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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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月: 2019年9月

『 フリーソロ 』 -Ain’t no mountain high enough-

Posted on 2019年9月19日2020年4月11日 by cool-jupiter

フリーソロ 70点
2019年9月16日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アレックス・オノルド
監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ 監督:ジミー・チン

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ミハエル・シューマッハの容態が好転しつつあるとの報があった。ふとアイルトン・セナの事故死を思い出した。モータースポーツの危険性は改善はされたものの、依然残っている。マリンスポーツ然り、スカイスポーツ然り、ボクシングを始め格闘技は言うに及ばず。だが最も危険なのはmountaineering、特に安全用の装備や危惧を一切用いないフリーソロは自殺行為と呼んでも差し支えないだろう。なぜそのような危険な営為に従事する人々が存在するのか。本作はそこに一定の回答を提示する。

 

あらすじ

アレックス・オノルドは世界最高レベルのクライマー。彼には夢があった。ヨセミテ国立公園の巨岩エル・キャピタンをフリー・ソロで登攀すること。練習と鍛錬を積み重ねたアレックスは遂にフリー・ソロでエル・キャピタンに挑む・・・

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ポジティブ・サイド

NHKの『 体感!グレートネイチャー 』でヨセミテ特集を観たことがある。エル・キャピタンかどうかは定かではないが、寝袋に収まってミノムシの如く岩肌にぶら下がっているクライマーを見て、クレイジーな人間がいるものだ、と感じたことはよく覚えている。しかし、アレックス・オノルドはさらにクレイジーだ。安全装備なしで、この巨岩に挑むというのだから。

 

登山家とクライマーはおそらく別人種だろうなと思わされた。登山を趣味にするのは経営者や医者が多いと言われる。俗世のストレスなどから一時的に逃れたいのだろう。アレックス・オノルドのようなクライマーは天然生粋のアスリート型なのだろう。殴られると痛い、減量はきつい、報酬は人気が出ないと上がらないというボクシングのようなもので、「なぜ登るのか?」とアレックスに尋ねれば、“Because I can’t sing or dance.”と答える可能性は高そうである。アレックスはヴァンで暮らすベジタリアン。収入は成功した歯科医ほどあるが、家を買ったりすることには興味が無い。ガールフレンドはいるが、手を焼かされるというか、文字通り骨を折らされている。グーグルの創業者二人が受けたことで注目を集めたモンテッソーリ教育をアレックスも受けているのだが、もしもアレックスのような個人が日本にいれば、きっと京都大学へ行くのだろう。変人は京大では褒め言葉らしいから。Jovianは現役時代に京大に落ちたからな!

 

Back on track. ドローンをふんだんに使った本作のカメラワークは文字通りに息を飲む。また、エル・キャピタンに挑むアレックスには荘厳なBGMが似合っているが、そこにはお決まりの映画的演出が一切ない。一瞬足を踏み外した、指にかかったはずの岩に亀裂が入った。そんなクリシェは一切存在しない。そんなものを入れる余地はない。だからこそ、アレックスは気にする素振りも見せなかったが、観客側が肝をつぶすような瞬間が撮影されている。Jovianはこの瞬間にイスから飛び上がってしまった。ドキュメンタリーでしか出せない味であり迫力である。

 

ネガティブ・サイド

クライマーのなかでもフリー・ソロをやるのは1%未満ということで、それだけ難易度も危険度も高いことが分かる。もちろん一般人たる我々にもその危険性は直感的に分かるが、それをもっとエキスパートの視点から語ってもらいたかった。アレックスのメンター的存在、練習パートナー的存在のクライマーは登場するが、その他に登場するのは個人となたクライマーの写真が多かった。もっと現役のクライマーたちに、エル・キャピタンとはどのような存在か、それにフリー・ソロで挑むのは、ドン・キホーテよりもクレイジーなことであると語ってもらいたかった。

 

ドローンによる撮影技術は素晴らしかったが、アレックスの見ている世界を我々も見てみたかった。例えば『 クリード 炎の宿敵 』で、コーナーにくぎ付けにされたクリード視点でヴィクター・ドラゴのパンチを雨あられと浴びるシーンがあったが、あのような当事者の視界というものを体験してみたかった。アレックス本人のそれは無理にしても、他のクライマー(もちろんロープや安全器具を使った状態で)に小型カメラ付きの帽子なりヘルメットなりをかぶってもらって撮影することもできたのではないだろうか。

 

総評

非常に力強いドキュメンタリーである。ボルダリングがスポーツとして普及しつつある今、本家ロック・クライミングに興味のある人も増えてきているのではないだろうか。そうした人々が見ても楽しめるだろうし、普通の映画ファンが見ても充分にスリリングである。ドキュメンタリー好きならば、劇場の大画面で鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get a feel for someone/something

 

文字通り、「感触を得る」という意味である。劇中ではget a feel for the route = ルートの感触を得る、という具合に使われていた。

get a feel for the new car

get a feel for the atmosphere of the city

get a feel for what this computer is capable of

これも状況・文脈に応じて練習してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, アメリカ, アレックス・オノルド, ドキュメンタリー, 監督:エリザベス・チャイ・バサルヘリィ, 監督:ジミー・チン, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 フリーソロ 』 -Ain’t no mountain high enough-

『 The Fiction Over the Curtains 』追記とその他雑感

Posted on 2019年9月19日2020年8月29日 by cool-jupiter

『 The Fiction Over the Curtains 』の制作関係者の方と少しお話をさせて頂く僥倖を先日得ることができた。作品には様々な意図が込めらられているが、一番はフクシマであるということだった。それはあまりにも安易かつ安直だろうと思ったが、確かに得心できないこともない作りであった。Jovianが鑑賞直後に直感したのは、発展途上国への支援の問題だった。我々は物資を送ることにはそれほどやぶさかではない。現に、大型ショッピングモールなどでは、着古した衣類(下着除く)の寄付を定期的に募っていたりするではないか。そして結構な量の衣服が無造作に箱に放り込まれていたりするではないか。けれど、我々は現地に赴いて、自ら汗水垂らそうなどとは毫も思わない。そうした発展途上国に生きる人々も、しかし、スマホを持ち、極東の島国の住民を珍奇の対象として見ているかもしれないのだ。それがJovianが作品から得た解釈であった。「そういう見方も可能だし、そのように観てもらいたい意図もある」という有り難いお言葉を頂いたが、やはり芸術作品は送り手と意図と受け手の解釈にずれが生じるものなのだなと感じた次第である。

 

余談ではあるが、その関係者の方は映像芸術家の小泉明郎のファンで、その小泉明朗はJovianの大学の先輩にして同じ寮で時間を共有したdorm mateでもある。何たる奇縁!

