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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アニメ

『 風立ちぬ 』 -今だからこそ見るべき矛盾に満ちた物語-

Posted on 2019年7月22日 by cool-jupiter

風立ちぬ 85点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:庵野秀明 瀧本美織
監督:宮崎駿

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190722131402j:plain

2019年7月19日の夜にこのレビューのdraftを書いている。つまり、参議院選挙の2日前である。戦後レジームからの脱却を声高に唱え続ける与党であるが、それこそが戦前の空気の醸成であることに気がつかないのか。それとも気付いていて、意図的にそうした空気を作り出しているのか。官憲に公文書を改竄させ、さらには自身の選挙演説を野次る一般市民を官憲の力で強制排除する。これは現実の出来事なのだろうか。『 君の名は。 』は夢と現が混ざり合う不思議な物語であったが、夢と夢がシンクロしてつながるというアイデアは本作の方が先に採用していた。あらためて見返してみて、100年近く前の日本と現代の日本に驚くほど共通点があることにショックを受ける。

 

あらすじ

堀越二郎(庵野秀明)は小さな頃から、空への憧れを抱いていた。長ずるに及んで、彼は技術者となった。そして飛行機の設計技師として頭角を現していく。そして運命の相手、菜穂子(瀧本美織)と結婚する。だが、日本には戦争の影が、菜穂子には結核という病魔が迫っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

映画とは芸術の一形態である。芸術には、メッセージが込められている。そうしたメッセージというのは、作家個人が発するものであったり、または時代や社会と切り結ぶことで生まれてくるものであったりする。後者のメッセージを発し続けるものとして、『 ゴジラ 』が挙げられる。本作は、宮崎駿本人の作家性と、堀越二郎という人物の生きた時代背景と現代に通じるテーマ、その両方を追求している。軽快に飛ぶ航空機を作り出すという純粋な夢、それが獰猛な兵器に転化してしまうという恐れ。国民が貧困にあえぐ中、多大なカネを費やして飛行機の設計と製作に携わっていく。部品一つの値段で、何人の子どもたちの食費がどれだけの期間賄えてしまうのか。矛盾である。大いなる矛盾である。よく知られていることであるが、宮崎駿は兵器オタクにして反戦論者である。これも矛盾である。中高老年のオッサンが、好んで少女を主人公にした映画を作る。これも矛盾である。アニメキャラの声の担当に声優ではなく俳優や、場合によっては素人も使う。これも矛盾である。本作は、人間の抱える矛盾に大きくフォーカスした作品であると言える。人間は美しい部分だけで成り立っているわけではない。主人公の二郎の生き様は決して褒められたものではないところもある。病床の菜穂子を気遣いながらも、プロジェクトXさながらに家庭を顧みず、仕事に打ち込む。そうした二郎の姿勢についての不満は妹の加代が、視聴者の心情のかなりの部分を代弁してくれる。そして、カストルプさんが指摘する「チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する。ドイツも破裂する」という、日本の忘却能力、反省の無さは、間接的な現代社会批判だろう。同時に二郎の言う「この国はどうしてこう貧しいんだろう」という言葉も同じである。本庄の言う「恐るべき後進性」もそうだ。宮崎は現代日本を鋭く抉っている。しかし、『 シン・ゴジラ 』における矢口の演説と同じく「我が国の最大の力は現場にある」ということを、二郎や本庄その他のエンジニアたちの自主的な研究会を通じて描き出す。日本という国の弱点と美点、つまりは矛盾をここでも浮き彫りにしている。

 

ことほど左様に矛盾に満ちた物語であるのだが、それは取りも直さず我々の生きることそのものが矛盾に満ちているからに他ならない。死ぬと分かっていながら生きるしかない。別離が来ると分かっていても結ばれるしかない。そうした矛盾を飲み込んで、それでも生きるしかない。菜穂子が最後に語る言葉がそのまま宮崎駿が我々に送るメッセージであろう。“The show must go on”ならぬ“We must live on”である。

 

夢と夢がシンクロするということに類似のアイデアは『 君の名は。 』にも使われたが、本作の二郎とカプローニの会話は、ある意味で究極の自己内対話である。幼少のころから辞書を片手に洋書に親しんできた二郎は、カプローニに私淑していた。単に書を読むだけではなく、夢の中でシンクロしてしまうほどに読み込んでいたわけだ。これはまさにちくま新書『 私塾のすすめ 』の140-141ページにおいて斎藤孝と梅田望夫が語る「自己内対話」に他ならない。であるならば、最後の最後の夢で、二郎が菜穂子と言葉を交わすシーンで、様々なものが逆転する。我々は二郎をselfishなworkaholicであって、彼が菜穂子を愛している度合いを疑問視させられてしまう。しかし、菜穂子も二郎と同じ夢を見ていたのだ。会えない二郎、離れていくことしかできなかった二郎と菜穂子は、奥深い部分でつながっていたのだ。これは見事な脚本にして演出である。

 

ネガティブ・サイド

二郎の卓越したセンスというものが、もう一つ伝わりにくい。魚の骨の曲線に美しさを見出すエピソード以外にも、紙飛行機を作る所作や紙の折り方にこだわる様子などを映してほしかった。

 

個人的に思うことだが、二郎と菜穂子の閨房のシーンは必要だったか。もちろん直接に描写されたわけではないが、もっと間接的に、匂わせるだけの描写の方が、このカップルには相応しいのではなかったか。玄関先でのキスシーンも同様で、アップではなく、もっと引いたところからのショットの方が、逆にロマンチックに、もっと言えばエロティックにすらなったのではないだろうか。人間は見えているものよりも、よく見えないものの方により想像力を働かせるからである。

 

総評

これは傑作である。次代を超えた普遍的なメッセージを送っているとともに、現代日本の「今」という瞬間を極めて健全に批判している。苦しくとも生きる。辛くとも生きる。愛する者のために生き、愛する者を残しても生きる。見終わって爽快感などは得られない。しかし、心底から苦しいと感じた時に、自分はこの作品に帰ってくるかもしれないと感じた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, アニメ, ラブロマンス, 庵野秀明, 日本, 瀧本美織, 監督:宮崎駿, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 風立ちぬ 』 -今だからこそ見るべき矛盾に満ちた物語-

『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

Posted on 2019年7月21日 by cool-jupiter

君の名は。 65点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:神木隆之介 上白石萌音 長澤まさみ
監督:新海誠

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190720235533j:plain

これはStar-crossed loversの物語である。Starには星や、スター誕生のスターなど色々な意味を持っているが、「運命」という意味もある。そうしたことは『 グレイテスト・ショーマン 』でのゼンデイヤとザック・エフロンのデュエットが『 リライト・ザ・スターズ 』(Rewrite The Stars)『 きっと、星のせいじゃない 』の原題が“The Fault In Our Stars”(英語学習者で意欲のある人は、何故fault in our starsであって、fault with our starsなのか調べてみよう)であったりと、星は運命を司るものの象徴だった。そのことを真正面から描いた作品には希少価値が認められる。確か封切の週の日曜日の夕方に東宝シネマズなんばで鑑賞した記憶がある。あまりの観客の多さに、上映時間が20分ぐらいずれたと記憶している。『 天気の子 』の予習的な意味で再鑑賞してみる。

 

