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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ドキュメンタリー

『 アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 』 -不器用なラブレター-

Posted on 2020年7月24日 by cool-jupiter

アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 65点
2020年7月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンナ・カリーナ
監督:デニス・ベリー

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『 気狂いピエロ 』などの代表作を持ち、2019年12月に亡くなったアンナ・カリーナのドキュメンタリー。カリーナは4度結婚しているが、その最後の夫であるデニス・ベリー監督が本作を撮影・制作。なんとも不器用なラブレターになっている。

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あらすじ

第二次大戦の最中、デンマークの母子家庭にアンネ・カリン・ベイヤーは生まれた。チャップリンの無声映画を観て、ミュージカルに魅了され、女優になることを夢見た少女は、17歳にしてフランスのパリに移住。デザイナーのココ・シャネルからアンナ・カリーナへ改名するようにアドバイスされ、そして映画監督のジャン=リュック・ゴダールと出会い、彼女は花開いていく・・・

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ポジティブ・サイド

アンナ・カリーナという女優の生い立ち、そして当時の社会状況しっかりとカバーしているところが素晴らしい。父の不在、そして母の再婚相手の父親との折り合いの悪さ。アンナの人生の前半に、positive male figureがいなかったことは明白である。監督のデニス・ベリーは黙して語らないが、自分だけがアンナにとってのpositive male figureだったとの自負があるのだろう。また、戦争や軍国主義が娯楽や文化、芸術に対して抑圧的に働くことは『 ポン・ジュノ 韓国映画の怪物 』でも述べた。アンナ・カリーナは一個人ではあるが、その一個人を通じて歴史を語ることも可能なのだ。

 

10代のアンナの石けんのCM動画やポスターが明らかにするのは、彼女のまばゆいばかりの魅力である。決して絶世の美女だとか、スタイル抜群のセックス・シンボルというわけではない。彼女の一番の特徴である、その大きな目。その瞳に見つめられると、自分という人間の虚飾がすべて見透かされそうな気持になる。アンナ・カリーナに惹かれているということを隠せなくなる。だからこそゴダールは率直に彼女を口説き、誘った。こうした女性にあれやこれやの恋愛の手練手管は無用の長物である。

 

カリーナのフィルモグラフィーや歌手としてのキャリア、小説家としてのキャリアも描き出しており、実に興味深い。特にフランス初の長編映画の主役兼監督がアンナ・カリーナであるというのは非常に興味深い。グレタ・ガーウィグといった女優兼監督という存在の、彼女は嚆矢だったのである。時代で言えば『 ドリーム 』で描かれた人間コンピュータのキャサリン・G・ジョンソンの頃である。劇中で彼女は「アーティスト」と形容されるが、至言だろう。

 

往時のカリーナの歌唱シーンやダンスシーンは美しい。白黒映画には白黒映画の良さがあり、またデジタル撮影ではないフォルム映像には、写真やLPレコードと同じく、歴史性が感じられる。彼女はキャリアの後半に活躍の場をアメリカに移すが、そこでも巨大なレガシーを残している。Q・タランティーノは、そうした影響を受けた一人である。彼女は日本にも歌手としてやって来ていた。コンサートに『 気狂いピエロ 』のマリアンヌと同じ衣装を着てきた日本のファンもいたそうだ。スターやアイドルという言葉で語られるクリエイターやアーティスト、俳優は多いが、アイコンと呼べる人間はごく少数だ。アンナ・カリーナは、間違いなくアイコンである。

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ネガティブ・サイド

アンナ・カリーナの幼少期に焦点を当てていながら、彼女の後半生や晩年がそれほど丹念に描かれていない。別に容色が衰えた、作品数が少ない、シネマティックではない。そうした理由でデニス・ベリー監督がこのような構成にしたのであれば、それは失敗ではなかろうか。彼女のような、激動の人生を送ってきた人間ほど、現代人に届けるべきメッセージがあるはずだ。たとえば移民の問題、たとえば女性の社会進出の問題。彼女の語る言葉を金科玉条のごとく扱う必要はない。ただ、歴史の証人にして稀有なアーティストの一意見として、記録に残されるべきはないだろうか。

 

収められているのがカリーナ自身の肉声と、業界人の声だけである。アンナ・カリーナというアイコンが、一般庶民に与えた影響、そのインパクトの大きさや深さを語る当時の一般人の肉声が聞いてみたかった。

 

終わりがあまりにも唐突である。元々は劇場公開を想定していたのではなく、テレビの1時間番組枠か何かにきっちりハマるように作られていたのだろうか。これほどの知り切れトンボ感は近年なかなか味わえない。余韻が残らないのだ。もうちょっと何とかならなかったのか。アンナに最後まで歌わせてやって欲しかった。

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総評

アンナ・カリーナという人間を名前だけでも知っていれば、観る価値はあるだろう。単なる過去のフランスの名女優という切り取り方ではなく、しっかりした歴史の遠近法の中で捉えられているドキュメンタリーで、ちょっと風変わりなラブレターでもある。デートムービーには向かないかもしれないが、Jovianが鑑賞した回はオールド夫婦がかなり多かった。オールド映画ファンは是非とも劇場鑑賞しよう。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

cinéma

英語でもフランス語でも、シネマは「シネマ」である、フランスは近代映画発祥の地で、発明者はリュミエール兄弟。cinémaは元々古代ギリシャ語のkínēma=キネマ=動き、から来ている。テレキネシス=念動力などと言うが、テレ=遠い(telephone, telescope, televisionからも分かるだろう)、キネシス=運動である。映画の歴史というのはTOEFL iBTのリーディングやリスニングでしばしば取り上げられる重要トピックの一つ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アンナ・カリーナ, ドキュメンタリー, フランス, 伝記, 監督:デニス・ベリー, 配給会社:オンリー・ハーツLeave a Comment on 『 アンナ・カリーナ 君はおぼえているかい 』 -不器用なラブレター-

『 ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方 』 -究極の共生を目指して-

Posted on 2020年4月10日 by cool-jupiter

ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方 80点
2020年4月5日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ジョン・チェスター モリー・チェスター
監督:ジョン・チェスター

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4月5日の19:30の時点で座席の売れ行きをHPで確認。何とゼロ!密閉空間ではあるが、密集も密接もしない。以前から気になっていた映画の数々を涙を飲んでスルーしているが、今回は地元の映画館に現金を落とすべく出動した。非国民と呼ばば呼べ。ちなみに劇場鑑賞者はJovian含め3人だった。

 

あらすじ

ジョンとモリーのチェスター夫婦は、愛犬トッドの鳴き声が原因でLAのアパートを出ることに。それを機に料理ブロガーであるモリーは、自身の古くからの夢である健康的な食材を自分たちで育てるという夢を実現すべく、投資を募り、アランというアドバイザーを得て、前代未聞の規模の有機農場を始めるのだが・・・

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ポジティブ・サイド

これは2020年屈指の名作である。ドキュメンタリーというジャンルに限定すれば、間違いなく年間ベストである。2020年がまだ3か月しか経過していない時点で、Jovianはそう断言してしまう。それほど、本作が観る者に与える示唆とインスピレーションは巨大である。

 

本作でジョンとモリーが作り出そうとする農園は、その精緻さとスケールにおいて『 サッドヒルを掘り返せ 』における共同円形墓地、『 マーウェン 』における架空の村マーウェン、『 シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢 』における壮大な宮殿に勝るとも劣らない。いや、生きた動植物を直接に扱っているぶん、モリー夫妻のファームの方が、発展させていくのはより難しいかもしれない。

 

本作の描くテーマは“共生”である。共生とは、人間と微生物、人間と虫、人間と動物、人間と植物、つまり大げさに言えば人間と地球の共生である。NHKのテレビ番組『 ダーウィンが来た! 』や『 サイエンスZERO 』で海底火山の噴火で拡大した西ノ島の様子が特集されていたが、そこでは鳥の死骸を虫が食べ、その糞と岩が細かく砕かれた砂が混じることで、植物を育てうる土壌が生み出されているとリポートされていた。チェスター夫妻、そして彼らのメンターのアランの行おうとしていることも、これと同じである。様々な生物 -牛や豚や鶏そしてミミズなど- らを不毛な大地に放ち、それらの糞尿で大地を文字通りに肥やしていく。まるで文明そして農業の歴史の曙光を見るかのようである。小説『 死都日本 』でも「これからは生ゴミや排せつ物の争奪戦が始まります!」という日本国総理大臣の勇ましい演説が聞けるが、このファームはまさにそうした食べて出して食べて出してのサイクルを見事に回している、まことに稀有な農場である。こうした発想の有機農法を、アジア人ではなくアメリカ人が発想し、そして実行していることに衝撃を受けた。

