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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 ホテルローヤル 』 -細部の描写に難あり-

Posted on 2020年11月20日2022年9月19日 by cool-jupiter

ホテルローヤル 40点
2020年11月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 安田顕 松山ケンイチ
監督:武正晴

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武正晴監督は、基本的に可もなく不可もない作品を量産する御仁であるが、時に『 百円の恋 』のような年間最優秀作品レベルの映画を時折送り出してくる。本作はどうか。やはり可もなく不可もない出来栄えであった。

 

あらすじ

雅代(波瑠)は大学受験に不合格したことから、家業のラブホテル経営を手伝うことに。しかし、頼みの母が不倫相手と出て行ってしまい、父と二人でホテルを切り盛りすることに。雅代はホテルで働く従業員や、ホテルの客の人生の様々な一面に触れていくことになり・・・

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ポジティブ・サイド

役者陣はいずれも頑張っている。安田顕のオーナーっぷりは堂に入ったものだし、出番こそ少ないものの夏川結衣は milfy なオーラを発していた。余貴美子が呆然自失とした表情で歌う様は、とてもサブプロットとは思えない迫力があった。

 

ラブホテルに来るお客もユニークだ。特に中年夫婦の風呂場での語らいとまぐわいには大いに説得力を感じた。Jovianはとある受講生だった産婦人科の先生に「妊娠は通常ではないけれど正常で、決して異常ではない」と教わったことがある。これを少々言い換えさせてもらえれば、「セックスは日常ではないけれど正常で、決して異常ではない」となるだろうか。若者の恋愛やセックスよりも、中年夫婦のセックスの方が見ていて癒される。これはむずがゆくも新しい発見であった。

 

波瑠は『 弥生、三月 君を愛した30年 』と同じく、高校生から大人までを演じ切った。常にアンニュイなオーラを醸し出しながら、優しさもありならが激情も秘めていた。父親に対してのみ気持ちを言葉にして発するが、それ以外は基本的に表情や立ち居振る舞いで表現しているところが好ましく映った。ラスト近くで服を脱ぐ所作もGood。長回しのワンカットだったが、カメラの距離やアングルを完璧に把握して、“期待させる”シーンを生み出していた。

 

踏切で過去と現在が交錯する演出も面白かった。性とは生であり正なのかもしれないと、ほんの少しだけ感じた。

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ネガティブ・サイド

ラブホのバックヤードにリアリティが感じられない。Jovianには岡山県でラブホをいくつか経営している親戚がいる(岡山県でこの映画のタイトルっぽいホテルを見かけたら、ぜひご利用いただきたい)。なので、親戚を尋ねた時に2度ほど舞台裏をのぞかせてもらったことがある。まず、声などは絶対にバックヤードまで漏れ聞こえてこない(隣の部屋の声が聞こえることはあるが)し、もし構造上それが可能であるならばただちに是正されているはずだ。親戚に言わせると年に1回ぐらい警察がやってきて、ホテルの隅から隅まで見て回るのだ。おそらく仕事をしているふりなのだろうが、行政指導、下手をすれば営業許可の取り消しを食らいかねない建造物の欠陥を何年も何十年も放置するか?信じがたいことだ。

 

またオバちゃん連中の仕事がベッドメーキングばかりで、ラブホの仕事で一番大変とされる泡風呂の後始末については何も描かれなかった。観客のかなりの数がラブホユーザーの生態に興味があると同時に、ラブホを経営・運営する人間に興味があって劇場に足を運んだはず。そうしたラブホを支える仕事人たちのプロフェッショナリズムが映し出されなかったのは残念である。

 

火災報知機のシークエンスは場面のつなぎがおかしかった。廊下に客が溢れ出してきたのに、雅代が携帯で通話し始めると全員がパッと消えた。編集の時点で奇妙さに気が付かなかったのだろうか。

 

メインキャストは頑張っていたが、一部の俳優はミスキャストであるように感じた。特に伊藤沙莉の女子高生役は無理があるし、キャバ嬢の真似事も妙に似合っているせいで、逆にシラケてしまった。というか、武監督は何をどう演出してリアルなキャバ嬢を伊藤に演じさせたのだろう。馬鹿な女子高生が馬鹿なことをやっているという絵を撮りたければ、リアルにキャバ嬢を演じさせる必要はないだろう。上手な演技ではなく下手な演技を指導することも時には必要である。

 

その伊藤沙莉とホテルにやってくる岡山天音の演技・演出面はもう一つ。嘔吐したなら最後に「ペッ」とやりなさいよ。そして口ぐらい拭いなさい。すぐ目の前にトイレットペーパーがあるのだから、それを使えばいいのに、何をダラダラとセリフをしゃべっているのか。仮に酔っぱらって吐いたという経験がなくとも、それぐらいの演技はできるだろう。それとも武監督の手抜きだろうか。

 

雅代が最後にボソッと呟く「あまりに久しぶりなので忘れてしまいました」という台詞も引っかかった。ご無沙汰なのは良いとして、では最後の経験はいつ、どこで?少なくともそれを感じ取らせるようなシーンは必要だったと思う。八百屋の同級生の言う同窓会がそれにあたるのかもしれないが、だったら同窓会で酒を飲んでため息をつく雅代のシーンを挟んでおけば、観る側が脳内で保管できる。手間がかかるのは百も承知だが、そうしたちょっとしたひと手間が作品のクオリティを高めるのである。

 

総評

コメディかと期待して劇場に行くと面食らうだろう。様々なヒューマンドラマが展開されるが、ちょっと非日常感が強めで、そこを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは観る人による。ただし、細部のリアリティについては神経が行き届いているとは言えないし、物語が放つメッセージも極めて不明瞭である。波瑠のファンなら鑑賞しても損はないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I no longer have a home to return to.

伊藤沙莉演じる女子高生の言う「もう帰る家がない」という台詞の私訳。a home to return toで一種のセットフレーズである。どういうわけか a home to go back to だとか a home to get back to という言い方はほとんどしないし、a home to return to という表現も、おそらく九分九厘は否定形で使われる。a moment of glory を求めてのone night stand の結果、“I no longer have a home to return to.”となる人間が一定数生まれるのも人の世の常であろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 日本, 松山ケンイチ, 波瑠, 監督:武正晴, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ホテルローヤル 』 -細部の描写に難あり-

『 さくら 』 -リアリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年11月18日2022年9月19日 by cool-jupiter
『 さくら 』 -リアリティが決定的に足りない-

さくら 30点
2020年11月15日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北村匠海 小松菜奈 吉沢亮 永瀬正敏 寺島しのぶ
監督:矢崎仁

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変なおじさんの永瀬正敏と安定した演技力の寺島しのぶ、そしてJovianの推しの一人である吉沢亮と小松菜奈。そして『 うつくしい人 』、『 炎上する君 』の西加奈子の作品ときた。それが、どうしてこうなってしまったのか・・・

 

あらすじ

大学入学のために上京していた長谷川薫(北村匠海)は久しぶりに大阪の実家に帰ってきた。あこがれだった兄、一(吉沢亮)の死により家を出た父が、年末に家に帰ってくるという。薫はまた、屈託のない愛犬のさくらにも会いたかった。家族が離散する前の幸せな長谷川家を薫や妹の美貴(小松菜奈)は思い出していく・・・

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ポジティブ・サイド

まずは中学生から高校生(進学していないが)の年代を演じた小松菜奈に賞賛を。しまりのない表情から、逆にころころと自在に変化する表情までを披露し、まさに箸が転んでもおかしい年頃の娘を好演した。露出度がかなり高めの服装であっても色香を感じさせないのは、お見逸れしましたとしか言いようがない。

 

次いで寺島しのぶ。冒頭で性行為について幼い美貴にも分かる言葉で優しく丁寧に語る様は、そのまま各家庭で実践できそうに感じた。一が家にガールフレンドを連れてきたときには、昭和や平成の初めころにいっぱいいた大阪のおばちゃんの風情を存分に醸し出していた。

 

