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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

Posted on 2019年3月6日2020年1月3日 by cool-jupiter

ダンガル きっと、つよくなる 80点
2019年2月27日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:アーミル・カーン ファーティマー・サナー ザイラー・ワシーム
監督:ニテーシュ・ティワーリー

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ダンガルというのはレスリングという意味のようだ。そしてアニマル浜口というのは比喩である。アーミル・カーン演じるマハヴィルは娘の教育と訓練に関してはアニマル浜口並みにクレイジーであると言えるが、その他の面では似ても似つかない。良いとか悪いとかではなく、あくまで比喩として彼の名前を挙げていることを了承されたい。

あらすじ

国の代表にまで上り詰めながら、夢を果たせなかったレスラーのマハヴィル(アーミル・カーン)は、まだ見ぬ息子にその夢を託したいと思うようになる。しかし、生まれてくれるのはギータ(ファーティマー・サナー)、バビータなど女の子ばかり。だが、マハヴィルは気付いた。彼女たちには並々ならぬレスリングの才能があることに。マハヴィルは村の皆からの嘲笑や偏見に負けることなく、娘たちを鍛え上げようとするが・・・

ポジティブ・サイド

まず、アミール・カーンの体作りに脱帽する。鈴木亮平からマシュー・マコノヒー、クリスチャン・ベールに至るまで、役者というのは役に合わせてある程度の体作りをするものである。しかし、アミール・カーンの磨き上げられた筋肉美を堪能できるのは冒頭の5分で終わりである。肉襦袢ではなく、自らの体で望んだカーンに敬意を表する。通常は、例えばロッキー映画恒例のトレーニングシーンのモンタージュを作るため、役者はハードなトレーニングを積む。『 ロッキー4 炎の友情 』でスタローンが垂直腹筋やドラゴンフラッグをしていたのは、その典型である。そうした意味での称賛はギータを演じたファーティマ-・サナーに向けられるべきであろう。アカデミーでトレーニングに励み、実戦に臨む彼女こそがロッキーである。カーンは数分(実際の撮影はもっと長かったはずだ)のシーンのために体を作り、その後は中年太りした体を作る。デ・ニーロのような役者は世界中にいるのである。

日本でレスリングと言えば、女子が花形である。吉田沙保里や伊調馨らの名前を知らない者はいないだろう。しかし舞台はインドである。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』で知らされたように、そして近年でも「このようなニュース」が報じられるように、女性の生理現象に対して根強い偏見が残る国なのである。そのような国の、さらに辺境の村で幼い娘たちにレスリングを仕込み、肉食をさせ(これに対する拒否反応は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも見られる)、男だらけの村のレスリング大会にエントリーもさせる。もちろん、娘たちは反抗するわけだが、『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなほのぼのさなので、安心して見ていることができる。

本作はただのレスリング映画ではなく、家族の再生物語でもある。父と娘の精神的に健全な、そして不健全な別離、さらに親子の和解の物語でもある。そしてそれはギータとバビータの姉妹の成長物語でもあるのだ。父と袂を分かつ姉、父と共にあり続ける妹、彼女たちの対立と融和は、陳腐ではあるが、それゆえに見る者の胸を打つ。このあたりは『 チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話 』にも通じる。勝利と栄光への道程、それが泥臭いほどに放たれる輝きはより強くなる。

ネガティブ・サイド

クライマックスにおいて、恐るべき人間の悪意を見せつけられる。これは史実ではないのだろうが、物語をよりドラマチックにするものとして作用していなかった。『 きっと、うまくいく 』における学長には人間性が付与されていたが、本作のNASのコーチには嫌悪感しか抱けない。この演出は失敗であった。

これは『 100円の恋 』でも感じたことだが、格闘技の試合のフィニッシュ・シーンにデ・パルマ的なスローモーションは既にクリシェである。『 クリード 炎の宿敵 』の決着シーンにはスローモーションは使われなかった。もっと別の見せ方を追求できたはずである。

総評

弱点を抱えるものの、本作は傑作である。レスリングの知識や素養がなくても分かるように作られているし、それを実に自然に見せる役者たちの見えない努力に思いを馳せれば、称賛以外に何もできなくなる。やはりインド映画に外れはないようである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, ファーティマ-・サナー, 監督:ニテーシュ・ティワーリー, 配給会社:ギャガ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

Posted on 2019年3月1日2019年12月23日 by cool-jupiter

母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 65点
2019年2月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:安田顕 倍賞美津子 松下奈緒 村上淳 石橋蓮司
監督:大森立嗣

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タイトルだけで物語が全て語られている。元はエッセイ漫画だったようだが、そちらは未見である。しかし、それが特別な物語でも何でもなく、男が普遍的に持ついつまで経っても子どもの部分を健全に誇張もしくはデフォルメした話であることは直感的に分かる。

 

あらすじ

宮川サトシ(安田顕)は中学生にして急性白血病を患ってしまった。母の明子(倍賞美津子)の必死の看病の甲斐もあって、サトシは回復。時は流れ、サトシは塾講師として慎ましやかに父・利明(石橋蓮司)と母と暮らしていた。しかし、母が癌で倒れてしまう。サトシはあらゆる手を尽くして母の回復を祈願するが・・・

 

ポジティブ・サイド

安田顕がまたしてもハマり役だった。『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』に続いて、高身長女性とペアになるのだが、それが妙に似合うのだ。サトシは塾講師として教務と教室運営をしているのだが、どういうわけか真里(松下奈緒)という超絶美人と付き合うようになる。この映画が、地方移住を時々真面目に語る5chの「 塾講夜話 」スレッドの住人達に希望を抱かせないことを祈りたい。その真里は、マザコンの性根を丸出しにするサトシを支え、明子にも献身的に寄り添い、宮川家の夕餉にも赴き、談笑する。はっきりいって完璧すぎるのだが、真里が最も輝くのはサトシを叱りとばす場面である。我々男は母親に注意されたり、小言を言われたり、世話を焼かれたりするだけでも、どういうわけか無性に腹が立つ。それは母の愛は無条件かつ無償で得られる物だという錯覚または傲慢さから来ているのではあるまいか。その愛が失われるという事態に直面して、サトシは母を失うまいと百度参りから滝行まで、あらゆる手を尽くす。それは見ていて非常に痛々しい。なぜなら、効果が無いと分かっていても、自分でもおそらく同じようなことをしてしまうからだ。そのように感じる男性諸氏は多いだろう。母の愛は偉大であるなどと無責任に称揚しようとは思わない。しかし、母の愛に息子はどう応えるべきなのかについて、本作は非常に重要な示唆をしてくれる。中学生以上なら充分に理解ができるはずだ。それも直観的に。

