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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ファンタジー

『 旅猫リポート 』 -クソ映画・オブ・ザ・イヤー級のつまらなさ-

Posted on 2019年8月5日2020年4月11日 by cool-jupiter

旅猫リポート 25点
2019年7月29日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:福士蒼汰 高畑充希 広瀬アリス 竹内結子
監督:三木康一郎

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190805014703j:plain

昨年(2018年)、どこの映画館で何の映画を観ても、本作の予告編ばかりをこれでもかと巨大スクリーンで見せつけられたという印象が残っている。はっきり言ってトレイラーだけでストーリーの全体像が見えてしまっている。きっと出来の悪い韓国ドラマよりも、さらに出来が悪いのだろうな・・・。そんな予感を抱いていたが、果たしてそれは正しかった。

 

あらすじ

悟(福士蒼汰)は愛猫のナナ(高畑充希)を里子に出すためにクルマを走らせ、旧友たちを訪れていく。なぜ悟はナナを手放すのか。車中で悟は自分と猫との関わり合いに思いを馳せて・・・

 

ポジティブ・サイド

高畑充希の声が存外に猫に合っていた。猫が喋る作品というと『 銀河鉄道の夜 』や『 ドラえもん 』が想起されるが、高畑の声はどことなく田中真由美や大山のぶ代といった大御所のそれを通じるところがある。

 

あとはナナのあらゆる動きをカメラに収めたcamera operatorの皆さまと撮影監督、そしてそれらを見事に繋ぎ合わせた編集担当者たちに敬意を表したいと思う。

 

ネガティブ・サイド

これは『 コーヒーが冷めないうちに 』に優るとも劣らないクソ映画である。最初から観る人に「どうぞ感動してください!!」と声高にお願いしてしまっている。それで感動できてしまう人は、よほど純粋な心の持ち主か、あるいは最初から涙を流す気満々の人であろう。

 

本作のダメなところ其の壱は、秘密を秘密にしておきたいという製作者の願望が暴走しているところである。はっきり言って両親を事故で失くしてしまった子ども、などというのはあらゆる映像作品でクリシェになってしまっている。にもかかわらず葬儀の場であまりにも不自然な態度をとる大人たち。そして、喫茶店あるいは個室のある店で話せば良いようなことを、当の悟がいるその場で話し合ってしまう無遠慮な大人たち。さらに、悟の家族と親友の家族の不自然なまでのコントラスト。伏線はもう少しさりげなく張って欲しい。

 

本作のダメなところ其の弐は、台本の製作段階でミスがあったとしか思えない変てこな日本語の散見されることである。全てはとうてい思い出せないが、広瀬アリスの言った「お金を貯めて、ちゃんと悲しまないと駄目!」という台詞には、眩暈がした。文脈上、言わんとしていることは分かるが、このセンテンス単体を見た、もしくは聞いた人に意味が伝わるだろうか。これが正しい日本語なのか。撮影中に誰も何も感じなかったというのか。

 

本作のダメなところ其の参は、一部の役者の演技の不味さ、拙さである。悟が富士山麓でペンションを営む高校の同級生夫婦を訪ねた夜、親友はへべれけに酔っぱらっていたが、それがとても酔っ払いを観察したり接した、もしくは自分も酔っぱらってしまったことがあるとは思えない酷い演技だった。そもそも酔うというのは脳のかなりの部分の機能が低下している状態なわけで、もちろん運動能力も低下している。にもかかわらず、悟の肩に担がれた時に、とても悟の側に体重を預けているようには見えなかったし、歩き方もしっかりとしたものだった。その後に、悟との別れ際の妻と悟の思わぬ台詞の応酬に対して見せた混乱と安堵の表情は良かった。顔だけで演技せず、全身を使って演技してもらいたい。

 

その他、細部に腑に落ちない点が多々見受けられた。例えば、竹内結子。なぜ猫が苦手で、テーブルに飛び乗ってしまうほど恐怖心を感じていることを披露した次の瞬間に、ナナを何の抵抗もなく撫で回すのは何故なのか。看護師さんが「巡回行ってきまーす」と言うシーンがあるが、普通は「ラウンド行ってきまーす」だろう。また、医師の死亡確認方法もおかしい。聴診器で心音ぐらい聞け。大昔のことだが、刑事ドラマなどで素人が頸動脈に触れただけで「駄目です、死んでます」などという戯けた死亡確認に激怒した医師会だったか何かの団体がテレビ局に猛抗議したと聞いたことがある。頸動脈で脈が触れなくとも、心臓付近なら微弱な脈がある場合も稀にあるのだ。医療系の団体がテレビ局に抗議する時は医学的なエビデンスがしっかりしていることが多い。サザエさんがピーナッツを空中に投げてパクっとやらなくなったのも、医師の抗議ゆえだった。製作者側は医療業界の事前調査が甘い。また、墓参りのシーンで、虹が出る方向が間違っていた。虹は太陽の反対側に出現する(というか見える)が、墓所の様々なオブジェの影は、虹に対して90~110度右方向にずれていた。つまり、太陽を左手に見ながら悟は虹を見ていたわけで、これは物理的にありえない。

 

ファンタジー映画だから、細かいことはどうでもいいでしょ?という姿勢がありありと伺えるが、その考え方は大間違いである。ファンタジーに説得力を持たせるには、世界の全てをファンタジーに染め上げる(例『 ロード・オブ・ザ・リング 』)か、あるいはファンタジー要素以外のリアリズムを極めるか(例『 シン・ゴジラ 』)のどちらかである。本作は端的に言って失敗作である。

 

総評

まともに鑑賞しようと思ってはいけない。悟に仕込まれた秘密の設定にも驚きはない。猫と人間のドラマチックな関わりを観たいのであれば、NHKで『 地球ドラマチック 』や『 ダーウィンが来た! 』の猫特集をどうぞ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ファンタジー, 広瀬アリス, 日本, 監督:三木康一郎, 福士蒼汰, 竹内結子, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 旅猫リポート 』 -クソ映画・オブ・ザ・イヤー級のつまらなさ-

『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

Posted on 2019年8月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

マーウェン 65点
2019年7月28日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:スティーブ・カレル
監督:ロバート・ゼメキス

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監督はロバート・ゼメキスである。Jovianは『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』シリーズは大好きだが、『 フォレスト・ガンプ 一期一会 』は楽しめなかった。おそらく自分にとって波長の合うゼメキス作品というのは、現実がフィクションに彩られる作品であって、フィクションが現実を彩る作品ではないのだろう。事実、『 リアル・スティール 』はそこそこ面白かったが、『 ザ・ウォーク 』には少々拍子抜けした。本作はどうか。これはフィクションと現実が溶け合う物語である。

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あらすじ

マークの乗る戦闘機はベルギー上空で高射砲に被弾。川に不時着したマークはナチス兵に包囲されるも、友軍の女性らの援護射撃で窮地を脱する・・・という人形劇を、マーク(スティーブ・カレル)は撮影していた。マーウェンと名付けた架空の村、それが彼と女性たちの楽園、そして終わることのないナチス兵との戦いの舞台なのだ。そしてマークは、過去に受けた暴行事件のダメージに今も苦しんでいて・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianはトイ・ストーリーに興味は持ってこなかったが、人形劇にも一定の面白さがあることが分かった。人形とは、端的に言って依り代である。自分でありながらも、自分ではない自分をそこに投影することができる。マーク自身がいみじくも語るが、なぜ第二次大戦を舞台に、人形劇を展開し、それを写真に収めるのか。それはアメリカが善である戦争だったからと言う。つまり、マークは自分自身を善に捉えたいという願望もしくは欲求があるのである。さもなければ、そうすることでしか癒しを得られない事情がある。一見、平和的に見えるマークの暮らしに、彼の抱える暗黒面が垣間見える。彼は悪人ではない。ただ、心に抱えた闇がちょっと人より濃いだけである。彼が食らった暴行事件の大元の原因は実に他愛ないものである・・・と言い切れないのが、本作の評価を一部の批評家の間で難しくしているところだと推測する。マークは、本命女性(の人形)以外には優しく接するものの、本質的に優しくはしていない。一部のシーンで明らかになることだが、彼は身の回りの女性たち(本命除く)を性的な欲望の対象にしない。はっきり言って、これで好感度をアップしてくれる女性は、よほどのウブか、あるいはプロであろう。普通の一般的な女性というのは『 愛がなんだ 』のテルコのように「わたしって、そんなに魅力ないか?」と拗ねてしまうものなのだ。人形ではあるが、胸を丸出しの女性をオブジェのように扱うマークに恐れ慄いた男女は多いのではないだろうか。Jovianは、マークの在り方をそこまで奇異であるとは思わない。彼は、作家の本田透と非常に近い思考の持ち主なのだろう。つまり、一途な純愛を貫こうとするあまりに自分の気持ち悪さに気がつかないのだ。自分の気持ちだけに忠実になって、対象を見ずに暴走する。それは時に若気の無分別などとも言われたりするが、早い話が「恋は盲目」なのだ。いい年こいたオッサンが中学生ぐらいの精神年齢でロマンティックな夢を見る。いくらマークが心に抱える闇があるとはいえ、これを美しいと感じるのはマイノリティで、マジョリティはこれをキモいと感じるだろう。Jovianはもちろんマイノリティだ。

 

『 アリータ バトル・エンジェル 』が切り拓いた、実写とCGのシームレスなつながりを、スケールは全く違うが本作も多用する。というよりも、アリータはいつの間にか実写(そのほとんどは実際はCGのはず)世界に違和感なく溶け込んだが、本作ではいつの間にか我々はマークの妄想世界である人形劇世界、マーウェンに違和感なく溶け込む。ただし、これもかなり人を選ぶ演出だろう。マーウェンはマークにとっての桃源郷であっても、客観的にはそうではないからだ。好意的に見ればマークは芸術家でマーウェンは芸術作品だ。しかし否定的に見れば、マークはキモオタでマーウェンは同人作品だ。このあたりも波長が合うかどうかで見方が綺麗に割れるであろう。Jovianは波長が合った。マークは象牙の塔に住む芸術家である。

 

マーウェンを荒らすナチス兵との終わりなき闘争がマークの心象風景であるというメタ的構造も良い。中盤から終盤にかけて、マークの心的世界が現実世界を侵食することを明示するカメラワークがある。スクリーンそのものに語らせる、映画の基本的な技法にして究極の技法でもある。その上で、誰もが揺りかごの中で一生を全うできる訳ではない。現実世界は時に疲れるし、ロッキー・バルボアに説教されるまでもなく「世界は陽光と虹だけでできているわけでもない」=“The world ain’t all sunshine and rainbows.”それでも、幸せは世界に存在する。メーテルリンクの『 青い鳥 』と同じく、それに気付けるかどうかなのだ。ほろ苦さを漂わせながら、甘酸っぱさを予感させつつ物語は閉じる。なんとも不思議な余韻である。

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ネガティブ・サイド

再度強調するが、本作を堪能できるかどうかは、ゼメキスの世界観と波長が合うかどうかにかかっている。おそらく普通の映画ファンの7割は波長が合わないと思われる。彼ら彼女らはマークに都合の良い妄想全開のマーウェン、そして健気に甲斐甲斐しくマークを見守る人形たちを「非現実的」、「人格者」、「性格良すぎ」と見るであろう。もっとダイレクトに言えば、マーウェン=ハーレムだと捉える向きもいるはずだ。そこでプラトニックに振る舞うマークを心から格好いいと思える人は少数派で間違いない。マークは万人受けしないキャラなのだ。男からも女からも好かれにくいキャラなのだ。最初からマイナーな層しか狙っていないのかもしれないが、それを万人受けする作品に昇華させてこその巨匠だろう。マーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノのように、アクが強くても、メジャーヒットする作品を生み出せる人は生み出せるのだ。

 

スティレット・ヒールは1960年代になって初めて作られた、つまり第二次大戦中には決して存在しないことを明示するシーンがあるが、「マーウェンでは時々不思議なことが起こるのざ」とマークは嘯く。その時のBGMは“Addicted to love”。これは1980年代の楽曲だろう。マーウェンという独特な空間の神秘性を棄損してしまっている演出であるように感じるのはJovianだけだろうか。

 

『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』のパロディをやるなら、徹底的にやってもらいたい。デロリアンは権利関係か何かで使えないのか?それなら、燃えるタイヤ痕もいらない。非常に中途半端な演出であり、シークエンスだった。

 

裁判所のシーンも、保護司や弁護士はマークがああなってしまうことは予見できなかったのだろうか。日本でもレイプ被害者の女性が裁判員裁判で、フード、サングラス、マスク、マフラー、手袋などの完全装備で出廷したという新聞記事を読んだ記憶がある。何がきっかけでPTSDを発症するかは分からないが、それでも避けられる不安や懸念は避けるべきだ。このあたりが事実に基づくのか、事実と相違するのかは調べてみなければ分からない。しかし、マークがマーウェンから卒業するきっかけ作りのための態の良い演出に使われてしまった感は否めない。

 

総評

観る人を選ぶ映画であることはすでに述べた。誰にお勧めしたいかよりも、どんな人にお勧めしないか、それを語ったほうが有益かもしれない。中高大学生ぐらいのカップルのデートムービーには間違いなく不向きである。君達は素直に『 天気の子 』でも観に行きなさい。オッサンからの心からのアドバイスである。大人のお一人様も避けた方が良いだろう。自分を客観視した時に、「何やってんだ、俺は?」と感じることはある程度以上の年齢の人間には避けられない、一種の賢者タイムであるが、それをチケット代を払って大画面に没頭した後に味わいたいという奇特な人は、きっとマイノリティであろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ファンタジー, ロバート・ゼメキス, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

Posted on 2019年7月26日2020年4月11日 by cool-jupiter

天気の子 55点
2019年7月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:醍醐虎汰朗 森七菜
監督:新海誠

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あらすじ

関東は異常気象で数十日も雨が降り続いていた。家出少年の帆高(醍醐虎汰朗)は、ふとした縁から、オカルト記事ライターの事務所で職を得る。精勤する穂高は、ある時、陽菜(森七菜)という少女のピンチを救う。弟と二人暮らしの陽菜は、しかし、実は祈ることで天気を晴れにすることができるのだった・・・

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以下、ネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

雨、雨、雨で気分が滅入るが、その分、晴れ間の美しさはとびきりである。そして『 シン・ゴジラ 』を思わせる、近未来的な東京(武蔵小杉は神奈川か)の景観はファンタジーとリアリティの境界線上にあると感じられた。現実の世界での突拍子もない事象にリアリティを持たせるためには、まずは舞台となる世界そのものを現実<リアル>から少しずらすことが必要である。本作はその導入部で成功している。何故なら、東京の爛熟した発達模様と、大都市に特有の不潔で冷酷な生態系が発達する場所の両方がフォーカスされるからだ。そして、穂高と陽菜の二人、いや主要なキャラクター達は全員、比喩的な意味での日の当たる場所に出ることはない。東京という摩天楼のひしめく街区ではなく、木造のおんぼろアパートや、明らかに空襲を免れた痕跡である、込み入った狭い路地が錯綜する地域に住まうのが穂高や陽菜である。この舞台設定により、我々はほぼ自動的にこの若い男女に感情移入させられるのである。

 

メインヒロインの陽菜のキャラクターは本作を救っている。はっきり言って、狙って作ったキャラクターである。新海誠の趣味が全開になったようである。あるいは、全ての男に媚びを売るためなのだろうか。器量良し、料理良し、家事良し、人柄良し、そしてなによりも年上と思わせておきながら年下である。これは反則もしくは裏技である。姉萌えと妹萌えの両方を満足させるからである。といっても、前振りや伏線はしっかりと用意されているので、アンフェアではない。

 

