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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション 』 -お下劣面白フランス映画-

Posted on 2019年12月16日2020年4月20日 by cool-jupiter

シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション 80点
2019年12月15日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:フィリップ・ラショー エロディ・フォンタン
監督:フィリップ・ラショー

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よくよく思い返してみれば、週刊少年漫画誌で平気で「もっこり」や「君と一発やりたい」などのネタがよく掲載OKになっていたものだ。『 シティーハンター 』や『 ジャングルの王者ターちゃん 』、『 BASTARD!! -暗黒の破壊神- 』などは当時の少年たち(自分含む)に強烈なイメージを植え付けていた。そうしたかつての少年たちをデモグラフィックにした作品の中でも、本作は出色の出来である。フランス映画界、恐るべしである。

 

あらすじ

シティーハンターのリョウ(フィリップ・ラショー)は裏の世界の凄腕ガンマンとして、相棒のカオリと共に数々の依頼を請け負っていた。ある時、究極の惚れ薬である「キューピッドの香水」が奪われた。その香りを嗅いでいたカオリやその他の者たちは48時間以内に解毒剤を服用できるのか・・・

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ポジティブ・サイド

作り手の原作に対する愛とリスペクトがスクリーンから直接伝わってくる。脚本・監督・主演の全てを務めたフィリップ・ラショーは漫画『 シティーハンター 』を再解釈するのではなく、“再現”することを試みた。そして見事に成功した。フランス人がリョウやカオリを演じているのに違和感を覚えない。これはすごいことである。

 

まずオープニングからして親切だ。というのも、シティーハンターとは誰で、どんな仕事をしているのかを一切説明することなく物語が始まるからである。この作品を観に来る人を作り手が最初からスクリーニングしている。これが心地好い。たとえば『 アメイジング・スパイダーマン 』でピーターがクモに咬まれるシークエンスや『 バットマン・ビギンズ 』でブルースの両親が強盗に殺されるシークエンスなどは、正直なところ多くのファンが「ああ、このシーン要らないよね・・・みんな知ってるし」と感じていたはずである。本作は、当たり前のように『 シティーハンター 』の世界に入って行ける。招かれるのではなく、いきなりその世界に存在している。そんなオープニング・シークエンスが待っている。

 

その冒頭のアクション・シーンも、映画ではなく漫画である。『 アクアマン 』も漫画的だったが、本作は漫画そのものである。まず、モザイクの代わりにジャンプのあのカラスがそのまま使われている。何のことか分からない人は残念ながら本作の対象外だ。何のことか分かる人は、一刻も早く劇場へGo!!!である。そして本来ならば緊迫感溢れるバトルのはずが、非常にユーモラスで、それでいてサスペンスフルでありスリリングでもある。そんな人は少数派だろうと思われるが、たとえシティーハンターを全く知らないままに劇場に来た人でさえ、冒頭の10分で冴場リョウというキャラクターが理解できる。このオープニングの疾走感とユーモアは『 デッドプール 』のそれに匹敵する。

 

ストーリーの要所をアクションで語るのも良い。話の展開はシンプルそのもので、ヤバい惚れ薬を、それを濫用している男から取り戻すということである。惚れ薬が使われる一方で、リョウたちはアクションを見せてくれて、その配分が適切だ。また、非常に珍しいPOV視点の格闘シーンがあり、『 ALI アリ 』や『 クリード 炎の宿敵 』などのボクシング映画の試合シーンで使われることはあっても、その他ジャンルではあまり見ない撮影技法である。このシーンのhand to hand combatと狙撃のシーンはかなり楽しかった。

 

終盤のド派手ファイトとガンアクションも『 マトリックス 』に迫る出来である。この場面ですら容赦のないギャグが放り込まれ、シリアスな展開にもかかわらず漫画世界にいるという安心感すら漂う。そして、この原作へのリスペクト溢れる漫画世界にいるという安心感を、ぶち壊しながらも確保するという離れ業のクライマックス。漫画を映像化しているのに、これほど漫画に見えてしまうのは何故なのか。実写であるにも関わらず、まるでアニメーションのようにすら感じてしまうのは何故なのか。その絶妙な仕掛けは、ぜひ劇場で自身の目でお確かめ頂きたい。

 

ネガティブ・サイド

大きく不満と言えるものは二つだけ。

 

一つは、リョウの「もっこり」シーンがなかったこと。といってもベッドシーンやラブシーンというわけではなく、下半身を隆起させる一コマがなかったということ。編集でカットされたのだろうか。

 

もう一つは、原作で最高の名場面である「ガラス越しのキス」がなかったことである。話の流れやエンディング直前のとある台詞のためにも、原作そのままに再現することが難しいのは理解できる。しかし、それを何とか実現する脚本は書けなかったものか。

 

総評

『 シティーハンター 』愛に満ちた作品である。のみならず亀仙人にしか見えないおじいさんや、『 らんま1/2 』ネタ、『 キャプテン翼 』や『 聖戦士星矢 』のネタなど、ジャンプ漫画へのオマージュも多数ある。30代後半以上でこれらの漫画をリアルタイムで楽しんでいた人には、チケット代と2時間という時間の投資を惜しむ理由は何もない。事実、Jovianは行こう行こうと思いながらも、チケット予約でいつも後手に回り、嫁さんと二人並んで座れる席の確保に苦労した。そして、実際の劇場も40歳前後か、それ以上のカップルがマジョリティだった。原作ファンならば本作を見逃してはならない。

 

Jovian先生のワンポイント仏会話レッスン

Je t’aime

挿入歌で繰り返しこのセンテンスが聞こえてきた。“I love you.”の意であることはよく知られている。Je t’aime, je t’aime, je t’aime comme ca.のように聞こえたが、だとすればI love you, I love you, I love you like this.の意である。知っている言葉ならリスニングはたやすい。逆に言えば、リスニングできなければ、まだ理解できていないということ。これはおそらくどんな言語を学習していても真理だろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アクション, アドベンチャー, エロディ・フォンタン, フィリップ・ラショー, ロマンス, 監督:フィリップ・ラショーLeave a Comment on 『 シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション 』 -お下劣面白フランス映画-

『 ボーダー 二つの世界 』 -北欧ダーク・ファンタジーの傑作-

Posted on 2019年11月16日2020年4月20日 by cool-jupiter

ボーダー 二つの世界 80点
2019年11月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:エバ・メランデル エーロ・ミロノフ
監督:アリ・アッバシ

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Jovianはライトな映画ファンではないが、シリアスな映画ファンとまでは言えない。何故なら、アメリカ映画かぶれだからである。もちろんインド映画も観るし、韓国映画やフランス映画も観る。近年ではレバノン映画にも興味が湧いてきている。しかし、北欧(と一括りにすることの愚は承知しているが)の映画には、あまり積極的に関心を払ってこなかった。その認識は今後改めようと思う。友人に北欧映画好きがいるが、自分もやっと北欧の映画の良さが分かってきた気がする。

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あらすじ

特異な容貌の税関職員ティーナ(エバ・メランデル)は、人間の感情を嗅ぎ分けることができる。ある日、港に自分と同じような容貌の人物ヴォーレ(エーロ・ミロノフ)と邂逅する。それ以来、ティーナは自らのアイデンティティを見つめるようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

これは大人の映画である。R-18指定なのだから、アダルトな展開があるんでしょ?と思わせて、実は違う。映画の演出やメッセージが大人向けということである。かといって、その大人というのは年齢で区切れるようなものでもない。ごく簡単に言えば、映像や音からメッセージを汲み取れることができるかどうかが、大人と子どもの境目であると言えるだろう。

 

ティーナの職務への精勤ぶり、自身の特異な能力の活かし方、周囲の人間との近くも遠くもない距離、同居しているローランドとの近くて遠い距離、認知症を患いつつある父親との距離感、森に棲む野生動物との近しさ、そして自分と同じ特異な容貌のヴォーレとの関係が、説明的な台詞がほとんどないままにスクリーンに映し出されていく。この心地好さよ。役者の演技、監督の意とする演出が高次元で融合したからこその成果。素晴らしい。

 

ティーナおよびヴォーレの関係は、最初は警戒から始まり、それがある時に狂おしいまでの激情に身を任せた、まさに言葉そのままの意味での獣のような交わりに至る。このシーンは、とてつもなくグロテスクでエロティックだ。『 The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ 』の冒頭でエル・ファニングがキノコを採取していたが、本作でもティーナがキノコを採集する場面がある。なるほど、これは心憎い演出であり、前振りである。

 