 

本作は、よくよく見ればとても陳腐である。日本のどこかで毎日、これと同じようなことが起きている。しかし、それがリアリティにつながっている。冒頭でサトシが棺桶の中の母に語りかけるシーンなどは、まさにJovianの父が、Jovianの祖母の葬式前夜に行っていた所作とそっくりであった。多分、自分もああなるのだろうなと理屈抜きに納得させられてしまった。

 

サトシの兄は最後の最後に良い仕事をしてくれる。母の病室にそっけなく貼られている「おばあちゃん」の絵に、我々はサトシの甥っ子または姪っ子の存在を知るわけだが、この物語はどこまでもサトシと母、父、真里の閉じた世界で進行していく。しかし、兄の祐一の登場によってそんなものはすべて吹っ飛ぶ。『 洗骨 』でも述べた、「日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海がある」という言葉を我々はまたもや想起する。Jovianは自分のことをサトシ型の人間であると感じたが、自分を祐一型の人間であると感じる人も多くいることだろう。それは感性であったり環境であったりで決まるわけだが、このような兄弟関係、家族関係は実に微笑ましい。家族は離散を運命づけられているということを『 焼肉ドラゴン 』に見た。しかし、無条件に再会そして再開できるのも家族ならではなのである。本作鑑賞を機に、母親にちょっと電話してみたという男性諸賢は多かろう。それが本作の力である。

 

ネガティブ・サイド

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の南沙良の鼻水タラーリは映画ファンに衝撃を与えたが、安田顕も負けてはいない。だが、本作は少しお涙ちょうだい物語に寄り過ぎている。観る者に「衝動的な泣き」よりも「受動的な泣き」をもたらす作りは、ただでさえ題材がチープなのだから避けるべきだった。『 日日是好日 』では、日常の平穏と死のコントラストが際立っていたが、それは何よりも一期一会、つまり出会いの一つ一つ、経験の一つ一つが、何一つとして同じではないという思想が溢れていたからだ。典子が父からの電話に出なかったことを悔やむシーンがあったからだ。サトシも母からの電話を疎ましく思うシーンがあるが、遠方に住む典子とは違い、サトシは両親と同居している。そのことが、いつか必ず来る母との別離のドラマを少し弱くしている。

 

上映時間は108分だが、編集によってもう8分は削れたようにも思う。特に坂道と自転車のシーンは不要であるように感じた。ロッキーをパロったシーンは笑えたが、それも映画のトーンと少しケンカしていた。サトシのある意味での変わらない幼児性を表したものかもしれないが、それは他のシーンで充分に伝わって来る。

 

これは個人の主観または嗜好に依るところ大なのだが、最後の晩餐論争は陳腐を通り越してくだらなく感じた。理由は観た人ならお分かり頂けよう。何故なら「うちのが一番に決まっている!」からである。これは冒頭の梅干し論のところにも当てはまるもので、もし祖母なり母なり、場合によっては父が漬物や総菜を作ってくれていたなら、一番美味しいのはそれに決まっている。おふくろの味が最強である。You are programmed to want the taste of home cooking. それが真理である。最後の晩餐論争は、キャラクターから距離を取れる人でないと、その面白さが伝わらない。非常に良いシークエンスなのだが、諸刃の剣になってしまっているように思えた。

 

総評

男というのはつくづく不器用な生き物だと思う。我々はもしかすると何から何まで母や妻に負わなければ生きていけないのではないか。しかし、それでも良いのかもしれない。母なる海に抱かれるとは使い古された表現だが、だからこそ、そこには真実があるのだろう。そういえば日付が変わって昨日がおふくろの誕生日だった。罰あたりな息子ですまん。今週末にはご飯に誘おう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 倍賞美津子, 安田顕, 日本, 村上淳, 松下奈緒, 監督:大森立嗣, 石橋蓮司, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

『 洗骨 』 -死から目を逸らすことなかれ-

Posted on 2019年2月25日2019年12月23日 by cool-jupiter

洗骨 65点
2019年2月17日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:奥田瑛二 筒井道隆 水崎綾女 大島蓉子
監督:照屋年之

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風葬にした遺体の骨を数年後に取り出して洗うという、文化人類学的に非常に興味深い風習を映画にしたというからには観ねばなるまい。この映画の意図やテーマは何であるのかを、なるべくまっさらな状態で受け止めてみたいと思い、予告編やパンフレットには極力近寄らずに鑑賞してみた。

 

あらすじ

新城信綱(奥田瑛二)は妻、恵美子を亡くして以来、セルフ・ネグレクト気味に生きてきた。しかし、粟国島の風習である洗骨を行う時になって、東京から長男の剛(筒井道隆)、名古屋から長女の優子(水崎綾女)が帰省してくるも、優子のお腹は大きく、しかしその子の父親であるはずの男の姿はなく・・・

 

ポジティブ・サイド

奥田瑛二、筒井道隆はいぶし銀の役者としてその地位を確立しているが、水崎綾女は恥ずかしながら初見であった。飄々として、それでいて色気もあり、しなやかさもあり、慈しみも感じさせ、なおかつ守ってあげたくなるようなキャラを見事に体現した。これは彼女の演技力なのだろうか、それとも素の姿に近いのだろうか。今後まだまだ上に行けそうな雰囲気もあり、なおかつ桜井ユキ的な活躍にも期待をできそうにも思える。もちろん、大島蓉子のような肝っ玉母ちゃんキャラをもこなす演技派に成長してもらっても結構である。

 

沖縄を舞台にした映画で、おそらく最もシリアスなのは『 ハクソー・リッジ 』であろう。そして沖縄を舞台にした映画で最も(意図的に)馬鹿馬鹿しいのは『 ゴジラ対メカゴジラ 』であろう。とにかくキングシーサーを眠りから呼び覚ますために、やたらと長い歌を聴かせなければならないし、そのキングシーサーはというと、メカゴジラよりも格段に弱かった(ようにしか見えない)描写しか印象に残っていない。それでは本作はどうか。監督がゴリであるからなのかは分からないが、シリアスさと馬鹿馬鹿しさを同居させようとしていたのが伺える。シリアスなシーンには必ずと言っていいほど冷静な突っ込みが入れられる。本来であれば誰も知る由のない親子の諍いに対して「よそでやってよ」とボヤくキャラもいる。いや、そうした人物が存在していたとしても、描写はしないのが映画的な文法ではなかったか。しかし、Jovianはこうした描写を評価したい。なぜなら、鑑賞後の劇場内で「いや~、沖縄の海はホンマにあんなんやで」、「島の人はあんなふうによう笑うねん」、「真面目な話をしてる時でも、なんか面白いことを言うてまうねん」と上品な大阪弁で熱弁を振るうおばあちゃんがおられたからだ。そうか、沖縄出身の方にはリアリスティックに見えるのか、と得心したのである。