 

その小泉が【 あいちトリエンナーレ2019 】の中止で、にわかに注目を浴びている。その小泉はFacebookの投稿で「作家にとって作品を観ないで批判されることが、なによりも腹立つことです。観てから批判されるのはいいですが、観ずにはナシです」、「アートとは、作品と個人が対峙する鑑賞体験があって初めて評価され、議論されるものという、前提が否定されてしまいます」と憤っている。何故か?【あいちトリエンナーレのあり方検証委員会】アンケート調査を実施しますというグロテスクな行政の介入ゆえだ。展示を見ていない人でも回答できてしまうことは大きな問題、というよりも、情報操作の余地を残していることからも、危険、有害とすら言える。Yahoo!ニュースのコメント欄すら内調によって操作・誘導されていることが『 新聞記者 』で示唆されていた。愛知県の実施するアンケートが操作・誘導されないという保証がどこにあるというのか。

 

芸術論については、Jovianが時々見ている映画批評YouTuberのChris Stuckmannの

youtu.be

を観て欲しい(ちなみに『 ミスター・ガラス 』のネタばれレビューなので注意。一応、リンクは動画の13分48秒時点に設定してある)。Stuckmannの台詞を一部、書き出して訳してみよう。

 

You don’t have to have permission to express yourself through an art form.(略)You never never never never take someone’s right to express themself through an art form away. Just don’t do it. (原文ママ)

 

芸術という形で自分自身を表現するのに許可など不要。芸術という形で自分自身を表現する権利を奪うことは絶対にあってはならない。それだけは勘弁してくれ。

(themselfに突っ込み無用。ネイティブは分かっていて敢えてこう言っている)

 

是枝裕和監督の『 万引き家族 』に関しても、外野からあれこれと批判の声が上がった。作品の中身について論じるならばよい。それには是枝氏も耳を傾けるだろう。だが、文化庁から補助金を得ていることを理由に作品の方向性云々にケチをつけるのは、成熟した民主主義社会の市民の取るべき行動ではない。税金が投入されているからという理由で、国にとってセンシティブな事柄を想起させる芸術作品を規制するべきではない。芸術や言論を封殺する社会の行きつく先は独裁だ。「国はお前たちに無料で教育を授けてやっただろう?」という理由で国家に精神を従属させ、肉体を国への奉仕に差し出してしまえば、人間が歴史を通じて希求してきた「自由」、「主体性」、「尊厳」などのフィクションはどうなってしまうのか。

 

現実世界でもネット空間でも良い。言葉を発しよう。人によっては、それが歌だったり、絵だったりするかもしれない。要は、誰かに強制された形ではなく、自発的な意志で自分を表現しようということだ。ブログというツールは、そうした可能性を追求するプラットフォームになりうるし、それは別にTwitterでもInstagramでも何でも良い。日本人はもっともっと語ることそのものに熱心になるべきだ。社畜リーマン英会話講師の雑感である。

Posted in 国内, 映画Leave a Comment on 『 The Fiction Over the Curtains 』追記とその他雑感

『 ブラインドスポッティング 』 -見えない自分のアイデンティティを巡って-

Posted on 2019年9月18日2020年4月11日 by cool-jupiter

ブラインドスポッティング 70点
2019年9月15日 大阪ス―ションシティシネマにて鑑賞
出演:ダビード・ディグス ラファエル・カザル
監督:カルロス・ロペス・エストラーダ

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オバマ前アメリカ大統領が選んだ favorite movies of 2018の一つであると鑑賞後に知った。Jovianがオバマ氏は大統領としては功罪相半ばする人物だと今でも考えている。彼の美点はトレイボン・マーティン射殺事件の下手人であるジマーマンへの無罪判決に怒りと悲しみの涙を流せることであり、彼の醜悪な点は『 華氏119 』ミシガン州フリントの水道水汚染に対して必要な手段を講じず、下手なパフォーマンスで逃げ切ろうとしたところだ。だが、オバマ氏の映画鑑賞眼には興味がある。本作はどうだろうか。

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以下、ネタバレに類する記述あり

 

あらすじ

黒人青年コリン(ダビード・ディグス)と白人青年マイルズ(ラファエル・カザル)は11歳の頃からの親友だった。過去のある事件の保護観察期間があと3日で終わろうという夜にマイルズは銃を購入。コリンはそれを煙たがる、その翌日の仕事帰り、コリンは警察官が逃げる黒人男性を射殺するところを目撃する。動揺するコリン。マイルズはそれを茶化す。徐々に、二人の間の盲点が浮かび上がってきて・・・

 

ポジティブ・サイド

オープニングからスクリーンが左右に二分割されている。コリンとマイルズ、二人が見ているオークランドの景色は、実は少し異なっているということが観客に「視覚的に」分かるように作られている。これは面白い試みである。

 

アメリカ社会の抱える問題は至って明白である。差別意識である。いや、意識ではなく無意識と言った方がふさわしいかもしれない。マイルズという男は親友が黒人、嫁さんも黒人という、一見すると人種差別とは無縁な男に映る。しかし、コリンの目撃した黒人射殺事件について、「4発撃たれた」という報道のコメントに「それがどうした? 14発撃ち込まれた奴もいたじゃないか!」と返す。数の問題ではないだろう。相手が抵抗しているわけでもないのに、警告や威嚇射撃もなく、複数回発砲することの是非を考えようとしないのか。こうしたところにコリンとマイルズの意識の違いが垣間見えるが、この無意識レベルで見えている、感じているものの違いが徐々に大きくなり、爆発していく展開は見事である。

 

コリンが射殺事件の現場を目撃してから抱く恐怖感は、ジェームズ・ボールドウィンが『 私はあなたのニグロではない 』で執拗に訴えていた、死への恐怖と全く同質のものである。『 ビールストリートの恋人たち 』でファニーが警察に理由なくしょっ引かれ、いつまでも自由を奪われたままでいるという物語を経験した者からすれば、コリンに共感することはいと容易い。想像力や感受性が豊かな方であれば、現在の日本の言論空間で在日外国人、なかんずく在日韓国人が感じる恐怖もこれと同質であると実感できれば、いかに日本が不自由で不寛容な国家になりつつあるのかを実感頂けよう。マイルズも言ってみれば『 パティ・ケイク$ 』に代表されるようなホワイト・トラッシュ=ゴミのような下層白人なのだ。それでも、彼は死の恐怖とは無縁に生きてくることができた。そこに埋めがたい人種の溝が存在する。しかし、決して埋めらない溝ではない。物語は、絶望ではなく希望をもって終わっていく。

 

それにしても、社会的な弱者やマイノリティを描くに際しては、普通の台詞や対話ではもう一つ足りない。『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』はそこをミュージカル風に仕立てたが、自らの内に眠るマグマを爆発させるための技法としては、本作のようなラップの方が遥かに良い。ラグタイム、ジャズ、ブルース、ロック、ラップ。これらは全て、黒人のソウルから生まれたものだからである。

 

それにしてもクライマックスの例の警察官の「殺すつもりはなかった」ってアホかいな。銃を向けて、1発で飽き足らず4発をぶち込んでおいて、殺すつもりはなかった。これがアメリカの現実なのである。これを我々は他山の石とせねばならない。

 

ネガティブ・サイド

いわゆるホワイト・トラッシュが無意識、無自覚に差別の構造に加担していたことを、もっと衝撃的に伝える演出が欲しかった。冒頭でマイルズがveggieなハンバーガーを「喰ってられるか」と吐き出すが、その後に店員にイチャモンをつけるシーンで、軽いラップ調で相手を罵ってもよかったのではないだろうか。そうすることで、黒人になり切れない白人を描くこともできるし、その後の金持ち白人のパーティーでみじめな思いをさせられるシーンが、よりhopelessでhelplessに描くことができたと思う。客の立場にある白人が、店員である白人を罵りながら、IT長者の主催するパーティーで黒人とケンカになってしまうというプロットは斬新で面白い。そこで親友で黒人のコリンが自分に加勢してくれなかったことで、マイルズは二重の意味で裏切られたように感じる。その部分の苦悩がもっと深まるような演出がほしかった。

