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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アダム・ドライバー

『 ヤング・アダルト・ニューヨーク 』 -Is being young crime?-

Posted on 2019年12月26日 by cool-jupiter

ヤング・アダルト・ニューヨーク 65点
2019年12月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ベン・スティラー ナオミ・ワッツ アダム・ドライバー アマンダ・セイフライド
監督:ノア・バームバック

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191226131848j:plain

 

『 マリッジ・ストーリー 』の脚本および監督も手掛けたノア・バームバックとアダム・ドライバーのタッグ作品。確か、嫁さん(当時はまだ結婚していなかったが)だけが劇場鑑賞して、Jovianは観る機会を逸した作品だった。『 スター・ウォーズ 』のシークエル三部作のアダム・ドライバーは一貫して素晴らしいパフォーマンスだった。今後も彼の出演作はマークして行こうと思う。

 

あらすじ

映画監督のジョシュ(ベン・スティラー)とコーネリア(ナオミ・ワッツ)は子どものいない夫婦。ジョシュは8年がかりでドキュメンタリーを制作中だったが、出口が見えない。そんな時、ジェイミー(アダム・ドライバー)とダービー(アマンダ・セイフライド)の20代夫婦と出会う。若いのにレトロな生活を送る二人に刺激を受け、ジョシュは生活にハリが出てきたと感じるが・・・

 

ポジティブ・サイド

悩める中年のベン・スティラーと怖いもの知らずの若者のアダム・ドライバーの対比が映える。40歳を過ぎたところで、自分がなにがしかの仕事を果たせていないことへの焦燥感、子どもを持てていないこと、妻の父が自分よりも遥かに業績を残した映画監督であること、ジョシュのカメラ・オペレータに給金すら出せないこと、そして自分の老いとなかなか向き合うことができず、新しいツールに飛びつくことで、若さにしがみつこうとする。なんともいたたまれない気持ちにさせられる。何故なら、Jovianはベン・スティラー演じるジョシュの行動(それらの多くは無意識にとられている)の多くを、そのまま理解できるからだ。時間と英語力のある方は【 This exactly what’s wrong with this generation 】という動画を13:18時点からご覧頂きたい。そして『 エニイ・ギブン・サンデー 』でアル・パチーノがジェイミー・フォックスらに語った言葉、“When you get old in life, things get taken from you. That’s part of life. But you only learn that when you start losing stuff.”についても考えてみて頂きたい。ジョシュは「膝が痛い」と言う。「自分はまだ44歳と若いのに、なぜ関節炎になるのだ?」と。Jovianも最近、老眼が始まったようである。だが、そうと分かるまでには時を要した。「なぜ自分の目の調子がおかしいと感じられるのだ?目が何かおかしいということ自体がおかしい」と。とにかく、この物語におけるベン・スティラーの仕事、夫婦および家族関係、友人関係(の痛々しさ)は、アラフォー男性に刺さる。特にナオミ・ワッツ演じる妻コーネリアとの夫婦喧嘩は『 マリッジ・ストーリー 』のスカジョとアダム・ドライバーのそれに迫る迫力である。

 

対になるアダム・ドライバーも味わい深い。若いに似合わず古風な生き方を好む好青年なのだが、その実態は情け容赦のない捕食者であり侵略者である。だが不思議なことに、このジェイミーというキャラクターの言動は常に一貫している。彼自身に善悪があるのではなく、周囲の人間、特にジョシュがジェイミーというキャラクターの邪悪さに気付いても、ジェイミーの言動に変化は見られない。『 もしも君に恋したら。 』では、嫌味なクソ野郎に見えて本当は良い奴だったが、その時もアダム・ドライバー演じるキャラクターの言動に変化はなかった。変化したのは、彼とガールフレンドの関係だった。映画ではキャラクターはしばしば変化する。それは成長するからもしれないし、あるいは堕落する、場合によってはダークサイドに堕ちることもあるだろう。『 パターソン 』でも顕著だったが、変化しないキャラを演じさせれば、アダム・ドライバーは当代で一番なのかもしれない。(だとすれば『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』は・・・)

 

老いと若さの単純な二項対立のドラマではない。若さの中に老獪さ、老練さが隠れていれば、老いゆく中にも若さへの自信がある。大切なことは、自分で自分をどう形作るのか。そして、他人に自分をどう形作ってもらうのかだ。ダメダメな邦題が多いが、本作の原題“While We’re Young”が『 ヤング・アダルト・ニューヨーク 』と訳されているのは、悪いセンスではないと思う。

 

ネガティブ・サイド

アマンダ・セイフライドの見せ場が少ない。というよりも、ナオミ・ワッツとの年齢的な対照があまり描かれていなかった。邪悪な夫に対して、小悪魔な妻・・・ではなく、倦怠期の妻になってしまっている。それも若さの対比かもしれないが、「子どもを持つ」ということに対する考え方を軸に、コーネリアとダービーのコントラストを描き出すことはできなかったのだろうか。

 

クライマックスのジョシュとジェイミーの対話劇が少々弱い。コーネリアの父の寵愛を巡る闘争の一環なのだが、これを舞台劇風に料理してしまうのは迫力に欠けた。もっと映画的なアプローチはなかったか。例えば、テーブルをはさんで延々と言葉を交わし合うのではなく、スマホで写真や動画を見せながらだとか、ホームページの記述を相手に読ませたりだとか、ジョシュがジェイミーを探ろうとしてきた努力を、もっと目や耳に訴える形で披露できなかったか。そして、それを60代の義父には理解されず、20代のジェイミーに一蹴されるというシークエンスの方が、絶望感はより深まったはずである。

 

エンディングは意味深である。というよりも、余りにも露骨に示唆的である。邦画の『 ミュージアム 』のエンディングにも同じくどさを感じたが、本作のラストの示すところは救いがない。もっとニュートラルな余韻を残してほしかったと切に思う。

 

総評

視点をどのキャラクターに置くかで観る側の印象は相当に異なるのではないか。Jovianは年齢的にどうしてもジョシュ視点で観てしまうが、劇場公開時に一人で鑑賞した嫁さんは、ジョシュの友人男性ひとりを除けば、男性キャラには誰にも好感を抱かなかったという。観る者の性別もきっと影響するだろう。もしかしたら20年後、Jovianが60歳を迎えた時に見直せば、新たな発見があるかもしれない。そんな予感を持たせてくれる作品であるが、まさに子育て中という世代は、エンディングに納得するかもしれないし、または毛嫌いする可能性も大いにある。映画ファンであれば、話のタネにどうぞ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

This is key.

ジョシュが投資家に自分のプロジェクトを説明する時に言う。「これが鍵だ」の意。話のカギになるポイントの前にこう言おう。keyの前にはaもtheも不要。あっても良いし、なくても良い。この“This is key”は【 How to gain control of your free time 】というTEDトークの動画でも聞くことができる。英語プレゼンなどで機会があれば使ってみよう、

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アダム・ドライバー, アマンダ・セイフライド, アメリカ, ナオミ・ワッツ, ヒューマンドラマ, ベン・スティラー, 監督:ノア・バームバック, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ヤング・アダルト・ニューヨーク 』 -Is being young crime?-

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Second Viewing-

Posted on 2019年12月22日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Second Viewing-

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 85点
2019年12月21日 東宝シネマズなんば(MX4D・3D・字幕版)にて鑑賞
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー
監督:J・J・エイブラムス

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『 スター・ウォーズ 』が完結してしまった。けれど、おとぎ話の世界は残る。劇中のとあるキャラクターではないが、“記憶”の中に美しいイメージを残しておきたいと思う。なので二度目の鑑賞では、楽しめた点と疑問に思った点を整理したい。

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以下、マイルドなネタばれあり

 

  • 楽しめた点

『 ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 』で、“自分にとってのスター・ウォーズとは、John Williamsの音楽とドロイド、ミレニアム・ファルコン号の三者から成るものである”と認識することができたが、その思いは今でも変わらない。様々なクリーチャーも魅力的ではあるが、やはりドロイドだなと思う。R2-D2、C-3PO、BB-8といった魅力的な面々にD-Oというマスコットが加わった。『 最後のジェダイ 』のポーグも悪くないが、やはりドロイドである。

 

また、ミレニアム・ファルコン号の活躍はもちろんのこととして、ラストの大団円でXウイングとファルコン号が対話をしていたように感じられた。

 

ファルコン「 久しぶりだな。えらいボロボロじゃねーか 」

Falcon: “Been a long time, dude. You’ve become a peace of junk.”

Xウイング「 人のことは言えないだろ、お前 」

X-Wing: “Damn you, Look what you look like.”