ストーリーの見どころは何と言っても長男の一。美貴が昭和59年生まれだと一瞬映っていたので、一はまさにJovianの同世代。服装も今の目で見れば全然ファッショナブルではないが、それが逆に時代の空気を濃厚に感じさせてくれた。部屋にイチローのポスターを貼ってあるのもいい。また、携帯が一般的ではなかった頃、手紙や家の電話で恋人とのもどかしいコミュニケーションを堪能できた世代には、一の映し出されなかった恋愛のあれやこれやがつぶさに想像できた。家で誰かがインターネットを見ていると、家の電話が不通になるという光景が繰り広げられる映画が、そろそろ制作されてくるのだろう。

 

閑話休題。一の死、そこに至るまでの物語は非常に痛々しく重い。そこに社会的マイノリティであるLGBTのサブプロットを絡ませる演出はなかなかに心憎い。ネタバレになるので詳しくは書けないが、自分はノーマルでありマジョリティであると思っていても、それは必ずしも永続的なものではない。何かの拍子にそうではなくなることは大いにありうる。そうした時にすがれるものがあるかどうか。人によっては宗教であったり、あるいは家族であったりするのだろう。家族の在り方が多様化する今、本作のような悲劇的かつ喜劇的な一家の物語は一種のケーススタディとなりうるように感じた。

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ネガティブ・サイド

まず第一に言っておかなければならないこととして、誰もかれもが大阪弁がヘタすぎる。寺島しのぶでもこうなのか。『 君が世界のはじまり 』の松本穂香、『 鬼ガール!! 』の井頭愛海、『 セトウツミ 』の菅田将暉や中条あやみのような関西弁ネイティブを使ってほしい。もしくは話の舞台を北関東あたりに移してほしい。別に大阪である必要は全くないではないか。

 

タイトルロールであるさくらの扱いが雑である。というよりも、特にストーリーの主題になっていない。壊れてしまいそうな家族の紐帯としてのさくらは一切描かれていないし、楽しい時も苦しい時も、さくらがいたからこそ長谷川家の一人ひとりが踏ん張れたんだという描写も特にない。なにかもっと『 戦火の馬 』のように、色々と見えないところでドラマを生んでいたという場面が一切画面に映らないので、さくらという犬が長谷川家のかけがえのない一員であるように見えない。むしろ、残飯処理係なのかと思えてしまうような描写があり、矢崎仁監督の手腕を疑ってしまう。

 

長男の一の背中を見て育った薫と美貴、という設定も何やら薄っぺらい。一とその恋人の矢嶋さんの関係の変化に、薫は愛というものの力を知った・・・ようには見えなかった。というのも、肝心要の矢嶋さんの描写が極めて一面的だからだ。変わっていく矢嶋さんや変わっていく一の描写があまりにも弱い。一が料理を手伝うようになっただとか、洗濯物を丁寧にたたむようになっただとか、そんなことでよいのだ。そうしたシーンが全くないのに、薫に「いつか二人は結婚するんだろうなと思った」と独白させても説得力はゼロだ。

 

その薫の独白も量が多いし、説明的すぎる。心象風景を言葉にするのならまだしも、話の前後関係をくだくだしく説明する必要はない。映画ならば映像や音楽、音響などを駆使してそれを行うべきで、原作が小説だからといって小説の技法をそのまま映画に持ってきてよいわけではない。そもそも説明が説明になっていないナレーションまである。一例は「初めの遅れてやって来た反抗期」だ。いや、それ反抗期ちゃうやろ、と映画館でフツーに突っ込ませてもらった。北村は歌手でもあるため声に透明感やしなやかさがあるが、何故か台詞をしゃべらせると情感を伴っているように聞こえない。『 私はあなたのニグロではない 』のサミュエル・L・ジャクソンや『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンのように、ナレーションだけで聞く側の心を落ち着かせたり、興奮させたり、ざわめかせたり、悲しませたり、といった声の表現力を目指すべきだ。あと、韓国映画(『 息もできない 』がいい)を観て暴力シーンを勉強すべきだろう。

 

トレイラーで“奇跡が起きる”とされた夜の長谷川家の移動ルートも地味に謎だ。劇中で一瞬チラッと大阪府枚方市あたりが住所であるように見えたが、枚方から国道2号は結構な距離がある。また、高速道路上から左手に初日の出を見ていたが、2号線沿線に南北に走る高速道路など存在しない。それとも2号線をひたすら西進して舞鶴若狭自動車道まで行ったというのか?とても信じられない。大阪弁の下手さからも感じたが、場所を関東に再設定すべきだった。

 

ネタバレになるため、中盤以降のストーリーについてはものさずにおくが、とにかく映画的な描写がとにかくうすっぺらく、またリアリティに欠ける。これはおそらく原作の原文からして間違っているのだろうが、「悪送球を仕掛けてきた」という文章の何とも気持ちの悪い響きよ。送球の主体は投手ではなく野手だし、送球は仕掛けるものでもない。野球で仕掛けるものといえばバントやヒット・エンド・ラン、盗塁などだ。「悪送球を打てない」という文章の不自然さに西加奈子もその編集も校正担当も、そして本作の脚本担当も誰一人として気が付かなかったというのか。そんな馬鹿な・・・

 

総評

家族という大きくて小さな枠組みが壊れていく、しかし完全に壊れたりはしない。そうしたメッセージは残念ながら非常に不完全な形でしか伝わってこなかった。家族の死、家族の離散、家族の再生というテーマなら『 焼肉ドラゴン 』の方が遥かに面白い。出演者のファン、あるいは原作のファン向けの作品ではあっても、映画ファン向けに仕上がっているとは言い難い作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pop one’s cherry

「さくらんぼをはじけさせる」という意味ではない。これは「処女・童貞を喪失する」の意味である。一と薫の部屋での会話の私訳。ただ性的な意味意外に使うこともある。

 

I popped my skiing cherry.

初めてスキーに行った。

 

Now that I’m twenty, I will pop my drinking cherry today.

二十歳になったから、今日は初めてお酒を飲むんだ。

 

のような使い方もできる。この表現を使えたら・・・というよりもそういう話をできる人間関係を作れたら、外国語でのコミュニケーション能力は上級であると言える。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 北村匠海, 吉沢亮, 寺島しのぶ, 小松菜奈, 日本, 永瀬正敏, 監督:矢崎仁, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 さくら 』 -リアリティが決定的に足りない-

『 朝が来る 』 -新時代の家族観を提示する野心作-

Posted on 2020年11月3日2022年9月19日 by cool-jupiter

朝が来る 80点
2020年11月1日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:永作博美 井浦新 蒔田彩珠
監督: 河瀬直美

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あらすじ

清和(井浦新)と佐都子(永作博美)の夫婦は子どもを持とうとするも上手く行かない。清和が無精子症だったのだ。夫婦は、ベビーバトンという団体を通じて、養子を迎え、朝斗と名付け、愛情を注いで育てていくが・・・

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ポジティブ・サイド

永作博美と井浦新の夫婦像はとてつもなくリアルだ。中年の域に差し掛かるDINKsである二人だが、子どもを持つことはあきらめていない。そこで夫が無精子だと分かった時、そして顕微授精に何度も取り組みながらも上手く行かず、「本当はもっと早くにやめたかった」と泣き崩れるシーンには、ノックアウトされた。このあたりの男の心の在りようの描き方に関しては、河瀬直美監督は随一である。『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』の大森監督よりも、実は男という生き物がよく理解しているかもしれない。かといって女性の描き方に穴があるかと言えば、さにあらず。フェミニスト的な意味ではない包容力や理解力がある女性像というものを永作博美から引き出している。息子である朝斗がちょっとしたトラブルに巻き込まれた時にも、毅然と対応した。そこあるのは血のつながり云々ではなく、ただただ絆だった。人は母親に「なる」のではなく、母親で「あろうとする」のだろう。無論、父親も同じである。

 