ティーナとヴォーレが二人、裸で森の中を駆け巡るシーンにはえもいわれぬ爽快感がある。本当の自分、そして自分の理解者、そして自分を排除しようとする人間もおらず、自分を優しく包み込んでくれる土壌や木々に囲まれていることの幸せを全身で表現していることが分かる。木々の間を縫って駆けて行く名シーンと言えば、『 七人の侍 』の三船敏郎だろう。ティーナとヴォーレが裸で無邪気に走る様に、何故か世界のミフネが思い起こされた。

 

ティーナのアイデンティティとヴォーレの秘密が交錯する時、世界は引き裂かれる。ボーダーラインがそこに引かれる。このダーク・ファンタジーが意味するものは、単なる人類批判、文明批判にとどまらない。異質な存在を受け入れることの難しさと、それを実行する一つの方法を提示する本作は、『 マレフィセント2 』のラストシーンに通じるものがある。二つの王国が融和するには、王子と王女の結婚が必要である。もっと言えば、王子と王女が子を持つことが求められるだろう。もしくは『 亜人 』を思い浮かべてもよい。迫害する側と迫害される側、その立場は逆転するのか、しないのか。最初のショットと最後のショットのコントラストが、実に複雑な余韻を観る者に残す。人間は寄生虫なのか。生きるとはどういうことなのか。現代的な問いと普遍的な問いを高次元で融合させた傑作映画に仕上がっている。

 

ネガティブ・サイド

ヴォーレとティーナのピロートークだけが物語から浮いている。ここだけが、説明的な台詞のオンパレードで興醒めしてしまった。語るのではなく、見せる。それによって、観客に想像させることが、この監督にはできるはずなのだ。重要なところだけ変に丁寧に説明するのではなく、全体のトーンを保つことを考えてもらいたかった。

 

ローランドの飼っている犬がティーナに吠えるシーンを、もっと丁寧に作っても良かった。大きな声で吠えまくる犬が、ティーナと同じフレームに決して入らないのは、最初は許せても、最後には違和感を覚えるほどになった。動物に演技指導をするのは難しいが、そうした絵作りにもトライをしてほしかったと思う。最初のキツネのシーンも同様である。

 

総評 

何とも形容しがたい作品である。爽快感がある一方で、疲労感や嫌悪感も残してくれるからである。ただし、そうした二律背反するような感想を抱かせる作品はなべて傑作である。優れた作品は、語り=discourseを刺激する。何かを語りたくなる映画の今年のナンバーワンは『 ジョーカー 』だろうが、ナンバーツーは本作ではあるまいか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Why should it be like that?

 

ヴォーレがティーナに語る「誰が決めた?」という台詞の私訳である。いや、正確には『 グーグル ネット覇者の真実: 追われる立場から追う立場へ 』で、グーグル創業者のペイジとブリンの二人の口癖が「誰が決めたんだ?」であるという記述がある。そして、その原書“IN THE PLEX”によると、「誰が決めたんだ?」は“Why should it be like that?”だったのである。逐語訳も大切だが、意訳はもっと大切である。まずはプロの真似から始めよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, エール・ミロノフ, エバ・メランデル, スウェーデン, デンマーク, ファンタジー, 監督:アリ・アッバシ, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ボーダー 二つの世界 』 -北欧ダーク・ファンタジーの傑作-

『 ガリーボーイ 』 -インドの矛盾を暴き、乗り越えていくビルドゥングスロマン-

Posted on 2019年10月27日2020年4月11日 by cool-jupiter

ガリーボーイ 80点
2019年10月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ランビール・シン アーリアー・バット シッダーント・チャトゥルベーディー カルキ・ケクラン
監督:ゾーヤー・アクタル

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野村周平主演の『WALKING MAN 』と本作を比較して、やはりインド映画好きのJovianはこちらを選んだ。『 パティ・ケイク$ 』のインド版のようなものと思っていたが、実際は近年のボリウッドが目指す娯楽性と社会派メッセージの両方を備えた良作であった。

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あらすじ

ムラド(ランビール・シン)はムンバイの貧民窟の問題のある家庭に暮らす大学生。悪友と車上盗を行うなどしながらも、幼馴染にして医大生のサフィナ(アーリアー・バット)と交際していた。ある日、ムラドは大学のイベントでシェール(シッダーント・チャトゥルベーディー)のラップを聴いたことで、自身もラップに開眼。二人でラップにのめり込んでいくが・・・

 

ポジティブ・サイド

劇中でも一瞬だけ触れられる通り、これは『 パティ・ケイク$ 』よりも『 スラムドッグ$ミリオネア 』の方がジャンル的にはやや近いか。ラップでサクセスを追求していく男の物語であるが、そこにあるのはインド社会の大いなる矛盾と、自身の生き様について抱える葛藤である。ラップの良いところは、元手がゼロ円で始められるところである。必要とされるのはリズム感とインスピレーション。その二つをムラドが有していることが、序盤にさりげなく描かれている。観光客に家の中にまでずかずかと踏み込まれ、勝手に写真は撮られ放題。まるでオブジェか何かのように扱われるムラドがラップを口ずさむシーンは、この男が凡百のガリーボーイではなく、ひとかどのガリーボーイであることを言葉数少なく、声も小さく、しかし雄弁に物語っていた。

 

ムラドが日の当たらない場所から日の当たる場所に出ていくきっかけになったシェールとの出会いも鮮烈だ。ラップという黒人音楽の一つの完成形が、インドという全く異なる土地で大きく花開いている背景には、複雑な民族問題、宗教問題、社会問題(カースト制度)、さらに貧富の格差の拡大問題がある。本作はそれらにはフォーカスしない。しかし、それらを隠さずに正面から描き切る。何かを元凶に描くのではなく、満たされない現状から雄々しく抜け出していく男の姿は、我々をこれ以上なく勇気づけてくれる。

 

何よりも、ムラドが当初は抵抗することが出来なかった父に立ち向かえるようになったのが大きい。『 シークレット・スーパースター 』でも描かれていた通り、インドにおける父親像は(山岡士郎視点での)海原雄山のごとき暴君である。その暴君を相手に立ち上がるムラドの姿に、インド社会全体を支配する権威への反抗を重ね合わせて見ることができるだろう。

 

本作の肝となるべきラップもハイレベルだ。字幕担当の方は大変な苦労をされたものと思う。『 ジョーカー 』でもcentsとsenseをかけて、「高価」と「硬貨」と訳し分けたのは上手いと感じたが、本作でもラッパーたちは韻を踏みまくる。字幕にも要注意だし、耳に自信のある人はヒンディー語の歌詞にも耳を傾けてみよう。

 

ラッパーたちの姿も実に見事に活写されている。プロモビデオの製作シーンでは、ムラドが才気煥発する様が映し出されている。カラフルさにはやや欠ける本作であるが、スラム街を縦横無尽に駆けて歌うムラドとシェールは、乾いた色合いの画面にダイナミズムを与えていた。また光を使った演出で目についたのは、ムラドが駐車場に停めた車の中でイヤホンを装用してラップを歌いまくるシーン。『 ベイビー・ドライバー 』冒頭のアンセル・エルゴートを彷彿させるパフォーマンスだが、周囲のビルから車体に降り注ぐ黄金色のカクテル光線が決してムラドには降り注がない。そして観客にもムラドの声は聞こえない。この降り注ぐ光を浴びることができないというシーンは、最終盤に劇的なコントラストをもたらす。ベタな演出ではあるが、見事なものだと唸らされた。

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ネガティブ・サイド

サフィナのキャラクターは、もう少し普通にはならなかったのだろうか。実在の人物に基づいていると言われればそれまでだが、ドキュメンタリーではないのだから、適度に人物や出来事を美化したり、あるいはぼかしたりすることは許されるだろう。癇癪持ちというのを通り越した、エクストリームな暴力女の元に戻っていく(?)ムラドに共感することは難しかった。

 

犯罪行為に手を染め続ける旧友との距離感も観ているこちらとしては、なかなか把握しづらかった。ムラド自身の生い立ち、これまでに共に積み重ねてきた濃密な時間という、サフィナと共通する要素がムラドを繋ぎ止めているのだろう。ただ車上盗は何とか許容できても、子どもを巻き込んだ drug trafficking は許容できない。これも事実だと言われてしまえばそれまでだが、自分で持つにはかなりヘビーな交遊関係である。

 

総評

ラップの素養が無いJovianにも楽しめた。ラップのハードコアなファンには粗が目に付くかもしれないが、それでもランビール・シンのパフォーマンスは圧倒的である。様々な社会的矛盾に押し潰されそうになりながらも、決して膝を屈しないムラドは多くの人を勇気づけることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You’re gonna kill it.

