戦う。だが図書隊員の中には、命よりも尊い守るべき価値のあるものに対して疑念を抱くものがいた。そしてそれは元図書隊エリートにして現文科省職員、そして手塚(福士蒼汰)の兄(松坂桃李)の思惑によるもので、彼の次なる狙いの矛先は笠原(榮倉奈々)へと向かい・・・

相変わらず現実の日本社会と乖離した世界が物語世界では展開されている。しかし、笑えないのはその現実離れの度合いではなく、その現実離れが映し出す現実の残酷さ、冷酷さである。前作のフィナーレは、メディア良化委員会と図書隊の戦闘の様子が遂にメディアで大々的に報じられ、国民の関心が検閲を可能にしたメディア良化法に厳しく向けられる可能性を示唆するものだった。だが続編たる今作では、またも国民は図書隊の闘いに無関心であった。そしてそれは現実の日本に生きる我々にも当てはまってしまうことではないのか。国会で議論が尽くされていない自衛隊のイラク・サマワ派兵(派遣ではなく派兵と書くしかない)に関して、また南スーダン派兵に関しても現地で戦闘行為があったことは、もはや隠しようの無い事実である。そしてそのことがどうして斯くの如く長期に隠蔽されてきたのか。それは結局、国民が無関心だったからに他ならない。記者会見でアホのように泣き喚いた兵庫県西宮市の市議会議員が、政務活動費を不正にじゃんじゃん使いまくれたのはなぜか。そして彼以降、メディアや市民が目を光らさせたことで同様の問題が激減したのはなぜか(もちろんその過程で10人以上が辞職せざるを得なかった富山市議会のような自治体も出てきたが)。

大切だと思えることを必死で守ろうとする。それを実行に移せることこそが自由なのではないか。笠原が任務を全うしようと走るのは、自らの思想信条のためではなく、愛する堂上(岡田准一)のためであり、仲間のためであろう。思想と命、どちらを選ぶのが正解なのかではなく、どちらを選ぶにしろ、その選択が自由意思によって為されることが真に大切なのではないかと思う。哲学者のE・カントは自由を「先立つ一切の前提に囚われないこと」と定義した。与えられた選択肢以外を選ぶ者がいてもよいではないか。そうしたテーマ性を感じさせてくれた佳作である。

ひとつ不満に思えるのは、岡田准一と松坂桃李の対面シーン。「直接来い」という岡田の挑発に「兵隊は辞めました」という松坂。もちろんここで観る者は「ははーん、そんなことを言いながらも、最後はこの2人の一騎打ちか」と期待する。しかし、そんな展開は訪れなかった。残念至極である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アクション, ラブロマンス, 日本, 松坂桃李, 榮倉奈々, 監督:佐藤信介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『図書館戦争 THE LAST MISSION』 -この恐るべき想像のパラレルワールドでいかに生きるか-

『空飛ぶタイヤ』 -奇跡でもなく、ジャイアント・キリングでもなく-

Posted on 2018年6月18日2020年2月13日 by cool-jupiter

空飛ぶタイヤ 70点

2018年6月17日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:長瀬智也 ディーン・フジオカ 岸部一徳 笹野高史 寺脇康文
監督:本木克英

 

『 TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ 』以来の久しぶりの長瀬智也である。あの「マザァファッカァァーーーーーーッ!!!!」の長瀬智也である。我々はもっとはっちゃけた長瀬を観たいのだが、この作品で長瀬は、演技力という技術ではなく、リアリティというか存在感で大いに魅せる。それは中小企業の赤松運送の社長ながらホープ自動車という大企業を相手に一歩も引かず、最後には勧善懲悪的に勝利を収めるからではない。むしろ、長瀬の人間としての至らなさや苦悩を今作は冒頭の5分である意味描き切っている。長瀬は決して超人的な体力、知力、精神力、リーダーシップを持った人間ではなく、本当にそこかしこにいるような中小企業の社長なのだ。そこには先入観もあり、誤りもあり、逡巡もあり、後悔もある。つまり、極めて人間的なのだ。今作が描こうとしたのは、人間の強さは、弱さに飲み込まれないところにあるということでもあるはずだ。

