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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 バンブルビー 』 -本家よりも面白いスピンオフ-

Posted on 2019年3月28日2020年1月9日 by cool-jupiter

バンブルビー 65点
2019年3月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ヘイリー・スタインフェルド ジョン・シナ
監督:トラヴィス・ナイト

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本家本元は『 トランスフォーマー 』、『 トランスフォーマー リベンジ 』、『 トランスフォーマー ダークサイド・ムーン 』の3つだけ観た。観れば観るほど面白さを失っていく作りで、マイケル・ベイにはいささか失望させられた。最後の2作はスルーさせてもらっている。しかし、Jovianが推しているヘイリー・スタインフェルドが主演とあらば、観ないわけにはいかない。

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あらすじ

時は1980年代。父の死を乗り越えられない孤独な少女チャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は、リペアショップから黄色のビートルを譲り受ける。しかし、それはサイバトロンの戦士B-127が姿を変えたものだった。チャーリーは記憶と声を失った戦士をバンブルビーと名付けた。種を超えた友情を育む二人。しかし、そこにディセプティコン達が現れ、チャーリーとバンブルビーは否応なく戦いに巻き込まれていく・・・

ポジティブ・サイド

トランスフォーマー映画の大きな弱点の一つに、巨大ロボットたちの肉弾戦に説得力がないことだった。金属生命体同士の激突に、質量が感じられないことが個人的には一番の不満だった。スケールは全く違うが、『 シン・ゴジラ 』でJovianが最も好きなシーンの一つは、第四形態ゴジラが踏みしめた脚を上げただけで、家屋がバラバラになって空中を舞うシーン。おそらく時間にして2秒ほどだが、これでシン・ゴジラの実在性、迫真性が大いに増した。ちなみに、そうした細かな描写がほとんどなく、怪物同士が激突するだけのCGI shit festに『 パシフィック・リム 』がある。トレーラーにもあり、本編でもかなり笑えるシーンの一つとして、バンブルビーがチャーリーの家のソファに座って、それを壊してしまうシーンがある。彼のお茶目さを表すとともに、ボットの質量を表現する重要なシーンでもあった。

バンブルビーというキャラの魅力付けにもぬかりは無い。声を無くした彼が、コミュニケーション手段としての音声を手に入れるシークエンスは、非常にノスタルジックだ。カセットテープにレコードと、昭和の終わりから平成の初めの頃を思い出す。80年代のヒットチューンも満載で、一定以上の年齢層には刺さるだろう。バンブルビーがビートルの姿で疾走するエキサイティングなシーンから、非常にコミカルなシーンまであり、彼が単なる金属生命体ではなく、使命感と責任感のある戦士であり、それ以上に非常に心優しい人間味のあるキャラクターであることが如実に伝わってくる。ガレージで微妙に絶妙にノリノリになっているバンブルビー、嫌なものは嫌だと断固拒絶するバンブルビーを、我々はどうしたって愛さずにはいられない。

バンブルビーが魅力あるキャラクターに仕上がったのは、チャーリー演じるヘイリー・スタインフェルドの演技に依るところも大きい。こじらせ女子を演じさせれば右に出る者が無いないのは『 スウィート17モンスター 』で証明済みだ。そうそう、スティーヴィー・ニックスの楽曲は本作でも聞こえてくる。おそらくヘイリーのfavorite singerなのだろう。お父さんっ子であり、元高飛び込み選手であり、遊園地の売店のパートタイマーであり、メカニックの卵でもある。単に孤独な少女なのではなく、生き場をなくし、それでも生き場を求める少女が、それをオートリペアショップの古ぼけたビートルに見出す様、そしてバンブルビーの名付け親になり、ある意味での育ての親になり、無二の親友になり、戦友になっていく様はビルドゥングスロマンである。今も昔もメカやコンピュータにのめり込むのは男の子だったが、それを女の子にするだけでドラマが明るくなるし、よりカラフルになる。

ジョン・シナはプロレスラーとしては同時期のカート・アングルやJBLに遥かに劣った。しかし、演技に関してはストンコやバティスタよりも上かもしれない。ただ、軍人以外のキャラを見ないことには何とも言えないが。

シリーズ全てを知らなくとも楽しめるようになっているし、シリーズを全て追っている人ならもっと楽しめるだろう。とにかく監督がマイケル・ベイでなければ良いのである。

ネガティブ・サイド 

チャーリーの隣人の男の子役はキャラが上手く固まっていないという印象を受けた。気になる女子に話しかけたいが、うまくいかない。だがそれはタイミングが悪いのであって、彼が話しかける時を弁えていないというわけではない。一方で、自分で自分に ”You’re not a nerd, You’re not a nerd, You’re not a nerd.” と言い聞かせるところからして、設定ではオタクらしい。にも関わらず、部屋に飾ってあるポスターは『 遊星からの物体X 』。だがこれはリメイクのそれ。ナードならオリジナルの方を貼っとけと言いたい。また部屋にあった姉のものだと言っていた化粧品らしき瓶の数々は何なのだ?一瞬トランスジェンダーか何かかと思ったが、それならチャーリーが好きなことが説明しづらい。このキャラが充分に立っていないというか、属性が不明なのが気になって仕方が無かった。

不可解なシーンはチャーリー絡みでもあった。ネタばれになるので詳細は書けないが、何故そこでバンブルビーにそんなことをするのだ、というシーンが存在する。チャーリーのメカニックの卵設定はどこへ行ったのだ?

総評

シリーズを全て観ていない者の感想なので、見落としているもの、見誤っているものがあるはずである。それでも、欠点よりも長所が目立つ作品である。バンブルビーという名前が与えられる瞬間もいい。Prequel作品として見れば『 ハン・ソロ スター・ウォーズウォーズ 』よりも上質である。 もしも黄色のビートルが良いなと感じられたら、Jovianの先輩、水沢秋生の実質的デビュー小説『 ゴールデンラッキービートルの伝説 』をどうぞ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクション, アメリカ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:トラヴィス・ナイト, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 バンブルビー 』 -本家よりも面白いスピンオフ-

『 ディック&ジェーン 復讐は最高! 』 -アメリカ版鼠小僧物語-

Posted on 2019年3月24日2020年1月9日 by cool-jupiter

ディック&ジェーン 復讐は最高! 60点
2019年3月20日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジム・キャリー ティア・レオーニ
監督:ディーン・パリソット

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 嫁さんが近所のTSUTAYAで借りてきたのを一緒に鑑賞。これを見れば、今後はジム・キャリーの前歯を見るたびに、鼠小僧を連想するようになること間違いなし。原題は“Fun with Dick and Jane”で、1970年代に製作、公開された映画の現代版リメイクである。