 

カルキ・ケクラン演じるスカイがステージに向かうムラドにかけた言葉がこれだった。直訳すると意味が分からなくなるが、kill it = 上手くいく、やり遂げる、成功する、というような意味である。ただ基本的にはネイティブ・スピーカーにしか通用しないだろう。インドのようにテレビ番組の半分が英語音声という国なら話は別かもしれないが。イディオムを使いこなせれば中級者以上だが、こういう表現はあまり推奨されない。日本のビジネスマンの多くが英語でコミュニケーションを取る相手は、北米やヨーロッパではなく東南アジアやラテンアメリカ諸国になっている。最大公約数的な英語をKISS(Keep it simple and short)の法則に従って使うのが無難である。

劇中の冒頭でムラドが聴いていたのは

www.youtube.com

だった。Rod Stewartの歌声は、麻薬のようである。一度聴いてしまうと忘れられない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, インド, ヒューマンドラマ, ランビール・シン, 監督:ゾーヤー・アクタル, 配給会社:ツインLeave a Comment on 『 ガリーボーイ 』 -インドの矛盾を暴き、乗り越えていくビルドゥングスロマン-

『 ホテル・ムンバイ 』 -極限の緊張と恐怖に立ち向かえるか-

Posted on 2019年10月14日2020年4月11日 by cool-jupiter

ホテル・ムンバイ 85点
2019年10月13日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:デブ・パテル アーミー・ハマー
監督:アンソニー・マラス

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テロと聞けば9.11を思い浮かべるのは、それだけ我々がアメリカ的な価値観に染まっている証拠である。だが、世界ではテロが頻発している。テロリズムとは何かを定義するのは難しいが、私や個、あるいはその集団が国家あるいは国家に準じる存在・団体・組織に攻撃を仕掛けること言えはしないか。そうした意味でなら、本作は紛れもなくテロリズムを、そして世界の現実を描き出している。

 

あらすじ

2008年11月、ムンバイ各地で同時多発テロが発生した。タージマハル・パレス・ホテルも襲撃を受け、ホテル内には多数の客およびスタッフが取り残された。テロを鎮圧可能な特殊部隊は遠くニューデリーにいる。彼らの到着まではもたない。アルジュン(デブ・パテル)ら、ホテルマンの従業員たちは決死の覚悟で宿泊客らを匿い、逃そうとするが・・・

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ポジティブ・サイド

自分の拙い語彙力や表現力では、本作の凄さや価値を充分に伝えられない。例えて言うならば、『 グランド・ブダペスト・ホテル 』のような群像劇を、『 クワイエット・プレイス 』や『 ALONE アローン 』以上の緊張感、緊迫感で、そして『 デトロイト 』以上の臨場感で作り上げた、と言えば良いだろうか。

 

まず、銃声が怖い。マシンガンを乱射しているわけだから、当たり前と言えば当たり前だが、銃声の質をこれほどまでに追求した作品は、これまでに甘利生産されてこなかったのではないだろうか。邦画の任侠映画やアメリカの刑事ドラマのようなパァンパァンといった軽い音ではなく、腹の底にズシンと来るような重低音の聞いた銃声が、ひたすらに怖い。『 プライベート・ウォー 』も理不尽な暴力の描写方法がホラー映画のそれであったが、本作は効果音と音響効果だけでホラー映画に分類したくなるほどのリアリティと凄惨さである。

 

そして、テロリスト連中が怖い。無表情に、淡々と、それでいて油断なく動き回り、引き金を引くその指先に全く躊躇が無い。ブルという名のイスラム過激派組織の、まさに「考えない兵士」である。だが本作は、そんな末端のテロリストたちも生きた人間であるという描写をそこかしこに挿入する。血も涙もない殺人マシーンなのではなく、イスラムの教義に忠実な信者で、仲間を怒らせかねない冗談も飛ばし、水洗トイレをありがたがる年少の者たち。つまりは無邪気なのだ。アメリカ人を人質にし、インドは「お前たちの富を奪って発展した」と吹き込まれているが、その実、ピザを旨そうに喰い、履いている靴はNikeがどこかのスニーカー。ということは無知なのだ。本当の悪は、声だけしか出てこないブルであって、テロ実行部隊は操り人形に過ぎない。これは示唆的である。我々が大切にしている信念や理念は、どこから来ているのか。例えば、必死に会社のために頑張ってきたというのに、その会社が実は単なるブラック企業で、社会貢献を理念に掲げながら、実際は経営者の懐を潤すためだけに存在していたら?深刻さの度合いは全く異なるが、そんなことが、鑑賞後、ふと脳裏をよぎった。自分はお客さんに非人間的に接していないだろうか、と。

 

閑話休題。本作で最も印象に残るキャラクターは料理長のオベロイである。『 セッション 』におけるJ・K・シモンズを彷彿させるプロフェッショナリズムの塊のようなオジサンで、そのカリスマ性とリーダーシップは、確かに実在のシェフに基づくのだろう。

 

デブ・パテル=虐げられている、苦難に陥る、のようなイメージがあったが、その印象は本作を以ってさらに強化された。オベロイ料理長とはまた異なる意味でプロフェッショナルであり、ターバン(パグリー)と豊かな髭のせいで、ホテル客を疑心暗鬼にさせてしまうが、人間は外見ではなく内面で判断すべきということを我々に思い知らせてくれるシーンを披露する。『 PK 』でも用いられたネタであるが、我々はいかに外見で人を判断し、その内面を知ろうとしないのかを痛感させられる。多民族・多文化共生は言うは易く行うは難し。いつの間にか移民大国となった日本、大坂なおみやラグビー日本代表のようにダイバーシティを体現する存在がかつてないほど身近になっているからこそ、我々はインドに学ぶことが多い。

 

一部でチクリとCNNを刺すシーンがあるが、これはオーストラリア人監督としてのアメリカへのメッセージだろうか。

 

ネガティブ・サイド

全体的にストーリーに一本太い芯が通っていない。アーミー・ハマーが妻子を助けようと奮闘するぐらいだが、行き当たりばったり感が否めない。また、テロリストたちが客やスタッフを一人また一人と殺害していく、そしてホテルマンたちが客を匿おうとする、逃がそうとするシーンの一つひとつはこの上なくサスペンスフルであるが、客やスタッフの全体像が不透明であるため、何階建ての何階まで侵入された、何人中の何人が殺されてしまったという意味での、追い詰められる感覚が欲しかった。まあ、もしもそれがあれば窒息してしまったかもしれないが。

 

後はテロリストが「まだ少年じゃないか!」と形容されていたが、ちょっとそれは苦しい。どう見ても立派な20代だからだ。本当に10代半ばぐらいの俳優たちをキャスティングするという選択肢はなかったのか。それともそれが史実なのだろうか。それぐらいは映画的な演出として許容されると思うが。

 

冒頭で頼んでいない品を頼んだものと笑顔で言い張るインド人の食堂店員がいるが、個の描写は必要だったのだろうか。タージ・ホテルとその他のインドの店との格の違いを見せようという意図かもしれないが、そんなものは不要である。

 

最後にアルジュンが自宅に帰るシーンがあるが、普通は地元当局や警察に事情聴取も嵐を喰らうだろう。内部で一体何が起こっていたのか。どうやって生き延びたのか。そういったプロセスをすっ飛ばしてしまったのは頂けない。茫然としたまま原付に乗っていたが、茫然としたまま、聴取を受けて、茫然としたまま自宅に帰れば良かった。

 

総評

弱点も数多くあるが、間違いなく2019年公開作品の最高峰の一つである。よく知られたことであるが、世界史上の宗教戦争の99.9%は経済戦争である。テロリズムはその延長線上にある。ジハードの意味を、テロに利用された少年たち同様に、我々は決して誤解してはならない。信じるもののために奮励努力する。本作はそれを二極化された視点から描いているとも言える。分断・分裂によって起こる悲劇を描いたインド映画としては『 ボンベイ 』に並ぶ傑作が誕生したと言える。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Guest is God.

