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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ウッディ・ハレルソン

『 ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ 』 -バトルシーンがイマイチ-

Posted on 2021年12月18日2024年7月27日 by cool-jupiter

ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ 45点
2021年12月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トム・ハーディ ミシェル・ウィリアムズ ウッディ・ハレルソン 
監督:アンディ・サーキス

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『 ヴェノム 』の続編。普通の地球生物ではヴェノムには勝てないので、ヴェノム自身からライバルを生み出した。アメコミでは『 スーパーマン 』以来のお約束である。

 

あらすじ

かつての売れっ子ジャーナリストのエディ(トム・ハーディ)は、地球外生命体ヴェノムに寄生されながらも、奇妙な共同生活を送っていた。しかし、かつての恋人のアン(ミシェル・ウィリアムズ)とは復縁できず、ジャーナリストとしての信用も取り戻せずにいた。そんな時、シリアルキラーのクレタス(ウッディ・ハレルソン)が「洗いざらいを話して、伝記を書かせてやる」とエディに話を持ち掛けてきて・・・

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ポジティブ・サイド

エディとヴェノムの掛け合いは本当に面白い。『 寄生獣 』のミギーも阿部サダヲの意外に可愛げのある声のおかげで非常にユーモラスなキャラになっていたが、こちらのヴェノムはもはやギャグの領域。最も面白いのは、エディとヴェノムだけが分かるやりとり。特に、元カノのアンとの再会のシーンでのヴェノムの囁きには筆舌に尽くしがたい面白さおかしさと一掬のパトスがある。何が面白いかというと、ヴェノムの声もトム・ハーディが演じているところ。つまりは一人二役なわけで、元カノあるいは意中の相手を前にアプローチをかけられない男の内面の声を我々は聞かされるわけである。これが可笑しくない、さらに哀しくないわけがない。

 

なんやかんやでヴェノムとカーネイジが対決することになるが、単純な力と力のぶつかりあいではカーネイジに分がある。しかし、クレタスとカーネイジのコンビは、エディとヴェノムのようなバディになりきれていない。また、別の男とくっついてしまったアンも紆余曲折を経てエディとヴェノムに加勢してくれる。一方のカーネイジは、共生しているとは言い難く、そこにヴェノムたちの勝機がある。この対比は面白かった。

 

ポストクレジットでは「そう来たか」と思わせるシーンあり。ヴェノムというヴィランが、ついに本来のヴィランとしての立ち位置に戻ることを強く予感させる。ヴェノムに必要のは、ダークヒーローとしての活躍ではなく、ヒーローを(比ゆ的な意味で)食ってしまうヴィランとしての活躍。それがいよいよ拝めそうである。

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ネガティブ・サイド

自分でもうまく説明できないが、ヴェノムとエディがなんやかんやと掛け合いをしている時の方が、バトルアクション全開の時よりも面白い。これは何故なのだろうか。CG技術は過去10年だけでも相当に進歩したが、観る側がその凄さに気付けないのか、あるいは観る側はもはや高精細かつハイスピードのCGを求めていないのか。別に本作に限った話ではなく、スーパーヒーロー映画全般のバトルというのは、どんどん面白く感じられなくなている。まるで金太郎飴のように、どこをとっても同じに見えてしまう。ヴェノムというシンビオートであってもそれが同じであるというのは残念である。

 

本作の敵役であるカーネイジも、正直なところ『 スーパーマンⅣ / 最強の敵 』のニュークリアマンの焼き直しだろうし、『 ゴジラvsスペースゴジラ 』や『 ゴジラvsビオランテ 』ともそっくりで、困ったら主役の亜種というのは、洋の東西を問わずネタ切れ間近の時の常とう手段であろう。いずれにせよカーネイジはアメコミの典型的なヴィランで、これも食傷気味である。というか、何故カーネイジ = Carnage = 大虐殺を名乗っているのだろう。稀代のシリアルキラーに寄生したからには、その殺戮シーンを見せつけてもらわなければならない。そうでないと名前負けするし、ヴェノムとのコントラストも際立ってこない。

 

カーネイジの宿主たるクレタスや、その恋人であるフランシスもまさにテンプレ的キャラクター。シリアルキラーが特定の人物だけに秘密を打ち明けようとするのは『 羊たちの沈黙 』そっくりだし、フランシスの使うシュリークという絶叫系の技も『 X-MEN 』か何かで見たことがある。そもそもこれらのキャラクターの導入があまりにも唐突すぎて、物語に上手くフィットしているとは言い難い。もっと言えば、本作はヴェノムというキャラクターをより深く掘り下げるというよりも、次なるステージへのつなぎのように見えてしまう。

 

全体的に薄っぺらい印象がぬぐえず、本作単独での魅力、あるいは前作とのつながりといシリーズ物としての魅力に乏しいと評価せざるを得ない。

 

総評

ヴェノムをヴィランと思ってはいけない。愛すべきマスコットのような存在として見ることができるなら楽しめるはず。エンターテイメント要素はてんこ盛りであるが、人間ドラマのパートが皮相的である。ヴェノムとカーネイジの激突に必然性が薄いのもマイナスポイント。逆に、キャラが丁々発止に掛け合い、ドカンと派手にぶつかり合うアクションを純粋に楽しみたいという向きになら、十分にお勧めできる作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Another one bites the dust