また『 坂道のアポロン 』で何故か妙に浮いていたディーン・フジオカは本作ではスーツとネクタイの力を借り、若くして大企業の課長職を務めることで説得力ある存在感を発揮した。大企業では往々にして血も涙もないようなタイプが上に行きやすいが、観る者にあっさりと「ああ、コイツもその類か」と思わせる職場での所作は見事。芝居がかった演技も、ムロツヨシと並ぶことで中和されていた。この男は多分、スーツ以外の衣装を着こなすことはまだできない。が、ポテンシャルはまだまだ十分に秘めているし、良い脚本や監督との出会いでいくらでも上に行けるに違いない。

それにしても、これは元々の題材となった事件があまりにも有名すぎて、WOWOWでドラマ化までは出来ても、銀幕に映し出されるようになることは予想していなかった。本作で思い出すことがある。Jovian自身、とある信販会社で働いていた頃、〇菱〇そ〇の会社員から「不良品作りやがって、このヤローー!!」と電話口で怒鳴られたことがある。一瞬カチンと来たが、すぐに冷静さを取り戻し、「ああ、この人もきっと全く関係ない人にこうした言葉を浴びせかけられたのだろうな」と分析したことを覚えている。組織の中では、個の意思は時に無用の長物にさえなってしまう。その個の意思を貫こうとすることで、思いっきり冷や飯を喰らわされることもありうる。超巨大企業などは特にそうだろう。かといってそれは中小企業でもありうることだということは、佐々木蔵之介の役を見て痛切に感じさせられた。

これは中小企業と大企業の闘い、というよりもゲマインシャフトとゲゼルシャフトの闘い、と言い表すべきなのかもしれない。なぜなら長瀬演じる赤松社長は資金繰りに奔走し、カネの誘惑に溺れかけてしまうところもあるし、長年一緒に戦ってきた戦友に去られてしまう場面すらある。一方でディーン・フジオカ演じる沢田は、実は濃密な人間関係を社内に持っていて、彼らと共闘もするからだ。我々は何を軸に人間関係を構築し、何を信念に行動していくのか。問われているのは、大企業や中小企業の在り方だけではなく、個の生きる指針でもあったように思う。

今作はエンドクレジットが微妙に短く感じられたが、気のせいだったのだろうか?それにしてもつくづく凄いなと唸らされるのは、映画製作に関わる人間の数とその職種の多様さ。このキャスティングが長瀬ではなく山口だったらと思うとぞっとする。そんなことさえ思えてしまうほどの、大作であり力作である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ディーン・フジオカ, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:本木克英, 配給会社:松竹, 長瀬智也Leave a Comment on 『空飛ぶタイヤ』 -奇跡でもなく、ジャイアント・キリングでもなく-

友罪

Posted on 2018年6月12日2020年1月10日 by cool-jupiter

友罪 35点

2018年6月10日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:生田斗真 瑛太 佐藤浩一 夏帆
監督:瀬々敬久

良く言えば群像劇。悪く言えば支離滅裂。この映画のテーマが何であるのかを直感的に感得することは難しい。殺人者との交流なのか、犯罪者の更生なのか、家族の離散と再生なのか、友情の喪失と復活なのか。結びのシーンを見るに、おそらく過去に喪失してしまった友情を、現在ではもう手放さない、相手がどうであれ自分がどうであれ受け容れるんだという意味合いに解釈できないでもないが、とにかく物語の軸があまりに定まらないので、観終ってからも釈然としない気持ちが最も強く残っている。もちろん、感銘を受けた部分もあるのだが、それ以上に困惑させられたシーンの方が多い。

