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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

Posted on 2018年9月26日2019年8月22日 by cool-jupiter

ブレス しあわせの呼吸 70点

2018年9月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド クレア・フォイ トム・ホランダー
監督:アンディ・サーキス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180926222645j:plain

書評家の佐藤圭は「小説とは嘘っぱちの中に面白さを見出すもの、文学とは嘘っぱちの中に真実を見出すもの」と喝破した。その定義法を拝借するならば、映画というものには二種類あると言えるかもしれない。すなわち、物語の中に面白さを見出すべきものと、物語の中に真実を見出せるものとである。では、本作は前者なのか後者なのか。答えは両方である。

英国人のロビン・カベンディッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)は茶葉の買い付け仲買人。運命の人ダイアナ(クレア・フォイ)とめでたく結婚し、子を儲けるも、幸せは長くは続かなかった。出張先のケニアはナイロビで、ポリオに罹患してしまったことにより、首より下に麻痺を負ってしまう。人工呼吸器なしでは生命維持も不可能で、医師からは余命数カ月を宣告されてしまう。病院を出たいというロビンに、ダイアナは自宅での看護を決心する。

この映画の時代背景に、まず驚かされる。ロビンのポリオ発症が1958年なのである。そして友人らの助けを借りて人工呼吸器搭載可能な車イスの発明が1962年。50年以上前に紡がれた物語が今という時代に影響を及ぼしているということに思いを致さずにはいられないし、同時にこの国でバリアフリー、ノーマライゼーション、セルフケアという概念が本当の意味で浸透し、結実し始めたのが2000年以降であるという事実には慨嘆させられてしまう。もちろん、社会のインフラがそう簡単に作りかえられるものではないが、それでもベビーカーもしくは車イスを押したことのある人ならば、我々の暮らす社会がどれほどバリアに満ちているのかを実感したことがあるはずだ。そして、そうしたバリアを是正すべく、公共の駅などにはエレベーターがどんどんと設置され、新しく建設されたショッピングモールなどは徹底的に段差をなくし、映画館は車イス使用者専用のスペースを設けている。しかし、本当のバリアは人の心の中にあるのだ。満員電車にベビーカー連れで乗り込むのは有りや無しやという議論が定期的に沸騰するが、こんな議論はそもそも論外なのだ。ベビーカーに寛容になれない社会が、車イスに寛容になれるわけがない。我々が障がい者を見るとき、我々は同時に自分が障がいを負った時の姿を投影せねばならない。人に優しくなれないのに、自分には優しくしてほしいなどというのは成熟した社会の一員とは言えまい(成熟した、は社会を修飾していると捉えても、社会の一員を修飾していると捉えてもらってもよい)。我々がいかに車イスを見るにせよ、この映画が終盤近くに見せるドイツの病院は、我々に恐ろしいまでのショックを与える。それによって、確かにわずか数十年とはいえ、我々は見方や考え方を改めてきているようだ。

本作は実話を基にしているとはいえ、おそらくかなりドラマタイズされた部分もある。死にたいと願うロビンが、生を謳歌するようになったのには、妻ダイアナの愛があったのは間違いない。素晴らしいと思えるのは、その愛を育むロマンチック、ドラマチックなエピソードを本作はほとんど映さない。撮影はして、編集でカットしてしまったのかもしれないが、その判断は正解である。劇的な愛ではなく、ありふれた愛、日常的な愛、普通の愛であるからこそ、献身的にも映る看護ができたのだろう。もちろん、この夫婦にダークな側面が無かったとは言い切れない。例えば、ロビンに間接的に多くを負っていたであろうスティーブン・ホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』は、間接的に不倫をにおわせ、最後は儚くも美しい別離に至る関係を描いていたし、一歩間違えれば江戸川乱歩の小説『芋虫』のような展開を迎えていたかもしれないのだ。邦画で似たような関係を描いた秀作では『8年越しの花嫁 奇跡の実話』が挙げられるかもしれない。劇場で観たが、Jovianの実家の隣町の話なので、DVDをレンタルしてもう一度観るかもしれない。そうそう、現実にあった乙武氏の不倫問題なども忘れるべきではないだろう。とにかく、男女の愛は様々な異なる形を取るものだが、ロビンとダイアナの愛はその普通さゆえに異彩を放っている。

Back to the topic. 本作は、観る者に感動やショックだけではなく新たな視座を与えてくれもする。劇中でロビンが「専門家はすぐに無理だと言う」と言うが、蓋し名言であろう。これは専門知識やスキルの蔑視というわけでは決してない。そうではなく、何か新しいことをするときには、自分を信じろということだ。本作には、現代の視点で見れば、数々のトンデモ医者が登場する。しかし、そうした医者たちも当時の自分たちの価値観に照らし合わせて、患者のために良かれと思ってあれやこれやを行っていたのだ。大切なのは、それが本当に他者の利益になっているかどうかを確かめることだ。患者を病気やけがという属性で語ることの愚は『君の膵臓をたべたい』で触れた。患者を人間として見ることが肝心要なのだ。

近くの映画館で本作を上映しているという方は、ぜひ観よう。単なるヒューマンドラマ以上のものが本作には盛り込まれているし、我々はそのメッセージを受け取らねばならない社会に生きているのだから。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アンドリュー・ガーフィールド, イギリス, ヒューマンドラマ, 監督:アンディ・サーキス, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

『ボーダーライン(2015)』 -麻薬戦争のリアルを追求する逸品-

Posted on 2018年9月25日2019年8月22日 by cool-jupiter

ボーダーライン(2015) 75点

2018年9月22日 レンタルBlu-ray鑑賞
出演:エミリー・ブラント ベニシオ・デル・トロ ジョシュ・ブローリン ビクター・ガーバー ジョン・バーンサル ダニエル・カルーヤ ジェフリー・ドノヴァン
監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180925121059j:plain

劇場で見逃したまま数年が経過。続編が出ると聞き、今こそ観るときと満を持してTSUTAYAで借りてきた。この邦題は賛否両論を生むだろう。原題は”Sicario”、ラテン語由来で、【暗殺者】の意である。話の争点は、アメリカとメキシコの国境線を決める戦いでもなければ、国境地帯でのほのぼの交流物語でもない。しかし、原題に忠実に『暗殺者』というタイトルにしても、配給会社はプロモーションしにくい。いっそのこと『シカリオ』で売り出すというのも、一つの手だったのでは?原題のミステリアスな響きをそのままに日本語に持ってきたものとしては『メメント』や『アバター』、『ジュマンジ』、『ターミネーター』、『ダイ・ハード』などが挙げられる。

FBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)は、国防総省が組織する対メキシコ麻薬カルテル部隊への参加を志願するようCIAのエージェント、マット(ジョシュ・ブローリン)に促され、チーム入り。そこで謎のコロンビア人、アレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)に出会う。メキシコから流入する不法移民、そこに付随してくる麻薬の流通量の増加に、ついに目をつぶることができなくなった米政府の上の上の方からの指示による作戦。それに従事していく中で、ケイトは辞めたはずの煙草に手を伸ばす。彼女の中の正義感が大きく揺らいでいく・・・

まず強調しておかねばならないのは、本作ではベニシオ・デル・トロのキャリア最高のパフォーマンスが見られるということである。そしてそれはジョシュ・ブローリンにも当てはまる。ブローリンは『オンリー・ザ・ブレイブ』、『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』、『デッドプール2』の劇場公開もあり、まさに2018年の顔の一人であった。それでも2015年劇場公開の本作こそが、彼のキャリア・ハイの演技を見せてくれた。彼ら2人の演技、存在感は完全に主役であるはずのエミリー・ブラントを喰っており、特に後半から終盤はデル・トロの独擅場である。原題の意味を、観る者はここで嫌というほど思い知らされるのだ。同時に、意訳された邦題の意味についても考えさせられる。正義と悪の間の境界線という次元ではなく、正義そのものの概念が揺らいでいく。正義と秩序が一致しないのだ。

メキシコの一部地域では、民間の車両が多数いる中での銃撃戦、市街地を武装車両が我が物顔で走行しても気にする素振りも見せない市民、ハイウェイの高架下に吊るされる切り刻まれた死体。非日常感ではなく、異世界感すら漂う。アメリカ側のカルテル掃討部隊も法の定める手続きなど一切無視。毒を以て毒を制すの言葉通りに淡々と進んでいく。アメリカの政府の上層部は、すでに毒を食らわば皿までと腹をくくっている。では、ケイトは?FBIの相棒レジー(ダニエル・カルーヤ)以外に信じられる者などが一切存在しない中、自分たちの作戦参加の意義を知ることで、彼女の正義感や任務への使命感は瓦解する。ジョシュ・ブローリンの底冷えを感じさせる笑顔に、戦慄させられてしまう。

本作は映画の技法の点でも非常に優れている。メキシコのフアレス地域は、まさしくアーバン・スプロールの具現化である。都市郊外部が無秩序に平面的に四方八方に拡大しているのを上空から俯瞰するショットは同時に、山に巨大な文字で刻みつけられた住所も映す。こうした地域ではきめ細かい郵便サービスはもはや不可能で、郵送物はヘリコプターで落下傘的に投下して、後は現地住人が自主的に宅配するらしい。犯罪者の根城、犯罪の温床となるにふさわしい土地であることが十二分に伝ってくる。このようなショットをふんだんに見せつけることで、クライマックスの麻薬王の邸宅がいかに豪奢であるかがより際立ってくる。しかし、我々が最も慄くのは、麻薬の恐ろしさ、麻薬のもたらす莫大なカネではない。そんなメキシコの麻薬組織を如何に潰してくれようかと画策するアメリカ側の酷薄さである。そこに正義などない。こんなゴルゴ13みたいな話があっていいのかとすら思ってしまう。フィリピンのドゥテルテ大統領は「血塗られた治世」を標榜して、麻薬取引に関わる人間を片っ端から射殺し、国際社会からは批判を、国民からは喝采を浴びた。100年後の歴史の教科書は、フィリピンの対麻薬戦争を、そしてアメリカの対麻薬戦争をどのように描き、評価するのであろうか。本作の続編が、不謹慎ながら楽しみである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, アメリカ, エミリー・ブラント, サスペンス, ジョシュ・ブローリン, ベニシオ・デル・トロ, 監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ボーダーライン(2015)』 -麻薬戦争のリアルを追求する逸品-

『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

Posted on 2018年9月24日2019年8月22日 by cool-jupiter

食べる女 70点

2018年9月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:小泉今日子 鈴木京香 沢尻エリカ 広瀬アリス シャーロット・ケイト・フォックス 前田敦子 壇蜜 ユースケ・サンタマリア 間宮祥太朗
監督:生野慈朗

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180924015437j:plain

派手なアクションや手に汗握るスリル、背筋が凍るような恐怖感や息もできなくなりそうなサスペンスを求める向きには全くもってお勧めできない作品である。映画とは、何よりもまず、一般家庭では享受できないような大画面と大音響を楽しむための媒体で、そうした文字どおりの意味でのスペクタクルはこの作品には全く盛り込まれていないからである。だからといって本作には劇場鑑賞する価値が無いのかと言えば、さにあらず。充分にチケット代以上の満足感は得られるだろう。

餅月敦子(小泉今日子)ことトン子は、古本屋と文筆業の二足のわらじを履いている。同居人は猫の“しらたま”である。古本といっても料理に関連するものばかりで、トン子自身もかなりの腕前の持ち主。そんなトン子の編集者の小麦田圭子(沢尻エリカ)ことドド、トン子の親友にして割烹料理屋の女将、鴨舌美冬(鈴木京香)、ドドの飲み友、テレビドラマ制作会社のアシスタントプロデューサー白子多実子(前田敦子)らは、定期的にトン子宅で料理に舌鼓を打ちながら、男や仕事について語り合うのであったが・・・

まずエンドクレジットの特別協力だったか特別協賛だったかの、

 

      sagami original

 

というデカデカとした表示に我あらず笑ってしまった。もちろん、商品そのものは映らないのだが、それを使っているであろうシーン(使ってなさそうなシーンも)しっかり用意されているから、スケベ視聴者はそれなりに期待してよい。最もそういったシーンが期待できるはずの壇蜜     と鈴木京香    にそれがなく、逆にシャーロット    が体を張ってくれたことに個人的に拍手を送りたい。

さて、冒頭に記したようにドラマチックな展開にはいささか欠ける本作であるが、ドラマがないわけではない。実は非常に深いテーマも孕んだドラマがある。それは「人間は変わりうる」ということである。変わると言っても、何も宗教的回心のような、それこそ劇的な体験のことではない。日々の生活の中で得るほんのちょっとした気付きがきっかけになったり、人間関係の変化であったり、経済的な変化であったり、身体的な変化であったりもする。我々は普段、そうした変化があまりにも静かに進む、もしくは起きることが多いために、そうした変化を見過ごしがちである。しかし、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉「万物は流転する」を引くまでもなく、変化しないものはない。仏教にも≪諸行無常≫と言うように、人間の本質は古今東西においても変化なのである。そんな変わっていく自分、変わっていく他者に愛情を注ぐことができれば、それは自分という存在そのものを肯定することにもつながる。なぜなら、繰り返しになるが人間存在の本質が変化であるからだ。こんな自分は嫌いだという人は変化を求めれば良いし、こんな自分が好きという人は、そのように変化していく自分をそのまま楽しめば良い。なにやらニーチェの永劫回帰思想やゲーテの『ファウスト』にも通じるものがありそうだ。