あらすじ

IT企業に勤務するディック(ジム・キャリー)は、広報本部長への昇進を告げられる。妻のジェーン(ティア・レオーニ)も大喜びして仕事を辞めた。喜び勇んだ二人は新しい芝生を入れ、庭にプールを作り始めたが、実はディックの会社は粉飾決算で実態は経営破綻状態。社長だけは自社株を売り抜けていた。再就職活動がうまくいかないディックとジェーンは、ついに泥棒をすることになるが・・・

ポジティブ・サイド

ジム・キャリーと言えば、人間離れした怪演で知られる。それは『 グリンチ 』のレビューでも述べた。しかし、人間離れしない程度に面白い演技もできる俳優であることを本作は教えてくれる。意外にサラリーマン役がハマる。たとえばジョージ・クルーニーやケビン・コスナー、ハリソン・フォード、ブルース・ウィリスらは普通の一般人役は馴染まない。そう考えれば、ジム・キャリーの芸域の広さが見えてくる。

ティア・レオーニも良い味を出している。『 ディープインパクト 』のリポーター役で世に出たが、大統領役のモーガン・フリーマンに“I want …”と言って“Want?”と逆に凄まれてしまった小娘が、妻になり、子も持った、大人の女性を過不足なく演じている。

単なるコメディで終わることなく、『 オーシャンズ11 』や『ジーサンズ はじめての強盗 』的な手に汗握る泥棒シーンもあり、『 ショーシャンクの空に 』のような勧善懲悪物語的な一面もあり、『エリン・ブロコビッチ 』的なフィニッシュを飾る。普通に良い話である。

ネガティブ・サイド

余りにもトントン拍子に泥棒稼業が成功していくのはどうだろうか。コメディ映画に突っ込んでも詮無いことだが、そこがどうしても気になってしまった。特に子どもがいる設定は大胆に改変しても良かったのでは?

後は笑いたくても笑えないパートがいくつかある。ディックが移民局に取り締まられるパートも、誰がディックの財布を拾ったのかを明らかにしないのなら、不要だろう。単にディックがボコられて、顔が変形して、喋りも変になりました、というだけでは笑えないし、そんな方法を取らなくても、ディックの落ち目っぷりは描写できるはずだ。またジェーンも化粧品モニターで顔面に発疹ができてしまう展開もいらない。ヨガのインストラクターを辞めてしまったことで、脂肪をたくわえてしまった、という方がまだ説得力がある。ティア・レオーニは体作りに苦労するだろうが。

本作の弱点は、ジム・キャリーがあまりジム・キャリーっぽくないところである。水鉄砲を取り出そうとして取り出せないのは、面白いことは面白いが、我々がジム・キャリーに求めるのは、気持ち悪い面白さなのである。単純にコメディをやっているから面白いというのなら、ジム・キャリーである必要はどこにも無いのである。

総評

まさに手持ち無沙汰の雨の日DVDである。そうそう、TVドラマの『リゾーリ & アイルズ 』好きなら、本作には笑ってしまうかもしれない。アンジー・ハーモンがレオーニに向かって“Hey, Jane!”と呼びかけるシーンがあるのである。ジェーンはあなたでしょ!と突っ込んでしまうこと請け合いである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, コメディ, ジム・キャリー, 監督:ディーン・パリソット, 配給会社:ソニー・ピクチャーズLeave a Comment on 『 ディック&ジェーン 復讐は最高! 』 -アメリカ版鼠小僧物語-

『 ビールストリートの恋人たち 』 -人間賛歌の要素が不足-

Posted on 2019年3月18日2020年1月10日 by cool-jupiter

ビールストリートの恋人たち 60点
2019年3月10日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:キキ・レイン ステファン・ジェームス 
監督:バリー・ジェンキンス

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原題は“If Beale Street could talk”。『 私はあなたのニグロではない 』のJ・ボールドウィンの小説『 ビールストリートに口あらば 』の映画化である。1970年代の小説を2010年代に映画化する意味は何か。そこにアメリカ史を貫く恐るべき差別の構造と、それを乗り越えんとする確かな意志が存在することを示すためである。

あらすじ

ファニー(ステファン・ジェームス)とティッシュ(キキ・レイン)は、乗り越えるべき問題を抱えながらも幸せな恋人同士だった。しかし、ある時、ファニーが身に覚えのない罪で投獄されることに。彼の無実を証明すべく、ティッシュは奔走するが・・・

ポジティブ・サイド

恋愛とは本来とても美しいものである。だからこそ、詩になり歌になり物語になり映画になる。そして愛が最も美しく光り輝くのは、往々にして逆境においてである。それは『 ロミオとジュリエット 』において顕著なように、シェイクスピアの時代からの真理である。そして本作において描かれるファニーとティッシュの恋愛模様は、シネマティックな要素を極力排除し、それでいてドラマティックなものとして描かれる。物語序盤に描き出される、正式に恋人同士となる前の二人のちょっとした会話、食事、歩き方や目配せは、恋人未満特有の、それでいて恋人になることが約束されたかのような、非常に陳腐で、それでいてロマンティックな瞬間を生み出している。ファニーがティッシュを部屋に誘うシーンは、『 ロッキー 』で、ロッキーがエイドリアンを自室に誘うシーンとは異なる意味で、印象に残るシークエンスだった。ラブシーンも美しい。10~20代の若者の恋は得てして動物のように盛ってしまうものだが、本作はそんなアプローチは取らない。宝箱を大切に開けるかのようなファニーに、ティッシュも身を委ねる。女性というのは誘われたがっているものだ。しかし、そのタイミングと方法を間違ってはならない。そうした教訓まで教えてくれるのが本作である。

本作のもう一つの見どころは、ファニーとティッシュ、それぞれの家族同士の付き合いであろう。アメリカ社会におけるどうしようもない差別の構造と意識は、これまでに無数の映画が映し出してきた。しかし、本作の黒人家族同士の微妙な距離感での付き合い、そして衝突には息を飲むシーンがある。黒人は歴史的に白人に差別されてきた存在というだけではなく、黒人同士の間でも属性の押し付け合い、すなわち差別の構造が生まれてくることを描いているからだ。ティッシュの母親が自分の孫に投げかける呪詛の言葉に我々は衝撃を受ける。それが人間性を完全否定する言葉だからである。『 グリーンブック 』でも顕著だったが、同じ人種というだけでは人は分かりあえない。しかし、人と人とが分かり合い、触れあうためには、人の人たる面に接しなくてはならない。誰かの力になりたいと心から思うこと、可能であれば自分が相手になり変って苦しみを受け止めたいと願うこと。そうした心の在り方を本作は若い二人の恋人たちの姿を通して追求する。理不尽な差別の構造に心を痛め、無私の愛の形に涙する。それは陳腐ではあるが、それゆえに普遍性を感じさせる。