最も太い軸は、益田(生田斗真)と鈴木(瑛太)が町工場で一か月の試用期間を通じて、一通りでない関係性を構築していくパート。同時にそこに佐藤浩一演じるタクシードライバーや、山本美月演じるジャーナリストも絡んでくるのだが、特に佐藤の役の背負う十字架があまりにも重すぎ、これだけで一本の映画にした方が良いのではないかと思えた。佐藤の息子が無免許で車を運転し、子ども3人を撥ねて死なせたのだ。刑務所でお務めはすませたものの、そんなものは遺族にしてみればどうでも良いことで、佐藤は遺族に時につきまとわれ、時に謝罪を拒否され、果ては身内にまで「頭を下げることに慣れ過ぎている!」と怒鳴られる始末。事件当時は一家を守る目的で敢えてバラバラになることを選択したが、そうこうしているうちに刑務所を出てきた息子が、女と同棲し、子どもまで作っていることが発覚(判明と書くべきなのかもしれないが、この息子の言動には本当に辟易させられたので、敢えて発覚とする)し、息子の独断専行ぶり、家族を潰し、家族を奪った者がのうのうと家族を作ろうとするーそれも家族に相談なしにーその姿勢に佐藤は心底慨嘆させられる・・・ もうこれだけで脚本を一つ書けそうである。しかしこれはメインではなくサイドストーリー。

本筋は少年Aの成長後の生活環境である。酒鬼薔薇聖斗と聞けば、30歳以上であれば即座に反応することだろう。神戸連続児童殺傷事件と言えば、ある程度若い世代でも聞いたことがあるだろう。佐世保の女子高生殺害事件よりも大きく扱われた、あの事件。Jovianは一時期、東京三鷹市に住んでいたが、目と鼻の先の府中刑務所に少年Aがいるという噂を聞いて、一瞬だけだが震えた記憶がある。もちろん作品中の少年Aは 酒鬼薔薇聖斗その人ではないが、その名前が青柳健太郎と聞けば、彼の本名を思い出す人も多いだろう。まるで漫画『寄生獣』の田宮良子と田村玲子のように。

あまりストーリーについてくどくどと述べても生産的ではないし、もっと思い返して考えてみたいというテーマでも作りでも無かった。ただし、罪を犯した者が幸せになってはいけないのか、という問いには自分なりの答えを出す必要があるのだろう。佐藤浩一は「無い」と言い切った。Jovianはあると思う。ただし、絶対に後ろめたさを感じなくてはならないし、絶対に自分の家族は守らなくてはいけない。その姿勢が全く見えない佐藤の息子には、正直反吐が出そうだった。まあ、それも考えさせるためのプロット上の工夫であると見做すなら、一定の効果を上げていると言えよう。

演技者として生田斗真は、エキセントリックな役はこなせても、悔恨の念を強くにじませたり、恐怖を感じる、そして恐怖を抑え込むような演技にまだまだ成長の余地を残していた。対する瑛太は『光』や『64 ロクヨン』などのちょっと頭がイってしまった、または直情径行なキャラを演じさせれば、日本では今最も巧みな表現者かもしれない。佐藤浩一の演技力は折り紙つきだし、『ピンクとグレー』あたりからセクシーシーンも普通にこなせる夏帆も存在感を見せる。その他のキャストも魅力的な役者を多く配しており、中でも瀬々監督との相性が良い飯田芳は、無鳥島の蝙蝠とでも言おうか、自分より強い者と新入りの間を行ったり来たりする実に人間らしい役どころを見せてくれた。

最後に瀬々監督にも一言。『8年越しの花嫁 奇跡の実話』は素晴らしい作品で、映画化に際しての脚色もドラマチックさを大いに増してくれたもので、クライマックスの怒涛の動画メッセージは反則級の演出であると思った。だがしかし、『ストレイヤーズ・クロニクル』は邦画史上でも稀に見る駄作であった。意図のはっきりしないカメラアングル、つながらないストーリー、能力を効果的に活用できないガキンチョ集団、それを追う大人の組織の頭の悪さ、まったくサスペンスを生まないクライマックスと、ダメなエンターテインメントはこうやって作れという教材のような酷い出来であった。次回の同監督の作品のクオリティによっては、見切りをつける決断をしなくてはならないかもしれないと不本意にも感じさせられる本作『友罪』であった。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 瑛太, 生田斗真, 監督:瀬々敬久, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 友罪

万引き家族

Posted on 2018年6月10日2020年2月13日 by cool-jupiter

万引き家族 80点

2018年6月10日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:リリー・フランキー 安藤サクラ 松岡茉優 樹木希林
監督:是枝裕和

