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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

Posted on 2019年1月4日2019年12月20日 by cool-jupiter

こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 70点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:大泉洋 高畑充希 三浦春馬 萩原聖人
監督:前田哲

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日本にも障がい者を正面から捉える映画が増えてきた。それが正しいか、もしくは多くの人々に受け入れられるかどうかは別にして、障がいもまた個性であるという考え方が提唱されて久しい。『 ブレス しあわせの呼吸 』の、ある意味では正統的な続編と言えるのかもしれない。

 

あらすじ

時は1994年、鹿野靖明(大泉洋)は34歳。筋ジストロフィーのため、動かせるのは首より上の筋肉と手首より先ぐらい。そんな鹿野は、我がままの言いたい放題でありながらも、ボランティア達とは不思議な縁で結ばれていた。医大生の田中(三浦春馬)とそのガールフレンドの美咲(高畑充希)もひょんなことからボランティアのメンバーになってしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

実在の人間をモデルにしているのだから、当たり前と言えば当たり前だが、鹿野という人物が非常に生き生きと活写されている。『 聖の青春 』の村山聖もそうだったが、自分に残された命がそう長くはないと悟っている人間というのは、後悔をしたくないのだ。だからこそ、食べ物や雑誌のあれやこれやに非常に細かい注文をつけてくる。なぜなら、それが人生最後の食事や娯楽になるかもしれないから。劇中でも言及されるが、彼ら彼女らのわがままはは単なる駄々っ子のそれではない。生きるということを誰よりも真剣に捉えた上でのことなのだ。鹿野の言い放つ「医者の言う命って何なんだ?」という台詞は、劇中の時代から20年以上を経た今でも、非常に重い問いとして我々に圧し掛かってくる。その問いに対する答えはエンドクレジット中に示されるので、結末部分だけを見てさっさと劇場を後にするなどということは努々することなかれ。ここでは某韓国映画が持っていて、日本版リメイクが削ぎ落としてしまった、命に関する重要なメッセージが語られるのである。

 

それにしても『 パーフェクト・レボリューション 』や『 パーフェクト・ワールド 君といる奇跡 』など、日本もかつての無意識の差別意識がかなり薄まり、あらゆる人を社会的に包摂するにはどうすればよいのかを問うようになってきたようだ。作り出される映画の質は措くとしても、そのラインナップに可能性を感じる。『 博士と彼女のセオリー 』にあったような、ある意味での孤閨をかこつ女の寂しさと、ストレートに愛情をぶつけてくる男というのは、いとも容易くドラマを生む。高畑充希は『 アズミ・ハルコは行方不明 』で結構な尻軽を演じていた記憶があるが、今作でも体当たりの演技を披露してくれる。といっても脱いだりはしないからスケベ視聴者は期待すべからずだ。その代わりに、高畑の大ファンが聞いたら卒倒するような台詞も言ってくれるから、そこは期待していいだろう。しかし、赤ん坊の世話、高齢者介護においても、絶対に避けては通れないような問題をしっかりときっちりと描く本作の姿勢には非常に好感が持てる。

 

ブラックボランティアなる言葉がある。2020年の東京オリンピックでは、高度なスキルや経験を持つ人材数万人を手弁当で動員しようというプランがあるようだ。そのことの是非はここで判断すべきではないが、本作ではボランティア=無償の労働力とは捉えない。Volunteerという英語は、元はラテン語のvolo = I am wishingから来ている。鹿野は大げさでも何でもなく世界変革の夢を見ている。その夢に参画したいという者をボランティアとして募っているのだ。こうした個人が日本という国で確かに息をしていたということに驚かされるし、そうした人物を見事に銀幕に蘇らせた大泉洋に拍手。

 

ネガティブ・サイド

終盤のとあるシーンで、ドン引きさせられるシーンがある。人によってはぶん殴ってくるだろう。それも鹿野の人徳かもしれないし、もしかしたら映画化に際してのドラマチックな脚色かもしれない。しかし、個人的にはあの展開はないだろうと感じた。

 

田中の医学部生としての描写も弱い。体位交換のことを体交とボランティアが略して言うのに、気管切開のことを医大生の田中が気切(きせつ)ではなく、あくまで気管切開というのには違和感を覚えた。その他、様々な場面で田中に医者の卵らしさが見られてしかるべき場面があったのに、そのいずれでも田中は輝けなかった。それが事実だったと言ってしまえばそれまでだが、こういったところこそ脚色してナンボだろうと思う。映画とは一にかかってリアリティの追求なのだ。

 

最後に、音楽が重要なモチーフになる本作であるが、なぜジャズがフォーカスされなかったのか。鹿野が美咲につられて、あっさりとジャズからロックに宗旨替えしてしまうのは納得がいかなかった。ロックを魂の叫び、体制への反逆と定義するのならば、鹿野の生き方に合致しないこともない。しかし、ジャズは?『 ラ・ラ・ランド 』のセブが力説したように、ジャズはバンドのミュージシャンたちがその瞬間ごとに文脈を考慮しながら、新たに曲を書き、編曲し、そして演奏するのではなかったか。鹿野自身の来たし方はロックかもしれないが、ボランティアとの交流は間違いなくジャズだろう。ジャズの要素をもっともっと交えたシーン、ジャズ音楽そのものと協働するようなシーンが欲しかったと思うのは、決してない物ねだりではあるまい。

 

総評

これは素晴らしい作品である。高校生あたりの道徳の副教材に採用しても良さそうだ。障がい者を見る時、人はその相手に自分が障がいを負った時の姿を見ると言う。鹿野という人間が確かに生き、確かに死に、しかし今も人々の心に残っているのは何故か。それこそが生きるということであると本作は高らかに宣言する。ほんの少し性的な要素も描写されるが、聡明な中学生ぐらいなら逆にそれも勉強の糧にできるような良作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 三浦春馬, 伝記, 大泉洋, 日本, 監督:前田哲, 萩原聖人, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話 』 -He lives in you.-

『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

Posted on 2018年11月30日2019年11月23日 by cool-jupiter

ステータス・アップデート 70点
2018年11月25日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ロス・リンチ オリビア・ホルト コートニー・イートン グレッグ・サルキン ロブ・リグル ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:スコット・スピア

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『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』のスコット・スピア監督の作品ということで迷わず鑑賞。やはり今後は、自分の頭の中の心象風景を、自分なりにチョイスした音楽に乗せられる監督がどんどん台頭してくるのだろうなという印象をさらに強くさせられた。かの武満徹や伊福部昭は映画音楽を手掛けることはあっても、サントラの発売には当初、かなり否定的だったと言われる。映像+音楽=映画音楽という信念の持ち主であったことと、あくまで自分たちは音楽家であって実業家ではないという信念の持ち主であったためと考えられている。しかし、今後はジャンルの混合・混淆もますます進み、音楽畑や文学畑から映像畑に進出してくる、あるいはその逆の流れも生じてくるのだろう。スピア監督は、そうした時代の潮流の象徴の一人であるように思う。

 

あらすじ

両親が別居することになったカイル(ロス・リンチ)はカリフォルニアから4800km離れたコネティカットに引っ越し、母と祖父、妹と暮らし始める。しかし、学校や地域そのものに馴染めず苦悩する。そんな中、モールのショップで「ユニバース」というアプリ入りのスマホを手に入れたカイルは、そこに投稿した内容が実現することを知る。次々に願いを叶え、望みのものを手に入れていくカイルだが・・・

 