 

本作はBGMがほとんどない。それが不思議と心地よい。『 君の名前で僕を呼んで 』と共通するような自然そのものの音を味わえる。『 おと・な・り 』で強く感じさせられた基調音が、本作では際立っている。この部分だけに注目すれば、まるで北野武の映画のようだ。

 

本作のもう一つのモチーフに海がある。日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海があるとよく言われる。それぞれに思うところあり、打ち解けられない男たちが問答無用で母なる海に抱かれるシークエンスは、海の生命力と包容力の観る者に感じさせる。それらの力は母の象徴でもあったろう。海は最も身近な異界であるが、母の胎内こそが故郷で、我々は生まれ出たその瞬間から、この世という異界に生きているのかもしれない。であるならば、粟国島の東がこの世、西があの世という世界観もフィクションなのかもしれない。実際に、子どもたちは元気にあの世とこの世の境界線を走り回っていたし、大人もそれを強く止めることはなかった。愛する者の死を受容する為に骨をこの手に持つ。それは取りも直さず、生の終着点が死であることを思い知らされることである。しかし同時に、自分の骨を洗う誰かがこの世に存在するという安心感のようなもの、自分の骨を洗うまだ見ぬ誰かの存在を想起することにもつながる。加地伸行の言葉を借りるならば、親孝行の孝の本質とは「生命の連続」である。ハイデガーの言葉を借りるならば、我々は頽落している。死を忘れるな。メメント・モリ。死者との向き合い方について、『 おくりびと 』以上に直球の作品が放たれた。映画ファンなら観るべし。

 

ネガティブ・サイド

非常にわざとらしい段ボール箱があったが、ああいうものは要らない。もしくは、もっと存在感を小さくして見せるべきだ。説教臭い要素を入れたい、または観る側に露骨にメッセージを伝えたいのなら、文学でやってくれ。

 

優子のお相手であるはずの店長の空気の読め無さ、ウザさが全体のバランスを壊していると感じた。ともすれば重い空気が流れかねない雰囲気の中でライトな感じを演出したかったのだろうが、逆に空気をぶち壊していた。お笑い芸人が役者をやることを否定はしない。しかし、役どころによるだろう。面白い役を面白い人にやらせて、果たして本当に面白いのか。ゴリではなく、照屋年之に問いたい。

 

またリアリティを追求すべき箇所で、おいおいちょっと待て、監督が気付かないのもおかしいが、他の女性スタッフの誰も気がつかなかったのか?と首をかしげざるを得ない描写がある。これのせいで、非常に良い味を出していた大島蓉子のキャラが一気に皮相的になってしまった。最近もある芸能人が出産後にある行為を行って、一部の人間を驚かせたというニュースがあった。また出産に立ち会ったことのある人間なら、赤ん坊が出て来てハイ、終わりではないということを知っているはずだし、たとえそうした経験が無くとも、ペット、特に犬や猫(これを観察するのはなかなか難しいか)の出産を観察したことがあれば、分かるはずのことだ。クレジットに医療監修はあったかな・・・

 

総評

大きな弱点があるものの、それでも映画作品として観た時に示唆的であったり、感動的であったり、ユーモラスであったり、シリアスであったりする。つまり、観る者の心に訴えかける作品に仕上がっている。小さな子どもに「せっくすうー!」と叫ばせるのはどうかと思うが、敢えて思春期の子どもに見せてやるという選択をする親がいてもよい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 大島蓉子, 奥田瑛二, 日本, 水崎綾女, 監督:照屋年之, 筒井道隆, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 洗骨 』 -死から目を逸らすことなかれ-

『 きっと、うまくいく 』 -あまりにもチープすぎて逆に感動する友情物語-

Posted on 2019年2月24日2019年12月23日 by cool-jupiter

きっと、うまくいく 80点
2019年2月14日 レンタルDVD鑑賞
出演:アーミル・カーン R・マーダバン シャルマン・ジョーシー カリーナ・カプール 
監督:ラージクマール・ヒラーニ

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アーミル・カーンと聞くと、パキスタン系英国人ボクサーのアミール・カーンを思い起こすのはJovianがボクシングファンだからだろうか。近所のTSUTAYAでずっと気になっていた作品で、最近のインド映画のクオリティの高さから、ついつい手にとってしまった。インド映画にはずれなし!そう力強く断言してしまいたくなるほどの良作であった。

 

あらすじ

インド最高峰の大学ICE。そこに入学する自由人にして発明家のランチョー(アーミル・カーン)、実はエンジニアよりも動物写真家になりたいファラン(R・マーダバン)、科学よりも信仰のラージュー(シャルマン・ジョーシー)の三馬鹿トリオのハチャメチャな大学生活を送っていた。しかし、卒業後にランチョーは行方をくらませる。かつての旧友らと共に、ファランとラージューはランチョーを探す旅に出る・・・

 

ポジティブ・サイド

Interval後の20分程度で、映画に慣れている人ならかなりの程度まで筋書きが読めてしまうだろう。しかし、これは脚本のレベルが低いからというわけではない。逆に、懇切丁寧に作り込まれた脚本を忠実にスクリーン上で再現しているからこそ可能なことだ。消えたランチョーを探し求める旅というロードムービー兼ミステリの要素が強いが、本作は何よりもヒューマンドラマである。そしてビルドゥングスロマンでもある。そして極めて映画的な技法が駆使されている。映画的な技法とは、映像を以って語らしめるということだ。登場人物たちの心情の変化や葛藤、人間的成長と根源的に変わっていないところが、台詞ではなく動き、立ち居振る舞い、口調などで伝えられる。人間の成長とは、時に環境の変化に適応して生き抜くことであったり、逆にそうした変化においても自分の核の部分だけは決して変えることなく自分のままであり続けることでもあるということを、本作は全編を通じて高らかに宣言する。原題の“3 idiots”=三馬鹿は、自分の心の中の大切なものを決して見失わない。それがもたらすカタルシスは圧巻である。