* 本文中にいくつかネタバレに類する情報あり 

予告編は何度も何度も映画館で目にしてきたが、誤解や批判を恐れずに言わせてもらえば、かなりミスリーディングな作りになっている。それを好意的に取るか、それともアンフェアと受け取るかは観る人による。

東京近郊のあばら家に暮らす柴田治(リリー・フランキー)、柴田信代(安藤サクラ)、柴田亜紀(松岡茉優)、柴田祥太(城桧吏)、柴田初枝(樹木希林)の5人家族。稼業はそれぞれ日雇い労働者、アイロン掛けバイト、女子高生風俗バイト、万引きアシスタント、年金だ。

生活費の足りない部分は万引きで補うわけで、そこでは様々なテクニックからおまじないまでが使われる。そこには美しさも何もない。翔太は「学校っていうのは家で勉強できない奴が行くところだ」と言い放つシーンに、なるほどと思う者もいれば、とんでもないクソガキだと嫌悪感を催す者もいるだろう。同じことは亜紀にも当てはまる。家族で一番のお祖母ちゃんっ子で、信代にも彼氏ができました報告をするなど、一見普通に見えるが、やっていることは風俗一歩手前というか、まあ風俗嬢である。しかし、そこで客に差し伸べる手の優しさは観る者に何かを見誤らせる力を持っている。それは初枝にしても同じで、あるところから定期的に金を受け取るのだが、それは狙ってもらっていたものなのか、それとも意図せずもらえてしまった金なのか。これは是枝監督自身が舞台あいさつで述べていたことだが「(劇中の祥太のある決断の背景を尋ねられて)そんなに単純に作っていないんですよねえ・・・」という第一声を漏らしていた。ということは、これらのキャラクターの複雑に見える行動の原理も単純であるはずがなく、多様な解釈はそれこそ観る側が監督の意図を正しく汲んだものとして、このレビューを続けたい。

ある日の万引き帰り、治と祥太はとあるアパートのベランダに放置されている女の子を拾ってくる。「ゆり」という名のその子は依頼、柴田家の一員となり、家族の輪に加わり、家族の和に触れる・・・わけではない。生みの親か、それとも育ての親かというのはある意味で文学その他の永遠のテーマで、ごく近年に限っても是枝裕和監督の『 そして父になる 』や『 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス 』などで提起される問題だ。そしてそこに答えなど無い。あってはならない。もちろん、この疑似家族が家族らしさを体現しないのかと言うと、そんなことはない。おそらく今では失われて久しいちゃぶ台を囲んでの夕餉の団欒が頻繁に活き活きと描かれるし、縁台に出て、家族そろって隅田川の花火を楽しむ描写も存在する。しかし、騙されてはならない。そこにある美しさは上辺のもので、花火は音が聞こえるだけで決して花火そのものは見えない。誰しもに親が存在するのは理の当然ではあるが、家族という実体(花火)を求めて、音だけ(疑似家族)を楽しむその様は美しくも歪である。他にも例えば5才のゆりや第二次性徴手前ぐらいの祥太に盗んできたインスタント食品ばかりを食べさせるのは、緩やかなネグレクトではないのか。学校に行かせないのもネグレクトを構成しないのか。この家族に美しさだけを見出したとすれば、それは失敗であろう。

治「お前、さっきオッパイ見てただろ?いいんだ、男はみんなオッパイ好きなんだ。ここも大きくなってきたか?」

祥太「うん、病気かと思って心配してたんだ」

このような会話は父と息子の間で必ず交わされるべき会話であろうし、それができないのなら、そいつに父親の資格は無いとすら思う。ただ、とある駄菓子屋での出来事をきっかけに祥太の中で生まれた変化、自意識の芽生えに関して、治はあまりにも無関心すぎたし、家族という絆をあまりにも機能的に捉え過ぎるきらいがあった。海水浴を楽しむところをピークに、疑似家族はあっけなく自壊していく。警察の取り調べを受けるシーンで安藤サクラが見せる演技は圧巻の一語に尽きる。家族は選ぶものなのか、選ばれるものなのか、それとも最初から所与のものなのか。あらゆる思考と感情の対立と矛盾に一気に押し潰された個の悲哀が切々と語られるその様に、涙が止まらなかった。