 

また、ビッグ・リトル・ファームの面積が200エーカーというのも驚きである。『 プーと大人になった僕 』で100エーカーの森が描かれたが、あの2倍の広さである。当然、チェスター夫妻が解き放った多種多様な動物たちだけではなく、野生の動物たちもやってくるわけである。そして農園になる野菜や果物が、動物たち、そして虫たちに食い荒らされる。卵を手に入れるために飼っているニワトリも、コヨーテに襲われる。人間が自然をコントロールするのは、やはりおこがましいことなのか・・・ だが、ここで奇跡が起きる。パズルのピースがすべてそろった時、我々は自然の全体像を知る。生きとし生けるものには、すべて役割があったのである。中には少々痛ましいシーンもあるのだが、それも『 野性の呼び声 』にリアリティを与えるものであろう。飼い犬のロージーは野性の呼び声を聞いたのである。

 

本作を観てつくづく感じるのは、天命は確かに存在するということである。そして、現代人の価値観(それは多くの場合、経済的な観念に支配されているのだが)では、カネを稼いでナンボである。だが、カネは手段であって目的ではない。目的は、幸福を生み出すことだ。そして究極の幸福は、夢の実現と他者との共生にある。本作は、そのことを教えてくれる。観る者に生きる勇気と希望を与えてくれる珠玉のドキュメンタリーである。

 

ネガティブ・サイド

序盤の『 インターステラー 』の迫り来る砂塵のごとき山火事の煙のシーンは、最終盤に回してよかったのではないか。すべての歯車がガッチリと噛み合い回り始めた矢先にアクシデントが起きる・・・という展開の方が、ベタではあるが、物語に起伏は生まれただろう。

 

また、ジョンとモリーのメンターであるアランの経歴をもっと知りたいと感じた。最初はとんだいっぱい食わせ者かと思わせてくれたが、実は恐るべき忍耐力と慧眼の持ち主である。偏見を承知で言わせてもらうが、アメリカ人らしからぬ思想・哲学の人である。彼の先祖はヨーロッパ系ではなく17000年前にアメリカ大陸に渡ってきたアジア系移民であろう。

 

また、チェスター夫妻に金を出してくれた投資家というのも、どんな人物なのか気になるし、1年分のカネを6か月で使ってしまったというセリフもあった。カネの流れや動きについても、ほんの少しだけでいいから描写が欲しかったところである。

 

総評

あるシーンでは『 スター・ウォーズ 』のTシャツを着たキャラクターが登場する。その意味するところは明らかである。つまりは、世界にバランスをもたらすことである。映画館が休業する前に本作を鑑賞できたことを映画の神様に感謝したい。ぜひ劇場が再会したら、またはDVDや配信で視聴可能になったら、多くの方に本作を観て頂きたいものである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

in harmony with ~

「~と調和して」の意である。live in harmony with nature=自然と調和して生きる、となる。“和を以て貴しとなす”を是とする日本人であれば、こうした表現を知っておいても良いだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, A Rank, アメリカ, ジョン・チェスター, ドキュメンタリー, モリー・チェスター, 監督:ジョン・チェスター, 配給会社:シンカLeave a Comment on 『 ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方 』 -究極の共生を目指して-

『 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』 -歴史を総括せよ-

Posted on 2020年3月30日 by cool-jupiter

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 60点
2020年3月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三島由紀夫
監督:豊島圭介

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悪質タックル問題からまんまと逃げきった感のある日大の田中理事長だが、このオッサンが学内で権力を掌握する過程の発端は日大全共闘にまでさかのぼるということは、多くのメディアが指摘した。その全共闘の東大版が本作である。日大・田中理事長は、いわば暴力でのし上がったが、本作は全共闘の弁論、いわば言葉と言葉のぶつかり合いに焦点を当てている。

 

あらすじ

1969年5月、東京大学駒場キャンパス900番教室。保守論壇の大物として君臨していた三島由紀夫は東大全共闘から体制側の人間と見られ、集会に“招待”されていた。暴力を辞さない全共闘の招きに応じた三島は、言論で彼らと渡り合うが・・・

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ポジティブ・サイド

『 坂道のアポロン 』の時代が、まさにここである。と、したり顔で語ってみても、Jovian自身が当時に生きていなかったのだから偉そうなことは言えない。それでも、人並み程度には歴史に関心を持っている身としては、やはり色々と調べた時期もあったのである。なによりもJovianの母校である国際基督教大学(ICU)は、おそらく他の日本の大学よりも学生運動に対するアレルギーが格段に強い。今はどうかは分からないが、少なくとも2000年前後、Jovianがまだ青い大学生であった頃はそうであった。そのことは、当時のICUと他大学のキャンパスの模様を比較してみれば一目瞭然であった。同時期の法〇大学や学●院大学、東京□立大学(当時)のキャンパスには、「総長の辞任を要求する!」だの「学生食堂値上げ断固反対!」だの「サークルにも部室を与えよ!」だのといった、過激(当社比)な立て看板が散見されたのである。学生運動とはつまり、子どもの駄々なわけである。駄々という言葉が酷ならば、若気の無分別と言い換えてもよい。それが時代の機運もあってか、極めて組織的かつ反体制的に盛り上がった。同時期の他国の運動はいざ知らず、日本の学生運動の一番の本質を、Jovian自身はそのように見ている。

 

と私的に総括してしまうと、これは映画のレビューではなく歴史の解釈になってしまう。ここからは、少々真面目に映画をレビューしたい。

 

まず、なぜ今になって三島由紀夫なのか。東大全共闘なのか。そうした疑問が当然に沸き起こる。様々な答えが考えられるが、豊島圭介監督やプロデューサー達の問題意識の根っこに、現代日本における思想と言論の変遷(または変質や変異と言ってもいい)があることは間違いない。元々、右派・右翼とは「体制の維持を是とする集団および思想」であり、左派・左翼とは「体制の変革を是とする集団および思想」を指す。ところが、どういうわけか現代日本では右翼(ネトウヨ)が憲法改正を声高に叫ぶ一方で、左翼(パヨク)が平和主義や基本的人権の尊重をあらためて強調するという奇怪な状況が生まれている。こうした状況の萌芽が、1968~1969年という“内乱の時代”に見つけられるのではないか、というのが本作の制作者たちの主張だろう。そして、それはかなりの程度、的を射ているものと考える。その理由は後述する。

 

本作はドキュメンタリー映画として、非常に上質であり、また秀逸である。三島由紀夫という人物の生涯ではなく、全共闘との討論の場にスポットライトを当てることで、三島の人物像、そして思想の全体像が逆にくっきりと浮かび上がってきた。特にエンターテインメント性が高いと感じられたのは、演劇作家の芥正彦との噛み合わない議論である。文学者の三島は、コミュニケーションを“Not real space, Not real time”でも成立しうるものとして、演出家・劇作家の芥は“Real space, Real time”でしか成立しないものとして議論する。滑稽だ。三島ならば本能的、直感的に芥と自身の立ち位置の違いを冷静に指摘することもできたはずだ。また、芥がとことんまで理論武装して語る言葉の空虚さを突くことも可能だったはずだ。芥の思想の根幹にあるのは、マルクスの“歴史”やサルトルの“対自存在”への批判的意識である。三島は反知性主義の根源を、知性の極みにあると見るか、知性の底辺にあると見るか、それについては分かりかねると述べる。だが、芥を見る限りにおいては、反知性主義は知性の極みから生じるようである。賢哲の愛智家の言葉をいくら借りても空虚にしか聞こえない。なぜなら、芥の思想は常に何かに対する批判という形でしか存在していないからだ。芥に限らず、全共闘の連中は、世界は諸事実との関係から成るのだから、まずは存在する個々の事物との関係の在り方を問わねばならない云々と「お前らはヴィトゲンシュタインの出来損ないか!」と一喝してやりたくなる主張を繰り返すが、彼らは一様に自分自身の存在と向き合わなかったし、今も向き合っていない。三島ほどの賢者なら、全共闘の連中が言う物象化論を逆手にとって、「お前たちこそ、その拳を武器にして、その手にゲバ棒を掴んで、自分自身をモノ化、武器化している」と容易に反論できたはずだ。それをしなかったという事実それ自体が、基地外を基地外(敢えてこう変換している)として扱わず、主体性ある人間として扱っている証拠である。こうした三島の思想を現代人に問うのは、製作者が現代人の知性とコミュニケーション能力に一縷の望みを抱いているからだろう。