印象的なプロットを紹介すると、ドドとタナベの出会いが思い浮かぶ。これなどは正に、“袖振り合うも多生の縁”を地で行くような Story Arc である。もう一つは、あかりの受動から能動への変化である。詳しくは本作を観てもらうべきだろう。一見すると下半身がだらしない女のように見えてしまうが、貞操概念に欠けるのではなく、愛情を注がれることに快楽を見出す女なのだ。それは例えば料理をおいしそうに食べてくれたり、あるいはベッドで自分を愛撫し、動いてくれることだったりする。そうではなく、愛情をストレートに自分から表現しにいくシークエンスは、昨今の少女漫画原作の映画化作品に見られる、ヒロインが走っていくのを横から車で並走しながら撮影していく、アホのような画の再生産ではなく、本当に真正面からのものだった。非常に新鮮で、『巫女っちゃけん。』あたりから既に変化の兆しは見られていたが、広瀬アリスという役者の大いなる成長を目の当たりにしたかのようだった。最後に、シャーロット・ケイト・フォックスである。そそっかしいという自覚のある人は、彼女の Story Arc を決して早合点しないようにしてほしい。ダメな女の成長物語と唐竹割の如く切って捨てるように評するのはたやすい。しかし、そうした見方をしてしまう時、我々は既に自分の中に「ダメな女」像と「できる女」像を抱いてしまっていることを自覚せねばならない。人間というものを変化する主体ではなく、固定されたキャラクターであるかのように見てしまう癖が、どうしても我々にはあるようだ。しかし、古代中国の故事に「士別三日、即更刮目相待」とある。三日で人は変わりうるし、我々も見る目を変えねばならない。割烹料理屋での無音の中でのやりとりに、静かな、それでいて非常に力強いドラマが進行していることを、本作は感じさせてくれた。こここそが本作のハイライトで、凝り固まった頭の男性諸賢は心して観るように。

反面で指摘しなければならない粗もいくつかある。ジャズバーのシーンでは明らかにBGMが編集されたものだったが、ここは店内の雰囲気をもっと濃密に醸し出すために、それこそLPレコード音を背景に撮影するぐらいでも良かった。デジタル全盛の時代ではあるが、古い写真に味わいが出てくるように、レコードにも味わいが出てくるものだ。そういえば古さを賛美する印象的なシーンが『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー』で見られた。” Sir, in your case, age becomes you. As it does a tree, a wine… and a cheese.”という、コリン・ファースへの台詞だ。映画の醍醐味には音という要素もあるのだから、ここを生野監督にはもっと追求してほしかった。また、ネコが前半で大活躍するのが、名前がしらたまというのはどうなのだろうか。稲葉そーへーの某漫画を連想したのはJovianだけではあるまい。

弱点、欠点はいくつか抱えているものの、それでも本作は秀逸な作品である。十数年前になるか、某信販会社にいた頃、20~30代女子向けに“自分にご褒美”キャンペーンとして、週末のホテル宿泊を推していたことがあった。おそらく2000年代あたりから、モノの消費から、コトの消費へと個の快楽の追求はシフトし始めていたが、本当にそれが根付き定着したのはごく最近になってからではなかろうか。失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『万引き家族』は我々に見せつけたが、本作の女たちの食事シーンは、ある意味での人間関係の最新形と言える。愛情は男女間だけのものではなく、自分で自分に向けるものでもあるし、ほんのちょっとしたことで知り合う他者にも大いに注いで良いものなのだ。それが実践できれば、愛しいセックスをしている時と同様に、人は暴力や差別から遠ざかることができるのだろう。その先に、“修身斉家治国平天下”があるのだろう。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小泉今日子, 広瀬アリス, 日本, 沢尻エリカ, 監督:生野慈朗, 配給会社:東映, 鈴木京香Leave a Comment on 『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

Posted on 2018年9月21日2020年2月14日 by cool-jupiter

幼な子われらに生まれ 70点
2018年9月18日 レンタルDVD鑑賞
出演:浅野忠信 田中麗奈 南沙良 宮藤官九郎 寺島しのぶ
監督:三島有紀子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180921024132j:plain

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』で鮮烈な印象を銀幕に残した南沙良の映画デビュー作ということで近所のTSUTAYAで借りてきたが、これはなかなかの掘り出し物である。原作は重松清の同名小説だが、そちらの出版は1996年というから20年以上前である。離婚やDVが格段に増えた現在では、本作のような家族構成はさほど珍しいものではなくなった。だが、今日の日本社会の在りようを透徹した目で予見していた重松清の想像力と構想力、そんな彼の作品を現代にこそ映像化する価値があると確信した三島有紀子の炯眼を称えたい。

大企業の係長として順調に40代を送る信(浅野忠信)は子持ちのバツイチ。妻の奈苗(田中麗奈)もバツイチ子持ち。再婚同士で、奈苗の連れ子である2人の娘、薫(南沙良)と恵理子(新井美羽)とともに府中の新興住宅地に暮らしていた。元々、信には心を開かなかった薫が、早苗の妊娠を機にさらに態度を硬化。信を指して、パパではない、他人だと言い、本当の父との再会を望むようになる。が、実父の沢田(工藤官九郎)はDV男であった。だんだんと薫の扱いに手を焼き始めた信は、薫を沢田に引き合わせようとし、さらには堕胎と離婚までも望むようになる・・・

これは、特に男性サラリーマンにとって、非常に身につまされる話である。信自身の言葉を借りれば、「ツギハギ家族」の物語だからである。家族の在り方は時代や地域と共に変わっていくのが必然であるが、それでも我々は家族というものに大いなる幻想を見るし、また見出したがってもいる。こうした家族の形態を別の面から映し出した秀作に『万引き家族』がある。家族というものを機能的な面から切り取りながら、大人の情緒や心理が時に一方通行になりがちであるということを鮮やかに残酷に描き出した傑作である。本作の主題はどうか。血のつながりのある子どもと、血のつながらない子ども、両方を同時に育てられるかということだ。そして、その奥底にあるのは、家族としてのまとまりは血に依るのか、情に依るのかという命題で、さらには機能に依るのかという側面も垣間見える。

主人公の信は、上司の課長の評するところによると、

「有給を全部使う」

「休日出勤は断る」

「飲み会は一次終わりで退散する」 

「子どもを遊園地に連れていく」

「子どもをお風呂に入れてやる」

という、現代の言葉で評せば、まともに父親業に精を出す男ということになろうか。育メンという言葉は当てはまらないだろう。非常に批判を受けやすく、誤解を与えやすい概念である以上に、信は最も手間のかかる時期に二人の娘の面倒は看ていないからだ。そんな信に上司は、

