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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』 -X-MENシリーズ、着地失敗-

Posted on 2019年7月8日2020年4月11日 by cool-jupiter

X-MEN:ダーク・フェニックス 45点
2019年7月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ソフィー・ターナー ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ジェシカ・チャステイン
監督:サイモン・キンバーグ

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Marvel Cinematic Universeが一つの区切りに達したところでMonsterVerseが本格的に指導し始めた。まさに映画の時代の区切りの感がある。そこで『 X-MEN 』シリーズの最終作品が届けられる。はっきり言ってX-MENシリーズは玉石混交である。しかし、All is well that ends well. 最終作品の評価を以ってシリーズ全体を総括することも可能であろう。では本作はどうか。残念ながら、やや駄作であった。

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*以下、ネタばれに類する記述あり

 

あらすじ

ミュータントと人類が共存する時代が到来していた。そこで宇宙探査機の事故が発生する。米政府はX-MENにレスキュー・ミッションを依頼し、プロフェッサーX(ジェームズ・マカヴォイ)は受諾。宇宙空間での救出作戦は成功したかに思えた。しかし、ジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)の中には本人も気付かぬ変化が生じており・・・

 

ポジティブ・サイド

トレイラーにもある、列車内のアクションシーンは非常にスリリングである。それは列車という細長い空間内でカメラのアングルが縦横無尽に変化していくからだ。一方通行の戦いを多角的に見る。閉鎖空間内のアクションを堪能するために必要な工夫である。ココはとても楽しめる。

 

マカヴォイやファスベンダーら、英国で最も実力ある俳優たちが共演するのも本シリーズならではである。パトリック・スチュワートとイアン・マッケランも悪くないが、Jovian個人としてはジェームズ・マカヴォイとマイケル・ファスベンダーの方が、プロフェッサーXやマグニートーを表現しているように思うのである。特にチェスのシーンは、『 X-MEN2 』を思い起こさせてくれた。つまり、終わったと言いながらも「俺たちの戦いは終わらない」的なことを感じさせてくれたのである。実際に、続編に色気を出したエンディングを迎えているし、このあたりは『 X-MEN: アポカリプス 』と同じである。History repeats itself. 同時に『 X-MEN: ファースト・ジェネレーション 』の構図でもある。実際にサイクロップスは「自分たちが最後のファースト・ジェネレーション(First Class)だ」と明言する。セカンド・ジェネレーションの存在を力強く示唆する言葉であり、今後はディズニーの元、同じく第二世代のアベンジャーズやファンタスティック・フォーに合流していく伏線であるとも取れる。期待せずに期待したい。

 

ネガティブ・サイド

オリジナリティが無い。これが最初に目につく本作の欠点である。まず、ジーンの変化のきっかけがそのまんま『 ノイズ 』(監督:ランド・ラヴィッチ)である。そして登場する宇宙人がほとんどそのまんま『 サイン 』(監督:M・ナイト・シャマラン)である。また、ジーンの幼少期の悲劇が、これまたほとんどそのまんま『 シャザム! 』のシヴァナの見に起こった事故である。ダーク・フェニックスとなったジーンにクイック・シルバーが立ち向かっていくシーンは、そのまんま『 ジャスティス・リーグ 』におけるスーパーマンに向かっていくフラッシュの構図である。ことほど然様に本作はオリジナリティに欠ける。終盤の列車内バトルの鮮烈さと対照的である。実際に、終盤は監督を変えて最撮影したものらしい。なるほど、と得心する。これまでに製作の面でX-MENに携わってきたキンバーグであるが、監督としての才能は凡庸であった、またはこのような大作のメガホンを取るにはキャリアが浅すぎたと判断せざるを得ない。

 

キャラクターにも一貫性を欠く。これは『 デッドプール 』でも触れられていたが、タイムラインが混乱している。例えば、チャールズ・エグゼビアは『 LOGAN ローガン 』では自らの人生を悔いていた。自らの為した仕事を失敗だったと涙ながらに後悔していた。そのことは、本作の中盤までのチャールズと共通する。しかし、終盤で明らかになる彼の本心とは矛盾するというか、相容れない。また、マグニートーというキャラクターの一貫性にも混乱が見られる。『 X-MEN: ファイナル ディシジョン 』のイアン・マッケランはいとも簡単にミスティークを見捨てたが、本作ではマイケル・ファスベンダーはミスティークの死を知ったことで弔い合戦に参加してくる。ウェイド・ウィルソンの言葉をそのまま借りて言えば、「タイムラインが混乱している」のである。

 

だが最大の弱点はジェシカ・チャステインのキャラであろう。X-MENの世界にX-ファイルが入り込んできた。それがJovianの偽らざる感想である。いや、オリジナリティの欠如だけなら、まだ許せないことはない。問題は、一体全体どのようにしてジェシカ・チャステインという当代随一の女優を、これほど無味乾燥で、物語に何の彩りも添えることのないキャラクターに落としてしまうことができたのか、である。ジェシカ・チャスティンと愉快な仲間たちは、はっきり言って倒されるためだけに存在している。その仲間たちもアクションに華を加えることには役立ったが、物語にスリルやサスペンスを加えることはなかった。というか、このように地球人の皮をかぶる宇宙人と戦うに際してこそ、ミスティークの能力が輝くのではないか。ミスティークの死は、単にミュータントを集める口実にしかならない。紆余曲折を経てミュータントが一堂に会し、宇宙から脅威およびジーン・グレイに立ち向かい、その戦いの最中、ミスティークが非業の死を遂げる。そうした脚本を誰も描くことができなかったのか。それともジェニファー・ローレンスのギャラが高騰してしまうのが不都合だったのか。

 

もっとダイレクトに不満に感じることを言ってしまおう。ミュータントはそもそも共同体や社会、国家におけるマイノリティの象徴だったはずだ。そうした顧みられざる者たちが、異能の存在者として世界に居場所を見つけようとする叙事詩がX-MENだったはずだ。しかし、『 インディペンデンス・デイ 』のウィットモア大統領の演説、“We can’t be consumed by our petty differences anymore.”よろしく、安易に地球外の生命体を登場させることで「我ら皆、地球人にて候」と非常に安易な二項対立の構図に物語を収斂させてしまうことが気に食わない。ダーク・フェニックスは確かにダークな存在ではあるが、彼女が人間社会にもたらした破壊と暴力は、過去のミュータント連中、例えばマグニートーやミスティーク、ナイトクローラーのそれと比べると、一段落ちる。にも関わらず、殊更に彼女を脅威であるかのように煽るので、辛抱強くシリーズに向き合ってきた者としてはどうにも腑に落ちない。まさしく franchise fatigue の悪弊である。

 

総評

言いたいことが色々とあってまとまらないが、これでX-MENが終わりであるというには、余りにもお粗末な締めくくりである。死に際して紅蓮の炎に飛び込み、灰燼の中から復活する不死鳥のように、おそらく本シリーズもいつの日か復活するであろう。その時は練りに練った脚本と斬新な映像演出を期待したい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ジェームズ・マカヴォイ, ジェシカ・チャステイン, ソフィー・ターナー, マイケル・ファスベンダー, 監督:サイモン・キンバーグ, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』 -X-MENシリーズ、着地失敗-

『 真実の行方 』 -若き日のエドワード・ノートンに刮目せよ-

Posted on 2019年7月5日 by cool-jupiter

真実の行方 70点
2019年7月2日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:リチャード・ギア エドワード・ノートン フランシス・マクドーマンド
監督:グレゴリー・ホブリット