 

非常に興味深く、また勉強になったと感じられたのは三島の天皇観。天皇機関説と天皇主権説がごっちゃになっていて「なんじゃ、こりゃ?」と面食らった。しかし、三島の生きた時代背景、そして三島が個人的に得た天皇体験に裏打ちされたものと知り、得心することができた。「天皇は反日」なるキチガイとしか思えない発言をするネトウヨ連中や神社庁のトップ、さらに日本会議のお歴々には、個人的な天皇体験というものがないのだろう。ゆえに、天皇=国体=自身の理想とする国家像がめでたく等号で結ばれることとなる。そうした者たちにとって、天皇とは人間ではなく記号なのである。泉下の三島は現在の保守論壇をどのように見つめているのだろうか。

 

1969年というのは、実に象徴的な時代である。東京オリンピックの数年後であり、大阪万博のまさに前夜であった。つまり、日本という国が強烈な外部の視線にさらされ続けた時代だったのだ。そこで日本という国の在り方を自身の在り方に重ね合わせて希求した三島由紀夫と、反動と反抗という形でしか希求できなかった全共闘。もとより言論に勝敗も何もないものだが、どちらが大人でどちらが子どもかは火を見るよりも明らかである。経済格差以外に、日本でも思想の“分断”が見られる。これも内乱の火種になるだろう。アメリカはオバマが分断を生み出し、結果トランプ政権が爆誕した。今や、その反動でバイデン勝利の芽がどんどんと成長しつつある。そして、そこからまた分断が生まれ、内乱状態になるのだろう。日本とて同様である。我々がこの作品から受け取るべきメッセージは何か。様々なものがあるが、最も陳腐なものは「対話を志向せよ」ということだろうか。

 

Jovianは実は三島の作品を読んだことがない。不勉強の誹りは甘んじて受ける。

 

ネガティブ・サイド

何かとお騒がせの東出昌大のナレーションは、はっきり言って下手である。『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』の田辺誠一と大塚寧々と同じくらいに下手である。言葉に抑揚や強弱がないのだ。別にナレーターまでが熱情をほとばしらせて喋るべし、とまでは思わない。だが、本読みしているだけにしか聞こえない。臨場感を生み出してやろうという気概が感じられないし、実際には作品に緊張感や深みを与えていない。もっとマシな人選はできたはずだ。

 

三島および東大全共闘を現代から語る面々にインパクトがない。瀬戸内寂聴はそれなりに著名人だが、もっと他にインタビューすべき相手や、過去の映像や活字を掘り起こすべき対象はいくらでもいるはずだ。パッと思いつくだけでも菅直人や猪瀬直樹といった政治家(いや、政治屋か)や、高橋源一郎といった文筆家にもインタビューができたはずだし、するべきだった。もしくは石原慎太郎に三島や当時の日本のアカデミアや論壇の在り方がどのようなものだったか証言させてもよかった(耄碌していて無理だったのかもしれないが)。もしくは、それこそ丸山眞男その人も引っ張り出せたはずだ。本人へのインタビューはもはや不可能だが、それでも丸山の講義や講演の多くはテープに残されている。実際にJovianも在学中に聞いたことがある。丸山自身が全共闘を語った記録が残っていないわけがない。そうしたものを発掘してこそ「報道のTBS」ではないのか。全共闘の主要メンバーが「なぜ全共闘は敗北したのか」という問いに「敗北はしていない。運動は市井の中に拡散していったのだ」と詭弁を弄するが、これなどは三島が批判していた「暴力を闘争と言い換える」という行為そのままである。こうした点を批判する声を上げられる人間を連れてくるべきだったのだ。

 

本作の弱点は、現代に対するメッセージが非常に貧弱な点である。もちろん、三島の言葉や、あるいは全共闘の歴史から一義的なメッセージのみを受けとったとすれば、それはそれで失敗だろう。それでも、今という時代を狙って三島および全共闘にスポットライトを当てたことの意義を、製作者はいくらかでも自らの言葉で語るべきだった。その意味では『 主戦場 』には大きく劣っている。

 

総評

非常にスリリングな議論が収録されているが、はっきり言って、東大全共闘の面々の論理が過去も現在も破綻している。三島と全共闘の共通の敵として「猥褻な日本」があると芥は言うが、これも詭弁だ。三島の言うエロティシズムの定義をよくよく思い起こされたい。芥は自分たちの存在が「猥褻な日本」という観念に侵害されていた。だから闘ったと言う。だが、それこそまさに自分たちが三島を集団レイプしようとしていたことと表裏一体であることにどうして気づけないのか。これこそ、Jovianが全共闘や学生運動を駄々っ子だと断じる理由である。あれは、ちょっと過激な部活動に過ぎなかった。もちろん、これはJovianの私見に過ぎない。感想は観た人の数だけあってよい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

believe in ~

三島が言う「私は諸君らの熱情は信じる」の“信じる”である。believe ~ = ~を(良い・正しいものとして)信じる、という意味である。一方、believe in ~ = ~に対して強い信念を持つ、という意味である。このあたりの使い分けができれば、英語初級者は卒業である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ドキュメンタリー, 三島由紀夫, 伝記, 日本, 歴史, 監督:豊島圭介, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 』 -歴史を総括せよ-

『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』 -親子連れでどうぞ-

Posted on 2020年2月24日 by cool-jupiter

恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 55点
2020年2月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:田辺誠一 大塚寧々

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『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』に続く、劇場版第二弾。恐竜ネタはタイムリーではあるが、作りにいくつかの欠点が見られた。

 

あらすじ

時は白亜紀。海から陸に進出した生命が恐竜に進化した時代。恐竜に関する現代の知識が更新されている中、最新の知見をCGと実写の融合で描き出す。

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ポジティブ・サイド

CG技術の進歩は留まることを知らない。もちろん、『 ライオンキング 』や『 ジュラシック・ワールド 炎の王国 』 のようなクオリティに達しているわけではない。だが『 ジュラシック・パーク 』のCGと本作の恐竜CGの水準は同程度であると感じた。だが、CGについた予算は同じ通貨ならば、おそらく本作の方がゼロ二つは少ないだろうと推定される。(現時点で科学的に得られている)恐竜の実像をリアルに感じさせるCGを映画館の大画面で見られるのは、子どもならずともスペクタクルに感じられる。

 

ティラノサウルスやモササウルスなど、『 ジュラシック・ワールド 』でお馴染みになった面々にフォーカスするのもタイムリーだ。通常のテレビ版『 ダーウィンが来た! 』でも自然界の弱肉強食は強調されているが、太古の恐竜世界はスケールが違う。観ているうちに恐竜たちのサイズとダイナミズムに飲み込まれ、後半に登場するトロオドンが「体長わずか2メートル」などと紹介されることに違和感を抱かなくなる。実際に体長2メートルの野生動物を目の前にしたら、現代人ならまずびっくりすることだろう。本作は観る者をごく自然に恐竜世界に誘ってくれる。

 

前作『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』と同じく、恐竜をキャラクター化するのも観る者の感情移入を誘いやすい。本作にはティラノサウルスのマックス、デイノケイルスのニコ、トロオドンのホワイト、モササウルスのジーナが登場する。それぞれに特徴を生かして過酷な恐竜時代を survive していく様には科学的な知見が盛り込まれており、実に興味深い。劇場の観客の8割以上は親子もしくはジジババとその孫であったように見受けられた。終了後、子ども達はかなり満足した表情に見えたし、Jovianもいくつかの点を除けばそれなりに満足できる出来だった。

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ネガティブ・サイド

これは相性の問題でもあるのだろうが、ナレーションが良くない。もっと言えば下手である。残念ながら田辺誠一も大塚寧々もどちらも練習が足りない。もしくは残念ながら本読みのセンスがない。句点で区切る場所を間違っているのではないかと思われるほど、田辺も大塚も読み方が拙い。同じNHKの番組でも『 コズミック フロント☆NEXT 』の萩原聖人や『 地球ドラマチック 』の渡辺徹とは雲泥の差である。NHKはもっと真剣に“語り手”を探すべきだった。

 