ポジティブ・サイド

ドラえもんのひみつ道具を一つだけ手に入れることができるなら、何がいいだろうか?と夢想したことのある人は多いはずだ。タケコプターやどこでもドア、ほんやくコンニャクあたりが有力候補だろうが、Jovianは間違いなく、もしもボックスを選ぶ。本作のカイルは、そういう意味で自分と重なる。そしてその願いも、まるでのびたのそれのようなのだ。小学生でも高校生でもオッサンでも、結局願うことは同じレベルなのだと思うと気恥ずかしいやら面映ゆいやら。世界征服のようなスケールの大きな願いではなく、あくまで自分の生活世界の中で完結するような願い。カイルが叶えたいと思うのは、非常に小市民的な夢なのだ。

 

本作はアメリカのスクール・カーストの実態も活写する。『 THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 』や『 ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 』で描かれていたように、アメリカのハイスクールでカースト上位に来るのは、フットボールチームのスターとチアリーダーなのであるが、本作はその地域性もあって、アイスホッケーチームのエースが序列のトップに来る。アメリカという国の広さを物語ると共に、自分がアメリカに対して知らず先入観を抱いていたことも思い知らされた。このアイスホッケーというのがミソで、思わぬユーモアを生み出してくれる。また『 ピッチ・パーフェクト  』並みに歌唱とダンスにも力を入れているシーンがあり、ここはスコット・スピア監督の趣味と手腕が爆発した箇所であると言える。ビジュアルの力でストーリーテリングを行うのは映画の基本にして究極だが、そこに音楽や歌謡を効果的に用いることのできる、いわば新世代の監督たちも台頭してきた。トップランナーはエドガー・ライトだろうが、スコット・スピア監督も、今後はほぼ無条件で観るべき監督リストに載せておこう。

 

非常に陳腐ではあるのだが、本作はカイルという主人公を決してミヒャエル・エンデの『 はてしない物語 』のバスチアンのようには描かない。というよりも、この世界のバスチアンとファンタージェンのバスチアンを丁寧に切り取り、前者をカイルに、後者をカイルの親友、デレクに仮託したようである。どこまでも子どもの目線を貫くプロット構築は見事である。

 

そして子どもと対比されるのは大人である。具体的にはカイルの父と母である。母は息子に非常に現代的なアドバイスを送る。それはおそらく多くの子どもたち、いや、それよりも大人たちに突き刺さるメッセージである。在野の歴史家にして小説家の八切止夫は「人間関係は、いかに相手に誤解されるかにかかっている」と著書『 信長殺し、光秀ではない 』で喝破した。このメッセージは、ロブ・リグル演じる父親に実はそっくりそのまま当てはまる。それにしても、このコメディアンは一癖ある父親を演じさせれば天下一品である。『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』でも強烈なインパクトを残したが、スピア監督と相性が良いのだろうか。素晴らしいケミストリーが生まれている。

 

最後に、ジョン・マイケル・ヒギンズに触れねばならない。『 ピッチ・パーフェクト 』シリーズの毒舌解説者と言えばお分かり頂けよう。単なる勘だが、この人は多分、台本半分、アドリブ半分で喋っているのではなかろうか。韓国のイム・ヒョンシクに並ぶアドリブの帝王であるような気がしてならない。これは褒め言葉である。

 

ネガティブ・サイド

祖父はこの物語に必要だったか?コミックリリーフならロブ・リグルがいるし、デレクも単独で充分に面白い。祖父の存在は完全にカットして、上映時間を数分で良いから短くするか、または編集でそぎ落とした他のシーンの増量に回してほしかった。

 

またエンディングのクレジットシーンに10秒程度のスキットが挿入されるが、これも果たして必要だったのだろうか。

 

「ユニバース」というアプリの効力の範囲や期間が不透明であったり、一度アップデートされたステータスを再びダウングレードすることは可能か?などの疑問も湧いてきてしまうが、これをちょっと不思議な青春映画と見るか、それとも現代的な本格ファンタジーと見るかで評価が分かれるかもしれない。

 

総評

これは面白い。こういった作品こそ、配給会社はもっと数多くの箱で見られるように努力してもらいたい。娯楽あり、哲学ありと面白さと深さの両方を追求している作品で、小学校の高学年から大人まで幅広い層のビューワーを楽しませることができるポテンシャルを秘めた作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ジョン・マイケル・ヒギンズ, ファンタジー, ロス・リンチ, ロブ・リグル, 監督:スコット・スピアLeave a Comment on 『 ステータス・アップデート 』 -虚構とリアルを適切に織り交ぜた佳作-

『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

Posted on 2018年11月23日2019年11月23日 by cool-jupiter

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 75点
2018年11月18日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ルーニー・マーラ
監督:デビッド・ロウリー

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どんな文化にも、太陽と月に関する神話、そして幽霊に関する物語が存在するものである。そして太陽、月、幽霊の中で最も多彩に解釈されるのは幽霊ではないだろうか。小説や映画の世界では、幽霊は往々にして悲哀または恐怖をもたらすものとして描かれてきた。本作はそこを転換させ、幽霊のパトス、そこから生まれるエートスを描く。視点が人間→幽霊ではなく、幽霊→人間なのである。これは全く新しい視点からの物語であると言える。

 

あらすじ

ある若い夫婦が郊外の一軒家に暮らしていた。誰もいないはずのところで物が落ちたりするなどの不可解なこともあるが、二人は平和に暮らしていた。ある時、夫が死んでしまった。悲嘆に暮れる妻。しかし、夫は遺体安置所のベッドからシーツをかぶった姿のまま起き上がり、歩いて妻の待つ家へと帰る。幽霊となった男の不思議な旅が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

本作のプロットについて説明するのは非常に難しい。ほんのちょっとしたことが重大なネタばれになりかねないからである。幽霊となった男が、妻を見守る話・・・というわけではない。それは話の一側面であって、テーマではない。ある意味で、映画製作者は観る者をかなりの程度まで信用しているとも言える。何と言っても『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』でアカデミー主演男優賞を受賞したケイシー・アフレックに、真っ白のシーツをかぶせて、目と鼻の部分にだけ穴を開けた幽霊を演じさせるのである。『 るろうに剣心 京都大火編 』と『 るろうに剣心 伝説の最期編 』で藤原竜也が顔面に包帯をぐるぐる巻きにした際の演技も素晴らしかった。顔が一切見えないというのは、表現をする上で翼を半分もがれたようなものだが、あれにはまだ音声とアクションという片翼が残されていた。本作のケイシー・アフレックは、全身を白いシーツで覆う、小さな子どもが考え付いたようなゴースト像でほぼ全編を通して登場する。台詞もない。過激なアクションもない。それでいて幽霊の感じる執着、困惑、怒りなどのパトスを見事なまでに我々に伝えてくる。歩き方であったり、振り返り方であったり、ほんのちょっとした指先の動きであったりで、これほどまでに内面の心理を描き出せるものなのかと驚嘆させられる。この幽霊の動きや仕草は、大学の映画サークルや同好会のシリアスなメンバー(特に役者志望や劇団員)は必見であろう。

 

今作はできれば英語字幕で鑑賞することをお勧めしたい。というのも、ある時点では言語が英語ではなくスペイン語に切り替わるからだ。といっても字幕などは一切出ない。スペイン語が分からない人には、画面上で何が起こっているのかを把握するのが全くもってお手上げ・・・とはならないのである。ビジュアルストーリーテリングの極致とも言うべきで、幽霊とスペイン語ファミリーの存在のコントラストが、何よりも雄弁に一連のシーンを語ってくれるのである。このシーンもまた、映画製作を志す者にとっては必見であろう。

