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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: スリラー

『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

Posted on 2018年9月12日2020年2月14日 by cool-jupiter

累 かさね 70点
2018年9月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:土屋太鳳 芳根京子 浅野忠信 筒井真理子 生田智子 檀れい
監督:佐藤祐市

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180912022429j:plain

主人公もしくは主役級のキャラクターの容姿の醜さを主題に持つ作品は、古今東西で無数に生み出されてきた。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を始め、小説およびミュージカルにもなったガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(ミュージカルは複数のバージョンがあるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーのもの一択)、芥川龍之介の小説『鼻』の禅智内供、漫画の神様・手塚治虫の分身ともいえる猿田博士および系列のキャラ、百田尚樹作品の中でJovianが唯一評価している小説および映画『モンスター』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』、作者に目を向けるならば岡田斗司夫や本田透の自己認識も挙げられるだろう。今年の映画で言えば『ワンダー 君は太陽』を忘れてはならない。また『サニー 永遠の仲間たち』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』にも、重要なモチーフとして現れるテーマであり、『デッドプール』のウェイド・ウィルソン、『美女と野獣』の野獣、『エレファント・マン』、『フランケンシュタイン』(ボリス・カーロフver)の怪物、漫画およびテレビドラマ『イグアナの娘』など、顔・容姿の美醜を扱う作品は数限りなく存在する。そこに、なんと“顔を入れ替える”というアイデアをぶち込んだ時点で、原作漫画のある程度の成功は約束されていた。『フェイス/オフ』のように、ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの顔を入れ替えても、話は面白いかもしれないが、それが目の保養になるかと言えば、ならない。しかし、土屋と芳根の顔を入れ替えるのである。発想の勝利である。監督がこの原作を選んできたのは、この二人がキスをする画を撮りたかったからではないかとすら邪推する。

大女優の淵透世(檀れい)は死の前に、我が子の累(芳根京子)に顔を入れ替える不思議な力を持つ口紅を遺していった。顔に醜い傷を持つ累は、母譲りの天才的な演技力を有しながら、自分に対する劣等感を拭えないままに生きてきた。そこに羽生田釿互(浅野忠信)が現れ、丹沢ニナ(土屋太鳳)という美女ではあるものの演技力には欠ける女優の替え玉となる話が持ちかけられる。戸惑いながらも、ニナの顔を一時的に得ることで、周囲の人間の見る目が変わることを実感した累は、気鋭の舞台演出家の烏合零太(横山裕)の劇のオーディションにも見事に合格。ニナと累の二人は、奇妙な共犯関係を築いていく・・・

まず何と言っても、土屋太鳳が殻を破ったことを何よりも称えたい。山崎賢人が『羊と鋼の森』で殻を破ったのと同じ、あるいはそれ以上の飛躍が見られた。なぜなら、キャピキャピの、もしくは過度に大人しい女子高生役から遂に脱皮を果たしたからだ。後は有村架純が『ナラタージュ』で見せたような濡れ場シーン解禁を待つばかり・・・というのは冗談だが、それにしても「演じること」を演じるというのは、非常に難しいことだ。それを、プロット上でいくつか気になるというか無理な点はあるにしても、最後までやり遂げたことに拍手を送りたい。相対する芳根京子も、最初から顔が整い過ぎているのがチト気になるが、根暗な雰囲気だけではなく、対人スキルに問題を抱える、ある種の人間特有の挙動不審さ、表情や目線の不自然さまでを上手く表現できていた。この目立たないが、確かに累の者であると言える仕草や姿勢を体現したことが、一人二役、二人一役を実質は土屋太鳳が1.5人分を担っていたにもかかわらず、ダブル主演として売り出すことができ、なおかつ観る者もそれに納得できる最大の理由であろう。

容姿・容色に劣るものは内面まで劣るのか。それとも、心の内の美しさや清らかさは、外見とは無関係なのか。我々は往々にして、両者は反比例の関係にあるのだという風に、人の属性を画一的に断じてしまいたくなる。しかし、冒頭で述べたように、顔の美醜と内面の美醜は実に複雑な関係にあり、分類するとなると累はオペラ座の怪人の系譜に連なるキャラクターである。怪人はクリスティーヌへの思慕故に、シャニュイ子爵を殺そうとする。累も、烏合への想いを契機に、ニナの人生までも乗っ取ろうとする。これなどは、本田透が著作でたびたび言及するように、オタク的な生活と奇妙な相似形を為している。オタクは対人関係に障害を抱えるが故にキャラクターおよびキャラクター世界に没入する。累は、対人への劣等感故に、丹沢ニナという美少女キャラに没入する。自分ではないキャラクターを通じて何らかの世界と関わりを持つという点で、累は重度の「コミュニケーション不全症候群」に罹患していると見てよい。

