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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 幸せへのまわり道 』 -壊れた人間の再生物語-

Posted on 2020年9月9日2021年1月22日 by cool-jupiter

幸せへのまわり道 70点
2020年9月5日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:トム・ハンクス マシュー・リス
監督:マリエル・ヘラー

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タイトルだけ目にしてチケットを買った。あらすじは英語で少し読んだだけ。予備知識を一切持たずに鑑賞したが、存外に楽しむことができた。

 

あらすじ

ロイド・ボーゲル(マシュー・リス)は辛辣で知られる記者。ある時、子ども向け番組のホスト、フレッド・ロジャース(トム・ハンクス)を取材することになったロイドは、フレッドに逆にインタビューをされてしまう。そして、向き合ってこなかった父への負の感情を露わにされてしまう。だが、そこからロイドとフレッドの奇妙な縁が始まり・・・

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ポジティブ・サイド

冒頭の番組開始のシーンから圧巻のパフォーマンスである。スタジオのセットで踊って歌うトム・ハンクスがゆっくりと腰掛け、視聴者=映画の鑑賞者にゆっくりと語りかける。そして、厚紙細工の家の扉を開けてロイドを紹介する一連のシークエンスはインパクト絶大。あらすじをほとんど知らない状態で観たこともあって、一気に映画世界に引きずり込まれた。

 

ロイドとその妻アンドレア、そして最近になって生まれた赤ん坊と、ロイドは家庭もキャリアも順調だったが、気鋭のジャーナリストがどういうわけか子ども番組のホストを取材するようになるまでの流れもスピーディーだが、荒っぽくはない。順調に見えるロイドも、辛辣な人物評が芳しくない評価を生んでいる。人にきつくあたる人間は往々にして何らかの心の闇を抱えている。そのことを観る側に予感させつつ、フレッドとロイドの邂逅をある意味でとてもまわりくどく、なおかつ直截的に描くヘラー監督。これはなかなかの手練れである。

 

トム・ハンクスの卓越した演技力というか、ソフトな物腰にソフトな語り口で、しかし透徹した視力と言おうか、一気に目の前の人間の本質を鋭く見抜く眼光炯々たる様には圧倒される。インタビューするロイドを遮り、一気に核心を突く質問を発するところには、ヒューマンドラマとは思えないサスペンスがあった。ここから思いがけない友情めいた関係がスタートするのだが、この最悪の出会いから何がどう芽生えるのか。袖振り合うも多生の縁というが、その絶妙な仕掛け、人との出会いを特別に大事にするフレッドの秘密を知りたい人はぜひ観よう。

 

本作のテーマの一つは、怒りの感情のコントロール、それとの付き合い方である。息子が父を憎むというのはよくある話で、男は誰でも程度の差こそあれ、エディプス・コンプレックスの罹患者であり、(文学的な意味での)父殺しを企図しているものだ(父親と腕相撲して勝ったり、父親のクルマを「代わりに運転してくれ」と頼まれたりetc)。父親を許すとができないロイドに、フレッドがレストランで提案するルーティンのシーンは圧倒的な臨場感である。スクリーンのこちら側の我々にも参加しろと言っているのだ。そしてこれこそがヘラー監督の発したいメッセージでもあったのだろう。

 

聖人のごときフレッド・ロジャースが最後に見せる人間味(いや、音と言うべきか)も味わい深い。一人に備わらんことを求むるなかれ。怒りを遷さず、過ちを弐びせず。アメリカ人の物語であるが、東洋人の我々の心にも十分に響く名作である。

 

ネガティブ・サイド 

ロイドと父の和解がやや唐突過ぎるように感じた。姉の結婚式(毎夏の恒例行事らしいが)で息子が父をぶん殴るという事件を起こす割には、父を許すのが早すぎる。もちろん、ミスター・ロジャースのカリスマ性もあるのだろうが、ロイドは小市民の代表選手なのだ。『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』で松下奈緒が安田顕を一喝したようなシーンがもう一つ二つ欲しかった。

 

ミスター・ロジャースはアメリカでは知名度抜群とのことだが、ロイド自身の幼少~青年期を振り返るシーン、あるいはレストラン以外でロイドが自身の過去を回想し、そこでのロジャースの言葉に思いを致すようなシーンは撮らなかったのだろうか。撮ったものの編集でカットされたのだろうか。フレッドとロイドの私的な交流に重きを置いている割には深みがなかったのは、上述のようなシーンが欠けていたからだろう。

 

本作はシーンとシーンのつなぎ目にジオラマの街並みが挿入される。ユニークな試みだと思うが、なにか前後のシーンまでが作り物のように感じられた。これは映画媒体のformを評価ではなく個人的な好き嫌いか。

 

総評

予備知識なしで観るのが正解だろう。というか、日本で事前のリサーチなしにミスター・ロジャースを知っているというのは相当のアメリカ通か、帰国子女あるいは現地赴任帰りだろう。けれど心配無用。事前の知識は一切不要。あまりにも典型的な父と息子の確執と和解の物語であるが、そこには思いのほか豊かな奥行きがある。そして彼らの物語がいつしか我が事のように感じられてくる。家族や友人と鑑賞してもよいが、おそらくこれは一人で観るべき映画である。その方がきっとより真価を味わえるから。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン 

a four-letter word

 

劇中では“Fame is a four-letter word.”というように使われていた。「有名(ゆうめい)というのは4文字言葉に過ぎない」という意味だが、この表現はしばしばsh*tやda*nやcr*pやh*llなどの卑罵語を指すことが多い。このあたりのスラングとされる表現を社会的に正しい文脈で使えることができれば、英会話スクールは卒業である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, トム・ハンクス, ヒューマンドラマ, マシュー・リス, 伝記, 監督:マリエル・ヘラー, 配給会社:イオンエンターテイメントLeave a Comment on 『 幸せへのまわり道 』 -壊れた人間の再生物語-

『 僕の好きな女の子 』 -Boys be romanticists-

Posted on 2020年8月19日2021年1月22日 by cool-jupiter

僕の好きな女の子 70点
2020年8月17日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:渡辺大知 奈緒
監督:玉田真也

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テレビドラマの『 まだ結婚できない男 』と邦画『 ハルカの陶 』を観て、奈緒という女優を今後マークしようと思っていた。その奈緒と、Jovian一押しの俳優、渡辺大知の共演である。というわけで平日の昼間から劇場へ行ってきた。

 

あらすじ

加藤(渡辺大知)は脚本家。美帆(奈緒)は写真家兼アルバイター。二人は大の親友だが、加藤は美帆に恋心を抱いていた。けれど、告白することで、二人の関係が変わってしまうことを恐れている。加藤は美帆との距離を縮められるのか・・・

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ポジティブ・サイド

渡辺大知が『 勝手にふるえてろ 』の二とは真逆のキャラクターを好演。好きだという気持ちを意中の相手にストレートにぶつけられない世の男性10億人から、無限の共感を呼ぶパフォーマンスである。または『 愛がなんだ 』のテルコと同じく、好きだというオーラを全身から発しながらも、相手がそれに気づいてくれない、それでも満足だという少々屈折した一途キャラ。これまた世の男性5億人からの共感を呼ぶであろう。人は誰でもできない理由を思いつくことに関しては天才かつ饒舌なのだが、そのことが加藤とその悪友たちとの他愛もない喋りの中によく表れている。単なる喋りではなく、渡辺の目の演技にも注目である。さりげない演技ではなく分かりやすい演技、しかし、わざとらしい演技ではない。目で正の感情や負の感情を語っていて、美帆と共有する時間を知っているオーディエンスには伝わるが、美帆と共有する時間を知らない悪友たちには、その目の語る事柄が伝わらないという憎い演出である。

 

奈緒演じるヒロインの美帆をどう捉えるかで本作の評価はガラリと変わる。加藤の悪友の言うようにビッチ(という表現は不穏当だと思うが)と見るか、計算ずくで加藤をキープし続ける小悪魔なのか、それとも本当に男女の友情を信じて維持している、ある意味で非常に純粋な女なのか。Jovianは小悪魔であると感じた。理由は二つ。1つには写真。被写体に対する愛情がないと撮れない写真というものがある。それは、例えば『 思い、思われ、ふり、ふられ 』のカズが撮った写真であったり、『 マーウェン 』のマークが撮る人形の写真だったりする。そうしたものは一目見れば分かるし、そうした写真を無意識で撮ったとすれば、撮影者は小悪魔ではなく悪魔であろう。理由のその二は、公園で泣く美帆と、その彼氏である大賀の所作。大賀に責められたから泣いたのではなく、自分の意識していない薄汚れた面に気付いてしまって泣いたのだろう。大賀が慰めるように肩に手をかけていたのは、美帆を思いやる以上に「今は涙をこらえろ。加藤にその涙を見せるな」という意味だと受け取った。このあたりは観る人ごとに解釈が分かれるものと思う。

 

大賀と渡辺の喫茶店での対峙シーンは素晴らしい。『 聖の青春 』の松山ケンイチと東出昌大の食堂での語らいを彷彿とさせた。大賀は登場時間こそ少ないものの、スクリーンに映っている時間は、画面内のすべてを支配したと言っても過言ではない。

 

全編が芝居がかっていて、劇作家である玉田真也監督の真骨頂という感じである。居酒屋のシーンや加藤の自宅のシーンなど、下北沢の芝居小屋で見られそうなトーク劇だった。あれだけ軽妙かつ切れ味鋭いシーンをどうやって撮ったのだろう。すべて台本通りなのだろうか。それとも、大まかな方向性だけを与えて、役者たちのインスピレーションに任せて何パターンか撮影して、その中から良いものを選んできたのだろうか。

 

Jovianは東京都三鷹市の大学生だったので、井の頭公園はまさに庭だった。渡辺大知の卓抜した演技だけではなく、馴染みのある風景がいくつも出てきたことで、作品世界に力強く引き込まれた。井の頭公園で歌うギタリストの歌も素晴らしくロマンチックだった。世の細君および女子にお願いしたいのは、パートナーが沈思黙考していたら、是非そっとしておいてやってほしい。本当に考え事に耽っていることもあるが、過去の美しい思い出を反芻している時もあるから。

 

ネガティブ・サイド

加藤の職業が脚本家というのは、少々無理があると感じた。実際にテレビで放映されているわけで、美帆がそれを観ないという保証はどこにもない。又吉のエッセイが原作ということだが、加藤は駆け出しの小説家ぐらいで良かったのではないか。それなら出版前の原稿を仲間内でわいわいがやがやと論評合戦してもなんの問題もない。ジュースもケーキも手渡せないようなヘタレな加藤が、美帆との時間をそのままテレビドラマのネタにしてしまうというのは、キャラ的に合っていないと思えた。

 

萩原みのり演じる加藤の女友達、または徳永えり演じる美帆のビジネスパートナーに、何か波乱を起こして欲しかった。自分が誰かを好きな気持ちを、その誰かは決して気付いていてくれない。そのことを加藤自身が図らずも実践してしまうというサブプロットがあれば、またはそうした思考実験的なもの(たとえばドラマの脚本の推敲の過程で)を挟む瞬間があれば、よりリアルに、よりドラマチックになったのではと思う。

 

総評

カップルのデートムービーに向くかと言われれば難しい。かといって友達以上恋人未満な関係の相手と観に行くのにも向かない。畢竟、一人で観るか、あるいは夫婦で観るかというところか。Jovianは一人で観た。井の頭公園や渋谷が庭だ、という人には文句なしにお勧めできる。ラストは賛否両論あるだろうが、男という面倒くさい生き物の生態の一面を正確に捉えているという点で、Jovianは高く評価したい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

lover

「恋人」の意。日常会話ではほとんど使わない。日本語でも「カレシ」、「カノジョ」の方が圧倒的に使用頻度が高いのと同じである。劇中で二度歌われる『 友達じゃがまんできない 』の歌詞、「あなたの恋人になりたい」が泣かせる。「あなたの恋人にしてほしい」ではないのである。加藤にはTaylor Swiftの“You Are In Love”と“How You Get The Girl”、そしてRod Stewartの“No Holding Back”と”When I Was Your Man“を贈る。いつかドラマの挿入歌にでも使ってほしい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 奈緒, 日本, 渡辺大知, 監督:玉田真也, 配給会社:吉本興業Leave a Comment on 『 僕の好きな女の子 』 -Boys be romanticists-

『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

Posted on 2020年8月16日 by cool-jupiter
『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

ファヒム パリが見た奇跡 75点
2020年8月14日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:アサド・アーメッド ジェラール・ドパルデュー
監督:ピエール=フランソワ・マンタン=ラバル

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Jovianはチェスの基本的なルールしか知らない。指したことは3~4回だけである。チェスの映画は『 完全なるチェックメイト 』ぐらいしか観ていないし、それに関連して『 完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 』を読んだぐらいである。フィッシャー=小池重明以上の人格破綻者、と言えば、そこそこディープな将棋ファンには伝わるだろう。それぐらいのチェスの世界の知識でも本作は楽しめるし、むしろチェスの知識がない方が人間ドラマに集中できるかもしれない。

 

あらすじ

ファヒム(アサド・アーメッド)はバングラデシュの天才チェス少年。チェスのグランドマスターに会うという名目で、父に連れられてフランスのパリにやってきた。ファヒムはチェスのクラブに通い、チェスを学び、フランス語を覚え、同世代の子らと友情を育み、シルヴァン(ジェラール・ドパルデュー)とも奇妙な師弟関係を結んでいく。しかし、ファヒムの父の不法滞在が明らかになり、国外退去が時間の問題となってしまい・・・

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ポジティブ・サイド

ファヒムを演じたアサド・アーメッドの演技力に鳥肌が立った。『 存在のない子供たち 』の主人公ゼインや『 アジョシ 』のキム・セロンに並ぶ存在感。緊迫した政治状況にあるバングラデシュで屈託なく生きる子どもが、母との別離、外国での暮らし、友情、師弟関係、親子関係、そしてチェスを通じて成長していく様には純粋に胸を打たれた。印象的だったのは、チェスの対局時に一手指すごとに相手を射抜くような目を見せること。将棋の対局では盤上から視線をそらさない者と対戦相手に視線を向ける者の両方がいるが、チェスのでも同様らしい。その目に宿る力強さには名状しがたいものがあった。目は口程に物を言うものである。

 

ファヒムを取り巻く同世代のチェス仲間たちも良い味を出している。特にファヒムにフランス語のスラングを教え込む男の子には、『 IT イット “それ”が見えたら、終わり。 』のリッチー・トージアと共通するものを感じた。下品なスラングを教える/教わるというのは、友情を育む一つの有効な方法である。Jovianも大学の寮で“Hold on a minute, playa.”だとか“Sup, pimp?”などの、今では絶対に使えないようなアレやコレな表現を教えてもらったことを懐かしく思い出した。また、ファヒムが難民センターの子らと意思疎通をしていくシーンでは、ジェスチャーの有効性と文脈理解の重要性の両方が示されている。外国語学習者は、言葉だけではなくもっと“コミュニケーション方法”を学ぶべきだとの自説の意を強くした次第である。

 

Back on track. 本作はファヒムの文学的な意味での「父殺し」の物語でもある。チェスや将棋というのは、だいたい子どもは父親から教わるものだろう。そして、最初はどうやったって経験者には敵わない。だが、長じるにつれて上達し、子どもはだいたい父親を負かすものだ。本作でもファヒムは実の父親をチェスで負かし、そして精神的な父親であるジェラールのトラウマを、彼の代理として打ち消す。単純にチェスの勝ち負けだけでその過程が描かれるのではなく、ファヒムの内面の葛藤や対戦相手との関係、そしてジェラール自身の過去が投影されていることが、本作のクライマックスを大いに盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド 

ファヒムの父親の描き方が少々乱暴であるように感じた。バングラデシュでは消防士という非常に堅い仕事に就きながら、フランスではまったくの愚鈍な足手まといになってしまっていた。それは別に構わない。ただ、文化や風俗習慣の違いを素直に受け入れられないのは良いとしても、なにか見せ場の一つや二つは用意できなかったか。たとえば難民センターの消火器の置き場所をもっと適切なところに変更するとか、プロフェッショナルでありながらもその能力を発揮する場や時がない、という描き方もできたはず。そうしたシーンがないため、この父親が善人ではあるが無能であるというふうに映ってしまう。移民が無能なのではなく、環境がそうさせるのだというメッセージを発するべきだったのではないだろうか。

 

難民センターで知り合ったサッカー少年たちのその後はどうなったのだろう。ファヒム親子の土壇場の大逆転劇は確かに感動的であるが、ひとつ間違えれば「フランスは才能ある移民だけしか歓迎しない」というメッセージにもなりうる。今日、政情が不安定という国の多くは、その原因が現在の国連常任理事国のかつての帝国主義的政策に端を発するのだから、フランスは責任ある国家として世界の融和を目指すという立場を表明すべきだったと感じる。

 

総評

色々とフランス社会の描かれ方に不満もあるが、本作は紛れもない良作である。こういうドラマを見せられると、ボビー・フィッシャーを拘留したのは職務に忠実だったと言えるが、精神的に相当ダメージを与えるような処遇をしたとされる日本の出入国管理局について、あらためて考えさせられる。本作はフランス映画として観るよりも、明日の日本社会を描いた作品として観るべきである。『 ルース・エドガー 』のレビューでも述べたが、日本にもファヒムのような天才児が出現または到来する、あるいは将棋界に藤井聡太並みの外国人棋士が生まれても全く不思議はないのである。そうした一種の未来シミュレーションとして本作を鑑賞することも可能である。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語レッスン

parfait

英語で言えば“Perfect”、日本語で言えば「完璧」である。ただ、日本語でもそうだが、完璧でなくてもバンバン使う表現である。カナダ人が好んで使う表現だという印象を持っている。実際にカナダに旅行に行った時、どこのウェイターもウェイトレスも、注文を言い終わると“Perfect!”を連発していた。フランス旅行の際に、ホテルやレストランの従業員に一声かける時に使えるかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アサド・アーメッド, ジェラール・ドパルデュー, ヒューマンドラマ, フランス, 伝記, 監督:ピエール=フランソワ・マンタン=ラバル, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

