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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 海外

『 ブレス あの波の向こうへ 』 -青春&サーフィン映画の佳作-

Posted on 2019年8月15日2020年4月11日 by cool-jupiter

ブレス あの波の向こうへ 70点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ベイカー エリザベス・デビッキ
監督:サイモン・ベイカー

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嫁さんは以前はTVドラマ『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』にハマっていた。そして今は『 メンタリスト 』の最終シーズンおよび『 グッド・ワイフ 』を鑑賞中である。サイモン・ベイカーを映画で観るのは『 プラダを着た悪魔 』以来だろうか。『 メンタリスト 』のリズボンといつか映画で共演を果たしてほしい。

 

あらすじ

やや内気な少年パイクレットは無鉄砲なルーニーと、危険を顧みずに遊びまわっていた。ある日、彼らは海でサーファーたちが波に乗るのを見て、えもいわれぬ感覚に襲われる。自分たちもサーフィンをしてみたいと思い立った彼らは、サンドー(サイモン・ベイカー)とその妻イーヴァ(エリザベス・デビッキ)と知り合う。サンドーに導かれ、彼らはどんどんとサーフィンに魅せられていくが・・・

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ポジティブ・サイド

BGMを極力排して、風の音、潮騒、鳥の鳴き声などのオーガニックな音を聞かせようとするところが、『 君の名前で僕を呼んで 』とよく似ている。オーストラリアと言えば砂漠のイメージが強いが、一切はグレート・バリア・リーフのように海も巨大な観光資源になっている。大自然と言えば、夏。夏と言えば山か海が定番である。オーストラリアならば海だ。その海の波も、葛飾北斎の名画『 神奈川沖浪裏 』のような大波荒波である。その波の青と白を雄大な波音を交えてスクリーンいっぱいに叩きつけんばかりの勢いで映し出せば、大自然=wildernessの力強さがそのままこちらに伝わってくる。特に、何を海面下から見上げるショットは海の深さ、荒々しさ、激しさを伝える興味深いショットだった。

 

サイモン・ベイカーのオーストラリア英語を始めて聞いたように思うが、『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でスウェーデン語を話すステラン・スケルスガルドのように、本来の素の自分を出せていた。彼の演じるサンドーという男はミステリアスでセクシーでワイルドながらも、父親らしさがある。ルーニーとパイクレットの二人がある意味で飢えていた、人生におけるpositive male figureを巧みに体現していた。

 

そのルーニーは『 スタンド・バイ・ミー 』におけるテディ(コリー・フェルドマン)、または『 IT~”それ”が見えたら終わり~ 』におけるリッチー・トージアのようなクソガキで、確かに男というものは悪い奴、またはアホな奴とつるんでしまう時期というものがある。若気の至りや若気の無分別という言葉そのままに突っ走るルーニーは、愛せそうで愛せない、しかし憎むこともできない困ったキャラクターを存分に表現した。

 

主人公たるパイクレットは前半と後半でまるで違う人間になっている。つまり、少年から大人になったのである。子ども=労働と性から疎外された存在、という近代的な定義をこれまでにも何度か紹介したが、パイクレットが一夏の間に持つ性体験は、言葉そのままの意味で劇的である。同級生の良い感じの女子とボール(ダンス)で良い感じに燃え上がりながら、相手の娘の方からセックスに誘ってきたのに、それに乗らない。その代わりに、サンドーとルーニーがインドネシアに旅立っている間、孤閨を託つイーヴァとのセックスに耽る。イーヴァの元に自転車で猛スピードで向かうパイクレットを観て、苦笑する大人は多かろう。セックスそのものよりも、セックスを求める様が滑稽で、なおかつ真剣味に溢れているからだ。サンドーが良き父親代わりを演じる反面で、イーヴァはパイクレットやルーニーの恋人になるには年齢が上過ぎるし、かといって母親的な役割を演じるには年齢的に若すぎる。つまり、イーヴァはパイクレットにとって、恋人でも母親でもない存在として立ち現われてくるのである。この展開は見事である。

 

パイクレットはサーフィンと出会い、海に魅了されながらも、翻弄はされなかった。海に出ることの怖さを知ったからだ。しかし、彼は臆病になったのではない。自分にできることとできないことを弁別できるようになったのだ。爽やかな余韻を残して物語は幕を閉じる。これはビルドゥングスロマンの佳作である。

 

ネガティブ・サイド

昔にMOVIXあまがさきで観た『 ソウル・サーファー 』との共通点も感じる。海とは異界への入り口であり、芳醇な恵みをもたらしてくれると共に、容赦なく命を奪う凶暴なる存在でもある。劇中でも示唆されたように、ホオジロザメなどは恐怖の対象である。だが、それが出てこない。バーニーとは結局のところ何だったのか。『 ハナレイ・ベイ 』のような展開を予感させつつ、これではただの虚仮脅しではないか。

 

パイクレットと父親の距離感も気になった。もう少しだけで良いから、ラストの親子の対話に至る前振りが欲しかった。洋の東西を問わず、父親と息子の対話は一大テーマなのである。

 

前半と後半の転調の落差が激しく、違う映画になってしまったのかとすら感じてしまった。一夏のアバンチュールを機にストーリーの方向が変わっていくのはクリシェである。トーンの一貫性が映画監督サイモン・ベイカーの今後の課題なのかもしれない。

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総評

嫁さんに連れられて行ってみたが、これは思わぬ掘り出し物である。スクリーンに広がる大自然の驚異、サーフィンの躍動感はそれだけでfeast to the eyeである。また、エリザベス・デビッキの美貌とエロチシズムはおっさん観客を満足させるであろう。ストーリーはどこかで観たり読んだりした映画や文学のパッチワーク的ではあるが、少人数の大人と子どもが限られた時間と空間で濃密な時を共有するドラマは、静かでいて力強さに満ちている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, エリザベス・デビッキ, オーストラリア, サイモン・ベイカー, ヒューマンドラマ, 監督:サイモン・ベイカー, 配給会社:アンプラグドLeave a Comment on 『 ブレス あの波の向こうへ 』 -青春&サーフィン映画の佳作-

『 ライオンキング(2019) 』 -CG技術の粋、それ以上でもそれ以下でもない-

Posted on 2019年8月14日2020年4月11日 by cool-jupiter

ライオンキング(2019) 50点
2019年8月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ドナルド・グローバー ビヨンセ ジェームズ・アール・ジョーンズ
監督:ジョン・ファブロー

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元々のアニメ版は中学3年生か高校1年生で劇場鑑賞したと記憶している。その後、劇団四季のミュージカル『 ライオンキング 』を2回観た。いずれも素晴らしかった。では、全編フルCGにも関わらず「実写化」と謳われる本作はどうか。映像技術の粋。それ以上でもそれ以下でもなかった。

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あらすじ

シンバ(ドナルド・グローバー)は父ムファサ(ジェームズ・アール・ジョーンズ)の元、次代の王として幼馴染のナラたちと共に育てられていた。しかし、叔父のスカーの姦計によりムファサは死に、シンバはプライド・ランドから放逐された。砂漠で行き倒れていたシンバは、ミーアキャットのティモンとイノシシのプンバァと出会って・・・

 

ポジティブ・サイド

『 アルキメデスの大戦 』のグラフィックがプレステ6か7だったならば、本作の映像はプレステ9か10と言って差し支えないのではないだろうか。それほどの仕上がり、出来栄えである。CGアーテイストの労力と費やされたマシンパワーについては想像するしかないが、ディズニー以外でこれだけの資金が出せるところは思いつかない。美麗、写実的、壮大。どのような言葉で称賛しても良いし、逆にどのような言葉を用いようとも、このグラフィックの完成度の高さを充分に評げ禁止切れるものではない。IMAXでは一体どのように映るのだろうか。多分、観には行かないが。