「仕事に打ち込む姿を見せてやるのが子育てなんじゃないのか」

と諭すように言う。これも一つの識見であろう。特に平成も終わりになんなんとするこのご時世、どういうわけか昭和的な価値観のかなりの部分がゾンビのごとく生きており、そうした価値観は、一部の組織や共同体では連綿と受け継がれているようである。信の勤める会社はまさにそうしたところで、信はあえなく倉庫送りとなり、ピッキング業務に従事させられる。この辺りから、信の家族内の亀裂は大きくなり始める。同時に、信の前妻(寺島しのぶ)の夫が末期がんで死の間近にあることも知る。そのことを知らされる信の反応は、弱みを見せる女性に対するものとしては最低最悪の部類に入る。よく知られているように、男は基本的に論理というラベルで記憶をタグ付けし、女は基本的に感情というラベルで記憶をタグ付けしている。夫婦喧嘩でこの特徴はてきめんに現れる。女性の言い分はしばしば、「だいたいあなたはいつもそうなのよ。だから○年前のあの時も~~~」という形を取る。男性には理解できない。すでに終わった事柄で論理的につながりのある事例ではないからだ。しかし、怒りという感情が記憶のタグに書き込まれているとしたら、過去に怒りを感じたエピソードが次々に想起されてくるのは当たり前のことで、信はここを前妻に徹底的に責められる。男性視聴者は心して観るように。恐ろしいのは、こうした女性の特徴が小学校6年生の薫にも既に見られることである。「私、なんかこの家、嫌だ」という薫に、「何故だ」と問いかける信。これでは平行線をたどるのも当たり前である。その信が、最終盤では劇的な変化を遂げる場面がある。詳しくは観てもらう他ないが、年頃の娘の扱いに手を焼いているという男性は、本作から学ぶことは多いはずだ。娘や妻に話しかけるときは、論理的な答えを求めてはならないし、論理的な答えを与えてもいけない。

「妊娠中毒のリスクがあるんだって」

という奈苗の言葉に、

「妊娠しているから中毒になるんだ。堕ろせば中毒にはならない」

と信が返す一幕があるが、これなどは愚の骨頂としか思えない返答だ。どう思った?どう感じた?そうか、そう感じたのか、という寄り添いの姿勢を見せることが肝要であるのに、この時の信は限界まで追い詰められていて、そんな余裕がなかった。我々はこれを反面教師としなければならない。

ありうべき父親像については、クドカン演じるDV男が驚くべきというか、恐るべき変貌を見せる。また、信の実の娘もまた、それ以上の変貌を見せる。詳しくは書けないが、家族が家族であるためには血のつながりは決定的に重要なものではないと本作は力強く断言する。それにより初めて信は薫との和解の途に就くことができた。道は険しいが、確かにその道を歩き始めた。そこに新しい命が生まれてくる。その命を守ることで、家族は家族になれる。そんな夢とも幻想ともつかないビジョンを我々は抱くことができる。何ともいえない浮遊感のようなものが本作の特徴である。明晰夢を見せられているような感覚とでも言おうか。

本作を鑑賞する時には、ぜひカメラワークにも注目してほしい。家族間の不和が増大していくシーンではカメラオペレーターの手ぶれが加わっており、まるで我々自身がその場に傍観者として存在しているかのような感覚を味わうことができる。そうではないシーンは定点カメラ、固定カメラによる撮影が行われている。そして浅野忠信の笑顔と不安と怒りとを綯い交ぜにしたような表情を味わえるだけでも美味しいのであるが、そこに南沙良の本能的、直観的な演技も堪能できるという一粒で二度おいしい話である。物語としても、映像芸術としても、非常に秀逸な作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, 南沙良, 宮藤官九郎, 日本, 浅野忠信, 田中麗奈, 監督:三島有紀子, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 -心の傷を抱えて生きていく、弱さと強さの物語-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

マンチェスター・バイ・ザ・シー 70点
2018年9月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ミシェル・ウィリアムズ カイル・チャンドラー ルーカス・ヘッジズ マシュー・ブロデリック
監督:ケネス・ロナーガン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180917194423j:plain

どうか最初の20分だけで、本作を見切らないでほしい。主人公が、仕事には真面目でも陰気でいけ好かない男で、酒場で酔っているわけでもないのに見ず知らずの男たちに喧嘩を吹っ掛けるような奴でも、物語の進行がやたらとスローでも、鑑賞を続けて欲しい。

ボストンで何でも屋として働くリー(ケイシー・アフレック)は兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死によって、望まぬ形で甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人となる。故郷のマンチェスターに帰ってきたリーは、過去と現在の狭間に囚われた自分と、孤独になった甥との関係に何を見出すのか・・・

本作のテーマは、罪と罰である。といっても、ラスコーリニコフのそれではない。例え法的には罪に問われなくても、罪は罪である。社会が罰してくれないというのであれば、自分で自分を罰し続ける。そうした覚悟を持ち続けることが、貴方にはできるか?本作はそうした強烈な問いを観る者に投げかけてくる。

甥のパトリックはホッケーでラフプレーをし、同級生の女子に二股をかけ、彼女の家でセックスに及ぼうとし、免許も金もないのにボートを自分のものにしようとし、葬儀屋の丁寧なお悔やみの言葉を「毎日言っている定型文だ」と切って捨てる。はっきり言って嫌なガキンチョとして描かれているのだが、そのパトリックが思わぬ形で心の傷の深さを露呈するシーンがある。普通は自室のベッドではらりと涙をこぼすであったり、シャワーを浴びながら嗚咽を漏らすなどの、ありきたりな手=クリシェ=clichéを使うことが考えられるが、本作は全く異なるアプローチを取る。このアナロジーは見事と思わず唸った。

本作は過去と現在を頻繁に行き来する。凡百の作品にみられるような、キャラクターがゆっくりと目を閉じたところで暗転、そこから過去の回想が始まる、などという手法は一切使われない。その代わりに、何の前触れもなく、いきなり過去の回想シーンが挿入される。本作が映画の技法の面で最も優れているのは、実はこういうところである。画面に、「5年前/Five years ago」とスーパーインポーズすれば確実なところを、本作は観客/視聴者を信頼している。我々の見る目に全幅の信頼を置いている。説明が全く無かったとしても、映し出されるシーンが過去なのか、現在なのかをすぐに分かるように配慮してくれているもの(例えば兄のジョーがいる、など)もあるが、そうではないシーンでも即座にこれは過去の回想なのだと分かってしまう。編集の勝利だと言えばそれまでだが、これほどBGMやナレーションの力を使うことなく、映像と役者の存在感をもってして語らしめる作品にはなかなか出会えない。なぜ自分は公開当時、劇場に行かなかったのだろう?思い出せない。

