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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: ヒューマンドラマ

『 アンダードッグ 前編』 -まっ白な灰にまだなっていない-

Posted on 2020年12月1日2021年4月18日 by cool-jupiter
『 アンダードッグ 前編』 -まっ白な灰にまだなっていない-

アンダードッグ 前編 70点
2020年11月28日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:森山未來 北村匠海 勝地涼
監督:武正晴

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ボクシングはJovianの好きなスポーツである。自分では絶対にやらないが、見ているのは楽しい。『 お勧めの映画系サイト 』で徳山昌守、ウラディミール・クリチコなどの“塩”ボクサーを好むと述べたが、もちろんスイートなボクサーも好きである。しかもタイトルがアンダードッグ、負け犬である。これは興味をそそられる。

 

あらすじ

かつての日本ランク1位、末永晃(森山未來)はタイトルマッチでの逆転負けを引きずり、咬ませ犬としてボクシングを続けていた。そんな末永はひょんなことから大村龍太(北村匠海)というデビュー前のボクサーと知り合う。また宮木瞬(勝地涼)は、大御所俳優の父の七光りで芸人をやっているが全然面白くない。そんな宮木にテレビの企画でボクサーデビューし、末永とエキシビション・マッチを行うという企画が浮上し・・・

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ポジティブ・サイド

森山未來の風貌が、まさに負け犬である。悪い意味ではない。良い意味で言っている。激闘型のボクサーはキャリアを積むにつれて“良い顔”になっていく者が多い。近年の日本のボクサーだと川嶋勝重や八重樫東の顔が当てはまる。打たれまくったおかげで顔が全体的に扁平になり、目からもパッチリさが失われてしまった。森山の顔もまさに歴戦のボクサーのそれで、ポスターの写真だけで「これはボクサー、それもアルトゥロ・ガッティのような激闘型だ!」と確信できた。まさにキャスティングの勝利である。

 

この末永が過去のトラウマに囚われている様が物語を駆動させている。ここに説得力がある。かの赤井英和は「ボクシングはピークの時の自分のイメージが強く残る。だから辞めるに辞められない」と語り、吉野弘幸も「(金山戦の時のように)もう一回はじけてみたい」と語るわけである。同じように世界のボクシング界には「メキシカンは二度引退する」という格言がある。いずれも過去の栄光を忘れられない、脳内麻薬の中毒者である。末永は違う。漫画『 はじめの一歩 』の木村と同じ、日本タイトルマッチであと一歩のところで敗れた経験を引きずっている。日本タイトルが欲しいのではない。『 あしたのジョー 』の矢吹ジョーのごとく、燃え尽きてまっ白な灰になりたいのである。後編を観ずともそれがこの男の結末であると分かる(と勝手に断言させてもらう)。

 

ボクシングシーンもなかなかの迫力。末永vs宮木のエキシビションでは、素人相手にはウィービングやスウェー、ダッキングで充分、仕留めるために距離を詰める時にはブロッキングという、まるでF・メイウェザーvs那須川天心のような展開。この脚本家と演出家(=監督)はボクシングをよく知っている。『 百円の恋 』はフロックではなかった。

 

前編で一番優遇されていたのは勝地涼。はっきり言って現代版お笑いガチンコファイトクラブなのだが、ボクシングの巧拙は問題ではない。圧倒的に不利な立場の負け犬が、それでも雄々しく立ち上がる姿が我々の胸を打つのである。邦画のホラーは貞子の呪縛に囚われているが、ボクシング映画やボクサーの物語はいまだに『 ロッキー 』の文法に従って描かれている。この差はいったい何なのか。

 

ここに北村匠海演じる新星、大村が絡んでくることになる後編が待ち遠しい。施設上がりで、妻が妊娠したことを知った時の闇を感じさせる台詞に、末永、宮木、大村の三者三様の物語が交錯し、燃え上がり、まっ白な灰へと変わっていく様を観るのが待ち遠しくてならない。

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ネガティブ・サイド

北村匠海も体を作ってきたのは分かるが、深夜のジムに潜り込んで末永相手にスパーを提案する際のアリ・シャッフルがヘタすぎる。単なるフットワーク?いや、単にシャッフルの練習不足だろう。日本のボクサーというのはそうでもないが、世界的にも歴史的にもボクサーは減らず口をたたいてナンボ。その減らず口をたたくだけの実力を証明した者が名とカネを手に入れる。北村のキレの無いステップは、将来を嘱望されるボクサーのそれではなかった。

 

末永のジムの会長の目が節穴もいいところだ。どう見てもグラスジョーになっていることが分からないのか。「ジムの経営も楽じゃないんだ」とぶつくさ言う前に、己のところのボクサーをしっかり見ろ。

 

末永の働くデリヘルの常連客である車イスの男が気になる。まさか「クララが勃った立った!」ネタの要員ではあるまいな。普通にEDで良かったのではないか。

 

総評

前編だけしか観ていないが、後編を観るのが楽しみでならない。12月5日(日)には観に行きたい。ボクシングに造詣が深くなくとも理解ができるのがボクシングの良いところである。そういう意味では『 三月のライオン 』や『 聖の青春 』、『 泣き虫しょったんの奇跡 』といった将棋映画は、何が凄いのか一般人にはよくわからないが、ボクシングは観ているだけで痛さが伝わるし、アドレナリンが出てくる。この前編は勝地涼の代表作になったと言ってよい出来栄えである。勝地ファンのみならず、普通の映画ファンにこそ観てほしい作品だ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

take a peek

「覗く」の意である。しばしばtake a peek at ~ という形で使われる。My wife took a peek at my LINE.のように使う。最近、ロイ・ジョーンズ・Jr.とエキシビション・マッチを行ったマイク・タイソンのピーカブースタイルはpeek-a-boo styleと書く。いないいないばあスタイル、つまり両のグローブの隙間から相手を覗き見るスタイルである。Don’t take a peek at your partner’s smartphone!

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, スポーツ, ヒューマンドラマ, ボクシング, 勝地涼, 北村匠海, 日本, 森山未來, 監督:武正晴, 配給会社:東映ビデオLeave a Comment on 『 アンダードッグ 前編』 -まっ白な灰にまだなっていない-

『 泣く子はいねぇが 』 -未熟な男どもに捧ぐ-

Posted on 2020年11月25日2022年9月19日 by cool-jupiter
『 泣く子はいねぇが 』 -未熟な男どもに捧ぐ-

泣く子はいねぇが 75点
2020年11月21日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:仲野太賀 吉岡里帆 柳葉敏郎 余貴美子
監督:佐藤快磨

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20代後半ではフロントランナーの仲野大賀、そして『 見えない目撃者 』で大いに株を上げた吉岡里帆。舞台は地方で、モチーフがなまはげ。これは観るしかないだろうとチケットを買った。鑑賞後は「何か凄いものを観た・・・」と感じた。何がどう凄いかを言語化するのは難しいが、以下でそれにトライしてみる。

 

あらすじ

たすく(仲野太賀)とことね(吉岡里帆)は女児のなぎが生まれたばかり。「酒も飲まずにすぐに帰ってくる」と約束したたすくは、しかし、泥酔して全裸で街中を走っていくところをテレビカメラに映されてしまう。ことねに愛想をつかされ、逃げるように秋田から東京へ逃げたたすくだが、やはりことねと娘のなぎのために生きたいと思い、秋田へと返ってくる・・・

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ポジティブ・サイド

邦画は往々にして東京もしくはその周辺で物語が展開するが、これは地方、それも秋田の男鹿という本当に狭い範囲にフォーカスしている。『 小さな恋のうた 』、『 ハルカの陶 』や本作のように、地方を舞台にした映画がその地方でなければ描けない物語を見せてくるのは本当にありがたい。もちろん東京都の対比もある。劇中にたすくの悪友が繰り返し言う「東京に無いものがこっちにはある」という台詞がそれを表している。それは恵みの海であり、ゆっくりと流れる時間である。そうした地域の人間関係は都市部のそれよりも暖かく、そして厳しいものである。

 