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映画でも小説でも、多重人格ものは定期的に生産される。一人の人間が複数のパーソナリティを持つというのだから、そこから生まれるドラマの可能性が無限大である。しかし、多重人格ものは同時に、それが詐術である可能性を常に孕む。多重人格が本当なのか演技なのかの境目を行き来する作品といえばカトリーヌ・アルレーの小説『 呪われた女 』や邦画『 39 刑法第三十九条 』などがある。本作はと言えば・・・

 

あらすじ

カトリック教会で大司教が殺害された。容疑者としてアーロン(エドワード・ノートン)が逮捕され、マーティン(リチャード・ギア)が弁護を請け負うことになる。その過程でマーティンは徐々にアーロンとは別に真犯人が存在するのではないかと考え始め・・・

 

ポジティブ・サイド

『 アメリア 永遠の翼 』や『 プリティ・ウーマン 』ではやり手のビジネスマンを、『 ジャッカル 』では元IRAの闘士を演じ、今作ではBlood Sucking Lawyerを演じるリチャード・ギアは、日本で言えば世代的には大杉漣か。そのリチャード・ギアが嫌な弁護士からプロフェッショナリズム溢れる弁護士に変わっていく瞬間、そこが本作の見所である。

 

しかし、それ以上に観るべきは若きエドワード・ノートンであろう。栴檀は双葉より芳し。演技派俳優は若い頃から演技派なのである。そしてこの演技という言葉の深みを本作は教えてくれる。

 

題材としては『 フロム・イーブル 〜バチカンを震撼させた悪魔の神父〜 』、『 スポットライト 世紀のスクープ 』などを先取りしたものである。多重人格というものを本格的に世に知らしめたのは、おそらくデイヴ・ペルザーの『 “It”と呼ばれた子 』なのだろうが、本作はこの書籍の出版社にも先立っている。Jovianは確か親父が借りてきたVHSを一緒に観たと記憶しているが、教会の暗部というものに触れて、当時宗教学を専攻していた学生として、何とも言えない気分になったことをうっすらと覚えている。

 

本作の肝は事件の真相であるが、これには本当に驚かされた。2000年代から世界中が多重人格をコンテンツとして消費し始めるが、本作の残したインパクトは実に大きい。カトリーヌ・アルレーの『 わらの女 』やアガサ・クリスティーの『 アクロイド殺し 』、江戸川乱歩の『 陰獣 』が読者に与えたインパクト、そして脳裏に残していく微妙な余韻に通じるものがある。古い映画と侮るなかれ、名優エドワード・ノートンの原点にして傑作である。

 

ネガティブ・サイド

少しペーシングに難がある。なぜこのようないたいけな少年があのような凶行に走ったのかについての背景調査にもう少し踏み込んでもよかった。

 

ローラ・リニーのキャラクターがあまりに多くの属性を付与されたことで、かえって浮いてしまっていたように見えた。検事というのは人を有罪にしてナンボの商売で、法廷ものドラマでもイライラさせられるキャラクターが量産されてきているし、日本でも『 検察側の罪人 』などで見せつけられたように、人間を有罪にすることに血道を上げている。それはそういう生き物だからとギリギリで納得できる。だが、マーティンの元恋人という属性は今作では邪魔だった。『 シン・ゴジラ 』でも長谷川博己と石原さとみを元恋人関係にする案があったらしいが、没になったと聞いている。それで良いのである。余計なぜい肉はいらない。

 

よくよく見聞きすれば、アーロンの発言には矛盾があるという指摘も各所のユーザーレビューにある。なるほどと思わされた。本当に鵜の目鷹の目で映画を観る人は、本作の結末にしらけてしまう可能性は大いにある。

 

総評

これは非常に頭脳的な映画である。多重人格ものに新たな地平を切り開いた作品と言っても過言ではない。もちろん、その後に陸続と生み出されてきた作品群を消化した者の目から見れば不足もあるだろう。しかし、多重人格もののツイストとして、本作は忘れられてはならない一本である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, B Rank, アメリカ, エドワード・ノートン, サスペンス, スリラー, フランシス・マクドーマンド, リチャード・ギア, 監督:グレゴリー・ホブリット, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 真実の行方 』 -若き日のエドワード・ノートンに刮目せよ-

『 華氏451(2018) 』 -リメイクの意義を再確認すべし-

Posted on 2019年7月4日2019年7月4日 by cool-jupiter

華氏451 50点
2019年6月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン マイケル・シャノン ソフィア・ブテラ
監督:ラミン・バーラニ

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書物が焼かれる。いわゆる焚書を古代中国の悪習と思うことなかれ。知識は個の強さの基盤であると同時に、権力者にとっての脅威でもある。そのことは『 図書館戦争 』にしっかりと描かれている。日本でも新しい歴史教科書を作ろうと目論む連中がいるが、こうして考えてみると彼ら彼女らの思考は権力者のそれであって大部分の国民を形成する一般市民のそれではないことが良く分かるというものである。

 

あらすじ

書物の存在が許されない世界。モンターグ(マイケル・B・ジョーダン)は育ての親同然のベイティ隊長(マイケル・シャノン)のもとでFireman =昇火士として働いていた。ある時、老婆の家で膨大な量の書物が見つかった。本を焼却処分せんとする昇火士たちの前で、老婆は焼身自殺を遂げる、「オムニス」という謎の言葉を残して・・・

 

ポジティブ・サイド

数十年前は知識=富と考えられていた。特に日本のように土地が狭く、家屋自体もこじんまりしている国では。知識を伝える媒体が書物であり、その書物を所蔵できるだけのエキストラのスペースを家に持てる者が知識人とされた。知識=収入だったわけである。デジタル技術の進歩がそれを変えた。電子書籍リーダー一つで何万何十万冊の本と同等の情報が保持できる。逆に言えば、遍く知識を広めようと思えば、デジタル化をとことん推進すれば良いということになる。インターネット、本作で呼称されるナインは、その一つの結実である。そして現代では中国がGoogleを遮断し、バイドゥを検索エンジンとして推奨しているのは誰もが知るところである。デジタルの情報は容易に操作や加工ができるという点で、素晴らしくもあり、恐ろしくもある。この点を鋭く、かつユーモアに指摘している書物に新城カズマの『 われら銀河をググるべきや: テキスト化される世界の読み方 』がある。興味ある方は一読を。本書の終盤で新城が説くTwitterの在り様は、この映画のプロットと共通するところが多い。さらに興味が湧いたという向きには林譲治の小説『 記憶汚染 』をお勧めしておきたい。

 

デジタル技術ならびにAIに囲まれた生活によって、人間は何を得て、そして何を失うのか。そのことが映画の随所で端的に示される。だが、あまりにも遠い未来の技術ではなく、ほんの数十年先の未来、充分に予見できる範囲の未来であるがゆえの怖さもある。そこに“歴史修正主義”の思想と実践を読み取ることが余りにも容易だからである。SFは文明批判の最も効果的な表現媒体であるが、そのことを充分に力強く本作を描き出している。またclassical musicの”グノシエンヌ”が流れるタイミングに注目をされたし。『 その男、凶暴につき 』のBGMでおなじみだが、本来はこうした意味のある曲なのである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のボクシングシーンは、殴り合いながらも信頼関係、親子の情のようなものがしっかと存在することを見せようという演出なのだろうが、マイケル・B・ジョーダンはアドニス・クリードでもあるのだ。もっと違う形での殴り合いでも良いだろうに。