 

本作はここから、予想外の展開を見せる。というよりも観る側の想像力を裏切る、または試すかのような展開と言うべきかもしれない。ここで幽霊の生前の職業を思い起こすべきだろう。彼は音楽家だったのだ。作曲し、歌い、レコーディングもする、コンポーザーにしてシンガーにしてオーディオ・エンジニアでもあったわけだ。音楽が瞬間ではなく全体で成り立っていることは、アンリ・ベルクソンの時間=意識の持続という説を援用せずとも理解できる。時間は直線でも等間隔でもない。メロディがありリフレインがあるのだ。これ以上は、劇場で本作を鑑賞して考察をしていただきたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

パーティーで酔ってべらべらと喋る男は果たして必要だったのだろうか。あまりにも説明的で、観ている最中は「ほうほう、なるほど」と思えたが、観終わってしばらくしてからは印象が変わった。このシーンはノイズである。

 

もうひとつ弱点を挙げるとするなら、序盤の妻の食事シーンだろうか、おそらく4分ほど固定カメラでロングのワンカットを映すシーンがあるが、ここは2分程度に抑えられなかったのだろうか。典型的な悲嘆のシーンで、物語の進行上ではずせないことは理解できるが、Jovianの嫁さんや左隣の人などは、ここで寝てしまっていた。惜しいかな、序盤でもっと多くの人を引き付けることさえできていればと思う。

 

総評

細部に突っ込むべきところや、説明されないままの箇所も残る。そうしたモヤモヤを許容できなければ、観るべきではないのだろう。しかし、この幽霊を通じて世界を追体験すれば、「生」の意味に新たな発見があるであろう。死および死以後に関しての新たな仮説が提示されたわけで、文学ではなく映画がこれを行ってくれたことに意義を認めたい。非常に野心的な傑作映画である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ケイシー・アフレック, スリラー, ルーニー・マーラ, 監督:デビッド・ロウリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

Posted on 2018年11月9日2019年11月22日 by cool-jupiter

日日是好日 75点
201811月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:黒木華 樹木希林 多部未華子
監督:大森立嗣

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樹木希林との惜別のために劇場へ。彼女の作品で印象に残っているのは『 風の又三郎 ガラスのマント 』、『 39 刑法第三十九条 』、『 東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜 』、『 海街diary 』、『 万引き家族 』。平成の日本映画史を支えた女優が逝ってしまった。合掌。

 

あらすじ

20歳の典子(黒木華)は、自分が本当にやりたいことを見つけられないまま、惰性で大学に通っていた。ある時、母が茶道を習ってみたらと提案するも乗り気になれない。しかし、従妹の美智子(多部未華子)が乗り気になったことから典子も茶道教室へ。それが典子と武田先生(樹木希林)、そして自分が探していた何かとの邂逅だった・・・

 

ポジティブ・サイド

黒木華は幸薄そうな役がよく似合う。『 散り椿 』、『 ビブリア古書堂の事件手帖 』は正直なところ、物語世界の構築には成功しなかった。しかし、そうした作品においても黒木華はキャラクターに息吹を与えていた。黒木華が出ているだけで「観ようかな」と思わせられるだけの存在感を発するようになってきた。今後も楽しみである。

 

本作は典子と美智子の茶道に対するアプローチの対照が前半の見どころである。何でも理屈で解釈しようとする美智子と、五感で茶菓子や茶器、茶室、書、掛け軸、生け花、そしてお茶を賞翫する典子、という構図である。茶道の作法に意味があるのか、それとも無いのか。これはそのまま典子の抱える疑問、大学に行くことに意味があるのか、それとも無いのか。古い映画を観ることに意味があるのか、それとも無いのか。将来の仕事を決めることに意味があるのか、それとも無いのか。これらは頭で考えてどうにかなる性質の問いではない。もちろん、無理やり答えを出して前に進むこともできる。ただ、それは典子の性(さが)ではないのだ。前半は観る者に、「あなたは典子型ですか?美智子型ですか?」と尋ねてくるかのようだ。それが不思議と心地よい。どちらの生き方も否定されないからだろう。

 

茶道が主題となると、画的にさびしいと思ってしまうが、さにあらず。『 クレイジー・リッチ! 』でも用いられた手法だが、多種多様なガジェットを画面いっぱいに次々と映していくことでもダイナミックさは生まれるのである。『 クレイジー・リッチ! 』では色々な食べ物が印象的で、本作では茶器と茶菓子、掛け軸が特に印象的である。特に掛け軸の瀧直下三千丈は、その書の雄渾さだけではなく視覚的なイメージで典子に、つまり我々に訴えかける。こうした技法はピーター・J・マクミランが『 英語で読む百人一首 』の三番、柿本人麻呂の「足引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 一人かも寝む」という有名な句を英訳する際に使用している技法である。瀧という文字を、意味ではなく視覚で受け止めるべしというメッセージであり、同時に茶道というものを理性ではなく感覚で経験すべしというメッセージでもある。ナレーションもなく、わざとらしい説明の台詞もなく、ただただ書に見入る典子の姿を映し出すことで、観る者にメッセージを送る。これこそ映画の基本にして究極の技法である。このシーンだけでもチケット代の半分以上の価値がある。

 

作中では、ある重大な出来事を受け止めた典子が、止め処なく溢れ出てくる気持ちを爆発させるシーンがある。どことなくニヒリスト的であった典子が、自分のこれまでの生を肯定できるようになる重要なシーンである。ニーチェの言うニヒリズムと永劫回帰は、茶道の一期一会と、案外と近縁の思想なのかもしれない。ゲーテの『 ファウスト 』にも通底する思想で、生の一瞬一瞬を愛でることができれば、人生に悔いを残さないようになれるのかもしれない。小説『 神様のパズル 』で綿さんがコメを食べながら得た「閉じた」という感覚を、典子も抱いたことだろう(ちなみに、映画版の『 神様のパズル 』は原作小説の改悪なので、映画はスルーして小説の方を読むことをお薦めする)。茶道の向こうに人生の真実が、確かに見えてくる。

 

ネガティブ・サイド

典子のライフコースにおける一大イベント前に、美智子が絶対に現れると思っていたが、元々の脚本になかったのか、それとも編集でカットされたのか。序盤のコメディ・タッチがどんどんと鳴りをひそめ、シリアスとまではいかないものの、それなりに重いテーマを扱う後半こそ、美智子の軽さが必要だったのではないだろうか。

 

また、シーンごとのメリハリに一貫性も欠いていた。BGMやナレーションを極力使わず、映像と音だけでストーリーを紡ぐシーンもあれば、あまりにもナレーションや心の声を聞かせすぎるシーンもあった。中学生以下ならいざ知らず、高校生以上であれば、本作の各シーンが持つ意味や意義は掴めるはずだ。もう少し、受け手を信用した作りをしてほしいと思う。

 

総評

扱う主題は茶道だが、その奥に潜むテーマは深いとも浅いとも言える。それは観る者の人生経験や哲学、識見によって変わってくる。しかし、これをきっかけに両親や祖父母に電話をしよう。あいさつをしよう。部屋をちょっと模様替えしてみよう。料理の組み合わせを少し考えてみよう。などなどの、目の前の瞬間を大切に生きてみようという気持ちにさせてくれる力を持つ作品に仕上がっている。劇場でいつまで公開されているか分からないが、是非とも多くの方に観てもらいたい映画である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 多部未華子, 日本, 樹木希林, 監督:大森立嗣, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトル, 黒木華Leave a Comment on 『 日日是好日 』 -茶道の向こうに人生の真実が見えてくる-