いや、前作でもそうだったが、こうしたテレビ番組制作時の映像をつなぎ合わせて映画にしてしまう時も、やはり監督を置くべきだ。映像や音響、音声、ストーリーの進行やカメラのアングル、その他の諸々の細部に至るまで、一貫性を持ったものとして作品を仕上げるディレクターが必要である。例えば、本作のメインの視聴者はおそらく年長~中学三年生ぐらいまでだろう。であるならば、デモグラフィックを小3~小4に設定しなければならない。にもかかわらず「抱卵」、「雑食性」、「獰猛」、「窒息」、「ハンター」などといった言葉を使うのは何故なのか。通常のテレビ番組であれば、子どもはその場で親などに尋ねるか、スマホやPCで調べられる。だが、これは真っ暗で静かな映画館で上映される作品なのだ。実際にJovianの左隣に座っていた男の子は、しきりに母親に「今の何?」と尋ねていた。別にその程度の声は気にしない。6歳ぐらいの子どものやることである。残念なのは、作り手側にこのような想像力が欠けていたことである。

 

恐竜に関する知見をアップデートするということであれば、ビジュアルとナレーションでもう少しできたはずだったとも思う。例えば劇中で「恐竜」と「海竜」を峻別するシーンがあったが、それをやるなら翼竜や首長竜、魚竜にも触れるべきだろう。また、ティラノサウスるの社会性やトロオドンの知能の高さについても、化石から割り出した脳の容積や形、そこから計算・推定される知能の種類、その高低については、小学校高学年ぐらいにビジュアルで理解させられるような工夫ができたはずである。デモグラフィックの想定を、ここでももっと正しくできたはずである。

 

総評

不満な点もあるが、恐竜というロマンあふれる太古の生物は我々を魅了してやまない。恐るべき存在で神秘的な存在。かつてこの地球の陸海空を支配した生物の実像が、科学の進歩の学問の分野横断的な融合によってどんどんと明らかにされつつある。映画は芸術媒体であるが、教育媒体になってもいい。NHKは2年に一度ぐらいは『 コズミック フロント☆NEXT 』や『 地球ドラマチック 』の劇場版を作るべきである。子どもから大人までを楽しませ教育できる映画を作る。できるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

don

恐竜の名前の語尾によくある~~~ドンのドンである。元は古代ギリシャ語のodon、古代ラテン語のdenから来ている。意味は「歯」である。デンタル・クリニックと言えば、歯の診療所である。未知の生物の名前を見たり聞いたりしたときは、まず語尾に注目してみよう。ドンとあれば、歯に特徴があると考えればよい。その好個の一例は『 MEG ザ・モンスター 』の“メガロドン”である。語彙力増強のためには形態素の知識をある程度持つこと、そして語の意味をイメージで頭に刻むことである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ドキュメンタリー, 大塚寧々, 日本, 田辺誠一, 配給会社:ユナイテッド・シネマLeave a Comment on 『 恐竜超伝説 劇場版 ダーウィンが来た! 』 -親子連れでどうぞ-

『 人生、ただいま修行中 』 -看護師の卵に光を当てた異色ドキュメンタリー-

Posted on 2020年2月9日 by cool-jupiter

人生、たたいま修行中 75点
2020年2月8日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:看護師の卵たち
監督:ニコラ・フィリベール

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2019年にシネ・リーブル神戸で上映していたのを見逃したが、塚口サンサン劇場のおかげでキャッチアップ。何を隠そう、Jovianは大学卒業→就職→退職→内定取り消し→看護学校入学→看護学校中退→再就職→現在に至る、という経歴の持ち主である。看護学校には2年ちょい通っていたが、体を壊したのと他にも諸々あって辞めてしまったが、本作を観て I genuinely felt redeemed.

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あらすじ

フランスはパリ郊外の看護学校。そこには年齢や性別、人種などが異なる学生たちが看護師になるべく学んでいた。彼ら彼女らは、座学、実技を学び、看護実習を経て、教師らとの対話を持って、成長していく・・・

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ポジティブ・サイド

本作は

1.座学と実技
2.病院実習
3.学校で教師と共に実習を振り返る

の三部構成になっている。Jovianは冒頭のシーンから、言葉そのままの意味でスクリーンに引き込まれてしまった。血圧測定に挑む看護学生が動脈の位置を探り、マンシェットを巻き、聴診器を肘当たりに当てて、エアを送り込み始めたあたりから、ザワザワとしていた周囲の医療スタッフが一斉にシーンと静まったからである。まさに看護学校の空気である。初回にバルブ調整を失敗し、一気に空気を抜いてしまうのは、多くの看護学生が通る道である。また、その学生が収縮期血圧を聞き取れなかったのに対し、指導スタッフがそれを読み取っていた、というのも「看護学生あるある」である。また看護倫理に関わる講義の内容は、Jovianが学んだものとまったく同じであった。余談として、映画では触れられていなかったものの、看護の世界で学んだSOAP記録方式や14の基本的ニーズの考え方は、職業人としてMECEを意識する際の大いなる助けになっている。特にSOAP方式は語学学習に悩む人に適切なカウンセリングや学習コンサルテーションを提供する際に非常に重宝する思考ツールになっている。

 

Back on track. 看護学校で繰り広げられる座学や実技の演習には、キラキラとした青春の輝きなどはない。日本と違ってフランスでは、看護学生というのはある程度酸いも甘いも嚙み分けた人間、20代後半以上の者が通っているようである。このことが、個人的なredemptionにつながってきた。本作にはナレーションもBGMもない。製作スタッフからのインタビューに答えるような形での独白も挿入されてはいない。徹頭徹尾『 サウナのあるところ 』と同じく、人が心情を素直に吐露する瞬間を収めることに努めている。それが非常に心地よく映る。映画というのは基本的には100%作為が働いて作られるものであるが、ドキュメンタリー映画の登場人物や台本通りに動く役者ではない。だからこそ出せる味というものがあり、本作にはその“味”が随所で濃厚に出ている。

 

病院実習の場面も看護学生あるあるのオンパレードである。初回の実習というのは症状がかなり軽い、あるいは退院目前の方の問診程度であるが、Jovianは確か4人組で行ったと記憶している。そして、その4人が4人、思い思いに自分のしたい質問を患者さんにぶつけてしまい、深い情報、欲しい情報は誰も取れなかった。あの時は自分の実習のことを考えてしまい、患者さんの容態や気持ちについて考えていなかった。その余裕がなかったのではなく、そうすべきであるということ思い至っていなかった。シチュエーションは全く違うが、急変した患者さんにわらわらと群がり、口々に質問を投げかける実習生たちに10年以上前の自分の姿を見た。そして心の底から「頑張れ!」とエールを送ることができた。「何やってんだ、このボンクラ!」と普段の自分なら思いそうなところで、肯定的な気持ちになれた。看護学校中退を黒歴史だとか人生の汚点だとは思わないが、肯定的に思えたこともなかった。本作によって、過去の自分に対してポジティブに向き合えた気がした。思いがけない収穫だった。この章で個人的に最も首肯したのは、「白衣の有無について」だった。学生であろうとプロであろうと、白衣を着ている限り頼りになる人、あるいは人によっては「敵」と見なしたりすることもある。本作には出てこないが、小児科の患者、つまり小さな子どもは時々そういう態度をとるし、症状の軽い整形外科の喫煙患者などもその傾向がある。白衣で心を開く人もいれば、白衣によって心を閉ざす人もいる。これはその他多くの仕事にも当てはまるかもしれないと思う。また、Jovianは看護師の母の勤める病院で血液検査を受けたことがある。その時に母の同僚の看護師さんが採血するにあたって、「あら、どっちの血管で取ろうかしら!」と言った後、思いついたように「学生さーん!!」と実習生を呼んで、練習台にさせられた。良い思い出である。同じように、患者さんは実習生に対して優しく接してくれているのを見て、癒された。「俺は注射が大好きだぜ!」と笑っていいのかどうか分からないジョークを飛ばす患者も登場する。もしも採血の時に学生を呼ばれたら、それはあなたの血管が非常に太く、見やすく、練習に適しているからである。どうか看護師の卵に寛大に接してあげてほしい。

 