 

また、途中までのプロットがそのまんま『 メトロポリス 』である。現代にリメイクするからには、現代的な味付けが必要である。男女のロマンティックな関係を悪いとは思わないが、100年近く前の映画と同じプロットを用いるというのは、脚本家の敗北ではないだろうか。またエンディングも思いっきり『 猿の惑星 創世記 』のそれとそっくりである。これも考えものである。独創的なアイデアというのは、たいてい既に誰かが思いついているものだが、それでもこれらのようなメジャーな作品の亜種、亜流と看做されるようではリメイクの意義を大きく損なっていると判断されても仕方がないだろう。

 

最後に映画そのものの質とは関係のないことを。字幕には字数制限があるため仕方ないのかもしれないが、サラマンダーを火トカゲと訳してしまうと、どうにも間が抜けて聞こえる。Eelもイールで良い。ウナギと訳してしまうと、ぬるぬる捕まえづらく、すぐに地面の下に潜る感じは出るが、やはり間が抜けて聞こえてしまう。

 

総評

全体的に薄暗いシネマとグラフィーも、ダークな世界観と調和している。やや弱いながらもタイムリーなメッセージ性も持っている。マイケル・シャノンやマイケル・B・ジョーダンのファンならば、鑑賞しても損は無いのではなかろうか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アメリカ, マイケル・B・ジョーダン, マイケル・シャノン, 監督:ラミン・バーラニ, 配給会社:HBOLeave a Comment on 『 華氏451(2018) 』 -リメイクの意義を再確認すべし-

『 主戦場 』 -右派と左派の対立を超えた歴史への眼差し-

Posted on 2019年7月1日2019年7月1日 by cool-jupiter

主戦場 80点
2019年6月30日 シアターセブンにて鑑賞
出演:吉見義明
監督:ミキ・デザキ

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アメリカにD・トランプ大統領が爆誕して以来、The United States of AmericaはThe Divided States of Americaになったとよく言われる。しかし、分裂の萌芽はすでにオバマ政権時代に見られていたというのが正しい。現代アメリカ政治史に切り込む愚は犯したくないが、国民の分裂が幸福につながったことは歴史上ないはずである。そのことを念頭に本作を観る人はどれだけいるだろうか。

 

あらすじ

テキサスの一中年男性が、YouTubeに「慰安婦像をアメリカに建てないでくれ。日本と韓国の争いにアメリカを巻き込まないでくれ」と訴える動画を投稿する。そのことにミキ・デザキは関心を抱き、このムーブメントの根底にある潮流を、様々なインタビューなどを通して明らかにしていこうとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

これまで議論の的になることがあまりなかった、それゆえに一般的な認知度が低い従軍慰安婦の問題に、今というタイミングで切り込んだこと。そのことを評価しなければならない。監督、脚本、撮影、編集、製作、ナレーションの全てを担当したミキ・デザキの炯眼である。一つには、歴史の生き証人たる元慰安婦の方々が年齢的に限界が近いこと。もう一つには世界的に弱者やマイノリティへの意識が高まっているにも関わらず、それに逆行する動きが極東地域で見られるということである。

 

慰安婦問題の何が問題であるかについては、本作を観るのが良い。編集の妙もあろうが、日本の保守派、右派とされる言論人たちの言論がいかに空虚で、倫理の二重基準が適用されているかを知ることができる。彼ら彼女らに共通するのは、論理や言説を巧みに操り、ある時は論点をずらし、ある時は問題を矮小化しようとし、またある時には問題を一挙に巨大化、普遍化させようとすることである。だが、そこには人間が持つべき、そして持つことができる最も素晴らしい力である「想像力」が欠落している。Jovianの周囲にも、歴史の勉強会に積極的に参加しては、「既存のメディアやインターネットでは分からなかった歴史の真実を知ることできました!貴方もぜひ参加してみてください!」とのたまう人がいるのである。彼ら彼女らの学んだ内容はと言えば「慰安婦は強制連行ではなくて、れっきとしたビジネスだったんです!日本軍が当時の朝鮮半島の人たちにちゃんとお金を払っていたという公式の文書があるんです!」だったりする。想像力の欠如もここまで来てしまったのかと慨嘆させられるが、そうした人たちには『もしも貴方の家に米軍兵士が銃剣を携えてやって来て、「1000ドルやるから娘を貰って行くぞ」と言われて反論できそうですか?』と尋ねている。あるいは、『沖縄で定期的に起こる米軍兵士による日本人女性へのレイプ事件をどう思いますか?』と尋ねている。結果はどうか。わずか3名程度であるが、全員と連絡が途絶えた。別に後悔はしていないし、これからも同様の姿勢を維持していこうと思おう。

 

Jovian自身、大学生の時に2回フィールドワークをしたことがある。1つは、日本の姓名の豊かさの起源を巡るもの。もう1つは、在日韓国朝鮮人の人たちがなぜ日本に来て、なぜ日本に残ったのかをインタビューするものだった。日本軍がある時、突然村にやってきて、ジープやトラックで人間をさらっていったということは全くなかったらしい。というよりも、Jovianがインタビューした3名の方が共通して言っていたのが「良い仕事あります!3食付き、住居保障!」といった求人にまんまと騙されてしまったということだった。なぜ戦後も日本に滞在することを選んだのかについては、「来る時に騙されたのに、帰してやると言われても信じられなかった」というものだった。蓋し当然の論理的な帰結であろう。

 

Jovian自身は政治的にも思想的に中立を以って自らを任じているつもりである。右派の主張にも左派の主張にも等しく耳を傾けることができると自負している。しかし、そんなJovianにしても、桜井よしこや杉田水脈の言説は聞くに堪えない。今すぐにでも耳を洗いたいという衝動に駆られる。特に杉田の言う「韓国や中国は技術的に日本に優る家電を作れないので、ネガキャンして日本の評判を下げるしかないわけですね」との主張には卒倒しそうになった。家電って、アンタ・・・ サムスンやLG、HUAWEIの技術水準を知らないのか。深圳市の発展スピードを知らないのか。『 FACTFULNESS: 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 』を読んでないのだろうか。読んでいないのだろう。だが、いやしくも知識人または政治家の端くれであるならば、最低限の勉強はすべきだ。

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デザキの視線は日本の右派・保守派だけに向けられているわけではない。韓国社会が伝統的に、教条主義的に報じてきた儒教的価値観も俎上に載せ、そこに弱者に対する眼差しが欠けていたことを糾弾する。彼の視線はさらに、母国のアメリカにも向けられる。詳しくは本作を鑑賞してもらうより他は無いが、八切止夫の『 信長殺し、光秀ではない 』の解説でも言及されていた「我々がいかにアメリカという国に信を置くことができないのか」という視点が共有されていることに驚かされてしまう。デザキの視線は過去に向けられているわけではない。現在、そして未来に向けられている。右だ左だと騒いではならない。歴史を割って見ることができれば、「今」という時点に大きな活断層が認められるはずだ。そのことを見事に炙り出したという意味で、本作には非常に大きな意味が認められる。本作に触発されたという方は『 否定と肯定 』も鑑賞されたし。人間の尊厳と国家と国家の対立構造の根深さに思いを馳せたという向きには『 判決、ふたつの希望 』をお勧めする。