 

冒頭の『 サークル・オブ・ライフ 』は1994年版の完コピである。恐ろしい程の再現度で、なおかつ映像が美し過ぎるために、本当のプライド・ランドであるかのように感じられる。命の連環という概念は元々は仏教から来ており、それゆえにこのシーンの圧倒的なまでの迫力は東洋人にこそ突き刺さるのではないか。惜しむらくはトレーラーが見せ過ぎているということか。

 

俳優陣のVoice Actingも素晴らしい。特にムファサのジェームズ・アール・ジョーンズ。“I am your father.”的な役でこれほど光るのは当然と言えば当然かもしれないが、百獣の王の威厳と父としての慈愛の両方を十二分にスクリーン上で描き切った。プンバァを演じたセス・ローゲンも印象に残る。この人は基本的にコメディ映画専門なのだが、本作でもその実力を遺憾なく発揮した。相棒のティロンと共に、何か喋るだけでも笑わせてくれる愛すべき間抜けキャラクターである。ザズーも好演した。プンバァ登場までのコミック・リリーフであるが、そのmotor mouthっぷりとPunは、非常に微笑ましい。

 

本作を指してキング・オブ・エンターテインメントとしばしば言われるが、それもむべなるかな。ザズーのムファサへの敬礼ポーズは『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』で「ごますりクソバード」なる二つ名を頂戴したラドンの原型は、もしかするとこれだったのかと思わされた。“Long live the King.”の台詞も同じく『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』で複数回使用された。“ The question is, who are you? ”も最近では『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』でジェシカ・チャステインが使っていたし、『 アリス・イン・ワンダーランド 』(ティム・バートン監督)でも同じセリフが聞かれた。本作およびそのオリジナルは、それ自体が巨大なインスピレーションの源泉になっている。手塚治虫の『 ジャングル大帝 』のパクリかどうかは措いておこうではないか。

 

ネガティブ・サイド

本作のテーマは何なのだろうか。もちろん、“命の連環”であり“力ある者の自制と責任”であり、“アイデンティティーの喪失と再発見”であることはわかる。そうではなく、名作であったオリジナルをフルCF実写化(?)でリメイクすることの意義を問いたいのである。『 シンデレラ 』には“Have courage and be kind.”というメッセージがあった。『 マレフィセント 』には、種族や性別、年齢に囚われることのない真実の愛の物語があった。今年(2019年)の『 ダンボ 』や『 アラジン 』には、何も感じ取れるものがなかった。だから観なかったし、おそらく今後も観ない可能性が高い。『 ライオンキング 』という不朽の名作に、現代に込められるべきメッセージとは何であるのか。それは「自分は何者であるのか」という永遠の問いを、もっと深く掘り下げることであったように感じる。何故なら、今という時代ほど、自分を見失いやすく、逆に自分というものを規定しやすい時代はないからである。

 

王であることを宿命づけられた人はほとんどいない。しかし、梅田望夫と齋藤孝から教えられるまでもなく、現代は自分にとってのロールモデルを探しやすい。この人のようになりたい、あの人から学びたい。そんな対象を容易に探せる。それが今という時代である。シンバはライオンでありながら森に住み、虫を食べる。それは自分の在り方からは程遠い。シンバはラフィキから“He lives in you.”と諭されることで、スカーとの対決に臨む決心をする。これこそが前面に押し出されるべきメッセージだったのではないだろうか。

 

そう感じるのは、“He lives in you.”(できればティナ・ターナーversionがベスト)を劇中で用いて欲しかったからである。エルトン・ジョンのそれも悪くないが、やはりティナ・ターナーのそれが聞きたかった。ライオンキングの魅力は、その楽曲の素晴らしさにこそ宿るのだから。

 

その楽曲に大きな不満が二つ。“The Lion Sleeps Tonight”のシーンが、オリジナルの夕方~夜から、真っ昼間に変更されている。何なのだ、これは。もっと納得がいかないのは、名曲中の名曲、“Can You Feel The Love Tonight?”も夜から昼間のシーンに置き換えられていることだ。シンバとナラの再会、そして成熟した雄と雌の爽やかなロマンスの予感が、夜の帳が下りるとともに高まっていくのではないのか。何故これを陽光溢れる光の世界で流すのか。歌詞と画面がケンカをしているではないか。映像および楽曲の美しさにはケチのつけようがない。しかし、その二つが同時に展開される時に大いなる矛盾が訪れる。それも一度ならず二度までも。これは大きな減点材料である。

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総評

超美麗なCG、胸を打つ楽曲、愛すべきキャラクターたち、そして勧善懲悪のストーリー。それだけである。褒めるべき点もあるが、決して褒められない点も同じくらい存在する。本作に感動したという人は、機会があれば劇団四季の『 ライオンキング 』も観てみてほしい。実写と言いながら実写ではない本作にはない、本物の臨場感がきっと味わえるから。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ジェームズ・アール・ジョーンズ, ドナルド・グローバー, ビヨンセ, ミュージカル, 監督:ジョン・ファブロー, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ライオンキング(2019) 』 -CG技術の粋、それ以上でもそれ以下でもない-

『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

Posted on 2019年8月13日2019年8月13日 by cool-jupiter

エリザベス∞エクスペリメント 40点
2019年8月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アビー・リー キアラン・ハインズ
監督:セバスチャン・グティエレス

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確か、未体験ゾーンの映画たちでパンフか何かだけ手に取った記憶がある。地雷臭がプンプン漂っていたが、Again, I was in the mood for garbage. 夏と言えばサメがゾンビのクソ映画祭りなのだが、たまには違うジャンルをば。本作はSFというよりもシチュエーション・スリラーである。しかし、シチュエーション・スリラーと呼ぶには、話があまりにもとっ散らかっているという印象である。期待せずに観た。そして、それで正解であった。

 

あらすじ

エリザベス(アビー・リー)は年の離れた億万長者の夫ヘンリー(キアラン・ハインズ)の自宅へと帰ってくる。そこは山中の湖畔にある豪邸で、室内プールにワインセラー、ブティックかと見紛うほどのドレスに靴まであり、自然に囲まれた別天地だった。しかし、ヘンリーはとある部屋にだけ、エリザベスが入ってはならないと言う。ある時、エリザベスがその部屋で見たものとは、彼女のクローンだった・・・

 

ポジティブ・サイド

ある時点までは万人の予想通りに進む。しかし、そのある時点からはやや予想の斜め上を行く展開になる。屋敷の使用人たちが発する雰囲気が、どこか『 ゲット・アウト 』の屋敷の住人およびゲストたちのそれと似ているのだ。こういう映画は観る者の予想を裏切ってナンボなのである。

 

男女、そして夫婦の仲というのは難しい。『 ゴーン・ガール 』を観るまでもなく、男(夫)と女(妻)が、腹の中に何を抱えているのかは外部の人間からは窺い知れない。夫は妻に何を求めているのか。そのような問いを突き付けられた時、そして本作のヘンリーのような夫に自分がなってしまってはいないかとの不安に襲われる諸賢は多かろうと推測する。いくら天才的科学者であっても、男はその本質においてアホなのではないか。英雄色を好む。古人に言によれば「英雄、色を好む」ということだが、逆に言えば「色を好むから英雄である」とも考えられる。

 

