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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: D Rank

『 スティーブ・ジョブズ(2016) 』 -稀代の奇人のbiopic-

Posted on 2020年1月18日 by cool-jupiter

スティーブ・ジョブズ(2016) 50点
2020年1月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マイケル・ファスベンダー
監督:ダニー・ボイル

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Jovianの大学の図書館や寮のPCはある時期までマッキントッシュ一辺倒だった。中にはWindowsを熱心に推す先輩や同級生もいて、派閥抗争の様相を呈することもあった。当時はIEとネスケのブラウザ戦争が決着して数年という時代で、新しい何かを求める空気があったように思う。その新しい何かをもたらした男、ジョブズが死去して10年近くが経つ。あらためて映画でジョブズを振り返るのも良いかもしれない。

 

あらすじ

スティーブ・ジョブズ(マイケル・ファスベンダー)は新作マッキントッシュのプレゼンテーション前のあわただしい時間を過ごしていた。「ハロー」と発話するはずのPCが発話しない。「何としても直せ!」と部下に詰め寄るジョブズ。そこに認知していない娘リサとその母親クリスアンが訪れて・・・

 

ポジティブ・サイド

スティーブ・ジョブズについては生前から色々なことが報じられてきた。だいたいコンピュータ産業(現IT産業)で一旗揚げられる人間は偏屈な geek であると相場は決まっている。そしてジョブズはまさにその通りの人物であった。本作は、ジョブズの背景などには極力迫ることなく(この映画を観る人は、かなりの程度知ってるでしょ?的なスタンスで)、ジョブズの転機となった三つのプロダクト・ローンチのプレゼンの舞台裏を、超高速会話劇で描いている。なのでテンポは素晴らしい。サクサクと進んでいく。

 

また、セリフに次ぐセリフでドラマを動かしていく一方で、肝心な部分は映像で伝えてくる。幼い娘リサがマッキントッシュを使って線画を描くところが、その好例である。ジョブズのビジョンは常に、「直感的に使えるもの」、「子どもや老人でも手軽に使えるもの」だったことはよく知られている。その通りに、未就学児童のリサがマックを使えたということに感銘を受けるジョブズは、大人や親としてはどうかと思うが、ビジョナリーやアントレプレナーとしては素晴らしい。本作sはそうしたジョブズの欠落した人格の中に多大な能力や天才性を、実に巧みに浮かび上がらせている。

 

本作は、これまで経営者としてフォーカスされることの多かったジョブズの、家庭人(?)としての顔を浮かび上がらせた。ジョブズがいかに夫としても父親としても不適格な人間であるかを浮き彫りにすることで、彼の人間的な臭さと言おうか、もっと言えば娘に対する不器用すぎる接し方(それを愛情と呼ぶこともできるかもしれない)を前面に出すことで、頭のネジの外れた短気で吝嗇のテックナードという人間像が虚像に見えてくる。なんとも不思議であるが、それゆえに愛すべき嫌味な男という、ジョブズの人間性が際立っている。マイケル・ファスベンダーの面目躍如である。

 

ネガティブ・サイド

スティーブ・ジョブズやアップル、マッキントッシュに関する背景知識がある程度ないと、ストーリーに入っていくことができない。冒頭のコンピュータ産業の黎明の部分を、もう1~2分伸ばして、もう少しintroductoryなオープニングにできなかっただろうか。

 

ジョブズ以外のアップルの主要な登場人物たちが、とても味わいのあるキャラクターに描かれている反面、最後の最後にはジョブズの引き立て役にされてしまっているのが気になった。同じスティーブの名を持つウォズニアックを、小さな親切大きなお世話をする人間に描いてしまう(そう映った)のは、うーむ・・・ 本当の意味でコンピュータ産業を“前進”させたのは、ウォズニアックのはずだ。ジョブズはアントレプレナーでビジョナリーであった。それは間違いない。だが、時代を変えるようなプラグラマーやエンジニアではなかった。経営者 > 現場の人間 のような描き方は、小市民かつ平社員のJovianには刺さらなかった。

 

この作品は人間ジョブズの一面を捉えてはいるが、あくまで一面である。おそらくジョブズの歴史的評価も、2040年代や2050年代に定まってくるのかもしれない。ジョブズが執着した「コンピュータも芸術作品であるべき」という信念や、直感的に使い方が分かるプロダクトを作るという情熱の源については触れられない。そうした視点からのジョブズ映画も今後は作られてくるのだろうが、本作単体を見たとき、 biopic としての奥行に欠ける点は否めないだろう。

 

総評

天才というのは往々にして奇人変人狂人である。なので、彼ら彼女らのbiopicは上手く作れば面白くなるし、調理法を間違えると好みが大きく分かれてしまう。本作は、そういう意味ではかなり好みが分かれる作品に仕上がっている。日本は出る杭を打つか、引っこ抜くかしてしまうので、天才を描いた物語は存外に少ない。だが邦画の世界も、もっと真剣なbiopicを作るべきであると考える。中村哲先生とか、絶対にやるべきだと思うのだが。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’ll give you that.

「それは認めよう」の意。thatは、その直前の内容を表している。

Kei Nishikori is a fantastic tennis player. I’ll give him that.

のように、you以外を据えて使うことも可能な表現である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, マイケル・ファスベンダー, 伝記, 監督:ダニー・ボイル, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『 スティーブ・ジョブズ(2016) 』 -稀代の奇人のbiopic-

『 神のダイスを見上げて 』 -世界の終末+ヤングアダルト+ミステリ-

Posted on 2020年1月17日 by cool-jupiter

神のダイスを見上げて 50点
2020年1月15~16日にかけて読了
著者:知念実希人
発行元:光文社

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Jovianは世代的に終末ものが好きである。そして、このジャンルでは、佳作は量産されるが、傑作は生まれにくい。当たり前である。世界滅亡を描いて、だれもかれもが喝采を送ることができる作品など、そうそうは生まれない。だからこそチャレンジし甲斐のある分野であるとも言える。

 

あらすじ

直径400kmの超巨大小惑星が、あと5日で地球に最接近する。世界各国の政府は「衝突はしない」と発表しているが、それを疑う人間も多い。そんな中、高校生の亮の姉、圭子が殺害された。ほかに家族のいない亮にとって、圭子は“世界そのもの”だった。ダイス衝突によって一瞬で蒸発などさせない。犯人はこの手で殺してやる。亮はそう、固く決心し犯人を追うが・・・

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ポジティブ・サイド

ミステリにおける常道、すなわち最も犯人っぽくない者が犯人である、というセオリーをちゃんと外してくれている。この著者はわかっている。ミステリファンは、読む前に犯人を当ててやろう、少なくとも犯人の属性を絞り込んでやろう、と意気込む生き物なのである。まず表紙カバーの女の子は除外する。あらすじから、天文学同好会やカルト集団「賽の目」の関係者も除外する。そして読み始めた。序盤から中盤にかけて「まあ、コイツが犯人だな」と感じられた。そして外れた。ミステリとしてはありふれた変化球であるが、Jovianは思いっきり空振りを食らってしまった。

 

クラスの禁忌とされる四元美咲もなかなかに良い感じである。とはいっても、綾辻行人の『 Another 』の見崎鳴のような存在ではない。ちょっとアングラでダークな女子である。物語は亮と美咲の関係性の発展をメインのプロットにしないのは清々しい。こちとら、セカイ系の作品は、ゼロ年代にそれなりに食べ散らかしたのである。

 

世界が滅亡する時、自分はだれの傍らにいたいのかと考えることは重要である。哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーは、ヘーゲル的な形而上学世界を批判した。同様に、我々は絶対的な世界を普段は意識することなく、我々自身の属する“生活世界”に生きている。その“世界”とは、人によっては会社であり、家庭であり、学校であり、また一個人でもありうる。だが、そうした“世界”の崩壊は、それこそ世界そのものの終わりに近いインパクトを与えることもある。会社をリストラされても、それを家族に告げられず、毎朝、ちょっと遠くの公園に出勤するオジサンを、誰が笑えるだろうか。