ネガティブ・サイド

若気の無分別と言ってしまえばそれまでなのだが、ファニーが自身の荒々しさをもう少しコントロールできる男であれば、そもそも冤罪騒ぎは起きなかったのではないか。もちろん、自分の女に無礼な態度ですり寄ってくる男がいれば、番の雄としては全力でそれを排除するものだ。しかし、お互い人間なのだから、まずは言葉を尽くせなかったのだろうか。

全体的なトーンも非常に暗く、またペースもかなり遅い。見どころとしての家族同士のパーティーとそこでの諍いは文句なしの緊張感をもたらしてくれる。だが、その他のパートはどうにも盛り上がりに欠ける。それは何よりも、ある意味でマルコムXな思想がその向こうに透けて見えるからだと感じられてならない。1960代から言われ始めた“Black is beautiful.”という思想は、“The other colors aren’t.”に容易に変化してしまう恐れを孕んでいる。もちろん、エド・スクライン演じる警察官は悪徳の権化そのものと思って間違いない。しかし、その男とバランスを取るべき不動産屋のインパクトが弱い。黒人賛歌は結構であるが、その一方に白人参賛歌なり女性賛歌なりアジア系やヒスパニックへの賛歌がないことには、結局のところ人間賛歌になりえない。この部分が『 グリーンブック 』がカバーできていたところで、『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』や本作がフォーカスしきれなかった部分である。『 クレイジー・リッチ! 』や『 search サーチ 』などが大ヒットしたように、アメリカという人種のるつぼ、多民族国家におけるアジア系やインド系のデモグラフィックは無視できない規模になっている。そうした現実世界とのバランスと映画世界のバランスに不均衡があることが本作の最大の弱点であるように思えてならない。

総評

本作は映画ファンよりも小説ファンや文学ファンを引き付けるのかもしれない。恋愛模様の美しさ、愛憎劇の激しさは派手さで表すよりも観る者の感覚や想像力に委ねさせる方が良い場合もある。人間を描くという点では弱いが、恋人たちを描くという点では標準以上の美しさを備えた作品と評することができる。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, キキ・レイン, ステファン・ジェームス, ヒューマンドラマ, 監督:バリー・ジェンキンス, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 ビールストリートの恋人たち 』 -人間賛歌の要素が不足-

『 シンプル・フェイバー 』 -現代風サスペンスの模範的作品-

Posted on 2019年3月16日2020年1月10日 by cool-jupiter

シンプル・フェイバー 65点
大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アナ・ケンドリック ブレイク・ライブリー ヘンリー・ゴールディン
監督:ポール・フェイグ

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『 ピッチ・パーフェクト 』シリーズのアナ・ケンドリック、『 ロスト・バケーション 』のブレイク・ライブリー、『 クレイジー・リッチ! 』のヘンリー・ゴールディングの共演となれば観ないという選択肢は無い。特にゴールディングは、Jovianが勝手に私淑しているHapa英会話のセニサック淳に似ているので、やはり勝手に応援しているアジア俳優なのである。

あらすじ

シングルマザーのステファニー(アナ・ケンドリック)はV-Logでママ友向けの動画を作成する傍ら、子育てにいそしんでいた。ひょんなことから、NYの大企業でフルタイムで働くエミリー(ブレイク・ライブリー)と知り合う。エミリーの夫、ショーン(ヘンリー・ゴールディング)は大学教授にして作家。対照的なステファニーとエミリーは親密になっていき、ステファニーはエミリーの子どもの世話役をすることも。しかし、ある日、ステファニーに子どもを預けたままのエミリーが姿を消して・・・

ポジティブ・サイド

ギリアン・フリン原作の『 ゴーン・ガール 』と非常によく似た構造を持っている。消えた女を追えば追うほどに新たな謎が見つかっていくというのは、ウィリアム・アイリッシュの古典的名作『 幻の女 』以来のクリシェである。タイムトラベル物、記憶喪失物と並んで、消えた女のミステリというのは出だしの面白さにおいてはハズレが少ないジャンルなのである。近年では『 ドラゴン・タトゥーの女 』や『 セブン・シスターズ 』などが標準以上の出来だと言える。そして本作はこれらよりも、サスペンスで僅かに、ユーモアで大きく、そしてミステリ部分で僅かに上回る。ただし『 ゴーン・ガール 』にはいずれの面でもやや及ばない。

本作の面白さは、まず第一にアナ・ケンドリックとブレイク・ライブリーの好対照ぶりにある。シングル・マザーにしてYouTuberのステファニー、そしてワーキング・マザーにしてNYの会社でタイトル持ちのエミリー。この二人がふとしたことから親密になり、秘密を明かし合い、お互いの子どもを預け合うようになるまでが実にテンポ良く描かれる。もちろん、そこまでの展開に伏線がてんこ盛りなので、しっかりと目を凝らして耳をすましておくように。

他に注目すべきところとして、エミリーの哲学というか生き方に、ステファニーが共感し、それを実践するシーンである。と同時に、ステファニー自身の過去の秘密が現在にも蘇ってくるのだ。What a femme fatale! 余り深く考え込んでしまうと背筋が寒くなるので、ステファニーの秘密の謎を探ろうとするのは、ほどほどにしておくべし。また、エミリーにはてっきり陳腐過ぎる直球のトリックが仕込まれているのかと思いきや、ちょっとした変化球であった。綾辻行人の『 殺人鬼 』のトリックかと見せかけて、飛浩隆の『 象られた力 』所収の短編『 デュオ 』に見られるトリックだった。

ブレイク・ライブリーのファッション、アナ・ケンドリックの美乳(ブラまでしか見えないが)、ヘンリー・ゴールディングのRPアクセントの英語にも注目しながら本作を堪能して欲しい。

ネガティブ・サイド

いくつかのサブ・プロットとエンディングに謎が残る。特に、ステファニーの過去の秘密の真相については、観る者を試す、あるいは意図的に混乱させようとしているかのようである。特に、中盤のステファニーの活躍を見るにつけ、彼女の過去の秘密の真相がどんどんとどす黒くなっていく。ここまでモヤモヤとした気分にさせるなら、いっそ真相を明かしてくれと思ってしまう。

また、エミリーの使うトリックでは、おそらく警察を欺けない。アメリカの警察の捜査力はドラマや映画から推し量るしかないが、このトリックで絶対に日本の警察は騙せない筈だし、アメリカの警察も騙せまい。その理由については中橋孝博先生の著作を読めば分かるかもしれないし、分からないかもしれない。人間の身元を確認する方法は一つだけではないということである。

総評

弱点はあるものの、適度なユーモアがある上質なサスペンスである。実績充分にして今後の活躍も期待できる2人の女優のガチンコ演技対決を見逃してはならない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, サスペンス, ブレイク・ライブリー, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:ポニーキャニオンLeave a Comment on 『 シンプル・フェイバー 』 -現代風サスペンスの模範的作品-