「地獄へ道連れ」・・・というのはQueenの同名曲の邦訳。字義に忠実に訳せば、「もう一人が地面に倒れて土ぼこりを噛んだ」となる。つまり、また一人くたばった、の意。bite the dust はまあまあ使う表現で、その対象は人間だけではなく動物や事業も含む。He started a restaurant, but it bit the dust in a year. = 彼はレストランを始めたが、そこは一年で潰れた、のように使う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, D Rank, アクション, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, トム・ハーディ, ミシェル・ウィリアムズ, 監督:アンディ・サーキス, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンタテインメントLeave a Comment on 『 ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ 』 -バトルシーンがイマイチ-

『 スリー・ビルボード 』 -再鑑賞-

Posted on 2021年9月28日 by cool-jupiter

スリー・ビルボード 85点
2021年9月24日 dTVにて鑑賞
出演:フランシス・マクドーマンド ウッディ・ハレルソン サム・ロックウェル ルーカス・ヘッジズ
監督:マーティン・マクドナー

 

3年前ぶりの再鑑賞。前回のレビューはこちら。『 空白 』のテーマが”赦し”であると予告編でバラされてしまい、また妻がdTVの無料お試し登録をしたところ本作が available だったので、再鑑賞とあいなった。

 

あらすじ

娘を陰惨な事件でなくしたミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は地元の警察署長ウィロビー(ウッディ・ハレルソン)を責める内容の巨大ビルボードを街はずれに掲出した。やがてビルボードを巡り、ミルドレッドや街の人々、警察との対立が深まっていき・・・

 

ポジティブ・サイド

物語の始まりから終わりまで、一貫して unpredictable である。劇場鑑賞中に「こう来たら、次はこう・・・じゃないんかーい」と一人でノリ突っ込みをしていたことを思い出した。定石をとことん外してくるのが本作なのだが、そこに説得力がある。それは、一にも二にもフランシス・マクドーマンドの鬼気迫る演技。娘をなくした母親というだけでなく、苦悩する親、後悔する親というものを、恐ろしいほどのリアリティで体現している。

 

ウッディ・ハレルソン演じるウィロビー署長、横暴差別警察官を演じるサム・ロックウェル、ミルドレッドの窮地を救うピーター・ディンクレイジなど、とにかく悪人面だが、その内には人間性が宿っている。そして男が持つとされている包容力ではなく、弱い心や傷つく心を持っている。このあたりの、いわゆる人間の二面性を、ミルドレッドと彼女を取り巻く男たちとで比較対照してみると、人間の素のようなものが現われてくる。言葉の正しい意味でヒューマンドラマである。

 

ネガティブ・サイド

エンディングの余韻が少し弱い。もう少しだけミルドレッドとディクソンの間の会話というか空気を感じさせてほしかった。人は変われるし、人は人を赦すことができる。そうした本作のテーマをもう少しだけ映像とキャラクターのたたずまいで語って欲しかった。

 

総評

大傑作である。観ながら、ストーリーの非常に細かいところまで自分が覚えていることにびっくりしたが、それ以上に数々の伏線やセリフの妙、また役者たちの繊細かつ豪快な演技、それを捉える匠のカメラワークに唸らされた。日本の片田舎を舞台にリメイクできそうだが、これだけの人間ドラマを手がけられそうな監督がどれだけいるか。『 デイアンドナイト 』のテイストでドラマを再構築できるなら、藤井道人監督にお願いしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

put up 

直訳すれば「置いてup状態にする」ということである。劇中では put up the billboards という形で何度か使われていた。put up のコロケーションとしては、put up an umbrella = 「傘をさす」や put up a tent = 「テントを建てる」などがある。英検準1級、TOEIC730点以上なら知っておきたい(TOEICにはまず出ないが)。 

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, フランシス・マクドーマンド, ルーカス・ヘッジズ, 監督:マーティン・マクドナー, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 スリー・ビルボード 』 -再鑑賞-

『 ゾンビランド:ダブルタップ 』 -安住の地とは土地ではない-

Posted on 2019年11月27日2020年4月20日 by cool-jupiter

ゾンビランド:ダブルタップ 70点
2019年11月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ウッディ・ハレルソン ジェシー・アイゼンバーグ エマ・ストーン ビル・マーレイ
監督:ルーベン・フライシャー

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まさかまさかの『 ゾンビランド 』の続編である。リアルタイムでは10年を経ているが、ストーリー上では2~3年という感じだろうか。その中でも、ウィチタの妹のリトルロックが最も変化が大きいのは理の当然である。本作は彼女の成長を契機に始まる。

 

あらすじ

コロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)、タラハシー(ウディ・ハレルソン)、ウィチタ(エマ・ストーン)、リトルロックの4人はゾンビを撃退しつつ生き抜いていた。無害なゾンビ、賢いゾンビ、気配を消すゾンビなど、新種のゾンビも誕生する中、コロンバスの独自ルールは72に増えていた。だが、思春期を過ぎたリトルロックは父親面をするタラハシーをあまり快くは思っておらず・・・