『 はちどり 』 -小さな鳥も大きく羽ばたく-

Posted on 2020年8月10日2021年2月23日 by cool-jupiter

はちどり 80点
2020年8月8日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:パク・ジフ キム・セビョク
監督:キム・ボラ

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映画貧乏日記のcinemaking氏が激賞していた作品。キム・ボラ監督の長編デビュー作品。韓国の監督というのは往々にして自分で脚本も書くが、いつの間にか小説や漫画の映像化に汲汲茫々とするばかりとなった邦画の世界も、もっと見習ってほしい。

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あらすじ

14歳のウニ(パク・ジフ)は集合団地で暮らしている。父や兄は抑圧的で母や姉も自分にはあまり構ってくれない。そして学校でも、それほど友人に恵まれているわけでもないし、教師も非常に強権的。けれども、ウニは別の学校の友だちやボーイフレンドと、それなりに楽しい日々を過ごしていた。そして、通っている漢文塾でミステリアスな女性教師ヨンジ(キム・セビョク)と出会って・・・

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ポジティブ・サイド 

『 サニー 永遠の仲間たち 』の描いていた暗い世相を反映した1980年代を抜けて、『 国家が破産する日 』のプロローグで映し出されていた1990年代の高度経済成長時代のただ中の韓国の物語である。大きく成長してく国家や社会に、思春期という肉体的にも精神的にも大きく変わっていく時期の少女が重ね合わせられている・・・わけではない。逆に、そのような世界の大きなうねりに乗り出す前、家族や家、学校といった小さな環境の中で必死に羽ばたこうとするはちどりの姿がそこにある。

 

当然そのはちどりとは、主人公のウニである。冒頭のシーンからふるっている。買い物から帰ったウニが団地の902号室の呼び鈴を鳴らすが、誰も反応しない。不安になったウニが何度も何度も呼び鈴を鳴らすが、それでも在宅しているはずの母は一切反応しない。ヒステリックに叫ぶウニ。だが、次の瞬間、ウニは階段を上る。そして1002号室の呼び鈴を鳴らす。即座に母が出てきて「もっと良いネギはなかったの?」と言う。集合団地というどこもかしこも同じに見える環境に暮らすごく普通の少女が、そのうちに激情を秘めているという象徴的なオープニングである。

 

ウニは極めて抑圧的な環境で生きている。父に怒鳴られ、兄に殴られ、母にはあまり構ってもらえず、姉とは没交渉である。ウニの数少ない心の安定剤であるボーイフレンドとの仲は、しかし、かなり順調で、楽しくない学校生活のさなかにも、彼からの「愛してる」というポケベルのメッセージに心を弾ませる。学校は違うが塾は一緒という友人もいる。共犯者的な存在と言ってもいい。このような一方では充実したウニの世界も、次から次へと破綻していき、それがどうしようもなく観る側の心を揺さぶる。印象的だったのはウニの親友の少女。ある日、白いマスクを着用してきたのを見て、ウニも我々も「あれ?」と思う。もちろん風邪ではない。風邪なら塾を休めばよい。つまり、家にいられず、しかしマスクをつけなくてはならない事態があったということだ。ここで我々はキム・ボラ監督に想像力を試されていると言っていい。痛々しい真相が明かされるシーンは、遠景からのショットでありながら、ウニと親友の二人だけの会話を静かに映し出すというもの。世界はそこに存在するが、ウニたちだけの世界もまた、そこに存在するのだと感じられる不思議な余韻のあるシーンだった。そうか、はちどりはウニだけではなかったのか、とも感じられた。

 

大きな転機となるヨンジ先生との出会いも印象的だ。特に禅語の「相識満天下 知心能幾人」に、Jovianも唸らされた。そうか、世界とは森羅万象、そこにあるもの、目に入るものだけではないのか。人間関係とは往々にして相貌を認識できるだけの関係に留まるものなのか、と不惑にして考えさせられた。ウニが自分の世界の小ささと、そこから先に広がる大きな世界、さらにその世界で生きることの難しさと尊さの両方を感得するシーンであり、人生の師に巡り合うシーンでもあった。

 

それにしてもヨンジ先生を演じたキム・セビョク、最初に見た感じでは『 テルマエ・ロマエ 』で言うところの平たい顔族の女性代表かな、みたいな失礼な印象を抱いていたが、物語が進むにつれ、どんどんと魅力的な顔立ちに思えてくるから不思議なものである。特に、彼女が一曲アカペラで歌うシーン(と書くと、酒場でマッコリでも飲んで上機嫌で歌うように思えるかもしれないが、そうではない)では、その切々とした歌唱と凛とした表情、そして歌詞の伝える意味が、ウニの心に、そして観る側である我々の心にもストンと入ってきた。「トボトボ歩く」ことが、これほどリアルな哀切の情を表すとは。キム・ボラ監督の演出力にしてキム・セビョクの演技力の為せる業か。

 

思春期、そして青春の入り口を描きながらも本作は血と死の予感も漂わせている。ゾッとさせられたのは、ウニの呼び声に反応しない母親。鼓膜が一時的に破れていたのだろうか。その相手は夫なのか。壊れるべきに思える夫婦関係だが、そこでくっついたり離れたりを繰り返してきたのか。まるでウニの青春、ウニの人間関係のようではないか。ウニの叔父さんの決して語られることのない story arc やウニの担任の語る「一日一日、死に近づいていくのだ」という台詞。兄からの暴力。親友の受ける、それ以上の暴力。そして、終盤の悲劇。様々な事象が絡まり合い、ウニだけではなくウニの父やウニの兄も涙を流す。不器用な男たちが心の鎧を脱ぎ捨てる瞬間で、ウニはその時、父や兄の心の一端を知る。知心可二人というわけだ。はちどりは、その小さな姿からは想像をできないほどの超長距離を移動する渡り鳥である。英語のタイトルは“House of Hummingbird”。はちどりの大いなる旅立ちを予感させつつ、帰るべき場所をしっかりと示すエンディングは、多くの人の心に静かな、しかしとても力強いさざ波を立てることだろう。

 

ネガティブ・サイド

ほとんどないのだが二点だけ。

 

一つは、ある重要人物の母親が嗚咽するシーン。ウニが親友ジスクと語らうシーンで「私が死んだら、あの人たち泣くかな?」に対する答えがそこにあった。この母親の泣きのシーンをもっと長く、もっと深くカメラに収めるべき=ウニに体感させるではなかったか。

 

もう一つは、エンディングそのもの。『 スリー・ビルボード 』と同じで、あと30秒欲しかったと思う。

 

総評

ポン・ジュノ監督がアカデミー賞監督賞を授与された時に、マーティン・スコセッシの“The most personal is the most creative”=「最も個人的な事柄が最も創造的な事柄である」という格言を引用したことが話題になった。キム・ボラ監督は、まさに自身の最もパーソナルな少女時代の経験を基にこの物語を創造したのだろう。極めて個人的な心象風景であるが、それはあらゆる少年少女、そしてかつて少年少女だった大人の心にも激しく突き刺さるという、非常にストレートなビルドゥングスロマンの傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

チング

『 友へ チング 』という作品もある通り、友、友人、親友の意味。調べてみると同級生や同い年にのみ使うらしい。長幼の序を重んじる韓国らしい表現である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, キム・セビョク, パク・ジフ, ヒューマンドラマ, 監督:キム・ボラ, 配給会社:アニモプロデュース, 青春, 韓国Leave a Comment on 『 はちどり 』 -小さな鳥も大きく羽ばたく-

『 トンネル 闇に鎖された男 』 -閉所恐怖症は観るべからず-

Posted on 2020年8月5日 by cool-jupiter

トンネル 闇に鎖された男 60点
2020年8月4日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ハ・ジョンウ ペ・ドゥナ オ・ダルス
監督:キム・ソンフン

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北海道の豊浜トンネル岩盤崩落事故を思い出させる内容である。あの時は現場責任者が被害者家族をマスコミと勘違いして「偉そうに言うな!」みたいなことを言って大問題になっていたっけ。当時高校生だったJovianは連日連夜、マスコミがニュースでこの事故を時に真剣に、おちゃらけて取り上げていたのを覚えている。

 

あらすじ

家族の元へと車を飛ばすイ・ジョンス(ハ・ジョンウ)は、トンネルの突然の崩落事故で生き埋めになってしまう。手元にあるのはスマホ、ペットボトル2本分の水、そして娘へのプレゼントであるケーキのみ。彼は救助が来るまで生き延びることができるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