この映画で最も素晴らしいのは、もしかしたら音楽かもしれない。『 アメリカン・ビューティー 』におけるトーマス・ニューマン、『 その男、凶暴につき 』の久米大作のような、さりげなさに潜む力強さと奥深さにしびれた。それを一番感じたのは、監督と主役二人の舞台登場シーン。映画本編よりもマッチしていたのではなかったか。

ネットの一部では「万引きは犯罪で、この映画は犯罪を美化している」という映画を観たかどうか怪しいレビューもあれば、「日本人は万引きなどしません」という現実を見ているかどうか怪しいレビューもある。「是枝は文化庁から助成金をもらっておきながら、国からの祝意は丁重に辞退するというのは倫理の二重基準であり、怪しからん!」という声まであるようだ。是枝監督は言うまでもなく納税者であり、公的サービスを受ける権利を有している。一方で国が祝意(それが単なる電報であれ国民栄誉賞であれ)を送ることそのものがかつてないほど政治色を帯びているのが現代日本である。Jovianは今も羽生結弦の国民栄誉賞授与検討のタイミング(大会すべてが消化されていない段階でマスコミにリークするか?その他のアスリートに対して配慮が無さ過ぎるし、村田諒太の批判は真っ当至極と感じた)について政府に疑念を抱いているし、祝意を表したいのなら、それこそパルムドール受賞発表直後で良かった。彼の行動を二律背反だとレッテル貼りするのは容易い。しかし、それがどうした?作品を鑑賞することなく行動を批判することに意味などない。芸術を好意的にしろ批判的にしろ評価したいのなら、まずは作品を鑑賞すべきだ。であれば是枝も耳を貸すだろう。氏には是非、今後も骨太の創作活動を続けて頂きたく思う。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ヒューマンドラマ, リリー・フランキー, 安藤サクラ, 日本, 松岡茉優, 樹木希林, 監督:是枝裕和, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 万引き家族

羊と鋼の森

Posted on 2018年6月10日2020年2月13日 by cool-jupiter

羊と鋼の森 85点

2018年6月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:山崎賢人 三浦友和 鈴木亮平 上白石萌音 上白石萌歌
監督:橋本光二郎

漫画、それも特に少女漫画の映画化に際しての御用達俳優としての地位を一頃確立してしまっていた山崎賢人が遂に殻を破った。間違いなく山崎のこれまでのキャリアにおけるベストである。そして2018年はまだ半分を消化していないにもかかわらず、Jovianは本作を年間最高の邦画として推したいと思う。

雪が降りしきる北海道の学校で、何とか食べていける職業につければと漠然と考える山崎賢人演じる外村直樹は三浦友和演じる調律師と出会い、その仕事振りに魂を揺さぶられるほどの衝撃を受け、同じ道を志すために東京の調律学校を2年かけて卒業し、地元の街の楽器店に就職する。そこで、鈴木亮平演じる先輩調律師やピアノに励む上白石姉妹らとの厳しくも美しい関係を通じて成長をしていく。

これだけだと典型的なビルドゥングスロマンなのだが、何よりも小説という文字媒体で音楽、そしてピアノの調律を描いていたものを、さらに映像化しようというのだ。眩暈がしそうな労苦だ。

マリー・シェーファーというカナダ人作曲家が提唱した「サウンドスケープ」という概念がある。音の風景、音風景、音景などと訳されることが多い。音という要素が景色として理解される瞬間というのは、誰もが一度は経験したことがあると思う。本作ではピアノの音をしばしば森の風景に翻訳する。それが主人公の外村のバックグラウンドに密接に関わっているからだ。音が人間の感覚に与える豊饒な影響については『すばらしき映画音楽たち』に詳しいので、興味を抱かれる向きは是非DVDなどで観賞を。本作はクライマックスの手前でジョン・ケージの”4分33秒”を彷彿させるシーンがあり、音楽方面に造詣が深い観客をも深く満足させる力を持っている。