 

コリンとマイルズの関係についても、単なる友情だけではなく、仕事上のプロフェッショナリズ、例えば『 ブラック・クランズマン 』におけるストールワースとジマーマンのような奇妙なパートナーシップが描かれていれば、二人の間のギクシャクした空気が、希望と共に回復していくところがより説得力と迫真性をもって感じられたはずだ。そのあたりがエストラーダ監督の課題なのかもしれない。

 

総評

100分以内でまとまったコンパクトな映画で、それでいてメリハリもしっかりついている。プロットはややpredictableだが、クライマックスのサスペンスは息をするのも忘れるほどの迫力がある。本作が究極的に問うのは、人間とは何かということである。この問いに正しく答えるのは難しいだろう。ただ、我々は正解を出すことはできなくとも、何が誤答であるかは即座に判断できるはずだ。本作を通じて、意識の盲点を意識するようにしてみて頂きたい。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Chill out!

 

チルド・フードなどでお馴染みchillである。意味は主に二つ。一つはcalm down = 落ち着け、の意である。もう一つは、hang out = 何もしない、遊ぶ、の意味である。文脈や状況によって使い分けたり、解釈を変えてみよう。Chillだけでも「落ち着け」、「静かにしろ」の意味で使うことも多い。ジョン・シナはWWEでプロレスをやっていた頃は、よく“Chill, chill, chill”と観客に言っていた。

 

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Posted in 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ダビード・ディグス, ラファエル・カザル, 監督:カルロス・ロペス・エストラーダ, 配給会社:REGENTSLeave a Comment on 『 ブラインドスポッティング 』 -見えない自分のアイデンティティを巡って-

『 プライベート・ウォー 』 -ジャーナリズムの極北と個の強さ-

Posted on 2019年9月17日2020年8月29日 by cool-jupiter

プライベート・ウォー 80点
2019年9月15日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ロザムンド・パイク
監督:マシュー・ハイネマン

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これはヒューマンドラマの皮をかぶったホラー映画である。劇場で鑑賞後に即座にそのように感じた。ホラー映画における恐怖は、それがあまりにも理不尽だからこそ恐怖を感じるのだ。ということは、市民と軍人の別なく殺戮行為が横行する戦地のドラマはホラーであるとしか言いようがない。もう一度言うが、これはホラー映画である。

 

あらすじ

メリー・コルビン(ロザムンド・パイク)は戦場ジャーナリスト。スリランカでは爆撃に遭い、左目を失明してしまったが、それでも彼女は戦地の取材に赴くのを止めない。PTSDに悩まされ、上司からはストップをかけられるが、それでも彼女は止まらない。そして、ついに彼女は政府軍による空爆の続くシリアのホムズに足を踏み入れる・・・

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ポジティブ・サイド

日本でも今年『 新聞記者 』が公開され、大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。その他、映画大国アメリカに目を移せば、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』や『 記者たち 衝撃と畏怖の真実 』など、ジャーナリストたちの気概と奮闘に焦点を当てた作品の生産において、日本よりも遥かに先を行っていることが分かる。そこに本作である。『 ダンケルク 』や『 ハクソー・リッジ 』のような“戦地”を舞台に、スーパーマンのような兵士ではなく、私生活が滅茶苦茶で規律違反の常習者であるジャーナリストが克己奮励する様には、どうしたって胸を打たれずにはいられない。

 

このメリー・コルビン記者は、常に戦場の最前線で、普通なら面会できないような人物に次々に接触する。そしてものすのは名もなき一般人の悲嘆、怨嗟、苦悩の声を届ける記事なのである。ここに見出されるべきは、平和な国からやってきたジャーナリストの仕事ぶりではなく、一切の虚飾を取り払った究極の個人として行動する一人の人間の生き様である。事実、コルビンは上司の連絡も無視するし、会社が保険に別の記者を送り込んでくるという判断に激怒するし、アメリカ軍が従軍記者に求めるルールすらも呵々と笑い飛ばす。そして信じられない勇気と大胆さ、機転によって危地を脱していく。特にイラクの砂漠のど真ん中のシーンは国や状況は全く異なるが『 ボーダーライン 』で、主人公舞台がメキシコ国境を車で超える時のような緊迫感に満ちていた。中盤以降は、迫撃砲や爆弾の着弾音がストーリーの基調音を形作って、観る者の不安と恐怖を掻き立てる。血と泥と煙と埃がスクリーンを覆い、我々はむせ返るようなにおいすら嗅ぎ取ってしまう。繰り返すが、本作はホラー映画でもあるのだ。爆撃機やミサイル発射台などは一切その姿を見せず、ただいきなり命が奪われていく。これは怪物や怪異の正体が全く分からないままに、ただただ不条理に命が奪われていくホラー映画の文法と共通するものである。

 

なぜこのような危険な場所に好き好んで赴くのか。それはコルビンの本能の為せる業なのかもしれない。漫画『 エリア88 』でもミッキーやシンは戦場での生の実感を平和の内に見出せなかった。コルビンも同じである。平和な世界では、彼女は酒に溺れてしまう。まるで常習的にDV被害に遭っている妻が、暴力夫のところに舞い戻る、または似たような暴力男と再婚するかのように、彼女は戦地に舞い戻る。ここまで来ると後天的な帰巣本能なのだろう。戦争・紛争の理不尽さを紙面で糾弾するのではなく、権力者に面と向かって指摘する。その場で逮捕拘束されて、処刑されてもおかしくないはずだ。それをコルビンはやる。彼女が伝えるのは、戦地で生きて死んでいく、何の変哲もない人々のことである。養老孟司と宮崎駿の対談本『 虫眼とアニ眼 』でも、両者は「我々は人類のことを考え過ぎている」と喝破しているが、コルビンは人類ではなく個々人を見、話し、書いた。個の強さが必要と叫ばれる現代において、彼女の生き方は模倣や追随の対象には決してならないが、大いなるインスピレーションの源泉にはなるだろう。

 

ネガティブ・サイド

同じような戦場ジャーナリストたちの描写がもう少し必要だったと思う。例えば、Jovianの先輩で戦地・紛争地取材に携わった方がおられるが、「オレ、もう花火大会行けないよ。あのヒュ~っていう音が怖いもん」と真面目な顔でおっしゃるのだ。戦地での極限的な恐怖の経験が、平和な社会の些細とも思える事柄によって呼び覚まされるのかという描写が欲しかった。が、これはクラスター爆弾事件を起こしてしまうような、極限まで平和な国に生きている者の出過ぎた要求か。

 

Wikipediaや各種英語のサイトを見回ってみたが、コルビンという無二の記者は、とんでもないモテ女にして、夜の武勇伝から、実際に戦地での英雄的行動の数々を含めて、personal anecdoteに事欠かない人物だったことは間違いないらしい。このような“事実は小説よりも奇なり”を地で行く人物像の描写がほんの少し弱かったように思う。ほんの一言二言でよいのだ。スター・ウォーズでハン・ソロがほんの少しだけ言及したケッセル・ランや、フィンが「トリリアの虐殺を知らないのか?」と言ったような、ちょっとした印象的な固有名詞を聞かせてもらえれば、あとはこちらが勝手に検索できる。そして、コルビンのレジェンドをビジュアルを以って脳内で再生できるようになるのである。