 

インドには日本と同じく、「お客様は神様です」という言葉が存在する。それが Guest is God である。あまりにも直球の訳であるが、実際にこう言うのだから仕様がない。英語ではもう少しマイルドになり、“The customer is always right.”となる。神様ならぬかみさんに頭が上がらない男性諸賢には“MEN to the left because WOMEN are always right! ”という言葉を贈る。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, インド, オーストラリア, サスペンス, デブ・パテル, ヒューマンドラマ, 監督:アンソニー・マラス, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ホテル・ムンバイ 』 -極限の緊張と恐怖に立ち向かえるか-

『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

Posted on 2019年10月9日2021年11月7日 by cool-jupiter

ジョーカー 85点
2019年10月5日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ
監督:トッド・フィリップス

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Believe the hype. という表現がある。「誇大広告を信じろ」、つまり「ガチですごいんだ」という意味である。公開前から世界中の批評家やPR担当者たちは本作を手放しで絶賛した。否が応にも期待が高まる。往々にして、Hype can ruin a film. 一部に誤っていると思われる広告やキャッチコピーの類もあるが、本作は間違いなく傑作である。

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あらすじ

アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、緊張すると笑ってしまうという障がいを抱えながらも、ゴッサムの片隅でピエロ稼業をしながら、コメディアンになることを夢見ていた。母親と二人暮らしで、フランクリン・マレー(ロバート・デ・ニーロ)がホストのテレビ番組を楽しんでいた。だが、街も人々も彼の存在をどこまでも軽んじる。そんな時、同僚から護身用にとアーサーは拳銃を手渡され・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭から異様な雰囲気である。男は笑いながら苦しんでいる。笑い過ぎて、呼吸ができず苦しくなったわけではない。その笑い声には陽気さはなく、悲愴感が漂う。笑うことそのものが苦しみで、その苦しみが更なる笑いをもたらしている。そのようにすら感じられる。何ともダークで不安を煽るオープニングである。

 

すでに世界中で100万回指摘されていることだが、やはり『 タクシードライバー 』によく似ている。その一方で必ずしも似ているばかりでもない。トラヴィスは劇中で最後に自分を袖にした女を華麗に見限るが、アーサーはそうではない。トラヴィスは劇中でも現実世界(我々の生きている映画の外の世界、の意)でも信者を得るが、アーサーは劇中では信者を、現実世界では共感者を得ている。トラヴィスは非モテ男の支持を得た一方で、アーサーの支持基盤は社会の底辺に生きる者、あるいは社会から疎外された者たちだろう。彼の住む集合住宅はオンボロもいいところで、立地も街の中心部から相当に離れている。なおかつ駅から降りてとんでもない上り階段に臨まなくてはならない。街には行政的な課題が山積しているが、市政は動かない。このような地域や状況は、先進国と言われる国でも密かに進行しつつある事態である。これだけでも我々はアーサーやその道化師仲間たちに共感させられる。底辺にいる俺たちだって生きているんだ。この時点で彼らにシンクロしてしまう人間は相当に多いはずだ。そのタイミングを狙って、DCやワーナーは本作を世に送り出してきたのではないか。だとすれば、マーケティング戦略としては満点であろう。

 

日本との類似を指摘する声も多い。実際にJovianもそう思う。十把一絡げに言ってしまえば、いわゆる嫌韓嫌中な方々がアーサーと同じような境遇にいそうだ。偏見であることは承知しているが、どうしても本作はそのように観る者に迫ってくる。社会が悪い。俺は悪くない。俺という人間が生まれきたことには意味があるはずだ。俺の生まれはこの国で、俺の親はこの立派な国の人間だ。そのような妄想的観念が覆された時に人はどうなるのか。KKKの熱心なメンバーがDNA鑑定を受けたら、4代前に黒人がいた、という話は実はよく聞こえてくる。それを機に改心する者もいれば、自殺する者もいたという。自分という人間の出自に関心を持つことは至極当然であろう。問題はそれに強すぎるこだわりを持つことだ。だが、アーサーのように社会に無視され、奪われ、虐げられるだけの者が、他に何を拠り所に生きろと言うのか。

 

アーサーがジョーカーに変貌していく過程にリアリティがあるかと問われれば、無いと答える。ひょんなことから銃を手に入れ、ふとしたきっかけで発砲せざるを得なくなることに必然性はない。だが、自分がそうした立場に置かれた時、どのように反応するだろうかという思考実験の材料にはなる。アーサーという個人に特徴的な意図せざる笑いがこみ上げてくるというコンディションを抱えており、それは確かにハンディキャップになっている。けれども、それが彼がジョーカーに変わっていく触媒ではない。アーサーをジョーカーに変えたものは、陳腐な表現をすれば社会の闇である。寄る辺なき者たちは、きっかけさえあればジョーカーになり得る。本作はそのように主張しているかのようだ。もっと言えば、悪とは善の対立概念ではない。悪とは善の欠如でもない。悪とは、それ自体が救いになりうる。そのような逆説を本作は提示している。クライマックスのジョーカーは、誰がどう見てもゼーロータイによって実際に担ぎ上げられてしまったイエス・キリストのアナロジーに他ならない。もしくは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』のパラレル・ユニバースであるとも言えるかもしれない。

 

ホアキン・フェニックスの怪演には感動を覚えたが、特にとあるシーンでアーサーがじっと沈黙するシーンには身震いした。その黒い両目の奥に譬えようのない怒りと悲しみを感じ取ったからだ。目の演技としては今年一番と言っても差し支えないだろう。仮面をかぶる、あるいは顔面に過剰なメイクアップを施す。それは内心にある全ての負の感情を覆い隠すためのものである。顔では笑って、心では泣いている。もしくは顔は笑って、心は怒っている。そのような二律背反のキャラクターをJ・フェニックスは、ジャック・ニコルソンやヒース・レジャーと遜色ないレベルで演じ切った。米アカデミーがどのように反応するのかは分からないが、『 ドント・ウォーリー 』と本作で、本ブログにおける2019年の海外最優秀俳優はJ・フェニックスで決まりである。

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ネガティブ・サイド

終盤のテレビ番組開始前に、アーサーは少し喋りすぎだったように感じる。具体的に言えば、ロバート・デ・ニーロに“Can you introduce me as Joker?”と全てを尋ねる必要はなかった。単に、“Can you introduce me as … ”で、いったん別の場面へカット。そこから出演ゲストの紹介場面に戻って来た時に、初めて“Joker”という名前に言及した方が、よりドラマチックだったはずだ。陳腐と言われるかもしれないが、『 ダークナイト 』においても、バットマンが実際に劇中で“ダークナイト”と呼称されるシーンは最終盤だった。それゆえにそのシーンは観る者に鳥肌を立たせるほどの衝撃を与えた。ジョーカーという名前、顔、風貌にもっとインパクトを与える演出があったはずである。

 

また、これは映画に対する不平不満ではないが、【 本物の<悪>を観る覚悟はできたか? 】だとか【 本当の悪は笑顔の中にある 】というキャッチコピーこそ、誇大広告だろう。アメリカで一番多く使われたと思しき販促フレーズの一つは“PUT ON A HAPPY FACE”であるようだ。「幸せの仮面をかぶれ」という意味である。アーサーという人物の人生そのものがある意味で仮面であることを絶妙に言い表している。単に刺激的なキャッチコピーをつけてみました、というだけでは短期的な利益にはなるかもしれないが、長期的には信用を無くすだけだろう。PR担当企業にはよくよく考えてもらいたい。

 

総評

非常に野心的で挑戦的な映画である。悪が救いであると、ここまで高らかに謳い上げた作品は少ないのではないか。アーサーという心優しい、ある意味でとても哀れな男が壊れていく様には同情を禁じ得ない。しかし、その同情が共感に、共感が信仰に、信仰が人々の具体的な行動に結びついてしまった時、悲劇は起こる。これは純然たるフィクションなのだろうか。それとも現実世界のシミュレーションなのだろうか。一つだけ言えるのは、本作が今年を代表する一本であることは間違いないということである。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

EVERYTHING MUST GO

 

直訳すれば「あらゆるものが消えねばならない」だが、これでは意味不明だ。この go の使い方から“Let it go”を連想できれば英語学習の中級者またはそれ以上のレベルと言える。劇中での使われ方を見れば一目瞭然で「全品売り尽くしセール開催中」というような意味である。Jovianは実際に15歳でアメリカ、ニューヨークを旅行中にこの表示を見たことがあるし、その後のドラマや映画でもチラホラ見かける。知っておいて損はない表現である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, クライムドラマ, ヒューマンドラマ, ホアキン・フェニックス, ロバート・デ・ニーロ, 監督:トッド・フィリップス, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

『 スラムドッグ$ミリオネア 』 -典型的かつ爽快サクセス・ストーリー-

Posted on 2019年9月20日 by cool-jupiter

スラムドッグ$ミリオネア 80点
2019年9月17日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:デブ・パテル フリーダ・ピント イルファン・カーン
監督:ダニー・ボイル

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インド映画と見せかけてイギリス映画である。『 ヒンディー・ミディアム 』でイルファン・カーンを見て、「そういえば『 ジュラシック・ワールド 』以来だったな」と感じ、再会を求めて近所のTSUTAYAへ。やはり面白い。

 

あらすじ

ジャマール(デブ・パテル)は人気テレビ番組の「クイズ$ミリオネア」で順調に正解を続け、賞金を積み上げて行っていた。しかし、番組司会者に不正を疑われ、警部(イルファン・カーン)に取り調べを受けることに。ジャマールは訥々と自身の過去を回想していくが・・・

 