『 華氏119 』 -アポなし突撃は控え目だが、現実を抉る鋭さは健在-

Posted on 2018年11月7日2019年11月21日 by cool-jupiter

華氏119 75点
2018年11月4日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ドナルド・トランプ
監督:マイケル・ムーア

 

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マイケル・ムーアと言えば、アメリカ随一の社会派映画監督。その視線は、アメリカ社会の内包する問題を常に捉え、それを独自の映像世界に落とし込むことで、アメリカのみならず全世界に警鐘と啓蒙の映画を送り込んできた。それでは今作はどうか。アポなし突撃は控え目だったが、中間選挙目前というこのタイミングでリリースしてくることで、全米の有権者に揺さぶりをかけてきた。果たしてその効果のほどは・・・

 

あらすじ

時は2016年、全世界がアメリカの大統領選に注目しながらも、どこか楽観的な雰囲気が漂っていた。まさかトランプの勝利はあるまい。そう誰もが思っていた時に、トランプ大統領は誕生した。その深層にはアメリカの民主主義および社会が内包する矛盾や対立構造が深く根を張っていた。アメリカ随一の社会派映画監督のマイケル・ムーアがトランプ大統領誕生と、そこに潜む社会問題を独自の視点と手法であぶり出していく。

 

ポジティブ・サイド

ムーアの眼差しは、ドナルド・トランプ大統領個人の資質に向けられるのではなく、そうした大統領を生み出してしまったアメリカ社会、アメリカの有権者、アメリカの政治制度に向けられる。なぜ独裁的傾向を持つ個人を支持する層が存在するのか。なぜメディアに真摯に答えない個人が大衆の支持を集めたのか。なぜ権力を持つ者が、その権力をさらに強固にしてしまおうという試みに歯止めがかけらないのか。ムーアの問題意識は明確だ。個々人の意識や意見が正しく集約されない仕組みに彼は大いに不満を抱いているというわけである。そうしたアメリカ社会の抱える矛盾が一挙に噴出した証明として、彼はトランプ大統領出現を読み解く。

 

実際に、トランプ大統領誕生の報に触れた時の世の反応を覚えている諸賢も多いと思われる。わずか二年前のことなのだ。2020年、アメリカにおいて女性の参政権獲得の100周年を祝って、第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンには20ドル札の表面からは退場を願い、代わって奴隷解放および女性の社会的地位向上の旗手、ハリエット・タブマンに登場願う年に大統領職にあるのは、誰もがヒラリー・クリントンであると半ば盲目的に信じていた。いや、信じたがっていた。そのヒラリーを奉る民主党も、およそ民主主義国家とは思えぬ方法でサンダースを締め出していたという疑惑を、本作はまず追求する。

 

ムーアの視点はミシガン州のフリントという町の水道水問題にも向けられる。州知事がビジネスマンであり、州の政治も会社を経営するように行うと、まるでリー・クアンユーであるかのように宣言、その政治手腕を振るったところ、執政は失政となった。また教師のストライキ、銃乱射事件の多発を受けての高校生の草の根運動など、ムーアはアメリカ社会に強い憤りを感じつつも、問題の解決に動いていってくれるであろう次代の芽に希望を見出している。

 

本作をアメリカ社会の問題と思うなかれ。かの国を蝕む社会構造の矛盾は、そのまま東洋の某島国にも当てはまる。美辞麗句が蔓延るのは、独裁政権誕生の前触れとは、蓋し炯眼であろう。「美しい国」というのは“Make America great again”というキャッチ・コピーと比喩的な意味では大差はないのだ。2018年、日本では『 万引き家族 』の是枝監督が、賞賛と批判の両方を受けた。多様な意見の存在は、民主主義社会では歓迎すべきことである。しかし、日本に内在する最大の問題は、アメリカのそれと同じく、右か左か、0か1か、全か無か、という意識の二極化だ。政治に関して言えば、自民党かそれ以外か。これはアメリカの政治が、民主党か共和党かのほぼ二者択一になってしまっているのと構造的に同じである。

 

社会の矛盾とは、社会を構成する個人に矛盾が生じていることを意味する。労働者階級に属する人々の中に一定数のトランプ支持者が存在する。そのトランプは、富裕層を相手に商売をし、ブルーカラーやレッドネックを見下すような男であるにもかかわらず。日本も同様である。富裕層や大企業を厚く遇しながら、庶民や中小企業から搾り取る現政権を支持するのは、なぜか社会の下層民に多い(とされる)。いや、日本はもしかするともっと救いが無いのかもしれない。ムーアは本作の水道水問題で、オバマの化けの皮を剥いでしまったが、日本では西日本豪雨の被災地を視察すらせず酒盛りに興じていた為政者連中が今も権力の中枢に鎮座している。

 

本作は、個々人の問題意識≒希望にフォーカスしつつも、その限界点にも着目する。希望を抱くだけでは意味がない。行動こそがいま最も求められているものだ。本作はそれを高らかに宣言する。健全なる社会の健全なる構成員であれかしと願う者は絶対に観るべし。

 

ネガティブ・サイド

トランプを過去のトンデモ権力者とダブらせる演出があるが、これは失敗であろう。トランプ政権に限らず、極右的、排外的性向を持つ政権の登場をアナロジーで理解するべきではない。それをしてしまうと、≪歴史は繰り返す≫。目の前で展開する事象を、すでにあったこととして捉えてしまうような見方をさせてしまいかねない演出は個人的に評価しない。

 

高校生らの運動を力強く支持する姿勢を見せるのは構わないが、自分たちの世代が残してしまった負の遺産、自分たちの世代が広げてしまった断絶などについての反省がもっと見られても良かった。Jovianの元同僚にはシカゴ出身のアメリカ人がいるが、彼が日本に来た理由(というよりもアメリカを去った理由)は、誰もかれもが銃を持っている、ということだった。日本でもこの1~2年で、修学旅行の行き先としてアメリカは除外されるようになってきた。ドローン・ウォーの批判も結構だが、銃乱射事件が起きると銃が売れるというには、あの忌まわしき米ソの冷戦時代、核実験や核開発の報の旅に核軍備を増強したというのと、現代のアメリカ社における銃の増加は奇妙な相似を為す。ムーアの世代こそが冷戦を総括し、反省しなければならないはずだが、そうした≪歴史は繰り返す≫ということに対する危機感の薄さが、やはりどうしても気になってしまった。

 

総評

いくつか気になる点はあるものの、日本にも通じる問題が数多くフォーカスされる。ある意味で非常にアメリカらしいアメリカ映画である。現代アメリカの世相を読み解く重要な示唆が得られるので、大人だけではなく受験を控えた高校生や浪人生にもお勧めできる。小論文やエッセイのネタを本作から拾ってきてもよいだろう。また、ムーアの視点や思考回路は「現実を多層に見る」際のヒントになるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ドナルド・トランプ, 監督:マイケル・ムーア, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 華氏119 』 -アポなし突撃は控え目だが、現実を抉る鋭さは健在-

『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

Posted on 2018年11月3日2020年9月21日 by cool-jupiter

ハナレイ・ベイ 70点
2018年10月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉田羊 佐野玲於 村上虹郎 佐藤魁 栗原類 
監督:松永大司

