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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ラブロマンス

『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

Posted on 2019年8月17日2020年4月11日 by cool-jupiter

あなたの名前を呼べたなら 70点
2019年8月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ティロタマ・ショーム ビベーク・ゴーンバル
監督: ロヘナ・ゲラ

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原題は Sir である。インドは国策として映画作りを推進しているが、だんだんとインド特有の歌や踊りを減らしていくという。個人的にそれはつまらないと感じるが、グローバルなマーケットで売ろうとするためには、柔軟さも必要か。本作はそうした、ある意味ではデタラメなパワーを持つインド映画らしさではなく、普通に近い技法で作られたインド映画なのである。

 

あらすじ

建設会社の御曹司アシュヴィン(ビベーク・ゴーンバル)は挙式目前。しかし、婚約者の浮気が発覚し、結婚は破談した。通いのメイドのラトナ(ティロタマ・ショーム)は、そんなアシュヴィンに甲斐甲斐しく尽くす。彼女には夢があった。いつかファッションデザイナーになり、自立した女性となる夢が。だが、彼女は19歳で結婚した身。今は未亡人でも、新たな恋愛や結婚は因習的に許されない。いつしか惹かれ合い始める二人だが・・・

 

ポジティブ・サイド

とてもとても静かな立ち上がりである。アシュヴィンとラトナの間に恋愛感情が芽生えることは誰もが分かっている。そのbuild-upをどうするのかが観る側の関心なのであるが、ロヘナ・ゲラ監督は淡々と二人の日常生活を描いていくことで、二人の間の距離感を丁寧に描写していく。食事のシーンが好例である。ラトナがアシュヴィンに供する食事は、どれも一皿に一品で、ナイフとフォークで食するようなものばかりである。一方で、自分がとる食事は大皿にナンや野菜や鶏肉などを全て乗せた、いわゆるインド的なカレーであったりする。この対照性が二人の距離である。

 

だが、二人には共通点もある。ラトナはファッションデザイナーになるという夢があり、将来は妹とともに独立して自分たちの力でビジネスを営みたい。そのために妹の学費を自らの稼ぎから工面している。一方でアシュヴィンはアメリカに留学し、ライター稼業をしていたが、兄の死によって自らが事業継承になるためにインドに帰国してきた。つまり、ラトナもアシュヴィンも、本当の意味での自己実現を果たしているわけではないのである。全くとなる背景を持つ二人であるが、自分にはどうしようもない事情で現在の自分があることを受け入れている。だからこそアシュヴィンはラトナが仕立て屋に通うことや裁縫学校に行くことを快く承諾してくれるし、ラトナはアシュヴィンに執筆業への回帰を促す。それが互いへの思いやりであり配慮である。そのことが、しっかりと伝わってくる。安易にさびしさに負けて、なし崩し的にキスからベッドインなどという展開にはならない。しかし、二人が互いに秘めていた想いを一瞬だけ露わにするシーンは、見ているこちらが緊張するほどぎこちなく、それでいて甘く、激しい。近年のラブロマンスにおいては、白眉とも言えるシークエンスである。

 

ラストシーンが残す余韻も素晴らしい。終わってみれば「なるほどね」なのだが、この一瞬のために、ここまでドラマを積み上げてきたのかと得心した。そのドラマとは、ラトナの精神的、そして経済的な自立への旅路であり、アシュヴィンにとっては家族、そして友人関係のしがらみからの解放への旅路でもある。そして、二人はインドの因習からの独立を目指す同志でもあるのだ。使用人とその主人という縦の関係を、水平的な関係に転化させる一言を絞り出すラトナの表情に、我々は心の底から祝福のエールを送りたくなるのだ。

 

アシュヴィンを演じたビベーク・ゴーンバルはアメリカ帰りという設定ゆえか、非常に流暢な英語を操る。彼の台詞のかなりの割合が、非常にスタンダードな英語なので、英語悪習者の方は、ぜひ彼の台詞に耳を傾けて欲しい。本作の感想ではないが、インド人はそこそこの割合で英語を話せる。また、人口の結構な割合の人々が英語を聞いて理解できると言われている。確かに『 きっと、うまくいく 』の講義は英語だったし、『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』でも、ラクシュミは英語を話すのは苦手だったが、リスニングはできていた。英語の運用能力を持つことがそれなりのステータスであるという点で、日本はインドとよく似ている。しかし、インドにおいて英語力というものは、おそらく運転免許証のようなものなのだと推測する。なくてもそこまでは困らないが、だいたい皆が持っている。そういうことである。

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ネガティブ・サイド

アシュヴィンのone night standは必要だったのだろうか。別にこのシーンがなくとも、ストーリーはつなげられるように感じた。もちろん、結婚が破談になったアシュヴィンが人肌恋しく思うのは理解できるが、その相手をバーで調達してしまうというのは、あまりにも安易ではないか。また、ラトナに「彼女はもう帰ったのか」と尋ねるのもいかがなものか。自分が求めているのは刹那的な関係ではなく、長期にわたって真剣に互いを高め合える、あるいは補い合えるような関係であると気付くのであれば、破談になった相手との関係を振り返る、あるいはアシュヴィンの姉や友人に劇中以上にそのことを喋らせれば良かった。このあたりはゲラ監督とJovianの波長は合わなかった。

 

もう一つ。アシュヴィンが最初からあまりにも物分かりの良いご主人様で、少々ご都合主義のようにも感じられた。召使いとして甲斐甲斐しく恭しく使えるラトナは、メイド仲間の愚痴を聞くシーンが何度か挿入されるが、その仲間の愚痴がことごとくアシュヴィンに当てはまらないのだ。そうではなく、仲間が愚痴ってしまうようなシチュエーションが自分にも訪れた時に、主人であるアシュヴィンがどのように反応するのか、そうした展開があってこそ、ハラハラドキドキ要素がより一層盛り上がるというものだ。それが無かったのは惜しいと言わざるを得ない。

 

総評

静かな、大人のラブストーリーである。韓国ドラマのように、互いが互いを想いながらも絶妙にすれ違う展開にイライラさせられることはなく、むしろ近くて、けれどなかなか縮まらない距離感をじっくりと鑑賞できる構成である。そこにインド独特の因習や女性蔑視への眼差しもあるのだが、決してそれらに対して批判的にならず、そうした障害を乗り越えていく予感を与えてくれる作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

アシュヴィンが友人からの誘いに対して“Rain check?”と返す場面がある。これは野球の試合が雨天順延になった時に、rain check=再試合のチケットを受け取ることから、「別の機会にまた誘ってくれ」という意味で使われる表現である。主に北米=野球が行われる地域でしか通用しない。なので、オーストラリアやニュージーランドの人間に使うと「???」と返されることがある。アシュヴィンのアメリカ帰りという設定、そして野球にちょっと似ているクリケットが盛んなインドのお国柄を考えてみると面白い。ちょっとした慣用表現の向こうに、様々な世界が見えてくる。同表現は『 パルプ・フィクション 』でJ・トラボルタも使っている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, インド, ティロタマ・ショーム, ビベーク・ゴーンバル, フランス, ラブロマンス, 監督:ロヘナ・ゲラ, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

