Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

カテゴリー: 映画

『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

Posted on 2018年12月14日2019年11月30日 by cool-jupiter

ヘレディタリー/継承 50点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トニ・コレット アレックス・ウルフ ミリー・シャピロ アン・ダウド ガブリエル・バーン
監督:アリ・アスター

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181214032146j:plain

 

heredityという言葉がある。遺伝という意味で、よりなじみ深い英単語ならinheritが挙げられるだろう。ityがつくことで、性質や状態を意味する。身近な例としては、abilityやunity、facilityがある。これにさらに、aryをつけると、場所や範囲、領域を意味するようになる。好個の一例がdictionaryだろう。dictについては、predictやcontradictから類推は容易だ。原題も”Hereditary”であることから、誰かが何かを受け継いでいることを指すのは一目瞭然なのだが、誰かとは誰か、何かとは何であるのかを理解するのは一筋縄ではいかなかった。

 

あらすじ

その一家は祖母を亡くした。その娘のアニー(トニ・コレット)は母には複雑な感情を抱いていながらも、仕事のミニチュア・ハウス作りに没頭する。息子のピーター(アレックス・ウルフ)と娘のチャーリー(ミリー・シャピロ)も日常に回帰しようとするが、名状しがたい異様な空気を一家は振り払うことができず、ある夜、悲劇が発生してしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

非常に珍しい Establishing Shot から始まる映画である。ミニチュアのドールハウスを映したかと思えば、その部屋の一つにどんどんズームインしていく。それがピーターの寝室とぴたりと重なるところで、父がピーターを実際に起こしに来る。のっけから唸らされた。今からあなたが観るのは、全て誰かが組み立てた話なのですよ、とあけっぴろげに語られたような気がしたからだ。そして、実際にその通りなのである。

 

何と言ってもチャーリーを演じたミリー・シャピロに拍手を送りたい。強面のジェイソン・クラークをそのまま性転換させ幼児化させたようで、メイクの力もあるだろうが、尋常ならざる雰囲気を見た目だけで醸し出している。天才肌のグレイス・マッケナとは一味違う、一種異様な空気を纏うことができる子役だ。『 エクソシスト 』のリンダ・ブレアのようなキャリアを歩まないことを切に願う。

 

アメリカのメジャーな映画の母親役はトニ・コレットかアリソン・ジャネイとでも決まっているのだろうか。ほんの少し前まで、邦画のきれいなおばあちゃんは吉永小百合、ちょっとエキセントリックなおばあちゃんは樹木希林だったように。本作では主演だけではなく製作総指揮も務めたとのことだが、おそらく鏡の前で相当に顔の筋肉を動かしてから撮影に臨んだに違いない。恐怖の演出のための表情が、コメディ一歩手前にまで到達してしまっている。トニ・コレットでなければギャグになってしまうところを、その存在感と卓抜した演技力で見事に場面を締め付けている。

 

顔芸ではピーターも負けてはいない。特に運転席のシーンでは、観ているこちらも冷や汗をかくというか、脂汗をかくというか、バックミラーを見て後ろを確認すると、そこには!という演出は、おそらく『 ジュラシック・パーク 』で一気にスパークし、今やクリシェと化したが、今作はバックミラーを覗きこみたくても覗きこめないという演出で観る者の不安と恐怖を掻き立てた。残念なのは、恐怖の描写ではこのシーンがピークだったことか。

 

ネガティブ・サイド

ホラーとは何か、については実に興味深い議論がある。Cinemassacreの二人(James RolfeとMike Matei)による Is it horror? という動画がある。議論の冒頭で“Horror is something that’s always changing and adapting to the state of the world”=「ホラーは常に変化して、世界の状態に適応していくもの」という指摘がなされるが、これは正しい。そして、その議論を援用するならば、ホラーの定義は地域によって異なってもよいはずだ。極めて日本的なバックグラウンドを持つ人が、この映画から感じ取る恐怖とは、視覚的な恐怖や聴覚的な恐怖であったり、家族の崩壊の恐怖であったりで、宗教的・哲学的な意味での恐怖を感じ取る人がいたとすれば、相当に鋭い感受性か、もしくは類まれな知識と教養の持ち主と思われる。この映画から後者の意味での恐怖を受けるとすれば、それは西洋文明に相当明るい人のはずだ。Jovianは平均よりも上の知識をその方面に有していると自負しているが、正直なところ、家族の崩壊以上の意味を感じ取ることは難しかった。最後の最後の場面で諸々の伏線、前振りが回収されていく様は見事であったが、それはホラーといよりもサスペンスやスリラーであるように感じられた。

 

ホラー=恐怖とは、理不尽なもの、理屈が通じない状況から生まれるものだろう。しかし、本作の悲劇の始まりは、チャーリーがある行動を取ったから、という実に他愛のないものだった。隠す意味もないのだが、その行動とは「ケーキを食べる」である。もう、これだけでホラーの要素が薄まってしまうだろう。もちろん、その後の悲劇は本当に悲劇としか言いようがないのだが、その過程で観る者が感じるのはサスペンスであってホラーではない。これは西洋人であろうと東洋人であろうと同じだと考えられる。

 

本作は『 ローズマリーの赤ちゃん 』になろうとして、しかし『 タロス・ザ・マミー/呪いの封印 』になってしまった、と言えば通じるだろうか。誰がどう見ても怖い作品を作ろうとして、謎解き要素が強めの作品が出来上がったという感じである。同工異曲でもっと怖い作品を観たいという人は、『 ウィッチ 』を観よう。色々と腑に落ちた点をしっかりと頭に叩き込んでもう一度劇場に向かえば異なる感想を持つ可能性は高いが、残念ながらその予定はない。

 

総評

おそらく評価が真っ二つに分かれる作品である。恐ろしさを感じる人は感じるだろうし、スリルやサスペンス、またはミステリー要素を感じ取る人も相当数いると思われる。ホラーというものは常に現実に即しながら、必ず現実をはみ出た部分を持っている。どの方向にどの程度はみ出るかによって、どのような人にどの程度の恐怖感を催させるかが決定されるわけだ。そうした意味では、観る人を選ぶ作品である。もしもトニ・コレットのファンならば、即、劇場へGO!! である。イヤミス好きという人にもお勧めできる。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181214032413j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

 

 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, トニ・コレット, ホラー, 監督:アリ・アスター, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ヘレディタリー/継承 』 -ホラーではなくスーパーナチュラル・スリラーに分類すべき-

『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

Posted on 2018年12月12日2019年11月30日 by cool-jupiter

くるみ割り人形と秘密の王国 40点
2018年12月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マッケンジー・フォイ キーラ・ナイトレイ モーガン・フリーマン
監督:ラッセ・ハルストレム ジョー・ジョンストン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181212024607j:plain

チャイコフスキーの“くるみ割り人形”と言えば、圧倒的に「行進曲」と「花のワルツ」のイメージが強いだろう。この軽快にして優雅な調べは、聴く者の心に沁み入るような印象をもたらす。この典雅な音楽に乗せて展開される映像世界はどのようなものになるのだろうかと期待に胸を躍らせていたが・・・