それだけではなく、この映画はビジュアルストーリーテリングのお手本、教材にも成りうる作品であるとも評価できる。冒頭から、陰鬱とも言える暗いシーンが続く。それは語りのトーンの暗さではなく、視覚的な暗さでもある。その中でも、窓だけが一際明るく、その向こうに雪や新緑、光などのナチュラルな風景の広がりを感じさせ、外の世界とこちらの世界の接点としてのガジェットとして効果的に機能している。また登場人物の顔にも不自然、不必要とも言える照明が当たらず、服装も地味もしくは単色に抑えられ、否が応にもピアノの黒鍵と白鍵のコントラストを観る者に想起させる。それゆえに音の先に広がる豊饒な風景の色彩が一層の迫力と臨場感、説得力を以って我々に迫って来るのだ。

この映画はお仕事ムービーでもある。アニメ・ゴジラは世界の世界性を問いかけてきたが、ハイデガー哲学のもう一つの柱は道具である。道具的存在と道具の道具性。道具的連関。世界は道具でつながり、道具は素材から作られ、素材は自然から生まれる。劇中で外村が言う、「この道なら世界に出ていけると思う」という世界は、国際社会ではなく、生活世界、あるいはマルクスの言う【歴史】そのものだ。主人公の外村が自分に対しての自信の無さと、それは間違いであるということを厳しく優しく諭す鈴木亮平のキャラクター。仕事に自信を持ち始めた時、仕事に慣れ始めた時の陥穽。視覚や触覚の動員。コミュニケーションの大切さと、それを重視し過ぎてはいけないという教訓。感覚の言語化。調律という職業、職務を通じてこれらが描かれていくのだが、それは調律師に限ったことではなく、仕事や人間関係などのあらゆる面において応用されうる、また基本でもある事柄がさりげなく、それでいて大胆に開陳される。職業人も、そして中高生や大学生にこそ観てほしいと切に願う。

それにしても山崎は橋本監督と相性が良いのだろうか。繊細かつ些細な演技をこの監督の作品では見せることができるのに、なぜ他の作品では判で押したような紋切り型のキャラクターになってしまうのだろうか。やはり監督の演出のセンスとこだわりなのか。たとえば同監督の『 orange オレンジ 』はそれほどの良作ではないが(失礼!)、随所にリアリティある演出が観られた。一例として、土屋太鳳の独白とも言える語りかけに無言を貫くシーンで、山崎の喉が良いタイミングで動くのだ。心理学に詳しい人なら、観念運動について知っているだろう。人間の思考はしばしば筋肉の動きに連動するが、それが最も顕著に表れる身体部位は喉なのである。同じく、刺激(光に限らない)に対する脳の反応として最もよく現れる運動の一つが瞬きである。本作では山崎の瞬きが実に効果的に映し出されており、これは橋本監督の知識、教養の広さと深さ、そして演出へのプロフェッショナリズムを山崎に叩き込んでいることの証明に思えてならない。三浦や鈴木が演技を通じて山崎を導いたように。

観終った時、主人公の名前が外村直樹であることと道具的存在者の意味について、余裕のある方は考えてみてほしい。宮下奈都という作家の哲学的識見の広さと深さ、そして橋本光二郎という監督の表現力の大きさに、畏敬の念を抱くはずだ。そして久石譲の作るピアノの旋律に、「懐かしさ」を感じてほしい。それは明るく、静かに、澄んでいるから。音楽という空気の振動でしかないものが、いかにして芸術足り得るのか。それを生みだす道具としての楽器が、どれほど複雑玄妙に作られ、維持されているのか。物質としてのピアノと芸術としての音楽をつなぐ存在として立ち現れる調律師に、あなたは自分と世界の関わりを観るに違いない。これは、文句なしの大傑作である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 山崎賢人, 日本, 監督:橋本光二郎, 配給会社:東宝Leave a Comment on 羊と鋼の森