 

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原作は村上春樹とのこと。Jovianは読書家であると自負しているが、村上春樹は読んだことが無い。これからも読まないだろう。同じことは東野圭吾にも当てはまる。彼の作品は2冊だけ買ったが、どちらも最初の20ページで挫折した。本作品を鑑賞するに際して、一抹の不安があったが、それは杞憂であった。

 

あらすじ

サチ(吉田羊)は一人息子のタカシ(佐野玲於)がハワイのハナレイ・ベイで死亡したと連絡を受ける。サメに襲われ、右足を噛みちぎられた死体の身元確認を粛々と行うサチ。手形を取ったので持ち帰ってほしいという地元の女性の声も聞き入れることができない。息子との関係は決して良好なものではなかった。しかし、あまりに突然の息子の死を受け止める術を知らないサチは、それから10年間、毎年ハワイのハナレイ・ベイを訪れ、日がな一日、読書をして過ごすようになる。ある時、日本人サーファーから「片足の日本人サーファーがいる」との噂を耳にしたサチは・・・

 

ポジティブ・サイド

ハワイの自然の美しさと恐ろしさは誰もが知るところである。キラウエア火山からの噴石が遊覧船を直撃したというニュースもあった。しかし、そんな自然の猛威、暴威などは描写されない。冒頭のタカシの死で充分だ。島民が「この島を嫌いにならないでほしい」という切なる願いは、しかし、サチには受け入れられない。まるでDV被害に遭った妻が、それでも家に帰ってしまうように、カウアイ島を毎年訪れてしまうサチに対して、無性に悲しみと憐れみを感じてしまった。サチは島を愛しているのではない。島を受け入れようとしても、それができない。息子の命が絶たれた呪われた土地に縛りつけられているのだ。一人息子を失ったという、行き場を無くした悲しみを胸にハワイを彷徨するサチは、まるで鬼子母神のようですらある。

 

鬼夜叉にも心は有る。E・キューブラー・ロスの『 死ぬ瞬間 』の考え方を敷衍、援用するとすれば、サチはタカシの死を「 受容 」する段階の手前で止まってしまっている。死とは、『 君の膵臓をたべたい 』や『 サニー 永遠の仲間たち 』で述べたことがあるが、生物学的な意味での生命活動を終えること=死では決してない。死とは、相手が生き生きとしていた記憶をこれからも持ち続けるのだという決意によって規定される現象である。葬式とは死を確認する儀式ではなく、思い出を共有する儀式だ。その意味で、サチは息子の死を受け入れられない。タカシの生の記憶があまりにもネガティブなそれであるからだ。そんな形で息子と離別したくはなかった。そのような後悔の念に心の奥底で苛まされている女の心情を、あてどもなく彷徨い続けることでこれ以上なく描出してくれた吉田羊は、表現者としての階段をまたさらに一歩上ったのではないか。『 ラブ×ドック 』や『 コーヒーが冷めないうちに 』といった珍品への出演が目立っていたが、ここに来て一気に株を上げてきた。この母親像は『 スリー・ビルボード 』のミルドレッドに迫るものがあるし、片親像としては『 ウィンド・リバー 』のランバートと相通ずるものがある。

 

本作は大人の映画でもある。安易にナレーションや、説明的な台詞を使わない。ドラマチックなBGMを挿入しない。兎にも角にも、ひたすら吉田羊にフォーカスすることで、いかに彼女の抱える闇が暗く、深いものであるのか、それが逆説的に愛の大きさを表すのだということ、観る者に明示しない手法を称賛したい。何でもかんでも説明したがる作品が増えてきている中、もう少し観客を信用してもよいのではないかと常々思っていた。本作には我が意を得たりとの思いをより一層強くさせられた。

 

そうそう、吉田羊の英語。あれこそが、日本の普通の学習者が目指す姿であるべきだ。はっきり、ゆっくり、難しい語彙などは用いずに、相手の目を見て話す。外国語を話すときは、この姿勢が大切だ。自身の英語力の低さに悩まされるサラリーマンも、ここから何某かのインスピレーションを得られるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

これは監督の意向なのだろうが、サーファー役の二人は、少し滑舌が悪いのではないだろうか。素人っぽさを意識したと言えばそれまでなのだろうが、この2人組が喋ると、ただでさえゆったりと感じられるハワイの時間が、さらにスローに感じられた。また、ブルーシートを使った疑似サーフィンシーンでのカメラ目線は必要だったか。全体的にスリムダウンすれば、もう5~10分は短縮できたはずだ。本作のように、ただひたすらに歩くシーンを追う映画は、存外に観る者の体力を消費させる。90分ちょうどぐらいが望ましかった。

 

総評

これは高校生~大学生ぐらいの男子向けなのではないだろうか。男という生き物は、どういうわけか何歳になっても、母親に何か言われると反発してしまう性の持ち主だ。だが、本作を見て何かを感じ取れれば、それは男として一皮むけた証になるかもしれない。静かだが、力強い余韻を残してくれる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ファンタジー, 吉田羊, 日本, 監督:松永大司, 配給会社:HIGH BROW CINEMALeave a Comment on 『 ハナレイ・ベイ 』 -異国の島で見出すは夢か現か幻か-

『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

バーバラと心の巨人 75点
2018年10月18日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:マディソン・ウルフ シドニー・ウェイド イモージェン・プーツ ゾーイ・サルダナ
監督:アナス・バルター

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原題は ”I Kill Giants” 、「私は巨人殺し」の意である。小林繁を連想してはいけない。西洋文明世界において、竜と並ぶ邪悪で強力な存在、それが巨人である。西洋世界では常識とされていることも東洋ではそうではない。逆もまた然り。生き物ではないところでは、指輪の魔力を描いた『 ロード・オブ・ザ・リング 』シリーズが好個の一例である。主人公のバーバラが闘おうとする巨人は何であるのか。邦題を読まずしても、巨人が象徴するものは何であるのかを考えさせられるが、その正体についても、また映画の技法としても、こちらの予想の上を行くものがあった。

 

あらすじ

バーバラ(マディソン・ウルフ)は小学5年生。いつか町に襲来する巨人に備えて、罠、毒、武器、そして秘密基地まで拵えている。ひょんなことから知り合う転校生のソフィア(シドニー・ウェイド)も、心理カウンセラーのモル(ゾーイ・サルダナ)も、バーバラが主張する巨人の存在を信じてくれない。家でもTVゲームに熱中する兄、残業多めの職場に勤める姉も、バーバラのやろうとしていることに理解を示してはくれない。しかし、バーバラだけは確信していた。いつか必ず巨人がやって来るのだ、と。

 

ポジティブ・サイド

マディソン・ウルフという新鋭との出会い、これだけでもう満足ができる。ジェイソン・トレンブレイ以上の才能かもしれない。もちろん、年齢も性別も、出演している作品のジャンルも違うが、主演を張ったマディソンには『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の主演・南沙良を見た時と同じような衝撃を受けた。くれぐれもハーレイ・ジョエル・オスメントのようにならないように、彼女のハンドラー達には慎重な舵取りをお願いしたい。バーバラという大人と子どもの中間、現実世界と空想世界の狭間を生きる存在にリアリティを与えるという非常に難しい仕事を、満点に近い形でやってのけたのだ。今後にも大いに期待できるが、トレンブレイが『 ザ・プレデター 』なる駄作に出演してしまったような間違いは見たくない。