仲野大賀の演技がキレッキレである。過剰に演じているのではなく、自然に演じているが、それが恐ろしくハマっている。冒頭で出生届を出しに役所に来るが、時間外窓口で居眠りしているおっさんに大きな声で呼びかけることもできないという小物っぷりに、「こいつ、大丈夫かな?」と思わされるが、全然大丈夫ではなかった。妙なタイミングで出る薄ら笑い、話している相手となかなか合わない目線、自分を棚に上げての他人(友人)の論評など、ダメな男の特徴をこれでもかと備えている。最悪なのは、酒を飲まずに早く帰ってくるという妻との約束をあっさりと反故にするところ。こんなブログを読んでいる10代20代の健全な男子がどれだけいるのかは知らないが、諸君らに言っておく。女子との約束は破ってはならない。1度2度ならお目こぼしをもらえるかもしれないが、それは許してもらっているのではない。彼女らは怒りを静かに貯金しているのである。もちろん金利は単利ではなく複利計算だ。その怒りの貯蓄が一定額を超えると、もうダメである。たすくは若さゆえにそのことを分かっていない。それが中年のJovianには非常にもどかしい。何故か。たすくに過去の自分を思い起こすからだ。この男は自分が怒らせて逃してしまった女に償えるのか、縒りを戻せるのか。たすくの物語の行く末に強く関心を抱いてしまう。

 

結局たすくはことねに見限られてしまい、自らの大失態により地元にも居場所をなくし、東京へ逃げることになる。そこでもどこか周囲に溶け込めないたすく。フットサル仲間の女子をなりゆきで一晩部屋に泊めて、その女子にあけすけに誘惑されて「自分には子どもがいる!」と叫んで拒絶する。なんと情けない男なのか。それを機に、別れた妻と成長したであろう娘に会いたいという気持ちから帰郷するが、そこでもなかなか地元に溶け込めない。結局、悪友と共に shady business に精を出すのだが、そんなカネを誰が喜んでくれるのか。このあたりの思考がたすくが大人になれていないことの証拠である。夜の街で接待を伴う飲食店で働くことねとそのパートナーのことを知って、「あんなところで働かせる奴にことねを渡したくない」って、それはお前が原因だー!!!!と、Jovianがたすくの兄ならば鉄拳でもって分からせてやったことだろう。ことほどさようにたすくは未熟なのである。

 

そのたすくがどのように自分の人生に向き合っていくのか。物語の大きな岐路に、海辺に停めたクルマの中でのことねとの対話がある。いや、対話というよりは演説、決意表明といった方がいいか。『 きばいやんせ!私 』でも、仲野太賀は夏帆を相手にクルマの中で“仕事の価値とはどれだけ真剣に打ち込めるか”だと熱弁を振るっていた。そのシーンを彷彿させる渾身の芝居を披露する。大声を張り上げるわけではなく、淡々と、しかし力強く、自らの生きる決意、働いていく熱意をことねに切々と訴えかけていく。それに対することねの返答は・・・ 観る側はここで、「たすく、やっとひとつ成長できたな・・・」と複雑な心境になる。また、とある行事の場でのたすくの涙もポイントが高い。父親というのはなるものではない。母親は無意識に自分の子どもを産むことはまずないが、父親は場合によっては子どもに父親だと認識されないと父親になれない。同時に自分も子どもを認識しないと父親になれない。アホだな、たすく。そんなことも分からんのか。と、子どものいないJovianが思ってしまうわけだが、それほどにこのシーンのたすくの涙は観る者の胸を打つ。

 

この芝居を受けて立つ吉岡里帆も見事の一語に尽きる。この女優は「かわいい」だとか「スタイルがいい」だとか「濡れ場を演じられる」などの点で評価すべきではない。『 見えない目撃者 』のように、追い詰められた状況でこそ真価を発揮する。怒って金切り声を上げる演技なら、そこらの中学生にでも出来る。しかし、不信、怒り、疲労、悲しみ、安堵などの様々な感情がないまぜになったところを、大袈裟なアクションや発話ではなく、その表情やたたずまいで表現できることこそがこの女優の強みである。彼女のハンドラーは、くれぐれも少女漫画や恋愛小説の映画化作品のヒロインに彼女を推さないようにして頂きたいものである。

 