ヘンリーも相当であるが、オリバーもかなり危ない男である。エリザベスが魔性の女だからだと勝手に思い込むことなかれ。この盲目の青年の情念は、正常だとか異常だとかの尺度で測ってはならない。やっていることが、まんま山本弘の小説に出てきそうな無邪気で、それでいて自己中心的な思春期真っ只中の子どもの妄想である。というか、山本弘の小説に、地球が自分の意思で世界を二つに割って、片方に生きていたい生物、もう片方に死にたがっている生物を選り分けるような短編があったが、そこに出てくるアホなガキンチョとオリバーは、本質的に同じ思考、同じ行動原理を持っている。キモイの一言に尽きる。

 

男というのは、どうしようもなくアホな生き物であるということをまざまざと見せつけてくる怪作である。

 

ネガティブ・サイド

いくらなんでもセキュリティが緩過ぎるだろう。本当に見られたくないのなら、厳重に施錠しろ。というか、出入り口を作っては駄目だろう。大富豪にしてノーベル賞受賞者なら、もうちょっと頭を使って欲しい。本作はほぼ全編、邸宅内でストーリーが進行する。つまり、舞台が一つだけなのであるが、このようなご都合主義的なドラマツルギーは創作、演出上の逃げである。こういった部分でサスペンスを生み出し、それを終盤のドンデン返しへの伏線とするような脚本が望まれているのだ。

 

その一方で、家の外に出るためのセキュリティが固すぎる。というか、屋敷の外に通じる道が巧妙にふさがれて、あるいは防弾使用になっていることで、ヘンリーの秘密のクローン保管室への扉がいとも簡単に開いてしまうことに納得ができなくなる。このマッドサイエンティストは頭が良いのか悪いのか、分からなくなってしまう。本作のテーマの大きな部分に、クローンという存在に対してどのような感情を以って接するべきかというものがある。理性と感情は別物である。それは分かっている。だが、それでもヘンリーの行動原理や思考には首を傾げざるを得ないところが多々ある。結婚を「誘拐」に例えるセンスには眉をひそめてしまうし、無数にクローンが存在するならばまだしも、6人しかいない貴重なクローンをいとも簡単に始末してしまうところなど、彼の言う愛は自己と他者の関係のことではなく、性欲のことではないのかとさえ感じられてしまう。底知れないキャラクターに見せかけて、非常に底浅く感じられるのである。

 

また、盲目のオリバーについても疑念が残る。というよりも不可解さが残る。盲目であっても、信じられない能力や技能というのは身につくものだ。フィクションの世界では座頭市しかり、実在の人物では石田検校しかり。だからオリバーが銃をぶっ放すぐらいは気にしない。しかし、注射器を巧みに操るというのは一体全体どういうことだ?どの瓶に入っているのがどの薬品で、その薬品の有効期限はいつまでで、なおかつその薬品の適切な投与量がどれくらいなのかを、盲目でありながらどのようにして把握したというのか。合理的な説明が見当たらないし、思いつかない。

 

総評

扱っているテーマは面白い。しかし、邦題がまずい。∞マークは完全なるミスリード材料だ。同じようなSFチックなシチュエーション・スリラーなら、『 トライアングル 』(2009年 クリストファー・スミス監督作)や『 月に囚われた男 』をお勧めしたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アビー・リー, アメリカ, キアラン・ハインズ, シチュエーション・スリラー, 監督:セバスチャン・グティエレス, 配給会社:アットエンタテインメントLeave a Comment on 『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

『 ANON アノン 』 -近未来SFの凡作-

Posted on 2019年8月8日 by cool-jupiter

ANON アノン 50点
2019年8月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クライブ・オーウェン アマンダ・セイフライド
監督:アンドリュー・ニコル

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TSUTAYAでふと目にとまり、あらすじに興味をひかれた。野崎まどの小説『 know 』のや林譲治の小説『 記憶汚染 』の前駆的な世界、映画『 ザ・サークル 』のテクノロジーと思想が行き過ぎた世界であるように感じられた。暑過ぎて劇場に出向くのが億劫になるので、この時期は自宅での映画鑑賞率が高くなる。

 

あらすじ

あらゆる人間の記憶が記録される世界。第一級刑事サル・フリーランド(クライブ・オーウェン)は他者の記憶にアクセスし、単純作業のように事件を捜査・解決していた。しかし、ある日、街中で何の情報も読み取れない謎の女アノン(アマンダ・セイフライド)に遭遇する。ただの検知エラーだと思うサルだったが、その後、視覚をハッキングされて殺害される人間が次々に現れ・・・

 

ポジティブ・サイド

本作に描かれる社会はSFチックではあるが、充分に我々の予想の範囲内にあるものである。例えばビッグデータの管理と有効活用が叫ばれるようになって久しい。たいていの犯罪は、防犯カメラの映像が決め手になる。人がその目で見るものすべてを記録し、権限のある者だけがそれにアクセスできる社会は、犯罪抑止の観点からはむしろ望ましい。問題はプライバシーが守られるか否かである。Jovianは以前に大手信販会社で働いていたが、そこでは当然のように個人情報保護に腐心していた。だが、会社がもっと注力していたのはプライバシーの保護である。よく言われることであるが、個人情報、すなわち個人を識別できる情報(それは氏名であったり、電話番号であったり、住所であったりする)はある程度の数を集めなくては有用とはならない。プライバシーはそれ自体が貴重な、または危険な情報となる。例えば、貴方がたまたま上司のクレジットカードの明細書を見ることができたとしよう。そこに「○月×日 アデランス ¥43,200」という記載があったら?

 

本作は単なる情報とプライバシーの境目が曖昧になった世界の危うさを描いている。それはプライベートな情報をDFE(Delete Fuckin’ Everything)できるからで、さらに言えば、人間の記憶と記録の境目すらも曖昧になってしまうからだ。『 華氏451 』でも、物理的な実体あるものとしての書物は忌避された。なぜなら、アナログなもの全てを書き換えるのは実質的に不可能だからである。

 

本作でアマンダ・セイフライドが見せる記録操作の鮮やかさやサルの見る世界に、Augmented Reality(AR)やユビキタス社会に思いを馳せずにはいられなくなる。それがユートピアになるかディストピアになるかは誰にもわからない。しかし、セックスが重要なモチーフになっているところに本作の功績を認めたい。何もかもを情報空間で済ませる世界であっても、肉体と肉体をぶつけあう性行為に意味があるとアンドリュー・ニコルは言っているわけだ。エキサイティングなSF作品ではないが、ありうべき未来予想図の一つとして鑑賞する価値は認められる。

 

ネガティブ・サイド

視覚をハッキングすることだけでなく、プロット全体が『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』の焼き直しに近い。というか、パクリと呼ばれても仕方がないのではないか。士郎正宗はサイバーパンク分野の先駆者である。手塚治虫の『 ジャングル大帝 』がディズニーの『 ライオン・キング 』の元ネタであることは世界中の人間が長年にわたって疑っていることである。本作も士郎正宗のパクリなのではないかという疑惑に今後長く晒されるだろう。

 

サルの上司の無能っぷりが目立つ。なぜ視覚をハッキングする犯罪者がいると分かっていながら、視覚記録を信じようとするのか。殺人事件が起きておらず、サルだけが不可解な経験をしているというのなら話は分かるが、すでに人が何人も死んでいるのだ。もちろん、エンタメ作品やフィクションの警察というのは大体が権力と通じていたり、腐敗していたりするものだ。しかし、そこまでクリシェである必要はない。本作は既に東洋西洋の優れた先行作品にあまりに多くを負っている。

 