あらすじ

地方の田舎町に暮らす宮水三葉(上白石萌音)と東京に暮らす立花瀧(神木隆之介)は、互いの身体が入れ替わるという不思議な夢を見る。しかし、それは夢ではなく、二人は本当に入れ替わっていた。決して出会うことのない二人は互いへの理解を深めていく。その時、1200年に一度の彗星が迫って来ており・・・

 

ポジティブ・サイド

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

グラフィックは美麗の一語に尽きる。特に森の木々や空の雲、水面が映す光など、オーガニックなものほど、その美しさが際立っている。映画とテレビ番組の最大の違いは、映像美、そのクオリティにある。大画面に生える色彩というのはインド映画で顕著であるが、アニメーションの世界でも、いやアニメーションの世界だからこそfantasticalな色使いを実現することができるのだ。そのポテンシャルを存分に追求してくれたことをまずは讃えたい。

 

ストーリーも悪くない。星を身近に感じない文化はおそらく存在しない。要は、星をどのようなものとして捉えるか。その姿勢が、観る者の心を掴むことにもつながる。劇中でも言及されるシューメーカー・レヴィ第9彗星、それに百武彗星、ヘールボップ彗星などは一定以上の年齢の人間には懐かしく思い出されるだろう。また、こうした彗星を懐かしく思える人というのは、小惑星トータチスや、さらにはノストラダムス絡みの終末論などをリアルタイムで“楽しんだ”世代の人間だろう。新海誠氏はJovianのちょっと年上であるが、For our generation, stars are romanticized symbols. 星とは死と再生、破壊と創造の架け橋なのだ。そうしたモチーフとしてのティアマト彗星が、RADWIMPSの楽曲とよくフィットしている。七夕を現代的に大胆にアレンジすれば、このようなストーリーになってもおかしくない。

 

逢魔が時、黄昏時、誰彼時。確かに夏の日などには、ほんの数分、世界が紫の光に包まれる瞬間がある。生と死、陰と陽(これも分かりやすく町長の部屋にあった)、そうしたものが溶け合い混じり合う瞬間こそが、本作のハイライトである。それは夢現である。夢なのか、それとも現実なのか。『 となりのトトロ 』の「夢だけど夢じゃなかった」という、あの感覚である。そして、夢ほど忘れやすいものはない。たいていの人は、どうしても忘れられない強烈な夢の記憶が二つ三つはあるだろう。しかし、昨日見た夢さえ人は忘れてしまう。いや、悪夢にうなされて目覚めても、わずか数分でどんな夢だったかすら、我々は簡単に忘れてしまう。身体を入れ替える。それは、ある意味では究極の愛の実現である。アンドロギュヌスは男女に分裂してしまった。だからこそ、互いに欠けた状態を求め合う。それがエロスである。性欲や性愛ではなく、失われた半身を無意識のうちに探してしまう。それが瀧と三葉の関係である。そして、瀧は愛する三葉のために三葉になる。アガペーとも概念的に融合したキリスト教的な愛である。我々は愛する人が病気などで苦しんでいる時に、できることならその苦しみを自分が代わりに引き受けてやりたいと願う。しかし、それは神ならぬ身の自分にはできない。キリスト教の神は、人の罪を購うために一人子のイエスを遣わし、自ら死んだ。愛する人の代わりに死ぬ。それが究極の愛なのかもしれない。久しぶりに、ロマンチックな物語を観たと思う。

 

ネガティブ・サイド

普通に考えれば、瀧と三葉が入れ替わっている時に周囲の人間は異常事態に気付くはずである。「昨日はちょっと変だったぞ」では済まない。絶対に。ファイナルファンタジーⅧのジャンクションではなく、本当に中身が入れ替わっているのだから。例えばJovianの中身が、Jovianを非常によく知る人と入れ替わったとしても、Jovianの妻は一発で見破るであろう。夫婦の間でしか通じないパロールやジェスチャーがあるからだ。

 

また日本中の何十万人もの人が突っ込んだに違いないが、一応自分でも突っ込んでおくと、瀧の時間と三葉の時間にずれがあることは絶対にどこかで気付くはずだ。携帯電話でも、テレビでも、カレンダーの日付と曜日でも、新聞でも、なんでもよい。さらに、入れ替わる先の時間が異なっているというのは、ファイナルファンタジーⅧだけではなく、ゲームのPS2ゲーム『 Ever17 -the out of infinity – 』(厳密には入れ替わりではないが・・・)がネタとしては先行している。または同系列のPS2ゲーム『 12RIVEN -the Ψcliminal of integral- 』にも同じトリックが仕込まれていた。さらに遡れば『 市民ケーン 』も、一本道のストーリーと見せて、時間が大胆に飛ぶ構成になっていた。リアルタイムで展開されていると思われた二つの事象が時間線上の異なる点での出来事だったというのは、個人的にはこの上ないクリシェであった。

 

全体を通じて感じられるのは、RADWIMPSのためのミュージック・ビデオのような作りになっているということである。映像は美しく、キャラクター達もそれなりに魅力があり、ストーリーは陳腐ではあるが、美しくもある。しかし、そうした作品の長所や美点を支えているのが、音楽であるかのように感じられるのは何故なのだろうか。前世、運命、未来。そうしたバナールなお題目は、物語全体を以って語らしめるべきで、優れた楽曲に仮託するものではないだろう。本作のテーマは『 ボヘミアン・ラプソディ 』ではないのだから。

 

総評

悪い作品では決してない。むしろ優れている。ただ、新海誠監督の美意識というか様式美というか、『 秒速5センチメートル 』や本作などに見られるように、現実と非現実、此岸と彼岸、現世と幽世の境目、そこにある断絶の広がりを追い求めるのが氏のテーマである。今作はそれが若い世代の嗜好にマッチして爆発的なヒットになったことは記憶に新しい。しかし、もうそろそろ違うテーマを探し始めてもよいのではないだろうか。『 天気の子 』も同工異曲になるのだろうか。そこに一抹の不安を感じている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, ラブロマンス, 上白石萌音, 日本, 監督:新海誠, 神木隆之介, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

Posted on 2019年7月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

哲人王 李登輝対話篇 40点
2019年7月4日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:桃果 てらそままさき
監督:園田映人

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190707163454j:plain

人に勧められて鑑賞。元々少し興味があったので、劇場上映最終日に出陣。着眼点は悪くないと思うが、映画的演出の面、さらに歴史を見つめる視座・視覚にまだまだ改善の余地ありと言わざるを得ない。

 

あらすじ

女子大生の山口まりあ(桃果)は現代の世界の在り方に疑問を抱いていた。悪くなっていくだけの世界に絶望したまりあは湖への投身自殺を図る。しかし、その時、まりあの心に語りかけてくる声があった。それは台湾の元総統・李登輝の声だった。李登輝は言う。あなたの心を変えてみたい。だから私の話を聞いて欲しい。それまで、あなたの命は私に預けるように、と。かくして、李登輝とまりあの心の対話が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

台湾という、ある意味で誰もが余りはっきりと理解していない国に焦点を当てるというのは、着眼点として優れている。そして、地政学的に複雑な場所に位置する台湾が辿ってきた数奇な歴史は、日本が歩んでいたかもしれないifの歴史とシンクロする、あるいはオーバーラップするところも多いだろう。2014年のロシアのクリミア併合や今も続く北方領土問題、前世紀末から続く周辺諸国による南沙諸島の領有争い及び中国の実効支配化、更に尖閣諸島への進出など、現代においても領土的野心を捨てていない大国がすぐ近くに存在するという現実を念頭に置いた上で李登輝の話に耳を傾ければ、グローバリゼーションが着々と進行する中で、どのように「民族自決」にも重きを置いていくべきなのかが見えてくる。