 

あとは、映画そのもののマイナスではないが、字幕で「鑑」であるべき箇所が「鏡」になっていた。翻訳者および構成担当者は注意されたし。

 

総評

何度でも書くが、本作はホラー映画である。しかし、幽霊やチェーンソーを持った殺人鬼が出てくるわけではない。何か大きな力によって意味も分からずに人が死んでいく、そのことに義憤を感じた硬骨のジャーナリストの後半生を追ったヒューマンドラマでもある。領土を取り返すには戦争をするしかない、などという痴人か愚人か狂人にしかできない発言を国会議員が堂々と行い、それでいてお咎めなしという日本の平和は確かに享受すべきで、維持していくべきものだ。しかし、その平和が失われるとはどういうことかについて我々は余りにも無自覚すぎる。メリー・コルビンという記者の生き様を、今ほどこの目に焼き付けるにふさわしい時期は無いのではないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You bet.

 

「もちろんだよ」、「オーケー」、「だな」のような肯定や確信の意味を伝える時、そして“Thank you”の返事をする時にさらっとこう言えるようになれば、その人は英語学習の中級者である。本作ではさらにカジュアル度の高い“No shit” という表現も使われている。こちらは「馬鹿言ってんじゃねー、当たり前だろうが」のようなニュアンスである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, イギリス, ヒューマンドラマ, ホラー, ロザムンド・パイク, 監督:マシュー・ハイネマン, 配給会社:ポニーキャニオンLeave a Comment on 『 プライベート・ウォー 』 -ジャーナリズムの極北と個の強さ-

『 マトリックス レボリューションズ 』 -Dawn of humanity-

Posted on 2019年9月16日 by cool-jupiter

マトリックス レボリューションズ 75点
2019年9月10日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:キアヌ・リーブス ローレンス・フィッシュバーン ヒューゴ・ウィービング
監督:アンディ・ウォシャウスキー 監督:ラリー・ウォシャウスキー

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シリーズの完結作・・・だったはずだが、第4作の製作が決定したとの報が。インディ・ジョーンズになってしまうのでは、との懸念があるが、評価はこの目で確かめてから下したいと思う。

 

あらすじ

マトリックスに接続することなくマトリックスに侵入したネオ(キアヌ・リーブス)。現実世界とマトリックスの中間にあたる謎の空間に幽閉されていたが、モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)らによって救出される。ザイオンにはセンティネル兵団が迫っている。状況を変えるためネオは一人、マシン・シティーを目指すが・・・

 

ポジティブ・サイド

ナイオビの船が狭い空間を滅茶苦茶な操艦技術で通り抜けていく様は爽快の一言。元ネタは『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』のデス・スター内部への侵入と脱出シークエンスだと思われるが、これは純粋なオマージュとして受け取ろうではないか。同じように狭いところを飛ぶというコンセプトは、ゲームの『 エースコンバット 』シリーズにも受け継がれているし、他にも継承者は探せばもっともっとあるはずだ。

 

また、マトリックスからプログラムが現実世界に位相を移してくるというアイデアも素晴らしい。小説『 クリスタルサイレンス 』でも主人公たる透明人間が同じようなことをしていたが、“ウェットウェア”というアイデアは、今後確実に中国かロシア、またはアメリカが開発を目指すことになるだろう。素晴らしい着想である。

 

マシン・シティーは全てCGではあるが、どこかH・R・ギーガー的な雰囲気を帯びていたのが印象的だ。そのフィールドを闊歩する巨大なマシンたちは、漫画および映画の『 BLAME! 』の建設者のようである。というか、やはりこれもオマージュと見て良いのだろう。そう判断させてもらう。Jovianはこういうオマージュは大好物であり、大歓迎する。

 

初見では???だったエンディングにも一定の意味を見出すことができた。スミスの言う、“The purpose of life is to end.”へのアンチテーゼなのだろう。生命の目的とは、「続く」ということ、もしくは「始まる」ということを強く示唆しているように思えてならない。悪性腫瘍の如く増殖したスミスは、実際にはウィルスに近い存在だ。他の生物の細胞分裂の機序にただ乗りすることで増えるのがウィルスであるが、ネオはそのウィルスを見事に駆逐した。生きとし生けるものは、自らの生を自らで背負わねばならない。生きていくことそのものを目的にしなければならない。エンディングはそのように観る者に語りかけているように感じられた。ウォシャウスキー兄弟は、おそらくこうしたメッセージを発したわけではないだろう。しかし、受け手が自分なりに答えを受け取ることができる映画というのは、そう多くない。

 

ネガティブ・サイド

SFアクションの世界で、バトルが全て肉弾戦というのも、それはそれでありだろう。だがいやしくもSFであるのなら、そこには武器・兵器をしっかりと使いこなしてほしい。『 スター・ウォーズ 』が唯一無二の名作なのは、SF的な世界(正しくはおとぎ話、昔話の世界)にチャンバラと持ちこんだことが大きい。もちろん、ブラスターによる撃ち合いは西部劇のアナロジーである。だが、戦闘機によるドッグファイトやデス・スターやスター・キラーといった超絶トンデモ兵器の存在によって、すべてのバランスが奇跡的に整っている。それは本作も同じで、ネオとスミスのバトルとザイオンとセンティネル兵団の戦いは、奇妙なパラレリズムを成している。問題は、やはりそのバランスだ。マトリックスという仮想現実空間でのバトルが少なすぎる。そのバトルも漫画『 ドラゴンボールZ 』の影響を受けていることがありありと分かってしまう、少々残念なもの。前作でアイデアが枯渇してしまっているのだろうか。

 

ミフネ隊長率いる部隊は、そのまんま『 エイリアン2 』のパワーローダー。シリーズを通じて様々なガジェットが過去の偉大な作品へのオマージュになっていることが伺えたが、これはあまりにも露骨だった。だが、本シリーズのセンティネルは『オール・ユー・ニード・イズ・キル 』のギタイのモデルとして採用されたようだ。インスパイアの連鎖は続いているのだから、これは減点材料ではないのかもしれない。

 

総評

マトリックスと人類の奇妙な共存および敵対関係の円環が閉じたと感じられる、完結作にふさわしい幕切れである。が、大いなる疑問も残る。救世主たるネオはどうなった?培養人間たちの今後は?プログラムやマシンの見出す目的とは?本作の本当の評価が定まるのは、まだ見ぬ続編のリリース後になるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

This is it.