その意味で最も印象に残ったのは蒔田彩珠。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』で南沙良との共演の印象が今でも戦列に残っているが、この年齢にして早くも代表作を手に入れたか。きらきらと輝く青春真っただ中の中学生を等身大に演じたかと思えば、家族の輪から外れ、似た境遇の者と連帯して何とか都会で生き延びる社会的弱者もリアルに描出した。物語の半分は彼女の背景描写に費やされている。幼くして母親になってしまった者が、どうして母親になり、そしてどうして母親になることをあきらめ、そして何故今また母親になろうとしたのかが克明に描かれる。そのすべてに尋常ではないほどのリアリティがあった。それは演じた蒔田彩珠の演技力。弱弱しい目と声の少女が、恋を知ってまばゆい光を放ち、そして心の内側を隠すかのように化粧を身にまとっていく様が、まるでドキュメンタリーであるかのように感じられた。

 

実際に養子縁組のテレビドラマやセミナー、ベビーバトンの施設のある島の住民や施設利用者の大半は、役者ではなく当事者、つまりは一般人だろう。彼ら彼女らが語る言葉、見せる所作、そして涙に、観る側は否応なく「子どもを産む」ことと「子どもを育てる」ことの難しさを思い知らされる。そして、産むのが誰であれ、育てるのが誰であれ、命は尊ばれるものだということを痛感させられる。こうした役者と普通の人の境目を積極的に取り除く演出をすることで、スクリーンのこちら側とあちら側の境目を揺らいでいく。観る側がどんどんと蒔田彩珠演じるひかりと同化していく。

 

栗原夫妻の元に現れる母親を名乗る女性、それが果たしてひかりなのかどうか。そのミステリでもストーリーをぐいぐいと引っ張っていく。ひかりが知り合うことになるともかが持っている革ジャン。そして、「これを着てれば、なんでもできる気になるんだ」というセリフが、意味深長に聞こえる。前半の栗原夫妻との顔合わせでも彼女の顔は明確には移されず、またマンションに訪問してくるシーンでもその顔はしかとは映されない。彼女はいったい誰なのかという疑問は最後まで明かされない。しかし、その謎の答えを我々ではなく佐都子が出す瞬間、あらゆる感情の波に押し流されることは必定である。

 

本作は朝斗との親子関係や親権についての物語ではない。逆だ。ベビーバトンの代表は「養親が子を選ぶのではない。子が親を選ぶのだ」と言う。その通りだと思う。エンドロールは最後まで絶対に席を立ってはならない。これこそが新時代の日本のあるべき親子観、家族観となるべきなのだろう。

 

ネガティブ・サイド

ひかりが借金の保証人になり、厳しい督促を受けることになるシーンを、より残酷に仕上げられたのではないか。ひかりはともかの保証人に仕立て上げられたが、連帯保証人であるとの言及はなかった。ということは、ひかりさえ突っぱねてしまえば、借金取りはそれ以上の取り立ては(法律上は)できないはずだ。まずは主債務者のともかのところに行かねばらなず、なおかつともかが行方不明ならば、その行方をまずは債権者が探さなければならない。ひかりからの取り立てに成功した借金取りがそうしたことを語ってやれば、ひかりの絶望がもっと深まったはずだ。これはJovianが意地悪すぎるか。

 

ひかりの家族や親族がちょっと硬直的すぎる。特に父親の言動には疑問符がつく。普通なら、ひかりの相手の男の家に乗り込んで、相手の父親や本人を張り倒さんばかりの剣幕で迫るものではないか。別に地元の名士や素封家であるようには見えないが、何をそんなに大人しくしているのか。ひかりの家族や親族があまりにもステレオタイプな保守であることが少々気に食わない。

 

総評

日本社会の行く末について、非常に示唆に富む視点を包含しており、そのことが本作のカンヌをはじめとした様々な国際映画祭への出品や米アカデミーの国際長編映画賞へのノミネートにつながっているのだろう。『 万引き家族 』に続いて、日本の家族観を問い直す作品である。紛れもなく傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Nothing lasts forever.

『 スプリング・ブレイカーズ 』で紹介した慣用表現。意味は「何事もいつかは終わりを迎える」。ベビーバトン代表者の言葉である。こうした慣用表現を自然に会話に織り込むことができれば、英語学習中級者の卒業も間近と言える。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 井浦新, 日本, 永作博美, 監督:河瀨直美, 蒔田彩珠, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 朝が来る 』 -新時代の家族観を提示する野心作-

『 罪の声 』 -グリコ・森永事件の独自再解釈ミステリ-

Posted on 2020年11月2日2022年9月19日 by cool-jupiter
『 罪の声 』 -グリコ・森永事件の独自再解釈ミステリ-

罪の声 75点
2020年10月31日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:星野源 小栗旬
監督:土井裕泰

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Jovianは1979年生まれなので、本作で言うギンガ・萬堂事件のモチーフとなったグリコ・森永事件はリアルタイムではあまり覚えていない。しかし、1980~1990年代、三億円事件と並んで雑誌やテレビで頻繁に特集されていたので、事件がどういったものであったかはよく覚えている。ミステリと人間ドラマの要素をほどよくブレンドさせて、2時間20分ほどの長丁場をよくもたせている。

 

あらすじ

テーラーとして慎ましく生きていた曽根俊也(星野源)は、35年前の叔父のカセットテープに吹き込まれた自分の声が、ギンガ萬堂事件に使用されていたことを知ってしまう。同じ頃、大日新聞の記者、阿久津(小栗旬)は平静という時代の終幕に際して、昭和最大の未解決事件であるギンガ萬堂事件の再取材に動き出していた・・・

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ポジティブ・サイド

『 殺人の追憶 』と同じく、全国を震撼させた未解決事件に焦点を当てた作品。ただ、こちらはリアルタイムで事件を捜査する過程を追うのではなく、事件から35年後、二つの異なる視点から事件を再構築していこうという試み。その意味では『 JFK 』に近いとも言える。

 

苦悩しながらも独自に事件を追う曽根と、事件を再取材する阿久津が、一つの流れに合流していくまでがとても緻密に丁寧に描かれていることに好感が持てる。35年経ったからこそ口を開く関係者がいるというのも首肯できる。『 22年目の告白 -私が殺人犯です- 』ではないが、過去の未解決事件の真相というものは常に魅力的である。『 JFK 』の如く、過去の関係者たちから独自の証言を引き出していく過程は非常にスリリングである。証言者Aから証言者Bの存在が浮かび上がり、証言者Bの提示するアイテムから証言者Cの存在が浮かび上がっていく。その糸を、曽根は当事者として、阿久津は新聞記者として、丹念に手繰り寄せる手法に説得力がある。事件によって傷ついた人々への共感や理解が感じ取れるからである。

 

曽根と阿久津が合流してからの取材は変則のバディ・ムービー。曽根は仲間、一種の共犯者的存在を阿久津に見出す一方で、そのことが人生を奪われた「罪の声」のもう一人の主とのコントラストをより残酷に際立たせている。このことが、曽根が疑問に感じ、阿久津が答えを出せなかった、「真実を明らかにする意義」につながっている。真実によって不利益を被る人間もいれば、真実によって救済される人間もいるのだ。そのジレンマを冗長なセリフではなく細やかな表情や情景の描写で描き切ったのは見事である。

 

犯人および真犯人の背景や因果も納得できる。意外性と同時に真実味もあり、時代の移り変わりに際して、時代に取り残された者の末路が見せつけられる。それに理解を示すこともできるし、怒りを抱くこともできる。人間の業の深さを知るとともに、人間の懐の深さも示される。結末は、これ以外に無いというほど締まっている。

 

大阪の街が随所に映し出されるのも、地元民にとっては楽しい。1980年代の事件でありながら、今でも迫真性を伴って観る側に迫ってくるからだ。堂島や心斎橋周辺の景色に馴染みがある人は、本作をそうした視点から楽しめることだろう。

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ネガティブ・サイド

35年という時間に隔てられた過去と現在を行き来する物語であるが、序盤に出てくるラジカセがもうダメである。35年前のアイテムが、まるで昨日使ったものであるかのように、埃一つかぶっておらず、テープに吹き込まれた音声も経年によって変化していないこともポイント減である。そんな馬鹿な・・・ 製作陣の誰一人として、10年ぶり20年ぶりにカセットテープを再生してみたいという経験の持ち主はいなかったのだろうか。