 

あらすじ

母を亡くして以来、内向的になってしまったクララ(マッケンジー・フォイ)は、あるクリスマス・イブに名付け親のドロッセルマイヤー(モーガン・フリーマン)の邸宅を訪れる。そこでは各人へのクリスマスプレゼントが用意されており、自分の名前が書かれた札のついた紐をたどっていく仕組みだ。そしてクララが紐をたどっていく先には、不思議な世界が広がっていた・・・

 

ポジティブ・サイド

インターステラーのマーフがここまで大きくなったかと、マシュー・マコノヒーならずとも父のような目で見てしまう。クロエ・グレース・モレッツ的な存在になるのか、それともジェニファー・ローレンスのような恐れ知らずの女優にまで変貌するか。今後が実に楽しみである。なんとなくルックスが杉咲花を思わせるのだが、出演作は本人およびハンドラーもしっかりと吟味をしてほしいと切に願う。

 

ゴッドファーザーのモーガン・フリーマンも、日本の国村準に負けず劣らずのハイペース出演。正直なところ、この偉大なる俳優のキャリア、というか寿命もそこまで長くは残されてはいないだろう。彼の今後の一作一作が、文字通りの遺作になる覚悟で臨んでいる。言えるうちに言っておこう。この不世出の名俳優に乾杯。

 

そしてキーラ・ナイトレイである。『 はじまりのうた 』や『 アラサー女子の恋愛事情 』では典型的なお姉さんキャラを演じていたが、本作ではハイテンションお姉さんキャラに変貌を遂げた。しかし、大人でありながら大人の余裕をそれほど感じさせないお姉さんキャラという点では、いつものキーラなので、彼女のファンであってもそうではなくても、安心して鑑賞できる。このことをポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは人による。Jovianは好意的に受け取った。キーラは何となく、蒼井優を思わせる。可愛らしさ、色気、儚さ、物憂げな様子、名状しがたい負の感情、倒錯。そうしたところが共通しているように思う。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーそのものに真新しいところはない。というよりも、ディズニーらしい改変が加えられている。ディズニーがよく知られた物語を実写化すると、しばしばフェミニスト・セオリーなどの現代的な読み変えを行う。女性はどこまでも受け身で、物語を雨後がしていくのはもっぱら男性的なキャラクター達というのが古典的な物語の在り様だ。赤ずきんちゃんでも白雪姫でも何でもよい。そうしたおとぎ話の女性の受動性とディズニー映画の女性の積極性には見事なコントラストがあるのだが、それが常に成功するわけではない。なぜクララがいきなりガンガン闘えるのか。なぜクララに女王の威厳が備わっているのか。なぜクララが機械仕掛けに精通しているのか。こうした男性的な特徴を、特に説明もなくクララが持っていることが、物語にマイナスに作用しているように思う。近年の実写ディズニー映画で個人的に最も面白かったのはリリー・ジェイムズの『 シンデレラ 』だ。なぜなら、女性の女性性を損なうことなく、一貫した物語に仕上がっていたからだ。クララ本人とその母親、そして四つの王国の背景がほとんど語られないままにキャラが動き出すせいで、観客は置き去りにされたかのように感じてしまう。

 

また、CGの量は何とか抑えられなかったのだろうか。全ての王国の背景が、あまりにも作り物然としていた。CGが今後どれほどの進歩を見せるのかは分からないが、それでもCGはCGとして目に映るだろう。最近観た『 グリンチ(2000) 』でも感じたことだが、着ぐるみや特殊メイクは幼稚かもしれないが、存在感という点ではいかなるCGにも勝る。最近も『 GODZILLA 星を喰う者 』で、ほとんど動かないキングギドラを見せられたが、かつての昭和、平成のキングギドラは二十人ほどの操演によって動いていたという。しかし、ピアノ線による操演技術はロストテクノロジーとなって久しい。今ではエキストラの人間さえもCG作成して合成してしまう映画が多いが、ディズニーほどの予算を持っているのなら、オーガニックな素材をふんだんに使った映画を作り続けるべきだ。本作のCGヘビーな面は、技術の進歩というよりも技術の後退、継承の失敗という文脈で捉えるべきではないだろうか。

 

総評 

はっきり言って、本作にはストーリー上の面白さは無い。キャストにお気に入りがいないのであれば、素直にスルーするのが吉である。そうはいっても、チャイコフスキーの音楽の調べによって語られる物語の映像美は、雨の日の過ごし方やちょっとした時間つぶしのためには最適であるのかもしれない。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181212024758j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ファンタジー, マッケンジー・フォイ, モーガン・フリーマン, 監督:ジョー・ジョンストン, 監督:ラッセ・ハルストレム, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 くるみ割り人形と秘密の王国 』 -鑑賞時はCG酔いに注意のこと- 

『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

Posted on 2018年12月8日2019年11月30日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 50点
2018年12月1日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ ジュード・ロウ
監督:デビッド・イェーツ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181208021105j:plain

原題は“Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald”、『 ファンタスティック・ビースト:グリンデルバルドの罪 』というわけだが、ウィザーディング・ワールドでは罪の概念がマグル/ノーマジの世界とは異なるのだろうか。個人的には、グリンデルバルドはそこまでつの罪を犯しただろうか?と首をかしげてしまった。

 

あらすじ

悪の大魔法使い、グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が移送中に逃亡に成功。ダンブルドア(ジュード・ロウ)と接触したニュート(エディ・レッドメイン)は、彼に代わってグリンデルバルドの追跡を依頼される。大魔法使いのダンブルドア自身がその任にあたらないことに訝しさを覚えつつも、ニュートはロンドンからパリへと向かう・・・

 

ポジティブ・サイド

シリーズと呼ばれる作品は映画界に数多く存在する。しかし、Saga / サーガ と見なされうるだけの力と奥深さを持つ作品は少ない。『 スター・ウォーズ 』や『 ロード・オブ・ザ・リング 』は間違いなくサーガだが、『 猿の惑星 』や『 ミッション・インポッシブル 』はサーガではないと感じている。サーガとは英雄譚であると同時に、魅力的なキャラクターと物語を生み出す世界観そのものだろう。「ルークやダース・ベイダー(≠アナキン)が出てこないから、新三部作はスター・ウォーズではない!」と怒るファンはいなかった。我々スター・ウォーズファンが怒り、嘆き悲しんだのは、フォースと言う銀河に満ちる神秘的な力を生物学的に解釈してしまったところだった。世界観を破壊されたからなのだ。そういった意味では、キャラクターではなく世界観こそが、シリーズとサーガを分ける一つの大きな指標だろう。『 ハリー・ポッター 』は紛れもないもサーガだった。本作もサーガの一端を担っていると言える。それはニュートやティナが登場していること以上に、魔法や魔法生物の存在によるところが大きい。前作でかなり唐突にアメリカに舞台を移したことには面食らったが、今作はパリ、さらには中国の妖怪も大暴れし、日本の妖怪も一瞬だけ登場する。世界の奥深さ、広大さを切り取った素晴らしい構成だと感じた。

