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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 パブリック 図書館の奇跡 』 -Don’t shoot me, I’m only a librarian.-

Posted on 2020年7月26日2021年1月21日 by cool-jupiter

パブリック 図書館の奇跡 70点
2020年7月24日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:エミリオ・エステベス アレック・ボールドウィン ジェナ・マローン
監督:エミリオ・エステベス

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タイトルだけ読むと『 図書館戦争 』的な世の中で、それでも本を愛する人たちが・・・のような物語を想像するが、実際は全然違う。むしろ『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』を舞台にヒューマンドラマを作った。それが本作の紹介として最も端的かもしれない。

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あらすじ

シンシナティ公共図書館員のスチュアート(エミリオ・エステベス)は、体臭を理由にある人物を図書館から退去させたことで訴訟を起こされてしまう。失意の彼がその日の勤務を終えようとすると、いつもの馴染みのホームレスたちが図書館から去ろうとしない。大寒波の夜、シェルターも満杯。行き場がなく、居座ろうとする彼らを前に、図書館員のスチュアートが取った行動は・・・

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ポジティブ・サイド

図書館の存在意義については『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』で自分なりにかなり深く考察したつもりだが、こんな現世的な図書館の利用方法があったのか。確かにニューヨーク公共図書館でも求職者たちに各種セミナーやサービスを提供していたが、シンシナティ公共図書館はホームレスたちにとっては昼間のシェルターなのだ。『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』でもシェルターや教会がLGBTQにとって重要な生活の拠点になっていたことが思い出される。

 

利用者たちは真面目な学習者から、ちょっとおかしな人まで様々だ。個人的に笑ったのは「ジョージ・ワシントンのカラー写真が載った本はありますか?」と尋ねる市民だ。ホームレスたちも多士済々。退役軍人もいれば、やたらと博識な者、対人恐怖症かと見せかけてメンタルに少々困難を抱える者など、素顔は様々だ。特に博識男のシーザーは愉快だ。トリビアを披露しては「ヘイル、シーザー!」と仲間に叫ばせる。キャラを立たせると同時に、彼らがどれだけ息が合っているのか、彼らがいかに長く図書館で過ごしているのか、どんな本を読んでいるのか。そういったことがわずか数分で明らかになる。この図書館のトイレのシーンはビジュアル・ストーリーテリングの極致である。

 

本作には明確な悪役が存在する。それはクリスチャン・スレーター演じる検察官だ。検察官というと、検察庁のナンバー2という要職にありながら常習的なテンピン麻雀で御用・・・とならなかった上級国民が今年はニュースになった。本作の検察官は市長選に立候補しており、「法と正義を執行する」ことで街を良くしていくのだと言う。実に分かりやすい。つまり、この男の言う法と正義の執行とは、主演兼監督のエミリオ・エステベスが「問題である」と感じ、自身のメッセージとして世に問いたい事柄なのだ。法の文言を守ることが重要なのか、それとも法の精神を守ることが重要なのか。個の領域に属すもの、例えばプライバシーなどに、法はどこまで効力を及ぼすのか。市民として守るべき法と職業人として守るべき法、それらが対立する時に、自分はどうすればよいのか。本作が投げかけてくる問いは、我々一般人も一度は深く考えてみるべきことばかりだ。

 

メディアの在り方についても問われている。フェイクニュースが各国で問題となる中、それが生み出される過程を本作は描く。Black Lives Matter運動以前に制作された作品であるにも関わらず、「無抵抗の黒人を殺すなよ」などというドキリとさせられる発言を警察官同士で行ったりしている。フェイクニュースとは、事実ではない報道のことだ。ここでの事実でないこととは何か。それは差別的な先入観であったり、偏見であったりだ。事実をまずは虚心坦懐に受け入れる姿勢ではなく、いかにセンセーショナルものなのか、いかにニュース・バリューがあるのかで判断する姿勢がメディアの側の問題点である。同時に、報じられるニュースがいかに自分と関係があるのか、それとも無いのかで我々はニュースに接する。コロナに罹患した人を「自己責任」と切って捨てるのは、自分はコロナには罹らないという過信から来ている。過信とはつまり、想像力の欠如のことである。メディアは自分たちが扱う事件や人物に対して、我々は報道の向こう側の事象や人物に対して、偏見ではなく想像力で接さねばならない。

 

図書館立てこもり組と交渉人刑事(演じるのはベテラン俳優のアレック・ボールドウィン)との間のちょっとしたサブプロットもあり、またエミリオ・エステベス演じるスチュアート自身の隠された過去もあり、単なる思想的な映画では終わらない。籠城組に対して思わぬ援軍が現れ、ことは図書館だけではなく街全体をも巻き込んでいく。そして、いざ武装警官が突入か、という緊張感マックスの場面で、スチュアートたちが取った起死回生の策とは?うーむ、すごい。確かに伏線というか前振りはあったが、それをここまで大胆にやってしまうのか。公共とは何かという問いをブッ飛ばすと同時に、法や正義とは何かという問いも同時にブッ飛ばす驚きの解決策である。社会派映画としても娯楽映画としても、高い水準で完成された作品である。

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ネガティブ・サイド

事の発端は大寒波の襲来だったはず。にもかかわらず、街行く人の吐く息がまったく白くない。誰も寒さで震えていないし、スチュアートとの交渉で下手をうった検察官が路上で上着を脱いで寝かされても、まったく震えもしない。いくらなんでもこれはおかしい。狭い路地裏で数人が固まれば、何とかしのげるんじゃ?と思ってしまった。

 

スチュアートやマイラの図書館員としてのプロフェッショナリズムの描写が、特に序盤に弱かった。『 水曜日が消えた 』は駄作だったが、深川麻衣は図書館員として本の整理や貸し出し以外の仕事をしていた。本をプロモートするか、セミナーやワークショップをどう開催するか。そうしたことも図書館員の仕事である。立てこもったホームレスの面々に思い思いに時間を過ごさせるのではなく、図書館員としての知識やスキルで人々をまとめるシーンが欲しかった。

 

スチュアートの隣人のアンジェラとの情事は必要だったか。やたら遅い時間に図書館を訪れてくるのを見て、本当は貸し出しカードを作りに来たのではないだろうと誰もが思うはず。この描き方では、夜の営みに手ごろな相手が見つかったぐらいにしか見えない。スチュアートとアンジェラの最初のシーンは、これから何かが始まるかもしれないぐらいの予感を漂わせる程度に抑えておくべきだった。

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総評

これは良作である。2018年制作ということだが、同じ頃の日本では、某大学が蔵書数万冊を焼却処分したことが話題になっていた。本を廃棄・焼却することの是非はともかく、図書館はどんな書籍にも差別はしない。何でも受け入れるのが図書館だ。その図書館という「民主主義の最後の砦」を舞台に繰り広げられる一夜の攻防は、エンタメ作品として合格。法と何か、正義とは何かという社会派な面でも及第点以上の出来である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン 

look for ~

~を探す、の意である。人でも物でも、この表現で探すことができる。

I’m looking for a Brad Pitt movie.

Where have you been? I’ve been looking for you.

What kind of job are you looking for?

など、「探す」=look for である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, アレック・ボールドウィン, エミリオ・エステベス, ジェナ・マローン, ヒューマンドラマ, 監督:エミリオ・エステベス, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 パブリック 図書館の奇跡 』 -Don’t shoot me, I’m only a librarian.-

『 パッセンジャーズ 』 -ライトな映画ファン向けか-

Posted on 2020年7月23日 by cool-jupiter

パッセンジャーズ 50点
2020年7月20日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:アン・ハサウェイ パトリック・ウィルソン
監督:ロドリゴ・ガルシア

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飛行機墜落ものというと『 ノウイング 』(監督:アレックス・プロヤス 主演:ニコラス・ケイジ)を思い出す(冒頭だけだが)。これがけっこうな珍品で、面白くもあり、つまらなくもあった。以来、飛行機墜落ものにはあまり食指が動かくなくなった。しかし、心斎橋シネマートで『 アフターマス 』(監督:エリオット・レスター 主演:アーノルド・シュワルツェネッガー)あたりから墜落ものも、ポツポツと再鑑賞し始めた。これもそのうちの一本。

 

あらすじ

飛行機墜落事故が発生。多数が死亡したが5名は生き残った。その生存者のカウンセリングを担当することになったクレア(アン・ハサウェイ)だったが、セッションを欠席した生存者が1人また1人と姿を消していく。クレアは事故の真相を何とか探ろうとするのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