 

歴史を過去の物語とせず、現代を把握する上での貴重な羅針盤や航海図として見るのならば、それは正しい歴史の見方であると思う。そのことがある程度達成されていることが本作の貢献であろう。

 

ネガティブ・サイド

大きくは二つある。まず、まりあというキャラクターがあらゆる意味で駄目駄目である。世界には飢えた子どもがいる、戦争、紛争が絶えない地域がある。自分たちはそれをニュースとして消費するだけである。こんな世界に誰がした?こんな世界に生きる価値は無い!だから死ぬことにする・・・って、アホかいな。ティック・クアン・ドックみたいに燃えるプラカードとして国会議事堂前で絶命するぐらいしてみろ、とまでは言わない。ただ希死念慮を抱く前に、「こんな世界に誰がした?」という問いかけに、自分で答えようとする意気込みぐらい持ちなさい。大学生だろう。色々勉強してみたが、現代史はあまりにも複雑に絡まり合っていて何が何だか分からない、自分はやっぱり無力だ・・・という流れも何もなしに、「死にます」では誰の共感も得られない。2分でいいから、まりあの勉強、および無力感を味わうシーンを挿入できなかったのか。ストーリーボードの時点でそもそもそんな構想は存在しなかったのか。またはポスプロの編集でカットされたのか。いずれにしても、まりあというキャラクターを立たせるのに失敗している。

 

二つには、歴史を単眼的に捉えている点である。複眼的ではないということである。では複眼的とは何か。これについては色々と分析できるが、Jovianが主に用いる思考法は以下である。すなわち、「事実」と「真実」の両方を考える、ということである。

 

まず李登輝総統が語る日本軍による台湾統治の物語は紛れもない真実であろう。しかし事実は、日本が軍事力によって台湾を支配したということである。台湾がそのことによって発展し、教育を授けられ、日本に恩義を感じたというのは真実である。しかし、日本は台湾及び台湾人のために開発援助を行ったのではない。台湾が日本の一部になったからそうしたのである。日本政府が日本の国土を適切に開発し、自国民に適切な教育を与えるのは理の当然である。事実はこうである。それを台湾の人たちがありがたく受け取ってくれたことが真実である。本作は真実の方にばかり焦点を当て、事実を顧みることに余りにも無頓着であるように映った。日本は教育熱心だったのは事実である。そのことは、例えば岡山県の閑谷学校の歴史を見ればよい。藩から独立した財源を確保することで、藩政に支障が出た時や財政難にあっても、教育活動が絶えることなく行われるような仕組みが江戸時代にはすでに存在していたのだ。閑谷学校の例があまりにもマイナーだと言うなら、寺子屋のことを考えるのも良いだろう。日本は大昔から自国民の教育に熱心だった。これは素晴らしい点である。日本の美徳と言ってよい。これは事実である。台湾の人が日本の教育をありがたく思った。これは真実である。台湾は当時、日本の一部だった。これは事実である。日本は自国民たる台湾の人々に教育を施した。これは事実である。事実は事実で、真実は事実に解釈を加えたもののことである。そして、解釈は自分で行うものである。まりあは余りにも無邪気に李登輝の語る真実を受け止め過ぎている。それがJovianの印象である。事実と真実を峻別できていない、すなわち批判的思考=Critical Thinkingができていない。それが、まりあというキャラクターの最大の欠点である。まるで小林よしのりの『 ゴーマニズム宣言 』に次々に洗脳されていった2000年前後の憐れな大学生たちを思い出した。『 主戦場 』には、日本の未来への眼差しがあった。本作は現実の肯定および受容で立ち止まってしまった。そこにある質的な差は大きい。

 

映像芸術としても粗が目立つ。実写とアニメーションの混合という点では『 真田十勇士 』という駄作が思い出される。本作のアニメーションは欠点とまでは言えない。しかし。余りにも数多く繰り出されてくるクリシェなショットには頭痛がしてきた。具体的には、まりあの振り返りである。廊下を歩くまりあがふと立ち止まり、振り返る。まりあの向こうにはまばゆい光が輝き、それがまりの輪郭をより強く際立たせ・・・って、これは美少女にフォーカスしたアホなラブコメなのか?まりあが自殺を図って、気を失って、目を覚ますところでも、なぜか服がピンクのワンピースに変化していたが、その時のまりあの寝姿がグラビアアイドルのそれだった。だから、そういう構図のショットはラブコメまたは純粋なロマンスもの、またはアイドルにのイメージビデオでやってくれ。園田監督のセンスを大いに疑う。

 

総評

本作を見て、「嗚呼、日本はやはり素晴らしかった」と思える人はあまりにも純粋無垢である。勘違いしないで頂きたいが、Jovianは別に日本の歴史の全てをネガティブに捉えているわけではない。ただし、歴史の一部だけを切り取って、それを現状の肯定の材料にするという思考方法に大いなる疑問を抱いているだけである。子曰く、「過ちて改めざる 是を過ちと謂う」。Jovianは第二次大戦について絶対に譲ることのできない日本の過ちとして、学徒動員を挙げる。兵隊が尽きたら降伏せよ。軍人ではない市民を戦争に駆り出すな。日本政府そして日本国民の大部分はそのことに無自覚である。外国人からの評価を以って、自身の評価につなげるべからず。自身の歴史を引き受けよ。その上で現状だけではなく未来に目を向けよ。しがないサラリーマン英会話講師の精いっぱいの叫びである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190707163945j:plain

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, てらそままさき, 日本, 桃果, 歴史, 監督:園田映人, 配給会社:レイシェルスタジオLeave a Comment on 『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

『 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 』 -オタクに媚びるのもほどほどに-

Posted on 2019年6月21日2020年4月11日 by cool-jupiter

青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 45点
2019年6月20日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:石川界人
監督:増井壮一

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一時期、Jovianは何かの弾みで舞城王太郎や清涼院流水、浦賀和宏を読み出して、ラノベ方面にも手を出していた。今は、葉山透の『 9S 』の11巻以降と範乃 秋晴の『 特異領域の特異点 』の3巻を待っているだけである。たまには頭をリフレッシュさせるかと、タイトルだけ見て本作のチケットを購入した。何とも評価に困る作品であった。

 

あらすじ

梓川咲太は、女優にして恋人の桜島麻衣との交際も順調で、学校やバイト先でも仲間に恵まれ、幸せに暮らしていた。、しかし、咲太の初恋の相手の牧之原翔子が現れたことで、咲太と麻衣の関係が少しギクシャクし始めた。なぜなら翔子は「中学生」と「大人」として、二人同時に存在しているため・・・

 

ポジティブ・サイド

ストーリーの軸がぶれなかったの良かった。各キャラに合わせて色々なサブプロットを展開させなかったのは正解である。開始早々、原作未読者を置いてけぼりにする作りになっていることは分かった。これは潔い。ならばこちらは登場人物たちの背景や関係を把握することに努めるのみである。幸か不幸か、どこまでも定番のキャラクターたちが揃っていて、人物の属性把握は極めて容易い。同学年の寡黙な理系メガネ女子や、バイト先の年下妹系キャラなど、これまでに100万回見たり読んだりしてきた紋切り型のキャラクター造形はむしろありがたい。型どおりのキャラクター達が、とあるキャラクターが抱える謎に迫っていくストーリーも100回は体験した気がする。だからこそ分かりやすい。