 

本作はまた学園ものとしての性格も有している。そして、悲しいかな、そこでは闘うべき相手、倒すべき敵として認識させられてしまう人間もいる。つまりはヴィールー学長である。しかし、彼は決して『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のトラスク校長のようなキャラクターではない。なぜなら、彼には過去があり、家族があり、信念があるからだ。三馬鹿と学長の対立は、時に『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなユーモラスなものでもあるが、その根底には教育に対する価値観の差違が存在する。これらの教育論的哲学に対する前振り、伏線もしっかりと回収されるところが素晴らしい。

 

キャラクターたちが学生であるということ単なる味付けに終わらないところも良い。日本映画でもハリウッド映画でも、結構な割合で「お前が学生であることは分かった。で、何を学んでいるんだ?」と言いたくなる作品がある。本作はそんな皮相的なキャラを扱う作品をせせら笑うかのように、工科大学の学生の活躍を存分に描いてくれる。魚の骨をいじくるだけの冒頭5分で学生としての属性を描くのを止めてしまった『 アヤメくんののんびり肉食日誌 』というキング・オブ・クソ映画を思い出してしまった。とにかく、本作に出てくる学生たちは生き生きとしている。それは、彼らが自分の本領を発揮しているからである。生きているという実感がそこにあるのである。彼らの ingenuity が一挙に爆発する終盤の事件は感動的である。

 

その感動をさらに上回るクライマックスは圧倒的ですらある。その映像美と構図、旧友との再会という点で『 ショーシャンクの空に 』とそっくりであるが、エンディングシーンの美しさにおいて、本作はショーシャンクに優るとも劣らない。インド映画の白眉にしてヒューマンドラマの一つの到達点である。

 

ネガティブ・サイド

途中で非常に悲惨な事件が発生する。もちろん、これが起きることで中盤の事件に深みが与えられるのだが、何か別の回避方法、または見せ方はなかったのだろうか。極端なことを言えば、ここで観るのを辞めてしまう人がいてもおかしくない。それぐらい衝撃的なことである。

 

もう一つだけ大きな弱点を挙げるならば、カリーナ・カプール演じるピアだろうか。彼女自身のキャラクターや演技力には文句は無い。それがインド的な価値観や社会制度なのだと言ってしまえばそれまでなのだろうが、あのようなクソ男と交際し、婚約するということにもう少しだけでも抵抗を見せてくれてもよかったのではないか。

 

総評

個人的に気になる点はいくつかあったものの、観る人によっては全く気にならない点であるだろう。しかし、本作のポジティブ要素は万人の胸に突き刺さるに違いないと確信できるものがある。それほどに優れた作品である。3時間近い大作であるが、レンタルや配信であれば、適宜にトイレ休憩も取れる。高校生以上であれば充分に理解できる内容だし、中年サラリーマンにとっては、若さの泉=fountain of youthたりうる、つまり草臥れてしまった時に見返してはパワーを補充できるような作品に仕上がっている。つまりは、万人に向けてお勧めできる傑作であるということである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, R・マーダバン, アーミル・カーン, インド, カリーナ・カプール, シャルマン・ジョーシー, ヒューマンドラマ, 監督:ラージクマール・ヒラーニLeave a Comment on 『 きっと、うまくいく 』 -あまりにもチープすぎて逆に感動する友情物語-

『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -二度目の胸アツ応援上映参戦-

Posted on 2019年2月22日2019年12月23日 by cool-jupiter

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また行ってしまった。本当は梅田の東宝シネマに行きたかったが、ほとんど満席だった。無理してそちらにいくべきだったか。

感想としては、伊丹の東宝シネマもMOVIXあまがさき同様、盛り上がりはいま一つであった。客の入りは1割にも満たなかったか。もしも、この夜の「エーーーーーーーーーーーーーオ!!」の間の ーーーーーー (映画でもここは聴衆のウェーブを上空から映すショットに切り替わるため、音が一瞬小さくなる)を劇場で聞いた、と言う人がいれば、それはJovianの声であったはずだ。そうそう、お一人、Radio Ga Ga の時に、右腕を大きく突き出す御仁がおられた。梅田なら、または東京の劇場なら、もっとノリノリの人が多くいるのだろうか。

以下は雑感。

監督のブライアン・シンガーのスキャンダルがアカデミー賞にどう影響を及ぼすのかは、神ならぬ身には分からない。しかし、新井浩文が逮捕され、事務所も解雇され、地検に起訴されたというニュースを聞いて、改めて彼の出演作がお蔵入りになってしまったことが残念だ。何が残念かと言えば、新井その人のキャリアではない。その映画の製作に関わった多種多様な人々の努力と労力が適切な評価を受ける機を逸したのが悔やまれる。『 空飛ぶタイヤ 』でも危惧したことだが、映画を作るのに携わった多くの人、そしてその映画の公開を待つさらに多くの人を裏切るようなことは誰にもしてほしくない。『 ゲティ家の身代金 』のように、ケビン・スペイシーが盛大にやらかしてくれたおかげで失われかけたものを、クリストファー・プラマーとリドリー・スコットが莫大なカネとほんのわずかな時間で取り戻してくれたのは奇跡だったのだ。

作品と作者の関係をアカデミーの面々、そして多くの映画ファンがどう判断し、どう評価するのかは分からない。しかし、本作が傑作であるという自身の判断は変えたくないし、変えようとも思わない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ラミ・マレック, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -二度目の胸アツ応援上映参戦-

『 エンド・オブ・ザ・ワールド 』 -終末シミュレーションの平均的作品-

Posted on 2019年2月22日2019年12月23日 by cool-jupiter

エンド・オブ・ザ・ワールド 45点
2019年2月12日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キーラ・ナイトレイ スティーブ・カレル ロブ・コードリー
監督:ローリーン・スカファリア 

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原題は”Seeking a friend for the end of the world”である。世界の終わりネタというのは、小説から映画まで、これまで数限りなく生産されてきた。新約聖書の『 ヨハネの黙示録 』はローマ帝国滅亡のビジョンだと言われるが、旧約聖書の『 創世記 』のノアの方舟も典型的な滅亡物語だし、それをさらに遡ること数百年、『 ギルガメシュ叙事詩 』もある意味では英雄譚にして世界放浪と滅亡の物語だったのかもしれない。では本作はどうか?平均的な作品であった。