アン・ハサウェイが相変わらず魅力的である。『 プラダを着た悪魔 』から『 シンクロナイズドモンスター 』まで、年齢を重ねつつも、魅力を増している。おそらく本作ぐらいが、いわゆる girl と woman のちょうど境目ぐらい(実際の役でもそうだ)で、それゆえに無垢な学生、姉との関係に悩む妹、男性と情事に耽る大人の女性などの多彩な面を見事に演じ分けている。彼女のキャリアにおけるベストではないが、間違いなく on the right side の演技である。

 

作品としては非常に分かりにくい。それは、「はは~ん、これは実はこういう話だな」ということがすぐに読めるからである。たいていの人は「これはアン・ハサウェイがセラピーをしていると見せかけて、実はセラピーを受けている側なのだ」と思うことだろう。Jovianは割とすぐにそう直感したし、映画や小説に慣れた人なら、あっさりとそう思えるだろう。それこそが本作の仕掛ける罠である。

 

「なるほど、そう来るか」

 

素直にそう感心できる twist が待っている。

 

本作の最初の展開に騙される人、あるいはそれを見破れる人は、以下のような作品に親しんでいる人だろう。以下、白字。

 

『 シックス・センス 』

『 アメイジング・ジャーニー 神の小屋より 』

『 ラスト・クリスマス 』

『 ムゲンのi 』

 

人によっては ( ゚Д゚)ハァ? となるだろうが、真相に至るまでには結構フェアに伏線が張られている。例えば寒中水泳のシーン、あるいは線路のシーン。このあたりをちょっと考えれば、誰もが何かがおかしいと感じられることだろう。それに、多くのキャラクターのふとした言動や、人間関係、他キャラとの交流のあり方もヒントになる。2000年代にもなると、ありふれた謎解きにも変化球が色々と混ざって来る。本作は、ただのシュートかと思ったらシンカーだった。そんな一品である。

 

ネガティブ・サイド

ちょっと風呂敷を広げ過ぎている。こういうのは中盤と終盤の twist のインパクトで勝負するしかない作品で、そこに至るまでがかなり間延びしているように感じられる。93分の映画だが、75分でも良かったのではないかと思えるのだ。エリックが壁を塗りたくるシーンや屋上にクレアを誘うシーンは削除できた。あるいは大幅に短縮しても、特にラストのインパクトに影響を及ぼさないだろう。

 

事故を起こした航空会社が、その自己の生存者を監視し、追跡し、拉致しているのではないかというクレアの推理は、はっきり言って迷推理である。生存者の名前は大々的に報じられるだろうし、そうした人間が本当に失踪したならば、周囲の人間が絶対に気付くし、捜索届を出したり、マスコミにも知らせたりするだろう。人間は陰謀論が大好きなのだから。一人ひとり消えていくのではなく、単にセラピーを欠席して、日常生活に帰っていった、という説明はできなかったか。

 

クレアとエリックのロマンスがどうにもこうにも陳腐である。アン・ハサウェイ演じるクレアから見たエリックが、一人の男性としての魅力に欠ける。いや、説得力に欠けると言うべきか。アン・ハサウェイから見て、危なっかしい弟のような存在、あるいは幼馴染のような友達以上恋人未満のような存在に見えないのだ。多面的なアン・ハサウェイの魅力とパトリック・ウィルソンのキャラ設定が、どこかミスマッチなのだ。

 

総評

アン・ハサウェイのファンならば観よう。こういった作品はドンデン返しを楽しむためのもので、そこに行くまでに退屈してしまうという向きにはお勧めできない。ディープな映画ファンならば、あれこれと先行作品を思い浮かべるだろうし、もっと鍛えられた映画ファンならば、この変化球が曲がり始めた瞬間に軌道を見切ってしまうかもしれない。結局、お勧めできるのはアン・ハサウェイのファンであるというライトな映画ファンになるだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

work one’s ass off

「働きまくる」の意である。もうすぐ子どもが生まれるのか?じゃあ、がむしゃらに働かないとな!=You’re going to have a baby soon? Well, someone has got to work his ass off! などのように使う。同じような表現に、laugh one’s ass off = 爆笑する、というものがある。こちらは laugh my ass off = LMAO や、rolling on the floor laughing my ass off = ROFLMAO などの略語の形でネット上で見たことがある人もいるかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, D Rank, アメリカ, アン・ハサウェイ, サスペンス, パトリック・ウィルソン, ミステリ, 監督:ロドリゴ・ガルシア, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 パッセンジャーズ 』 -ライトな映画ファン向けか-

『 レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』 -Happy in the rain-

Posted on 2020年7月12日2021年1月21日 by cool-jupiter

レイニーデイ・イン・ニューヨーク 70点
2020年7月10日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ティモシー・シャラメ エル・ファニング セレーナ・ゴメス
監督:ウッディ・アレン

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ウッディ・アレン監督作の『 教授のおかしな妄想殺人 』や『 カフェ・ソサエティ 』がMOVIXあまがさきでリバイバル上映されていた。残念ながら再鑑賞のタイミングが合わなかったが、この巨匠はおかしな人間模様をスタイリッシュな絵で切り取らせると右に出る者がいない。本作はそんなアレンの特徴がよく出た秀作である。

 

あらすじ

ギャツビー(ティモシー・シャラメ)はポーカーで得た大金でガールフレンドのアシュリー(エル・ファニング)と自身の地元ニューヨークで最高の週末を過ごそうと考えていた。アシュリーも有名映画監督へのインタビューをニューヨークで行えるチャンスを手にしていた。二人は意気揚々とニューヨークに向かうが、ほんのちょっとしたことから思わぬすれ違いが生じてしまい・・・

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ポジティブ・サイド

オープニングからスクリーンを彩る鮮やかな背景やオブジェ、ガジェットや衣装に目を奪われる。シャラメのナレーションで田舎と形容されるヤードレー大学のキャンパス。そのオーガニックな木々や芝生や、あるいは道路の向こうに広大に広がる田園風景が、ニューヨークの象徴でもあるイエローキャブによって一挙に別種の色彩を帯びる。人工的で、なおかつ美しい色彩だ。街並みのみならずホテルやレストラン、その調度品などに至るまで色調が完璧に計算されており、その映像美だけでも、自分が日本からニューヨークに移動し方のように感じさせられる。匠の技である。

 

映画の形式(フォーム)の面でのユニークさは映像美だけに留まらない。これは超高速会話劇でもある。かといって『 シン・ゴジラ 』のように、ナード的なキャラクターが高速でまくしたてるのではなく、教養豊かなギャツビーとその周囲のキャラクターが織り成すユーモアと毒とトゲのある会話である。Jovianの妻はギャツビーを鼻持ちならない奴と見たようであるが、Jovian自身は首尾一貫してこのキャラクターに共感することができた。スノッブでも衒学的でもなく、本当に言語のセンスに長けた博識な若者に映った。自分でも時々感じるが、教養というのはひけらかすものではなく、勝手ににじみ出るものであるべきだ。反省しよう。ギャツビーみたいな良い男を目指そう。そうそう、本作におけるギャツビーの独白、心の声は『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンに近い味わい深さがある。よくよく耳を澄まされたし。また『 マリッジ・ストーリー 』でアダム・ドライバーが予想外の歌唱力を披露してくれたように、シャラメも本作でピアノ弾き語りを披露する。そちらの歌も必聴である。

 

ヒロインのエル・ファニングも味わい深い。はっきり言ってお馬鹿さんなのだが、そこが可愛らしく愛おしい。彼女を徐々に巻き込んでいく騒動は、彼女自身の魅力に端を発している。もっと言えば、ウッディ・アレン自身がエル・ファニングに愛されたい、敬服されたい、称賛されたいという欲望を持っているからこそ生まれたストーリーなのだろう。本作に登場する数々の中年のおやじキャラは全てアレンの分身なのではないかと疑いたくなる。エル・ファニング(というよりもアシュリー)のどこがそれほど魅力的なのか。一つには、目だと思う。目は口程に物を言うものだが、そのまっすぐな瞳に射抜かれれば、たいていの男はイチコロだろう。それほど今作におけるファニングの目、そして笑顔は魅力的であり説得力がある。ジャーナリスト志望ということは、まだジャーナリストではないわけで、彼女は単なる学生であり、子どもである。実際に作中でも15歳の少女扱いされるシーンがあるが、まだ何物でもない魅力的な女子に向き合うことで、男は、たとえば年齢や職業や肩書や社会的地位といった一種の虚飾から自由になれる。ただの男になれるわけだ。このエル・ファニング演じるアシュリーの魅力に、ぜひ魅了されたし。