犯人の目星があっという間についてしまうのも弱点だ。普通は後から思い起こして、「ああ、あの時のクローズアップはこういうことだったのか」、「あのカット・アウェイはそういうことだったのか」と思わせるカメラワークではなく、「こいつが怪しいですよ」とこれ見よがしに見せつけるようなカメラワークというのは斬新ではあるが、陳腐でもある。極めて少ないキャラクターの中でこれをやられると、否が応でも犯人はこいつであると見当がついてしまう。ミステリ作品ではないとはいえ、これは興醒めである。

 

総評

起伏に乏しい作品である。派手なドンパチも、脳髄をひりつかせるようなミステリもサスペンスもない。だが、文明を見つめる視線がそこにはある。インターネットにどっぷりと漬かっている人ならば、そそられるシーンもいくつかある。梅雨時や猛暑日に室内で時間つぶしに鑑賞するのに適した作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アマンダ・セイフライド, クライブ・オーウェン, ドイツ, 監督:アンドリュー・ニコル, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズLeave a Comment on 『 ANON アノン 』 -近未来SFの凡作-

『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

Posted on 2019年8月7日 by cool-jupiter

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 80点
2019年8月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ポール・ホルデングレイバー
監督:フレデリック・ワイズマン

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エクス・リブリスとは、Ex librisである。exはラテン語でfromの意、librisはliber=本の複数形の奪格である。つまり、From the booksと訳すことができる。本の所有者を示すために、しばしば使われる標語のようなものである。では、ニューヨーク公共図書館の蔵書の所有者とは誰なのか。それを追究しようというのが、本作の刺激的なテーマである。

 

あらすじ

ニューヨーク公共図書館の本館と分館にそれぞれカメラが入り、各図書館ごとに特色あるサービスを提供している様子を捉えていく。そこから、公共の意味、知識の意味、世界の未来像が浮かび上がってくる。

 

ポジティブ・サイド

ドキュメンタリー映画でありながら、本作にはナレーションが存在しない。いや、ナレーションが存在しないドキュメンタリーは他にもある。『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』にもナレーションは無かった。本作の最大の特徴はインタビューが存在しないこと、これである。ただ淡々と、図書館で働く人々、図書館を利用する人々の姿を映していく。彼ら彼女らの話、働きぶり、行き方来し方によって、ニューヨークの街、ひいては全米、そして世界における「公共」の意味や「知識」の意味が見えてくる。静かでありながら、非常に野心的で刺激的である。なぜなら、ITだ、デジタル化だ、IoTだと叫ばれるこの時代に、アナログの極致とも言える書物に積極的な意味を見出しているからだ。法条遥の『 リライト 』ではアナログの図書館を指して未来人の保彦は「何という無駄!」と叫んだ。書物に込められた情報だけに着目すれば、蓋し当然の感想であろう。しかし、書物にそれ以上の価値を認めるならば、話は別である。『 アメリカン・アニマルズ 』でも、アメリカ建国時代の書物は、おそらく『 ナショナル・トレジャー 』級のお宝だと見積もられている。何故か。

 

それは、書物が紙とインクという唯物論的存在ではなく、書く者と読む者との間の時間と空間を超えた相互作用として立ち現われてくるからだ。そして、それはニューヨークという街についても当てはまることなのだ。ある分館では、図書がベルトコンベアーで運ばれ、それを図書館員たちが仕分けしていくシーンがあるのだが、その直前に映し出されるのはニューヨークの街の鉄道(『 スパイダーマン2 』でトビー・マグワイアが暴走を止めたものかもしれない)なのである。街を走る鉄道が、図書館内のベルトコンベアーに、街行く人々が、図書館内の書物に例えられているのである。図書館とは、図書を保管し、貸し出すだけの場所ではない。それは人と人との交流の場であり、過去の資産を未来に間違いなく届けるためのタイムカプセルでもあり、なおかつ街、ひいては世界の縮図なのである。

 

我々は図書を物理的な物体として考え、扱うことに余りにも慣れ過ぎている。しかし、それは目が見えるものや手指に不自由を抱えていない者の発想ではないか。ニューヨーク公共図書館が利用者として積極的に含めようとしている障がい者や求職者は、現代日本ではむしろ疎外の対象になっていないか(この点で、れいわ新選組の選挙戦略だけは特筆大書に値する快挙だった)。考えてみれば、図書館とは非常に融通無碍な場所である。我々は中華料理屋やインドカレーショップ、寿司屋といった存在にあまりにも普通に接してきたために、食べ物・・・ではなく事物というものは、そもそも分類されて然るべきものという思考の陥穽にハマりがちである。しかし、巨大な図書館は洋の東西も歴史の古い新しいも清も濁も玉も石も区別しない。究極のダイバーシティがそこに顕在化している。

 

再び翻って日本はどうか。【 戦後憲法裁判の記録を多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に 】などという、歴史修正主義を通り越して、歴史廃棄主義とでも呼ぶべき暴挙がまかり通っている。公文書改竄に飽き足らず、公文書を廃棄するのがこの国の与党の実態である。まさに焚書である。『 図書館戦争 』的な世界の現出も近いのかと不安になる。次は坑儒か。埋められるのは誰になるのか。

 

Back on track. 本作ではJovianが私淑している梅田望夫の著書『 ウェブ進化論: 本当の大変化はこれから始まる 』の記述を裏付ける描写がある。つまり、ニューヨークに住む人間の1/3は自宅でインターネットにアクセスできないのだ。これは前掲書の「いやあ、アメリカってネット環境は遅れているのに、ネットの中はすごいんですねえ」という、とある日本人の感想と一致する。森内閣がイット革命ならぬIT革命を強烈に推進してくれたおかげで日本のネット接続環境は世界でもトップクラスである。しかし、肝心要のネットの中身はどうか。日本語圏という、ほぼ閉じた空間にしかアクセスできないのではないか。ニューヨーク公共図書館がネットへの接続を推進する背景には、英語でのコミュニケーション可能空間が広がっているいるからということもある。だが、それ以上に、ネット空間が図書館という空間とフラクタル構造を成していることも見逃せない。世界最大級の超巨大図書館があらゆる地域、時代、著者、内容の書物を飲み込んでいくのと同様に、インターネットの世界にもダイバーシティが存在する。そしてそれは、取りも直さずワールド・シティーたるニューヨークが世界の縮図になっていることと相似形を成している。

 

もちろん、森羅万象は美しいものだけで構成されているわけではない。そこには上っ面だけを糊塗した偽物も存在する。そうしたものに激しい批判を加える知識人の姿も本作は活写する。一例を挙げよう。アメリカ史における最大の負の遺産である「奴隷」を、文献によっては「労働移民」と体よく言い換えているのである。これは『 主戦場 』で化けの皮が剥がれた、「慰安婦」を「姓奴隷」と言い換えるロジックと根本的に同じことである。実に鋭い現実批評であり、フレデリック・ワイズマン監督の意識の根底に人権や人道とは何かという問いが常にあることを示している。

 

ネガティブ・サイド

ほとんど批判すべき箇所が見当たらないが3点だけ。

 

1つには、主人公と呼べる人間が見当たらなかったこと。会議のたびにリーダーシップを発揮するオジさんはいたが、それだけで彼に感情移入することは難しかった。

 

2つには、この巨大図書館の深奥に眠っているはずの貴重な書籍、一般人閲覧不可の書籍、まさに『 アメリカン・アニマルズ 』で盗難されたような書籍を見てみたかった。

 