ポジティブ・サイド

みのもんたを思い出してしまったが、やはり「クイズ$ミリオネア」はサスペンスフルであった。1ルピーは約1.6円で、1000万ルピーはおよそ1600万円となる。しかし、映画公開時の通貨価値の違いを考えれば、おそらくその価値は1億6千万円ぐらいであってもおかしくない。スラム街出身のジャマールからすれば、想像を絶する大金であろう。Jovianも1億円欲しい。

 

本作はクイズ番組の映画ではなく、クイズ番組を通じてインド社会の矛盾をさらけ出し、さらにそこで雄々しく生きる個人にスポットライトを当てた物語なのだ。『 存在のない子供たち 』のゼインのように、スラムで生まれ育ち、『 判決、ふたつの希望 』のように、宗教や民族の違いで謂われのない暴力にさらされてしまう。そして child predator の存在。こうした社会の理不尽が赤裸々に、しかし、エンターテイメント色豊かに描かれるところがインド映画(これはイギリス映画だが)の強みなのだろう。

 

これはサスペンス映画であると同時にラブロマンスでもある。幼少の頃からの初恋の相手、ラティカを狂おしいまでに追い求めるジャマールの一途さは観る者の心を打つ。男と女の心情の違いが露わになる中盤の展開には胸が締め付けられる。小学校高学年ぐらいで手塚治虫の『 火の鳥 乱世編 』の弁太とおふうを思い出した。両作品のその後の展開は異なるが、当時の自分にはおふうの心変わりというか、気持ちが理解できなかった。今なら分かる。だからこそ、ラティカのジャマールへの冷たい対応にも説得力がある。国が違っても、男女の心の在り様には一定の普遍性が認められる。

 

クイズの正答の根拠がジャマールの過去の様々なエピソードに潜んでいるというのは面白いし、オープニングが取り調べシーンというのもショッキングで良い。否が応でもそれまでに何があったのかと物語に引き込まれるからだ。犯罪まがい、というか窃盗や詐欺でサバイバルするジャマールが、苦難を乗り越えてミリオネアになっていくのは、そのままムンバイという土地の成長の勢い、ひいてはインドという国そのものの成長の勢いのメタファーだろう。ちなみに日本はもう間もなくあらゆる意味でインドに追い抜かれてしまう。映画だけではなく、あらゆる面で。何故だ?という向きには、『 沸騰インド:超大国をめざす巨象と日本 』をお勧めする。Jovianの大学の先輩が著者なのである。先輩と言えば『 運び屋 』で紹介した『 運び屋 一之瀬英二の事件簿 』もよろしく。

 

ネガティブ・サイド

 

冒頭の肥え溜めにドボンのシーンはもう少し控え目にしてもらえたらと思う。

 

ジャマールの兄、サリムのクズっぷりももう少し抑えることができたはずだ。彼なりに弟を想う心はあったのだろうが、それを押し殺して悪事に手を染めているという描写や演出があれば、もっとキャラクターが立っただろうに。

 

総評

普通に面白い。当時にブログをやっていたら、年間最優秀外国映画の候補に挙げていたはずだ。ダンスがねーぞ!と思うなかれ。エンディングのクレジットシーンは、クライマックスに次ぐカタルシスが待っている。インド映画ファンなら(イギリス映画だが)、必見の傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

That’s for sure.

 

劇中では、You’re not a liar, Mr. Malik. That’s for sure. という具合に使われていた。for sureで「確かに」という意味合いだが、用法の過半数は ~~~~. That’s for sure. だろう。Itは基本的に単数形の名詞、もしくは正体不明の何かを指して、Thatは直前に触れられた事柄(≠事物)を指すと理解しよう。

 

He is a great tennis player. That’s for sure.

You will pass the exam with ease. That’s for sure.

 

洋画でしょっちゅう聞こえてくるので、映画館で耳をすませてみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, A Rank, イギリス, イルファン・カーン, サスペンス, デブ・パテル, ヒューマンドラマ, フリーダ・ピント, ラブロマンス, 監督:ダニー・ボイル, 配給会社:ギャガ・コミュニケーションズLeave a Comment on 『 スラムドッグ$ミリオネア 』 -典型的かつ爽快サクセス・ストーリー-

『 プライベート・ウォー 』 -ジャーナリズムの極北と個の強さ-

Posted on 2019年9月17日2020年8月29日 by cool-jupiter

プライベート・ウォー 80点
2019年9月15日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ロザムンド・パイク
監督:マシュー・ハイネマン

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これはヒューマンドラマの皮をかぶったホラー映画である。劇場で鑑賞後に即座にそのように感じた。ホラー映画における恐怖は、それがあまりにも理不尽だからこそ恐怖を感じるのだ。ということは、市民と軍人の別なく殺戮行為が横行する戦地のドラマはホラーであるとしか言いようがない。もう一度言うが、これはホラー映画である。

 

あらすじ

メリー・コルビン(ロザムンド・パイク)は戦場ジャーナリスト。スリランカでは爆撃に遭い、左目を失明してしまったが、それでも彼女は戦地の取材に赴くのを止めない。PTSDに悩まされ、上司からはストップをかけられるが、それでも彼女は止まらない。そして、ついに彼女は政府軍による空爆の続くシリアのホムズに足を踏み入れる・・・

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ポジティブ・サイド

日本でも今年『 新聞記者 』が公開され、大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。その他、映画大国アメリカに目を移せば、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』や『 記者たち 衝撃と畏怖の真実 』など、ジャーナリストたちの気概と奮闘に焦点を当てた作品の生産において、日本よりも遥かに先を行っていることが分かる。そこに本作である。『 ダンケルク 』や『 ハクソー・リッジ 』のような“戦地”を舞台に、スーパーマンのような兵士ではなく、私生活が滅茶苦茶で規律違反の常習者であるジャーナリストが克己奮励する様には、どうしたって胸を打たれずにはいられない。

 

このメリー・コルビン記者は、常に戦場の最前線で、普通なら面会できないような人物に次々に接触する。そしてものすのは名もなき一般人の悲嘆、怨嗟、苦悩の声を届ける記事なのである。ここに見出されるべきは、平和な国からやってきたジャーナリストの仕事ぶりではなく、一切の虚飾を取り払った究極の個人として行動する一人の人間の生き様である。事実、コルビンは上司の連絡も無視するし、会社が保険に別の記者を送り込んでくるという判断に激怒するし、アメリカ軍が従軍記者に求めるルールすらも呵々と笑い飛ばす。そして信じられない勇気と大胆さ、機転によって危地を脱していく。特にイラクの砂漠のど真ん中のシーンは国や状況は全く異なるが『 ボーダーライン 』で、主人公舞台がメキシコ国境を車で超える時のような緊迫感に満ちていた。中盤以降は、迫撃砲や爆弾の着弾音がストーリーの基調音を形作って、観る者の不安と恐怖を掻き立てる。血と泥と煙と埃がスクリーンを覆い、我々はむせ返るようなにおいすら嗅ぎ取ってしまう。繰り返すが、本作はホラー映画でもあるのだ。爆撃機やミサイル発射台などは一切その姿を見せず、ただいきなり命が奪われていく。これは怪物や怪異の正体が全く分からないままに、ただただ不条理に命が奪われていくホラー映画の文法と共通するものである。

 

なぜこのような危険な場所に好き好んで赴くのか。それはコルビンの本能の為せる業なのかもしれない。漫画『 エリア88 』でもミッキーやシンは戦場での生の実感を平和の内に見出せなかった。コルビンも同じである。平和な世界では、彼女は酒に溺れてしまう。まるで常習的にDV被害に遭っている妻が、暴力夫のところに舞い戻る、または似たような暴力男と再婚するかのように、彼女は戦地に舞い戻る。ここまで来ると後天的な帰巣本能なのだろう。戦争・紛争の理不尽さを紙面で糾弾するのではなく、権力者に面と向かって指摘する。その場で逮捕拘束されて、処刑されてもおかしくないはずだ。それをコルビンはやる。彼女が伝えるのは、戦地で生きて死んでいく、何の変哲もない人々のことである。養老孟司と宮崎駿の対談本『 虫眼とアニ眼 』でも、両者は「我々は人類のことを考え過ぎている」と喝破しているが、コルビンは人類ではなく個々人を見、話し、書いた。個の強さが必要と叫ばれる現代において、彼女の生き方は模倣や追随の対象には決してならないが、大いなるインスピレーションの源泉にはなるだろう。

 

ネガティブ・サイド

同じような戦場ジャーナリストたちの描写がもう少し必要だったと思う。例えば、Jovianの先輩で戦地・紛争地取材に携わった方がおられるが、「オレ、もう花火大会行けないよ。あのヒュ~っていう音が怖いもん」と真面目な顔でおっしゃるのだ。戦地での極限的な恐怖の経験が、平和な社会の些細とも思える事柄によって呼び覚まされるのかという描写が欲しかった。が、これはクラスター爆弾事件を起こしてしまうような、極限まで平和な国に生きている者の出過ぎた要求か。

 

Wikipediaや各種英語のサイトを見回ってみたが、コルビンという無二の記者は、とんでもないモテ女にして、夜の武勇伝から、実際に戦地での英雄的行動の数々を含めて、personal anecdoteに事欠かない人物だったことは間違いないらしい。このような“事実は小説よりも奇なり”を地で行く人物像の描写がほんの少し弱かったように思う。ほんの一言二言でよいのだ。スター・ウォーズでハン・ソロがほんの少しだけ言及したケッセル・ランや、フィンが「トリリアの虐殺を知らないのか?」と言ったような、ちょっとした印象的な固有名詞を聞かせてもらえれば、あとはこちらが勝手に検索できる。そして、コルビンのレジェンドをビジュアルを以って脳内で再生できるようになるのである。

 

あとは、映画そのもののマイナスではないが、字幕で「鑑」であるべき箇所が「鏡」になっていた。翻訳者および構成担当者は注意されたし。

 

総評

何度でも書くが、本作はホラー映画である。しかし、幽霊やチェーンソーを持った殺人鬼が出てくるわけではない。何か大きな力によって意味も分からずに人が死んでいく、そのことに義憤を感じた硬骨のジャーナリストの後半生を追ったヒューマンドラマでもある。領土を取り返すには戦争をするしかない、などという痴人か愚人か狂人にしかできない発言を国会議員が堂々と行い、それでいてお咎めなしという日本の平和は確かに享受すべきで、維持していくべきものだ。しかし、その平和が失われるとはどういうことかについて我々は余りにも無自覚すぎる。メリー・コルビンという記者の生き様を、今ほどこの目に焼き付けるにふさわしい時期は無いのではないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You bet.

 

「もちろんだよ」、「オーケー」、「だな」のような肯定や確信の意味を伝える時、そして“Thank you”の返事をする時にさらっとこう言えるようになれば、その人は英語学習の中級者である。本作ではさらにカジュアル度の高い“No shit” という表現も使われている。こちらは「馬鹿言ってんじゃねー、当たり前だろうが」のようなニュアンスである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, イギリス, ヒューマンドラマ, ホラー, ロザムンド・パイク, 監督:マシュー・ハイネマン, 配給会社:ポニーキャニオンLeave a Comment on 『 プライベート・ウォー 』 -ジャーナリズムの極北と個の強さ-

『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

Posted on 2019年8月22日2020年4月11日 by cool-jupiter

シークレット・スーパースター 80点
2019年8月19日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ザイラー・ワシーム メヘル・ビジュ アーミル・カーン
監督:アドベイト・チャンダン

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アーミル・カーンが出演だけではなく製作も手掛けた作品。何故にこのような作品が100館規模で上映されないのか。日本の配給会社に勤める方々に真剣に考えて頂きたいものだ。最近のインド映画は意図的に歌と踊りを減らしつつあるが、そのことが彼の国の映画のエンターテインメント性やメッセージ性を些かも減じていない。ということは、それだけ映画製作に関して確固たるポリシーとノウハウを有しているのだろう。極東の島国の住民としては羨ましい限りである。

 

あらすじ

インドの片田舎に住むインシア(ザイラー・ワシーム)は、いつかインド最大の音楽賞であるグラマー賞の獲得を夢見る少女。だが頑迷固陋な父親は彼女の夢を決して肯定しない。ある日、インシアはブルカを纏って顔や体を隠して、“シークレット・スーパースター”というハンドルネームで自分の歌をYouTubeに投稿した。動画は爆発的にヒットし、インシアはお騒がせ作曲家のシャクティ・クマール(アーミル・カーン)の目にも留まり・・・

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ポジティブ・サイド

頑固な娘とそれを見守る母親という構図は『 レディ・バード 』そっくりである。しかし、そこに厳格すぎる父、というよりも田舎(という閉鎖社会)の悪しき因習、価値観、行動原理などをすべて体現してしまったような父親が加わるだけで、サスペンスとヒューマンドラマの要素が倍増した。なぜなら、インシアやその母ナズマは父親そして夫という一人の人間に闘争を挑むのではなく、その先にあるインドという国が抱える男尊女卑的な思想や体制に挑戦しているからだ。暴君然として振る舞う父親に我々は嫌悪感を抱く。そして、誰かこの男を思いっきり懲らしめてやってくれと願ってしまう。だが、物語は安易にそれをしない。凡百の脚本ならば、アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールをこの父親と対峙させて、娘の才能を自分に託すように言わせてしまうかもしれない。もしくは、エクストリームにアホな展開にしてしまうなら、シャクティに「俺はちょうど離婚が成立した。だから、お前の嫁は、娘ごと俺が頂く」と言わせてしまうことも考えられる。しかし、それでは意味が無い。本作は、この母と娘の自立への旅路をある意味では非常にコメディックに、また別の意味では非常にポリティカルに描き出す。以下、ネタばれ。

 

シャクティの嫁さん側の弁護士に頼ろうという発想が面白い。笑えてしまう。だが、インシアのこの発想は、単純にfunnyなだけではない。彼女が目指すのは、因習の打破。だが、それは非常に強固に人々の内側に根を張っている。それを壊す、あるいは超えるために民主主義的に成立したルール、法律に則るというのは現実的かつ現代的である。象徴的なのは空港のシーン。当たり前のことだが、暴君である父親も、飛行機に積み込める荷物の重さや数の制限には従うのである。法律やルールを最大限に利用して、母と子どもたちが自由の身になるシークエンスのカタルシスは筆舌に尽くしがたいものがある。

 

それにしても、主演のザイラー・ワシームは『 ダンガル きっと、つよくなる 』の姉妹の姉のギータだったのか。確かにどこかで見た気がしたわけだ。立派に成長しつつあるが、見る角度によってはJovian一押しのヘイリー・スタインフェルドにちょっと似ている。奇しくもヘイリーもザイラーもギター少女。What an amazing coincidence! ヘイリーのファンは『 はじまりのうた 』を観るべし!そして母親役は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも、ムンニーの母親を演じていた。娘のためにあらゆる手を尽くそうとする姿勢には純粋に心を打たれるばかりだ。

 

Back on track. ザイラー演じるインシアは感情の起伏が激しく、中盤まではやや感情移入しにくいキャラクターだった。だが、それも終盤手前で明かされるある出来事の真相によって、彼女が受けるショックの大きさを逆説的に表すための布石なのである。なぜ『 旅猫リポート 』は、こうした劇的な演出ができなかったのか。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 ダンガル きっと、つよくなる 』でも顕著だったが、女性に生まれる、そして女性を産むということがインド社会ではこれほどの重しになるのかと驚嘆させられ、また慨嘆させられる。そうした社会の悪弊を打ち破ろうとするインシアの物語のクライマックスは、まるで昨年(2018)のアカデミー賞を受賞したフランシス・マクドーマントのようであった。何というカタルシスであることか。

 

本作は単なる女性救済の物語ではない。男性のあるべき姿についても大いなる示唆を与えている。かといって、典型的な、紋切り型のヒーロー像ではなく、極めてユニークな男性像である。それぞれインシアの同級生、インシアの弟、そしてアーミル・カーン演じる音楽家である。健気さを読み取る人もいるだろうし、優しさを読み取る人もいるだろう。あるいは気高さを見出す人もいるかもしれない。男として彼らの姿に何かを感じ取らない者は、よほどの完璧超人か、あるいは鈍感を極めたダメ男かのいずれかであると断言させていただく。そうそう、インシアと同級生のチンタンはパスワードについてとあるやり取りを行うが、類似のあるいは模倣のシークエンスが、今後日本の少女漫画の映画化作品でちらほら見られると予想しておく。このシーンではJovianの脳裏では『 ロマンティックが止まらない 』と『 ロマンティックあげるよ 』の両方が流れた。我ながらオッサンだなと実感してしまう。

 

ネガティブ・サイド

インシアがYouTubeに投稿する動画は、もう数本あってもよかったのではないか。最後の最後にアーミル・カーンが歌と踊りで大いにエンターテインしてくれるとはいえ、本作は思ったよりも歌の成分が少なめである。もう少し、このギータ・・・、ではなくギター少女の音楽活動を鑑賞したかった。

 

また、アーミル・カーンが本格的に物語に絡んでくるのに、かなりの時間を要する。この不世出のスーパースターの登場を映画ファンは楽しみにしているのだから。出し惜しみはよろしくない。インターバルのタイミングと併せて、ストーリー進行のペーシングをもう少し速めても良かったのではないか。

 

総評

シネ・リーブル梅田はお盆期間中から連日の満員御礼である。エンドクレジット終了後には「いよっ!」という掛け声、口笛、拍手がごくわずかだが発生した。これは『 カメラを止めるな! 』以来である。娯楽性とメッセージの両方をハイレベルで追求した傑作である。上映してくれる箱の数は少ないが、是非とも多くの方に鑑賞頂きたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Keep it up.