 

宇宙船というのも、『 スター・ウォーズ 』世界に欠かすべからざる重要なガジェットである。その宇宙船たちの発する声にも我々は耳を傾けるべきだろう。

 

『 スター・ウォーズ 』映画に皆勤しているC-3POの台詞から毒々しさが薄まって。ユーモアが強まった。あらゆるクリーチャーやドロイドとコミュニケーションを取ることが可能なこのドロイドは、グローバル化しつつある世界におけるコミュニケーションの在り方を示唆しているように思えてならない。

 

この完結作は、これまでの『 スター・ウォーズ 』の要素を随所に取りこんでいるが、基本的には『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』のリメイクであると言える。

『 用心棒 』が『 荒野の用心棒 』や『 ボディガード 』になったようなものである。したがって基本的な意味で新しさはない。それをどう評価するかは人による。Jovianは普段は鵜の目鷹の目で映画を観てはいるものの、『 スター・ウォーズ 』はおとぎ話だと思っている。おとぎ話の中身をあーだこーだと精査してもしょうがない。楽しむのみである。『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』に出てきたような、極端なまでの naysayer にはなりたくない。彼ら彼女らはシスである。J・J・エイブラムスが、今作で無理やりとも言えるストーリーのまとめ方を選んだのは、そうした人々への意趣返しなのだろう。個人的には拍手喝采を彼には送りたいと思っている。

 

レイのキスについて。賛否両論どころか否の意見が全世界的に渦巻いているが、Jovianは一度目の鑑賞では???、二度目の鑑賞では「これもありだろう」と思えるようになった。一つには、ジェダイは恋愛禁止であるということ。これは取りも直さず、ジェダイの終焉を意味している。ハン・ソロと結婚し子どもも生んだレイア・オーガナは、フォースを使うことはあっても、ジェダイとは決して名乗らなかった。もう一つには、この完結作では“Two That Are One”=「二つで一つ」がテーマにもなっている。光と闇、陰と陽(男と女)、ジェダイとシス。レイが見つめる先の二つの太陽は、かつてはルークとレイアの象徴だった。レイはジェダイの志を受け継ぎながらも、自分探し=自分のパートナー探しを夢想しているのだと考えれば、それもおとぎ話の終焉にふさわしいだろうと個人的には思う。

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  • 疑問点

『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』で焼かれたはずの聖なるジェダイ・テキストが何故ファルコン号に積み込まれていたのか。その説明は、少なくとも二回見た限りではなかった。

 

同じく『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』のカント・バイトでは、武器商人たちがファースト・オーダーとレジスタンス、両方に兵器・武器の類を売っていることが皮肉たっぷりに描かれた。であるならば、あれほど巨大な規模の艦隊を構成するのには、文字通り天文学的なカネが動いているはず。それを誰も察知できなかったというのか。

 

翻訳のミスのようなものも見受けられた。『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』劇場版ではカイロ・レンの“The one from the village”が、「あの村の出身」という、トンデモ誤訳になっていたが、今作でも皇帝パルパティーンの

 

“I made Snoke.”

 

という台詞が

 

「 スノークは余の作り出した幻 」

 

という訳になっていた。その一つ前にレジスタンスの科学者が、闇の科学やらクローン技術(『 スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 』への言及か)やらシスの秘術やらに触れていて、なおかつカイロ・レンがエクセゴルで死者を蘇らせようとしている、あるいは死者から生者を培養しようとしている装置(『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』のルークが入れられていたような装置そっくり)を見ているにもかかわらず、幻はないだろう。だったら、『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』のルークの秘術は何だったのか。ブルーレイでは間違いなく修正されるだろうが、それでは遅い。ここで“幻”などという訳語を選定した林完治氏の罪は重い・・・は言い過ぎか。だが、一定の責任を負うことは免れないだろう。

 

ポー・ダメロンの前身が少し明らかになったが、別に眉をひそめるものでもないだろう。ハン・ソロとチューバッカの方がはるかに悪者でならず者だった。キジーミの存在は否定しないが、このサブプロットは少々ノイズ気味である。

 

MX4Dで鑑賞してみたが、水しぶきが思ったほどではなかった。もちろん、一回当たりにシートに貯蓄可能な水量や、あまりにも観客を濡らしてはクレームが出るなどの懸念もあるだろう。しかし、フォースが距離を超えて、互いに物理的に作用しあう領域まで来ているのだから、荒れ狂う海に囲まれたデス・スターの残骸上でのレイとレンのライトセーバー・バトルでは、もっと激しく水しぶきを出してほしかった。まあ、これは映画ではなく劇場への注文か。

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総評

海外のレビューサイトやプロ・アマの批評家は、本作におおむね厳しい評価を下している。だが、かつての、旧世代の『 スター・ウォーズ 』ファンも、プリクエル三部作には厳しい評価を下していたが、新世代ファンにはそのことが理解できなかった。『 スター・ウォーズ 』をどう評価するのか。それは自分の幼年期にどのように向き合うのかとも言い換えられるだろう。そうした意味では、大人になり映画批評を職業にしてしまうと、子どもの頃のような接し方が難しくなる。何度でも言うが、『 スター・ウォーズ 』はおとぎ話である。それが娯楽作品や芸術作品として高く評価されているが、本質的にはおとぎ話なのである。鑑賞においては、このことを念頭に置かれたし。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’ll finish what he started.

レイがルークの後を継いで、とある人物を探すミッションに出る時の言葉である。『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』でカイロ・レンがベイダーのマスクに“I’ll finish what you started.”と誓っていた台詞と同じ構造である。【 what S + V =SがVするもの・こと 】である。

 

what I like =私の好きなもの

what I hate about this film =この映画で私の嫌いなもの

what they want to get =彼らが手に入れたがっているもの

what she has to fight for =彼女がそのために戦うもの

 

whatという関係代名詞は日常会話でもビジネスでもバンバン使うので、マスターすることは必須である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, SF, アクション, アダム・ドライバー, アドベンチャー, アメリカ, デイジー・リドリー, 監督:J・J・エイブラムス, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Second Viewing-

『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Here comes my childhood.-

Posted on 2019年12月20日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Here comes my childhood.-

スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 85点
2019年12月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー
監督:J・J・エイブラムス

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『 スター・ウォーズ 』が完結してしまった。そして批評家やファンの評価は割れている。それはとても良いことだと思う。なぜなら、好きな人はとことん好きになれて、好きになれない人には決して好きになれない。これはそんな物語だからである。Jovianは、これを素晴らしいフィナーレであると感じた。少年時代に帰れた、おとぎ話の世界に戻れた。そのように感じたからである。

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あらすじ

死んだはずの銀河皇帝パルパティーンが復活した!ファースト・オーダーの最高指導者カイロ・レン(アダム・ドライバー)は、銀河の覇権を争う相手としてパルパティーンと対立。彼を追っていた。一方、レイ(デイジー・リドリー)は来る最終決戦に向けて、レイアから課された修行に励んでいた・・・

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以下、ネタばれ部分は白字

 

ポジティブ・サイド

人によってはこれら全てをネガティブに捉えるのだろうが、Jovianはポジティブに捉えた。すなわち、本作はエピソード1、2、3、4、5、6、7、8のごった煮である。なおかつ『 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 』や『 ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー 』の要素まで盛り込まれている。どこかで見た風景、どこかで見たキャラクター、どこかで見たプロット、どこかで見たイベント、どこかで見た光と影のコントラスト、どこかで見たカメラアングル、どこかで見たガジェット。それらがジョン・ウィリアムズの音楽と共に観る者に迫ってくる。それを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは各人の自由である。

 

新しい要素に全く欠けるのかと言えば、さにあらず。『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』がフォースの新たな地平を開拓したように、今作もフォースのさらなる可能性を追求した。しかも、それがミディ=ファッキン=クロリアン的な要素を持ちあわせている。それを受け入れられた自分に驚いている。

 

『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』に散りばめられていたユーモアの要素と『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』の恐怖の要素が適度な割合で配合されているところでも、J・J・エイブラムス監督の手腕を称賛したい。オリジナル三部作とシークエル三部作が見事に地続きになっている。『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』で、パルパティーンがルークを暗黒面に誘った時よりも、遥かに強い誘惑をレイに対して行う。愛する者を救うために負の感情にその身を任せよという誘引は、プリクエル三部作、特に『 スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 』が放った強烈なメッセージだった。それがパワーアップして帰ってきた。しかも、確たる意味を伴っている。ずっと謎に包まれてきたレイの出自と絡めた、絶妙の演出である。

 

そのレイをレイアがトレーニングするというアイデアも良い。前作ではカリスマ的な指導者から、ジェダイにしてフォースの使い手であることを体現した。そして演じるキャリー・フィッシャーの死そのものまでも物語に組み込むという大胆不敵なプロットに、フィッシャーはきっと満足しているに違いない。