 

単純明快な表現だが、訳すとなると難しい。文脈に応じて意味が変わるからだ。This =現在の状況、またはこれから起こること、it = 話者のイメージしていること、と理解しよう。そうすれば、「これで終わりだ」、「遂に始まったぞ」など、コンテキストに応じて意味を解釈できるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, SFアクション, アメリカ, キアヌ・リーブス, ヒューゴ・ウィービング, ローレンス・フィッシュバーン, 監督:アンディ・ウォシャウスキー, 監督:ラリー・ウォシャウスキー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 マトリックス レボリューションズ 』 -Dawn of humanity-

『 マトリックス リローデッド 』 -前作からはパワーダウン-

Posted on 2019年9月15日 by cool-jupiter

マトリックス リローデッド 70点
2019年9月9日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:キアヌ・リーブス ローレンス・フィッシュバーン ヒューゴ・ウィービング
監督:アンディ・ウォシャウスキー 監督:ラリー・ウォシャウスキー

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『 マトリックス 』は文句なしの大傑作だったが、続編たる本作はペーシングに少し問題を残す。前半は完全なるアクション映画、後半は完全なるSFミステリ。このあたりの作品のトーンの統一が為されていれば、シリーズ三部作のクオリティは『 スター・ウォーズ 』や『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』に迫っていたかもしれない。

 

あらすじ

救世主として覚醒したネオ(キアヌ・リーブス)は、モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)らと共にマシンとの闘いに身を投じていた。だが、マシン側はザイオンを壊滅させんと25万ものセンティネルを送り込んできた。マシンの侵攻を止めるには、「ソース」にネオが出向くしかない。「ソース」にたどり着く鍵、キー・メーカーを探し出すため、ネオはマトリックスに入っていく・・・

 

ポジティブ・サイド

高速道路のアクションはクレイジーの一言に尽きる。ネオのスーパーマンごっこもクレイジーだし、大量のエージェント・スミス相手の無双もクレイジーだ。特に、金属の棒でスミスをぶっ叩き、薙ぎ払っていくのは、PS2ゲームの『 戦国無双2 』のオープニング・デモを思わせる。というよりも、KOEIは本作をヒントに無双アクションを考えたのではないかとさえ思えてくる。極端な話、頭を空っぽにしても前半は視覚的に存分に楽しめる。

 

また、このシリーズで最も際立ったキャラクターはエージェント・スミスを演じるヒューゴ・ウィービングで間違いない。前作では3人のうちのリーダー格という程度だったが、今作では最も危険なエージェントとして覚醒。その風貌、サングラス、スーツ、口調、特徴的なレジスター(=使用言語領域)と相俟って、完璧なキャスティングであると言える。サングラスとスーツがこれほど似合うキャラクターは、ブルース・ブラザーズを除いてはエージェント・スミスだけだろう。

 

ザイオンという都市もディストピアな感じを上手に醸し出していている。ハイテクなメカを使用する軍事体制と、古代ギリシャ・ローマ的な原始的な政治体制の共存は、人類の後退を確かに思わせる。そんな中でも普遍的な家族愛や男女の愛憎入り乱れる人間関係は、人間の人間らしさを思わせると同時に、人間とマシーン、人間とプログラムとの間の境目を曖昧模糊としたものにしている。メロビンジアンとその愛人の関係は、人間のそれと何ら遜色がない。その不思議な感覚を受け入れられる世界を構築したウォシャウスキー兄弟の卓越した想像力と構想力は、現代においても評価を下げることは全くない。むしろ更に評価を上げている。なぜなら、現実の世界においてシンギュラリティ=技術的特異点が到来することがますます現実味を帯びて予感されているからだ。

 

本作の最もスリリングな瞬間は、ネオとアーキテクトの対話であろう。新約聖書の使徒行伝か、それとも何らかの手紙の記述に、「イエスという奴が出てきたらしい。革命の指導者になれる器だそうだ」「前にもそういう奴がいたが、結局は駄目だった。今回もしっかり様子を見よう」という会話が交わされる箇所があった。マトリックス世界は、マシンをローマ軍、ザイオン=シオン=イスラエル=パレスチナ(この等式が乱暴であることは理解しているつもりである)という過去の歴史の模倣、パロディであると見ることもでいるだろう。そもそもトリニティからして三位一体=神=精霊=イエスの意味である。何を言っているのか分からないという向きには『 ジーザス・クライスト=スーパースター 』を鑑賞してみてほしい。

 

ネガティブ・サイド

トリニティとネオのラブシーンは果たして必要か?いや、生々しいベッドシーンも、マトリックスという仮想現実との対比でリアリティを演出したいという意図があってのことなら、理解できる。また、マシンとの戦争という命の危機にあって、生存本能が極限にまで高まっているからという説明も許容可能だ。しかし、サイケデリックなラブシーンやダンスシーンというのは、個人差もあるだろうが、マトリックス世界にはそぐわないように感じた。

 

また、前作『 マトリックス 』ではそれほど目立たなかったものの、本作ではモーフィアスのネブカドネザル号の内部のコクピットシーンが、スター・ウォーズのミレニアム・ファルコン号のそれと酷似していると感じられたり、あるいは白スーツのエージェントが『 ゴーストバスターズ 』を彷彿させたりした。もちろん、前作も様々な映画の換骨奪胎ではあるのだが、それらの残滓や痕跡をほとんど感じさせないパワーがあった。アクションはパワーアップしたが、オリジナリティ溢れる物語の、そして映画の技法のパワーが本作には少々不足していた。その点が大いに不満である。

 

総評

革命的な面白さだった第一作には及ばない。しかし、クオリティの高さは十分に保っているし、二十年近い歳月を経てもアクションやSF的な要素に古さを感じさせないことは、それだけでも名作の証である。『 エイリアン2 』は『 エイリアン 』を未鑑賞でも楽しめてしまうが、本作はBTTFの1、2と同じく、一作目の鑑賞が必須である。ゆめゆめ本作から鑑賞する愚を犯すことなかれ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

So far, so good.

 

預言者がネオの台詞を聞いてこのように言う。「ここまでのところは順調だ」のような意味である。

“How’s the project going?” / “So far, so good.”

などのように使う。機会があれば、使ってみよう。フレーズは正しいシチュエーションとセットで使うことで身に着く。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, SFアクション, アメリカ, キアヌ・リーブス, ヒューゴ・ウィービング, ローレンス・フィッシュバーン, 監督:アンディ・ウォシャウスキー, 監督:ラリー・ウォシャウスキー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 マトリックス リローデッド 』 -前作からはパワーダウン-

『 ヒンディー・ミディアム 』 -インド版パパママお受験奮闘記-

Posted on 2019年9月13日2020年4月11日 by cool-jupiter

ヒンディー・ミディアム 70点
2019年9月8日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:イルファン・カーン サバー・カマル ティロタマ・ショーム
監督:サケート・チョードリー

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日本でも一頃、お受験をテーマにしたテレビドラマが流行していた。日本でも受験の低年齢化が進んだが、結局は学力レベルの二極化を推し進めてしまっただけのように感じる。だが、インドという国に根強く残る格差は、日本のそれとの比ではない。だからこそ、インドは自国の問題点を映画にして世界に発信するのだろう。

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あらすじ

デリーで生地屋を営むラージ(イルファン・カーン)とその妻ミータ(サバー・カマル)は娘に最高の教育を与えたいと思い、進学先を選ぼうとする。しかし、学校によっては親の学歴や住所までが合否の判断材料になると分かり、家族は高級住宅地に引っ越すも、受験結果は全滅。しかし、貧困層救済のための受験枠があることが分かり、彼らは貧民街へと引っ越すが・・・

 