図書館戦争

Posted on 2018年6月9日2020年2月13日 by cool-jupiter

図書館戦争 75点

2013年 大阪ステーションシネマ、WOWOWおよびDVD観賞
出演:岡田准一 榮倉奈々
監督:佐藤信介

有川浩原作の小説を映画化した、これはでありながらも、ある種のノンフィクションの色彩をも帯びている。”正化”という元号の時代も三十年を数える頃、メディア良化法案という法律が成立した日本社会で、メディア良化隊なる実力行使部隊が、書店や図書館、インターネット空間をも検閲の対象にしていた。それに対抗していた図書館の一つが、謎の襲撃を受け、多数の民間人の命と甚大な数の本が失われた。まさに現代の焚書坑儒である。それに対抗すべく、図書隊が設立され、条件付きながらも火力を有し、検閲に対抗していた。そこには笠原郁(榮倉奈々)とその教官、堂上篤(岡田准一)も所属しており、日々、戦闘訓練に励んでいた。

ここまで書けば、完全にファンタジー小説の映像化であるが、なぜこれがSF、そしてノンフィクションたりえるのか。作家の新城カズマは、SFとは「人間と文明全体を接続する」と定義している(『 われら銀河をググるべきや―テキスト化される世界の読み方 』)。文明が、その最古にして最大の産物たる書物を抑圧する方向に向かう時、人間はどう振る舞うのか。それを本作品は描いている。書物という人類の叡智の集積の象徴を守ろうとする者と、公序良俗の維持という美名の元、銃火器を振り回す者、そしてそうした抗争に無関心な大部分の一般大衆とに。書物、そして広く表現を抑圧することは、世界史においては常だった。それを乗り越えたことが近代の黎明で、グーテンベルクの活版印刷術の発明はその曙光だった。その啓蒙の文明を抑圧する物語。これがSFではなくて何なのか。

そもそもの図書隊設立の発端は、「日野の悪夢」と呼ばれる図書館襲撃事件だった。有志の民間人団体が図書館員および図書館利用者を射殺し、図書を丸ごと火炎放射器で焼き払ったのである。そして警察は動かなかった。これだけで、いかに現実の日本社会と乖離しているのかが分かるのだが、この物語は単純に、図書隊=善、メディア良化委員会=悪、という善悪二元論に還元されるわけではない。作中で堂上が言う「俺たちは正義の味方じゃない」という台詞はその象徴である。我こそは正義であると信じて疑わなくなる時、人は道をたやすく踏み外す。これは歴史が証明するところである。

キャラクターたちは思想の自由を守るために戦うのだが、それは相手も同じ。信じる道が異なるだけで、信じる心そのものは否定はできない。だからこそ不条理に思える戦いにも身を投じることができるのだろう。絶対に自分では参加したくないが。また思想が著しく制限されかねない世の中に生きるからこそ、どこまでも個人に属する感情、恋愛感情もより一層美しく描写することに成功している。

それにしても佐藤信介監督というのは、武器がよほど好きなのだろうか。フェチ的なカットや思わせぶりなズームイン&アウトを戦闘シーンで多用するが、その一方でディテールの描写に弱いところもある。一例は、嵐の中での野営キャンプシーン。画面手前の木の枝やテントは強風に煽られていても、画面奥の木々やテントはほとんど無風状態。これははっきり言って頂けない。が、そのことが物語のテーマを棄損するわけでもないし、作品の価値を減じるわけでもない。

「本とは歴史であり、真実である」と図書隊司令(石坂浩二)は言う。「読書は個人の思想であり、個人の思想を犯罪の証拠とすべきではない」とも述べられる。公文書の改竄という重大犯罪が、その背景もよくよく解明されないままにうやむやにされ、共謀罪なる、公権力の恣意で市民を逮捕することも可能になりかねない法案が通過する現代にこそ、もう一度見返されるべき良作である。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アクション, 岡田准一, 日本, 榮倉奈々, 監督:佐藤信介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 図書館戦争

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 BAD GENIUS バッド・ジーニアス 』 -カンニングはやめよう-
  • 『 この夏の星を見る 』 -新たな連帯の形を思い起こす-
  • 『 愛されなくても別に 』 -家族愛という呪縛を断つ-
  • 『 ハルビン 』 -歴史的暗殺劇を淡々と描写する-
  • 『 スーパーマン(2025) 』 -リブート失敗-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme