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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2010年代

『 シンプル・フェイバー 』 -現代風サスペンスの模範的作品-

Posted on 2019年3月16日2020年1月10日 by cool-jupiter

シンプル・フェイバー 65点
大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アナ・ケンドリック ブレイク・ライブリー ヘンリー・ゴールディン
監督:ポール・フェイグ

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『 ピッチ・パーフェクト 』シリーズのアナ・ケンドリック、『 ロスト・バケーション 』のブレイク・ライブリー、『 クレイジー・リッチ! 』のヘンリー・ゴールディングの共演となれば観ないという選択肢は無い。特にゴールディングは、Jovianが勝手に私淑しているHapa英会話のセニサック淳に似ているので、やはり勝手に応援しているアジア俳優なのである。

あらすじ

シングルマザーのステファニー(アナ・ケンドリック)はV-Logでママ友向けの動画を作成する傍ら、子育てにいそしんでいた。ひょんなことから、NYの大企業でフルタイムで働くエミリー(ブレイク・ライブリー)と知り合う。エミリーの夫、ショーン(ヘンリー・ゴールディング)は大学教授にして作家。対照的なステファニーとエミリーは親密になっていき、ステファニーはエミリーの子どもの世話役をすることも。しかし、ある日、ステファニーに子どもを預けたままのエミリーが姿を消して・・・

ポジティブ・サイド

ギリアン・フリン原作の『 ゴーン・ガール 』と非常によく似た構造を持っている。消えた女を追えば追うほどに新たな謎が見つかっていくというのは、ウィリアム・アイリッシュの古典的名作『 幻の女 』以来のクリシェである。タイムトラベル物、記憶喪失物と並んで、消えた女のミステリというのは出だしの面白さにおいてはハズレが少ないジャンルなのである。近年では『 ドラゴン・タトゥーの女 』や『 セブン・シスターズ 』などが標準以上の出来だと言える。そして本作はこれらよりも、サスペンスで僅かに、ユーモアで大きく、そしてミステリ部分で僅かに上回る。ただし『 ゴーン・ガール 』にはいずれの面でもやや及ばない。

本作の面白さは、まず第一にアナ・ケンドリックとブレイク・ライブリーの好対照ぶりにある。シングル・マザーにしてYouTuberのステファニー、そしてワーキング・マザーにしてNYの会社でタイトル持ちのエミリー。この二人がふとしたことから親密になり、秘密を明かし合い、お互いの子どもを預け合うようになるまでが実にテンポ良く描かれる。もちろん、そこまでの展開に伏線がてんこ盛りなので、しっかりと目を凝らして耳をすましておくように。

他に注目すべきところとして、エミリーの哲学というか生き方に、ステファニーが共感し、それを実践するシーンである。と同時に、ステファニー自身の過去の秘密が現在にも蘇ってくるのだ。What a femme fatale! 余り深く考え込んでしまうと背筋が寒くなるので、ステファニーの秘密の謎を探ろうとするのは、ほどほどにしておくべし。また、エミリーにはてっきり陳腐過ぎる直球のトリックが仕込まれているのかと思いきや、ちょっとした変化球であった。綾辻行人の『 殺人鬼 』のトリックかと見せかけて、飛浩隆の『 象られた力 』所収の短編『 デュオ 』に見られるトリックだった。

ブレイク・ライブリーのファッション、アナ・ケンドリックの美乳(ブラまでしか見えないが)、ヘンリー・ゴールディングのRPアクセントの英語にも注目しながら本作を堪能して欲しい。

ネガティブ・サイド

いくつかのサブ・プロットとエンディングに謎が残る。特に、ステファニーの過去の秘密の真相については、観る者を試す、あるいは意図的に混乱させようとしているかのようである。特に、中盤のステファニーの活躍を見るにつけ、彼女の過去の秘密の真相がどんどんとどす黒くなっていく。ここまでモヤモヤとした気分にさせるなら、いっそ真相を明かしてくれと思ってしまう。

また、エミリーの使うトリックでは、おそらく警察を欺けない。アメリカの警察の捜査力はドラマや映画から推し量るしかないが、このトリックで絶対に日本の警察は騙せない筈だし、アメリカの警察も騙せまい。その理由については中橋孝博先生の著作を読めば分かるかもしれないし、分からないかもしれない。人間の身元を確認する方法は一つだけではないということである。

総評

弱点はあるものの、適度なユーモアがある上質なサスペンスである。実績充分にして今後の活躍も期待できる2人の女優のガチンコ演技対決を見逃してはならない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, サスペンス, ブレイク・ライブリー, 監督:ポール:フェイグ, 配給会社:ポニーキャニオンLeave a Comment on 『 シンプル・フェイバー 』 -現代風サスペンスの模範的作品-

『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

Posted on 2019年3月11日2020年1月10日 by cool-jupiter

翔んで埼玉 80点
2019年3月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:GACKT 二階堂ふみ
監督:武内英樹

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漫画『 パタリロ! 』の魔夜峰央が原作で、漫画『 テルマエ・ロマエ 』の映画化を成功させた武内英樹が、これまた見事な映画を世に送り出してきた。私的2019年度日本アカデミー賞作品賞受賞作は、これでほぼ決まりである。面白さだけではなく、映画的な技法の面でも非常にハイレベルなものがある。それほどの会心の傑作である。

あらすじ

かつての武蔵国から東京と神奈川が独立、その余り物で構成された埼玉県人は、通行手形なしには東京に入ることもできないという迫害を受けていた。そんな時に、東京都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)の属する高校に、アメリカから謎の転校生、麻実麗(GACKT)が転校してくる。始めは反目しあうものの、麗の都会指数の高さに徐々に魅せられた百美は、麗との距離を縮める。しかし、麗が卑しい埼玉の出であることを知った百美は東京と埼玉の間で引き裂かれるような思いに・・・

ポジティブ・サイド

『 テルマエ・ロマエ 』にも共通することだが、ギャグ漫画を映画化しようとするならば、製作者は至って真面目にならなければならない。阿部寛演じるルシウスが現代日本の温泉テクノロジーやデザインに度肝を抜かれる様が面白いのは、その姿に我々がギャップを感じるからだ。ギャップとは認識のズレのことで、このズレ具合が笑いを呼び起こす力になる。駄洒落が好例だろう。

「隣の家に囲いができるんだってねえ」

「へえ、かっこいい!」

というのは、へえ=塀、かっこいい=囲い、という駄洒落になっている。同じものでありながら、それを捉える時の認識の違いが面白さの源泉である(上の例が面白いかどうかはさておき)。本作の面白さは、第一に役者陣の大真面目な演技(≠素晴らしい演技)から生まれている。真面目にアホなことを語り、真面目にアホな行動を取る。特に百美が麗に完敗を喫する某テストは、その好個の一例である。学校という舞台で序列が決まるのは、往々にしてこのような出来事なのだが、本作はそれをギャグという形であまりにも端的に描いてしまった。この学校という舞台装置が曲者で、ここの生徒たちは誰もかれもが劇団四季のオーディションもかくや、と思わせるほどに大仰な演技および発声をする。詳しくは後述するが、それは東京都、特に山手線内部に象徴される、いわゆる「東京」という空間の虚飾性および虚構性とパラレリズムを為している。東京の富、およびそれを生み出す生産力、労働力は一体どこから供給されているのか。それは埼玉であり、千葉である。東京という中心の繁栄は、周辺の協力なしには絶対に実現しないのである。百美が父から離反し、麗のもとに走ることを決断したのは、この「経済学的に不都合な真実」を知ったからである。

埼玉や千葉の人間が東京に対して潜在的にどのように感じているかについては『 ここは退屈迎えに来て 』のレビューで指摘したことがある。本作の面白さの第二は、まさにこのような彼ら彼女らの意識が、極端なまでに肥大化された形で表現されているところだろう。本作に描かれる埼玉は、一漫画家の想像や妄想の産物ではない。彼が観察した埼玉県人に共通する、普遍的な埼玉県人性とでも呼ぶべき性質を、とことんリアルにパロディ化したものなのである。だからこそ本作は埼玉県で驚異的なヒットになっているのであろう。これは差別の逆構造である。『 グリーンブック 』のレビューで「差別とは、その人の属性ではないものを押しつけること」と定義付けさせてもらったが、この映画は埼玉についてのネタ的なあれやこれやを執拗に描写する。これはレッテル貼りではない。逆に、自己の再発見、再認識になっている。劇中での埼玉ディスのピークは、「ダサいたま、臭いたま・・・」とエンドレスで続く駄洒落であろう。驚くべきことに、これが Motivational Speech として抜群の効果を持つのである。なぜなら、外部からそのような属性を押しつけられれば、それはすなわち差別であるが、こうした属性を自分で自分に付与していく、そして自分にそのような属性が備わっていると知ったことで、それを乗り越えようとする意志が観る者の胸を打つ。これはJovianがヒョーゴスラビア連邦共和国の住人だからなのだろうか。

本作の面白さの第三は、語りの構造のギャップにある。百美と麗の物語は、都市伝説という形でラジオ放送されている。それが、劇中のキャラクター達とそれを車中で聞くとある家族という、もう一つのパラレリズムを形成している。我々は百美と麗の物語にいちいち反応するキャラクター達を見て、無邪気に笑う。しかし、映画は最終盤で一挙に我々の生きる現実世界を飲み込んでしまう。この物語の構造と展開には唸らされた。映画を観ている我々は、実はもっと高次の存在に見られていたのか。まるで『フェッセンデンの宇宙 』のようだ。散々笑った後に、思い返してちょっぴり怖くなる。それが現実を鋭く抉る批評的映画としての本作の素晴らしさである。

エンドクレジットでも絶対に席を立ってはならない。はなわの歌に耳を傾けながら、この作品を世に送り出したスタッフの一人ひとりに感謝の念を捧げ、精一杯の敬意を表そうではないか。

ネガティブ・サイド

東京都庁の攻囲戦がやや間延びしていた。また、このパートのみアクションが真面目で、もっと振り切ったバトルシーンを観てみたかった。また、埼玉vs千葉の、それぞれ輩出した有名人合戦は、もう何名か繰り出せたはずだ。編集で泣く泣くカットしたのだろうか。

もう一つだけ気になったのは、Jovian本人は本作を観ながら、そこかしこで笑いをこらえるのに必死になったが、生粋の大阪人である嫁さんは「さっぱり意味が分からない」という態であったことだ。これはJovianが東京都在住10年半の経験を持っていて、嫁さんは生まれも育ちも全部大阪だからという背景の違いのせいでもあるだろう。しかし、それ以上に大阪という、東京には遥かに及ばないものの、それでも強力な重力を有する土地に生まれ育った者には、マージナルマンのパトスは理解できないという民俗学的、文化人類学的な理由もあるだろう。ぶっちゃけて言えば、生まれも育ちも東京(≠東京都)です、というハイソな人、あるいは児童相談所の建設に頑なに反対する、一部の南青山の住人などには、刺さるものが無いのではないか。充分に現実を批評する力を持った作品だが、もっと東京を刺すような演出があれば85点~90点もありえたかもしれない。それだけがまことに悔やまれる。惜しい。

総評

2019年もわずか3カ月しか経過していないが、本作は年間最高傑作候補間違いなしである。エンターテイメント性とメッセージ性を併せ持つ、近年の邦画では稀有な作品に仕上がっている。カジュアルな映画ファンから、ディープな映画ファンまで、幅広い層を満足させうる傑作である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, GACKT, コメディ, 二階堂ふみ, 日本, 監督:武内英樹, 配給会社:東映Leave a Comment on 『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

『 THE GUILTY ギルティ 』 -北欧サスペンスの傑作-

Posted on 2019年3月10日2020年1月10日 by cool-jupiter

THE GUILTY ギルティ 75点
2019年3月7日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ヤコブ・セーダーグレン
監督:グスタフ・モーラー

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原題は“Den skyldige”、英語ではthe guilty oneもしくはthe guilty partyの意であるようだ。「有罪なる者」とでも訳すべきだろうか。パッとあらすじだけを読んだ限りではハル・ベリー主演の『 ザ・コール [緊急通報指令室] 』のデンマーク版かと思えたが、これはそれ以上の掘り出し物にして傑作であった。

 

あらすじ

職務に熱心な警官、アスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、とある出来事から緊急司令室の電話オペレータとして勤務していた。ある日、アスガーは今まさに誘拐され車で連れ去られているという女性、イーベンからの通報を受ける。電話越しにアスガーは彼女を救うことができるのか。アスガーの苦闘が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

低予算映画の作り方でありながら、スリル、サスペンス、ミステリ、そしてホラーの要素までもが詰め込まれている。だが、それらが互いに喧嘩することなく、一本の作品の中で互いを高め合っている。これは凄いことだ。あるシーンで、アスガーが同僚警察官にとある場所に踏み込むように依頼するのだが、その緊張感たるや『 セブン』(”Se7en”)に迫るものがあった。

本作については、ネタばれめいたことがほとんど言えない。それほど絶妙なバランスの上に成り立っている作品である。我々は「ラスト10分間の衝撃!」だとか「前代未聞のどんでん返し!」なる惹句を、映画や小説の販促文句で定期的に目にする。中には「あなたは二度騙される」など、それ自体が重大なネタばれになっているものまで存在する。そうまでして観客や読者を獲得しようとする努力は買うが、そのことが作品の面白さ=受け手が作品の真価を味わう機会、経験を減じていることに、版元や配給会社はそろそろ気付いてよい。

本作の素晴らしさは主として2点。一つには、通話先の相手の容貌や状況、心理を観客が知らず知らずのうちに想起してしまうこと。これは主演のヤコブ・セーダーグレンの演技力に依るところが大きい。画面に映るのはほとんど全部この男なのだが、我々はいつの間にか彼と同化させられてしまう。ヘッドセットからの声に真剣に耳を傾けてしまう。そこから漏れ伝わる声や音は我々の想像力を否応なく喚起する。Jovianはデンマーク人の友人はいるが、デンマーク語はさっぱり分からない。それでも、アスガーの苦闘ぶりは充分に伝わる。Non-verbalな部分で、彼が如何に奮闘しているかということが、実によく伝わってくるのである。

もう一つには、映画のプロットそのものが、主人公のアスガーの背景についての興味関心を掻き立ててくることである。なぜこの男は緊急司令室で電話番をしているのか?この男が警察の関連部署と通話する際にときどき感じられる物々しさ、よそよそしさは何であるのか?そうしたことが最終盤まで明かされることなく、それでいて情報が絶妙に小出しにされてくるのである。この展開が素晴らしい。手に汗握るというか、アスガー自身の抱える闇とイーベン誘拐事件のクライマックスが見事に交差する瞬間の緊張感!これ以上は言えない。ぜひ多くの方に劇場で確かめて欲しい。それだけである。

 

ネガティブ・サイド

88分とやや短めの映画であるが、序盤にもう5~6分をかけて、アスガーの仕事がどんなものであるのかを、電話の音声とPC画面にもっとフォーカスする形で見せてくれても良かったのではないだろうか。民間ではないが、コールセンターの中の人がどのように働いているのか、興味のある人は世の中には結構いるはずである。

中盤でアスガーが思考の陥穽に嵌まってしまい、着信に気付かないところを同僚に告げられるシーンがあるのだが、Jovianが昔働いていた信販会社なら、怒声もしくは下段蹴りが飛んでくる場面だ。コールの積滞時間の長さは、そのままクレーム発生率に比例すると言っても過言ではなく、同僚の冷静さが、やや腑に落ちなかった。重大事件の通報であるかもしれないのだから、尚更だ。このあたりの描写に甘さを感じた。

 

総評

いくつかの弱点を抱えているものの、傑作であると評することができる。特にタイトルが秀逸なのである。他には、アスガーの同僚の名前が、Jovianの大学時代の寮の友人と同じで、思わずニヤリとさせられた。兎にも角にも、本作に関してはうっかりとネタばれめいたことが言えないのだが、本作を鑑賞して、なおかつ小説も好きだという方には、以下の三作品を是非ともお読みいただきたい。作品の中身それ自体が重大なネタばれに直結するようなものばかりなので、白字で記載させていただく。

作者:田中啓文 タイトル:『 水霊 』

作者:米澤穂信 タイトル:『 犬はどこだ 』

作者:範乃秋晴 タイトル:『 マリシャスクレーム―MALICIOUS CLAIM 』

以上である。本当に面白い作品であれば、この時代であれば自然に拡散されていく。本ブログもその一助でありたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, デンマーク, ヤコブ・セーダーグレン, 監督:グスタフ・モーラー, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 THE GUILTY ギルティ 』 -北欧サスペンスの傑作-

『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

Posted on 2019年3月9日2020年1月10日 by cool-jupiter

凛 りん 30点
2019年3月3日 イオンシネマ京都桂川にて鑑賞
出演:佐野勇斗 本郷奏多
監督:池田克彦

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『 火花 』はそれなりに面白い私小説であり、映画であった。又吉本人は心外に思うだろうが、あれはどう見ても私小説である。エンターテインメントの本質はフィクションにある。小説家にしてJovianの兄弟子(と勝手に私淑させてもらっている)奥泉光もそのような趣旨の発言をたびたびしている。あらすじだけ読んで、又吉の作家、クリエイターとしての本領を味わえると直感した。しかし、期待した分だけ、落胆も大きかった。

 

あらすじ

北関東の田舎で小さな子どもが消えた。同じ地方の高校で、野田耕太(佐野勇斗)は仲間たちとお気楽に暮らしていた。何者も何事も永続はしない。それが彼の信条だった。そこに東京からの転校生、天童義男(本郷奏多)がやってきた。寡黙な彼は周囲になじめなかったが、野田のグループは彼を温かく迎え入れる。彼らは次第に打ち解けていくが、ある時、町で二人目の子どもが消えた。人々はそれを「100年に一度起こる神隠し」の再発であると考えるようになり、天童が疑われるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

意外なほどにメッセージ性を持っている。母子家庭、一昔前の言葉で言えば欠損家庭に生きる主人公。そして、それぞれ家族や家庭に問題を抱える親友たち。(邦画において)キラキラまばゆいものとして描かれることの多い高校生活と仲間たちとの友情を、永続しないものと最初から諦観して受け入れている(かのように見える)主人公。環境面の設定だけ見れば、これまでに1万回は観てきたような作品だが、これほど各キャラクターが闇を抱えている作品というのは、湊かなえの『 告白 』、『白ゆき姫殺人事件 』、そして『 チワワちゃん 』ぐらいだろうか。このような緊張感ある設定は歓迎したい。何故なら、友情の美しさを無条件に肯定するような作品はこれまでにうんざりするほど量産されてきたからだ。

本郷奏多と千葉雄大は、どのように若々しさを保っているのかを個人的に尋ねてみたいと常々思ってきた。土屋太鳳が女子高生役を演じるたびにブーイングが巻き起こるが、本郷に対してそのようなリアクションは全く出てこない。彼の fountain of youth は何なのだろうか。もちろん、肌が白いから褒めているのではなく、ニヒリストに見えても、内面に熱くドロドロとしたものを持っていることが、言葉の端々から感じられるような複雑な、一筋縄ではいかないようなキャラクターを上手く表現できているからこその称賛である。

本作は『 グーニーズ 』のような友情もの、冒険ものとして味わうべきである。そうすれば、それなりに楽しめる。というか、楽しむにはそれしかないとでも言おうか・・・

 

ネガティブ・サイド

ポジティブと裏腹だが、本作の持つメッセージ性がそのまま弱点にもなっている。一体、話の軸足をどこに置きたいのだろうか。主人公たちの高校生とは思えないニヒリズム?それと対称を為すような友情の永続性への確信?それとも神隠しのミステリ?これらすべてが互いに干渉することなく成立していれば、それは脚本と監督の卓越した手腕によるものだ。しかし、これらの要素がどれも底浅く、互いが互いを一切補完しないのであれば、メッセージ性を詰め込み過ぎて失敗した作品と評価されても仕方がないだろう。

具体的には、主人公の耕太のキャラクターが首尾一貫していない。特に天童に対しての接し方に一貫性を欠いている。特に親友の一人への接し方と比較してみると、不自然さが際立つ。冒頭で語られるような、ややニヒリスティックな哲学ゆえのことであれば、天童に対して疑惑や怒りを向けるのであれば、もう一人の親友に対しても同様の態度を取れと思う。また、東京行きに興味は無いし、地元で普通の職に就くと常々語るのなら、なぜ東京から来た女性に胸キュンするのか。いや、恋というのは気が付いたら落ちているものだから、そこは目をつぶれる。しかし、それは幼馴染の女子を無下に扱う理由にはならない。そして、そのような態度こそが、天童を東京の高校から転校せしめたある事情と見事な相似形をなしている。つまり、耕太の天童への怒りは滑稽至極なものとして映らざるを得ない。キャラがぶれまくっているのだ。

問題があるのはキャラクター造形だけではない。誘拐の真相もだ。ここでいう真相とは、神隠しの真相である。というか、横溝正史の『 八つ墓村 』に言及するまでもなく、田舎というのは人間関係が良くも悪くも濃密である。だからこそ、他人の家の複雑な事情なども簡単に周囲にシェアされるし、転校生は既存の人間関係の輪になかなか溶け込めない。そうした中で何らかの犯罪が行われれば、それによって誰がどのような利得を上げるのかがすぐに明らかになってしまう。つまり、地元民の犯行であれば、すぐに露見するのである。

また100年に一度の神隠しというのも笑止千万である。日本のどこを探しても100年毎に○○が起きるなどという伝承はないのである。理由は考えるまでもない。100年に一度の何某かの現象が法則性を帯びると考えられるには、少なく見積もっても300~400年は必要である。問題は誰がそれを語り継ぐのか、あるいは記録に残すのかである。もしも貴方の住む地域に何らかの伝承があれば、それは誰かが人為的にごく最近作ったものだと思ってよい。まさに『 八つ墓村 』である。

神隠しの真相も噴飯ものである。というか、真相など無い。こんな結末など許してよいものか。ミステリの賞に応募すれば、編集者が原稿を破り捨てること請け合いである。とにかく物語の核心がどこにあるのか分からず、またミステリ要素についても、特に驚かされるものがあるわけでもない。又吉に書けるのは、やはり私小説だけなのだろうか。

 

総評

『 ミステリーを科学したら 』の由良三郎先生が本作を鑑賞したら、何と言うだろうか。あるいは綾辻行人あたりなら、何と評すだろうか。確かなのは、彼は決して本作を褒めないだろうということだ。映像作品としても光るところに乏しい。佐野ファン、または本郷ファン、または又吉ファンでなければ、敢えて観るまでもない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ミステリ, 佐野勇斗, 日本, 本郷奏多, 監督:池田克彦, 配給会社:KATSU-doLeave a Comment on 『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』 -テーマにもっとフォーカスすべし-

Posted on 2019年3月7日2020年1月10日 by cool-jupiter

サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 55点
2019年3月3日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ルカ・カイン
監督:デイモン・カーダシス

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原題は“Saturday Church”である。どう考えてもこの邦題は『 サタデー・ナイト・フィーバー 』を意識している。そうに違いない。それではあまりにセンスが無さ過ぎる。それとも、そうした中年以上の世代を映画館に呼び込み、無意識の差別意識を炙り出そうという試みなのだろうか。

 

あらすじ

父が死に、ニューヨークのブロンクスで母と弟と暮らすユリシーズ(ルカ・カイン)。彼は体は男であったが、心は女だった。そんな彼は学校ではいじめに遭い、家では無理解に苦しんでいた。ある時、たまたま出会ったトランスジェンダーの人々と交流を持つようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

街並み、そして人間が息をしている。それはカメラが決してユリシーズの目線から離れないからである。といっても、これは主観ものではない。上空からのショットや、『 マトリックス 』のような360°回転のショットなどがないということである。映像作品としてその部分だけを切り取れば、非常にさびしい。しかし、ユリシーズというキャラクターを描写するのには良い選択であった。

父が死んだことで、母が仕事を増やさざるを得ず、子どものサポートを叔母に依頼する。この叔母さんは怖い。悪意を持っているから怖いのではなく、自らの考えの正統性を盲信しているから怖いのだ。オウム真理教以来、我々はカルトの恐ろしさをよく知っている。この叔母からはカルト的な臭いがプンプンするのである。『 愛と憎しみの伝説 』のマミー、ジョーン・クロフォードとは比べるべくもないが、このような人間というのは確かに存在する。そこにリアリティがある。

主演のルカは、中性的な顔つき、体つきでハマり役である。もちろん、メイクさんらの助力も得てのことである。トランスジェンダーというのは、同性愛よりも理解するのが難しいところがある。異性を好きになる気持ちが同性に向くだけだという意味では、同性愛は分かりやすい。しかし、自分の体と心がフィットしていないという感覚は理解できそうで、なかなか出来ない。服や靴や帽子が合わないのであれば取り換えれば済むが、自分の体となるとそうはいかない。Jovianや何人かの同級生は第二次性徴時にホルモンバランスが崩れたせいか、胸や乳首が痛くなった経験があるが、あのような痛みや違和感が常に付きまとう感じなのだろうか。ユリシーズというキャラクターの不安定さを歩き方や話し方、目線で表現できていたように感じた。特にハイヒールを履く場面は、よほど研究をしたに違いないと思わせる表現力を見せてくれた。

母親も良い。 Positive make figure を欠いたアメリカの一般的家庭は往々にして空中分解するか、それまでに母親が新しいパートナーを見つけるかするのだが、この母ちゃんは強い。女は弱し、されど母は強し。そういえば『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』で誓ったはずの母親孝行をまだ果たしていない・・・

 

ネガティブ・サイド

ミュージカルの要素は必要だったのだろうか。もっと日常的な部分の演出に力を入れて、この作品世界のリアリティをもっと追求する方向に舵を切っても良かったのではないだろうか。

また、ユリシーズのロマンスがあまりにも唐突過ぎた。確かに良い雰囲気を出してはいたけれど、いきなりお互いに「君なしでは生きていけない」などと、オリビア・ハッセー版の『 ロミオとジュリエット 』の如くあっという間に恋に落ちて、深夜のストリートで踊り合い、歌い合うのは、シネマテッィクではあるが、ドラマティックではない。片方はトランスジェンダー、もう片方はゲイというカップルの誕生を、もっと丁寧に作り込むべきだった。そこにこそドラマがある。また、残念ながらこのシーンではユリシーズ役のルカ・カインの歌唱力の弱さが際立ってしまう。非常に惜しいシーンになってしまっている。

またキャストの多くは黒人であるが、一人だけ出てくる東洋系の男が作品全体のノイズになっているように感じたのは、自分も東洋人の端くれだからだろうか。最後のユリシーズのドラァグクイーンとしてのデビューの描写も弱かった。ある意味、人生で初めて輝く舞台なのだから、それこそ観る者を耽溺させるような映像美で、自分が自分らしくあることの美しさを称揚するようなメッセージを発して欲しかったと願う。

ちなみに邦題の「愛を歌う場所」もノイズに分類してよいだろう。単純に『 サタデー・チャーチ 』で充分だったはずである。

 

総評

色々な意味で惜しい作品である。ただし、デイモン・カーダシス監督にはメッセージ性と芸術性のある作品を撮れる力があることが分かった。次作があれば、ぜひチェックしてみようと思う。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ミュージカル, ルカ・カイン, 監督:デイモン・カーダシス, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』 -テーマにもっとフォーカスすべし-

『 グリーンブック 』 -ロードムービーの佳作-

Posted on 2019年3月7日2020年1月3日 by cool-jupiter

グリーンブック 70点
2019年3月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ビゴ・モーテンセン マハーシャラ・アリ
監督:ピーター・ファレリー

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アカデミー賞受賞と聞けば、否が応にも期待は高まるが、たいていはそれが映画をダメにしてしまう。新作ゴジラ映画にも、あまり興奮しすぎないようにしなくては。本作は良作ではあるものの、昨年の『 スリー・ビルボード 』ほどのインパクトは感じなかった。

 

あらすじ

1960年代。ナイトクラブの用心棒、イタリア系白人のトニー・リップ(ビゴ・モーテンセン)は店の改装閉店のために別の職を探すことに。ひょんなことから、天才黒人ピアニストのドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の南部諸州へのツアーに運転手謙マネージャー的存在として付き添うことになる。何から何まで対照的な二人は、旅を通じて友情を育むようになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ドリーム 』とほぼ同時代を背景としている。つまり、それだけ人種差別の激しい時代だったということである。南北戦争の爪痕は当然の如く、南部の方に強く残っている。そんな南部に旅をしようというのだから、トニーならずとも「何じゃそりゃ」となる。皆が皆、ハリエット・タブマンになれるわけではないだろう(映画『 ハリエット 』の公開が待ち遠しい)。がさつで大飯食らいで腕っ節が自慢のトニーと、落ち着いた物腰で教養ある人物特有の語彙で話し、高い倫理観も備えたシャーリーの二人が、旅の中でどのように互いへの偏見をなくし、友情を育むのか。Jovianは本作を観て、差別の何たるかをあらためて思い知らされた気がした。

 

『 私はあなたのニグロではない 』で、有名大学教授が「無知な白人より教養ある黒人に親近感を覚える」と発言していたが、これは人種ではなく博識か否かで人を判断するという宣言である。人格ではなく知識で相手を判断するということである。実は、これと同様の構造がシャーリーと農場奴隷さながらの黒人労働者の間で成り立ちそうな瞬間がある。その時のシャーリーのいたたまれなさは必見である。差別される側であった自分の心に、差別の心があったことを自覚させられてしまうからである。劇中では色々と食べ物であったり音楽であったりと、黒人に対するステレオタイプがトニーの口から開陳されるが、個人的に最も強く心に焼きついたシーンは、農場の人たちを見つめるシャーリーの眼差しであった。

我々は差別の存在に慣れきっているのではないか。差別とは人種や出身地、性別、職業などに基づいて疎外することだという考えに浸り切っているのではないか。雨中で自分の心情を赤裸々に吐露するシャーリーに、Jovianはかつての韓国系カナダ人の言葉を思い出した。2歳の時に家族で韓国からカナダに移住した彼は、縁あって日本で職を得た。そんな彼から聞かされた言葉で最も印象に残っているものの一つが

“The saddest thing is to be discriminated against by your own people.”

( 一番悲しいことは、自分と同じ人間から差別されることだ )

彼は見た目は典型的な韓国人、東洋人である。しかし話す言語はカナダ英語、そのマインドも95%は西洋人、カナダ人のそれであった。そんな彼が韓国を旅行した時に悲しく感じたのが、同国人からの差別の眼差しということであった。Jovianが言わんとしていることは、韓国人が差別的であるということでは決してない。その点を誤解しないでもらいたい。差別とは、その人の属性ではないものを押しつけることだ。その結果として、相手が傷ついたとしたら、それは差別なのだ。

黒人を相手に「黒人である」と告げることが差別なのではない。黒人に「不潔である」という属性を勝手に付与するトニーに、我々は嫌悪感を催す。しかし、車の中というクローズド・サークル、すなわち外界からシャットアウトされた、ある意味では別世界で、二人は互いの人間性を見出していく。人間性とは、人間らしくあるということだ。人間が人間であるとは、思いやりを持つことだ。そのことはJovianだけが傑作だ名作だと騒いでいる『 第9地区 』で鮮やかに描かれていた。仲間を見つめ茫然自失する宇宙人こそが最も人間らしいキャラクターだったからだ。本作も、観ればなにがしかを感じうる作品である。

 

ネガティブ・サイド

スタインウェイのピアノを強調するのなら、他のピアノならどんな音がするのかを、後ではなく先に見せて欲しかった。同時に、音楽そのものをもっと味わえる構成にしてほしかったと思うのは、高望みをし過ぎだろうか。事前におんぼろピアノを独り侘びしく奏でるとどんな音が響くのかを観客に知らせておけば、終盤のギグがもっと映えたと思うのだが。

また、劇中でのトニーとシャーリーのとあるピンチを政治的な力で乗り切るシーンがあるのだが、このエピソードはノイズであるように感じた。

文字通りの意味での「象牙の塔」で暮らすドクター・シャーリーが求めていたであろう、ある人物との関係についてのその後も描かれていれば、なお良かったのだが。

 

総評

良い作品ではあるが、アカデミー賞の作品賞を受賞するほどだとは思わない。昨年の『 シェイプ・オブ・ウォーター 』でも感じたが、我々は本当に差別というものに慣れ切ってしまっていて、いつかそれをコンテンツ化して消費することに何の抵抗も感じないようになってしまうのではないか。そのような懸念も少しだけ感じてしまう作品である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ビゴ・モーテンセン, ヒューマンドラマ, マハーシャラ・アリ, 監督:ピーター・ファレリー, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 グリーンブック 』 -ロードムービーの佳作-

『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

Posted on 2019年3月6日2020年1月3日 by cool-jupiter

ダンガル きっと、つよくなる 80点
2019年2月27日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:アーミル・カーン ファーティマー・サナー ザイラー・ワシーム
監督:ニテーシュ・ティワーリー

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ダンガルというのはレスリングという意味のようだ。そしてアニマル浜口というのは比喩である。アーミル・カーン演じるマハヴィルは娘の教育と訓練に関してはアニマル浜口並みにクレイジーであると言えるが、その他の面では似ても似つかない。良いとか悪いとかではなく、あくまで比喩として彼の名前を挙げていることを了承されたい。

あらすじ

国の代表にまで上り詰めながら、夢を果たせなかったレスラーのマハヴィル(アーミル・カーン)は、まだ見ぬ息子にその夢を託したいと思うようになる。しかし、生まれてくれるのはギータ(ファーティマー・サナー)、バビータなど女の子ばかり。だが、マハヴィルは気付いた。彼女たちには並々ならぬレスリングの才能があることに。マハヴィルは村の皆からの嘲笑や偏見に負けることなく、娘たちを鍛え上げようとするが・・・

ポジティブ・サイド

まず、アミール・カーンの体作りに脱帽する。鈴木亮平からマシュー・マコノヒー、クリスチャン・ベールに至るまで、役者というのは役に合わせてある程度の体作りをするものである。しかし、アミール・カーンの磨き上げられた筋肉美を堪能できるのは冒頭の5分で終わりである。肉襦袢ではなく、自らの体で望んだカーンに敬意を表する。通常は、例えばロッキー映画恒例のトレーニングシーンのモンタージュを作るため、役者はハードなトレーニングを積む。『 ロッキー4 炎の友情 』でスタローンが垂直腹筋やドラゴンフラッグをしていたのは、その典型である。そうした意味での称賛はギータを演じたファーティマ-・サナーに向けられるべきであろう。アカデミーでトレーニングに励み、実戦に臨む彼女こそがロッキーである。カーンは数分(実際の撮影はもっと長かったはずだ)のシーンのために体を作り、その後は中年太りした体を作る。デ・ニーロのような役者は世界中にいるのである。

日本でレスリングと言えば、女子が花形である。吉田沙保里や伊調馨らの名前を知らない者はいないだろう。しかし舞台はインドである。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』で知らされたように、そして近年でも「このようなニュース」が報じられるように、女性の生理現象に対して根強い偏見が残る国なのである。そのような国の、さらに辺境の村で幼い娘たちにレスリングを仕込み、肉食をさせ(これに対する拒否反応は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも見られる)、男だらけの村のレスリング大会にエントリーもさせる。もちろん、娘たちは反抗するわけだが、『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』のようなほのぼのさなので、安心して見ていることができる。

本作はただのレスリング映画ではなく、家族の再生物語でもある。父と娘の精神的に健全な、そして不健全な別離、さらに親子の和解の物語でもある。そしてそれはギータとバビータの姉妹の成長物語でもあるのだ。父と袂を分かつ姉、父と共にあり続ける妹、彼女たちの対立と融和は、陳腐ではあるが、それゆえに見る者の胸を打つ。このあたりは『 チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話 』にも通じる。勝利と栄光への道程、それが泥臭いほどに放たれる輝きはより強くなる。

ネガティブ・サイド

クライマックスにおいて、恐るべき人間の悪意を見せつけられる。これは史実ではないのだろうが、物語をよりドラマチックにするものとして作用していなかった。『 きっと、うまくいく 』における学長には人間性が付与されていたが、本作のNASのコーチには嫌悪感しか抱けない。この演出は失敗であった。

これは『 100円の恋 』でも感じたことだが、格闘技の試合のフィニッシュ・シーンにデ・パルマ的なスローモーションは既にクリシェである。『 クリード 炎の宿敵 』の決着シーンにはスローモーションは使われなかった。もっと別の見せ方を追求できたはずである。

総評

弱点を抱えるものの、本作は傑作である。レスリングの知識や素養がなくても分かるように作られているし、それを実に自然に見せる役者たちの見えない努力に思いを馳せれば、称賛以外に何もできなくなる。やはりインド映画に外れはないようである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, ファーティマ-・サナー, 監督:ニテーシュ・ティワーリー, 配給会社:ギャガ, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 ダンガル きっと、つよくなる 』 -インド版アニマル浜口奮闘記-

『 天才作家の妻 40年目の真実 』 -邦題がアウトだが、観る価値はあり-

Posted on 2019年3月4日2020年1月3日 by cool-jupiter

天才作家の妻 40年目の真実 70点
2019年2月24日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:グレン・クローズ ジョナサン・プライス クリスチャン・スレイター
監督:ビョルン・ルンゲ

邦題が良くない。原題が“The Wife”なのだから、そのまま『 妻 』または『 作家の妻 』で良かった。40年目の真実というのも微妙な副題だ。40年間の真実というのが、より正しいのかもしれないが、この部分もそもそも蛇足なのだ。こうした微妙な邦題問題というのは、マーケティングのためには避けて通れない。それでも、稀に『 判決、ふたつの希望 』のような大傑作もあるのだから、Don’t judge a film by its title.

 

あらすじ

ジョセフ・キャッスルマン(ジョナサン・プライス)はノーベル文学賞を受賞することとなった。糟糠の妻、ジョーン(グレン・クローズ)と息子にして作家志望のデビッドと共にスウェーデンのストックホルムに向かう。しかし、そこにはジョセフの作品は別人の手によるものと訝しむ記者兼作家のナサニエル・ボーン(クリスチャン・スレイター)もおり・・・

 

ポジティブ・サイド

グレン・クローズによる渾身の演技。これに尽きる。元々、『 危険な情事 』から『 セブン・シスターズ 』まで、怖い女性を演じさせれば右に出る者はいない人だったが、本作では二重性、二面性のあるキャラクターを見事に演じ切った。女性が能力を認められない時代に、学問を学び、文芸作品を執筆することの労苦が、彼女ではなく別のキャラクターの口から語られるシーンがあるが、これは秀逸であった。似たような表現として、『 マネーボール 』でブラッド・ピット演じるビリー・ビーンがバットを放り投げるシーンがあったが、それと共通している。映画とは絵で魅せるものでもあるが、音で魅せるものでもあるのだ。

世界の名言、格言では結婚に関するものが特に多いが、それはおそらく結婚という制度の普遍性に比べて、夫婦の在り様というものが余りにも多様性に富んでいるからだろう。Jovian自身、以前に信販会社のセキュリティ関連部門勤めの頃に、財布ごとカードを紛失した女性の応対時に「ご主人の・・・」と言ったところで『この家の主人は私です!この人は私の稼ぎでカードを持ってるんです!』と相手を激怒させてしまったことがある。ことほど左様に、夫婦というのはステレオタイプどおりではないし、それを外から見分けることは難しい。職場では威厳を保っている男性が、家の中では妻に頭が上がらないという構図もステレオタイプではあるが、そんな人は多いはずだ。ジョセフとジョーンのカップルは、ノーベル文学賞の受賞決定を機に、成功した夫とそれを支える妻という典型的な枠に押し込まれるが、そうすることで初めてジョーンは自分という存在の形を知る。この見せ方も秀逸である。ジョセフに自分への謝辞を述べないように迫るジョーンの心情はいかばかりか。そして、ジョセフのスピーチを聞いた時のジョーンの反応に、あなたは何を思うだろうか。

Jovianは本作を妻と共に観たが、妻は感心することしきりであった。曰く、「いやあ、女性の心情をしっかり捉えられてるよ」とのことだった。『 プラダを着た悪魔 』のアンドレアとは対照的に、女性が何かを掴み取れることそのものを否定する時代や職業が存在したということに、妻は本気で憤っていた。

あまりここに妻の意見を書くと後でJovianが説教を食らってしまうのだが、本作が気になるという男性諸氏は、ぜひ奥様やパートナーと共に観よう。熟年離婚がトレンドから一般的な事象にまで成り下がり、日本全体でも離婚率が30%というこの時代に、本作は健全な夫婦喧嘩および人間の情念の深さとそれを上回るかのような慈愛も見せてくれる。『 追想 』にはサスペンスが不足していたが、本作はそこにサスペンスだけではなくミステリ、ロマンス、さらには父親殺し的なテーマまで加えてくれた。小説の映画化としてはこちらの方が面白いと感じた。

 

ネガティブ・サイド

もしかすると『 シン・ゴジラ 』を上回るかもしれない超高速会話劇である。そのことが下手なアクション映画のカーチェイスや銃撃戦よりも、よほど手に汗握る展開なのであるが、こちらの理解が少々追いつかないところや、唐突に始まり、唐突に終わる言い争いも少なからずある。このあたりは観る者によって評価がかなり割れそうだ。もしかすると『 レディ・バード 』以上の唐突会話劇であると見ることすら可能かもしれない。大学生以上でないと、この緊迫感は掴めないのではないだろうか。

個人的には息子の存在とそのサブ・プロットがノイズになっているように思えた。もちろん、彼の存在によって新たなドラマが生み出され、今あるドラマがよりドラマチックになるという作用もあるが、ジョーンという女性のキャラクターから母という要素を剥ぎ取ってもよかったのではないだろうか。そうすることによって、浮気大好きで、なおかつ嫉妬深い夫の心を「記者と何をやっていたんだ」とより強くかき乱すことができたのではないだろうか。老いたりといえども、女性としの色香をジョーンが残していることは、冒頭のベッドシーンでも明らかだったのだ。『エル ELLE 』のイザベル・ユペールが頑張れたのなら、グレン・クローズもまだまだやれる、というのは望み過ぎだろうか。

 

総評

ノーベル賞の舞台裏を垣間見ることができるという点で非常にユニークである。しかし、そのせいでジョスリン・ベル・バーネルのような素晴らしい科学者も、家庭ではどんな陰物なのだろうかと勘繰ってしまうようになるという副作用がある。元々、結婚などというのは乱暴極まりない制度なのである。夫婦という関係以上にサスペンスフルなものはこの世にはないのかもしれない。夫役のジョナサン・プライスも息の長い俳優。彼の出演作で最もサスペンスフルでミステリ要素もあるものとして『 摩天楼を夢みて 』がある。ケビン・スペイシーやアル・パチーノらの名優揃い踏みの佳作なので、サスペンスに興味のある向きは是非どうぞ。

 

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イギリス, グレン・クローズ, サスペンス, スウェーデン, 監督:ビョルン・ルンゲ, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 天才作家の妻 40年目の真実 』 -邦題がアウトだが、観る価値はあり-

『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

Posted on 2019年3月1日2019年12月23日 by cool-jupiter

母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 65点
2019年2月24日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:安田顕 倍賞美津子 松下奈緒 村上淳 石橋蓮司
監督:大森立嗣

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タイトルだけで物語が全て語られている。元はエッセイ漫画だったようだが、そちらは未見である。しかし、それが特別な物語でも何でもなく、男が普遍的に持ついつまで経っても子どもの部分を健全に誇張もしくはデフォルメした話であることは直感的に分かる。

 

あらすじ

宮川サトシ(安田顕)は中学生にして急性白血病を患ってしまった。母の明子(倍賞美津子)の必死の看病の甲斐もあって、サトシは回復。時は流れ、サトシは塾講師として慎ましやかに父・利明(石橋蓮司)と母と暮らしていた。しかし、母が癌で倒れてしまう。サトシはあらゆる手を尽くして母の回復を祈願するが・・・

 

ポジティブ・サイド

安田顕がまたしてもハマり役だった。『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』に続いて、高身長女性とペアになるのだが、それが妙に似合うのだ。サトシは塾講師として教務と教室運営をしているのだが、どういうわけか真里(松下奈緒)という超絶美人と付き合うようになる。この映画が、地方移住を時々真面目に語る5chの「 塾講夜話 」スレッドの住人達に希望を抱かせないことを祈りたい。その真里は、マザコンの性根を丸出しにするサトシを支え、明子にも献身的に寄り添い、宮川家の夕餉にも赴き、談笑する。はっきりいって完璧すぎるのだが、真里が最も輝くのはサトシを叱りとばす場面である。我々男は母親に注意されたり、小言を言われたり、世話を焼かれたりするだけでも、どういうわけか無性に腹が立つ。それは母の愛は無条件かつ無償で得られる物だという錯覚または傲慢さから来ているのではあるまいか。その愛が失われるという事態に直面して、サトシは母を失うまいと百度参りから滝行まで、あらゆる手を尽くす。それは見ていて非常に痛々しい。なぜなら、効果が無いと分かっていても、自分でもおそらく同じようなことをしてしまうからだ。そのように感じる男性諸氏は多いだろう。母の愛は偉大であるなどと無責任に称揚しようとは思わない。しかし、母の愛に息子はどう応えるべきなのかについて、本作は非常に重要な示唆をしてくれる。中学生以上なら充分に理解ができるはずだ。それも直観的に。

 

本作は、よくよく見ればとても陳腐である。日本のどこかで毎日、これと同じようなことが起きている。しかし、それがリアリティにつながっている。冒頭でサトシが棺桶の中の母に語りかけるシーンなどは、まさにJovianの父が、Jovianの祖母の葬式前夜に行っていた所作とそっくりであった。多分、自分もああなるのだろうなと理屈抜きに納得させられてしまった。

 

サトシの兄は最後の最後に良い仕事をしてくれる。母の病室にそっけなく貼られている「おばあちゃん」の絵に、我々はサトシの甥っ子または姪っ子の存在を知るわけだが、この物語はどこまでもサトシと母、父、真里の閉じた世界で進行していく。しかし、兄の祐一の登場によってそんなものはすべて吹っ飛ぶ。『 洗骨 』でも述べた、「日本語は海の中に母があり、フランス語では母の中に海がある」という言葉を我々はまたもや想起する。Jovianは自分のことをサトシ型の人間であると感じたが、自分を祐一型の人間であると感じる人も多くいることだろう。それは感性であったり環境であったりで決まるわけだが、このような兄弟関係、家族関係は実に微笑ましい。家族は離散を運命づけられているということを『 焼肉ドラゴン 』に見た。しかし、無条件に再会そして再開できるのも家族ならではなのである。本作鑑賞を機に、母親にちょっと電話してみたという男性諸賢は多かろう。それが本作の力である。

 

ネガティブ・サイド

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の南沙良の鼻水タラーリは映画ファンに衝撃を与えたが、安田顕も負けてはいない。だが、本作は少しお涙ちょうだい物語に寄り過ぎている。観る者に「衝動的な泣き」よりも「受動的な泣き」をもたらす作りは、ただでさえ題材がチープなのだから避けるべきだった。『 日日是好日 』では、日常の平穏と死のコントラストが際立っていたが、それは何よりも一期一会、つまり出会いの一つ一つ、経験の一つ一つが、何一つとして同じではないという思想が溢れていたからだ。典子が父からの電話に出なかったことを悔やむシーンがあったからだ。サトシも母からの電話を疎ましく思うシーンがあるが、遠方に住む典子とは違い、サトシは両親と同居している。そのことが、いつか必ず来る母との別離のドラマを少し弱くしている。

 

上映時間は108分だが、編集によってもう8分は削れたようにも思う。特に坂道と自転車のシーンは不要であるように感じた。ロッキーをパロったシーンは笑えたが、それも映画のトーンと少しケンカしていた。サトシのある意味での変わらない幼児性を表したものかもしれないが、それは他のシーンで充分に伝わって来る。

 

これは個人の主観または嗜好に依るところ大なのだが、最後の晩餐論争は陳腐を通り越してくだらなく感じた。理由は観た人ならお分かり頂けよう。何故なら「うちのが一番に決まっている!」からである。これは冒頭の梅干し論のところにも当てはまるもので、もし祖母なり母なり、場合によっては父が漬物や総菜を作ってくれていたなら、一番美味しいのはそれに決まっている。おふくろの味が最強である。You are programmed to want the taste of home cooking. それが真理である。最後の晩餐論争は、キャラクターから距離を取れる人でないと、その面白さが伝わらない。非常に良いシークエンスなのだが、諸刃の剣になってしまっているように思えた。

 

総評

男というのはつくづく不器用な生き物だと思う。我々はもしかすると何から何まで母や妻に負わなければ生きていけないのではないか。しかし、それでも良いのかもしれない。母なる海に抱かれるとは使い古された表現だが、だからこそ、そこには真実があるのだろう。そういえば日付が変わって昨日がおふくろの誕生日だった。罰あたりな息子ですまん。今週末にはご飯に誘おう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 倍賞美津子, 安田顕, 日本, 村上淳, 松下奈緒, 監督:大森立嗣, 石橋蓮司, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』 -男はみんなマザコンだ-

『 アリータ バトル・エンジェル 』 -2Dでも3D的ビジュアル効果!-

Posted on 2019年2月27日2019年12月23日 by cool-jupiter

アリータ バトル・エンジェル 80点
2019年2月23日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ローサ・サラザール クリストフ・ワルツ マハーシャラ・アリ エド・スクレイン
監督:ロバート・ロドリゲス

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日本のSF漫画でスクリーン映えするだろうものは、『 AKIRA 』、『 BLAME! 』、『 攻殻機動隊 』だと思っていた。皆、映像化された。そこへ満を持して『 銃夢 』である。日本の漫画界最後の戦闘美少女である。期待せずにいらりょうか。Don’t get your hopes up because that’ll spoil a movie! そんなことは分かっていても、やはり期待する。そして、その期待は裏切られなかった。

あらすじ

時は26世紀。火星連邦共和国との“没落戦争”が終結して300年。唯一残った空中都市ザレムと、その直下のアイアンタウン。ある日、Dr.イド(クリストフ・ワルツ)がザレムから落とされるスクラップを漁っていたところ、脳と心臓がまだ生きているサイボーグの頭と胴体を見つけてしまう。新たなボディを与えられた“彼女”は記憶を失っていたが、アリータを名付けられ、徐々にアイアンタウンに馴染んでいく。しかし、ある時、殺人事件が発生し、さらにイドの様子に不審なところがあり・・・

 

ポジティブ・サイド

ガリィではなくアリータだが、いきなりアリータでも良いだろう。ファイナルファンタジーⅥのティナも、英語版ではTerraになっていた。そして、ここでも20th Century Foxのロゴがオープニングから一気に映画の世界に我々を引きずり込んでくれる。ゆめゆめ見過ごすことなきよう。こうした『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』から続く、ロゴいじりは是非とも続けて欲しいトレンドである。

 

本編について何よりも驚かされたのが、2Dで鑑賞したにもかかわらず、3Dを見たかのような印象が強く残ったことである。また、トレイラーの段階では、アリータの目の異様な大きさに、いわゆる「不気味の谷」現象を感じていたが、本編が進むにつれ、アリータに不自然さを感じなくなり、ある時点からは可愛らしいとさえ感じるようになった。製作指揮のジェームズ・キャメロンは、『 エイリアン2 』や『 ターミネーター 』シリーズ、そして『 アバター 』など、人と人なるざる者との関係を描かせれば天下一である。その彼の芸術的な感性と、マチェーテ映画を手掛けてきたオタク監督(と見なして差し支えないだろう)のロバート・ロドリゲスの感性が見事にマッチして生み出されたアリータは、モーション・キャプチャ-とアニメと実写の幸福なマリアージュである。

 

それにしても最近の技術の進歩は凄まじい。『 アントマン&ワスプ 』におけるマイケル・ダグラスやミシェル・ファイファー、『 アクアマン 』におけるウィレム・デフォーなど、デジタル・ディエイジング技術の進化とその応用が著しい。ターミネーターの新作でもシュワちゃんおよびリンダ・ハミルトンが若返るのだろうか。しかし、モーション・キャプチャ-によるフルCGキャラクターというのは、『 シン・ゴジラ 』のゴジラ、『 スター・ウォーズ/フォースの覚醒 』および『 スター・ウォーズ/最後のジェダイ 』のマズ・カナタがいるが、これらは人間ではなくクリーチャー。そして、アリータは人間ではないがクリーチャーではない。サイボーグである。そこに最先端CGを施すことで、これほど「生きた」キャラクターが生み出されるということに感動すら覚えた。『 ゴースト・イン・ザ・シェル  』の草薙素子がスカーレット・ジョハンソンによって演じられたことが一部(主に日本国外)で典型的なホワイトウォッシュだとして問題視されたが、5年後には少佐がこの技術を使って再登場してくるかもしれない。それほどのポテンシャルを、アリータというキャラのCGの美麗さとリアルさから感じた。

 

戦闘シーンおよびモーターボールのシーンは圧倒的な迫力と説得力である。しかし、それよりも光るのはアリータが、いわゆる戦闘美少女として覚醒する前に、アイアンタウンでオレンジを食べるところであろうか。これは『 ワンダーウーマン 』がアイスクリームの美味しさに感動し、『 アクアマン 』でメラが花をむしゃむしゃとやったように、これだけでアリータの可愛らしさを描き切ってしまった。人が萌え(死語なのだろうか?)を感じるのは、そこにギャップがあるからなのだ。続編も期待できそうだ。いや、絶対に製作されねばならない。

 

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ネガティブ・サイド

ヒューゴがアリータを300年前の没落戦争の遺物であることを知った明確な描写は無かったはず。にもかかわらず、何故そのことをナチュラルに知っているかのような流れになっていたのだろう。ちょっとした編集ミスなのか?それとも何か見落とすか聞き逃すかしたのだろうか(そんなことはない筈だが・・・)。

 

人間が機械の身体を持つことに抵抗を感じない世界というのは、『 銀河鉄道999 』を読んできた我々には分かる。しかし、2019年という今の時代、AIが社会の様々な場面で実用化されつつあり、またロボティックスも長足の進歩を遂げつつあるこの時代と、アリータの時代をつなぐ描写がほんの少しで良いので欲しかった。

 

総評

近いうちに、3DまたはIMAXでもう一度鑑賞したい。MX4Dや4DXも、吹替えではなく字幕なら、是非トライしてみたい。『 シドニアの騎士 』の映画化も見えてきたかと、映画を観終わって、感想よりも次の鑑賞や更なる別作品の映画化を夢想するなど、これほど浮き浮きしたのは久しぶりである。早くこのバトル・エンジェルと再会したい!

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, SF, アクション, アメリカ, エド・スクレイン, クリストフ・ワルツ, マハーシャラ・アリ, ローラ・サラザール, 監督:ロバート・ロドリゲス, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『 アリータ バトル・エンジェル 』 -2Dでも3D的ビジュアル効果!-

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