そして穂高についても。本作は典型的なボーイ・ミーツ・ガールであるが、同時に A Boy Becomes a Manのストーリーでもある。A Child Becomes an Adultでないところに注意である。大人とは何か。それは『 スパイダーマン ホームカミング 』で、ピーターとトニーが交わす会話に集約されている。つまり、責任ある行動を取れるかどうかなのだ。しかし、少年と男は違う。我々はよくプロ野球選手などが「優勝して、監督を男にしたい」と言ったりするのを聞く。ここでいう男が生物学的な意味での雄を意味するわけではないことは自明である。男とは、自らの信念に忠実たらんとする姿勢、生き様のことなのだ。そういう意味では、穂高は子どもから大人になろうとしているのではなく、少年から男になろうとしている。大人であっても男ではない男はたくさん存在する。むしろ、大人になってしまうと男になることは難しい。それは大人だらけのプロ野球の歴史を見ても、“男”という枕詞が定冠詞の如く使われる選手は、「男・前田智徳」ぐらいしか見当たらないことからも明らかである。そして、穂高は確かに男になった。その点においては、自らの信念に忠実であり続けた新海誠監督を評価すべきなのだろう。

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ネガティブ・サイド

これは周回遅れのセカイ系なのか。ひと組の男女の関係がそのまま世界の命運に直結するというプロットを、我々は90年代後半から00年代終盤にかけて、これでもかと消費してきたのではなかったか。『 君の名は。 』も、確かにそうした系譜に連ねてしまうことはできなくもないが、星というこの世(地球)ならざるものの存在が、世界をセカイに堕してしまうことを防いでいた。天気は、しかし、それこそ身近すぎて、世界がいともたやすくセカイに転化してしまう。それがJovianの受けた印象である。宇宙的なビジョンが挿入されるシーンがあるが、そのようなものは不要である。蛇足である。天気・天候と宇宙の関係を追求したものとしては梅原克文の伝奇・SF小説の傑作『 カムナビ 』がある。話のスケールもエンターテインメント性も、こちらの方が遥かに上である。惜しむらくは、梅原の著作はどれも映像化が非常に困難だということである。しかし、いつか勇気あるクリエイターたち(できれば『 BLAME! 』をアニメ映像化したスタジオにお願いしたい)が『 二重螺旋の悪魔 』をいつか銀幕上で見せてくれる日が来ると信じている。

 

Back on track. セカイ系は既にその歴史的な役目を終えたというのが私見である。それは西洋哲学史が、神、絶対者、歴史という抽象概念な概念としての世界から、フッサール以降は「生活世界」にフォーカスするようになり、さらに現代哲学は言葉遊びと現象学、脳神経科学、、心理学などが複雑に絡み合う思想のサーカス状態である。セカイ系は、思想的には「生活世界」=森羅万象という思考に帰着するものだ。自らの生きる、実地に体験できる範囲の世界のみを現実と認識することだ。しかし、そこには重要な欠落がある。想像力だ。人間の持つ最も素晴らしい能力である、想像力を弱めてしまうからだ。穂高は陽菜のために関東を犠牲にしたと言えるが、それは少年が男になる過程としては受け入れられても、子どもが大人になる過程としては違和感しかない。穂高もそうだが、それは須賀というキャラクターに特に象徴的である。この人物は、大人にも男にもなり切れず、大人のふりをした決断をする。もちろん、アニメ映画の文法よろしく、最後には主人公の味方になるのだが、それまでに見せる須賀の想像力の無さには辟易させられる。まるで自分というおっさんの至らない面をまざまざと見せつけられているようだ。「大人になれ」という須賀の台詞には、軽い怒りさえ覚えた。それも監督の意図するところなのだろうが。

 

雨を降らせ続けるという決断を下したのであれば、それがどれほど甚大な被害をもたらす決断であるのかをしっかりと描かなくてはならない。昨年(2018年)の西日本豪雨の被害はまだ我々の記憶に新しい。土砂災害もそうであるが、長雨により発生するカビ、金属の腐食、農作物の不作、疫病の発生、生態系への影響など、「昔に戻る」で決して済まない事態が出来することは日を見るより明らかだ。だいたい、あの銃があの状況で使えてしまうことがそもそもおかしい。いずれにせよ、穂高と陽菜の決断の結果、世界が“想像を超えた災厄”に見舞われていないと、それはセカイ系の物語としては不完全だ。というよりも、セカイ系の文法からも外れているではないか。特に世界全体がリアリティを欠いている。児童相談所は一体何をやっている?地域の公立小中学校は?警察も無能すぎる、と言いたいところだが、富田林署から逃げ出した男が実在するわけで、ここは減点対象にしない方が良いのだろう。

 

空の世界の描写も『 千と千尋の神隠し 』の白と式神のオマージュなのだろうか。もっとオリジナリティのあるビジョンは描けなかったのだろうか。細かい部分にも不満は残るが、全体を通じてやはりミュージック・ビデオ的な作りであるとの印象は避けられない。愛にできることを問うのは美しいが、愛が必然的に伴うネガティブな部分の描写の弱さ故に、子ども向け作品としてしか評することができない。

 

総評

最近、特に年齢を感じる。肉体的にそうだ。風邪をひいて、回復するのに4~5日を要するようになってしまった。精神的な老いも感じる。対象の新しい可能性を探ろうとするよりも、既知のものとのアナロジーで語ることが多いことは自覚しているが、仕事でも私生活でも何かを変えなければならない時期に来ているのかもしれないと感じた次第である。本作について言えば、オッサンの鑑賞に堪える部分は少ないだろう。しかし、中高大学生カップルあたりは、『 君の名は。 』と同じくらいに楽しめるのではなかろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 森七菜菜, 監督:新海誠, 配給会社:東宝, 醍醐虎汰朗Leave a Comment on 『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

『 町田くんの世界 』 -無邪気な純粋さがオッサンには刺さる-

Posted on 2019年7月6日2020年4月11日 by cool-jupiter

町田くんの世界 70点
2019年7月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:細田佳央太 関水渚
監督:石井裕也

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留まるところを知らない邦画界の漫画の映画化トレンド。しかし、たまに良作が生み出されるから、あれこれとアンテナを張っていなければならない。個人的には『 センセイ君主 』と並ぶ面白さであると感じた。

 

あらすじ

町田一(細田佳央太)は人が好き。呼吸するように人助けをする彼が、ちょっとした不注意で怪我をしてしまい保健室へ。そこで普段はめったに学校に来ない猪原奈々(関水渚)と出会う。町田くんの愚直なまでの親切さに、奈々の心は少しずつほぐれていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず町田くんというキャラが良い。山本弘の小説『 詩羽のいる街 』の詩羽の男子高校生バージョンのようなものを事前に想像していたが、全然違った。町田くんの行動には損得勘定が無い。人が好きだという言葉に裏が無い。思い込んだら一筋で一途。手助けの結果、見返りを求めない。先立つ一切の前提なく行動できることを、イマヌエル・カントは「自由」と呼んだ。町田くんは純粋な自由人なのだ。必ずしも良い人なのではない。劇中、猪原さんを大いに怒らせ、落胆させるからだ。それも悪意や敵意からではなく、他人に対する好意や善意ゆえになのである。こうしたキャラは希少である。そんなキャラクターを見事に現出せしめた細田佳央太を、周囲のハンドラー達は今後しっかり成長させ続けねばならない。

 

だが、もっと頑張って欲しいと願うのは関水渚のハンドラー達である。浜辺美波や南沙良のような、ポテンシャルが発揮されるのは時間の問題、すなわち良い役と出会えるかどうか、と思えるような女優ではなく、ポテンシャルの底をもっともっと掘るべしと思わせるタイプである。浜辺や南は多分、大谷翔平タイプだ。大いなる舞台と機会を与えれば、きっと開花する。しかし、関水は多分、藤浪晋太郎タイプである。現時点のポテンシャルだけで勝負させてはならない。もっとトレーニングを積まねばならない。だが、そうすれば二軍 → 一軍 → オールスター → 日本代表 → MLBという未来も拓けてくるかもしれない。削って磨いてみなければ分からないが、この石はおそらく光る。夜の町田くん宅の前、および自宅前のとあるシーンは、素直になりたいが故に素直になれないという猫的な、王道的な少女漫画的キャラのクリシェを忠実に演じていた。序盤と中盤以降で全く違う表情になるのは、メイクアップアーティストの手腕もあるだろうが、本人の表現力の高さのポテンシャルも感じさせる。売れるうちに一気に売りまくるのではなく、じっくりと確実に成長させてほしい。