教師と共に実習を振り返る最終章では、多様性についての温かな眼差しがあった。「自分は技術屋で事務仕事はしてこなかった。採血や注射はいいが、書類仕事は勘弁してほしい」という男子学生や、「自分は頭を使って色々考えることはできたが、他の学生やスタッフとうまくコミュニケーションが取れなかったし、患者の心にも寄り添えなかった」という、やはり男子学生に大いに共感した。そして、そんなある意味で不器用な男たちに「色々な看護師が存在して良いのだ」というフィードバックを与える教員に、Jovianは赦しを与えられたように感じた。Redemptionである。漫画『 おたんこナース 』の最終話と同じく、多様性を許容する土壌と度量がフランスにはある。伝え聞くところによると日本の看護学校は大昔から、知識、器用さ、寄り添う心のすべてを学生に求めるようである。Jovianは自分で言うのもアレだが知識面は問題なかったが、寄り添いの心と手先の器用さに当時は難があった。そのことを教員に責められもした。受け持ちの患者さんが急変し、緊急手術になったと泣いていた学生を怒鳴りつける教員などもいたのである。泣いても解決にならないのは確かであるが、しかし、死にそうになっている人に対して動揺し、涙を流してしまうという感性は決して否定されるべきではないはずだ。十人十色という多様性を肯定することわざの意味を考えるべきであろう。本作に出てくる教員の一人が言う「自分の感性を受け入れれば、それは仕事の妨げにはならない」という言葉は、多くの看護学生への励ましになるだろうし、ドロップアウトしたJovianのような人間にとっては福音にも聞こえる。

 

看護師というと白衣の天使だとか何だとか言われるが、実際には苦悩する血肉のある人間なのである。学生ならば尚更である。そうした学生と教員、指導現場のスタッフとのやりとりをほとんどありのままに切り取った本作は、ドキュメンタリーとしては異色であるが、人間の根源に迫っているという意味では王道である。

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ネガティブ・サイド

一部のテクニカルタームは一般人にはさっぱりであろう。というか看護学校中退のJovianにもよくわからない話が時々あった。カジュアルであろうとディープであろうと、通常の映画ファンにはわかりづらい場面が多いかもしれない。特に頭で場面場面を分析しながら観るスタイルの人には疲れる映画だろう。

 

また、当然至極ではあるが、スペクタクルなカメラワークなども存在しないし、視覚的に訴えてくるような演出もない。BGMすらない。つまりは、シネマティックではないということである。そのためかどうかは分からないが、Jovianの嫁さんは前半は船を漕いでいた。

 

また特定の登場人物にフォーカスしていないので、感情移入しづらいかもしれない。彼ら彼女らの名前も一切明らかにされないので、シーンごとに入り込めないと、非常に傍観者的な気分にさせられるだろう。

 

総評

エンターテインメントではないが、上質なドキュメンタリーである。看護師の卵たる学生や本職のプロの看護師、それに医療従事者、さらに教育者や親やサラリーマンなども、本作からは多大な示唆を得られるだろう。人と人との対話や交わりに関して、非常に inspirational な作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語会話レッスン

Oui, s’il vous plait

英語では“Yes, please.”、日本語では「はい、お願いします」となる。学生が教員「に実際に手本を見せようか?」と言われて、“Oui, s’il vous plait”と返すシーンがある。“Non merci”とセットで身につけておきたいフランス語の基本的表現である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, ドキュメンタリー, フランス, 監督:二コラ・フィリベール, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 人生、ただいま修行中 』 -看護師の卵に光を当てた異色ドキュメンタリー-

『 サウナのあるところ 』 -裸の男たちを追う異色のドキュメンタリー-

Posted on 2019年10月21日 by cool-jupiter

サウナのあるところ 60点
2019年10月17日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:カリ・テンフネン
監督:ヨーナス・バリヘル 監督:ミカ・ホタカイネン

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原題はフィンランド語でMiesten vuoro、英語に無理やり翻訳すると、manly turnまたはmen’s turnとなるようだ。「男たちの番」「男性のターン」ということか。日本では少し前からサウナブームらしい。Jovianは平成最後の日を近所の「昭和温泉」という銭湯で過ごす程度には風呂好き、銭湯好きである。もちろん、サウナも嫌いではない。しかし、本作はさっぱりと汗を流したような爽快感を得られる作品ではなかった。

 

あらすじ

老夫婦がサウナに入っている。夫は甲斐甲斐しく、妻の背中を手でこすり、洗い流してやる。「51年、この背中を流してきたんだな」と感慨深げに語る。別の中年男たちは、ふと生い立ちを語り合う。老人たちは妻との死別や新しい出会いについて語る。フィンランドの男たちが、サウナという空間で訥々と語り始めて・・・

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ポジティブ・サイド

『 雪の華 』がフィンランドの美しい街並み、容赦のない寒さ、そして奇跡のような夜空の美しさを捉えたのとは対照的に、本作が映し出すのは極めてのどかな田園風景である。そして、電話ボックス的な個室サウナに、キャンピングカーを改造したサウナなど、我々の常識を遥かに超えるサウナの数々が描かれる。これは面白い。映画というのはたいていの場合、異国の地のエキセントリックさを際立たせるものであるが、本作を通じて我々が目にするのは、人間、特に男性に普遍的な不器用さなのである。つまり、我々の目からすれば奇異な環境、状況に身を置きながら、彼らの口から語られる言葉の一つひとつが、リアリティを以って我々に迫ってくるのである。それは多くの場合、自身の不幸な生い立ちであったり、仕事中に取り返しのつかないミスを犯してしまったことだったり、家族に起こった不幸であったりする。中には、とても心温まるエピソードが語られることもある。だが、それはプールであったり、更衣室であったりと、サウナ以外の場所で語られることが多い。

 

つまりは、そういうことなのだ。サウナという閉鎖空間は、フィンランドの男たちの憩いの場いであり、社交場であると同時に、カウンセリング・センターでもあるのだ。彼らはみな裸で、ヨボヨボであったり、ムキムキであったり、タプタプであったりするが、内面は、つまり心はとてもナイーブな男たちだ。そんな彼らが外面の虚飾を脱ぎ去り、文字通りに赤裸々に胸の内を語る。聞くも涙、語るも涙な事柄すらも語られてしまう。サウナは基本的にとても狭い。それゆえに必然的に男たちは身を寄せ合う。そこに我々が見出すのは、決して弱さや情けなさではない。人種や国境、世代というものを超えた、男という哀れで悲しい生き物たちの、それでも雄々しく生きていく姿である。ある人物が、「さあ、蒸気(ロウリュ)を足そう」というのは、武士の情けと通じるものがあった。これについては、そのアナロジーをワンポイント英会話レッスンで補足したい。

 

ネガティブ・サイド

実は地味にR15指定である。登場人物のほとんどは男性であるが、かなりの人が男性自身を丸出しである。カメラもそれを敢えてフレームに収めており、当然のことながらモザイクは無い。性的な意図は込められてはいないが、性別を問わず、人によってはネガティブに捉えるかもしれない。

 

別にエロ親父的な目線で言うわけではないが、サウナにおける女性同士の語らいが無いのは何故だろうか。ほんのわずかでよいので、ガールズ・トークでも魔女トークでもよいので収録されていれば、男性以外にもアピールする力のある作品になれたのではないだろうか。

 

ほとんどが郊外あるいはのどかな田園風景が広がる地方での撮影である。もう少し都市部でのサウナと、その空間内の人々の営みというものも見てみたかった。『 かもめ食堂 』でもレンタルしてくるか。

 

総評

かなりヘビーな内容である。男性の裸よりも、話の内容の方が重たくてしんどい、という人の方がマジョリティだろう。それでも、人は皆、裸で生まれてくる。赤ん坊はタブラ・ラサだ。共通点は人間であることだ。そして、人間であるからには、心がある。心があるということは傷つくことがあるということだ。そのような傷ついた心、そして癒しを求める心の姿が、ある意味では裸以上に露わになる空間としてのサウナにフィーチャーした本作は、比較文化人類学的な観点からは非常に貴重な資料である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

A man is not supposed to cry.

