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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 国内

『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』 -動物の向こうに人間が見えてくる-

Posted on 2019年1月24日2019年12月21日 by cool-jupiter

劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 70点
2019年1月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:葵わかな

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Jovianは民放は基本的に観ない。NHKを時々観るぐらいだ。しかし、その中でも欠かさず録画する番組が3つある。『 将棋フォーカス 』、『 コズミックフロント NEXT 』、そして『 ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜 』である。そのうちの一つが映画化されるとあっては、劇場に足を運ばねばなるまい。

 

あらすじ

アフリカ大陸。様々な動植物が生きる大地。そこにはプライドの王を目指す若獅子ウィリアム、一匹で子育てに奮闘する雌ライオンのナイラ、右腕を無くしたゴリラのドドとそのドドを見守る群れの長のパパ・ジャンティの物語が展開されていた・・・

 

ポジティブ・サイド

1時間30分程度の作品だが、おそらくこれだけの映像を作るには、軽く1万時間超の撮影が必要ではないだろうか。もしかすると10万時間超かもしれない。

 

本作でフィーチャーされるライオン達およびゴリラ達を動物と思うなかれ。これは動物賛歌の形を借りた人間社会へのメッセージなのである。そのメッセージを痛烈な批判と受け取るか、それとも厳しくも暖かい信頼のメッセージと取るかは受け手の生きる社会や家族に依るのだろう。ただし、NHKがこの映画を届けたいのは日本社会に生きる我々であることは意識せねばなるまい。好むと好まざるとに依らず、社会は多様化していく。多様化していくということは、盛者必衰、優勝劣敗、弱肉強食がはっきりしていくということでもある。それは昭和後期が成長と安定に結実した一方で、平成は激動の時代になっていたことからも明らかである。潰れるはずがないと思われた企業が倒産し、サザエさん的な家族の風景はもはやフィクションとなった。一方で、都市部の駅や公共施設、大型ショッピングモールやデパートメントストアではバリアフリー化、ノーマリゼーションが進み、街中や駅、電車内でも車イス使用者を見かけることは珍しくなくなった。白杖を持った弱視者やダウン症を持った人なども家や施設ではなく、外に行き場と生き場を求められるようになってきた。

 

本作がメインに取り上げる若獅子ウィリアム、孤軍奮闘する雌ライオンのナイラ、そして右腕の肘から先を無くしたゴリラのドドには共通点がある。それは集団から疎外されてしまった個が、それでも仲間と共に生き抜く姿である。ライオンのオスはしばしば兄弟で放浪するし、最近ではこのような動画も世界中でバズった。ライオンのオスは高等遊民であるかの如く暮らす。千尋の谷に突き落とされることはないが、それでもプライドを追い出され、過酷な環境で自らの生存を確保しなくてはならない。国営放送がニートに向けたメッセージであるというのは深読みが過ぎるだろうか。

 

女手一つで6頭もの子どもを育てるナイラを指して「母は強し」というのはいとも容易い。しかし、それこそ昭和の価値観だろう。今、国が実施している求職者支援訓練の受講者には、かなりの割合のシングルマザーが含まれている。平成とは、離婚率と未婚率の増加の時代、少子化の時代とも総括できよう。もちろん、それも多様化の一側面である。だからシングルマザーを良しとしたいわけではない。逆だ。ライオンの雌がこれほどの苦境に陥るのは、仲間がいないからだ。サポート役がいないからだ。幼い子どもと一緒に狩りをするナイラの姿に、高校生の子どものバイト代までも家計に回さなければならない世帯が存在することに、我々はもっと意識しなくてはならないだろう。

 

ゴリラのパパ・ジャンティについても同様の考察が可能である。通常、動物の群れは奇形や障碍を有する個体には厳しい。少数を救おうとすることが全体を危機に晒すことになりかねないからだ。オオカミの群れなどは老齢の個体にも厳しい。しかし、パパ・ジャンティはその名の通りにgentlemanである。劇中でも描かれるが、当初は群れの他個体はドドにサポートを与えなかった。リーダーたるパパ・ジャンティの行動が集団全体に波及したのだ。障がいを能動的に負おうとする者などいない。しかし、障がいを負うことそのものは誰にでも起きうることだ。そうした時に、疎外をされないこと。誰かが手を差し伸べてくれるということ。そうした仕組みや意識が社会の成員に共有されているということ。それこそが生きやすい社会の一つの形だと思う。そうした気付きをもたらしてくれるゴリラのパパに、我々は敬意を表すのである。

 

ネガティブ・サイド

せっかく1時間半もの時間を費やすのなら、1種類の動物だけにフォーカスしても良かったのではないだろうか。ライオンならライオンに絞ってしまうという選択肢もあったはずだし、その方がよりドラマチックに編集できたろうにと思う。全体的なペースとトーンが。ライオン物語とゴリラ物語の間で一定していなかったように感じられた。監督は誰なのだろうか?

 

総評

いつもはテレビで観ているものを劇場で観ることの意味は何か。映像や音響が優れていることは当然として、暗転した環境なのでスクリーンに没頭できることが大きい。アフリカの豊かな自然と様々な動植物の世界にスッと入っていくことができた。第二、第三の劇場版が観たいし、『 コズミックフロント NEXT 』の劇場版も作ってくれないだろうか。映像美という点では、動物よりも天体の方に分があるだろう。特に暗い劇場では。子どもを連れて観に行くも良し。大人だけで鑑賞しても良し。ライトにもディープにも楽しめる作品である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ドキュメンタリー, 葵わかな, 配給会社:ユナイテッド・シネマLeave a Comment on 『 劇場版 ダーウィンが来た!アフリカ新伝説 』 -動物の向こうに人間が見えてくる-

『 マスカレードホテル 』 -トリックとプロモーションに欠陥を抱えた作品-

Posted on 2019年1月23日2019年12月21日 by cool-jupiter

マスカレード・ホテル 40点
2019年1月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:木村拓哉 長澤まさみ
監督:鈴木雅之

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これははっきり言って失敗作である。作品として失敗している点と宣伝の面での失敗、その両方の欠点を抱えている。特に後者は深刻で、熱心な映画ファン兼ミステリファンというのは、トレイラーや各種広告媒体から、これでもかと情報を引き出し、事前に推理を組み立てる習性があるものだ。そうしたファンの習性を無視したプロモーションにはどうしても辛口にならざるを得ない。一昔前の2時間サスペンスものなどは、テレビ欄の出演者の2番目もしくは3番目が犯人と相場は決まっていたが、それと同じようなことをまだやっているのかと落胆させられた。

 

あらすじ

都内で不可解な殺人事件が3件発生した。いずれの現場にも、謎の数列が残されていたが、それは次の犯行場所を示すものだった。4件目に指定されたのはホテル・コルテシア東京。捜査1課の刑事新田浩介(木村拓哉)はホテルのフロントクラークとして潜入捜査をするのだが、ぶっきらぼうで愛想の悪い新田は優秀なホテルマンの山岸尚美(長澤まさみ)とことあるごとに衝突をするのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

小日向文世の刑事役。『 アウトレイジ 』および『 アウトレイジ ビヨンド 』でのマル暴デカ役では、温和な刑事と腹に一物抱えた刑事の両方を見事に演じ分けていた。それに次ぐ名演技を見せてくれる。味方かと思わせて敵、敵と思わせて味方と硬軟自在に演じ分けるのは熟練の技。この人の存在だけで新田の更なる活躍を描く続編、そして前日譚の製作まで想像できてしまう。素晴らしいスパイスになってくれている。

 