3つには、上映時間の長さである。なんと205分である。これではまるで『 アラビアのロレンス 』だ。他の劇場ではどうったのか分からないが、シネ・リーブル梅田では2時間超ドのあたりで10分休憩が設けられていた。長すぎる作品も考えものである。

 

総評

これは大傑作である。弱点もあるが、それを補って余りある“観る者の想像力と知性を刺激する構成”がある。ニューヨークの図書館という一見するとローカルな施設が、人類にとっての普遍の価値を追求しようとしていることに畏敬の念を打たれない者はいない筈だ。現代日本の抱える問題の解決方法への鮮やかな示唆もある。異色のドキュメンタリーであるが、食わず嫌いはいけない。必見の傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ボール・ホルデングレイバー, 監督:フレデリック・ワイズマン, 配給会社:ミモザフィルムズ, 配給会社:ムヴィオラLeave a Comment on 『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

Posted on 2019年8月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

マーウェン 65点
2019年7月28日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:スティーブ・カレル
監督:ロバート・ゼメキス

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監督はロバート・ゼメキスである。Jovianは『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』シリーズは大好きだが、『 フォレスト・ガンプ 一期一会 』は楽しめなかった。おそらく自分にとって波長の合うゼメキス作品というのは、現実がフィクションに彩られる作品であって、フィクションが現実を彩る作品ではないのだろう。事実、『 リアル・スティール 』はそこそこ面白かったが、『 ザ・ウォーク 』には少々拍子抜けした。本作はどうか。これはフィクションと現実が溶け合う物語である。

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あらすじ

マークの乗る戦闘機はベルギー上空で高射砲に被弾。川に不時着したマークはナチス兵に包囲されるも、友軍の女性らの援護射撃で窮地を脱する・・・という人形劇を、マーク(スティーブ・カレル)は撮影していた。マーウェンと名付けた架空の村、それが彼と女性たちの楽園、そして終わることのないナチス兵との戦いの舞台なのだ。そしてマークは、過去に受けた暴行事件のダメージに今も苦しんでいて・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianはトイ・ストーリーに興味は持ってこなかったが、人形劇にも一定の面白さがあることが分かった。人形とは、端的に言って依り代である。自分でありながらも、自分ではない自分をそこに投影することができる。マーク自身がいみじくも語るが、なぜ第二次大戦を舞台に、人形劇を展開し、それを写真に収めるのか。それはアメリカが善である戦争だったからと言う。つまり、マークは自分自身を善に捉えたいという願望もしくは欲求があるのである。さもなければ、そうすることでしか癒しを得られない事情がある。一見、平和的に見えるマークの暮らしに、彼の抱える暗黒面が垣間見える。彼は悪人ではない。ただ、心に抱えた闇がちょっと人より濃いだけである。彼が食らった暴行事件の大元の原因は実に他愛ないものである・・・と言い切れないのが、本作の評価を一部の批評家の間で難しくしているところだと推測する。マークは、本命女性(の人形)以外には優しく接するものの、本質的に優しくはしていない。一部のシーンで明らかになることだが、彼は身の回りの女性たち(本命除く)を性的な欲望の対象にしない。はっきり言って、これで好感度をアップしてくれる女性は、よほどのウブか、あるいはプロであろう。普通の一般的な女性というのは『 愛がなんだ 』のテルコのように「わたしって、そんなに魅力ないか?」と拗ねてしまうものなのだ。人形ではあるが、胸を丸出しの女性をオブジェのように扱うマークに恐れ慄いた男女は多いのではないだろうか。Jovianは、マークの在り方をそこまで奇異であるとは思わない。彼は、作家の本田透と非常に近い思考の持ち主なのだろう。つまり、一途な純愛を貫こうとするあまりに自分の気持ち悪さに気がつかないのだ。自分の気持ちだけに忠実になって、対象を見ずに暴走する。それは時に若気の無分別などとも言われたりするが、早い話が「恋は盲目」なのだ。いい年こいたオッサンが中学生ぐらいの精神年齢でロマンティックな夢を見る。いくらマークが心に抱える闇があるとはいえ、これを美しいと感じるのはマイノリティで、マジョリティはこれをキモいと感じるだろう。Jovianはもちろんマイノリティだ。

 

『 アリータ バトル・エンジェル 』が切り拓いた、実写とCGのシームレスなつながりを、スケールは全く違うが本作も多用する。というよりも、アリータはいつの間にか実写(そのほとんどは実際はCGのはず)世界に違和感なく溶け込んだが、本作ではいつの間にか我々はマークの妄想世界である人形劇世界、マーウェンに違和感なく溶け込む。ただし、これもかなり人を選ぶ演出だろう。マーウェンはマークにとっての桃源郷であっても、客観的にはそうではないからだ。好意的に見ればマークは芸術家でマーウェンは芸術作品だ。しかし否定的に見れば、マークはキモオタでマーウェンは同人作品だ。このあたりも波長が合うかどうかで見方が綺麗に割れるであろう。Jovianは波長が合った。マークは象牙の塔に住む芸術家である。

 

マーウェンを荒らすナチス兵との終わりなき闘争がマークの心象風景であるというメタ的構造も良い。中盤から終盤にかけて、マークの心的世界が現実世界を侵食することを明示するカメラワークがある。スクリーンそのものに語らせる、映画の基本的な技法にして究極の技法でもある。その上で、誰もが揺りかごの中で一生を全うできる訳ではない。現実世界は時に疲れるし、ロッキー・バルボアに説教されるまでもなく「世界は陽光と虹だけでできているわけでもない」=“The world ain’t all sunshine and rainbows.”それでも、幸せは世界に存在する。メーテルリンクの『 青い鳥 』と同じく、それに気付けるかどうかなのだ。ほろ苦さを漂わせながら、甘酸っぱさを予感させつつ物語は閉じる。なんとも不思議な余韻である。

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ネガティブ・サイド

再度強調するが、本作を堪能できるかどうかは、ゼメキスの世界観と波長が合うかどうかにかかっている。おそらく普通の映画ファンの7割は波長が合わないと思われる。彼ら彼女らはマークに都合の良い妄想全開のマーウェン、そして健気に甲斐甲斐しくマークを見守る人形たちを「非現実的」、「人格者」、「性格良すぎ」と見るであろう。もっとダイレクトに言えば、マーウェン=ハーレムだと捉える向きもいるはずだ。そこでプラトニックに振る舞うマークを心から格好いいと思える人は少数派で間違いない。マークは万人受けしないキャラなのだ。男からも女からも好かれにくいキャラなのだ。最初からマイナーな層しか狙っていないのかもしれないが、それを万人受けする作品に昇華させてこその巨匠だろう。マーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノのように、アクが強くても、メジャーヒットする作品を生み出せる人は生み出せるのだ。

 

スティレット・ヒールは1960年代になって初めて作られた、つまり第二次大戦中には決して存在しないことを明示するシーンがあるが、「マーウェンでは時々不思議なことが起こるのざ」とマークは嘯く。その時のBGMは“Addicted to love”。これは1980年代の楽曲だろう。マーウェンという独特な空間の神秘性を棄損してしまっている演出であるように感じるのはJovianだけだろうか。

 

『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』のパロディをやるなら、徹底的にやってもらいたい。デロリアンは権利関係か何かで使えないのか?それなら、燃えるタイヤ痕もいらない。非常に中途半端な演出であり、シークエンスだった。

 