 

ネガティブ・サイド

作中で1997年を日本の思想史における転換点と位置付けており、それは正しい。しかし、オウム真理教事件を経て、漫画家以上の言論人としての地位を得た小林よしのりへのインタビューがないのは何故なのか。1995~2000年というのは、Jovianの高校生~大学生時代と一致しており、思想的にまっさらな連中は結構簡単にゴーマニストに変身していた。リベラル色の強い国際基督教大学の学生でもこの有様なのだから、当時の他大学は推して知るべしであろう。そうした国民的な思想の分断や乖離、無知や無関心を伝える市井の人々へのインタビューがもっとたくさん収録されていてしかるべきだった。このあたりはマイケル・ムーアに素直に倣うべきだ。

 

アメリカ国内での慰安婦像の建立の意義を、もっと明確に語るべきではなかったか。ネット上の言説で、「アメリカの地方政治は韓国系や中華系に乗っ取られている」という痴人か狂人にしか吐けない言辞を弄する者を多数見てしまった。韓国人のロビー活動力の象徴ではなく、人権や人道に対する罪への反省の象徴としての慰安婦像であるということをもっと明示的に語るべきだった。

 

総評

Jovianが私淑している奥泉光と恩師、並木浩一によれば、「歴史は多層である」、そして「歴史はフィクション」である。これは歴史には多様な見方があるだとか、史料は信用に足るものではない、といった言説では一切ない。歴史とは現在と未来に対する遠近法的な視座を与えるものなのだ。歴史に幻想を見る者は、未来にも幻想を見ている。市民ならばそれもよい。しかし、公人中の公人たる内閣総理大臣が幻想に踊らされてはならない。本作は立ち見(正確にはパイプ椅子に座って)も出るほどの盛況で、終映後にはまばらにだが拍手も自然発生した。惜しむらくは観客のほとんどが50代以上に見えたこと。雨の影響もあったのかもしれないが、未来を担うべき若い人たちにこそ観てもらいたい。歴史を恥じてはならない。歴史を背負い、その上で新しい歴史を作っていってもらいたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, 吉見義明, 監督・ミキ・デザキ, 配給会社:東風Leave a Comment on 『 主戦場 』 -右派と左派の対立を超えた歴史への眼差し-

『 スパイダーマン ファー・フロム・ホーム 』 -是非、劇場で3D鑑賞を-

Posted on 2019年6月30日2020年4月11日 by cool-jupiter

スパイダーマン ファー・フロム・ホーム 80点
2019年6月29日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:トム・ホランド ゼンデイヤ ジェイク・ジレンホール J・K・シモンズ
監督:ジョン・ワッツ

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親愛なる隣人が帰ってくる。トビー・マグワイア以上にピーター・パーカーを体現しているかもしれないトム・ホランドへの期待は世界的に高い。そしてSonyに敬意を表してか、全世界最速で日本で公開される。そして梅田ブルク7はこれに合わせてDOLBY CINEMA 3Dを導入。ならばさっそく体験せんとチケット購入。2,300円の価値に見合う体験ができた。

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あらすじ

ピーター(トム・ホランド)はアイアンマンとの別離に苦悩しながらも、高校生らしい生活に戻っていた。学校の科学体験ヨーロッパ旅行でMJ(ゼンデイヤ)との距離を縮めようとするピーターの前にしかし、謎の水の怪物とそれを撃退しようとする謎のヒーローが現れ・・・

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ポジティブ・サイド

3Dで鑑賞したが、この判断は正解だったと言えると思う。4DXやMX4Dでも良かったのかもしれない。スパイダーマンのアクションの肝はウェブを使った三次元機動にある。そんな立体的アクション観客に追体験してもらうためには、二次元的なスクリーンではなく3Dや4Dの力こそが必要なのかもしれない。もう一つ、我々はメガネ、アイウェア、ビューワー、呼び名は何であれ、何かを通じて何かを見ることに慣れきっている。それゆえに自分の目で見るという行為に知らず知らずのうちに絶大な信頼を置いている。この「見る」という行為の危うさと確かさを本作は同時に追求する。もの凄い離れ業である。詳しくは本作を堪能して欲しいとしか言えない。

 

スパイダーマンのアクションも順調に進化している。トニー・スタークはストーリーが進むにつれてアイアンマンであることと良くも悪くも不可分になっていったが、ピーター・パーカーはスパイダーマンになっても、ピーター本来のちょっとnerdyな部分も失わない。とあるシーンで理系の秀才の一面を存分に発揮した戦術を披露してくれる。前作では「スーツがないと自分は何者にもなれない」と言っていた子どもが、スーツの力を最大限発揮する為に自らの頭脳を駆使するようになった。こうして少年は少しずつ大人に近づいていくのである。そして、そのシーンでハッピーが流す音楽は完全に映画『 アイアンマン 』およびヒーローとしてのアイアンマン、人間としてのトニー・スタークへのトリビュート。本作鑑賞前には『 アベンジャーズ インフィニティ・ウォー 』、『 スパイダーマン ホームカミング 』、できれば『 シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ 』、『 キャプテン・マーベル 』や『 ドクター・ストレンジ 』、更に余裕があれば『 アイアンマン 』も鑑賞しておきたいものである。それだけの価値はきっとある。ピーターが生き生きとスパイダースーツをカスタマイズする様に、我々は“彼”を見出すのである。

 

それにしても、スパイダーマンというのはやはりかなり特殊なヒーローなのだろうなと感じる。気になるあのコのプロムのエスコート役の座をどうやってゲットしようかと思案したり、修学旅行の飛行機であのコの隣の座席をどうやってゲットしようかと悩んだり、自分ではない誰かと盛り上がるあのコを目の当たりにすると、何故これほど胸が千々に乱れるのかが分からない、そんな甘酸っぱい青春の一ページが蘇ってくるようだ・・・と感じられる人は相当に幸せな青春時代を遅れた勝ち組である。リア充爆発しろ

 

Back on track. 非常に現代的~近未来的なテクノロジーがふんだんに使われており、そのことがプロットのリアリティを増している。なおかつ、現代的なのはテクノロジーだけではない。我々は何を信じるのか、どうしてそれを信じるのか、という命題に対して一定の答えを本作は呈示するからだ。情報が溢れかえり、画質や音質、果ては立体映像や嗅覚や触覚まで刺激してくる劇場施設、さらにはVR技術の著しい発達など、現実と仮想の境目はどんどんと曖昧になってきている。それは、ファクトとフェイクの境目がいよいよ混沌になりつつある現代への痛烈な風刺であるように思えてならない。そのことを示唆するポストクレジットシーンは、否応なく次作への期待と不安を高めてくれる。おかえり、J・K・シモンズ!