もう一つ称賛に値するのはホテルのフロント部分。すべて大道具と小道具が作ったと言われている。実際にこのようなホテルが存在していても全く違和感のない仕上がりになっている。『 シン・ゴジラ 』における首相官邸と同じく、映画の本道たるリアリティの追求を最も説得力ある形で感じさせてくれたのが、ホテルのフロントおよびロビーラウンジ部分。原作小説は未読なのだが、おそらく作者の東野自身のイマジネーションに忠実に、もしくはそれを超えるようなものを創り出したのではないだろうか。

 

木村拓哉と長澤まさみの演技も及第点。ホテルのフロント側とバックヤードでは表情や歩き方、声の出し方、顔つき、立ち居振る舞いの全般が、しっかりとしたコントラストを生み出していた。演技にメリハリのないタレント俳優が散見される中、この二人ぐらいキャリアがあれば、当たり前ではあるのだが。また、最初はぎこちなかったフロントクラークの新田が徐々にらしさを身につけていく過程は良かった。まさかシーンを順を追って撮影したのではあるまい。編集の勝利だろう。

 

ネガティブ・サイド

劇中で新田が3件のうちの1件のトリックを推理するのだが、いくらなんでも無理があり過ぎる。Jovianの義理の父親は元警察官だが、もしも義父が映画館にいたら、ブチ切れて怒鳴っていたか、失笑してしまっていたことだろう。Jovian自身もあまりの呆れから、思わず妻と見つめ合ってしまった。いやしくも殺人事件を捜査する警察が、関係者の証言だけを信じて、あれほど簡単な裏取りを怠るなど考えられない。リアリティのかけらもないトリックだ。

 

こちらはトリックではないが、最後に犯人が使う道具についても以下、白字で指摘しておきたい。麻薬や向精神薬の類と並んで、筋弛緩剤のような薬剤がどのように管理されているか、原作者、脚本、監督の誰も理解していないのか。それともリサーチもしていないのか。分かった上で、まあ、これぐらいならいいだろう、とリアリティの追求をある程度最初から放棄していたのか。看護学校や医学部では袋に入った注射器が無くなっただけで上を下にの大騒ぎになり、病院で上述の薬品がミリグラム単位で紛失しても警察や保健所、場合によっては都道府県知事に届け出なくてはならないということを分かっているのか。動物病院から使用の痕跡の残らない筋弛緩剤を盗み出してきたというが、そんな与太話があってたまるものか。

 

さらにプロモーションについても一言。

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何故このような販促物を作ってしまうのか。いやしくもミステリを原作にしている映画なのだから、それを観に来るファンにもかなりの割合でミステリファンがいるということが予想できないのか。ミステリファンの生態を理解できないのか。ミステリファンの最大の愉悦の一つは、読む/観る前に犯人を当ててしまうことだ。タイトルを読む、あらすじを読む、そして表紙の挿絵をじっくりと見る。それだけで犯人を割り出せてしまう小説と言うのも、実際に世に送り出されたこともあるのだ。上のイメージだけで犯人が分かるわけではないが、それでも相当数のミステリマニアが登場人物=役者を頭に入れて劇場に来たのは間違いない。そして彼ら彼女らのかなりの割合が、映画のある時点までに消去法で犯人が分かってしまったに違いない。全てはアホなパンフレットやポスターを作ってしまった広報担当の責任である。

 

また熱心な映画ファンであれば、とあるキャラクターが怪しいということもある瞬間に分かったはずだ。以下はかなりきわどいネタになるが、『 セント・オブ・ウーマン / 夢の香り 』や『 ドント・ブリーズ 』を観たことがあるならば、一目見ただけで違和感を覚えるシーンが挿入される。小説ならば叙述で乗り切れるかもしれないが、映画にしてしまうのにはちょっと無理がある設定だったか。さらに演出面で言えば、長澤まさみのとあるルーティンやキムタクのとある所作が余りにもくどすぎた。『 64 』の電話帳ぐらいでよかったのだが。

 

総評

豪華俳優陣をそろえて物語を作るのは良い。また豪華俳優陣をそれぞれチョイ役で用いるというのも『 シン・ゴジラ 』で成功した手法なので許容可能である。問題なのは、ミステリを作るに際して最も大事な犯人とトリックの部分が、あまりにもお座成りになっていることなのだ。ライトな映画ファンにはそれなりのエンターテインメントになるのだろうが、年季の入ったミステリファンや映画マニアを唸らせる出来では決してない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ミステリ, 日本, 木村拓哉, 監督:鈴木雅之, 配給会社:東宝, 長澤まさみLeave a Comment on 『 マスカレードホテル 』 -トリックとプロモーションに欠陥を抱えた作品-

『 真っ赤な星 』 -人間の一面を確かに切り取った佳作-

Posted on 2019年1月21日2019年12月21日 by cool-jupiter

真っ赤な星 70点
2019年1月17日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:小松未来 桜井ユキ 毎熊克哉
監督:井樫彩 

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なんとなく気になっていたタイトルが今日までと知って、終映日のレイトショーで鑑賞。そういえば『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』もそうやって鑑賞したのだった。過剰な期待ほど映画の面白さを損なうものは無いと知りつつ、それでも期待を抱いて劇場へ。いくつか弱点はあったが、良作であった。

 

あらすじ

中学生の陽(小松未来)は入院中に看護師の弥生(桜井ユキ)にほのかな恋心を抱くも、退院の日に陽は弥生が看護師を辞めたことを知る。家にも学校にも居場所が無い陽。一年後に街外れで再会した弥生は、娼婦として男に身体を売っていた・・・

 

ポジティブ・サイド

新人監督・井樫彩の美意識が爆発した作品である。光と闇のコントラストがこれでもかと過剰なほどにぶち込まれた作品である。恐ろしく澄んだ空、白い雲、空中を漂うパラグライダーを描いた次の瞬間には、夜という観念的な異界をねっとりと映し出す。物語の前半は、昼の白と夜の黒のコントラストで構成されていると言い切ってしまっても良いくらいだ。この白と黒が徐々に溶け合う、つまり明け方や夕焼けの描写が意味するものは・・・おっと、これ以上はネタばれというか興醒めか。光だけではなく闇の使い方にも秀でたものがある。エロティックなシーンは敢えて見せない。暗がりにうっすらとだけ浮かび上がりシルエットが交わるだけで充分なのだ。漏れ出る吐息、声、それだけで十分に煽情的で官能的だ。良いホラー映画は怪異の存在を見せずに、それを見る者に想像させる。つまりはそういうことなのである。

 

本作のもう一つの優れた点は、とにかく映像に語らせるということである。コミックの映像化にありがちな説明的な台詞が一切排除されている。これが心地よい。弥生の部屋には無造作に下着だけがピンチハンガーに吊るされている。あまりにも整った台所と汚れ放題荒れ放題の寝室兼居間の対比。もうこれだけで弥生の生活スタイルが見えてくる。そして陽が思いがけず見つけてしまう写真。この監督は観客をしっかりと信頼している。頼もしい作り手が現れた。

 

本作には様々な二項対立が描き出される。大地と空。パラグライダーや天文観測所は、その対立が止揚されたものを象徴している。昼と夜、男と女、子どもと大人、処女性と母性、陰と陽。そうした二項対立が絡まり合い、溶け合うクライマックスの美は圧倒的である。『 君の名は 』の黄昏時に通じるものが、確かにそこにはある。ここで初めて我々はタイトルの真っ赤な星の意味を知る。以下、白字。

 

それはキスマーク。内出血の跡も沈みゆく太陽と同じくいつかは消える。しかし、それは確かにそこにある。「このまま消えちゃおっか」という弥生の台詞は、陽と自分の関係を「真っ赤な星」に重ね合わせたからこそであろう。

 