裁判所のシーンも、保護司や弁護士はマークがああなってしまうことは予見できなかったのだろうか。日本でもレイプ被害者の女性が裁判員裁判で、フード、サングラス、マスク、マフラー、手袋などの完全装備で出廷したという新聞記事を読んだ記憶がある。何がきっかけでPTSDを発症するかは分からないが、それでも避けられる不安や懸念は避けるべきだ。このあたりが事実に基づくのか、事実と相違するのかは調べてみなければ分からない。しかし、マークがマーウェンから卒業するきっかけ作りのための態の良い演出に使われてしまった感は否めない。

 

総評

観る人を選ぶ映画であることはすでに述べた。誰にお勧めしたいかよりも、どんな人にお勧めしないか、それを語ったほうが有益かもしれない。中高大学生ぐらいのカップルのデートムービーには間違いなく不向きである。君達は素直に『 天気の子 』でも観に行きなさい。オッサンからの心からのアドバイスである。大人のお一人様も避けた方が良いだろう。自分を客観視した時に、「何やってんだ、俺は?」と感じることはある程度以上の年齢の人間には避けられない、一種の賢者タイムであるが、それをチケット代を払って大画面に没頭した後に味わいたいという奇特な人は、きっとマイノリティであろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ファンタジー, ロバート・ゼメキス, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

Posted on 2019年8月1日2020年5月23日 by cool-jupiter

アバウト・レイ 16歳の決断 70点
2019年7月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エル・ファニング ナオミ・ワッツ スーザン・サランドン
監督:ゲイビー・デラル

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LGBTは、おそらく人類誕生の昔から存在していた。“生産性が低い”とどこかの島国のアホな政治家が主張する彼ら彼女らが、歴史を通じて存在してきたのは何故か。それには諸説ある。日本でも、江戸川乱歩の傑作長編『 孤島の鬼 』などは歴史に敵に新しい方で、安土桃山時代の織田信長や、室町初期の足利義満、またはそれ以上にまで遡る歴史がある。近年、LGBTをテーマにした作品が数多く生産されている。メジャーなものでは『 ボヘミアン・ラプソディ 』、マイナーなものでは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』など。本作は諸事情あって公開が延期されるなどした作品であるが、それもまた時代であり世相であろう。

 

あらすじ

レイ(エル・ファニング)はトランスジェンダー。生物学的には女性だが、精神的には男性、そして肉体的にも男性として生きたいと強く願っている。しかし、未成年のレイがホルモン療法を受けるには、両親の同意が必要。母マギー(ナオミ・ワッツ)は悩んだ末に、レイをサポートすることを決断する。そのために、レイの父、自らの元夫の協力と理解を得ようとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

エル・ファニングが好演している。おそらく、この撮影前であれば、肉体的な成熟具合が不十分であるため、男性的な肉体を欲するようになる動機が弱くなる。これよりも後のタイミングで撮影するとなると、完全に女性になってしまい、中性さが失われる。つまり、決断の遅さが目立ってしまい、観る側の共感を得ることが困難になる。公開が遅れたことは残念であるが。それゆえに『 孤独なふりした世界で 』との距離感、つまり中性性と女性性の差が際立つ。つまり、ベストタイミングでの撮影だったわけである。とても年頃の女の子とは思えない、大股開きでの座り方。男子との取っ組み合いのけんかの後に、気になる女子に「女を殴るなんて、あいつらサイテー」と言われた時の複雑な表情。胸の膨らみをサラシで隠し、ダボダボの服で身体の曲線を目立たなくさせ、生理が止まると医者に説明を受けた時には心底嬉しそうに笑う。エル・ファニングのキャリア屈指のパフォーマンスではないだろうか。But as for her career, the best is yet to come!

 

女三世代で暮らす中には緊張が走る瞬間や女性特有の人間関係、B’zの『 恋心 ~KOI-GOKORO~ 』が言うところの「女の連帯感」を感じさせる場面もある。祖母ちゃんが立派なゲイで、彼女とパートナーの間には、家族といえども入り込めない空気が存在するのである。だが、そこに冷たさはない。自分の信じる道、生きると決めた道を行く姿勢を見せることが、レイの生き方をexemplifyすることになるからだ。三世代それぞれに異なる女性像を描くことで、単なる家族の物語以上の意味が付与されている。

 

それにしてもナオミ・ワッツの脆さと強さ、健気さと不完全さを同居させる演技はどうだ。日本では篠原涼子、アメリカではジュリア・ロバーツらがタフな母親を演じ、好評を博しているが、それもこれもナオミ・ワッツのようなactressがバランスをとってくれているからだろう。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーの一番の肝である、父親からホルモン療法の同意書を得るというミッションをこれ見よがしに引き延ばすのはよろしくない。すれっからしの映画ファンならずとも。この筋道は簡単に読めてしまう。

 

レイが地域や学校で苦悩する姿の描写が足りなかった。例えば、ゲイならばパートナーを見つけることができれば、それが自身の幸福にも相手の幸福にもつながる。しかし、トランスジェンダーというのは、自分自身の身体と精神が折り合えないところに辛さがある。パートナーを見つけることが問題解決になるわけではない。自分が自分を見るように、他人が自分を見れくれない。だからこそ、自分の身体を変えて、新しいコミュニティで新しい生活を始めたいという、レイの切なる気持ちを見る側が素直に共感できるような描写がもっと欲しかったと思う。

 

総評

ライトではなく、しかし、シリアスになりすぎないLGBTの物語、そして家族の別離と再生の物語である。日本で誰かリメイクしてくれないだろうか。こういったストーリーは現代日本にこそ求められているはずだ。その時は行定勲監督で製作してもらいたい。日本映画界でも出来るはずだし、やるべきだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エル・ファニング, スーザン・サランドン, ナオミ・ワッツ, ヒューマンドラマ, 監督:ゲイビー・デラル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

『 The Witch 魔女 』 -韓流サイキック・バトル・アクション-

Posted on 2019年7月28日2020年8月26日 by cool-jupiter

The Witch 魔女 70点
2019年7月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ダミ チョ・ミンス チェ・ウシク パク・ヒスン
監督:パク・フンジョン

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シネマート心斎橋で観たいと思っていて、タイミングが合わせられなかった作品。ようやくDVDにて鑑賞。韓国映画はインド映画と同じく、でたらめなパワーを感じさせるものが多い。本作の出来具合も相当でたらめである。しかし、パワーもすごい。

 

あらすじ

血まみれの少女ク・ジャユン(キム・ダミ)は森を駆け抜け、追手から逃れた。子のいない酪農家夫婦に育てられたジャユンは、親友の誘いでソウルのテレビ番組に出演し、ちょっとしたマジックを披露する。しかし、次の瞬間から謎の男たちに追われることになり・・・

 

ポジティブ・サイド

タイトルロールを演じるキム・ダミの純朴さと不気味さ。『 テルマエ・ロマエ 』でルシウスは日本人を指して「平たい顔族」と呼称するが、彼女の顔も相当平たい。しかし、この顔が中盤から後半にかけて、魔女のそれに一変する。素朴な少女が凶悪な殺人者に変貌する瞬間の表情とアクションは必見である。

 