 

エンディングは涙なしに見ることはできない。『 スター・ウォーズ 』を愛した全ての人は、それぞれに思い入れのある風景を持っていることだろう。だが、J・J・エイブラムスとJovianはこの点で波長が完全に合っていた。『 スター・ウォーズ映画考および私的ランキング 』で、自分にとっての『 スター・ウォーズ 』の原風景を語ったが、J・J・エイブラムスも同じだったようだ。光と闇、陰と陽、ジェダイとシス、そしてスカイウォーカー家のサーガは、見事な円環と共に閉じた。

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ネガティブ・サイド

なぜ2時間22分なのだろうか。きりよく2時間30分の物語にできたはずである。もっともっと語られるべきことを、徹底的に語り、見られるべきものを見せて欲しかった。

 

パルパティーン復活の経緯が完全に不明である。『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』の最後に、ヨーダとメイス・ウィンドゥは「シスは常に師匠と弟子の二人」と語っていたが、スノークとパルパティーンの関係をこれで説明してもよかったのではないだろうか。

 

新キャラに元トルーパーが出てくるが、最終盤にランドが引き連れてくる大援軍に元トルーパーの脱走兵らがいれば、なお良かったのだが。存在していたが、編集でカットされたのだろうか。

 

カイロ・レンの物語も見事に閉じるが、母レイアとのツーショットはついに実現せず。これはブルーレイの特典映像、もしくはディレクターズ・カットに収録されるのだろうか。

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総評

“スカイウォーカーの夜明け”という副題は、実は正しかった。なるほど、そうだったのかと感じた。日は沈むが、また昇る。それこそがフォースにバランスをもたらすということなのかもしれない。様々な物語の予感を残しつつも、一つのおとぎ話が幕を下ろした。けれども、少年時代の感動は消えないし、これからも、その“記憶”は続いていく。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Don’t be afraid of who you are.

be afraid of ~ =~を恐れる、である。レイアはレイに「自分が何者であるかを恐れるな」と伝える。ヨーダは

 

“Fear is the path to the dark side. Fear leads to anger. Anger leads to hate. Hate leads to suffering.”

 

と語った。レイは恐怖に屈しなかった。be afraid of ~という表現自体はそこまで大仰なものではない。I am afraid of dogs. = 私は犬が恐いんです、のように日常会話レベルで頻出する。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, SF, アクション, アダム・ドライバー, アドベンチャー, アメリカ, デイジー・リドリー, ファンタジー, 監督:J・J・エイブラムス, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』 -Here comes my childhood.-

スター・ウォーズ映画考および私的ランキング

Posted on 2019年12月18日2020年1月16日 by cool-jupiter
スター・ウォーズ映画考および私的ランキング

趣旨は『 ゴジラ映画考および私的ランキング 』と同じである。だが、多くの人にとってそうであるように、『 スター・ウォーズ 』はJovianにとっては特別な物語なのである。『 サッドヒルを掘り返せ 』でJovianは『 スター・ウォーズ 』を【おとぎ話】であり【昔話】であり【童話】であると説明した。だが、文学論的に言えば、

 

1.超自然的な要素がある

2.時代や場所を特定できない

3.王族が登場する

 

といったところから、『 スター・ウォーズ 』は本質的には【おとぎ話】に分類されるのだろう。自分にとっても映画の原体験の一つであり、極端に言えば人生にも影響を及ぼした作品が、もう間もなく完結を迎える。その前に、自分の頭と心を整理しておきたい。本稿はそうした試みである。

 

『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』

 

スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 95点
出演:マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード
監督:ジョージ・ルーカス

 

今でもよく覚えている。Jovianが初めて観た映画は、映画好きの父の影響もあり『 王様と私 』だった。そこで「エトセトラ」という言葉を覚えたが、それだけしか印象に残らなかった。次に観たのは『 オズの魔法使 』、そして次に観たのが『 スター・ウォーズ 』だった。当時はタイトルに他に何もなく、『 スター・ウォーズ 』だった。ちなみに次に観たのが『 ダリル D.A.R.Y.L. 』だった気がするが、正直なところ、『 スター・ウォーズ 』以降の映画作品については、古典ミュージカル作品以外は記憶があやふやである。

 

当時は6歳だった。その時はデス・スターへの潜入やブラスターの撃ち合い、ミレニアム・ファルコンのワープ、XウィングとTIEファイターの戦い、そしてオビワンとダース・ベイダーの電光剣(が当時のVHSの字幕だった)対決、そしてデス・スター爆破などのアクション・シーンに心を奪われて、何度も何度も観ていた。おそらく現在までにDVD、ブルーレイで20回以上は観ている。けれど中学生ぐらいだったろうか。ある時、ルークが二つの太陽の夕焼けをやるせない表情で眺め、そのBGMにジョン・ウィリアムズの“Binary Sunset”が流れるあの瞬間にルークと自分がシンクロした。兵庫県から岡山県に引っ越した頃、自分はあるべき場所におらず、なるべき自分になっていないと直感した。そんな自分も、未知なる宇宙に飛び出すことができる。まだ見ぬ冒険をすることができる。『 スター・ウォーズ 』はそんな予感を自分に与えてくれた。だからこれは誰にも当てはまらず、誰にでも当てはまる物語なのだろう。やはり、おとぎ話なのである。

 

VHSやレーザーディスクでリミテッド・エディションが販売され、当然のようにJovianの父も購入。しかし、デス・スターの爆発の様子が異なっている部分に大きな違和感を覚えたことを覚えているし、グリードーが発砲したりしたシーンでも???となった。DVDではハン・ソロの首が動いたところでギョッとしたのを覚えている。後年になって、『 スター・ウォーズ 』がおとぎ話であることに気付いたのは、これらの違和感や異物感からだった。シリーズが完結しても、おそらく最も多く見返すのは本作だろうと思う。

 

『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』

 

スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 90点
出演:マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード
監督:ジョージ・ルーカス

 

本作で思い出すのは、ミレニアム・ファルコンがひたすらにかっこいいということ。すぐに故障するボロ船でありながら、常にピンチを脱する。本作でC-3POが「訛りがひどい」と評したことで、ファルコン号は乗物からキャラクターに正式に進化した。

 

本作ではC-3POがバラバラにされるシーンでショックを受けた。というかトラウマになった。前作でもドロイドがドロイドに痛めつけられるシーンは存在したが、何故かあまり印象に残らなかった。

 

本作で最も強く心に刻まれたのは、ファルコン号内でのハン・ソロとレイアのキスシーンである。『 ロッキー 』で、ロッキーが自宅にエイドリアンを誘って、キスをするシーンと並んで、Jovianがこれまでに観てきた中で最もロマンティックなシーンだと思っている。これも小学生ぐらいの頃は映画の中の普通のワンシーンだった。それが中学生高高校生ぐらいになってくると全く異なるシーンに見えてきた。変わったのは物語ではなく、自分だったのだろう。

 

ダース・ベイダーの言う“I am your father.”は、その後のどんな推理小説のトリックにも、どんなミステリ映画のプロットにも優る衝撃を少年時代のJovianの心に与えた。ルークが右手を斬り飛ばされ、ハン・ソロが冷凍され、ヒーロー側が惨敗して終わり・・・というエンディングは、子どもだった自分に強烈なインパクトを残した。初めて観た時は、「早くこの続きを!」という焦りで頭がいっぱいになった。

 

『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』

 

スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 90点
出演:マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ハリソン・フォード
監督:ジョージ・ルーカス

 

ルークがパワーアップして、颯爽と帰ってきた。ハン・ソロも復活した。レイアも解放された。序盤の30分だけで満足した記憶がある。

 

地上と宇宙で同時進行する展開に、単身でデス・スターに乗りこむルーク。正式に反乱軍の将校になったハン・ソロとチューバッカにランド・カルリジアンらが、戦闘ではなく戦争をする。前作や前々作は、主人公側が逃げる展開がメインだったが、本作でようやく乾坤一擲の大勝負に出る。助っ人がイウォークというのも良い。惑星エンドアのローカル・クリーチャーでありながら、宇宙戦争に参戦する意気やよし。姿かたちや話す言葉が違っても分かり合える存在が宇宙にはたくさんいる。アクバー提督など、人間ではない生き物と連合する反乱軍に、アイデンティティに迷っていたJovian少年は自分を投影していたように思う。

 

多種多様な生き物を包括して組織される反乱同盟軍と一律にホワイト・トルーパー達で構成される帝国軍の対比は、現代の視点で見返してもコントラストが鮮やかだ。ジョージ・ルーカスは STAR WARS と題しながらも、決して戦争を描くことは望んでいなかったという。戦うことではなく耐えることでジェダイとしてのアナキン・スカイウォーカーを帰還させたルークは、自らの中で永遠のヒーローとなった。