ネガティブ・サイド

映像芸術という意味では素晴らしいが、物語としての新鮮味にはどうしても欠ける。非常に閉鎖的な地域、さらに家庭環境において生まれるドラマというのは、何故にこうも平板になってしまうのか。

 

さらに登場してくる男が、陽の同級生一名を除いて、どれもこれもがクズだらけだ。魅力あるクズについては『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』が見事な描写を披露してくれた。浮気に精を出しながら「俺、お前とのことは真剣に考えてるから」などと、火サスや昼メロで100万回聞いたような台詞を、何故に有料の映画でまで聞かされなければならないのか。こんな男は100%嘘をついているというのは、今時なら女子中学生ですら感じ取れるのではないか。こんなブログを読んでいる妙齢の女子がいるとは思わないが、女性に暴力を振るう男は、女を“女”という記号もしくは機能としてしか見ていないということを知ってほしい。

 

女性監督自身がそのようなメッセージを発することに衝撃を受けるが、井樫彩監督は『 ワンダーウーマン 』のパティ・ジェンキンスのようになれるだろうか。

 

総評

『 無伴奏 』、『彼女がその名を知らない鳥たち 』、『 光 』、『 娼年 』などの系列に属する作品である。つまり、非常に狭いコミュニティの中で濃密な人間関係を築く(もしくは壊す)という過程を描いた作品やジャンルに興味があれば、鑑賞して損はしないだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 小松未来, 日本, 桜井ユキ, 監督:井樫彩, 配給会社:「真っ赤な星」製作委員会Leave a Comment on 『 真っ赤な星 』 -人間の一面を確かに切り取った佳作-

『 イヴの時間 劇場版 』 -ロボットと人間の関係性をリアリスティックに描く-

Posted on 2019年1月14日2019年12月21日 by cool-jupiter

イブの時間 劇場版 70点
2019年1月9日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:福山潤 野島健児 田中理恵 佐藤利奈
監督:吉浦康裕

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TSUTAYAでDVDなどをあれこれと渉猟していると、松尾豊の書籍『 人工知能は人間を超えるか 』の表紙にそっくりのキャラをカバーボックスに発見した。10年近く前のアニメであったが、これが思わぬ掘り出し物。”Don’t judge a book by its cover.”とは、良く言ったものである。

 

あらすじ

未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。高校生のリクオとマサキはひょんなことから、ロボットと人間を区別しない喫茶店、「イヴの時間」の常連客となる。マスターのナギと過ごすうちに、彼らはロボットに対する認識を改めていく・・・

 

ポジティブ・サイド

実に数多くの先行テクスト、先行作品の上に成り立つ、あるいはその系譜に連なる作品である。人間とアンドロイドとの関係については、劇中でも触れられることだが、『 ブレードランナー 』を始め、コミックおよび映像化された『 攻殻機動隊 』、『 エクス・マキナ 』、『 アイ、ロボット 』、そして山本弘の傑作小説『 アイの物語 』などと相通ずる点が多い。数ある先行作品にも共通するテーマを本作は提示する。それは「人間らしさは人間だけに宿るわけではない」ということである。

 

一見して人間と見分けがつかないロボット=アンドロイドが普及し始めている世界を本作は描写する。そこにはドリ系と呼ばれる、アンドロイドとの関係に極度にハマってしまう者たちが存在する。そして、ロボット倫理委員会なる組織は、人間とロボットとの関係を人間的なそれにさせまじと美辞麗句に彩られたプロパガンダを放送するのである。近未来的であるとも言えるし、古典的なSF作品的であるとも言える。人間は人間以外とも対等な関係を結べるのだということは『 スター・ウォーズ 』シリーズを彩る数々のロボットやアンドロイドから一目瞭然である。極端な例では映画『 her / 世界でひとつの彼女 』も挙げられるし、もっともっと極端な例ではゲーム『 ラブプラス 』のキャラクターと結婚式を挙げた男性も存在したのである。フィクションの世界でも現実の世界でも、人間はしばしば人間以外の存在に人間らしさを見出してきたのである。「そんわけねーだろ」と思うだろうか?しかし、車を所有する男性の中には一定の割合で車を恋人もしくは相棒と見なす者が確かに存在するのである。

 

本作の世界では、パッと見では人間とアンドロイドの区別ができない。それどころかアンドロイド同士の会話でも、お互いをアンドロイドであると認識できないようなのだ。チューリング・テストがあっさりとクリアされた世界!これは凄い。本作は『 her / 世界でひとつの彼女 』以降で『 ブレードランナー 2049 』以前の世界なのだろう。喫茶店イヴで過ごすアンドロイドたちの挙動は、『 アイの物語 』の最終章「 アイの物語 」と共通する点が多い。

 

イヴで過ごす時間が長くなるほどにリクオはロボットに対する認識を深め、マサキはロボットに対する(自分なりの)認識をより強固にしていく。それは彼の過去のトラウマに根差すものなのだが、その見せ方が上手い。セクサロイドが存在する世界において、人間がロボットに対して純粋な友情や愛情を抱くことができるのか。本作では、アンドロイドではない、いかにもロボットロボットしたロボットが見せる振る舞いや言動にこそ、人間らしさが潜んでいる。それはとりもなおさず、我々が思う人間らしさは人間の姿かたちだけに宿るものではないことを意味している。そのことを非常に逆説的に示した映画に『 第9地区 』がある。反対に人間らしさを感じない、嫌悪感を催させるものの正体とは何か。それは人間の姿かたちをしたものが、およそ人間とは思えない動き、立ち居振る舞い、言動を見せた時であろう。それこそがゾンビに対して我々が抱く恐怖の源泉であり、『 ターミネーター 』に対して抱く恐怖でもあり、『 攻殻機動隊 』の草薙素子が自身の身体の女性性にあまりにも無頓着であることにバトーが思わず赤面し視線を逸らすことに対して、我々が違和感を覚える理由である。

 

SFというものはマクロ的には文明と人間の距離感を、ミクロ的には人間と非人間の距離感を描くものである。信じられないかもしれないが、「電卓など信じられない。そろばんの方が計算機として優れている」と考える人が一定数存在した時代があったのだ。そのことを実に象徴的に描いた作品として『 ドリーム 』がある。宇宙飛行士ジョン・グレンが人間コンピュータのキャサリン・G・ジョンソンに、コンピュータの計算結果を検算させるというエピソードがあるのだが、それはフィクションではなく史実なのである。本作は極めて純度の高いSFの良作である。

 

ネガティブ・サイド

ところどころに珍妙な英語が出てくる。その最も端的な例は“Androld Holic”である。正しくは“Android-aholic”である。Workaholicという単語をしっかりと分解すれば分かる。

 

Are you enjoying the time of EVE?というのもやはり珍奇な英語である。文法的には何も間違ってはいないが、こんな言い方はそもそもしない。Are you having a good time at The Time of EVE?の方が遥かにナチュラルだろう。

 

イヴの時間というカフェの名前に込められた意味をもっと追求して欲しかった。それともオリジナルのアニメ(全6話)では、そうした側面にもっと光が当たっているのだろうか。イヴと言えば、アダムとイヴであろう。男アダムの肋骨から作られた女イヴ。しかし、始原の男は土くれから生み出されたが、以降の人間は全て女から生まれた。イヴの時間というカフェが人間とアンドロイドの新たな関係の揺り籠になるのだという期待が、もう一つ盛り上がってこなかった。ナギはレイチェルなのか、ガラテアなのか。

 