 

終盤近くで、とある男性が自身の悲嘆について(フィンランド語で)このように語る。彼はまた「男にできるのは、黙って酒を飲むことだけ」とも言う。まるで河島英五である。『 酒と泪と男と女 』の世界観である。be supposed to Vで、「Vすることになっている」のような意味である。Jovianが大ファンであるロッド・スチュワートのフェイセズ時代にテンプテーションズの“I Wish It Would Rain”をカバーしていた。その歌詞でもEveryone knows that a man ain’t supposed to cry. とある。古今東西、男とはそのような生き物であるようだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, カリ・テンフネン, ドキュメンタリー, フィンランド, 監督:ミカ・ホタカイネン, 監督:ヨーナス・バリヘル, 配給会社:kinologue, 配給会社:アップリンクLeave a Comment on 『 サウナのあるところ 』 -裸の男たちを追う異色のドキュメンタリー-

『 フリーソロ 』 -Ain’t no mountain high enough-

Posted on 2019年9月19日2020年4月11日 by cool-jupiter

フリーソロ 70点
2019年9月16日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アレックス・オノルド
監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ 監督:ジミー・チン

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ミハエル・シューマッハの容態が好転しつつあるとの報があった。ふとアイルトン・セナの事故死を思い出した。モータースポーツの危険性は改善はされたものの、依然残っている。マリンスポーツ然り、スカイスポーツ然り、ボクシングを始め格闘技は言うに及ばず。だが最も危険なのはmountaineering、特に安全用の装備や危惧を一切用いないフリーソロは自殺行為と呼んでも差し支えないだろう。なぜそのような危険な営為に従事する人々が存在するのか。本作はそこに一定の回答を提示する。

 

あらすじ

アレックス・オノルドは世界最高レベルのクライマー。彼には夢があった。ヨセミテ国立公園の巨岩エル・キャピタンをフリー・ソロで登攀すること。練習と鍛錬を積み重ねたアレックスは遂にフリー・ソロでエル・キャピタンに挑む・・・

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ポジティブ・サイド

NHKの『 体感!グレートネイチャー 』でヨセミテ特集を観たことがある。エル・キャピタンかどうかは定かではないが、寝袋に収まってミノムシの如く岩肌にぶら下がっているクライマーを見て、クレイジーな人間がいるものだ、と感じたことはよく覚えている。しかし、アレックス・オノルドはさらにクレイジーだ。安全装備なしで、この巨岩に挑むというのだから。

 

登山家とクライマーはおそらく別人種だろうなと思わされた。登山を趣味にするのは経営者や医者が多いと言われる。俗世のストレスなどから一時的に逃れたいのだろう。アレックス・オノルドのようなクライマーは天然生粋のアスリート型なのだろう。殴られると痛い、減量はきつい、報酬は人気が出ないと上がらないというボクシングのようなもので、「なぜ登るのか?」とアレックスに尋ねれば、“Because I can’t sing or dance.”と答える可能性は高そうである。アレックスはヴァンで暮らすベジタリアン。収入は成功した歯科医ほどあるが、家を買ったりすることには興味が無い。ガールフレンドはいるが、手を焼かされるというか、文字通り骨を折らされている。グーグルの創業者二人が受けたことで注目を集めたモンテッソーリ教育をアレックスも受けているのだが、もしもアレックスのような個人が日本にいれば、きっと京都大学へ行くのだろう。変人は京大では褒め言葉らしいから。Jovianは現役時代に京大に落ちたからな!

 

Back on track. ドローンをふんだんに使った本作のカメラワークは文字通りに息を飲む。また、エル・キャピタンに挑むアレックスには荘厳なBGMが似合っているが、そこにはお決まりの映画的演出が一切ない。一瞬足を踏み外した、指にかかったはずの岩に亀裂が入った。そんなクリシェは一切存在しない。そんなものを入れる余地はない。だからこそ、アレックスは気にする素振りも見せなかったが、観客側が肝をつぶすような瞬間が撮影されている。Jovianはこの瞬間にイスから飛び上がってしまった。ドキュメンタリーでしか出せない味であり迫力である。

 

ネガティブ・サイド

クライマーのなかでもフリー・ソロをやるのは1%未満ということで、それだけ難易度も危険度も高いことが分かる。もちろん一般人たる我々にもその危険性は直感的に分かるが、それをもっとエキスパートの視点から語ってもらいたかった。アレックスのメンター的存在、練習パートナー的存在のクライマーは登場するが、その他に登場するのは個人となたクライマーの写真が多かった。もっと現役のクライマーたちに、エル・キャピタンとはどのような存在か、それにフリー・ソロで挑むのは、ドン・キホーテよりもクレイジーなことであると語ってもらいたかった。

 

ドローンによる撮影技術は素晴らしかったが、アレックスの見ている世界を我々も見てみたかった。例えば『 クリード 炎の宿敵 』で、コーナーにくぎ付けにされたクリード視点でヴィクター・ドラゴのパンチを雨あられと浴びるシーンがあったが、あのような当事者の視界というものを体験してみたかった。アレックス本人のそれは無理にしても、他のクライマー(もちろんロープや安全器具を使った状態で)に小型カメラ付きの帽子なりヘルメットなりをかぶってもらって撮影することもできたのではないだろうか。

 

総評

非常に力強いドキュメンタリーである。ボルダリングがスポーツとして普及しつつある今、本家ロック・クライミングに興味のある人も増えてきているのではないだろうか。そうした人々が見ても楽しめるだろうし、普通の映画ファンが見ても充分にスリリングである。ドキュメンタリー好きならば、劇場の大画面で鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get a feel for someone/something

 

文字通り、「感触を得る」という意味である。劇中ではget a feel for the route = ルートの感触を得る、という具合に使われていた。

get a feel for the new car

get a feel for the atmosphere of the city

get a feel for what this computer is capable of

これも状況・文脈に応じて練習してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, アメリカ, アレックス・オノルド, ドキュメンタリー, 監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ, 監督:ジミー・チン, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 フリーソロ 』 -Ain’t no mountain high enough-

『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

Posted on 2019年8月7日 by cool-jupiter

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 80点
2019年8月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ポール・ホルデングレイバー
監督:フレデリック・ワイズマン

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エクス・リブリスとは、Ex librisである。exはラテン語でfromの意、librisはliber=本の複数形の奪格である。つまり、From the booksと訳すことができる。本の所有者を示すために、しばしば使われる標語のようなものである。では、ニューヨーク公共図書館の蔵書の所有者とは誰なのか。それを追究しようというのが、本作の刺激的なテーマである。

 

あらすじ

ニューヨーク公共図書館の本館と分館にそれぞれカメラが入り、各図書館ごとに特色あるサービスを提供している様子を捉えていく。そこから、公共の意味、知識の意味、世界の未来像が浮かび上がってくる。

 

ポジティブ・サイド

ドキュメンタリー映画でありながら、本作にはナレーションが存在しない。いや、ナレーションが存在しないドキュメンタリーは他にもある。『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』にもナレーションは無かった。本作の最大の特徴はインタビューが存在しないこと、これである。ただ淡々と、図書館で働く人々、図書館を利用する人々の姿を映していく。彼ら彼女らの話、働きぶり、行き方来し方によって、ニューヨークの街、ひいては全米、そして世界における「公共」の意味や「知識」の意味が見えてくる。静かでありながら、非常に野心的で刺激的である。なぜなら、ITだ、デジタル化だ、IoTだと叫ばれるこの時代に、アナログの極致とも言える書物に積極的な意味を見出しているからだ。法条遥の『 リライト 』ではアナログの図書館を指して未来人の保彦は「何という無駄!」と叫んだ。書物に込められた情報だけに着目すれば、蓋し当然の感想であろう。しかし、書物にそれ以上の価値を認めるならば、話は別である。『 アメリカン・アニマルズ 』でも、アメリカ建国時代の書物は、おそらく『 ナショナル・トレジャー 』級のお宝だと見積もられている。何故か。

 

それは、書物が紙とインクという唯物論的存在ではなく、書く者と読む者との間の時間と空間を超えた相互作用として立ち現われてくるからだ。そして、それはニューヨークという街についても当てはまることなのだ。ある分館では、図書がベルトコンベアーで運ばれ、それを図書館員たちが仕分けしていくシーンがあるのだが、その直前に映し出されるのはニューヨークの街の鉄道(『 スパイダーマン2 』でトビー・マグワイアが暴走を止めたものかもしれない)なのである。街を走る鉄道が、図書館内のベルトコンベアーに、街行く人々が、図書館内の書物に例えられているのである。図書館とは、図書を保管し、貸し出すだけの場所ではない。それは人と人との交流の場であり、過去の資産を未来に間違いなく届けるためのタイムカプセルでもあり、なおかつ街、ひいては世界の縮図なのである。

 

我々は図書を物理的な物体として考え、扱うことに余りにも慣れ過ぎている。しかし、それは目が見えるものや手指に不自由を抱えていない者の発想ではないか。ニューヨーク公共図書館が利用者として積極的に含めようとしている障がい者や求職者は、現代日本ではむしろ疎外の対象になっていないか(この点で、れいわ新選組の選挙戦略だけは特筆大書に値する快挙だった)。考えてみれば、図書館とは非常に融通無碍な場所である。我々は中華料理屋やインドカレーショップ、寿司屋といった存在にあまりにも普通に接してきたために、食べ物・・・ではなく事物というものは、そもそも分類されて然るべきものという思考の陥穽にハマりがちである。しかし、巨大な図書館は洋の東西も歴史の古い新しいも清も濁も玉も石も区別しない。究極のダイバーシティがそこに顕在化している。