 

星が降ってくる物語としては、『 君の名は。 』よりも『 エンド・オブ・ザ・ワールド 』のテイストに近い。また、“世界”=一個人に押し込めてしまう世界観は『 火口のふたり 』のそれに近い。この辺の作品を楽しめたという人なら、この小説も楽しめるように思う。

 

008ページでの映画『 アルマゲドン 』への言及にニヤリ。本作は、映画化するとしたら105分のアニメーションになるだろう。

 

ネガティブ・サイド

小惑星が落下してくる直前で、警察のマンパワーも治安維持に回されるのも詮無いことであるが、ミステリ要素に関してはもう少しフェアプレーが必要だったと感じられた。検死まではしないにしても、膣に裂傷がないかどうかぐらいはルーペで調べるものだ。その有無で犯人の属性がかなり絞られる。Jovianも帯に「全裸で胸にナイフを突き刺された」とあることから、怨恨?強姦?計画的?などクエスチョンマークをかなり頭に並べた状態で読み始めた。しかし、欲しい情報、あるべき情報はなかった。純粋なミステリ作品ならば、これはアウトである。ジャンル混合作品としても、アンフェアである。

 

主人公の亮というキャラクターの頭が悪すぎる。男子高校生というのはその程度なのかもしれないが、それに付随して刑事たちまで頭が悪すぎる。

大学構内で真夜中に殺人事件発生 → 第一の容疑者は高校生 

いくら無理やりにでも事件を解決したい事情があるにせよ、これは酷過ぎる。どう考えても、その大学の関係者が実行犯だろう。冤罪でもなんでも構わないからホシを挙げたいという気持ちは理解できる。世界が滅亡する瞬間、小さな子どもの側にいてやりたい。親として自然な欲求であり、願望だ。だったら大学の同級生や職員、警備員などを無理やりワッパにかければ済む話で、高校生の亮(いくら死んだ姉の通っていた大学での出来事はいえど)を容疑者にする必然性はない。この刑事の存在で、物語からリアリティが吹っ飛んでしまっている。

 

また2023年を舞台にしているが、直前までダイスが地球に激突するかどうかが判明しないという設定にも無理がある。政府が真実を公表しないという疑念は理解できる。しかし、現実に小惑星が地球との衝突コースに乗ったら、あるいはその可能性が少しでもあれば、天文学者のネットワークが絶対に検知するはずである。ましてやダイスは直径400kmという、準惑星セレスの半分近い大きさ。これほどマクロな天体の動きがシミュレーションできないのはおかしいし、政府が虚偽の発表を繰り返したとしても、どこかの天文学者が絶対に真実を公表するはずである。ところが作中では天文学者は影も形も存在しない。そんなアホな・・・

 

総評

一種のジュブナイル小説として読むのが正しい。純正のミステリや純正のSFだと考えると、ドツボにはまる。ただ、シリアスな考証がほとんどないため、読みやすさは普通のミステリやSFよりも格段に上がっている。まさに高校生、大学生向けの作品だろう。世界の終末をテーマにしたシリアスなSFを読みたい向きには『 僕たちの終末 』をお勧めする。この著者の作品では『 仮面病棟 』が映画としてもうすぐ公開される。Amazonでポチッたので、そちらも読了次第、レビューをしてみたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Laters.

作中で四元美咲が何度か言う「またね」である。普通は“See you later.”と言うが、“Laters.”と later に s をつけるのがミソである。カジュアルな表現で話し言葉としても、メールやチャットなどでも使う。ただ、ビジネスの場では使うのを避けたい。

 

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Posted in 国内, 書籍Tagged 2010年代, D Rank, ミステリ, 発行元:光文社, 著者:知念実希人Leave a Comment on 『 神のダイスを見上げて 』 -世界の終末+ヤングアダルト+ミステリ-

『 カイジ ファイナルゲーム 』 -ようこそ、底辺の世界へ-

Posted on 2020年1月15日 by cool-jupiter

カイジ ファイナルゲーム 55点
2020年1月15日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:藤原竜也 関水渚
監督:佐藤東弥

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原作はほとんど読んでいないが、映画されたカイジは2作とも観ている。比喩的な意味での地下世界と文字通りの意味での地下世界を融合させた独特の世界観は、本作でも健在である。

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あらすじ

2020年の東京五輪終了後、日本の景気は恐ろしく冷え込んだ。円の価値は暴落し、インフレが進行し、日本の産業は外資に次々と買われた。日本は、ごく一部の富裕層と大多数の貧民に分断されてしまった。派遣会社にピンはねを喰らいながら、カイジ(藤原竜也)は貧困の中で生きていた。ある時、多額の賞金もしくは秘密の情報が懸賞として得られる「バベルの塔」というゲームへの参加を促される。それは、日本という国家をも巻き込む壮絶なゲームへの入り口だった・・・

 

ポジティブ・サイド

もはや藤原竜也劇場である。独壇場である。底辺の似合う男とは言い得て妙である。Jovianは原作をほとんど読んでいないが、藤原竜也が漫画のカイジに似ていない(容姿や振る舞いetc)ことは直感で分かる。それでも、漫画のカイジというキャラクターを自らの演技でねじ伏せ、新たなカイジ像を作り上げたのは藤原の演技力の勝利として称えるべきである。

 

爽やかな優男という路線で行き詰っていた福士蒼太も、『 ザ・ファブル 』に続いて、まあまあ良い感じである。大義名分のために弱者を切り捨てることを厭わない姿勢に、今の日本の根本的な政治姿勢に通じる。財政健全化を謳いながら、道路や建設関連にカネをジャブジャブと使い、福祉の拡充を謳って消費増税を断行した直後に、高齢者医療費の自己負担比率の引き上げを検討する(Jovianはその政策自体には賛成であるが、現政権は言っていることとやっていることが違い過ぎるのが大問題である)など、口から出まかせもいいところである。虚偽と欺瞞に満ちた自分に陶酔する木っ端役人が実に似合っていた。福士は爽やか路線を中川大志に譲り、嫌味な奴、もしくはクズ路線を藤原竜也から受け継ぐべし。

 

日本社会全体を巻き込むスケールの壮大さは評価できる。カイジの世界(映画に限っては)について言えることは、クモの糸は常に垂らされているということ。その糸を奪い合うのか、順番に掴むのか。それとも全員が掴める方法を考えるのか。問われているのは、そこである。これは正解を選ぶという問題ではなく、自分の生き方を定義するということである。「こうするしかないんだ!」と絶叫する官僚=上級国民は、物事は白か黒か、正解か不正解かしかないという思考の陥穽に囚われている。「みんなで泥水をすするべきだ!」と力強く宣言するカイジは「みんなで貧困を分かち合うべきだ」と言っているわけではない。困っている人がいれば、手を差し伸べよう。情けは人のためならず。カイジはそう言っている。そして、それが原作者の福本伸行や監督の佐藤東弥のメッセージであろう。少々鼻につくメッセージではあるが、Jovianはこうしたストレートな社会的な主張を行うこと自体を評価したいと思っている。

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ネガティブ・サイド

『 カイジ 』シリーズを観たことがある者ならば、展開が容易に読める。というか、ちょっとしたミステリやサスペンスを見慣れていれば、中盤まではほとんど誰にでも分かるような展開である。愛人がいた。その愛人が子どもを産んだ。愛人は子どもを産んだ直後に死亡した。では、その子どもは?という疑問に思い至らないというのは考えづらい。

 