 

惹かれ合いながらも何故かすれ違ってしまう恋人同士。雨のニューヨークに感じる旅情。映像美と音楽。これはウッディ・アレンの快作である。

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ネガティブ・サイド

セレーナ・ゴメスは悪い役者ではないが、作品世界にはまっていなかった。なんだかちんちくりんに見えるのだ。いっそのことゴメスとファニングの逆にキャスティングしてみたら?それもそれでセレーナが爺殺しの魅力を発揮したかもしれない。

 

ギャツビーの兄のフィアンセの笑い方が、兄に結婚を躊躇させるほどのものだったか?確かに奇妙な笑いであるが、これは本作のテーマである“価値観の違い”というよりは、生理的な、あるいは生得的な好悪の問題だろう。もっとスプーンやフォークの使い方が~とか、音楽や映画の趣味が~とか、そういった設定にはできなかったのだろうか。

 

少しだけ気になったのは、ギャツビーの母が“アシュリー”を見抜くシーン。母が夫に「何か変じゃない?」と語りかけるシーンは不要だったし、その筋の道の人間にしか分からない、ほんのちょっとした所作や仕草のようなものを一瞬だけで良いので見せてくれていたら、非常に説得力あるシークエンスになったはずなのだが。

 

総評

約1時間30分とは思えないほど濃密な映画である。まさに梅雨空の続く今にふさわしい映画であると言える。夫婦で鑑賞すれば、すれ違いのあれやこれやを笑い飛ばせることもできる。ただし、デートムービーにはならないかもしれない。都会人の男と田舎出身の女子、というくくりは乱暴すぎるかもしれない。だが、ガールフレンドと一緒に本作を鑑賞しようともくろむ男子諸君には、映画の中身をよくよくリサーチされたしとアドバイスしておきたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Time flies.

「光陰矢の如し」の意味だが、もっと単純に「時間が過ぎるのは早いもの」ぐらいでよい。仕事に集中していて、気が付いたら定時。飲み会ではしゃぎすぎて、気が付いたら終電間近。そんな時に“Time flies.”と呟いてみようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エル・ファニング, セレーナ・ゴメス, ティモシー・シャラメ, ラブコメディ, ラブロマンス, 監督:ウッディ・アレン, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 レイニーデイ・イン・ニューヨーク 』 -Happy in the rain-

『 かいじゅうたちのいるところ 』 -ファミリー向けファンタジーの佳作-

Posted on 2020年7月8日 by cool-jupiter

かいじゅうたちのいるところ 65点
2020年7月7日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マックス・レコーズ
監督:スパイク・ジョーンズ

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シカゴ在住の友人からキッズへの英語レッスン教材として勧められたのが、『 グリンチ 』と『 かいじゅうたちのいるところ 』だった。『 ブラッド・スローン 』をMOVIXあまがさきで公開していたのと同時期に『 アイム・ノット・シリアルキラー 』という珍作ホラーも公開されていた。その主人公のマックス・レコーズの子ども時代の作品。これも何かの縁ということでDVDをレンタル。

 

あらすじ

空想好きのマックス(マックス・レコーズ)は、どこか家族にも周囲の人間にも上手く馴染めない。母親とのちょっとした行き違いから大ゲンカになってしまったマックスは家を飛び出し、そのまま船に乗って大海原へ飛び出した。そして「かいじゅうたちのいるところ」にたどり着いたのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

疎外感を感じる子どもが主人公のファンタジーと言えば、まずは『 ネバーエンディング・ストーリー 』が思い浮かぶ。近年の作品では『 バーバラと心の巨人 』が思い出される。古典的な作品では、やはり『 オズの魔法使 』は外せない。また、子どもが空想の友人と遊ぶ作品では『 ジョジョ・ラビット 』の面白さが突出している。空想世界を題材にしたファンタジーの面白さは、現実世界がどのようにそこに反映されているのかで決まると言ってよい。その意味で、本作は及第点以上である。

 

まず、着ぐるみを採用したのが大きい。表情は後からCG処理したのだろうが、これによって「かいじゅうたち」の存在感、実在感が確実に増している。2020年時点ではCGだけならば『 ライオンキング 』や『 野性の呼び声 』からも分かるように、本物と見分けがつかないレベルに達している(もちろんカネと時間が必要だが)。しかし着ぐるみには重みや手触りがある。他の生き物や事物と触れ合うことができる。もしも本作の「かいじゅうたち」がフルCGだったなら、最終盤のとあるキャラとマックスの究極の触れ合いが、逆にちゃちなものに感じられただろう。これは一種の胎内回帰願望の表れで、冒頭の雪のトンネルでも強く示唆されていたことである。非常に分かりやすくシンボルを配置しているが、これは子どもでもなんとなく理解できるだろう。我々は皆、何故か小さい頃、押し入れだったり、屋根裏だったりと、暗く狭いところに惹かれていた時期があったはずである。本作は辛い現実を空想世界に投影することで、その空想世界すらも辛い場所にしてしまうストーリーであるが、そこには救いがある。庇護がある。また子ども自身の成長もある。予定調和的であるが、最後の最後には安心するし納得できるのである。

 

様々な悩みであったりストレスを抱える「かいじゅうたち」は、マックスの現実世界での人間関係・人間模様の投影である。そして、そこにはマックス自身の影も存在する。キャロルという「かいじゅう」はマックスの負の部分を体現したキャラクターである。疎外されていると感じていたマックスは、キャロルを通じて、自分が疎外されていたのではなく、悩みを抱えているのは自分だけだという錯覚に陥っていたことに気付く。簡単すぎず、かといって難しすぎない見せ方は、まさにファミリー向けである。

 

ネガティブ・サイド

一部のかいじゅうの行動にドン引きさせられる。木に穴をあけるのは、それが仕事とあらばしょうがないが、いたいけなフクロウを投石で撃墜して、「この子たちは、これが嬉しいんだ」と言い放つのには正直引いた。また、マックスに負けず劣らずの強情っぱりのかいじゅうが、「フクロウと一緒に寝られるか」というのにも違和感。そもそもフクロウは夜行性ではなかったか。

 

また、かいじゅうたちの理解に苦しむ言動がマックスを蝕む過程もやや唐突だ。子ども向けであるならば、もっとこの王国の愉快なところ、楽しいところを強調する描写が欲しかった。それこそ原作には存在せず、だからこそ映画というビジュアルな媒体で存分に表現すべきものだろう。

 

エンディングにも少々不満である。マックスが求めていたのは家族との触れ合い、お互いを認め合うことだった。そこに姉の姿が見られなかったのは個人的には納得がいかなかった。

 

総評

良作である。色々と???なところもあるが、絵本の世界をビジュアルの面でもストーリーの面でも、ここまで大きく膨らませて、なおかつ綺麗に着地させるのはスパイク・ジョーンズ監督の手腕だろう。COVID-19が静かに再拡大の様相を見せている今、映画館に行かないという選択をする映画ファン、特に家族持ちにお勧めをしたい作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話

Knock it off

「やめろ」、「うるさい」、「いい加減にしろ」、「そこらへんにしとけ」のような意味である。職場であまりにも雑談が過ぎる、あるいは声のボリュームが大きすぎる人がいたら、心の中でこのように唱えてみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, ファンタジー, マックス・レコーズ, 監督:スパイク・ジョーンズ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 かいじゅうたちのいるところ 』 -ファミリー向けファンタジーの佳作-

『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

Posted on 2020年6月20日2021年1月21日 by cool-jupiter

ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 70点
2020年6月14日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン エマ・ワトソン フローレンス・ピュー ティモシー・シャラメ
監督:グレタ・ガーウィグ

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Jovianと同世代(不惑)か、それ以上の世代ならば、ハウス名作劇場の『 愛の若草物語 』を観ていたことだろう。まさかグレタ・ガーウィグが同作品を参照していたとは思わないが、豪華なキャスティングにもかかわらずマーチ四姉妹の特徴はしっかりと保たれていた。

 

あらすじ

ジョー(シアーシャ・ローナン)は小説家志望。長女メグ(エマ・ワトソン)や三女エイミー(フローレンス・ピュー)、四女ベス、そして向かいに住む裕福なローレンス家の長男ローリー(ティモシー・シャラメ)らと、南北戦争時代の陰鬱なアメリカで、それでも健気に前向きに生きていこうとするのだが・・・