 

『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』

 

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 40点
出演:ユアン・マクレガー リーアム・ニーソン ナタリー・ポートマン
監督:ジョージ・ルーカス

 

これは確か大学二年生の夏休みに劇場公開された時にすぐに観た。Jovianの母校は6月末から夏休みだったのだ。劇場で観た。そしてがっかりした。絶望したと言ってもいい。その理由の第一は、通商連合である。いきなりそんな現実世界と地続きの事象を説明されて、一気にシラケたことを覚えている。「遠い昔、はるか彼方の銀河系で」いきなりゼニカネの話。おとぎ話の世界が現実の経済の論理に侵食された瞬間であった。だが、これはまだ許せた。

 

最も腑に落ちなかったのはミディ=クロリアンである。『 スター・ウォーズ 』のファルコン号内で、オビ=ワンはフォースを銀河を結びつける力と説明した。それとミディ=ファッキン=クロリアンはどう考えても結びつかない。フォースの神秘性が失われて、一つの世界が音を立てて崩れ去っていくかのように感じた。

 

パドメ(替え玉)の衣装と化粧があまりにもけばけばしく、スター・ウォーズ世界で浮いているようにも感じたし、ジャー・ジャー・ビンクスはひたすらに気持ちが悪い。ジャー・ジャー以上に不快なのがグンガンの族長。パドメとの交渉でいちいち顔面をけいれんさせながら唾液をまき散らすことに何のartistic meritsがあるというのか。ジョージ・ルーカスがマーシアと離婚したことで暗黒面に堕ちた(正確に言えば、外部社会との接点が極めて小さくなり、クリエイティブ面で馬耳東風になってしまった)ことはよく知られているが、女性を必要以上に醜く描き、その顔面に唾を吐きかけてやりたいという欲望をそのままストレートに映像化してしまったジョージ・ルーカスは、まさにシスの暗黒卿になってしまったわけだ。そんな男の作品を評価するのは困難極まりないことである。

 

それでも若きオビ=ワンとその師クワイ=ガン・ジンとダース・モールとのライトセーバー・バトルは圧倒的なスペクタクルだった。褒められるところは、それぐらいだった。

 

『 スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 』

 

スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃 65点
出演:ユアン・マクレガー ヘイデン・クリステンセン ナタリー・ポートマン
監督:ジョージ・ルーカス

 

これは確か2002年7月3日にアメリカはロスアンゼルスで二番目に大きいと言われるモールの中のミニシアターで観た。2002年7月1日から7月7日まで親戚のところに逗留させてもらっていた。4~5割ぐらいしかリスニングできていなかったと思うが、最後のどぅーく―伯爵vsオビ=ワン&アナキンのライトセーバー・バトル、そして真打ヨーダとドゥークー伯爵のライトセーバー・デュエルのおかげで大満足で劇場を後にしたことを覚えている。

 

しかし日本に帰国後、あらためて劇場鑑賞して、「何だそりゃ?」と突っ込まざるを得なかった箇所も多数あった。ジェダイ評議会は動きが遅すぎる。“過激な交渉”で通商連合を封じ込めたパドメが過激な手段で報復されることなど予見できてしかるべきだし、護衛がひよっこのアナキン一人というのも、いかにも不自然だ。星図には何もない=そこには星が存在しない、という思考もクエスチョンマークだ。グーグル検索に引っかからない=検索対象が存在しない、とは普通は考えないだろう。誰かが情報を改竄したか隠蔽していると考えないあたり、ジェダイの騎士はかなりナイーブなようである。

 

それでもアナキンとパドメの逢瀬は美しくも健全な背徳感があり、ロマンスが盛り上がれば盛り上がるほどに悲劇の予感が強まっていく。このあたりも健全な結婚生活を送ることができていたジョージ・ルーカスが理想的な過去の心象風景を銀幕に投影したと考えられなくもない。

 

前作に続き、パドメが戦う姫を体現し、これでこそレイアの母親という印象を観る者に強く刻みつけた。青年アナキンを演じたヘイデン・クリステンセンも、ルーク・スカイウォーカーの父親というビジュアルを体現。ドロイド軍団とジェダイ軍団の大激突から、全面的な戦闘、そしてクライマックスの決闘シーンまでの流れだけならパーフェクトだが、ジャー・ジャー・ビンクスが懲りずにパルパティーンに権力移譲を発議。政治ネタをジャー・ジャーを使ってぶち込んでくるとは、ジョージ・ルーカスはどういう了見をしていたのだ?長所と短所、両方を兼ね備えた評価の難しい作品になってしまった。

 

『 スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 』

 

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 80点
出演:ユアン・マクレガー ヘイデン・クリステンセン ナタリー・ポートマン
監督:ジョージ・ルーカス

 

アナキンがダース・ベイダーになることは確定している。ならば、どのように暗黒面に堕ちていくのか。ルーカスはその答えを“愛”に求めた。より正確に言えば、愛を失うという恐れに求めた。素人の精神分析学的に言えば、ルーカスはマーシアの愛の喪失により、自らが暗黒卿になってしまった。そして巨万の富を築き、帝国とすら呼べる企業を作り上げてしまった。ジェダイ評議会とは、彼のような異端の映画製作者を認めようとしない既存のハリウッドの映画製作システム全体を象徴していたのだろう。

 

アナキンとドゥークー伯爵のリマッチ、オビ=ワンとグリーヴァス将軍のライトセーバー・バトルなど序盤から大チャンバラ活劇である。おとぎ話に政治的な要素は不要である。本作はとにかくバッタバッタとライトセーバーで敵も味方も斬っていくストーリーを堪能すべしである。孤高のオビ=ワンと孤独なアナキンのコントラストが映えるし、二人の“Duel of the Fate”は、映画史(邦画除く)においては屈指のチャンバラ劇に仕上がっている。同時進行するヨーダと皇帝パルパティーンのライトセーバー・バトルとフォース・バトルも見応えは十分だ。

 

本作は当時、戸田奈津子の珍妙な訳に首を傾げたのを覚えている。オビ=ワンの“So uncivilized.”が「掃除が必要だ」だったり、アナキンの“He must live!”が「お慈悲を!」だったりと、色々と映画の外側のことも覚えている。それでも、全てのバトルが決着し、最後にパドメがルークとレイアを出産、そのルークがタトゥイーンのオーウェン夫妻に引き取られていくシーンでは身震いしたことは、まるで昨日のことのように覚えている。このPrequel Trilogyは、この瞬間のためだけに存在したと言っても過言ではない。

 

『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』

 

スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 80点
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー ハリソン・フォード キャリー・フィッシャー ジョン・ボイエガ オスカー・アイザック
監督:J・J・エイブラムス

 

まさかの続編。しかも、『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』の30年後の世界。公開時、劇場で7回観た。ブルーレイを入手後に、確か5回観た。実質的に『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』をフェミニスト・セオリーに則して脱・構築し、再構築したリメイクと言っていい。それだけに、おとぎ話として雰囲気を全編にふんだんに湛えている。

 

劇場が暗転し、20世紀FOXのロゴとファンファーレはなかったものの、

 

A long time ago in a galaxy far,

               far away….

 

が表示され、画面にジョン・ウィリアムズのあのテーマ曲とともに

 

   STAR   

   WARS   

 

の文字が表示された時、一気に『 スター・ウォーズ 』の世界に引き込まれた。劇場に何度も足を運んだのは、ほとんど全部この瞬間のためだった。初期三部作を劇場でリアルタイムに鑑賞できなかった世代であるJovianは、プリクェル・トリロジー、特に『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』には心底がっかりさせられた。その時の落胆の気持ちを、本作は忘れさせてくれた。いや、薄めてくれたと言うべきか。いずれにせよ、傷がかなり癒されたのは間違いない。

 

本作制作および公開の報が流れた時、最初のトレーラーを観た。砂漠の背景に、『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』を想起した。そして第二弾のトレーラーの最後で、ハン・ソロがチューバッカに “Chewie, we’re home.” と呟くシーンに接して、文字通り鳥肌が立った。ハリソン・フォードの老け具合、つまり現実世界の時間の流れが、スター・ウォーズ世界の時間の流れと一致したように感じられた。あのおとぎ話の世界が延長され、拡張されたように感じられたのだ。ハン・ソロの言う ”We’re home.” とは、我々ファンの心の声を代弁したものだった。我が家に帰ってきたのは、ハン・ソロとチューバッカだけではなかった。

 

ストーリーは全くもって陳腐である。『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』の焼き直しだからである。メッセージを携えたドロイドが、砂漠を漂流。ここではないどこかへの脱出を夢想する少年・・・ではなく、今回は少女と出会い、そこから宇宙を駆ける大冒険が始まるからである。少し違うのは、オリジナルのスター・ウォーズにはオビ=ワンという師匠が存在したが、本作は伝説となったルーク・スカイウォーカーを探し求める筋書きである。それが心地好い。ルークとレイアとハン・ソロとミレニアム・ファルコン号と魅力的なドロイドたちあってこそのスター・ウォーズだからである。特にルークである。

 

本作でハン・ソロという映画史上屈指のヒーロー・キャラクターが退場してしまった。Jovianは落涙を禁じ得なかった。キャリー・フィッシャーの訃報が届いたのは、本作公開の約一年後。戦う女性の元祖が逝ってしまった。

 

それでもデイジー・リドリーとアダム・ドライバーは、伝説を見事に継承したと思う。完結する前からそう断言させてもらう。この二人の光と闇の戦いに胸踊らされないファンもいるようだが、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々である。

 

『 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 』

 

スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ 75点
出演:デイジー・リドリー アダム・ドライバー マーク・ハミル キャリー・フィッシャー ジョン・ボイエガ オスカー・アイザック
監督:ライアン・ジョンソン

 

遂に巡り合えたルーク・スカイウォーカー。しかし、彼は初登場時のヨーダのような世捨て人だった・・・。ユーモアなのかギャグなのか、よく分からない雰囲気が全編を覆っている。それもライアン・ジョンソン監督なりの深い考えがあってのことだろう。ミディ=ファッキン=クロリアンのような、世界観そのものをぶち壊す概念やガジェットでない限り、Jovianは何でも歓迎したいと思っている。それがレイア姫=オーガナ将軍が宇宙空間でスーパーマン化して復活することでも、宇宙空間を超えて交信することでも何でも良い。

 

レイとレンがタッグを組んで、スノークの親衛隊と戦うシーンを劇場で初めて観た時には脳汁が出た。ベイダーがパルパティーンに叛逆して、ルークを救ったシーンを思い出したからだ。『 ジェダイの帰還 』とは、ルークではなくアナキンのことだった。今作は基本的に『 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲 』と『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』のマッシュアップなのだから、一瞬ではあってもそのように夢想したファンは世界中で数百万人はいたはずである。

 

本作と『 ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー 』によって、超光速航法それ自体が武器になるという新しいアイデアが提起された。『 銀河英雄伝説 』以来、宇宙空間での戦闘はレーザービームを旨とすべしという不文律に、明確に反している。が、それも時代の流れだろう。

 

クライマックスでルークが夕陽を浴びて、ウォーカーの大軍と対峙するシーンは鳥肌モノである。そして最後の最後にルークが二つの太陽の夕焼けを眺めて消えていくシーンでは、不安と期待の入り混じった予感を残した。ヨーダが本作で登場したことは、何らかの布石になるはずである。

 

エンドクレジットの途中の、

 

In Loving Memory of our Princess

CARRIE FISHER

 

という文字が画面に現れ、壮大なシンフォニーに一瞬、“愛のテーマ”のメロディが挿入された瞬間、劇場で滂沱の涙が流れた。自分でも心底アホだと思うが、劇場で8回観て、8回同じタイミングで泣いた。

 

ランキング

 

1位 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望

2位 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還

3位 スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲

4位 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒

5位 スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐

6位 スター・ウォーズ エピソード8/最後のジェダイ

7位 スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃

8位 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

 

総評

『 スター・ウォーズ 』の分析や考察をすることに意味はあるだろうか。自分のアイデンティティ形成にこの物語がどれくらい関わっているのかを考えることには意味がある。しかし、このサーガが歴史や世界に与えたインパクトについては、学者や業界人、筋金入りのファンが既に微に入り細を穿って論じている。興味のある向きは『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』というドキュメンタリーを観るべし。もしくは『 ファンボーイズ 』も良いだろう。キャリー・フィッシャーに出会えるからだ。2015年、余命幾ばくもないファンが特別に『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』を劇場公開前に観ることができたというニュースがあった。そして今年、2019年にもほとんど同じニュースが報じられ、実際に『 スター・ウォーズ エピソード9/スカイウォーカーの夜明け 』を末期がん患者が観たという。粋なことである。観ずに死ねるか、という映画はなかなかない。それがこの物語のパワーである。

 

“スカイウォーカーの夜明け”は英語では“The Rise of Skywalker”である。スカイウォーカーが人名である以上、夜明けという訳語の選定には少々違和感が残る。この三部作におけるスカイウォーカーとは誰か。普通に考えればルークだが、カイロ・レンも母レイアからスカイウォーカーの血を受け継いでいる。アナキンが最後の最後にジェダイとして帰還したように、カイロ・レンも暗黒面から光に帰ってくることが予感される。それをありきたりと見るか、それとも王道と見るかは人によるだろう。またはルークがフォース・ゴーストとして“復活”することも考えられる。前作でヨーダが登場したことには何らかの意味が絶対にあるはずだ。パルパティーンが復活するからには、アナキンやオビ=ワンが復活しても良いように思える。

 

Jovianは英語教師の端くれでもあるので、自分でも色々と訳してみたくなる。

 

『 スカイウォーカーの復活 』

『 スカイウォーカーの再臨 』

『 スカイウォーカーの再誕 』

『 スカイウォーカーの再生 』

『 スカイウォーカーの目覚め 』

 

・・・・・・どれもこれもイマイチである。とりあえず、金曜の朝イチに観に行く。できれば土日にもう1~2回は劇場鑑賞したいと思っている。少年時代にもう一度戻れるのか。おとぎ話の世界に浸れるのか。完結作の公開を楽しみに待ちたい。

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『 パターソン 』 -平凡な男の平凡な日々が輝く-

Posted on 2019年12月12日 by cool-jupiter

パターソン 75点
2019年12月9日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アダム・ドライバー ゴルシフテ・ファラハニ ネリー
監督:ジム・ジャームッシュ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191212155633j:plain
 

『 マリッジ・ストーリー 』が傑作だったので、アダム・ドライバー作品をさらに渉猟。こちらも良作。映画らしくない映画だが、そこが映画らしいと思えるのはエンターテイナーというよりはアーティストであるジャームッシュの持ち味か。

 

あらすじ

 

バスの運転手のパターソン(アダム・ドライバー)は愛妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)と愛犬マーヴィン(ネリー)と暮らしていた。バスの運転手と変わり映えのしない毎日を送るパターソン。しかし、彼は詩を読むことが日課だった。ある朝、ローラは双子を身ごもった夢の話を語る。その時からパターソンの目には街の様々な双子が映るようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

なんという平々凡々とした日々の繰り返しだろうか。それ自体は映画に限らず、様々な物語の導入部として充分に機能する。しかし、本作は最初から最後まで、ほとんどがパターソンの日常を描写するのみ。それが不思議な心地好さを生み出す。物語には事件がつきものである。そして、主人公は往々にして事件に巻き込まれるか、主人公の持つ背景がその事故の遠因になっているものだ。そうした映画的、物語的文法は本作には存在しない。まるで自分の日常であるかのように、彼の仕事ぶりや家庭人としての姿にリアリティが感じられる。パターソンという男の平穏無事な日常、そこにあるちょっとしたアクセントを存分に観察して堪能してほしい。

 

それにしてもアダム・ドライバーという男は稀有な存在である。大柄できわめて個性的な顔立ちをしていながらも、どんな役にもハマる。『 スター・ウォーズ 』でのカイロ・レンも良いし、『 ブラック・クランズマン 』での警察官役もクールにこなし、『 もしも君に恋したら。 』の悪友役も魅力的だった。本作でも、仕事をきっちりこなし、近所のバーで毎晩一杯やり、バーテンダーや常連客とちょっとした会話をし、妻を抱いて眠り、妻を抱きながら目覚め、白河夜船の妻にキスをする、そんな至って普通の男をこれ以上ないリアリティで演じた。まるで特徴のない男にすら思えるが、さにあらず。彼には詩人としての顔がある。Jovianには詩の何たるかを語る能力が不足しているので、例を二つ引きたい。漫画『 蒼天航路 』で夏侯惇が「こういう日にゃ詩才のないのが腹立たしくなる」とぼやくと、曹操が「続けろ、もう少しで詩になる」と促す。つまりはそういうことである。もう一つの例は詩人ジェームズ・ライトの“It goes without saying that a fine short poem can have the resonance and depth of an entire novel.”という言葉である。「洗練された短い詩一篇には小説一冊分の響きと深みが宿りうるということは言うまでもない」のである。パターソンが書きつける詩の言葉の一つひとつが、変わり映えしない日常の中のアクセントなのである。