『 リンダ リンダ リンダ 』 -濡れネズミたちの青春賛歌-

Posted on 2019年3月10日2020年1月10日 by cool-jupiter

リンダ リンダ リンダ 65点
2019年3月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ペ・ドゥナ 香椎由宇
監督:山下敦弘

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“We will rock you”や“We are the champions”のQueenには敵わないにしても、それでもTHE BLUE HEARTSはビッグネームである。 “キスしてほしい”や“TRAIN-TRAIN”を聞いたことが無いという中高生は、今でも少数派だろう。1980年代に少年時代を過ごした者がTHE BLUE HEARTSおよび甲本ヒロトから受けた影響は巨大である。その中でも一際輝くのは“リンダリンダ”であろう。そのタイトルを冠した映画ならば観ねばなるまい。

 

あらすじ

とある高校のバンドが、ちょっとしたいざこざからメンバーの脱退を招いてしまう。残されたメンバーは3日後に迫った文化祭のステージのために、韓国人留学生のソン(ぺ・ドゥナ)にボーカルとして新加入してもらい、オリジナル曲ではなくTHE BLUE HEARTSの“リンダリンダ”の練習を始めて・・・

 

ポジティブ・サイド

『 スクールガール・コンプレックス 放送部篇 』を思わせる、BGMを極力排除した学校風景にはノスタルジアを感じた。この映画には、ドラマチックな展開は特に何も起こらない。しかし、そのことがシネマティックではないということを必ずしも意味しない。映画とはリアリティの追求が第一義で、本作にはそれがある。女子高生(というか女子全般)の人間関係の軽さと重さ、その底浅さと深さが全て表現されている。具体的に語ればネタばれになるが、本編の面白さを損なわないような例を挙げるとするなら、とある教室を皆が覗き込むシーンであろう。ここでは唐突に、現在の日本映画界の大スターが登場するので期待してよい。このシークエンスにおけるペ・ドゥナの目が素晴らしい。漫画的な目とでも言おうか、本来は日本語が不自由なはずの彼女が目で思いっきり語ってくれる。いや、目だけではなく立ち姿や口の微妙な開け方など、とにかく彼女の心の動きが手に取るように分かるのだ。そして、それを見つめる仲間の女子高生たち。自分にはこんな青春は無かったが、そこにあるリアリズムは確かに受け取った。

終盤にかけて、ようやく事件らしきことが起こるのだが、それをカバーしようとする彼ら彼女らがまた良い味を出している。はっきり言って中盤の描写はかなり中弛み気味なのだが、そうした陳腐な会話劇が、彼らを単なる有象無象のキャラクターに堕してしまわないような装置としてうまく機能していたのだと知る。この脚本はなかなかに心憎い。クライマックスは『 ボヘミアン・ラプソディ 』の同工異曲である。“リンダリンダ”ともう一曲が披露されるのだが、これは反則である。これは嬉しい不意打ちというやつである。このカタルシスは、『 ボヘミアン・ラプソディ 』とは決して比較してはならないが、それでも80年代に青春を経験したという世代に激しく突き刺さることは間違いない。

 

ネガティブ・サイド

甲本雅裕のキャスティングは悪くは無いが、ややノイズのようにも感じられた。甲本ヒロトという、ある意味でフレディ・マーキュリーのような男を憧憬の対象にするからこそストーリーが立つのである。彼そして彼らバンドとの距離が遠いからこそリアリズムが生まれるのであって、その逆ではない。悪い役者でも悪い演技でもないが、どうにもミスキャストに感じられた。

そしてラストの体育館の時計。撮影時点、または編集の時点で誰も気付かなかったのだろうか。これは大きな減点要素である。

 

総評

ドラマを期待するとガッカリするかもしれない。香椎由宇の水着姿が終ったところで離脱する人がいてもおかしくない。それほど静かな立ち上がりである。しかし、じっくりと向き合えば、ぺ・ドゥナの卓越した演技力と青春の普遍性を描いた、陳腐で芳醇な友情物語が味わえる。映画ファン、そしてTHE BLUE HEARTSファンにもお勧めをしたい。そしてぺ・ドゥナという小動物的な小悪魔の魅力も堪能して欲しい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, C Rank, ヒューマンドラマ, ペ・ドゥナ, 日本, 監督:山下敦弘, 配給会社・ビターズ・エンド, 香椎由宇Leave a Comment on 『 リンダ リンダ リンダ 』 -濡れネズミたちの青春賛歌-

『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

Posted on 2019年3月1日2019年12月23日 by cool-jupiter

母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 65点
2019年2月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:安田顕 倍賞美津子 松下奈緒 村上淳 石橋蓮司
監督:大森立嗣

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タイトルだけで物語が全て語られている。元はエッセイ漫画だったようだが、そちらは未見である。しかし、それが特別な物語でも何でもなく、男が普遍的に持ついつまで経っても子どもの部分を健全に誇張もしくはデフォルメした話であることは直感的に分かる。

 

あらすじ

宮川サトシ(安田顕)は中学生にして急性白血病を患ってしまった。母の明子(倍賞美津子)の必死の看病の甲斐もあって、サトシは回復。時は流れ、サトシは塾講師として慎ましやかに父・利明(石橋蓮司)と母と暮らしていた。しかし、母が癌で倒れてしまう。サトシはあらゆる手を尽くして母の回復を祈願するが・・・

 

ポジティブ・サイド

安田顕がまたしてもハマり役だった。『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』に続いて、高身長女性とペアになるのだが、それが妙に似合うのだ。サトシは塾講師として教務と教室運営をしているのだが、どういうわけか真里(松下奈緒)という超絶美人と付き合うようになる。この映画が、地方移住を時々真面目に語る5chの「 塾講夜話 」スレッドの住人達に希望を抱かせないことを祈りたい。その真里は、マザコンの性根を丸出しにするサトシを支え、明子にも献身的に寄り添い、宮川家の夕餉にも赴き、談笑する。はっきりいって完璧すぎるのだが、真里が最も輝くのはサトシを叱りとばす場面である。我々男は母親に注意されたり、小言を言われたり、世話を焼かれたりするだけでも、どういうわけか無性に腹が立つ。それは母の愛は無条件かつ無償で得られる物だという錯覚または傲慢さから来ているのではあるまいか。その愛が失われるという事態に直面して、サトシは母を失うまいと百度参りから滝行まで、あらゆる手を尽くす。それは見ていて非常に痛々しい。なぜなら、効果が無いと分かっていても、自分でもおそらく同じようなことをしてしまうからだ。そのように感じる男性諸氏は多いだろう。母の愛は偉大であるなどと無責任に称揚しようとは思わない。しかし、母の愛に息子はどう応えるべきなのかについて、本作は非常に重要な示唆をしてくれる。中学生以上なら充分に理解ができるはずだ。それも直観的に。

 