またストーリーの本筋(ゲーム/ギャンブル)と直接の関連がないので書いてしまうが、旧円を廃止して新円を発行するというトンデモなアイデアが出される。いや、そうしたアイデア自体は突拍子もないわけではない。本作は不景気がますます進行した近未来の日本を舞台にしているわけで、無能な政治家や官僚に打てる手は「徳政令」くらいだろう。本作では預金封鎖で庶民から接収したカネで国の借金をチャラにしてしまおうという気宇壮大なプランが描かれるが、これはリアリティが無さ過ぎる。第一に、減りつつあるとはいえ、日本のタンス預金は数百兆円と見積もられている。貧困が拡大した世界で、物語中のタンス預金がこの10分の1だとしても数十兆円。これらのカネが一気に新円と交換されれば、あっという間に円高となり、日本の生命線の輸出関連産業が吹っ飛ぶ。第二に、政治家や資産家が預金封鎖前に新円をしこたま仕入れておくというのもリアリティに乏しい。環境大臣・小泉進次郎の公開された資産が0円だったというのは記憶に新しいが、こういう連中はとっくにオフショアやタックスヘイヴンで資産を運用しているものなのである。劇中で総理大臣はじめ、有力政治家や資産家が新円の事前入手に血道を上げるのは不自然かつ不可解にも映る。まあ、金持ちの底なしの欲望を表しているのかもしれないが・・・

 

その欲深連中を映すカメラのアングルがおかしい場面がある。カイジ側が食い込んでいたのは造幣局であって、閣僚連中ではなかったはず。どう考えても閣僚・資産家の一人が撮影したとしか思えないショットが映る。これは普通に編集ミスだろう。

 

人間秤というゲームのルールにある3つのF、すなわちFRIEND、FIXER、FAMILYが最初に画面に映し出される時のFIXERの綴りがFIXARになっていた。2度目に表示された時は正しいFIXERになっていたが。この程度の英語はしっかり確認すべきだし、編集やCG作成作業時に誰も気付かなかったというのは、キツイ表現を使えば、恥ずべきことである。

 

関水渚のラッキーガールという設定は何だったのか。ゲームやギャンブルに絡む描写はほとんど無かった。もうちょっとマシな扱いをしてほしかった。また外野のザワザワもなかった。少しさびしいファイナルであった。

 

総評

過去作のキャストも一瞬だけ駆けつけたりしてくるので、いきなり本作を観るというのはお勧めできない。実質的なギャンブル勝負は2回だけなので、そこに物足りなさを感じる向きも多いかもしれないし、一部のキャラクターに仕込まれた設定の読みやすさは明白にマイナスである。しかし、一寸の虫にも五分の魂を感じさせる展開もあり、下剋上のカタルシスもある。シリーズに付き合ってきた人々も、カイジ/藤原竜也にお別れをするために、シリーズ未見の人は過去作をチェックした上で、劇場に向かわれたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

The price has gone up again!

「また値上がりしてやがる」というカイジの台詞の私訳。「上がる」というのは、だいたい go up で表現できる。血糖値や血圧、税率、仕事量、飛行機、風船など、上に行くものなら何でも go up でOKである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, サスペンス, ミステリ, 日本, 監督:佐藤東弥, 藤原竜也, 配給会社:東宝, 関水渚Leave a Comment on 『 カイジ ファイナルゲーム 』 -ようこそ、底辺の世界へ-

『 シライサン 』 -可もあり不可もあるホラー-

Posted on 2020年1月12日 by cool-jupiter

シライサン 50点
2020年1月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:飯能まりえ 稲葉友
監督:安達寛高

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『 貞子 』が無残な駄作に堕ちてしまった2019年。2020年は、新たなジャパネスク・ホラーの勃興が期待される。そこへ本作である。結果としては、可もあり、不可もある作品であった。

 

あらすじ

瑞紀(飯豊まりえ)はレストランで食事中に、親友の眼球が破裂し、心不全を起こすというが不可解な死に方をするのを目撃してしまった。同じ大学の春男(稲葉友)の弟も、同じような死に方をしていたと知った二人は、調査に乗り出す。そこで分かったのは「シライサン」という名の女性にまつわる怪談だった・・・

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以下、マイルドなネタばれ記述あり

 

ポジティブ・サイド

日本には昔から、「だるまさんがころんだ」や、ゲーム『 スーパーマリオブラザーズ3 』以来おなじみの“テレサ”など、見ていれば近づいてこないという存在があった。しかし、それをホラー映画のネタにしようというのは斬新である。まさに、古い革袋に新しい酒である。この発想は、『 イット・フォローズ 』の、遠くからゆっくりと毎回違う姿で近づいてくる“それ”の突飛さや斬新さと並ぶと思う。

 

また、半陰半陽の貞子の後継者として、近親相姦の繰り返しの結果として誕生してきたと示唆されるシライサンの設定も悪くない。異様に大きな目というのも、遺伝子の異常で説明がつきそうだからである。またシライサンが、しゃなりとした身のこなしでチリンと鈴を鳴らすシーンはかなり怖かった。『 地獄少女 』でブレイクダンスを踊った変なハゲチャビン爺さんは、シライサンの爪の垢を煎じて飲むべきである。

 

「目をそらすな」というのは、慣れてしまえば簡単そうに思えるが、あの手この手で目をそらさせようというシライサンはなかなかに策士である。人間の心の隙や弱さというものをよく理解している。特に忍成修吾演じるライター間宮への責めは反則スレスレではないか。そして、クライマックスの春男への責めは反則ではないか。しかし、怪異というのは理不尽なものである。これで良いのである。

 

巻き込み型の怪談は、昔からの定番である。本作はイヤホン360上映のお知らせを開演前に行ってくれるが、その通知から『 シライサン 』の世界は始まっている。20世紀FOXが『 ターミネーター ニュー・フェイト 』などで見せたように、映画上映前から映画世界がスクリーンに展開されていく。単純な仕掛けであるが、このような工夫は歓迎したい。また、エンディング・クレジットも見逃してはならない。特に脚本家の名前に注目されたい。以上である。

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ネガティブ・サイド

様々な描写が中途半端である。シライサンが呪いの対象者を死に至らしめる過程が、特にそうである。目玉を抉りとって潰す様を全部映してしまうというスプラッタ路線で行くか、効果音や叫び声などを最小限に抑えて、観客の想像力を最大限に刺激するような心理的な細工を徹底する路線で行くか、何らかのポリシーを貫いてほしかった。死に方が怖いのではなく、シライサンの顔が不気味であるという怖さになってしまっていた。

 

またシライサンは一種のミームであると考えられるが、その呪いのルールを解明することにもっと時間を費やしてよかった。シライサンの呪いがどのように伝播するのかをもっと検証するべきだった。『 リング 』の怖さは“そのビデオを見たら一週間後に死ぬ”ということで、面白さはどんな“オマジナイ”でその死を回避できるかを探るということだった。同じく、シライサンに関しても、考察をもっと深めるべきだった。ミームとしてのシライサンをfidelity=忠実さ、fecundity=繁殖力、longevity=寿命の全て、またはいずれかの観点から分析するべきだった。例えば、シライサンの呪いの成立する為には、どの程度正確に怪談を語らなければならないのか、あるいは怪談の形式ではなくとも、話の筋さえ合っていれば良いのか、それともシライサンという怪異が存在するということだけを知ればよいのか、などの分析・考察に瑞紀と春男、そして間宮は奔走するべきだった。ホラーは、理詰めでどうにもならない部分と、理詰めでなんとかなる部分のバランスを、適切に配分することで生まれるからである。

 

そして、肝心のシライサン対策が忘れることだとは・・・ ご都合主義にもほどがある。また瑞紀の考え付くシライサン対策が、まんま『 トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 』 の対策と同じである。もっとオリジナルでユニークなアイデアが欲しかった。

 

最後に細かい指摘を三つだけ。

 

1.GoogleマップやGoogleアースを使え。

2.現役の大学生は「大学時代からの友人」とは言わない。

3.愛する人が死んでいいことが一つだけある話、必要か?