 

再び翻って日本はどうか。【 戦後憲法裁判の記録を多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に 】などという、歴史修正主義を通り越して、歴史廃棄主義とでも呼ぶべき暴挙がまかり通っている。公文書改竄に飽き足らず、公文書を廃棄するのがこの国の与党の実態である。まさに焚書である。『 図書館戦争 』的な世界の現出も近いのかと不安になる。次は坑儒か。埋められるのは誰になるのか。

 

Back on track. 本作ではJovianが私淑している梅田望夫の著書『 ウェブ進化論: 本当の大変化はこれから始まる 』の記述を裏付ける描写がある。つまり、ニューヨークに住む人間の1/3は自宅でインターネットにアクセスできないのだ。これは前掲書の「いやあ、アメリカってネット環境は遅れているのに、ネットの中はすごいんですねえ」という、とある日本人の感想と一致する。森内閣がイット革命ならぬIT革命を強烈に推進してくれたおかげで日本のネット接続環境は世界でもトップクラスである。しかし、肝心要のネットの中身はどうか。日本語圏という、ほぼ閉じた空間にしかアクセスできないのではないか。ニューヨーク公共図書館がネットへの接続を推進する背景には、英語でのコミュニケーション可能空間が広がっているいるからということもある。だが、それ以上に、ネット空間が図書館という空間とフラクタル構造を成していることも見逃せない。世界最大級の超巨大図書館があらゆる地域、時代、著者、内容の書物を飲み込んでいくのと同様に、インターネットの世界にもダイバーシティが存在する。そしてそれは、取りも直さずワールド・シティーたるニューヨークが世界の縮図になっていることと相似形を成している。

 

もちろん、森羅万象は美しいものだけで構成されているわけではない。そこには上っ面だけを糊塗した偽物も存在する。そうしたものに激しい批判を加える知識人の姿も本作は活写する。一例を挙げよう。アメリカ史における最大の負の遺産である「奴隷」を、文献によっては「労働移民」と体よく言い換えているのである。これは『 主戦場 』で化けの皮が剥がれた、「慰安婦」を「姓奴隷」と言い換えるロジックと根本的に同じことである。実に鋭い現実批評であり、フレデリック・ワイズマン監督の意識の根底に人権や人道とは何かという問いが常にあることを示している。

 

ネガティブ・サイド

ほとんど批判すべき箇所が見当たらないが3点だけ。

 

1つには、主人公と呼べる人間が見当たらなかったこと。会議のたびにリーダーシップを発揮するオジさんはいたが、それだけで彼に感情移入することは難しかった。

 

2つには、この巨大図書館の深奥に眠っているはずの貴重な書籍、一般人閲覧不可の書籍、まさに『 アメリカン・アニマルズ 』で盗難されたような書籍を見てみたかった。

 

3つには、上映時間の長さである。なんと205分である。これではまるで『 アラビアのロレンス 』だ。他の劇場ではどうったのか分からないが、シネ・リーブル梅田では2時間超ドのあたりで10分休憩が設けられていた。長すぎる作品も考えものである。

 

総評

これは大傑作である。弱点もあるが、それを補って余りある“観る者の想像力と知性を刺激する構成”がある。ニューヨークの図書館という一見するとローカルな施設が、人類にとっての普遍の価値を追求しようとしていることに畏敬の念を打たれない者はいない筈だ。現代日本の抱える問題の解決方法への鮮やかな示唆もある。異色のドキュメンタリーであるが、食わず嫌いはいけない。必見の傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ボール・ホルデングレイバー, 監督:フレデリック・ワイズマン, 配給会社:ミモザフィルムズ, 配給会社:ムヴィオラLeave a Comment on 『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

『 主戦場 』 -右派と左派の対立を超えた歴史への眼差し-

Posted on 2019年7月1日2019年7月1日 by cool-jupiter

主戦場 80点
2019年6月30日 シアターセブンにて鑑賞
出演:吉見義明
監督:ミキ・デザキ

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アメリカにD・トランプ大統領が爆誕して以来、The United States of AmericaはThe Divided States of Americaになったとよく言われる。しかし、分裂の萌芽はすでにオバマ政権時代に見られていたというのが正しい。現代アメリカ政治史に切り込む愚は犯したくないが、国民の分裂が幸福につながったことは歴史上ないはずである。そのことを念頭に本作を観る人はどれだけいるだろうか。

 

あらすじ

テキサスの一中年男性が、YouTubeに「慰安婦像をアメリカに建てないでくれ。日本と韓国の争いにアメリカを巻き込まないでくれ」と訴える動画を投稿する。そのことにミキ・デザキは関心を抱き、このムーブメントの根底にある潮流を、様々なインタビューなどを通して明らかにしていこうとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

これまで議論の的になることがあまりなかった、それゆえに一般的な認知度が低い従軍慰安婦の問題に、今というタイミングで切り込んだこと。そのことを評価しなければならない。監督、脚本、撮影、編集、製作、ナレーションの全てを担当したミキ・デザキの炯眼である。一つには、歴史の生き証人たる元慰安婦の方々が年齢的に限界が近いこと。もう一つには世界的に弱者やマイノリティへの意識が高まっているにも関わらず、それに逆行する動きが極東地域で見られるということである。

 

慰安婦問題の何が問題であるかについては、本作を観るのが良い。編集の妙もあろうが、日本の保守派、右派とされる言論人たちの言論がいかに空虚で、倫理の二重基準が適用されているかを知ることができる。彼ら彼女らに共通するのは、論理や言説を巧みに操り、ある時は論点をずらし、ある時は問題を矮小化しようとし、またある時には問題を一挙に巨大化、普遍化させようとすることである。だが、そこには人間が持つべき、そして持つことができる最も素晴らしい力である「想像力」が欠落している。Jovianの周囲にも、歴史の勉強会に積極的に参加しては、「既存のメディアやインターネットでは分からなかった歴史の真実を知ることできました!貴方もぜひ参加してみてください!」とのたまう人がいるのである。彼ら彼女らの学んだ内容はと言えば「慰安婦は強制連行ではなくて、れっきとしたビジネスだったんです!日本軍が当時の朝鮮半島の人たちにちゃんとお金を払っていたという公式の文書があるんです!」だったりする。想像力の欠如もここまで来てしまったのかと慨嘆させられるが、そうした人たちには『もしも貴方の家に米軍兵士が銃剣を携えてやって来て、「1000ドルやるから娘を貰って行くぞ」と言われて反論できそうですか?』と尋ねている。あるいは、『沖縄で定期的に起こる米軍兵士による日本人女性へのレイプ事件をどう思いますか?』と尋ねている。結果はどうか。わずか3名程度であるが、全員と連絡が途絶えた。別に後悔はしていないし、これからも同様の姿勢を維持していこうと思おう。

 

Jovian自身、大学生の時に2回フィールドワークをしたことがある。1つは、日本の姓名の豊かさの起源を巡るもの。もう1つは、在日韓国朝鮮人の人たちがなぜ日本に来て、なぜ日本に残ったのかをインタビューするものだった。日本軍がある時、突然村にやってきて、ジープやトラックで人間をさらっていったということは全くなかったらしい。というよりも、Jovianがインタビューした3名の方が共通して言っていたのが「良い仕事あります!3食付き、住居保障!」といった求人にまんまと騙されてしまったということだった。なぜ戦後も日本に滞在することを選んだのかについては、「来る時に騙されたのに、帰してやると言われても信じられなかった」というものだった。蓋し当然の論理的な帰結であろう。

 

Jovian自身は政治的にも思想的に中立を以って自らを任じているつもりである。右派の主張にも左派の主張にも等しく耳を傾けることができると自負している。しかし、そんなJovianにしても、桜井よしこや杉田水脈の言説は聞くに堪えない。今すぐにでも耳を洗いたいという衝動に駆られる。特に杉田の言う「韓国や中国は技術的に日本に優る家電を作れないので、ネガキャンして日本の評判を下げるしかないわけですね」との主張には卒倒しそうになった。家電って、アンタ・・・ サムスンやLG、HUAWEIの技術水準を知らないのか。深圳市の発展スピードを知らないのか。『 FACTFULNESS: 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 』を読んでないのだろうか。読んでいないのだろう。だが、いやしくも知識人または政治家の端くれであるならば、最低限の勉強はすべきだ。