 

少女漫画の王道は、自分の気持ちに素直になれないイケメンと美少女の予定調和的な紆余曲折を経て結ばれる。本作はそこをひっくり返した。常に自分の気持ちにまっすぐに生きる少年が、自分の気持ちに苦しむ。人がみんな好きということは、特定の誰かを好きではないということだ。そして特定の誰かを好きになってしまうことは、その他の人たちを傷つけてしまうことになる。町田くんはそのことを恐れている。その狭間で悩み苦しみ、足掻く町田くんの姿は、くたびれたオッサンの心に突き刺さった。『 わたしに××しなさい! 』でも指摘したが、それは青春の醍醐味であり、終わりでもある。その狭間で悩み苦しみ、足掻く町田くんの姿は、くたびれたオッサンの心に突き刺さった。彼の無邪気さ、純粋さは時に周囲には能天気さとも過剰な真面目さとも受け取られる。だが、町田くんほど劇的な形ではないにせよ、オッサンもオバちゃんも皆、このようなビルドゥングスロマンを自ら経験してきたはずだ。美男美女が織り成す美しい物語ではなく、生真面目で一生懸命な少年と、素直になりたいのに素直になれない少女のファンタジックな交流物語は、アラサー、アラフォーの世代にこそ刺さるはずだ。特に町田くんが無意識のうちに実行している存在承認、成果承認、行動承認は、モテ男を目指す全ての男性および職場で居場所を確保したいビジネスパーソンにとって必見であると言える。

 

キャラクター以外の要素も光る。たびたび川原の水門沿いのスペースが映し出されるが、これは猪原さんの心象風景であろう。流してしまいたい思い、溢れ出させてしまいたい想いのメタファーである。そこに暮らす仲睦まじい鴨のカップルにもほっこり。また学校にある二宮金次郎像に思わずニヤリ。様々な事情から全国的に撤去されているが、これも現代の日本人像のメタファーである。終盤のとあるシーンの不自然さも、これで見事に帳消しになっているのである。様々なガジェットも無意味に配置されているわけではない。石井監督、さすがの手練である。

 

ネガティブ・サイド 

主演二人以外のキャスティングが豪華すぎる。それはまだ良い。しかし、一部に高校生役が厳しい者も混じっている。前田敦子は意外に通じる。岩田剛典や高畑充希はちょっと苦しい。大賀はもう無理である。

 

光、照明に関しても、一貫性に欠けるシーンが2、3あった。最も気になったのが、病室が夕陽で満たされていたのに、次にとある場所に移動したときには完全に夜中になっていたこと。普通に考えれば近場の施設であるはずだし、そうでないとおかしい。作中で7月冒頭と明示されたいたはず。つまり、夏至直後である。午後8時としても、空は薄明かりが広がっているはず。病院からいつもの川原まで1時間半以上かかったと言うのか。にわかには信じがたい。

 

町田くんが「キリスト」と一部で呼ばれているというのも少々気になった。原罪を背負った人類の贖罪のために、神は其の子イエスを地上に遣わし、敢えて死なせしめた。愛する対象のために代わって死ぬ。これが神の御業である。愛する妻や子が病気で苦しんでいたら、自分がその苦痛を引き受けてやりたいと願う。それが人の愛である。それを本当に実行してしまうのが神の愛であるが、これを町田くんに適用するのはちょっと違うのではないかと感じる。第一に、町田くんの愛は彼の生活世界の中での博愛である。第二に、あくまで人間イエス・キリストは人格者でも何でもないからである。むしろ、博愛の精神で自らの生活圏から敢えて飛び出し、各地で神の教えを積極的に説き、ほとんどすべての場所でウザがられ、時に迫害すらされたムハンマドの方が、よほど町田くんとの共通点が多い。これは考え過ぎか。

 

もう一つは、池松壮亮の言う「この世界は悪意に満ちている」が指す世界と、『 町田くんの世界 』がほとんどオーバーラップしないことである。町田くんの世界とはカントやヘーゲル、またはヴィトゲンシュタインが説明するような絶対的な存在としての世界ではなく、フッサールが言うところの生活世界に近いものだ。世界という言葉の意味を意図的にずらして解釈したに等しく、池松演じる記者を狂言回しではなく、ただのパズルの一ピースにしてしまった。

 

最後に、最終盤のショットおよびシークエンスが『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』および『 天空の城ラピュタ 』の、良く言えばオマージュ、悪く言えばパクリであった。かなり長いシークエンスで人によっては冗長に感じるはず。だからこそ、オリジナルな味付けをして、観る側をエンターテインさせる工夫が欲しかった。

 

総評

秀逸な作品である。中学生~大学生ぐらいの層がどのように本作を受け取るのかは分からないが、デートムービーにはなるだろう。逆に、気になるあの子を映画館に誘う時に効果的な作品ではない。町田くん以上の魅力を発することのできる男などそうそういない。男が惚れる男、それが町田くんなのである。仕事に疲れ切ったサラリーマンやOLが、友達になりたい、一緒にご飯を食べたい、と感じてしまうようなキャラなのだ。無名の俳優が主役を演じる漫画の映画化と思い込むなかれ。欠点もあるが、それを補って余りあるエンパワーメントの作用が本作にはある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ファンタジー, 日本, 監督:石井裕也, 細田佳央太, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 関水渚Leave a Comment on 『 町田くんの世界 』 -無邪気な純粋さがオッサンには刺さる-

『 バースデー・ワンダーランド 』 -各種ファンタジーのパッチワーク-

Posted on 2019年5月9日 by cool-jupiter

バースデー・ワンダーランド 40点
2019年5月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松岡茉優 杏 麻生久美子 市村正親
監督:原恵一

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松岡茉優に引かれたのではない。杏と麻生久美子と原恵一に惹かれたのである。あと、市村正親にも。彼が犬の役をしていた舞台『 青い鳥 』のテレビ放映バージョンは、しっかりとVHSで録画されているのである。

 

あらすじ

アカネ(松岡茉優)は学校で憂鬱な出来事があった翌日、仮病で学校を休んだ。母親のミドリ(麻生久美子)は優しく見守ってくれるが、翌日のアカネの誕生日プレゼントをアカネ自身で取りに行けと言う。しぶしぶ叔母のチィ(杏)の営むChii’s ちゅうとはんぱ屋へと向かう。そこでアカネは異世界の錬金術師ヒポクラテス(市村正親)と出会い・・・

 

ポジティブ・サイド

美麗な絵である。『 グリンチ(2018) 』のような暴力的な質感でもなく、スタジオジブリの作品のような一瞬の光と影に命を吹き込むようなハッとさせられるような絵でもない。真っ暗な映画館で大画面で観るには、これぐらいのクオリティがひょっとすると眼と脳に最も優しいのかもしれない。

 

杏の声はよかった。小学生5~6年生ぐらいのアカネに対して、大人の余裕を見せつけつつも子どもらしさを残していて、とても魅力的なキャラに映った。杏が美人だから、という先入観はここではな働いていない・・・はず。Jovianはいつも映画を好き嫌いではなく、メッセージ性で判断している・・・はず・・・

 

母親ミドリの声の演技もよかった。出番はほとんどないのだが、何と言っても麻生久美子なのである。麻生久美子ほど、本人の年齢と演じる役柄がマッチしている役者はなかなかいない。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』の若妻役から『 翔んで埼玉 』の母親役まで、見事にキャリアを磨いていっている。Jovianは第二の樹木希林は沢口靖子だと思っているが、第三の樹木希林は麻生久美子になるのではないかとも感じている。