ポジティブ・サイド

よく言われることであるが、小さな子どもほど有望かつ確実な投資先は存在しない。そして、その投資とは教育に他ならない。それはスポーツかもしれないし、音楽や芸術かもしれないし、学業かもしれない。いずれの分野に投資するにしても、その投資効率を最大化する為には、できるだけ早い段階で教育を始めることである。この場合、子ども自身の嗜好や適性を考慮すべきかどうかは、タイガー・マザーという言葉がアメリカで聞かれるようになって以来、常に論争の的となっている。

 

インドでも事情は似たり寄ったりのようである。ただし、急激な発展を遂げている最中とはいえ、その発展の波に乗れない、あるいは乗せてもらえない地域や集団も存在する。そうした特定の弱者やマイノリティーへの配慮が存在するところ、そして、裕福な家庭の子女がそうした制度を悪用としようとするところ、さらに、そうして入学した学校の校長がとんでもない人物であるところに、本作の見どころがある。コメディでありながら、刺すべきところが鋭く刺し、抉るべきところは深く抉る。

 

イルファン・カーンは『 ジュラシック・ワールド 』では真面目そうなビジネスマンだったが、元々はコメディ畑の人なのかな。嫁さんの尻に敷かれっぱなしの姿に、自分を見出す男性観客は多いだろう。そして、最後に見せる雄姿にエンパワーされる男性諸賢もきっと数多くいることだろう。

 

ラージの妻を演じたミータ役のサバー・カマルは初めて見たが、笑ってしまうほどにchew up the sceneryな役者さんである。パキスタン人とのことだが、『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』で描かれていたように、インドとパキスタンは政治的緊張をはらみながらも、文化交流は絶やしていないようである。どこかの島国と半島は両国の関係を見習うべきであろう。

 

『 あなたの名前を呼べたなら 』のティロタマ・ショームも教育コンサル役で良い味を出している。鼻持ちならない感じをギリギリで抑えつけているようで、主演を張った前作とはまるで別人。役者というのはこうでなければ。

 

貧民窟での迫害と交流、日雇い労働現場の劣悪な就業環境と冷徹なビジネスの論理、教育の崇高さと学歴社会の邪悪さ、そうした社会問題を全て包括した笑えないようで笑えてしまうコメディである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のラージとミータの馴れ初めのシーンは必要だっただろうか。美しい歌の調べに乗って、二人の距離が縮まっていくのは良いが、それらのシーンが主題=お受験とのつながりを欠いているように感じた。このシークエンスはバッサリとカットしてしまうか、そうでなければ10分ほどを費やして、二人の学校生活やインド社会全般における受験戦争の模様などを映像で語るべきだった。二人の若い頃の関係がもう少し丹念に描かれていれば、つまり、ラージがどれくらいミータに惚れこんでいるのかを観る側にもっと共感させることができていれば、ラストのラージの告白(二重の意味で!)がもっとドラマチックに、そしてロマンチックになっただろうと思えてならない。

 

グラマー校の校長を演じたアムリター・シンの迫力と圧力が、何故かもう一つ伝わってこなかった。うちの卒業生は云々の脅し文句が、『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』のトラスク校長と丸かぶりしているからだろうか。

 

これは日本の広報担当を責めるべきかもしれないが、「英語が話せないなんて!」というキャッチフレーズをあまりにも大きく目立たせ過ぎだ。愛娘を私立にやるか公立にやるかというテーマの裏には、英語の運用能力ではなく愛情があるのである。教育とは科目や学歴ではなく、親や保護者の愛情が形を変えたものなのだ。教育が目指すべきは能力の獲得以上に、人間性の向上なのだ。英語云々を大々的に押し出すのは皮相的である。

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総評

本作もインド社会の発展と矛盾を間近に見ることができて、非常に興味深い。また、そこに自国の事情や自分自身の家族を重ね合わせてみることで、様々な反省作用も生まれてくるだろう。減点材料にしたが、英語は確かに重要な技能だ。入試改革で、英語の民間試験の導入については大揉めに揉めているが、日本も遅かれ早かれ、英語の運用能力は自動車の運転免許のように、必須ではないが持っていないことで「え?持ってないの?」と言われるような一種のコモディティになるだろう。ピアぐらいの年齢の子を持つ親世代の日本人こそ観るべき作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

The customer is a god, but a wife is a goddess.

 

ラージの台詞である。「お客様は神様だが、妻は女神様なんだ」のような字幕だった気がする。イスラム以外のインドの宗教は基本的に多神教なので、冠詞のaを上ではつけている。英語の正式な慣用表現では、“The customer is always right.”と言う。機会があれば、これも使ってみよう。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イルファン・カーン, インド, カバー・サマル, コメディ, ティロタマ・ショーム, 監督:サケート・チョードリー, 配給会社:カラーバード, 配給会社:フィルムランドLeave a Comment on 『 ヒンディー・ミディアム 』 -インド版パパママお受験奮闘記-

『 マトリックス 』 -SFアクションの新境地を切り拓いた記念碑的傑作-

Posted on 2019年9月12日 by cool-jupiter

マトリックス 90点
2019年9月7日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:キアヌ・リーブス ローレンス・フィッシュバーン ヒューゴ・ウィービング
監督:アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー

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あれから20年か。当時、Jovianは大学2年生の夏休みがちょうど終わった頃だった。確か新宿のバルト7でブラジル人、アメリカ人と一緒に観たんだったか。『 スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス 』のミディ=ファッキン=クロリアンのせいで心にすきま風が吹き抜けていたのを、この映画によって回復したんだった。

 

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あらすじ

アンダーソン(キアヌ・リーブス)は昼は巨大ソフト会社の社員プログラマー、夜はネット世界でハンドルネーム“ネオ”と名乗る凄腕ハッカー。そんな彼にトリニティという謎の女性が接触してくる。彼女についていった先で、アンダーソンは世界の真実を知ることになり・・・

 

ポジティブ・サイド

本作はSFアクション映画としても、ディストピア映画としても、歴史に残る傑作である。「古い革袋に新しい酒」とはよく言ったもので、ウォシャウスキー兄弟(当時)はワイヤーアクションとスローモーションに新たな生命を吹き込んだ。カンフーを始め、未来を舞台にするSF映画であるにも関わらず、hand to hand combatをここまで追求して描くという、このギャップが最高だ。さらにブレット・タイムにはファンのみならず業界人も度肝を抜かれたことは間違いなく、以降に作成された作品は洋の東西を問わず、テレビドラマか映画であるかを問わず、とにかく360度回転カメラ撮影でブレット・タイムを使いまくっていた。そして、その影響は今でも『 わたしに××しなさい! 』や『 Diner ダイナー 』といった、ややビミョーな出来の邦画でも確認できる。とにかく、映画史を変える技法を大々的に使ったことが本作の大きな貢献の一つであることは間違いない。同時に、ブルース・リー、ジャッキー・チェンによって開拓されたカンフー映画の系譜に連なる映画である点も見逃してはならない。新しさは、時に古いものを全く違う方向性に適用することで生まれる。そのことは、スター・ウォーズが宇宙戦争でありながら、チャンバラで雌雄を決する時代劇の要素を取り入れたことが大成功の要因になったことからも明らかである。

 