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デザキの視線は日本の右派・保守派だけに向けられているわけではない。韓国社会が伝統的に、教条主義的に報じてきた儒教的価値観も俎上に載せ、そこに弱者に対する眼差しが欠けていたことを糾弾する。彼の視線はさらに、母国のアメリカにも向けられる。詳しくは本作を鑑賞してもらうより他は無いが、八切止夫の『 信長殺し、光秀ではない 』の解説でも言及されていた「我々がいかにアメリカという国に信を置くことができないのか」という視点が共有されていることに驚かされてしまう。デザキの視線は過去に向けられているわけではない。現在、そして未来に向けられている。右だ左だと騒いではならない。歴史を割って見ることができれば、「今」という時点に大きな活断層が認められるはずだ。そのことを見事に炙り出したという意味で、本作には非常に大きな意味が認められる。本作に触発されたという方は『 否定と肯定 』も鑑賞されたし。人間の尊厳と国家と国家の対立構造の根深さに思いを馳せたという向きには『 判決、ふたつの希望 』をお勧めする。

 

ネガティブ・サイド

作中で1997年を日本の思想史における転換点と位置付けており、それは正しい。しかし、オウム真理教事件を経て、漫画家以上の言論人としての地位を得た小林よしのりへのインタビューがないのは何故なのか。1995~2000年というのは、Jovianの高校生~大学生時代と一致しており、思想的にまっさらな連中は結構簡単にゴーマニストに変身していた。リベラル色の強い国際基督教大学の学生でもこの有様なのだから、当時の他大学は推して知るべしであろう。そうした国民的な思想の分断や乖離、無知や無関心を伝える市井の人々へのインタビューがもっとたくさん収録されていてしかるべきだった。このあたりはマイケル・ムーアに素直に倣うべきだ。

 

アメリカ国内での慰安婦像の建立の意義を、もっと明確に語るべきではなかったか。ネット上の言説で、「アメリカの地方政治は韓国系や中華系に乗っ取られている」という痴人か狂人にしか吐けない言辞を弄する者を多数見てしまった。韓国人のロビー活動力の象徴ではなく、人権や人道に対する罪への反省の象徴としての慰安婦像であるということをもっと明示的に語るべきだった。

 

総評

Jovianが私淑している奥泉光と恩師、並木浩一によれば、「歴史は多層である」、そして「歴史はフィクション」である。これは歴史には多様な見方があるだとか、史料は信用に足るものではない、といった言説では一切ない。歴史とは現在と未来に対する遠近法的な視座を与えるものなのだ。歴史に幻想を見る者は、未来にも幻想を見ている。市民ならばそれもよい。しかし、公人中の公人たる内閣総理大臣が幻想に踊らされてはならない。本作は立ち見(正確にはパイプ椅子に座って)も出るほどの盛況で、終映後にはまばらにだが拍手も自然発生した。惜しむらくは観客のほとんどが50代以上に見えたこと。雨の影響もあったのかもしれないが、未来を担うべき若い人たちにこそ観てもらいたい。歴史を恥じてはならない。歴史を背負い、その上で新しい歴史を作っていってもらいたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, 吉見義明, 監督・ミキ・デザキ, 配給会社:東風Leave a Comment on 『 主戦場 』 -右派と左派の対立を超えた歴史への眼差し-

『 RBG 最強の85歳 』 -日本からは出てこない破天荒ばあちゃん-

Posted on 2019年5月30日2020年2月8日 by cool-jupiter

RBG 最強の85歳 70点
2019年5月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ルース・ベイダー・ギンズバーグ
監督:ベッツィ・ウェスト ジュリー・コーエン

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来年2020年は、アメリカ合衆国憲法修正第19条から100周年にあたる。だからこそ、ヒラリー・クリントンは大統領選に出馬したわけだ。『 ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ 』が遠因で落選したわけだが。2020年には20ドル札の表面にハリエット・タブマンがデビューする記念すべき年で、女性の社会進出およびそれを成し遂げる原動力になった人々を顕彰しようというムーブメントが起きている。ルース・ベイダー・ギンズバーグにフォーカスした『 ビリーブ 未来への大逆転 』もその一環だったわけである。

 

あらすじ

85歳という高齢でも、アメリカ合衆国最高裁判所の現役判事として活躍を続けるルース・ベイダー・ギンズバーグの人間性に迫るドキュメンタリー。彼女はいかにして法律家となり、女性差別撤廃の先鞭をつけ、現代アメリカ社会のアイコンの一つにまで登りつめたのかを活写する。

 

ポジティブ・サイド

『 ビリーブ 未来への大逆転 』でも強調されていたことだが、RBGが輝かしいキャリアを築くことができたのは、女性の地位向上に固執したからではなく、男性が強いられる不平等の是正にも尽力したからだ。そのことが、本作ではよりクリアーに描かれている。平等というのは、もしかすると世界平和と同じくらいに達成が難しいのかもしれない。人はしばしば虐げられた状態から平等に扱われるようになったとしても、それ以上の待遇の是正を求めがちになるからだ。そのことはマルコムXの言葉、「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか」によくよく表れている。白人を男性に、黒人を女性に置き換えてみても、この言葉に説得力があると感じるのはJovianだけではないはずだ。そして、アメリカ社会はオバマ大統領を誕生させたわけだが、彼が選択した統治の方針はマルコムXのそれではなく、RGBの(正確にはサラ・グリムキの)「私が同胞の男性諸氏に求めるのは、私たちの首を踏みつけるその足をどけてくれということ」という思想に添ったものだった。そして、そのことが黒人層の不満につながり、The Divided States of Americaを、つまりはトランプ政権の爆誕につながったのは皮肉であるとしか言いようがない。だが、だからこそRBGの現実的な感覚がなお一層強く支持され、求められるようになったとも言える。トランプ候補への彼女の苦言は、咎められはしたものの、この文脈で考えれば、必然的であったとも考えられる。

 

閑話休題。本作は、RBGの夫や子ども、それに過去の判例の関係者らの詳細な証言を集めることに成功している。特にビル・クリントン元大統領の回想シーンは、近現代のアメリカ政治史に関心を抱く者ならば必見必聴であると言えよう。彼女には彼女なりの信念があり、国家の柱石としての自負もある。彼女のワークアウトのシーンに、Jovianは思わずNHKの番組『 「素数の魔力に囚(とら)われた人々~リーマン予想・天才たちの150年の闘い」 』におけるルイ・ド・ブランジュ博士を思い出した。ドキュメンタリとしては、そこそこ面白いが、数学専門の大学生や大学院生に言わせると「色々なものを端折り過ぎ」た番組らしい。興味のある人はYouTubeで視聴してみてはどうか。

 

またまた閑話休題。RGBがどれほどのポップ・アイコンになっているかをまざまざと見せつけてくれる物まね芸人が登場するが、物まねの本質とは、目立つ特徴を適度に誇張することであることがよく分かる。完全なるコピーでは面白くないのだ。ユーモアとは対象と適切な距離を取ることで生じるが、物まねに思わず噴き出すRBGを観て、滑稽だと思うか、微笑ましく思うか。おそらくフローレンス・ナイチンゲールが現代に蘇り、自身の物まね芸人をテレビで観れば、後者の反応を見せるのではないか。象徴となったRBGと人間であるRGB。この二つの間の隔たりに思いを馳せてみれば、最近代替わりを経験した日本という国の象徴へ向ける国民の眼差しも、少しは違ってくるのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

RBGの妻として、そして母としての側面が強く打ち出されていたが、RBGと彼女自身の母親との関係を描くのに、もう少し時間を使って欲しかったと思う。彼女の強さは母譲りであり、また母の遺言通りなのだが、RBGという突然変異的な個体から全てが始まったのではなく、彼女の母やサラ・グリムキなどの運動家にも、もう少しだけ光を当てて欲しかったというのは望み過ぎだろうか。『 シンデレラ 』における母と娘の別離は、RBGから来たのではないかと思えてしまうぐらいのだから。

 

総評

ドキュメンタリとしては、『 サッドヒルを掘り返せ 』に次ぐ面白さである。女性が女性を差別して恥じないどこかの島国の政治家連中に強制的に視聴させてやりたい作品である。おそらくRBGも近い将来にアメリカ紙幣に載るだろう。そう確信させてくれる作品である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ルース・ベイダー・ギンズバーグ, 監督:ジュリー・コーエン, 監督:ベッツィ・ウェスト, 配給会社:ファインフィルムズLeave a Comment on 『 RBG 最強の85歳 』 -日本からは出てこない破天荒ばあちゃん-

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