 

株価操作説は説得力がない。『 マネー・ショート 』や『 国家が破産する日 』のように、国家的な動乱や危機であれば、反動も期待できる。しかし、事件が未解決である期間が長くなればなるほど、企業倒産のリスクは高まり、株が紙切れとなるリスクも同時に高まる。実際にリアルタイムで模倣犯が多数発生していたわけで、株価が底値を打つタイミングを読んだり、空売りを仕掛けるタイミングを読んだりするのは、著しく困難だったはずだ。だからこそ、「思ったより儲けが出なかった」もだろうが、それらの模倣犯の中に本当に予告も何もなく菓子に毒を混入する輩がいて被害者が出ていたならば、株価も企業価値もすべてが吹っ飛ぶではないか。また、事件の真相と犯人が明らかにされても、「中央」にまで取材が及ばなければ、画竜点睛を欠くと言わざるを得ない。

 

メディアの役割を問い直すシーンはあるが、警察の役割を問い直すシーンも欲しかった。犯行グループに警察くずれがいることの是非を、架空の現役警察官キャラクターに語らせることはできなかったかと少々残念に思う。

 

総評

終盤のカタルシスにもう一押しが足りないが、それでも本作は十分に面白いと評することができるだろう。一つの謎が解かれるたびに新たな謎が生まれていく過程は、ミステリとしても上質で、実在した歴史的な背景から人間の業を説明するところにヒューマンドラマとしての重厚さを味わえる。小栗旬は少々奇矯なキャラを演じることが多かったが、今回は押さえた演技を優先することで、言葉ではなく行動で語るジャーナリスト像を深掘りできていたし、星野源は市井の小市民ながら職業人として、父として、夫として、息子としての側面全てを出し切った。『 鬼滅の刃 』で劇場に足を運んでくれるようになったライトな映画ファンには、本作にも注目をしてほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

fox-eyed

「キツネ目」の意味の形容詞。何らかの語にハイフンで分詞をくっつけることで、日本語お得意の複合形容詞を英語でも作ることができる。

 

翼を持ったペガサス=Winged Pegasus
一つ目小僧=One-Eyed Child
三足烏=Three-Footed Crow
三頭竜=Three-headed Dragon
八岐大蛇=Nine-headed Dragon

 

など、色々とかっこいい表現が可能になる。そういえばFFⅦのセフィロスのテーマ音楽も“One-Winged Angel”(発音注意 ウィングド× ウィンギード〇)だった。こうした複合語を違和感なく消化できれば、立派な英語中級者である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ミステリ, 小栗旬, 日本, 星野源, 監督:土井裕泰, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 罪の声 』 -グリコ・森永事件の独自再解釈ミステリ-

『 星の子 』 -信仰深い少女のビルドゥングスロマン-

Posted on 2020年11月2日2022年9月19日 by cool-jupiter

星の子 65点
2020年10月30日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:芦田愛菜 蒔田彩珠 永瀬正敏 原田知世 岡田将生
監督:大森立嗣 

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新興宗教に傾倒する家族、特にその娘にフォーカスした物語。個人的に観ていて精神的に消耗させられた。Jovianの大昔のガールフレンドも、まさに本作のちひろのような感じだったからだ。

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あらすじ

ちひろ(芦田愛菜)は未熟児として生まれ、アレルギーにも苦しんでいた。しかし、「金星のめぐみ」という水の力でちひろが回復したと信じた両親は、その水への傾倒を深めていく。中学3年生とったちひろも水への信仰を持っていたが、学校の数学教師に恋心を抱くようになり、信仰心と恋心の間で揺れ動き始めていた・・・

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ポジティブ・サイド

宗教と聞くと『 スペシャルアクターズ 』のようなインチキ宗教を思い浮かべる向きが多いだろう。日本人は基本的に無宗教だと言われるが、それは「神」や「法」といった抽象概念への信仰が薄いだけで、何かを信じる気持ちは普通に持っている。そして、それは圧倒的多数が往々にしてそのことに無自覚である。テレビでちょっと「納豆がダイエットに良い」、「バナナがダイエットに効く」とやるだけでスーパーから商品が消える。最近でもどこぞのアホな府知事が「イソジンでコロナが消えていく」と大真面目に語ったことで、薬局やドラッグストアでイソジンが品薄になった。こうした日本人の傾向を自覚するか、それとも宗教は胡散臭いし、それを信じる人はキモチワルイと思うか、それによって本作の意味(≠評価)は大きく変わると思われる。

 

最初はかなり良い家に住んでいるちひろの一家が、ちひろが中学生になる頃にはあばら家・・・とは言わないまでも、かなりグレードダウンした家に住んでいることが目につく。寝所を変えなければならないほどに、「金星のめぐみ」にカネを使っているということだろう。ちひろの父親は職場関係の人から勧誘され、その父も妻の兄を勧誘する。我々はこうした勧誘行為にうさん臭さを感じるわけだが、本作に描かれるちひろの両親には悪意は認められない。アレルギーに苦しむ娘を救ってくれた奇跡の水に感謝しているという、善意からの行動なのだ。

 

そうした両親に育てられたちひろが「水」の力を信じる一方で、姉のまーちゃんは信仰や宗教に反発し、家を出て、自身の選ぶべき道を模索し、それを掴み取っていく。その過程が詳細に描写されるわけではないが、まーちゃんがどれほど普通を渇望し、それに魅せられているかを幼いちひろに訥々と語る長回しのシーンは、『 真っ赤な星 』での小松未来と桜井ユキの天文観測所での語らいを思い起こさせてくれた。

 

非常に閉じた世界に住むちひろが、岡田将生演じる数学教師に恋をする描写も好ましい。少女漫画原作とは趣が全く異なり、甘酸っぱさを前面に出したりはしない。イケメンだからと言って、内面が素晴らしい人間かと言えば、必ずしもそうではない。見た目に奇行が目立つからと言って、内面的に悪であったり薄汚れていたりするわけでもない。ある意味、常識的な人間社会や人間関係の在り方を見せているだけなのだが、そこにちひろというフィルターを通すだけで、世界の在りようが大きく異なって見える。自分が好きな相手が、自分に対して好意を抱いているわけではない。当たり前のことだ。けれども、そうした当たり前を受け止められないちひろの感情の発露は、見ていてとてもショッキングで痛ましい。逆にそれは、ちひろが両親に注ぎ込まれた愛情の大きさを逆説的に表してもいる。一つひとつの人間関係や事象に安易な善悪のラベリングをしない点で、本作のドラマは深みを増している。高良健吾や黒木華の演じる教団幹部の言動から

 

母を探すちひろ、ちひろを探す母。最終盤の二人のすれ違いは、そのまま彼女らの住む世界が徐々に異なってきていることの表れなのだろう。切れそうで切れない紐帯。それが信仰心によるものなのか、それとも家族愛によるものなのか。大森監督はそこを我々に見極めてもらいたがっている。そのように思えてならない。

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ネガティブ・サイド

岡田将生に両親を変人扱いされたちひろが、混乱のあまりに街を駆けるシーンは、邦画お馴染みのクリシェでもう見飽きた。全力で走る主人公を真横からのアングルで並走するクルマから撮らないと映画人はじんましんでも出るのだろうか。

 

アニメーションで空から落ちていくちひろの描写も、ストーリー全体の流れからするとノイズに感じられた。ちひろの千々に乱れる心象風景を描写するなら、それこそ浜辺で黄昏を見つめるような、映画的な演出がいくらでも考えられたはずだ。

 

『 MOTHER マザー 』で顕著だった、子が親を慕う無条件にも近い愛の描き方が弱かったように思う。自ら家族を捨てたまーちゃんが一報だけを寄こしてくるシーンを映して欲しかった。その報を受けた永瀬なり原田なりが破顔一笑する、または感涙する一瞬を映し出してくれれば、紐帯としての家族というテーマがよりくっきりと浮かび上がってきたことだろう。

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総評

かなり賛否両論が分かれる作品だろう。それは宗教というものに関する嫌悪感が背景にあるからだが、その嫌悪感の裏には無知や無理解、無関心が潜んでいる。本作が今というタイミングで映画化されたことの意義は決して小さくない。宗教=何かを強く信じることだ。停滞・低迷する日本の社会で興隆しつつあるオンラインサロンは一種の教団ではないのか。Jovianは時々そのように感じる。宗教的な背景や信仰心を受容できず、関係を途絶えさせてしまった経験を持つJovianには本作は色々な意味で突き刺さった。ぜひ諸賢も鑑賞されたし。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

put ~ away

『 マリッジ・ストーリー 』でも紹介した「~を片付ける」という表現。「その目障りな水を片付けろ!」という一喝は

Put that goddamn water away!

という感じだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 原田知世, 岡田将生, 日本, 永瀬正敏, 監督:大森立嗣, 芦田愛菜, 蒔田彩珠, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 星の子 』 -信仰深い少女のビルドゥングスロマン-

『 82年生まれ、キム・ジヨン 』 -男性よ、まずは自分自身から変わろう-

Posted on 2020年10月13日2022年9月16日 by cool-jupiter

82年生まれ、キム・ジヨン 80点
2020年10月9日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:チョン・ユミ コン・ユ チョン・ドヨン
監督:キム・ドヨン

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大学の同級生たちがFacebookで原作書籍をベタ褒めしていたことから興味を持っていた。本当は本を読んでから劇場に向かうべきだったのだろうが、色々あってそれもかなわず。封切初日のブルク7のレイトショーは75%ほどの入り。その8割以上は仕事帰りと思しき20代と30代の女性たち。この客の入りと客層だけで、本作の持つ力が分かる。

 

あらすじ

ソウルの専業主婦のジヨン(チョン・ユミ)は家事に育児に忙殺されている。ある正月、夫の実家で過ごしている時に、ジヨンは憑依状態になってしまった。夫デヒュン(コン・ユ)は妻の身を案じて、心療内科への通院をそれとなく勧めてみるが・・・

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ポジティブ・サイド

これが韓国の1990年代から2010年代の韓国の空気なのか。まるで故・栗本薫(中島梓)が『 タナトスの子供たち 過剰適応の生態学 』で喝破したように、女性は長じるに及んでアイデンティティを喪失していく。すなわち、「〇〇さんの奥さん」や「□□くんのお母さん」として認識されるようになる。日本人の栗本の1990年代の論考が、そのまま同時代から現代の韓国社会に当てはまることに驚かされる。自分というものを「誰かにとっての誰か」として認識せざるを得ない状況で、ジヨンが自分を「母の娘」であると認識するのは畢竟、自然なことだろう。序盤の夫の実家のシーンで統合失調的な症状を呈するジヨンの姿に、自分の母や叔母の姿を想起する男性は(劇場には少なかったが)きっと大いに違いない。なぜ夫の実家であるのに、赤の他人のはずの嫁がそこで率先して働くのか、疑問に思った人は多いだろう。Jovianも中学生ぐらいの頃にふと気が付いた。あまりにも当たり前のことが、実は当たり前でも何でもないのだ。

 

メインの登場人物に誰一人として明確な悪人がいないところが、本作を複雑かつリアルなものにしている。誰もジヨンを意図的に攻撃もしないし抑圧もしない。ただ、本人の思う価値観を出しているだけに過ぎない。痴漢に遭いそうになったことを指して「スカートの丈が短いのが悪い」というのは、確かにそういう面もあるのだろうとは思う。だが一方で、なぜスカートという形態の衣料品を女性は身に着けるのか。スカートだけではない。エプロンもそうだし、化粧もそうだ。極論すれば、マタニティ・ドレスすらもそうなのだ。特定の個人に抑圧者や差別主義者はいない。しかし、社会というシステムにそうした構造が抗いようもなく組み込まれている。ジヨンは個人としての生き方と社会的な役割の間のジレンマに引き裂かれる現代人(その多くは女性)の代表者なのだ。

 

一方で、現代の男性(夫、そして父親)を体現しているのはコン・ユ。『 トガニ 幼き瞳の告発 』、『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』でもチョン・ユミと共演したが、今回はついに夫婦役。このデヒュン、実に良い男で育児も積極的に手伝ってくれるし、妻を気遣う言動も忘れない。ああ、俺もこういう風にならなきゃいけないな・・・と思わせてくれる。それが罠である。どこがどう罠であるかは、ぜひその目で確かめて頂きたいと思う。一点だけ事前に念頭に置いておくとよいのは病院の待合室の光景。もし想像できないのなら、ぜひ大きな病院の待合スペースを覗いてきてほしい。女性は一人で受診しているが、男性はかなりの確率で伴侶と一緒である。これは日本も韓国も同じなようである。

 

それにしても韓国映画は母の愛を実に力強く描く。『 母なる証明 』は別格(というかジャンル違い)としても、母親も祖母の娘で、祖母も曾祖母の娘という視点は、当たり前であるが、新鮮だった。我々は安易に「母は強し」などと言うが、母とはその人間の全属性ではない。母とは妻でもあり、娘でもあり、それ以上に一個人なのだ。本作でもチーム長やジヨンの同僚など、女性たちの置かれている社会的な抑圧構造が詳細に映し出される。女性を女性性という記号でしか認識できないアホな男がいっぱい存在する中で、女性たちは実に個性豊かなバックグラウンドを持っていることがエネルギッシュに開陳される。そうした一連のストーリーを消化したうえで、ジヨンが職務に復帰するのを断念するシーンの悲壮さが観る者の胸に穴を開ける。そうか、これが女性の背負わされるジレンマなのか・・・と、我々アホな男はようやく気が付くのである。

 

本作は各シーンの隅々にまで神経が行き届いている。街中のちょっとした看板や、すれ違う人、景色の遠くぼやけて映る人影までもが、明確な意味を有している。特に、終盤にジヨンが路上でベビーカーを押すシーンの遠景に、もう一人ベビーカーを押す女性がぼんやりと見えている。そう、ジヨンはこの社会の至るところにいるのである。いきなり社会変革などする必要はない。アジアの文化の大親分の中国は儒教という抑圧的な道徳を生み出した。だが、その経典の一つに「修身斉家治国平天下」という遠大なる処世訓がある。まずは自分自身をしっかりしろ、そして家族で家のことを整えよ、そうすれば国が治まって、世界も平和になるということだ。社会や国家はそうそう変わらない。そのことは物語終盤で明確に主張される。だが、自分自身や家族は良い方向に変えられる。まずは「隗より始めよ」である。

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ネガティブ・サイド

ジヨンの弟も父親も、作劇的には非常に良いキャラである。つまり、悪いという意識がなく誰かを追い詰め、時に傷つけている。そうした二人が話し合うシーンが欲しかったと思う。男同士で、娘そして姉に対してどのように思い、どのように接してきたのか、あるいは接してこなかったのかを語らうシーンが欲しかった。実際に言葉を交わさなくてもよいのだ。なんらかの自省につながる話をしているのだと、観る側に感じさせる一瞬の演出だけでもよかったのだが。

 

ジヨンの憑依現象の第2番目に登場する人格は不要だったのでは?ジヨンに憑依してくる人格は常に誰かの母であった方が一貫性もあったし、その方が逆に怖さも際立ったものと思う。

 

総評

女性の生きづらさや息苦しさ、社会的・心理的な抑圧の構造をこれほど鮮やかに描き出した作品は稀ではないか。本作を観て、「俺も反省せねば」と思う韓国人男性は多いだろうし、それは日本人でも同じだろう。いや、「女の敵は女」を地で行くような国家議員数名が今も跋扈しているだけ、本邦の方が事態は深刻かもしれない。このご時世に劇場にやって来た多くの女性客、そして不自然なぐらいに少ないと感じた男性客の比率に、問題の根はより深く広く根付いているかもしれないと感じ取るのはJovianだけではないはず。芸術的な面では『 はちどり 』に譲るが、社会的なメッセージ性では本作が少し上だろう。男性諸賢、本作を劇場鑑賞すべし。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

オッパ

ジヨンが夫デヒュンに呼びかける際に使う表現。意味は「お兄さん」だが、血がつながっていなくても、親しい年上の男性に使うらしい。『 悪人伝 』では男同士の呼びかけにヒョンが使われていたが、オッパは女性→男性で使われるようである。何語であれ、語学学習は背景情報のリサーチと学習とセットで行いたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, コン・ユ, チョン・ドヨン, チョン・ユミ, ヒューマンドラマ, 監督:キム・ドヨン, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 82年生まれ、キム・ジヨン 』 -男性よ、まずは自分自身から変わろう-

『 フェアウェル 』 -生者必滅、会者定離-

Posted on 2020年10月4日2022年9月16日 by cool-jupiter
『 フェアウェル 』 -生者必滅、会者定離-

フェアウェル 75点
2020年10月2日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:オークワフィナ
監督:ルル・ワン

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『 オーシャンズ8 』や『 クレイジー・リッチ! 』などで存在感を発揮したオークワフィナの主演作。設定は陳腐だが、キャラクターの造形と文化背景の描写の巧みさで、良作に仕上がっている。

 

あらすじ

ニューヨークに暮らすビリー(オークワフィナ)は、中国の祖母ナイナイが末期がんで余命3か月と知らされる。親戚一同は最後に彼女と出会うためにビリーのいとこのフェイクの結婚披露宴を画策する。告知すべきと信じるビリーだが、中国には治らない病気については本人に告げないという伝統があるため、親族は反対する。そんな中、ビリー達とナイナイの最後に過ごす数日が始まり・・・

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ポジティブ・サイド

Based on an actual lie = 本当にあった嘘に基づく、というスーパーインポーズから始まるのはなかなか珍しい。普通は、Based on a true story = 実話に基づく、である。なかなか洒落が効いている。

 

いきなり小ネタを挟むが、中国の伝統医学は我々の常識、というよりも西洋医学的な常識とは異なっている。つまり、医者は人々に健康指導をすることで報酬をもらう。なので、人々がなんらかの病気に罹患してしまうと、それは医者としての職務に失敗したとみなされ、報酬を受け取れなくなる。人々がケガや病気になって、それを治療することで謝礼を受け取る西洋的・近代的な医療とは非常に対照的である。そうした予備知識を以って本作を鑑賞すれば、単なる告知問題を超えた、一種の東西文明論により深く入り込んでいけるはずである。

 

本作のテーマは、Is it wrong to tell a lie? =「嘘をつくことは間違っているのか?」である。これはJovianも大学の西洋哲学入門か何かで議論をしたことがあるし、看護学校でも「善行の原則」や「真実の原則」やらで、やはりディベートをしたことがある。個人的な結論は、「時と場合と相手による」である。本作で親族たちがナイナイにつく嘘はセーフなのか、アウトなのか。それは個々人が劇場で確かめるべきだろう。

 

アメリカで学芸員になることを目標にしながらもなかなか夢がかなわないビリーという人物の造形がリアルだ。オークワフィナの愁いを帯びた表情が真に迫っている。移民(実際の彼女はピーター・パーカー/スパイダーマンと同じく生粋のニューヨーカーだが)として、アメリカと中国、どちらにもルーツを持ち、どちらにもルーツを持っていないという背景が、祖母ナイナイとの別離を特別に難しいものにしている。そのことが痛いほどに伝わって来る。

 

その祖母ナイナイの貫禄とコミカルさは、亡くなった祖母を思い起こさせた。孫の結婚式のあれこれに口を出し、家の中での食事ではあれこれと指図し、祖父の墓参りでは「いやいや、なんぼ星になったいうても、平凡な一般人の祖父ちゃんにそこまでの願い事を叶える力はないやろ」と思わせるほどの願い=親族の幸福を祈る様は、まるでうちの母が他の祖母そっくり。東北アジア人というのはそれぞれに全然違う民族のはずだが、文化的・精神風土的な根っこは同じか、極めて近いのだろう。

 

親族の結婚式を前に、親戚が一堂に会して食卓を囲む。そんなシーンの連続であるにもかかわらず、本作にはドラマがある。それはナイナイに確実に忍び寄る病魔と、そのことをほとんど感じさせないナイナイの健啖家ぶりと矍鑠とした立ち居振る舞いのギャップによるものだ。ある意味でディアスポラ=離散家族であるビリーの親族は、皆それぞれに複雑な背景を持っている。だが、共通していることは、ナイナイがいなければ彼ら彼女は誰一人としてこの世に誕生しなかったということである。言葉にできない感情。しかし、それが言葉になる時、人はこのようになるのかというスピーチのシーンには感涙してしまった。また、ビリーが母との言い争いで、祖母に寄せる思いを溢れ出させるシーンには胸がつぶれた。陳腐なドラマであるはずなのに、心が震わされる。本作は観る者の肉親の情の濃さを測るリトマス試験紙のようだ。

 

ネガティブ・サイド

一部の肉親以外のキャラの作り方が粗雑である。ナイナイの同居人の高齢男性は、最後に何か活躍するだろうと思ったが、何もなし。何だったのだ、このキャラは。

 

フェイク結婚披露宴の新婦であるアイコの扱いも酷い。確かに日本人は感情の表出がヘタであるが、感情を出さないからといって感情が無いわけではない。もう少しアイコをhumanizeするためのシーンが必要だったと思う。

 

いくつかのシーンに医学的な矛盾が見られる。まず、序盤でナイナイが受けていたのはMRI検査(音がドンドンガンガンしていた)で、大叔母さんの言う「CT検査」ではない。肺がんであれば、圧倒的にCT適応で、MRI適応ではないはずだ。このことは肺以外への転移を強く示唆している。したがって、・・・おっと、これ以上は言ってはいけないんだった。

 

総評

文化の違いはあれど、人の死、それも身近な人、血のつながりのある人との別れを悼む気持ちは普遍的なものだろう。そうした部分を直視した本作は、洋の東西や時代を問わず、広く観られるべきである。これまではチョイ役でしかなかったオークワフィナの、とてもヒューマンなところが見られる。本作は彼女の代表作にして出世作になることは間違いない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

bid farewell to ~

「~に別れを告げる」の意。かなり格式ばった表現で、カジュアルな話し言葉ではめったに使わない。最近のニュースでは“Microsoft will officially bid farewell to its web browser Internet Explorer 11 in 2021”(マイクロソフト、2021年に自社のウェブブラウザ、インターネット・エクスプローラーに正式に別れを告げる)というものがあった。生まれたからには必ず死ぬし、出会ったものには必ず別れの時が来る。そんな御別れの表現である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オークワフィナ, ヒューマンドラマ, 監督:ルル・ワン, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 フェアウェル 』 -生者必滅、会者定離-

『 mid90s ミッドナインティーズ 』 -私小説ならぬ私映画-

Posted on 2020年10月2日2022年9月16日 by cool-jupiter

mid90s ミッドナインティーズ 70点
2020年9月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:サニー・スリッチ キャサリン・ウォーターストン ルーカス・ヘッジズ
監督:ジョナ・ヒル

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アメリカのテレビドラマ界では80年代が花盛りである。それは80年代に幼少期~思春期を過ごした世代が、テレビ業界でイニシアチブを取れるようになってきたからだと言われている。しかし、そうこうしているうちに90年代にノスタルジーを抱く、次の世代が台頭してきた。監督・脚本・制作のジョナ・ヒルは1983年生まれ。90年代は彼にとって7歳から16歳。これは私小説ならぬ私映画なのだ。

 

あらすじ 

スティーヴィー(サニー・スリッチ)は暴力的な兄イアン(ルーカス・ヘッジズ)とシングル・マザーのダブニー(キャサリン・ウォーターストン)と暮らしていた。ふとしたことからスケボーを通じて、ルーベンやフォース・グレード、ファック・シット、そしてレイと知り合ったことで、スティーヴィーは新しい世界を知るようになり・・・