もう一つ、本作の世界観が現代においても全く古びていないことも見逃せない。人間とAI、そして機械の対立、戦争そのものはテーマとしては古い。事実、1960年代に公開された『 2001年宇宙の旅 』はAIによる殺人が大きなパートを占めているし、『 ターミネーター 』シリーズはスカイネットというAIの暴走から全てが始まった。だが、本作がユニークなのは、VR技術の進展が著しい現代においてより顕著になる。すなわち、人間は機械を必要とし、機械も人間を必要としているというところだ。人間は機械に熱を提供し、人間は機械=マトリックスを揺り籠に夢を見る。そうした未来像は決して非現実的とは言い切れない。藤崎慎吾の小説『 クリスタルサイレンス 』でも、「私にとって肉体は単なるずだ袋ですよ」と言い切るキャラが登場するし、『 レディ・プレイヤー1 』でもオアシス中毒になる人間は無数にいた。『 ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来 』でも、人間と虚構の親和性を論じていた。人間は現実だけに生きるわけではない。好むと好まざるとに関わらず、AIという新たなテクノロジーの勃興期である現代において、本作は鑑賞の価値をさらに増している。

 

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ネガティブ・サイド

『 インセプション 』や『 レディ・プレイヤー1 』でも、現実世界と仮想世界(夢の世界、ゲーム世界)の判別に困難をきたすシーンがあったが、マトリックス世界では体にプラグを差し込む穴があり、これによって否応なく現実世界を認識させられる。そこは良くできていると感じる。一方で、現実世界でも睡眠は必要で、睡眠時には人間は必ず夢を見るものだ。そうした夢の世界とマトリックス世界の境目にたゆたう感覚に、誰かが苦しむ、あるいは恍惚とするようなシーンがあってもよかったように思う。これは現代の視点で物語世界を眺めた時の感想かな。

 

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総評

1999年の劇場公開から20年を経てのtheatrical re-releaseは本当にありがたい。4DXでの鑑賞はかなわなかったが、梅田ブルク7のDolbyCinema2Dでも映像の美しさや迫力は十二分に伝わってくる。映画は巨大スクリーンでこそ映えるが、本作は大音響、大画面で鑑賞することで映像芸術としての魅力が倍増する。時期的にレザーコートは着辛いが、サングラス着用で劇場へどうぞ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Run, Neo! Run!

 

言わずと知れた『 フォレスト・ガンプ 』の名セリフ、 “Run, Forrest! Run!” へのオマージュであろう。アメリカでは誰かに「逃げろ」、「走れ」という時には、“Run, 名前, Run”というのがそれ以来normになっているとかいないとか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1990年代, S Rank, SFアクション, アメリカ, キアヌ・リーブス, ヒューゴ・ウィービング, ローレンス・フィッシュバーン, 監督:アンディ・ウォシャウスキー, 監督:ラリー・ウォシャウスキー, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 マトリックス 』 -SFアクションの新境地を切り拓いた記念碑的傑作-

『 ゴーストランドの惨劇 』 -変化球ホラー映画-

Posted on 2019年9月10日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ゴーストランドの惨劇 』 -変化球ホラー映画-

ゴーストランドの惨劇 65点
2019年9月5日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:クリスタル・リード アナスタシア・フィリップス エミリア・ジョーンズ テイラー・ヒックソン
監督:パスカル・ロジェ

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劇場の新作予告での非常にユニークな宣伝文句に惹かれた。すなわち【2度と見たくないけど、2回観たくなる】に。また、【 姉妹が その家で再会した時 あの惨劇が再び訪れる―などという ありきたりのホラーでは終わらない 】や【 観る者を弄ぶ絶望のトリック 】という挑発的な惹句にもそそられた。結果はどうか。まあまあであった。

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あらすじ

叔母の家を相続したベス(エミリア・ジョーンズ)とヴェラ(テイラー・ヒックソン)の姉妹とその母と共に人里離れた屋敷に移り住んできた。しかし、キャンディ屋に扮した異常な二人組の侵入により、屋敷は惨劇の場に。母は娘たちを守らんと決死の抵抗を試みて・・・

 

ポジティブ・サイド

確かに凡百のホラー映画とは違う。そこに『 キャビン 』との共通点を感じる。ネタバレになりかねないので白字で書くが、本作を観て以下の作品を思い出した。

 

『 バタフライ・エフェクト 』

『 ミスター・ノーバディー 』

『 スプリット 』

『 カメラを止めるな! 』

 

残暑も厳しいし、サメかゾンビか、それとも普通のホラー映画でも観るか、のような軽いノリで鑑賞する作品ではない。かといって、骨の髄までホラー映画ファンでなければ観てはならないのかというと、そんなことはない。確かに、タイトルにある惨劇の名に恥じないキツイ描写はあるが、本作の真価はそこにあるのではない。Jovianが脚本家なら、このtwistを最後の最後に持ってきて、観客をflabbergastedな状態に放置して終わりにしてしまうことだろう。そして、それも脚本執筆段階では選択肢にあったはずだ。しかし本作の製作者たちは、ジェットコースター的な展開を選択した。真相が明かされたところからが本番なのだ。普通の90分のホラー映画文法に従えば、最初の15~30分でキャラクターと舞台を説明/描写する。30~70分で惨劇を描く。70~90分で窮地を脱してエンディングとなるだろう。だが、本作はそこをひっくり返した。惨劇の開始までが圧倒的に短く、窮地を脱するまでが最も長いのだ。それでいて90分に収めてしまうのだから、パスカル・ロジェ監督の手腕は見事である。

 

主演のエミリア・ジョーンズはまさに人形のような可愛らしさで、やはりホラー映画は美少女または美女の顔が苦痛にゆがむのを眺めて悦に入るための小道具であることを実感。そうした王道、場合によってはこの上なく陳腐な展開を、超絶技巧で圧縮してしまった本作は、近年のホラーの中でも出色の出来である。ベスの最後の意味深な台詞にもにやり。ホラー映画にこそ余韻が必要なのである。

 

ネガティブ・サイド

展開は途中までは陳腐そのものであるが、こけおどし的な手法の多用も陳腐である。つまり、ジャンプスケアが多すぎるのである。いつになったら「怖い」と「びっくりする」をホラー製作者たちは区別するようになるのか。『 来る 』や『 貞子 』が怖くないのも、作り手が怖がらせようと意識しすぎるからだ。視覚的に怖がらせるのであれば、『 エクソシスト 』の、ベッド上で、膝から上だけでドッタンバッタンするシーン、首が180度回転するシーン、仰向けのまま階段を這い降りるシーンでもう十分に怖い。そうではなく、もっと映画を観終わってからも誰かに心臓を握りしめられているような感覚を味わわせてほしいのだ。例えば『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』の意味不明なラストのテント内のシーンが、序盤の街の声を思い出すことによって、とてつもなく恐ろしいものに変貌したり、あるいは黒沢清監督の『 CURE 』のラストシーンの一見何気ない行動をとっているように見えるウェイトレスなど、考えることによって生まれてしまう恐怖感が、もっと欲しいのだ。

 

個人的に他にも気になったのは、オープニングがまるっきり『 レディ・バード 』だったこと。これもこれで、一種のホラー映画のオープニングあるあるなのだろうか。母と娘の関係を深読みしすぎてしまったようである。これは狙ったmisleadingなのだろうか。

 

総評 

ホラー映画ファンならば劇場へGoだ。美少女好きな映画ファンも劇場へGoだ。幽霊はちょっと・・・という方には朗報だ!本作はそのタイトルにもかかわらず、幽霊は出てこない!とにかく劇場にGoだ!