『 風立ちぬ 』 -今だからこそ見るべき矛盾に満ちた物語-

Posted on 2019年7月22日 by cool-jupiter

風立ちぬ 85点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:庵野秀明 瀧本美織
監督:宮崎駿

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2019年7月19日の夜にこのレビューのdraftを書いている。つまり、参議院選挙の2日前である。戦後レジームからの脱却を声高に唱え続ける与党であるが、それこそが戦前の空気の醸成であることに気がつかないのか。それとも気付いていて、意図的にそうした空気を作り出しているのか。官憲に公文書を改竄させ、さらには自身の選挙演説を野次る一般市民を官憲の力で強制排除する。これは現実の出来事なのだろうか。『 君の名は。 』は夢と現が混ざり合う不思議な物語であったが、夢と夢がシンクロしてつながるというアイデアは本作の方が先に採用していた。あらためて見返してみて、100年近く前の日本と現代の日本に驚くほど共通点があることにショックを受ける。

 

あらすじ

堀越二郎(庵野秀明)は小さな頃から、空への憧れを抱いていた。長ずるに及んで、彼は技術者となった。そして飛行機の設計技師として頭角を現していく。そして運命の相手、菜穂子(瀧本美織)と結婚する。だが、日本には戦争の影が、菜穂子には結核という病魔が迫っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

映画とは芸術の一形態である。芸術には、メッセージが込められている。そうしたメッセージというのは、作家個人が発するものであったり、または時代や社会と切り結ぶことで生まれてくるものであったりする。後者のメッセージを発し続けるものとして、『 ゴジラ 』が挙げられる。本作は、宮崎駿本人の作家性と、堀越二郎という人物の生きた時代背景と現代に通じるテーマ、その両方を追求している。軽快に飛ぶ航空機を作り出すという純粋な夢、それが獰猛な兵器に転化してしまうという恐れ。国民が貧困にあえぐ中、多大なカネを費やして飛行機の設計と製作に携わっていく。部品一つの値段で、何人の子どもたちの食費がどれだけの期間賄えてしまうのか。矛盾である。大いなる矛盾である。よく知られていることであるが、宮崎駿は兵器オタクにして反戦論者である。これも矛盾である。中高老年のオッサンが、好んで少女を主人公にした映画を作る。これも矛盾である。アニメキャラの声の担当に声優ではなく俳優や、場合によっては素人も使う。これも矛盾である。本作は、人間の抱える矛盾に大きくフォーカスした作品であると言える。人間は美しい部分だけで成り立っているわけではない。主人公の二郎の生き様は決して褒められたものではないところもある。病床の菜穂子を気遣いながらも、プロジェクトXさながらに家庭を顧みず、仕事に打ち込む。そうした二郎の姿勢についての不満は妹の加代が、視聴者の心情のかなりの部分を代弁してくれる。そして、カストルプさんが指摘する「チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する。ドイツも破裂する」という、日本の忘却能力、反省の無さは、間接的な現代社会批判だろう。同時に二郎の言う「この国はどうしてこう貧しいんだろう」という言葉も同じである。本庄の言う「恐るべき後進性」もそうだ。宮崎は現代日本を鋭く抉っている。しかし、『 シン・ゴジラ 』における矢口の演説と同じく「我が国の最大の力は現場にある」ということを、二郎や本庄その他のエンジニアたちの自主的な研究会を通じて描き出す。日本という国の弱点と美点、つまりは矛盾をここでも浮き彫りにしている。

 

ことほど左様に矛盾に満ちた物語であるのだが、それは取りも直さず我々の生きることそのものが矛盾に満ちているからに他ならない。死ぬと分かっていながら生きるしかない。別離が来ると分かっていても結ばれるしかない。そうした矛盾を飲み込んで、それでも生きるしかない。菜穂子が最後に語る言葉がそのまま宮崎駿が我々に送るメッセージであろう。“The show must go on”ならぬ“We must live on”である。

 

夢と夢がシンクロするということに類似のアイデアは『 君の名は。 』にも使われたが、本作の二郎とカプローニの会話は、ある意味で究極の自己内対話である。幼少のころから辞書を片手に洋書に親しんできた二郎は、カプローニに私淑していた。単に書を読むだけではなく、夢の中でシンクロしてしまうほどに読み込んでいたわけだ。これはまさにちくま新書『 私塾のすすめ 』の140-141ページにおいて斎藤孝と梅田望夫が語る「自己内対話」に他ならない。であるならば、最後の最後の夢で、二郎が菜穂子と言葉を交わすシーンで、様々なものが逆転する。我々は二郎をselfishなworkaholicであって、彼が菜穂子を愛している度合いを疑問視させられてしまう。しかし、菜穂子も二郎と同じ夢を見ていたのだ。会えない二郎、離れていくことしかできなかった二郎と菜穂子は、奥深い部分でつながっていたのだ。これは見事な脚本にして演出である。

 

ネガティブ・サイド

二郎の卓越したセンスというものが、もう一つ伝わりにくい。魚の骨の曲線に美しさを見出すエピソード以外にも、紙飛行機を作る所作や紙の折り方にこだわる様子などを映してほしかった。

 

個人的に思うことだが、二郎と菜穂子の閨房のシーンは必要だったか。もちろん直接に描写されたわけではないが、もっと間接的に、匂わせるだけの描写の方が、このカップルには相応しいのではなかったか。玄関先でのキスシーンも同様で、アップではなく、もっと引いたところからのショットの方が、逆にロマンチックに、もっと言えばエロティックにすらなったのではないだろうか。人間は見えているものよりも、よく見えないものの方により想像力を働かせるからである。

 

総評

これは傑作である。次代を超えた普遍的なメッセージを送っているとともに、現代日本の「今」という瞬間を極めて健全に批判している。苦しくとも生きる。辛くとも生きる。愛する者のために生き、愛する者を残しても生きる。見終わって爽快感などは得られない。しかし、心底から苦しいと感じた時に、自分はこの作品に帰ってくるかもしれないと感じた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, アニメ, ラブロマンス, 庵野秀明, 日本, 瀧本美織, 監督:宮崎駿, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 風立ちぬ 』 -今だからこそ見るべき矛盾に満ちた物語-

『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

Posted on 2019年7月21日 by cool-jupiter

君の名は。 65点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:神木隆之介 上白石萌音 長澤まさみ
監督:新海誠

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これはStar-crossed loversの物語である。Starには星や、スター誕生のスターなど色々な意味を持っているが、「運命」という意味もある。そうしたことは『 グレイテスト・ショーマン 』でのゼンデイヤとザック・エフロンのデュエットが『 リライト・ザ・スターズ 』(Rewrite The Stars)『 きっと、星のせいじゃない 』の原題が“The Fault In Our Stars”(英語学習者で意欲のある人は、何故fault in our starsであって、fault with our starsなのか調べてみよう)であったりと、星は運命を司るものの象徴だった。そのことを真正面から描いた作品には希少価値が認められる。確か封切の週の日曜日の夕方に東宝シネマズなんばで鑑賞した記憶がある。あまりの観客の多さに、上映時間が20分ぐらいずれたと記憶している。『 天気の子 』の予習的な意味で再鑑賞してみる。

 