R15+指定であるのは、セクシーなシーンが含まれるからではく、バイオレンスシーンが存在するからだ。Jovianは暴力シーンをそれほど好まない。ただ、時々「さて、血しぶきでも見るか」という気分になることがある。そうした時に北野武の過去の映画を観返したりすることはある。年に一回ぐらいだろうか。近年だと『 ディストラクション・ベイビーズ 』が暴力を主軸にした邦画だったろうか。邦画は顔面の痣などをメイクアップで作り出すことには結構熱心だという印象がある。『 岸和田少年愚連隊 』シリーズのサダやチュンバが思い出される。本作は自身が受けたダメージよりも、返り血(という言葉では生ぬるい)で自身が敵に与えたダメージを表現する。その血の量は余りにも過剰である。ジャユンが魔女として覚醒するシーンで、とある男を掌底でぶちのめすが、このシーンでは思わず『 ターミネーター2 』でT-800がT-1000に顔面を鉄器具で少しずつ破壊されていくシークエンスを思い出した。1分足らずのシーンであるが、一回ごとに顔面に特殊メイクを施すので撮影に5~6時間かかったとレーザーディスクの付録小冊子に書かれていたと記憶している。ジャユンが男をボコるシーンはさすがに5時間はかかっていないだろうが、男を殴るたびに新たに血反吐を浴びるため、メイクアップアーティストはさぞかし大変であっただろうと推察する。容赦の無い流血描写および遠慮の全くない返り血描写こそ本作の肝である。

 

本作のもう一つの醍醐味はアクションである。『 ジョン・ウィック 』ばりのガン・アクション、『 LUCY / ルーシー 』を彷彿させるサイキック・アクション、往年のブルース・リーばりの格闘アクション、こうしたバトルを盛り上げてくれる要素のほんの少しでもいいから、超絶駄作『 ストレイヤーズ・クロニクル 』に分けて欲しいものである。いくつかコマ送りを使っているところもあるだろうが、スタントマンやダブルは使わず、全てのアクションはキム・ダミが行っているようである。日本の女優でこれだけ動けるのは、土屋太鳳にどれだけいるか。杉咲花もいけるか。決してセクハラだとかエロいだと捉えないで頂きたいのだが、彼女たちとキム・ダミの体型を比較することは、それはそのまま浅田真央とキム・ヨナの比較をすることになろう。彼女らに技術的な差はなかったように思うし、あったしても決定的な差ではなかったはず。単純にキム・ヨナの方が背が高く、手足がスラリと長かったので、見映えが良かったのだろうと思う。

 

Back on topic. 本作の最大の特徴は脚本の緻密さにある。冒頭のモノクロのオープニング映像こそ刺激的だが、前半の30分はかなり退屈というか、起伏に乏しい。しかし、それも全て計算された作りになっていることに驚かされた。映画の面白さの大本は演技、撮影、監督術にあるが、映画の面白さの根本は脚本にあると言ってよいだろう。本作は文句なしに面白い。

 

ネガティブ・サイド

Infinity世界のライプリヒ製薬のような会社が諸悪の根源であるらしいが、その全貌がほとんど見えない。本社がおそらくアメリカにあること、子どもを使った人体実験を屁とも思っていないこと、しかし、サイキッカーたちの軍事兵器化などには乗り気ではないということぐらいしか分からない。巨悪の存在の大きさや異様さを、出てくる情報の少なさで語るというのは常とう手段である。ただ、今作における会社、本社の情報は余りにも少なすぎる。架空の社名で良いので、一言だけでも言及して欲しかった。

 

漫画『 AKIRA 』や、前述した『 LUCY / ルーシー 』と同じく、一定の間隔でクスリを摂取しなければならないという設定も陳腐だ。もっと別の設定は考えられなかったのだろうか。例えば、凶暴性を開発された子どもとは逆に、治癒の超能力を持った者がおり、その者を味方につけなければならない、といったような。何から何までバトルにするのは爽快ではあるが、そこにほんの少しでも癒しや救いのある展開があっても良かったのに、と個人的には感じる。

 

これは製作者というよりも、日本の提供会社、配給会社への注文。開始早々から「第一部」とは明言されているが、ジャケットにもそのことを強調しておいてもらいたい。

総評

傑作である。どこかで見たシーンのパッチワーク作品であるとも言えるが、そこは韓流のでたらめなパワーで押し切ってしまっている。続編の存在の匂わせ方に稚拙さがあるが、続編そのものは非常に楽しみである。『 ラプラスの魔女 』など比較にはならない、本物の魔女が解き放たれるのだろう。さあ、この魔女のもたらす破壊と暴力と殺人の妙技を皆で堪能しようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, キム・ダミ, サスペンス, チェ・ウシク, チョ・ミンス, ミステリ, 監督:パク・フンジョン, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズ, 韓国Leave a Comment on 『 The Witch 魔女 』 -韓流サイキック・バトル・アクション-

『 イット・カムズ・アット・ナイト 』 -“イット”・ムービーの拍子抜け作品-

Posted on 2019年7月16日 by cool-jupiter

イット・カムズ・アット・ナイト 40点
2019年7月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョエル・エドガートン
監督:トレイ・エドワード・シュルツ

スティーブン・キング原作の『 IT イット 』、『 IT イット “それ”が見えたら、終わり。 』に代表されるように、Itは元々、正体不明の存在を意味する。身近なところでは、It is a beautiful day today. や It’s really cold in this room.、It’s not that far from here to the station. などのような英文の主語It は、それ単独では意味が決定できない。必ずそれに続く何かがないと、天気なのか、気温なのか、距離なのか、正体は分からない。『 イット・フォローズ 』でもそうだったが、怪異の正体が不明であること、それが恐怖の源泉というわけで、ホラー映画のタイトルに It を持つ作品が多いのは必然なのである。それでは本作はどうか。はっきり言って微妙である。

 

あらすじ

ポール(ジョエル・エドガートン)は、老人を射殺し、遺体を焼いて、埋めた。彼は森の奥深くで家族を守りながら暮らしていたのだ。ガスマスクと手袋、そして銃火器で彼らは“何か”から身を守っていた。そこへウィルという男性が現れる。彼は自分にも家族がいるのだと言い・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭からミステリアスな雰囲気が漂う。同時に、観る者に考えるヒントを与えている。ガスマスクや手袋に注目すれば、細菌またはウィルスの空気感染もしくは飛沫感染が疑われる。ならば保菌者は?これは銃が有効な相手。となると小動物や虫ではなく大型の動物。普通に考えれば人間ということになる。そしてそれは十中八九、ゾンビであろう。It comes at nightというタイトルから、太陽光線の下では活動できないゾンビであることが容易に推測される。そうした設定のゾンビは、リチャード・マシスンの小説『 地球最後の男 』から現在に至るまで、数千回は使われてきた。低予算映画とは、つまりアイデア型の映画なわけで、陳腐な設定にどのような新しいアイデアがぶち込まれてきているのかが焦点になる。そうした意味で、本作の導入部はパーフェクトに近い。

 

またジョエル・エドガートンの顔芸も必見である。『 ある少年の告白 』でも、恐ろしいほど支離滅裂ながら、なぜかカリスマ的なリーダーシップを発揮する役を演じていたが、本作でもその存在感は健在。恐怖心と勇気、愛情と非情、相反する二つの心情を同居させながらサバイバルしようとする男が上手く描出できていた。

 

ネガティブ・サイド

意味深な導入部を終えると、ストーリーは一転、停滞する。It comes at night. というタイトルにも関わらず、何もやってこない。いや、色々なものが夜には出現してくる。それは思春期の少年と年上女性とのロマンスの予感であったり、夜な夜な見てしまう悪夢であったり、開けてはいけないとされる扉を開けてしまいたくなる誘惑であったりする。問題は、それらが怖くないこと、これである。恐怖の感情は、恐怖を感じる対象の正体が不明であることから生まれる。しかし、本作のキャラ、なかんずくポールの息子のトラヴィスは、恐怖の感情そのものに恐怖している。つまり、彼の恐怖の感情と見る側のこちらの恐怖の感情がシンクロしにくいのである。彼らは恐怖の対象が何であるのかある程度理解しており、その対策のための防護マスクや手袋を持っている。こちらは、恐怖の正体についてある程度の推測はできているため、いつそれが姿を現すのかを待っている。つまり、恐怖を感じるのではなく、やきもきするのである。じれったく感じるし、イライラとした気持ちにすらさせられるのである。