総評

アニメ作品に、安易なアクションやロマンスを求めるライトなファンには不適であろう。本格SFファン向け作品とさえ言えるかもしれない。2010年に発表されたということは、構想はその数年前から原作者の頭の中では練られていたはず。RPAという言葉が、もはや概念ではなく実用一歩手前の技術として語られ始めた現代、ロボット、アンドロイド、そして人工知能とヒトとの関係が巨大な地殻変動を起こす、まさに今は前日(Eve)なのかもしれない。古さが全くない、逆に今こそ再発見され、再評価されるべき作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, SF, アニメ, 日本, 田中理恵, 監督:吉浦康裕, 福山潤, 配給会社:アスミックエースLeave a Comment on 『 イヴの時間 劇場版 』 -ロボットと人間の関係性をリアリスティックに描く-

『 ニセコイ 』 -私的2019年のクソ映画オブ・ザ・イヤー決定-

Posted on 2019年1月6日2019年12月21日 by cool-jupiter

ニセコイ 10点
2018年1月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 中島健人 
監督:河合勇人

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『 俺物語!! 』、『 チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話 』で評価を高め、『 兄に愛されすぎて困ってます 』でその評価をビミョーにした河合監督が、ついに本作で自身の評価を定めた。すなわちクソである、と。厳密には2018年の映画に分類されるべきなのだろうが、私的には年明けわずか1週間で、年間最低レベルと判断してもよさそうな酷い出来の映画を観てしまったと感じている。

 

あらすじ

一条楽(中島健人)はヤクザの組長の一人息子。桐崎千棘(中条あやみ)はNYのギャングのボスの一人娘。二人は、それぞれの組織の抗争を防止すべく、互いの親から偽の恋愛関係、すなわち「ニセコイ」を築くことを要求されてしまった。反目しあう二人の運命や、いかに・・・

 

ポジティブ・サイド

風呂と浜辺のシーンがそれなりに眼福か。あとは岸優太が妙な存在感を発揮していた。2018年は伊藤健太郎がブレイクしたが、2019年を岸優太のブレイク元年にできるか。

 

中島健人は『 黒崎くんの言いなりになんてならない 』の頃より、役者として、表現者として少しは成長しているような気がする。

 

ネガティブ・サイド

いくら原作が少年誌のラブコメ漫画だからといって、やって良いことと悪いことがある。神戸の高校の校門圧死事件を原作者も編集も脚本家も監督も、誰も知らなかったというのだろうか。閉まる校門に駆け込むのは論外であるし、生徒が駆け込んでくるのを一瞥すらせず、黙々と門扉を閉じようとする教師も最低である。よくこんな画作りができたものだと逆の意味で感心させられてしまう。もう一つ、どうしても許せなかったのは空港のシーン。DAIGO演じるキャラが銃を握るのだが、このご時世に空港という場所で銃火器を見せるのがどれほどのインパクトを持つ行為であるのかを、これまで原作者から本作監督に至るまで、誰一人として意識しなかったのだろうか。ラブコメのギャグだから、で済む問題ではない。時勢というものを、もっとちゃんと認識して物語を作ってもらいたい。漫画に嘘はつきものだが、映画とは、兎にも角にもリアリティが生命線なのだ。河合監督の猛省を要望したい。

 

映画の質的な面で言えば、時間や季節の移り変わりが感じ取れなかった。季節外れの転校生というキーワードがあるが、登場人物の服装、街の木々、日の高さ、総合的に考えて時節は春から初夏だろう。夏休み前でもあり、妥当な推測だと思うが、それがあれよあれよと言う間に小雪舞う冬に移行するのだから、ちょっと待てと言いたくもなる。時間や場所の変化を、ほんのちょっとしたショットで観る者に伝えるのが映画の基本にして究極の技術なのだが、そうした努力を一切拒否するのも珍しい。というか、そうしたショットをカットしてしまう作品は往々にしてクソ映画である。これは断言できる。

 

シーンとシーンの繋がりに一貫性を欠くものも多かった。その最たるものが、プールのシーンである。DAIGOのキャラが、濡れネズミ状態から文字通り一瞬にして髪、顔、服まで乾いてしまうのだ。おそらく劇中での時間の経過は1~2分であろう。なにをどうすれば、この短時間で水分が全て蒸発してくれるのか。撮影時点でも編集時点でも、誰も気付かなかったのか。気付いていたが、「まあ、ええか」状態だったのか。プール絡みで言えば、頭を下にした状態で自由落下する人間が、真下のプールに足から着水するのもおかしい。撮影→カット→撮影→カットの繰り返しを、編集という魔法でスムーズにつながって見えるようにするのが映画なのである。本作はそれができていないシーンがあまりにも多すぎる。絵コンテの段階から失敗していたとしか思えない。照明係もbad jobをいくつかやらかしている。というか、監督が悪い。とにかく光の角度、強さ、影の濃さ、その伸びる方向が、前後のシーンや、同一シーン内の他のオブジェクトと矛盾してはならないのだが、そうした光の使い方にも粗さが目立って仕方がない。よくこんなものを完成品として公開できたものだと逆の意味で感心してしまう。

 

ストーリーにも粗が目立つ。楽と千棘の双方が互いに対して淡い恋心を抱き始めるきっかけとなる描写が弱い。ヤクザやギャングの家に生まれてしまったせいで、普通ではないが普通、普通が普通ではないという環境に慣れてしまった2人ゆえに惹かれ合う、つまり同病相憐れむというわけだ。それは非常に説得力がある。残念なのは、楽の家の門にある木彫りの組看板が、あまりにも綺麗であることだ。つまり、ヤクザの組事務所、あるいは組長宅として長年そこにあったという存在感が皆無に感じらてしまうのだ。これで、楽の境遇の悲惨さを感じ取れというのは難しい。同じことは千棘にも当てはまる。転校初日に楽を教室内でぶっ飛ばすのはいいが、そこからかなりの時間を経過して、ある事柄からクラスメイトに薄気味悪く思われてしまうのだが、このタイムラグは何なのだ?これがあるせいで、「え?なんだかんだありつつも、それなりに上手くやっていたのでは?」という思われてしまう。そこでいきなり、不器用で友達作りが下手という属性が付与されても、説得力はゼロだ。他にも、重要キャラとしての小野寺の立て方も酷い。彼女の部屋の片隅に、あたり一面が黄色のお花畑の写真が飾ってあることが一瞬だけ見て取れるシーンや、または麦わら帽子でもいい。とにかく、原作未読者の視聴者に何らかのヒントを与えることをしないせいで、登場人物の想いの深さや方向が極めて把握しづらい。ナレーションしろと言っているわけではない。ビジュアルでストーリーテリングをしろと言っているのだ。できるはずだし、それをせずにこの展開を受け入れろと言われても、とうてい承服しがたい。それに橘の鍵のペンダントの話はどこへ行った?とにかく、思わせぶりな台詞を言わせたからには、それをきっちりと回収すべきだ。脚本段階で致命的なミスがあったとしか思えない。

 

総評

時間さえあれば、どこまでも酷評ができる作品である。しかし、これはあくまでJovianの見方で、人によっては本作を大いに楽しんだことも事実である。実際に、鑑賞後の劇場のトイレで高校生ぐらいと思しき男子連中は「あそこの千棘がな」や「あれ、漫画のあそこやろ?」などと楽しそうに感想を語り合っていたし、あまがさきキューズモールを出たところでも中学生ぐらいの女子二人が「ケンティー、やばいやばい!」とキャピキャピしていた。もしも貴方が中高生ぐらいの年齢もしくは精神年齢であれば、本作を堪能できる可能性は大いにある。しかしもしも貴方が成人で、それなりの映画ファンを自負するならば、本作は忌避の対象だ。貴重な時間とカネを捨てる必要はどこにもない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, F Rank, ラブ・コメディ, 中島健人, 中条あやみ, 日本, 監督:河合勇人, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ニセコイ 』 -私的2019年のクソ映画オブ・ザ・イヤー決定-