物語の終盤、リーが元妻のランディ(ミシェル・ウィリアムズ)と再会するシーンは、涙腺決壊必定である。それはリーが救われるからではない。リーは赦しを求めておらず、救いも求めておらず、癒しも求めていない。にもかかわらず、不意に相手からそれらを与えられた時、受け入れられなかった。それほど彼の悲しみは深いのだ。凍てつくような風を吹かせるマンチェスターの海に、抗うように飛ぶカモメの群れと、水面にただ一羽佇むように留まるカモメ。その残酷なコントラストが、しかし、美しさを感じさせる。心に傷を持つ人に観て欲しいなどとは思わない。しかし、心に傷を抱える人の死のうとする弱さと、それでも生きていこうとする強さに、観る者の心が揺さぶられるのだけは間違いない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, カイル・チャンドラー, ケイシー・アフレック, ヒューマンドラマ, ミシェル・ウィリアムズ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ケネス・ロナーガン, 配給会社:パルコ, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 -心の傷を抱えて生きていく、弱さと強さの物語-

『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

Posted on 2018年9月12日2020年2月14日 by cool-jupiter

累 かさね 70点
2018年9月9日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:土屋太鳳 芳根京子 浅野忠信 筒井真理子 生田智子 檀れい
監督:佐藤祐市

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主人公もしくは主役級のキャラクターの容姿の醜さを主題に持つ作品は、古今東西で無数に生み出されてきた。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を始め、小説およびミュージカルにもなったガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(ミュージカルは複数のバージョンがあるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーのもの一択)、芥川龍之介の小説『鼻』の禅智内供、漫画の神様・手塚治虫の分身ともいえる猿田博士および系列のキャラ、百田尚樹作品の中でJovianが唯一評価している小説および映画『モンスター』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』、作者に目を向けるならば岡田斗司夫や本田透の自己認識も挙げられるだろう。今年の映画で言えば『ワンダー 君は太陽』を忘れてはならない。また『サニー 永遠の仲間たち』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』にも、重要なモチーフとして現れるテーマであり、『デッドプール』のウェイド・ウィルソン、『美女と野獣』の野獣、『エレファント・マン』、『フランケンシュタイン』(ボリス・カーロフver)の怪物、漫画およびテレビドラマ『イグアナの娘』など、顔・容姿の美醜を扱う作品は数限りなく存在する。そこに、なんと“顔を入れ替える”というアイデアをぶち込んだ時点で、原作漫画のある程度の成功は約束されていた。『フェイス/オフ』のように、ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの顔を入れ替えても、話は面白いかもしれないが、それが目の保養になるかと言えば、ならない。しかし、土屋と芳根の顔を入れ替えるのである。発想の勝利である。監督がこの原作を選んできたのは、この二人がキスをする画を撮りたかったからではないかとすら邪推する。

大女優の淵透世(檀れい)は死の前に、我が子の累(芳根京子)に顔を入れ替える不思議な力を持つ口紅を遺していった。顔に醜い傷を持つ累は、母譲りの天才的な演技力を有しながら、自分に対する劣等感を拭えないままに生きてきた。そこに羽生田釿互(浅野忠信)が現れ、丹沢ニナ(土屋太鳳)という美女ではあるものの演技力には欠ける女優の替え玉となる話が持ちかけられる。戸惑いながらも、ニナの顔を一時的に得ることで、周囲の人間の見る目が変わることを実感した累は、気鋭の舞台演出家の烏合零太(横山裕)の劇のオーディションにも見事に合格。ニナと累の二人は、奇妙な共犯関係を築いていく・・・

まず何と言っても、土屋太鳳が殻を破ったことを何よりも称えたい。山崎賢人が『羊と鋼の森』で殻を破ったのと同じ、あるいはそれ以上の飛躍が見られた。なぜなら、キャピキャピの、もしくは過度に大人しい女子高生役から遂に脱皮を果たしたからだ。後は有村架純が『ナラタージュ』で見せたような濡れ場シーン解禁を待つばかり・・・というのは冗談だが、それにしても「演じること」を演じるというのは、非常に難しいことだ。それを、プロット上でいくつか気になるというか無理な点はあるにしても、最後までやり遂げたことに拍手を送りたい。相対する芳根京子も、最初から顔が整い過ぎているのがチト気になるが、根暗な雰囲気だけではなく、対人スキルに問題を抱える、ある種の人間特有の挙動不審さ、表情や目線の不自然さまでを上手く表現できていた。この目立たないが、確かに累の者であると言える仕草や姿勢を体現したことが、一人二役、二人一役を実質は土屋太鳳が1.5人分を担っていたにもかかわらず、ダブル主演として売り出すことができ、なおかつ観る者もそれに納得できる最大の理由であろう。

容姿・容色に劣るものは内面まで劣るのか。それとも、心の内の美しさや清らかさは、外見とは無関係なのか。我々は往々にして、両者は反比例の関係にあるのだという風に、人の属性を画一的に断じてしまいたくなる。しかし、冒頭で述べたように、顔の美醜と内面の美醜は実に複雑な関係にあり、分類するとなると累はオペラ座の怪人の系譜に連なるキャラクターである。怪人はクリスティーヌへの思慕故に、シャニュイ子爵を殺そうとする。累も、烏合への想いを契機に、ニナの人生までも乗っ取ろうとする。これなどは、本田透が著作でたびたび言及するように、オタク的な生活と奇妙な相似形を為している。オタクは対人関係に障害を抱えるが故にキャラクターおよびキャラクター世界に没入する。累は、対人への劣等感故に、丹沢ニナという美少女キャラに没入する。自分ではないキャラクターを通じて何らかの世界と関わりを持つという点で、累は重度の「コミュニケーション不全症候群」に罹患していると見てよい。

そんな累を変えるのは、美しい顔を得ること以上に、顔ではなく内面に興味を抱いてくれる烏合の存在。どうせ誰も自分には話しかけてくれない、笑いかけてくれない、触ってもくれない、愛してもくれないし、抱いてもくれない。グリザベラだ。そんな思いに凝り固まった累を見る時に、我々は劣等感とは自分で自分を自分ではない者に貶める時に生じる感情であることを知る。劣等感とは幻想なのだ。現に、累の顔になっている時のニナは、周囲の目線など一切気にすることなく街を歩いていくし、芝居の稽古の現場にだって踏み込んでいく。こうした行動に、我々は清らかさを感じない。予告編にもあるのでネタバレに当たらないはずだが、ニナは累に「私はアンタみたいに中身まで醜くないから」と言い放つ。しかし、物語前半のニナはどこからどう見ても醜い内面の持ち主で、それがほんの些細な言動や表情に表れる嫌な女の典型だった。優越感も、実際に他者よりも優れているから得られるわけではなく、これまた幻想なのだ。