 

総評

貞子や伽椰子の後継者になれるかどうかは分からない。それは映画ファンは一般大衆が決めることである。だが、シライサンはジャパネスク・ホラーの歴史の一ページを刻んだことは間違いない。それなりに恐怖を感じさせるし、主演の二人も素人っぽさを醸し出す演技は、ホラーのテイストによく合っていた。ディープなホラー映画ファンには自信を持ってお勧めはできないが、カジュアルな映画ファンにはお勧めをしたい。カップルのデートムービーにも使えるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Don’t look away.

「目をそらさないで」の私訳である。Lookときたら、atかforというのが中高の英語の定石だろう。しかし、lookには様々な語がくっついて、その意味を豊かに膨らませる。Awayもその一つで、look away=目をそらす、である。『 デッドプール 』でデットプールが、エージェントをぶちのめす前にカメラに向かって、また最終決戦前に下着を脱ぐ前にネガソニックに、“Look away.”と言っていた。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ホラー, 日本, 監督:安達寛高, 稲葉友, 配給会社:松竹メディア事業部, 飯豊まりえLeave a Comment on 『 シライサン 』 -可もあり不可もあるホラー-

『 箱入り息子の恋 』 -細部とクライマックスに難あり-

Posted on 2020年1月11日 by cool-jupiter

箱入り息子の恋 50点
2020年1月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:星野源 夏帆
監督:市井昌秀

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劇場公開されたのは2013年の作品である。日本の少子化、それを加速させる要因の一つである未婚および晩婚化の傾向を描いているわけではないが、主役の星野源は、阿部寛とは全く異なる意味での『 結婚できない男 』の属性が付与されている。ただ、正しくは『 結婚の準備ができていない男 』というべきなのだろう。なかなかに面白いドラマであった。

 

あらすじ

天滴健太郎(星野源)は年齢=彼女いない歴の、うだつの上がらない市役所職員。そんな息子を見かねた両親は、代理見合いパーティーに出席し、今井夫妻の娘、菜穂子(夏帆)と健太郎の見合いをセッティングする。しかし、見合いの場で初めて分かったのだが、菜穂子は全盲だった・・・

 

ポジティブ・サイド

星野源が非常になよなよしている。これは褒め言葉である。無表情で、声も小さく、職務に精勤してはいても昇進は一度も無し。そして趣味は貯金。こうした属性に共感できる男性は実は多いのではないか。養老孟司が何かのエッセイで「しつけというのは、本来は不自然なもの。「 男の子に、『 男の子らしく外で遊べ 』と言うのは、そう言わないとインドア派に育つから。女の子に、『 女の子らしくおしとやかにしなさい 』と言うのは、そう言わないと活発に育つから 」と書いていたのを思い出した。つまり、星野源演じる健太郎は、ある意味ではとても自然な男の姿なのだ。甘やかされて育てられたという背景も臭わされるが、非常に現代的な日本男児の姿が見えた。本作はそんな健太郎のビルドゥングスロマンなのである。

 

男が変わる契機というのは、現実でもフィクションでも大体は女絡みと相場は決まっている。天滴という名字が牽強付会にも思えるが、健太郎と菜穂子の最初の出会いはそれなりに印象的だったし、二回目のお見合いも開始1分で修羅場に突入というテンポの良さ。当事者不在で火花を散らす親同士に、案外日本の少子化の原因の一つはこれなのかもしれない、などと考えた。つまり、親が子どもなのだ。親が幼稚なままなら、その子どもも、子どもは作らんわなと思う。

 

Back on track. 非モテの高齢童貞と全盲の美女との関係が徐々に発展していく過程は悪くなかった。一歩間違えれば『 タクシードライバー 』のトラヴィスのようなアホなデートになってしまってもおかしくないのだが、吉野家が絶妙なバランスの上で良い味を出している。テーブルの店でいきなり隣同士に座るのは難しいが、吉野家のようなカウンター席主体の店なら、隣同士に座れる。吉野家というのは殺伐とした、女子供はすっこんでいるべき場所のはずだが、菜穂子にはそんなものは関係ない。このロマンチックさのかけらもないデートがこの上なくロマンチックに映るのは、星野源のカッコ悪さと夏帆の飾らない可憐さのバランスが取れているからであろう。健太郎は菜穂子も、筋金入りの箱入りであるという意味では似た者同士なのである。この不器用な二人の歩みは、2020年代でも共感呼べることだろう。

 

ネガティブ・サイド

夏帆の盲目の演技は普通に良かったが、演出がそれをダメにしている。『 マスカレードホテル 』はヒントとしてそれを行っていたが、本作はうっかりだろう。もしくはそこまで考えていなかったか。全盲の菜穂子が夜にピアノを弾く時に、なぜ電気をつけているのか。普通はつけない。『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』でも『 見えない目撃者 』でも、全盲の人間は自分のプライベートな空間では、夜でも照明は必要としないのである。初めてのラブホテルの室内が暗かったので、余計に気になってしまった。

 

また、健太郎の趣味が格闘ゲームとカエルの飼育だけ、というのも気にかかった。というのも、あまりにも察しが良いからである。菜穂子は健太郎に「言葉にしてくれて嬉しい」と伝えた。対照的にするなら、菜穂子は言葉に出しづらいので態度や仕草、たとえば健太郎の手を取り、手のひらを自分のほほに置かせる、あるいは期するところありげに小さく舌なめずりをしてしまう(少しはしたないか・・・)、もしくは相手の胸に顔をうずめるでも何でもよい。もじもじした様子だけで朴念仁の健太郎が察するというのには違和感を覚えた。健太郎の趣味に映画鑑賞や小説を読むことなどがあれば、まだ納得しやすかったのだが。

 

また、韓国ドラマや韓国映画的な唐突な交通事故というのは、あまりにもクリシェである。しかも悪いのは菜穂子ではなく、どう考えても運転手だろう。大杉漣と黒木瞳の迫真の修羅場に水を指す、不自然極まりないイベントであった。

 

最終盤はギャグである。飼育槽から何とか脱出しようと試みるカエルは、まさに健太郎という“男性自身”である。だが、それなら何故、健太郎と菜穂子のまぐわいの在り方にまでこだわらないのか。メスに後ろから覆いかぶさるのがカエルのオスなのではないか。ドレープカーテンを使ったペッティングは、カエルではなくナメクジに見える。非常にシネマティックでロマンチックなシーンであるはずなのに、ただのギャグにしか見えない。演出が何もかも中途半端なのである。そして全盲の成人の部屋のベランダの柵がそんな落ちやすく作られているわけがない。菜穂子の父親はカネなら充分持っているはずだし、菜穂子の為に家のリフォーム代をケチるような男ではない筈だ。ベランダからの転落にはリアリティがまったく存在しない。無理やりで滅茶苦茶なまとめ方である。

 

総評

障がい者との付き合い方について一考を促される作品である。また、草食系などと呼称される男性や、その家庭の在り方などについても、まあまあ上手く描けているように思える。何よりも夏帆が可憐である。百戦錬磨の感じが出ていないのが新鮮である。細部のリアリティが色々と欠落しているが、全体的にはきれいにまとまった作品である。ラブシーンもあるが、高校生ぐらいからなら視聴しても問題ないだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

When A Man’s In Love

www.youtube.com

歌詞はここでどうぞ。

健太郎は表情にもジェスチャーにも乏しい男だが、男が恋をした時にはこの歌のようになるものである。健太郎も内面はそうだったはずだ。

以下は真面目なレッスン。

A special needs person / A person with special needs

本ブログでも「障害者」とは書かずに、「障がい者」と表記するようにしているが、英語でもhandicapped personやdisabled personとは最早言わない。A person with disabilities または a special needs person / a person with special needsという表現が一般的である。特別なケアを必要とする人、ぐらいに訳せるだろうか。れいわ新撰組によって、日本人の意識も変わってくるだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ラブロマンス, 夏帆, 日本, 星野源, 監督:市井昌秀, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 箱入り息子の恋 』 -細部とクライマックスに難あり-