 

設定がよく似た作品に『 クワイエット・プレイス 』があるが、ホラー作品としてはこちらの方が王道的展開で安心できる。本作は、「(ゴジラより)怖いのは、私たち人間ね」と喝破した『 シン・ゴジラ 』の尾頭ヒロミよろしく、人間関係そのものが恐怖であることを描く、陳腐な作品である。似たようなテーマを持つ作品としては『 孤独なふりした世界で 』の方が優れているし、正体不明の何かが迫ってくる映画としては『 イット・フォローズ 』に軍配が上がる。

 

総評

真夏日に家の外に出たくない。そんな時に気軽に暇つぶしする感覚でしか観られないのではないか。人間関係の微妙な機微の描写や、ポスト・アポカリプティックでディストピアンな世界観の構築をそもそも追求していない作品だからである。ホラーというよりはシチュエーション・スリラーで、そちらのジャンルを好む向きならば鑑賞してもよいかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, シチュエーション・スリラー, ジョエル・エドガートン, ホラー, 監督:トレイ・エドワード・シュルツ, 配給会社:ギャガ・プラスLeave a Comment on 『 イット・カムズ・アット・ナイト 』 -“イット”・ムービーの拍子抜け作品-

『 テルマ 』 -光るところがある文学的な北欧スリラー-

Posted on 2019年7月15日 by cool-jupiter

テルマ 65点
2019年7月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エイリ・ハーボー
監督:ヨアキム・トリアー

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シネ・リーブル梅田での鑑賞機会を逸してしまった作品。近所のTSUTAYAでクーポンを使って借りる。北欧映画はやはり白を基調にすることが多く、極彩色のフルコースを立て続けに食した後に、観てみたくなることが多いと自己分析。実際に『 獣は月夜に夢を見る 』を鑑賞したのも『 SANJU サンジュ 』というインド映画、『 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 』というアニメ映画の直後だった。目の疲れに敏感な年齢になったのかな・・・

 

あらすじ

厳格なカトリックの家庭で育ったテルマ(エイリ・ハーボー)は、大学生として一人暮らしを始めた。しかし、彼女は謎のけいれん発作に苦しめられる。そんな時に、水泳中にたまたま知り合ったアンニャと恋に落ちるテルマ。自らの宗教観や倫理s観と同性愛の間でテルマは悩み苦しむ。そして、アンニャが消えてしまう。テルマの不可思議な力によって・・・

 

ポジティブ・サイド

 

* 以下、マイナーなネタばれに類する記述あり

 

北欧の映画のビジュアルにはやはり雪が欠かせない。つまり、スクリーンを彩る基調色は白になることが多い。これは何も北欧だけに限ったことではなく、寒い地域を舞台にした場合の必然なのかもしれない。アメリカのワイオミング州を舞台にした『 ウィンド・リバー 』では、白=雪は冷徹性、暴力性、無慈悲さの象徴だった。それでは本作における白とは何の象徴であるのか。それはおそらく、テルマの処女性・無垢・純潔ではないか。テルマが恋に落ちる相手のアンニャが黒人であることにも意味が込められているし、冒頭で窓に激突して死んでしまう鳥がカラスであることにもおそらく意味が込められている。テルマは厳格なカトリックの家庭で抑圧されながら育ったことで、自身の内に芽生えだ同性への恋心を神への祈りによって抑え込もうとした。カラスは創世記で描かれる大洪水後に、ノアに斥候を命じられる優秀な生き物である。「様子を見てこい」と言われる鳥が殺されることには、自分を見ないでほしいというテルマの潜在的な願望が見出せる。アンニャへの募る思いを押さえ込もうと祈りを捧げる姿は、自慰行為に罪悪感を感じながらも止められなかったアウグスティヌス(「神様、お許しください。でも、もう少しだけ・・・」)に共通するものがある。テルマが体内に蛇を取りこむビジョンは、年老いた蛇、サタンを象徴するものと考えて間違いないだろう。事実、アンニャとテルマは「イエスはサタンだ!」とふざけ合いながらも、本心を吐き出している。信仰は彼女らにとって悪徳なのである。鹿についても同様で、『 ウィッチ 』においても重要な役割を演ずる動物であるが、鹿はしばしば悪魔の化身とされる。ジョーダン・ピール監督の『 ゲット・アウト 』のトレイラーでも、鹿の骨の化け物が襲ってくるシーンがある(何故か本編にはこのシーンは無い)が、キリスト教文化圏においては鹿は必ずしも聖なる生き物ではないのである。その鹿に向ける銃口を冒頭でいきなり娘に向ける父親は、当然、神の代理、化身、象徴であり、この男をいかに文学的な意味でも、なおかつ文字通りの意味でも殺すのかが、今作のテーマである。つまりは古代ギリシャのソフォクレスの『 オイディプス王 』から連綿と続く父親殺しがテーマなのである。父を見事に“殺した”テルマの浮かべる笑みのなんと神々しく邪悪なことか。この笑みの持つ両義性をどのように解釈するかによって、鑑賞後の印象はがらりと変わるのだろう。Jovianは悪魔的な笑みと理解した。しかし、それが唯一の解というわけでもないし、製作者の意図するところでもないだろう。『 ゴールド/金塊の行方 』のマシュー・マコノヒーの笑みのように、素晴らしい作品は時にえもいわれぬ余韻を残してくれる。この映画の余韻は、しばらく残りそうである。

 

ネガティブ・サイド

病院の検査のシーンのストロボの激しい明滅。これが過剰であるように感じた。もちろん、意図しての演出だろうが、明るい部屋で見ても目がかなり疲れた。真っ暗な劇場だと、もっと目に負担がかかっただろうと推測される。

 

弟のシーンがやや不可解だ。もちろん、わずか数秒ではあるが、風呂場で乳児から目を離しては絶対に駄目だ。赤ん坊は水深3cmで数秒で溺れることができるからだ。父親も母親も、保護者であれば乳児から目を離してはいけない。テルマの力が発現する重要なシーンであるが、やや無理やり作り上げたような不自然さがあった。またこのシーンのカメラワークは『 シックス・センス 』の冒頭の台所のシーンと構図的に全く同じで、新鮮味に欠けた。ホラー映画で誰かが冷蔵庫の扉を開けて、それを閉めると、背後に誰かが立っているのと同じように、次に何が起こるか分かってしまう。このようなクリシェな作りは歓迎できない。

 

アホな男子学生も不要だった。『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』のパーティーで酔って独演会を開く男のようだった。宗教的な観念の深さと皮相性の両方を丁寧に説明しようとしてくれたのだろうが、この男はノイズだった。

 

総評

ホラーやスリラーというよりも、少女版ビルドゥングスロマンと言うべきだろう。文学的な意味での父親殺しが、そのまま神殺しと通底するものを持つのである。爽やかとは言えないが、恋に苦悩する少女の物語は日本だけでも毎年十本以上は劇場公開されている。本作のようなちょっとした変化球も、もっと紹介されていい。配給会社に期待したい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, エイリ・ハーボー, スウェーデン, スリラー, デンマーク, ノルウェー, ヒューマンドラマ, フランス, 監督:ヨアキム・トリアー, 配給会社:ギャガ・プラスLeave a Comment on 『 テルマ 』 -光るところがある文学的な北欧スリラー-

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