 

咲太というキャラが、どこまでも純粋なところも共感しやすい。男という生き物は、その実際の生態は別にして、自分自身を純であると認識する傾向がある。本作の狙う客層は95%は男であるだろうし、事実劇場の客はほぼ100%男性(一人客5割、グループ客5割であったように見えた)だった。このようにデモグラフィックをはっきりさせた映画は鑑賞しやすい。メインターゲットの人々にとっては、一昔前に流行ったイージー・リーディングならぬイージー・ウォッチングが可能となる。不覚にもJovianは咲太というキャラを少し応援してしまった。

 

ネガティブ・サイド

王道的なキャラクター、王道的な展開というのは、一歩間違えれば陳腐で凡庸となる。本作はそのあたりの境界線上をかなり慎重に綱渡り的に進んで行くが、相対性理論やら量子力学、超ひも理論、タイムトラベルを持ち出してきたあたりで、面白さが半減してしまった。確かにオタクは、本田透の分析に頼るまでもなく、最先端科学理論と格闘技が好きな生き物である。だからといって、意味のないガジェットにまで凝る必要はない。理系メガネ女子が読む「超ひも理論」の書籍に、ダジャレ以上の何の意味があるのか。タイトルからして『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 』へのオマージュになっているには分かるが、それならせめて最低限の科学的一貫性を維持してもらいたい。相対性理論でタイムトラベルを説明するのなら、量子力学を持ち出さないでほしい。この二つの理論の相性は残念ながらすこぶる悪い。オタク相手に媚びたいのかもしれないが、おそらく通常のオタクはもっと科学的に洗練された、あるいは哲学的に深みのある設定を好むのではないか。それとも、それはJovianの世代の感覚で、今の10代や20代は、それっぽい用語や小道具を随所にちりばめておけば満足するのだろうか。タイムトラベルものというのはどこまでも矛盾に満ちているものだが、本作は『 アベンジャーズ/エンドゲーム 』が採用した、時間=意識説を用いる一方で、歴史を分岐しうる時間線の如く扱っている。無茶苦茶である。支離滅裂である。途中のウサギは『 ドニー・ダーコ 』へのオマージュなのか。やたらと難解SFを模すれば良いというものではないだろう。少しは『 ペンギン・ハイウェイ 』を見習うべきだ。

 

また、入浴シーンやキャラのバストアップのシーンなど、必然性を感じないアングルのショットがところどころで挿入されるのは何なのか。ストーリーテリングの上で必然性があればよいが、とてもそのようには感じられなかった。サービスとエンターテインメントを履き違えていないか。

 

総評

それなりに楽しめるものの、作り手の過剰なサービス精神がマイナスに作用しているという印象を受けた。あくまで原作未読者の感想である。ただ、ラノベが元々は1950~1960年代のSF作品の劣化コピーの延長線上に生まれたものとの認識を持てば、それほど目くじらを立てるほどのものではないのかもしれない。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190621090440j:plain

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, 日本, 監督:増井壮一, 石川界人, 配給会社:アニプレックスLeave a Comment on 『 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 』 -オタクに媚びるのもほどほどに-

『 PERFECT BLUE 』 -様々なクリシェの原点となった作品-

Posted on 2019年5月26日2020年2月8日 by cool-jupiter

PERFECT BLUE 75点
2019年5月23日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:岩男潤子
監督:今敏

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恥ずかしながら、これまでこの作品のことは耳にしながら、観る機会を持っていなかった。『 プラダを着た悪魔 』と同じく、観ようと思いながら、何かが自分を押し留めていた。いつになったら自分は『 タイタニック 』を観るだろうか?そんなことも映画館から帰り道で考えてしまった。

 

あらすじ

アイドル活動をしていた霧越未麻(岩男潤子)は女優への転身を目指していた。あるテレビドラマでレイプされるシーンに体当たりで挑んだことで、女優としての評価を高め始めた。しかし、彼女の周りで奇妙な傷害事件や殺人事件までもが発生するようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

驚くほどにクリシェに満ちた作品である。しかし、それは現代的な視点で観たからこそ言えることで、逆に言えば本作はどれほど後発の作品にインスピレーションを与えたか、その影響の巨大さを窺い知ることができる。

 

飯田譲治の小説『 アナザヘヴン 』のナニカの移動や運動シーンは、ここから丸パクリしたのではないかというピョーンというステップ。

 

M・ナイト・シャマランの『 スプリット 』および『 ミスター・ガラス 』のジャケットデザインのヒントはここにあったのではないかというクライマックスのワンシーン。

 

プレイステーションのやるドラゲームの『 ダブルキャスト 』も、おそらく本作から多大な影響を受けている。そのことは、劇中作のタイトルが“ダブルバインド”であることからも明らかだろう。

 

本作サウンドトラックの肝とも言える楽曲“Virtual Mima”は、プレイステーションゲームの『 エースコンバット3 エレクトロスフィア 』のサウンドトラックの無機質かつオーガニックでメタリックなサウンドにも影響を及ぼしたのではないかとも思えてならなかった。AC3自体が、かなり時代を先取りしすぎていたゲームだったが、主人公の名前もNemoとMima、何か似ているように思えないだろうか。ちなみに塚口サンサン劇場は、本作開始前に延々と“Virtual Mima”を劇場内に流し続け、観客の精神に軽い不協和音を引き起こしていた。こうした工夫は歓迎すべきなのだろう。

 

本作は、霧越未麻という人物とミマというアイドルが虚実皮膜のあわいに溶け合い、そして別れていく物語である。自分が生きている世界が何であるのか。自分という存在が確かに実在することを、誰が、または何が担保してくれるのか。女優という虚構の生を紡ぎ出すことを生業とする未麻もまた、誰かに演じられたキャラクターではないのか。何がリアルで何がフェイクなのかが分からなくなる。そんな感覚を紙上で再現してやろうと、我が兄弟子の奥泉光は意気込んで『 プラトン学園 』を執筆したのだろうか。

 

劇中でたびたび繰り返される問い、「あなた、誰なの?」に対する回答が最後の最後で語られるが、それすらも噂話好きの看護師たちへの回答なのかもしれない。どこまでも入れ子構造、二重構造を貫くその作家性は嫌いではない。

 

とにかく『 PERFECT BLUE 』が1990年代後半の様々なメディアやコンテンツに巨大な有形無形の影響を与えたことは間違いない。同時期の『 攻殻機動隊 』や『 新世紀エヴァンゲリオン 』と並ぶ古典的・記念碑的作品であることは疑いようもない。

 

ネガティブ・サイド

事件の真相探しは極めて簡単である。Jovianは最初の10~12分で犯人は分かった。時代が全く違うし、本作はそもそもミステリーではなくサイコ・サスペンス、サイコ・スリラーであることから、殺人事件の犯人や真相を追うことに主眼を置いていない。にもかかわらず、観る側に怪しいと思って欲しいキャラクターをこれ見よがしに配置するのは、少々邪魔くさく感じた。

 

また、いくらインターネット黎明期の頃の話とはいえ、自分で作っていないサイトが存在していることを未麻はもっと不審に感じて然るべきである。ファックスや電話番号にしても同じで、1980年代くらいの本には、巻末に著者の住所や電話番号が普通に乗っていたりしたのものだが、90年代だと、どうだったのだろうか。

 