 

本作では冒頭に、巨人という存在が何であるのかを絵本形式で教えてくれる。これは有りがたい。物語の背景を理解するには、その物語が生み出された地域や時代、文化の背景を知る必要がある。我々が巨人と聞いてイメージするものは、他の文化圏の人々がイメージするものと必ずしも一致しないからだ。J・P・ホーガンの傑作SF小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『巨人たちの星』(ついでに『 内なる宇宙 』も。”Mission to Minerva”はいつ翻訳、刊行されるのだ?)を読んで、「巨人とは心優しい、素晴らしい頭脳の持ち主なのだな」と思うのは正しい。しかし、それは必ずしも西洋世界の一般的な巨人像とは合致しない。映画を観る人に、巨人とはこういう存在ですよと知らせることは、存外に大切なことなのである。

 

その巨人を殺すために、バーバラが学校や森、海岸に張り巡らせるトラップの数々、自作のアイテム、それらの有効性を検証したノートなどが、バーバラというキャラクターと巨人の実在性にリアリティを付与する。同時に、我々はこのいたいけな少女の奇行の数々に戦慄させられる。その発言のあまりの荒唐無稽さに困惑させられる。少女の抱える心の闇の濃さと深さは、それだけ目を逸らしたくなる現実が存在することの証左でもある。余談であるが、バーバラのトラウマと全く同質のものを『 ペンギン・ハイウェイ 』のとあるキャラが劇中で示した。幼年期から思春期にかけて、このような想念に取り憑かれたことのない者は少ないだろう。あるいは『 火垂るの墓 』の節子をバーバラに重ね合わせて見てもいいのかもしれない。最後の最後のシーンは『 グーニーズ 』のマイキーを思い起こさせてくれた。まさしくビルドゥングスロマン。

 

ネガティブ・サイド

まず配給会社に言いたいのは、ハリー・ポッターと殊更に絡めようとしなくてもよいのだ、ということだ。もちろん、実績のある会社、スタッフが製作に加わっていることをPR材料にすることは悪いことでも何でもない。むしろ当然のことと言える。しかし、それが misleading なものであってはいけない。本作はファンタジー映画ではなく、ヒューマンドラマ、ビルドゥングスロマン=成長物語なのだから。

 

邦題は、ほとんど常に批判に晒される。近年でも『 ドリーム 』が「 ドリーム 私たちのアポロ計画 」なるアホ過ぎる邦題を奉られるところだったが、本作も下手をすると猛烈な批判に晒されてもおかしくない。“心の巨人”としてしまうこと、巨人はバーバラの心が生み出す幻影であることが明示されてしまうからだ。だが、それは同時にハリー・ポッターの製作者が今作に関わっているというPRと矛盾しかねない。一方では巨人は現実であると言いながら、もう一方では「この映画はファンタジーですよ」と言っているようなものなのだから。日本の配給会社はもう少し、思慮と配慮を以って邦題を考えるべきだ。

 

ひとつストーリー上の弱点を上げるなら、モル先生の活躍が少ないことだろうか。GOGのガモーラというキャラクターの皮を脱ぎ去り、母性溢れる魅力的な女性を演じていたが、それをもう少し前面に押し出してくれた方が、バーバラの苦境と苦闘がより際立ったかもしれない。

 

総評

誰しもが抱えてもおかしくな心の闇を見事に視覚化した作品である。小学校の低学年でもストーリーは理解できるだろうし、高校生あたりが最も楽しめる作品でもある。親子で観るのにも適しているし、ぜひそのように観て欲しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イモージェン・プーツ, シドニー・ウェイド, ゾーイ・サルダナ, ヒューマンドラマ, ファンタジー, マディソン・ウルフ, 監督:アナス・バルター, 配給会社:REGENTS, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

『 おと・な・り 』 -音と大人とお隣と音鳴りの物語-

Posted on 2018年10月14日2019年10月31日 by cool-jupiter

おと・な・り 70点
2018年10月11日 レンタルDVD鑑賞
出演:岡田准一 麻生久美子
監督:熊澤尚人

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タイトルはおそらくquadruple entendreになっている。【音】、【大人】、【お隣】、【音鳴り】の4つの意味が考えられる。これは音を鍵にした物語であり、二人の30歳の大人の物語であり、その二人は同じアパートのお隣さん同士であり、音を媒介に人と人とが繋がる物語である。

 

あらすじ 

風景専門の写真家に転向したいのだが、事務所や仕事の状況がそれを許してくれない野島聡(岡田准一)。フランスに留学し、フラワーデザイナーになるという目標に邁進する登川七緒(麻生久美子)。同じアパートに住む隣人同士だが、顔を合わせたことはない。しかし。幸か不幸か、安普請のアパートで互いの生活音や大きな声は筒抜け。二人には奇妙な連帯感が生まれていた・・・

 

ポジティブ・サイド

「基調音」は、『 羊と鋼の森 』のレビューで概説した、サウンドスケープの構成概念である。街行く人の多くがイヤホンで耳をふさぎ、個人の趣味や学びに没入する時代であるが、それでも自分の生活圏やコミュニティ特有の音というものには親しんでいるはずである。おそらく多くの人がお盆や年末年始に帰省することで、それを実感しているものと思われる。例えば都会に住んでいる人が地方の田舎に帰れば、静けさと鳥や虫の鳴き声などに驚き癒され、あるいは田舎の人間が大都市に出てくれば、電車や車の走行音や人々の雑踏に驚き煩わされるかもしれない。基調音は、読んで字のごとく生活のベースに根付いた音なのである。そういう意味では、我々が基調音を最も意識するのは、基調音が存在しない時と言えるであろう。

 

本作で聡が出す声や音、七緒が出す声や音は、互いの生活リズムに深く刻まれている。その基調音が非在の時、もしくはそこに強烈なノイズが混じった時、自分はどう感じるのか。どう動くのか。そんなことを思わず考えさせられてしまう。

 

また30代という、難しい年齢そのものがテーマにもなっている。ステレオタイプな見方を本作は採るが、男は自分のキャリアの方向性について大きな決断を迫られ、女は恋愛や結婚に向けて動くべきなのか、それともキャリアを追求すべきなのかを迫られる。迫られる、という受動態に注目されたい。自分にその選択を迫ってくる主体は誰なのか、何であるのか。それは両親かもしれないし、友人かもしれないし、知人かもしれないし、上司かもしれないし、耳を傾けることを拒否してきた自分の内なる声かもしれない。本作は、その内なる声を、非常に独創的な方法で鑑賞者に聞かせる手法を取る。これは上手い。女性をロマンティックに誘う時には、相手に本音を言わせてはならない。女性を怒らせる時には、相手に喋らせる。個人差はあるだろうが、女性という生き物は確かにこのような性質を有しているようだ。

 

映画というのはリアルを積み重ねて、面白さを追求していく媒体であり芸術だ。そして、我々が最もリアルを感じるのは、キャラクターに共感できた時なのである。そうした意味で本作は30歳前後で人生の岐路に立つ男女に、大きな示唆を与えうる作品である。

 

また、エンディング・クレジットにも注目、いや注耳してほしい。陳腐と言えば陳腐だし、画期と言えば画期的な仕掛けが施されている。レンタルする方は最後までしっかりと鑑賞をしてほしい。

 