 

ネガティブ・サイド

登場人物が一気に増えすぎた感は否めない。前作のニュート、ティナ、ジェイコブ、クイニーのリユニオンが期待されていたはずだが、そこへ持ってきてニュートの兄、その兄の婚約者、さらにクリーデンスの親など、メインのプロットであるグリンデルバルドの追跡とは直接に関連しないサブプロットが多すぎる。『 アントマン&ワスプ 』でもそうだったが、ストーリーは詰め込めば詰め込むだけ良いというものではない。過剰なサービス精神が必ずしもエンターテインメントになるわけではない。

 

冒頭でも述べたことだが、本作の最大の弱点は、グリンデルバルドが多くの魔法使いを扇動するばかりで、罪と呼べるのはオープニングの闘争および逃走シーンぐらい。だいたい、こんな危険な魔法使いが逃げ出したというのに、魔法省は数ヶ月間も動かず。ハリポタ世界でもヴォルデモートの復活を信じず、闇の軍団の成長に楔を打ち込もうとする動きは大きくならなかった。魔法使いは皆、基本的に能天気なのだろうか。闇祓いというのはアラスター・ムーディのような、好戦的・・・とは言わないまでも、闘うことに慎重になりすぎず、闘うとなれば手足や目玉ぐらいは犠牲に闘うものではないのか。ニュートが闇祓いを忌み嫌うのは、自分たちの知識や理解の範疇に収まらない生物を駆除しようとするからではなかったか。なぜグリンデルバルドにもっと立ち向かっていかないのか?映画的ご都合主義が見え隠れしていた。これは大きな減点材料だ。

 

総評

本シリーズは全5作で完結するとされている。であるならば、次作ではマクゴナガル先生の若い頃versionが登場してもおかしくない。個人的には、ハリポタ世界でスネイプ先生に次いで最も好きなキャラクターだ。ダンブルドアがストーリーに絡んできたからには、彼女の登場も期待される。作品としてはもう一つだが、Wizarding Worldの広大さを感じられるという意味では及第点。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181208021303j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 』 -物語よりも、まずはキャラを立てるべし-

『 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 』 -The Wizarding Worldの復活-

Posted on 2018年12月6日2019年11月23日 by cool-jupiter

ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 60点
2018年11月29日 レンタルDVD鑑賞
出演:エディ・レッドメイン キャサリン・ウォーターストン ダン・フォグラー クアリソン・スドル エズラ・ミラー ゾーイ・クラヴィッツ ジョニー・デップ
監督:デビッド・イェーツ

 

ハリー・ポッターは最初の1冊だけ小説を読んだ。映画は全部観た。原作の翻訳者が大学の大先輩で、2000年ごろの大学祭での講演も聞いたことがある(ただの自慢話だったと記憶しているが)。Universal Studios Japanにも何度か行ったが、ハリポタのアトラクション・ライドは必ず乗ってきた。大ファンというわけではないが、The Wizarding World of Harry Potterの世界にはそれなりに魅了されてきた。作品としては続編(sequel)だが、物語としては前日譚(prequel)である。

 

あらすじ

魔法動物学者のニュート(エディ・レッドメイン)は、様々な魔法動物の収集と保護のためにアメリカを訪れる。しかし、魔法のトランクから一部の動物が脱走。アメリカ魔法省からお咎めを受ける。逃げ出したファンタスティック・ビースト、さらには未知の魔法生物を探し求めて、ニュートの冒険が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

ハリー・ポッターの世界と地続きなので、非常に入りやすい。服装、街並み、呪文など、いかにも前シリーズを意識していて、すんなりと世界に入って行ける。

 

キャラクターも良い。ハリポタ世界のマグルは、はっきり言ってあの嫌味な一家の印象しかないが、ジェイコブ・コワルスキーに(ダン・フォグラー)は嫌味がない。彼は人間味に溢れ、なおかつ非常に好感を抱きやすい好漢だ。このノーマジ=人間とニュート、ティナ(キャサリン・ウォーターストン)、クイニー(アリソン・スドル)が織り成す関係こそが物語の軸になるということが即座に分かる。素晴らしいは褒めすぎだが、しっかりとした導入部分を作れている。

 

今作では、オブスキュラスという魔法生物?怪物?が猛威をふるう。ハリポタ世界のデスイーターをさらに凶悪かつ破壊的にした感じで、そのCGビジュアルは美麗にして禍々しい。ハリポタ世界では、純血と混血の対立と融和が裏テーマとして存在していたが、ファンタビ世界では、愛される者と愛されない者の対立と融和が、おそらく裏テーマとして設定されているようだ。これはこれで興味深いし、時代や社会の背景を如実に映し出していると言える。愛は種を超えるのか。世界を超えるのか。なかなかに深遠なテーマに挑んでいる。その意気やよし。

 

エディ・レッドメインは『 博士と彼女のセオリー 』では圧巻の演技を見せた。『 ホーキング 』では同役をベネディクト・カンバーバッチが演じたが、両者の30歳前後での純粋な演技力だけに注目すれば、レッドメイン > カンバーバッチとなろう。本作でもその演技力の高さは遺憾なく発揮されており、様々な魔法生物に相対した時の声の出し方、票の作り方、なで方や触り方、歩き方や忍び寄り方の随所に、現実世界の動物学者やレンジャーたちと共通するモーションが見られた。興味と暇のある方は、ぜひ本作のニュートの動き方、立ち居振る舞いを頭に刻みつけた上で、NHKの『 ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜 』を視聴してみよう。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、ハリー、ハーマイオニー、ロンの3人組のケミストリーには及ばない。というか、比べること自体が酷であろう。J・K・ローリング自身もそのことを自覚しているからこそ、メインキャラ達を大人に設定し、そこにノーマジを加えてきたのだろう。しかし、ハリポタ世界の sequel ならまだしも、prequel の世界では、それは最善手ではなかった。

 

また、これも比べるのは酷なのだが、ハリー・ポッターにおけるヘドウィグのテーマほどの象徴性のあるサウンドトラックが無かった。例えば、スター・ウォーズにおけるミレニアム・ファルコンのテーマ・・・までは望むべくもないが、これを聞くとニュートの顔が思い浮かぶ、という力のあるサントラが欲しかった。

 

シリーズが続いていくほどに、様々な謎やキャラクターの過去も明かされていくと思うが、グリンデルバルドの登場があまりにも唐突すぎたように感じた。このキャラの深堀りは次作以降に行われるのだろうが、ヴォルデモートの「名前を言ってはいけないあの人/He who must not be named」のような、そんなインパクトある二つ名が欲しかった。

 

最後に、やはりハリポタ世界におけるセブルス・スネイプのようなキャラクターが欲しかった。それがクリーデンス(エズラ・ミラー)なのか、それとも別キャラなのか、それともスネイプ先生は唯一無二の存在なのだろうか。抱える闇の深さが、実は愛の大きさを示していたという屈折したキャラの存在がやはり望まれる。