 

あらすじ

地球に天体衝突の危機が迫っている。そんな中、ドッジ(スティーブ・カレル)はふとしたことから、同じアパートのペニー(キーラ・ナイトレイ)と知り合う。混乱と平穏が交錯する中、彼らはドッジのかつての恋人を訪ねる旅を共にするようになる・・・

 

ポジティブ・サイド

『 プールサイド・デイズ 』や『 バトル・オブ・ザ・セクシーズ 』では性格に難のある男を演じていたが、スティーブ・カレルの本領はこうした寡黙で内気で、それでいて内面に様々な感情を秘めたキャラクターなのかもしれない。特にヒスパニックのメイドに優しい声をかけるシーンと、彼女に対して声を荒げるシーンは、このキャラクターの深みをよく表していた。滅亡を前に暴徒と化す人もいれば、滅亡を前にしても淡々と日常を過ごす人もいる。前者は結構しつこく描かれるが、後者をたった一人の中年女性と中年男性のビミョーな距離感で描き切ってしまったのは新鮮であった。

 

キーラ・ナイトレイも、いわゆる成熟した大人の女でありながら内面の成長はそれほどでもない、みたいなキャラを演じるようになって久しい。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』などのキャラの原型は本作から生まれたのかもしれない。

 

家族愛と異性への愛、父と息子の対立と苦悩、非常に分かりやすいテーマが提示され、キャラクターもそこそこ魅せてくれる。弱々しいスティーブ・カレルを見てみたいという人にはお勧めできそうである。

 

ネガティブ・サイド

あまりにも典型的なロードムービーだ。ロードムービーそれ自体はハズレを生み出しにくいジャンルであるが、同時に傑作も生み出しにくいジャンルでもある。まあ、本作が傑作になろうとしていたかどうかは疑わしいところだが。キャストはまあまあ豪華だが、作りはどう見ても低予算映画のそれであるからだ。本作が目指すべきは、地球滅亡が現実として迫ってきた時に、どれだけ特異な人物を描けるか、またはどれだけ特異な状況を描き出せるかだったはずだ。しかし、過去にすれちがってしまった愛する人を探し求めるというのは、小天体が地球との衝突コースに入らなくても出来る。例えば、不治の病で余命を宣告されてしまうとか、両親や親せきに望まぬ結婚を押しつけられそうになるだとか、または同窓会に出席するはずだった、かつての憧れの人が何故か来なかったからとか、色々ときっかけになるような出来事は考えられる。本作は、天体衝突という極限のディザスター・ムービーでもあるのだから、もう少し捻った展開が欲しかった。

 

総評

典型的な Rainy Day DVD である。手持ち無沙汰の雨の日に、DVD(または配信)で観るぐらいでちょうど良い作品である。もしも滅亡が差し迫った状況で個はどう振る舞うのかに感心があれば、主演ニコラス・ケイジ、監督アレックス・プロヤスの『 ノウイング 』の方が面白いと感じるはず。全体的にクソ映画ではあるが、最後のニコケイの笑顔はとても良い。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ロブ・コードリー, ロマンス, 監督:ローリーン・スカファリア, 配給会社:ツイン, 配給会社:ミッドシップLeave a Comment on 『 エンド・オブ・ザ・ワールド 』 -終末シミュレーションの平均的作品-

『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

Posted on 2019年2月15日2019年12月22日 by cool-jupiter

チワワちゃん 70点
2019年2月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:門脇麦 成田凌 吉田志織
監督:二宮健

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門脇麦と成田凌という『 ここは退屈迎えに来て 』でも見れらた若手の実力者の共演である。それだけでもチケットを買う価値はある。実際に I got my money’s worth. 

 

あらすじ

「チワワ」(吉田志織)が死んだ。バラバラ殺人だ。ミキ(門脇麦)はチワワの恋人だったヨシダ(成田凌)やその取り巻き、友人、知人らにチワワがどんな人間だったのかを確かめていく。そこで知ったのは、自分が全く知らないチワワの姿で・・・

 

ポジティブ・サイド

非常にドラッギーな映像から始まる。まるで、これから見るのは映像麻薬ですよ、とでも宣言しているかのようだ。そして実際にその通りである。女子の下着パーティーあり、プール内での美少女同士のキスありと、いったい何を観に来たのだろう?と頭がクラクラしてくるような映像を二宮監督は放り込んでくる。Good jobである。

漫画が原作であるということで敬遠することなかれ。いわゆる少女漫画を原作とする十把一絡げの青春ムービーとは明らかに一線を画す映画である。大ヒット(少女)漫画のストーリーというのは、基本的にファンタジーである。王子様に見出されるお姫様のお話である。なので、そうした映画を観ながら「ああ、俺にもこんな甘酸っぱい、青っちい時代があったなあ」という風にはとても感じられないのである。もしもそのように感じられる映画ファンがいれば、相当に幸運な人生を送れた証である。リア充爆発しろ。しかし、本作の描く青春模様はファンタジーではない。それは青春の一面を異常に肥大化させた、あるいは極度に誇張させたものである。美少女または美男子が転校して来て、自分の隣の席に座るようになる、やがてその相手と劇的展開を経て恋仲になるなどという漫画のような、というか漫画そのものの経験をしたことのある人など、一万人に一人ぐらいしかいないのではなかろうか(分母が十万人でも五千人でも、希少性が高いという意味では大差ないだろう)。しかし、本作で描かれるような若気の無分別を経験したことのない人というのは、あまりいないように感じる。もちろん、危ない筋から大金を強奪するというのは論外だが、ちょっとしたあぶく銭を一瞬の享楽のために溶かしてしまっただとか、行きずりの相手とベッドインしただとか、家に帰れない事情があって知人友人宅を転々としただとか、クラブで飲んで踊り明かしただとか、そういう経験である。Jovian自身もこの映画ほどのクレイジーな経験はしていないが、大学時代には先輩の車に同級生らと乗り込めるだけ乗り込んで、吉祥寺の「ホープ軒」でアホほどラーメンを喰ったその足で、環七沿いの「なんでんかんでん」でやはりしこたま豚骨ラーメンを喰い、そのまま何故か港の見える丘公園に乗り込んで大騒ぎし、返す刀で井の頭公園に戻って、やはり乱痴気騒ぎに興じたことがあった。良い思い出であると同時に、今思い起こしてみても、何故あれほど全力で騒いで遊んで楽しめたのか分からない。