総評

リアリティの面でやや弱いかなと感じるところもあるが、これはサイコ・サスペンス、サイコ・スリラーの佳作にして、ジャパニメーションの一つの到達点である。アニメに抵抗が無い、グロ描写にも抵抗が無いという向きは、時間を見つけて是非鑑賞しよう。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190526012618j:plain

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 1990年代, B Rank, アニメ, サスペンス, スリラー, 岩男潤子, 日本, 監督:今敏Leave a Comment on 『 PERFECT BLUE 』 -様々なクリシェの原点となった作品-

『 バースデー・ワンダーランド 』 -各種ファンタジーのパッチワーク-

Posted on 2019年5月9日 by cool-jupiter

バースデー・ワンダーランド 40点
2019年5月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松岡茉優 杏 麻生久美子 市村正親
監督:原恵一

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松岡茉優に引かれたのではない。杏と麻生久美子と原恵一に惹かれたのである。あと、市村正親にも。彼が犬の役をしていた舞台『 青い鳥 』のテレビ放映バージョンは、しっかりとVHSで録画されているのである。

 

あらすじ

アカネ(松岡茉優)は学校で憂鬱な出来事があった翌日、仮病で学校を休んだ。母親のミドリ(麻生久美子)は優しく見守ってくれるが、翌日のアカネの誕生日プレゼントをアカネ自身で取りに行けと言う。しぶしぶ叔母のチィ(杏)の営むChii’s ちゅうとはんぱ屋へと向かう。そこでアカネは異世界の錬金術師ヒポクラテス(市村正親)と出会い・・・

 

ポジティブ・サイド

美麗な絵である。『 グリンチ(2018) 』のような暴力的な質感でもなく、スタジオジブリの作品のような一瞬の光と影に命を吹き込むようなハッとさせられるような絵でもない。真っ暗な映画館で大画面で観るには、これぐらいのクオリティがひょっとすると眼と脳に最も優しいのかもしれない。

 

杏の声はよかった。小学生5~6年生ぐらいのアカネに対して、大人の余裕を見せつけつつも子どもらしさを残していて、とても魅力的なキャラに映った。杏が美人だから、という先入観はここではな働いていない・・・はず。Jovianはいつも映画を好き嫌いではなく、メッセージ性で判断している・・・はず・・・

 

母親ミドリの声の演技もよかった。出番はほとんどないのだが、何と言っても麻生久美子なのである。麻生久美子ほど、本人の年齢と演じる役柄がマッチしている役者はなかなかいない。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』の若妻役から『 翔んで埼玉 』の母親役まで、見事にキャリアを磨いていっている。Jovianは第二の樹木希林は沢口靖子だと思っているが、第三の樹木希林は麻生久美子になるのではないかとも感じている。

 

市村正親も良い。立派な髭を蓄えたスーツの老紳士が○○になるところが良いのである。貫禄とコメディックさを兼ね備えた年のとり方をしたいと思う。

 

今から書くことは人によってはかなりセンシティブに捉えるかもしれない。しかし、日本は意見表明の自由が保証されているので、思ったままに書いてしまう。本作の裏テーマは日本のロイヤル・ファミリーなのだろうか。明仁天皇が退位され、新元号と共に新天皇が即位あそばされたが、天皇とは日本史においてほとんど常にお飾りであった。ほとんどは言い過ぎか。平安中期以降は天皇はお飾りであった。『 バイス 』の表現を借りるならば、a symbolic job ということである。王権とは元来、魔力、生産力、軍事力の体現者だったのだ。そのことは、三種の神器の八咫鏡=魔力、八尺瓊勾玉=生産力、草那藝之大刀=軍事力の象徴であることからも自明である。現代の日本国民が天皇および皇族に無意識のうちに願いとして投影するのは、生産力の象徴たることだろう。だからこその少子化というのは穿ち過ぎた見方であろうか。本作でも行方不明の王子が姿勢の人たちに期待されているのは、王子個人の存在の在り方ではなく、祭司的儀礼の執行者としての機能だけであることが示唆されている。それが故に王子は歪み、なおかつ異世界の住人=そんな価値観とは無縁の人からの理解を得て、立ち直る。まるでどこかの島国のロイヤル・ファミリーと国民の関係性を描いているようではないか。もしも本作の製作者がこのような意図を劇中に盛り込んだのであれば、その意気やよし。『 検察側の罪人 』も、インパール作戦を通じて政治風刺、政治批評を行った。メッセージは中身が問題なのであるが、作品になんらかのメッセージ性を持たせようとする試みは、その心意気の有無が問題である。原監督にはメッセージがあったようである。そこは評価する。

 

ネガティブ・サイド

松岡茉優は良い役者である。そこに異論を挟む人は少ないだろう。しかし、voice actressとしては、まだまだ勉強しなければならないことが山ほどある。まず、小学生を演じようとしているようには聞こえない。舌滑も決してよくない。菅田将暉も『 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 』ではイマイチだった。俳優と声優の間の垣根は低くなりつつあるが、それでもアニメ作品の主役級には本職を使って欲しいし、海外の実写作品でも同様に思う。

 

本作の問題は、対象を大人にしているのか子どもにしているのか分からないところである。多分、子ども向けなのだろうが、ところどころにチィのサービスショットが挿入されるのはどういうわけなのだ。

 

いや、そんなことは瑣末なことで、ストーリーとキャラクターと映像がつながっていないシーンに溢れているのが最大の欠点か。こちら側の世界には色が無い、とアカネは異世界で言うが、チィの店に自転車で向かうアカネの目に入る世界は十分にカラフルだ。また、そもそも学校を休むきっかけになった女子間の小さな抗争劇が、アカネのビルドゥングスロマンの背景として全く機能していない。冒頭のシーンはノイズとしてバッサリとカットしても良かった。

 

肝心のあちら側の世界も独創性を欠いている。今さら、魔法使いやら錬金術師はないだろう。底浅いオタク連中に媚び諂うのが、原恵一監督の意向なのか、それとも製作側の意向なのか。また世界観の面でも、おもいっきり陰陽五行思想を採用している。木火土金水をユニークな家や溶鉱炉、アメリカのナショナル・パークのThe Waveを丸パクリしたとしか思えない土地、見映えのしない錬金術、それに巨大錦鯉などで、それぞれカラフルに表現している。その映像美は認める。しかしオリジナリティの欠如が甚だしい。キャラクターにおいてもそうだ。猫が重要なモチーフになる作品は数限りなく存在するが、本作は漫画およびアニメ映画『 じゃりン子チエ 』にも、アニメ映画『 銀河鉄道の夜 』や『 グスコーブドリの伝記 』(世界裁判長へのオマージュのつもりだったのだろうか?)にも、山本弘の小説『 サイバーナイト―漂流・銀河中心星域〈上〉 』にも、全く及ばない。猫の魅力を再発見できないのであれば、猫キャラを使うべきではない。ここまで独創性を欠く作りになっていると、もはや犯罪的であるとすら言える。

 

ヨロイネズミはネーミングはともかく、造形は良かった。惜しむらくは、ザン・グの正体があまりにも簡単に推測できてしまうところである。これはザン・グが悠仁内親王をモデルにしたキャラクターだからだろうか。また、アカネがクライマックスで言い放つ「あなたなら出来るよ」という言葉は完全に逆効果だと思うのだが・・・

 

エンドクレジットで流れる歌まで“The Show”の日本語版替え歌である。『 マネーボール 』の挿入歌として効果的に用いられており、歌詞の意味も本作にマッチしている。だが、前出したようにオリジナリティの欠如が甚だしい本作のエンディングを飾るには相応しくなかった。それとも製作者側も、最後の最後まで何かの二番煎じで良いのだと開き直ったのだろうか。

