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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 2010年代

『 火口のふたり 』 -歪な実写版セカイ系物語-

Posted on 2019年9月4日2020年4月11日 by cool-jupiter

火口のふたり 65点
2019年8月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:柄本佑 瀧内公美
監督:荒井晴彦

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『 幼な子われらに生まれ 』の脚本家が監督をしていると知り、平日の昼間から映画館へ。予告編では『 娼年 』や『 殺人鬼を飼う女 』のようにエロシーンを通じて何らかのメッセージを発してやろうという作品かと思っていたが、実際はちょっと趣が異なる作品だった。

 

あらすじ

賢治(柄本佑)は父から電話を受ける。直子(瀧内公美)の結婚式への出席するか?というのだ。故郷の秋田に帰省する賢治は、直子に「一晩だけ、あの頃に帰ろう」と言われ、関係を持ってしまう。だが、それは互いの身体の言い分を呼び覚ましてしまい・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190904001139j:plain

 

ポジティブ・サイド

『 娼年 』の松坂桃李は、ちょっとその愛撫は優しさが足りないんじゃないのか?と観る側に思わせたが、柄本佑はどちらかというと成田凌タイプ。つまり、本当に彼自身がやっていそうなちょっと無理めの前戯を演じてくれる。男性ホルモンが旺盛に分泌されていそうな雰囲気を漂わせる柄本は適役である。新井晴彦が脚本を担当した『 幼な子われらに生まれ 』でも、浅野忠信という役者がナチュラルに醸し出す迫力や威圧感、いわば暴力の予感が効果的に演出されていたが、柄本もそれに近い使われ方を本作ではしている。

 

瀧内公美は『 娼年 』には勿体なかったのだろう。美女がイケメンとセックスするところを見てもあまり楽しい気分にはならないが、これほどの美女が柄本のようなムンムンの男子中学生がそのままデカくなりました的な男とまぐわうのは、言葉そのままの意味で面白い。映画撮影的にも非常にチャレンジングなショットがいくつも見られる。つまり、ワンカットの多用である。カメラアングル的に斬新なものは皆無だったが、濡れ場に繋がるシーンはほぼすべてロングのワンカットで、それにより臨場感が増している。これは監督の手腕であろう。瀧内の裸体に妙なフォーカスをすることなく、それでいて彼女の裸体の魅力をスクリーンにぶちまけている。このおっさんは流石にエロの大家である。瀧内の他の出演作もぜひ鑑賞してみたくなった。

 

本作は映画というよりもドラマである。といっても、一つひとつのサブプロットがテレビドラマの一話一話に対応しているというわけではない。登場人物は、はっきり言って賢治と直子だけで、これは舞台上で繰り広げられる対話ベースのドラマ技法で作られた映画である。ほんのちょっとした一言が、我々観る側にとっては二人の背景や関係性、過去の出来事についての実に多くの情報の流入となる。これは単に役者が台詞で状況説明をしているのではない。こうした何気ない一言ひとことが、画面上の現実の薄皮を一枚また一枚と剥いでいっているのだ。人間も様々に纏っている社会性や人間性といった薄皮を剥いでいけば、案外残るのは類人猿なのかもしれない。頭でっかちで理屈ばかり先行しがちなくせに、下半身のマグマの抑制はあまり効かないタイプの賢治と、睦み合いと愛情は別と割り切って、結婚前夜に婚約者以外の男と性交する直子は、ある意味では今の時代のアダムとイブなのかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

もっと五感に強く訴えるような映像表現が欲しかった。劇中で直子が賢治のにおいに言及するシーンがあるが、その直子の感覚を観る側と共有できるようなカットあるいは、直子のほんのちょっとした表情の変化を捉えたショットが欲しかった。これは追憶の物語で、誰にとっても、カネはあまりないが若さとエネルギーだけは有り余っていた頃があるのだ。つまり、我々は皆、賢治であり直子なのだ。そうした我々の感覚や感情、記憶を刺激する映像上の工夫が不足していた。

 

これは当事者ではない者の感想だが、東日本大震災を少し茶化しているというか、賢治の生き方、それに対する言い訳めいた「言い分」が、現実感を奪い取ったように思う。賢治の人生が上手くいっていないのは、震災のせいもあるが、本人の人間性の問題の方が原因としては遥かに大きいように感じられた。Jovianは10代半ばで阪神大震災を経験したし、Jovianの両親が経営していた焼肉屋は0-157と狂牛病のダブルパンチであえなくcrash and burnした。一個人の力ではどうしようもない不運や災害、事故などは存在する。肝心なのは、そこからどう立ち直るかだ。賢治というキャラクターには愛すべきところもあるが、その生き方や生き様には、同じ男としてとうてい共感できないところも多い。

 

総評

R18指定だが、大学生カップルが観に行くような映画ではない。セックスシーンを鑑賞する作品ではなく、セックスに至るには人間がまとう虚飾を剥いでしまわなければならないということを再確認する作品である。35~45歳ぐらいがメインとなるべきターゲットであろう。賢治と直子と同世代、またはそれより少し上ぐらいのdemographicが青春の追体験と現実からの逃避のために観る映画である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I will set you free by then.

「その頃までには解放してやるよ」と賢治は不敵に言う。つまりは直子の婚約者が帰ってくるまでには、直子の前から消えるということだ。by thenやby nowなどをさらっと口頭英作文に組み込めるようになれば、初級者は脱したと思ってよいだろう。

 

Oh, it’s 10 PM. He should by home by now.

I guess that milk will have gone off by then

 

状況を思い浮かべながら、声に出してみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, ラブロマンス, 日本, 柄本佑, 瀧内公美, 監督:荒井晴彦, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 火口のふたり 』 -歪な実写版セカイ系物語-

『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

Posted on 2019年9月2日 by cool-jupiter

500ページの夢の束 65点
2019年8月27日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダコタ・ファニング トニ・コレット
監督:ベン・リューイン

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原題は“Please Stand By”、「スタンバイ願います」の意である。テレビおよび映画のスター・トレックでしばしば使われる表現である。Jovianの父およびJovianの同僚のイングランド人はコテコテのトレッキーであるが、JovianはStar Warsおfanboyである。そしてエル・ファニングのファンでもある。ならば、その姉のファンになっても良いではないか。

 

あらすじ

ウェンディ(ダコタ・ファニング)は自閉症の女子。周囲の人間や家族とすらも、時にコミュニケーションが難しくなるが、スター・トレックのハードコアなファンで、その知識の量と正確さは他のナード連中を圧倒する。ある時、パラマウント・ピクチャーズがスター・トレックの脚本コンテストを開催していると知り、自分でも応募を試みるが・・・

 

ポジティブ・サイド

自閉症の方が知り合いや身内におられるだろうか。Jovianのいとこに一人いる。とにかく数学の才能に優れ、楽器をすぐにマスターし、一度のめり込んだら何時間でも絵を描き続ける。しかし、正月やお盆に親戚が一堂に会してご飯を食べたり、結婚式や葬式の食事などでも他人を待つ、皆と同じタイミングで食べ始めるということができない。また話しがかみ合わない。というよりも、言葉の裏の意味が読み取れない。そんな自閉症の症状をダコタ・ファニングは見事に描き切った。

 

トニ・コレットも毎度のことながら良い仕事をしている。『 シックス・センス 』から『 ヘレディタリー/継承 』に至るまで、苦悩する母親といえばトニ・コレットなのである。いや、実際は姉ソーシャルワーカーにしてカウンセラーなのだが、精神的な意味での母親だと呼んで差し支えないだろう。『 セッションズ 』でもそうだったが、ベン・リューイン監督は社会からcast outされがちな人々に光を当てることに長けている。人間がサルからヒトになったと判断できる基準は様々にあるだろうが、セックスが子作りではなく愛情表現、さらに濃密なコミュニケーションになっているかどうかであると思う。『 セッションズ 』からはそれを学んだ。愛情があるからセックスするのではなく、セックスから生まれる愛情もある。陳腐ではあるが、障がい者を通じてこそ見えてくるものもある。

 

Back on track. スター・トレックは『 スター・ウォーズ 』と並んでクレイジーなファンが多いことで知られている。そのクレイジネスを活かした脚本がここに出来上がった。人は愛するものと一体化したいという欲望を持つ。スター・トレックの製作者たちはそのことをよく知っている。実際には彼ら彼女らは脚本の一般公募をしているからだ。だからこそ、本作にはリアリティがある。『 ファンボーイズ 』は死ぬ前にスター・ウォーズの新作を観たいという欲望、いや本能を満たすためのストーリーで、言ってみれば自慰行為だ。しかし、本作は愛情表現。そこが違う。500ページの夢の束は、500ページのラブレターなのである。

 

ウェンディの旅路を是非とも見届けて欲しい。

 

ネガティブ・サイド

ウェンディが「渡ってはいけない」とされていた道路を、割とあっさりと渡ってしまうシーンには少し萎えた。ルーティンに従うことで心の安定を保てる自閉症者が、いくら大好きなスター・トレックのためとはいえ、そこまで簡単に自分のルールを変えられるだろうか。このあたりにもう少し逡巡する描写が欲しかった。

 

ウェンディにクイズで挑んでいた連中は、何だったのか。ただの引き立て役か。こういう奴らこそがウェンディの旅の役に立たなくてどうする?またはウェンディ捜索に人肌脱がなくてどうする?はたから見れば変人のウェンディにも、家族やチワワ以外の誰かがいるのだということを見せて欲しかった。自閉症者はコミュニケーション能力に欠けていても、その他の能力が一般人のそれを凌駕していることが多い。そのことが他人を遠ざける原因になることもあるし、逆に他人を引きつける要因になることもありうる。実際にバイト仲間のトニー・レヴォロリはウェンディにロマンティックな意味での好意を抱いている。そうでなくとも、趣味嗜好を同じくする者同士の連帯感を描いてくれても良かったのではなかろうか。ローン・ガンメンみたいな奴らとして、彼らが登場してくれるのを期待していたのだ。

 

総評

静かな、しかし確実に長く残る余韻をもたらす映画である。トレッキーではなくても楽しめるし、逆にスター・トレックの知識が無いほうが、純粋に物語を鑑賞できるかもしれない。自分ではよく分からないけれど、他人が夢中になっているものに、人は興味を抱くものだから。ウェンディという一人の少女の旅立ちの先に、「未知との遭遇」が待っているかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Do you know who I am?

「私が誰だか知っていますか?」の意である。つまり、端的に言って名前を知っているか?と尋ねているわけである。英語学習の中級者ぐらいでも、“Do you know me?”と言ってしまう人がたくさんいるが、これは「私がどんな人間か分かってくれてるよね?」、「俺ってやつのこと、ちゃんと理解してくれてるだろ?」のような意味である。“Listen to me.”が「私を聞け」ではなく「私の言うことを聞いて」という意味だということの類推で理解しよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ダコタ・ファニング, トニ・コレット, ヒューマンドラマ, 監督:ベン・リューイン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 500ページの夢の束 』 -自閉症少女の旅立ち-

『 二ノ国 』 -年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼-

Posted on 2019年8月29日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 二ノ国 』 -年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼-

二ノ国 10点
2019年8月25日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:山崎賢人 新田真剣佑 永野芽郁 宮野真守
監督:百瀬義行

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実験的作品を観た後は、脳みそをノーマルな状態に戻したくなる。つまり、普通の作品を観たくなる。というわけで、いかにもジャパニメーションな本作のチケットを購入。これが大失敗だった。まさかこのような超絶駄作だとはゆめにも思わなかった。

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あらすじ

ユウ(山崎賢人)は車イスに乗る頭脳明晰な高校生。ハル(新田真剣佑)は運動神経抜群のバスケ部エース。二人は親友だった。そして、ハルには恋人のコトナ(永野芽郁)がいた。そしてユウも密かにコトナに想いを寄せていた。ある時、コトナが謎の男に刺される。ユウとハルはコトナを救おうと奔走するが、その時、二人は謎の異世界、「二ノ国」に飛んでしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

ない。

 

というのは流石に酷い。ジークフリード・キルヒアイスを見習い、ゴミ溜めにも美点を見出す努力をすべきだろう。敢えて挙げれば久石譲の音楽ぐらいだろうか。戦慄、じゃなかった、旋律の美しさを感じる瞬間は幾度かあった。

 

ネガティブ・サイド

はっきり言って永野芽郁は声優の才能がない。余りにも声の演技が下手すぎる。抑揚もつけられず強弱もつけられず、声にメリハリもなく、感情も乗せられず、端的に言って素人である。はっきりいってギャラをもらってよい仕事ではないし、これで観客からチケット代をもらおうというのも、面の皮が厚過ぎる。そもそも監督は何をどうディレクションしていたのだ?

 

酷いのは山崎賢人や新田真剣佑も同罪だ。ただただ五十歩百歩というだけだ。もちろん永野が百歩で山崎と新田が五十歩という意味だ。

 

作画も序盤は終わっている。ユウが帰宅した後に自室に入るシーン。あれは実際に車イスの人間がドアを開ける動作を観察した結果なのか。どう考えても遠近法が崩れている。機会あれば車イスに乗ってドアノブを回して押してみてほしい。といっても、本作を二回観ようとするのは、鍛えられたクソ映画愛好家だけだろうが。また、中盤のあるシーンでは緊迫したシークエンスがあるのだが、どう考えても光の速さで車に車いすを積み込んだとしか思えない。車イスが完全にオーパーツになっている。勘弁してくれ。車イスによって、ハル&コトナとユウの間に微妙な距離があることは受け入れられるが、その他のシーンでの車イスの扱いが酷い。この監督が車イスを単なるガジェットにしか考えていないことがよく理解できた。

 

そもそもキャラクターの思考や行動原理からして意味不明で理解不能だ。なぜコトナは不審者に追われていると感じた時に自宅や親、または110番通報をしなかった?なぜ大通りに出なかった?そして何故にハルはわき腹を刃物で刺されたコトナを見るなり、ユウに向かって「お前、何やってんだ?」と叫ぶのか。そこは「何があったんだ?」または「誰がやったんだ?」だろう。頭がおかしいのか。そして、何故にハルはコトナを抱き抱え、走り去るのか。救急車を呼ぶという知恵がないのか。

 

それにしても二ノ国という設定自体にオリジナリティも捻りも無さ過ぎる。『 あした世界が終わるとしても 』や『 バケモノの子 』、『 DESTINY 鎌倉ものがたり』、『 バースデー・ワンダーランド 』のごった煮で、最初に入った酒場は、ファイナルファンタジーの酒場の音楽かと錯覚するような典型的なTavern Musicが流れ、『 スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 』のカンティーナと『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』の酒場兼宿屋を足したような場所。さらにそこでしゃしゃり出てくる動物キャラも面白みゼロ。せいぜい終盤の引き立て役かと思ったら、それも無し。

 

そして二ノ国はこれだけに飽き足らず、これでもかと既視感たっぷりのガジェットを繰り出してくる。船が飛び立ったシーンは「『 ハウルの動く城 』か、おい!」と劇場で我あらず声に出してしまったし、ハルの纏う鎧はどこからどう見ても漫画『 ベルセルク 』の狂戦士の甲冑のパクリで、グランディオンなる聖剣はゲーム『 クロノトリガー 』のグランドリオンと余りにも名前が似すぎている。黒幕はご丁寧にも『 GODZILLA 星を喰う者 』のメトフィエスに顔も風貌もそっくり。なんでやねん。もうちょっと捻らんかい。で、顔がデビルマンのそっくりさんって・・・ そして最後の最後も『 スターゲート 』と『 ジョン・カーター 』でフィニッシュ!って、捻らんかい!!

 

序盤にユウを頭脳派として描きながら、いきなり肉体派に華麗なる変身を遂げたり、ハルはハルで事象を正確に把握できない脳タリンちゃん。なぜコトナのわき腹に刃物が突きたてられたことで、アーシャ姫のわき腹に呪いの剣が突き立てられているのか。その因果関係は、確かにあの時点では分からない。だが、アーシャ姫の呪いを解いたことでコトナが回復したことから相関関係を読み取れないのは何故なのか。Aがダメージを負うとA´もダメージを負う。Aが回復するとA´も回復する。なるほど、A´を殺せば、Aが助かる!!って、何をどうやったらそんな思考のサーカスが展開できるのか。

 

ラストシーンも醜い。ハルとコトナ、お前らが無意識に車イスのユウに対して差別の心を抱いていたのがよく分かった。何故この場所を選んだ?何故あのような台詞を言わせた?百瀬義行という男の思考や感性に対して吐き気に近い嫌悪感を催している。

 

古今東西の映画のモンタージュで彩られたパッチワーク世界にアホ過ぎるキャラクターたち、そして返金を要望したくなるほどのヴォイス・アクティング。ここにきて年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼に躍り出てきた。いや、2010年代で最低の映画と評しても良いかもしれない。それほどのクソ映画である。

 

総評

チケットを買ってはならない。時間とカネの無駄になるだけである。漫画喫茶でこっそり一休みしようかという外回り営業マンがタダ券を持っているのであれば、真っ暗な劇場で耳栓をして二時間眠るのならば良いのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Sorry, no lessons. I want to forget about this film as quickly as possible.

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, F Rank, アニメ, ファンタジー, 宮野真守, 山崎賢人, 新田真剣佑, 日本, 永野芽郁, 監督:百瀬義行, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 二ノ国 』 -年間クソ映画・オブ・ザ・イヤー候補の最右翼-

『 The Fiction Over the Curtains 』 -Are you here, there, or somewhere else?-

Posted on 2019年8月28日2019年8月31日 by cool-jupiter
『 The Fiction Over the Curtains 』 -Are you here, there, or somewhere else?-

The Fiction Over the Curtains 60点
2019年8月25日 京都国立近代美術館にて鑑賞
株式会社プリコグ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190828011809j:plain


 

≪ドレス・コード?――着る人たちのゲーム≫という美術展が現在行われている。その無料招待券をある方から頂けたので、嫁さんと共に京都へ。たまには映画館ではなく美術館に赴くのも良いものである。『 GENJI FANTASY ネコが光源氏に恋をした 』と同じく、この作品を積極的にレビューしようという人は少ないだろう。

 

あらすじ

二枚のスクリーンの片側に、女性の顔らしきものが浮かぶ。彼女は言う、「こちらからそちらは見えません、そちらからこちらには来れません」と。そして、上半身が裸と思しき男の姿も浮かび上がる。彼は言う、「服をくれませんか?今着ているそれでいいです。こっちに投げて、寄越してください」と・・・

 

ポジティブ・サイド

何とも不思議な映像作品である。『 デッドプール 』以上に軽々と“第四の壁”を超えてくる。我々は普段、映画館で映像が我々の座る観客席の後ろから銀幕に投影されるスタイルに慣れてしまっている。本作はそこをひっくり返した。スクリーン -  というよりもタイトルにあるようにカーテンと呼ぶべきか - の裏側から映写されてくる数名の登場人物たちは、何とも言えない輪郭のぼやけを伴っていながら、確かな実在感をも備えている。平面に映し出されていながら、三次元的に感じられるのである。これは普通の映画には絶対に出せない雰囲気であろう。

 

この映像作品が提供されているセクションのテーマが【 与えよ、さらば与えられん? 】というところが非常に示唆的である。我々は上半身裸の男に服を与えようとも思わないし、与えたくても与えられない。そこには時間の壁、空間の壁、さらには実在と非実在の壁も存在する。だが、その壁をぶち壊すシークエンスが終盤近くに起こる。これには素直に驚いた。意図的にせよ無意識にせよ、我々はスマホのカメラを通じで世界を知覚している。現実でもそうだ。我々は誰かのセルフィーに映り込むこともあるし、我々が誰かを映してしまうこともある。しかし、カーテンの向こうから我々に向けられる「ある視線」は強烈なインパクトで我々の想像力を撃ち抜く。我々は否が応にもドイツの哲学者ニーチェの言、すなわち「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」という警句を思い起こさずにはいられなくなる。途中までは『 翔んで埼玉 』よろしく、経済学的に不都合な真実を間接的に突き付けてくるだけの作品だと捉えていたので、いきなり左フックを一発、テンプルにもらった気分である。芸術とは、現実を抉ってナンボなのだと、改めて思い知らされた。

 

ネガティブ・サイド

上映時間が28分というのは、ビミョーに長い。カーテンの向こう側の世界の人間たち同士のinteractionにもう少しメリハリがあれば25分ぐらいに圧縮できるのではないか。美術館が椅子を用意してくれていれば、もっと多くの人が最初から最後まで鑑賞してくれたのではないか。

 

また台詞に合わせて英語字幕が用意されるが、それがカーテン右側で、観る位置によっては実に見にくい。もう少し何らかの工夫が必要だろう。また、唐突に始まり、唐突に終わるのもマイナスである。終了時にはFinの文字、そして開始時にはタイトルシーンぐらいは設けても罰はあたらないだろう。

 

総評

映像美も音楽もない作品であるが、不思議な引力というか、一度見始めると止まらなくなった。もちろん、数秒から数十秒で去っていく人も多かったが、何名かの人は魂を吸い取られたかのように見入っていた。Jovianもその一人であった。あいちトリエンナーレ2019が、アホな脅迫およびその背景にある一種の政治的な圧力に屈してしまったのは残念である。何度でも言うが、芸術は現実を抉ってナンボなのだ。関西在住の方でも遠方在住でも、関心を持たれた方は本美術展に来場されたし。映像作品以外にも、邦画の歴代の青春映画のポスター展示などもあり、時代の移り変わりを映画ファン目線で楽しめるコーナーもあって、存外に楽しめるはず。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Can I have some clothes?

 

Can I have ~ ?については『 シークレット・スーパースター 』で触れた。今回はsomeについて。今でも中学校や一部の塾では「肯定文ではsome、否定文や疑問文ではanyを使いましょう」と教えているらしい。めちゃくちゃだ。疑問文でsomeを使うのは、答えに Yes を予想または期待している時である。Could I have some water? 

May I have something interesting to read?  

Do you happen to have some cough syrup?

色々と練習してみよう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C RankLeave a Comment on 『 The Fiction Over the Curtains 』 -Are you here, there, or somewhere else?-

『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

Posted on 2019年8月27日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

ロケットマン 70点
2019年8月24日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:タロン・エガートン リチャード・マッデン ブライス・ダラス・ハワード
監督:デクスター・フレッチャー

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ブライアン・シンガーが降板した『 ボヘミアン・ラプソディ 』を、ある意味で立て直したデクスター・フレッチャーの監督作品である。それだけでも話題性は十分だが、日本との関係で言えば、テレビドラマの『 イグアナの娘 』のテーマ曲だったことを覚えている30代、40代は多いだろう。Jovian自身のエルトン・ジョンとの邂逅はロッド・スチュワートのアルバム『 スマイラー 』収録の“レット・ミー・ビー・ユア・カー”だった。ライトなエルトン・ジョンのファンとしては、本作はそれなりに楽しめた。

 

 

あらすじ

レジー・ドワイト少年はピアノの神童だった。奨学金を得て王立音楽院に通えるほどの才能に恵まれていながら、彼はいつしかロックに傾倒していった。そして、名前をエルトン・ジョン(タロン・エガートン)に変え、音楽活動を本格化する。そして作詞家バーニー・トーピンと出会い、意気投合。彼らは成功を収めるも、エルトンは満たされたとは感じられず・・・

 

 

ポジティブ・サイド

タロン・エガートンの歌唱力、ピアノの演奏、そしてエルトンの動きの模倣。これらはラミ・マレックが『 ボヘミアン・ラプソディ 』でフレディ・マーキュリーを演じたの同じレベルにある。ただ、あまりにもあからさまなので、アカデミー賞は取れないだろうが。それでも、容姿の点ではマレックとマーキュリーよりも、エガートンとジョンの方が近い。その点は素晴らしいと称賛できるし、何よりもエルトンの幼年期を演じた子役のシンクロ度よ。写真で見比べて「うおっ!」と感嘆の声を上げてしまうほどだ。

 

そしてブライス・ダラス・ハワードは、ますますmilfy(気になる人だけ意味を調べてみよう)になったようだ。『 アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル 』でアリソン・ジャネイが演じた母親とは一味違う、恐怖の母親を演じた。子どもにとって生みの親に愛されないことほど辛いことはない。その愛情がスパルタ教育という形で表れるのは、まだましな方なのかもしれない。愛の反意語は無関心であると喝破したのは、マザー・テレサだったか。この母親は子どもの持つ並はずれた才能にも頓着せず、カネの無心ばかり。このあたりの演技と演出方法が抜群であるため、物語の開始早々から我々はレジーの心象風景であるミュージカルシーンに違和感なく入っていくことができる。この冒頭のシークエンスは、どこか『 グレイテスト・ショーマン 』の“A Million Dreams”に通じるものを感じた。子どもというのは空想、イマジネーションの世界に遊ぶことができるのだ。その媒体としての音楽=LPレコードとの出会いを、今度は父親が無下に拒否する。我々の心はさらに締め付けられる。かくしてレジーは音楽へ没入せざるを得なくなる。

 

そのレジーが生涯の友のバーニーと邂逅するシーンはリアルである。エルトン・ジョン自身が監修しているのだから当然と言えば当然だが。初対面の二人は互いの音楽の趣味嗜好を確かめ合うのだが、それがぴたりと合う。そこからは意気投合あるのみ。このあたりは『 はじまりのうた 』でマーク・ラファロがキーラ・ナイトレイと互いの音楽の趣味について語り合った場面と共通するが、あれをもっと一気に凝縮した感じである。音楽家同士が理解し合うのに百万言は必要ないのである。このカフェのシーンは実に印象的だ。

 

楽曲面で言えば、すべてを自らの声で歌いきったタロン・エガートンには称賛することしかできない。特に“Your song”は、歌詞からインスピレーションを得て生まれてくるメロディにピアノと声で生命を与えていくシークエンスには、魂が震えるような衝撃を受けた。また個人的にはストーリー中盤のライブでの“Pinball Wizard”が白眉だった。発声可能上映が期待される。

 

エンターテインメントとして完成度が高く、ダンスシーンも圧巻の迫力。なによりもエルトン・ジョンのファンではなくとも、彼の抱える苦悩と共感しやすい作りになっている。愛情を得られない子ども、仮面をかぶり自分を偽る大人、自分という存在を認めてくれる別の存在を求めて彷徨するvagabond。自己を表現することで自己を隠していた天才的パドーマー。愛されるためには、愛さねばならない。そんな人生の真理のようなものも示唆してくれる。稀代の歌い手の前半生を追体験できる伝記映画にして娯楽映画の良作だ。

 

ネガティブ・サイド

映画がフィーチャーしている時代が異なるので仕方がないと言えば仕方がないのだが、エンドクレジットにおいてすら“Candle in the wind”が流れないのは解せない。もしかして、最初から続編の予定ありきなのだろうか。

 

また、一部のニュースによると、ラミ・マレック演じるフレディを作中に登場させるという構想もあったらしいが、それも色気を出し過ぎだし、話題を無理やり作りたい=商業主義的な考え方が透けて見えてしまう。そんなにクロスオーバーをしたいのであれば、悪徳マネージャーのジョン・リードをエイダン・ギレンに演じさせれば良かったのだ(クイーンにとってのジョン・リードはそこまで悪辣ではなかったらしいが)。

 

また、せっかくエルトン・ジョンの前半生に焦点をあてるのなら、レジー・ドワイトの時代にもう数分を割いてもよかった。『 ボヘミアン・ラプソディ 』の構成で最も印象深かったのは、フレディ・マーキュリーがファルーク・バルサラであった時代に光を当て、なおかつフレディがライブ・エイドの最中にファルークに戻って、母親にキスを送るシーンだ。もちろん、別人の物語なので全く同じ構成にはできないが、もっと王立音楽院での学びが後のキャリアに生きてくる描写なども欲しかった。B’zの松本も音楽の専門学校でジャズを学んだことが創作活動に活かされていると常々語っているではないか。

 

最後に、やはり締めには壮大なライブシーンが欲しかった。『 リンダリンダリンダ 』や『 ソラニン 』もそうだったが、音楽の映画の締めにはライブこそふさわしいと思うのである。

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総評

これは素晴らしい作品である。色々と注文をつけたくなるのも、それだけ素材が良いからである。1970~1980年代に青春を過ごした日本のシニア層には『 ボヘミアン・ラプソディ 』並みに刺さるのではないか。エルトン・ジョンを知らない世代でも、両親や親戚、会社の先輩などと一緒に(気が向けば)鑑賞に出かけてほしい。サム・スミスのような新世代の歌手が生まれてきた下地を作ったのは、エルトン・ジョンやジョージ・マイケルのような偉大な先達なのだから。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

“We’ll be in touch.”

『 殺人鬼を飼う女 』で日→英で紹介したフレーズがさっそく登場した。ビジネスパーソンならば、是非とも使ってみよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イギリス, タロン・エガートン, ヒューマンドラマ, ブライス・ダラス・ハワード, ミュージカル, リチャード・マッデン, 監督:デクスター・フレッチャー, 配給会社:東和ピクチャーズLeave a Comment on 『 ロケットマン 』 -I’m gonna love me again-

『 殺人鬼を飼う女 』 -エロシーンを減らして再編集せよ-

Posted on 2019年8月23日2020年4月11日 by cool-jupiter

殺人鬼を飼う女 20点
2019年8月22日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:飛鳥凛 水橋研二
監督:中田秀夫

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シネ・リーブル梅田で『 アンダー・ユア・ベッド 』と『 殺人鬼を飼う女 』のパンフレットを目にした時は興奮した。『 君が君で君だ 』で大石圭に少しだけ触れたが、東野圭吾ではない作家の小説も映像化されるようになってきた。これは嬉しい傾向である。それでは、本作はどうか。もしかしたら、我々の愛した中田秀夫監督は、終わってしまったのかもしれない。

 

あらすじ

キョウコ(飛鳥凛)はビストロでギャルソンとして働いていたが、実は解離性同一性障害、俗に言う多重人格だった。自宅マンションの隣の住人が、たまたま大好きな小説家の田島冬樹(水橋研二)だったことで、キョウコの心は仄かにときめいた。しかし、キョウコの中の他の人格たちは、そのことを快くは思わず・・・

 

以下、映画のネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

主演の飛鳥凛の裸体は美しかった。ものすごく顔立ちが整っているだとか、ものすごくプロポーションが良いというわけではないが(失礼)、普通の美人が普通に脱いで、普通にエロい演技をしてくれる。それはそれで凄いことである。濡れ場を演じると、ある方面では評価が高まるが、ビッグスクリーンに出たり、あるいはお茶の間のCMに起用されたりする可能性は低くなる。そういう意味では出し惜しみせずに、見せられる部分はすべてさらけ出した飛鳥は“表現者”として認められなければならない。

 

同じくその他人格たちや、水橋研二も同様である。最後の4Pは一体どれくらいの時間をかけて撮影したのだろうか。とにかく出演者に拍手である。『 娼年 』でもそうだったが、セックスを性欲処理ではなく愛情表現あるいはコミュニケーションの一形態としてしっかりと描くことができれば、それは立派な芸術である。

 

ネガティブ・サイド

主人格と副人格たちを別の役者を使って、同時に映し出す。それ自体は別に構わない。しかし、そこにひと手間が欲しかった。キョウコは鏡に映るが、他の人格たちは映らないだとか、キョウコには影があるが、他の人格たちには影がないだとか。何かしらの仕事がそこに為されているべきだった。

 

彼女らは人格という意味では実在するが、実体は存在しない。体はキョウコのものなのだから。だからこそ、自分たち同士でまぐわう時には、キョウコが常に受けである。ここまでは理解できる。だが、別人格たちがパーティーをしながら飲食するシーンがある。これは一体どういうことだ?もちろんそれは幻なのだが、そもそもそんな幻を見ること自体がおかしいではないか。

 

多重人格ものは小説でも映画でも量産されてきた。近年でも『 スプリット 』や『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』などが公開された。多重人格もののクリシェは、まだ隠された人格がある、ということに尽きる。なので、その隠された人格が、いつ、どのような条件で出現するのかがサスペンスを生み出す要因になる。

 

だが、タイトルにもなっている殺人鬼の人格が現れるタイミングがよく分からない。エクスタシーを感じると出てくる?だからセックス後に出現するのか?いや、公園で小説を読んでいる最中にも出現したようだ。ならば、恍惚とした時か?だとすると、夜中にベッドから起き上がって人格交代した理由が説明できない。いや、幼少の頃から殺人鬼の人格はすでに存在していたはずだ。でなければ、冒頭のシーンも説明がつかない。人形をベランダから落とすシーンからすると、どうも一番幼い人格が一番怪しそう・・・というか、唯一、殺人鬼の人格と通じていそうだが、物語はそのあたりを明らかにしてくれない。それはそれで構わないのだが、せめて人格交代のタイミングやきっかけに一貫性を持たせる演出をしてほしい。

 

最大の不満は、エロシーンが無意味に長いことである。上映時間は83分だが、レズやセックスのシーンを5分削って、その他の細かい描写を10~12分加えて1時間半のランタイムにすることができるはずだ。その時間で、捨ててしまった本を回収するシーンを追加したり、キョウコの母と田島の会話をもっと掘り下げたり、来るべきタイミングで警察が来ない理由を説明したり、キョウコと田島が互いへの思慕の情を募らせるシーンをもっと丹念に描いたりできるはずだ。中田監督はいったい何を撮りたかったのか。本来ならば、編集に費やす時間を使って、やたらとうるさいリップ音やセックスシーンの結合部の抽送音の音量をせっせと弄くっていたのだろうか。

 

総評

一言、つまらない。多重人格ものとしてあるべき新しさがないし、ホラー要素にも欠ける。飛鳥凛その他の女優の裸体を鑑賞したいという向きには自信をもってお勧めするが、ホラー、サスペンス、ミステリ、スリラーなどのジャンルを好むシリアスな、ハードコアな映画ファンにはとてもお勧めはできない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

「後で連絡するね」

We’ll be in touch. 日本語的に考えると、主語=私となり、I’ll contact you later.となる。それでも特に問題はない。ただ実際には“We’ll be in touch.”=私たちは連絡状態になる、という表現が好んで使われる。『 ア・フュー・グッド・メン 』でも、“You’re not going anywhere, Colonel.”という台詞があるが、「大佐、あなたはどこにも行かないでしょう」ではなく、「(私はあなたを)どこにも行かせませんよ、大佐」のような訳となる。この辺の主語の感覚が英語の面白いところ。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, スリラー, 日本, 水橋研二, 監督:中田秀夫, 配給会社:KADOKAWA, 飛鳥凛Leave a Comment on 『 殺人鬼を飼う女 』 -エロシーンを減らして再編集せよ-

『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

Posted on 2019年8月22日2020年4月11日 by cool-jupiter

シークレット・スーパースター 80点
2019年8月19日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ザイラー・ワシーム メヘル・ビジュ アーミル・カーン
監督:アドベイト・チャンダン

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アーミル・カーンが出演だけではなく製作も手掛けた作品。何故にこのような作品が100館規模で上映されないのか。日本の配給会社に勤める方々に真剣に考えて頂きたいものだ。最近のインド映画は意図的に歌と踊りを減らしつつあるが、そのことが彼の国の映画のエンターテインメント性やメッセージ性を些かも減じていない。ということは、それだけ映画製作に関して確固たるポリシーとノウハウを有しているのだろう。極東の島国の住民としては羨ましい限りである。

 

あらすじ

インドの片田舎に住むインシア(ザイラー・ワシーム)は、いつかインド最大の音楽賞であるグラマー賞の獲得を夢見る少女。だが頑迷固陋な父親は彼女の夢を決して肯定しない。ある日、インシアはブルカを纏って顔や体を隠して、“シークレット・スーパースター”というハンドルネームで自分の歌をYouTubeに投稿した。動画は爆発的にヒットし、インシアはお騒がせ作曲家のシャクティ・クマール(アーミル・カーン)の目にも留まり・・・

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ポジティブ・サイド

頑固な娘とそれを見守る母親という構図は『 レディ・バード 』そっくりである。しかし、そこに厳格すぎる父、というよりも田舎(という閉鎖社会)の悪しき因習、価値観、行動原理などをすべて体現してしまったような父親が加わるだけで、サスペンスとヒューマンドラマの要素が倍増した。なぜなら、インシアやその母ナズマは父親そして夫という一人の人間に闘争を挑むのではなく、その先にあるインドという国が抱える男尊女卑的な思想や体制に挑戦しているからだ。暴君然として振る舞う父親に我々は嫌悪感を抱く。そして、誰かこの男を思いっきり懲らしめてやってくれと願ってしまう。だが、物語は安易にそれをしない。凡百の脚本ならば、アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールをこの父親と対峙させて、娘の才能を自分に託すように言わせてしまうかもしれない。もしくは、エクストリームにアホな展開にしてしまうなら、シャクティに「俺はちょうど離婚が成立した。だから、お前の嫁は、娘ごと俺が頂く」と言わせてしまうことも考えられる。しかし、それでは意味が無い。本作は、この母と娘の自立への旅路をある意味では非常にコメディックに、また別の意味では非常にポリティカルに描き出す。以下、ネタばれ。

 

シャクティの嫁さん側の弁護士に頼ろうという発想が面白い。笑えてしまう。だが、インシアのこの発想は、単純にfunnyなだけではない。彼女が目指すのは、因習の打破。だが、それは非常に強固に人々の内側に根を張っている。それを壊す、あるいは超えるために民主主義的に成立したルール、法律に則るというのは現実的かつ現代的である。象徴的なのは空港のシーン。当たり前のことだが、暴君である父親も、飛行機に積み込める荷物の重さや数の制限には従うのである。法律やルールを最大限に利用して、母と子どもたちが自由の身になるシークエンスのカタルシスは筆舌に尽くしがたいものがある。

 

それにしても、主演のザイラー・ワシームは『 ダンガル きっと、つよくなる 』の姉妹の姉のギータだったのか。確かにどこかで見た気がしたわけだ。立派に成長しつつあるが、見る角度によってはJovian一押しのヘイリー・スタインフェルドにちょっと似ている。奇しくもヘイリーもザイラーもギター少女。What an amazing coincidence! ヘイリーのファンは『 はじまりのうた 』を観るべし!そして母親役は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも、ムンニーの母親を演じていた。娘のためにあらゆる手を尽くそうとする姿勢には純粋に心を打たれるばかりだ。

 

Back on track. ザイラー演じるインシアは感情の起伏が激しく、中盤まではやや感情移入しにくいキャラクターだった。だが、それも終盤手前で明かされるある出来事の真相によって、彼女が受けるショックの大きさを逆説的に表すための布石なのである。なぜ『 旅猫リポート 』は、こうした劇的な演出ができなかったのか。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 ダンガル きっと、つよくなる 』でも顕著だったが、女性に生まれる、そして女性を産むということがインド社会ではこれほどの重しになるのかと驚嘆させられ、また慨嘆させられる。そうした社会の悪弊を打ち破ろうとするインシアの物語のクライマックスは、まるで昨年(2018)のアカデミー賞を受賞したフランシス・マクドーマントのようであった。何というカタルシスであることか。

 

本作は単なる女性救済の物語ではない。男性のあるべき姿についても大いなる示唆を与えている。かといって、典型的な、紋切り型のヒーロー像ではなく、極めてユニークな男性像である。それぞれインシアの同級生、インシアの弟、そしてアーミル・カーン演じる音楽家である。健気さを読み取る人もいるだろうし、優しさを読み取る人もいるだろう。あるいは気高さを見出す人もいるかもしれない。男として彼らの姿に何かを感じ取らない者は、よほどの完璧超人か、あるいは鈍感を極めたダメ男かのいずれかであると断言させていただく。そうそう、インシアと同級生のチンタンはパスワードについてとあるやり取りを行うが、類似のあるいは模倣のシークエンスが、今後日本の少女漫画の映画化作品でちらほら見られると予想しておく。このシーンではJovianの脳裏では『 ロマンティックが止まらない 』と『 ロマンティックあげるよ 』の両方が流れた。我ながらオッサンだなと実感してしまう。

 

ネガティブ・サイド

インシアがYouTubeに投稿する動画は、もう数本あってもよかったのではないか。最後の最後にアーミル・カーンが歌と踊りで大いにエンターテインしてくれるとはいえ、本作は思ったよりも歌の成分が少なめである。もう少し、このギータ・・・、ではなくギター少女の音楽活動を鑑賞したかった。

 

また、アーミル・カーンが本格的に物語に絡んでくるのに、かなりの時間を要する。この不世出のスーパースターの登場を映画ファンは楽しみにしているのだから。出し惜しみはよろしくない。インターバルのタイミングと併せて、ストーリー進行のペーシングをもう少し速めても良かったのではないか。

 

総評

シネ・リーブル梅田はお盆期間中から連日の満員御礼である。エンドクレジット終了後には「いよっ!」という掛け声、口笛、拍手がごくわずかだが発生した。これは『 カメラを止めるな! 』以来である。娯楽性とメッセージの両方をハイレベルで追求した傑作である。上映してくれる箱の数は少ないが、是非とも多くの方に鑑賞頂きたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Keep it up.

アーミル・カーンが序盤で言うセリフである。意味としてはKeep up the good work. とほぼ同じと考えていい。今後もグッジョブを続けて欲しい相手に言おう。

 

Can I have a window seat?

これはインシアが空港で言う台詞。Can I have ~? で飲食物の注文から、相手の名前や住所、電話番号、メールアドレスなどの contact information まで、何でもリクエストが可能である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アーミル・カーン, インド, ザイラー・ワシーム, ヒューマンドラマ, メヘル・ビジュ, 監督:アドベイト・チャンダン, 配給会社:カラーバード, 配給会社:フィルムランド, 音楽Leave a Comment on 『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

『 イソップの思うツボ 』 -このようなアンフェアな演出や伏線を許すな-

Posted on 2019年8月19日2020年4月11日 by cool-jupiter

イソップの思うツボ 45点
2019年8月16日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:石川瑠華 井桁弘恵 紅甘
監督:浅沼直也 上田慎一郎 中泉裕矢

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『 カメラを止めるな! 』や『 お米とおっぱい。 』の上田慎一郎が満を持して(かどうかは分からないが)世に送り出す作品ということで、期待はあった。一方で、上田監督の才能を最も活かせるのは、こじんまりとした映画であるという印象を抱いているのも事実である。果たして本作はどうか。上田監督らしさはあるものの、フェアかアンフェアかで、かなり意見が割れるところであろう。

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あらすじ

内気な女子大生の亀田美羽(石川瑠華)は、学校で独りだった。一方でクラスメイトの兎草早織(井桁弘恵)は家族そろって芸能人。仕事も順風満帆で、恋愛にも積極的だった。接点のなさそうな二人であったが、ある日、新任講師が講座を担当することがきっかけて・・・

 

以下、ネタばれや他作品に関する記述あり

 

ポジティブ・サイド

石川瑠華という役者のポテンシャル、それをまずは評価したい。はっきり言って演技が上手いかどうかで言えば、「下手ではない」というレベル。けれど、母親が心配そうに、それでいてどこか嬉しそうに見つめるのは、この娘の表面に見える弱さや脆さ、儚さの奥深くに芯の強さが潜んでいることを見抜いているからだろう。そう感じられる母娘のやりとりは、非常に説得力のあるものだった。彼女のハンドラーは少女漫画の映画化作品に端役で登場させてやって欲しい。浜辺美波や森川葵らから、何かを学び、才能を開花させるかもしれない。頑張れ~!

 

井桁弘恵。かわいい。以上。

 

紅甘。2017年にシネ・リーブル梅田で鑑賞した『 光 』に出ていた。島の少年がじいさんからコンドームを手に入れ、猿のようにセックスに耽る相手。山中でおっさん相手に立位でセックスしながら、カメラ(少年)に向かってアンニュイな表情を見せるシーンが印象的だった(芸術的な意味で)。

 

ネガティブ・サイド

【予測不能!】、【騙されてほしい!!】などの惹句は逆効果である。というよりも、一部のハードコアな映画ファンやミステリファンにとっては有害ですらある。『 マスカレードホテル 』のレビューでも指摘したが、ミステリファンという生き物は、あらゆる媒体から情報を引き出し、事前に推理を組み立てるのである。ましてやカメ止めの上田慎一郎。ドンデン返しの存在を予想するのは容易い。我々の興味関心は、どのようにしてひっくり返すのかである。その意味で、本作は終盤のドンデン返しが弱い。というよりも、それほどひっくり返らなかった。まあ、初打席で場外ホームランを飛ばしてしまうと、二打席がきれいなセンター前ヒットでも、物足りなく感じてしまうようなものである。

 

本作にはフェアな伏線とそうではない伏線がある。アンフェアな伏線の最たるものは、『 シックス・センス 』的な演出を使わなかったことである。具体的に言えば、母と娘がしっかりと会話を交わしながらも、母親は何にも触れない、何も動かさないという描写をしなかったことである。これは酷い。ここから何かを読み取れというのは無理だし、アンフェアである。Misleadingを誘うのは別に構わない。というか、『 ユージュアル・サスペクツ 』以降、我々は足を引きずって歩くキャラを見るたびに身構えるようになってしまった。『愚行録 』の妻夫木聡然り、『 ブレス あの波の向こうに 』のエリザベス・デビッキ然り。だから、観る側が勝手に早合点したり読み違えたりするような思わせぶりな描写は許容できるのだ。しかし、終盤の種明かしで「あのシーンの真相はこれで御座い」と言われても、このようなアンフェアな描写ではブーイングしか飛ばせない。「好きな人、できた?」という母の台詞に、「お母さん、大好きだよ」ぐらいの台詞を返しておけば、まだ許せた。このような演出や描写は心底から許せないと思う。観る側をびっくりさせたい、予想を裏切ってやりたいという思いが完全に空回りしたとしか判断できない。

 

一応、フェアな伏線にも触れておくと、美羽の行動の全てである。特に、兎草早織たちと新任講師の会話を淡々と撮影し続ける美羽にかなりの人が違和感を覚えた/覚えることだろう。また、イソップと聞けばたいていの人は「ウサギとカメ」の寓話を思い浮かべるはずだ。だから美羽が早織を追い越すというか出し抜くプロットであることは観る前から分かる。そして、カメ、ウサギ、イヌがロープで縛られているショット。誰かが彼女らを罠にかけることが示唆されている。ウサギとカメ(とイヌ?)の競争をだが、中途半端にフェアな伏線が張られていることで、アンフェアな伏線、さらには非現実的な要素がかえって目立ってしまう。以下、特に気になった点を箇条書きにする。

 

・芸能人のマネージャーになるに際して、身辺調査はないのか。

・兄が大学講師であるにしても、どのようにしてドンピシャのタイミングでドンピシャの講座をゲットしたのか。

・医師が袖の下をもらってトリアージの判断を変えるか。得られるカネよりも、医療訴訟のリスクの方が遥かに大きいだろう。

・そもそも売れっ子芸能人と、どのようにして不倫関係となり、ベッドインしたのか。それがマスコミに一切すっぱ抜かれなかったのはご都合主義でないか。

・亀田家はいつ、どこで、どのようにして銃の扱いに習熟したのか。

 

その他、とっくに『 インシテミル 』で使われたネタをドンデン返しの一部にしてしまうなど、新鮮味にも欠けたし、あるキャラの関西弁の不自然さには辟易させられた。方言が下手なのは許せる。しかし、変であることは許されない。総じて、リアリティに欠けるし、2パート目と3パート目もつながりが著しく弱い。本当に観る者の度肝を抜きたかったのであれば、似非関西弁のヤクザの下に濱津隆之演じる日暮隆之監督を連れてくればよかったのだ。そうすれば劇場のボルテージは一瞬で最高潮に達したことだろう。

 

総評

劇場鑑賞するに当たって最も重要なことは、過度な期待を抱かないことである。一部に「ほほう」と感じられるtwistもあることはあるが、アンフェアな伏線の張り方、演出の方が遥かに多い。兎にも角にも、期待に胸躍らせないように。本作を何らかの形で堪能できたという向きには、サウンドノベルの『 街 運命の交差点 』と『 428 封鎖された渋谷で 』をお勧めしておきたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

 

「 復讐・・・完了 」

Mission … complete.

 

これ以外に思いつかない。

 

「マジ最低!!!」

You really do suck!!!

 

suckは定番。人でも物でも出来事でも、貶してやりたい時はまずはsuckでOK。

 

「好きな人、できた?」

Did you fall for someone?

 

fall for 誰それ = 誰それを好きになる。何でもかんでもloveを使うと少々重いし、バリエーションにも欠ける。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ミステリ, 井桁弘恵, 日本, 監督:上田慎一郎, 監督:中泉裕矢, 監督:浅沼直也, 石川瑠華, 紅甘, 配給会社:アスミック・エースLeave a Comment on 『 イソップの思うツボ 』 -このようなアンフェアな演出や伏線を許すな-

『 ダンス ウィズ ミー 』 -看板に偽りあり-

Posted on 2019年8月18日2020年4月11日 by cool-jupiter
『 ダンス ウィズ ミー 』 -看板に偽りあり-

ダンス ウィズ ミー 45点
2019年8月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三吉彩花 やしろ優 宝田明
監督:矢口史靖

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『 マンマ・ミーア! 』のレビューで、Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『 オズの魔法使 』と『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』で、次点は『 ウエスト・サイド物語 』であると述べた。ミュージカルというジャンルは、まあまあ好みなのだ。なので、それなりに期待して本作に朝イチで突撃してきたが・・・

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あらすじ

大手商社に勤める鈴木静香(三吉彩花)は、ふとしたことからマーチン上田(宝田明)の催眠術によって、音楽を聴くと歌わずにはいられない、踊らずにはいられない体質になってしまった。街中でも職場でもレストランでも歌って踊ってしまう静香。なんとか催眠を解くために、いんちき催眠助手の千絵(やしろ優)と共にマーチン上田を追うが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 いぬやしき 』で木梨憲武に散々ブー垂れていた女子高生が、わずかな歳月で立派なOLになっていた。女子も三日会わざれば刮目して見なければならないようである。本作の成功は、主役たる三吉彩花の歌唱力とダンス力にかかっている。その意味では、三吉はよく頑張ったと言える。自宅マンションのロビーではパンチラを厭わないスピンを披露し、「お、これは本物か?」と思わせてくれた。カメラ・オペレーターにも“Good job!”と言わせていただく。キム・ヨナが印象的だったが、やはり踊りそのものを魅せるには、スラリと手足が伸びた長身の方が有利である。三吉はまさに適材適所だった。

 

おそらく最も良い仕事をしたのは、やしろ優だろう。一人自家発電、一人自己啓発セミナーができそうなテンションの高さで、「ああ、俺もたまにはこれぐらいポジティブに人生送らなアカンな」と思わされた。彼女の前向きな姿勢に共感する、あるいは胸を打たれる視聴者は多いだろう。仕事にくたびれた社畜リーマンなどは特にそうではなかろうか。人生に疲れていると思うなら、やしろ優にエンパワーされようではないか。選曲も昭和全開なので、30代後半以上なら楽しめるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

『 スウィングガールズ 』の矢口監督はどこに行ってしまったのか。この監督は音楽的なセンスがある人だったはずだ。あの、横断歩道の効果音でジャズのリズムを女子高生たちに感じ取らせる演出には感心したものだった。ならば、音楽を聴くと踊らずにはいられなくなるという体になってしまった静香を、もっともっと思わぬ形で躍らせ、観客をエンターテインしなくてはならない。ここでそう来るか、と感じたのは函館駅の時計ぐらい。それも踊らずに歌うだけ。それを見たムロツヨシが「マジか・・・」と絶句するが、別に衝撃を受けるシーンでも何でもないだろう。ちょっと変な奴だな。ぐらいにしか思わないはずだ。そうではなく、「え、こんなんでも踊っちゃうの?」というシーンが必要だったのだ。極端な例を挙げれば、心療内科を受診する際にMRIで撮影をされたが、そこで出る音にすら反応してしまうぐらいの極端な演出があれば、医師ももっと茫然自失して、匙を投げることができたはずだ。静香がちょっと困った女子にしか見えないのが問題なのである。本当に困っている状態から、旅をするうちに、歌って踊ってしまう体質によって、少しずつ人生を前向きに捉えられるようになっていく。そんなプロットが求められていたはずだ。本作にはそれが欠けていた。

 

その歌って踊って体質が役に立ったという演出も弱い。特にchay演じるギター女子とコラボして投げ銭を稼ぐというのは、アイデアとしては悪くないが、その歌と踊りのクオリティの低さゆえに、かえって作品の面白さを減じている。もっともっと、はっちゃけた歌と踊りが必要だった。思わずおひねりをあげたくなるような歌でも踊りでもなかった。本作のハイライトは、実はトレイラーに収められているオフィスで踊るシーン、そしてシャンデリアを空中ブランコにしてしまうレストランのシーンである。そこ以外に盛り上がらない。

 

いや、それはさすがに言い過ぎか。上でも述べたように、最も良い仕事をしたのはやしろ優であり、彼女の肉感的なダンスは確かに魅力的だった。しかし、ここにトーンの問題がある。容姿にも恵まれず、金銭的にも余裕が余りなさそうな千絵が元気いっぱい幸せいっぱいで、容姿端麗、高給取り(っぽい)静香が足取り重く、心持ちも暗いのだ。途中から、タイトルにある“ミー”とは誰を指すのかが分からなくなった。本作をミュージカルとして鑑賞しようとすると、こうした混乱が必然的に起こってしまう。本作を凸凹コンビによるバディ・ムービー、ロード・ムービーとして見るなら、普通にありである。だが本作は【 最高にハッピーなコメディミュージカル 】と銘打っている。看板に偽りあり、羊頭狗肉である。

 

総評

本当なら35点をつけたいところだが、三吉彩花のスタイルの良さとやしろ優の好演で10点オマケしておく。これは韓国かアメリカでリメイクした方が、遥かに面白くなりそうだ。その場合は、『 サニー 永遠の仲間たち 』を手掛けたカン・ヒョンチョル監督か、『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』や『 ステータス・アップデート 』のスコット・スピア監督にお願いしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

 

「そもそもミュージカルっておかしくない?さっきまでフツーにしゃべってた人が急に歌いだしたりしてさ」

For crying out loud, aren’t musicals weird? You are talking, and the next thing you know you are singing!

For crying out loudは疑問やリクエストを強調するための表現。the next thing you knowで、「次の瞬間には」ぐらいの意味。こういう会話を逐語訳すると往々にして大失敗する。映画やドラマの台詞を訳そうと思うと、普通の参考書ではなく映画やドラマをたくさん参照しなければならないのだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ミュージカル, やしろ優, 三吉彩花, 宝田明, 日本, 監督:矢口史靖, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ダンス ウィズ ミー 』 -看板に偽りあり-

『 東京喰種 トーキョーグール【S】』 -アクション爽快度アップ、メッセージ性ダウン-

Posted on 2019年8月18日2020年4月11日 by cool-jupiter

東京喰種 トーキョーグール【S】 65点
2019年8月14日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:窪田正孝 山本舞香 松田翔太
監督:川崎拓也  平牧和彦

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前作『 東京喰種 トーキョーグール 』は非常に示唆的なメッセージに富む作品であった。何故、単に喰種ではなく東京喰種なのか。それを背景に考えれば、グールという存在が何を象徴しているのかが見えてきた。それでは、本作はどうか。エンターテインメント性はアップしたものの、そうしたメッセージ性は薄れてしまった。

 

あらすじ

半人間・半喰種になってしまったカネキ(窪田正孝)は、自分の居場所を模索しながら「あんていく」で働いていた。そこに美食家=グルメの異名を持つ月山習(松田翔太)という喰種が現れる。彼は半分人間であるカネキの匂いに異常な執着を示して・・・

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ポジティブ・サイド

CCG捜査官とのバトルよりも、喰種同士のバトルの方が盛り上がる。それは間違いない。月山とカネキ&トーカの激闘は赫子をあまり使わない、まさに肉弾戦。車がひっくり返って終わり、コンクリの橋に穴をあけて終わりだった前作のバトルシークエンスを、今回はさらに過激にレベルアップさせてきた。とにかく月山邸のチャペル内の椅子やら壁が壊れまくる。CGではなくワイヤーアクションでも、迫力ある絵は撮れるのである。かつての東宝怪獣のピアノ線での操演はもはやロストテクノロジーになってしまった。ワイヤーアクションもいつかそうなるかもしれない陳腐で旧態依然とした技術かもしれないが、CGは『 ライオンキング 』並みのレベルに達しないと、どうしても偽物感がつきまとう。それをぎりぎりまでそぎ落としてやろうと言う川崎・平牧両監督の意気は買いたい。

 

本作は、脚本段階からそうだったのか、それとも撮影中に軌道修正が施されたのか、主人公たるカネキではなく、松田翔太演じる月山習がsteal the showだった。近年では『 ボーダーライン 』がそうだった。エミリー・ブラントが主役だったはずが、ある時点からベニシオ・デル・トロがsteal the showをしてしまった。漫画版の貴族的な月山を表現する演技もそれなりに良かった。特に、フィクションの世界に惑溺することがいかに救いたりえるのかを語る場面や、サヴァランの書籍を恭しく差し出してくれるシーンが印象に残った。本のネタをエサにリゼに引っかかってしまったカネキが、同じ手口にまたもや引っかかってしまうのは、それだけ月山の演技が真に迫っていたからだと勝手に受け取らせてもらう。

 

だが、松田の真骨頂は月山の変態性を表す場面だ。手洗いでカネキの血液を含んだハンカチの匂いに恍惚の境地に至るのはハイライトのひとつである。普通、人はトイレで深呼吸はしない。しかし、それをやってしまうところが月山の普通ではないところで、それをしながらエクスタシーを感じているかのごとく、上半身をエビ反りさせてしまうのは、さすがに18禁・・・ではなくR-15指定である。冒頭の登場シーンでも、自己紹介からダンス、目玉をくりぬいて食べるところまで、松田の変態演技はとどまるところを知らない。本作の主役はカネキではなく月山である。異論は認めない。

 

前作は人間社会の中で喰種に居場所があるかどうかを問うていたが、本作では人間と喰種の個と個の関係が描かれる。これは漫画および映画の『 寄生獣 』が描けなかったテーマである。ただ、このあたりのメッセージ性が貧弱だった。これに近いテーマは小野不由美が『 屍鬼 』で既に描いているからだ。それでも、異人との共生は現代日本の主要な課題である。映画人は、エンタメ要素以外にも社会的なメッセージを発さなければならない。時代と切り結ぶような作品を生み出す気概を持たねばならないのである。

 

ネガティブ・サイド

カ  ネ  キ  の  マ  ス  ク  は  ど  こ  に  い  っ  た  ?カネキ自身も、ウタと再会して「あ、時々使ってます」みたいなことを言っていたではないか。ここぞという場面であれを装着しないことには、優男のカネキが野獣になれないではないか。格闘訓練を積んで、ただの人間をぶちのめすだけで満足してはならない。マスクを装用して、グールに内在する凶暴さを引き出さなくてはならない。トーカも同様で、グールの象徴たるマスクをまともにかぶっているのが月山だけでは、月山が主役扱いされてもおかしくはない。

 

トーカも、清水富美加から山本舞香にチェンジしたことそれ自体は受け入れよう。だが、似せる努力をしてほしい。キャラが変わり過ぎだ。たとえば前作で「人しか喰えねえんだ!!!」と憤怒と悲嘆の両方を目に宿しながら叫んだトーカはもういなかった。

 

本作はせっかくのR-15指定なのだから、エロ描写・・・じゃなかったグロ描写にもっと果敢に挑戦して欲しかった。両目を抉り出すシーンは肝心なところを映さなかったし、グールレストランでの人間解体ショーの描写も生ぬるかった。いや、血がピューピュー流れ出るような描写はなくてもいい。だが、せっかく美食家の月山の優雅な食事シーンを丹念に描写するなら、それら肉料理の調理シーンも映し出そうとは思わないのか。月山という一癖も二癖もあるグールを描くには、細部や周辺のリアリティまで追求しなくてならないとは思わなかったのだろうか。

 

リアリティについて付言するなら、いい加減に眼球の解剖を学んだ方が良い。人間のみならず生物の眼球には、様々に異なる筋肉がついている。そうでなければ、我々はこれほど自由に眼球を動かせない。また、冒頭のマギーの死亡シーンで、墜落音が小さすぎる。あれではせいぜい二階から落ちた音だ。それにそこらじゅうに飛び散っていて然るべき窓ガラスの破片が見当たらなかったのは何故だ。絵コンテ段階でも撮影中でも編集中でも、誰一人として気付かなかったのか。そんな馬鹿な・・・

 

総評

これも続編ありきの作り方をしている。三作目も監督が変わるのだろうか。もちろん、シリーズを追うごとに監督が代わっていく映画作品などごまんとある。しかし、前作をしっかりとリスペクトし、踏襲するところが踏襲する。大胆に変えてしまうべきは変えてしまう。そうしたメリハリをしっかりとつけてほしい。また、次作では窪田正孝には『 きっと、うまくいく 』の撮影に臨む前に徹底的に節制したというアーミル・カーン並みに若さを保ってほしい。前作を楽しめたという人なら、まずは鑑賞すべし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

カネキくんが食べながらカネキくんを食べたい!

I want to eat you, Kaneki-kun, while you, Kaneki-kun, are eating!

 

カネキくん!君はもっと自分が美味しそうなことに気づいたほうがいい!

Kaneki-kun! You should at least know by now how delicious you smell!

 

日本語を英語に置き換えるのはなかなか骨が折れる作業である。しかし、英語力を高めたいと思うなら、どこかの時点で日英翻訳のトレーニングが必要である。逐語訳は、してはならない。これまでに自分が接してきた英語のフレーズやセンテンスを総動員して、最も原文に近い意味を自分なりにクリエイトしてみよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アクション, 山本舞香, 日本, 松田翔太, 監督:川崎拓也, 監督:平牧和彦, 窪田正孝, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 東京喰種 トーキョーグール【S】』 -アクション爽快度アップ、メッセージ性ダウン-

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