そんな累を変えるのは、美しい顔を得ること以上に、顔ではなく内面に興味を抱いてくれる烏合の存在。どうせ誰も自分には話しかけてくれない、笑いかけてくれない、触ってもくれない、愛してもくれないし、抱いてもくれない。グリザベラだ。そんな思いに凝り固まった累を見る時に、我々は劣等感とは自分で自分を自分ではない者に貶める時に生じる感情であることを知る。劣等感とは幻想なのだ。現に、累の顔になっている時のニナは、周囲の目線など一切気にすることなく街を歩いていくし、芝居の稽古の現場にだって踏み込んでいく。こうした行動に、我々は清らかさを感じない。予告編にもあるのでネタバレに当たらないはずだが、ニナは累に「私はアンタみたいに中身まで醜くないから」と言い放つ。しかし、物語前半のニナはどこからどう見ても醜い内面の持ち主で、それがほんの些細な言動や表情に表れる嫌な女の典型だった。優越感も、実際に他者よりも優れているから得られるわけではなく、これまた幻想なのだ。

顔を入れ替えることで、浸食されていくニナの人生。同時に、累の思考や行動にも変化が生じるが、それらは決して気持ちの良いものではないことだけは言っておかねばならない。これは決して醜いアヒルの子のようなおとぎ話ではないのだ。それでも、『不能犯』とはまた異なる方向で、このようなダークストーリーが産生されることには大きな意味があるし、あまりにも典型的かつ定型的な漫画ばかりが映画化されるこのご時世に、大きな楔を打ち込む作品がもっと生み出されるべきなのだ。昨年、カナダ旅行に行った時に、現地の子供向けアニメの主人公が補聴器を使う女の子だったことにビックリしたことを覚えている。それだけではなく、その壊れた補聴器を修理してくれる人は義足を嵌めていた。障がいも個性。そうした考えに日本が追いつくのには今しばらくの時間がかかりそうだ。本作は単なるエンターテイメントとしてだけではなく、傷のある人間を初めて大々的にフィーチャーした作品として記憶されるのかもしれない。

本作にも残念ながら、いくつかの減点要素が存在する。その最大のものは、累とニナが相互に仕掛けるトリックだ。舞台に携わったことのある人なら、タイムキーピングの難しさは「骨の髄まで」分かっているはずだ。ふとしたことで全てが崩れ去ってしまうような、そんな危うい賭けに、ニナはともかく累が乗るだろうか。ここだけがどうしても納得できなかった。またニナにはとある秘密があるのだが、その秘密がよくもそこまで都合よくコントロールできたものだ、と呆れてしまうような類のものとして利用される。もし、累がニナの演技に気付かなかったら・・・、いや、そこは気がつくのだろうが、もしニナが復讐を企図しなかったら、窮地に陥っていたのは累だったはずだ。何がそこまで、累を確信させていたのだろうか。この点も最後の最後は気になって仕方がなかった。

という具合に最後に文句を垂れてしまったが、本作は普通に面白い。時間とカネを使って、劇場まで観に行く価値ありと声を大にして言える秀作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, スリラー, 土屋太鳳, 日本, 浅野忠信, 監督:佐藤祐市, 芳根京子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

『ALONE アローン』 ―実存主義的な問いからのプレッシャーに如何に抗うか―

Posted on 2018年7月6日2020年2月13日 by cool-jupiter

ALONE アローン 70点

2018年7月5日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:アーミー・ハマー アナベル・ウォーリス トム・カレン
監督:ファビオ・レジナーロ ファビオ・ガリオーネ