シチュエーション・スリラーと見せかけて、サスペンスでもありファミリードラマでありヒューマンドラマでもある。適度に韓国の大企業や政府への批判も織り交ぜられているのも韓国映画らしいところ。地震大国の日本でも、本作のようなアクシデントは起こりうるし、実際に1990年代後半にはJR西日本の新幹線のトンネルでコンクリート剥落事故が多発したことを覚えている人も多いだろう。コンクリートというものは、いつかは劣化するものなのだ。荒唐無稽なシナリオに思えるが、実は十分にリアルな状況設定なのだ。

 

閉じ込められることになるハ・ジョンウの演技力が素晴らしい。しぶとく生き残った男の安堵と不安の両方を一人芝居で演じきった。特に印象的だったのはペ・ドゥナ演じる妻と電話で話すシーン。「朝ごはんをしっかり食べろ」という台詞のあまりの場違いさにズッコケると同時に、その台詞の重み、すなわち、トンネル内で生き埋めになっていても大丈夫、お前はお前の日常を生きろ、という夫から妻へのメッセージに、胸が押しつぶされそうに感じた。自分が同じ状況に陥った時、こんな言葉が口から出てくるだろうか、と。トンネル内にもう一人と一匹の生存者がいると分かってからのジョンスの行動も重い。自分なら貴重な水を分け与えられるだろうかと思う。状況がリアルなため、ジョンスというキャラクターに感情移入がしやすく、それゆえに彼の言葉や行動の一つひとつが観る側に問いを投げかけてくる。

 

オ・ダルス演じる救助チームの責任者キム・デギョンも人間味があふれる男である。マスコミを一喝して、スカッとさせてくれる。一方で、彼は当事者でありながら当事者ではない。警察も消防も医療従事者も、対象には「あれしなさい、これしなさい」と気軽にアドバイスを送るが、「じゃあ、あんたはやったことあるんか?」と問いたくなったことがある人は多いだろう。Jovianと同じく不惑あたりの年齢の人は、健康診断のたびに「三食バランスよく食べなさい、早寝早起きをしなさい、1週間のうち2~3日はじんわりと汗をかく運動を1時間以上しなさい、ストレスを解消しなさい、酒を減らしなさい・・・」って、ドクター、あなたはそれが全部実践できているのですか?と、いつも尋ねたくなる。このオ・ダルスも、ジョンスにめちゃくちゃなアドバイスを送るが、言うは易く行うは難しをまさに実践する。人を救う職業に従事するのに理想的な男である。

 

ジョンスの嫁を演じたペ・ドゥナも素晴らしい。出番こそ少ないが、要所要所で確実なインパクトを残す。印象的だったのは現場で働く者たちに料理を作って給仕するシーン。そして、ジョンスに電話で「死ね!」と一喝するシーンだ。鬼嫁と勘違いすることなかれ。このような嫁を持つことができる男は果報者である。だが圧巻なのは、ラジオ局のシーンである。こればかりは鑑賞してもらうしかない。『 キャスト・アウェイ 』や『 ハリエット 』など、多くの作品に共通する展開ではあるが、やはりこうしたシーンは涙なしには見られない。万感胸に迫るものがあった。

 

大企業や政治家、そして一般大衆までも巻き込んで、鋭く韓国社会を撃つ。一人の人間の命の重さを正面から描く。台風や地震で家屋が倒壊して閉じ込められた、という時のサバイバル方法を学ぶことができる点もユニークだ。最後の最後に、ジョンスが観る者を最高にスカッとさせてくる。韓国映画ファンならチェックしてみて損はないだろう。

 

ネガティブ・サイド

やや記憶があいまいになっているかもしれないが、「有線のドローンを作らせて取り寄せろ」と言われたドローン・オペレーターが「アメリカのオンタリオですよ」と返すが、オンタリオはカナダではないか?それともこれは韓流ジョークなのだろうか。

 

あるパグ犬が重要な役割を演じているのだが、この犬の story arc が最後には不明になる。『 パターソン 』のネリーに近いレベルの神演技を見せるテンイが、ジョンスの家に招き入れられないなどということがあってよいのだろうか。とうてい承服しがたい。

 

最も不満に思うのは、後半のジョンスのサバイバルの過程がぱったりと描かれなくなることだ。途中までは日が経つごとにジョンスの髭がどんどん伸びていったが、それ以外の描写も欲しかった。たとえば爪の伸びや、あるいは皮膚の垢。または、頬がかなりこけてしまっている、という絵があってもよかった。極限状態を、それでも生き抜いた男の苦闘の跡がもっと目に見える形で表現されていれば、という点が惜しまれる。

 

総評

登場人物は少ないが、それでも2時間きっちりとドラマを生み出し、観る側を引き付ける力を持っている。脚本の力、そして役者の演技力の賜物である。『 リンダ リンダ リンダ 』のペ・ドゥナがなんとも milfy になっているので、彼女のファンは絶対に観よう。フェイクニュースや、マスコミの報道の在り方、そして我々のニュースの“消費”の仕方などについても多くの示唆を与えてくれる社会派映画でもある。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

ウェ

とある長官の一言。意味は「なぜ」である。英語の Why? によく似ている。これも色々な韓国映画でちらほらと聞こえてくる定番の語彙だろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, オ・ダルス, サスペンス, ハ・ジョンウ, ヒューマンドラマ, ペ・ドゥナ, 監督:キム・ソンフン, 配給会は:アルバトロス・フィルム, 韓国Leave a Comment on 『 トンネル 闇に鎖された男 』 -閉所恐怖症は観るべからず-

『 リアム16歳、はじめての学校 』 -親離れと子離れと-

Posted on 2020年7月30日 by cool-jupiter

リアム16歳、はじめての学校 60点
2020年7月28日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ダニエル・ドエニー ジュディ・グリア シボーン・ウィリアムズ
監督:カイル・ライドアウト

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シネ・リーブル梅田で去年(2019年)に見逃した作品。カナダの映画というのは、アメリカ映画とは違って、外部の日常生活に劇的な変化が起きるというプロットよりも、キャラクターの内面の変化やキャラ同士の関係性の変化を丹念に追うプロットが多い気がする。そういう意味では本作は典型的なカナダ映画である。

 

あらすじ

リアム(ダニエル・ドエニー)は物理学を愛する16歳。学校には行かず、ホームスクーリングで育った。ケンブリッジ大学に入学して天文学者になるという目標は、しかし、高卒認定試験を受けるために訪れた公立高校で変更となる。彼はそこで義足の少女アナスタシア(シボーン・ウィリアムズ)に恋をしてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

どことなく『 ミーン・ガールズ 』に似ている。大自然の中で育った少女が、高校という独自の生態系でも食物連鎖の上位者となっていく過程が面白かった。本作の主人公のリアムは逆で、自宅で温室栽培されていた。にもかかわらず、男子のダメなところをしっかりと学校で体現してしまう。リアムがアナスタシアの行動パターンを掴み、何度も何度も偶然を装って廊下ですれ違うシーンに共感する、あるいは自らの(情けない)過去を思い出す男性は多いに違いない。アナスタシアに恋焦がれながらも、アプローチができない。行動が小学生レベルなのだ。リアムの行動にもどかしさを覚えながらも共感してしまうという絶妙な仕掛けである。

 

何がユニークで面白いかと言えば、リアムがマリア・サンチェスという優等生の代わりになるというところ。普通におかしい展開なのに、あれよあれよという間にリアムがマリアとして学校に受け入れられるのには笑ってしまう。

 

母親とリアムの関係も多少の毒を孕みながらも真に迫っている。『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』でも存分に描かれていたが、男というのはどこまで行っても本質的にはマザコンである。息子と母親の距離感にも共感することしきりである。これはリアムの初恋を描くと同時に母親からの旅立ち、そして母親への回帰、そして更なる自立への一歩を描く物語だからである。

 

シングルマザーとして過剰なまでにリアムの教育に注力する母親クレアもなかなかの味わいだ。夫、つまりリアムの父親との離婚については詳しく触れられないが、その部分にドラマを求めなかったのは正解である。リアムは極めて共感しやすいキャラクターであるが、自分と同一視してしまうという人はあまりいないはず。それはリアムと母クレアの関係の近さと強さが普通ではないからだ。お祖母ちゃんが常にそこに鎮座ましましているが、この祖母の距離と視点が我々ビューワーの距離と視点だ。実際にクレアが自宅の黒板にリアム教育プロジェクトのマイルストーンを一つ一つ書き出し、そして達成の暁には一つ一つ消していく。クレア視点ではなく第三者視点でそれが描写される。息子に「どうせ学校で覚えるのだから」とマリファナを吸わせたり、パーティーでの酔い方を積極的に学ばせようとしたりするなど、この母親への共感のしづらさがリアムへの共感のしやすさと絶妙なバランスを作り出している。

 

個人的に本作を最も面白くしているのはアナスタシアのパーソナリティだと感じる。『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ 』の主人公と同じ名前というところで笑ってしまうが、最も目を引くのは義足である。なぜ義足なのか。いつから義足なのか。そうした疑問の答えをマリア・・・ではなくリアムが得るまでに、一筋縄ではいかない初恋および青春の「あるある」が待ち受けている。初恋の相手は清純な乙女だった・・・というのは多くの男が抱く幻想であろう(だからといって女性がみんな百戦錬磨の恋愛強者だと言っているわけではない)。カナダ人や西洋人全般の文化やメンタリティだろうか。『 建築学概論 』に近い展開があり、我々ならここで心が折れてしまうかもしれないが、リアムはそうはならない。カナダ制作映画『 もしも君に恋したら 』のD・ラドクリフ演じる主人公と共通するメンタリティである。アナスタシアとの距離を徐々に、しかし確実に縮めていくリアムの姿はやはり男心を疼かせる。リアムの初恋は実るのか?固唾をのんで見守ってしまうこと請け合いである。アッと驚く展開あり、運命を予感させる展開もあって、なかなかに飽きさせない作りである。

 

それにしてもカナダというのはずいぶん進んでいる国だなとあらためて感じる。2017年にカナダ旅行中に見た子供向け番組の『 Super Ruby 』は主人公が眼鏡着用・・・だけなら別に驚かないが、なんと補聴器も装用している。そして補聴器の新品をゲットするために尋ねた言語聴覚士が義手装備。この記事の『 チョコレートドーナツ 』の項をよくよく読んでいただきたい。これがほぼ同時期の日本の現実である。

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ネガティブ・サイド

母親クレアのキャラクターに一貫性が欠けている。息子を愛してやまないのだが、ギャグやユーモアを前面に押し出しているシーンと、そうではないシーンを対比させた時に、ギャップがあり過ぎる。普段優しい人ほど怒ると怖いという感じではなく、息子の一番の親友という役を演じているテンションのまま母親として怒る、というのがどうにもチグハグに見えてしまった。

 

校長先生がリアムの母親にアプローチする展開が蛇足であるように感じた。もしもそうしたサブプロットを追求したいのなら、チャランポランな人物に設定すべきでない。しかし、チャランポランでなければリアムがマリアにはなれない。プロットとキャラクターのパーソナリティであれば、プロットを優先すべきだ。

 

キャラのちぐはぐさやプロットとの不整合は他にもある。学校でリアムをいじめてくるキャラになんらかの因果応報があってしかるべきだと思うが、なかった。うーむ、ベタでもいいから、何かこのいじめっ子にして恋敵の男にギャフンと言わせるような展開が欲しかった。また、リアムのお祖母ちゃんは存在感あり台詞なしというキャラで、最後に見せ場があるかと期待したが、これも無し。うーむ・・・

 

総評

妥当性確認が今もって為されていない「全国一斉休校」によって、日本各地で図らずもホームスクーリングが大規模に行われた。その意味では本作は自宅学習(の狙いや難しさ)をシミュレーションできる作品である。同時に親離れと子離れのプロセスを描く一種のセミドキュメンタリー的でもある。親バカの自覚のある人、または大学進学などで子どもが家から出ていくことが不安でならないという向きにお勧めしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You had it coming.

「自業自得」の意である。直訳すれば「あなたがそれをやって来るようにした」である。 I had it coming. や We had it coming. など主語を変えて使うこともできる。

 

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, カナダ, シボーン・ウィリアムズ, ジュディ・グリア, ダニエル・ドエニー, ヒューマンドラマ, 監督:カイル・ラウドアウト, 配給会社:エスパース・サロウ, 青春Leave a Comment on 『 リアム16歳、はじめての学校 』 -親離れと子離れと-

『 パブリック 図書館の奇跡 』 -Don’t shoot me, I’m only a librarian.-

Posted on 2020年7月26日2021年1月21日 by cool-jupiter

パブリック 図書館の奇跡 70点
2020年7月24日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:エミリオ・エステベス アレック・ボールドウィン ジェナ・マローン
監督:エミリオ・エステベス

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タイトルだけ読むと『 図書館戦争 』的な世の中で、それでも本を愛する人たちが・・・のような物語を想像するが、実際は全然違う。むしろ『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』を舞台にヒューマンドラマを作った。それが本作の紹介として最も端的かもしれない。

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あらすじ

シンシナティ公共図書館員のスチュアート(エミリオ・エステベス)は、体臭を理由にある人物を図書館から退去させたことで訴訟を起こされてしまう。失意の彼がその日の勤務を終えようとすると、いつもの馴染みのホームレスたちが図書館から去ろうとしない。大寒波の夜、シェルターも満杯。行き場がなく、居座ろうとする彼らを前に、図書館員のスチュアートが取った行動は・・・

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ポジティブ・サイド

図書館の存在意義については『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』で自分なりにかなり深く考察したつもりだが、こんな現世的な図書館の利用方法があったのか。確かにニューヨーク公共図書館でも求職者たちに各種セミナーやサービスを提供していたが、シンシナティ公共図書館はホームレスたちにとっては昼間のシェルターなのだ。『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』でもシェルターや教会がLGBTQにとって重要な生活の拠点になっていたことが思い出される。

 

利用者たちは真面目な学習者から、ちょっとおかしな人まで様々だ。個人的に笑ったのは「ジョージ・ワシントンのカラー写真が載った本はありますか?」と尋ねる市民だ。ホームレスたちも多士済々。退役軍人もいれば、やたらと博識な者、対人恐怖症かと見せかけてメンタルに少々困難を抱える者など、素顔は様々だ。特に博識男のシーザーは愉快だ。トリビアを披露しては「ヘイル、シーザー!」と仲間に叫ばせる。キャラを立たせると同時に、彼らがどれだけ息が合っているのか、彼らがいかに長く図書館で過ごしているのか、どんな本を読んでいるのか。そういったことがわずか数分で明らかになる。この図書館のトイレのシーンはビジュアル・ストーリーテリングの極致である。

 

本作には明確な悪役が存在する。それはクリスチャン・スレーター演じる検察官だ。検察官というと、検察庁のナンバー2という要職にありながら常習的なテンピン麻雀で御用・・・とならなかった上級国民が今年はニュースになった。本作の検察官は市長選に立候補しており、「法と正義を執行する」ことで街を良くしていくのだと言う。実に分かりやすい。つまり、この男の言う法と正義の執行とは、主演兼監督のエミリオ・エステベスが「問題である」と感じ、自身のメッセージとして世に問いたい事柄なのだ。法の文言を守ることが重要なのか、それとも法の精神を守ることが重要なのか。個の領域に属すもの、例えばプライバシーなどに、法はどこまで効力を及ぼすのか。市民として守るべき法と職業人として守るべき法、それらが対立する時に、自分はどうすればよいのか。本作が投げかけてくる問いは、我々一般人も一度は深く考えてみるべきことばかりだ。

 

メディアの在り方についても問われている。フェイクニュースが各国で問題となる中、それが生み出される過程を本作は描く。Black Lives Matter運動以前に制作された作品であるにも関わらず、「無抵抗の黒人を殺すなよ」などというドキリとさせられる発言を警察官同士で行ったりしている。フェイクニュースとは、事実ではない報道のことだ。ここでの事実でないこととは何か。それは差別的な先入観であったり、偏見であったりだ。事実をまずは虚心坦懐に受け入れる姿勢ではなく、いかにセンセーショナルものなのか、いかにニュース・バリューがあるのかで判断する姿勢がメディアの側の問題点である。同時に、報じられるニュースがいかに自分と関係があるのか、それとも無いのかで我々はニュースに接する。コロナに罹患した人を「自己責任」と切って捨てるのは、自分はコロナには罹らないという過信から来ている。過信とはつまり、想像力の欠如のことである。メディアは自分たちが扱う事件や人物に対して、我々は報道の向こう側の事象や人物に対して、偏見ではなく想像力で接さねばならない。

 

図書館立てこもり組と交渉人刑事(演じるのはベテラン俳優のアレック・ボールドウィン)との間のちょっとしたサブプロットもあり、またエミリオ・エステベス演じるスチュアート自身の隠された過去もあり、単なる思想的な映画では終わらない。籠城組に対して思わぬ援軍が現れ、ことは図書館だけではなく街全体をも巻き込んでいく。そして、いざ武装警官が突入か、という緊張感マックスの場面で、スチュアートたちが取った起死回生の策とは?うーむ、すごい。確かに伏線というか前振りはあったが、それをここまで大胆にやってしまうのか。公共とは何かという問いをブッ飛ばすと同時に、法や正義とは何かという問いも同時にブッ飛ばす驚きの解決策である。社会派映画としても娯楽映画としても、高い水準で完成された作品である。