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ポジティブ・サイド

シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメの共演となると『 レディ・バード 』を思い出す。実年齢からすればハウス名作劇場のような10代半ばを演じるのは厳しいはずだが、それを感じさせない。フローレンス・ピューとベス役のエリザ・スカンレンの童顔の果たす役割も大きいだろう。若草物語と言えば、どうしたって姉妹の少女時代の話がメインになる。同時に原題のLittle Womenというのも、「私たち姉妹は小さいけれども立派な大人の女性なのだ」という意味を内包している。そうでなければ Little Sisters や Little Girls というタイトルがつけられていたはずだ。そうした姉妹のビルドゥングスロマンを、本作はジョーの15歳時代と22歳時代を交互に行き来することで、効果的に、そしてユニークに描き出した。

 

効果的に、というのは『 若草物語 』の背景をくどくどと説明しなかったところ。『 スパイダーマン ホームカミング 』でも、蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを手にするも、自らの不注意でアンクル・ベンを死なせてしまって・・・という誰もが知っているオリジンをばっさりと省略したところが潔かった。それと同じで、いきなりジョーが作家として世に旅立とうとするところから本作は始まる。これでいいのだ。

 

ユニークというのは、ある意味で観る側を置いてけぼりにしてもかまわないぐらいの勢いで二つの時間軸を何の前触れも説明もなく移動するところである。もちろん、ジョー15歳の時点ではあるキャラクターが存在して、ジョー22歳時点ではあるキャラクターが存在しないなど、『 若草物語 』に関する事前の背景知識があったり、キャラクターたちの話している事柄をすぐに理解できれば、目の前のシーンが“いつ”なのかを把握するのはたやすい。そうでなければ多少難しい。だが、それでもよいのである。この少々ややこしい時間の描写方法により、ストーリーの虚実皮膜の間が徐々にblurryになっていく。これがクライマックスの演出で効いてくる。これはなかなかの仕掛けである。

 

ローラ・ダーンはやはり『 ジュラシック・パーク 』のイメージが強かったが、『 マリッジ・ストーリー 』で完全に独立不羈の女性へと飛躍して、今では完全なる肝っ玉母ちゃんである。『 ジョジョ・ラビット 』のスカジョも良かったが、あちらはママ。こっちは母ちゃん、という感じ(本人は「ママと呼んで」とローリーに言っていたが)。

 

それでもパフォーマーとしては主役のシアーシャ・ローナンが光っていた。抑圧された時代を雄々しく生きる強い女性・・・ではなく、抑圧された時代に打ちのめされることで強くなった人物という印象を強く受けた。生涯をかけて打ち込めるもの、それが彼女にとっては物語や小説を執筆することだった。冒頭で「辛いことが多かったから、私は楽しい物語を書く」といった趣旨のジョー・マーチの言葉が映し出されるが、彼女にとって物語をつづることは、自分の人生を追体験することであり、経験することのなかった人生を生きることであり、生きていた人物が確かに「生きていた」ということを証明するための試みでもある。そして、それはそのまま今の時代に『 若草物語 』を再解釈しようとしたグレタ・ガーウィグ監督の意図と重なる。想像力があり、聡明で、時代によって規定される人間の枠組みにはまらず、孤高の生き方を目指すが、孤独に対して怯えや悲しみの心情を隠すことなく素直に吐露することもできる。どこまでもリアルなジョー・マーチ像が、確かにシアーシャ・ローナンによって生み出された。女性のみならず、男性も、子どもも、高齢者をエンパワーしてくれる、力強いパフォーマンスである。

 

ネガティブ・サイド

時代背景に関する説明がもう少し欲しかった。キャラクターの説明をばっさりと省略した点は評価に値するが、それと同じように時代背景や当時の社会の空気の説明までも省いてしまうのは賛成しない。国が内戦状態であることや、家父長の不在、独身女性の不遇なども、もう少し語れた、あるいは描写できたはずだ。

 

出版社の編集長に、女性キャラクターの行く末のあれこれを指示させるやり方はあまり上手いとは言えない。これはおそらくグレタ・ガーウィグ監督自身の経験が投影されているものと推測する。過去の人間の声を現代人が代弁することは良い。だが現代人の声を過去の人間に代弁させるのには少々違和感を覚える。

 

エマ・ワトソンとフローレンス・ピュー、特にピューにもっと見せ場が欲しかった。一番の見どころがジョーとの喧嘩とは・・・。さらにはclichéとしか言えない仲直りを見せつけられては・・・。『 ミッドサマー 』の時のように、精神的な脆さ、不安定さを引き出すことができていれば、後半の幸せなシーンがより際立ったように思う。シアーシャ・ローナンが主役ではあるが、その主役を最も輝かせるべき姉妹は、フローレンス・ピューであるべきだった。

 

総評

若草物語を知っている人なら劇場へ行こう。若草物語を知らないなら、最低限のあらすじやキャラクターだけを予習して劇場へ行こう。生きづらさを抱えていたり、過去に囚われて前になかなか進みだせない。そう表現してしまうと大仰だが、誰もがどこかで何かを間違えて、そのせいで目の前の現実に向き合えないことがある。そうした現実に、物語の力で向き合ったジョー・マーチの姿は、観る者に勇気を与えてくれる。豪華女優陣が勢ぞろいしているからではない。単純に良い作品だから、ぜひ劇場へ行こう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be hard on ~

三女エイミーの台詞に、“The world is hard on ambitious girls.”というものがあった。「若い女性が大志を抱くと、世間の風当たりが強くなる」のような意味である。be hard on ~=~にきつく当たる、のような意味である。いじめに少し近いか。学校でのいじめはbullyだが、「職場でマネージャーにいじめられて、腹立つ!」は“I’m so frustrated because the manager is hard on me!”のようになる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エマ・ワトソン, シアーシャ・ローナン, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, フローレンス・ピュー, 伝記, 歴史, 監督:グレタ・ガーウィグ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』 -若草物語の再解釈-

『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

Posted on 2020年6月12日2020年8月16日 by cool-jupiter
『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

オズの魔法使 100点
2020年6月9日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジュディ・ガーランド
監督:ビクター・フレミング

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『 ジュディ 虹の彼方に 』が公開されてからわずか3か月。まさか本作を映画館で観ることができる日が来るとは。コロナに感謝・・・とは口が裂けても言えないが、それでも1990年代にアメリカで『 スター・ウォーズ 』のオリジナル三部作(リマスター版)が劇場でリバイバル上映された時は、多くのファンが熱狂したのだろう。平日の朝だったためか、Jovian以外は女子大生二人組とおじさん一人、おばさん一人しか見当たらなかった。それでもTOHOシネマズには感謝しかない。

 

あらすじ

カンザスに暮らすドロシー(ジュディ・ガーランド)は、虹の向こうにより良い世界があることを夢想していた。ある日、竜巻がカンザスを襲う。風で飛ばされた窓で頭を打ったドロシーは、気が付くと魔法の国オズに飛ばされていた。そして、ドロシーの家は西の悪い魔女を下敷きにしていた・・・

 

ポジティブ・サイド

陳腐な感想であるが、ジュディ・ガーランドが歌う“Over the Rainbow”が素晴らしい。フィルムそのものがまだまだ貴重な時代、ロングのワン・カットで一気に歌い上げる。そして歌い終わった直後、すぐそばでたたずむトトにキスをする。これは監督の意図した演出なのか、それともジュディ・ガーランド自身の自発的な演技なのか。ここではないどこかを夢想した少女が、家族ではなく犬によって現実に引き留められた瞬間である。このシーンがあるからこそ、“There is no place like home.”と祈るシーンが際立つ。

 

そのトトの演技も堂に入ったものである。犬の演技としては『 野性の呼び声 』などは問題にならない(というか、あちらは人間が演じている)。『 パターソン 』のネリーと互角だろうか。籠から飛び出すシーン、窓からドロシーの部屋に飛び込んでくるシーン、魔女に向かってキャインと吠えるシーン、全てが絵になる犬である。

 

ドロシーを出迎えるのがマンチキンというのもいい。言ってみればミゼットの町なのだが、『 ウィロー 』と同じく、現実的な非現実さを生み出すとともに、社会のdiversityとinclusivenessへの遠回しな批判にもなっている。元々のミス・ガルチもカンザスの大地主で土地の者に対して横暴に振る舞っていたことが伺い知れるが、西の悪い魔女もマンチキンを搾取していたことは想像に難くない。そういう見方が原作小説の発表から100年が過ぎた今も出来るのだ。