 

総評

はっきり言って駄作である。映像美だけは認められるが、ストーリーも破綻しているし、キャラ同士の掛け合いも全くもって普通である。色んなガジェットを詰め込もう詰め込もうとし過ぎて、メッセージだけがグロテスクに浮き上がったきた。そんな印象を受けた。ただ、そのメッセージも受け取る人間と受け取らない/受け取れない人間に二分されていることだろう。原恵一監督には『 レディ・プレイヤー1 』や『 ヴァレリアン 千の惑星の救世主 』のような、純粋なエンタメ路線をもう一度追求してほしいと切に願う。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 市村正親, 日本, 杏, 松岡茉優, 監督:原恵一, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 麻生久美子Leave a Comment on 『 バースデー・ワンダーランド 』 -各種ファンタジーのパッチワーク-

『 GENJI FANTASY ネコが光源氏に恋をした 』 -着眼点は良かった-

Posted on 2019年5月6日 by cool-jupiter

GENJI FANTASY ネコが光源氏に恋をした 35点
2019年5月5日 宇治市源氏物語ミュージアムにて鑑賞
出演:前野智昭 M・A・O
監督:太田里香

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まったく何の予備知識も無く、たまたま立ち寄った京都の博物館にて鑑賞。おそらくこの作品をしっかりレビューしようという好事家は日本広しと言えどJovianくらいではなかろうか。

 

あらすじ

華が早蕨の道を歩いていると植物にヒカルゲンジの名が与えられていた。同級生の光二に光源氏の話題をふられるも、興味が示さない華。しかし、そこに光源氏が現れて華はタイムスリップ、そこでは猫の姿になっていて・・・

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ポジティブ・サイド

タイトルとは裏腹に、話の焦点は光源氏ではなく紫式部にある。つまり、キャラクターではなく、そのクリエイターの方にある。これは正解であろう。尼崎城VRシアターでも、近松門左衛門が主役兼ナレーターだった。何かを紹介したいと願うなら、キャラよりも作者をフィーチャーした方が良い。その方が間口が広がる。また世界を見渡しても、アメリカやインドなどで女性にフォーカスした作品が数多く生み出されるようになってきている。ここで言う女性とは、主体性を持った女性ということである。決して、男性にとって都合のよい女性像の体現者という意味ではない。そうした流れの中で、日本が世界に誇るべき女性作家・文学者として、紫式部に新しい光をあてたのは、太田里香監督の卓見だろう。

 

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ネガティブ・サイド

当たり前と言えば当たり前であるが、背景は全くと言っていいほど動かない。光や風の表現もない。アニメーションだからと言って、スタジオジブリのクオリティを絶対に期待してはいけない。

 

また声優の猫撫で声の演技もやや鼻につく。猫撫で声と猫の声というのは似て非なるものだということを知らねばならない。

 

ちょっとしたドッキリというかドンデン返し的なプロットもあるが、その見せ方もまるで男に媚びるようだ。光源氏に恋をするというのは、イケメンに惚れるということではないはずだ。1000年読み継がれてきた物語が、これから1000年先の未来にまで読み継がれるように自分でも読む、つまり歴史にコミットするということのはずだ。光源氏に恋をするというのは、光源氏というキャラクターを生かし続けたいということのはずだ。それこそが紫式部の想いのはずで、そのメッセージをダイレクトに受け取った次の瞬間の華の変節ぶりは、いったい何なのだ。こういう短編を作りたいのなら、ミュージアムではなくYouTubeでやってくれ。

 

総評

目の付けどころは良かったが、着地で盛大に失敗した作品である。泉下の紫式部も頭を抱えていることだろう。それでも『 千年の恋 ひかる源氏物語 』『 源氏物語 千年の謎 』や漫画『 源君物語 』など、現代においても源氏物語は古典であり、巨大なインスピレーションでもある。もしも京都府宇治市を訪れることがあれば、観てもよいかもしれない。20分程度の短編なのですぐに終わる。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, アニメ, 前野智昭, 日本, 監督:太田里香, 配給会社:宇治市源氏物語ミュージアムLeave a Comment on 『 GENJI FANTASY ネコが光源氏に恋をした 』 -着眼点は良かった-

『 思い出のマーニー 』 -少女が生きる一睡の夢-

Posted on 2019年3月21日2020年1月9日 by cool-jupiter

思い出のマーニー 75点
2019年3月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:高月彩良 有村架純
監督:米林宏昌

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原作は英国児童文学の“When Marnie was there”、本作の英語翻訳も同名タイトルでアメリカ公開された。スタジオジブリ製作の実質的な最終作品ということで、これを観てしまうと何かが終ってしまう気がしていた。しかし、いつまでも避け続けるわけにもいかず、DVDにて鑑賞と相成った。

あらすじ

喘息持ちで周囲と打ち解けられない杏奈は、転地療養のため田舎の海辺の村の親戚の元へ旅立つ。そこでも同世代とは友達になれない杏奈は、村はずれの古い屋敷で、マーニーと出会う。二人は徐々に打ち解け、無二の親友になっていくが・・・

ポジティブ・サイド

12歳という思春期の少女と世界の関わりを描くのは難しい。異性または同性への憧憬、肉体および心理や精神面の変化、社会的役割の変化と増大。別に少女に限らず、少年もこの時期に劇的な変化を経験する。ただ、ドラマチックさでは少女の方が題材にしやすい。本作は児童文学を原作するためか、主人公の杏奈(有村架純)と外的世界の関わり、および彼女の肉体的な変化についてはほとんど描写しない。その代わり、非常に暗い内面世界に差し込む一条の光、マーニー(高月彩良)との不思議な交流を主に描写していく。これは賢明な判断であった。

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』で鮮烈に描かれたように、外界との交わりを絶ってしまった少女の物語は誠に痛々しい。そこに蜘蛛の糸が垂らされれば、カンダタならずとも掴んでしまうであろう。そこで杏奈は、マーニーの幼馴染である男性の影に怯え、嫉妬し、慷慨し、悲しむ。ところがクライマックスでは。こうした杏奈のネガティブな感情の全てがポジティブなものへと転化してしまう。これは見事な仕掛けである。同じような構成を持つ作品として『 バーバラと心の巨人 』を挙げたい。少女の抱える心の闇を追究した作品としては、本作に負けず劣らずである。

杏奈とマーニーが秘めた心の内を明かし合うシーンは切々と、しかし力強く観る者の胸を打つ。自らの心の在り様をさらけ出すことは大人でも難しい。愛されていないのではないかと思い悩むのは、愛されたいという強烈な欲求の裏返しなのだ。マーニーとの一夏のアバンチュールを経て、確かに変わり始めた杏奈の姿に、ほんの少しの奇跡の余韻が漂う。我知らず涙が頬を伝った。

ネガティブ・サイド

少年少女が抱く後ろ向きな想いというのは、その瞬間にしか共有できない、あるいは同じような、似たような経験をした者にしか共有できないものではある。であるならば、杏奈の小母さんが伝えるべきは、銭勘定ではなく真っ直ぐな愛情であるべきだ。もちろん子育て綺麗ごとではなく、カネがかかってナンボの人生の一大事業である。であるならば、そのことに後ろめたさを感じる必要はない。子どもの生きる世界と大人の生きる世界は違う。しかし、愛情という一点は絶対的に共有できる価値観なのだ、というテーゼを提示しているのが本作ではないのか。ここが作品全体の通奏低音に対してノイズになっているように感じられてしまった。