本作は、よくよく見ればとても陳腐である。日本のどこかで毎日、これと同じようなことが起きている。しかし、それがリアリティにつながっている。冒頭でサトシが棺桶の中の母に語りかけるシーンなどは、まさにJovianの父が、Jovianの祖母の葬式前夜に行っていた所作とそっくりであった。多分、自分もああなるのだろうなと理屈抜きに納得させられてしまった。

 

サトシの兄は最後の最後に良い仕事をしてくれる。母の病室にそっけなく貼られている「おばあちゃん」の絵に、我々はサトシの甥っ子または姪っ子の存在を知るわけだが、この物語はどこまでもサトシと母、父、真里の閉じた世界で進行していく。しかし、兄の祐一の登場によってそんなものはすべて吹っ飛ぶ。『 洗骨 』でも述べた、「日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海がある」という言葉を我々はまたもや想起する。Jovianは自分のことをサトシ型の人間であると感じたが、自分を祐一型の人間であると感じる人も多くいることだろう。それは感性であったり環境であったりで決まるわけだが、このような兄弟関係、家族関係は実に微笑ましい。家族は離散を運命づけられているということを『 焼肉ドラゴン 』に見た。しかし、無条件に再会そして再開できるのも家族ならではなのである。本作鑑賞を機に、母親にちょっと電話してみたという男性諸賢は多かろう。それが本作の力である。

 

ネガティブ・サイド

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の南沙良の鼻水タラーリは映画ファンに衝撃を与えたが、安田顕も負けてはいない。だが、本作は少しお涙ちょうだい物語に寄り過ぎている。観る者に「衝動的な泣き」よりも「受動的な泣き」をもたらす作りは、ただでさえ題材がチープなのだから避けるべきだった。『 日日是好日 』では、日常の平穏と死のコントラストが際立っていたが、それは何よりも一期一会、つまり出会いの一つ一つ、経験の一つ一つが、何一つとして同じではないという思想が溢れていたからだ。典子が父からの電話に出なかったことを悔やむシーンがあったからだ。サトシも母からの電話を疎ましく思うシーンがあるが、遠方に住む典子とは違い、サトシは両親と同居している。そのことが、いつか必ず来る母との別離のドラマを少し弱くしている。

 

上映時間は108分だが、編集によってもう8分は削れたようにも思う。特に坂道と自転車のシーンは不要であるように感じた。ロッキーをパロったシーンは笑えたが、それも映画のトーンと少しケンカしていた。サトシのある意味での変わらない幼児性を表したものかもしれないが、それは他のシーンで充分に伝わって来る。

 

これは個人の主観または嗜好に依るところ大なのだが、最後の晩餐論争は陳腐を通り越してくだらなく感じた。理由は観た人ならお分かり頂けよう。何故なら「うちのが一番に決まっている!」からである。これは冒頭の梅干し論のところにも当てはまるもので、もし祖母なり母なり、場合によっては父が漬物や総菜を作ってくれていたなら、一番美味しいのはそれに決まっている。おふくろの味が最強である。You are programmed to want the taste of home cooking. それが真理である。最後の晩餐論争は、キャラクターから距離を取れる人でないと、その面白さが伝わらない。非常に良いシークエンスなのだが、諸刃の剣になってしまっているように思えた。

 

総評

男というのはつくづく不器用な生き物だと思う。我々はもしかすると何から何まで母や妻に負わなければ生きていけないのではないか。しかし、それでも良いのかもしれない。母なる海に抱かれるとは使い古された表現だが、だからこそ、そこには真実があるのだろう。そういえば日付が変わって昨日がおふくろの誕生日だった。罰あたりな息子ですまん。今週末にはご飯に誘おう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 倍賞美津子, 安田顕, 日本, 村上淳, 松下奈緒, 監督:大森立嗣, 石橋蓮司, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

『 洗骨 』 -死から目を逸らすことなかれ-

Posted on 2019年2月25日2019年12月23日 by cool-jupiter

洗骨 65点
2019年2月17日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:奥田瑛二 筒井道隆 水崎綾女 大島蓉子
監督:照屋年之

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190225032942j:plain

風葬にした遺体の骨を数年後に取り出して洗うという、文化人類学的に非常に興味深い風習を映画にしたというからには観ねばなるまい。この映画の意図やテーマは何であるのかを、なるべくまっさらな状態で受け止めてみたいと思い、予告編やパンフレットには極力近寄らずに鑑賞してみた。

 

あらすじ

新城信綱(奥田瑛二)は妻、恵美子を亡くして以来、セルフ・ネグレクト気味に生きてきた。しかし、粟国島の風習である洗骨を行う時になって、東京から長男の剛(筒井道隆)、名古屋から長女の優子(水崎綾女)が帰省してくるも、優子のお腹は大きく、しかしその子の父親であるはずの男の姿はなく・・・

 

ポジティブ・サイド

奥田瑛二、筒井道隆はいぶし銀の役者としてその地位を確立しているが、水崎綾女は恥ずかしながら初見であった。飄々として、それでいて色気もあり、しなやかさもあり、慈しみも感じさせ、なおかつ守ってあげたくなるようなキャラを見事に体現した。これは彼女の演技力なのだろうか、それとも素の姿に近いのだろうか。今後まだまだ上に行けそうな雰囲気もあり、なおかつ桜井ユキ的な活躍にも期待をできそうにも思える。もちろん、大島蓉子のような肝っ玉母ちゃんキャラをもこなす演技派に成長してもらっても結構である。

 

沖縄を舞台にした映画で、おそらく最もシリアスなのは『 ハクソー・リッジ 』であろう。そして沖縄を舞台にした映画で最も(意図的に)馬鹿馬鹿しいのは『 ゴジラ対メカゴジラ 』であろう。とにかくキングシーサーを眠りから呼び覚ますために、やたらと長い歌を聴かせなければならないし、そのキングシーサーはというと、メカゴジラよりも格段に弱かった(ようにしか見えない)描写しか印象に残っていない。それでは本作はどうか。監督がゴリであるからなのかは分からないが、シリアスさと馬鹿馬鹿しさを同居させようとしていたのが伺える。シリアスなシーンには必ずと言っていいほど冷静な突っ込みが入れられる。本来であれば誰も知る由のない親子の諍いに対して「よそでやってよ」とボヤくキャラもいる。いや、そうした人物が存在していたとしても、描写はしないのが映画的な文法ではなかったか。しかし、Jovianはこうした描写を評価したい。なぜなら、鑑賞後の劇場内で「いや~、沖縄の海はホンマにあんなんやで」、「島の人はあんなふうによう笑うねん」、「真面目な話をしてる時でも、なんか面白いことを言うてまうねん」と上品な大阪弁で熱弁を振るうおばあちゃんがおられたからだ。そうか、沖縄出身の方にはリアリスティックに見えるのか、と得心したのである。

 

