Skip to content

英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

  • Contact
  • Privacy Policy
  • 自己紹介 / About me

タグ: 2010年代

『 ブラック・クランズマン 』 -事実は小説よりも奇なり-

Posted on 2019年4月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

ブラック・クランズマン 70点
2019年3月31日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジョン・デビッド・ワシントン アダム・ドライバー
監督:スパイク・リー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190403014911j:plain

原題はBlacKkKlansman、黒人のKKKメンバー男性の意である。冒頭からいきなり『 風と共に去りぬ 』のワンシーンが流される。あのスパイク・リーがスカーレット・オハラを好意的に見ているとは思えないので、これには何らかの意図があるのは間違いない。このシーンをEstablishing Shotとして見るならば、プロットは白人優越世界の終焉を予感させるものであろう。だが、スパイク・リーはそんな単純な人物では全くなかった。

あらすじ

時は1970年代。ベトナム戦争への厭戦気分が反戦運動に変わりつつあるアメリカ。コロラド州コロラドスプリングスで初めて黒人警官として採用されたロン・ストールワース(ジョン・デビッド・ワシントン)は、ある時、勢い余ってKKKに突撃電話。トントン拍子に話は進み、KKKメンバーと会うことに。しかし、彼は黒人。そこで同僚のフリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)が対面に赴くことに。電話でロン、対面はフリップという、前代未聞の二人一役潜入捜査が始まり・・・

ポジティブ・サイド

『 ゲット・アウト 』監督のジョーダン・ピールが製作として参加していることで、ユーモアとサスペンスがハイレベルで融合した佳作に仕上がっている。主演を努めたジョン・デビッド・ワシントンがとにかく面白い。笑える。黒人差別丸出しの同僚警察官に対する怒りのシャドーボクシングというかシャドー空手がとにかくコミカルだ。なるほど、これはシリアス一辺倒の映画ではありませんよ、とスパイク・リーは冒頭のワンシーンとの対比で観客に告げているわけだ。実際にジョン・デビッド・ワシントンの電話シーンはハチャメチャな面白さである。何しろ、ノリと勢いだけで黒人警官がKKKに電話をして、見ているこちらの心臓が鷲掴みにされるぐらいドキッとする差別的言辞を弄して、相手の懐に飛び込むのである。差別を笑いに転化するのは不謹慎かもしれない。しかし、『 翔んで埼玉 』でも明らかになったように、差別とは本人のものではない属性を本人の意に反して押し付けるものである、今作では被差別対象である黒人自身が黒人をクソミソにけなしまくるのがとにかくとにかく痛快なのである。

だが、本作は決してコメディ一辺倒なのではない。差別の醜悪さを描き出す実話を基にしたサスペンス映画であり、警察バディムービーであり、ヒューマンドラマでもある。むしろヒューマンドラマでしかない、とさえ言えるかもしれない。黒人のロン、ユダヤ系のフリップの二人は共にKKKからすれば排除、攻撃の対象である。敵の敵は味方などという単純な人間関係はそこにはない。ロンとフリップの間に思わぬ形で友情が花開いたりすることはなく、二人はどこまでも警察官という一点でつながる。おそらく人間同士が関係を築くのは、それだけで充分なのではないだろうか。互いが互いの仕事をリスペクトする。それだけで争いや諍いは相当に減らせるはずなのだ。

ともするとコメディになりがちなジョン・デビッド・ワシントンとはある意味で大局的なアダム・ドライバーは、警察であることやユダヤ系であることが露見しそうになるたびに、汚い差別意識丸出しの言辞を弄して、状況をサバイブしていく。とある絶体絶命に思えたシーンを切り抜けるため、彼がロンに向かって実弾を発砲するのだが、その時の口調と表情!鬼気迫る演技と言おうか、イラクにも実際に赴いた軍人上がりにこそ出せる味があった。善のルーツを持つ悪のプリンス、カイロ・レンを演じるにふさわしい役者であることをあらためて満天下に示したと言えるだろう。

本作は、最後の最後に衝撃的な絵を持ってくる。これを蛇足と見るか、これこそがスパイク・リーの本当に見せたいものなのだと見るかで、本作の評価はガラリと変わる。Jovianはこれこそがスパイク・リーの問題意識なのであると受け取った。ストーリー自体は、ゴキゲンな黒人警官がアホな差別主義者の白人の横っ面を見事に張り倒すというものなのだが、スパイク・リーの意図するものは、『 評決のとき 』におけるマシュー・マコノヒーの弁論と同質のものであろう。非常に痛切に考えさせられる映画である。

ネガティブ・サイド

Based on a true storyやInspired by a true event系の映画は近年、大量生産されてきた。粗製乱造とまでは言わないが、さすがにそろそろ食傷気味である。この手の差別の恐ろしさ、その知性と思考能力の欠落具合は『 私はあなたのニグロではない 』、『 デトロイト 』、『 ジャンゴ 繋がれざる者 』、『 ビールストリートの恋人たち 』、『 グリーンブック 』などでもう十二分に描かれてきた。KKKを告発したいのではなく、人々が心の中に頑強に持つ固定観念、硬直した思考を討ちたいのだろう。スパイク・リーほどの映画人であれば、自分でオリジナルの物語を紡げるはずだし、紡ぎ出さなければならない。

総評

ポール・ウォルター・ハウザー演じるKKKメンバーは『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』でも陰謀論全開にして、思考能力ゼロ、コミュニケーション能力ゼロ、批判精神ゼロという頭の悪すぎる男を演じていたが、これを他山の石とせねばならない。宗教団体を支持母体とする政党や、カルト的な思想信条を隠そうともしない団体からの指示を受ける与党、そして不健全な思考の右翼化を見せる高齢世代。そうした者たちの背後に透けて見えるのは、全て同質のものなのだ。それはちくま新書『 私塾のすすめ: ここから創造が生まれる 』で梅田望夫と齋藤孝が共通して闘う敵と同じものである。ゆめゆめ他国の過去の出来事と思うことなかれ。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, コメディ, ジョン・デビッド・ワシントン, ヒューマンドラマ, 監督:スパイク・リー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ブラック・クランズマン 』 -事実は小説よりも奇なり-

『 ビリーブ 未来への大逆転 』 -法廷ものとしてのカタルシスが弱い-

Posted on 2019年4月1日2020年2月2日 by cool-jupiter

ビリーブ 未来への大逆転 60点
2019年3月30日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:フェリシティ・ジョーンズ アーミー・ハマー
監督:ミミ・レダー

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190401011302j:plain

同僚のアメリカ人2名(日本在住歴10年以上)に尋ねてみた。ルース・ギンズバーグは知っているか、と。答えは否であった。グロリア・スタイネムは知っているかとの問いの答えは、然りであった。ということはアメリカ史の、少なくとも一般的な知名度はそれほど高くない人物=hidden figureの物語ということで、『 ドリーム 』のような傑作かもしれないとの期待を胸に劇場へ赴いた。あらためて心するとしよう。 The worst thing you can do for a movie is to hype it up too much.

あらすじ

ルース・ギンズバーグ(フェリシティ・ジョーンズ)はハーバード法科大学院を首席で卒業するほどの能力を持ちながらも、女性であるというだけで法律事務所で職を得ることができずにいた。やむなく大学で法学の教鞭を取るも、弁護士への夢は諦めきれなかった。そんな時、夫マーティ(アーミー・ハマー)から、興味深い事例を詳細され・・・

ポジティブ・サイド

彼女の経歴を軽く調べてみた。と言っても、wikipediaの英語ページをザーッと流し読みしただけだが。そして驚いた。正に立志伝中の人物ではないか。アメリカでは州によって運転免許を取得できたり喫煙できたりする年齢が違うことがあるが、飲酒可能な年齢が男女によって異なるという法律を覆したりしているではないか。翻ってこの極東の島国では男女の別で結婚可能な年齢が異なっている。まあ、お国もようやくこの法改正に乗り出してはいるようだが、“On the basis of sex”によって決まっている無条件の男女差別はこの社会の至るところに存在している。例えば、Jovianの嫁さんの会社では、人事部長が入社式に「女性にはあまり長く働いていただこうとは思っていませんので・・・」などと言ってしまうのである。これが21世紀の話、平成の話なのである。本作は1950年代~1970年代にかけてのアメリカ社会を描いているが、この時代のアメリカの世相や社会背景が日本(のみならず多くの国)に当てはまることに驚かされる。

本作監督のミミ・レダーは映画『 ディープ・インパクト 』やテレビドラマ『 ER緊急救命室 』で、プロフェッショナリズムとヒューマニズムの両方にバランスよくフォーカスするその手腕は既に証明されている。本作の描くプロフェッショナリズムは、弁護士というトラブルシューターの仕事の難しさであり、法律という国家が国民に望む姿を明文化したものへの向き合い方であり、ヒトが人として生きることの難しさ及び尊さである。同時にヒューマニズムとは、他者を自分と同じように生きている存在として認めることである。だが、それは決して他者と自分を同一視することではない。それは時におせっかいであり、迷惑ですらありうる。劇中のルースは、依頼人や娘を自分と同一視してしまい、客観性を欠く言動を呈してしまうことがあるのだが、周囲からの厳しくも温かい支援や気付きの促しにより、彼女自身が変化し成長していく様を我々は見ることになる。それはある意味では、本筋である法廷ドラマよりも面白い。時代だ社会だとあれこれ考察するよりも、一個の人間の成長を自分に重ね合わせてみる方が、より健全な映画の楽しみ方であろう。

フェリシティ・ジョーンズおよびアーミー・ハマーの演技は素晴らしい。特にアーミー・ハマーの父親っぷりは見事である。娘に対して母の愛を語りかける姿は、まさに人生におけるpositive male figureである。こうした父親像は、洋の東西を問わず見習わねばならない。フェリシティも良い。『 博士と彼女のセオリー 』で、勤勉な学生、献身的な妻、懸命な母、そして背徳的な女性という重厚な演技を見せたが、様々な顔を持つ一個人を本作でも見事に演じ切った。

ネガティブ・サイド

RGBの周囲以外の男の、このあまりにもステレオティピカルな描かれ方はどうだ。Jovianは同じ男として、男は基本的に賢いアホで、自尊心が高く、それでいて心の奥底には妻や母に対する恐れの感情があることを知っている。それはおそらく人類の歴史において、普遍的な男の心理の真理である。しかし、そうした男の一面がほとんど描かれることが無かったのは何故なのか。それがミミ・レダーの問題意識であるというのか。本作は女性差別を乗り越えるストーリーではなく、性差別を乗り越えるストーリーではないのか。出てくる男が悉くと言っていいほど、醜悪で単細胞で矮小なのは何故なのか。このあたりのバランス感覚が欲しかった。

ルースの弁護士としての成長をもう少し丁寧に描いても良かったのではないか。模擬法廷で堪忍袋の緒が切れてしまうようでは先が思いやられるが、そこで絶妙な助け舟を出すのが夫のマーティである。彼とのチームワークというか、ケミストリーをもっと追求して欲しかった。

クライマックスもやや弱い。大逆転というよりも大転換という感じである。アメリカ独立戦争時、トーマス・ジェファソンは“All men are created equal”という一文をものした。この考え方自体が女性を排除しているものと見られても仕方がないが、ルースはそこを指摘するのではなく、極めてアメリカ的な思考の陥穽を突く。これが分かりにくい。アメリカ人にはよく分かるのだろう。アメリカの選挙では候補者がしばしば“I love freedom! Let’s make more freedom! We should make more freedom!”という、意味がありそうでなさそうな言辞を弄すると聞く。ドラマのニュースルームのシーズン1冒頭がここでも思い出される。“Can you say why America is the greatest country in the world?”という問いへの一つの答えが“Freedom and freedom”なのである。ルースはこの点を刺すが、これはアメリカ人以外にはなかなかピンと来ないだろう。Jovian自身も最初はキョトンとなってしまった。邦題で大逆転を謳いながらも、大逆転であると感じにくい。それが本作の最大の弱点になってしまっている。そこが誠に惜しいと感じられるのである。

総評

法廷ものとしては『 判決、ふたつの希望 』には負ける。佳作であるが、女性をエンパワーする映画としては『 エリン・ブロコビッチ 』や『 ドリーム 』、『 未来を花束にして 』、『 女神の見えざる手 』の方が一枚上手である。しかし、フェリシティ・ジョーンズの多面的かつ重層的な演技は劇場鑑賞に値すると言える。

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アーミー・ハマー, アメリカ, ヒューマンドラマ, フェリシティ・ジョーンズ, 監督:ミミ・レダー, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ビリーブ 未来への大逆転 』 -法廷ものとしてのカタルシスが弱い-

『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

Posted on 2019年3月31日2020年3月23日 by cool-jupiter

サッドヒルを掘り返せ 80点
2019年3月28日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:セルジオ・レオーネ エンニオ・モリコーネ クリント・イーストウッド
監督:ギレルモ・デ・オリベイラ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190331013515j:plain

ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアを追い求めて、ついに発見したシュリーマンの気持ちとはこのようなものだったのだろうか。それほどの圧倒的な感動をもたらすドキュメンタリー映画である。本作は映画という芸術媒体の持つ力、その物語性、神話性を追究しようとした野心作でもある。

あらすじ

『 続・夕陽のガンマン 』のクライマックスの決闘の場面となったサッドヒル墓地。撮影から50年になんなんとする時、地元スペインの有志がサッドヒル墓地の復元に乗り出した。彼らはやがてSocial Mediaを通じて、世界中からボランティアを募る。そしてサッドヒルを復元させ、そこでの『 続・夕陽のガンマン 』の上映会を企画する・・・

ポジティブ・サイド

映画製作にまつわるドキュメンタリー映画には、『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』がある。スター・ウォーズ製作者のジョージ・ルーカスとファンの対立、意見の相違に焦点を当てた傑作である。また『 すばらしき映画音楽たち 』も忘れてはならない。ジョン・ウィリアムズやハンス・ジマーといった錚々たる映画音楽家から近現代ロックスターと映画音楽の関わりまでもを描く大作だった。本作もこのような優れた先行ドキュメンタリー作品と同じく、様々な関係者や当事者の声を丁寧に拾い上げ、映画製作の裏のあれやこれやを観る者に教えてくれる。だが、この『 サッドヒルを掘り返せ 』がその他の映画製作ドキュメンタリーと一線を画すのは、ファン達が『 続・夕陽のガンマン 』を神話に類するものとして扱うところである。というと、「スター・ウォーズも充分に神話じゃないか」という声が聞こえてきそうだが、Jovianの意見ではスター・ウォースは「おとぎ話」である。おとぎ話は、当時および各地の社会・文化的な要請から民話に超自然的な要素が加えられたものだと理解してもらえればよい。もしくは、スター・ウォーズは昔話である、もしくはジョージ・ルーカスを作者にした童話と言っても良い。子育て経験のある人なら分かるだろう。子どもは同じ話を繰り返し繰り返し聞くのが好きなのだ。「おじいさんは川へ洗濯に・・・」と言えば、たいていの子どもは不機嫌になって訂正してくる。児童心理学にまで切り込む余裕はないが、新旧スター・ウォーズのファンの対立、旧世代のファンとジョージ・ルーカスの対立の背景にあるのは、童話や昔話への子どものリアクションと本質的には同じなのである。

しかし、本作のファンは子どもではない。彼ら彼女は皆、一人ひとりが、伝説になってしまった物語に確かに描かれた舞台装置を探し求めるという点において、シュリーマンなのだ。スペインの荒野にひっそりと佇立する無数の墓標。それらを復元することに血道を上げることに何の意味があるのか。意味などない。ただただ、その世界に触れたい。その世界に浸りたい。自分という存在を確かに形作ってくれたものを自分でも形作りたい。それは生命の在り方と不思議なフラクタルを為す。『 続・夕陽のガンマン 』は、そのストーリーやキャラクター、映像美やその音楽の圧倒的なインパクト故に、何かを足したり、もしくは引いたりする必要が一切ない。それは神話である。ディズニーが、機は熟したとばかりに、次から次へと昔話やおとぎ話を実写映画化しているが、そこには必ずと言っていいほど現代的な読み変えが行われている。それは『 くるみ割り人形と秘密の王国 』でも指摘したようなフェミニスト・セオリーであることが多い。物語をその都度、作り変えていくのはディズニーだけではない。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行ったことがある人もない人も、ユニバーサル・スタジオは元々はフランケンシュタインの怪物やドラキュラ、狼男、透明人間などのおとぎ話や昔話を現代風に作り変えてきたということは知っているだろう。USJはゴジラやドラクエやモンハンまで取り込んで、最早何が何だか分からないテーマパークになっている。ディズニーもテーマパークを持っている。しかし、本作に登場する市井の人々はサッドヒルのテーマパーク化を一切望まない。それは繰り返すが『 続・夕陽のガンマン 』が神話だからである。キリスト教徒が創世記を書き変えたいと思うだろうか。作中で、ブロンディ(および『 荒野の用心棒 』のジョーと『 夕陽のガンマン 』のモンコ)の身に着けていたポンチョが、トリノの聖骸布=The Shroud of Turinの如く扱われているというエピソードも、このことを裏付けている。この信仰にも近い彼ら彼女らの純粋な想い故に、スペインの大地に神が舞い降りる瞬間のエクスタシーは筆舌に尽くしがたいものがある。Jovianは、「人生で最高の10分間だった」と振り返るシーン、神が降臨するシーン、そしてエンドクレジットでそれぞれ大粒の涙を流してしまった。何がこれほど人の心を揺さぶるのか。それを是非、劇場でお確かめ頂きたいと思う。

ネガティブ・サイド

『 続・夕陽のガンマン 』の一瞬一瞬を切り取るだけで絵になるのだから、変に静止画をいじくって動かしたりする必要は無かった。

また、セルジオ・レオーネやエンニオ・モリコーネのインタビュー映像があるにもかかわらず、イーライ・ウォラックやリー・ヴァン・クリーフのそれが無いのは何故だ。無いはずがないだろう。それとも編集で泣く泣く削ったとでも言うのか。とうてい承服しがたいことだ。

総評

異色のドキュメンタリーである。インディ・ジョーンズに憧れて鞭を振るったり、ジェダイに憧れてチャンバラに興じるのではなく、ただただ墓地を復元したいという人々の物語が何故これほど観る者の心を激しく揺さぶるのか。きっとそれが生きるということだからだろう。Ars longa, vita brevis. 芸術は長く人生は短い。Art is never finished, only abandoned. レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉とされる。けれど、もしもうち捨てられた芸術の復活に関わることができれば、神話を追体験できるのだ。そのような人々の生き様をその目に焼き付けることができる映画ファンは、きっと果報者である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190331013537j:plain

 

Posted in 映画, 海外Tagged :ギレルモ・デ・オリベイラ, 2010年代, A Rank, エンニオ・モリコーネ, クリント・イーストウッド, スペイン, セルジオ・レオーネ, ドキュメンタリー, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『 サッドヒルを掘り返せ 』 -神話に迫る感動的ドキュメンタリー-

『 バンブルビー 』 -本家よりも面白いスピンオフ-

Posted on 2019年3月28日2020年1月9日 by cool-jupiter

バンブルビー 65点
2019年3月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ヘイリー・スタインフェルド ジョン・シナ
監督:トラヴィス・ナイト

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190328141635j:plain

本家本元は『 トランスフォーマー 』、『 トランスフォーマー リベンジ 』、『 トランスフォーマー ダークサイド・ムーン 』の3つだけ観た。観れば観るほど面白さを失っていく作りで、マイケル・ベイにはいささか失望させられた。最後の2作はスルーさせてもらっている。しかし、Jovianが推しているヘイリー・スタインフェルドが主演とあらば、観ないわけにはいかない。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190328141727g:plain

あらすじ

時は1980年代。父の死を乗り越えられない孤独な少女チャーリー(ヘイリー・スタインフェルド)は、リペアショップから黄色のビートルを譲り受ける。しかし、それはサイバトロンの戦士B-127が姿を変えたものだった。チャーリーは記憶と声を失った戦士をバンブルビーと名付けた。種を超えた友情を育む二人。しかし、そこにディセプティコン達が現れ、チャーリーとバンブルビーは否応なく戦いに巻き込まれていく・・・

ポジティブ・サイド

トランスフォーマー映画の大きな弱点の一つに、巨大ロボットたちの肉弾戦に説得力がないことだった。金属生命体同士の激突に、質量が感じられないことが個人的には一番の不満だった。スケールは全く違うが、『 シン・ゴジラ 』でJovianが最も好きなシーンの一つは、第四形態ゴジラが踏みしめた脚を上げただけで、家屋がバラバラになって空中を舞うシーン。おそらく時間にして2秒ほどだが、これでシン・ゴジラの実在性、迫真性が大いに増した。ちなみに、そうした細かな描写がほとんどなく、怪物同士が激突するだけのCGI shit festに『 パシフィック・リム 』がある。トレーラーにもあり、本編でもかなり笑えるシーンの一つとして、バンブルビーがチャーリーの家のソファに座って、それを壊してしまうシーンがある。彼のお茶目さを表すとともに、ボットの質量を表現する重要なシーンでもあった。

バンブルビーというキャラの魅力付けにもぬかりは無い。声を無くした彼が、コミュニケーション手段としての音声を手に入れるシークエンスは、非常にノスタルジックだ。カセットテープにレコードと、昭和の終わりから平成の初めの頃を思い出す。80年代のヒットチューンも満載で、一定以上の年齢層には刺さるだろう。バンブルビーがビートルの姿で疾走するエキサイティングなシーンから、非常にコミカルなシーンまであり、彼が単なる金属生命体ではなく、使命感と責任感のある戦士であり、それ以上に非常に心優しい人間味のあるキャラクターであることが如実に伝わってくる。ガレージで微妙に絶妙にノリノリになっているバンブルビー、嫌なものは嫌だと断固拒絶するバンブルビーを、我々はどうしたって愛さずにはいられない。

バンブルビーが魅力あるキャラクターに仕上がったのは、チャーリー演じるヘイリー・スタインフェルドの演技に依るところも大きい。こじらせ女子を演じさせれば右に出る者が無いないのは『 スウィート17モンスター 』で証明済みだ。そうそう、スティーヴィー・ニックスの楽曲は本作でも聞こえてくる。おそらくヘイリーのfavorite singerなのだろう。お父さんっ子であり、元高飛び込み選手であり、遊園地の売店のパートタイマーであり、メカニックの卵でもある。単に孤独な少女なのではなく、生き場をなくし、それでも生き場を求める少女が、それをオートリペアショップの古ぼけたビートルに見出す様、そしてバンブルビーの名付け親になり、ある意味での育ての親になり、無二の親友になり、戦友になっていく様はビルドゥングスロマンである。今も昔もメカやコンピュータにのめり込むのは男の子だったが、それを女の子にするだけでドラマが明るくなるし、よりカラフルになる。

ジョン・シナはプロレスラーとしては同時期のカート・アングルやJBLに遥かに劣った。しかし、演技に関してはストンコやバティスタよりも上かもしれない。ただ、軍人以外のキャラを見ないことには何とも言えないが。

シリーズ全てを知らなくとも楽しめるようになっているし、シリーズを全て追っている人ならもっと楽しめるだろう。とにかく監督がマイケル・ベイでなければ良いのである。

ネガティブ・サイド 

チャーリーの隣人の男の子役はキャラが上手く固まっていないという印象を受けた。気になる女子に話しかけたいが、うまくいかない。だがそれはタイミングが悪いのであって、彼が話しかける時を弁えていないというわけではない。一方で、自分で自分に ”You’re not a nerd, You’re not a nerd, You’re not a nerd.” と言い聞かせるところからして、設定ではオタクらしい。にも関わらず、部屋に飾ってあるポスターは『 遊星からの物体X 』。だがこれはリメイクのそれ。ナードならオリジナルの方を貼っとけと言いたい。また部屋にあった姉のものだと言っていた化粧品らしき瓶の数々は何なのだ?一瞬トランスジェンダーか何かかと思ったが、それならチャーリーが好きなことが説明しづらい。このキャラが充分に立っていないというか、属性が不明なのが気になって仕方が無かった。

不可解なシーンはチャーリー絡みでもあった。ネタばれになるので詳細は書けないが、何故そこでバンブルビーにそんなことをするのだ、というシーンが存在する。チャーリーのメカニックの卵設定はどこへ行ったのだ?

総評

シリーズを全て観ていない者の感想なので、見落としているもの、見誤っているものがあるはずである。それでも、欠点よりも長所が目立つ作品である。バンブルビーという名前が与えられる瞬間もいい。Prequel作品として見れば『 ハン・ソロ スター・ウォーズウォーズ 』よりも上質である。 もしも黄色のビートルが良いなと感じられたら、Jovianの先輩、水沢秋生の実質的デビュー小説『 ゴールデンラッキービートルの伝説 』をどうぞ。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190328141811j:plain

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクション, アメリカ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:トラヴィス・ナイト, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 バンブルビー 』 -本家よりも面白いスピンオフ-

『 ふたりの女王 メアリーとエリザベス 』 -歴史とは現代への遠近法-

Posted on 2019年3月24日2020年1月9日 by cool-jupiter

ふたりの女王 メアリーとエリザベス 75点 
2019年3月21日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:シアーシャ・ローナン マーゴット・ロビー
監督:ジョージー・ルーク

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190324223543j:plain

原題は” Mary Queen of Scots ”である。文字通り訳せば、スコットランド女王メアリーとなる。ただし、この邦題は悪くない。こちらの方が客を呼びやすいし、海外のポスターやパンフレットなどの販促物も、ふたりの女王にフォーカスをしているからだ。ジョージー・ルーク監督は単なる歴史映画ではなく、しっかりと現代をその視座に収めた物語を作ってきた。

あらすじ 

時は1580年代。舞台はグレートブリテン島。フランス帰りのメアリー(シアーシャ・ローナン)はスコットランド女王の座に就く。しかし、当時のスコットランドは、旧教カトリックと新教プロテスタントが混在。加えてメアリー自身の出自や再婚問題から、貴族や民衆に至るまで、敵味方が入り乱れ、争乱や陰謀が絶えなかった。その頃、南方のイングランドでは女王エリザベス(マーゴット・ロビー)が君臨。彼女らは対立と協力のうちに、互いへの信頼と尊敬を徐々に見出し・・・

ポジティブ・サイド

本作はジョージー・ルーク監督からの熱烈な恋文にして辛辣な批評である。誰に宛ててなのか?それは現代社会であろう。恋文と批評は併存しないのではないかと思われるかもしれないが、両者ともに対象への没入から生まれる文章だと思えば、本質的な差異はそこにはない。それではルーク監督が没入した対象とは何か。それは個と社会の関係の在り様であろう。

宗教改革後にして、ウェストファリア条約以前。つまり、信仰に対する個の意識の自由が叫ばれ、しかし、個の諸権利が著しく制限をされていた時代。個に対する教会と国家の関係が著しく揺れ動いていた時代。そうした時代に生きたメアリーという女王を活写する意味は何か。それは女性と男性の力関係を追究することであり、国家間の存立問題を考究することであり、様々な外的要因に影響されながらも個を保ち続ける崇高さを見つめ直すことだろう。

シアーシャ・ローナン演じるメアリーは、年齢相応に侍女らとガールズトークに勤しむ一方で、政治的に兄と対立する。未亡人として孤閨に耐えられないという気持ちを抱きながらも、再婚の相手は政治的な利得で決定する。そこには女性と女王という二つの属性がある。シアーシャ・ローナンは卓越した演技力と存在感で、メアリーの様々な顔を演じ分け、巧みに表現した。特に印象に残ったのは、内乱鎮圧の際、騎乗しながら手振りで指令を下すシーンだった。そこではメアリーが多分に私情の混じった判断を行っているのだが、その時のポーカーフェイスが良いのである。

対するエリザベスを演じるマーゴット・ロビーも負けていない。現英国女王はエリザベス2世で、初代エリザベスが本作で描き出されるエリザベス女王その人なのである。故マーガレット・サッチャーを彷彿させる鉄の女、いや鉄の処女で、女性らしさとは自ら決別し、政治と政事に携わる男たちの間で翻弄されながら、北方スコットランドの若き女王への妬みと嫉みの気持ちも捨てられない。そんな矛盾する個の在り様を、『 スーサイド・スクワッド 』のハーレイ・クイン、『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』のトーニャ・ハーディング以上の静かな熱演でもって披露してくれた。天然痘で瘡が残った顔を白塗りし、ウィッグをかぶり、それでもメアリーとなかなか向き合えない威厳のある女王にして、若さと美しさと強かさの全てに嫉妬し、同時に憧れてしまう一人の女性の悲哀を切々と、しかし、力強く演じ切った。

エリザベス女王の在位が世界最長となる慶事の一方で、スコットランドの独立運動が2014年という比較的最近にも盛り上がった。現英国王室は全てメアリーの直系子孫であるということを考えれば、ルーク監督は連合王国に対して多様性と統一性の両方が必要にして尊重されるべきだと考えているのだろう。同時に、近代という個の成立を追求する時代に、再び勃興の兆しを見せつつある全体主義や不健全なナショナリズムに対する警鐘を鳴らしてもいるのだろう。

ネガティブ・サイド

オープニング早々に字幕で背景を説明するのは、手抜きとまでは言わないが、もう少し見せる工夫が必要だろう。たとえばグレートブリテン島ではなくヨーロッパ大陸の当時の風俗習慣をほんの少し映像化するだけでも、当時のイングランドとスコットランドという世界に、もっと入っていきやすくなっただろう。

また、男の端くれとして、本作に描かれる男どものほとんどが、悪漢か卑劣漢か痴愚か、さもなければ小心者ということに、落胆させられる。『 真っ赤な星 』以上に、アホな男しか登場しない。唯一、メアリーが心許した男も、カエサルも斯くやという死に様を見せる。もう少し男に辛くない描写があっても良かったのではないだろうか。

総評

単なる地球の反対側の国の歴史映画と思うことなかれ。本作が描出するテーマは恐ろしいほど現在の極東の島国の状況と似通っている。多極化する世界と国粋主義化していく国と国民、そうした時代において力強く個が個であり続けるためのインスピレーションを与えてくれる大作である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190324223612j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, シアーシャ・ローナン, ヒューマンドラマ, マーゴット・ロビー, 監督:ジョージー・ルーク, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『 ふたりの女王 メアリーとエリザベス 』 -歴史とは現代への遠近法-

『 運び屋 』 -実話を脚色した異色のロードムービー-

Posted on 2019年3月23日2020年3月20日 by cool-jupiter

運び屋 75点
2019年3月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:クリント・イーストウッド ブラッドリー・クーパー
監督:クリント・イーストウッド

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190323011148j:plain

イチローも引退を決めたようだ。生涯一捕手と今でもサインに書き添えるらしい野村克也の如く、生涯一野球選手を貫いて欲しかったが・・・ そして、ここに生涯一映画人を貫くクリント・イーストウッドがいる。本作の原題は”The Mule”、ラバ、頑固者、麻薬の運び屋などの意味がある。邦題は「 運び屋 」の意を選び取ったようだが、Jovianはクリント・イーストウッドとmuleという言葉の組み合わせに、中学生ぐらいの頃だったか、親父と一緒にVHSで観た『 荒野の用心棒 』を思い浮かべてしまう。果たして本作のイーストウッドは愚直なラバなのか、それとも一筋縄ではいかない凄腕の仕事人なのか。

あらすじ

家庭そっちのけで園芸業に精を出すアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、いつしか事業に失敗し、自宅も差し押さえられてしまった。孫娘の婚約を祝うために訪れた先で、ふとしたことから車を運転するだけで大金が稼げる仕事を紹介される。しかし、それはメキシコの麻薬カルテルの「運び屋」=muleとなる仕事だった・・・

ポジティブ・サイド

麻薬の運び屋と聞けば、どうしてもダークなイメージを抱く。事実、現米大統領のトランプはメキシコとの間に巨大な壁を建てる構想をまだ諦めてはいないようだ。コロンビアからの麻薬流入に関しては『 エクスペンダブルズ 』が、メキシコからの麻薬の流入に関しては『 ボーダーライン 』と『 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ 』で描かれていた。日本でも清原和博、ごく最近ではピエール瀧も薬物使用で御用となっている。麻薬は、種類と使い方に依るようだが、癌性疼痛で「殺してくれ!」と叫ぶほどの苦痛に苛まれる人に適切に投与すると、スタスタと自分の足で歩いて「あ、看護師さん、ちょっとおしっこ行ってきます」と言えるほどなるというのが、知人の看護師さんや医師らから聞く麻薬の使い方である。となれば普通の人間が麻薬を摂取すれば、バカボンのパパとは異なる方向でタリラリラ~ンになってしまうのは理の当然である。そのような麻薬を運ぶ仕事を請け負う爺さんを、何故か応援したくなってしまう。その絶妙な仕掛けとは何か。

アールはまず、単なる枯れた爺さんなどでは決してない。ベトナム戦争にも赴いた古強者で、度胸があり、機転が利き、ユーモアを解する心もあり、社交性も高く、そして適度に外の世界に敵というか、憎まれ口を叩き合うような友人にも恵まれている。ただし、そこに幸せな家族の姿は無い。娘の結婚式よりも仕事を優先させ、妻との記念日も顧みることは無い。そんなアールが仕事を失い、カネも失い、住む家も失った時に手に入れた仕事が運び屋だった。アールはそこで得たカネで人生を一つ一つ取り戻していく。カルテルの手先のチンピラに時には説教をし、時には世俗の歓楽を共に享受する。黒人家族にniggaと爽やかに言い放つ。相手によって態度を変えることなく、自然体を貫く。その姿に観る者は憧憬と尊敬の念を抱く。泰然自若。事において動ぜず、淡々と、しかし楽しみながら仕事に打ち込む姿は、男のあるべき姿ではないだろうか。クリント・イーストウッドの俳優人生の集大成がここにあるとの宣伝文句は誇大広告ではなかった。

そんなアールを追い詰めんとするDEAの捜査官には、ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン、そして新鋭と言っても良いマイケル・ペーニャ。特にブラッドリー演じる捜査官とイーストウッド演じる運び屋の仕事と人生が交錯する時、我々は人生における仕事の意義を思わず自らに問いかけてしまう。自分は、彼らのうちのどちら側の人間なのだ、と。何気ない日常のワンシーンが非常にサスペンスフルに仕上がっている。映画の世界に没入しながら、冷静に自分というものを考えるという得難い経験をすることができた。

本作はお仕事ムービーであると同時に、ロードトリップを堪能する映画でもある。アールの仕事と共に、数々の往年の名曲が作品世界を彩る。John Denverの“Take Me Home, Country Roads”のように、眼前に雄大な自然、wildernessが浮かび上がるかのような感覚がもたらされる。これは『 グリーンブック 』からも得られた感覚だが、本作はそれが更に顕著である。『 荒野の用心棒 』や『 続・夕陽のガンマン 』といった、若かりし頃のイーストウッドが無窮のアメリカの大地を旅する光景が蘇ってくる(と言っても、決してリアルタイムでそれらを観たわけではないが)。何度でも言うが、これは正にイーストウッドの集大成だ。

ネガティブ・サイド 

終盤のアールと妻の交わす会話に、不意に涙がこぼれた。アールは稼いだ金で人生を取り戻していったわけだが、妻の心を完全に取り戻せてはいなかったからである。これは事実なのだろうか。もしそうなら、仕方がない。しかし劇作上の脚色あるいは創作であるのなら、こんな残酷な話は無い。一部の映画ファンは間違いなくアールの姿に自身を重ね合わせる。アールの生き方に共鳴する。その結果がこれでは・・・ 自分がこれほどショックを受けているということそれ自体が、脚本家からすれば「してやったり」なのかもしれないが・・・

エンディングのショットも個人的には納得がいかない。アールがlate bloomerだったという比喩には受け取りたくない。

そのエンディングにおいて、この物語のインスピレーションの源泉となった事件および人物を、ほんの少しで良いので掘り下げる絵が欲しかった。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のように、ピークのその後をほんの少しで良いので描写してほしかったものである。

総評

これは傑作である。クリント・イーストウッドファンのみならず、コアであろうがライトであろうが、あらゆる層の映画ファンに観てもらいたいと思う。特に壮年以降のサラリーマンには刺さるだろうと思われる。もし本作で運び屋家業に興味を持たれた方がいれば、水沢秋生著の『 運び屋 一之瀬英二の事件簿 』をお勧めしたい。仕事とは何かについての考察を深めたいなら、『 きばいやんせ!私 』よりも、こちらの小説の方が面白いし役立つだろう。何より水沢秋生氏はJovianと同郷にして、大学の寮の先輩なのである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190323011242j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, クリント・イーストウッド, サスペンス, ヒューマンドラマ, ブラッドリー・クーパー, 監督:クリント・イーストウッド, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 運び屋 』 -実話を脚色した異色のロードムービー-

『 きばいやんせ!私 』 -主題にもっとフォーカスを-

Posted on 2019年3月21日2020年1月9日 by cool-jupiter

きばいやんせ!私 50点
2019年3月17日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:夏帆
監督:武正晴

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321234426j:plain

『 百円の恋 』は、ボクシングシーンにいくつかケチをつけたくなったが、それ以外の面では文句なしに名作であった。その武正晴監督の作品で、舞台挨拶もあるというからには出陣せねばなるまい、とチケットを購入。しかし、作品の完成度はこちらが期待したほど高くはなかった。

あらすじ

アナウンサーの児島貴子(夏帆)は、自身の不倫騒動のせいで華やかな表舞台ではなく、裏番組で細々と活動することを余儀なくされていた。しかし、プロデューサーから日本全国の奇祭特集を成功させれば、花形番組への復帰の道も開けてくるとの言葉に、嫌々ながらも小学生の頃に一年だけ過ごした鹿児島に飛び、かつての同級生らを通じて祭りの取材をしていくが・・・

ポジティブ・サイド

まず何よりも、俳優陣が披露してくれた見事な鹿児島弁に最大限の敬意を表したい。Jovianは鹿児島に行ったことがなく、鹿児島出身の同級生は大学にいたものの、鹿児島弁は喋らないというポリシーの持ち主だったので、鹿児島弁なるものをまるで知らない。反対に関西弁は良く分かる。関西弁ネイティブなのだから当たり前だ。その関西弁も、播州弁や神戸弁、大阪弁、河内弁や泉州弁、京都弁などは微妙に異なるので、おそらく鹿児島県民の話すネイティブ鹿児島弁にも微妙な違いがあるに違いない。それでも本作で役者陣が話す鹿児島弁が堂に入ったものであることは直感的に分かる。その素晴らしさ、迫真さは称賛に値する。舞台挨拶で監督や役場職員の田村正和を演じた坂田聡氏が語っていたが、仕事でなければこんなことはしない。それは太賀や岡山天音にしても同じで、仕事でなければあんな神輿を担いだり、幟を立てたりなどはしない。

本作は監督自身が語る通り、「仕事とは何か」を追求する作品である。それを語り合う印象的なシーンが二つある。一つは貴子と不倫相手との会話。もう一つは貴子と幼馴染の太郎(太賀)の会話である。前者で仕事とは他人の期待に応えること。後者では仕事とは好き嫌いではなく一生懸命さの度合いで決まるということが貴子に諭される。上映後の舞台挨拶で武正監督は、「 この作品を見て、若い人たちが色々と考えてくれると嬉しい。多くの人がこの作品を愛してくれると嬉しい 」と語っていた。説教臭い話ではあるが、そうしたメッセージは確かに作品から伝わってきた。そこは評価しなければならないと思う。

ネガティブ・サイド

本作の最大の弱点は、フォーカスがどこに当たっているのかが初見ではよく分からないことである。というよりも、たいていの映画は一期一会だ。映画を見て、すぐさまそれを見返す、何度も劇場に足を運ぶ、DVDやBlu Rayを買うという人はそれほど多くないだろう。映画の完成度は、初見でどれほどの、あるいはどんな種類の印象を残せるかで決まると言ってもいいだろう。無論、中には例外的な映画もある。何度も何度も見ることで、やっと解釈できるような作品もある。『 2001年宇宙の旅 』は3回、『 ブレードランナー 』は4回鑑賞して、Jovianはようやく自分なりに納得できた。しかし、このように何度も観たくなる、観ねばならないと思わせる映画は例外なのだ。

【 「クソ女」のまんまじゃ終われない 】と言うなら、貴子がクソ女から脱却する流れを丁寧に描写するべきなのだが、祭りと神輿運びに余りにもフォーカスが行き過ぎていた。軽いネタばれになってしまうが、貴子が女人禁制であるはずの祭りに堂々と参加し、神輿を担いでしまうシーンに対して、伊吹吾郎演じる地元のボスキャラが不覚にも心動かされてしまうような描写がなくては説得力が生まれない。彼らが頑なに守ろうとしてきた伝統の形式は、実は金科玉条視されるべきものではなく、それによって自分たちがゲマインシャフトを創出し、維持してきたのだということを確認するためのものであったことを知るからだ。自分が必死になって行っているものではなく、昔から続いているから続けている。誠に日本的な仕事観であるが、それを覆されたと御崎祭りの担い手が感じること。それこそが貴子の成長であり、変身ではないのか。監督自身が舞台挨拶で語っていたのが、撮影当日に雨が降り始め、足場は悪くなり、とにかく事故や怪我が心配になったということ。期せずしてドラマチックな絵が撮れたわけだが、その棚ぼた的な絵をあまりに前面に押し出しすぎたせいで、物語が貴子の成長物語なのか御崎祭り特集による町興しなのか、その焦点がぼやけてしまった。もうもうと煙を吹く桜島をほとんど映さない画作りから、「なるほど、焦点は土地ではなく人なのだな」と受け取ったのだが・・・

もう一つ、現実世界を舞台にして、実在の有名人の名前をポンポン使うのなら、Googleもほぼそのまま使ってもよいのでは?gggleというネーミングセンスはいかがなものかと思う。

総評

役者陣は皆、素晴らしい仕事をした。弱点は監督と編集、そして音楽だろうか。「仕事とは何か」というテーマと、劇中の事件のドラマティックさのバランスでは『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃 』の方が遥かに面白い。興味のある向きは、ぜひ鑑賞されたい。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321234500j:plain
f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321234536j:plain
f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321234555j:plain
f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321234613j:plain
写真を取るマスコミをパシャリ

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 夏帆, 日本, 監督:武正晴, 配給会社:アイエス・フィールドLeave a Comment on 『 きばいやんせ!私 』 -主題にもっとフォーカスを-

『 思い出のマーニー 』 -少女が生きる一睡の夢-

Posted on 2019年3月21日2020年1月9日 by cool-jupiter

思い出のマーニー 75点
2019年3月17日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:高月彩良 有村架純
監督:米林宏昌

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321160249j:plain

原作は英国児童文学の“When Marnie was there”、本作の英語翻訳も同名タイトルでアメリカ公開された。スタジオジブリ製作の実質的な最終作品ということで、これを観てしまうと何かが終ってしまう気がしていた。しかし、いつまでも避け続けるわけにもいかず、DVDにて鑑賞と相成った。

あらすじ

喘息持ちで周囲と打ち解けられない杏奈は、転地療養のため田舎の海辺の村の親戚の元へ旅立つ。そこでも同世代とは友達になれない杏奈は、村はずれの古い屋敷で、マーニーと出会う。二人は徐々に打ち解け、無二の親友になっていくが・・・

ポジティブ・サイド

12歳という思春期の少女と世界の関わりを描くのは難しい。異性または同性への憧憬、肉体および心理や精神面の変化、社会的役割の変化と増大。別に少女に限らず、少年もこの時期に劇的な変化を経験する。ただ、ドラマチックさでは少女の方が題材にしやすい。本作は児童文学を原作するためか、主人公の杏奈(有村架純)と外的世界の関わり、および彼女の肉体的な変化についてはほとんど描写しない。その代わり、非常に暗い内面世界に差し込む一条の光、マーニー(高月彩良)との不思議な交流を主に描写していく。これは賢明な判断であった。

『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』で鮮烈に描かれたように、外界との交わりを絶ってしまった少女の物語は誠に痛々しい。そこに蜘蛛の糸が垂らされれば、カンダタならずとも掴んでしまうであろう。そこで杏奈は、マーニーの幼馴染である男性の影に怯え、嫉妬し、慷慨し、悲しむ。ところがクライマックスでは。こうした杏奈のネガティブな感情の全てがポジティブなものへと転化してしまう。これは見事な仕掛けである。同じような構成を持つ作品として『 バーバラと心の巨人 』を挙げたい。少女の抱える心の闇を追究した作品としては、本作に負けず劣らずである。

杏奈とマーニーが秘めた心の内を明かし合うシーンは切々と、しかし力強く観る者の胸を打つ。自らの心の在り様をさらけ出すことは大人でも難しい。愛されていないのではないかと思い悩むのは、愛されたいという強烈な欲求の裏返しなのだ。マーニーとの一夏のアバンチュールを経て、確かに変わり始めた杏奈の姿に、ほんの少しの奇跡の余韻が漂う。我知らず涙が頬を伝った。

ネガティブ・サイド

少年少女が抱く後ろ向きな想いというのは、その瞬間にしか共有できない、あるいは同じような、似たような経験をした者にしか共有できないものではある。であるならば、杏奈の小母さんが伝えるべきは、銭勘定ではなく真っ直ぐな愛情であるべきだ。もちろん子育て綺麗ごとではなく、カネがかかってナンボの人生の一大事業である。であるならば、そのことに後ろめたさを感じる必要はない。子どもの生きる世界と大人の生きる世界は違う。しかし、愛情という一点は絶対的に共有できる価値観なのだ、というテーゼを提示しているのが本作ではないのか。ここが作品全体の通奏低音に対してノイズになっているように感じられてしまった。

また、マーニーが金髪碧眼であるのは遺伝的にどうなのだろうか。児童文学やアニメだからといって、現実世界のルールを捻じ曲げてよいわけではないだろう。まあ、たまに遺伝子のいたずらで、劣勢遺伝が発現することもあるようだが、ここがどうにも気になった。杏奈が転地療養先のとある同世代女子とどうしても打ち解けられない点として機能していた、見ることも出来ないわけではないが、釈然としない設定であった。

ジブリ作品全体を通して言えることだが、やはり俳優と声優は別物だ。北野武の『 アウトレイジ 』シリーズが分かりやすい。周り全てが役者で一人だけ素人が混じっていると、恐ろしく浮いてしまう。本作の声優陣はそこまで酷評はしないが、やはりかしこに小さな違和感を覚えてしまった。まあ、ジブリにそれを言っても詮無いことなのだが。

総評

良作である。ジブリ作品の最高峰というわけではないが、標準以上の面白さもメッセージ性も備えている。10代の少年少女向けというよりも、むしろ内向きな青春を過ごした大人のカウンセリング的な作品としての方が、高く評価できるかもしれない。

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アニメ, ヒューマンドラマ, 日本, 有村架純, 監督:米林宏昌, 配給会社:東宝, 高月彩良Leave a Comment on 『 思い出のマーニー 』 -少女が生きる一睡の夢-

『 キャプテン・マーベル 』 -モンタージュ的スーパーヒーロー映画-

Posted on 2019年3月21日2020年1月9日 by cool-jupiter

キャプテン・マーベル 50点
2019年3月16日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ブリー・ラーソン サミュエル・L・ジャクソン ベン・メンデルソーン
監督:アンナ・ボーデン ライアン・フレック

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321132355j:plain

Marvel Cinematic Universeを締めくくるべき作品たるエンドゲームの直前にリリースされることには大きな意味があるはずだ。実際にそのように予感していたし、開始直後にはおそらく映画ファン全員が最敬礼せざるを得ないような映像が展開されていく。しかし、映画そのものとしてはどこか物足りなさも残った。

あらすじ

過去の記憶を思い出せないヴァース(ブリー・ラーソン)は地球ではない惑星ハラで訓練に明け暮れていた。超人工知能サプリーム・インテリジェンスにより任務を与えられたヴァースは、変身能力を持つ敵スクラルを追ううちに、地球にやって来てしまう。そこで出会ったニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)やフィル・コールソンらと共に、ヴァースは自らの真の姿に目覚めていく・・・

ポジティブ・サイド

『 アベンジャーズ 』世界だけではなく、『 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー 』の世界とも密接につながっている。Marvel Cinematic Universeのファンならば、映画のそこかしこに様々なガジェットが仕込まれていることに思わずニヤリとさせられること請け合いである。現実世界とのリンクで言えば、ヴァースが地球に落ちてくるのは、今は亡きvideo rental store界の覇者、Blockbusterなのである。Netflixの出現によって僅か一年ほどで潰されてしまった悲劇の巨大チェーンで、日本ではTSUTAYAが全く同じような苦境にあると言える。最も古いヒーローでありながら、最も新しいヒーローなのでもあるということを象徴するようなシークエンスである。

閑話休題。本作で最もMCUファンが喜ぶのは、若きニック・フューリーよりも、エージェント・コー○ソ○なのではあるまいか。Jovianは近年では、トレーラーやパンフ、公式サイトなどはほとんど見ずに映画館に乗り込むことにしているので、彼の登場を示唆する情報もあったのかもしれないが、これは嬉しい不意打ちであった。

また、本作においてもデジタル・ディエイジング技術のポテンシャルが大いに発揮された。サミュエル・L・ジャクソンが若返った。『 パルプ・フィクション 』の頃よりも若い。これは凄い。この技術が更なるブレイクスルーを経れば、『 ブレードランナー2049 』のレイチェルをもっとリアルに、さらにもっと低予算で生み出せるのだろうか。映画の新たな可能性の地平を切り拓くこの技術の更なる革新に期待をしたい。

ネガティブ・サイド

本作の戦闘シーンはド迫力である。しかし、残念なことに、そこに真新しさは無かった。これは痛い。本作を見れば、『 ターミネーター 』、『 スーパーマン 』、『 X-MEN 』、『 バットマン 』、『 インディペンデンス・デイ 』、『 マトリックス 』、『 スター・ウォーズ 』、『 プレデター 』、『 ブレードランナー 』、『 ステルス 』、『 トップガン 』、『 メン・イン・ブラック 』などの構図やシーンをどうしても思い浮かべずにはいられない。いや、それだけなら『 アクアマン 』におけるアクションシーンも似たようなものである。だが、本作には漫画的な面白さ、つまりはコミカルさが非常に乏しい。『 アクアマン 』では、これまで世界の誰もやらなかった(少なくともJovianの知る限りでは)ビームを発射するサメという糞アイデアが実現されたし、タコが八本脚でドラムを叩きまくるという漫画そのものでしかないシーンも盛り込まれた。こうしったシーンには我々は笑うしかない。苦笑ではない。爆笑するのである。

しこうして、本作が担うべきコミカルさはどこにあったのか。何故こんなところで『 寄生獣 』を見せられねばならんのか。ギャグが合う合わないは普遍性ではなく、個人の個別性に依るものだが、これは面白くない。GoGのロケットにインスパイアされたのかもしれないが、もっとリアリティを出してほしい。

記憶喪失ものというのも、そろそろジャンルとして限界に近付いているのではなかろうか。『 トータル・リコール 』以来、我々は失われた記憶が戻った時、世界の意味が反転するという経験を厭というほど映画世界で体験してきた。ここにも、もっと別のアイデアや味付けが必要だったはずだ。『 アクアマン 』が「あいの子」という現代的、グローバル的な意味でのメッセージを持っていたのに対し、本作は普通に陳腐で凡庸なアクションヒーロー映画という枠をブチ壊すことはできなかった。『 アベンジャーズ/エンドゲーム 』への導入以上の意味が薄かった。それが悔やまれるところである。


もう一つ、ニック・フューリーの眼帯の謎も解き明かされるが、これも拍子抜けするような事情である。漫画『 ろくでなしBLUES 』の武藤のそれとほとんど同じである。まさかそんなものをパクったりはしていないだろうが、このやっつけ仕事ぶりには落胆させられた。 

総評

弱点も多いが、単なるアクション映画として見ればエンターテインメント大作にして一大スペクタクルである。MCUファンなら間違いなく観ねばならない。ただし、MCU映画のつなぎ目的な意味以上が見出しにくい映画でもある。コアな映画ファンは劇場に行くに当たっては、「ドンパチ派手派手アクション映画でも観に行くか」という割り切りが必要であろう。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190321132506j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村  

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アクション, アメリカ, サミュエル・L・ジャクソン, ブリー・ラーソン, 監督:アンナ・ボーデン, 監督:ライアン・フレック, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 キャプテン・マーベル 』 -モンタージュ的スーパーヒーロー映画-

『 ビールストリートの恋人たち 』 -人間賛歌の要素が不足-

Posted on 2019年3月18日2020年1月10日 by cool-jupiter

ビールストリートの恋人たち 60点
2019年3月10日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:キキ・レイン ステファン・ジェームス 
監督:バリー・ジェンキンス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190318122725j:plain

原題は“If Beale Street could talk”。『 私はあなたのニグロではない 』のJ・ボールドウィンの小説『 ビールストリートに口あらば 』の映画化である。1970年代の小説を2010年代に映画化する意味は何か。そこにアメリカ史を貫く恐るべき差別の構造と、それを乗り越えんとする確かな意志が存在することを示すためである。

あらすじ

ファニー(ステファン・ジェームス)とティッシュ(キキ・レイン)は、乗り越えるべき問題を抱えながらも幸せな恋人同士だった。しかし、ある時、ファニーが身に覚えのない罪で投獄されることに。彼の無実を証明すべく、ティッシュは奔走するが・・・

ポジティブ・サイド

恋愛とは本来とても美しいものである。だからこそ、詩になり歌になり物語になり映画になる。そして愛が最も美しく光り輝くのは、往々にして逆境においてである。それは『 ロミオとジュリエット 』において顕著なように、シェイクスピアの時代からの真理である。そして本作において描かれるファニーとティッシュの恋愛模様は、シネマティックな要素を極力排除し、それでいてドラマティックなものとして描かれる。物語序盤に描き出される、正式に恋人同士となる前の二人のちょっとした会話、食事、歩き方や目配せは、恋人未満特有の、それでいて恋人になることが約束されたかのような、非常に陳腐で、それでいてロマンティックな瞬間を生み出している。ファニーがティッシュを部屋に誘うシーンは、『 ロッキー 』で、ロッキーがエイドリアンを自室に誘うシーンとは異なる意味で、印象に残るシークエンスだった。ラブシーンも美しい。10~20代の若者の恋は得てして動物のように盛ってしまうものだが、本作はそんなアプローチは取らない。宝箱を大切に開けるかのようなファニーに、ティッシュも身を委ねる。女性というのは誘われたがっているものだ。しかし、そのタイミングと方法を間違ってはならない。そうした教訓まで教えてくれるのが本作である。

本作のもう一つの見どころは、ファニーとティッシュ、それぞれの家族同士の付き合いであろう。アメリカ社会におけるどうしようもない差別の構造と意識は、これまでに無数の映画が映し出してきた。しかし、本作の黒人家族同士の微妙な距離感での付き合い、そして衝突には息を飲むシーンがある。黒人は歴史的に白人に差別されてきた存在というだけではなく、黒人同士の間でも属性の押し付け合い、すなわち差別の構造が生まれてくることを描いているからだ。ティッシュの母親が自分の孫に投げかける呪詛の言葉に我々は衝撃を受ける。それが人間性を完全否定する言葉だからである。『 グリーンブック 』でも顕著だったが、同じ人種というだけでは人は分かりあえない。しかし、人と人とが分かり合い、触れあうためには、人の人たる面に接しなくてはならない。誰かの力になりたいと心から思うこと、可能であれば自分が相手になり変って苦しみを受け止めたいと願うこと。そうした心の在り方を本作は若い二人の恋人たちの姿を通して追求する。理不尽な差別の構造に心を痛め、無私の愛の形に涙する。それは陳腐ではあるが、それゆえに普遍性を感じさせる。

ネガティブ・サイド

若気の無分別と言ってしまえばそれまでなのだが、ファニーが自身の荒々しさをもう少しコントロールできる男であれば、そもそも冤罪騒ぎは起きなかったのではないか。もちろん、自分の女に無礼な態度ですり寄ってくる男がいれば、番の雄としては全力でそれを排除するものだ。しかし、お互い人間なのだから、まずは言葉を尽くせなかったのだろうか。

全体的なトーンも非常に暗く、またペースもかなり遅い。見どころとしての家族同士のパーティーとそこでの諍いは文句なしの緊張感をもたらしてくれる。だが、その他のパートはどうにも盛り上がりに欠ける。それは何よりも、ある意味でマルコムXな思想がその向こうに透けて見えるからだと感じられてならない。1960代から言われ始めた“Black is beautiful.”という思想は、“The other colors aren’t.”に容易に変化してしまう恐れを孕んでいる。もちろん、エド・スクライン演じる警察官は悪徳の権化そのものと思って間違いない。しかし、その男とバランスを取るべき不動産屋のインパクトが弱い。黒人賛歌は結構であるが、その一方に白人参賛歌なり女性賛歌なりアジア系やヒスパニックへの賛歌がないことには、結局のところ人間賛歌になりえない。この部分が『 グリーンブック 』がカバーできていたところで、『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』や本作がフォーカスしきれなかった部分である。『 クレイジー・リッチ! 』や『 search サーチ 』などが大ヒットしたように、アメリカという人種のるつぼ、多民族国家におけるアジア系やインド系のデモグラフィックは無視できない規模になっている。そうした現実世界とのバランスと映画世界のバランスに不均衡があることが本作の最大の弱点であるように思えてならない。

総評

本作は映画ファンよりも小説ファンや文学ファンを引き付けるのかもしれない。恋愛模様の美しさ、愛憎劇の激しさは派手さで表すよりも観る者の感覚や想像力に委ねさせる方が良い場合もある。人間を描くという点では弱いが、恋人たちを描くという点では標準以上の美しさを備えた作品と評することができる。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190318122806j:plain

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, キキ・レイン, ステファン・ジェームス, ヒューマンドラマ, 監督:バリー・ジェンキンス, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 ビールストリートの恋人たち 』 -人間賛歌の要素が不足-

投稿ナビゲーション

過去の投稿
新しい投稿

最近の投稿

  • 『 この夏の星を見る 』 -新たな連帯の形を思い起こす-
  • 『 愛されなくても別に 』 -家族愛という呪縛を断つ-
  • 『 ハルビン 』 -歴史的暗殺劇を淡々と描写する-
  • 『 スーパーマン(2025) 』 -リブート失敗-
  • 『 フロントライン 』 -見せ方に一考の余地あり-

最近のコメント

  • 『 i 』 -この世界にアイは存在するのか- に 岡潔数学体験館見守りタイ(ヒフミヨ巡礼道) より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に cool-jupiter より
  • 『 貞子 』 -2019年クソ映画オブ・ザ・イヤーの対抗馬- に 匿名 より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に cool-jupiter より
  • 『 キングダム2 遥かなる大地へ 』 -もう少しストーリーに一貫性を- に イワイリツコ より

アーカイブ

  • 2025年7月
  • 2025年6月
  • 2025年5月
  • 2025年4月
  • 2025年3月
  • 2025年2月
  • 2025年1月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年7月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月
  • 2024年2月
  • 2024年1月
  • 2023年12月
  • 2023年11月
  • 2023年10月
  • 2023年9月
  • 2023年8月
  • 2023年7月
  • 2023年6月
  • 2023年5月
  • 2023年4月
  • 2023年3月
  • 2023年2月
  • 2023年1月
  • 2022年12月
  • 2022年11月
  • 2022年10月
  • 2022年9月
  • 2022年8月
  • 2022年7月
  • 2022年6月
  • 2022年5月
  • 2022年4月
  • 2022年3月
  • 2022年2月
  • 2022年1月
  • 2021年12月
  • 2021年11月
  • 2021年10月
  • 2021年9月
  • 2021年8月
  • 2021年7月
  • 2021年6月
  • 2021年5月
  • 2021年4月
  • 2021年3月
  • 2021年2月
  • 2021年1月
  • 2020年12月
  • 2020年11月
  • 2020年10月
  • 2020年9月
  • 2020年8月
  • 2020年7月
  • 2020年6月
  • 2020年5月
  • 2020年4月
  • 2020年3月
  • 2020年2月
  • 2020年1月
  • 2019年12月
  • 2019年11月
  • 2019年10月
  • 2019年9月
  • 2019年8月
  • 2019年7月
  • 2019年6月
  • 2019年5月
  • 2019年4月
  • 2019年3月
  • 2019年2月
  • 2019年1月
  • 2018年12月
  • 2018年11月
  • 2018年10月
  • 2018年9月
  • 2018年8月
  • 2018年7月
  • 2018年6月
  • 2018年5月

カテゴリー

  • テレビ
  • 国内
  • 国内
  • 映画
  • 書籍
  • 未分類
  • 海外
  • 英語

メタ情報

  • ログイン
  • 投稿フィード
  • コメントフィード
  • WordPress.org
Powered by Headline WordPress Theme