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ネガティブ・サイド

事の発端は大寒波の襲来だったはず。にもかかわらず、街行く人の吐く息がまったく白くない。誰も寒さで震えていないし、スチュアートとの交渉で下手をうった検察官が路上で上着を脱いで寝かされても、まったく震えもしない。いくらなんでもこれはおかしい。狭い路地裏で数人が固まれば、何とかしのげるんじゃ?と思ってしまった。

 

スチュアートやマイラの図書館員としてのプロフェッショナリズムの描写が、特に序盤に弱かった。『 水曜日が消えた 』は駄作だったが、深川麻衣は図書館員として本の整理や貸し出し以外の仕事をしていた。本をプロモートするか、セミナーやワークショップをどう開催するか。そうしたことも図書館員の仕事である。立てこもったホームレスの面々に思い思いに時間を過ごさせるのではなく、図書館員としての知識やスキルで人々をまとめるシーンが欲しかった。

 

スチュアートの隣人のアンジェラとの情事は必要だったか。やたら遅い時間に図書館を訪れてくるのを見て、本当は貸し出しカードを作りに来たのではないだろうと誰もが思うはず。この描き方では、夜の営みに手ごろな相手が見つかったぐらいにしか見えない。スチュアートとアンジェラの最初のシーンは、これから何かが始まるかもしれないぐらいの予感を漂わせる程度に抑えておくべきだった。

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総評

これは良作である。2018年制作ということだが、同じ頃の日本では、某大学が蔵書数万冊を焼却処分したことが話題になっていた。本を廃棄・焼却することの是非はともかく、図書館はどんな書籍にも差別はしない。何でも受け入れるのが図書館だ。その図書館という「民主主義の最後の砦」を舞台に繰り広げられる一夜の攻防は、エンタメ作品として合格。法と何か、正義とは何かという社会派な面でも及第点以上の出来である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン 

look for ~

~を探す、の意である。人でも物でも、この表現で探すことができる。

I’m looking for a Brad Pitt movie.

Where have you been? I’ve been looking for you.

What kind of job are you looking for?

など、「探す」=look for である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, アレック・ボールドウィン, エミリオ・エステベス, ジェナ・マローン, ヒューマンドラマ, 監督:エミリオ・エステベス, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 パブリック 図書館の奇跡 』 -Don’t shoot me, I’m only a librarian.-

『 ウィーアーリトルゾンビーズ 』 -人生は絶妙なクソゲーか?-

Posted on 2020年7月24日 by cool-jupiter

ウィーアーリトルゾンビーズ 70点
2020年7月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:二宮慶多 中島セナ 水野哲史 奥村門人
監督:長久允

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MOVIXあまがさきで割と短期間だけ上映していたように記憶している。その時に見逃したので、近所のTSUTAYAでレンタル。『 デッド・ドント・ダイ 』と同じく、現代は「生きる」ということをそろそろ再定義すべき時期である。邦画の世界に同じような問題意識を抱き、それを映画で表現しようとした作り手がいたことを、まずは素直に喜びたい。

 

あらすじ

中学生のヒカリ(二宮慶多)は両親をバス事故で亡くしても、涙を流せなかった。そんなヒカリがイクコ(中島セナ)やイシ(水野哲史)、タケムラ(奥村門人)たち、親の死に泣けなかった同世代と出会い、感情を取り戻すために冒険に出て・・・

 

ポジティブ・サイド

映画というのはコンテンツ=内容とフォーム=見せ方の形式の二つを評価すべきだが、後者がユニークな映画というのは少ない。本作は間違いなく、後者の少数派に属する。

 

まず人生=ゲーム、それもRPGという世界観が、JovianのようにFFやDQを初期からほぼリアルタイムに経験してきた世代に刺さる。ドット絵や8ビットの音楽は、それだけでノスタルジーを感じさせられる。単純だね、俺も。

 

カメラアングルなども実験的。コップの底からの視点や溜池の鯉の視点、トラックの後部座席からの視点は面白かった。

 

ゲームはしばしば人生に譬えられるが、それはあながち間違いではない。ゲームにはルールがある。ドラゴンクエストなら、職業やキャラによって装備できるものが異なっていたり、使える呪文が違っていたりする。また、ゲームにはゴールがある。やはりドラクエならば、それは往々にして魔王を倒すことだ。人生にもルールやゴールがある。それは意味や目的があるとも言い換えられるだろう。ヒカリらがパーティーを組んで、失った感情を探し求めるという冒険の旅に出るのは、そのままズバリ、人生の意味や目的を探すことに他ならない。イシの父が息子に「強さとは何か」を語り、タケムラの父が息子に「カネとは何か」を語るのは、彼らなりの人生訓である。つまり、彼らはゲームで言えばそれなり重要なヒントを語ってくれる街の住人なのだ。ヒカリたちが感情を探し求めるというのは、何も難しい話ではない。誰でも仕事が終わって自宅に帰ってきて、風呂上りに缶チューハイをゴクゴクやって「プハーッ、生き返る!」となった経験があるだろう。それは生物学的に死んでいた自分が蘇生したのではなく、自分が自分らしくなれた自己承認、自分で自分を好きになれたという自尊感情、自分がやるべきことをやったという達成感の表れである。ヒカリたちゾンビーズが求めるものは、究極それなのだ。それが彼らの人生のゴールなのだ。彼らが金魚を川に放つのは、死なないように生きるのではなく、生存の意味や目的を探る旅に出ろということの暗喩である。人間という庇護者をなくした金魚は、親という保護者をなくしたゾンビーズにそのまま喩えられるだろう。

 

点から点へと、まさにRPGのパーティーさながらに忙しく動き回るヒカリたちは、とあるゴミ捨て場でどういうわけかリトルゾンビーズという音楽バンドを結成することになる。音楽のエモさに気付いたゾンビーズは、旅の目的を果たしたかに思えたが・・・ ここでイシやタケムラの父の言葉が重みを持つ展開へと突入していく。同時に、ゾンビーズの旅がRPG的なそれから、実存主義的なそれへと変わっていく。このあたりのトーンの転調具合は見事である。イクコが写真の現像に興味を示さず、写真を撮影するという営為に没頭するのは、ハイデガー風の言葉で表現すれば、現存在が現在に己を投企しているのだ、となるだろうか。もしくはゲーテの『 ファウスト 』をそのまま引用すれば「時よ止まれ、お前は美しい」となるだろうか。このあたりについて、ワンポイント英会話レッスンでほんの少しだけ補足してみたい。生きるとは何か。旅とは何か。本作はそういったことを、考えさせてくれる契機になる。

 

子役たちは皆、それなりに演技ができている。特にイクコのクールビューティーぶりはなかなか堂に入っている。次代の芳根京子になれるか。主役の二宮慶多は、今からでも本格的に英語の勉強を始めるべき。といっても塾に通うとかではなく、英語の歌を聞いて歌いまくる。英語の名作映画を観て、その英語レビューをYouTubeで英語で視聴しまくる。そうした勉強法を実践して、英語ができる10代の役者を目指してみてはどうか。

 

ネガティブ・サイド

こういう作品に有名な俳優をキャスティングする理由はあるのか?佐野史郎とか池松壮亮、佐々木蔵之介などを画面に出した瞬間に、作り物感が強化される。もちろん映画はフィクション。そんなことは百も承知。だが、人生にリアルさを感じられず、ゲームに没頭する少年が主人公であるという世界に、顔も名前も声もよく知られた俳優は起用すべきでない。世界観が壊れる。

 

作中のリアル世界のネット上の特定班の動きをチャットだけで表してしまうのは安直に過ぎる。『 Search サーチ 』のような超絶的なネットサーフィンやザッピングの様子を映し出すことはできなかっただろうか。それがあれば、ドット絵との対比で、リトルゾンビーズら哲学ゾンビたちとスモンビあるいは行動的ゾンビたちが、もっと明確に異なる者たちであることが描けただろう。現代人はとかく、行動の動機を自身の内面ではなく外部世界に求める。一時の祭りや炎上騒ぎに興じて終わりである。自分自身の内側に生へのモチベーションが欠けているのだ。だからこそ、他人の生に首を突っ込み、関係のない正義を振りかざす。そうした人間(もどきのゾンビ)の顔を映し出してほしかった。『 電車男 』の毒男スレの住人たち(といっても映画では老若男女に置き換えられたが)の逆バージョンを映し出すべきだった。

 

少し不可解に感じたのは終盤近くのヒカリの独白。中学生が塾で相対性理論なんか習うか?しかも電車が光の速さと同じ時、その中で走る僕らは光よりも速い?時間は光の速さと同じ?ムチャクチャだ。脚本家はもう一度、相対性理論とは何か、光速度不変とは何かを勉強しなおした方がいい。過去-現在-未来を別の形で捉え直したいなら、妙な理論をこねくり回さず、終わらない旅そのものを人生のメタファーにするべきだ。またはバンドの音楽そのものをメタファーにすればよい。歌とは、始まりから終わりまでがセットで一つの歌になる。どこかの音符を一つ取り出しても、それは楽曲にはならない。そうしたvisual storytellingができれば、本作は一気に75~80点レベルになれたかもしれない。

 

総評 

非常に実験的な作品である。初見では意味がよく分からないという人もいるだろうし、「タコの知能は三歳児」のところで離脱した人もいるかもしれない。それでも昨今の邦画で珍しい、ストレートではなく変化球での人間ドラマである。子ども向けでありつつも、同時に大人向けでもある。というよりも、人生も音楽もゲームも、始まりから終わりまですべてひっくるめて一つなのだ。知らない間に産み落とされたこの世界で、それでも何とか生きてほしい。そうしたメッセージが本作にはある。隠れた名作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

ここではJovianが行ってきたカナダのバンクーバー空港で見られる旅の格言をシェアしたい。リトルゾンビーズの旅路と奇妙な共通点がたくさんあることに気付くだろう。

A journey is best measured in friends, rather than miles.