『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

Posted on 2019年1月4日2019年12月20日 by cool-jupiter

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 70点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:大泉洋 高畑充希 三浦春馬 萩原聖人
監督:前田哲

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日本にも障がい者を正面から捉える映画が増えてきた。それが正しいか、もしくは多くの人々に受け入れられるかどうかは別にして、障がいもまた個性であるという考え方が提唱されて久しい。『 ブレス しあわせの呼吸 』の、ある意味では正統的な続編と言えるのかもしれない。

 

あらすじ

時は1994年、鹿野靖明(大泉洋)は34歳。筋ジストロフィーのため、動かせるのは首より上の筋肉と手首より先ぐらい。そんな鹿野は、我がままの言いたい放題でありながらも、ボランティア達とは不思議な縁で結ばれていた。医大生の田中(三浦春馬)とそのガールフレンドの美咲(高畑充希)もひょんなことからボランティアのメンバーになってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

実在の人間をモデルにしているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、鹿野という人物が非常に生き生きと活写されている。『 聖の青春 』の村山聖もそうだったが、自分に残された命がそう長くはないと悟っている人間というのは、後悔をしたくないのだ。だからこそ、食べ物や雑誌のあれやこれやに非常に細かい注文をつけてくる。なぜなら、それが人生最後の食事や娯楽になるかもしれないから。劇中でも言及されるが、彼ら彼女らのわがままはは単なる駄々っ子のそれではない。生きるということを誰よりも真剣に捉えた上でのことなのだ。鹿野の言い放つ「医者の言う命って何なんだ?」という台詞は、劇中の時代から20年以上を経た今でも、非常に重い問いとして我々に圧し掛かってくる。その問いに対する答えはエンドクレジット中に示されるので、結末部分だけを見てさっさと劇場を後にするなどということは努々することなかれ。ここでは某韓国映画が持っていて、日本版リメイクが削ぎ落としてしまった、命に関する重要なメッセージが語られるのである。

 

それにしても『 パーフェクト・レボリューション 』や『 パーフェクト・ワールド 君といる奇跡 』など、日本もかつての無意識の差別意識がかなり薄まり、あらゆる人を社会的に包摂するにはどうすればよいのかを問うようになってきたようだ。作り出される映画の質は措くとしても、そのラインナップに可能性を感じる。『 博士と彼女のセオリー 』にあったような、ある意味での孤閨をかこつ女の寂しさと、ストレートに愛情をぶつけてくる男というのは、いとも容易くドラマを生む。高畑充希は『 アズミ・ハルコは行方不明 』で結構な尻軽を演じていた記憶があるが、今作でも体当たりの演技を披露してくれる。といっても脱いだりはしないからスケベ視聴者は期待すべからずだ。その代わりに、高畑の大ファンが聞いたら卒倒するような台詞も言ってくれるから、そこは期待していいだろう。しかし、赤ん坊の世話、高齢者介護においても、絶対に避けては通れないような問題をしっかりときっちりと描く本作の姿勢には非常に好感が持てる。

 

ブラックボランティアなる言葉がある。2020年の東京オリンピックでは、高度なスキルや経験を持つ人材数万人を手弁当で動員しようというプランがあるようだ。そのことの是非はここで判断すべきではないが、本作ではボランティア=無償の労働力とは捉えない。Volunteerという英語は、元はラテン語のvolo = I am wishingから来ている。鹿野は大げさでも何でもなく世界変革の夢を見ている。その夢に参画したいという者をボランティアとして募っているのだ。こうした個人が日本という国で確かに息をしていたということに驚かされるし、そうした人物を見事に銀幕に蘇らせた大泉洋に拍手。

 

ネガティブ・サイド

終盤のとあるシーンで、ドン引きさせられるシーンがある。人によってはぶん殴ってくるだろう。それも鹿野の人徳かもしれないし、もしかしたら映画化に際してのドラマチックな脚色かもしれない。しかし、個人的にはあの展開はないだろうと感じた。

 

田中の医学部生としての描写も弱い。体位交換のことを体交とボランティアが略して言うのに、気管切開のことを医大生の田中が気切(きせつ)ではなく、あくまで気管切開というのには違和感を覚えた。その他、様々な場面で田中に医者の卵らしさが見られてしかるべき場面があったのに、そのいずれでも田中は輝けなかった。それが事実だったと言ってしまえばそれまでだが、こういったところこそ脚色してナンボだろうと思う。映画とは一にかかってリアリティの追求なのだ。

 

最後に、音楽が重要なモチーフになる本作であるが、なぜジャズがフォーカスされなかったのか。鹿野が美咲につられて、あっさりとジャズからロックに宗旨替えしてしまうのは納得がいかなかった。ロックを魂の叫び、体制への反逆と定義するのならば、鹿野の生き方に合致しないこともない。しかし、ジャズは?『 ラ・ラ・ランド 』のセブが力説したように、ジャズはバンドのミュージシャンたちがその瞬間ごとに文脈を考慮しながら、新たに曲を書き、編曲し、そして演奏するのではなかったか。鹿野自身の来たし方はロックかもしれないが、ボランティアとの交流は間違いなくジャズだろう。ジャズの要素をもっともっと交えたシーン、ジャズ音楽そのものと協働するようなシーンが欲しかったと思うのは、決してない物ねだりではあるまい。

 

総評

これは素晴らしい作品である。高校生あたりの道徳の副教材に採用しても良さそうだ。障がい者を見る時、人はその相手に自分が障がいを負った時の姿を見ると言う。鹿野という人間が確かに生き、確かに死に、しかし今も人々の心に残っているのは何故か。それこそが生きるということであると本作は高らかに宣言する。ほんの少し性的な要素も描写されるが、聡明な中学生ぐらいなら逆にそれも勉強の糧にできるような良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 三浦春馬, 伝記, 大泉洋, 日本, 監督:前田哲, 萩原聖人, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

『 春待つ僕ら 』 -あまりにも薄っぺらいバスケと恋愛のコラボ-

Posted on 2018年12月26日2019年12月6日 by cool-jupiter

春待つ僕ら 40点
2018年12月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:土屋太鳳 北村匠海 小関裕太
監督:平川雄一朗

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巷間言われて久しいが、土屋太鳳は本当にもうそろそろ女子高生役は卒業すべきだ。せっかく『 累 かさね 』で一皮むけたところを見せながら、これでは元の木阿弥ではないか。彼女のハンドラー達は何をやっているのだろうか。また、今作も漫画を映画化するにあたって、漫画的な文法を取り入れている。映画と漫画は異なる媒体なのだから、世の映画監督たちはもっと原作者と突っ込んだ議論を行い、おおいに芸術論を戦わせればよい。原作者や原作ファンをリスペクトすることと、彼ら彼女らに阿ることは全くの別物なのだ。

 

あらすじ

春野美月(土屋太鳳)は引っ込み思案な女子。しかし、高校入学を機に自分を変えようと思い、周囲に溶け込もうと努力するも空回り。そんな時、バイト先のカフェで同じ高校のバスケ部の面々と知り合うことに。バスケ部と過ごすうちに確かな変化を実感する美月の前にしかし、幼馴染が現れて・・・

 

ポジティブ・サイド

どうしても題材として同じ競技を扱う『 走れ!T校バスケット部 』と比較せずにはいられない。バスケをプレーしているシーンに限っては、本作の圧勝である。T高の方は、あまりにも珍妙なプレーシーンが多かったし、何よりもストーリーとバスケの試合内容が噛み合っていなかったのが致命的だった。本作は、役者連中にかなりバスケを練習させたと見え、一連のプレーやシュートシーンに合成の類はほとんど無かったように見えた。これは大きな加点材料だ。特に北村匠海と磯村勇斗は意外にバスケの動きが様になっている。経験者なのだろうか。