顔を入れ替えることで、浸食されていくニナの人生。同時に、累の思考や行動にも変化が生じるが、それらは決して気持ちの良いものではないことだけは言っておかねばならない。これは決して醜いアヒルの子のようなおとぎ話ではないのだ。それでも、『不能犯』とはまた異なる方向で、このようなダークストーリーが産生されることには大きな意味があるし、あまりにも典型的かつ定型的な漫画ばかりが映画化されるこのご時世に、大きな楔を打ち込む作品がもっと生み出されるべきなのだ。昨年、カナダ旅行に行った時に、現地の子供向けアニメの主人公が補聴器を使う女の子だったことにビックリしたことを覚えている。それだけではなく、その壊れた補聴器を修理してくれる人は義足を嵌めていた。障がいも個性。そうした考えに日本が追いつくのには今しばらくの時間がかかりそうだ。本作は単なるエンターテイメントとしてだけではなく、傷のある人間を初めて大々的にフィーチャーした作品として記憶されるのかもしれない。

本作にも残念ながら、いくつかの減点要素が存在する。その最大のものは、累とニナが相互に仕掛けるトリックだ。舞台に携わったことのある人なら、タイムキーピングの難しさは「骨の髄まで」分かっているはずだ。ふとしたことで全てが崩れ去ってしまうような、そんな危うい賭けに、ニナはともかく累が乗るだろうか。ここだけがどうしても納得できなかった。またニナにはとある秘密があるのだが、その秘密がよくもそこまで都合よくコントロールできたものだ、と呆れてしまうような類のものとして利用される。もし、累がニナの演技に気付かなかったら・・・、いや、そこは気がつくのだろうが、もしニナが復讐を企図しなかったら、窮地に陥っていたのは累だったはずだ。何がそこまで、累を確信させていたのだろうか。この点も最後の最後は気になって仕方がなかった。

という具合に最後に文句を垂れてしまったが、本作は普通に面白い。時間とカネを使って、劇場まで観に行く価値ありと声を大にして言える秀作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, スリラー, 土屋太鳳, 日本, 浅野忠信, 監督:佐藤祐市, 芳根京子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 累 かさね 』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

ジャッジ 裁かれる判事 75点
2018年9月6日 レンタルDVD観賞
出演:ロバート・ダウニー・Jr. ロバート・デュバル ベラ・ファーミガ ビンセント・ドノフリオ ジェレミー・ストロング ビリー・ボブ・ソーント
監督:デビッド・ドブキン

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その明晰な頭脳で勝利を追求する敏腕弁護士のハンク(ロバート・ダウニー・Jr.)は娘を溺愛するも、妻とは不仲。そんな彼の元に、母の死を知らせる電話が入る。長年に亘って疎遠だった実家に帰り、判事である父ジョセフ(ロバート・デュバル)、MLBへの夢が断たれ田舎町に引き込む兄グレン(ビンセント・ドノフリオ)、軽度の知的障害を持つビデオカメラ好きのデイル(ジェレミー・ストロング)、幼馴染にして元恋人のサマンサ(ベラ・ファーミガ)とその娘らと再会する。葬儀の後、父ジョセフが20年前に刑務所送りにした男マークが刑期を終えて出てきたその夜、ジョセフが車でマークを撥ねて死なせてしまう事案が発生する。偶然の事故なのか、故意の殺人なのか。ハンクは苦悩しながらも父ジョセフの正義を信じ、弁護に乗り出す・・・

まず、何と言っても二人のロバートの奇跡的な邂逅である。特にデュバルの存在感は凄まじい。本作で彼のキャラクターの持つ属性は多岐に亘る。判事の顔を持ちながらも、厳格すぎる父親の顔を持ち、年齢から来る衰えに戸惑い、怯え、しかし受け容れ、妻の死を嘆きながらも毎日墓参することを前向きに誓う強さを持ち合わせ、そして良き祖父の顔も見せる。これぐらいのキャリアの役者になると、『 ゲティ家の身代金 』のクリストファー・プラマー然り、『 あなたの旅立ち、綴ります 』のシャーリー・マクレーン然り、演じること(Acting)と存在すること(Being)の境目が揺らいでくるようだ。クライマックスの法廷で、ジョセフはその心情を赤裸々に語るが、そこから見えるのは父親としての業である。父という種族は、なぜこうも不器用もなのか。

そしてダウニーJr.の息子としての苦悩、懊悩。アイアンマンでもそうなのだが、父との確執や過去のトラウマに苛まれる役が何故か似合う。当初ジョセフはハンクに弁護を依頼せず、ペーペーの新米弁護士を雇うが、予備審問の時点からヘマを打つばかり。この時のダウニーJr.の演技が見もの。表情を変えずに仕草やアクションで台詞以上に雄弁に語りまくる。ここに我々は、彼の弁護士としての血の騒ぎ以上に、息子として本心では父を救いたくて堪らないとの思いを見出さざるを得なくなる。彼が法廷で流す涙は、悔し涙以上の悔しさがあったのだろう。なぜ自分が娘に注いでいるだけの愛情を、父もまた自分に注ごうとしているのかに思い至らなかった自分への後悔が透けて見える。これは父殺しを通じた、家族の再生の物語なのだ。古今の文学のお定まりのテーマとはいえ、法廷という真実を追究する極めて社会的、公共的な意味合いの強い場で、親子、それも判事と弁護士の対峙と融和が図られるのだから、これを劇的(dramatic)と言わずして何と言おう。

名優同士のぶつかり合いと、それを支える確かな実力を持つ脇役達、さらに細かなサブプロットをも収めた脚本と、それらを見事に統合した演出と監督術。いったん再生すれば、エンディングまでノンストップとなること請け合いの傑作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ベラ・ファーミガ, ロバート・ダウニー・Jr., ロバート・デュバル, 監督:デビッド・ドブキン, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジャッジ 裁かれる判事 』 -家族の別離と再生を描く傑作-

『アメリカン・ハッスル』 -善人1人、残りは全員悪人かアホのゲテモノ面白映画-

Posted on 2018年9月7日2020年2月14日 by cool-jupiter

アメリカン・ハッスル 70点

2018年9月5日 レンタルDVD観賞
出演:クリスチャン・ベイル ブラッドリー・クーパー ジェレミー・レナー エイミー・アダムス ジェニファー・ローレンス ロバート・デ・ニーロ
監督:デビッド・O・ラッセル

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原題は”American Hustle”、その意味するところは「アメリカ的な詐欺行為」である。カタカナ表記してしまうと hustle なのか hassle なのか、判別が難しくなる。

アーヴィン(クリスチャン・ベイル)はクリーニング店を複数営みながら、客の引き取り忘れ品を堂々と頂戴して財を為す一方で、美術品の贋作取引や、愛人のシドニーと組んでの金融詐欺などの不正な詐欺行為でも利益を得ていた。しかし、連邦捜査官のリッチー(ブラッドリー・クーパー)にある時、あっさりと逮捕されてしまう。だが、アーヴィンの詐欺の知識と手腕を高く評価したリッチーは司法取引を持ちかけ、FBIの指示の元に動けとアーヴィンに迫る。かくして、政治家や裏社会の大物をしょっぴくためのおとり捜査(sting operation)が始まる・・・