 

妻ローラを演じたゴルシフテ・ファラハニもとても愛らしい雰囲気を醸し出している。手作りカップケーキがマーケットで売れたことで大喜びし、その臨時収入で夫とディナーをして白黒映画を観に行く。子どものいない夫婦であれば、特に珍しい光景ではない。しかし、そうした外出を心から喜び、楽しみ、夫に感謝し、人生を謳歌する様を見て、我々アホな男連中は「愛」という感情、そして「結婚」という因習の重みと意義を知るのである。『 ファウスト 』の「時よ止まれ、お前は美しい」ではないが、一つひとつの瞬間に有りがたみを感じられれば、それは素晴らしい人生であり、人間関係なのだ。フーテンの寅さんの言葉を借りれば、「なんて言うかなあ、ほら・・・、はあ、生まれきてよかったなって思うことが、なんべんかあるじゃない。ねえ、そのために人間、生きてんじゃないのか?」である。そうした心構えを実践し、こちらもそうした気分にさせてくれるローラは、妻の鑑である。

 

だが何と言っても、本作を最も輝かせているのはマーヴィンを演じたブルドッグのネリーである。TVドラマ『 まだ結婚できない男 』のタツオには悪いが、演技者としては月とすっぽんである。もちろん、ネリーが月でタツオがすっぽんである。それほど、この犬の演技は本作ではずば抜けている。終盤になって大事件を引き起こしてくれるが、そこに至るまでにも数々の名演技を披露する。特にイスの上から「何だ、テメー、この野郎」的にパターソンを見つめる様は、目の演技としては『 ジョーカー 』のJ・フェニックスに次ぐものであると感じた。

 

終盤、唐突に日本人が登場する。彼とパターソンが交わす言葉、彼がパターソンに贈るものの意味を考えてみよう。パターソンの生活は、一歩間違えればスティーブン・キングが『 ドリームキャッチャー 』で言うところの“SSDD, same shit, different day(日は変わっても同じクソ)”なのである。そうした日々が輝くのは何故か。それは彼が詩人だからである。なんと清々しい物語であることか!!!

 

ネガティブ・サイド

双子以外にも、カップケーキやギターなど、愛妻ローラの言葉を媒介に、パターソンが世界を観察する目を変えていく描写が欲しかったと思うのは贅沢だろうか。それは描かれなかった二週目、三週目の物語だろうか。

 

後は、パターソンがあまりにも普通の男過ぎて、映画に彩り、色が足りなかった。別の女性に話しかけてみたいという欲求があるのなら、それを試してみればよかったのだ。その上で、妻との会話や触れあいでしか得られない満足感や充足感があるのだということを、ほんのちょっと、本当に些細な出来事を通して描くことはできなかったか。しかし、このあたりの塩梅は実に難しい。それをひとつのイベントにしてしまうと物語世界全体のトーンが崩れる。かといって、そうした要素を極限まで排してしまうと観客が眠気を催す。だが、トライをしてみて欲しかったと思うのである。パターソンは、全ての平凡な男の象徴なのだから。

 

総評

アダム・ドライバーという役者のキャリア的には『 マリッジ・ストーリー 』と鮮やかなコントラストを成している作品である。どちらも傑作である。しかし、雨の日の室内デートでの鑑賞にはおそらく耐えられない。既婚で子どもなしという夫婦で鑑賞してみてほしい。いや、むしろTHE虎舞竜の『 ロード 』をカラオケで歌って、一人たそがれるようなオッサンにこそ観て欲しいと思える作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Speak of the devil.

「噂をすれば影」の意である。バーのとあるシーンで、女性が呟く一言である。ちなみに中国語では「说曹操,曹操就到」、「曹操の噂をすれば、曹操がやって来る」と言うようである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, ゴルシフテ・ファラハニ, ヒューマンドラマ, 監督:ジム・ジャームッシュ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 パターソン 』 -平凡な男の平凡な日々が輝く-

『 マリッジ・ストーリー 』 -既婚者、観るべし-

Posted on 2019年12月2日 by cool-jupiter

マリッジ・ストーリー 75点
2019年11月30日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アダム・ドライバー スカーレット・ジョハンソン ローラ・ダーン
監督:ノア・バームバック

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191202005632j:plain
 

シネ・リーブル梅田でいつぞやにパンフレットとポスターを見て、面白そうだと直感した。それからトレーラーも観ず、他サイトのレビューも読まず、公式サイトにも行かずに、完全に予備知識なしの状態で劇場鑑賞した。予想と全く違ったが、なかなかに面白い作品だった。

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あらすじ

女優のニコール(スカーレット・ジョハンソン)と舞台監督のチャーリー(アダム・ドライバー)の夫婦は、離婚を協議中だった。しかし、ふとしたことから互いに弁護士を立てて争うことになり、胸の奥底にあった思いが噴出してしまい・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191202005712j:plain
 

ポジティブ・サイド

スカーレット・ジョハンソンにしてもアダム・ドライバーにしても、オーラが隠しようのない領域にいる。そんな二人を凡百の夫婦にするのではなく、女優と舞台監督に設定したのが奏功している。両者とも、自己を表現することを生業にしているからである。芝居がかった台詞や仕草も、この設定のおかげでナチュラルなものに映る。実際に、ニコールとローラ・ダーン演じる弁護士のはじめての会話は、相当に芝居がかっている。ほぼ定点観測カメラでロングのワンカットを取り切ったが、この場面は映画というよりも舞台演劇のようだった。

 

アダム・ドライバーも魅せる。几帳面に家事をこなす子煩悩の父親でありながら、いかにもアメリカ的な封建的・家父長的な面も持っている。併せ、妻の母親とも友達のような関係を作ることができるナイスガイでもある。これができる男は強い。素直に心からそう思う。終盤の夫婦喧嘩は売り言葉に買い言葉で罵り合いがどんどんとエスカレート。最後には思わず心にもないことを叫んでしまい、後悔の念に打ちひしがれ、崩れ落ちて行く。密室に男女二人が寄り添い合う様は、夫婦という関係の一筋縄ではいかない難しさがよくよく表れていた。

 

子はかすがいと言うが、子は庇護者の顔色をよく観察している者でもある。同僚のアメリカ人は子どもを一年間アメリカの祖父母に預ける形で留学させたが、子どもはアメリカ滞在中は父母の不満を漏らして祖父母の庇護を巧みに得、日本に帰ってからは祖父母の不満を述べて以前よりも手厚い庇護を得ているという。我々はしばしば子どもを純粋無垢な存在だと認識している。純粋の部分は否定しないが、無垢という点に関しては検討が必要だろう。映画や文学においてもそれは同じである。

 

本作はアメリカの地域性の違い、そのコントラストを映し出してもいる。日本で言えば関東と関西だろうか。寒くて住居も小さく生活圏が比較的狭くなりがちなニューヨーク。温暖で、住宅が広く、どこへ行くにも車が必需品なロサンゼルス。それはまるで男と女の生物学的な差異を象徴しているかのようでもある。

 

知り合いの弁護士の方が常々おっしゃるのは、弁護士を立てる前に当事者で徹底的に話し合うべき、もしくは協議の前に弁護士の助言を仰ぐべき、ということである。もちろん商売でそう言っている面もあるだろうが、本作のようなドラマを観ると、これは真正の忠告であることがよく分かる。いったん離婚の手続きを弁護士に委ねてしまえば、お互いの減点材料の探り合いと責め合いになってしまう。弁護士の仕事は紛争の解決であるが、紛争の予防も仕事の柱である。弁護士の全てが『 ジュラシック・パーク 』に出てくるblood-sucking lawyerではないと信じているが、弁護士は誰も彼もがある程度は人の生き血をすすって金儲けをしている面は否定できない。離婚に際しての財産分与のあれこれを活写している点は実に参考になる。

 

結婚というのは難しい。テレビドラマ『 まだ結婚できない男 』でも阿部寛が結婚にまつわる各種の名言を引用するエピソードが最近あったが、本ブログ的には『 ゾンビランド:ダブルタップ 』のウィチタの台詞、「結婚したカップルがすることは一つ、離婚することよ!」を引くべきなのだろう。そのとおりになってしまったチャーリーとニコールの夫婦を、それでも応援したいという気持ちにさせてくれる本作は、既婚者にこそぜひ観て欲しいと思える仕上がりである。

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ネガティブ・サイド

ローラ・ダーン演じる弁護士のテンションが高すぎないだろうか。聖母マリアについて語るシーンは良いとしても、その他のシーンでの彼女のテンションの高さが、映画のトーンとマッチしていないように感じられた。チャーリー側が最初に接触したレイ・リオッタ演じる弁護士が典型的なblood-sucking lawyerだった。そのテンションに合わせるなら、その男の登場シーンが来てからでよかった。大女優と大監督の采配にケチをつけても詮無いことだが。