 

ミュージカルとしても特級品である。特に“We’re off to see the wizard”のシークエンスは、役者の演技と楽曲のリズムとクオリティが高いレベルで融合している。ドロシーの10代少女の躍動感のあるステップ、かかしのふにゃふにゃなステップ、ブリキ男のカクカクとしたステップ、臆病なライオンのネコ科を思わせる意外としなやかな足さばきから生まれるステップをYouTubeで観よ。ジュディ・ガーランドは赤いハイヒールで華麗なステップを踏んでいる!その他のキャストのダンスも見事。先日、『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でカイロ・レン/ベン・ソロを卒業したアダム・ドライバーがコレオグラファーとの議論で「カイロ・レンはそんな動きはしない」とこだわりを見せたと言われている。演技者として絶賛されているアダム・ドライバーのこだわりを100年近く前の役者たちが持っていた、あるいは監督のフレミングがしっかりとそう映るように演出したということに畏敬の念を抱く。

 

“If I only had a brain”、“If I only had a heart”、“If I only had the nerve”の3曲のインパクトも強烈である。特にかかしとブリキ男のダンスは幼少の頃に何度も観ては一緒に踊っていたように記憶している。そして、ブリキ男の左右に体をグイーンと傾けて、倒れそうだけれど倒れないという演出は、マイケル・ジャクソンのゼロ・グラビティとして80年代に蘇った。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンが音楽と映像をパーフェクトに結び付けた新時代である。MJのゼロ・グラビティのインスピレーションは、本作にあったと言われている。それだけ象徴的な映画なのである。

 

色々と記憶に残るシーンが多い本作だが、最も強烈な印象を残しているのは、やはり悪い西の魔女だ。緑の肌に漆黒の衣装、神出鬼没で炎とともに現れ煙とともに消えていく。そしてほうきに乗って、ブルーインパルスもかくやのcontrailを引いていく。その笑い声と笑い方はジャバ・ザ・ハットのペット、コワキアン・モンキーに受け継がれている。多くの兵士(『 スター・ウォーズ 』でルークやハン・ソロ、チューバッカがトゥルーパーに変装するネタ元も本作だ、間違いない)を従えながらも、しかし死亡するや否や、その部下たちはドロシーたちに感謝の念をもってひざまずく。これもまた当時の資本家と小作人の関係を戯画化し、さらに批判しているシーンである。こうした社会的なメッセージがそこかしこにあるのだ。また魔女の弱点が水というのもいい。M・ナイト・シャマランの『 サイン 』も、本作にインスパイアされたのではないのかと勝手に想像している。また、久々に“Over the Rainbow”とセットで本作を観て、Trouble melts like lemon dropsという歌詞に魔女の死に様が暗示されていることに気づいた。なるほど。

 

大道具や小道具、美術も良い仕事をしている。かかしやライオン、ブリキ男の衣装や顔のメイクアップにはケチのつけようがないし、マンチキンの国の建物や道は今見ても張りぼてには見えない。遠景が描かれた絵は、当時の遠近法と風景描写技術の粋だろう。ドロシーのパーティーが遠くに歩いていくたびに“We’re off to see the wizard”が歌われるが、その歌の切れ目と一行がカーブを曲がっていく、あるいは坂道を下っていくのが見事にシンクロしていて、なおかつ遠近法を壊さないギリギリのラインにもなっている。それらを完璧に収めたカメラワークも見事の一語に尽きる。

 

本作と全く同じテーマを異なるアプローチで追求したのがメーテルリンクの『 青い鳥 』だろう。結局、現代の作品から古典に至るまで、本作が及ぼした影響はあまりにも巨大で不滅である。職場の50代のイングランド人に最近尋ねたことがある。「Rod Stewartの“Sailing”は、本当にRod自身が言うように英国では第二の国歌のようなものなのか?」と。曰はく、「俺より上の世代ではそうだろう」と。同じように20代と30代のアメリカ人にも尋ねてみたことがある。「“Over the Rainbow”は第二のアメリカ国歌か?」と。答えは二人とも「然り」であった。

 

オズの国が現実なのか幻想なのか、それはどちらでもよい。いかようにも解釈可能なところが素晴らしいのである。ただ、ドロシーがマンチキンやグリンダらと話す時には使わず、かかし、ブリキ男、ライオンと話す時には使う特定の語彙がある。そこに注目すれば、オズの国の正体が見えてくる。これまでに何度も鑑賞しているのに気付かなかった。鑑賞するたびにこうした発見をもたらしてくれるのも、本作が名作たるゆえんである。

 

ネガティブ・サイド

無い。いや、無いことはないのだが、画質や音質にケチをつけても意味はない。

 

総評

20世紀の最高傑作と勝手に断言する。エンターテインメント性と社会的なメッセージの両方を併せ持っている。そのどちらにおいても、現代に通じる。むしろ、普遍性を持つと言うべきか。小学生ぐらいの子どもを持つ親は、ぜひ我が子に見せてあげてほしい。高校生や大学生のカップルは、ぜひ劇場で鑑賞してみてほしい。オールド映画ファンもこれを機に劇場へGo! だ。暗転した劇場で白黒~セピアなカンザスが、彩り鮮やかなオズの国に切り替わるシーンの感動は、劇場でこそ体験すべきである。そして、極上の歌と踊りと語りを大画面で心ゆくまで堪能しようではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

courage

ライオンが欲しがる勇気である。英会話講師としてよく受ける質問の一つに「courageとbraveryはどう違うんですか?」というものがった。「courage bravery differenceでググってください」と言いたかったが、そこはグッとこらえて、受講生の中から答えを引っ張り出さねばならない。それこがex(外へ)+duco(導く)=educateである。Enjoy = 楽しむ、enlarge = 拡大する、encourage = 勇気を与える、ここまで引き出せれば、courageとは、振り絞る勇気であると分かる。一方でbraveryは元々備えている勇気である。良い教師ほど教えないものである。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 1930年代, SS Rank, アメリカ, ジュディ・ガーランド, ファンタジー, ミュージカル, 監督:ビクター・フレミング, 配給会社:MGM映画会社Leave a Comment on 『 オズの魔法使 』 -20世紀の最高傑作-

『 ルース・エドガー 』 -多面的な上質サスペンス-

Posted on 2020年6月10日2022年3月7日 by cool-jupiter

ルース・エドガー 70点
2020年6月7日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケルビン・ハリソン・Jr ナオミ・ワッツ オクタビア・スペンサー
監督:ジュリアス・オナー

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“Black Lives Matter”の抗議運動は止まりそうもない。もちろん、良い意味で止まってほしいと切に願う。『 ハリエット 』で描かれた「地下鉄道」が黒人と白人の両方によって運営されていたように、差別する側が廃止する運動を起こさないことには、問題は解決しない。そしてかの国の白人大統領は市民に銃口を向けることを厭わぬ姿勢を鮮明に打ち出している。そんな中、アメリカからまたも秀作が送り出されてきた。

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あらすじ

ルース(ケルビン・ハリソン・Jr)は裕福な白人家庭に養子として育った優等生。だが、高校教師のハリエット・ウィルソン(オクタビア・スペンサー)はルースの書いたあるレポートをきっかけに彼の心の闇を嗅ぎつけて・・・

 

ポジティブ・サイド

物語の振り子があっちこっちにすごい勢いで振れていく。白人vs黒人というような紋切り型の対立軸はここにはない。あるのはできる黒人と落ちこぼれの黒人の対立軸、白人とアジア系の対立軸、血のつながった家族と養子縁組をした家族、とにかくそこかしこに火種・・・と言っては大げさだが、人間関係を緊張させる要素が潜んでいる。そうした人間関係の中心に位置するのがルースであり、彼の言動は学校や家庭といった水面に良い意味でも悪い意味でも常に波紋を呼ぶ。この見せ方は上手い。巧みである。日本の少女漫画を映画化した作品でも、完璧超人な男子キャラが学校の外ではトラブルや心の闇を抱えていることが多い。だが本作のルースは、その闇の深さや濃さを容易に周囲の家族や教師に悟らせない。いや、映画を観る者すらもある意味では彼に翻弄される。いったいルースは善量なのか、それとも悪辣なのか。彼が善だとすれば、様々な対立軸の総てにおいて善なのか。そうした観る側の疑問がそのまま劇中でサスペンスを盛り上げる。

 