本作はBGMがほとんどない。それが不思議と心地よい。『 君の名前で僕を呼んで 』と共通するような自然そのものの音を味わえる。『 おと・な・り 』で強く感じさせられた基調音が、本作では際立っている。この部分だけに注目すれば、まるで北野武の映画のようだ。

 

本作のもう一つのモチーフに海がある。日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海があるとよく言われる。それぞれに思うところあり、打ち解けられない男たちが問答無用で母なる海に抱かれるシークエンスは、海の生命力と包容力の観る者に感じさせる。それらの力は母の象徴でもあったろう。海は最も身近な異界であるが、母の胎内こそが故郷で、我々は生まれ出たその瞬間から、この世という異界に生きているのかもしれない。であるならば、粟国島の東がこの世、西があの世という世界観もフィクションなのかもしれない。実際に、子どもたちは元気にあの世とこの世の境界線を走り回っていたし、大人もそれを強く止めることはなかった。愛する者の死を受容する為に骨をこの手に持つ。それは取りも直さず、生の終着点が死であることを思い知らされることである。しかし同時に、自分の骨を洗う誰かがこの世に存在するという安心感のようなもの、自分の骨を洗うまだ見ぬ誰かの存在を想起することにもつながる。加地伸行の言葉を借りるならば、親孝行の孝の本質とは「生命の連続」である。ハイデガーの言葉を借りるならば、我々は頽落している。死を忘れるな。メメント・モリ。死者との向き合い方について、『 おくりびと 』以上に直球の作品が放たれた。映画ファンなら観るべし。

 

ネガティブ・サイド

非常にわざとらしい段ボール箱があったが、ああいうものは要らない。もしくは、もっと存在感を小さくして見せるべきだ。説教臭い要素を入れたい、または観る側に露骨にメッセージを伝えたいのなら、文学でやってくれ。

 

優子のお相手であるはずの店長の空気の読め無さ、ウザさが全体のバランスを壊していると感じた。ともすれば重い空気が流れかねない雰囲気の中でライトな感じを演出したかったのだろうが、逆に空気をぶち壊していた。お笑い芸人が役者をやることを否定はしない。しかし、役どころによるだろう。面白い役を面白い人にやらせて、果たして本当に面白いのか。ゴリではなく、照屋年之に問いたい。

 

またリアリティを追求すべき箇所で、おいおいちょっと待て、監督が気付かないのもおかしいが、他の女性スタッフの誰も気がつかなかったのか?と首をかしげざるを得ない描写がある。これのせいで、非常に良い味を出していた大島蓉子のキャラが一気に皮相的になってしまった。最近もある芸能人が出産後にある行為を行って、一部の人間を驚かせたというニュースがあった。また出産に立ち会ったことのある人間なら、赤ん坊が出て来てハイ、終わりではないということを知っているはずだし、たとえそうした経験が無くとも、ペット、特に犬や猫(これを観察するのはなかなか難しいか)の出産を観察したことがあれば、分かるはずのことだ。クレジットに医療監修はあったかな・・・

 

総評

大きな弱点があるものの、それでも映画作品として観た時に示唆的であったり、感動的であったり、ユーモラスであったり、シリアスであったりする。つまり、観る者の心に訴えかける作品に仕上がっている。小さな子どもに「せっくすうー!」と叫ばせるのはどうかと思うが、敢えて思春期の子どもに見せてやるという選択をする親がいてもよい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 大島蓉子, 奥田瑛二, 日本, 水崎綾女, 監督:照屋年之, 筒井道隆, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 洗骨 』 -死から目を逸らすことなかれ-

『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

Posted on 2019年2月11日2019年12月21日 by cool-jupiter

七つの会議 65点
2019年2月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:野村萬斎 香川照之
監督:福澤克雄

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働くことの正義を問うとは大仰な煽り文句だ。しかし、『 空飛ぶタイヤ 』が結構なカタルシスをもたらしてくれる娯楽作品であると同時に、現実を鋭く抉る批評的作品でもあったことから、本作も同工異曲の映画であろうと予想していた。働くことの正義なるものについての論評はしがたい作品であるが、水準以上の面白さは有していた。

 

あらすじ

東京建電の八角民夫(野村萬斎)は、居眠り八角の異名を持つ怠け者。しかし、八角の排除を試みようとした社員は皆、謎の異動に処されてしまう。八角の勤務態度の裏にあるものとは?上司の北川(香川照之)と八角の関係は?そこには東京建電の抱える深い闇が広がっていて・・・

 

ポジティブ・サイド

どのキャラクターも見事に立っている。主人公の八角演じる野村萬斎がまさに狂言回しである。それに輪をかけて北川演じる香川照之がブラック企業の幹部を体現している。それはリアリティを追求する方法ではなく、一部の特徴を誇張・肥大化させることで達成されている。それは正しいドラマの作り方でもある。古代ギリシャの時代から、ドラマツルギーとは人間の一側面を過大に描くことで成り立ってきたとさえ言える。本作に登場するキャラクターは、誰もかれもが典型的なキャラをその役割や職務に応じて演じている。「現実的であるということは陳腐なことである」とは小説家・奥泉光の言だが、いわゆるブラック企業の在り方やダメ社員の処遇については、我々は実はほとんど知らないのではないか。我々の耳目に入る情報は極端なものか、メディアが編集したものか、もしくはひときわ声の大きい個人が知らせてくれるものぐらいだろう。そうした意味で、この映画に出てくるあらゆるキャラクターはリアルさには欠けるものの、典型的と評してよい。キャラクターが立っているというのは、そういうことである。

 

さらに池井戸潤作品の特徴である現実批評の精神は本作にも通底している。特に政府による文書の改竄や統計データの不正が明らかになった昨今、明らかに我々が本作を視聴する目は厳しくなる。厳しいというのは審美眼のことではなく、フィクションと現実を重ね合わせてみようとする姿勢のことである。東芝やオリンパスのような巨大企業の不祥事の構造の全貌が判明せず、チャレンジなる曖昧模糊とした言葉で管理職は平社員にプレッシャーを与え、そして責任のはっきりしない不祥事が発生する。本作はそんな現実世界の出来事を忠実になぞるかのように、次から次へと悪役候補が現れては消え、そしてまた現れてくる。これは面白い。我々はあまりにも「皆が悪いのだ」という論調に慣れ過ぎている。これは『 華氏119  』の当時のB・オバマ米国大統領の言葉でもある。しかし、元凶というものは確かに存在し、そしてそれは追及されねばならないと、本作は宣言している。特に上位の会社が下位の会社の財布の中身まで覗き込み、カネの使い方にまであーだこーだとくちばしを突っ込んでくるところは、某愛知の自動車メーカーと某大阪・寝屋川市自動車部品メーカーの関係を見るかのようだった。不正とは、現場レベルやノンタイトルの従業員が行うようなものではない。それは上からの圧力によるものであることがほとんどだろう。一部のサラリーマンや公務員にとっては、本作は非常に胸のすく展開であるに違いない。