 

市村正親も良い。立派な髭を蓄えたスーツの老紳士が○○になるところが良いのである。貫禄とコメディックさを兼ね備えた年のとり方をしたいと思う。

 

今から書くことは人によってはかなりセンシティブに捉えるかもしれない。しかし、日本は意見表明の自由が保証されているので、思ったままに書いてしまう。本作の裏テーマは日本のロイヤル・ファミリーなのだろうか。明仁天皇が退位され、新元号と共に新天皇が即位あそばされたが、天皇とは日本史においてほとんど常にお飾りであった。ほとんどは言い過ぎか。平安中期以降は天皇はお飾りであった。『 バイス 』の表現を借りるならば、a symbolic job ということである。王権とは元来、魔力、生産力、軍事力の体現者だったのだ。そのことは、三種の神器の八咫鏡=魔力、八尺瓊勾玉=生産力、草那藝之大刀=軍事力の象徴であることからも自明である。現代の日本国民が天皇および皇族に無意識のうちに願いとして投影するのは、生産力の象徴たることだろう。だからこその少子化というのは穿ち過ぎた見方であろうか。本作でも行方不明の王子が姿勢の人たちに期待されているのは、王子個人の存在の在り方ではなく、祭司的儀礼の執行者としての機能だけであることが示唆されている。それが故に王子は歪み、なおかつ異世界の住人=そんな価値観とは無縁の人からの理解を得て、立ち直る。まるでどこかの島国のロイヤル・ファミリーと国民の関係性を描いているようではないか。もしも本作の製作者がこのような意図を劇中に盛り込んだのであれば、その意気やよし。『 検察側の罪人 』も、インパール作戦を通じて政治風刺、政治批評を行った。メッセージは中身が問題なのであるが、作品になんらかのメッセージ性を持たせようとする試みは、その心意気の有無が問題である。原監督にはメッセージがあったようである。そこは評価する。

 

ネガティブ・サイド

松岡茉優は良い役者である。そこに異論を挟む人は少ないだろう。しかし、voice actressとしては、まだまだ勉強しなければならないことが山ほどある。まず、小学生を演じようとしているようには聞こえない。舌滑も決してよくない。菅田将暉も『 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 』ではイマイチだった。俳優と声優の間の垣根は低くなりつつあるが、それでもアニメ作品の主役級には本職を使って欲しいし、海外の実写作品でも同様に思う。

 

本作の問題は、対象を大人にしているのか子どもにしているのか分からないところである。多分、子ども向けなのだろうが、ところどころにチィのサービスショットが挿入されるのはどういうわけなのだ。

 

いや、そんなことは瑣末なことで、ストーリーとキャラクターと映像がつながっていないシーンに溢れているのが最大の欠点か。こちら側の世界には色が無い、とアカネは異世界で言うが、チィの店に自転車で向かうアカネの目に入る世界は十分にカラフルだ。また、そもそも学校を休むきっかけになった女子間の小さな抗争劇が、アカネのビルドゥングスロマンの背景として全く機能していない。冒頭のシーンはノイズとしてバッサリとカットしても良かった。

 

肝心のあちら側の世界も独創性を欠いている。今さら、魔法使いやら錬金術師はないだろう。底浅いオタク連中に媚び諂うのが、原恵一監督の意向なのか、それとも製作側の意向なのか。また世界観の面でも、おもいっきり陰陽五行思想を採用している。木火土金水をユニークな家や溶鉱炉、アメリカのナショナル・パークのThe Waveを丸パクリしたとしか思えない土地、見映えのしない錬金術、それに巨大錦鯉などで、それぞれカラフルに表現している。その映像美は認める。しかしオリジナリティの欠如が甚だしい。キャラクターにおいてもそうだ。猫が重要なモチーフになる作品は数限りなく存在するが、本作は漫画およびアニメ映画『 じゃりン子チエ 』にも、アニメ映画『 銀河鉄道の夜 』や『 グスコーブドリの伝記 』(世界裁判長へのオマージュのつもりだったのだろうか?)にも、山本弘の小説『 サイバーナイト―漂流・銀河中心星域〈上〉 』にも、全く及ばない。猫の魅力を再発見できないのであれば、猫キャラを使うべきではない。ここまで独創性を欠く作りになっていると、もはや犯罪的であるとすら言える。

 

ヨロイネズミはネーミングはともかく、造形は良かった。惜しむらくは、ザン・グの正体があまりにも簡単に推測できてしまうところである。これはザン・グが悠仁内親王をモデルにしたキャラクターだからだろうか。また、アカネがクライマックスで言い放つ「あなたなら出来るよ」という言葉は完全に逆効果だと思うのだが・・・

 

エンドクレジットで流れる歌まで“The Show”の日本語版替え歌である。『 マネーボール 』の挿入歌として効果的に用いられており、歌詞の意味も本作にマッチしている。だが、前出したようにオリジナリティの欠如が甚だしい本作のエンディングを飾るには相応しくなかった。それとも製作者側も、最後の最後まで何かの二番煎じで良いのだと開き直ったのだろうか。

 

総評

はっきり言って駄作である。映像美だけは認められるが、ストーリーも破綻しているし、キャラ同士の掛け合いも全くもって普通である。色んなガジェットを詰め込もう詰め込もうとし過ぎて、メッセージだけがグロテスクに浮き上がったきた。そんな印象を受けた。ただ、そのメッセージも受け取る人間と受け取らない/受け取れない人間に二分されていることだろう。原恵一監督には『 レディ・プレイヤー1 』や『 ヴァレリアン 千の惑星の救世主 』のような、純粋なエンタメ路線をもう一度追求してほしいと切に願う。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 市村正親, 日本, 杏, 松岡茉優, 監督:原恵一, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 麻生久美子Leave a Comment on 『 バースデー・ワンダーランド 』 -各種ファンタジーのパッチワーク-

『 バーフバリ 王の凱旋 完全版 』 -貴種流離からの英雄凱旋譚-

Posted on 2019年4月30日2020年1月28日 by cool-jupiter

バーフバリ 王の凱旋 完全版 85点
2019年4月29日 神戸国際松竹にて鑑賞
出演:プラバース ラーナー・ダッグバーティ サティヤーラージ
監督:S・S・ラージャマウリ

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『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』と同日同劇場で連続鑑賞。『 アベンジャーズ 』シリーズをマラソン上映したり、『 スター・ウォーズ 』のリバイバル上映だったり、ゴジラシリーズからの何作かをMOVIX八尾でも一挙に上映するらしい。こうしたトレンドは歓迎すべきで、更なる広がりに期待をしたい。

 

あらすじ

奴隷にして最強の棋士カッタッパの語る父アマレンドラ・バーフバリの死の真相を知ったシブドゥ/マヘンドラ・バーフバリは、親子二代にわたる因縁の決着をつけるべく、暴君バラーラデーヴァの鎮座するマヒシュマティ王国を目指す・・・

 

ポジティブ・サイド

剣の腕前では『 キングダム 』の信以上、弓の腕前では韓国ドラマの朱蒙(チュモン)以上、肉弾戦の強さなら『 沈黙の~ 』シリーズのスティーブン・セガール以上の無敵キャラをプラバースはシブドゥとしてもアマレンドラとしてもマヘンドラとしても体現した。戦闘というか、戦術。作戦行動はクライマックス前に一挙にギャグ漫画の域に到達するが、それすらも納得させられてしまいそうな超人的な活躍!バーフバリとバラーラデーヴァの一騎打ちも痺れる。『 トロイ 』のアキレスとヘクトール以上のコンバットにして、『 ターミネーター:新起動/ジェニシス 』におけるシュワちゃん vs シュワちゃん的な鋼鉄肉弾戦。その最中にも願掛けの儀式を放り込んでくるのだから、スリルとサスペンスが止まらない。これ、作ってる人たちはどんなテンションで撮っていたのだろう?きっとこういう激しい絵ほど、冷静な眼と頭で撮り切ったのだと思われる。インド映画の底力に痺れて震えるべし。

 