『 ギャングース 』 -半端者たちの中途半端な物語-

Posted on 2019年12月31日 by cool-jupiter

ギャングース 50点
2019年12月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:高杉真宙 渡辺大知 加藤諒 金子ノブアキ
監督:入江悠

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191231122028j:plain
 

東宝シネマズ梅田で昨年公開していたのを見逃したので、あらためてDVD鑑賞。日本の暗部を上手くエンターテインメント風にまとめてはいるが、最後の最後のショットは人によって好みや解釈が分かれるところだろう。それが入江監督の意図なのかもしれないが。

 

あらすじ

サイケ(高杉真宙)、カズキ(加藤諒)、タケオ(渡辺大知)は少年院上がりの3人組。まともに社会復帰ができない彼らは、半グレ集団からのタタキ(窃盗)を稼業にしていた。そして3人で3000万円を貯めて、正道に立ち返ることを目標にタタキに邁進していくが・・・

 

ポジティブ・サイド

若手俳優たちが躍動している。ヤクザ映画が時代と共に減産となり、入れ替わるかのように盃ごととは異なる次元のアンダーグラウンド世界を描く作品が映画や漫画、小説でも増えてきた。特に高杉真宙は『 君が君で君だ 』のクズ彼氏役が今一つだったが、『 見えない目撃者 』で悪ぶった10代を好演。そして本作でも少年院あがりの半端者をしっかり表現できていた。この調子で精進して第二の菅田将暉を目指すべし。

 

Jovianのお気に入り俳優である渡辺大知も光っていた。『 ここは退屈迎えに来て 』でも、子ども時代になかなか決着をつけられない半端な大人キャラ、さらにはLGBTQをも思わせる役を演じていたが、本作でも爽やかながらに前科者というギャップのあるキャラを、明るさあと腕っ節の両方で描出した。

 

だが何と言っても白眉は加藤諒だろう。三枚目キャラでありながらも最も重い因果を背負っているというギャップがたまらない。刹那的な生き方 ― それはつまり牛丼だ ― を追い求めるのは、一日を生きることにも苦労したことの裏返しである。犯罪を行うことに最も屈託がなさそうに見えるのは、それだけ普通の生活を送ってこなかったことの証明でもある。幸せになりたい、そして誰かを幸せにしてやりたいと心から素直に願えるのは、幸せの閾値が低いからである。それは不幸なことかもしれない。幸せな体験が少ないことを意味するから。一方で、それは幸せなことかもしれない。ありふれたことにも幸せを見出せるから。このカズキというキャラクターをどう捉えるかが、その人の心の豊かさ、または貧しさの度合いを測るリトマス試験紙になっている。そしてカズキは『 存在のない子供たち 』のゼインでもある。詳しくは作品を鑑賞されたし。ところで、このキャラの前科を描くシーンおよび家は『 閉鎖病棟 それぞれの朝 』で鶴瓶が妻と間男を刺殺した家だろうか。家もそっくりに見えるし、殺人に至る流れもそっくりであり。

 

金子ノブアキの番頭ぶりも良い。番頭と言えば漫画『 魔風が吹く 』が思い出されるが、金子も負けていない。オレオレ詐欺の前に従業員に対してmotivational speechを行う様は圧巻である。チンピラ的な役が多かったが、年齢相応に存在感やカリスマ性も増してきた。ピエール瀧の後釜を本気で狙ってほしいと思う。

 

MIYAVIも悪くなかった。『 BLEACH 』では信じられないほどの大根演技を披露したが、本作では喋りだけではなく格闘アクションも披露。『 影踏み 』の山崎まさよしのように音楽と演技の二足のわらじを履き続けられるかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

事実を取材したというが、リアリティの欠如も多い。半グレの借りている貸倉庫を急襲してタタキを行うのは分かる。半グレは警察に被害届を出すことをためらうからだ。だが、鍵を壊された貸倉庫の業者はためらうことなく被害届を提出するだろう。それとも貸倉庫自体が半グレの経営によるものなのか?そのような描写はなかった。

 

また、今日のメシ代にも困る奴らがクルマを乗り回していることにも違和感を覚えた。ガソリン代はどうやって捻出している?そもそも免許を持っているのか?車検などをしっかりクリアできている車両なのか?車両保険はどうなっている?いままで一度も検問や職質にひっかからなかったとでも言うのか?

 

六龍天が本当に口にするのもはばかられるほどヤバい組織であるという設定はよい。だが、そのトップが腕っぷしで勝負するタイプというのはどうなのだ?ヤクザなら銃やドスを普通に持っている。自分自身が武装していなくても、取り巻きが短刀やスタンガンなどの武器を携帯していないのは不自然極まりない描写に感じられた。

 

本作の裏テーマは、「家族とは何か」である。『 万引き家族 』を観るまでもなく、血のつながりは濃いものであるが、血のつながりよりも濃いものもあるのである。それは『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』のテーマでもあった。カズキは疑似的な妹ができるのだが、彼女を引き取ろうという気概はないのか。家族とは作り上げるもの、そしてどんな形であれ最終的には離散するものでもある。子どもとは巣立ちしてナンボなのである。少年院を出たということは少年だったということである。だが、いつまでも少年ではいられない。この3人組は友情を確かめつつも、成長と独立を志向すべきだった。それこそが本当の意味のカタルシスにつながる。エンディングのショットは解釈が割れるだろう。幸せは平々凡々な瞬間に存在するという意味にも受け取れるし、他人の幸せに関心を払う人間など現代には存在しないという風にも受け取れるからである。Jovianは前者の説を取りたい。何故なら、それこそが全編をかけて本作が追い求めてきた真実だからである。だからこそ入江監督には、曖昧な映像ではなく、しっかりとした意図が込められた画で最後を締めて欲しかった。

 

総評

半グレは残念ながら日本社会に根を張ってしまった。そうした半グレを逆に狙う少年たちの物語は、それだけで痛快である。同時にそうした世界に足を踏み入れてしまうことのリスクも一応描かれている。そして、幸せとは何かを考えるきっかけにもなる本作は、中高生の教育用に案外向いているのかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Let us do this heist!

タタキという言葉は完全にジャパニーズ・スラングである。だが、英語では強盗・窃盗はheistという。「このタタキ、やらせて頂きます!」も上の英文でOK。ちなみにheistという単語は傑作映画『 ベイビー・ドライバー 』で頻出する。動詞の選択に迷った時はdoでOKである。

do a presentation   プレゼンをする

do a movie review   映画のレビューを行う

do some cooking   料理をする

do some laundry   洗濯をする

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, D Rank, クライムドラマ, 加藤諒, 日本, 渡辺大知, 監督:入江悠, 配給会社:キノフィルムズ, 金子ノブアキ, 高杉真宙Leave a Comment on 『 ギャングース 』 -半端者たちの中途半端な物語-

『 ぼくらの7日間戦争 』 -前作には及ばない続編-

Posted on 2019年12月31日2020年4月20日 by cool-jupiter

ぼくらの7日間戦争 50点
2019年12月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:宮沢りえ 北村匠海 芳根京子
監督:村野佑太

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191231033845j:plain

 

『 ぼくらの七日間戦争 』の30年後を描いている。まるで『 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還 』と『 スター・ウォーズ エピソード7/フォースの覚醒 』のようである。だが、前作が持っていたスピリットは弱められてしまっていた。

 

あらすじ

鈴原守(北村匠海)は歴史好きの内向的な高校生。隣に住む千代野綾(芳根京子)に密かな恋心を抱いていた。夏休み直前、綾が突然引っ越しすることになる。そんな綾に守は逃避行を提案する。なんだかんだで一週間の家でキャンプを張ることになった綾は、他にもメンバーを集め、旧石炭採掘工場に集まり・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191231033914j:plain

 