 

ネガティブ・サイド

残念だが細部にリアリティが不足しているように思う。『 真っ赤な星 』にもあった不倫ネタ、「俺、お前とのことを真剣に考えているから」という台詞は陳腐であるからこそリアルなのであるが、これはお仕事ムービーであり、サラリーマン映画なのである。前半の不倫プロットのパートは不要というか、八角の存在感の無さ、そして神出鬼没さ、目敏さ、そして意外なコミュニケーション力を演出したかったのだろうが、この部分がかなり冗長だったように感じた。

 

また東京建電の抱える闇であるが、こんな事実が発覚しなかった方がおかしいとすら感じる。あの業界やあの業界は独自に部品のスペックをチェックしているし、特に福知山線の脱線事故からこちら、列車の製造およびメンテナンスの主眼は安全性に置かれていると聞く。キャラクターは典型的でも良いのだが、ストーリーにはやはりリアリティを求めたい。製造業や営業という職務に従事する人が鑑賞すれば、かなり突っ込みどころの多い作品になっていることは、容易に想像がつく。そこが本作の惜しいところである。

 

総評

単体の映画として見れば『 空飛ぶタイヤ 』に軍配が上がる。しかし、社会全体を風刺する、または国民性を追究する、サラリーマンという生き物を“生態模写”するという意味の面白さでは優るとも劣らないものがある。新元号になってから就業していく、世に出ていく中高生たちが見てみれば、平成という世の働き方に良い意味でも悪い意味でも感じ入ることがあるのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, サスペンス, 日本, 監督:福澤克雄, 配給会社:東宝, 野村萬斎, 香川照之Leave a Comment on 『 七つの会議 』 -誰が為に働くのかを鋭く問う意欲作-

『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

Posted on 2019年1月29日2019年12月21日 by cool-jupiter

シュガー・ラッシュ オンライン 60点
2019年1月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ジョン・C・ライリー サラ・シルバーマン ガル・ガドット タラジ・P・ヘンソン
監督:リッチ・ムーア フィル・ジョンストン

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およそプリンセスらしくないプリンセスのヴァネロペが、インターネット世界で様々なプリンセスおよびキャラクターと邂逅する。そして、ラルフとの友情に一つの区切り、転換点を迎える。前作の『 シュガー・ラッシュ 』が役割と人格を巡る物語であるとすれば、本作は主体の主体性、すなわち自由を巡る物語であると言える。Jovianは作家の奥泉光に私淑しているが、彼は我々の共通の師である並木浩一との対談で、並木から「自由とは、自由であろうとすること」との言葉を引き出している。Jovianがここで言う自由も、自由であろうとすることを指しているとご理解頂きたい。

 

あらすじ

ラルフとヴァネロペは、それぞれのゲームで活躍しながら、良好な親友関係を続けていた。ある日、ハプニングにより、シュガー・ラッシュのゲーム筺体が破損。修理部品を手配する為に、ラルフとヴァネロペはインターネットの世界に飛び込んでいく。そこでヴァネロペは様々な出会いを通じ、自分が本当にやりたいことを見つけ出すのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

前作でも同じことを感じたが、CGが違和感なく感じられるのは個人的には大いなるプラス。現実世界のゲームのCGは余りにも美麗になりすぎたが、一定以上の世代の人間ならドラゴンクエストやファイナルファンタジーの二次元ドット絵に愛着を感じるだろうし、パックマンやインベーダー・ゲーム、ドンキーコングのようなグラフィックでも充分だとさえ言える。CG嫌いが少し弱まってきたのだろうか。

 

前作ではレトロゲームのキャラが多数カメオ出演していたが、今作ではネットのビジネス世界の列強が勢ぞろいしている。日本からは楽天が参戦しており、そのほかにもLineやmixiも目に入ってきた。その他のネットビジネスの巨人であるAmazon,eBayを筆頭にYouTube,Facebook,Google,InstagramにTwitterと何でもござれ。これらのサービスの全てもしくはいくつかを使ったことがある人ならば、思わずニヤリとさせられる描写も多く、なおかつインターネットという世界を直観的に理解できるようなビジュアル世界も構築できている。これは凄いことだ。最も象徴的なのは、ネット世界では距離の概念が“ほとんど”無いのだということを描き出していること。また、IPアドレスによって個を識別しているということ。そしてデータのコピーにかかるコストがほぼゼロであることを良い意味でも悪い意味でも映し出したこと。これらに個人的には最も唸らされた。

 

今作ではラルフとヴァネロペの友情に新たな展開が見られる。自分の役割を受け入れることができたラルフと、やっと自分の役割を果たせるようになったヴァネロペの間に、温度差が生まれるのは蓋し当然でもあっただろう。ラルフは悪役であることを受け入れ、ゲーム外の時間でヴァネロペと変わらない時間を過ごす。しかし、ヴァネロペは決まり切ったレースコースを走ることに厭いていて、変化を求めている。シュガー・ラッシュ内でも他キャラがプリンセスとして接してくるのに対して、対等な関係を求める。ヴァネロペは「自分が自分らしくある」ことを目指したいのだ。それこそが主体の自由である。ゲームの垣根を乗り越えて、自らのアイデンティティを定めようとしてく、このリトル・プリンセスの姿に、一つのグローバル時代の個の在り様を見るようである。

 

また、本作ではディズニー世界のプリンセスが勢ぞろいする。Jovianは一部しか作品は鑑賞していないが、それでも彼女たちが語るプリンセスの条件(予告編で散々流れているのでネタばれにはあたらないだろう)に、我々はいかに個の在り方が非常に限定的、なおかつ与えられた役割を全うすること、もっと言えば非常に受動的な属性で塗り固められているかということを思い知らされ、愕然とする。ヴァネロペがネット世界でゲームの垣根を超えていくこと、麗らかに、しかし、強かに個を主張する様は、繰り返しになるが、グローバル時代の個人の来し方行く末を見るかのようだ。幅広い年代層にアピールできる作品になっている。

 

ネガティブ・サイド

ラルフは元々、the sharpest tool in the box = 頭が切れるタイプではないが、ヴァネロペの旅立ちを阻止したいが為だけに、ここまでやるか?という行為に及ぶ。現実世界でこれをやれば、御用である。ネット世界でこれをやっても、やはり御用である。ラルフは典型的な男のダメな部分をあまりに率直に、飾らずに体現してしまっている。それは共感力の欠如である。「俺は毎日楽しいぜ」と自己主張をしてもしゃーないのである。シャンクとヴァネロペの会話は至って正常なガールズトークで、だからこそラルフには理解ができない。こうした描写はクリシェとさえ呼べるが、これを見せられてしまうと男としてはかなり暗澹たる気分にさせられる。例えばラルフがシャンクに直接、自分がどれほどヴァネロペとの友情に感謝しているのか、それによって生かされているのかを訥々とでもよいから語るような場面があれば、男のダメさ加減の体現描写も少しは薄められたはずなのだが・・・