見た瞬間に分かることだが、主人公ルースは黒人、両親は白人。ああ、養子なのか、ということがすぐに察せられるが、interracial marriageやinterracial relationshipsという言葉が存在するように、人種と人種の間には越えがたい壁、埋めがたい溝がある。そして戦争・紛争の絶えない地域で幼少期を過ごしたルースが、アメリカという“一見すると平和な国”に順応するのはたやすくなかったであろうことも容易に想像がつく。Jovianは両親に「子育てに見返りなんかないで。親からしたら、子どもが一人で歩いたり、言葉をしゃべったりしただけで満足や」と言われたことがある。このあたりが血のつながりと養子の差、違いなのかと少しだけ思う。無償の愛を注ぐ母エイミーと父ピーターが、実子ではないルースに対して疑念を生じさせていく過程には、胸が締め付けられるような悲しみと、怒りの感情が呼び起こされるような身勝手さの両方がある。両親、特に母エイミーの視点からルースの行動を見ると、思い通りにならない我が子への苛立ちの気持ちが、血がつながっていないからこそ増幅される、だからこそエイミーはそれを必死で抑え込もうとする、という二重の苦悩が見えてくる。いやはや、なんとも疲れる映画体験である。

 

だが最も我々を披露させるのはオクタビア・スペンサー演じるハリエットである。彼女自身、黒人として様々な経験を経て教師という職業に身を捧げている。同じ教育に携わる者としてJovianはハリエットの善意が理解できる。黒人にはそもそもチャンスがあまり巡ってこない。だからこそ、そのチャンスを確実につかめそうなルースをさらに引き上げるために、劣等生の黒人生徒を排除した。ハリエットはそれを善意で行っている。Jovianは映画を鑑賞しながら、岡村隆史の「コロナ後の風俗を楽しみにしよう」という旨の発言、そしてその発言の擁護者たちを思い起こしていた。「岡村は女性を貶めたのではなく、一部の人間を励まそうとしていた」という論理である。ちょっと待て。善意に基づいた言動なら、その結果が苦痛をもたらしても正当化されるというのか?これではまるで戦前の大東亜共栄圏建設のスローガンと同じではないか。そしてこのようなエクストリームな論理がある程度幅を利かせているところに、戦後75年にして、日本がいまだに“戦争”を総括できないという貧弱な歴史観しか持たないことを間接的に証明している。

 

Back to track. 教師たるハリエットの誤りは明白である。だがそのハリエットが、自身だけではなく身内に苛まれていることを、とてつもなくショッキングな方法で我々は見せつけられる。ハリエットの教育方法は本当に誤りなのか、ハリエットが一部の生徒に厳しく接することは彼女の罪なのか、と我々は自問せざるを得なくなる。

 

最終盤のルースの行動によって、我々は彼の本当の姿はこうだったのか!と、これまたショッキングな方法で見せつけられる。だが、ラストのラストで彼が取る行動、そして見せる表情には『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』のように自分から逃げようとしているかのようである。だが、彼が逃げようとしている自分とは誰か?善良な優等生ルースなのか、それとも狡知に長けた怪物なのか。その解釈は観る者に委ねられているのだろう。

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ネガティブ・サイド

D-runnerの正体が明かされない。かなり高い確率でデショーンなのだろうと思われるが、もう少しD-runnerがいったい誰なのかを示唆してくれる描写が欲しかったところ。この文字面だけでは drug-runnerに思えてしまい、かなり剣呑である。そういう効果を狙ってのことだろうが。

 

ステファニー・キムというキャラクターは素晴らしかったし、演じた役者も見事の一語に尽きる。だが、彼女にこそルース並みの演出を求めるべきではなかったか。本作は視点によって、また対立軸のこちらかあちらかで善と悪がころころと入れ替わる。そのことにキャラクターだけではなく観る側も振り回される。だが、ステファニー・キムのようなキャラクターこそ、劇中登場人物は振り回されるが、観ている我々は「ははーん、こいつは本当はこうだな」と思わせる、あるいはその逆で、登場人物たちは一切振り回されないが、観ているこちらはステファニーの本性、立ち位置について考えが千々に乱れてまとめようにもまとめられない、そんな工夫や演出があってしかるべきだったと思う。

 

本作は珍しく校長が無能である。いや、『 ワンダー 君は太陽 』や『 ミーン・ガールズ 』でも分かるように、アメリカの校長というのは有能、または威厳の持ち主でないと務まらない。なぜこの人物がこの学校で校長をやっているのか、そこが腑に落ちなかった。

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総評

秀逸なサスペンスである。現代アメリカ社会の問題がこの一本に凝縮されている。こうした作品を鑑賞することは、現代日本人にとって決して無駄なことではない。日本の小学校では両親の片方が日本人、もう片方がフィリピン人、ブラジル人、イラン人という生徒が増加傾向にある。そのこと自体の是々非々は問わない。しかし確実に言えることは、いずれそうしたinterracialな出自の子たちの中から超優等生が生まれてくる、ということである。日本の学校、そして社会・国家はそうした子をどう受容するのか。本作は一種の教材であり、未来のシミュレーションでもある。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

keep ~ in the loop

常に~を情報共有の輪に入れておく、のような意味である。作中では母エイミーが息子ルースに「私たち、最近keep each other in the loopができてなかったでしょ」と言っていた。日常生活で使っても良いが、どちらかというとビジネスの場で使うことが多いように思う。単にin the loopという形でも使われることが多い。実際にJovianの職場でもイングランド人が“Why am I not in the loop?”と立腹する事案が先日発生した。同僚や家族、友人とはkeep each other in the loopを心がけようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オクタビア・スペンサー, ケルビン・ハリソン・Jr., サスペンス, ナオミ・ワッツ, 監督:ジュリアス・オナー, 配給会社:キノフィルムズ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ルース・エドガー 』 -多面的な上質サスペンス-

『 デッド・ドント・ダイ 』 -Old habits die hard.-

Posted on 2020年6月9日2021年1月21日 by cool-jupiter

デッド・ドント・ダイ 60点
2020年6月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ビル・マーレイ アダム・ドライバー セレーナ・ゴメス
監督:ジム・ジャームッシュ

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監督がジャームッシュでメインキャストにアダム・ドライバーがいる。それだけで劇場鑑賞する理由としては十分である。傑作『 パターソン 』のクオリティは期待してはいけない。それでも、なんらかのゾンビ映画の新味を期待するのは罪ではないだろう。

 

あらすじ

地球の極でアメリカ政府は水圧破砕工事を行った。その結果、地球の自転軸に狂いが生じ、日照時間が異様に長くなり、あるいは夜が明けなくなってしまった。そして月は邪悪な波動を放つようになった。その結果、死者がゾンビとして蘇るようになった。田舎町センターヴィル警察署所長ロバートソン(ビル・マーレイ)とピーターソン巡査(アダム・ドライバー)たちは、町を救うことができるのか・・・

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ポジティブ・サイド

ゾンビの発生を天文学的なスケールで説明しようとしたのは珍しい。あったとしても隕石と共に未知の病原体がやってきて・・・というような『 ブロブ/宇宙からの不明物体 』や『 遊星からの物体X 』(ナード男の店にわざとらしく飾られているところにニヤリ)的なものではない。地球の自転軸が狂ってしまうという、ある意味で『 ザ・コア 』的なもの。これによって不自然に昼が長くなり、また夜が明けなくなり、そして逢魔が時がずっと続いてしまうという不思議な世界観が成立した。このアイデアはなかなか面白い。同時に時計が止まったり、スマホの充電がいきなり切れたりと、不吉な予感を煽るのも上手い。

 

あちこちに先行ゾンビ映画へのオマージュがある。『 ゾンビーノ 』でも“Old habits die hard.”=昔からの癖はなかなか改まらない、と言われていたように、本作のゾンビは生前に好きだったものにどうしようもなく惹かれてしまう。その対象はコーヒーであったり、ファッションであったり、片思いの相手だったりと様々だ。これも『 ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 』へのオマージュだろう。スモンビなる言葉が生まれて久しい。日本ではそれほど人口に膾炙していないが、歩きスマホが大問題になっている国々では結構使われているようだ。ゾンビが生者だった頃の属性を継承するのがこれまでのゾンビ映画の文法だったが、本作は生者にゾンビそのものを投影している。生きていても死んでいても変わらないではないか、と。深く考えることなく、目の前の自分の好物だけに集中する。それはおそらく現代人に最も目立つ特徴だろう。ジャームッシュ流の批判である。