あらすじ

地方の田舎町に暮らす宮水三葉(上白石萌音)と東京に暮らす立花瀧(神木隆之介)は、互いの身体が入れ替わるという不思議な夢を見る。しかし、それは夢ではなく、二人は本当に入れ替わっていた。決して出会うことのない二人は互いへの理解を深めていく。その時、1200年に一度の彗星が迫って来ており・・・

 

ポジティブ・サイド

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

グラフィックは美麗の一語に尽きる。特に森の木々や空の雲、水面が映す光など、オーガニックなものほど、その美しさが際立っている。映画とテレビ番組の最大の違いは、映像美、そのクオリティにある。大画面に生える色彩というのはインド映画で顕著であるが、アニメーションの世界でも、いやアニメーションの世界だからこそfantasticalな色使いを実現することができるのだ。そのポテンシャルを存分に追求してくれたことをまずは讃えたい。

 

ストーリーも悪くない。星を身近に感じない文化はおそらく存在しない。要は、星をどのようなものとして捉えるか。その姿勢が、観る者の心を掴むことにもつながる。劇中でも言及されるシューメーカー・レヴィ第9彗星、それに百武彗星、ヘールボップ彗星などは一定以上の年齢の人間には懐かしく思い出されるだろう。また、こうした彗星を懐かしく思える人というのは、小惑星トータチスや、さらにはノストラダムス絡みの終末論などをリアルタイムで“楽しんだ”世代の人間だろう。新海誠氏はJovianのちょっと年上であるが、For our generation, stars are romanticized symbols. 星とは死と再生、破壊と創造の架け橋なのだ。そうしたモチーフとしてのティアマト彗星が、RADWIMPSの楽曲とよくフィットしている。七夕を現代的に大胆にアレンジすれば、このようなストーリーになってもおかしくない。

 

逢魔が時、黄昏時、誰彼時。確かに夏の日などには、ほんの数分、世界が紫の光に包まれる瞬間がある。生と死、陰と陽(これも分かりやすく町長の部屋にあった)、そうしたものが溶け合い混じり合う瞬間こそが、本作のハイライトである。それは夢現である。夢なのか、それとも現実なのか。『 となりのトトロ 』の「夢だけど夢じゃなかった」という、あの感覚である。そして、夢ほど忘れやすいものはない。たいていの人は、どうしても忘れられない強烈な夢の記憶が二つ三つはあるだろう。しかし、昨日見た夢さえ人は忘れてしまう。いや、悪夢にうなされて目覚めても、わずか数分でどんな夢だったかすら、我々は簡単に忘れてしまう。身体を入れ替える。それは、ある意味では究極の愛の実現である。アンドロギュヌスは男女に分裂してしまった。だからこそ、互いに欠けた状態を求め合う。それがエロスである。性欲や性愛ではなく、失われた半身を無意識のうちに探してしまう。それが瀧と三葉の関係である。そして、瀧は愛する三葉のために三葉になる。アガペーとも概念的に融合したキリスト教的な愛である。我々は愛する人が病気などで苦しんでいる時に、できることならその苦しみを自分が代わりに引き受けてやりたいと願う。しかし、それは神ならぬ身の自分にはできない。キリスト教の神は、人の罪を購うために一人子のイエスを遣わし、自ら死んだ。愛する人の代わりに死ぬ。それが究極の愛なのかもしれない。久しぶりに、ロマンチックな物語を観たと思う。

 

ネガティブ・サイド

普通に考えれば、瀧と三葉が入れ替わっている時に周囲の人間は異常事態に気付くはずである。「昨日はちょっと変だったぞ」では済まない。絶対に。ファイナルファンタジーⅧのジャンクションではなく、本当に中身が入れ替わっているのだから。例えばJovianの中身が、Jovianを非常によく知る人と入れ替わったとしても、Jovianの妻は一発で見破るであろう。夫婦の間でしか通じないパロールやジェスチャーがあるからだ。

 

また日本中の何十万人もの人が突っ込んだに違いないが、一応自分でも突っ込んでおくと、瀧の時間と三葉の時間にずれがあることは絶対にどこかで気付くはずだ。携帯電話でも、テレビでも、カレンダーの日付と曜日でも、新聞でも、なんでもよい。さらに、入れ替わる先の時間が異なっているというのは、ファイナルファンタジーⅧだけではなく、ゲームのPS2ゲーム『 Ever17 -the out of infinity – 』(厳密には入れ替わりではないが・・・)がネタとしては先行している。または同系列のPS2ゲーム『 12RIVEN -the Ψcliminal of integral- 』にも同じトリックが仕込まれていた。さらに遡れば『 市民ケーン 』も、一本道のストーリーと見せて、時間が大胆に飛ぶ構成になっていた。リアルタイムで展開されていると思われた二つの事象が時間線上の異なる点での出来事だったというのは、個人的にはこの上ないクリシェであった。

 

全体を通じて感じられるのは、RADWIMPSのためのミュージック・ビデオのような作りになっているということである。映像は美しく、キャラクター達もそれなりに魅力があり、ストーリーは陳腐ではあるが、美しくもある。しかし、そうした作品の長所や美点を支えているのが、音楽であるかのように感じられるのは何故なのだろうか。前世、運命、未来。そうしたバナールなお題目は、物語全体を以って語らしめるべきで、優れた楽曲に仮託するものではないだろう。本作のテーマは『 ボヘミアン・ラプソディ 』ではないのだから。

 

総評

悪い作品では決してない。むしろ優れている。ただ、新海誠監督の美意識というか様式美というか、『 秒速5センチメートル 』や本作などに見られるように、現実と非現実、此岸と彼岸、現世と幽世の境目、そこにある断絶の広がりを追い求めるのが氏のテーマである。今作はそれが若い世代の嗜好にマッチして爆発的なヒットになったことは記憶に新しい。しかし、もうそろそろ違うテーマを探し始めてもよいのではないだろうか。『 天気の子 』も同工異曲になるのだろうか。そこに一抹の不安を感じている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ラブロマンス, 上白石萌音, 日本, 監督:新海誠, 神木隆之介, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』 -多重人格ものの実験的作品-

Posted on 2019年6月27日2020年4月11日 by cool-jupiter

ジョナサン -ふたつの顔の男- 60点
2019年6月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アンセル・エルゴート スキ・ウォーターハウス パトリシア・クラークソン
監督:ビル・オリバー

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多重人格ものには豊かな歴史がある。小説そして映画にもなった『 ジキル博士とハイド氏 』から、M・ナイト・シャマランの『 スプリット 』、日本の小説ではJovianだけが面白い面白いと評価している月森聖巳の『 願い事 』などが挙げられる。本作もありきたりのDIDものかと思わせておいて、ちょっとした趣向が凝らされていた。

 

あらすじ

建築事務所にパートタイマーとして務めるジョナサン(アンセル・エルゴート)には、もう一つの人格、ジョンが宿っていた。彼らは午前7時~午後7時、午後7時~午前7時をそれぞれ分け合って生活していた。互いの時間に経験した事柄をビデオ録画することで周囲にDID(Dissociative Identity Disorder)であることを知られずに生活していた二人だったが、いつしかジョナサンはジョンの行動にちょっとした疑問を抱くようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

多重人格ものの歴史は長い。異なる人格同士は対立または協力関係にあるのが定石である。本作はどうか。35歳以上の世代なら漫画原作でテレビドラマ化もされた『 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜 』を覚えておられるだろう。本作はそういう物語である。しかし、本作が最もユニークなのは、ジョナサンのもう一つの人格であるジョンの視点を観客と決して共有しないところである。それにより、観る側は否応なくジョンのビデオメッセージの裏読みをしてしまう。いや、それだけではなく、いつしか我々はビデオメッセージそのものがジョンという存在の全てであるかのような錯覚にまで陥る。これは怖いことだ。何故なら、自分という存在の半分が消えてしまったかのように感じるからだ。我々はネット上のフォーラムなど文字や画像だけでやりとりする人間にも親しみを感じる。ハンドルネームだけしか知らない人間が、ある日、突然投稿を止めただけでも不安になる。お気に入りのブログが更新されなくなっても不安になる。ジョナサンとジョンは一心同体・・・ではなく異心同体なので、片方が無事であればもう片方も無事であることが分かる。しかし、自分の身に何が起こったのか分からない。酒にしこたま酔って、道端や終点駅で目覚めた経験のある人なら、分かる感覚だろう。ジョナサンの不安を、アンセル・エルゴートは巧みに表出していた。

 

異なる人格が同じ女性と恋に落ちるというストーリーは、Jovianは映画や本で体験したことは残念ながらない。だが、これはかなりバナールなプロットではないだろうか。陳腐でありながら、しかし、その後の展開が切ない。観る者の想像力を掻き立てる見せ方、映し方は、低予算映画の常套手段である。それを室内の鏡やテーブルなど、光を反射する素材を効果的に使い、インターミッションとして暗転を用いることで、一人にして二人、一人にして不連続の存在を、映画的演出で以って描写できていた。静謐にして激しい、非常に示唆に富むエンディングには賛否両論あるかもしれないが、あれはジョンを主人格、ジョナサンを副人格とした、新たな一個人の誕生であると受け止めたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 シンプル・フェイバー 』で既に使われたネタが本作にも仕込まれている。まあ、それも飛浩隆の『 象られた力 』所収の短編『 デュオ 』が先行して使っているトリックであるのだが。

 

また、ジョナサンの抱えるDIDは、医学的に存在しうるケースなのだろうか。別人格は生まれてくるものであって、生まれながらにDIDであるという点に疑問が残った。同時に、『 ミスター・ガラス 』でも感じたことだが、人格の交代をコントロールしうる装置が存在することにどうしても納得ができない。外部環境の改善やコミュニケーション、カウンセリングにより複数の人格も統合しうることを小説『 十三番目の人格 ISOLA 』およびその映画化作品『 ISOLA 多重人格少女 』は示した(小説は面白いが、映画はスルー推奨である)。パトリシア・クラークソンなら、『 スプリット 』におけるベティ・バックリーに匹敵するようなカウンセラーを演じられたはずなのに、どうしてこうなった・・・

 

総評

サスペンスフルであり、スリラーテイストもあり、SF的でありながら、ヒューマンドラマでもある。ジャンルとしては、ボーイズ・ラブが一番近いのかもしれない。『 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜 』を楽しめたという人なら、本作もおそらく楽しめるはずだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アンセル・エルゴート, サスペンス, スキ・ウォーターハウス, スリラー, パトリシア・クラークソン, ラブロマンス, 監督:ビル・オリバー, 配給会社:プレシディオLeave a Comment on 『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』 -多重人格ものの実験的作品-

『 愛がなんだ 』 -この不条理な愛という心の形-

Posted on 2019年4月29日2020年1月28日 by cool-jupiter

愛がなんだ 70点
2019年4月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岸井ゆきの 成田凌
監督:今泉力哉

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愛とは何かと問われて即座に返答できるのは、宗教学者や哲学者であろう。しかし、彼ら彼女らの出す答えというのは往々にして一般人の肌感覚とは合わない。それなら、「愛とはためらわないことさ!」と、どこかで聞いた台詞でごまかすのも一つの手だ。本作はそんな愛の形を非常に興味深い形で映し出す。

 

あらすじ

山田テルコ(岸井ゆきの)は、マモちゃんこと田中守(成田凌)にぞっこんで、呼ばれれば深夜に赴き、飯炊きから風呂掃除まで甲斐甲斐しく彼の世話をしていた。だが、守はテルコを恋人にするつもりはさらさらなかった。ある時、守とついにベッドインを果たしたテルコは有頂天になるも、突然部屋から追い出され、それから守からの連絡が途絶えてしまうのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

まずは岸井ゆきのの演技に敬意を表したい。『 娼年 』における桜井ユキと、『 食べる女 』における広瀬アリスの両方の属性をさらに誇張したようなキャラを見事に体現してくれた。入浴シーンや、直接的ではないベッドシーンもあるので、スケベ視聴者はその辺にも期待して良い。何よりも注目したいのは、テルコが自分を客観視する視線の痛々しさと、自分で自分をまるで客観視できない痛々しさを同居させているキャラであること。特に即興ラップのシーンと銭湯のシーンには笑わされてしまった。こうした自己と対象との間に距離が生じた時、同一もしくは類似の対象への認識にずれが生じた時に、笑いが励起される。「人のふり見て我がふり直せ」と言うが、テルコの恋愛面での痛々しさは、多くの人間、おそらくはテルコと同じ20代後半女子の共感を呼ぶことだろう。ここで言う共感とは、テルコがマモちゃん一辺倒になって仕事も何もかもそっちのけで尽くそうとする様に対して「分かる、その気持ち」と感じることと、「えー、そんなのダメ」という相反する気持ちの両方を抱かせるということだ。このことは劇中でも一種のフラクタル構造になっていて、他キャラクターがもう一方のキャラクターへの接し方、大げさに言えば存在の在り様が、自分に重なりつつも自分とは違うという感情を呼び起こす。それは自己認識のずれであり、多くの人間が陥る「恋は盲目」状態である。そうした姿を時には激しい口論の形で提示する本作は、非常に上質なエンターテインメントである。恋やら愛やらは美しいものであること以上にドロドロとした醜悪なものでもある。テルコのストーカーまがいの気持ちは、美醜両方を兼ね備えていて、それゆえに岸井ゆきのの演技が光っている。

 

成田凌は、ようやくエキセントリックではない男の役がまわってきたか。いや、本作のキャラも充分に下衆な男ではあるが、それは守というキャラの一面に過ぎない。冒頭から玲淡とすら思わせる言動を見せつけてくれるが、それが物語終盤に鮮やかにひっくり返るロングのワンテイクの対話シーンがあり、守という男が単なる嫌な男ではなく、まず一人の人間であって、必死に甲斐甲斐しく尽くそうとするテルコに全く見合わない男なのではなく、彼自身にも彼の在り方があるのだということがしっかりと伝わってきた。注意すべきは、守というキャラクターもまた、様々な人間模様のフラクタル構造の一部であるということ。テルコに対する彼の姿勢は、そのまま江口のりこ演じるキャラの守への姿勢として跳ね返って来ているということ。

 

本作はテルコと守の閉じた関係を描くのではなく、テルコの親友やその友人男性(この男もまた痛々しい、それが泣けるし笑わせてくれる)らを巻き込んで、物語のあちらこちらに人間模様の相似形が展開されていく。これが何ともリアルである。中盤以降に、江口のりこのキャラクターが、あるキャラの一途な想いをぶち壊そうと口舌を振るうが、これが『 君が君で君だ 』における向井理とYOUのように、偏執的な想いに凝り固まったキャラの頭にガツンと一発見舞ってくる。そこからフラクタルは崩壊に向かい、一つの模様に帰着するのだが、これまた何とも痛々しい。テルコに拍手。テルコに乾杯だ。

 

本作は撮影に関しても優れている。カメラの長回しをするのであれば、それはキャラクターに焦点を強く長く当てたい時だ。であるならば、彼ら彼女らの表情や息遣いをそこに収めなければならない。少女漫画の実写化で何故か遠景からのショットを延々と撮り続ける意味不明なワンカットが一頃横行していたが、本作のような基本に忠実で、観る者に本当に見せたいショットをワンカットで提供するようにしてほしい。

 

ネガティブ・サイド

成田凌演じる守を「かっこいい」と「かっこよくない」に二分法で「かっこよくない」に分類するのは難しいのではないか。かっこいいの定義は人による。しかし、何よりも映像や絵を見せる映画という媒体では、かっこいい=外見、見目麗しさを指すものだと捉えられる。ならば原作小説を翻案して、「いいひと」か「あんまりいい人じゃない」のように変えてしまう必要性も認められたのではないだろうか。

 

後はテルコ目線で、もう少し守の最大の魅力である手を描いたり、あるいはたいてい何かをパクついているテルコの食べ物をもう少し映し出してほしかった。テルコの良いところは(?)は、はたから見れば疲れてしまう環境、状態におかれてもお腹はしっかり減るところ、何かをがっつり食べるところで、それは一般的な恋愛模様とは真逆である。典型的には、女子は恋をすると食べ物がのどを通らなくなり、痩せる。したがって綺麗になる。テルコは逆で、常に何かを食べている。テルコは無償の愛を与える側ではなく、むしろ対象から栄養を吸い取るような、屈折した愛情の持ち主であるというフラクタル構造が見て取れる。だから、テルコが食べているもの=テルコ目線での男の良いところ、を観る側にもっとシェアして欲しかった。そう思えてならないのである。

また、愛をアガペーやエロス的なもの、もしくはキリスト教的な愛(=対象に変わりたい)という、やや哲学的、宗教的な匂いのする観念が散りばめられているのが、個人的には少々ノイズであった。このあたりは気にしない人も多いだろうけれど。

 

総評

久々に良い邦画を観たと感じた。今泉監督の、観る側や原作者に媚びない姿勢というか、「俺の世界解釈はこうなのだ」というビジョンを共有できた気がする。人間関係というのは自己と他者の関わり以外にも、自己と自己の関わり、自己内対話でも成り立っている。単なる恋愛感情以上のものがそこにあることを提示してくれる本作は、20代以上の男女に是非とも観て欲しいと思わせる逸品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ラブロマンス, 岸井ゆきの, 成田凌, 日本, 監督:今泉力哉, 配給会社:エレファントハウスLeave a Comment on 『 愛がなんだ 』 -この不条理な愛という心の形-

『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』 -いっそのことシリーズ化しては-

Posted on 2019年4月14日2020年2月2日 by cool-jupiter

L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 40点
2019年4月11日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:上白石萌音 杉野遥亮 横浜流星
監督:川村泰祐

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少し前までセレブ社長とラブラブだった剛力彩芽が演じた西森葵を、上白石萌音が引き継ぎ、山崎賢人演じた久我山柊聖を杉野遥亮が引き継ぐ。杉野は山崎に似せようと努力しているが、そもそも原作キャラとそこまで似ていない。そして上白石は悪い役者ではないが、剛力にも似ていないし、かといって漫画原作のキャラにも似ていない。『 ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 』でオールデン・エアエンライクがコテンパンに叩かれたのは、彼がそもそもハン・ソロおよびハリソン・フォードに似ていなかったからである。

あらすじ

西森葵(上白石萌音)と久我山柊聖(杉野遥亮)は周囲に秘密の同棲生活を続けていた。そんな時、アメリカから柊聖の親戚、久我山玲苑(横浜流星)がやってきて、柊聖をアメリカに連れ帰ろうとする。葵を理由にそれを拒む柊聖に納得いかない玲苑に、葵の良さを教えるためと同居を勧める柊聖。かくして奇妙な一つ屋根の下生活が始まった・・・

ポジティブ・サイド

スレンダーな剛力から、ちんちくりんの上白石へのバトンタッチは英断だった。無愛想なモテ男が、愛情をストレートにぶつけられることで陥落するプロットは少女漫画の王道だが、そうした愛情の深さ、包容力は上白石の方が表現者としては上手である。同時に根っこの部分に強さと弱さを併せ持つところも良い。無礼千万な玲苑に対して毅然と立ち向かうところ、そして柊聖と離れ離れになることの苦しさを素直に吐露できる弱さの中にある強さ。この子(と言っては失礼か)のハンドラーには、舵取りを誤らないで頂きたいと思う。

メイクアップ・アーティストやヘア・スタイリスト、衣装などの裏方さんはかなり頑張られたことと思う。杉野は顔の輪郭はそれなりに山崎に似ているが、その他の部分はそうでもない。それを、ここまで違和感少なく同一のキャラであると観る側に思わせるように仕上げるのは一方ならぬ労苦であったと思う。彼ら彼女らの仕事に敬意を表したい。

ネガティブ・サイド

杉野と横浜の演技力は何とかならなかったのだろうか。もちろん山崎や剛力の演技が優っていたなど言うつもりは毫もないが、それでももう少し本人たちの努力や周りの指導が必要だろう。特に主演の杉野。『 あのコの、トリコ 』から成長していない。笑い方、怒り方、泣き方。発声と発音の練習。これらを日頃から練習しているとはとても思えない。

横浜にしても同じで、アメリカ帰りで英語ができない日本人を見下す役を演じるなら、それを演じ切りなさいと言いたい。『 シン・ゴジラ 』で叩かれまくった石原さとみをJovianは一貫して擁護してきたが、それは彼女の発する帰国子女的な雰囲気と気宇壮大な夢を誰はばかることなく語るところに説得力を認めたからだ。加えて彼女の英語。これは可もなく不可もなく。だが、横浜のキャラはアメリカ育ちとは思えない、少なくともこの物語世界におけるアメリカという国のポジティブな価値観を受け継いでおらず、悪い方の価値観を受け継いでいる。「二ヶ国語を話すのをバイリンガル、三ヶ国語をトリリンガル、一ヶ国語しか話さないのはアメリカンと言う」というジョークがある。もしアメリカ的な属性を強調したいのなら発音にはもう少し注意した方がいい。“Don’t take it out on me just because your English sucks!”の sucks が sex という発音に近かった、というかセックスだった。それが横浜なりの女子ファンへのサービス精神、そして川村監督の意図した演出であるならば仕方がない。だがそれは、英語指導・監修としてクレジットされていた2名の方に disrespectful だろう。