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ネガティブ・サイド

劇中で用いられる仕掛けとガジェットはそれなりに納得のいくものであるが、それでも全世界75億の人類すべてを納得させられる代物ではありえない。そう考えられる根拠は主に二つある。

 

1つには、アベンジャーズは、なかんずくトニー・スターク/アイアンマンは、戦いによって守った命もあれば、危険に晒した、あるいは奪ってしまった命もある。そのことは『 シビル・ウォー / キャプテン・アメリカ 』でスカーレット・ウィッチがまさに苛むことになった事柄である。単純にアベンジャーズの後釜にヒーローが座ったからといって、万事が丸く収まることなどありえない。むしろ、新たなシビル・ウォーの呼び水になるだけだ。誰かにとっての正義が、万人にとっての正義にならないこと、それこそがシビル・ウォーの原因だった。強大な力は適切に管理されねばならないというトニーの思想は自身が兵器製造会社社長であるという背景から来ている。一方で、国際連合なる組織にアベンジャーズの出動可否を判断させるというのは、国際連盟が世界大戦の勃発を防止できなかったことをリアルタイムで見てきたスティーブ・ロジャース/キャプテン・アメリカにとってはとうてい承服しかねることである。正義の味方の喪失を、新たな正義の味方で補うことの危険性を、MCU世界は理解するはずだ。

 

もう1つには、他のアベンジャーが出張ってきた時にどうするのかということである。大人と子どもの中間であるピーターは騙しおおせても、大人の事情で出張ってこれなかったドクター・ストレンジやキャプテン・マーベル、またはハンク・ピム博士やブルース・バナーでも良い。彼らの目を欺けるだろうか。おそらく不可能だろう。それに、世の中には何でもかんでも陰謀論に仕立て上げてしまう人種も絶対に存在するのである。例えば『 X-ファイル 』のローン・ガンメンのような奴らは、全米だけでも千、もしかすると万の単位で存在しているのだ。ピーター・パーカーはそれなりにnerdyかつgeekyであるが、本気になったオタク連中というのは、ネッドの一億倍は有能であろう。他のスーパーヒーローに関してはこんなことは想像できないが、スパイダーマンは別だ。『 スパイダーマン2 』で列車を見事に止めたスパイダーマンを、ニューヨーク市民たちは見事に団結し、守り、送った。スパイダーマンの世界の市民は無力ではないはずだ。

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総評

色々と考えさせられてしまう面が多く、そのうちのいくつかは重要な示唆を含んでおり、そのうちのいくつかはスパイダーマン世界とどこか調和しない。そのように感じられる。しかし、エンターテインメント要素については優れたアイデアがてんこ盛りで、非常にシネマティックな体験ができることは請け合いである。できれば2Dではなく、3Dや4DXなどで鑑賞をしてほしい。映画館の回し者ならずとも、そのようにお勧めしたくなる快作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, J・K・シモンズ, アクション, アメリカ, ジェイク・ジレンホール, ゼンデイヤ, トム・ホランド, 監督:ジョン・ワッツ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 スパイダーマン ファー・フロム・ホーム 』 -是非、劇場で3D鑑賞を-

『 スパイダーマン ホームカミング 』 -新たなスパイディの冒険の序章-

Posted on 2019年6月30日 by cool-jupiter

スパイダーマン ホームカミング 70点
2019年6月27日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:トム:ホランド マイケル・キートン ゼンデイヤ ロバート・ダウニー・Jr.
監督:ジョン・ワッツ

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『 スパイダーマン ファー・フロム・ホーム 』に向けての復習および『 アベンジャーズ:エンドゲーム 』の振り返りをしたいと思い、TSUTAYAでBlu-rayを借りてくる。初回に劇場で観た時とは、少々異なる感想を持った。

 

あらすじ

『 シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ 』の戦いから、ニューヨークに帰還したピーター(トム・ホランド)は、アベンジャーズの一員になることを夢見て学校生活も上の空。ニューヨークの街で人助けに精を出しながら、トニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)からの声かけを待っていた。しかし、そこではヴァルチャー(マイケル・キートン)が妖しく蠢動していた・・・

 

ポジティブ・サイド

今作のスパイダーマンは、サム・ライミ監督の初代『 スパイダーマン 』に近い。つまり、ピーター・パーカーがスパイダーマンとしての使命に目覚めていくということである。しかし、そこには本質的な差異がある。前者では、不注意からUncle Benを死なせてしまったことからピーターの物語が始まるが、今作ではトニー・スターク/アイアンマンの力になりたい、アベンジャーズの一員として認められたいというところから、ピーターの成長が始まる。そう、成長である。成長するための基本的な条件とは何か。それは「未熟」であるということである。スパイダーマンは英語ではSpider-Manである。一方でアイアンマンはIron Manと表記される。他にもSupermanやAquaman、Batmanなど、ハイフンを持つスーパーヒーローは少ない。スパイダーマンはおそらく、Manになりきれていないのだ。ピーター自身が、自分はボーイだと言ってしまう場面すらあるのだ。ManとBoyの境目とは何か。それはアメリカ風に言うならば、positive male figureから適切な影響を受けて、自らもpositive male figureになれるかどうかであろう。端的に言えば、文学的な意味で父親殺しができるかどうかにかかっているわけだ。

 

本作に登場する主要な男性キャラは、ネッドを除けば、ほとんど全員がピーターにとって疑似的な父親、あるいは本来の父親が果たすべきポジティブかつネガティブな影響を代理としてピーターに及ぼすキャラクター達である。その筆頭は言うまでもなくトニー・スターク/アイアンマンである。トニーとピーターの対話は、大人と子どもの対話でありながら、父と息子の対話でもある。トニー自身も、自らが父親に抱く複雑な想いと、父親が自分に対して抱いていたであろう愛情を意識したからこそ成立した名場面である。『 アベンジャーズ:エンドゲーム 』を観た後だからこそ、尚更にそう感じる。

 

もう一人の疑似的な父親、マイケル・キートン演じるヴァルチャーは、トニーとは対照的である。彼は地べたを這いつくばる労働者であり、家族を愛し、守り、食わせるためなら何でもやる男である。つまり、小市民ヒーローなのだ。と同時に、彼はピーターが乗り越えるべき、倒すべきものの象徴でもある。『 バットマン 』、『 バットマン リターンズ 』ではバットマンを、『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』ではバードマンを、そして本作では怪鳥ヴァルチャーを演じるなど、スーパーヒーローから、落ち目の俳優、そしてスーパーヴィランへと進化を遂げた。理知的で爽やかさ、清潔さを感じさせるイケメンだったはずが、強面の中年オヤジに変貌したという意味では、彼はダンディズムを決して失わないトニー・スタークとは真逆であると言えるのかもしれない。

 

アクションのハイライトは客船のシーンだろう。『 スパイダーマン2 』の電車を止めるシークエンスに優るとも劣らない緊張感とスペクタクル。そしてアイアンマンが見せつけるスーパーヒーローとしての格の違い。これは少年と壮年の物語、そして少年が何とか青年になろうと足掻く物語なのだ。『 プーと大人になった僕 』のレビューで、子ども=労働と性から疎外された存在という定義を紹介したが、今作のピーター・パーカーは労働=what you doの面で何とか子どもと大人の中間ぐらいの存在へと成長した。そして、次作では(性的な成熟という意味ではなく、ロマンチックな意味での)性の成長、つまりは男性に、Spider-BoyからSpider-Manになることを予感させて物語は閉じる。見事な脚本、見事なストーリーテリングである。

 

ネガティブ・サイド

FBIを欺き続けたとヴァルチャーは誇らしげに語るが、CIA、NSA、DHSやATFなどその他の機関をも出し抜いたというのは少々信じがたい。冒頭に登場したオバちゃん率いる部隊は相当な無能者の集まりだったのだろうか。

 

フラッシュ・トンプソンのキャラがウザい。いや、ウザいのは原作通りだが、このキャラに嫌味で小憎たらしい白人のクソガキをキャスティングしないのは何故なのだ?答えはおそらくこうだ。原作どおりに進めば、彼はその後、ピーターの友人になるからだ。人種のるつぼ、ニューヨーク万歳というわけだ。キャスティングだけで先が読めてしまうのは興醒めである。