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ポジティブ・サイド

オープニングシーンから笑わせてくれる。レディ・コロンビアがトーチでゾンビをぶん殴るのである。オープニングロゴに細工を施して観客を映画世界に誘うのは、これまでは20世紀フォックスの専売特許だったが、コロンビアもこの流れに乗ってくれた。歓迎したいトレンドである。

 

相変わらずゾンビをぶっ殺しまくっている。デ・パルマ・タッチのスローモーションに『 マトリックス 』のバレットタイムで描くのは、ルーベン・フライシャーが前作から変わらず採用する撮影技法で、こういうものにホッとさせられる。前作と本作がキャラクター以外の面でも地続きになっていると感じられるからである。

 

本作ではリトルロックが家出をする。いや、家といってもホワイトハウスに勝手に住みこんでいるだけなので、厳密には彼ら彼女らの家ではない。しかし、リトルロックの行動は家出以外に表現のしようはない。そのリトルロックを追うウィチタと、それを追うコロンバスとタラハシー。そこで出会う様々な人々とのドラマが本作の肝である。

 

ウィチタといい仲になったコロンバスであるが、基本的な童貞気質は変わっていない。プロポーズとは自分が盛り上がっている時に行うものではなく、相手が盛り上がっている時にするものである。そこのところを分かっていないコロンバスは、ゾンビ世界ではいっぱしのファイターかもしれないが、現実世界ではコミュ症かつ非モテとなるだろう。そこらへんの成長のなさが安心感をもたらしてくれる。

 

今作ではタラハシーにも春らしいものが訪れる。プレスリーをこよなく愛する彼が、女性から“I feel my temperature rising”などと囁かれては、奮い立たないわけがないのである。そして、今作のアクションでも彼が主役を張ってくれる。中盤の似た者同士バトルと最終盤の大量ゾンビとのバトルは見応えがある。特に中盤のバトルはワンカットに見えるように巧みに編集されているが、それによってスリリングさが格段に増している。また最終バトルはまさかの諸葛孔明の八卦の陣とタラハシーのルーツを融合させた、びっくりの作戦である。

 

途中で合流してくるパッパラパー女子がアクセントとして機能しているし、この頭と股がゆるめの女子のおかげで、観客はリトルロックのことを責めるのではなく心配してしまう。ややご都合主義的ではあるが、ゾンビ世界ではこういうキャラが存在しても全く不思議ではない。

 

前作から本作にかけて、この奇妙な4人組は疑似家族を形成するわけだが、それは安住の地を求める旅でもあった。ゾンビという恐怖の存在を、絶対に相容れない他者の象徴だと思えば、なんとなく現実世界とリンクしてくるものもあるのではないだろうか。血の繋がりではなく、育んだ絆の強さ。それが人間関係の根本なのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

コロンバスのルールが増えるのはよいとして、それをしっかり順守しよう。後部座席のっチェックは基本中の基本ではないか。ジェシー・アイゼンバーグ本人もルーベン・フライシャー監督も、スタッフの誰も気付かなかったのだろうか。

 

せっかく新種のゾンビも出てきたというのに、紹介されただけで終わってしまったゾンビもいる。なんと不遇な存在であることか。そのゾンビの名前を知れば、某国の映画ファンは歯痒さを覚えるのだろうか。

 

この世界で本当にゾンビを寄せ付けない楽園を築こうとするならば、バリケードだけでは不足だろう。バリケードの内側に堀を作り、さらに跳ね橋を設置するべきだ。平和主義者のヒッピーらしいといえばらしいのかもれしれないが、よくあれで生き延びることができたなと逆の意味で感心させられた。ゾンビの進化に合わせて、人間も進化しなくてはならない。

 

総評

前作に負けず劣らずのユーモラスなゾンビ映画である。本作からいきなり鑑賞する人は少数派だろう。しっかりと前作を鑑賞した上で臨むべし。そうそう、エンドクレジットが始まっても、絶対に席を立ってはいけない。本作最大の見せ場は最後の最後にやってくるからである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You’ve got to snap the f**k out of it.

『 影踏み 』でも紹介したsnap out of itが本作で使われている。リトルロックを追ってウィチタが出て行ったことにいつまでもウジウジしているコロンバスに対して、タラハシーが上の台詞を言い放つ。Fワードが入っているのはご愛敬。このFワードを正しく使えるようになれば、英語中級者でコミュニケーション上級者である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, エマ・ストーン, コメディ, ジェシー・アイゼンバーグ, 監督:ルーベン・フライシャー, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 ゾンビランド:ダブルタップ 』 -安住の地とは土地ではない-

『 ゾンビランド 』 -ゾンビエンタメの佳作-

Posted on 2019年5月7日 by cool-jupiter

ゾンビランド 70点
2019年5月6日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:ウッディ・ハレルソン ジェシー・アイゼンバーグ エマ・ストーン ビル・マーレイ
監督:ルーベン・フライシャー

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夏の風物詩といえば、ゾンビ映画かサメ映画である。おそらく商業ベースで全世界で毎年、数百本、インディものまで含めれば、おそらくは数万本のオーダーで製作されているであろうジャンルである。ということは、文字通りに玉石混交な分野なわけで、リバイバル上映されているということは、面白さはある程度保証されているという意味である。そして、それはその通りであった。

 

あらすじ

世界にはゾンビが跋扈していた。内向的な青年コロンバス(ジェシー・アイゼンバーグ)は厳格なルールを自らに課すことで生き延びていた。彼は故郷のオハイオを目指す途上で屈強なゾンビハンター、タラハシー(ウッディ・ハレルソン)と出会う。そして、旅を続ける二人はウィチタ(エマ・ストーン)とリトルロックの姉妹に出会うのだが・・・

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ポジティブ・サイド

2009年製作ということは、今からだと10年前になる。にもかかわらずジェシー・アイゼンバーグもウッディ・ハレルソンもエマ・ストーンもトップシーンにあり続けているというのが良い。豪華なものを観た気分になれる。劇中でアイゼンバーグが、ゾンビ・ワールドを指して「フェイスブックを更新する必要が無くなった」というのには、思わずニヤリ。未見の人で、なおかつFacebookアカウントを持っている人は『 ソーシャル・ネットワーク 』を視聴されたし。

 

ゾンビと相対した時に、人間は人間らしさの欠如に恐怖することは『 イヴの時間 劇場版 』でも述べた。もう一つ、ゾンビの存在によって浮きあがってくるものに、ルールや秩序の存在もしくは非在がある。そのことをコロンバスは見事に体現してくれる。DOUBLE TAPは見事なギャグになっていると共に、秩序の存在しない世界では、秩序を自ら生み出す者が生き残るということのメタファーにもなっている。コロンバスは人間社会ではある種の人間嫌いとして引きこもり体質の童貞オタク青年だったが、ゾンビ世界では有酸素運動と銃の扱いに長じた非常に外交的なファイターに変身した。そんな彼が、エマ・ストーン姉妹に翻弄される様は滑稽でもあり、切実でもある。ゾンビに対してはイケイケの青年が、生身の妙齢の女子に対しては奥手になる。そのギャップに、人間の本質が潜んでいる。

 

ビル・マーレイが本人役で出演するが、この間のスキットはギャグであり、シリアスである。ゾンビ世界にあって、既存の人間社会の価値観がどれほど不安定で危ういものかを大いなる笑いの力で見せてくれる。同時に、タラハシーというキャラクターの底浅さと深みの両方が開陳される。このシークエンスには唸らされた。

 

クライマックスはまさにゾンビランドである。ディズニーランドではなくゾンビランドである。遊園地で遊戯のごとくゾンビをぶち殺しまくる末に、爽快感以上に手に入るものとは何か。それはストリーミングやレンタルビデオでお確かめ頂きたい。

 

ネガティブ・サイド

ウッディ・ハレルソンのアクションシーンに少々切れが足りない。巨大剪定ばさみのシーンなどは特にそうだ。ゾンビ映画の文法の一つに、時に華麗に、時に残虐にゾンビを退治するというものがある。序盤ではこのあたりにもっとフォーカスをしてほしかった。

 

中盤にも少々中弛みがある。ネイティブ・アメリカンの土産物店を破壊していくシーンは、既存の人間社会の価値観の破壊とそれへの決別宣言、さらにこの奇妙な男女四人組の絆の形成のためでもあっただろうが、カット可能であるように思う。88分というかなり短めな映画だが、もう3~5分短縮することができたはずだ。

 

総評

ゾンビ映画と敬遠することなかれ。豪華キャストでホラー映画の王道的展開を次々と守って行きながら、同時にぶち壊していった『 キャビン 』のゾンビ映画バージョンである。ゾンビ映画のお約束を呵呵と笑い飛ばす本作は、コアなゾンビ映画ファン、ライトな映画ファンの両方にお勧めすることができる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, エマ・ストーン, コメディ, ジェシー・アイゼンバーグ, 監督:ルーベン・フライシャー, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 ゾンビランド 』 -ゾンビエンタメの佳作-

『記者たち 衝撃と畏怖の真実 』 -気骨の記者たちの姿に個の強さを見る-

Posted on 2019年4月8日2020年2月2日 by cool-jupiter

記者たち 衝撃と畏怖の真実 70点
2019年4月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ウッディ・ハレルソン ジェームズ・マースデン
監督:ロブ・ライナー

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9.11当時、Jovianは大学4年生だった。大学の寮のテレビで、飛行機がWTCに突っ込む映像を観て青ざめていたアメリカ人のdorm mateたちのことは今でも忘れられない。あれから20年近くが経とうとする今、この映画が作られ、公開される意味は何か。当時の日本の政治状況と世界市民の声を覚えていて、そして2010年代後半、特に米トランプ政権誕生以後の権力とニュース・情報・報道の関係を考えるならば、受け取るべきメッセージは自ずから明らかである。

あらすじ

ナイト・リッダー社の記者、ジョナサン・ランデー(ウッディ・ハレルソン)とウォーレン・ストロベル(ジェームズ・マースデン)は、9.11発生からアルカイダとイラク・フセイン政権を結びつけ、第二次湾岸戦争に突き進もうとするブッシュ政権に疑問を抱く。取材を通じて、彼らは政権中枢の権力者の嘘を暴いていくが・・・