船でマヒシュマティ王国を目指すシークエンスは『 アラビアン・ナイト 』的であり、『 アラジン 』的であり、『 タイタニック 』的でもある。とにかくスケールが突き抜けている。こうした絵作りのインスピレーションは一体どこから手に入れているのだ。

 

本作は前篇以上に政治術、権力闘争、計略といった面が色濃く描かれるが、それだけではなく、庶民の生活に密着した面も活写される。創意創造の力でも並はずれた才能を見せるアマレンドラは、戦場における武器や戦術の創意工夫だけではなく、民衆と共に暮らす中でもその才を遺憾なく発揮する。こうした描写が、民衆がマヘンドラを目にした時にバーフバリと叫ばざるを得なくなるということに説得力を与えている。またセクハラ許すまじをあからさまに主張するシークエンスもあり、インドというある意味で頑迷な国家の在り方に対しても一石を投じている。こうしたトレンドは『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に受け継がれていったのだろう。

 

それにしてもプラバースという俳優の芸達者ぶりよ。『 キングダム 』で吉沢亮が政と漂を見事に演じ分けたことが話題になっているが、プラバースの演じ分けも見事の一語に尽きる。マヘンドラの時は口角を少し上げ、アマレンドラの時はやや眉間に皺を寄せ気味にする。前者にはどこか幼さが、後者にはどこか老成された雰囲気というか老練さが漂う。不思議なもので、それだけで両者が見分けられる。これは演技力の勝利である。王を称えよ!!

 

ネガティブ・サイド

『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』で思わせぶりに描かれたペルシャの武器商人は一体何だったのだ。あんな展開を見せられたら『 インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 』におけるカシムのような助っ人キャラになると誰でも予想するではないか。その後、一切登場せずとはこれ如何に。

 

アマレンドラとデーヴァセーナの弓矢連射シーンに匹敵するようなコンビでの戦闘シーンが、マヘンドラとアヴァンティカにも欲しかった。全編に続いてアヴァンティカの存在感が小さいのが、やはり減点対象なのだ。

 

ビッジャラデーヴァが左腕に障がいを負っているとはいえ、右腕に鉄拳は健在。それを使った戦闘シーンが無いのは何故だ。石造りの壁を素手で破壊したのを見た時、カッタッパとのジジイ対決か?と期待したのだが、そのマッチアップは実現しなかった。なんでやねん!?

 

総評

弱点、欠点もいくつか目に付くものの、それらを遥かに上回るアクションや鬼気迫る演技の数々に圧倒されること請け合いである。国母シヴァガミの瞬きしない目の迫力、バラーラデーヴァの憎悪、アマレンドラの威風、マレンドラの成長。そこにインドという国が世界に発信しようとする自国の在りうべき姿が見える。英雄叙事詩の実写映画の傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, インド, ファンタジー, プラバース, 監督:S・S・ラージャマウリ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 バーフバリ 王の凱旋 完全版 』 -貴種流離からの英雄凱旋譚-

『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』 -インド発アクション大作-

Posted on 2019年4月30日2020年1月28日 by cool-jupiter

バーフバリ 伝説誕生 完全版 80点
2019年4月29日 神戸国際松竹にて鑑賞
出演:プラバース ラーナー・ダッグバーティ サティヤーラージ
監督:S・S・ラージャマウリ

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大学の同級生と後輩、それに顧客も絶賛していたので、いつかレンタルで借りようと思っていた作品が、ゴールデンウィークに神戸国際松竹のインド映画祭りで大スクリーンに帰ってくる。これぞ天の配剤。松竹よ、ありがとう!

 

あらすじ

とある女性が赤ん坊と共に刺客から逃れようとしている。何とか追手を始末するも、彼女は川の流れに呑まれてしまう。流される間際に彼女はシヴァ神に祈る。この赤ん坊の命だけは救うように、と。なぜなら赤ん坊は王になるべき運命の子だから・・・。すんでのところで村人に助けられた赤ん坊は25年後、立派な青年に成長した・・・

 

ポジティブ・サイド

ラージャマウリ監督もビジュアル・ストーリーテリングを理解している映画人である。冒頭の追手から逃げる女性と赤ん坊に、観る側は「一体なんだ、これは?」と思わされるが、その説明を下手な独り言や赤ん坊への語りかけではなく、神への語りかけとするところがインドらしい。そして成長した赤ん坊がシブドゥとなり、その立派な体躯にカリスマ性、また良い意味での頑固一徹な顔の持ち主であることを台詞に頼らず描き切って見せた。物語のイントロダクションかくあるべし。

 

それにしてもインド映画の映像美よ。原生自然を映し出す時、また街並みや人々の衣装を活写する時の極彩色の使い方はインド映画の基本文法なのだろうか。序盤の大瀑布から中盤の鬱蒼とした森、さらに雪山、乾いた城と城下町、雷鳴とどろく暗夜と画面を彩る色が目まぐるしく変わっていくが、それがジェットコースター的なストーリーの展開スピードとよくマッチしている。中でも、シブドゥとアヴァンティカの出会い、アプローチ、そして初めてのまぐわいには神々しささえ感じた。

 

戦闘シーンはド迫力である。『 ダンガル きっと、つよくなる 』でも描かれていたが、インドには元々レスリング的な体術、武術の伝統が豊かなのだろう。手塚治虫の漫画『 ブッダ 』でもそんなシーンがあったように思う。また『 キングダム 』が本来描かなければならなかった大軍 vs 大軍の攻城戦、白兵戦、騎馬戦を本作はダイナミックに描く。キングダム原作で桓騎将軍が見せたような戦術を繰り出すアマレンドラ・バーフバリ、さらに王騎将軍並みの馬術で敵を次々に屠る様は、完全にゲームの『 三国無双 』または『 戦国無双 』シリーズを見ているようだった。つまり、爽快なのである。同じ神話的な英雄叙事詩の『 トロイ 』(主演:ブラッド・ピット)よりも、戦場の緊張感や臨場感、戦闘シーンのスペクタクルでは本作の方が優っている。後発なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、優れた先行作品を乗り越えられない後発作品もまた数多く存在する。本作は乗り越えた側である。

 

ネガティブ・サイド

シブドゥが怪力を発揮してシヴァ像を運ぶシーンには、もっと重要な意味を付すことができたのではないだろうか。例えば西楚の覇王・項羽は、若かりし頃に鼎を倒して、また元通りに立てたということで、一挙に江東で名前を売り、愚連隊のような連中を配下にすることで後の直参、古参の兵を得た。それと同じで、シブドゥもその豪勇とカリスマ性から若くして自分の腹心や耳目、爪牙になる者たちを得ていなければおかしいのではなかろうか。シヴァ像を運ぶシーンにシブドゥが怪力の持ち主であること以上の意味がなかったのが残念である。

 

怪力と言えば、バラーラデーヴァ王が野生の雄牛を素手で止めるシーンで二度ほど画面左下にCGIという小さな白字が表示されたのはどうにかならなかったのか。おそらく、今映っている動物はComputer Generated Imageですよというアピールだと思うが、それは『 バーフバリ 王の凱旋 完全版 』のオープニング冒頭でdisclaimerがあった。こちらでもそれをやるべきであったと思うし、画面にはできるだけノイズを入れないでもらいたい。

 

アヴァンティカとシブドゥのロマンスをもう少し追求してほしかったというのもある。先王候補のバーフバリと瓜二つ、その忘れ形見がついに現れたというだけでその威光に平伏してしまうのは理解できないこともない。ただ、シブドゥの関心がアヴァンティカから、あっさりと母デーヴァセーナに移ってしまったことで、物語の色彩と起伏がやや弱くなったように感じられてしまった。

 

総評

非常にハリウッド的でありながらも、しっかりボリウッド映画になっている。本作だけを観てしまうと、壮大な叙事詩の前篇という印象になってしまうのは否めない。リバイバル上映で鑑賞するにせよ、レンタルや配信で鑑賞するにせよ、『 バーフバリ 王の凱旋 』とセットで観るようにしたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, インド, ファンタジー, プラバース, 監督:S・S・ラージャマウリ, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 バーフバリ 伝説誕生 完全版 』 -インド発アクション大作-

『 シンデレラ 』 -CG臭さを除けば良作-

Posted on 2019年4月25日2020年1月28日 by cool-jupiter

シンデレラ 70点
2019年4月22日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:リリー・ジェームズ ケイト・ブランシェット
監督:ケネス・ブラナー

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2015年に大阪ステーションシティシネマかどこかで観たんだったか。リリー・ジェームズの可愛らしさとケイト・ブランシェットの憎たらしさが素晴らしいケミストリーを生み出していた。なんとなく手持ち無沙汰だったので、仕事帰りにふらふらとTSUTAYAに吸い込まれ、借りてしまった。

 

あらすじ

エラ(リリー・ジェームズ)は優しい父と母のもと、幸せに包まれて暮らしていた。しかし、母はエラに「勇気と優しさを忘れないように」言い残して急死してしまう。父娘で生きていきながらも、父は再婚を決意。その相手のトレメイン夫人(ケイト・ブランシェット)と連れ子たちと何とか一つ屋根の下で暮らしいたが、旅先で父までもが急死してしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

なんと言ってもシンデレラを演じたリリー・ジェームズの魅力が大きい。『 おしん 』もかくやという虐待を受けながらも健気に生きるエラの姿に、万感胸に迫る思いである。だが、本作のオリジナリティ、つまり貢献はシンデレラ以前のエラとその父と母との精神的に円万で豊かな家庭に育っていたことを短い時間で過不足なく伝えてくれたことである。もちろんシンデレラのストーリーは世界中の誰もが知っているわけだが、だからこそシンデレラというキャラクターに感情移入することが容易い。ただ、追体験できるキャラの感情の深さは、必ずしも感情移入の易しさとは相関しない。むしろ逆だろう。シンデレラというのは可哀そうな少女であるという我々の先入観を一度壊してくれた本作の脚本は、非常に優れたものと評価したい。

 

またシンデレラというキャラの味付けも評価できる。動物とコミュニケーションが取れるというのはいかにも童話チックであるが、このエラというキャラクターは行商の旅に出る父に、最初に肩に触れた木の枝をお土産にしてほしいと願うような娘なのである。つまりは花鳥風月を愛し、動物と話す娘という、ファンタジー世界の住人なのである。こうしたキャラの背景への肉付けがあってこそ、かぼちゃの馬車やトカゲの御者などへの違和感が生じない、もしくは最小限に抑えられるのである。文字で読む、あるいは絵本で単純なビジュアルを消化するだけであれば、このような細工は不要である。しかし、映画という芸術媒体は、時に暴力的なほどに観る者の視聴覚に訴えねばならない。ネズミたちとエラのほのぼの交流はプロットの面でしっかりと機能していたし、だからこそフェアリー・ゴッドマザーの魔法にも説得力があった。

 

それ以上にキャラを具現化していたのはケイト・ブランシェット。意地悪な継母をシンクロ率400%で演じていた。シンデレラを虐げるだけではなく、自らの娘たちを王子に見初めさせようという財産目当て丸出しの根性がしかし、母親らしい愛情の発露でもあるというところがいじましい。この人にも哀れな面はある。人の価値を強さ、それは賭け事で測られるような胆力であったり、もちろん財力であったり、当然のように権力でもあるわけだが、そうした「強さ」で人の価値が決まると思っている。それはエラの母の教えとは真逆を行く。だからこそシンデレラの勇気と優しさの放つ光がその輝きを増す。単純なコントラストだが、シンデレラが光り輝くのは、トレメイン夫人の心の暗黒面の深さ故であると思えてならない。演技派ケイト・ブランシェットの面目躍如である。

 

ネガティブ・サイド

全編にCG臭が強烈に漂っている。無限の財力を誇るディズニーなのだから、花火ぐらいは本物を使おうよと言いたい。それともCGの方が、もはや本物の花火よりも安いのだろうか。安いのだろうな。肖像画を描かれるのは苦手だというキット王子の台詞は、そのままディズニーアニメーターの「手描きはどうも苦手で・・・」という心境の代弁だったのであろう。そう捉えさせて頂く。

 

ボール(舞踏会)の時の青いドレスは良いとして、エラの衣装はやや胸元が開き過ぎではないか。個人的には眼福に思うが、ファミリー向けの映画なのだから、もう少し普通のコスチュームで良かったのではないかと感じた。

 

総評

ディズニーらしい丁寧な作りで、ストーリーやキャラクターの背景をしっかり描けている、あるいは受け手側の想像力を適切に刺激するような描写ができている。CG多用がどうしても目に付くが、『 くるみ割り人形と秘密の王国 』ほど酷いものではない。大人でも安心して鑑賞できる作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ケイト・ブランシェット, ファンタジー, リチャード・マッデン, リリー・ジェームズ, 監督:ケネス・ブラナー, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 シンデレラ 』 -CG臭さを除けば良作-

『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

Posted on 2019年2月6日2019年12月21日 by cool-jupiter

メリー・ポピンズ・リターンズ 55点
2019年2月2日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:エミリー・ブラント ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロブ・マーシャル

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メリー・ポピンズが50年以上の時を経て、続編に帰って来る。ジュリー・アンドリュースの後を継ぐのは、ブリティッシュ・アクトレスのトップの一人、エミリー・ブラント様とくれば期待しないわけにはいかない。ややCGヘビーなトレイラーが気になったものの、いざ劇場へ。予想や期待をしていた作品ではなかったが、これはこれで受け入れ可能だ。

 

あらすじ

『 メリー・ポピンズ 』の時代から時を経ること幾星霜。時は大恐慌時代。マイケルは妻を亡くし、画業をあきらめ、銀行の出納係をしながら、子どもたちと屋敷に暮らしていた。姉ジェーンも手助けはしてくれていたが、金策ならず、家を失う危機に瀕していた。しかし、そんな時、空からメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が降臨してきて・・・

 

ポジティブ・サイド

エミリー・ブラントによるメリー・ポピンズ。どちらかと言うと童顔だったジュリー・アンドリュースのメリー・ポピンズよりも、原作小説の雰囲気が出ていたのではないだろうか。メリー・ポピンズは結構気難しいキャラだからだ。それでいて優しさや情もある。歌って踊れる素敵な魔法使い。エミリー・ブラント以外のキャスティングは今では考えられない。なによりも登場シーンが良い。風吹きすさぶ空の雲間から光と共に神々しく現れる。凧と共に降りてくるのにも意味がある。これは物語の最後の最後で見事なコントラストを成す。

 

メリー・ポピンズは乳母であるが、バンクス家のマイケルが妻を亡くし、その子どもたちには母親代わりとなるべき人物が必要だった。メリー・ポピンズがマイケルの子どもたち、ジョン、アナべル、ジョージーを風呂に入れたり、花瓶の世界に連れて行ったりするシーンは、前作のアニメーションとの融合をかなり意識した作りになっている。つまり、一目でそれと分かるCGになっている。だが、今回はそれが不思議と心地よい。なぜなら、自分が観ているものがリアルなものではなくマジカルなものであるという意識があるからだ。トレイラーで観た時は「なんじゃ、この出来損ないのCGは」と思わされたが、本編で観てみると印象がガラリと変わる。これこそ映画のマジックであろう。

 

現代的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。時代が世界恐慌時代、なので1929年~1939年のどこかの時点の物語ということになるが、本作が訴えるのは80年前の時代の問題ではない。最も分かりやすいのは母子家庭の問題だろう。人生にはpositive female figureが必要とされる時期もあるのである。叔母や家政婦では力不足なこともある。母親不在という現実から逃避するには、非行に走るぐらいしかない。しかし、もし本当に現実逃避ができるなら?本作は魔法使いのメリー-・ポピンズに仮託して、子どもという存在の想像力と生命力のたくましさについて高らかに称揚する。シングル・マザーが激増している日本社会は何某かを感じ取るべきだろう。

 

不況なのはどこの先進国でも同じだが、その構造も共通している。大資本による庶民の搾取だ。トマ・ピケティの御高説を拝聴するまでもなく、資本は資本のあるところに集まるものである。トリクルダウンなる考え方は虚妄に過ぎない。本作はファンタジー映画であるが、容赦のない現実世界の経済論理が展開されており、子どもと一緒に観に行った保護者はかなり心理的にきつい思いを味わわされたのではないだろうか。そうした苦しい思いをしたからこそ、バンクス家の絆はさらに強まるのだ。ディック・ヴァン・ダイク御大との再会は我々に新鮮な感動と驚きをもたらしてくれる。水戸の御老公様が印籠を見せる時のようなカタルシスが味わえた。

 

ネガティブ・サイド

メリル・ストリープの出番はあれで終わりなのか?せっかくの大女優の出張ってもらったのだから、再訪場面まで描いて欲しかった。

 

クライマックスの風船は悪いアイデアではないが、『 プーと大人になった僕 』が既にガジェットとして使っている。というか、風船と言えばプーだろう。良い絵ではあったものの、個人的にはインパクトが弱かった。

 

前作の煙突掃除人に相当するシークエンスとしての、街灯点灯夫たちの大移動があるが、何故あのような『 マッドマックス 怒りのデス・ロード 』的な画作りをするのだろうか。正直なところ、あれでかなり白けた。普通にやればよいのにと今でも思う。

 

だが本作の最大の弱点は、前作の名曲を何一つとして引き継がなかったことであろう。「チム・チム・チェリー」は煙突がフィーチャーされないので無理だとしても、「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」(Supercalifragilisticexpialidocious)は使っても良かったはずだ。ジョン、アナべル、ジョージーの3人と一緒にこれを歌うポピンズに、打ちひしがれていたマイケルとジェーンも加わってくる。誰もがそうしたシーンを観る前に夢想してはずだ。権利関係の鬼のディズニーなのだから、いや、だからこそ、楽曲の権利関係をきっちりとさせて、映画ファンに望むものを提供して欲しかったと切に願う。『 マンマ・ミーア! 』と『 マンマ・ミーア! ヒア・ウィ-・ゴー 』が同一の世界観であると受け取られたのは、同じ役者が同じ役で続投したことと同じくらいに、”Dancing Queen”が歌って踊られたという事実があるからだ。”Dancing Queen”が流れてこその世界とも言える。前作からの楽曲が無かったのには大人の事情もあろうが、個人的には大減点をせざるを得ない。

 

総評

それなりに楽しい映画である。ミュージカル好き、ディズニー映画好きであればチケットを買っても損はしないだろう。Jovianはかなりバイアスが強い鑑賞者なので、あまりレビューの点数は気にしないで頂けると幸いである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エミリー・ブラント, ディック・ヴァン・ダイク, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ロブ・マーシャル, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』 -前作とのつながりが薄いファンタジー-

『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

Posted on 2018年12月12日2019年11月30日 by cool-jupiter

くるみ割り人形と秘密の王国 40点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マッケンジー・フォイ キーラ・ナイトレイ モーガン・フリーマン
監督:ラッセ・ハルストレム ジョー・ジョンストン

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チャイコフスキーの“くるみ割り人形”と言えば、圧倒的に「行進曲」と「花のワルツ」のイメージが強いだろう。この軽快にして優雅な調べは、聴く者の心に沁み入るような印象をもたらす。この典雅な音楽に乗せて展開される映像世界はどのようなものになるのだろうかと期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

母を亡くして以来、内向的になってしまったクララ(マッケンジー・フォイ)は、あるクリスマス・イブに名付け親のドロッセルマイヤー(モーガン・フリーマン)の邸宅を訪れる。そこでは各人へのクリスマスプレゼントが用意されており、自分の名前が書かれた札のついた紐をたどっていく仕組みだ。そしてクララが紐をたどっていく先には、不思議な世界が広がっていた・・・

 

ポジティブ・サイド

インターステラーのマーフがここまで大きくなったかと、マシュー・マコノヒーならずとも父のような目で見てしまう。クロエ・グレース・モレッツ的な存在になるのか、それともジェニファー・ローレンスのような恐れ知らずの女優にまで変貌するか。今後が実に楽しみである。なんとなくルックスが杉咲花を思わせるのだが、出演作は本人およびハンドラーもしっかりと吟味をしてほしいと切に願う。

 

ゴッドファーザーのモーガン・フリーマンも、日本の国村準に負けず劣らずのハイペース出演。正直なところ、この偉大なる俳優のキャリア、というか寿命もそこまで長くは残されてはいないだろう。彼の今後の一作一作が、文字通りの遺作になる覚悟で臨んでいる。言えるうちに言っておこう。この不世出の名俳優に乾杯。

 

そしてキーラ・ナイトレイである。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』では典型的なお姉さんキャラを演じていたが、本作ではハイテンションお姉さんキャラに変貌を遂げた。しかし、大人でありながら大人の余裕をそれほど感じさせないお姉さんキャラという点では、いつものキーラなので、彼女のファンであってもそうではなくても、安心して鑑賞できる。このことをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは人による。Jovianは好意的に受け取った。キーラは何となく、蒼井優を思わせる。可愛らしさ、色気、儚さ、物憂げな様子、名状しがたい負の感情、倒錯。そうしたところが共通しているように思う。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーそのものに真新しいところはない。というよりも、ディズニーらしい改変が加えられている。ディズニーがよく知られた物語を実写化すると、しばしばフェミニスト・セオリーなどの現代的な読み変えを行う。女性はどこまでも受け身で、物語を雨後がしていくのはもっぱら男性的なキャラクター達というのが古典的な物語の在り様だ。赤ずきんちゃんでも白雪姫でも何でもよい。そうしたおとぎ話の女性の受動性とディズニー映画の女性の積極性には見事なコントラストがあるのだが、それが常に成功するわけではない。なぜクララがいきなりガンガン闘えるのか。なぜクララに女王の威厳が備わっているのか。なぜクララが機械仕掛けに精通しているのか。こうした男性的な特徴を、特に説明もなくクララが持っていることが、物語にマイナスに作用しているように思う。近年の実写ディズニー映画で個人的に最も面白かったのはリリー・ジェイムズの『 シンデレラ 』だ。なぜなら、女性の女性性を損なうことなく、一貫した物語に仕上がっていたからだ。クララ本人とその母親、そして四つの王国の背景がほとんど語られないままにキャラが動き出すせいで、観客は置き去りにされたかのように感じてしまう。

 

また、CGの量は何とか抑えられなかったのだろうか。全ての王国の背景が、あまりにも作り物然としていた。CGが今後どれほどの進歩を見せるのかは分からないが、それでもCGはCGとして目に映るだろう。最近観た『 グリンチ(2000) 』でも感じたことだが、着ぐるみや特殊メイクは幼稚かもしれないが、存在感という点ではいかなるCGにも勝る。最近も『 GODZILLA 星を喰う者 』で、ほとんど動かないキングギドラを見せられたが、かつての昭和、平成のキングギドラは二十人ほどの操演によって動いていたという。しかし、ピアノ線による操演技術はロストテクノロジーとなって久しい。今ではエキストラの人間さえもCG作成して合成してしまう映画が多いが、ディズニーほどの予算を持っているのなら、オーガニックな素材をふんだんに使った映画を作り続けるべきだ。本作のCGヘビーな面は、技術の進歩というよりも技術の後退、継承の失敗という文脈で捉えるべきではないだろうか。

 

総評 

はっきり言って、本作にはストーリー上の面白さは無い。キャストにお気に入りがいないのであれば、素直にスルーするのが吉である。そうはいっても、チャイコフスキーの音楽の調べによって語られる物語の映像美は、雨の日の過ごし方やちょっとした時間つぶしのためには最適であるのかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ファンタジー, マッケンジー・フォイ, モーガン・フリーマン, 監督:ジョー・ジョンストン, 監督:ラッセ・ハルストレム, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

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