 

総評

『 レディ・プレイヤー1 』のメッセージは、「外に出ろ、人と交われ」だった。しかし、本作はもっと踏み込んで、「多様な世界に触れろ、変化を恐れるな」と言っているかのようだ。世代によって本作の受け取り方は相当に異なると思われるが、あらゆる見方が正しいのだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニメ, アメリカ, ガル・ガドット, サラ・シルバーマン, ジョン・C・ライリー, タラジ・P・ヘンソン, ヒューマンドラマ, 監督:フィル・ジョンストン, 監督:リッチ・ムーア, 配給会社:デイズニーLeave a Comment on 『 シュガー・ラッシュ:オンライン 』 -『 レディ・プレイヤー1 』への意趣返し?-

『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』 -Life is all about how you carry your mind-

Posted on 2019年1月3日2019年12月7日 by cool-jupiter

アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 65点
2018年12月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エイミー・シューマー ミシェル・ウィリアムズ ナオミ・キャンベル
監督:アビー・コーン マーク・シルバースタイン 

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原題は ”I Feel Pretty” である。そう聞けば『 ウェスト・サイド物語 』の同名の歌が思い浮かぶ。見目麗しくあることは常に世の女性の目標であり、それが同性からも異性からもプレッシャーとなって彼女らに重く圧し掛かる。しかし、美しさの定義とは何なのか。それは定量的に測れるものなのか。それともきわめて主観的な尺度なのか。美しい女が恋をするのか、それとも恋をするから美しくなるのか。本作は極めて普遍的なテーマを扱っている。

 

あらすじ 

レネー・ベネット(エイミー・シューマー)はぽっちゃり女子。職場は有名ブランド化粧品会社の通販部だが、オフィスはチャイナ・タウンの薄暗い地下倉庫。何とか自分を変えようとジムの扉を叩いたエイミーは、エアロバイクで大ハッスルするも、バイクが破損し、転倒。頭を強打してしまう。意識を取り戻したエイミーは、しかし、鏡に映る自分を見て、絶世の美女になったと信じ込んでしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

まず主演を張ったエイミー・シューマーを称賛したい。『 ピッチ・パーフェクト 』のファット・エイミーを超えるキャラクターを世に送り出してきたからだ。元々がコメディアンであるということだが、『 アリー / スター誕生 』のレディー・ガガのように、役者でない人間が演じるということが少しずつ一般的になって来ているようだ。エイミーの演技の素晴らしさは、その表情や行動、立ち居振る舞いの変化に見て取れる。視線、口角の上がり下がり、歩き方、口調、身振り手振りの一つ一つが、まるで別人であるかのように観る者を惑わせ、驚かせる。コメディとは面白いもので、面白いものとは笑えるものだ。笑いは、自己と対象の距離がずれた時に生じるが、そういう意味ではコメディアンは役者の素養があるとも言える。

 

日本でもお笑い芸人が映画に出演することが増えて来ているように感じるが、これは悪い傾向ではないだろう。クラシカル音楽のバックグラウンドが無い者がハリウッド映画の音楽をどんどんプロデュースするこの時代、役者に○○をさせる、ではなく○○できる者に役者をやらせる、という発想があっても良い。そうした突飛な発想で成功したのが、WWEの悪のオーナー、ビンス・マクマホンではなかったか。役者にプロレスをさせるよりも、プロレスラーに役者をさせることでアメリカのマット界は一気にエンターテインメント性を確立した。同時にドウェイン・ジョンソン、デイヴ・バウティスタらを役者として世に送り出した。日本の映画界の中でも外でも、もっと異業種交流が進んで欲しいと思う。ハリウッドの新陳代謝の良さを印象付けるという意味でも良作であると評価できる。

 

エイミーの上司を演じたミシェル・ウィリアムスも味わい深かった。元々演技力の高さは折り紙つきだったが、今作では妙に甲高い声にコンプレックスを持つ抱く女性経営者を好演している。声というのは不思議なもので、ある意味では容姿以上に人物を特徴づけることがある。そのことはクリスチャン・ベイル、そしてベン・アフレック演じるバットマンによく表れている。かといってそれだけが特徴というわけでもない。『 プラダを着た悪魔 』のミランダを正反対にしたようなキャラを、その頼りなさそうな表情、そしてルネーの忌憚のない意見に真剣に耳を傾ける姿勢、そしてその時に目の奥に宿る力強い光でもって、見事に体現していた。『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』の好演は伊達ではなかった。

 

ネガティブ・サイド

残念ながらクライマックスへ向かっての盛り上がりが弱い。レネーが超絶ポジティブ・シンキングで仕事に恋に大ハッスルして、エスタブリッシュメント層への階段を駆け上がっていく様は痛快ではあるが、そこでいわゆる嫌な女に変身してしまう必要性はあったのだろうか。いや、それが物語をより面白くするのであれば良い。しかし、本作のクライマックスでよりカタルシスを感じさせるのであれば、レネー目線のアドバイスや指摘がいつの間にか普通の女の子目線ではなくなっていく、という方が良かったように思う。

 

もう一つ、ミシェル・ウィリアムスのキャラの弟がもう一つ弱い。レネーの恋人になる男との対面シーン、会話シーンなどは元々脚本になかったか、編集でカットされてしまったのか。レネーのロマンスが絶好調になるのは良いとしても、そのことが思わぬ副産物を生み出してしまうことで、さらなるコメディもしくはドラマが展開されるポテンシャルがあったはずなのだ。これはしかし、尺の関係で泣く泣く削られてしまったというのが真相であろうが。

 

総評

近年は『 スリー・ビルボード 』、『 女神の見えざる手 』、『 ワンダーウーマン 』、『 ドリーム 』、『 パティ・ケイク$ 』など、アウトサイダーでありながらも独立不羈の精神を持つような女性に光を当てる作品が多く創り出されるようになってきた。本作もその系譜に連なる非常に軽快なコメディである。『 プラダを着た悪魔 』のアン・ハサウェイを『 ブリジット・ジョーンズの日記 』のブリジットに置き換えたような話だと乱暴にまとめてしまえば、食指が動く向きも多いと思われる。さあ、あなたもルネーを応援しよう。自分のまま、自分で自分を今よりちょっぴり好きになろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, エイミー・シューマー, ナオミ・キャンベル, ヒューマンドラマ, ミシェル・ウィリアムズ, 監督:アビー・コーン, 監督:マーク・シルバースタイン, 配給会社:REGENTSLeave a Comment on 『 アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング 』 -Life is all about how you carry your mind-

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