また、マーニーが金髪碧眼であるのは遺伝的にどうなのだろうか。児童文学やアニメだからといって、現実世界のルールを捻じ曲げてよいわけではないだろう。まあ、たまに遺伝子のいたずらで、劣勢遺伝が発現することもあるようだが、ここがどうにも気になった。杏奈が転地療養先のとある同世代女子とどうしても打ち解けられない点として機能していた、見ることも出来ないわけではないが、釈然としない設定であった。

ジブリ作品全体を通して言えることだが、やはり俳優と声優は別物だ。北野武の『 アウトレイジ 』シリーズが分かりやすい。周り全てが役者で一人だけ素人が混じっていると、恐ろしく浮いてしまう。本作の声優陣はそこまで酷評はしないが、やはりかしこに小さな違和感を覚えてしまった。まあ、ジブリにそれを言っても詮無いことなのだが。

総評

良作である。ジブリ作品の最高峰というわけではないが、標準以上の面白さもメッセージ性も備えている。10代の少年少女向けというよりも、むしろ内向きな青春を過ごした大人のカウンセリング的な作品としての方が、高く評価できるかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, ヒューマンドラマ, 日本, 有村架純, 監督:米林宏昌, 配給会社:東宝, 高月彩良Leave a Comment on 『 思い出のマーニー 』 -少女が生きる一睡の夢-

『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 』 -未来予想図としては可もなく不可もなく-

Posted on 2019年2月12日2019年12月22日 by cool-jupiter

PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 45点
2019年2月3日 東宝シネマズなんばにて鑑賞
出演:野島健児 佐倉綾音 弓場沙織
監督:塩谷直義

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タイトルが挑発的だ。日本社会における突出したサイコパスとしては、『 友罪 』の元ネタにもなった神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗、そして佐世保女子高生殺害事件の女子高生などが思い浮かぶ。社会はそうした人間を排除してはならない。しかし、慎重に隔離せねばならないと個人的には考えるが、意見を異にする人も多いはずだ。そうした意見を表明するに際して、娯楽作品の形を借りるのは幅広い層にメッセージを届けるにはある程度効果的だと思われる。

 

あらすじ

時は近未来。「システム」の開発と普及により、サイコパシーを数値で割り出すことが可能になった世界。個人は、犯罪だけではなく、自らの潜在的なサイコパス指数によっても拘束を受ける社会。宜野座伸元(野島健児)は青森の潜在犯隔離施設に何かを嗅ぎつけるが、そこには国家的な陰謀が展開されており・・・

 

ポジティブ・サイド

トム・クルーズの『 マイノリティ・リポート 』のようである。ただ、犯罪、特に殺人を防ごうとするマイノリティ・リポート的世界とは異なり、サイコパスそのものを取り締まる本作の世界観はリアリスティックでありながらも異様でもある。社会とは元々は一人もしくは少数ではサバイバル不可能な人間という生物が、生存可能性を最大にするために編み出したものであろう。古代人の骨から、重篤な障がいを持ちながらも、成人するまで生きていた個体も多数いたことが判明している。社会は様々な個性を包括することで強くなる。しかし、本作の描く社会には排除の論理が強く働く。もともと障がいは“障害”だった。Jovianの視力はかなり悪く、眼鏡やコンタクトレンズなしには生活や仕事は難しい。もしも戦国時代に生まれたなら、結構な穀潰しとして扱われたのは間違いない。しかし、視力は矯正できる。また『 ブレス しあわせの呼吸 』や『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』でも描かれているように、我々の社会は確かに障がい者を包括する方向へと変化してきている。十年前に比べると、エレベータ付きの駅、車いす対応のタクシー、その他にも車いす対応の映画館や美術館の数などは格段に増えた。しかし、精神的な障がい(と呼ぶべきかどうかは悩ましい)は目に見えないため、対応も難しい。『 ザ・プレデター 』は駄作中の駄作だったが、自閉症に関する非常に興味深い仮説を提示した。本作は個人の内に犯罪係数なるものを読み取るシビュラシステムというものが存在する。これはこれでありうる装置であると感じた。『 ターミネーター3 』も凡庸なSFアクションだったが、T-800がジョン・コナーに向かって、呼吸や脈拍のデータからその行動は云々と伝えるシーンを思い起こさせた。人間の精神を崇高なものではなく、あくまでフィジカル面から読み取れるものだという非常に乾いた世界観は悪くない。

 

ネガティブ・サイド

プロットにあまりにも捻りがなさすぎる。「サンクチュアリ」というのは現実の日本社会への風刺であろうが、それをやるならば大多数の無辜の民に思える人間たちこそが実は・・・という形でないと、現実批判にはならない。サイコパスの理想郷、桃源郷なるものを作れるとすれば、それは社会の支配者層をサイコパスが占めることだろう。そして、実は現実世界で多大な成功を収める政治家や実業家、芸術家にはかなりの割合でサイコパスが含まれているというのは周知の事実である。ユートピアに見えたものが一皮剥げばディストピアだった、というのは1950年だから続くSFのクリシェである。そうした norm をひっくり返すような強烈なアイデアを期待したかったが、それは無い物ねだりだったのだろうか。

 

また宜野座の義手が強力すぎないか。義手そのものの強度はそういう設定であるとして、彼の体のその他の部分は生身だ。そしてまっとうな物理法則(作用反作用や慣性etc)を考えれば、あのような無茶苦茶なアクションシークエンスは生み出せないし、鑑賞することもできない。シビュラシステムという虚構にリアリティを持たせるためにも、その他の要素も充分にリアリスティックに作るべきであったが、そのあたりのポリシーや哲学が製作者側に欠けていたか。虚淵玄の強烈な、ある意味で凶暴な思想と個性に振り回されてしまったか。

 

もう一つ。本作はMX4Dで鑑賞したが、それによってプラスアルファの面白さが生まれたとはとても思えなかった。次作を鑑賞する時は、通常料金またはポイント鑑賞をしようと思う。

 

総評

『 亜人 』やアニメゴジラなど、アニメーション作品の3部作構成がトレンドなのだろうか。できれば『 BLAME! 』のように、重要エピソードを一作品に程よくまとめてくれると有りがたいのだが。アニメーションに抵抗がなければ、見ても損はしない。しかし、得もしないか。第二部はスルーしようかと思案中である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, サスペンス, 佐倉綾音, 弓場沙織, 日本, 監督:塩谷直義, 配給会社:東宝映像事業部, 野島健児Leave a Comment on 『 PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System Case.1 罪と罰 』 -未来予想図としては可もなく不可もなく-

『 あした世界が終わるとしても 』 -あまり変わり映えしないJapanimation-

Posted on 2019年2月4日2019年12月21日 by cool-jupiter

あした世界が終わるとしても 45点
2019年1月31日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:梶裕貴 中島ヨシキ 内田真礼 
監督:櫻木優平

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これは『 風の谷のナウシカ 』以来の戦闘美少女の系譜の物語に、別世界(parallel universeやalternate realityと呼ばれるアレ)との対立、そして戦闘ロボットや、それでも変わらない醜い人間の政治力学などを一挙にぶち込んだ野心作である。しかし、監督やクリエイターたちのやりたいことを多すぎて、観る側にメッセージが伝わりづらくなっている。将棋指しが勝負師・芸術家・研究家の三つの顔を持つように、映画製作者も芸術家としてだけではなく、発信者や発明者のような側面にも力を入れて欲しいと願う。