 

総評

前の打席で場外ホームランを打ってしまうと、次の打席で二塁打を打っても特に騒がれない。そんな不条理さが感じられてしまう。しかし、ニュートというキャラクターはとても魅力的で、今後どのような魔法生物と出会い、どのような魔法生物の知識を披露してくれるのかと思うと、それはそれで胸躍るものがある。期待しすぎないこと。それが今シリーズを鑑賞する時に最も大事なことなのかもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エズラ・ミラー, エディ・レッドメイン, キャサリン・ウォーターストン, ジョニー・デップ, ゾーイ・クラヴィッツ, ファンタジー, 監督:デビッド・イェーツ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 』 -The Wizarding Worldの復活-

『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

Posted on 2018年12月4日2019年11月23日 by cool-jupiter

リピーテッド 50点
2018年11月28日 レンタルDVD鑑賞
出演:ニコール・キッドマン コリン・ファース マーク・ストロング
監督:ローワン・ジョフィ

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181204033832j:plain

少ない登場人物でサスペンスを生み出すのがフランス流だが、本作はイギリス・フランス・スウェーデンの合作とのこと。納得の仕上がりである。カトリーヌ・アルレーが現代によみがえったら、きっとこんな小説を書くのだろう。

あらすじ

クリスティーン(ニコール・キッドマン)が目を覚ますと、ベッドには見知らぬ男が。彼(コリン・ファース)はベンと名乗り、自分は夫であると言う。クリスティーンは事故により、一日しか記憶を保持できないのだ。一方、ナッシュ医師(マーク・ストロング)からの電話でビデオカメラの録画を観るように促された彼女は、過去の自分からの語りかけに次第に混乱させられていく。信じるべきはベンなのか、それともナッシュなのか・・・

 

ポジティブ・サイド

まずキャスティングだけで本作は一定の成功を収めている。早い話が、ベンとナッシュ、どちらが怪しいのだ、というのがクリスティーンの疑惑であり、観る者の関心である。英国の誇るコリン・ファースが果たして悪役なのか、それとも強面でありながら、結構良い人ばかりを演じるマーク・ストロングが悪役なのか。物語が始まって、すぐに我々は引き込まれる。

 

物語は二転三転し、ある日はナッシュを疑ったかと思えば、次の日にはベンを疑う。クリスティーンが一日の終わりに撮り溜めていくビデオはどんどんと積み重なっていく。それがある閾値に達しつつある時、クリスティーンの記憶の鍵も外れ始める。この演出は陳腐ながら見事である。記憶喪失ものは往々にして、完璧なタイミングで完璧な記憶を取り戻すからだ。ご都合主義の極みである。本作は安易なご都合主義は取らないし、人間の記憶の確かさと曖昧さの両方を、非常に説得力ある方法で描き出す。その点で凡百の記憶喪失ものとは一線を画している。

 

ネガティブ・サイド

いくつか不可解というか、設定が生かされない点もあった。クリスティーンは毎朝20代に戻るわけだが、そのことを強く示唆するようなシーンが必要だった。それが無いために、終盤で真実の一端が明かされるシーンの迫力が減じてしまっていた。また、二人の男性以外に出てくる重要人物のもたらす情報が、クリスティーンの記憶を刺激しないというのは、やや腑に落ちなかった。

 

記憶喪失とタイムトラベルもしくはタイム・パラドクスは、序盤の面白さを生み出すことにおいては数あるジャンルの中でもトップクラスであろう。それは間違いない。問題は着地なのだ。サスペンスフルな展開でせっかくここまで引っ張ったのだから、最後までそのトーンを維持して欲しかった。ファイトシーンなどは無用であった。

 

総評

名作かと言われれば否だが、駄作と言うほどでもない。雨の日のレンタルにちょうど良いだろうか。ニコール・キッドマン、コリン・ファース、マーク・ストロングのファンなら、押さえておいて損は無いだろう。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, イギリス, コリン・ファース, サスペンス, スウェーデン, スリラー, ニコール・キッドマン, フランス, マーク・ストロング, ミステリ, 監督:ローワン・ジョフィ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 リピーテッド 』 -フランスの映画・小説の技法を盛り込んだ作品-

『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

Posted on 2018年11月30日2019年11月23日 by cool-jupiter

ステータス・アップデート 70点
2018年11月25日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ロス・リンチ オリビア・ホルト コートニー・イートン グレッグ・サルキン ロブ・リグル ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:スコット・スピア

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181130031130j:plain

『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』のスコット・スピア監督の作品ということで迷わず鑑賞。やはり今後は、自分の頭の中の心象風景を、自分なりにチョイスした音楽に乗せられる監督がどんどん台頭してくるのだろうなという印象をさらに強くさせられた。かの武満徹や伊福部昭は映画音楽を手掛けることはあっても、サントラの発売には当初、かなり否定的だったと言われる。映像+音楽=映画音楽という信念の持ち主であったことと、あくまで自分たちは音楽家であって実業家ではないという信念の持ち主であったためと考えられている。しかし、今後はジャンルの混合・混淆もますます進み、音楽畑や文学畑から映像畑に進出してくる、あるいはその逆の流れも生じてくるのだろう。スピア監督は、そうした時代の潮流の象徴の一人であるように思う。

 

あらすじ

両親が別居することになったカイル(ロス・リンチ)はカリフォルニアから4800km離れたコネティカットに引っ越し、母と祖父、妹と暮らし始める。しかし、学校や地域そのものに馴染めず苦悩する。そんな中、モールのショップで「ユニバース」というアプリ入りのスマホを手に入れたカイルは、そこに投稿した内容が実現することを知る。次々に願いを叶え、望みのものを手に入れていくカイルだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ドラえもんのひみつ道具を一つだけ手に入れることができるなら、何がいいだろうか?と夢想したことのある人は多いはずだ。タケコプターやどこでもドア、ほんやくコンニャクあたりが有力候補だろうが、Jovianは間違いなく、もしもボックスを選ぶ。本作のカイルは、そういう意味で自分と重なる。そしてその願いも、まるでのびたのそれのようなのだ。小学生でも高校生でもオッサンでも、結局願うことは同じレベルなのだと思うと気恥ずかしいやら面映ゆいやら。世界征服のようなスケールの大きな願いではなく、あくまで自分の生活世界の中で完結するような願い。カイルが叶えたいと思うのは、非常に小市民的な夢なのだ。

 

本作はアメリカのスクール・カーストの実態も活写する。『 THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 』や『 ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 』で描かれていたように、アメリカのハイスクールでカースト上位に来るのは、フットボールチームのスターとチアリーダーなのであるが、本作はその地域性もあって、アイスホッケーチームのエースが序列のトップに来る。アメリカという国の広さを物語ると共に、自分がアメリカに対して知らず先入観を抱いていたことも思い知らされた。このアイスホッケーというのがミソで、思わぬユーモアを生み出してくれる。また『 ピッチ・パーフェクト  』並みに歌唱とダンスにも力を入れているシーンがあり、ここはスコット・スピア監督の趣味と手腕が爆発した箇所であると言える。ビジュアルの力でストーリーテリングを行うのは映画の基本にして究極だが、そこに音楽や歌謡を効果的に用いることのできる、いわば新世代の監督たちも台頭してきた。トップランナーはエドガー・ライトだろうが、スコット・スピア監督も、今後はほぼ無条件で観るべき監督リストに載せておこう。