物語自体も残念ながら破綻している。学校という場所は噂が生まれ、拡散される場所であるが、なぜAという出来事に対しては大きな噂がすぐに広まるのに、Bという出来事にはそれが起きないのか。また、なぜXというキャラのAという(失礼極まる)行動は周囲に波風を立てない一方で、YというキャラのAという行動はそうならないのか。漫画のエピソードを数十分に一気に圧縮しようとして失敗したのだろう。脚本段階で瑕疵があったとしか考えられない。キャラたちの行動原理がよく分からない。なぜ体育館でバスケをするのに下足なのか。またデパルマ・タッチでスローで見せるべきは、シュート時の身のこなしであって、ボールがネットに swash するところではない。そういうのはバスケ映画の技法であって、キャラにフォーカスする本作のような映画の撮影技法ではない。

総評

残念ながら様々な意味で駄作である。しかし、見方を変えれば、テレビドラマではなく映画、特に邦画の世界でも、数年後に異なるキャストで異なるエピソードを作ることが可能ということを示したとも言える。原作ファンの支持を得られれば、数年後に再映画化企画が持ち上がるかもしれない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 上白石萌音, 日本, 監督:川村泰祐, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』 -いっそのことシリーズ化しては-

『 ルビー・スパークス 』 -小説は事実よりも奇なり-

Posted on 2019年4月11日2020年2月2日 by cool-jupiter

ルビー・スパークス 70点
2019年4月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ポール・ダノ ゾーイ・カザン
監督:ジョナサン・デイトン バレリー・ファリス

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『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』デイトンとファリスの夫婦監督の作品である。本と現実世界がリンクしてしまうという筋立ては古今東西、無数に作られてきた。古くは『 ネバーエンディング・ストーリー 』、割と最近のものだと

『 主人公は僕だった 』。作者が自らが想像および創造したキャラクターに恋するプロットも陳腐と言えば陳腐だ。日本では、漫画の『 アウターゾーン 』にそんなエピソードがあったし、その作者の光原伸も、自らの生み出したミザリィに恋していたのではなかろうか。

あらすじ

弱冠19歳と時のデビュー作で文壇を席巻したカルヴィン(ポール・ダノ)は、以来10年にわたって書けずにいた。しかし、ある時、夢にインスピレーションを得て、ルビー・スパークス(ゾーイ・カザン)というキャラを着想する。カルヴィンは執筆に没頭するうちに、ルビーに恋焦がれるようになるが、ある日、なんとルビーが目の前に現れ・・・

ポジティブ・サイド

カルヴィンというキャラクターの外面のなよなよしさ、そして胸の内に秘めたマグマのようなエネルギー。相反する二つの要素をポール・ダノは見事に同居させ、表現した。動きの貧弱さと眼鏡の奥に光る眼差しの強さと弱さ、そして意外なほどに攻撃的な口調が、このキャラの複雑さを物語る。作家というのは往々にして難しい生き物だ。綾辻行人は東日本大震災後に「書けなくなった」と語ったが、人命を小道具にするミステリ作家ならではの症状だろう。カルヴィンも同じで、父の死や、かつてのガールフレンドとの別れが、書けない自分の理由の一部を為している。我が恩師の一人、並木浩一は、作家には想像力と構想力が必要と説いた。想像力=他者になる力、構想力=世界を仕上げる力、という定義である。カルヴィンは、まず間違いなく構想力優位の作家である。ルビーとの関係に幸福を見出すカルヴィンには、しかし、ルビーの目から見た自分自身の姿がない。つまり、カルヴィンは自分で自分を知らない。そのことをルビーは最初の出会いでいきなり喝破する。愛しい相手が自分に抱いてくれる感情が変わりそうになった時、本当ならば自分が変わらねばならない。しかし、カルヴィンは創造主であるが故にその選択肢を拒否する。本作は青年の成長物語ではあるが、成長できない青年のダークサイドを見せつけるという逆説的な手法を取る。これが面白く、なおかつ背筋に何か冷たいものを感じさせられるような恐怖感や不安感も駆り立ててくる。

また脚本も書き、タイトルロールも務めたゾーイ・カザンも称賛に値する。可愛らしく、それでいて理知的で、創造性に富み、社交性も豊か。最もその魅力が際立つのは、序盤で嫉妬心から悪態をつきまくり、駄々をこねる様だ。暴れる女は無理矢理でも抱きしめなさい。なぜなら、その怒りの大きさが対象への愛情の大きさなのだから、と彼女自身が高らかに宣言しているかのようだ。

本作のカメラワークはユニークである。カルヴィンはしばしば建物や車、部屋という仕切られた空間で非常に弱い照明の光の下で映し出される。対照的に、ルビーは開放的な衣装や環境で、たっぷりと光を注がれる。ダウナー系男子とアッパー系女子の対照性が終盤に交わる時、光と影、どちらがその濃さを増すのか。Fantasticalなラブロマンスと見るか、変化球的なサスペンスと見るか。二人の織り成すケミストリーは最終的に何を生み出すのか。時々スローダウンしてしまう箇所もあるが、全体的には100分程度で綺麗にまとまった良作である。

ネガティブ・サイド

カルヴィンの家族を巡る物語は、もう少し深堀りできたのではなかろうか。このストーリーの流れでアントニオ・バンデラスが陽気にニコニコ笑うおじさんを演じているのを見れば、バイオレンスを含む何らかの陰鬱な出来事があったと想像してもおかしくはない。実際はそんなことはないのだが、ややミスキャスティングかつミスリーディングであるように感じた。

カルヴィンの兄嫁のスーザンとルビーの絡みも欲しかった。また、カウンセラーのローゼンタール先生とルビーにも何らかの接点が欲しかったと思う。ルビーという存在の虚構性ゆえに自分の周りに実在する人間に、なかなかルビーを紹介できないカルヴィンの気持ちは分からないでもない。けれども、ルビーという女子の心の変化を読み取るには、もう少し丁寧な人間関係の描写が必要だったと考えてしまうのは、Jovianが男性だからなのだろうか。

総評

本作の放つメッセージは詰まるところ、庵野秀明が『 新世紀エヴァンゲリオン 』の劇場版で観客に痛烈な形で放ったメッセージと同質のものである。つまり、「外に出ろ、俗世に交われ」ということだ。愛はそこに唯あるだけのものではない。自分が誰かを愛し、誰かから愛されるのなら、その愛を常に保ち続けるために動きなさい、働きなさい、変わりなさいということだ。婚活がなかなかうまくいかない男性には、本作は案外ためになる視聴覚的テキストになるのではないだろうか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ゾーイ・カザン, ポール・ダノ, ラブロマンス, 監督:ジョナサン・デイトン, 監督:バレリー・ファリス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 ルビー・スパークス 』 -小説は事実よりも奇なり-

『 君は月夜に光り輝く 』 -ファンタジー映画に徹すべきだった-

Posted on 2019年4月7日2020年2月2日 by cool-jupiter

君は月夜に光り輝く 45点
2019年4月1日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:永野芽郁 北村匠海
監督:月川翔

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『 君の膵臓をたべたい 』の月川翔監督と北村匠海が、ヒロインに永野芽郁を迎えて、小説を映画化したのが本作である。「きみすい」の二番煎じの匂いがプンプンと漂ってくるが、その予感は間違いではなかった。