 

息子のヘンリーが失読症気味であること、その息子の読解の訓練に甲斐甲斐しく付き添うチャーリーの姿が争点にならないのは何故なのか。弁護士はもっとチャーリーのプラスの点を見るべきだ。

 

そのアダム・ドライバーは思わぬ歌唱力を披露してくれるが、日本語の歌詞が一部間違っている。字幕翻訳には字数制限という大きな制約があるのは承知しているが、二番以降の歌詞が命令形になっていることには、それなりの意味がある。そこを訳出できていなかったのは翻訳家の大きな減点材料となる。英語リスニングに自信のある人は、耳を澄ませて歌詞と字幕の意味を比較してみよう。

 

総評

結婚生活の負の側面が噴出するが、『 ゴーン・ガール 』と違って、結婚生活の闇の面は出てこない。そうした意味では、未婚者にも本当はお勧めすべきなのかもしれない。結婚の終わりは関係の終わりではなく関係の変化である。日本も離婚率が3割に達しているが、それはこの男女の関係の因習を新しく捉え直す時代に入ってきた、あるいはそうした世代が増加してきたことの証左だろう。であるならば、高校生や大学生あたりも室内デート・ムービーとして鑑賞してもいいのかもしれない。つまりは万人向きの良作ということである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

put ~ away

 

~を片づける、の意である。

 

散らかってるおもちゃを片付けなさい = Put the toys away.

本を片付けなさい = Put your books away.

服を片付けなさい = Put the clothes away.

 

ただし、部屋を片付けるや、机を片付ける(机そのものではなく、机の上の物を片付ける)場合には、異なる表現になる。Word for wordではなく、状況に応じて言葉や表現の意味を理解するように努めるべし。成人の学習者なら尚更である。

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『 もしも君に恋したら。 』 -不器用な男の不器用な恋-

Posted on 2019年10月14日 by cool-jupiter

もしも君に恋したら。 60点
2019年10月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダニエル・ラドクリフ ゾーイ・カザン アダム・ドライバー マッケンジー・デイビス
監督:マイケル・ドース

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禁断の恋はいつでもドラマチックである。最もドラマチックなのは韓国ドラマでお馴染みの、実は二人は兄妹でした的な展開であるが、日常的なレベルでの禁断の恋は、彼氏彼女持ちを好きになってしまうことだろう。これは独身でも既婚者でも、自分にパートナーがいてもいなくても起こりうることで、それゆえに本作は共感を呼びやすく、同時に陳腐でもある。

 

あらすじ

ウォレス(ダニエル・ラドクリフ)は、内向的な青年。友人のアラン(アダム・ドライバー)に呼ばれて行ったパーティでシャントリー(ゾーイ・カザン)に出会い、ひと目惚れする。しかし、シャントリーには恋人がいた。しかし、ある日、映画館の外で偶然に再会した二人は意気投合。ウォレスとシャンとリーは友人関係を結ぶことを約束するが・・・

 

ポジティブ・サイド

ハリー・ポッター=ダニエル・ラドクリフだった頃の、あの少年はもういない。『 スイス・アーミー・マン 』で見事に生気のない役、というか死体を演じた演じる前だが、生気があまり感じられないという点では、本作の役と共通点は多い。ラドクリフ演じるウォレスには共感しやすい。男は基本的に奥手で受け身で自分が傷つきたくないという考える生き物だ。相手を傷つけたくないという配慮は、自分が傷つきたくないという軟弱な精神構造の裏返しなのだ。そんな典型的なダメ男を演じたラドクリフは、世界中のイケてない男の羨望の的である。

 

アダム・ドライバー演じる彼の親友のアランもいい。邦画の、特に少女漫画を映画化した作品では、主人公の親友はたいていの場合、物分かりの良い縁の下の力持ちに終始するが、アランは違う。極めて実践的なアドバイス、すなわち自分を清いままに保とうなどという甘ったれた観念をぶち壊せという助言をしてくれるし、あと一歩を踏み出せない友人と従妹シャントリーに、その一歩を超えられるような舞台設定もしてくれる。一見すると女性=セックス・オブジェクトとしてしか見ていないような男なのだが、実はそうではない。責任を取れる男なのだ。野郎同士の関係、特に悪友とのそれはなかなか変化しない。それは、あまり気持ちの良い例えではないが『 宮本から君へ 』のピエール瀧とそのラグビー仲間のオッサン悪童連を見ればよく分かる。だが、関係が変化せずとも人間は変わる。そして、人間が変わった時、その相手に差し向かう自分も変化を突き付けられる。これは遅れてきた男のビルドゥングスロマンであり、そういう意味ではダニエル・ラドクリフという俳優の人生をある意味で象徴している。まさに面目躍如である。

 

ゾーイ・カザンは安定のクオリティ。下着姿やセミヌードを惜しみなく披露してくれる女優で、容赦ないエロトークやエロティックな演技もできる一方で、slutty な感じを一切出さない。健康的なのだ。日本で比較できそうな女優は高畑充希か。芳根京子の今後の成長に期待。ベタではあるが、怒ったり拗ねたりした時の方が魅力が増す女子というのは、大切にしなければならないのである。

 

ネガティブ・サイド

ゾーイ・カザン演じるシャントリーの商業がアニメーターという設定が今一つ生きていない。ペンだこひとつない綺麗な手というのはどういうことなのだろう?例えば、ウォレスとの友情を誓い合う握手の時に、ウォレスが「ちょっと普通の手の感触と違うね?」みたいなことを言えば、彼女が真摯に仕事に打ち込むキャラクターであることも伝わるし、ウォレスはただのヒッキーではなく、実はそれなりに経験を積んだ男であることを仄めかすこともできただろう。シャントリーの職業的背景が、変てこアニメーション演出以外に特に活かされなかったのは遺憾である。

 

シャントリーのボーイフレンドであるベンを必要以上に dickwat に描く必要はあったのだろうか。高度な知識と技能を持つプロフェッショナルで5年も付き合ってきた女性にプロポーズもできていない時点で、ある意味ではウォレスに負けず劣らずのヘタレなのである。もう少し正攻法のウォレスとベンの対決を見てみたかった。

 

 

総評

全体的に予想を裏切る展開が少なく、予定調和的である。ただ、日本の少女漫画の映画化作品に食傷気味の向きには、A Rainy Day DVD または A Typhoon Day DVDとしてお勧めできるかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Did you guys meet?

 

Meetの意味は出会うではなく、「出会って挨拶や簡単な会話をする」ところまでを含む。『 モリーズ・ゲーム 』でも、ジェシカ・チャステインがイドリス・エルバに娘を紹介された時に“We met.”と返していた。またmeetは名詞としても使う。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも水泳大会=Swim Meetと表現されていた。会=Meetと理解すれば、出会って何かを行う、というイメージをより強く持つことができるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アイルランド, アダム・ドライバー, カナダ, ゾーイ・カザン, ダニエル・ラドクリフ, マッケンジー・デイビス, ラブロマンス, 監督:マイケル・ドース, 配給会社:エンターテイメント・ワンLeave a Comment on 『 もしも君に恋したら。 』 -不器用な男の不器用な恋-

『 ブラック・クランズマン 』 -事実は小説よりも奇なり-

Posted on 2019年4月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

ブラック・クランズマン 70点
2019年3月31日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジョン・デビッド・ワシントン アダム・ドライバー
監督:スパイク・リー

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原題はBlacKkKlansman、黒人のKKKメンバー男性の意である。冒頭からいきなり『 風と共に去りぬ 』のワンシーンが流される。あのスパイク・リーがスカーレット・オハラを好意的に見ているとは思えないので、これには何らかの意図があるのは間違いない。このシーンをEstablishing Shotとして見るならば、プロットは白人優越世界の終焉を予感させるものであろう。だが、スパイク・リーはそんな単純な人物では全くなかった。

あらすじ

時は1970年代。ベトナム戦争への厭戦気分が反戦運動に変わりつつあるアメリカ。コロラド州コロラドスプリングスで初めて黒人警官として採用されたロン・ストールワース(ジョン・デビッド・ワシントン)は、ある時、勢い余ってKKKに突撃電話。トントン拍子に話は進み、KKKメンバーと会うことに。しかし、彼は黒人。そこで同僚のフリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)が対面に赴くことに。電話でロン、対面はフリップという、前代未聞の二人一役潜入捜査が始まり・・・