 

パトカーで町を見回るビル・マーレイとアダム・ドライバーのコンビの掛け合いが面白い。天変地異のただ中にありながら、どこか日常を思わせる。そのアンバランスさが本作をドラマとコメディのどちらかに偏り過ぎないようにしている。ゲームの『 バイオハザード 』のごとき世界がアベニューに現出するなか、パトカーで町を見回る3人組の掛け合いも楽しい。一人は恐怖に駆られ、一人は勇気と不安のはざまで揺れ動き、一人は物語の結末を確信している。そう、この物語では特定の人間は地球に不要であると判断されているようなのだ。ジャームッシュの意図は別にあるのだろうが、COVID-19によって浮かび上がってきた「ソーシャル・ディスタンス」なる概念、そして中国の空が晴れ渡ったり、インドのガンジス川の水が澄んだりと、人間がコロナ禍と呼んでいる現象が地球にとってはどうなのかというパラダイム・シフトが起きつつある。そうした現実を背景に本作を観た時、監督の意図とは異なるメッセージを観る側は受け取ることだろう。本作では森に暮らす世捨て人のボブが小説『 白鯨 』を拾うこと。そして、COVID-19の死者が欧米で異様に多く、アジアで異様に少ないこと。この二つをくっつけて考えてみよう。そうすれば、本作はコメディではなく、ブラック・コメディへと鮮やかに変身する。

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ネガティブ・サイド

ティルダ・スウィントン演じるゼルダというキャラクターは不要だと感じた。もしくは、もっとキャラを改変するか、あるいはダイレクトに『 キル・ビル 』のユマ・サーマンを模してしまえば良かったのではないか。名前がゼルダで見た目がエルフ、それが長剣を振るうとなると、どうしたってゲーム『 ゼルダの伝説 』のリンクを想起せざるを得ない。オマージュをささげるなら、ゲームのキャラではなく映画のキャラにしてほしい。

 

そのスウィントン演じるゼルダの裏設定にも( ゚Д゚)ハァ?である。これではまるで『 アンダー・ザ・スキン 種の捕食 』のパクリに近い。というか、これではオマージュとは呼べないだろう。さらに『 未知との遭遇 』もそこに混じる(要素は反対だが、造形がそっくり)となると、これも萎えてしまう。どうせスター・ウォーズネタを込めているのだから、アダム・ドライバーに持たせる刃物もダンビラではなくライトセイバー・・・ではなく竹刀のような形の剣にすればよかったのにと思う。映画に込めるメッセージばかりに神経が行ってしまい、小道具や美術がおろそかになってしまっていたか。

 

セレーナ・ゴメスの扱い方が雑というか、妙なキラキラマークは要らない。カメラワークや演出で見せてこそだろう。『 スプリング・ブレイカーズ 』のように、セレーナ・ゴメス(やその他のキャスト)をカメラワークと照明、衣装、メイクで充分に輝かせることが出来たはずだ。これだけキャスティングにカネを使っているのだから、裏方にカネを回せない、もしくは手間暇かけてディレクションできないというのは本末転倒ではないか。

 

総評

映画館がついに本格始動をし始めた。しかし、どこも座席間を開けている。おかげでJovianも嫁さんと離れ離れで鑑賞している。だが、そうした時こそ思弁的なメッセージを含む映画をじっくりと鑑賞するチャンスとは言えまいか。その意味では、本作は徐々にwithコロナに移行しつつあり、なおかつ第二波の襲来に備えつつある今こそ、じっくりと鑑賞すべき価値を持っていると言える。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Oh boy

「少年よ!」という意味ではない。もちろん文脈によってはそういう意味を帯びるだろうが、これは「あれまあ」や「おやおや」や「うわー」や「ひえー」のような意味もある。つまりは感嘆詞である。Boy単独で使うことも多いが、その場合は、I played tennis yesterday. Boy, am I sore today. = 機能テニスをしたんですが、いやはや今日は筋肉痛ですよ、という具合に倒置が起こる。自分で使いこなせる必要はないが、聞いた時に分かるようにしておくと吉。“Oh boy”という感嘆詞は、セサミストリートのエルモがしょっちゅう口にしている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, スウェーデン, セレーナ・ゴメス, ビル・マーレイ, ブラック・コメディ, 監督:ジム・ジャームッシュ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 デッド・ドント・ダイ 』 -Old habits die hard.-

『 ハリエット 』 -英傑を神格化しすぎたか-

Posted on 2020年6月7日2021年1月21日 by cool-jupiter

ハリエット 65点
2020年6月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シンシア・エリヴォ ジャネール・モネイ
監督:ケイシー・レモンズ

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これまでにも『 グリーンブック 』や『 アメリア 永遠の翼 』、『 2019年総括と2020年展望 』など、当ブログでもハリエット・タブマンについては何度か触れてきた。その映画がついに公開である。極端な話、Jovianはコロナ禍の今年はこれと『 ゴジラVSコング 』だけで良いとすら思っていたほどである。Don’t get your hopes up …

 

あらすじ

アラミンタ・ロス(シンシア・エリヴォ)は、メリーランド州で奴隷として過酷な労働に従事させられていた。ある時、さらに過酷な南部へ売り出されることになったミンティはブローダス家から逃げ出し、自由のある北部を目指す。無事に逃げ切ったミンティは、名をハリエットに変え、南部奴隷の解放に尽力するようになり・・・

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ポジティブ・サイド

Jovianは英会話講師(現在はトレイナー業務がメインになっている)で、特にTOEFL iBTを担当することが多かった。なのでアメリカ近現代史はそれなりに勉強せざるを得なかったし、その中で最も多く名前が出てくる人物というのはユリシーズ・グラント、ジョージ・ワシントン、ハリエット・タブマン、ジョン・ミューアあたりだろうか。トレイラーでシンシア・エリヴォを見た時、キャスティングの正しさを直感した。そして実際に本編を観て、キャスティングの正しさを確認できた。シンシア・エリヴォは、演技力だけではなく歌唱力と存在感でハリエット・タブマンという立志伝中の英傑をスクリーン上に現出せしめた。特に印象的だったのは「決めつけないで!」と一喝するシーン。女性だとか黒人だとかの前に、人間としての尊厳を問う、非常に鋭い演出だったと感じた。

 

公開のタイミングが良いのか悪いのか分からないが、警察官によるジョージ・フロイド氏の殺害事件、それに対する抗議(暴動は除く。あの大多数はよその土地から来た火事場泥棒であることが判明している)が静かな内戦状態(英語ではThe Civil War = 内戦 ≒ 南北戦争)になっているところを見れば、黒人差別問題の根深さがどこまで遡れるかが分かるだろう。そうした奴隷たちが歌うバラードが一種の暗号として働くところは、史実を知る者としてニヤリとさせられた。同時に、作業の手を止めると容赦なく暴力を振るわれる労働環境にも慄然とさせられた。自分がテキストや問題集、ネット上のpassageで知っていたハリエット・タブマンとその時代が、情報ではなく、現実として迫ってきたからだ。

 

ハリエットの女モーゼとしての活躍は目覚ましい。Jovianの知識では彼女は北部のフィラデルフィアに脱出後に19回南部へ旅立ち、合計で200~300人(一説には800人とも)の脱出を助けたとも言われているが、本作は70人という数字を呈示した。それもリアリスティックな数字だろう。徒歩で、集団で、馬と犬と銃で追ってくる相手から数日~数十日を逃げ切るというのがどれほど大変なことか。そうした逃走劇の難しさも本作は描いている。

 

当然ながら、歌や音楽も素晴らしい。特にTheme Songである“Stand up”は、『 キャッツ 』の主題歌“Beautiful Ghosts”に勝るとも劣らない哀切さと希望への確信をもって歌われているし、サム・クックの“A change is gonna come”とボブ・マーレーの“Redemption Song”のように聞く者にインスピレーションを与えてくれもする。これもまたシンシア・エリヴォの起用が正解たる理由である。

 

それにしても日本の映画レビューサイトや評論家は、ハリエット・タブマンを指して「紙幣に載るのは黒人女性として初」のような御幣のある表現、あるいは自分自身が誤解している、もしくは勉強不足であることを露呈してしまうかのような書き方をするのだろうか。ハリエット・タブマンは黒人女性として初なのではなく、女性として初であり、もっと言えばアメリカ紙幣にこれまで顔が載ったのはすべて大統領である。ゆえにハリエット・タブマンを正確に評するなら、「大統領以外でアメリカ紙幣に載った人物」となる。そして2020年現在、アメリカ史に女性大統領は存在していないし、今年2020年に女性候補者が立つ見込みもない。