 

非常に陳腐ではあるのだが、本作はカイルという主人公を決してミヒャエル・エンデの『 はてしない物語 』のバスチアンのようには描かない。というよりも、この世界のバスチアンとファンタージェンのバスチアンを丁寧に切り取り、前者をカイルに、後者をカイルの親友、デレクに仮託したようである。どこまでも子どもの目線を貫くプロット構築は見事である。

 

そして子どもと対比されるのは大人である。具体的にはカイルの父と母である。母は息子に非常に現代的なアドバイスを送る。それはおそらく多くの子どもたち、いや、それよりも大人たちに突き刺さるメッセージである。在野の歴史家にして小説家の八切止夫は「人間関係は、いかに相手に誤解されるかにかかっている」と著書『 信長殺し、光秀ではない 』で喝破した。このメッセージは、ロブ・リグル演じる父親に実はそっくりそのまま当てはまる。それにしても、このコメディアンは一癖ある父親を演じさせれば天下一品である。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも強烈なインパクトを残したが、スピア監督と相性が良いのだろうか。素晴らしいケミストリーが生まれている。

 

最後に、ジョン・マイケル・ヒギンズに触れねばならない。『 ピッチ・パーフェクト 』シリーズの毒舌解説者と言えばお分かり頂けよう。単なる勘だが、この人は多分、台本半分、アドリブ半分で喋っているのではなかろうか。韓国のイム・ヒョンシクに並ぶアドリブの帝王であるような気がしてならない。これは褒め言葉である。

 

ネガティブ・サイド

祖父はこの物語に必要だったか?コミックリリーフならロブ・リグルがいるし、デレクも単独で充分に面白い。祖父の存在は完全にカットして、上映時間を数分で良いから短くするか、または編集でそぎ落とした他のシーンの増量に回してほしかった。

 

またエンディングのクレジットシーンに10秒程度のスキットが挿入されるが、これも果たして必要だったのだろうか。

 

「ユニバース」というアプリの効力の範囲や期間が不透明であったり、一度アップデートされたステータスを再びダウングレードすることは可能か?などの疑問も湧いてきてしまうが、これをちょっと不思議な青春映画と見るか、それとも現代的な本格ファンタジーと見るかで評価が分かれるかもしれない。

 

総評

これは面白い。こういった作品こそ、配給会社はもっと数多くの箱で見られるように努力してもらいたい。娯楽あり、哲学ありと面白さと深さの両方を追求している作品で、小学校の高学年から大人まで幅広い層のビューワーを楽しませることができるポテンシャルを秘めた作品である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジョン・マイケル・ヒギンズ, ファンタジー, ロス・リンチ, ロブ・リグル, 監督:スコット・スピアLeave a Comment on 『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

人魚の眠る家 65点
2018年11月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:篠原涼子 西島秀俊 坂口健太郎 稲垣来泉 斎藤汰鷹
監督:堤幸彦

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181129001450j:plain

人魚と聞けば、たいていの人は八百比丘尼を思い浮かべるのではないか。その肉を食らえば、不老長寿が手に入るとされる伝説的な存在で、それゆえに本作のタイトルが示唆するものも生と死の境目をぼやけさせる不思議な力場となった家、そして家族の物語であるとぼんやりと理解していたが、予告編が次々と公開されていくのを観て、その認識を改め、なおかつ日本の映画制作および配給会社の宣伝の下手さに慨嘆させられるのであった。本作の予告編の最新版は、それさえ見れば本編の6割を予想できてしまうではないか。業界人たちにはもっと勉強をしてもらいたい。

 

あらすじ

薫子(篠原涼子)とその夫の和昌(西島秀俊)に、長女の瑞穂(稲垣来泉)がプールで溺れたとの連絡が入る。病院での治療の甲斐あって心臓は動いたが、脳には深刻なダメージがあり、瑞穂の意識は戻らない。脳死判定を受け、娘の臓器を移植のために供す決意を固めた両親の手はしかし、瑞穂の手が確かに動いたのを感じ取った。薫子は瑞穂は死んでいないと確信。在宅介護を決心する。和昌の部下の星野(坂口健太郎)の研究成果により、瑞穂の体を人工的に動かせるようになるも、そのことが薫子の愛と狂気を暴走させて・・・

 

ポジティブ・サイド

篠原涼子と吉田洋は属性が重複している。40代にして、その衰えぬ容色。自立した女性としての役柄が多いが、母親役もこなせる。慈愛に満ちた母親ではなく、狂気にも似た愛情を内包する母親を演じられるところが特にそうだ。優劣をつけられるものではないが、元々が役者ではなく歌手であることを考えれば、篠原も表現力という点ではど素人ではないのである。

 

本作の呈示するテーマは深い。単に脳死の意味や臓器移植の是非を扱うからではない。人間が人間を、生きているのか死んでいるのか判断する基準のゆらぎを描くからこそ深くなっている。たとえば冒頭で意識不明の状態に陥ってしまった瑞穂を見た時、和昌は「大きくなったなあ」という感想を漏らす。別居しているのだから、ある意味当然の感想である。一方で薫子にとっては瑞穂は現実にも心の中にもありありと存在する個人である。そのことは、全編を通して瑞穂の顔のどアップの回想シーンが薫子によってこれでもかと思い起こされることからも明らかである。つまり、和昌にとっては瑞穂は非常に肉体的・物理的な存在である一方で、薫子にとっての瑞穂は「瑞穂」という意識の容れ物なのだ。それゆえに、意識のない瑞穂の体を人工的に作れられた電気信号によって動かすことには抵抗を示さなかった和昌は、作られた笑顔には嫌悪感を催した。そこに意識の存在を読み取ってしまったからだ。しかし、薫子にとっては、プレゼントをもらえた瑞穂はきっとほほ笑むに違いないとの確信(=意識)から、瑞穂を笑顔にさせることに何の抵抗も抱かない。

 

これは墓参に譬えることもできるかもしれない。お墓参りでご先祖様に語りかけることはあるだろう。声に出してもいいし、心の中で語りかけるのでもよい。ただし、それは自分と相手(=死者)に特別な関係がある時だけに限られる。ここで言う特別な関係とは、相手の存在を自分の意識において再生できるような関係ということだ。と、ここまで書いてきて気がついた。原作者の東野圭吾は前野隆司の『 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 』を下敷きにした、というのは言い過ぎかもしれないが、参考ぐらいにはしているのだろう。ものすごく端折って説明してしまえば、前野の説は「意識とは、意識が意識を意識した時に現れてくる意識である」ということだ。何を言っているのか分からないという人は、本書を買ってよむべし。何を言っているのか分かったという人は、J・P・サルトルの『存在と無』を読もう。