 

ミシェルの見せ方も、もう少し工夫が欲しかった。『 ミーン・ガールズ 』のような生態系で生き抜いてきたような描写が欲しいとは思わないが、あまりにもアッサリとアカデミック・デカスロンのチームに溶け込んでいた。MJは家庭環境が余り良くないイメージをファンならば皆、抱いているはず。何か欠けたもの、何か隠したいもの、それでも何か共有したいものを抱えているからこそ、ピーターとMJは惹かれ合うべきで、その伏線が非常に弱かった。まあ、そのあたりは『 スパイダーマン ファー・フロム・ホーム 』がしっかりと描写してくれることに期待するとしよう。

 

これはトレイラー作成担当者に文句を言うべきなのだろうが、劇場鑑賞前に熱心な映画ファンがどれくらいの回数、スパイダーマンとアイアンマンがサイド・バイ・サイドで空を飛ぶシーンを見せられただろうか。本編に存在しないシーンでトレイラーを作るのは止めてもらいたい。こうした行為は法律で禁じられないのだろうか。

 

総評

欠点や粗が色々と浮かび上がってくるが、スパイダーマンというヒーローの特殊性、ピーター・パーカーというキャラの未熟さとそれゆえの魅力、そしてヒーローでありながらスーパーではないところ(親愛なる隣人レベルという意味で)が良い。かかる欠点がスパイディの大いなる魅力の源泉なのだ。だからこそ他のヒーロー物ではあまり描写されないビルドゥングスロマン要素が際立つ。サム・ライミ監督の手掛けた初代作品と肩を並べる傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, アメリカ, ゼンデイヤ, トム・ホランド, マイケル・キートン, ロバート・ダウニー・Jr., 監督:ジョン・ワッツ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 スパイダーマン ホームカミング 』 -新たなスパイディの冒険の序章-

『 グランドピアノ 狙われた黒鍵 』 -シチュエーション・スリラーの平均的作品-

Posted on 2019年6月28日2019年6月28日 by cool-jupiter

グランドピアノ 狙われた黒鍵 50点
2019年6月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:イライジャ・ウッド ジョン・キューザック
監督:エウヘニオ・ミラ

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ハリー・ポッターに会いたくなって『 スイス・アーミー・マン 』を鑑賞したように、フロド・バギンズに会いたくなって本作を手に取った。このようなリユニオン願望が、ふと訪れることがあるのである。

 

あらすじ

トム(イライジャ・ウッド)は世界的なピアニストだが、過去の失敗から舞台恐怖症となり、5年間コンサートから遠ざかっていたが、恩師の追悼コンサートの場についに復帰する。しかし、トムは演奏中に楽譜に「一音でも弾き間違えれば殺す」との文言を見つける。その脅迫が嘘ではないと知ったトムは、超絶技巧を要する難曲に挑むことになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

ピアニストの演奏中というのは、空間的にも心理的にも密室に近い。そこを狙って脅迫を仕掛けるというのは優れたアイデアだ。密閉空間で生まれるサスペンスについては『 リミット 』(主演:ライアン・レイノルズ)が、衆人環視の中で閉じ込められる恐怖は『 フォーン・ブース 』(主演:コリン・ファレル)が追求した。本作は、ある意味でその二つの良いとこどりである。

 

主人公がピアニストであることが、しっかりとプロット上でワークしている。特に携帯電話でピンチを切り抜けようとする際の手指の動きがリアルである。いや、実際には普通の人間には無理な動きだが、プロのピアニストであれば可能かもしれないと思わせるだけの説得力がある。

 

狙撃手が絶え間なく語りかけてくるという点では『 ザ・ウォール 』とそっくりである。テーマ性、哲学的なメッセージという点ではそちらに譲るが、本作はトムが狙われる理由が不明であること、そして何故トムが脅迫されるのかという理由にそこそこ意外性がある。悪くはない作品である。

 

局所的に他作品へのオマージュが見られる。「ボックスの5番」と聞いてニヤリとできれば、あなたは『 オペラ座の怪人 』のファンであるに違いない。他にも色々とネタが仕込まれていそう。筋金入りのシネフィルなら、色々なeaster eggを発見できるかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

何故その曲を弾く必要があるのかについては一定の理解を示すことができるが、どうやってその曲を弾くのかについては突っ込みどころが満載である。劇中で犯人一味も言い争うように、もっと別の良い方法があるはずだし、衆人環視のコンサート会場を犯行の舞台に選び、そのために3年の準備期間を設けるというのは更におかしい。トムの恩師が死んでからトムが表舞台に帰ってくるまで辛抱強く待ったわけだが、そもそもトムが復帰しなかったらどうするつもりだったのか。時系列的に粗も見えてくる。自分なら『 羊と鋼の森 』に解決のヒントを求めると思うし、そちらの方が遥かに現実的であるはずだ。

 

コンサート中にピアニストがあれほど離籍するのもおかしい。将棋指しの対局じゃないんだ。何かただならぬことが起こっていることは誰にでも分かるはずだ。なんせトムはひっきりなしに独り言を呟いている(ように見える)のだ。また、携帯電話を使うのはトムであればギリギリOKだが、トムが友人に電話をしてそれが通じてしまうのは余りにもご都合主義ではないか。舞台の袖の人間に伝言を頼むなど、もう少し回りくどい=より説得力のある演出もあったのではなかろうか。

 

天井からデロ~ンというのは、さすがに『 オペラ座の怪人 』へのオマージュを通り越してオリジナリティの欠如に見えた。また、観る側、少なくともclassical musicにカジュアルにしか接しない人でも認識できるような曲が一つもなかったのは残念である。音楽を題材にした映画は、その音楽の力で観る者の心を掴む必要があるが、まったく初体験の曲でそれをするのは至難の技だろう。だからこそミュージカルは、そこにダンスという視覚的要素をプラスしてくるのである。なにかメジャーな曲の演奏が聴きたかったと切に願う。

 

総評

これも典型的な rainy day DVD であろう。期待に胸を躍らせて観るのではなく、純粋に暇つぶしのために観るべきだ。そうそう、本作のユーモアに theater language の面白い使い方がある。英語では “Good luck!”の意味で“Break a leg!”と言うことがある。『 ワンダー 君は太陽 』などでも聞ける、割とありふれた台詞であるが、最後の最後でクスッと笑わされてしまった。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, イライジャ・ウッド, シチュエーション・スリラー, ジョン・キューザック, スペイン, 監督:エウヘニオ・ミラ, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 グランドピアノ 狙われた黒鍵 』 -シチュエーション・スリラーの平均的作品-

『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』 -多重人格ものの実験的作品-

Posted on 2019年6月27日2020年4月11日 by cool-jupiter

ジョナサン -ふたつの顔の男- 60点
2019年6月25日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アンセル・エルゴート スキ・ウォーターハウス パトリシア・クラークソン
監督:ビル・オリバー

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多重人格ものには豊かな歴史がある。小説そして映画にもなった『 ジキル博士とハイド氏 』から、M・ナイト・シャマランの『 スプリット 』、日本の小説ではJovianだけが面白い面白いと評価している月森聖巳の『 願い事 』などが挙げられる。本作もありきたりのDIDものかと思わせておいて、ちょっとした趣向が凝らされていた。

 