 

ネガティブ・サイド

ハリエットが散発的な失神症状に悩まされていたのはよく知られている。だが、意識を喪失している間に神と交信していた、というのは初めて聞いた。おそらくケイシー・レモンズ監督の独自解釈なのだろうが、ハリエットの妙な神格化はやめてほしかった。『 ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男 』にもあったように、沼地の渡れるポイントを知るごく一部の人間、のような描かれ方の方が好ましかった。劇中でも川を渡っていたが、実際にハリエットが追っ手を振り切るのに使った地形は沼が最も多かったとされている(Jovianが文献などで知る限りでは)。その卓越した自然の観察力と洞察力、人間の五感と運動能力をフルに駆使して追走者から毎回見事に逃げおおせる、という描写はできなかったのだろうか。

 

ジョー・アルウィン演じる領主の描写にも不満である。これではまるで『 ジャンゴ 繋がれざる者 』のディカプリオではないか。もちろん、当時の白人地主がああいう格好であったことは承知している。それでも、これではあまりにもstereotypicalであるし、ハリエットの追走者として役不足である。

 

ハリエット・タブマンと言えば「地下鉄道」、「地下鉄道」と言えばハリエット・タブマンのはずだが、肝心かなめのこの人的ネットワークがほとんど描写されなかった。地下鉄道のユニークなところは黒人と白人、両方で構成されているところで、なおかつそのネットワークの全容を知る人間がほとんどいなかった、と考えられているところである。実際に劇中でも、逃走奴隷をかくまったとしてハリエットの父が追われることになるが、組織の全容を知る人間が増えるとそれだけ危険が増す。誰か一人でも捕まって拷問されてしまったら組織として一巻の終わりだからである。そうした人的ネットワークの広大さと緻密さ、その大きさを全て知っている組織人かつ一匹狼のハリエットという人間像が打ち出されなかったのは個人的には少しがっかりであった。

 

総評

普通に面白い作品、標準以上のレベルに仕上がった伝記映画のはずだが、観る側が期待に胸を高鳴らせすぎたようである。ただし、これはハリエット・タブマンをそれなりによく知っている人間の感想である。実際にJovianの嫁さんはかなり感動したらしく、本作を絶賛していた。現実の世界と本作を重ね合わせて見ることで、様々なものが浮かび上がって来るという意味では、単なるエンタメ的な伝記以上の価値があるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

emancipation

「自由」、「解放」といった意味である。劇中ではfreedomやliberationといった語が使われていたと記憶しているが、emancipationはなかった。だが、アメリカの奴隷解放には、このemancipationが使われている。Freedom, liberation/liberty, emancipationの使い分けが適宜にできるようになれば、英検1級レベルの手前ぐらいだと判断できる。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, C Rank, アメリカ, ジャネール・モネイ, シンシア・エリヴォ, 伝記, 歴史, 監督:ケイシー・レモンズ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ハリエット 』 -英傑を神格化しすぎたか-

『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』 -POVの火付け役-

Posted on 2020年6月1日 by cool-jupiter

ブレア・ウィッチ・プロジェクト 60点
2020年5月31日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ヘザー・ドナヒュー マイケル・C・ウィリアムズ ジョシュア・レナード
監督:ダニエル・マイリック エドゥアルド・サンチェス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200601232726j:plain
 

ウィルスやゾンビ以外にメジャーな超自然的存在(supernatural beings)といえば、やはり魔女だろう。『 ウィッチ 』のような傑作も生まれている。だが、本作の価値はPOVをメジャーなものにしたことだろう。

 

あらすじ

ヘザー(ヘザー・ドナヒュー)、マイク(マイケル・C・ウィリアムズ)、ジョシュ(ジョシュア・レナード)の3人は大学の課題としてドキュメンタリーを撮ることにした。そして、ブレアの魔女、ブレア・ウィッチについての映画を撮ろうと地元の人間にインタビューをする。そして3人は魔女のいるとされる森に踏み入って行くが・・・

 

ポジティブ・サイド

これは確か大学生の頃に同じ寮に住んでいた先輩が近所に出来たばかりのTSUTAYAで借りてきたんだった。そう、5~6人で一緒に観たと記憶している。確かアメリカ人OYR(One Year Regular=1年だけの留学生)が前年にアメリカで異例のヒットをしたとか何か言っていたんだったか。2000年か2001年のことでまさにインターネットの黎明期と発展期の間だった。国際基督教大学生だった自分たちは普通に英語のサイトにもアクセスしていて、まさにThe Blair Witch Projectのホームページを見て、「え?ヘザー・ドナヒューって本当に行方不明なの?」とか、「なるほど、アメリカでは子どもから若年層で行方不明者が出ると、牛乳パックに尋ね人情報が貼られるのか」と社会勉強になった覚えがある。

 

はっきり言って、オチを知っている状態で観ると本作は面白くも何ともない。ただし、まっさらな状態で鑑賞した当時は、今にもジャンプ・スケアがあるのではないかとビクビクしながら観ていたのを覚えている。鬱蒼とした森には何かがある。そうした予感を抱かせる描写は『 ウィッチ 』にしっかりと受け継がれている。

 

また、『 イット・カムズ・アット・ナイト 』(拍子抜け作品だったが、COVID-19が猖獗を極めていたタイミングで鑑賞すると、また違った感想になっただろうか)と同じく、邪悪な超自然的な要素が忍び寄ってきたとき、最も恐るべきは他者となる。人間同士が最も怖い。そうした、ある意味で人間存在に普遍的な弱さや醜さ、邪さをしっかりと捉えているとこもポイントが高い。

 

廃屋のシーンは鳥肌ものである。Jovianは初回に観て、さっぱり意味が分からなかった。一緒に観た先輩や同級生の面々も同じだったようだ。先輩がTSUTAYAに返しに行く前に、もう一度観たいと言って、その場でsecond viewingをしたと記憶している。そして、冒頭の街の人たちのインタビューを聞いて凍り付いた。まさに身も凍る思いがした。すべてはクライマックスのある瞬間のための演出だったわけである。

 

POVのホラーという新生面を開拓した本作であるが、おそらく現代の映画ファンの鑑賞には耐えないだろう。だがそれは、一昔前の野球選手を見て、「現代に比べると大したことねーな」という感想を抱くのと同じである。すべては積み重ねられており、それが進歩につながっているのである。

 

ネガティブ・サイド

81分と短い作品だが、こうした作品こそ70分ちょうどに短縮できないだろうか。Jovianは映画の長さとして2時間弱を推奨する者だが、このような一発勝負のモキュメンタリーは、伏線を回収する際の鮮やかさが肝になる。観客の記憶にいろいろなものがしっかりと残っているうちに勝負のタイミングを持ってきてもよかったのではないか。

 

不満のもう一つは、ヘザー以外の男性二人のキャラが立っていないこと。ベタだが、マッチョ系とインテリ系にしてしまっても良かったのではないか。「動物でも幽霊でもぶちのめしてやるぜ」みたいな脳筋男と、不可解な現象でも無理やり科学的に説明してしまうような頭でっかちのコンビが対立していく過程の方が、よりサスペンスが生まれたはずだ。

 

これを指摘しては元も子もないが、1990年代後半にあれだけ長時間撮影できるようなハンディカムは存在しなかったし、大容量バッテリーの登場もまだだった。ヘザーがあらゆるものを撮影・録画したがるのは迫真性があったが、現実的ではなかった。

 

総評

古典と言うにはまだまだ新しいが、それでも本作は一種の古典である。POVやファウンド・フッテージものの先駆的作品で、映画(に限らずエンタメ・フィクション作品)において最も大切なのはアイデアであることを世界に知らしめた功績は大きい。そういえば当時は寮のみんなでホラー映画を観るのが何故か流行っていた。『 リング 』や『 催眠 』、『 オーディション 』など。ファウンド・フッテージではなくファウンド・テープものだと中井 拓志の小説『 レフトハンド 』もイージー・リーディングの傑作だった。映画館もfully operationalにはまだ遠い。自分の青春時代である90年代後半の作品も、もう少し頻繁に渉猟してみようか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pleasantly surprised

「嬉しい驚き」の意味である。これもよくあるコロケーション(共に使われることが多い語の組み合わせ)である。I was pleasantly surprised to hear that the Oscar went to Parasite. のように使う。

 

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