 

Back on topic. もしも公共の墓地などで赤の他人に「これ、うちの祖父ちゃんです。よければ挨拶してあげてやってください」などとお墓を指して他人に話しかける人がいれば、ちょっと怖いだろう。なぜなら、その人は自分の心の中に存在しないからだ。死が不気味であるかどうかは、理性と感情の境目で決まるようだ。和昌は瑞穂の脳に生死の境目を見出し、薫子は瑞穂の心に生死の境目を見出そうとする。肉体は脳の容れ物なのか心の容れ物なのか。それは個と個の繋がり、その在り様で決まるとしか言いようがない。しかし、本作品が描き出す世界では、薫子は非常に孤独である。その薫子の姿を自分と重ねられるか否か、そこで本作の評価が定まると言ってもよい。その意味では篠原涼子は実に大きな仕事を果たした。お見それしました。

 

後は、子役たちが誰もかれもが素晴らしい。子役の演技というのは、天性の素質もあるのだろうが、指導者の影響力も大きいということは、音楽や芸術、スポーツなどの他分野を観察に基づくまでもなく、言えることだろう。本作は撮影の現場に演技指導者が常駐していたという。『 万引き家族 』の上映後舞台あいさつで是枝監督は「子役にはその場で台本を読ませて演技してもらった」旨を語ってくれたが、今後は子どものインスピレーションを大事にする派と、徹底的に指導を叩き込むスタイルのどちらが主流になっていくのだろうか。そんなことも考えさせられた。

 

ネガティブ・サイド

西島秀俊の演技力の低さは何とかならないのだろうか。この人は基本的に一本調子の棒読みで、唯一上手く話せるじゃないかと感じさせてくれた出演作は珍品『 ゲノムハザード ある天才科学者の5日間 』での韓国語ぐらい。

 

坂口健太郎も『 ヒロイン失格 』と『 俺物語!! 』を観た時には、「とんでもない大根が出てきたな」と慨嘆させられたが、珍品『 ナラタージュ 』で評価をかなり上げた。しかし、そこから成長していない。声のボリュームの大小だけで感情を表現しきろうとするのには無理がある。型どおり以上の表情も研究した方が良い。

 

最後に物語の主たる舞台となる「人魚の眠る家」の庭にあふれるスタジオ内のセット感は、もう少し何とかならなかったのだろうか。不自然なまでの人工の光、とってつけたような鳥のさえずり、全く荒れていないのは適切な世話をしたからと言えるかもしれないが、全てが一様にそろった芝目など、作り物感が満載だった。創作物のリアリティは細部にこそ宿るのだから、こうした点にこそもっと注力をしてほしかった。

 

総評

この子役たちをあらぬ方向に連れて行ってしまわぬよう、親、保護者、ハンドラー達、さらにその周囲の人間たちは決して軽々に動かぬようにしてもらいたい。そして東野圭吾という名前だけで作品を忌避する傾向にあった自分自身にも喝を唱えたい。大人の鑑賞に堪える作品に仕上がっている。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, 坂口健太郎, 日本, 監督:堤幸彦, 篠原涼子, 西島秀俊, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

『 グリンチ(2000) 』 -ジム・キャリーの本領発揮を堪能せよ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

グリンチ(2000) 65点
2018年11月23日 レンタルDVDいて鑑賞
出演:ジム・キャリー テイラー・モンセン クリスティーン・バランスキー
監督:ロン・ハワード

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181126001701j:plain

1957年のDoctor Seussによる児童文学“How the Grinch Stole Christmas!”が1966年にアニメーションでテレビ映画化され、さらにそれが2000年に実写版として再製作されたのが本作である。今年(2018年)にはドイツを皮切りにユニバーサルとイルミネーションによってアニメ映画され、日本でも公開間近である。グリンチは元々キャラの名前だったが、1980年代には「クリスマス嫌い」「他人の楽しみを邪魔する嫌な奴」の意を持つ語彙として定着したらしい。Ngramのサーチもそれを示唆している。実に興味深い。

 

あらすじ

山奥の山奥のそのまた山奥のフーヴィル(フー村)ではフー達が暮らしていた。フーはクリスマスが大好きで、今年は期せずして千年紀。村は特に沸き立っていた。その村の外れの山に住むグリンチ(ジム・キャリー)。彼はクリスマスとフーを忌み嫌っていた。しかし、フーヴィルには心優しい少女シンディ・ルー(テイラー・モンセン)がいた。村人に嫌がらせを働いていたグリンチは、全くの偶然からシンディ・ルーを助けるのだが、そのことが彼女の心に与えた影響を、グリンチ自身は知る由もなかった・・・

 

ポジティブ・サイド

まず何と言っても、グリンチを演じるジム・キャリーの怪演を称賛せねばならない。『 マスク 』のスタンリー、『 バットマン フォーエヴァー 』のリドラー、『 ケーブルガイ 』のケーブルガイに並ぶ、渾身の怪演であると言える。つまり、不気味で、妖しく、気持ち悪いのである。これらはすべて褒め言葉である。もしも上記のいずれの作品も未鑑賞という方がいれば、是非観よう。表情から全身の動きまで、全てが人間離れしているというか、色々と批判されることも多いメソッド・アクティングの一つの到達点を堪能することができる。もちろん、本作のグリンチもメソッド・アクティングの一つの完成形である。

 

日本では最新『 グリンチ 』を指して「このあと、どんどんひねくれる」とキャッチコピーをつけているが、それはある意味で正しい。グリンチは生まれた時からグリンチだったわけではなく、とある出来事が原因でひねくれてしまったからだ。このあたりは複雑と言えば複雑、単純と言えば単純な筋立てなのだが、この物語世界にも憎むべき悪役が存在するということに、Jovianは何故かホッとしてしまった。まるで『 ショーシャンクの空に 』における刑務所所長こそが倒されるべき悪なのだと知った時のように。しかし、そこは元は児童文学。そうしたダークなテリトリーに踏み込むことは無く、きれいに着地をしてくれる。そうそう、どういうわけか本作には『 炎のランナー 』を見事にパロったシーンが存在する。しっかりと笑えて、ちょっとホロリとなる。素晴らしい。

 

最近はどこの映画館に行っても『 くるみ割り人形と秘密の王国 』のトレーラーばかりを見せられるが、そのCGの余りの多用のせいで目がチカチカさせられる。CGはどこまで行ってもCGで、更なる技術のブレイクスルーがあれば分からないが、それでもたいていの熱心な映画ファンならば、CGと実物の違いは秒で見分けられるに違いない。本作は製作・公開が2000年ということもあり、CGヘビーにならず、むしろ特殊メイクや着ぐるみ、スタジオ撮影の技術の粋を尽くして(というのは大袈裟すぎるかもしれないが)作られているため、非常にオーガニックな印象を受ける。それがまた新鮮で良い。最新の映画には新しいものの良さがあるし、古い(といっても十数年前に過ぎないが)映画にも良さがある。そんなことを思い起こさせてくれる良作である。