本作はチワワがなぜ殺さなければならなかったのかについては明確な答えは出さない。その筋の仕業だろうとは推測されるが、もはやそれは重要でも何でもない。本作には大人と言えるキャラクターが数えるほどしか出てこない。その一人、浅野忠信は圧倒的な迫力と存在感でカメラ小僧を威圧する。このカメラ小僧はある意味で子どもの代表であり象徴でもある。チワワに恋焦がれるも、カメラのファインダー越しにしかチワワを見ることができず、チワワと個人的な関係を築きたいという欲望が隠しきれないにもかかわらず、自分の撮る映画に出演して欲しいという願いを伝えることでしか、コミュニケーションが取れない。映画に出て欲しいというのは、自分にとっての理想的なキャラクターになって欲しいという意味だろう。浅野忠信はチワワという「現存在」が未来に「投企」されていないという事実を冷徹にも暴きだした。一方でカメラ小僧は美しく天真爛漫で無邪気に快楽を享受するチワワを記録しようとして、ヨシダにそれをぶち壊される。この成田凌演じるヨシダは大人と子どものちょうど境目である。B’zの“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の「あいつ」のような男なのだ、と言えばピンと来るB’zファンあるいは邦楽ファンも多いだろう。青春群像劇としては異色の野心作に仕上がっている。吉田志織という原石がこれからどういう光を放つようになるのかは未知数だが、期待の若手勢ぞろい作品という点では『 十二人の死にたい子どもたち 』よりも本作の方が面白い。

 

ネガティブ・サイド

舞台を現代に設定し直す必要はあったのだろうか。確かにSNSが効果的なガジェットして使用はされていたが、チワワという存在の皮相性と深層性を際立たせるものではなかった。舞台を原作のまま1990年代にして、『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』の如く、若さゆえの暴走、若さゆえに無分別、それゆえの刹那的な輝きを記憶に留めるような物語の方がより印象的になったのではと思う。SNSが発達した時代というのは、携帯のカメラやデジカメなども相当に進化している世界なわけで、チワワの画像や映像、音声やテキスト情報などが膨大な量で残っていても全く違和感がない、というかチワワに関するそうした記録。情報の類があまりにも少なすぎて、「本当に現代なのか?」という違和感が最後までどうしても拭えなかった。

 

これは完全に自分が監督になったつもりでのぼやきだが、劇中でチワワが歌って踊る“Television Romance”を何故エンドクレジットシーンに採用しなかったのだろうか。チワワとその周辺の人間関係はほとんど全部この歌で描写されてしまっているではないか。チワワの物語の余韻に浸るべき瞬間にこそ、このテーマソングがより強く輝けるのではないのか。そこのところを非常に惜しいと思う。

 

総評

「くだらなかったあの頃に 戻りたい 戻りたくない」という“Pleasure’91 〜人生の快楽〜”の一節が強烈に脳裏に浮かんでくる。そんな一作である。もちろん、いい年こいたオッサンの抱く感傷と、まさに20歳前後の登場人物たちと同世代の映画ファンの抱く感想は、大いに異なるはずだ。観る者によって呼び起される感覚が異なるというのは、それだけ良い作品なのだ。一面ではなく多面的に見ること、見られること。それを是非、劇場で大画面で体験しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, ミステリ, 吉田志織, 成田凌, 日本, 監督:二宮健, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 チワワちゃん 』 -リアルで陳腐な青春群像劇の佳作-

『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

Posted on 2019年2月1日2019年12月21日 by cool-jupiter

バジュランギおじさんと、小さな迷子 80点
2019年1月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サルマーン・カーン ハルシャーリー・マルホートラ
監督:カビール・カーン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190201102653j:plain

今年の初めにパンフレットを見た時に「おー、ジョン・ハムがインド映画に出るのか」と思ったのを覚えている。実際は全く別の役者さんだが、そのように見えてしまった映画ファンは全世界で数千人はいたのではないだろうか。

 

あらすじ

パキスタンの山奥で暮らす娘シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は口がきけない。お祈りのために訪れたインドで不運にも迷子になってしまう。そこでパワン、通称バジュランギ(サルマーン・カーン)と出会う。バジュランギは熱心なヒンドゥー教徒で、学歴は無いが素直で誠実で無邪気な男だった。彼はこの娘をムンニーと呼び、ビザもバスポートも無しにパキスタンに彼女を送り届けようと決意するのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 バーフバリ 』二部作、そして『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』に続くインド映画の傑作がまたも現れた。と思ったら、現地での公開は2015年だったとのこと。『 ウィッチ 』のように2年経ってから公開されるケースはあるが、4年ものスパンを空けてというのはかなり珍しいのではないか。それだけ、今このタイミングで、日本で劇場公開する意義を配給会社が認めたということなのだろう。

 

何よりも、シャヒーダーがあまりにも可愛い。このような純粋無垢な少女を前に、大人はあまりにも無力である。つまりはベイビネスである。実際は6歳ぐらいなので、シャヒーダーをベイビーであると看做すの無理がある。しかし、シャヒーダーの口がきけないという特徴が、彼女を赤ん坊的な存在に留める大きな役割を果たしている。赤ん坊の特徴はその無垢さ、タブララサ tabula rasa であることが挙げられる。赤ん坊は白紙なのだ。シャヒーダーは白紙の存在ではない。彼女はパキスタン人であり、ムスリムであり、クリケット好きである。しかし、周囲のインド人の目には、そうした属性が可視化されていない。つまり、彼女は彼女の最も純粋な部分、つまりは人間としての部分が扱われる。彼女が肉を食べ、イスラム教のモスクに入り、クリケットのパキスタン代表チームを応援することで、周囲の人間は彼女を異物であると認識するようになる。非常に悲しいことではあるが、日本人の中には、コンビニ店員がベトナム人、中国人、韓国人、フィリピン人であるというだけのことで、非常に居丈高になり、時には高圧的、攻撃的にさえなる者が存在する。人間には様々な違いがあるものだが、そうした違いのいくつかは非常に皮相的で、自分では決定的だと思っていた差違も、実は自分の心が作り出していた幻想に過ぎないということを、本作はある意味では非常にあっけらかんと明かしてしまった。インドとパキスタンの歴史は、西ドイツと東ドイツ、北朝鮮と韓国のようには、なかなか理解はできない。なぜなら前者の差違は宗教的なもの、つまりは心の問題であって、後者の差違は社会システム、つまりは制度的なものであるからだ。シャヒーダー、いやムンニーと旅するバジュランギは、自分がどれほど狭隘な精神世界に住んでいたのかを、旅の中で認識するようになる。彼がモスクの中でムンニーを見つめるシーンは、終盤で非常に鮮やかなコントラストを生み出す。これには唸らされた。信じる対象は異なっても、信じるという心の営みそのものには何らの違いもなく、等しく尊重されるべき心の在り様であるということを、本作は観る者に提示する。ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思う。