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I can’t wrap my mind around ~

 

wrap one’s head around ~ = ~を理解する、という慣用表現。

 

Once you are able to wrap your head around Blade Runner, go for 2001: A Space Odyssey.

I still can’t wrap my head around what this company is aiming to do with this project.

 

等のような使い方をする。自分でも練習してみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナスタシア・フィリップス, エミリア・ジョーンズ, カナダ, クリスタル・リード, スリラー, テイラー・ヒックソン, フランス, ホラー, 監督:パスカル・ロジェ, 配給会社:アルバトロス・フィルムLeave a Comment on 『 ゴーストランドの惨劇 』 -変化球ホラー映画-

『 バットマン 』 -ダークヒーロー誕生物語-

Posted on 2019年9月9日 by cool-jupiter

バットマン 70点
2019年9月3日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マイケル・キートン ジャック・ニコルソン ビリー・ディー・ウィリアムズ
監督:ティム・バートン

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やはり新作DC映画『 ジョーカー 』の封切を前に、復習の意味で鑑賞。ちなみに『 スーサイド・スクワッド 』を見直す予定はない。ハーレイ・クインの単独映画リリース前には最鑑賞するかもしれない。

 

あらすじ

ゴッサムシティには犯罪が絶えない。しかし、警察が取り締まれない悪人たちを夜毎に制裁するバットマン(マイケル・キートン)がいた。その正体は大富豪のブルース・ウェイン。そして、犯罪組織内の仲間割れでジャック・ネイピア(ジャック・ニコルソン)は警察とバットマンに追われる。辛くも逃れた彼はしかし、ジョーカーへと変貌してしまった・・・

 

ポジティブ・サイド

オープニングのダークでおどろおどろしい雰囲気の映像に、ダニー・エルフマンのTheme Musicが奮っている。アニメの「バットマ~ン!」ではなく、「ダダダダーダ」の旋律が、どこか危うい力強さを感じさせる。これによって観る者は一気にゴッサムに入っていくことができる。素晴らしいシークエンスである。

 

またマイケル・キートンも、ベン・アフレック並みにハマっている。というか、ベン・アフレックがマイケル・キートン並みにハマっていると評すべきか。クリスチャン・ベールはバットマンとして卓越した演技を見せたが、最もブルース・ウェインに近いのはキートンであるように感じる。鼻持ちならない金持ちで、プレイボーイなところがよく似合っている。また、バットマンとしての演技でも魅せる。特に、振り向き様や真上を見上げる瞬間の身のこなし、その時にピタリと動きを止めて見せるところから、原作コミックの絵を忠実に再現しようとしていることが分かる。ティム・バートンの美意識とマイケル・キートンのプロフェッショナリズムが上手く相互作用した。

 

だが、何と言ってもジャック・ネイピアおよびジョーカーを演じたジャック・ニコルソンだろう。『 シャイニング 』はホラー映画の金字塔として今も燦然と輝いている。そのことは『 レディ・プレイヤー1 』を観てもよく分かる。その狂気が今作でも爆発。しかも真っ白の顔がルージュの口紅のようなもので常に笑った顔にメイクアップされ、しかも紫のスーツ!完全にイカれているのが外見からだけでも分かるが、行動もinsaneの一言。曲撃ちで元々の組織のボスを撃ち殺したかと思えば、『 ゴーストバスターズ(1984) 』のマシュマロマン的な人形に詰め込んだ毒ガスを散布したりと、犯罪者を通り越して大量殺人者、無差別テロリストである。このジョーカーも相当に恐い。バットマン自身が原作コミックに忠実に動いていたり、ゴッサムの街そのものが『 シザーハンズ 』や『 スリーピー・ホロウ 』的な世界観を纏っている、つまり、この世ならざる幻想世界のような雰囲気を醸し出す中で、容赦なく人を殺して回るジョーカーは決して道化師ではない。また、『 ダークナイト 』の名シーンである、バットマンがジョーカーを轢き殺さんと真正面から対峙する構図は、すでに本作で描かれていた。すなわちバットウィングで上空からジョーカーを射撃するバットマンと、超長砲身の銃でバットウィングを撃墜せんとするジョーカーの対決シーンである。このシーンを観るのは三度目だが、何度観ても手に汗握る名シーンである。

 

もう一つ、ジャック・ネイピアの若い頃を演じた俳優が良い。ジャック・ニコルソンを若返らせれば、確かにこうなるだろうという容姿である。ハンニバル・レクター/アンソニー・ホプキンスの若き頃を演じたギャスパー・ウリエルを思い起こした。余談だが、Jovianの同僚イングランド人はマッツ・ミケルソンをホプキンス以上と激賞する。

 

コミカルなダークさ、hand to handの格闘アクション、バットモービルやバットウィングなどの大型ガジェットなども見物で、バットマンというアメリカで最も有名な(Jovian調べ:同僚アメリカ人2人にアンケート調査)スーパーヒーローとそのarchnemesisであるジョーカーとの対決を堪能できる逸品である。

 

ネガティブ・サイド

ゴードンやデントの存在感の無さ。特にビリー・ディー・ウィリアムズは空気なのかと思えるほど、劇中で存在感を発揮しない。ハービー・デントの名が泣くではないか。

 

また執事アルフレッドの存在感も今一つだ。両親を早くに亡くして、というか殺されてしまったブルース・ウェインの心の拠りどころの大部分はこの老執事にあるのだから、彼にもそれなりの見せ場が欲しかった。飲食物を手配したり、取材費を渡してやったり以外にもするべきことはあったはずだ。アルフレッドがブルース人生におけるpositive male figureである演出があってしかるべきだった。この部分が欠けてしまっているが為に、バットマンがなぜ夜な夜な悪と戦うのかという動機づけの説明、または観る側に推測させる材料が不足してしまっている。

 

キム・ベイシンガーのキャラクターが個人的にはハマっているようには見えなかった。大富豪と二人っきりでディナーを楽しみ、同衾しながら、翌朝には「普段の自分はこんなことしない」と、そのことを後悔するなど、キャラクターがぶれまくっている。ゴッサムにカマトトは似つかわしくない。

 

総評

ジョーカーの登場シーンで頻繁に流れる“Beautiful Dreamer”が摩訶不思議な雰囲気を生み出している。ティム・バートン世界とゴッサムは相性が良さそうだ。リアル路線のバットマンおよびスーパーヒーローものも悪くないが、幻想的な世界で繰り広げられるバットマンとジョーカーの攻防の面白さは、とてもユニークである。『 ダークナイト 』のジョーカーはカリスマ性を感じさせるが、波長が合えばこちらのジョーカーの方がチャーミングかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

How much do you weigh?

 

「体重はどれくらいだ?」の意味である。“What do you weigh?”も同じくらい良く使われる表現である。こんな表現を頻繁に使うのはボクシング関係者および熱心なボクシングファンくらいであろうが、覚えておいて損になるものでもない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, B Rank, アクション, アメリカ, クライムドラマ, ジャック・ニコルソン, ビリー・ディー・ウィリアムズ, マイケル・キートン, 監督:ティム・バートン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 バットマン 』 -ダークヒーロー誕生物語-

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