ポジティブ・サイド

本作は「大人とは何か」という問いに一つの興味深い回答を提示している。これは、いわゆる就職氷河期やゆとり世代に対して当てはまることなのかもしれない。というのも、この世代のサラリーマン(正規であれ非正規であれ)は、平成を通り越して昭和の残り香が漂う職場で、新世代たちとしのぎを削っているからである。自分たちに決定権はない。全ては上に従うばかり。しかし、時代、そして次代の突き上げは確実に迫っており、どうすべきか途方に暮れている。そんな世代の悲哀が透けて見える。王道楽土に連れて行ってくれると信じられるような上の世代が存在しない。そんな作り手たちの思いと、そんな奴らはぶっ潰せという気概の両方が感じられる。これはアラフォーに向けてのエールである。

 

「戦争」という物騒な単語を使うことの意味も認められた。戦争とは、国と国の争いである。つまり、異なる民族の戦いである。そして日本ほど異物を排除する論理および仕組みが強烈に働く文化圏は少ない。とあるキャラクターを通して、本作は日本社会の均質性や人権意識の希薄さを撃つ。これは爽快である。『 国家が破産する日 』で描かれた韓国社会に押し付けられた性急な構造改革は、日本の20年先を行っていた。今、日本と韓国の政治・経済摩擦以外で何が起きているのか。ベトナム人移民労働者の奪い合いである。そして、今後確実に激化するのはフィリピン人花嫁の輸入(何という表現だろうか)である。本作は、北海道の片田舎を通して、確かに日本社会の縮図を描いた。これは褒められるべきであろう。

 

たいしたネタばれではないと判断して書いてしまうが、TM NETWORKの“Seven Days War”は良いタイミングでplaybackされるので期待してよい。

 

ネガティブ・サイド

アニメーション映画にそれほど造詣が深いわけでもなく、外国映画も基本的にすべて字幕派のJovianにとって、一部のキャラクター達の声がとにかくキャンキャンうるさかった。特に女子連中の、まるで何かに媚びるような甲高い声というのは、一体どういった層に訴える効果があるのだろうか。

 

中盤の対大人撃退作戦のテンポが良くない。『 ぼくらの七日間戦争 』は、荒唐無稽ではあるが、スピード感あるカメラワークと演出でそこを巧みにごまかした。本作では、肝心のアクションシーンがもっさりしてしまっている。致命的とは言わないまでも、面白さをマイナスしてしまっていることは否めない。

 

現代的なガジェットも効果的に使用されたとは言い難い。炭鉱から熱気球によって脱出というのは、確かに我々世代には『 ドラゴンクエストIV 導かれし者たち 』を思い起こさせるが、現実に実行したとしてもヘリコプターやドローンに追跡されてオシマイではないか。またはあれだけ目立つものであれば、警察その他のネットワークでいとも簡単に捕捉されてしまうはずだ。どうやって無事に逃げ切った?

 

『 ぼくらの七日間戦争 』にあった体制への不満という要素が消え、非常に私的な領域で物語が進むようになった。それはそれで良いのだが、あまりにも個々のキャラクターの背景描写が弱いために、クライマックスの展開がとってつけたような皮相なものにしか映らない。各キャラクターに、ある意味では現代的なメッセージを託してはいるが、それがどうにもご都合主義に見える。唯一、綾と荘馬というキャラに伏線が二つ張られていたのみで、他キャラの背景は完全に後出しジャンケンである。それではカタルシスは生まれない。少なくとも、すれっからしの中年映画ファンには。そして、中年映画ファンこそ、本作がアピールすべきデモグラフィックであるはずだ。本作が企画され、製作され、公開されたのは、Jovianの同世代がクリエイティブな現場での主力になってきたからであろう。であるならば、若年世代だけではなく、中年世代にも刺さるストーリーを志向すべきである。そしてそれは、日本社会に蔓延する“空気”を晴らすような物語であるべきだ。

 

総評

『 ぼくら 』シリーズの精神を現代に蘇らせているとは言い難い。それでも、ジュブナイル物として観れば、平均的な仕上がりになっている。逆に本作を鑑賞してから『 ぼくらの七日間戦争 』を観るというのもありだろう。昭和と令和の“空気”の違いを如実に感じ取れることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

How long have you been in love?

劇中で守のチャット相手のジジババが「いつから懸想しておった?」と尋ねてきたときの台詞である。自分の高校生、大学生の教え子たちは「懸想=けそう」という日本語を知っているだろうかとあらぬことも考えた。be in loveで、「恋をしている」の意である。B’zも“I’m in love?”と歌っているし、『 ベイビー・ドライバー 』でもケビン・スペイシーが“I was in love once.”と語っていた。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アドベンチャー, アニメ, 北村匠海, 宮沢りえ, 日本, 監督:村野佑太, 芳根京子, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ぼくらの7日間戦争 』 -前作には及ばない続編-

『 屍人荘の殺人(映画) 』 -原作をさらにライトに仕上げた映像作品-

Posted on 2019年12月15日2020年4月20日 by cool-jupiter

屍人荘の殺人 50点
2019年12月14日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:神木隆之介 浜辺美波 中村倫也
監督:木村ひさし

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191215035154j:plain
 

『 屍人荘の殺人(小説) 』の映画化である。しかし、原作小説の忠実な映像化ではなく、一応ちょっとした変化を織り交ぜている。なので原作を読んだ人も、興味があれば映画館に足を運んでもよいだろう。それなりに面白い出来に仕上がっている。

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あらすじ

大学のミステリ愛好会の明智恭介(中村倫也)と葉村譲(神木隆之介)は、同じ大学の探偵少女・剣崎比留子(浜辺美波)の誘いで、ロックフェス研究会の夏合宿に参加することとなった。宿泊先は紫湛荘。しかし、その別荘が屍人荘に変貌。外部の人間も数人交えて閉じこもるメンバーたち。そこで密室殺人が起きてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

『 センセイ君主 』で強く感じたことだが、浜辺美波の真骨頂はコメディエンヌを演じることかもしれない。本作でも非常に理知的な探偵を演じながらも、本質的には普通のお茶目なところもある女子大生になれていた。

 

中村倫也は顔芸で、神木隆之介も心の声でコメディを盛り上げる。特にサノスばりの指パッチンは明智恭介というキャラの切れ者ぶりと間抜けっぷりの両方を描き出す効果的な演出となった。言わずと知れた明智小五郎の明智の名前を冠しているだけあり、高等遊民の雰囲気を醸し出している。そしてワトソン役の葉村は、心の声がダダ漏れの、ある意味では非常に等身大のミステリ愛好会員であった。ミステリの世界に浸り過ぎたせいで、可愛いあの子との距離の縮め方が分からないという、『 桐島、部活やめるってよ 』で橋本愛にドギマギしていたあの姿が思い起こされた。

 

原作小説からのキャラも、映画オリジナルのキャラも、本作ではとにかくユーモアを前面に押し出している。それはやはりとある「舞台装置」とのバランスの為なのだが、それが効果的に機能している要因に、昨年公開の邦画『 カメラを止めるな! 』が挙げられる。また韓国映画の『新感染 ファイナル・エクスプレス 』や『 ゾンビランド:ダブルタップ 』など、このジャンルは常に新しいアイデアが投入されるものだ。ここでもどういうわけか、とあるプロレスラーが参戦してくる。非常に滑稽であり、恐怖でもある。その比率は9:1で、もちろん滑稽が9で恐怖が1である。そこかしこで笑えるのが本作の大いなる特徴である。

 

グロいはずの描写もレントゲン写真的に処理され、グロ耐性の無い人への配慮がされている。これはありがたい。おかげでデートムービーに使うこともできる。推理を楽しみたいという向きにも、それなりにフェアな材料提示がされている。ライトなミステリ好きにとってもそこそこ楽しめるように作られている。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191215035238j:plain
 