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ポジティブ・サイド

オープニングからナイキのバッシュなど、90年代を彩った様々なガジェットが画面に映し出される。不思議なことに、ただそれだけのことで空気が変わる。それは予告編でもたびたび映し出された“Stay out of my fucking room, Stevie.”という兄の台詞にも触発されるからなのだろう。年の離れた兄の部屋。それは異世界のようなものだ。最も身近な大人の世界とも言える。そして、兄が使わなくなったスケボーに一人のめり込むところから、ストリートのスケボー連中に合流し、変わっていくという、思春期のビルドゥングスロマンである。

 

主演を務めたサニー・スリッチは、まるでジェイソン・クラークがそのまま子どもになったような雰囲気である。つまり、ヒールともベビーフェイスとも判別がつかない顔とでも言おうか。何色にも染まりうる危うさを秘めた面持ちをしている。そんなスティーヴィーがルーベンと知り合い、その伝でレイやファック・シットらと出会い、“サンバーン”というニックネームを奉られ、ともにストリートに繰り出してスケボーに酒、その他の乱痴気騒ぎに興じる。『 ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー 』と正反対のstreet smartな成長過程を見せていく。その何とも言えない、危うさに痛々しさよ。

 

縁あっていくつかの大学で英語の授業を担当させて頂いているが、それこそ2000年前後生まれの学生たちは、程度の差こそあれ、とても真面目で勉強熱心だし、ボランティアに精を出すし、インターンシップにも意欲的だ。Jovianの幼少~思春期は80年代から90年代にかけてだが、その頃の中学高校生の喫煙率やヤンキー率など、今日の若者からすれば眉を顰めざるを得ないだろう。日本でも米国でも、90年代は明るく荒んでいたのだ。そうした青春の光と影、そこにある緩やかで、しかし確実に存在する家族との紐帯。そう、これはある意味でアメリカ版『 はちどり 』とも見なしうる物語なのだ。親友だと思っていた相手との関係性のねじれ、自分よりも恵まれない人々の存在への気付き、兄からの暴力、家族を亡くした者の魂の慟哭・・・ スティーヴィーもまた、いつか新天地を目指して飛び立つ『 はちどり 』なのだ。だが、彼は確かに90年代半ばという地平にその存在を刻み込んだ。かけがえのない仲間と共に。

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ネガティブ・サイド

仲間内でルーベンとスティーヴィーの立ち位置、力関係が逆転する出来事がかなりのご都合主義であるように感じた。プロのボーダーを目指すレイが、ルーベンやスティーヴィーに「飛べ!」と促すだろうか。腑に落ちない。

 

またファック・シットが酒とパーティーに溺れていく過程の描写が不十分にも思えた。破滅的な性向の男であることは見た瞬間から分かる。問題は、ファック・シットの陰口を叩くのがパーティー・ガールたちだけというところだ。スケボー連中たちからも「あいつはちょっと頭ヤベー奴だぞ」のような忠告がスティーヴィーの耳に入るシーンがあれば良かったと思う。裁判所前でホームレスの男性とレイがひとしきり言葉を交わすシーンはよく練られたものだったが、その裏ではスティーヴィーが仲間の悪口を聞いて激怒する、または動揺するといったミニドラマがあっても良かったはず。

 

総評

決してハッピーな気分になれる映画ではない。懐古趣味的であるが、それを無条件に良しとするような風潮にはっきりと異議申し立てをしている作品である。だが、90年代を嫌悪しているわけでもない。青春の1ページ、それは時に痛く、時にまばゆい。そんな一瞬を見事に切り取った一作である。30代から40代なら、何かを感じ取れるのではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You feel me?

「(俺の言っていることが)分かるか?」の意。スラングである。下品ではないが、フォーマルでは決してない。友人や同僚相手に使うにとどめよう。Jovianの友人かつ元同僚もこの表現をしばしば使っていた。彼のYouTubeチャンネルには、外国人には日本文化や日本人がどう映るのかを知るための、なかなか興味深い動画がそろっている。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アメリカ, キャサリン・ウォーターストン, サニー・スリッチ, ヒューマンドラマ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ジョナ・ヒル, 配給会社:トランスフォーマーLeave a Comment on 『 mid90s ミッドナインティーズ 』 -私小説ならぬ私映画-

『 無職の大卒 』 -この世に役立たずなど存在しない-

Posted on 2020年9月30日2022年9月16日 by cool-jupiter

無職の大卒 70点
2020年9月26日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ダヌシュ サムドラカニ アマラ・ポール
監督:ヴェールラージ

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インディアン・ムービー・ウィークの一作。インドは近年、宗教・神学・哲学問題(『 PK 』)や国境問題(『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』)、さらには教育問題(『 ヒンディー・ミディアム 』)などの分野で優れた作品を送り出してきた。そして本作は就職問題に関する快作であった。

 

あらすじ

大学で土木工学を学んだラグヴァラン(ダヌシュ)は、IT専攻でなかったばかりに、就職に失敗してしまった。日がな一日、家事でもして過ごしていたところへ、隣家に妙齢の美女のいる家族が引っ越してきて・・・

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ポジティブ・サイド

大卒にして無職というのは、ある意味でその国の発達の度合いを測る目安になるのかもしれない。そもそも子どもを大学にやれる経済力が親世代に求められる。一方で、順調に若者を吸収してきた労働市場が飽和状態になりつつある。そのようなインドの現状、そして多くの先進国の一昔前の姿を、本作は如実に映し出す。だが、悲壮感が漂うばかりではない。多くのインド映画はあまりにも強権的、威圧的な家父長制の家族や社会を映すが、本作の親子関係は時にシリアスでありながら、基本的にはコミカルだ。

 

インド映画で工科大学と言えば『 きっと、うまくいく 』が思い出される。エンジニアの卵たちがここぞという場面で本領発揮するシーンには痺れた。本作でもタイトル通りに工科大卒の無職たちが大いに躍動するシーンが収められているが、そこで得られるカタルシスは非常に大きい。これはJovianがいわゆる就職氷河期世代に属するからだろうか。

 

主演のダヌシュは普段の情けなさと、やる時はやる男というギャップがたまらなく魅力的である。父に叱られ、母に甘え、弟に劣等感を抱いているのかと思えば、キレッキレのダンスを披露し、無手勝流のケンカ術でチンピラをコテンパンに叩きのめす。女性は男性のギャップの大きさに惚れるというが、確かにラグヴァランはギャップの塊である。

 

悪役である大企業の社長とそのボンクラ息子が、成長著しいインドという国家の負の面を見事に体現している。見ていて本当に腹が立ってくる嫌味キャラなのだが、それは役者の演技力ゆえか、それとも半沢直樹的な下克上や倍返しを容赦なくやってくれ!と思いたい、観る側の心の在りようゆえか。おそらくその両方だろう。「 万国のプロレタリア団結せよ! 」と叫んだのはマルクスであるが、これを今風に言い換えれば「 万国の大卒無職、団結せよ! 」となるだろうか。ある意味で安心して見ていられる勧善懲悪ものであり、多民族社会を維持するインドらしい結末も用意されている。2014年の映画であるが、古さは全くない。

 

ネガティブ・サイド

一言、脚本が粗い。ヒロインが二人いるのも紛らわしいし、本命であるべきシャーリニとの関係が劇的に進展するわけでもない。そもそも、もう一人のヒロインが生み出される経緯が気に食わない。中盤で唐突に「え・・・?」という展開が待っているが、この事件がご都合主義にしか思えないのだ。ここまでドラマチックな展開を無理やりに作らなくても、もっと現実味のあるサブプロットで、後半~終盤の展開は描けたはずである。

 

シャーリニのバックグラウンドもイマイチはっきりしない。自分の父親の倍以上を稼ぐらしいが、歯科衛生士?それとも歯科医?彼女の職業的背景がはっきりしないので、無職のラグヴァランとの距離感や職を持ったラグヴァランとの関係性が奥深いところでは把握しにくかった。

 

少しだけ残念だったのはエンディング。振り切ったアクションの直後に、どこか唐突に、知り切れトンボな感じで終わってしまう。絢爛豪華な終わり方が観たかったのだが・・・

 

総評

はっきり言ってシーンとシーンのつながりは滅茶苦茶である。しかし、それをインド映画独特のでたらめなパワーで乗り越えている。そこにしっかりとメッセージも込められている。この世に役立たずなど存在しない。もしも誰かが無能だとするなら、それは時代やコミュニティがその者に活躍の機会を与えていないからだ。そのよう感じさせてくれるインド映画の快作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Can you ~ ?

最もスタンダードな英語の依頼表現。劇中では“Can you come here?”という具合に使われていた。Canは可能性や能力があるという意味の助動詞だが、疑問文の場合はほぼ依頼だと思って間違いない。Are you able to ~ ? と Can you ~ ? を使い分けられれば、英会話初心者は卒業である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アマラ・ポール, インド, コメディ, サムドラカニ, ダヌシュ, ヒューマンドラマ, 監督:ヴェールラージLeave a Comment on 『 無職の大卒 』 -この世に役立たずなど存在しない-

『 Daughters(ドーターズ) 』 -アート系映像+日常系ドラマ-

Posted on 2020年9月25日2021年1月22日 by cool-jupiter
『 Daughters(ドーターズ) 』 -アート系映像+日常系ドラマ-

Daughters(ドーターズ) 65点
2020年9月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三吉彩花 阿部純子
監督:津田肇

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予告編を2~3度観ただけで観賞。『 孤狼の血 』で魔性の女とも純な乙女とも判断つかない不思議な美女を演じた阿部純子が出演している。シネ・リーブル梅田で『 ソローキンの見た桜 』を見逃してしまったが、本作は劇場に観に行くことができた。

 

あらすじ

小春(三吉彩花)と彩乃(阿部純子)は仕事もプライベートも充実したルームシェア生活を送っていた。しかし、彩乃が突然の妊娠を告白。二人の生活や関係が少しずつ変化し始めて・・・

 

ポジティブ・サイド

オープニングからなかなか奮っている。薄暗い室内で三吉演じる小春と阿部演じる彩乃が取り留めのない会話を繰り広げる。この映画は二人だけの閉じた世界がテーマなのだと伝わるEstablishing Shotになっていた。これにより、物語がどう展開しようとも、主軸は二人の関係性であるということを見失わずに済む。

 

仕事にプライベートにと充実した生活を送る二人。『 チワワちゃん 』のようなぶっ飛んだ青春ではないが、充実した20代、充実した社会人生活の一つの在り方を映し出していた。だが、ある日、彩乃の妊娠が判明。そのことを綾乃に告げられた小春は狼狽する。それはそうだ。相手の男も不明。実家が近いわけでもない。仕事も辞めない。これでどうやって赤ん坊を育てるというのか。

 

本作は時代の空気をよく反映していると言える。日本社会の離婚率は今や3割。10組に3組は離婚するのだ。結婚観および離婚観は大いに変化したと言えるだろう。一方で、婚外嫡出子の割合は2%前後。良い意味でも悪い意味でも、日本では子育ては夫婦で(あるいは親や親族、地域の助けを借りて)行わなければ難しいということも分かる。綾乃と小春の関係性にも当然のごとく、変化が訪れる。その変化を特に小春がどのように受容していくかが本作の見せ場である。

 

上手いなと思わされるのは、小春や綾乃の様々な人間関係を決して完全には見せない、あるいは説明しないことである。たとえば小春の親の存在が言及されるが、どこに住んでいるのかは分からない。また綾乃が実家を訪れるシーンがあるが、父親と祖母は出てきても祖父や母親は出てこない。母親に何があったのかも決して語られない。子どもが出来たということは父親が確実に存在するわけで、その父親が誰であるのかは画面上にはっきりと映し出される(だからといって濃厚なラブシーンが描写されるわけではないので、スケベ映画ファンは期待しないように)。だが、男女の関係が発展することもないし、小春が負けじと男を作るわけでもない。これにサブプロットとして発展していきそうな要素がそぎ落とされ、あくまでも小春と彩乃の関係性が物語の主軸であり続ける。

 

そうした二人の女性の関係性が色鮮やかに、時にdruggyとも言える色彩豊かな映像で描写される。そして季節が進んでいくごとに自然豊かな情景を挟んで、新たな局面を迎えていく。この一連の様式美が心地よい。津田肇は映像作家らしい画作りで、光と影のコントラストや、赤や青といった原色を大胆に画面いっぱいに繰り広げる。それが若さの発露であり、また人間の情念の暗さを表している。そうしたいかにも“東京”らしい色彩が、沖縄の海と空と土地で中和される終盤の展開もなかなかに味わい深い。

 

小春と彩乃の同居生活の変化、その行き先。それがどうなるのかは誰にも分からない。しかし、彼女らの選択を尊重したい、ひとまずは見守ってやりたい。そのように感じる人は多いのではないのだろうか。

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ネガティブ・サイド

中目黒に住んで、夜な夜な酒を飲んで、ファッションにも力を入れて、よくカネが続くものだなと悪い意味で感心する。試しに「中目黒 家賃 2LDK」でググってみたが、20万円を切る賃貸物件はほとんど見当たらない。つまり、小春も彩乃も月に12~13万円を家賃に使っていて、なおかつガス水道光熱費にスマホ代、洋服代に食費、それに遊興費まで出している?いったい、彼女らの年収はいくらなのだ?ちょっと現実味が薄すぎる。

 

女性の自立を見守る。女性が選択する権利を持つ。そうした主張が感じられるが、一方で女性に関する固定観念を助長するようなシーンもあった。特に気になったのが、大塚寧々演じる産婦人科医と赤ちゃん教室の講師役の看護師?だか助産師?である。赤ちゃんはお母さんに抱かれるのが好き?諸説あるが、いわゆる抱き癖のある赤ちゃんというのは、体の小さな母親から生まれてくるというデータがある。つまり、相対的に小さな子宮内にいるために体を丸めてしまう、そしてその姿勢を心地よいものと認識する。結果、生まれてからも体を縮める=抱っこされた時の体の形や姿勢が落ち着くということになる。これは科学的エビデンスのある説である。女性の自立や生き方の多様化を描きながら、ところどころに旧態依然とした女性観が出てくるのは頂けない。

 

産休を取った彩乃が職場から自宅に帰って来るシーンの歩き方がお腹がかなり膨らんだ妊婦としては不自然。もっと背中を反らせてガニ股で歩かないと迫真性が出せない。歩き方にこだわる妊婦もいるにはいるが、少なくともお腹に布を詰めただけの演技にしか見えなかった。阿部純子も津田肇も、もっと勉強が必要である。

 

総評

少々ご都合主義が目立つし、映画全体が伝えたいメッセージと映画の場面ごとに伝えようとするメッセージに齟齬があることもある。彩乃の上司による説教臭い説明的なセリフもノイズであるように感じた。だが、歪な家族の形を真正面から描き切ったというのは非常に現代的であるし、『 万引き家族 』以来、邦画は少しずつ変わっていったように思う。その新しい潮流の邦画作品として、本作には一見の価値がある。気分が向けば劇場で鑑賞されたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

child rearing

「子育て」の意。Parentingとも言うが、子育ては必ずしも親によってなされる必要はない。したがって、子育ての訳語には「子」が含まれていればよい、という意見もある。Jovianもこの説に賛成である。育メンなどという訳の分からない言葉が一時期だけもてはやされた日本社会であるが、この調子では出生率の増はまだまだ望めそうにないか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 三吉彩花, 日本, 監督:津田肇, 配給会社:Atemo, 配給会社:イオンエンターテイメント, 阿部純子Leave a Comment on 『 Daughters(ドーターズ) 』 -アート系映像+日常系ドラマ-

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