ポジティブ・サイド

『 ゲット・アウト 』監督のジョーダン・ピールが製作として参加していることで、ユーモアとサスペンスがハイレベルで融合した佳作に仕上がっている。主演を努めたジョン・デビッド・ワシントンがとにかく面白い。笑える。黒人差別丸出しの同僚警察官に対する怒りのシャドーボクシングというかシャドー空手がとにかくコミカルだ。なるほど、これはシリアス一辺倒の映画ではありませんよ、とスパイク・リーは冒頭のワンシーンとの対比で観客に告げているわけだ。実際にジョン・デビッド・ワシントンの電話シーンはハチャメチャな面白さである。何しろ、ノリと勢いだけで黒人警官がKKKに電話をして、見ているこちらの心臓が鷲掴みにされるぐらいドキッとする差別的言辞を弄して、相手の懐に飛び込むのである。差別を笑いに転化するのは不謹慎かもしれない。しかし、『 翔んで埼玉 』でも明らかになったように、差別とは本人のものではない属性を本人の意に反して押し付けるものである、今作では被差別対象である黒人自身が黒人をクソミソにけなしまくるのがとにかくとにかく痛快なのである。

だが、本作は決してコメディ一辺倒なのではない。差別の醜悪さを描き出す実話を基にしたサスペンス映画であり、警察バディムービーであり、ヒューマンドラマでもある。むしろヒューマンドラマでしかない、とさえ言えるかもしれない。黒人のロン、ユダヤ系のフリップの二人は共にKKKからすれば排除、攻撃の対象である。敵の敵は味方などという単純な人間関係はそこにはない。ロンとフリップの間に思わぬ形で友情が花開いたりすることはなく、二人はどこまでも警察官という一点でつながる。おそらく人間同士が関係を築くのは、それだけで充分なのではないだろうか。互いが互いの仕事をリスペクトする。それだけで争いや諍いは相当に減らせるはずなのだ。

ともするとコメディになりがちなジョン・デビッド・ワシントンとはある意味で大局的なアダム・ドライバーは、警察であることやユダヤ系であることが露見しそうになるたびに、汚い差別意識丸出しの言辞を弄して、状況をサバイブしていく。とある絶体絶命に思えたシーンを切り抜けるため、彼がロンに向かって実弾を発砲するのだが、その時の口調と表情!鬼気迫る演技と言おうか、イラクにも実際に赴いた軍人上がりにこそ出せる味があった。善のルーツを持つ悪のプリンス、カイロ・レンを演じるにふさわしい役者であることをあらためて満天下に示したと言えるだろう。

本作は、最後の最後に衝撃的な絵を持ってくる。これを蛇足と見るか、これこそがスパイク・リーの本当に見せたいものなのだと見るかで、本作の評価はガラリと変わる。Jovianはこれこそがスパイク・リーの問題意識なのであると受け取った。ストーリー自体は、ゴキゲンな黒人警官がアホな差別主義者の白人の横っ面を見事に張り倒すというものなのだが、スパイク・リーの意図するものは、『 評決のとき 』におけるマシュー・マコノヒーの弁論と同質のものであろう。非常に痛切に考えさせられる映画である。

ネガティブ・サイド

Based on a true storyやInspired by a true event系の映画は近年、大量生産されてきた。粗製乱造とまでは言わないが、さすがにそろそろ食傷気味である。この手の差別の恐ろしさ、その知性と思考能力の欠落具合は『 私はあなたのニグロではない 』、『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』、『 ビールストリートの恋人たち 』、『 グリーンブック 』などでもう十二分に描かれてきた。KKKを告発したいのではなく、人々が心の中に頑強に持つ固定観念、硬直した思考を討ちたいのだろう。スパイク・リーほどの映画人であれば、自分でオリジナルの物語を紡げるはずだし、紡ぎ出さなければならない。

総評

ポール・ウォルター・ハウザー演じるKKKメンバーは『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』でも陰謀論全開にして、思考能力ゼロ、コミュニケーション能力ゼロ、批判精神ゼロという頭の悪すぎる男を演じていたが、これを他山の石とせねばならない。宗教団体を支持母体とする政党や、カルト的な思想信条を隠そうともしない団体からの指示を受ける与党、そして不健全な思考の右翼化を見せる高齢世代。そうした者たちの背後に透けて見えるのは、全て同質のものなのだ。それはちくま新書『 私塾のすすめ: ここから創造が生まれる 』で梅田望夫と齋藤孝が共通して闘う敵と同じものである。ゆめゆめ他国の過去の出来事と思うことなかれ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, コメディ, ジョン・デビッド・ワシントン, ヒューマンドラマ, 監督:スパイク・リー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ブラック・クランズマン 』 -事実は小説よりも奇なり-

『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

沈黙 サイレンス 80点

2018年4月18日 レンタルBlu-rayにて観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライバー リーアム・ニーソン 浅野忠信 窪塚洋介 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈
監督:マーティン・スコセッシ

原作は高校生の時に読んだが、その頃はあまりピンと来なかった。その後、いつか再読しようとは思っていながら、その機会は訪れないまま、映画化され、それでも都合が合わず、劇場観賞はできなかった。そしてようやくTSUTAYAで借りてきた。心が切り刻まれるような物語であった。たとえば『 ハクソー・リッジ 』に対して、「日本兵の描き方がおかしい」という声を挙げる人がいるが、今作にはそうは言えまい。なぜなら原作者は遠藤周作なのだから。日本の気候や風土の描き方がおかしいという批判は当たるだろう。なぜならロケ地は台湾だから。本作に対して批判すべき点があるとするなら、なぜ皆が皆、ポルトガル語ではなく英語をしゃべるのか、という点ぐらいであろう。

この映画が観る者の心を切り刻むのは、その三重の対立構造にある。迫害を受ける信徒と神父、そして迫害する幕府。そして信仰を棄てる者と信仰を棄てない者。そのような彼ら彼女らを見ながら、迫害を止めてほしい、信仰を棄ててほしいと思う自分と、信仰を棄てるな、祈らずとても神や守らんと思ってしまう自分。いずれの立場も分かる。高校生の頃にはあまり理解できなかったフェレイラ神父や井上筑後守、キチジローの選択や決断が、物理的な重みを持っているかのように、心に圧し掛かってくる。宗教的な信仰心と、政治的な信念の間にある違いとは一体何であるのか。それはおそらく、前者には≪沈黙≫の問題がいつでも、どこでも、誰にでも起こりうることではないだろうか。というのも、(為政者にとって)政治的な信念が試されるのは、それが自分のためではなく、他人のためになるかどうかを問われる時である一方で、宗教的信仰は自分が危難に陥った時、さらに他者が危機にある時にも問われるからだ。政治的な決断、自分の内なる声は、他人に聞いてもらうこともできる。しかし、信仰の対象=神が、信徒の苦難の時に沈黙を保つ理由が何であるのかは、誰に問えばよいのか。実際に、宣教師のガルペ(アダム・ドライバー)は信徒の危機を見過ごすに忍びず、結果的に命を落としてしまう。同じく宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、その悲劇を目の当たりにするのだが、これとても彼にとっての受難の端緒に過ぎなかった。

今でも小学校の社会科では、踏み絵を教えているのだろうか。小学生の頃の自分は、「形だけのことなら、踏めばええやん」と思っていた。形だけのことで・・・と思うが、我々の社会は一事が万事、形へのこだわりで構成されているではないか。ネクタイはいずれ廃れるかもしれないが、尊敬語と謙譲語の使い分け、お辞儀の角度からハンコの押印の角度に至るまで、形式の尊重は社会の隅々まで行きわたっているように感じる。しかし、信仰はおそらくそうではない。祈り=自己内対話と説明する書籍も読んだことがあるが、対話の相手が沈黙を保っているというところに、信徒の懊悩を感じ取らざるを得ない。なぜなら、我々が後生大事に守っている形式というのは、社会的な要請=他者の存在が当たり前のように前提になっているが、信仰=祈り=自己内対話においては、神の存在を確信しつつも、その不在を強く疑わなくてはならないからだ。

信仰を持つからこそ、棄ててしまう。神に語りかけるからこそ、沈黙が返ってくる。そもそも日本に渡ってきた目的は、フェレイラ師(リーアム・ニーソン)を探し、本当に棄教してしまったのかを確かめるためだったが、そのフェレイラ師もまた、心を切り刻まれてしまっていた。何が、もしくは誰が彼の心を切り刻んだのか、引き裂いたのか。決断の時に、声は聞こえてきたのか、聞こえなかったのか。それは、同じ責め苦を受けるロドリゴと痛苦を分け合うことで実感してほしい。信仰心というものが人を生かし、人を殺す。信仰心が人を救い、人を苦しませる。切り裂かれた心の奥底から湧き起る声は、誰のものなのか。それは、本作を通じて確かめてほしい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

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