ネガティブ・サイド

原作小説もそうであったが、ハードコアなミステリファンを唸らせるような出来にはなっていない。序盤でこれ見よがしに、とある人物の不在をアピールしたり、マスターキーを濫用したりと、少々過剰サービスとも思える描写や演出が気になった。また原作にはない明智の台詞、「事件はまだ起きてはいないが、犯人は分かった」という台詞は、原作を読んだ者にとっては完全なるノイズである。原作未読者でも、すれっからしの人であれば、すぐにピンと来たことだろう。ライトなファンへの配慮かもしれないが、ハードなファンには雑音である。このあたりのバランス感覚にもう少し敏感になることが木村ひさし監督には求められる。

 

また、ギャグの面で滑っているものもあった。「迷宮太郎」はその最たるものだろう。キャラクターにしても、原作ではマニアか学者かというキャラが、映画では『 ショーン・オブ・ザ・デッド 』を鑑賞しながらニヤニヤしているだけ。また、このキャラの分析によって推理が進み、またサスペンスも生まれるのだが、そうした要素をほぼ全カット。ユーモアを前面に押し出してきたのは、サスペンス路線を放棄したからだという見方も成り立つ。事実、本作の「舞台装置」に対してのキャラクター達の対策はお粗末もいいところである。

 

また映画オリジナルの要素に関しては、現実的な感覚が欠けている。一番に思うのは、「スマホの画面ロックをしないのか?」である。この映画の一番の客層あたりは、この点だけで真相はともかくも犯人を当ててしまってもおかしくない。

 

原作にあったちょっとしたお色気どぎまぎ要素をキスに置き換えているにもかかわらず、肝心のキスシーンもなし。そこは比留子に大真面目な顔で『 覚悟はいいかそこの女子。 』の小池徹平と同じで投げキッスさせれば良かったのだ。そういうサービスシーンすら思いつかなかったのか。

 

最終盤に明智と比留子が再対決。そんなアホな。原作のマイナス要素だったシリーズ化への野望が、映画本編ではかなり薄まっていたにもかかわらず、ここでそれをやるか?しかも、自分が葉村ならば、この展開で比留子についていこうとは決して思わないだろう。続編(『魔眼の匣の殺人 』)も映画化するなら、少なくとも監督は変えてもらいたい。

 

総評 

浜辺と神木の掛け合いを楽しむ作品である。推理についてはライトなファン向け、○○○要素についてもライトなファン(このジャンルにそんな層が存在するのか疑問だが)向け。結局のところ、高校生や大学生カップルが一番の客層になるだろうか。悪い作品ではない。しかし手放しで褒められる作品でもない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話

Awesome!

劇中の「すごい!」である。ただし、Awesomeは「すごい」、「素晴らしい」といった意味以外にも、リアクションで使われることも多い。

A: Can you get this job done by the end of the day?

B: Sure. No problem.

A: Awesome.

などのようにも使える。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, コメディ, ミステリ, 中村倫也, 日本, 浜辺美波, 監督:木村ひさし, 神木隆之介, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 屍人荘の殺人(映画) 』 -原作をさらにライトに仕上げた映像作品-

『 “隠れビッチ”やってました。 』 -女ドン・ファン物語・・・ではない-

Posted on 2019年12月9日2020年4月20日 by cool-jupiter
『 “隠れビッチ”やってました。 』 -女ドン・ファン物語・・・ではない-

“隠れビッチ”やってました。 40点
2019年12月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐久間由衣 森山未來
監督:三木康一郎

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191209023021j:plain
 

三木康一郎監督は、平凡な作品を量産するという印象を持っている。ただし、時々『 旅猫リポート 』のような駄作も作るので、楽観はできない。本作はどうか。可もなく不可もない・・・というより、可もあるが不可もあるという作品である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191209023042j:plain
 

あらすじ

ゲイのコジとヤリマンのアヤの3人でシェアハウスに暮らす荒井ひろみ(佐久間由衣)は、男を自分に惚れさせては、付き合うことなく袖にするという自称“ビッチ”。しかし、ある日、勤め先のデパートのアルバイトの男子に恋心のようなものが芽生えて・・・

 

ポジティブ・サイド

主演の佐久間由衣と同居しているコジ役の村上虹郎とアヤ役の大後寿々花が印象的な演技をしてくれた。女性二人と同居している男性というのは、それだけで奇異に感じるが、登場した瞬間から「ああ、このタイプの人間なのか」と腹にストンと落ちる。それだけ表情、身のこなし、仕草、声の出し方に話し方、そして偏見とも取られかねないが、その家事家政能力の高さから、三人の中で最も女性的である。より正確に言えば最も姐御肌である。コジの存在が、この奇妙な三人組の関係と生活を引き締めている。

 

アヤも良い。彼女のような女性の方が、主役のピロよりも遥かに共感できる。寂しさを紛らわせるために肌と肌を合わせるというのは、ごくごく自然なことだ。体と体がつながって、それから先にある心と心のつながりを求めるというのも、ごくごく自然なことだ。これが高校生ぐらいだと、互いの心がある程度充分に惹かれ合っているということが望ましいが、社会的に自立した大人(それが必ずしも精神的に自立した大人であるとは限らない)であれば多少の手順前後は構わない。『 シンクロナイズドモンスター 』のアン・ハサウェイが良い例である。

 

三沢さんを演じた森山未來は、ある程度アヤとの共通点が認められる。線路脇でいきなりとある行動に出るわけだが、Jovianは劇場で思わずガッツポーズをしそうになった。自分ならこうするだろうな、という行動をまさに彼が体現してくれたからである。気弱そうに見えるが、自分の弱さや負い目をさらけ出せる人間というのは、それだけで強い人間である。彼には“逃げた”過去があり、ひろみからも逃げそうになる。そこで条件付きながら踏み止まったのには拍手喝采である。なぜなら、Jovianは似たようなシチュエーションで逃げ出したことがあるからである・・・。三沢さん、幸せになってくれ・・・。

 

ネガティブ・サイド

佐久間由衣は悪い演技をしていたわけではないが、では良い演技だったかと問われれば、答えに窮してしまう。ただ単にでかい声を出せばいいわけではないし、鼻をほじほじすればガサツな印象を生み出せるわけでもない。公園で大声を出して木に話しかければ酔っ払いに見えるわけでもない。全てが演技臭い演技で、見ていて全く自然体に感じられなかった。演技というのは、演技していると悟らせないように演技するもので、映画というのは、連続していないシーンとシーンを連続したものとして見せる技法である。佐久間由衣のシーンでは、全てが不自然な作り物であるという感覚をぬぐえなかった。

 

ひろみのバックグラウンドについても矛盾がある。中盤では、母親は父親に経済的に支配されていたというが、終盤になると父親はまともに仕事をしていなかったことになる。どういうことだ?経済的に支配されるというのは、妻が稼いだ金を全て夫が略取するということか?そうではないだろう。普通は『 アンダー・ユア・ベッド 』の千尋のような状態を、経済的に支配されると言うはずだ。

 

もう少しライトなところでは、惹句にある「3年でふった男の数600人」というのも眉つばである。1年で200人ふるということは、ほぼ2日に一人をふっているわけで、それだけの出会いの機会を生み出す、もしくは与えられるということがいささか現実離れしている。また、それだけの男に接してきて、これまで暴力男や、もっと言えばデートドラッグを使うような男に引っかからなかったのは、棋士・藤井聡の言葉を使わせてもらうならば「僥倖」以外のなにものでもない。というか、暴力男に育てられた女性は、どういうわけか暴力男を引き寄せてしまう傾向があるのだが、その辺のリアリティにも欠けていた。暴力男が出てこないことが問題なのではなく、ひろみがどのようなアンテナやセンサーを使って男を選り分け、嗅ぎ分けているのかの描写が不足していたように感じられた。

 