ネガティブ・サイド

ペーシングにやや難ありと言わざるを得ない。まるで韓国ドラマを観ているかの如く、「早く出会え、早く気付け」と思わされてしまう。また、そこに至るまでにSHINGOの話を引っ張りすぎている。谷村美月は素晴らしい仕事をしたが、彼女の出演シーンはもう3分は削れただろう。それを岡田准一と麻生久美子のパートに費やして欲しかった。しかし、それを見せずに想像させるのも、一つの手法として認められるべきだろう。音がテーマの本作なら尚更である。なので、このあたりのネガティブな評価は意見が分かれるところだろう。

 

もう一つケチをつけるとするなら、岡田准一のカメラマンとしてのたたずまいが少し弱い。風景専門のカメラマンならば、『 LIFE! 』におけるショーン・ペンのような雰囲気を醸し出して欲しかった。つまり、ベストショットを撮れるまで辛抱強く待ち構える根気と、ベストショットを嗅ぎつける動物的な嗅覚である。もちろん、かつて写真を撮った橋の、度の位置のどの方角かまでしっかりと記憶しているというプロフェッショナリズムは垣間見えたが、もっとカメラマンを演じて切ってほしかった。これも無い物ねだりだろうか。

 

総評

非常に完成度の高いヒューマンドラマに仕上がっている。2009年の作品だが、岡田准一のキャリア自身も投影されていたのではないだろうか。アイドルとしての自分と俳優としての自分。どの道を選択し、究めようとするのか。そのあたりの人生の岐路を役に託して撮影に臨んだのかもしれない。その他、麻生久美子、岡田義徳、市川実日子、森本レオらも素晴らしい仕事した。アラサーに大きな示唆を与えうる映画であるし、キャリアや人間関係にストレスを抱える人の鑑賞にも耐える作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, B Rank, ラブロマンス, 岡田准一, 日本, 監督:熊澤尚人, 配給会社:ジェイ・ストーム, 麻生久美子Leave a Comment on 『 おと・な・り 』 -音と大人とお隣と音鳴りの物語-

『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

クレイジー・リッチ! 75点

2018年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:コンスタンス・ウー ヘンリー・ゴールディング ジェンマ・チャン リサ・ルー オークワフィナ ハリー・シャム・Jr. ケン・チョン ミシェル・ヨー ソノヤ・ミズノ
監督:ジョン・M・チュウ

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原題は”Crazy Rich Asians”、≪常軌を逸した金持ちアジア人たち≫の意である。ここで言うアジア人とは誰か。オープニング早々にスクリーンに表示されるナポレオン・ボナパルトの言葉、”Let China sleep, for when she wakes, she will shake the world.”が告げてくれる。中国人である。中国の躍進はアジアのみならず世界の知るところであり、その影響は政治、経済、文化に至るまで極めて大きくなりつつある。そして映画という娯楽、映像芸術の分野においてもその存在感は増すばかりである。そうした事情は、今も劇場公開中の『MEG ザ・モンスター』に顕著であるし、この傾向は今後も続くのであろう。それが資本の論理というものだ。その資本=カネに着目したのが本作である。

ニューヨークで経済学の教授をしているチャイニーズ・アメリカンのレイチェル(コンスタンス・ウー)は、恋人のニック(ヘンリー・ゴールディング)が親友の結婚式に出席するために、共にシンガポールを目指す。が、飛行機はファースト・クラス・・・!?ニックがシンガポールの不動産王一家の御曹司で常軌を逸した金持ちであることを知る。そして、ニックの母のエレノア(ミシェル・ヨー)、祖母(リサ・ルー)、ニックの元カノ、新しくできた友人たちなど、人間関係に翻弄されるようになる。果たしてレイチェルとニックは結ばれるのか・・・

本作の主題は簡単である。乗り越えるべき障害を乗り越えて、男と女は果たして添い遂げられるのか、ということである。平々凡々、陳腐この上ない。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッセーver >>>>> ディカプリオver)のモンタギューとキャピュレットの対立は貴族間の階級闘争であったが、本作はそこに様々に異なるギャップ、格差の問題を放り込んできた。それは例えば、『シンデレラ』に見出されるような、王子様に見初められる平民の娘という文字通りのシンデレラ・ストーリーの要素であり、男が恋人と母親の間で右往左往する古今東西に共通する男の優柔不断さであったり、同じ人種であっても文化的に異なる者を迎え入れられるかという比較的近代に特有の問いを包括していたり、また『ジョイ・ラック・クラブ』の世代の二世達がアメリカという土地で生まれ、成長してきたにも関わらず、アメリカ社会では生粋のアメリカ人とは認めらず、中国・華僑社会でも中国人とは認められない、二世世代の両属ならぬ無所属問題をも扱っている。また家父長不在の華僑家族におけるタイガー・マザー的存在、さらには、女の仁義なき戦い、将来の嫁vs姑による前哨戦および決戦までもがある。とにかく単純に見える主題の裏に実に多くの複雑なテーマが込められているのが本作の一番の特徴である。

詳しくは観てもらって各自が自分なりの感想を抱くべきなのだろうが、まだ未鑑賞の方のためにいくつか事前にチェックしておくべきものとしてタイガー・マザーと異人が挙げられる。民俗学や人類学の分野でよく知られたことであるが、異人は異邦の地では異人性を殊更に強化しようとする。横浜や神戸に見られる中華街、大阪・鶴橋のコリアンタウンなどは代表的なものであるし、在日韓国・朝鮮人が自分たちの学校を作り、民族教育を行うのも、異人性の強化のためであると考えて差し支えない。中国人には落地生根という考え方がある。意味は読んで字の如しであるが、落地成根とは異なるということに注意されたい。本作で最大のサスペンスを生むレイチェルとエレノアの対峙は、ある異人は他の異人を受け入れられるのかという問いへの一定の答えを呈示する。彼女たちは中国にルーツを持ちながらも、生まれ育った土地や文化背景を本国とは異にする者たちである。彼女たちの相克は、世代間闘争であり、経済格差間闘争であり、文化間闘争でもある。この“闘う”という営為に中国人が見出すものと現代日本人が見出すものは、おそらく大きく異なることであろう。それを実感できるというだけでも、本作には価値があると言える。

本作を鑑賞する上で、先行テクストを挙げるとするなら、エイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』であろう。Jovianの母校では、一年生の夏休みの課題の一つは伝統的にこの小説を原書で読み感想文を英語で書くというものだった。それは今もそうであるらしい。今までにチャイニーズ・アメリカン、コリアン・アメリカン、フィリピーノ・アメリカン、コリアン・カナディアン、ジャパニーズ・アメリカンらにこの小説を読んだことがあるかと尋ねたことがあるが、答えは全員同じ「俺たちのようなバックグラウンドの持ち主で読んでいないやつはいない」というものだった。映画化もされており、大学一年生の時に観た覚えがある。そこで麻雀卓を囲む母親の一人がニックの祖母を演じたリサ・ルーである。『ジョイ・ラック・クラブ』が伝えるメッセージを受け取った上で本作を鑑賞すれば、上で述べた闘争の本質をより把握しやすくなるだろう。

長々と背景について語るばかりになってしまったが、映画としても申し分のない出来である。それは、演技、撮影、監督術がしっかりしているということだ。特にニック役のヘンリー・ゴールディングとその親友を演じたクリス・パンは素晴らしい。ヘンリーは演技そのものが初めてであるとのこと。今後、ハリウッドからオファーが色々と舞い込んでくると思われる。しかし何よりも注目すべきはミシェル・ヨーである。一つの映画の中で嫌な女、強い女、責任感のある女、認める女とあらゆる属性を発揮する女優は稀だからだ。『ターミネーター』と『ターミネーター2』におけるリンダ・ハミルトンをどこか彷彿させるキャラクターをヨーは生み出した。この不世出のマレーシア女性の演技を堪能できるだけでチケット代の半分以上の価値がある。