 

本作はさらにもう一歩踏み込んで、梅田望夫が言うところの「不特定多数無限大への信頼」を体現するプロットも組み込まれている。ネットの世界には技術的には国境は無く、マスコミと同程度、時にはそれ以上の信頼をミニコミが生み出すことさえある。そうした、非常に現代的な世界の在り方を本作はリアリスティックに映し出す。傑作インド映画『 ボンベイ 』で描かれたような、圧倒的な憎悪と暴力が発露される場面があるが、その同じ力が負ではなく正の方向に作用する時、観る者に圧倒的な感動をもたらしてくれる。事実、シネ・リーブル梅田は『 カメラを止めるな! 』以来の満席であったが、クライマックスでは劇場内のそこかしこからすすり泣きの声が聞こえてきた。インド映画、そしてインドという国に対する見方を我々はアップデートしなければならない時期に差し掛かっている。

 

そうそう、主演のサルマーン・カーンのフィルモグラフィーを事前にチェックしておくと、劇中でクスリとさせられること請け合いである。興味のある方はお試しあれ。

 

ネガティブ・サイド

最後の最後のショットがやや腑に落ちない。そこに至るまでは非常にハイレベルにまとめられていたのに、あのような構図にする必要があったのだろうか。端的に言えば、この美しい映画の物語の余韻を少し壊すようにすら感じられた。

 

また、一部で露骨に『 ビバリーヒルズ・コップ 』をパクった、またはパロったシーンがあるが、こうした場面でこそ本作のオリジナリティを発揮して欲しかったと願う。

 

総評

『 search サーチ 』の監督アニーシュ・チャガンティの活躍にも見られるように、インド映画、およびインド系の映画人は今後ますます活躍していくものと予想される。そうした大きな流れの端緒の一つとして、本作は記録され、記憶されるだろう。傑作であると断言する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, インド, サルマーン・カーン, ハルシャーリー・マルホートラ, ヒューマンドラマ, 監督:カビール・カーン, 配給会社:SPACEBOXLeave a Comment on 『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』 -インド発ロードムービーの傑作-

『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

Posted on 2019年1月29日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガー・ラッシュ オンライン 60点
2019年1月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン ガル・ガドット タラジ・P・ヘンソン
監督:リッチ・ムーア フィル・ジョンストン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190129123942j:plain

およそプリンセスらしくないプリンセスのヴァネロペが、インターネット世界で様々なプリンセスおよびキャラクターと邂逅する。そして、ラルフとの友情に一つの区切り、転換点を迎える。前作の『 シュガー・ラッシュ 』が役割と人格を巡る物語であるとすれば、本作は主体の主体性、すなわち自由を巡る物語であると言える。Jovianは作家の奥泉光に私淑しているが、彼は我々の共通の師である並木浩一との対談で、並木から「自由とは、自由であろうとすること」との言葉を引き出している。Jovianがここで言う自由も、自由であろうとすることを指しているとご理解頂きたい。

 

あらすじ

ラルフとヴァネロペは、それぞれのゲームで活躍しながら、良好な親友関係を続けていた。ある日、ハプニングにより、シュガー・ラッシュのゲーム筺体が破損。修理部品を手配する為に、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界に飛び込んでいく。そこでヴァネロペは様々な出会いを通じ、自分が本当にやりたいことを見つけ出すのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

前作でも同じことを感じたが、CGが違和感なく感じられるのは個人的には大いなるプラス。現実世界のゲームのCGは余りにも美麗になりすぎたが、一定以上の世代の人間ならドラゴンクエストやファイナルファンタジーの二次元ドット絵に愛着を感じるだろうし、パックマンやインベーダー・ゲーム、ドンキーコングのようなグラフィックでも充分だとさえ言える。CG嫌いが少し弱まってきたのだろうか。

 

前作ではレトロゲームのキャラが多数カメオ出演していたが、今作ではネットのビジネス世界の列強が勢ぞろいしている。日本からは楽天が参戦しており、そのほかにもLineやmixiも目に入ってきた。その他のネットビジネスの巨人であるAmazon,eBayを筆頭にYouTube,Facebook,Google,InstagramにTwitterと何でもござれ。これらのサービスの全てもしくはいくつかを使ったことがある人ならば、思わずニヤリとさせられる描写も多く、なおかつインターネットという世界を直観的に理解できるようなビジュアル世界も構築できている。これは凄いことだ。最も象徴的なのは、ネット世界では距離の概念が“ほとんど”無いのだということを描き出していること。また、IPアドレスによって個を識別しているということ。そしてデータのコピーにかかるコストがほぼゼロであることを良い意味でも悪い意味でも映し出したこと。これらに個人的には最も唸らされた。

 

今作ではラルフとヴァネロペの友情に新たな展開が見られる。自分の役割を受け入れることができたラルフと、やっと自分の役割を果たせるようになったヴァネロペの間に、温度差が生まれるのは蓋し当然でもあっただろう。ラルフは悪役であることを受け入れ、ゲーム外の時間でヴァネロペと変わらない時間を過ごす。しかし、ヴァネロペは決まり切ったレースコースを走ることに厭いていて、変化を求めている。シュガー・ラッシュ内でも他キャラがプリンセスとして接してくるのに対して、対等な関係を求める。ヴァネロペは「自分が自分らしくある」ことを目指したいのだ。それこそが主体の自由である。ゲームの垣根を乗り越えて、自らのアイデンティティを定めようとしてく、このリトル・プリンセスの姿に、一つのグローバル時代の個の在り様を見るようである。

 

また、本作ではディズニー世界のプリンセスが勢ぞろいする。Jovianは一部しか作品は鑑賞していないが、それでも彼女たちが語るプリンセスの条件(予告編で散々流れているのでネタばれにはあたらないだろう)に、我々はいかに個の在り方が非常に限定的、なおかつ与えられた役割を全うすること、もっと言えば非常に受動的な属性で塗り固められているかということを思い知らされ、愕然とする。ヴァネロペがネット世界でゲームの垣根を超えていくこと、麗らかに、しかし、強かに個を主張する様は、繰り返しになるが、グローバル時代の個人の来し方行く末を見るかのようだ。幅広い年代層にアピールできる作品になっている。