エンドクレジット後の1コマも蛇足である。焼けぼっくいに火がついても構わないし、怒りの炎が燃え盛っても構わない。なぜなら、ひろみというキャラクターにはまったくと言っていいほど共感できなかったからである。まあ、普通にこのスキットを見て、効果音を聴く限りは後者なのだろうが、原作者のエッセーその他を買って、自分の解釈を確かめてみようとも思わない。

 

総評

タイトルが刺激的なだけで、ストーリーとしてはそれほど練られたものでもない。主演の演技にも褒められるところも少ない。Jovian夫婦は観終わって劇場の照明がついた時に「何じゃこりゃ?」と二人して眉間にしわを寄せて見合ってしまった。カップルのデートムービーには向かない。女子中高生あたりがグループで鑑賞するか、あるいはお一人様上等の男性または女性あたりが本作のターゲットになるだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

chew up the scenery

これは慣用句で、『 グランドピアノ 狙われた黒鍵 』で紹介した ”break a leg” と同じくtheater languageである。意味は≪大げさな演技をする≫である。主演の佐久間由衣の熱演には敬意を表すが、空回り気味であった。ニコラス・ケイジ、船越英一郎、藤原竜也あたりがscenery-chewing actorの好例だろうか。映画のレビューを英語で読みたいという人ならば、是非知っておくべき表現である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンス, 佐久間由衣, 日本, 森山未來, 監督:三木康一郎, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 “隠れビッチ”やってました。 』 -女ドン・ファン物語・・・ではない-

『 影踏み 』 -演出に課題を残す変則探偵もの-

Posted on 2019年11月19日2020年4月20日 by cool-jupiter

影踏み 55点
2019年11月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:山崎まさよし 尾野真千子 北村匠海 滝藤賢一 中村ゆり
監督:篠原哲雄

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ミステリやクライムドラマにおいて事件を解決するのはかつては警察や探偵の仕事だった。時代を経るごとに、その役目を担う存在は変遷し、今では医師や法医学者、看護師、そして弁護士などがそれにあたる。そこへ、泥棒が事件を解決するという物語である。もちろん、『 羊たちの沈黙 』のように犯罪者が犯罪者を推理で追い詰めるような傑作もあるが、泥棒というのはなかなか新鮮だ。漫画『 ドロ刑 』は無念にも打ち切られたが、泥棒が探偵というジャンルを開拓できるか。

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あらすじ

ノビカベの異名を持つ凄腕の泥棒、真壁修一(山崎まさよし)は、県議の邸宅に忍び込んだ時、県議の妻の葉子が放火しようとしているのを阻止して御用となった。刑期を終えて出てきた修一は啓二(北村匠海)と共に当時の事件の真相を探るために動き出す。それは修一の過去のトラウマに向き合うことでもあった・・・

 

ポジティブ・サイド

最も印象に残ったのはBGMである。主演の山崎がそのまま音作りにも関わったということで、エドガー・ライトやスコット・スピア、ジェレミー・ジャスパーなど映画を作りつつ、音楽も作れる、あるいは既存の音楽を映像に合わせられる人材がシーンで台頭しつつある。主演俳優が音楽を手掛けるというのは邦画では異例のこと。しかし、(東芝的な意味ではない)チャレンジは素直に歓迎しようではないか。

 

俳優陣で最も印象に残ったのは放火未遂の中村ゆり。『 町田くんの世界 』の関水渚の20年後のようであり、『 記憶にございません! 』の石田ゆりの15年前のようである。つまり、美人であると言いたいわけである。10代、20代の男子に告ぐ。女性というのは25~45歳ぐらいが美のピークである。心しておきたまえ。

 

ノビカベこと修一が過去の事件および現在の殺人事件の真相解明に乗り出していく、その暗さが魅せる。陽の光の当たらない社会の一隅にひっそりと、しかし力強く根付いている地下世界の住人たちとの接点や闇社会の人間関係に怯むことなく進んでいく覇気をも感じさせる執念が、基本的に無表情で、それでいて険のある顔つきをした山崎まさよしによって巧みに体現されている。山崎は、存在感だけならキャスティングの勝利と言える仕事をした。

 

本作は日の当たる世界の住人と闇の世界の住人を必ずしも綺麗に区別しているわけではない。人間には誰しも二面性のようなものがある。善人と悪人がいるのではなく、ある人は時に善人であり、時に悪人であるという世界観を提示している。警察が法を犯し、泥棒が正義と真実を追求する。一部の主要な登場人物たちには、綾辻行人の小説『 殺人鬼 』に仕込まれているトリックと同じ設定がなされている。その事件の解決が、修一自身の抱える闇を晴らすことにもつながっている。この構造は秀逸である。

 

ネガティブ・サイド

大筋では楽しめる作品であるが、残念ながら粗もかなり目に付く。

 

まず修一と啓二の関係がすぐに見えてしまう。『 イソップの思うツボ 』はこの点でかなりアンフェアであったが、『 ブルーアワーにぶっ飛ばす 』はフェアであった。本作も一応フェアである。ただし作りがフェアだからといって、見せ方まで上手いわけではない。冒頭の瞬間から強烈な違和感が漂っている。ちょっと映画を見慣れた人、あるいは倒叙ものの小説をいくらか読んだ経験のある人なら、すぐに気付いてしまうことだろう。やはり『 シックス・センス 』は名作だったと再認識。むしろ、『 シックス・センス 』のおかげですれっからしの映画ファンが増加したのかもしれない。ならばなおのこと、後発作品の監督は知恵を絞らなければならない。

 

大竹しのぶがある人物の首を絞めるシーンも酷い。腕にも手にも力が入っていないのが一目瞭然である。何故こんな中途半端な絵で妥協してしまうのか。篠原哲雄監督は首絞めに何らかのトラウマでも抱えているのか。

 

修一が真相を追う中で、とある通帳を手に入れ、クリーンではないカネのやり取りが明らかになるシーンがあるが、ここもリアリティを欠いている。地下世界、暗黒街の大物のような男が馬鹿正直に自分の名義の口座から送金するだろうか。原作小説の描写がそうなっているのかもしれないが、映画化に際してより現実に即した形に改変することは認められてしかるべきだ。

 

本作最大の弱点は、修一の忍び込みの技術の凄さが全く伝わらないところにある。窓ガラスを如何に音を立てずに割るか。ふすまやドアの開閉時の音を如何に抑えるか。抜き足差し足忍び足を如何に実行するか。そうした伝説のノビ師の仕事人っぷりが画面を通じて伝わってこない。この点は大いに不満が残った。

 

本作のキーとなる概念に「 双子 」が挙げられる。珍しい存在ではあるが、天然記念物ではない。なので尾野真千子の務める園にいても全く不思議はない。いや、むしろいるべきだった。自我が発育しきっていない段階での「 双子 」の関係性を描いておけば、その後の展開により説得力と迫真性が与えられたことだろう。

 

総評

野心的な作品である。それは間違いない。しかし、演出面で数々の課題を残している。高校生ぐらいではプロットを追いかけるのにも難儀するかもしれない。2名ほど、恐ろしく低レベルの演技を見せる役者がいることにも注意したい。主人公やそれを取り巻く人間模様を理解する、あるいは主人公らに共感するのが難しい作品であるが、中村ゆり演じる葉子に狂わされる男の気持ちが分かれば、それはそれで本作を楽しむ一助になる。アラフォーのおっさん映画ファンには自信を持ってお勧めできる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Snap out of it already.

 

「もういい加減に止めろよ」という北村匠海の台詞(うろ覚えだが)。Snap out of it. というのはそれ自体が成句で、習慣をスパッとやめる、気分を入れ替える、という意味がある。この表現は高校一年生の時にRod Stewartの“Sweetheart like you”で学んだことを今でも覚えている。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, ミステリ, 中村ゆり, 北村匠海, 尾野真千子, 山崎まさよし, 日本, 滝藤賢一, 監督:篠原哲雄, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 影踏み 』 -演出に課題を残す変則探偵もの-

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