あらすじ

建築事務所にパートタイマーとして務めるジョナサン(アンセル・エルゴート)には、もう一つの人格、ジョンが宿っていた。彼らは午前7時~午後7時、午後7時~午前7時をそれぞれ分け合って生活していた。互いの時間に経験した事柄をビデオ録画することで周囲にDID(Dissociative Identity Disorder)であることを知られずに生活していた二人だったが、いつしかジョナサンはジョンの行動にちょっとした疑問を抱くようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

多重人格ものの歴史は長い。異なる人格同士は対立または協力関係にあるのが定石である。本作はどうか。35歳以上の世代なら漫画原作でテレビドラマ化もされた『 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜 』を覚えておられるだろう。本作はそういう物語である。しかし、本作が最もユニークなのは、ジョナサンのもう一つの人格であるジョンの視点を観客と決して共有しないところである。それにより、観る側は否応なくジョンのビデオメッセージの裏読みをしてしまう。いや、それだけではなく、いつしか我々はビデオメッセージそのものがジョンという存在の全てであるかのような錯覚にまで陥る。これは怖いことだ。何故なら、自分という存在の半分が消えてしまったかのように感じるからだ。我々はネット上のフォーラムなど文字や画像だけでやりとりする人間にも親しみを感じる。ハンドルネームだけしか知らない人間が、ある日、突然投稿を止めただけでも不安になる。お気に入りのブログが更新されなくなっても不安になる。ジョナサンとジョンは一心同体・・・ではなく異心同体なので、片方が無事であればもう片方も無事であることが分かる。しかし、自分の身に何が起こったのか分からない。酒にしこたま酔って、道端や終点駅で目覚めた経験のある人なら、分かる感覚だろう。ジョナサンの不安を、アンセル・エルゴートは巧みに表出していた。

 

異なる人格が同じ女性と恋に落ちるというストーリーは、Jovianは映画や本で体験したことは残念ながらない。だが、これはかなりバナールなプロットではないだろうか。陳腐でありながら、しかし、その後の展開が切ない。観る者の想像力を掻き立てる見せ方、映し方は、低予算映画の常套手段である。それを室内の鏡やテーブルなど、光を反射する素材を効果的に使い、インターミッションとして暗転を用いることで、一人にして二人、一人にして不連続の存在を、映画的演出で以って描写できていた。静謐にして激しい、非常に示唆に富むエンディングには賛否両論あるかもしれないが、あれはジョンを主人格、ジョナサンを副人格とした、新たな一個人の誕生であると受け止めたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 シンプル・フェイバー 』で既に使われたネタが本作にも仕込まれている。まあ、それも飛浩隆の『 象られた力 』所収の短編『 デュオ 』が先行して使っているトリックであるのだが。

 

また、ジョナサンの抱えるDIDは、医学的に存在しうるケースなのだろうか。別人格は生まれてくるものであって、生まれながらにDIDであるという点に疑問が残った。同時に、『 ミスター・ガラス 』でも感じたことだが、人格の交代をコントロールしうる装置が存在することにどうしても納得ができない。外部環境の改善やコミュニケーション、カウンセリングにより複数の人格も統合しうることを小説『 十三番目の人格 ISOLA 』およびその映画化作品『 ISOLA 多重人格少女 』は示した(小説は面白いが、映画はスルー推奨である)。パトリシア・クラークソンなら、『 スプリット 』におけるベティ・バックリーに匹敵するようなカウンセラーを演じられたはずなのに、どうしてこうなった・・・

 

総評

サスペンスフルであり、スリラーテイストもあり、SF的でありながら、ヒューマンドラマでもある。ジャンルとしては、ボーイズ・ラブが一番近いのかもしれない。『 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜 』を楽しめたという人なら、本作もおそらく楽しめるはずだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アンセル・エルゴート, サスペンス, スキ・ウォーターハウス, スリラー, パトリシア・クラークソン, ラブロマンス, 監督:ビル・オリバー, 配給会社:プレシディオLeave a Comment on 『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』 -多重人格ものの実験的作品-

『 ミスエデュケーション 』 -Educate, don’t indoctrinate-

Posted on 2019年6月23日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ミスエデュケーション 』 -Educate, don’t indoctrinate-

ミスエデュケーション 70点
2019年6月21日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クロエ・グレース・モレッツ
監督:デジレー・アカバン

Jovianは一応、英会話講師をしている。教育業界人の端くれというわけである。日本語の教育という言葉には、大人もしくはそれを提供する側が主体であるかのような響きがある。英語の education は逆で、これはラテン語起源の形態素に分解すると、ex(外に) + duco(導く) となる。その人の内に眠るポテンシャルを引き出すのが教育の使命なのである。つまり、教育の主役は子どもや生徒の側ということになる。一応、英語には“Educate, don’t indoctrinate”という格言がある。『 ある少年の告白 』と本作を鑑賞して、その意をさらに強くした次第である。

 

あらすじ

女子高生のキャメロン(クロエ・グレース・モレッツ)は、プロムの夜に同性のコリーとカーセックスに及ぼうとするところを同級生に目撃されてしまった。保守的な叔母の手によって矯正施設「神の約束」に入所させられる。キャメロンはそこで理不尽な教育を受けながらも、性とアイデンティティに悩む同世代の男女たちと交流していく・・・

 

ポジティブ・サイド

『 クリミナル・タウン 』では柔肌を披露してくれたクロエが、本作では色っぽい吐息を聞かせてくれる。とある女子とのベッドシーンがあるのだが、こうした場面は極力照明を使わず、わずかに漏れ聞こえてくる声だけの方が観る側を刺激するということは、『 真っ赤な星 』でも証明されていた。クロエのファン、あるいは邪まな映画ファンは、まあまあ期待して良い。

 

『 ある少年の告白 』は、あまりにも男性性を前面に押し出していたが、本作は男女両方が暮らす矯正施設であるためか、一方的なマッチョイズムまたはフェミニズムを前面に押し出してくることは無い。太っちょ、ちょいブス、美男、美女、白人、黒人、アジア系、ネイティブアメリカンの末裔など、多士済済、ダイバーシティの先端を行っていることもあるからか。その代わりに、宗教的な観念が、もっと言えばキリスト教的な哲学が教条主義的に教え込まれる様は、非常にグロテスクである。ゆめゆめ勘違いしないで頂きたいのだが、Jovianはキリスト教をけなしているわけではない。Jovianの母校は国際基督教大学であるし、Jovianが専攻したのは宗教学であった(東洋思想史だったが)。Jovianが異様に感じたのは、価値観を一色に塗りつぶそうとすること、その人間固有の属性を消し去ろうとすること、宗教の名を借りて人間性を変えてしまおうとすること、そのような営為全般である。

 

「神の約束」には男女それぞれの教育者、施設責任者がいるが、こうした大人たちが清々しいまでに醜い。男性は、かつてゲイだったが今はそれを克服したと言う。その言葉を信じるかどうかは別にして、終盤のある事件を機にこの男性が見せる素顔は余りにも弱々しく情けない。それは取りも直さず、「神の約束」の教育(indoctrination)の失敗を意味している。また、女性の方も生徒たちの閾識下にある罪の意識を顕在化させようとあの手この手で語りかけるが、彼女も同じく終盤の事件でその本性を現す。期せずして、ある生徒の本音を引き出してしまった彼女は、それを踏みつぶしてしまうのである。これも、「神の約束」の提供しているものがeducationではなくindoctrinationであることを象徴していることは間違いない。