本作品は、一人を除いて、登場人物が全員悪人もしくはアホである。まるで北野武の『アウトレイジ』のようだ。『アウトレイジ』でも、ヤクザがマル暴刑事にカネを渡して情報を得るという場面がたびたび挿入されていたが、本作には大物マフィア(ロバート・デ・二―ロ)を起用し、彼を使って非常にサスペンスを盛り上げる瞬間が用意されている。これだけでも本作を観る価値があろうというものだ。また、クリスチャン・ベイルもハズレが無い俳優である。『ターミネーター4』など、今一つパッとしない作品もあったが、彼自身が輝いていないわけではなかった。ブラッドリー・クーパーも魅せる。クレイジー一歩手前の執念で上司に食い下がる姿に、我々はサラリーマンの悲哀を見出す。その一方で彼の仕事への熱意を、どこか冷めた目でしか見られない自分にも気がつく。なぜなら、犯罪の証拠を得るために、詐欺師と組んでいるからだ。社会正義を実現するために犯罪者を有効活用する、巨悪を打倒するために小さな悪を使う。それは正しいことなのか。そのことに最も打ちのめされるのがニュージャージー州カムデン市長ポリート(ジェレミー・レナー)である。彼こそは公僕の鑑とも言うべき存在で、アーヴィンとリッチー、英国貴族に連なるシドニー(エイミー・アダムス)らに翻弄されるがままに、カジノ事業に邁進してしまう。彼の徹頭徹尾の全体の奉仕者としての姿勢に、我々は勧善懲悪という四字熟語の意味を思わず考えさせられてしまう。しかし、何と言ってもアーヴィンの妻であるロザリン(ジェニファー・ローレンス)の見せる演技が圧巻である。彼女が見せる感情と感傷、激情の発露の後に見せる一筋の涙に、百万言にも値する意味が込められている。映画でしか表現できない技法で、だからこそ映画には他の文化・芸術媒体とは異なる魅力がある。

日本はおとり捜査に消極的であるが、その理由を推測するに主に2つあるのだろう。1つには、善人(お人好しと言い換えても良い)が多すぎて、社会全体が得られる利益よりも市民が被る不利益の方が大きいと予想されること。もう1つには、社会=法共同体という意識の低さ故に、おとり捜査そのものが更なる犯罪を誘発させてしまう可能性が高いと考えられることだ。おとり捜査ではないが、このあたりを描いた邦画に『日本で一番悪い奴ら』が挙げられる。

内容が盛り沢山で、おとり捜査以外にもアーヴィンの人間関係(妻と愛人)やリッチーと上司の謎の問答(十中八九、即興の作り話であろう)もスキット的に挿入されているため2時間超の作品となっている。しかし、観賞中は中弛みを一切感じさせず、初めから終わりまで一気に見させる力を持っていた。特に、「ああ、結局のところ、こういう結末なんだろうなあ」という予想を外されたのは嬉しい誤算というか、それもまた納得ができるエンディングであった。久しぶりにニーチェに『善悪の彼岸』でも引っ張り出して、再読しようか。そんなえも言われぬ感覚をもたらしてくれる良作である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エイミー・アダムス, クリスチャン・ベール, ジェニファー・ローレンス, ジェレミー・レナー, ブラック・コメディ, ブラッドリー・クーパー, ロバート・デ・ニーロ, 監督:デビッド・O・ラッセル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『アメリカン・ハッスル』 -善人1人、残りは全員悪人かアホのゲテモノ面白映画-

『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』 -ミュージカル映画の王道-

Posted on 2018年9月3日2020年2月14日 by cool-jupiter

マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー 70点

2018年9月2日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:リリー・ジェームズ アマンダ・セイフライド ピアース・ブロスナン コリン・ファース ステラン・スカルスガルド ドミニク・クーパー ジュリー・ウォルターズ クリスティーン・バランスキー メリル・ストリープ シェール
監督:オル・パーカー

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180903012214j:plain

14:00の回を観賞したが、座席の埋まり具合は開演2分前の時点でおよそ9割。公開から1週間でもこの勢いを保っていられるのは、リピート・ビューイングをするお客さんが多いからだろうか。映画のキャラクターが現実と同じように年をとっていくのは、シリーズものではそれほど珍しくはない。『ミッション・インポッシブル』シリーズは言うに及ばず、『トレインスポッティング』や『ジュラシック・パーク』シリーズと『ジュラシック・ワールド』シリーズなど、オリジナル・キャストが年齢を重ねて再登場してくれることで、観る者が一気にその世界に帰っていくことができる。近年で最も衝撃的な形でそうした体験をさせてくれたのは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のトレイラーでハン・ソロ(ハリソン・フォード)が、”Chewie, we’re home.” と静かに、しかし力強く呟いたあの瞬間である。断言できる。

本作は冒頭から、サム(ピアース・ブロスナン)が呟くように歌ってくれる。前作でのあまりの音痴っぷりがトラウマになったのか、それとも編集で歌唱シーンがカットされてしまったのか、彼の歌声が聞けなかったのは、ホッとするような残念なような。ドナ(メリル・ストリープ)が亡くなったことで、ホテルを回想し、リ・オープニングすることを決めたソフィ(アマンダ・セイフライド)は、スカイ(ドミニク・クーパー)からニューヨークで一緒に暮らさないかという誘いに心が揺れる。島で母のホテルを継ぐのか、広い世界に飛び出していくのか。逡巡するソフィと島に迫り来る嵐と人々。過去と現在が、ABBAの音楽に乗って鮮やかに交錯し、若き日のドナ(リリー・ジェームス)の日記の...(dot dot dot)の部分を、我々は追体験する・・・

使用されているABBAの楽曲がややマイナーになっている点を除けば、非常に忠実に前作『マンマ・ミーア!』の世界観を継承している。こうした過去と現在をつなぐ映像作品の良し悪しは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、キャスト同士がどれだけ似ているが第一義である。例えば『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』や『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』がどうしようもない駄作で、世界観を一気にぶち壊しかねない設定(ミディ=クロリアンなど)を盛り込んだにもかかわらず、スター・ウォーズ的であり得たのは、ヘイデン・クリステンセンやユアン・マクレガーが、マーク・ハミルやアレック・ギネスと親子関係あるいは同一人物であると納得できるルックスを持っていたからだ。そこでリリー・ジェームズである。確かに前作では、若かりしドナの顔が少しぼやけた写真がいくつかあった。そして、それらはあまりにもメリル・ストリープにしか見えない写真だった。しかし、どういうわけか、メリル・ストリープとリリー・ジェームズの写真を介さずに並べるなら、同一人物であるとは言えないまでも、納得できるレベルで充分に似ている。もちろん、メイクアップ・アーティストやヘアドレッサー、照明や撮影監督の技量もあるが、このキャスティングだけで半ば本作の成功は約束されていた。ターニャとロージーの若い頃を演じた2人などは、それこそスタッフの力もあるが、びっくりするほど仕上がっていた。そしてシェール演じるドナの母親、ソフィーの祖母。確かにメリル・ストリープの母を演じて良いのは、このような妖怪(褒め言葉と捉えて頂きたい)しかいないのかもしれない。