あらすじ

渡良瀬まみず(永野芽郁)は発光病という不治の病で入院中。そこにクラスの代表として嫌々ながらお見舞いに訪れた岡田卓也(北村匠海)は、まみずの願望を一つ一つ代行して叶えていくことを引き受けて・・・

ポジティブ・サイド

北村匠海の静かで、一見すると感情の乏しい演技は、こうした役どころによく当てはまる。月川監督はそれを上手く使っている。エナジェティックな女子に振り回される、受け身な男子という役が合うが、もうそろそろ違う路線を模索し始めてみてもいいのではないだろうか。それでも、北村のしなやかな強さを内に秘めた存在感や優しさ、時に一徹なまでの頑固さ、表情には決して現れることのない直情径行さ、そうしたものを全て内包したような立ち居振る舞いを魅せられるところが、単なる期待の若手俳優たちと彼を分かつ一線であろう。

永野芽郁も発光の美少女・・・、ではなく薄倖の美少女が似合う。単に病魔に冒されたか弱い女の子というだけではなく、そのうちにある願望、悲しみ、怒り、邪(よこしま)とも言えそうな欲望などの感情をないまぜにしつつも、笑顔でそれを吹き飛ばしてしまうような天真爛漫さは、『 君の膵臓をたべたい 』の浜辺美波とはまた一味違った良さがある。浜辺がミステリアス女子だとすれば、永野はパワフル女子だろう。

二人のキャラクター造形はとても魅力的で、卓也がまみずとの距離を縮めていく願望代行過程には、余命ゼロというシリアスさとは裏腹のユーモアがある。そのユーモラスな展開が、冒頭ではっきりと描かれるまみずとの永遠の別離をいっそう切ないものにしている。脇を固める長谷川京子や及川光博も、これらの若い才能のサポート役に徹しつつも、見せ場を作った。凡百のラブストーリーではあるが、多くの見せ場があり、これらキャストのファンであれば鑑賞をためらう理由はないだろう。

ネガティブ・サイド

ちょいと映画ファンさんよ。聞いてくれよ。

ブログとあんま関係ないけどさ。

このあいだ、近所の映画館行ったんです。映画館。

そしたらなんか『 君は月夜に光り輝く 』で

ヒロインが発光病に冒されてるんです。

で、よく見たらなんか窓とか超大きくて、

病室が光に溢れてるんです。

もうね、アホかと。馬鹿かと。

(略)

病院ってのはな、もっと患者の容態に対して注意深くあるべきなんだよ。

さっきまで元気そうだった患者さんが、

次の瞬間に急変して緊急手術になってもおかしくない、

そんな殺伐とした雰囲気がいいんじゃねーか。健康な奴は、すっこんでろ。

などと古すぎるコピペを使いたくなるほど、本作の欠点は大きすぎる。死期が近付くほどに強く光を放つということは、ほんの少しの弱い光を放ち始めた瞬間を捉えることこそが、治療や看護、本人や家族への告知や説明の面から、決定的に重要なことなのだ。この陽光が溢れる病室は、監督、撮影監督、照明のこだわりが結実したものなのだろうが、リアリズムの観点からは完全に誤った選択である。まみずの母親も、怒りの矛先を卓也ではなく病院に向けてはどうか。

『 タイヨウのうた 』や『 青夏 君に恋した30日 』のように、本作もいくつかの場面で、季節と時刻にマッチしない光の使い方をしている。“光”が重要なモチーフになっている作品にしてこのあり様とは・・・ 月川監督は個人的には高く評価しているのだ。事実、Jovianは2018年の国内最優秀監督の次点に推している。氏の奮励と捲土重来を期したい。

主演二人の演技は及第点もしくはそれ以上を与えられるものの、甲斐翔真と今田美桜の二人の棒読みは何とかならなかったのか。さんざん練習してあのレベルなのか、それともあまり練習をせずに撮影に臨んだのかは知らないが、根本的な発声練習にもっと励むべきだ。『 ブレードランナー 2049 』のライアン・ゴズリングが見せた、彼が普段からやっていたような発声練習をもっとやるべきだ。彼ほどのトップスターでもこうした地道なトレーニングを積んでいるのだ。もっと真剣に役者業をやれと言いたい。

これは原作者にその責があるのだろうが、なぜに日本の漫画、小説、映画は劇中劇を行うとなると「 ロミオとジュリエット 」なのだ。馬鹿の一つ覚えとはこのことであろう。『 あのコの、トリコ 』という駄作だけで、これはもうお腹いっぱいである。北村匠海に女装をさせたい、あるいは芸域を広げるために女形をやってほしいということであれば、別にジュリエットである必要はない。『 ピース オブ ケイク 』の松坂桃李や『 彼らが本気で編むときは、 』の生田斗真のような役を演じる別の機会がきっと訪れるはずだ。

総評

実写の『 君の膵臓をたべたい 』の水準を期待すると、がっかりさせられる。しかし、最初からファンタジー映画であると割り切って、バイオフォトンなどという怪しげな言葉に惑わされないようにして鑑賞すれば、つまりリアリズムなど一切考えることなく観れば、純粋で芳醇で、やや苦いロマンスを味わうことができる。チケットを買う前に、よくよくそのことを心に留めておくべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 北村匠海, 日本, 永野芽郁, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 君は月夜に光り輝く 』 -ファンタジー映画に徹すべきだった-

『 九月の恋と出会うまで 』 -タイムリープ要素以外はまあまあ-

Posted on 2019年4月7日2020年2月2日 by cool-jupiter

九月の恋と出会うまで 50点
2019年3月31日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:高橋一生 川口春奈
監督:山本透

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何ともミステリアスなタイトルである。『 わたしに××しなさい! 』の山本透監督が、タイムリープものを扱うということに、期待と不安の両方を抱えながら、結局は鑑賞してしまった。タイムトラベルものというのは何をどうやっても矛盾が生じるものだが、そこにさえ目をつぶれば、それなりに楽しめる作品になっている。

あらすじ                    

あるアパートに引っ越してきた志織(川口春奈)は、ある夜、エアコンのダクトから「あなたに危険が迫っている」という未来からの声を聞く。不審に思う志織だったが、次々に未来を言い当てるその声を信じることに。すると声は同じアパートに住む平野(高橋一生)を尾行するように依頼してきて・・・

ポジティブ・サイド

川口春奈がいつの間にやら美人になっている。ちょっと前まで美少女だった気がするが、今は美人になっている。川栄李奈の先輩という役どころも、大人の女性らしさの演出を後押ししている。

高橋一生も変わらぬ安定感である。どこかコミュ障気味のサラリーマンを、視線を合わせず、声に抑揚を持たせず、また病人である女性に配慮ある行動はできるものの、ロマンチックさのかけらもない言葉を浴びせるなど、まさに nerd である。映画『 サイコ 』へのオマージュと思しきシーンでも、高橋一生のちょっと浮世離れした人間特有の雰囲気が、物語序盤のサスペンスを見事に盛り上げる。