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The journey not the arrival matters.

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One’s destination is never a place, but a new way of seeing things.

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He who does not travel does not know the value of men.

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There are no foreign lands. It is the traveller who is foreign.

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 中島セナ, 二宮慶多, 奥村門人, 日本, 水野哲史, 監督:長久允, 配給会社:日活Leave a Comment on 『 ウィーアーリトルゾンビーズ 』 -人生は絶妙なクソゲーか?-

『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

Posted on 2020年7月14日 by cool-jupiter

MOTHER マザー 70点
2020年7月11日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:長澤まさみ 奥平大兼 阿部サダヲ 夏帆
監督:大森立嗣

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3歳娘を自宅に放置して脱水、そして餓死に至らしめたとして母親が逮捕される事件が世間を賑わせている。個人的にはどうでもいいことだ。そんな母親はどこの国や地域にも、いつの時代にもいる。そして、それは父親であっても祖父母であっても、血縁のある保護者であっても血縁のない保護者でも同じこと。にもかかわらず、なぜ我々は母親という存在に殊更に「子を愛せ」と命じるのか。本作を鑑賞して、個人的に何となくその答えを得たような気がしている。

 

あらすじ

秋子(長澤まさみ)は仕事も続かず、男にもだらしのないシングルマザー。息子の周平を虐待的に溺愛しながら、周囲に金を無心して生きている。そんな時に、秋子はとあるホストとの出会いから家を空けて・・・

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ポジティブ・サイド

長澤まさみのこれまでのイメージをことごとく破壊するような強烈な役柄である。年齢的に少々厳しい(若すぎる)のではないかというのは杞憂だった。日本の女優というのは、キャンキャンと甲高い声を出すことはできても、怒鳴り声の迫力はイマイチというのが定例だったが、長澤まさみはその面でも非常にドスの利いた声を出せていた。また、息子の横っ面をまさにひっぱたく場面があるが、これがロングのワンカットの一部。自身の顔のしわを気にしながら、口答えする息子に一発お見舞いし、また何事もなかったかのようにコンパクトを覗き込みながら顔のしわを気にする様子には震えてしまった。

 

全編にわたってロングのワンカットが多用されており、それが目撃者としての自分=観客にもその場の展開への没入感を高めている。冒頭の秋子の家族の大ゲンカや、阿部サダヲとのラブホの一室での取っ組み合いの大ゲンカなどはその好例である。物を投げたり、あるいはベッドシーツが乱れたりするので、テイクを重ねるのはなかなかに大変だっただろう。一発勝負で撮ったにせよ、複数回のテイクから良いものを選んだにせよ、こうした絵作りに妥協しない姿勢は高く評価されてしかるべきだ。昨今の邦画の演技力の低下を見ると、尚のことそう感じる。

 

周平役の奥平大兼の演技もなかなか良かった。自分で考えたのか、それとも監督の演出・演技指導なのか、まともな教育やしつけを受けてこないままに大きくなったという感じがありありと出ていた。その最も印象的なシーンは、夏帆演じる市役所職員に喫茶店に連れていかれるシーン。周平の箸の持ち方がめちゃくちゃなのである。幼稚園児の頃から、箸の持ち方を誰にも教わってこなかったことが容易に察せられる。事実、小児の周平がカップラーメンもお湯でもどさず、固い乾麺のままバリボリと手で持って食べるシーンが序盤にある。青年期と小児期の周平はあまり似ていないのだが、それでも同一人物なのだということが、この橋の持ち方ひとつで強く印象付けられた。

 

本作は鑑賞する人間の多くを不快にさせる。それは徹頭徹尾、秋子を救いのない人物として描いているからだ。だがそれ以上に、我々が無意識のうちに抱く「母」という存在のイメージ、もっと言えば固定観念が本作によって揺さぶられるのも、不快感の理由に挙げられはしないだろうか。これが例えば父親なら『 幼な子われらに生まれ 』のクドカンのようなキャラなら、「まあ、そういうクズはたまに見るかな」ぐらいの感覚を抱かないだろうか。育メンなる言葉が生まれ、一時期はもてはやされたが、「育メンと呼ぶな、父親と呼べ」という強烈かつ当たり前すぎるツッコミによって、この新語はあっさりと消えていった。対照的に母にまつわる言葉や概念のあれやこれやには、「母性」、「母性愛」、「聖母」、「慈母」、「母は強し」、「母なる大地」、「母なる海」、「母なる星」、「母なる故郷」など、往々にして愛、包容力、受容、癒し、庇護などのイメージと不可分である。それが高じると「母源病」などという、非科学的かつ差別的な言葉や概念が生まれる。だが、そうした母に対する迫害的な意識は我々には希薄なようだ。今でも書店に行けば、子育てや受験、果ては就職や結婚に至るまで、この人生の節目における成功と失敗の多くを、母親の功績あるいは責任であると説く書物は山と存在する。それは我々が母親に愛されたいという願望を隠しきれていないからだろう。ちょっとしたボクシングファンならば、本作を観て亀田親子をすぐに思い浮かべたはずだ。亀田三兄弟の母親がパチンコ屋でインタビューを受けながら「自分の子のボクシングの試合は見ない」と答えていた番組を見たことのある人もいるだろう。ちょっとリサーチすればわかることだが、亀田三兄弟の母も秋子ほどではないが、母親失格(という表現を敢えて使う)の部類の人間である。だが、そんな母に対しても長男・興毅は「お母さん、俺を産んでくれてありがとう」と疑惑のリング上で吠えた。はたから見れば、自分を愛してくれない育ててくれない母親に、である。また次男・大毅は内藤大助戦で父親に反則を教唆され、それを忠実に実行した。のみならず、マスコミからの「父親からの指示ですか?」という質問に対して「違います、僕の指示です」という珍回答を行った。どこからどう見ても真っ黒な父を、それでも健気にかばったのである。秋子と周平の関係を歪だと断じるのはたやすい。だが、そんな親子関係はありえない、極めてまれなケースだと主張するのは、実は難しい。『 万引き家族 』によって揺さぶられた日本の家族関係・親子関係は、本作によってもう一段下のレベルで揺さぶられている。このメッセージをどう受け取るのかは個々人による。だが、受け取らないという選択肢はないと個人的には思っている。多くの人によって見られるべき作品である。

 

ネガティブ・サイド

長澤まさみは確かに体を張ったが、いくつかのラブシーン(?)には、はなはだ疑問が残る演出がされている。たとえばラブホテルの一室での仲野大賀との絡み。ベッドの上でゴロンゴロンしているだけで、長澤まさみが上を脱ぐのを嫌がったのだろうか。大森監督は『 光 』で橋本マナミを脱がせた(とはいっても、乳首は完全防御だったが)実績があるので、期待していたが・・・ いや、長澤の裸が見たいのではなく、迫真の演技が見たいのである。『 モテキ 』では谷間を見せて、胸も一応軽く触らせていたのだから、それ以上の演出があってもよかったはずだ。やっぱり長澤まさみの裸が見たいだけなのか・・・

 

真面目に論評すると、『 “隠れビッチ”やってました 』の主人公ひろみと同じく、本当にアブナイ男、それこそ『 チェイサー 』の犯人のような男に出会わなかったのは何故なのか。その男癖の悪さから、本当にやばい相手だけは見抜ける眼力、もしくは女の勘のような描写が一瞬だけでも欲しかった。

 

メイクにリアリティがなかった。あんな生活でこんな肌や髪の質は保てないだろうというシーンがいくつもあった。このあたりは取材やリサーチの不足、もしくはメイクアップアーティストの意識の欠如か。最終的には監督の責任だが。

 

これは個人差があるだろうが、BGMが映像や物語と合っていない。特にクライマックス前の神社のシーンのBGMはノイズに感じられた。全体的に音楽や効果音が使われていないため、余計にそう感じられた。ただし、このあたりの感性は個人差が大きい。

 