『MEG ザ・モンスター』の原作からの改変具合、特に中国色があまりに強いことに拒否反応を示す人がいるだろうが、Jovian自身が劇場の内外(ネット含む)で聞いた残念な感想に、「なぜ皆、あんなに英語が上手なのだ?」という、無邪気とも言える疑問である。おそらくこのあたりに真田広之や渡辺謙がハリウッド界隈で日本一でありながらアジア一ではない理由がある(アジア一はイ・ビョンホンだろう)。なぜ本作の中でK-POPがディスられながらも日本文化はスシ(≠寿司)の存在ぐらいしか言及されないのか。なぜ錚々たるアジア企業やアジアの国の名前が挙げられる場で、日本の名が出てこないのか。英語というのは学問ではなく技能である。そして言語である。言語は、他者との関係の構築と調整に使うもので、特定の誰かに属するものではない。言語への無関心、そして学習への意欲の無さが、そのまま日本の国力および国際社会でのプレゼンスの低下を招いていることを、もっと知るべきだ。言語に対してアジア人たる我々が取るべき姿勢については【Learning a language? Speak it like you’re playing a video game】を参照してもらうとして、東南アジア各国は“闘争”をしているし、東北アジアでは日本と北朝鮮は“闘争”をしていないとJovianは感じる。単に時代や社会背景を敏感に写し撮った映画であること以上の意味を、アジア人たる我々が引き出せずにどうするのか。デートムービーとしても楽しめるし、深い考察の機会をもたらしてくれる豊穣な意味を持つ映画として鑑賞してもよい。台風が去ったら、劇場へ行くしかあるまい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, コンスタンス・ウー, ヒューマンドラマ, ヘンリー・ゴールディング, ミシェル・ヨー, ロマンティック・コメディ, 監督:ジョン・M・チュウ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

『プレデター』 -SFアクション映画の記念碑的作品-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

プレデター 75点

2018年9月29日 レンタルBlu-ray鑑賞
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー カール・ウェザース ビル・デューク ジェシー・ベンチュラ ソニー・ランダム リチャード・チャベス シェーン・ブラック
監督:ジョン・マクティアナン

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  • 以下、ネタばれに類する記述あり

先日、悪魔の囁きによって導かれるように観てしまった『ザ・プレデター』のあまりの酷さに、口直しが必要となり、本作を借りてきてしまった。録画DVDの山の中のどこかにありそうだが、探すのも面倒くさいのである。どうしても口直しが必要となったこの気持ちは、あの駄作を観てしまった諸賢ならば共有頂けよう。

救出専門部隊のリーダー、ダッチ(アーノルド・シュワルツェネッガー)、冷静沈着なマック(ビル・デューク)、噛みタバコを吐き散らすブレイン(ジェシー・ベンチュラ)、スー族の末裔ビリー(ソニー・ランダム)、スペイン語に堪能なポンチョ(リチャード・チャベス)、口を開けば下品なジョークを飛ばすホーキンス(シェーン・ブラック)は、ジャングル奥地の救出ミッションに、ディロン(カール・ウェザース)と共に派遣される。無事に任務を果たすも、ダッチ達はジャングルに潜む何者かとの戦いに巻き込まれ、一人また一人と戦友を失っていく。現地の者の間では、暑い年になると悪魔がやってくるという伝承があった。彼らは悪魔と戦っているのか・・・

まず素晴らしいのは、軍人のリアリティを描いていることである。自衛官もしくは元・自衛官の知人友人がいれば、自衛隊という組織内での飲み会や宴席では、「菊の花」なる宴会芸が行われているのを聞いたことがあるだろう。人体のとある解剖学的なとある部分を「菊の花」に見立てる芸で、いわゆるお座敷遊びのそれではない。軍というのは、極めて男性的な世界で、猥褻な言動に歯止めが利かないことがある。そうしたバックグラウンドのある男同士のしゃべりには独特の緩さと汚さがある。単に下品なジョークを飛ばすのではなく、ある意味で容赦のないジョーク、共に死線を越えた者同士でないと通用しないような言葉使いなのだ。それを最も端的に表すシーンが、ダッチとディロンの再会の場面だ。“You, son of a bitch!”と言いながら笑顔でハンドシェイクし、そのままアームレスリングをすることで、片やデスクワークで体がなまくらになってしまっており、もう片方は現役のままのパワーを維持していることを示す、非常に象徴的なシーンである。文字ではなく映像で説明する。これこそが映画の技法であり作法である。そして、ハンドサインやハンドジェスチャーによる意思疎通、ダッチが目線をやってアゴをくいっと動かすだけでその意を汲んで動く部隊の連中。これこそがチームワークであり、『ザ・プレデター』に最も欠けていたものだった。シェーン・ブラックが何故この要素を一切に続編に引き継がなかったのか、不思議でならない。

キャストでとりわけ素晴らしいと思えたのは目のぎょろつき具合が強烈な印象を与えるマックと、ネイティヴ・アメリカンらしい自然と対話する男ビリーである。特にビリーの寡黙さと、ホーキンスのクソつまらないジョークに一拍置いて大声で笑い出しながらも、直後にただならぬプレデターの気配を感じ、森を睨みつけるシークエンスは、映画全体のサスペンスを大いに盛り上げた。

舞台は中南米のどこかのようだが、これはどう見てもベトナム戦争映画なのだろう。森に潜む見えない敵というのはベトコンのメタファーであり、ダッチが泥にまみれて弓矢と罠で戦うのは、米軍の対ベトコン戦略のやり直しシミュレーションのように思える。米軍もやろうと思えば、森林の中で原始的な手段でも戦えるのだぞ、というところを見せたのが当時のアメリカ人の心を捕えたのかもしれない。

武士道精神と言おうか騎士道精神と呼ぶべきか、武器を持たない者は攻撃しないというポリシーのプレデターこそが実は米軍の在りうべき姿が仮託された存在なのだろうか。ダッチの言う”You are one ugly motherfucker.”という言葉に、当時の米軍のテクノロジーの濫用(枯れ葉剤!)に見られるような醜さ、汚さを見出すのはいと容易い。『ザ・プレデター』でオリビア・マンが呟く”You are one beautiful motherfucker.”という台詞は、いったい誰に向けてのものだったのだろうか。

クソのような正統続編を作ってしまったがためにオリジナルがますます輝くという点では、まるで『エイリアン』シリーズのようだ。そして目に映るもの以上の意味を盛り込んでいることで単なる面白作品以上のものに作品が昇華されているという点で、名作以上の古典的作品と呼べるものに仕上がっている。『ビバリーヒルズ・コップ』のように『プレデター』も2で止めておけば・・・ 近所のTSUTAYAで関連作品を借りてきてレトロ映画レビューみたいなのもやってみようかな。しかし、そうすると『エイリアンVSプレデター』も、もう一度観ないといけないのが辛いところ。まあ、おいおい考えてみますか。

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Posted in 映画, 海外Tagged 1980年代, B Rank, SFアクション, アーノルド・シュワルツェネッガー, アメリカ, カール・ウェザース, シェーン・ブラック, 監督:ジョン・マクティアナン, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プレデター』 -SFアクション映画の記念碑的作品-

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