 

ネガティブ・サイド

フーヴィル住人の風見鶏っぷりは何とかならなかったのだろうか。確かに良い話ではあるのだが、グリンチのひねくれまくったパーソナリティの原因は、そもそもフーヴィルにあるのだ。どのような規模であれ、共同体には差別と排除の論理が働くものだが、ファンタジーの世界にまでそれを持ち込む必要はあったのだろうかと疑問に思ってしまった。

 

また、フーの寓話として、子どもはパラソルによって空から運ばれてくるというものがあるのは良いとして、「ハニー、僕たちの子どもだ。君の上司に似ているよ!」などというシーンや台詞も必要だったのだろうか。あまりにも現実世界の論理や秩序を空想世界に持ち込んでしまえば、そこには第二、第三、第四のグリンチが生まれてしまって全くおかしくないのだ。原題の The Grinch というのは、種族を指すために定冠詞 the を付されているわけではないだろう。これは『 オデッセイ 』の原題である The Martian と同じく、「まさに~~~な人」という意味のはずだ。特定個人を識別あるいは想起させるための the であるとJovianは解釈している。もしそうでないなら、シンディ・ルーが不憫だ。

 

総評

創作上の弱点は抱えているものの、創作上のメリットはそれらを上回っている。稀代の役者にしてパフォーマーであるジム・キャリーの円熟味溢れる演技と、オーガニックな世界で繰り広げられるおとぎ話を堪能したいという方は是非借りてくるか、配信で観るべし。アニメ版への良い予習にもなるだろう。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181126001959j:plain

大阪ステーションシネマのグリンチ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181126002105j:plain

JR大阪駅からすぐ北にあるグリンチ的なオブジェ

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, クリスティーン・バランスキー, ジム・キャリー, テイラー・モンセン, ファンタジー, 監督:ロン・ハワード, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 グリンチ(2000) 』 -ジム・キャリーの本領発揮を堪能せよ-

『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

Posted on 2018年11月23日2019年11月23日 by cool-jupiter

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 75点
2018年11月18日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ルーニー・マーラ
監督:デビッド・ロウリー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181123010828j:plain

どんな文化にも、太陽と月に関する神話、そして幽霊に関する物語が存在するものである。そして太陽、月、幽霊の中で最も多彩に解釈されるのは幽霊ではないだろうか。小説や映画の世界では、幽霊は往々にして悲哀または恐怖をもたらすものとして描かれてきた。本作はそこを転換させ、幽霊のパトス、そこから生まれるエートスを描く。視点が人間→幽霊ではなく、幽霊→人間なのである。これは全く新しい視点からの物語であると言える。

 

あらすじ

ある若い夫婦が郊外の一軒家に暮らしていた。誰もいないはずのところで物が落ちたりするなどの不可解なこともあるが、二人は平和に暮らしていた。ある時、夫が死んでしまった。悲嘆に暮れる妻。しかし、夫は遺体安置所のベッドからシーツをかぶった姿のまま起き上がり、歩いて妻の待つ家へと帰る。幽霊となった男の不思議な旅が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

本作のプロットについて説明するのは非常に難しい。ほんのちょっとしたことが重大なネタばれになりかねないからである。幽霊となった男が、妻を見守る話・・・というわけではない。それは話の一側面であって、テーマではない。ある意味で、映画製作者は観る者をかなりの程度まで信用しているとも言える。何と言っても『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』でアカデミー主演男優賞を受賞したケイシー・アフレックに、真っ白のシーツをかぶせて、目と鼻の部分にだけ穴を開けた幽霊を演じさせるのである。『 るろうに剣心 京都大火編 』と『 るろうに剣心 伝説の最期編 』で藤原竜也が顔面に包帯をぐるぐる巻きにした際の演技も素晴らしかった。顔が一切見えないというのは、表現をする上で翼を半分もがれたようなものだが、あれにはまだ音声とアクションという片翼が残されていた。本作のケイシー・アフレックは、全身を白いシーツで覆う、小さな子どもが考え付いたようなゴースト像でほぼ全編を通して登場する。台詞もない。過激なアクションもない。それでいて幽霊の感じる執着、困惑、怒りなどのパトスを見事なまでに我々に伝えてくる。歩き方であったり、振り返り方であったり、ほんのちょっとした指先の動きであったりで、これほどまでに内面の心理を描き出せるものなのかと驚嘆させられる。この幽霊の動きや仕草は、大学の映画サークルや同好会のシリアスなメンバー(特に役者志望や劇団員)は必見であろう。

 

今作はできれば英語字幕で鑑賞することをお勧めしたい。というのも、ある時点では言語が英語ではなくスペイン語に切り替わるからだ。といっても字幕などは一切出ない。スペイン語が分からない人には、画面上で何が起こっているのかを把握するのが全くもってお手上げ・・・とはならないのである。ビジュアルストーリーテリングの極致とも言うべきで、幽霊とスペイン語ファミリーの存在のコントラストが、何よりも雄弁に一連のシーンを語ってくれるのである。このシーンもまた、映画製作を志す者にとっては必見であろう。

 

本作はここから、予想外の展開を見せる。というよりも観る側の想像力を裏切る、または試すかのような展開と言うべきかもしれない。ここで幽霊の生前の職業を思い起こすべきだろう。彼は音楽家だったのだ。作曲し、歌い、レコーディングもする、コンポーザーにしてシンガーにしてオーディオ・エンジニアでもあったわけだ。音楽が瞬間ではなく全体で成り立っていることは、アンリ・ベルクソンの時間=意識の持続という説を援用せずとも理解できる。時間は直線でも等間隔でもない。メロディがありリフレインがあるのだ。これ以上は、劇場で本作を鑑賞して考察をしていただきたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

パーティーで酔ってべらべらと喋る男は果たして必要だったのだろうか。あまりにも説明的で、観ている最中は「ほうほう、なるほど」と思えたが、観終わってしばらくしてからは印象が変わった。このシーンはノイズである。

 

もうひとつ弱点を挙げるとするなら、序盤の妻の食事シーンだろうか、おそらく4分ほど固定カメラでロングのワンカットを映すシーンがあるが、ここは2分程度に抑えられなかったのだろうか。典型的な悲嘆のシーンで、物語の進行上ではずせないことは理解できるが、Jovianの嫁さんや左隣の人などは、ここで寝てしまっていた。惜しいかな、序盤でもっと多くの人を引き付けることさえできていればと思う。

 

総評

細部に突っ込むべきところや、説明されないままの箇所も残る。そうしたモヤモヤを許容できなければ、観るべきではないのだろう。しかし、この幽霊を通じて世界を追体験すれば、「生」の意味に新たな発見があるであろう。死および死以後に関しての新たな仮説が提示されたわけで、文学ではなく映画がこれを行ってくれたことに意義を認めたい。非常に野心的な傑作映画である。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ケイシー・アフレック, スリラー, ルーニー・マーラ, 監督:デビッド・ロウリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