 

その終盤のとある事件は、一種のホラーの様相を呈している。Jovianは背筋にぞっとするものを感じた。この感覚は『 ウィッチ 』のトマシン(アニャ・テイラー=ジョイ)の弟の死に様を思い起こさせた。奇しくも、『 ウィッチ 』もキリスト教的価値観の共同体から疎外された家族の物語。本当に恐ろしいのは、自分が自分を疎外してしまうことなのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

キャメロンの夢のシーンは不要だった。ビジュアルは映画の最大の構成要素であるが、時にはそれをダイレクトに見せるよりも、観る側の想像力を掻き立てるような演出の方が効果的であることが多い。叔母さんとの電話のシーンはそうだったのだから、なおさらこのシーンがノイズであるように感じられてならない。

 

本当はこれはポジティブに評価すべき事柄・演出なのだろうが、女性博士がキャメロンに尋ねる「あなたの両親は、今のあなたのことをどう思うでしょうね」という問いかけには吐き気を催した。このような話術、論法を使う教育者が存在することに慄然とさせられる。どこまでも教条主義的な独善的キャラクターであれば良いものを、このような腐ったヒューマニズムでもって若者を導こうとするのは卑怯者のやることである。ああ、だからこそ衝撃が大きいのか・・・ やはり、これはネガティブに見えるポジティブ要素なのかな。だからこそ、キャメロンとその仲間たちの屈託の無さが映えるのだから。

 

総評

『 ボヘミアン・ラプソディ 』がある意味で頂点を極めたように、現代はLGBT(に代表されるマイノリティ)の主題にする映画が量産される時代である。派手なアクションや爆音が鳴り響くような音響があるわけではないが、『 ある少年の告白 』と同じく、人間の人間らしさを押し殺すことの醜さが窺える佳作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, クロエ・グレース・モレッツ, ヒューマンドラマ, 監督:デジレー・アカバン, 配給会社:フィルムライズLeave a Comment on 『 ミスエデュケーション 』 -Educate, don’t indoctrinate-

『 トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 』 -夏恒例のクソホラー映画-

Posted on 2019年6月17日2020年4月11日 by cool-jupiter

トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 40点
2019年6月14日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:ルーシー・ヘイル
監督:ジェフ・ワドロウ

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夏と言えばホラー映画またはサメ映画である。しかし、サメ映画については今年はいいかなと感じている。昨年(2018年)の『 MEG ザ・モンスター 』が収穫だったからではなく、『 アクアマン 』にレーザー光線を放つサメが登場したからである。ならばホラーである。Jovianの嫁さんが激ハマりしていたテレビドラマ『 プリティ・リトル・ライアーズ 』の主人公の一人、ルーシー・ヘイルが主演というのもレンタルの動機になった。

 

あらすじ

オリヴィア(ルーシー・ヘイル)は、親友のマーキーらと共に大学最後のバケーションとしてメキシコ旅行へ行く。そして現地で知り合ったカーターという男性と共に、皆でトゥルース・オア・デアに興じる。それは悪魔のゲームの始まりだった・・・

 

ポジティブ・サイド

日本でトゥルース・オア・デア(真実か挑戦か)を実際に行ったことがある人は、それほど多くないだろう。Jovianは一度だけ大学の寮でアメリカ人、ドイツ人、ブラジル人らと興じたことがある。独自ルールとして、真実、挑戦、いずれも拒否の場合はテキーラだったかウォッカだったかのショットを一気飲みが科されていた。若気の無分別というやつである。

 

このゲーム、そして本作の面白さも、ゲームの持つ不思議な魔力にある。我々も普段、じゃんけんやあみだくじで、そこそこ重要な事柄を決めたりしているが、そこには実は合理性は無い。あるのは、じゃんけんやあみだくじの持つ魔力=虚構性への積極的な加担である。そういえば、自分の卒論のテーマもこうだった。宗教(および諸々の社会システム)とは、その虚構性を積極的に認め、維持しようとする持続的な試みなのだ。

 

Back on track. 本作は割と早い段階で、『 ゲーム 』(主演:マイケル・ダグラス 監督:デビッド・フィンチャー)のような大掛かりな仕掛けのあるゲームではなく、『 シェルター 』(主演:ジュリアン・ムーア 監督:モンス・モーリンド ビョルン・スタイン)のようなスーパーナチュラルな存在によるものであることが分かる。恐怖は、怪異の正体が不明であることから生まれる、と『 貞子 』で述べたが、怪異の正体が人為的なものなのか、それとも超自然的なものなのかと登場人物および観客を惑わせるのは非常に効果的であり、なおかつ非常に難易度が高い。本作はそこでスリルやサスペンスを生み出すことをあっさりと放棄した。その代わり、人間の形相を極端に歪めることで観る者に怖気を奮わせる。『 不安の種 』でも使われた手法であるが、これはこれで慣れるまでは結構怖い。本格ホラーは苦手でも、ライトなホラーならイケるという向きにお勧めしたい。

 

ネガティブ・サイド

怪異の正体が怖くない。というよりも、この手のホラー映画のパターンというのは、何故にここまで紋切り型なのか。先に挙げた『 シェルター 』もそうであるし、B級ホラーで言えば『 ペイ・ザ・ゴースト ハロウィンの生贄 』、A級ホラーで言えば『 エミリー・ローズ 』がそうであるように、宗教的な観念、信仰が背景にある。なので怖い人にとっては怖い。怖くないと言う人にとっては怖くないという、両極端な反応を生み出しやすい。ホラー映画としてユニバーサルな怖さを感じさせる作品の白眉は『 エイリアン 』または『 シャイニング 』だろうか。宗教的または哲学的な観念を背景に紛れ込ませ、結局怖いのは人間なのだと感じさせるのが最も効果的なのかもしれない。

 

本作の弱点として、色々な人の死に方にバリエーションがないのである。どこかで見た死に方ばかりで、正直なところ退屈してしまった。中には『 催眠 』(主演:菅野美穂 監督:落合正幸)そっくりなシーンもあった。まさかパクっているとは思わないが、もうちょっとオリジナリティを追求しなければならない。

 

またゲームの中身も弱い。独自ルールは別に構わないのだが、挑戦の内容が酷い。何が酷いかと言えば、「○○を銃で撃ち殺せ」のようなダイレクトな指示である。我々のハラハラドキドキは、真実を語ることによってどのような人間関係が露わになってくるのか、挑戦を無事に成し遂げられるのかどうか、というところから来るのであって、直接的に害を及ぼそうとしてくるものにはハラハラドキドキはしないのである。

 

結末も容易に読める。というか、始まり方からして『 シンプル・フェイバー 』そっくりなのである。『 貞子 』こそ、こうあるべきだったのだが。

 

総評

中学生~大学生ぐらいまでであれば、それなりに楽しめるのではないか。特に高校生~大学生ぐらいまでのカップルなら、休日に鑑賞して楽しめるかもしれない。逆に年齢がそれよりも上、または映画経験、特にホラー映画経験がそれなりに豊富な人には、ややお勧めしづらい。PLLのファンなら、アリアを応援するつもりでレンタルするのも一つの選択肢かもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ホラー, ルーシー・ヘイル, 監督:ジェフ・ワドロウ, 配給会社:ユニバーサル・ピクチャーズLeave a Comment on 『 トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 』 -夏恒例のクソホラー映画-

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