唯一の懸念はジェームズの歌声。『シンデレラ』では“夢はひそかに/A Dream Is a Wish Your Heart Makes”を歌いあげたが、『ベイビー・ドライバー』では、やや調子っぱずれに Carla Thomasの“B-A-B-Y”とBeckの“Debra”を歌っていた(そういう指示があったのかもしれないが)。だが、それは杞憂だった。オープニングの“When I Kissed The Teacher”で、傑出したとまでは言えないものの、前作のセイフライドに全く見劣りしないパフォーマーであることを証明した。また、メリル・ストリープのあの「アッハハハーハハー」という笑いを完コピしていたのはポイント高し。その他でも、ストリープのほんのちょっとした仕草や立ち振る舞いも取り入れており、パーカー監督との息もばっちり合っていたようだ。後は物語の流れに身を任せれば良い。劇場では『コーヒーが冷めないうちに』のポスターがでかでかと4回泣けますと謳っていたが、Jovianは本作観賞中に4回涙した。そのうちの二つは、コリン・ファースとステラン・スケルスガルドの抱擁シーンと”Dancing Queen”。後の二つは劇場でご自身で確認頂きたい。

そうそう、劇場が明るくなるまで席を立ってはいけない。また、ハリーが東京で大きな商談をするシーンがあるが、そこに描出される日本および日本人像に腹を立ててはいけない。『ロスト・イン・トランスレーション』から『ラスト・サムライ』まで、日本人というのは誤解されてナンボなのである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アマンダ・セイフライド, アメリカ, ミュージカル, メリル・ストリープ, リリー・ジェームズ, 監督:オル・パーカー, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』 -ミュージカル映画の王道-

『マンマ・ミーア!』 -世代を超える、世代をつなぐミュージカル映画-

Posted on 2018年8月30日2020年2月13日 by cool-jupiter

マンマ・ミーア 70点

2018年8月27日 WOWOW録画観賞
出演:メリル・ストリープ アマンダ・セイフライド ピアース・ブロスナン コリン・ファース ステラン・スカルスガルド ドミニク・クーパー ジュリー・ウォルターズ クリスティーン・バランスキー 
監督:フィリダ・ロイド

ABBAを知らない世代もいつの間にか増えてきた。当然と言えば当然である。今現在、20代の人間は、実は全員が平成生まれなのである。この事実に思い当った時、戦いた人は多いだろう。『シン・ゴジラ』がヒットするまでは、「ゴジラって何ですか?」という中学生や高校生もいたのである。ABBAを知らない中高生など、何をか況やである。それでもABBAの楽曲の数々は不滅である。その理由がここにある。

ギリシャの小島でソフィ(アマンダ・セイフライド)は結婚式を間近に控えていた。母ドナ(メリル・ストリープ)と二人でホテルを切り盛りしてきたが、ある時、偶然に母の日記を発見してしまった。そこには、21年前の一夏に、母が三人の男、サム(ピアース・ブロスナン)、ハリー(コリン・ファース)、ビル(ステラン・スカルスガルド)と情熱的な関係を持ったこと、すなわち自分の父親候補がこの世に三人いるということが書かれていた。ソフィは三人に結婚式への招待状を秘密裏に送る。結婚式での最大のサプライズを考えていたのだ。かくして往年のABBAのヒットソングに乗って、スラップスティックなドラマが描かれる。

アマンダ・セイフライドは高齢女優と相性が良いのだろうか。『あなたの旅立ち綴ります』でもシャーリー・マクレーンと絶妙のケミストリーを生みだしていた。今作ではメリル・ストリープ。キャリアの転換点になったことは疑いの余地は無い。

映画の一番の特徴はと言えば、暗いところで大画面、大音量で観る、というものだろう。もちろん、部屋を暗くしてテレビで観ても良いわけだが、良い映画というのは見た瞬間に分かることがある。光の使い方、取り込み方が絶妙なものは確かに存在する。古いものでは『2001年宇宙の旅』、近年では『ブレードランナー2049』など。今作はエーゲ海とその空だけを背景に、特に凝った構図が見られたわけではない。しかし逆に、これはモーション・ピクチャーとしての美しさを追求するものではありませんよ、という本作の宣誓とも受け取れる。もちろん、ドローン全盛ではなかった時にどうやって撮ったんだ?(ヘリボーンで撮影したのだろうけれど)と思わせるショットもいくつか存在していたが。

今作の最大の魅力はABBAの魅力的な楽曲が視覚化されたことだと断言してもよいだろう。”Money, Money, Money”や”Mamma Mia”、”SOS”などは忠実に歌われ、物語の各シーンに溶け込んでいるが、一方で”The Winner Takes It All”のように、新しく再解釈された歌もあった。何よりも永遠の名曲、”Dancing Queen”がビジュアライズされただけでも洋楽ファンは納得、そして感涙であろう。おそらくだが、ある一定の世代(1970年代に高校生以上だった世代)がABBAとThe Carpentersから受けたショックというか洗礼というか感動というかインスピレーションは、一言では言い表せないものがある。

今作のdemographicは明らかにABBAを現役で知っている世代であろう。だからこそ主人公はメリル・ストリープであり、お相手はコリン・ファースやステラン・スカルスガルドなのだ。しかし、ABBAが本格的な活動を休止してから幾星霜。今の若い世代にも、ABBAの音楽を再発見してもらっても良い頃だ。また、ABBAをリアルタイムで観賞した世代の子ども世代が、今のエンターテイメント界の意思決定者になりつつあるタイミングでもあろう。そういった意味で、正式な続編がリリースされるというのは喜ばしいと同時に誇らしくもある。優れた文化や芸術は、次世代に繋がねばならないからである。

ちなみに、Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『オズの魔法使』と『ジーザス・クライスト・スーパースター』で、次点は『ウエスト・サイド物語』である。『グレイテスト・ショーマン』でも、まだ少し足りない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, アマンダ・セイフライド, アメリカ, コリン・ファース, ミュージカル, メリル・ストリープ, 監督:フィリダ・ロイド, 配給会社:東宝東和Leave a Comment on 『マンマ・ミーア!』 -世代を超える、世代をつなぐミュージカル映画-

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