*以下、少量のネタバレあり

これはアーミー・ハマーの代表作になるのではないか、そんな印象を劇場でまず受けた。『ソーシャル・ネットワーク』では嫌な双子の両方を、『君の名前で僕を呼んで』では最初は少し取っ付きにくそうなあんちゃんを見事に演じてくれていたが、今作では意志の強さと肉体の強靭さ、そしてそれらに似合わない(というよりも、それらにふさわしい)人間性の持ち主を演じている。ふと、ジェームズ・P・ホーガンの小説『 星を継ぐもの 』のコリエルを演じさせるとすれば、それはアーミー・ハマーしかいない。個人的にはそう思えるほどだった。恐ろしいほどのハマり役である。『 ベイビー・ドライバー 』におけるアンセル・エルゴート並みにハマっているし、キマっている。

あらすじでご存知の通り、砂漠で地雷を踏んでしまって動けない。救助まで52時間。なにをどうやって凌ぐのか。襲い来る砂嵐、夜の闇としじまに紛れて忍び寄る狼の群れ、容赦なく照りつける太陽、凍てつく夜の冷気、飢え、そして渇き。極限状況を生き延びるために必要なことは何なのか。この映画のキーワードに”Move on”というものがある。「前に進む」という意味だが、これは物理的に体を動かしてそうするの意と、出来事や話題を振り切って新しいものに向かって進んでいくの意、両方を持っている。足を一歩前に踏み出せないことで、ハマー演じるマイクは過去に踏み出せなかった数々の一歩が胸に去来する。陳腐ではあるが『 モリーズ・ゲーム 』や『 ハクソー・リッジ 』にも見られたような父親殺しもその中には含まれている。念のために言うが、犯罪としての殺人ではなく文学的・精神的な意味での父殺しである。また重要な狂言回しとしてベルベル人の男が登場する。彼は片言の英語でマイクの心の隙間を浮き彫りにする。それはこんな具合だ。

「なぜ地雷を踏んだ?」
『ここが地雷原だと知らずに迷い込んだからだ』
「なぜここに来た?」
『任務があったからだ』
「なぜ任務があった?」
『戦争だからだ』
「なぜ戦争に来る?」
『俺が兵士だからだ』
「なぜ兵士になった?」
『俺には守るべきものがもうないからだ』

(あくまで記憶を頼りにしているので、多少の不正確さはご容赦を)

ここで、序盤に散々ほのめかされていた恋人ジェニーとの関係、母との別離、その他多くのしがらみについて、観客は知ることになる。それでも一歩を踏み出せないマイク。それは本当はその一歩を誰よりも踏み出したかったからなのだ。ベルベル人の男の言葉に、マイクは自分でも気づいていなかった本心を知ることになる。第一次および第二次湾岸戦争に従事した兵士が帰国後PTSDを発症する率が異様に高かったとされるのは、戦場での悲惨な体験が一番の要因であると思われるが、極限的な状況に追い込まれることで、マイクのように過去のトラウマが一時に刺激されてしまうことも事由の一部としてあったのではなかろうか。お前は一体何者なのだという実存主義的な問いほど恐ろしいものは、実はこの世にはないのかもしれない。

劇場鑑賞でもレンタルでもストリーミングサービスでも何でも良い。マイクの生のこの一瞬をぜひ追体験してほしいと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, イタリア, スペイン, スリラー, 監督:ファビオ・ガリオーネ, 監督:ファビオ・レジナーロ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『ALONE アローン』 ―実存主義的な問いからのプレッシャーに如何に抗うか―

『死の谷間』 ―孤独と交流の狭間に人間の本質を垣間見る―

Posted on 2018年7月3日2021年1月17日 by cool-jupiter

死の谷間 55点

2018年7月1日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:マーゴット・ロビー キウェテル・イジョホー クリス・パイン
監督:クレイグ・ゾベル

原題は“Z for Zachariah”、ZはゼカリヤのZ、という意味である。映画ファン、特にヒューゴ・ウィービングもしくはナタリー・ポートマンのファンという方であれば、即座に『Vフォー・ヴェンデッタ』を思い浮かべることだろう。これもVは復讐(ヴェンデッタ)のV、という意味である。また古いSF小説ファンであれば、レイ・ブラッドベリの『ウは宇宙船のウ』(R is for Rocket)や『スは宇宙(スペース)のス』(S is for SPACE)を思い起こすだろう。本作の原題の意味は、ZはゼカリヤのZ、である。ゼカリヤと聞いてゼカリヤ・シッチンの名前を挙げる人はかなりのオカルトマニアであろう。またゼカリヤと聞いて「ああ、聖書のゼカリヤ書ね」と分かる人はかなりの博識であろう。作中で一瞬だけではあるが、核戦争を生き延びた人類最後の女性と思われるアン(マーゴット・ロビー)が、”A for Adam”という本を手に取るシーンがある。AはアダムのA、ということだ。このアダムは言わずと知れたエデンの園のアダムである。ゼカリヤという名がここで暗示するのは、それが人類最後の男であるということだ。

そのようなPost-Apocalypticな世界において、人類最後の女として生き延びているのがアン・バーデン(マーゴット・ロビー)である。相棒にして愛犬のファロと共に、狩猟採集生活を送っている。非常に興味深いのは、アンは物語冒頭で対放射線の防護服を身にまとって、街の図書館らしきところから本を頂戴してくるところ。もちろん、食糧や日用品をあらかた失敬した後のことであろうと思われるが、これはサバイバルにおいて実に重要なことだ。貴志祐介の小説の『クリムゾンの迷宮』という佳作がある。シチュエーション・スリラーに分類されるであろう物語で、広大無辺の大地に突如取り残される男女複数名のサバイバル・ゲームを描く。その中で、主人公ペアはゲーム主催者から支給されるものの中から、食糧や武器ではなく、「情報」を選択する。これが決定的に重要な決断で、情報≒知識こそが、長い目で見たときに最も生存に資するリソースなのだということを示している。本作も同じく、アンの住む家には数多くの書籍があり、アン自身も農家で生まれ育ったことから、大自然の中で生き抜く知恵、そして孤独に耐えうる強い信仰を備えていた。一人と一匹の生活は、それなりに上手く回っていた。

そこに闖入者のジョン・ルーミス(キウェテル・イジョホー)がやって来る。科学者にして、黒人で、無神論者であり、酒に飲まれてしまうこともある。アンとは非常に対照的な属性の持ち主である。この二人が協力して、ガソリンを調達するシーンは、知恵が自然を克服する好個の一例である。人間の無力さは、力の欠如ではなく知識の不足から来ることを端的に証明している、非常に印象的な場面である。さらに一歩進んで、ジョンは核汚染されたエリアから来た水で構成される滝を使っての水力発電を思いつく。そのためには木材、それも数年から数十年単位で乾いた木が必要となる。それを調達するために、アンの心の拠り所であり父の遺産でもある教会を解体するか否かで、意見が分かれてしまう。将来ここにやってくる人間のためにも、食糧が保存できるように冷蔵庫などを稼働させなければならないというジョンと、別の人間など来ないと思うアン。信者と無神論者の穏やかな対立を描いた場面であると同時に、子を作るに際して能動の男と受動の女という対極的な姿をも描いた名シーンである。結論を急がずに暮らしを続ける二人の前に、しかし、ケイレブ(クリス・パイン)という若い炭鉱夫だという白人男性が現れる。物語はここから大きく動き始める。

とはいっても、アンを巡る男2人の仁義なき戦いというわけではなく、信仰の有無、肌の色の違いなど、この「死の谷間」を除いて荒廃してしまった世界で果たしてどれほどの意味を持つのか疑わしいことにも、人間は拘泥してしまうのだという、究極的な人間ドラマが描かれる。ケイレブ=Caleb=カレブである。聖書に描かれるカレブは神への信仰を生涯揺るがせにせず、荒涼としたエジプトの大地を脱出し、約束の地へたどり着いた男である。このことを知っていて映画を観る(あるいは原作小説を読む)のと、予備知識なしで観ることで、おそらく違う感想を抱くだろう。それは自分ならばどうするだろうかという主観的な見方と、この名前のキャラクターに込められた運命はこうであるという、運命論的な見方に二分されるのではなかろうか。もちろん、女性目線で分析することも大いに奨励されるべきであろうし、実際に理性と欲望の狭間でアン自身が翻弄されてしまうようなシーンもある。あらゆる場面で自分なりの解釈が可能であるし、創世記の如く、すでに誰もが知っている物語の再解釈と見ることもできる。スペクタクルには欠けるものの、思考実験として大いに知的好奇心をくすぐってくれる作品である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アイスランド, アメリカ, キウェテル・イジョホー, クリス・パイン, スイス, スリラー, マーゴット・ロビー, 監督:クレイグ・ゾベル, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『死の谷間』 ―孤独と交流の狭間に人間の本質を垣間見る―

『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

Posted on 2018年5月21日2020年1月10日 by cool-jupiter

題名:スプリット 75点
場所:2017年5月21日 東宝シネマズ梅田にて観賞
主演:ジェームズ・マカヴォイ アニャ・テイラー=ジョイ
監督:M・ナイト・シャマラン

*注意 本文中に本作のネタバレあり

M・ナイト・シャマランの映画は当たりと外れの落差が大きすぎる。しかし、本作は当たりなので安心して観賞してほしい・・・と言えないのが難しいところ。まず『スプリット』を本当の意味で理解し、咀嚼するためには『シックス・センス』、『アンブレイカブル』、『サイン』の全て、もしくはいずれかを観ておかなければならないからだ。

ストーリーは単純で、ジェームズ・マカヴォイ演じる正体不明の男がアニャ・テイラー・ジョイ演じるケイシーを含む女子高生3人を誘拐・監禁するところから始まる。そこで彼女らは自分たちを攫った男はDID(dissociative identity disorder)=解離性同一性障害、つまりは多重人格であることを知る。複数の人格の中には若い女性、9歳児、デザイナー、屈強な成人などがおり、中には話の通じる人格、上手く利用できそうな人格として現れるものもいるのだが、どういうわけケイシーはあまり動揺を見せず、淡々と状況に対処し、9歳児を上手く騙す手前までは行く。ここに至って観る者は「何故ケイシーはこの状況に対処できるのか」と不審に思うが、巧みに挿入されるケイシー自身の過去のフラッシュバックが徐々にその全体像を現わしてくることで、彼女の冷静さや強かさに納得できてしまう。

マカヴォイは定期的にカウンセラーと会いながらも、カウンセラーを欺こうとする。その一方で彼女の理解や協力を得ようとする動きも見せるなど、誘拐・監禁と同じく、観る者に疑念を植え付けていく。同時にビーストという人格の出現を予期させるも、カウンセラーは当初、「それはファンタジーである」として受け容れない。一体、このストーリーはどこに向かって進んでいくのか、観客が予測をつけられないままにビーストが出現し・・・

というのが大筋だが、詳しくは観て確かめてもらうしかない。賞賛すべきは、まず何と言っても複数人格を見事に演じ分けたジェームズ・マカヴォイに尽きる。圧巻なのは物語中盤のカウンセラーとの面談シーンで、数十秒、時には数秒間隔で人格を切り替えてみせるという離れ業を成し遂げた。また終盤にも人格が次々に入れ替わりながら心の声を叫んでいくというシーンは鳥肌もの。またこの時のカメラワークは恐ろしいほど完ぺきな角度とタイミングでマカヴォイの表情を捉えている。練りに練られて撮影されたシーンで、映画製作の時のお手本として取り上げたくなるような名シーンだった。

ケイシー役のアニャも負けていない。9歳児を巧みに操縦したかと思えば、その9歳児の迫力に圧倒されてしまうのだが、恐怖を飲み込む演技が非常に上手い。恐怖していることを9歳児には悟らせないように、しかし観る者に非常に分かりやすい形で伝えるという、矛盾する演技を堪能させてくれる。またそのシーンで9歳児バージョンのマカヴォイがダンスを披露してくれる。不気味さという点では、劇中随一だ。シャマラン監督に言わせると、死んでしまった人格がそのダンスを通じて蘇ってくることを表現しているとのことで、実に不安を掻き立てるワンシーンに仕上がっている。

物語の締めには何とデイビッド・ダンが登場し、ミスター・グラスに言及する。この瞬間、あるシャマラン信者は歓喜したであろうし、あるシャマラン信者は茫然自失したであろう。『スプリット』は『アンブレイカブル』の世界のスーパーヴィラン誕生の物語であり、この多重人格男は次回作でアンブレイカブルを体現するD・ダンことブルース・ウィリスとの対決が決定しているのだ。ダンがこの多重人格男に触れた時、一体何を読み取るのか、そして狂人ミスター・グラスは何をたくらみ、仕掛けてくるのか。今から2019年の新作『グラス(仮題)』公開が待ち遠しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, ジェームズ・マカヴォイ, スリラー, 監督:M・ナイト・シャマラン, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 スプリット 』 -多重人格ものの傑作にしてシャマラン復活の狼煙-

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