 

また小関裕太も良い味を出すようになった。演技力には改善の余地があるが、何を観ても金太郎飴的な演技しかできないアイドルやなんちゃって役者が跳梁跋扈する日本映画界で、それなりに幅のある役を任せられる(それらを見事に演じ切っているかどうかは別にして)というのは、ポテンシャルが認められてのことだろう。本作でもかなりユニセックスな演技を披露してくれる。来年か再来年には、『 クローズ 』に出ていそうなヤンキー役をやってくれないだろうか。

 

ネガティブ・サイド

これでもかというぐらい欠点や弱点がある作品だが、それらを全て指摘することに意味は無い。なので、どうしてもこれだけは見逃せない、許せないという類のものに焦点を当てたい。

 

まず第一に、北村匠海のキャラ、永久に「寝たらなかなか目覚めない」などという属性付けは必要だったか。そんな『 SLAM DUNK 』の流川の二番煎じキャラに何の意味があるのだ?原作がそうなっているからといって安易にそれを踏襲し、そして肝心の映画ではその属性に何らかの意味があったのだと感じさせるシーンがゼロと来れば、監督に文句の一つや二つも言いたくなる。10巻以上の漫画の物語を2時間という尺に過不足なく収めるのは至難の業だ。それこそが脚本や監督の腕の見せ所のはずなのだが・・・ また同じシーンで美月が「起きて!!」と大声を出すシーンがあるが、これも必要だったか?引っ込み思案で内気な少女が、友情に触れることで変わり、成長し、仲間の応援のために心の底から大声を張り上げられるようになる、という余りにも分かりやすい展開のために、美月の大声はもっと後までとっておくべきではなかったか。といっても、トレイラーで件のシーンはしこたま強調されているので、今更そんな指摘をしても詮無いことではあるのだが。

 

バスケのプレーについては、それなりにリアリティのある絵を撮れていたものの、その他の描写が弱い。というよりも首を傾げざるを得ないものもある、というのが残念である。例えば、いくらアメリカ帰りのバスケの申し子とはいえ、シュート成功率90%はないだろう。NBAのトップ中のトップでもフリースロー成功率が90%を超えるのはイースタン、ウェスタン、両カンファレンス合わせても毎年10人にも満たないはずだ。それこそシャキール・オニールを日本の高校に連れて来てプレーさせでもしない限り、そんな数字は絶対に生まれない。漫画は漫画であるが、映画とは大きな嘘をつくために細部のリアリティに徹底的にこだわりぬかねばならないのである。

 

最後に、永久と亜哉の 1 on 1 のシーン。何度も倒され、顔に泥がついた永久のシャツがびっくりするぐらい真っ白なのはどういうことなのだろうか。また、「チャラくは無いな、皆マジでバスケやってるから」と豪語する部員たちのスポーツバッグが、夏を過ぎても新品同様にしか見えないのは何故なのか。運動部の連中がバッグを使いこめば、数カ月もすれば、あちらこちらに擦り傷や綻びが目立ってくるものだ。そうした、バスケに費やした時間を観る者に感じさせる小道具が一切出てこないのが最大の減点材料だ。平川監督はそれなりにキャリアがあるが、もう一度、映画監督の仕事とは作品世界を存立させるに足るリアリティを担保することであるということを勉強し直してほしい。

 

総評

40点なのか45点なのか悩んだが、総合的には『走れ!T校バスケット部』と同点か。バスケシーンでは本作の勝ち。バスケ以外のリアリティはT高の方が上。しかし、良作とも光るところはあるものの、欠点の方が大きく目立った。土屋や北村のよほどのファンでなければ、わざわざ劇場でチケット代を払ってまで観ることはない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, 北村匠海, 古関裕太, 土屋太鳳, 日本, 監督:平川雄一朗, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 春待つ僕ら 』 -あまりにも薄っぺらいバスケと恋愛のコラボ-

『 来る 』 -新たなジャパネスク・ホラーの珍品誕生-

Posted on 2018年12月19日2019年11月30日 by cool-jupiter

来る 35点
2018年12月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岡田准一 黒木華 小松菜奈 松たか子 妻夫木聡 柴田理恵
監督:中島哲也

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原作は小説『 ぼぎわんが、来る 』で、こちらはまあまあ面白い。『 リング 』の貞子より怖いと評す向きもあったが、恐怖を感じる度合いは人それぞれであろう。しかし、小説、そして映画としての怖さと面白さは『 リング 』の圧勝である。本作は映画化に際して原作の持つメッセージをかなり削ぎ落としてしまっている。そのことが残念ながら裏目に出た、残念な映画化作品である。

 

あらすじ

田原秀樹(妻夫木聡)は妻、香奈(黒木華)と幸せな結婚生活を送っていた。そして香奈が妊娠。秀樹は理想的な父親となるべく努力を始めるが、周囲では怪異が起こり始める。不安を覚えた秀樹は友人の伝手からジャーナリストの野崎(岡田准一)を紹介してもらい、そこから霊感の強い真琴(小松菜奈)を紹介してもらうも、事態は好転せず・・・

 

ポジティブ・サイド

本作の最大の見どころは2つ。1つは小松菜奈の露出である。美脚やへそを遠慮なく披露し、入浴シーンのおまけつき。『 恋は雨上がりのように 』でも、艶のある表情、そして姿態・・・ではなく肢体を見せてくれたが、有村架純の次にラブシーンを解禁してくれるのは、小松で決まりか。

 

もう1つは、黒木華のベッドシーン。これまでもいくつかラブシーンはあったが、今回は一味違う。といっても露出具合とかそういう話ではない。女性性ではなく、動物性を感じさせるような演技。理性ではなく本能の赴くままに抱き合う様はよりいっそう官能的だった。

 

と手放しで褒められるのはここまで。もちろん、妻夫木聡の高レベルで安定した演技力や、そのキャラクターに知らず自身を重ね合わせて見ることで慄然とさせられる男性映画ファンは多かろう。しかし、それが映画の面白さにつながっているかというとそうではない。それが惜しい。そうそう、柴田理恵も良い味を出している。はっきり言ってギャグとホラーの境目を頻繁に行ったり来たりする本作の中で最も象徴的なキャラにして、最も振れ幅が大きいキャラを演じ切ったのはお見事。彼女のシリアス演技だけで笑いながら震えてしまった。

 

ネガティブ・サイド

まず、原作の三部作構成および語り手=人称=視点の変更というアイデアを中途半端に取り込んだのが、そもそも間違いだった。取り入れるなら全て取り入れる。映画的に翻案するなら、すべて映画文法に従わせる。そのどちらかのポリシーを選んで、貫くべきであった。同じように、視点があちこちに移動する小説を原作とする映画に『 白ゆき姫殺人事件 』がある。こちらは原作のテイストを維持しながらも、Twitterのツイートを終盤に一挙に爆発させるという手法を取ることで、映画的なカタルシスを倍増させることに成功した。このように、何か新しいアイデアがあるのでなければ、原作にとことん忠実になるか、もしくは原作をとことん映画的に料理してしまうべきだ。中途半端は良くない。この批評は原作既読者ならばお分かり頂けよう。

 