 

ネガティブ・サイド

ラルフは元々、the sharpest tool in the box = 頭が切れるタイプではないが、ヴァネロペの旅立ちを阻止したいが為だけに、ここまでやるか?という行為に及ぶ。現実世界でこれをやれば、御用である。ネット世界でこれをやっても、やはり御用である。ラルフは典型的な男のダメな部分をあまりに率直に、飾らずに体現してしまっている。それは共感力の欠如である。「俺は毎日楽しいぜ」と自己主張をしてもしゃーないのである。シャンクとヴァネロペの会話は至って正常なガールズトークで、だからこそラルフには理解ができない。こうした描写はクリシェとさえ呼べるが、これを見せられてしまうと男としてはかなり暗澹たる気分にさせられる。例えばラルフがシャンクに直接、自分がどれほどヴァネロペとの友情に感謝しているのか、それによって生かされているのかを訥々とでもよいから語るような場面があれば、男のダメさ加減の体現描写も少しは薄められたはずなのだが・・・

 

総評

『 レディ・プレイヤー1 』のメッセージは、「外に出ろ、人と交われ」だった。しかし、本作はもっと踏み込んで、「多様な世界に触れろ、変化を恐れるな」と言っているかのようだ。世代によって本作の受け取り方は相当に異なると思われるが、あらゆる見方が正しいのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, アメリカ, ガル・ガドット, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, タラジ・P・ヘンソン, ヒューマンドラマ, 監督:フィル・ジョンストン, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:デイズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

Posted on 2019年1月28日2019年12月21日 by cool-jupiter

バンド・エイド 50点
2019年1月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゾーイ・リスター=ジョーンズ アダム・パリー フレッド・アーミセン
監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190128031031j:plain

原題も“Band Aid”である。絆創膏と「音楽バンドによる助け」のダブルミーニングである。音楽によって人間関係の修復を図る作品では『 はじまりのうた 』が思い出される。テイラー・スウィフトは『 Bad Blood 』で「バンドエイドでは銃創は治せない」と歌った。しかし、バンドで治せる傷もあるはずだ。そう確信する人々が作ったのが本作であろう。

 

あらすじ

アナ(ゾーイ・リスター=ジョーンズ)はUberの運転手、ベン(アダム・パリー)は企業ロゴのデザイナーで、互いに収入は不安定。二人の間では常にケンカが絶えなかった。しかし、バンド活動の間だけはケンカを楽曲に昇華することができた。近所に住む性依存症のデイヴ(フレッド・アーミセン)を交えて、バンドを始める二人。バンド活動は順調に見えたが、アナとベンには真正面から向き合えない辛い過去があり・・・

 

ポジティブ・サイド

サンダンス映画祭に出品された作品ということで、登場人物も少なく、時間的・空間的にもそれほどの広がりを見せない。つまり鑑賞しやすく、理解もしやすい。夫婦喧嘩を経験したことのない夫婦はいないだろうし、未婚・独身者であっても、夫婦喧嘩の何たるかはある程度は想像ができるはずだ。そんな夫婦間のドロドロした愛憎を音楽活動に昇華させる。非常に健全な試みであろう。アナとベンが互いに”Fuck you, Fuck you, Fuck you”とお互いを罵るようにシャウトする様は非常にコメディックである。

 

映画をある程度見なれた人であれば、もしくは夫婦というものをある程度経験していれば、アナとベンの間に起きた悲しい過去については簡単に推測できるだろう。しかし、それに向かい合うことは決して簡単なことではない。特に女性であれば、アナが女友達とおしゃべりをするシーン、そして友達の子どもの誕生日パーティーに出席するところで、非常に強く共感するか、もしくは相当に身につまされる思いをするか、どちらかではないだろうか。

 

中盤以降には、もしかすると日本の少子化、もっと言えばセックスレスの原因はこれではないかと示唆してくるようなシークエンスがある。これはおそらく夫側がかなり身につまされるシーンになるのではないか。現代ではセックスは生殖活動以上に、愛情表現、濃密なコミュニケーションとしての意味合いの方が強い。だからこそ依存症が発生したりするわけだが、かといって生殖の意味合いが薄れたわけでは決してない。本作は夫婦の在り方を時にラブコメ調に、時にシリアスに映し出す。主演も兼ねた監督ゾーイ・リスター=ジョーンズの面目躍如といったところだろうか。

 

ネガティブ・サイド

アメリカの女性というのは、人生で一番輝いていた時期に囚われる傾向が殊更に強いのだろか。『 ワン・ナイト 』や『 ラフ・ナイト 史上最悪!?の独身さよならパーティー 』など、人生の最盛期を振り返る映画は枚挙に暇がない。アナも、過去に本を出版するチャンスを掴みかけたのだが、それは結局実現することが無かった。これはあまりに陳腐だ。もっと別の角度から、アナの苦境を描くことはできたはずだ。本というものが、あるモノのシンボルであることは承知している。そうであるならば歌詞にそのあるモノを示唆するものが出てこなくてはならなかったが、そんなものはなかった。それが残念だ。

 

もう一つ指摘することがあるとすれば、アダム・パリ―の演技。下手だと言いたいわけではない。ただ、妻に対する時と母に対する時で演技に違いがないのは頂けない。目つき、顔を傾ける角度、声のトーンなど、目に見える、耳に聞こえる形で演技を差をつけられないのは表現者としては敗北であろう。もちろん、監督その人によってそのような演技をするように指示された可能性もあるが、彼の一本調子の演技は本作にとってはマイナス要素である。

 

総評

テイラー・スウィフトは2015年の東京ドームでのライブで“You are not your own mistakes.”と語った。『 あなたの旅立ち、綴ります 』でシャーリー・マクレーン演じるハリエットは“You don’t make mistakes. Mistakes make you. Mistakes make you smarter.”と語った。弱点はあるものの、もしも夫婦関係に間違いがあると感じているのならば、何某かのヒントが得られるかもしれない作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アダム・パリー, アメリカ, ゾーイ・リスター=ジョーンズ, ヒューマンドラマ, フレッド・アーミセン, 監督:ゾーイ・リスター=ジョーンズ, 音楽Leave a Comment on 『 バンド・エイド 』 -真正面から向き合えない夫婦なら観てみよう-

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