アーミル・カーンが序盤で言うセリフである。意味としてはKeep up the good work. とほぼ同じと考えていい。今後もグッジョブを続けて欲しい相手に言おう。

 

Can I have a window seat?

これはインシアが空港で言う台詞。Can I have ~? で飲食物の注文から、相手の名前や住所、電話番号、メールアドレスなどの contact information まで、何でもリクエストが可能である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, メヘル・ビジュ, 監督:アドベイト・チャンダン, 配給会社:カラーバード, 配給会社:フィルムランド, 音楽Leave a Comment on 『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

『 アルキメデスの大戦 』 -戦争前夜に起こり得たリアルなフィクション-

Posted on 2019年8月8日2020年4月11日 by cool-jupiter

アルキメデスの大戦 80点
2019年8月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:菅田将暉 柄本佑 浜辺美波
監督:山崎貴

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戦艦大和を知らない日本人は皆無だろう。仮に第二次大戦で沈没した大和のことを知らなくとも、漫画および映画にもなった『 宇宙戦艦ヤマト 』やかわぐちかいじの漫画『 沈黙の艦隊 』の独立戦闘国家やまとなど、戦艦大和はシンボル=象徴として日本人の心に今も根付いている。それは何故か。やまとという名前が日本人の大和魂を震わせるからか。本作は、戦艦大和の建造の裏に大胆なドラマを見出した傑作フィクションである。

 

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あらすじ

時は第二次世界大戦前夜。日本は世界の中で孤立を深め、欧米列強との対立は不可避となりつつあった。そこで海軍は新たな艦船の建造を計画、超巨大戦艦と航空母艦の二案が対立する。戦艦の建造予算のあまりの低さに疑念を抱いた山本五十六は、数学の天才の櫂直(菅田将暉)を旗下に招き入れ、その不正を暴こうとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 風立ちぬ 』と共通点が多い。戦争前夜を描いていること、主人公がややコミュ障気味であること、その主人公が数学者・エンジニア気質であることなど、本当にそっくりである。菅田将暉演じるこの数学の天才児は、どことなく機本伸司の小説『 僕たちの終末 』の岡崎のような雰囲気も纏っている。「それは理屈に合わない」という台詞を吐きながらも、滅亡のビジョンを眼前に想像してしまうと、間尺に合わない選択をしてしまうところなど瓜二つである。つまり、男性にとって非常に感情移入しやすいキャラクターなのだ。男という生き物は、だれしも自分の頭脳にそれなりの自信を持っているものなのだ。俺が経営幹部ならこんな判断はしない。俺が政治家ならこういう施策を実施する。そういった脳内シミュレーションを行ったことのない男性は皆無だろう。同時に、男はある意味で女性以上に感情に振り回される生き物でもある。面子、プライド、沽券。こういった理屈で考えれば切り捨てるべき要素に囚われるのも男の性である。櫂という漫画的なキャラクターにして非情にリアリスティックでもあるキャラクターを十全に演じ切った菅田将暉は、20代の俳優陣の中ではトップランナーであることをあらためて証明した。

 

本作は冒頭からいきなり大迫力の戦闘シーンが繰り広げられる。『 シン・ゴジラ 』を手掛けた白組だが、They did an amazing job again! プレステ6かプレステ7ぐらいのCGに思える。思えば『 空母いぶき 』のF-22もどきはプレステ4ぐらいのグラフィックだった。戦闘シーンの凄惨さは写実性や迫真性においては『 ハクソー・リッジ 』には及ばないが、それでも近年の邦画の中では出色の完成度である。特に20mmまたは30mm砲の機銃掃射を生身の人間が浴びればどうなるかを真正面から描いたことは称賛に値する。何故なら、それがリアリティの確保につながるからだ。漫画『 エリア88 』でグエン・ヴァン・チョムがベイルアウトした敵パイロットに機関砲を浴びせるコマがあるが、あの描写は子供騙しである。もしくは編集部からストップがかかり、修正要請が出されたものである。70年以上前の第二次大戦時の戦闘機であっても、その機銃を浴びれば人間などあっという間に肉塊に変身する。そこを逃げずに描いた山崎監督には敬意を表する。

 

本作は今という時代に見事に即している。戦争前夜に、戦争を止めようと奔走した人物が存在したというフィクションがこの時代に送り出される意味とは何か。それは今日が戦争前夜の様相を呈しているからである。前夜という言葉には語弊があるかもしれない。本作は実際には日本の真珠湾奇襲の8年前を描いているからだ。戦争とは、ある日突然に勃発するものではない。その何年も前から萌芽が観察されているものなのだ。現代日本のpolitical climateは異常ではないにしても異様である。圧力をかけるにしろ対話による融和を志向するにせよ、その相手は北朝鮮であるべきで韓国ではない。自民党幹部および安倍首相はアホなのか?そうかもしれない。しかし、我々は第4代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・マディソンの言葉、“The means of defense against foreign danger, have been always the instruments of tyranny at home.”=「 外敵への防衛の意味するものは、常に国内における暴政の方便である 」を思い出すべきだろう。自民党がやっていることは庶民を苛めつつも、庶民の溜飲を下げるような低俗なナショナリズムの煽りでしかない。株価は上がっていると強調しながら賃金は下がっている。雇用は改善していると言いながら、正社員は激減している。身を切る改革を謳いながら、議員定数を増やしている。国益を守り抜くと言いながら、韓国相手の巨大な貿易黒字を捨ててしまっている。そんな馬鹿なと書いている自分でも思うが、これがすべて事実なのだ。国外脱出をしたくなってくる。『 風立ちぬ 』でも二郎が、国の貧しさと飛行機パーツの価格の高さの矛盾を嘆いていたが、櫂も新戦艦の建造費用を「貧しい国民が必死に払った税金」だと喝破する。戦艦大和に込められた思想的な部分を抜きにこのシーンを見れば、クソ性能で超高価格のF-35なるゴミ戦闘機がどうしても思い浮かぶ。身銭を切って幻想を買う。この大いなる矛盾が戦争前夜の特徴でなければ、一体全体何であるのか。『 主戦場 』でミキ・デザキは日本がアメリカの尖兵として戦争に送り込まれることを危惧していたが、そうした問題意識を高めようとする映画を製作しようとしう機運が映画界にあり、そうした映画を製作してやろうという気概を持つ映画人が存在することは誇らしいことである。

 

本作の見せ場である新型戦艦造船会議は、コメディックでありサスペンスフルである。『 清州会議 』的な雰囲気を帯びていながらも、本作の会議の方が緊迫感があるのは、それが現代に生きる我々の感覚と地続きになっているからだろう。一つには税金の正しい使い道の問題があるからであり、もう一つには大本営発表の正しさの検証妥当性の問題があるからである。この会議で日本映画界の大御所たちが繰り広げる丁丁発止のやり取りを、その静かな迫力で一気に飲み込んだ田中泯演じる平山忠道の異様さ、不気味さが、その余りの正々堂々たる姿勢と相俟って、場の全員を沈黙に追いやる様は圧巻である。彼の言う「国家なくして国民なし」という倒錯した哲学は、『 銀河英雄伝説 』のヤン・ウェンリーがとっくの昔に論破してくれているが、それでも国家は国民に先立つ考える人間の数がどこかの島国で増加傾向にあるようだ。憂うべきことである。

 

登場する役者全員の演技が素晴らしく、CGも高水準である。脚本も捻りが効いており、原作者および監督のメッセージも伝わってくる。『 空母いぶき 』に落胆させられた映画ファンは、本作を観よう。

 

ネガティブ・サイド

一部のBGMが『 ドリーム 』や『 ギフテッド 』とそっくりだと感じられた。数式をどんどんと計算・展開していく様を音楽的に置き換えると、どれもこれも似たようなものになるのかもしれないが、そこに和のテイストを加えて欲しかった。『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』ではオリジナルの伊福部サウンドを再解釈し、大胆なアレンジを施してきた。もう少しサウンド面で冒険をしても良かった。

 

Jovianは数学方面にはまったく疎いが、物語序盤で櫂が鮮やかに扇子の軌道計算を行っていた場面は疑問が残る。1930年代にカオス理論があっただろうか。扇子のような複雑な形状の物体は、いくら比較的狭い室内で無風状態であるとはいえ、カオス理論なしには計算不可能なような気がする。それ以前に、櫂は巻尺は常に携行しているが、重さを測るためのツールは持っていないだろう。扇子の重量を計算に入れずに、いったいどうやって軌道計算したというのか。大いに疑問が残った。

 

また数学者が主役で、戦時に活躍するとなると、どうしても『 イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 』を想起する。櫂の計算能力は天才的ではあるものの、発想力という意味ではアラン・チューリングには及ばなかったように思う。船の建造費を導き出す方程式にたどり着いたのは見事だったが、悪魔の暗号機エニグマに対抗するには、計算ではなく計算機械が必要なのだという非凡な発想を最初から持っていたチューリングの方が、どうしても一枚上手に思えてしまう。事実は小説よりも奇なりと言うが、櫂というfictionalなキャラクターにもっとfictitiousな数学的才能や手腕をいくつか付与しても良かったのではなかろうか。

 

総評

娯楽作品としても芸術作品としても一線級の作品である。日本人の心に今も残る戦艦大和の裏に、驚くべきドラマを想像し、構想し、漫画にし、それを大スクリーンに映し出してくれた全てのスタッフに感謝したい。いくつか腑に落ちない点があるが、それらを差し引いても映画全体として見れば大幅なプラスである。今夏、いや今年最も観るべき映画の一つだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, 日本, 柄本佑, 歴史, 浜辺美波, 監督:山崎貴, 菅田将暉, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 アルキメデスの大戦 』 -戦争前夜に起こり得たリアルなフィクション-

『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

Posted on 2019年8月7日 by cool-jupiter

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 80点
2019年8月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ポール・ホルデングレイバー
監督:フレデリック・ワイズマン

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エクス・リブリスとは、Ex librisである。exはラテン語でfromの意、librisはliber=本の複数形の奪格である。つまり、From the booksと訳すことができる。本の所有者を示すために、しばしば使われる標語のようなものである。では、ニューヨーク公共図書館の蔵書の所有者とは誰なのか。それを追究しようというのが、本作の刺激的なテーマである。

 

あらすじ

ニューヨーク公共図書館の本館と分館にそれぞれカメラが入り、各図書館ごとに特色あるサービスを提供している様子を捉えていく。そこから、公共の意味、知識の意味、世界の未来像が浮かび上がってくる。

 

ポジティブ・サイド

ドキュメンタリー映画でありながら、本作にはナレーションが存在しない。いや、ナレーションが存在しないドキュメンタリーは他にもある。『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』にもナレーションは無かった。本作の最大の特徴はインタビューが存在しないこと、これである。ただ淡々と、図書館で働く人々、図書館を利用する人々の姿を映していく。彼ら彼女らの話、働きぶり、行き方来し方によって、ニューヨークの街、ひいては全米、そして世界における「公共」の意味や「知識」の意味が見えてくる。静かでありながら、非常に野心的で刺激的である。なぜなら、ITだ、デジタル化だ、IoTだと叫ばれるこの時代に、アナログの極致とも言える書物に積極的な意味を見出しているからだ。法条遥の『 リライト 』ではアナログの図書館を指して未来人の保彦は「何という無駄!」と叫んだ。書物に込められた情報だけに着目すれば、蓋し当然の感想であろう。しかし、書物にそれ以上の価値を認めるならば、話は別である。『 アメリカン・アニマルズ 』でも、アメリカ建国時代の書物は、おそらく『 ナショナル・トレジャー 』級のお宝だと見積もられている。何故か。

 

それは、書物が紙とインクという唯物論的存在ではなく、書く者と読む者との間の時間と空間を超えた相互作用として立ち現われてくるからだ。そして、それはニューヨークという街についても当てはまることなのだ。ある分館では、図書がベルトコンベアーで運ばれ、それを図書館員たちが仕分けしていくシーンがあるのだが、その直前に映し出されるのはニューヨークの街の鉄道(『 スパイダーマン2 』でトビー・マグワイアが暴走を止めたものかもしれない)なのである。街を走る鉄道が、図書館内のベルトコンベアーに、街行く人々が、図書館内の書物に例えられているのである。図書館とは、図書を保管し、貸し出すだけの場所ではない。それは人と人との交流の場であり、過去の資産を未来に間違いなく届けるためのタイムカプセルでもあり、なおかつ街、ひいては世界の縮図なのである。

 

我々は図書を物理的な物体として考え、扱うことに余りにも慣れ過ぎている。しかし、それは目が見えるものや手指に不自由を抱えていない者の発想ではないか。ニューヨーク公共図書館が利用者として積極的に含めようとしている障がい者や求職者は、現代日本ではむしろ疎外の対象になっていないか(この点で、れいわ新選組の選挙戦略だけは特筆大書に値する快挙だった)。考えてみれば、図書館とは非常に融通無碍な場所である。我々は中華料理屋やインドカレーショップ、寿司屋といった存在にあまりにも普通に接してきたために、食べ物・・・ではなく事物というものは、そもそも分類されて然るべきものという思考の陥穽にハマりがちである。しかし、巨大な図書館は洋の東西も歴史の古い新しいも清も濁も玉も石も区別しない。究極のダイバーシティがそこに顕在化している。

 

再び翻って日本はどうか。【 戦後憲法裁判の記録を多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に 】などという、歴史修正主義を通り越して、歴史廃棄主義とでも呼ぶべき暴挙がまかり通っている。公文書改竄に飽き足らず、公文書を廃棄するのがこの国の与党の実態である。まさに焚書である。『 図書館戦争 』的な世界の現出も近いのかと不安になる。次は坑儒か。埋められるのは誰になるのか。

 

Back on track. 本作ではJovianが私淑している梅田望夫の著書『 ウェブ進化論: 本当の大変化はこれから始まる 』の記述を裏付ける描写がある。つまり、ニューヨークに住む人間の1/3は自宅でインターネットにアクセスできないのだ。これは前掲書の「いやあ、アメリカってネット環境は遅れているのに、ネットの中はすごいんですねえ」という、とある日本人の感想と一致する。森内閣がイット革命ならぬIT革命を強烈に推進してくれたおかげで日本のネット接続環境は世界でもトップクラスである。しかし、肝心要のネットの中身はどうか。日本語圏という、ほぼ閉じた空間にしかアクセスできないのではないか。ニューヨーク公共図書館がネットへの接続を推進する背景には、英語でのコミュニケーション可能空間が広がっているいるからということもある。だが、それ以上に、ネット空間が図書館という空間とフラクタル構造を成していることも見逃せない。世界最大級の超巨大図書館があらゆる地域、時代、著者、内容の書物を飲み込んでいくのと同様に、インターネットの世界にもダイバーシティが存在する。そしてそれは、取りも直さずワールド・シティーたるニューヨークが世界の縮図になっていることと相似形を成している。

 

もちろん、森羅万象は美しいものだけで構成されているわけではない。そこには上っ面だけを糊塗した偽物も存在する。そうしたものに激しい批判を加える知識人の姿も本作は活写する。一例を挙げよう。アメリカ史における最大の負の遺産である「奴隷」を、文献によっては「労働移民」と体よく言い換えているのである。これは『 主戦場 』で化けの皮が剥がれた、「慰安婦」を「姓奴隷」と言い換えるロジックと根本的に同じことである。実に鋭い現実批評であり、フレデリック・ワイズマン監督の意識の根底に人権や人道とは何かという問いが常にあることを示している。

 

ネガティブ・サイド

ほとんど批判すべき箇所が見当たらないが3点だけ。

 

1つには、主人公と呼べる人間が見当たらなかったこと。会議のたびにリーダーシップを発揮するオジさんはいたが、それだけで彼に感情移入することは難しかった。

 

2つには、この巨大図書館の深奥に眠っているはずの貴重な書籍、一般人閲覧不可の書籍、まさに『 アメリカン・アニマルズ 』で盗難されたような書籍を見てみたかった。

 

3つには、上映時間の長さである。なんと205分である。これではまるで『 アラビアのロレンス 』だ。他の劇場ではどうったのか分からないが、シネ・リーブル梅田では2時間超ドのあたりで10分休憩が設けられていた。長すぎる作品も考えものである。

 

総評

これは大傑作である。弱点もあるが、それを補って余りある“観る者の想像力と知性を刺激する構成”がある。ニューヨークの図書館という一見するとローカルな施設が、人類にとっての普遍の価値を追求しようとしていることに畏敬の念を打たれない者はいない筈だ。現代日本の抱える問題の解決方法への鮮やかな示唆もある。異色のドキュメンタリーであるが、食わず嫌いはいけない。必見の傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ボール・ホルデングレイバー, 監督:フレデリック・ワイズマン, 配給会社:ミモザフィルムズ, 配給会社:ムヴィオラLeave a Comment on 『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

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