秀樹のパートは妻夫木聡の卓越した演技力もあり、一見して理想的な夫そして父に透けて見える厭らしさ、あざとさ、狡猾さ、弱さ、狡さなどの負の要素が観る者に特にショックを与える。それは妻役を演じた黒木華にしても同じで、口角をゆっくりを上げながらニヤリと笑うその顔に震え上がった男性諸氏は多かっただろうと推測する。しかし、こうした裏のあるキャラたちが物語の序盤にあまりにも生き生きと描かれるためか、主役であるはずの岡田准一演じる野崎のキャラが全く立たない。もちろん、彼には彼なりのストーリー・アークがあるのだが、そのインパクトが非常に弱い。男が水子の霊に苛まされるというのは新しいと言えば新しいが、その恐怖をもっと効果的に描く方法はあったはずだ。例えば、あり得たはずの美しい家庭、そして家族のビジョンをほんの十数秒で良いので映すだけでも、その喪失感と絶望感、後悔、苦悩などが描けたのではなかったか。あるいは撮影はしたものの、尺や演出の関係でカットしてしまったのか。観客が対象に対して感じる恐怖というのは、観客がキャラと一体化してこそ効果的に感じられる。ある意味で世捨て人になってしまっている野崎ではなく、平凡な、しかしありふれた幸せを享受する野崎を想像させてこその恐怖ではなかろうか。

 

クライマックスはほとんどカオスである。壮大なセットを組み、日本中から除霊の腕っこきを集めるのだが、ギャグと見まがうシーンとシリアスな描写とが入り混じるのには、苦笑を禁じ得なかった。優れた原作小説を調理する方法が分からない中島監督が、自身の混乱と嗜好の分裂をそのまま映像で表現したのかと考えさせられるぐらい、統一感に欠けるクライマックスが展開される。これを怖いと思う人は、恐怖の閾値があまりにも低い。全体を通じてペースが悪く、ぼぎわんという怪異の存在に対する恐怖を登場人物たちが描き切れていない。そのため、それを見物する我々観客に恐怖がなかなか伝わらない。ホラー映画なのに、さっぱり怖くないのだ。これは致命的であろう。

 

総評

はっきり言ってキャスティングの無駄遣い。脚本段階のミスで、大物の俳優らが出てくるのが遅すぎるし、原作にあった“視点の変更”というアイデアも、視覚言語たる映画にうまく換骨奪胎できなかった点が、兎にも角にも悔やまれる。キャスティングに魅力を感じる人ほど、観終わった後に徒労感を抱くだろう。同工異曲の満足感=ホラーを求めるなら『 不安の種 』のオチョナンさんの方がお勧めである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ホラー, 妻夫木聡, 小松菜奈, 岡田准一, 日本, 松たか子, 監督:中島哲也, 配給会社:東宝, 黒木華Leave a Comment on 『 来る 』 -新たなジャパネスク・ホラーの珍品誕生-

『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

人魚の眠る家 65点
2018年11月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:篠原涼子 西島秀俊 坂口健太郎 稲垣来泉 斎藤汰鷹
監督:堤幸彦

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人魚と聞けば、たいていの人は八百比丘尼を思い浮かべるのではないか。その肉を食らえば、不老長寿が手に入るとされる伝説的な存在で、それゆえに本作のタイトルが示唆するものも生と死の境目をぼやけさせる不思議な力場となった家、そして家族の物語であるとぼんやりと理解していたが、予告編が次々と公開されていくのを観て、その認識を改め、なおかつ日本の映画制作および配給会社の宣伝の下手さに慨嘆させられるのであった。本作の予告編の最新版は、それさえ見れば本編の6割を予想できてしまうではないか。業界人たちにはもっと勉強をしてもらいたい。

 

あらすじ

薫子(篠原涼子)とその夫の和昌(西島秀俊)に、長女の瑞穂(稲垣来泉)がプールで溺れたとの連絡が入る。病院での治療の甲斐あって心臓は動いたが、脳には深刻なダメージがあり、瑞穂の意識は戻らない。脳死判定を受け、娘の臓器を移植のために供す決意を固めた両親の手はしかし、瑞穂の手が確かに動いたのを感じ取った。薫子は瑞穂は死んでいないと確信。在宅介護を決心する。和昌の部下の星野(坂口健太郎)の研究成果により、瑞穂の体を人工的に動かせるようになるも、そのことが薫子の愛と狂気を暴走させて・・・

 

ポジティブ・サイド

篠原涼子と吉田洋は属性が重複している。40代にして、その衰えぬ容色。自立した女性としての役柄が多いが、母親役もこなせる。慈愛に満ちた母親ではなく、狂気にも似た愛情を内包する母親を演じられるところが特にそうだ。優劣をつけられるものではないが、元々が役者ではなく歌手であることを考えれば、篠原も表現力という点ではど素人ではないのである。

 

本作の呈示するテーマは深い。単に脳死の意味や臓器移植の是非を扱うからではない。人間が人間を、生きているのか死んでいるのか判断する基準のゆらぎを描くからこそ深くなっている。たとえば冒頭で意識不明の状態に陥ってしまった瑞穂を見た時、和昌は「大きくなったなあ」という感想を漏らす。別居しているのだから、ある意味当然の感想である。一方で薫子にとっては瑞穂は現実にも心の中にもありありと存在する個人である。そのことは、全編を通して瑞穂の顔のどアップの回想シーンが薫子によってこれでもかと思い起こされることからも明らかである。つまり、和昌にとっては瑞穂は非常に肉体的・物理的な存在である一方で、薫子にとっての瑞穂は「瑞穂」という意識の容れ物なのだ。それゆえに、意識のない瑞穂の体を人工的に作れられた電気信号によって動かすことには抵抗を示さなかった和昌は、作られた笑顔には嫌悪感を催した。そこに意識の存在を読み取ってしまったからだ。しかし、薫子にとっては、プレゼントをもらえた瑞穂はきっとほほ笑むに違いないとの確信(=意識)から、瑞穂を笑顔にさせることに何の抵抗も抱かない。

 

これは墓参に譬えることもできるかもしれない。お墓参りでご先祖様に語りかけることはあるだろう。声に出してもいいし、心の中で語りかけるのでもよい。ただし、それは自分と相手(=死者)に特別な関係がある時だけに限られる。ここで言う特別な関係とは、相手の存在を自分の意識において再生できるような関係ということだ。と、ここまで書いてきて気がついた。原作者の東野圭吾は前野隆司の『 脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 』を下敷きにした、というのは言い過ぎかもしれないが、参考ぐらいにはしているのだろう。ものすごく端折って説明してしまえば、前野の説は「意識とは、意識が意識を意識した時に現れてくる意識である」ということだ。何を言っているのか分からないという人は、本書を買ってよむべし。何を言っているのか分かったという人は、J・P・サルトルの『存在と無』を読もう。

 

Back on topic. もしも公共の墓地などで赤の他人に「これ、うちの祖父ちゃんです。よければ挨拶してあげてやってください」などとお墓を指して他人に話しかける人がいれば、ちょっと怖いだろう。なぜなら、その人は自分の心の中に存在しないからだ。死が不気味であるかどうかは、理性と感情の境目で決まるようだ。和昌は瑞穂の脳に生死の境目を見出し、薫子は瑞穂の心に生死の境目を見出そうとする。肉体は脳の容れ物なのか心の容れ物なのか。それは個と個の繋がり、その在り様で決まるとしか言いようがない。しかし、本作品が描き出す世界では、薫子は非常に孤独である。その薫子の姿を自分と重ねられるか否か、そこで本作の評価が定まると言ってもよい。その意味では篠原涼子は実に大きな仕事を果たした。お見それしました。

 

後は、子役たちが誰もかれもが素晴らしい。子役の演技というのは、天性の素質もあるのだろうが、指導者の影響力も大きいということは、音楽や芸術、スポーツなどの他分野を観察に基づくまでもなく、言えることだろう。本作は撮影の現場に演技指導者が常駐していたという。『 万引き家族 』の上映後舞台あいさつで是枝監督は「子役にはその場で台本を読ませて演技してもらった」旨を語ってくれたが、今後は子どものインスピレーションを大事にする派と、徹底的に指導を叩き込むスタイルのどちらが主流になっていくのだろうか。そんなことも考えさせられた。