『 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ 』 -受け継がれていくシカリオの系譜-

Posted on 2018年11月21日2019年11月23日 by cool-jupiter

ボーダーライン・ソルジャーズ・デイ 65点
2018年11月18日 大阪ステーション占め間にて鑑賞
出演:ベニシオ・デル・トロ ジョシュ・ブローリン イザベラ・モナー
監督:ステファノ・ソッリマ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181121024740j:plain

脚本家のテイラー・シェリダンは、常に境界(ボーダー)や周辺(マージン)に問題意識を抱いている。そのことは『 ウィンド・リバー 』や前作『 ボーダーライン 』でもお馴染みである。それでは、今作は何と何の境界にフォーカスし、何の周辺に意識を向けているというのか。その一つが正義の概念であることは間違いないが、暗殺者の持つ人間性と非人間性の境界もテーマであることは疑いようがない。

 

あらすじ

アメリカ国内で数人が大型店舗で同時に自爆するというテロ事件が発生。CIA特別捜査官マット(ジョシュ・ブローリン)は、犯人たちがメキシコ経由でやってきたという情報をキャッチ。メキシコ国内の麻薬カルテルの大ボスの娘を誘拐し、それを密入国斡旋カルテルの仕業に見せかけ、両者の衝突と弱体化を画策する。その計画実行のために、家族を麻薬カルテルに殺された暗殺者にして旧知のアレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)と再び手を組むマットだったが・・・

 

ポジティブ・サイド

暗殺者アレハンドロの新たな一面。これは賛否両論が生まれるだろうが、Jovianはポジティブに捉えたい。家族を殺されたことは前作『 ボーダーライン 』で触れられていたが、その娘の持っていた特徴、さらにそれに対処する為にアレハンドロが持っていた技能。これがアレハンドロに人間味を与えている。その時、血も涙も捨てたはずだったアレハンドロの胸に去来した思いは何だったのか。父であることを思い返したのだろうか。とあるシーンで孤高の暗殺者らしからぬ狼狽を見せるのだが、我々はそれを見て大いに困惑する。しかし、家族の元に旅立っても良いはずのシカリオが新たに生きる意味や目的を見出したとすれば、それは何であるのか。それを見届けなくてはならないと思わせるエンディングが待っている。

 

捜査官のマットも渋い。というか、崇高なる目的の達成のためなら人権はゴミ、人命はクソのように扱う男が、言葉もなく打ちひしがれるシーンには少し胸が痛んだ。自らの正義の正統性を証明しようとすることもなく、政府の職員でありながら政権批判を平気で繰り広げる男も camaraderie を感じるのだ。人と人とのつながりの強さの源は血なのだろうか。それは同じ血を分け合うことで生じるものなのだろうか。それとも同じ場所で同じように血を流すからこそ生まれるものなのだろうか。前作とは打って変わって、主要キャラクターの人間性を深堀りしようとしたところに面白さがある。そこを期待しないファンも一定数いるのは間違いないだろうが。

 

本作は、アメリカの追求しようとする正義の基盤を根底から揺るがすような展開を見せる。といっても、実はたいしたことではなく、冒頭でテロを犯した者たちはホーム・グロウンのテロリストだったということだ。そんなことは世界中のだれでもが知っている。没落の途にある先進国では、国民が国籍だけを根拠に自らを正義、そうでないものを悪と決め付ける傾向が見られるようだ。フランス然り、アメリカ然り、極東の島国然り。アレハンドロやマットの思想や行動には、国というものに縛られない強さがある。アレハンドロはコロンビア人だし、マットはアメリカ人ながらアメリカ政府の命令には素直に従わない。国と国を隔てる国境線が正義の境界を象徴していた前作から、自らの属する国や集団を超越したところに個の存立を見出し、行動していくマットやアレハンドロの人間力は、見習いたいとは決して思わないが、尊敬に値する。

 

父親としての側面を強く打ち出したアレハンドロは、おそらく次回作では更なる人間性を発露させるのだろう。それが凶暴で非情で、しかし、激しい愛情に裏打ちされらものになるであろうことは想像に難くない。テイラー・シェリダンの脚本に大いに期待をしたい。

 

ネガティブ・サイド

前作の絵作りと音楽があまりにも良かったせいか、場外オームランの後に普通のホームランを見てしまうと、物足りなくなってしまうようなものか。市街地でありながらメキシコの暗部というか、無秩序を内包した街の光景と、物々しさと恐怖感を与えてくる破壊的なBGMの幸せな結婚関係は、今作では解消されてしまった。In memory of Jóhann Jóhannsson。白い粉のoverdoseとは・・・

 

照りつける太陽、かつてアステカと呼ばれた大地、地平線。美しい絵ではあるが、どこか主題に合わない。赤外線暗視スコープ映像を用いることで、人間を非常に無機質なものとして描き出した前作のような手法も用いられず。このあたりは監督のテイストの問題でもあるので、それを減点対象にするべきでもないのだろう。

 

本作の最大の弱点は、ストーリー中盤でのとあるツイストにあるのだが、その展開が少し弱い。ここでそう来るか、と思わせるタメがあまりにも作為的で、観ている側としては容易に「おかしい、何かがあるに違いない」と身構えてしまう。スパイ映画の構造をそのまま拝借してきたようで、芸が無かった。

 

本作が全体的にややサスペンス不足になるのは、一重にカルテル同士の対立・抗争に重みが無いからだ。麻薬カルテルの恐ろしさは前作で知った。しかし、密入国ビジネスの斡旋カルテルはどのような力=金を持ち、どれだけの警察を飼いならし、どれだけの重火器を所有しているというのか。そのあたりは数分でよいので描いてくれていれば、ボスの娘の誘拐劇にもっとスリルが生まれたであろうに。

 

総評

前作ほどの衝撃は残念ながら無い。それでも意外な展開あり、序盤の前振りが終盤に向けて華麗に収束する展開あり、またイザベラ・モナーという若きタレントとの邂逅ありと、観て損はないような出来に仕上がっている。正義と悪、秩序と混沌、人間と獣性、様々な対立を映し出しながらも、それら対立の境界が模糊になっていく。しかし、マットやアレハンドロ、その他の魅力的なキャラクターらが紡ぎ出せるであろう更なるドラマに今後も期待ができそうである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181121025103j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクション, アメリカ, サスペンス, ジョシュ・ブローリン, ベニシオ・デル・トロ, 監督:ステファノ・ソッリマ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ 』 -受け継がれていくシカリオの系譜-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 8番出口 』 -平々凡々な脚本-
  • 『 Osaka Shion Wind Orchestra ドラゴンクエストコンサート in 伊丹 』  -DQ Ⅳ, Ⅴ, Ⅵ-
  • 『 桐島です 』 -時代遅れの逃亡者-
  • 『 あの夏、僕たちが好きだったソナへ 』 -青春を追体験する物語-
  • 『 ジュラシック・ワールド/復活の大地 』 -単なる過去作の焼き直し-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年9月
  • 2025年8月
  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme