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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』 -考えるな、感じろ-

Posted on 2018年11月1日2019年11月21日 by cool-jupiter

ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 65点
2018年10月28日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アナ・ケンドリック レベル・ウィルソン ヘイリー・スタインフェルド ブリタニー・スノウ アンナ・キャンプ ジョン・リスゴー ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:トリッシュ・シー

 

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女子高生がそのまま女子大生になり、女子寮でワイワイギャーギャーと騒ぐノリの本シリーズも遂に卒業、完結編。前二作で発展を見せたベラーズの主要な面々とトレブルメーカーズやその周辺の男子らとの関係を、本作は開始3分で切って捨てるかのごとく説明してしまう。なるほど、ベラーズの面々が思い悩む対象はもはや男ではないというわけだ。さて、では本作で彼女らは何から卒業するのだろうか。

 

あらすじ

バーデン大学の名門アカペラ部ベラーズ。世界大会で優勝を成し遂げ、アカペラに注いだ青春も終わりを告げた。メンバーそれぞれが社会の荒波に乗り出していったが、ある者は父親不明の子を宿し、ある者は会社を辞め、ある者は失業中で、と皆が皆、順風満帆というわけではなかった。 そんな折に元ベラーズの面々にエミリー(ヘイリー・スタインフェルド)からリユニオンの招待状が届く。ベッカ(アナ・ケンドリック)やエイミー(レベル・ウィルソン)らは勇んで駆けつけるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

こうしたシリーズ物の常として、過去のキャラとの再会は絶対に不可欠の要素である。ゲロ吐きオーブリ-やステイシーらもしっかりと登場してくれる。もちろん例の審査員二人組もいるので安心してほしい。ステイシーに至っては、妊娠中だ。時の流れだけではなくキャラクターたちの年齢の積み重ね、状況や人間関係の変化、それでも変わらないアカペラへの情熱やベラーズへの愛着が、開始10分で全て描かれる。『 ジュラッシク・ワールド 』が不評だったのは、懐かしのグラント博士やマルコム博士を登場させなかったことが一因だ。一方で、『 スター・ウォーズ/フォースの覚醒 』は過去作の振り返りやファンサービス要素をてんこ盛りにしてしまったところが一部のファンの不興を買った。本作は、そのあたりをかなり良い塩梅にまとめていると言える。何よりもシリーズ恒例だった、ステージ・パフォーマンス中の粗相がないのだ。アホな女子大生物語では最早ないのですよ、と製作者がファンにメッセージを送っているのである。

 

一方で、しっかりと笑うべきシーンも用意してくれている。何よりも笑ってしまったのが、ジョン・リスゴーがChicagoの“素直になれなくて”のあの一節を熱唱するところ。『 マンマ・ミーア! 』でピアース・ブロスナンが歌うS.O.Sを上回る惨劇である。周りが皆、本職ではないとはいえ、それなりに歌唱力のあるメンツ揃いだから、なおさらその酷さが光り輝く。

 

本作は色々な意味で、父親というpositive male figureたるべき存在がフォーカスされる。家父長制的な面を家庭内に色濃く残すアメリカ社会に女性として出ていく面々がいる中で、ある者は戦い、抗い、ある者は素直に愛情を打ち明ける。家族の在り方を社会の在り方に重ね合わせているわけだ。のみならず、ベラーズというファミリーの物語にも一つの終止符が打たれるわけだが、そこには『 焼肉ドラゴン 』に見られた家族像と共通するものが確かにあった。少しだけだが、ほろりとさせられた。

 

ネガティブ・サイド

監督がころころ変わるシリーズなので仕方がないのかもしれないが、アフレコの多用はいかがなものか。シリーズで一番アガるのは、やはりリフ・オフ対決で、本作でも漏れなくリフ・オフはある。しかしながら、そこでアフレコをあからさまに用いてしまうと対決の臨場感が薄れてしまう。ここはどうしてもマイナスの評価をつけざるを得ない。

 

またコンテストが米軍基地慰問ツアーというのは、あまりにも能天気すぎやしないか。今作の大きな肝は、体は大きくなっても頭や心はどこか子どものままのベラーズの面々が、精神的な成長と成熟を果たすことだったはずだ。米軍のためにエンターテインメントを提供するというのはWWEなどもやってきたことで、それ自体は別に構わない。しかし本作のテーマに沿っているかと言われれば疑問である。キャラ設定の都合でこうなりましたという感が拭えない。一方で、メンバーが巻き込まれるアクシデントの解決には米軍は動かない。もう少し何か、ストーリーにリアリティというか深みというか、一貫性が欲しかった。

 

総評

前二作(『 ピッチ・パーフェクト 』、『 ピッチ・パーフェクト2 』)を鑑賞していないと何のことやら分からないシーンや人間関係もあるが、本作からいきなり見始めても、なんとなく楽しむ分には問題ないだろう。できればレンタルやネット配信で復習してから劇場へ行ってもらいたいが、何かの間違いでチケットが手に入った、友人知人に誘われたという人は、臆することなく行ってみよう。

 

ところで、本作鑑賞前にグッズ売り場を覗いていたら、とある観客が売り場の係員に本作を指して「これってどういう映画なんですか?」と尋ねていた。その答えが奮っていた。『いやあ、僕も観たわけじゃないんですが、たしかオペラの話だったような・・・』いやいや、アカペラとオペラは全くの別物やで?と無関係ながら突っ込みを入れられなかった自分に今も悔いが残っている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:トリッシュ・シー, 配給会社:シンカ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』 -考えるな、感じろ-

『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

Posted on 2018年10月29日2019年11月4日 by cool-jupiter

ここは退屈迎えに来て 50点
2018年10月25日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:橋本愛 門脇麦 成田凌 渡辺大知
監督:廣木隆一

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以下、ネタばれに類する記述および私的考察あり

 

小説でも映画でもゲームでも、まず手に取ってみたくなる、もしくはクリックしてみたくなるのは、そのタイトルが魅力的なものである時だ。タイトルが魅力的というのは、こちらがそのタイトルの意味をもっと深く知りたい、と思わせるような妖しい力を持っているということだ。少年時代に『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』と出会った方々ならば、そのタイトルの不可思議さに惹き付けられた記憶、印象が鮮明であると思う。本作はしかし、先行する魅力的なタイトルを持つ映画と同じレベルに達しなかった作品である。

 

あらすじ

私(橋本愛)は東京で過ごすこと10年、「何者」かになることができず地元に帰り、フリーのタウン誌の記者をしている。ある時、友人の誘いで高校時代の憧れの存在だった椎名(成田凌)に会いに行くことになる。一方では、高校時代の椎名の彼女「あたし」(門脇麦)は、地元の冴えない男と付き合いながらも、椎名のことを吹っ切れずにいる。青春の輝き、東京への憧憬、椎名という太陽のような存在。誰もが何かを抱えて生きていく姿を、時系列を変えて、オムニバス的に活写していく作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、最も強く印象に残ったのは渡辺大知演じる新保だった。Jovianの気のせいなのかも知れないが、おそらくゲイもしくはバイセクシャル、もしかしたらトランス・ジェンダーなのではなかろうか。本人がそれを自覚できていないのかもしれないが。煙草の吸い方が、男のそれではないように思えて仕方がなかった。また、終盤に新保が原付きで疾走する場面があるのだが、そこでの光の使い方には是非とも注目してほしいと思う。あれは乳房の象徴にしか見えなかった。独特の哲学を持つキャラで、「幸福であるためには、まず何よりも孤独であれ」などとまるでアリストテレス哲学のような思想を披歴してくれる。彼の幸福論および死生観は、Jovianのそれと近く、ある観客によっては非常に強く共感でき、また別の観客によっては嫌悪の対象となろう。どう感じるか気になる方は、劇場へ行くべし。

 

本作は『 桐島、部活やめるってよ 』と同工異曲の青春群像劇である。青春というよりも、モラトリアムと言った方が近いだろうか。椎名という太陽のような存在に照らされていた高校時代が、ある者にとっては神話的な崇高さを帯びているところが、滑稽ではあるがリアリティの源泉にもなっている。程度の差こそあれ、こうした傾向は青春を完全な過去という遠近法で見られる人にならば、ある程度共通してみられるものだ。アメリカのちょっとしたテレビドラマや映画の同窓会シーンでは、アメフトの試合のあのパスが云々、野球の試合のあの補殺が云々、プロムで誰それと誰それが云々・・・ 人は誰もが否応なく成長するが、その成長を拒む人もいるし、個人の内面レベルで成長を拒む部分も存在する。そうした、ある意味では非常にダークな心の領域を本作は見事にあぶり出す。同様のテーマの作品に興味があれば、『ワン・ナイト』(原題は”Ten Years”)をお勧めしたい。

 

この作品の特徴として、閉鎖空間でのロングのワンカットを多用するということが挙げられる。ワンカットと言えば『 カメラを止めるな! 』が近年の白眉だが、こちらは車内、室内、ファミレス内、ラブホ内、ゲーセン内と、とにかく閉鎖空間での撮影にこだわりを見せる。このことが、観る者に否応なしに最も閉鎖された空間=人間の心を意識させる。本作は椎名という太陽に照らされた者たちと、椎名の陽の部分にまったく興味のない者たちとに二分される。そんな彼ら彼女らの紡ぐアンソロジーを、時系列をバラバラに描くのだが、全てが終盤近くのとあるシーンに収斂するにつれて、その意図が見えてくる。製作者が観客を信頼しているということで、私的に評価したい。

 

そうそう、本作はタイトルをスクリーンに映し出すシーンが完璧なのである。『 アメリカン・アサシン 』並みに素晴らしい。これがあるから、色々とケチをつけたくなる箇所があっても、上手くまとまったなという印象を持てるのだ。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、すでに『 勝手にふるえてろ 』で使われたネタである。こうしたトリックというかツイストは、どうやっても最初に使った者/物の勝ちなのである。もしも『 勝手にふるえてろ 』を未見なら、すぐに観よう。

 

渡辺大知と片山友希以外の若手キャストが、全体的に力不足である。特に橋本愛は、役者業は厳しいかもしれない。『 貞子3D 』や『 Another アナザー』のように、あまり喋らない役であれば良いが、基本的に台詞に抑揚が無さ過ぎる。棒読みとまでは言わないが、どんな作品に出ても、結局は「ああ、いつもの橋本愛か」と思えてしまう。これがニコラス・ケイジやトム・クルーズのレベルにまで突き抜けてしまえば良いのだが、日本でそんな俳優はあまり見当たらない。強いて言えば北野武ぐらいか。本人が本人を演じるのが一番うまいというタイプの役者だ。あるいは、どんな役も自分色に染めてしまうという、演技力ではなく素の存在感、カリスマ、オーラ、そういったもので勝負できる力。橋本愛はそのレベルにはいないし、今後も行かないだろう。と書いてきて、もう一人思い当たった。樹木希林である。一癖あるおばあちゃんキャラは全部この人だった。『 万引き家族 』然り、『 海街Diary 』然り、『 我が母の記 』然り。合掌。

 

閑話休題。本作の最大の弱点(になっているかもしれない)ポイントは、東京に住んでいる人間に、果たしてどれだけ響くかということだろう。ここで言う東京とはもちろん東京都のことではない。地理的あるいは行政的な区分での東京は、東京ではない。Jovianも東京のど真ん中(地理的な意味で)に10年半住んでいたことがあるから分かる。我々が東京と言う時、それは往々にして山手線の内側もしくは周辺であったり、吉祥寺、高円寺、中野などのちょっとした離れ、隠れ家的な雰囲気の街までである。立川は決して東京ではない。況や奥多摩をや。実際にJovianの大学のクラスメイト(正確にはセクションメイト)が、「私は浦和(当時はまだ浦和市だった)に住んでるから、池袋まで40分ぐらい。八王子の人は新宿に出るのに50分ぐらいかかるから、その意味では浦和は八王子より東京なんだよ」と言ったのをよく覚えている。また寮の同級生も「木更津は確かに遠いけど、アクアライン通ったら近いんだっつーの」と言っていたのも覚えている。東京には強烈な重力がある。東京までの距離の近さを競うような意識が近隣の県や市町村にあり、それは東京都内でも同じだった。そうした東京の内部にどっぷり浸かっている人は、本作を見て「超楽しい」と言うだろうか。それとも悲憤慷慨するだろうか。おそらくどちらでもない。無関心を装うか、無関心を貫くかだろう。東京に住んだことがある、あるいは東京の空気がどんなものかを知っていなければ、本作のアイロニーが届かないというのは残念なことだ。

 

総評

観る人を相当に選ぶだろうなと思う。高校生以下はおそらく除外されるし、40代以上の男性にとっては精神的にきつい描写がある。ガールズトークが花開くシーンはそれなりに楽しめるので、「私」もしくは「あたし」に近いアラサー女子にこそ観られるべき作品であるのかもしれない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 成田凌, 日本, 橋本愛, 渡辺大知, 監督:廣木隆一, 配給会社:KADOKAWA, 門脇麦Leave a Comment on 『 ここは退屈迎えに来て 』 -青春と現実の光と影のコントラストが映える-

『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

Posted on 2018年10月24日2019年11月3日 by cool-jupiter

泣き虫しょったんの奇跡 60点
2018年10月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:松田龍平 渋川清彦 イッセー尾形
監督:豊田利晃 

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将棋界が熱い。昨年2017年の羽生善治の前人未到、空前絶後の永世七冠達成と藤井聡太フィーバー、さらに加藤一二三の完全タレント化、それ以前にも映画化された『 聖の青春 』やアニメおよび映画化された『 三月のライオン 』など、将棋ブームが到来し、定着しつつあるようだ。もちろん、コンピュータ将棋の恐るべき進化、特に将棋電王戦でのプロ棋士の通算成績での負け越しや叡王戦での名人・佐藤天彦の完敗を忘れるべきではないだろう。もちろん将棋は偉大なるボードゲームで、その目的の第一は楽しむことである。当然、そこから派生するエンターテインメントも豊かに生まれてきた。近年だけでも小説『 盤上のアルファ 』がNHKでテレビドラマ化される見込みであるし、元奨作家による『 サラの柔らかな香車 』、『 サラは銀の涙を探しに 』も上梓された。そんな中、満を持して瀬川晶司の『 泣き虫しょったんの奇跡 』が映画化と相成った。

 

あらすじ

しょったんこと瀬川晶司は、勉強でも運動でも特に取り柄のない小学生。しかし将棋が大好きな子だった。兄やクラスメイト、隣の家の子らと切磋琢磨するうちに、プロ棋士の存在を知り、それに憧れ、奨励会に入会する。しかし、そこは天才少年、神童たちが鎬を削る過酷な世界だった。しょったんは青春を将棋に懸けるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

松田龍平の演技が光る。顔は瀬川棋士に似ているとも似ていないとも言えるのだが、それはオールデン・エアエンライクがハリソン・フォードに似ている程度には似ていると言えよう。つまり、それほど似ていない。が、雰囲気が実によく似ている。

 

だが、松田よりも特筆すべきは豊川孝弘役(と敢えて書く)を演じた渋川清彦だ。豊川はNHK杯での二歩による反則負けで一躍その名を全国に轟かせ、その後も地味にB1に昇給したり、バラエティやネット配信などで得意の親父ギャグを連発するなど、加藤一二三には及ばないものの、棋界の変人の末席に連なる人物と言える。風貌も相当に似ているし、話し方や表情などもかなり似せる努力をしていたのが見て取れる。その豊川本人が久保役で出演していることにも笑ってしまった。

 

しかし、本作で最も強烈なインパクトを残してくれたのはイッセー尾形である。しょったんの通う将棋道場の席主であり、将棋の技術ではなく、心構えの師匠役を完璧に演じてくれた。はっきり言って序盤の主役はイッセー尾形である。人によっては松たか子であると言うかもしれないが、Jovianの目にはイッセー尾形がより強力な輝きを放っているように映った。

 

将棋というのは躍動感にはどうしても欠けてしまう。それは『 聖の青春 』や『 三月のライオン 』でも、しっかりと描くことはできなかった部分だが、本作は飛車が盤の端から端まで動くのを接写することで、躍動感を生み出した。ありきたりなようでいて、実は新しいこの撮影手法には大いに喝采を送りたい。漫画『 月下の棋士 』の氷室将介のように大きく振りかぶって駒を打ちつけてしまうような演出は一二三だけで十分だ。

 

瀬川の少年時代に少し時間を割きすぎとの印象も受けたが、松たか子演じる小学校の担任の言葉が瀬川にとっての心の拠り所でもあり、またある意味での呪いになってしまっていることを描き出すためには致し方なかったのだろう。実際に将棋指し=芸術家+研究家+勝負師なわけで、この勝負師という部分の弱さ=優しさが対局の相手を利することになってしまう場面がある。情けを知るトップのプロ棋士ならいざ知らず、奨励会の、しかも3段リーグという鬼の棲家では、この甘さは致命傷だ。実際に妻夫木聡演じる奨励会員が「ここでは友達を無くすような手を指さないと勝てない」とこぼすが、これは紛れもない事実だ。激辛流で名人位まで獲った男もいるのだ。そうした弱さを、非常に分かりやすい形で観客に伝えることは、将棋指しの世界の厳しさをそれだけ浮き彫りにしてくれる。元奨の監督ならではであろう。

 

なお、もしもまだ本作を未見で劇場鑑賞を考えている方がいれば、ぜひこちらのニコニコ動画を参照されたい。原作書籍『 泣き虫しょったんの奇跡 』以外に予習しておくべきものがあるとすれば、この動画である。1から5まであるが、ぜひ参照されたい。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、いくつかの弱点も存在する。現実世界に符合しないものが多々描写もしくは説明されるのだ。いくつか気になった点を挙げると、しょったんと親友が将棋道場に足繁く通う描写と説明だ。土日になると開店時間の11:00にすぐに入店したと言うが、瀬川が小学校高学年から中学生にかけての時代はまだ学校週休二日制は導入されていなかった。小学校でも5-6年生は3~4時間目までは授業があったはずで、土曜の11:00に入店は難しいのではないか。また1980年代初頭(‘80~’82)に、電車の駅にはアイスクリームの自販機は無かった。

 

他にも明らかに事実とは異なる描写が見られた。プロ編入試験がプロ相手に3勝と説明されたが、実際は奨励会員に女流棋士も試験官を務めたのだから、この説明はおかしい。一般人の監督であればリサーチ不足と切って捨てるだけだが、元奨の監督なのだから、ここは厳しく減点せざるを得ない。他にも、棋士や奨励会員が一手を指す時に、持ち駒を使う描写がやけに多い。素人のへぼ将棋ならまだしも、プロ一歩手前の実力たちの対局を描くにあたって、この辺は少し気になった。

 

また、瀬川のプロ編入試験の5局目で席主や元奨連中が一様に瀬川のニュースを知って驚くのだが、これも不自然極まりない演出だ。将棋の駒の動かし方すら知らない人間であればいざ知らず、瀬川のプロ編入試験は大々的に報じられていたし、一局ごとにテレビやネットで中継され、藤井聡太の連勝中ほどではないが社会現象化していたのだ。

 

最後に、日本将棋連盟執行部にプロ編入を嘆願する際のプロ側の態度。あれはどれほど事実に即しているのだろうか。当時の連盟会長の米長は、常に“行乞の精神”を説いていた。名人戦の移管問題でとんでもない騒動を引き起こしたが、逆に言えば話題作りに長けた男でもあった。名人位には特権的な意識を抱いていただろうが、プロ棋士という地位や肩書に胡坐をかいて、あれほどの特権意識をひけらかす男だっただろうか。このあたりに豊田監督の限界を見るように思う。元奨の残念さという点では、電王戦FINALで21手で投了した巨瀬亮一を思い出す。FINALはハチャメチャな手が飛び出しまくる闘いの連続で、特に第一局のコンピュータの水平線効果による王手ラッシュ、第二局のコンピュータによる角不成の読み抜け(というか、そもそも読めない)など、ファンの予想の斜め上を行く展開が続いた。特に第二局は、▲7六歩 △3四歩 ▲3三角不成 という手が指されていれば一体どうなっていたのか。

 

閑話休題。元奨の中には将棋界に憎悪を抱く者も少なくない。豊田監督は駒の持ち方、指し方に強いこだわりを示していたそうだが、心のどこかに将棋および将棋界へのネガティブな感情がなかっただろうか。監督が強くこだわるべきリアリティにこだわれなかったせいで、傑作になれたであろうポテンシャルを発揮できないままに本作は完成させられてしまった。そんな印象を受けた。

 

総評

ライトな将棋ファンには良いだろう。特に観る将ならより一層楽しめるだろう。将棋は何も指すだけが魅力ではなく、それを指す人間の面白さも大事なのだ。でなければ、誰が棋士の食事にまで関心を持つというのか。一方でディープでコアな将棋ファンの鑑賞に耐えられる作品かと言うと、そこは難しい。シネマチックにすることとドラマチックにすることは似て非なるもので、リアリティをそぎ落とすことでしか追求できない面白さもあるが、本作には当てはまらない。良い作品ではあるが、将棋ファンを唸らせる逸品ではない。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, イッセー尾形, ヒューマンドラマ, 伝記, 日本, 松田龍平, 渋川清彦, 監督:豊田利晃, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 泣き虫しょったんの奇跡 』 -実話ベースだが、細部にリアリティを欠く-

『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

バーバラと心の巨人 75点
2018年10月18日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:マディソン・ウルフ シドニー・ウェイド イモージェン・プーツ ゾーイ・サルダナ
監督:アナス・バルター

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原題は ”I Kill Giants” 、「私は巨人殺し」の意である。小林繁を連想してはいけない。西洋文明世界において、竜と並ぶ邪悪で強力な存在、それが巨人である。西洋世界では常識とされていることも東洋ではそうではない。逆もまた然り。生き物ではないところでは、指輪の魔力を描いた『 ロード・オブ・ザ・リング 』シリーズが好個の一例である。主人公のバーバラが闘おうとする巨人は何であるのか。邦題を読まずしても、巨人が象徴するものは何であるのかを考えさせられるが、その正体についても、また映画の技法としても、こちらの予想の上を行くものがあった。

 

あらすじ

バーバラ(マディソン・ウルフ)は小学5年生。いつか町に襲来する巨人に備えて、罠、毒、武器、そして秘密基地まで拵えている。ひょんなことから知り合う転校生のソフィア(シドニー・ウェイド)も、心理カウンセラーのモル(ゾーイ・サルダナ)も、バーバラが主張する巨人の存在を信じてくれない。家でもTVゲームに熱中する兄、残業多めの職場に勤める姉も、バーバラのやろうとしていることに理解を示してはくれない。しかし、バーバラだけは確信していた。いつか必ず巨人がやって来るのだ、と。

 

ポジティブ・サイド

マディソン・ウルフという新鋭との出会い、これだけでもう満足ができる。ジェイソン・トレンブレイ以上の才能かもしれない。もちろん、年齢も性別も、出演している作品のジャンルも違うが、主演を張ったマディソンには『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』の主演・南沙良を見た時と同じような衝撃を受けた。くれぐれもハーレイ・ジョエル・オスメントのようにならないように、彼女のハンドラー達には慎重な舵取りをお願いしたい。バーバラという大人と子どもの中間、現実世界と空想世界の狭間を生きる存在にリアリティを与えるという非常に難しい仕事を、満点に近い形でやってのけたのだ。今後にも大いに期待できるが、トレンブレイが『 ザ・プレデター 』なる駄作に出演してしまったような間違いは見たくない。

 

本作では冒頭に、巨人という存在が何であるのかを絵本形式で教えてくれる。これは有りがたい。物語の背景を理解するには、その物語が生み出された地域や時代、文化の背景を知る必要がある。我々が巨人と聞いてイメージするものは、他の文化圏の人々がイメージするものと必ずしも一致しないからだ。J・P・ホーガンの傑作SF小説『 星を継ぐもの 』、『 ガニメデの優しい巨人 』、『巨人たちの星』(ついでに『 内なる宇宙 』も。”Mission to Minerva”はいつ翻訳、刊行されるのだ?)を読んで、「巨人とは心優しい、素晴らしい頭脳の持ち主なのだな」と思うのは正しい。しかし、それは必ずしも西洋世界の一般的な巨人像とは合致しない。映画を観る人に、巨人とはこういう存在ですよと知らせることは、存外に大切なことなのである。

 

その巨人を殺すために、バーバラが学校や森、海岸に張り巡らせるトラップの数々、自作のアイテム、それらの有効性を検証したノートなどが、バーバラというキャラクターと巨人の実在性にリアリティを付与する。同時に、我々はこのいたいけな少女の奇行の数々に戦慄させられる。その発言のあまりの荒唐無稽さに困惑させられる。少女の抱える心の闇の濃さと深さは、それだけ目を逸らしたくなる現実が存在することの証左でもある。余談であるが、バーバラのトラウマと全く同質のものを『 ペンギン・ハイウェイ 』のとあるキャラが劇中で示した。幼年期から思春期にかけて、このような想念に取り憑かれたことのない者は少ないだろう。あるいは『 火垂るの墓 』の節子をバーバラに重ね合わせて見てもいいのかもしれない。最後の最後のシーンは『 グーニーズ 』のマイキーを思い起こさせてくれた。まさしくビルドゥングスロマン。

 

ネガティブ・サイド

まず配給会社に言いたいのは、ハリー・ポッターと殊更に絡めようとしなくてもよいのだ、ということだ。もちろん、実績のある会社、スタッフが製作に加わっていることをPR材料にすることは悪いことでも何でもない。むしろ当然のことと言える。しかし、それが misleading なものであってはいけない。本作はファンタジー映画ではなく、ヒューマンドラマ、ビルドゥングスロマン=成長物語なのだから。

 

邦題は、ほとんど常に批判に晒される。近年でも『 ドリーム 』が「 ドリーム 私たちのアポロ計画 」なるアホ過ぎる邦題を奉られるところだったが、本作も下手をすると猛烈な批判に晒されてもおかしくない。“心の巨人”としてしまうこと、巨人はバーバラの心が生み出す幻影であることが明示されてしまうからだ。だが、それは同時にハリー・ポッターの製作者が今作に関わっているというPRと矛盾しかねない。一方では巨人は現実であると言いながら、もう一方では「この映画はファンタジーですよ」と言っているようなものなのだから。日本の配給会社はもう少し、思慮と配慮を以って邦題を考えるべきだ。

 

ひとつストーリー上の弱点を上げるなら、モル先生の活躍が少ないことだろうか。GOGのガモーラというキャラクターの皮を脱ぎ去り、母性溢れる魅力的な女性を演じていたが、それをもう少し前面に押し出してくれた方が、バーバラの苦境と苦闘がより際立ったかもしれない。

 

総評

誰しもが抱えてもおかしくな心の闇を見事に視覚化した作品である。小学校の低学年でもストーリーは理解できるだろうし、高校生あたりが最も楽しめる作品でもある。親子で観るのにも適しているし、ぜひそのように観て欲しい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, イモージェン・プーツ, シドニー・ウェイド, ゾーイ・サルダナ, ヒューマンドラマ, ファンタジー, マディソン・ウルフ, 監督:アナス・バルター, 配給会社:REGENTS, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 バーバラと心の巨人 』 -現実と幻想の狭間世界に生きる少女の成長物語-

『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

Posted on 2018年10月18日2019年11月1日 by cool-jupiter

負け犬の美学 50点
2018年10月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:マチュー・カソビッツ
監督:サミュエル・ジュイ

 

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勝ち組、負け組・・・ いつの頃からか、一億総中流だった日本も、経済的に裕福な家庭・世帯とそうではない家庭・世帯に二極分化が始まった。そうした中、可分所得の多くを自分の趣味に費やす者に、オタクの蔑称もしくは別称がつけられた。そして時は流れ、今では多くの人間が自分の趣味に生きることに充実感を見出している。好きなことをして生きる。それは幸せなことだ。しかし仙人ならぬ我々は霞を食っては生きられない。金を稼ぎ、食い物を喰い、わが子を育てなければならない。これはボクシング映画ではなく、泥臭く生きるオッサンとその家族の物語なのである。

 

あらすじ

スティーブ・ランドリー(マチュー・カソビッツ)はしがない中年プロボクサー。戦績は見るも無残な49戦13勝3引き分け33敗。45歳という年齢を考えれば、普通のボクサーならとうの昔に引退しているか、引退勧告を受け入れざるを得ないところだ。愛する妻と子どもには、50戦したら引退すると約束している。ある日、ひょんなことから欧州王者を目指すボクサー陣営がスパーリング・パートナーを探していることを知ったスティーブは、食いぶちのためと必死に自分を売り込み、見事にその仕事をゲットする。しかし、年齢や緊張から体が動かず、一日で解雇宣告。それでもしがみつくスティーブ。家族のために、自分のために、スティーブのキャリア最後の大勝負が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、マチュー・カソビッツが相当にボクシングのトレーニングを積んできたことが分かるし、監督が切り取ってくる画にリアリティを感じた。そこは評価せねばなるまい。冒頭の試合後のスティーブが、トイレで血尿を流すシーンがあるが、これなどは実際にボクサーに取材をしなければ出てこない画だろう。中には血尿など出したことがないというボクサーもたまにいるのだが(日本ではキャリア最盛期までの長谷川穂積など)。

 

そして元プロボクサーのソレイマヌ・ムバイエの起用。本人は実はカソビッツとそれほど年齢は変わらないが、減量無しで数分間のスパーなら、まだまだキレのある動きができるのだということを、これでもかと見せつける。日本で現役・引退を問わずにドラマや映画に出演したというと、『 乙女のパンチ 』で若き蟹江敬三役を(一瞬だけ演じた)河野公平がまず思い浮かぶ。清水智信も何かにちらっと出ていたような・・・ それでも日本のボクサーが、ドラマや映画、何なら舞台でもいい、でボクシング技術を披露することはあまりなかったし、今後もなさそうだ。これは不幸なことであると思う。一時期、内藤大助がバラエティで島田紳助らを相手にマスボクシング(もどき)や本格的(っぽい)スパーをしていたが、ボクシングおよぼボクサーをそういう風に扱うのは止めてもらいたい。

 

閑話休題。ボクシング映画と言えば何を措いてもやはり『ロッキー』シリーズだが、2や3あたりでは、明らかに当たっていないパンチでスタローンがのけぞるなどのショットが散見された。本作にはそれはない。そこは安心して観ていられる。また、ロッキーとエイドリアンのちょっとしたデートがたまらなくロマンティックに思えたの同様に、スティーブとその妻との間にも、実にほんわかとした夫婦ならではなショットがある。具体的に言うと、妻がスティーブの顔を手当てしている最中に、自分の尻を触らせるのだ。これは、同じくフランス映画の『 ロング・エンゲージメント 』でベッドで眠るマチルドがマネクに胸を触らせた瞬間と、画的にも意味的に相通じるものがある。

 

また、スティーブをただのボクシング馬鹿にしてしないところも良い。彼は何よりも父親で、才能ある娘のためにもピアノ代を稼がねばならない。そのためには何だってやるしかない。娘にはパリの学校に行かせたいのだとショー・ウィンドー前で決意する姿は、『 リトル・ダンサー 』におけるビリー・エリオットの父親を彷彿させた。この映画はボクシング映画ではなく、父親映画、中年オヤジの奮闘記なのだ。ボクシング映画はちょっと・・・という向きにも、そうした意味ではお勧め可能である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、いくつかの欠点、弱点も存在する。最も大きなものは2つ。一つはスティーブがロッカールームで着替える時に、ファウルカップを装着しなかったこと。下着の上から装着して、そのままボクシング・トランクスを履く場合と、スパーリング限定だが、トランクスの上からそのままつけるファウルカップというのもある。そのいずれもスティーブはつけずにスパーに臨む。考えられないボーンヘッドだ。製作者は誰も気がつかなかったのだろうか。最初に観ていた時は、パンチドランカーになって認知症的な症状を呈し始めているのか?と疑ってしまったほどだ。映画の面白さを支えるのは何よりもリアリティなのだ。血尿シーンをさりげなく挿入できる監督にしてこのミスは痛い。

 

もう一つは、スティーブがスーパーで野菜や果物を買う場面。あろうことか重さを誤魔化すのだ。もちろん、そういうせこい真似をする人間は、洋の東西を問わずどこにでも存在する。しかし、誰よりもウェイトに気を使うべきボクサーという人種を描写するに際して、これだけはやってはいけない。一時期、世界トップのボクシングシーンでは、キャッチウェイトなる興行優先主義の体重設定が人気カードで多く採用され物議をかもした。最近ではキャッチウェイトでの試合というのは、ほぼ耳にしなくなったし、目にも入ってこない。良いことである。ボクシング関係者がいかにウェイトに重きを置くかは、今春に行われた山中慎介 vs ルイス・ネリの再戦で知ったという人も多いのではなかろうか。個人的には、ネリは縛り首にすべきとすら感じたし、試合も断行すべきではなかったと感じている。それは同じく今春の比嘉大吾のウェイとオーバーにも当てはまる。これはハンドラーの具志堅が悪いのだが、とにかく体重、ウェイトに対して真摯で誠実であるべきボクサーが、野菜や果物を重量を誤魔化すというのは、個人的にどうしても受け入れられなかった。スティーブがダメボクサーであることは、煙草を吸う描写で十分だろう。

 

他にも、ムバイエやスティーブがスーパー・ミドル級というのは、少し無理があるのではないか。ムバイエは現役時にスーパー・ライト級で、両階級では12 kg以上のウェイトの開きが存在する。スーパー・ミドル連中の walk-around weight は80キロ台後半だ。スティーブをこの階級に持ってくるのは、画的にも現実的にも無理があった。ハードコアなボクシングファンには、片目をつぶって観るように、というアドバイスを送るしかない。

 

総評

小学校高学年ぐらいの子どもなら話の趣旨は理解できるだろうし、日本でもスティーブに共感する中年オヤジは数多くいることは間違いない。デート・ムービーには向かないが、ある程度以上の年齢の娘や息子がいる父親は、家族の団らんに本作を利用するのも一つの手かもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, フランス, マチュー・カソビッツ, 監督:サミュエル・ジュイ, 配給会社:クロックワークスLeave a Comment on 『 負け犬の美学 』 -しがない中年オヤジのポンコツ拳闘記-

『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

Posted on 2018年10月11日2019年8月24日 by cool-jupiter

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 50点
2018年10月9日 レンタルDVD鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン
監督:パブロ・ラライン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181011185603j:plain

これは観る人を相当に選ぶ映画である。JFK関連の作品というのは、ある意味でオリバー・ストーン監督の『 JFK 』で完成してしまっているわけで、これを超えるには2028年から暫時に公開される膨大な量の資料を基にした作品が作られるまで待たねばならないだろう。しかし、それもあと10年の辛抱と思うべきなのか、まだ10年も辛抱しなければならないのかと思うべきなのか。

 

あらすじ

1963年11月22日のJFKの暗殺からの4日間を、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの視点から独自に描く。非業の死を遂げたケネディの喪に服すに際して、名家であるケネディ家の意向や、大統領警護のシークレット・サービス、ホワイトハウス関連のお歴々、リンドン・B・ジョンソン大統領らの思惑を超えたところで、JFKの死を悼み、悲しみ、国民にその死の衝撃の大きさを物語ることで、逆に彼の生の大きさ、深さ、豊かさを印象付けることに成功した、稀代のファーストレディ。その地位を徐々に喪失していくさまが、自身のアイデンティティ喪失に重なる。だからこそ、夫の死を誰よりも効果的に演出しようと抗う夫人の姿を描く、ユニークな作品。

 

ポジティブ・サイド

まず、主演のナタリー・ポートマンの演技力が光る。1960年代の口調を自分の物として吸収し、使いこなしている。なおかつ、記者に語る時の口調とホワイトハウスで語る口調が明らかに異なるのだ。これは脚本や演出の妙とも言えるが、翻訳・字幕のレベルで再現するのは難しい。なお、吹き替えがどうなっているのかは未鑑賞ゆえ評価を措きたい。これは、たとえば前アメリカ大統領のバラック・オバマが大統領職に立候補した時から大統領就任中まで一貫して、スピーチのレジスター(言語の使用域)を巧みに変えていたことに通じる。例えばオバマは、アメリカ南部の労働者階級が多い地域で演説する際には、”We’re gonna ~” と言い、逆にアメリカ北部の都市地域での演説では、”We are going to ~” と言っていた。作中のジャッキーもこれと同じで、実際の本人もおそらくファーストレディとして口調や立ち居振る舞いは、ジャクリーン一個人のものとは違っていたはずだ。こうした些細かもしれない違いを、ノン・ネイティブであるナタリーがしっかりと把握し、演じていたことは大きなプラス評価につながる。

 

また、ジャッキーが美術品を蒐集していた理由も非常に興味深い。なぜなら、『ゲティ家の身代金』におけるジャン・ポール・ゲティと全く同じ哲学、芸術観を彼女が有していたことが明らかになるからだ。この彼女の直観と、それに基づく卓越した実行力は確かにJFKの名を不滅にした。アメリカ人は、ちょっと教養ある階級であれば歴代の大統領の名前をだいたいは暗唱できるらしい。だが日本に住む我々はどうであろうか?伊藤博文の名前はパッと出てきても、例えば第二次世界大戦への参戦時の総理は東条英機であるとパッと言える人は多いだろうが、敗戦時の総理大臣の名前が出てくるだろうか?そんな歴史に疎い日本人でも、アメリカ史において暗殺された大統領は?と尋ねれば、秒でリンカーンとケネディの名前を出すであろう。もちろん、暗殺というインパクトは要因としては大きい。それでも、世界の歴史において暗殺された人は?と問いの範囲を広げてみても、人々が真っ先に挙げるであろう名前はJFKであると予想される。直近のインパクトとしては、北朝鮮の金正男の方が圧倒的に記憶に残っているはずだが、それでもJFKだろう。その最大の要因をジャッキー夫人に求めることはさほど難くない。そのことを確認することができるのが本作の功績である。

 

ネガティブ・サイド

残念ながら、マイナス点も目立つ。それは、アメリカ史に興味のない人は、ほぼ惹きつけられないだろうということだ。また、アメリカ史に興味のある人は、ある意味でもっと惹きつけないかもしれない。JFK暗殺の真相の一端、もしくは新解釈でも見せてくれるのかと期待してしまうとガッカリすること請け合いである。Jovian自身がまさにそうだった。この分野に関心を持つ人は、トランプ現大統領が検討中の1960年代当時の捜査資料の一般公開の前倒しと共に期待しようではないか。

 

本作の弱点としてもう一つ述べておかねばならないのは、ファーストレディとしてのジャッキーと一人の女性としてのジャッキーの境目が非常に曖昧模糊としている、ということである。もちろん、ファーストレディとしての人格と、その人の人格は別物であるべきだが、某島国のファーストレディが用いた(と疑われている)奇妙な政治力学を目の当たりにした我々からすると、少し釈然としないものが残るのも事実である。これはあくまで実話をベースにしたセミドキュメンタリー風の娯楽映画であるのだから、第一婦人のアッキー、ではなくジャッキーと一個人としてのアッキー、じゃなかったジャッキーを、混然とした形で描く必要はなかったのではないかと思うのである。もちろん、アイデンティティ・クライシスが大きなテーマになっているのだから、そうした内面のせめぎ合いを外面の演技に反映させることは大事だが、そこをもう少し見る者に分かりやすい形に dumb down / water down させることはできなかったか。いや、演技レベルを下げろというわけではないのだが・・・

 

総評

冒頭に評したように、見る者を選ぶ映画である。アクションもなく、サスペンスもない。しかし、響く人には響く映画であろう。内面の悲しみを強さに転化させ、健気に気丈に振る舞う女性の姿から何某かを受け取れる感性があれば、レンタルして来ても損はないだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アメリカ, チリ, ナタリー・ポートマン, ヒューマンドラマ, フランス, 歴史, 監督:パブロ・ラライン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 』 -JFK夫人の知られざる姿-

『コーヒーが冷めないうちに』 -無数の矛盾とパクリに満ちたお涙ちょうだい物語-

Posted on 2018年10月7日2019年8月24日 by cool-jupiter

コーヒーが冷めないうちに 25点

2018年10月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:有村架純 石田ゆり子 伊藤健太郎 波瑠 林遣都 深水元基 薬師丸ひろ子 吉田羊 松重豊房 
監督:塚原あゆ子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20181007030725j:plain

 *以下、ネタばれに類する箇所は白字表記

 まず広報担当者に文句を言いたい。「4回泣けます」とは一体何のことなのか。これで泣けるのは、元から相当に涙腺が弱いか、もしくは「涙を流してさっぱりしたい!」という強い欲求を持っている人ぐらいだろう。つまり、純粋に物語の力で観客を泣かせる力を有した作品ではなかった。いや、勘違いしないでいただきたい。泣ける映画というのは確かに存在する。しかし、泣くという行為は「受動的な泣き」と「衝動的な泣き」の二つに大別される。つまり、前者はもらい泣きで、後者は主に悔し泣きや嬉し泣きである。本作の宣伝文句の「4回泣けます」が「4回もらい泣きできます」なら、それはそれで良い。Jovianの心の琴線には触れなかったが、そういう意味で泣ける人は確かに存在するだろう。しかし、そうした映画は、作品としてのクオリティは決して高くない。

 喫茶店フニクリ・フニクラで働く時田数(有村架純)が、特定の席に座ったお客さんに特定のタイミングでコーヒーを淹れると、そのお客さんは強く思い描いた時に行くことができる。しかし、それはコーヒーが冷めるまでの間だけ。他にも様々な条件があり、実際にそれを試すお客は少ないのだが・・・

 まず、タイムトラベルものというのは、何をどうやっても矛盾が生まれるものだ。そういうジャンルなのである。であるからして、SF的な要素は一切排除し、これはファンタジーなのですよ、という姿勢を冒頭から鮮明にする点は評価できる。何と言ってもフニクリ・フニクラである。鬼のパンツなのである。我々がよく知っているはずのものが、本当はこういうものでした、と思わせるインパクトを十分持っている。またヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』やミヒャエル・エンデの『モモ』といった小道具も、物語のforeshadowingとして機能している。こういう、分かる人には分かるものを挿入するのは、サービス精神の表れとして評価したい。が、もう少しダイレクトさに欠けるものは見つからなかったのだろうか。まあ、プルーストの『失われた時を求めて』でなかったから、これはこれで良いのだろう。

 Back to the topic. 時間移動には常にパラドクスがつきまとう。本作も例外ではなく、最も???となったのは、認知症の妻の手紙を持ち帰れてしまったことだ。次に???となるのは、蚊取り線香のシーン。灰になってしまった部分が過去、今じりじりと燃えているところが現在、これから燃えるところが未来、という過去の不可逆性を強く印象付けるシーンだったはずが、その後のちゃぶ台返しで・・・???ちょっと待て。未来の数の娘の力を使って、数を過去に送り込むというのは、未来視点、いや未来支点と言うべきか?からすると、過去の改変にならないのか。新谷の言う「明日の開店前の8時にお店に来てほしい」は予言ではないのか。何故その時間に幽霊が席を空けると知っていたのか。というよりも、未来の未来が数を送り込む過去が、現在の時間線と一致することが何故分かるのか。その線で考えると、何をどうやっても変えられないのは過去ではなく未来になってしまわないか。また。時田の娘の定義は何なのか。伯父の娘でもOKになるのなら、家系図を引っ張り出してきて、五代前のご先祖様ゆかりの血筋に全て当たるべきだろう。というか、5代前だと、ざっくり見ても100~120年前になるが、その時からフニクリ・フニクラの指定テーブルは存在したのか。日本におけるコーヒーの歴史とは合致するが、では初代はどの過去にどのようにして人を送り込んでいたと言うのか。とにかく、タイムトラベルものの矛盾がこれでもかと噴出してくる作りで、そういったところを気にしてしまう人は絶対に本作を観るべきではない。ゲーム『ファイナルファンタジーⅧ』のエルオーネの能力、森博嗣の小説『全てがFになる』の密室トリック、法条遥の小説『リライト』、漫画『どらえもん』の「やろう、ぶっころしてやる」エピソードから丁重にアイデアを拝借し、その全てごちゃ混ぜにした挙句、ちんぷんかんぷん物語に仕立て上げてしまったようにしか思えない。松重と薬丸の芝居だけしか見られるものがない。珍品に興味がある、という向きにしかお勧めできない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 有村架純, 監督:塚原あゆ子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『コーヒーが冷めないうちに』 -無数の矛盾とパクリに満ちたお涙ちょうだい物語-

『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

Posted on 2018年9月30日2019年8月22日 by cool-jupiter

クレイジー・リッチ! 75点

2018年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:コンスタンス・ウー ヘンリー・ゴールディング ジェンマ・チャン リサ・ルー オークワフィナ ハリー・シャム・Jr. ケン・チョン ミシェル・ヨー ソノヤ・ミズノ
監督:ジョン・M・チュウ

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原題は”Crazy Rich Asians”、≪常軌を逸した金持ちアジア人たち≫の意である。ここで言うアジア人とは誰か。オープニング早々にスクリーンに表示されるナポレオン・ボナパルトの言葉、”Let China sleep, for when she wakes, she will shake the world.”が告げてくれる。中国人である。中国の躍進はアジアのみならず世界の知るところであり、その影響は政治、経済、文化に至るまで極めて大きくなりつつある。そして映画という娯楽、映像芸術の分野においてもその存在感は増すばかりである。そうした事情は、今も劇場公開中の『MEG ザ・モンスター』に顕著であるし、この傾向は今後も続くのであろう。それが資本の論理というものだ。その資本=カネに着目したのが本作である。

ニューヨークで経済学の教授をしているチャイニーズ・アメリカンのレイチェル(コンスタンス・ウー)は、恋人のニック(ヘンリー・ゴールディング)が親友の結婚式に出席するために、共にシンガポールを目指す。が、飛行機はファースト・クラス・・・!?ニックがシンガポールの不動産王一家の御曹司で常軌を逸した金持ちであることを知る。そして、ニックの母のエレノア(ミシェル・ヨー)、祖母(リサ・ルー)、ニックの元カノ、新しくできた友人たちなど、人間関係に翻弄されるようになる。果たしてレイチェルとニックは結ばれるのか・・・

本作の主題は簡単である。乗り越えるべき障害を乗り越えて、男と女は果たして添い遂げられるのか、ということである。平々凡々、陳腐この上ない。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッセーver >>>>> ディカプリオver)のモンタギューとキャピュレットの対立は貴族間の階級闘争であったが、本作はそこに様々に異なるギャップ、格差の問題を放り込んできた。それは例えば、『シンデレラ』に見出されるような、王子様に見初められる平民の娘という文字通りのシンデレラ・ストーリーの要素であり、男が恋人と母親の間で右往左往する古今東西に共通する男の優柔不断さであったり、同じ人種であっても文化的に異なる者を迎え入れられるかという比較的近代に特有の問いを包括していたり、また『ジョイ・ラック・クラブ』の世代の二世達がアメリカという土地で生まれ、成長してきたにも関わらず、アメリカ社会では生粋のアメリカ人とは認めらず、中国・華僑社会でも中国人とは認められない、二世世代の両属ならぬ無所属問題をも扱っている。また家父長不在の華僑家族におけるタイガー・マザー的存在、さらには、女の仁義なき戦い、将来の嫁vs姑による前哨戦および決戦までもがある。とにかく単純に見える主題の裏に実に多くの複雑なテーマが込められているのが本作の一番の特徴である。

詳しくは観てもらって各自が自分なりの感想を抱くべきなのだろうが、まだ未鑑賞の方のためにいくつか事前にチェックしておくべきものとしてタイガー・マザーと異人が挙げられる。民俗学や人類学の分野でよく知られたことであるが、異人は異邦の地では異人性を殊更に強化しようとする。横浜や神戸に見られる中華街、大阪・鶴橋のコリアンタウンなどは代表的なものであるし、在日韓国・朝鮮人が自分たちの学校を作り、民族教育を行うのも、異人性の強化のためであると考えて差し支えない。中国人には落地生根という考え方がある。意味は読んで字の如しであるが、落地成根とは異なるということに注意されたい。本作で最大のサスペンスを生むレイチェルとエレノアの対峙は、ある異人は他の異人を受け入れられるのかという問いへの一定の答えを呈示する。彼女たちは中国にルーツを持ちながらも、生まれ育った土地や文化背景を本国とは異にする者たちである。彼女たちの相克は、世代間闘争であり、経済格差間闘争であり、文化間闘争でもある。この“闘う”という営為に中国人が見出すものと現代日本人が見出すものは、おそらく大きく異なることであろう。それを実感できるというだけでも、本作には価値があると言える。

本作を鑑賞する上で、先行テクストを挙げるとするなら、エイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』であろう。Jovianの母校では、一年生の夏休みの課題の一つは伝統的にこの小説を原書で読み感想文を英語で書くというものだった。それは今もそうであるらしい。今までにチャイニーズ・アメリカン、コリアン・アメリカン、フィリピーノ・アメリカン、コリアン・カナディアン、ジャパニーズ・アメリカンらにこの小説を読んだことがあるかと尋ねたことがあるが、答えは全員同じ「俺たちのようなバックグラウンドの持ち主で読んでいないやつはいない」というものだった。映画化もされており、大学一年生の時に観た覚えがある。そこで麻雀卓を囲む母親の一人がニックの祖母を演じたリサ・ルーである。『ジョイ・ラック・クラブ』が伝えるメッセージを受け取った上で本作を鑑賞すれば、上で述べた闘争の本質をより把握しやすくなるだろう。

長々と背景について語るばかりになってしまったが、映画としても申し分のない出来である。それは、演技、撮影、監督術がしっかりしているということだ。特にニック役のヘンリー・ゴールディングとその親友を演じたクリス・パンは素晴らしい。ヘンリーは演技そのものが初めてであるとのこと。今後、ハリウッドからオファーが色々と舞い込んでくると思われる。しかし何よりも注目すべきはミシェル・ヨーである。一つの映画の中で嫌な女、強い女、責任感のある女、認める女とあらゆる属性を発揮する女優は稀だからだ。『ターミネーター』と『ターミネーター2』におけるリンダ・ハミルトンをどこか彷彿させるキャラクターをヨーは生み出した。この不世出のマレーシア女性の演技を堪能できるだけでチケット代の半分以上の価値がある。

『MEG ザ・モンスター』の原作からの改変具合、特に中国色があまりに強いことに拒否反応を示す人がいるだろうが、Jovian自身が劇場の内外(ネット含む)で聞いた残念な感想に、「なぜ皆、あんなに英語が上手なのだ?」という、無邪気とも言える疑問である。おそらくこのあたりに真田広之や渡辺謙がハリウッド界隈で日本一でありながらアジア一ではない理由がある(アジア一はイ・ビョンホンだろう)。なぜ本作の中でK-POPがディスられながらも日本文化はスシ(≠寿司)の存在ぐらいしか言及されないのか。なぜ錚々たるアジア企業やアジアの国の名前が挙げられる場で、日本の名が出てこないのか。英語というのは学問ではなく技能である。そして言語である。言語は、他者との関係の構築と調整に使うもので、特定の誰かに属するものではない。言語への無関心、そして学習への意欲の無さが、そのまま日本の国力および国際社会でのプレゼンスの低下を招いていることを、もっと知るべきだ。言語に対してアジア人たる我々が取るべき姿勢については【Learning a language? Speak it like you’re playing a video game】を参照してもらうとして、東南アジア各国は“闘争”をしているし、東北アジアでは日本と北朝鮮は“闘争”をしていないとJovianは感じる。単に時代や社会背景を敏感に写し撮った映画であること以上の意味を、アジア人たる我々が引き出せずにどうするのか。デートムービーとしても楽しめるし、深い考察の機会をもたらしてくれる豊穣な意味を持つ映画として鑑賞してもよい。台風が去ったら、劇場へ行くしかあるまい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, コンスタンス・ウー, ヒューマンドラマ, ヘンリー・ゴールディング, ミシェル・ヨー, ロマンティック・コメディ, 監督:ジョン・M・チュウ, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

Posted on 2018年9月26日2019年8月22日 by cool-jupiter

ブレス しあわせの呼吸 70点

2018年9月23日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド クレア・フォイ トム・ホランダー
監督:アンディ・サーキス

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書評家の佐藤圭は「小説とは嘘っぱちの中に面白さを見出すもの、文学とは嘘っぱちの中に真実を見出すもの」と喝破した。その定義法を拝借するならば、映画というものには二種類あると言えるかもしれない。すなわち、物語の中に面白さを見出すべきものと、物語の中に真実を見出せるものとである。では、本作は前者なのか後者なのか。答えは両方である。

英国人のロビン・カベンディッシュ(アンドリュー・ガーフィールド)は茶葉の買い付け仲買人。運命の人ダイアナ(クレア・フォイ)とめでたく結婚し、子を儲けるも、幸せは長くは続かなかった。出張先のケニアはナイロビで、ポリオに罹患してしまったことにより、首より下に麻痺を負ってしまう。人工呼吸器なしでは生命維持も不可能で、医師からは余命数カ月を宣告されてしまう。病院を出たいというロビンに、ダイアナは自宅での看護を決心する。

この映画の時代背景に、まず驚かされる。ロビンのポリオ発症が1958年なのである。そして友人らの助けを借りて人工呼吸器搭載可能な車イスの発明が1962年。50年以上前に紡がれた物語が今という時代に影響を及ぼしているということに思いを致さずにはいられないし、同時にこの国でバリアフリー、ノーマライゼーション、セルフケアという概念が本当の意味で浸透し、結実し始めたのが2000年以降であるという事実には慨嘆させられてしまう。もちろん、社会のインフラがそう簡単に作りかえられるものではないが、それでもベビーカーもしくは車イスを押したことのある人ならば、我々の暮らす社会がどれほどバリアに満ちているのかを実感したことがあるはずだ。そして、そうしたバリアを是正すべく、公共の駅などにはエレベーターがどんどんと設置され、新しく建設されたショッピングモールなどは徹底的に段差をなくし、映画館は車イス使用者専用のスペースを設けている。しかし、本当のバリアは人の心の中にあるのだ。満員電車にベビーカー連れで乗り込むのは有りや無しやという議論が定期的に沸騰するが、こんな議論はそもそも論外なのだ。ベビーカーに寛容になれない社会が、車イスに寛容になれるわけがない。我々が障がい者を見るとき、我々は同時に自分が障がいを負った時の姿を投影せねばならない。人に優しくなれないのに、自分には優しくしてほしいなどというのは成熟した社会の一員とは言えまい(成熟した、は社会を修飾していると捉えても、社会の一員を修飾していると捉えてもらってもよい)。我々がいかに車イスを見るにせよ、この映画が終盤近くに見せるドイツの病院は、我々に恐ろしいまでのショックを与える。それによって、確かにわずか数十年とはいえ、我々は見方や考え方を改めてきているようだ。

本作は実話を基にしているとはいえ、おそらくかなりドラマタイズされた部分もある。死にたいと願うロビンが、生を謳歌するようになったのには、妻ダイアナの愛があったのは間違いない。素晴らしいと思えるのは、その愛を育むロマンチック、ドラマチックなエピソードを本作はほとんど映さない。撮影はして、編集でカットしてしまったのかもしれないが、その判断は正解である。劇的な愛ではなく、ありふれた愛、日常的な愛、普通の愛であるからこそ、献身的にも映る看護ができたのだろう。もちろん、この夫婦にダークな側面が無かったとは言い切れない。例えば、ロビンに間接的に多くを負っていたであろうスティーブン・ホーキング博士を描いた『博士と彼女のセオリー』は、間接的に不倫をにおわせ、最後は儚くも美しい別離に至る関係を描いていたし、一歩間違えれば江戸川乱歩の小説『芋虫』のような展開を迎えていたかもしれないのだ。邦画で似たような関係を描いた秀作では『8年越しの花嫁 奇跡の実話』が挙げられるかもしれない。劇場で観たが、Jovianの実家の隣町の話なので、DVDをレンタルしてもう一度観るかもしれない。そうそう、現実にあった乙武氏の不倫問題なども忘れるべきではないだろう。とにかく、男女の愛は様々な異なる形を取るものだが、ロビンとダイアナの愛はその普通さゆえに異彩を放っている。

Back to the topic. 本作は、観る者に感動やショックだけではなく新たな視座を与えてくれもする。劇中でロビンが「専門家はすぐに無理だと言う」と言うが、蓋し名言であろう。これは専門知識やスキルの蔑視というわけでは決してない。そうではなく、何か新しいことをするときには、自分を信じろということだ。本作には、現代の視点で見れば、数々のトンデモ医者が登場する。しかし、そうした医者たちも当時の自分たちの価値観に照らし合わせて、患者のために良かれと思ってあれやこれやを行っていたのだ。大切なのは、それが本当に他者の利益になっているかどうかを確かめることだ。患者を病気やけがという属性で語ることの愚は『君の膵臓をたべたい』で触れた。患者を人間として見ることが肝心要なのだ。

近くの映画館で本作を上映しているという方は、ぜひ観よう。単なるヒューマンドラマ以上のものが本作には盛り込まれているし、我々はそのメッセージを受け取らねばならない社会に生きているのだから。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アンドリュー・ガーフィールド, イギリス, ヒューマンドラマ, 監督:アンディ・サーキス, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『ブレス しあわせの呼吸』 -現代日本でこそ観られるべき作品-

『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

Posted on 2018年9月24日2019年8月22日 by cool-jupiter

食べる女 70点

2018年9月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:小泉今日子 鈴木京香 沢尻エリカ 広瀬アリス シャーロット・ケイト・フォックス 前田敦子 壇蜜 ユースケ・サンタマリア 間宮祥太朗
監督:生野慈朗

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派手なアクションや手に汗握るスリル、背筋が凍るような恐怖感や息もできなくなりそうなサスペンスを求める向きには全くもってお勧めできない作品である。映画とは、何よりもまず、一般家庭では享受できないような大画面と大音響を楽しむための媒体で、そうした文字どおりの意味でのスペクタクルはこの作品には全く盛り込まれていないからである。だからといって本作には劇場鑑賞する価値が無いのかと言えば、さにあらず。充分にチケット代以上の満足感は得られるだろう。

餅月敦子(小泉今日子)ことトン子は、古本屋と文筆業の二足のわらじを履いている。同居人は猫の“しらたま”である。古本といっても料理に関連するものばかりで、トン子自身もかなりの腕前の持ち主。そんなトン子の編集者の小麦田圭子(沢尻エリカ)ことドド、トン子の親友にして割烹料理屋の女将、鴨舌美冬(鈴木京香)、ドドの飲み友、テレビドラマ制作会社のアシスタントプロデューサー白子多実子(前田敦子)らは、定期的にトン子宅で料理に舌鼓を打ちながら、男や仕事について語り合うのであったが・・・

まずエンドクレジットの特別協力だったか特別協賛だったかの、

 

      sagami original

 

というデカデカとした表示に我あらず笑ってしまった。もちろん、商品そのものは映らないのだが、それを使っているであろうシーン(使ってなさそうなシーンも)しっかり用意されているから、スケベ視聴者はそれなりに期待してよい。最もそういったシーンが期待できるはずの壇蜜     と鈴木京香    にそれがなく、逆にシャーロット    が体を張ってくれたことに個人的に拍手を送りたい。

さて、冒頭に記したようにドラマチックな展開にはいささか欠ける本作であるが、ドラマがないわけではない。実は非常に深いテーマも孕んだドラマがある。それは「人間は変わりうる」ということである。変わると言っても、何も宗教的回心のような、それこそ劇的な体験のことではない。日々の生活の中で得るほんのちょっとした気付きがきっかけになったり、人間関係の変化であったり、経済的な変化であったり、身体的な変化であったりもする。我々は普段、そうした変化があまりにも静かに進む、もしくは起きることが多いために、そうした変化を見過ごしがちである。しかし、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉「万物は流転する」を引くまでもなく、変化しないものはない。仏教にも≪諸行無常≫と言うように、人間の本質は古今東西においても変化なのである。そんな変わっていく自分、変わっていく他者に愛情を注ぐことができれば、それは自分という存在そのものを肯定することにもつながる。なぜなら、繰り返しになるが人間存在の本質が変化であるからだ。こんな自分は嫌いだという人は変化を求めれば良いし、こんな自分が好きという人は、そのように変化していく自分をそのまま楽しめば良い。なにやらニーチェの永劫回帰思想やゲーテの『ファウスト』にも通じるものがありそうだ。

印象的なプロットを紹介すると、ドドとタナベの出会いが思い浮かぶ。これなどは正に、“袖振り合うも多生の縁”を地で行くような Story Arc である。もう一つは、あかりの受動から能動への変化である。詳しくは本作を観てもらうべきだろう。一見すると下半身がだらしない女のように見えてしまうが、貞操概念に欠けるのではなく、愛情を注がれることに快楽を見出す女なのだ。それは例えば料理をおいしそうに食べてくれたり、あるいはベッドで自分を愛撫し、動いてくれることだったりする。そうではなく、愛情をストレートに自分から表現しにいくシークエンスは、昨今の少女漫画原作の映画化作品に見られる、ヒロインが走っていくのを横から車で並走しながら撮影していく、アホのような画の再生産ではなく、本当に真正面からのものだった。非常に新鮮で、『巫女っちゃけん。』あたりから既に変化の兆しは見られていたが、広瀬アリスという役者の大いなる成長を目の当たりにしたかのようだった。最後に、シャーロット・ケイト・フォックスである。そそっかしいという自覚のある人は、彼女の Story Arc を決して早合点しないようにしてほしい。ダメな女の成長物語と唐竹割の如く切って捨てるように評するのはたやすい。しかし、そうした見方をしてしまう時、我々は既に自分の中に「ダメな女」像と「できる女」像を抱いてしまっていることを自覚せねばならない。人間というものを変化する主体ではなく、固定されたキャラクターであるかのように見てしまう癖が、どうしても我々にはあるようだ。しかし、古代中国の故事に「士別三日、即更刮目相待」とある。三日で人は変わりうるし、我々も見る目を変えねばならない。割烹料理屋での無音の中でのやりとりに、静かな、それでいて非常に力強いドラマが進行していることを、本作は感じさせてくれた。こここそが本作のハイライトで、凝り固まった頭の男性諸賢は心して観るように。

反面で指摘しなければならない粗もいくつかある。ジャズバーのシーンでは明らかにBGMが編集されたものだったが、ここは店内の雰囲気をもっと濃密に醸し出すために、それこそLPレコード音を背景に撮影するぐらいでも良かった。デジタル全盛の時代ではあるが、古い写真に味わいが出てくるように、レコードにも味わいが出てくるものだ。そういえば古さを賛美する印象的なシーンが『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ―・ゴー』で見られた。” Sir, in your case, age becomes you. As it does a tree, a wine… and a cheese.”という、コリン・ファースへの台詞だ。映画の醍醐味には音という要素もあるのだから、ここを生野監督にはもっと追求してほしかった。また、ネコが前半で大活躍するのが、名前がしらたまというのはどうなのだろうか。稲葉そーへーの某漫画を連想したのはJovianだけではあるまい。

弱点、欠点はいくつか抱えているものの、それでも本作は秀逸な作品である。十数年前になるか、某信販会社にいた頃、20~30代女子向けに“自分にご褒美”キャンペーンとして、週末のホテル宿泊を推していたことがあった。おそらく2000年代あたりから、モノの消費から、コトの消費へと個の快楽の追求はシフトし始めていたが、本当にそれが根付き定着したのはごく最近になってからではなかろうか。失われて久しい、皆で卓を囲んでご飯を味わうという体験の歪さと新鮮さを『万引き家族』は我々に見せつけたが、本作の女たちの食事シーンは、ある意味での人間関係の最新形と言える。愛情は男女間だけのものではなく、自分で自分に向けるものでもあるし、ほんのちょっとしたことで知り合う他者にも大いに注いで良いものなのだ。それが実践できれば、愛しいセックスをしている時と同様に、人は暴力や差別から遠ざかることができるのだろう。その先に、“修身斉家治国平天下”があるのだろう。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小泉今日子, 広瀬アリス, 日本, 沢尻エリカ, 監督:生野慈朗, 配給会社:東映, 鈴木京香Leave a Comment on 『食べる女』-愛情を表現したくなる、優しさ溢れる作品-

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