 

あらすじ

何故かこの世界では人が突然死する。狭間真の母もそうして死んでしまった。以来、父は仕事に没入するあまり家のことを顧みなくなった。一人になった真に寄り添ってくれているのは幼馴染の琴莉だった。二人の仲がようやく動き出そうとする時に、突如、ジンが現れる。ジンはもう一つの世界の真だった。彼の目的は二つ。一つは真の保護、もう一つは・・・

 

ポジティブ・サイド

映像は文句なしに美麗である。ディズニーのように巨額予算が無くても、ここまで出来るというのがJapanimationの利点であろう(アニメーターの待遇の悪さ、および中国資本化によるアニメーターの待遇改善のニュースもあったが・・・)。アクションシーンでズームインとズームアウトを頻繁に行いながらも、キャラクターを猛スピードで動かすところには唸らされた。『 BLAME! 』でも用いられた手法であるが、それをもう一歩先に推し進めた印象を受けた。

 

また企業が政府に先立って動く世界というのも、この現実世界を先取りしているように思える。プーチン政権下のロシアがクリミアを力で併合したり、トランプ政権がメキシコ国境に壁を作る/作らないで大揉めしていたりしているが、歴史的な流れとして世界はどんどんとボーダーレスになっていっている。そして国境を超えることで新たな価値を帯びるのは情報と貨幣だ。特に仮想通貨の浸透とその暴落は記憶に新しい。今は振り子の針の揺り戻しが来ているが、反対方向に大きく振れるのも時間の問題だろう。

 

閑話休題。本作で最も面白いなと感じたのは、美少女ロボの言動。むしゃむしゃと食べ物を頬張り、「出るところから出るような構造になっています」と説明するのは、一部の純粋なマニアやオタクを欣喜雀躍させるか、あるいは彼ら彼女らは怒り心頭に発するのではないだろうか。好むと好まざるとに依らず、技術は進歩していく。ユダヤ・キリスト教の神がImago Deiに似せて人間を作ったように、人間もロボットをどんどんと人間に似せていく。これは間違いない。『 コズミック フロント☆NEXT 』の1月17日の回「 どこで会う!?地球外生命体 」で、ある科学者が「肉体というものは不完全で不要かもしれない、けれど、この目で美しい景色を見たり、この耳で美しい音楽を聴いたり、この口で美味しいものを食べたりすることが生き物としてのあるべき姿だと思う」という趣旨を述べていた。本作に登場するミコとリコに対して親近感を抱けるか、もしくは嫌悪感を催すかで、観る側の心根がリトマス試験紙のように測れてしまうかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

オマージュなのか、それとも作り手の意識の中にそれだけ強く刻みこまれてしまっているのか。作品のそこここに先行テクストからの影響が色濃く現れている。これが道尾秀介の『 貘の檻 』が横溝正史の『 八つ墓村 』へのオマージュになっていたのと同様の事象なのか、それとも意識して様々な作品の要素をぶち込むことで、監督兼脚本の櫻木優平氏が悦に入っているのか。おそらく後者ではないかと思われる。現代は、しかし残念ながら、パスティーシュやオマージュではなく、オリジナリティで勝負しなければならない。まずは守破離ではないが、何か一つの要素をしっかりと追求する。そこから自分なりのスタイルを確立していくことを目指すべきだ。以下、Jovianが感じたオリジナリティの無さについて。

 

まず並行世界というもの自体が、手垢に塗れたテーマだ。その古い革袋に新しい酒を入れてくるのかと期待したら、その世界の発生のきっかけは旧日本軍の研究開発していた次元転送装置とは・・・ 旧日本軍て、アンタ・・・ 『 アイアン・スカイ 』以上に荒唐無稽だ。こちらとあちらに同じ人間が存在していて、その命がリンクしているという設定がすでに理解できない。なるほど、世界が分裂してしまった時点ではそうだろう。だが、極端な例を考えれば、こちらの世界の妊婦さんが流産をしてしまった時、あちらの世界の人は必ず妊娠しているのか?そうでなければ、例えば妊婦が死んでしまった場合は胎児も自動的に死亡すると思われるが、そもそもあちらの世界で存在しない命がこちらで消えてしまった時は?などなど、観ている瞬間から無数に疑問が湧いてきた。並行世界というのは、タイムトラベルや記憶喪失ものと並んで、非常にスリリングな導入部を構成することができるジャンルだが、それだけに細部を詰め方、および物語そのものの着地のさせ方が難しい。その意味で本作は、離陸した次の瞬間に墜落炎上したと言っていいだろう。

 

また、その並行世界の成り立ちの説明がどういうわけかナレーションで為される。どうしても言葉で説明したいというのなら、何らかのキャラクターに喋らせるべきだ。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』における酔っ払い男のように。このナレーションは完全にノイズであった。

 

そこで生まれた世界の日本には皇女がいるという。ならば「にほんこうこく」というのは日本皇国かと思っていたら、日本公国であるという。どういう国体を護持すれば、そんな国が生まれるというのか。平安時代に並行世界が生まれたのならまだしも、昭和の中頃にこれはない。いくらアニメーション作品と言っても、歴史的な考証は最低限行わなくてはならない。映画とは、リアリティを追求してナンボなのだ。なぜなら、映画という芸術媒体が発するメッセージは往々にしてフィクションだからだ。だからこそ、それ以外の部分はリアルに仕上げなくてはならない。まあ、本作にはそもそもメッセージが無いわけだが。

 

護衛兼攻撃用ロボットが、エヴァンゲリオン、『 BLAME! 』のセーフガードなど、様々な先行作品の模倣レベルから脱していない。ボス的キャラもネットでしばしばネタにされる小林幸子を否応なく想起させてくる。そしてセカイ系で散々消費された僕と美少女戦士達の闘いが、世界そのものの命運を決めることになるという、周回遅れのストーリー。また『 ミキストリ -太陽の死神- 』と全く同じ構図がヒロインキャラに投影されていたりと、どこかで見た絵、どこかで聞いた話の寄せ集め的な物語から脱却できていない。櫻木監督の奮起と精進に期待をしたい。

 

総評

ポジティブともネガティブとも判断できなかったものに、キャラの動きが挙げられる。モーション・キャプチャをアニメの絵に適用しているのだと思うが、とにかくキャラがゆらゆらと動く。生きた人間であれば自然なのかもしれないが、アニメのキャラにこれをやられると不気味である。『 ターミネーター 』や『 ターミネーター2 』のシュワちゃんが、非常にロボットらしい動きをするのと対比できるだろう。しかし、CGアニメーションがもっと進化して、小さい頃からそのような作品に慣れ親しむ世代は、旧世代のアニメーションを見て「不気味」と感じるのかもしれない。何もかもを現時点の目で判断することは独善になってしまう恐れなしとしないだろう。この点については判断を保留すべきと感じた。冒頭10分は何となくゲームの『 インタールード 』を彷彿させた。カネと時間が余っていて、アニメーションに抵抗が無いという人なら、1800円を使ってもいいのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, 中島ヨシキ, 内田真礼, 日本, 梶裕貴, 監督:櫻木優平, 配給会社:松竹メディア事業部Leave a Comment on 『 あした世界が終わるとしても 』 -あまり変わり映えしないJapanimation-

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