ポジティブ・サイド

珍しく良い邦題である。原題はShock and Aweであり、これが「衝撃と真実」の意なのだが、同時にこれは米軍がフセイン政権打倒の軍事行動に名付けた作戦名でもあるのである。フセインを逮捕し、殺害し、その死骸を海に遺棄するという暴挙に出たオバマ政権であるが、その結果として中東はどうなったか。ISISの台頭およびその他の小部族の乱立と割拠により、戦争前よりも混迷度の度合いを増している。だが、そうした面に光を当てる映画作りはマイケル・ムーアに任せよう。

本作が描き出すのは、記者としての矜持と批判の精神、そして不屈の行動力をもって躍動する2人のバディである。彼らの人間性や私生活も描かれはするものの、スクリーンタイムの大部分は彼らの職務たるジャーナリストとしての取材活動に充てられる。それが、セミ・ドキュメンタリー・タッチで描かれるのだ。この“タッチ”というのが味噌である。本作は、報道ドキュメンタリーではなく、さりとてサスペンス要素満載だった『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』のようなシリアスなドラマでもない。適度なリアリズム感覚とでも言おうか、ランデーとストロベルの上役にして監督をも務めるロブ・ライナーの現実感覚がここに見て取れる。彼は国家権力の暴走の可能性を注視しながらも、市井の人々の良心にも望みを抱いている。このあたりが、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』当時のベトナム戦争と、本作の映し出す第二次湾岸戦争、イラク戦争との違いであり、共通点でもある。

『 ブラック・クランズマン 』や『 ビリーブ 未来への大逆転 』でも、アメリカ市民は“Hell no! We won’t go!”と叫んで戦争反対への意思表示をしていた。それは戦争に関する情報があまりにも少なく、不正確だったからだ。しかし、この現代という時代、様々なメディアがあり、情報ソースがあり、それらに容易にアクセスできる環境も整備されているにもかかわらず、なぜ戦争が始まってしまったのか。国家規模で開戦に突き進んでしまったのは、いかなる機序によってだったのか。それがまるでどこかの島国にそっくり当てはまるように見えてしまうのは、Jovianの杞憂に過ぎないのか。それとも、2002~2003年にかけて、戦争への道をひたすらに邁進するアメリカに“Show the flag!”と言われた翌日に「アメリカを支持する!」と世界に先駆けて宣言した、小泉総理・自民党総裁を思い起こさせて来るような、ショッキングな世界市民のデモ映像が当時の不穏な空気を、そして現代においても勤労統計の不正操作や様々な公文書の改竄疑惑が晴らされていないということを、どうしても想起させられるからなのか。

権力とメディアの双方に信を置くことが難しくなっているこの時代、そして社会に生きる者として、客観性(それは劇中では数字に象徴される)と良心の重要性を訴えかけてくる本作は高校生、大学生以上の日本人にとって必見かもしれない。

ネガティブ・サイド

現実が充分にドラマチックであるせいか、チェイニーやラムズフェルド、ブッシュらのスピーチやコメントがテレビ画面に映るたびに、それは圧倒的なリアリティを帯びる。当たり前だ。実在する人物が現実に発した言葉なのだから。問題は、それらのパートとのバランスを取るべき記者たちの人間の部分、私生活の部分が弱いことである。例えば、ストロベル記者の love interest になる女性リサ(ジェシカ・ビール)は完全に都合のよい狂言回しだった。

同じく、ランデーの妻ヴラトカ(ミラ・ジョボビッチ)の存在感ももう一つである。ユーゴスラビア系のルーツを持つのであれば、NATOによるユーゴ空爆の話なども交え、いかにアメリカが変わらないのかをもっと厳しく追及できたはずだ。あまりにも中道を行き過ぎたか、もう少し劇的な要素が織り交ぜられていても良かったのではないか。

総評 

弱点はあれど、本作は今というタイミングで送り出される価値のあった作品である。そしてそれはアメリカのみならず、多くの国家と国民にとって共通の事象を浮き彫りにする。すなわち、国家あっての国民なのか、それとも国民あっての国家なのかということである。『 銀河英雄伝説 』のヤン・ウェンリーの言葉、「政治の腐敗とは 政治家が賄賂を取ることじゃない それは政治家個人の腐敗であるにすぎない 政治家が賄賂を取っても  それを批判できない状態を政治の腐敗と言うんだ」ということを、我々はゆめ忘れてはならない。イラク戦争絡みの映画で、戦争と一個人の生き様が見事に交錯する作品として、シリアスな『 ゼロ・ダーク・サーティ 』、どこまでもユーモラスな『 オレの獲物はビン・ラディン 』などもお勧めできる。特に後者は、国家や国民という枠組みを笑い飛ばす破壊力を秘めた珍品である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, ジェームズ・マースデン, ヒューマンドラマ, 監督:ロブ・ライナー, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『記者たち 衝撃と畏怖の真実 』 -気骨の記者たちの姿に個の強さを見る-

『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』 ―キャラクターに注目するか、世界観に注目するか―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 65点

2018年6月30日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:オールデン・エアエンライク ウッディ・ハレルソン エミリア・クラーク ドナルド・グローバー フィービー・ウォーラー=ブリッジ ヨーナス・スオタモ ポール・ベタニー
監督:ロン・ハワード

  • ネタバレに類する情報は白字で表示

まず『スター・ウォーズ』という世界についてのおさらいをしておこう。スター・ウォーズは未来の世界のSF物語ではない。A long time ago in a galaxy far far away…で始まる通り、おとぎ話なのだ。John Williamsの、あのテーマ曲のイントロで一気にあの世界に引き込まれる感覚、というのはスター・ウォーズファンならずとも共有できる感覚だろう。おとぎ話の世界には独特の文法が存在する。それは往々にしておじいさん、おばあさんの形であったり、王や王国の形であったり、動物との意思疎通の形であったり、魔法や怪物の形で存在する。このように考えればスター・ウォーズという一大叙事詩が、言葉そのままの意味で、詩という独特の形式で英雄譚を語る手法を採用していることが分かる。

人はスター・ウォーズ世界に見出すものは、個人により、また時代により大きく異なる。そのことは『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』に詳しい。初期三部作に戦う女性像を見出す人もいれば、古き良き西部劇を見出す人もいるだろう(カンティーナなどは典型的なBar Fightであるが、それがハン・ソロというキャラを何よりも雄弁に物語るシーンでもあった)。壮大なスペース・オペラだと感じる人もいれば、『隠し砦と三悪人』と『オズの魔法使』を足して2で割ったように感じる人もいる。スター・ウォーズの最大の魅力は、何度観ても発見ができる、子どもと大人で楽しみ方が異なる、その世界観に浸るためのアイテムが豊富にあるということである。つまり、スター・ウォーズは旅行なのだ。日常世界からの一時的な脱出なのだ。事実、Jovianは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を劇場で5回観たし、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は劇場で7回観た。

それを踏まえて言えば、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』には確かにreplay valueがある。ただリピート・ビューイングはあとIMAXや3Dで1~2回かなという印象である。それは娯楽作品としては優れているが、スター・ウォーズ作品としての力は弱い、という評価である。しかし、そんなことは観る前から分かっていたことだ。映画史上で最も愛されるキャラクターであるハン・ソロの若き日を描いて面白くないわけがない。一方で、映画史上で演技力と存在感の乖離が最も大きいハリソン・フォードを乗り越えるのは、誰にとっても困難極まる仕事であろう。もともとジョージ・ルーカスは役者に演じることを求めず、彼ら彼女らの素の姿を自分の世界に配置することを好んでいた。そのことがハリソン・フォードにとっては幸運だったが、後継のオールデン・エアエンライクにとっては不運だった。顔や声がそれほど似ているわけではないからだ。しかし、似せようと努力はしていたし、映画は『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』や『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』と同じく、3~5分ごとに見覚えのあるガジェットやクリーチャーのみならず、どこかで見た構図、どこかで見たカメラアングル、どこかで見たアクションが挿入されるなど、ファンサービスに徹したのか、それとも製作者側がオリジナル・トリロジーの呪縛に囚われているのか判断しかねる部分も多い。最後に登場するダース・モールは新たなスピンオフを明確にオビ=ワン・ケノービにすることを決断したものか。アニメシリーズで復活していたとはいえ、これは嬉しい不意打ちであった。

こういう映画の粗筋などを述べるのは無粋だし、上述したようにスター・ウォーズに何を見出すのかは個々人の自由である。Jovianは、とあるシーンで思わず「だからC-3POはファルコン号と話せたのか」とはたと膝を打った瞬間があった。見た瞬間に気づくべきであったのに、そこに思い至らなかったのは誠に汗顔の至りである。また自分にとってのスター・ウォーズとは、John Williamsの音楽とドロイド、ミレニアム・ファルコン号の三者から成るものであると認識できたのは収穫であった。フォースやライトセイバーが自分にとっては副次的なものであったという気付きはちょっとした衝撃でもあった。日常世界から非日常世界へ飛び出していくことを夢見る若きハン・ソロに自分を重ねても良いし、頭をできるだけ空っぽにして、上質なSFアクション・ムービーとして観るのも良い。満足できれば最高だし、不満足であれば、それはあなたが純粋なスター・ウォーズ愛を持っている証明であると考えよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, オールデン・エアエンライク, 監督:ロン・ハワード, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』 ―キャラクターに注目するか、世界観に注目するか―

『スウィート17モンスター』 ―大人でもなく、さりとて子どもでもない17歳という諸刃の剣―

Posted on 2018年6月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

スウィート17モンスター 70点

2018年3月21日 レンタルDVD観賞
出演:ヘイリー・スタインフェルド ウッディ・ハレルソン ヘイリー・ルー・リチャードソン
監督:ケリー・フレモン・クレイグ

原題は“The Edge of Seventeen”、つまり「17歳の刃」である。洋楽ファンなら、これがスティーヴィー・ニックスに同名のナンバーがあるのを知っているかもしれない。ジャニス・ジョプリンやロッド・スチュワートといったしわがれ声を武器にするシンガーで、マイ・フェイバリットは“Stand Back”である。日本で言えば映画『不能犯』のテーマソング「愚か者たち」を見事に歌い上げたGLIM SPANKYの松尾レミもこの系統のシンガーと言えるかもしれない。

Back on track. この作品で描かれるのは、17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)がくぐり抜けて行く数々の試練である。まず、これを目にするのが10代なのか、20代なのか、30代以上なのかで、ネイディーンへの感情移入度合いが相当に変化してくるであろう。10代であればシンクロ率は400%… 20代でも女性なら100%に到達する人もいるかもしれない。それはあまりにも典型的なトラブルの数々ではあるが、ネイディーンの性格・パーソナリティとも相俟って、とんでもなくエクストリームな展開を見せる。

親友のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)が、あれよあれよと言う間にイケメンで秀才の兄のダリアンとベッドイン。最初は兄の気まぐれな遊びかと思っていたが、二人の仲が本物であると知ったネイディーンは大爆発。兄と親友の2人を一気に失ってしまう。と書くと悪いのは2人のようだが、実際はネイディーンのひとり相撲。兄貴も親友も幸せで、自分が幸せではないのは、2人のせいだと勝手に勘違い。そして自分は、片思いの相手に勢いでとんでもないテキストを送ってしまい・・・

父親不在の家庭で育ったことが大きな影響を及ぼしているのは分かるが、これほどキレやすい高校生というのも、洋の東西を問わず、なかなか見つけられないのではないか。邦題の『スウィート17モンスター』は言い得て妙である。このモンスターを手懐ける時に必要なのは、positive male figureである。そう、『 プールサイド・デイズ 』におけるサム・ロックウェルのような。今作でその役割を果たすには教師のウッディ・ハレルソンである。この男には登場シーンから注目してほしい。おそらく日本の教育機関でこの男の言動が通報されれば、一発で教員として追放されてもおかしくないのではと思う。しかし、17歳のモンスターを大人しく躾けるのには、もう一人の17歳が必要となってくる。それがアーウィン・キムというアジア系アメリカ人、おそらく韓国系アメリカ人だろう(しかし、家族は中華料理屋を経営していてかなり羽振りが良い)。白人であることが必ずしも社会的なステータスを保証するものではなく、White Trashなる言葉さえ生まれている中(その典型例は『 パティ・ケイク$ 』だ)、アーウィンという少年がネイディーンにアプローチしてくる様はある意味、痛快である。観る者によっては、アプローチしていく様、とも表現できるだろう。白人と付き合うのは白人という時代ではない、つまり白人と分かりあえるのは白人だけではないのだ。ほんの少し、自分の殻を破れば、兄や親友が手に入れたような幸せに手が届く。このアーウィンという少年の内面やその努力を知ることで、観る者はネイディーンの幸せを祈りたくなってくる。だが、残念ながら彼の恋心は実らない。怪物の心の殻を優しく溶かしてくれるのは、ウッディ・ハレルソン・・・ではないのだ。このシーンは本当に心温まるというか、直前に母親ととんでもないトラブルを起こしているが故に、余計に輝くシーンとなっている。大人と子どもの境目、他人への不信感、自己嫌悪など、様々なものが入り混じったせいでひねくれるしかなくなった少女がどのように癒されるようになっていくのか。これは誰もが青春の一頃に通ってきた、一種のイニシエーションを極端な形で切り取ってきたストーリーなのだ。私立高校ぐらいなら、道徳の教材として使っても良いのではないかと思わせる完成度である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:ケリー・フレモン・クレイグ, 配給会社:カルチャヴィルLeave a Comment on 『スウィート17モンスター』 ―大人でもなく、さりとて子どもでもない17歳という諸刃の剣―

スリー・ビルボード ー予想外の展開と胸を打つエンディングー

Posted on 2018年6月14日2020年2月13日 by cool-jupiter

スリー・ビルボード 85点

2018年2月3日 東宝シネマズ梅田にて観賞
出演:フランシス・マクドーマンド ウッディ・ハレルソン サム・ロックウェル ルーカス・ヘッジズ
監督:マーティン・マクドナー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180614225012j:plain

妻と一緒にこの映画を劇場で観たのだが、すでに結婚していて良かったと思えた。なぜならこの映画の放つ強力なメッセージの一つは、”人は人を傷つける”だからだ(ちなみに、独身時に観て、「独身で良かった」と思えたのは『ゴーン・ガール』だった)。しかし、本作が観る者の心に強烈に焼き付けてくるものは”人は変われる”、”人は人を赦せる”ということでもある。

原題は“Three Billboards Outside Ebbing, MIssouri”である。ミズーリ州にはエビングという地名は無いようだが、マーティン・マクダナー監督が意図したのは、架空の空間を創り上げることで、そこが現実にはどういう場所なのかをより強く浮かび上がらせることだったのだろう。この系列の事件で最も有名なのはトレイボン・マーティン射殺事件であろう。映画で例を挙げるなら『 フルートベール駅で 』(主演はマイケル・B・ジョーダン)や『 デトロイト 』か。『 私はあなたのニグロではない 』でも、横暴という言葉では描写しきれない暴力警官への恐怖が語られたが、それこそがアメリカ市民の紛れもない本音なのだろう。

エビングの片田舎のミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は、娘をレイプされ、殺されてしまった母親である。夫とは離婚済みで、あちらは若い女と付き合っている。警察は捜査はしつつも、犯人逮捕に至る気配は無い。業を煮やしたミルドレッドは大枚をはたいて町はずれに3つの巨大立て看板(ビルボード)を出す。そこには警察のウィロビー署長を詰る言葉が書かれていた。これによって、警察や地元住民とミルドレッドとの間に溝が生まれてしまう。現代でこそ、各種のデジタルデバイスやICT技術の発達で情報へのアクセスは、田舎でも都会でもそれほどの違いなく行えるようになった。しかし、一度でも日本の田舎(それも日本昔話級の)に住んだことがある者であれば、そこは公共性が高く、閉鎖性が低い都市とは全く異なるコスモロジーが支配する土地であることを認識できるだろう。このエビングという町も同じである。全くの偶然だが、この映画を劇場で観た時、すぐ前の座席にアメリカ人夫婦(アクセントから判断)と思しき2人が座って鑑賞していた。物語の序盤から、登場人物たちがとんでもない言葉遣いをすることに苦笑したり、絶句したりしていた。そして第二幕に差し掛かろうかという時に、2人して退席してしまった。もしも英語に堪能な知人、もしくは英語のネイティブスピーカーの友人がいれば、ぜひ一緒にこの映画を観てほしい。恐ろしいほどの汚い言葉が飛び交う。これはアメリカに特有の話でもなく、日本の片田舎でも同じだ。Jovian自身の経験からも言える。田舎における情報の伝播速度、そして容赦の無い言葉遣い、それはすなわち秩序に対する異物排除の論理の強さの表れでもある。もちろん、そこで観る者が予想するのは、対立の解消と融和である。しかし登場人物の行動や心情、物語の展開が、あまりにも現実離れというか、映画製作、物語製作の文法からかけ離れている本作では、先を読んでやろうなどと意気込むことに意味はない。その最も良い(悪いとも言える、それは人による)例はウッディ・ハレルソン演じるウィロビー署長とミルドレッドが公園のぶらんこで二人きりで話すシーンだ。ここで署長は自身がすい臓がんで余命幾ばくもないことをミルドレッドに告げる。普通なら署長に何らかの同情を示すだろう。しかしミルドレッドは「あんたの病気のことは分かっていてビルボードを出した」と言ってのける。いくら娘を亡くしてしまったからといっても、この態度はないだろうと観る者は思うが、ミルドレッドの暴走はこれだけにとどまらない。トレイラーでも見られるが、火炎瓶で警察署を燃やすところまで行ってしまうのだ。

もちろん、ビルボードの出現をきっかけに警察や地元住民とミルドレッドの間に、軋轢が生じる。そこではサム・ロックウェル演じる人種差別主義者が服を着て歩いているかのような無茶苦茶な警察官ディクソンもいる。ある事件をきっかけにそのディクソンがビルボード管理会社の社員ら(白人)にしこたま暴行を加えていく。このシークエンスは『 バードマン 』ばりのワン・ロングショットで映されており、その迫力と結末も相俟って、恐るべき仕上がりになっている。このようにエビングの町で、秩序が混沌としていく中で、ミルドレッドの家族の秘密というか背景も明らかになって来る。Jovianは以前に父にも母にも言われたことがある、「祖父ちゃんや祖母ちゃんには必ずあいさつしとくんやぞ」と。いつ突然会えなくなるか分からないからだ、と今は理解している。ミルドレッドが娘を亡くしてしまう直前に持った会話は、確かに悔やんでも悔やみきれない類のものだ。しかし、だからと言って色々な人の好意を無下にしたり、警察署を燃やすことの理由にはならない。観る者がミルドレッドに共感することができないまま、しかし、物語はこれまた予想外の方向に火事を、ではなく舵を切っていく。これは書き間違いではない。ちなみにこの火事を引き起こすキャラクターの一人は、『 アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 』では鍛治になっていた。

もうここまでの展開で、頭がストーリーを処理していくのにも一苦労するのが、ここからさらに予想外の展開へ進んでいく。それが何であるのかは実際に体感するしかないが、人は人を傷つけはするが、人は人を赦すこともできるのだと強く確信させてくれる。CHAGE & ASKAのYAH YAH YAHを何故か無性に歌いたいという気持ちで映画館を後にすることになった。『 女神の見えざる手 』を上回るような予想外の展開。スローン女史が近年の映画キャラクターで最も輝く女性であるとするなら、本作のミルドレッドは最も深い闇を抱えたキャラでありながら、もっとも包容力のある女性でもある。このような作品との出会いは、人生を豊かにしてくれる。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルのオスカー受賞もむべなるかな。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, イギリス, ウッディ・ハレルソン, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, フランシス・マクドーマンド, 監督:マーティン・マクドナー, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on スリー・ビルボード ー予想外の展開と胸を打つエンディングー

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