少々残念だったのは、ラストか。以下、白字。呆然自失の長澤まさみを映し続けるが、その表情が崩れる瞬間を見たかった。それも、泣き出すのか、それとも笑い出すのか、その判別がつかない一瞬を捉えて暗転、エンドロールへ・・・という演出は模索できなかったか。『 殺人の追憶 』のラストのソン・ガンホの負の感情がないまぜになった表情。『 ゴールド/金塊の行方 』のラストのマシュー・マコノヒーの意味深な笑顔。こうした表情を長澤まさみから引き出してほしかった。

 

総評

こうした映画はテアトル梅田やシネ・リーブル梅田のようなミニシアターで公開されるものだった。だが、長澤まさみという当代随一の女優を起用することで全国的に公開されるに至った。多少の弱点がある作品ではあるが、それを上回るパワーとメッセージを持っている。母の愛、母への愛。自分と母との距離を見つめなおす契機にもなる作品だろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

bring up

「育てる」の意。直訳すれば「持ち上げる」となるように、小さな子どもの背丈がぐんぐん伸びる手伝いをしてやるイメージで、「体が大きくなるまで育てる」のような意味である。名詞のupbringingには「養育」、「生い立ち」、「しつけ」のような意味があり、やはり幼少から成人に至る時期ぐらいまでを指して使われることが多い。劇中で秋子が叫ぶ「私が育てたんだよ!」は、“I brought him up!”となるだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 夏帆, 奥平大兼, 日本, 監督:大森立嗣, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズ, 長澤まさみ, 阿部サダヲLeave a Comment on 『 MOTHER マザー 』 -Like mother, like son-

『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

Posted on 2020年7月5日2021年1月21日 by cool-jupiter

カセットテープ・ダイアリーズ 70点
2020年7月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ビベイク・カルラ ネル・ウィリアムズ ヘイリー・アトウェル
監督:グリンダ・チャーダ

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“Born to Run”と“Born to be Wild”なら、おそらく後者の方が有名で、なおかつ多くの人の耳にも馴染みがあると思われる。しかし、ブルース・スプリングスティーンの“Born to Run”には、何か人間の心の根源に訴えかけてくるような不思議な力が宿っている。スプリングスティーンをほんの少ししか知らなかったJovianでもそれは感じることができた。

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あらすじ

1987年のイングランド。パキスタン系移民のジャベド(ビベイク・カルラ)は不景気と人種差別のはびこる田舎町ルートン、そして保守的な家族からの脱出を夢見ていた。ある時、カレッジで知り合ったループスからブルース・スプリングスティーンのカセットを渡される。その音楽を聴いたジャベドは、世界観を一変させられるような影響を受けて・・・

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ポジティブ・サイド

ボブ・ディランがノーベル文学賞を贈られるのだから、ブルース・スプリングスティーンが再評価を受けても良い。まさに世に出るべきタイミングで出てきた作品であるというのが第一印象。『 イエスタデイ 』がビートルズを再評価し、日本でも『 君が君で君だ 』という怪作で尾崎豊が(妙な意味で)再解釈された。スプリングスティーンを知らなくても、彼の音楽そして歌詞が一部の人間の心に突き刺さるというのは理解しやすい。日本でも1970年代生まれなら、尾崎豊や甲本ヒロトの歌の世界観に魂を持っていかれた人はかなりいるはずだ。今の若い世代なら誰だろう?あいみょんなどだろうか。そうした自分にとっての偶像を重ね合わせて見れば、本作の持つパワーは十分に理解可能である。

 

政治的なメッセージが込められている点も邦画はもっと見習うべきだ。マーガレット・サッチャーの死去から7年。死亡直後は「鉄の女」として、何はともあれ改革の旗手として数々の経済政策を断行した点が評価された。しかし、冷静に分析してみれば、サッチャーの遺産が現在の英国の経済成長の足かせになったことは否めない。また、その政策が社会的に弱い層への負担増につながったことも事実である。そうした時代を批判的に見つめる視点が盛り込まれている。本作には、Black Lives Matter運動をリアルタイムに目撃している我々からすると非常に興味深いデモの風景が収められている。もちろん原作の執筆中、あるいは映画の撮影中にそうした運動の勃興など予想出来ようはずもない。しかし、『 ジョーカー 』が示したように、弱者から奪うことは極めてリスキーな行為である。本作は、人間の強弱の源を経済的な富裕さにではなく人間関係の充実に求めた。これはこれで正解かどうかは分からないが、一つの解答だろう。家族や友人、恋人との関係が良好であれば、それだけで人生は何とかなるものだ。

 

恋人。そう、ジャベドにはおらず、しかし、親友のマットには恋人がいる。そのことを開始早々に見せつけられ、イングランド人だとかパキスタン系移民だとかいうことではなく、一匹の雄として負けている。そのように見る側は思わされる。だからこそ、ジャベドがイライザと距離を縮め、デートにこぎつけ、門限も破り、そして晴れて童貞を卒業する流れに素直に祝福の気持ちを抱くことができる。ジャベドとイライザ、そしてループスがスプリングスティーンの“Born to Run”に乗って町を駆け巡るシーンは、本作のハイライトの一つである。

 

本作の特徴として、保守的な家族の中での子どもたちだけではなく、夫婦の在り方に踏み込む描写があることだ。一見すると独裁者にしか見えないジャベドの父にも、ハンサムで優しく愛妻家な頃があったのだ。そして、一見して被征服者である妻が暴君の夫と渡り合う。『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリーの一家にも、このような家族だけの秘話があったのではないか。そのように思わされた。

 

本作は、そのフレディ・マーキュリーと同じく、アイデンティティを鋭く問う作品でもある。その中でも上手いなと思わされたのは、昼興行(デイタイマー)のシーン。パキスタンの伝統的な音楽とブルース・スプリングスティーンの間を揺れ動くジャベドの姿に、思いがけない好感を抱いた。アイデンティティに悩む者は、アイデンティティを人よりも多く持っているから悩むのである。つまりはジレンマだ。だが、自分が複数のルーツを持つことをそのまま受け入れることができれば、それで良いのではないだろうか。大坂なおみが日本の(アホな)メディアに「あなたはアメリカ人ですか、日本人ですか?」と問われて、「私は私」と答えたのと同じである。家族との約束事を破ることが、家族との和解の素地になるという演出には感じ入った。『 ルース・エドガー 』でスッキリしない気分にさせられたという向きは、本作で口直しが可能である。

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ネガティブ・サイド 

1980年代の町の不景気具合とその悲哀は、ほぼ同時体の設定の『 リトル・ダンサー 』の描写の方が上手であると感じた。また、なけなしのカネを息子の教育につぎ込むことの意味、その背景が本作は軽い。「ユダヤ人の真似をしろ」というのがレイシズムかどうかはさておき、パキスタン系移民ならば医師か弁護士、公認会計士を目指せというのは間違いなくステレオタイプである。また勉強に打ち込まなかったらタクシー・ドライバーで一生を終えるぞという脅し文句は映画『 タクシードライバー 』を遠回しにディスっているように聞こえた。

 

ジャベドの周囲の人間関係の描写の濃淡にメリハリがなかった。近所の親友マットとの距離と、カレッジで知り合うループスとの距離、それらをジャベドが詩に書きつけるような描写や、または友情についてのくさい歌詞の一つや二つでいいから描き出されていればと思う。それらがあれば、“父と息子”の詩の威力がもっと増したと思われる。

 

個人的に気になったのは、カレッジの学長らしき先生が「ブルース・スプリングスティーンは良いが、現在流行中のこの歌手はrubbish=ゴミだというのは皆が知っている」というセリフ。またマットの父親(典型的な60~70年代の髪型!)の「ビリー・ジョエル?アホか、お前は。これだから子育ては難しい」というセリフも地味に子の心を抉る。世俗の流行や個人の嗜好に対してそこまで言うか?一歩間違うと立派な差別になると思ったが・・・

 

総評

“Thunder Road”と“Born to Run”を親父が昔持っていたオールディーズのCDで聞いたことがあるレベルのJovianでも、本作は十分に堪能することができた。また70年代の洋楽にはさっぱり疎いJovian嫁も本作を堪能できた。なので、ブルース・スプリングスティーンのことを特に知らなくても、本作は楽しめるはずである。『 イエスタデイ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』など、英国初の音楽をフィーチャーした映画は外さない。劇場の大スクリーンと音響で味わうべき一作。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

history

言わずと知れた「歴史」の意味だが、文脈によっては「過去のもの」、「もう終わってしまったもの」という意味でも使われる。

 

Forget Nicolas Cage, he’s history.   ニコラス・ケイジはもう忘れろ、奴はもう終わった。

She and I are history.   僕と彼女はもう終わってるんだ。

Is Gamera going to be history?   ガメラはこのまま終わってしまうのか?

 

色々と応用してみよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, イギリス, ネル・ウィリアムズ, ビベイク・カルラ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・アトウェル, 伝記, 監督:グリンダ・チャーダ, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『 カセットテープ・ダイアリーズ 』 -Born to run wild-

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