 

ネガティブ・サイド

西島秀俊の演技力の低さは何とかならないのだろうか。この人は基本的に一本調子の棒読みで、唯一上手く話せるじゃないかと感じさせてくれた出演作は珍品『 ゲノムハザード ある天才科学者の5日間 』での韓国語ぐらい。

 

坂口健太郎も『 ヒロイン失格 』と『 俺物語!! 』を観た時には、「とんでもない大根が出てきたな」と慨嘆させられたが、珍品『 ナラタージュ 』で評価をかなり上げた。しかし、そこから成長していない。声のボリュームの大小だけで感情を表現しきろうとするのには無理がある。型どおり以上の表情も研究した方が良い。

 

最後に物語の主たる舞台となる「人魚の眠る家」の庭にあふれるスタジオ内のセット感は、もう少し何とかならなかったのだろうか。不自然なまでの人工の光、とってつけたような鳥のさえずり、全く荒れていないのは適切な世話をしたからと言えるかもしれないが、全てが一様にそろった芝目など、作り物感が満載だった。創作物のリアリティは細部にこそ宿るのだから、こうした点にこそもっと注力をしてほしかった。

 

総評

この子役たちをあらぬ方向に連れて行ってしまわぬよう、親、保護者、ハンドラー達、さらにその周囲の人間たちは決して軽々に動かぬようにしてもらいたい。そして東野圭吾という名前だけで作品を忌避する傾向にあった自分自身にも喝を唱えたい。大人の鑑賞に堪える作品に仕上がっている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, 坂口健太郎, 日本, 監督:堤幸彦, 篠原涼子, 西島秀俊, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 人魚の眠る家 』 -お涙ちょうだいで終わらせてはならないテーマ-

『 グリンチ(2000) 』 -ジム・キャリーの本領発揮を堪能せよ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

グリンチ(2000) 65点
2018年11月23日 レンタルDVDいて鑑賞
出演:ジム・キャリー テイラー・モンセン クリスティーン・バランスキー
監督:ロン・ハワード

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1957年のDoctor Seussによる児童文学“How the Grinch Stole Christmas!”が1966年にアニメーションでテレビ映画化され、さらにそれが2000年に実写版として再製作されたのが本作である。今年(2018年)にはドイツを皮切りにユニバーサルとイルミネーションによってアニメ映画され、日本でも公開間近である。グリンチは元々キャラの名前だったが、1980年代には「クリスマス嫌い」「他人の楽しみを邪魔する嫌な奴」の意を持つ語彙として定着したらしい。Ngramのサーチもそれを示唆している。実に興味深い。

 

あらすじ

山奥の山奥のそのまた山奥のフーヴィル(フー村)ではフー達が暮らしていた。フーはクリスマスが大好きで、今年は期せずして千年紀。村は特に沸き立っていた。その村の外れの山に住むグリンチ(ジム・キャリー)。彼はクリスマスとフーを忌み嫌っていた。しかし、フーヴィルには心優しい少女シンディ・ルー(テイラー・モンセン)がいた。村人に嫌がらせを働いていたグリンチは、全くの偶然からシンディ・ルーを助けるのだが、そのことが彼女の心に与えた影響を、グリンチ自身は知る由もなかった・・・

 

ポジティブ・サイド

まず何と言っても、グリンチを演じるジム・キャリーの怪演を称賛せねばならない。『 マスク 』のスタンリー、『 バットマン フォーエヴァー 』のリドラー、『 ケーブルガイ 』のケーブルガイに並ぶ、渾身の怪演であると言える。つまり、不気味で、妖しく、気持ち悪いのである。これらはすべて褒め言葉である。もしも上記のいずれの作品も未鑑賞という方がいれば、是非観よう。表情から全身の動きまで、全てが人間離れしているというか、色々と批判されることも多いメソッド・アクティングの一つの到達点を堪能することができる。もちろん、本作のグリンチもメソッド・アクティングの一つの完成形である。

 

日本では最新『 グリンチ 』を指して「このあと、どんどんひねくれる」とキャッチコピーをつけているが、それはある意味で正しい。グリンチは生まれた時からグリンチだったわけではなく、とある出来事が原因でひねくれてしまったからだ。このあたりは複雑と言えば複雑、単純と言えば単純な筋立てなのだが、この物語世界にも憎むべき悪役が存在するということに、Jovianは何故かホッとしてしまった。まるで『 ショーシャンクの空に 』における刑務所所長こそが倒されるべき悪なのだと知った時のように。しかし、そこは元は児童文学。そうしたダークなテリトリーに踏み込むことは無く、きれいに着地をしてくれる。そうそう、どういうわけか本作には『 炎のランナー 』を見事にパロったシーンが存在する。しっかりと笑えて、ちょっとホロリとなる。素晴らしい。

 

最近はどこの映画館に行っても『 くるみ割り人形と秘密の王国 』のトレーラーばかりを見せられるが、そのCGの余りの多用のせいで目がチカチカさせられる。CGはどこまで行ってもCGで、更なる技術のブレイクスルーがあれば分からないが、それでもたいていの熱心な映画ファンならば、CGと実物の違いは秒で見分けられるに違いない。本作は製作・公開が2000年ということもあり、CGヘビーにならず、むしろ特殊メイクや着ぐるみ、スタジオ撮影の技術の粋を尽くして(というのは大袈裟すぎるかもしれないが)作られているため、非常にオーガニックな印象を受ける。それがまた新鮮で良い。最新の映画には新しいものの良さがあるし、古い(といっても十数年前に過ぎないが)映画にも良さがある。そんなことを思い起こさせてくれる良作である。

 

ネガティブ・サイド

フーヴィル住人の風見鶏っぷりは何とかならなかったのだろうか。確かに良い話ではあるのだが、グリンチのひねくれまくったパーソナリティの原因は、そもそもフーヴィルにあるのだ。どのような規模であれ、共同体には差別と排除の論理が働くものだが、ファンタジーの世界にまでそれを持ち込む必要はあったのだろうかと疑問に思ってしまった。

 

また、フーの寓話として、子どもはパラソルによって空から運ばれてくるというものがあるのは良いとして、「ハニー、僕たちの子どもだ。君の上司に似ているよ!」などというシーンや台詞も必要だったのだろうか。あまりにも現実世界の論理や秩序を空想世界に持ち込んでしまえば、そこには第二、第三、第四のグリンチが生まれてしまって全くおかしくないのだ。原題の The Grinch というのは、種族を指すために定冠詞 the を付されているわけではないだろう。これは『 オデッセイ 』の原題である The Martian と同じく、「まさに~~~な人」という意味のはずだ。特定個人を識別あるいは想起させるための the であるとJovianは解釈している。もしそうでないなら、シンディ・ルーが不憫だ。

 

総評

創作上の弱点は抱えているものの、創作上のメリットはそれらを上回っている。稀代の役者にしてパフォーマーであるジム・キャリーの円熟味溢れる演技と、オーガニックな世界で繰り広げられるおとぎ話を堪能したいという方は是非借りてくるか、配信で観るべし。アニメ版への良い予習にもなるだろう。

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大阪ステーションシネマのグリンチ

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JR大阪駅からすぐ北にあるグリンチ的なオブジェ

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, クリスティーン・バランスキー, ジム・キャリー, テイラー・モンセン, ファンタジー, 監督:ロン・ハワード, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 グリンチ(2000) 』 -ジム・キャリーの本領発揮を堪能せよ-

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  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

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