この二人がどのように恋に落ちるのか。恋に落ちていく過程はどのようなものであるのか。このあたりに説得力があった。特に二人が向きになって不毛な言い争いを繰り広げる様は、誠に微笑ましい限りである。いくらかご都合主義的な展開もあるが、不必要にドラマチックな展開も少なく、全体的には非常にリアリスティックな恋模様が描かれる。高校生の恋愛模様とは一味違う、落ち着いて鑑賞できるストーリーになっている。

ネガティブ・サイド

『 コーヒーが冷めないうちに 』と同じく、タイムリープもの、タイムトラベルものの矛盾=パラドクスがそこかしこに存在する。本作はそこに「歴史の修正力」説を採用するが、なぜそのような力が働くと考えられるのかの根拠の呈示が非常に脆弱である。平野というキャラを nerd にして作家の卵にしたのは、こうしたパラドキシカルな事象を理路整然(必ずしもそれが的を射ていたり分かりやすかったりする必要はない)と説明するためではないのか。実際に本人も嬉々としてそれを語るが、そうした事柄への好奇心や愛着の見せ方が弱かった。そこが弱いために、志織は自らが消滅してしまうビジョンに怯えはするものの、そのことを現実の脅威として捉えていないように映ってしまった。従容として運命を受け入れんとする女性と、なんとかそれを阻止しようと奔走する男性というのは、クリシェではあるが、現代的とは言えない。メッセージ性が足りないのだ。それが本作の最大の欠点である。

もう一つ提言するなら、平野と詩織を巡る時間の円環が閉じた、という感覚を得られないことも問題であろう。運命に翻弄される男と女が最終的に添い遂げるというのは、古今東西で最大のクリシェであるが、なぜそうしたプロットが生き延びているのか。それは陳腐な物語に身を任せた先にあるカタルシスの爽快さの故である。『 わたしに××しなさい! 』についてもエンディングの弱さを指摘したが、このあたりが山本透監督の課題であろう。さらなる精進を期待したい。

総評

可もなく不可もなくであろう。本当に面白いタイムリープものなら、高畑京一郎の小説『 タイム・リープ―あしたはきのう 』が白眉である(映像化されているようだがJovianは未見である)。または、同じく小説から映画化された『 僕は明日、昨日の君とデートする 』の方が、ファンタジー作品と割り切っている分、より純粋にストーリーを味わうことができる。また、時間のループが綺麗に始まり、綺麗に閉じる物語としてはジェームズ・P・ホーガンの古典的名作小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『 巨人たちの星 』がお勧めである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 川口春奈, 日本, 監督:山本透, 配給会社:, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 高橋一生Leave a Comment on 『 九月の恋と出会うまで 』 -タイムリープ要素以外はまあまあ-

『 真っ赤な星 』 -人間の一面を確かに切り取った佳作-

Posted on 2019年1月21日2019年12月21日 by cool-jupiter

真っ赤な星 70点
2019年1月17日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:小松未来 桜井ユキ 毎熊克哉
監督:井樫彩 

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なんとなく気になっていたタイトルが今日までと知って、終映日のレイトショーで鑑賞。そういえば『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』もそうやって鑑賞したのだった。過剰な期待ほど映画の面白さを損なうものは無いと知りつつ、それでも期待を抱いて劇場へ。いくつか弱点はあったが、良作であった。

 

あらすじ

中学生の陽(小松未来)は入院中に看護師の弥生(桜井ユキ)にほのかな恋心を抱くも、退院の日に陽は弥生が看護師を辞めたことを知る。家にも学校にも居場所が無い陽。一年後に街外れで再会した弥生は、娼婦として男に身体を売っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

新人監督・井樫彩の美意識が爆発した作品である。光と闇のコントラストがこれでもかと過剰なほどにぶち込まれた作品である。恐ろしく澄んだ空、白い雲、空中を漂うパラグライダーを描いた次の瞬間には、夜という観念的な異界をねっとりと映し出す。物語の前半は、昼の白と夜の黒のコントラストで構成されていると言い切ってしまっても良いくらいだ。この白と黒が徐々に溶け合う、つまり明け方や夕焼けの描写が意味するものは・・・おっと、これ以上はネタばれというか興醒めか。光だけではなく闇の使い方にも秀でたものがある。エロティックなシーンは敢えて見せない。暗がりにうっすらとだけ浮かび上がりシルエットが交わるだけで充分なのだ。漏れ出る吐息、声、それだけで十分に煽情的で官能的だ。良いホラー映画は怪異の存在を見せずに、それを見る者に想像させる。つまりはそういうことなのである。

 

本作のもう一つの優れた点は、とにかく映像に語らせるということである。コミックの映像化にありがちな説明的な台詞が一切排除されている。これが心地よい。弥生の部屋には無造作に下着だけがピンチハンガーに吊るされている。あまりにも整った台所と汚れ放題荒れ放題の寝室兼居間の対比。もうこれだけで弥生の生活スタイルが見えてくる。そして陽が思いがけず見つけてしまう写真。この監督は観客をしっかりと信頼している。頼もしい作り手が現れた。

 

本作には様々な二項対立が描き出される。大地と空。パラグライダーや天文観測所は、その対立が止揚されたものを象徴している。昼と夜、男と女、子どもと大人、処女性と母性、陰と陽。そうした二項対立が絡まり合い、溶け合うクライマックスの美は圧倒的である。『 君の名は 』の黄昏時に通じるものが、確かにそこにはある。ここで初めて我々はタイトルの真っ赤な星の意味を知る。以下、白字。

 

それはキスマーク。内出血の跡も沈みゆく太陽と同じくいつかは消える。しかし、それは確かにそこにある。「このまま消えちゃおっか」という弥生の台詞は、陽と自分の関係を「真っ赤な星」に重ね合わせたからこそであろう。

 

ネガティブ・サイド

映像芸術という意味では素晴らしいが、物語としての新鮮味にはどうしても欠ける。非常に閉鎖的な地域、さらに家庭環境において生まれるドラマというのは、何故にこうも平板になってしまうのか。

 

さらに登場してくる男が、陽の同級生一名を除いて、どれもこれもがクズだらけだ。魅力あるクズについては『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』が見事な描写を披露してくれた。浮気に精を出しながら「俺、お前とのことは真剣に考えてるから」などと、火サスや昼メロで100万回聞いたような台詞を、何故に有料の映画でまで聞かされなければならないのか。こんな男は100%嘘をついているというのは、今時なら女子中学生ですら感じ取れるのではないか。こんなブログを読んでいる妙齢の女子がいるとは思わないが、女性に暴力を振るう男は、女を“女”という記号もしくは機能としてしか見ていないということを知ってほしい。

 

女性監督自身がそのようなメッセージを発することに衝撃を受けるが、井樫彩監督は『 ワンダーウーマン 』のパティ・ジェンキンスのようになれるだろうか。

 

総評

『 無伴奏 』、『彼女がその名を知らない鳥たち 』、『 光 』、『 娼年 』などの系列に属する作品である。つまり、非常に狭いコミュニティの中で濃密な人間関係を築く(もしくは壊す)という過程を描いた作品やジャンルに興味があれば、鑑賞して損はしないだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 小松未来, 日本, 桜井ユキ, 監督:井樫彩, 配給会社:「真っ赤な星」製作委員会Leave a Comment on 『 真っ赤な星 』 -人間の一面を確かに切り取った佳作-

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