母親、兄、悪友に良い意味でも悪い意味でも支えられるたすくの物語は、大みそかの夜で閉じる。この結末は途中ですぐに思い浮かぶ。たすくは少しは成長できたものの、まだまだ未熟なままである。キャッチフレーズの如く、カネもないし、仕事もない。自分に自信もない。だから愛する娘に会わせる顔もない。『 シラノ恋愛操作団 』のテウンのようにはなれたものの、愛娘への思慕はいかんともしがたい。「会うのはこれが最後」と言ったことねの言葉を振り切り、過去の自分の過ちに向き合い、たすくは乾坤一擲の勝負に出る。たすくの魂の咆哮を聞け。柳葉敏郎が言うように「なまはげは人生の意味や家族の絆を考えさせてくれる存在」なのだ。たすくは父親にはなれない。しかし、なまはげにはなれる。娘の記憶と人生に残るためにたすくが選んだ方法に、どうしたって胸を締め付けられずにはいられない。

 

「泣く子はいねぇがーーー!!!」

 

Jovianは少し泣いてしまった。

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ネガティブ・サイド

たすくが男鹿にいられなくなった理由には説得力がある。ただテレビカメラが映すか?ちらっと一瞬だけカメラの前を横切ったのは仕方がないにしても、かなり長い間、たすくの尻を映し続けたのは、はっきり言ってプロカメラマンにあるまじきミスだと感じた。

 

たすくとことねの歴史は色々とほのめかされるだけで終わるが、この二人が結構な幼馴染で色々なドラマを紡いできたことは想像に難くない。であれば、なぜことねは大晦日の男衆に、あるいは世話役である柳葉敏郎に電話なり何なりをして、「たすくに飲ませないでほしい、早めに帰らせてほしい」と伝えなかったのか。たすくのダメ男加減はことねが一番わかっているはずではないか。そうしたことねの根回しも虚しく、たすくは酒で大失敗してしまう。その方がストーリー展開をもっと明快に分かりやすくできたように思う。

 

総評

観る者を幸せにしてくれる作品かと言われれば、決してそうではない。けれども不器用な男の不器用なりのビルドゥングスロマンに、多くの男性が勇気づけられるのは間違いない。コロナ禍で閉塞感が漂っているが、年末に向けて出来るだけ多くの人、特に若い男性に本作を鑑賞して何かを感じ取ってほしいと願う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Any crybabies around?

YouTubeのこの動画で「泣く子はいねぇが」=Any crybabies around? だと学んだ。厳密には頭に Are there をつけるのだが、決まり文句にそこまで杓子定規になることはないだろう。Any movie buffs around? 映画マニアはいねぇが?

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 仲野太賀, 余貴美子, 吉岡里帆, 日本, 柳葉敏郎, 監督:佐藤快磨, 配給会社:スターサンズ, 配給会社:バンダイナムコアーツLeave a Comment on 『 泣く子はいねぇが 』 -未熟な男どもに捧ぐ-

『 フード・ラック!食運 』 -焼肉愛〇 映画愛△~×-

Posted on 2020年11月22日 by cool-jupiter

フード・ラック!食運 50点
2020年11月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:EXILE NAOTO 土屋太鳳 りょう 石黒賢 松尾諭
監督:寺門ジモン

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『 ハルカの陶 』で書いてしまったが、Jovianの実家は焼肉屋であった。自分でも店に短期だが関わったことがあるし、家族で焼肉研究をしていた時期もある。今年の4~5月、さらにその後にも続く飲食業界の惨状を焼肉業界は1996年のO-157、そして2001年の狂牛病ですでに経験していた。だからこそ今も存続している、あるいは新規にこの業界にチャレンジしてきた店には個人的には満腔の敬意を表している。ちなみに監督の寺門ジモンは顔も名前も知らなかったし、今も知らない。嫁さんから「ダチョウ俱楽部やん!」と言われたが、ダチョウ倶楽部というのも名前しか知らない。浮世離れと言わば言え。

 

あらすじ

類まれな食運を持つ良人(EXCILE NAOTO)は、新庄(石黒賢)の依頼で竹中静香(土屋太鳳)と組んで、本当においしい焼肉屋だけを取り上げたグルメサイトを立ち上げることに協力する。静香と二人であちこちの名店を訪れていく良人は、やがて自らの実家、「根岸苑」と母・安江の味の秘密にも迫っていくことになる・・・

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ポジティブ・サイド

焼肉愛が画面を通じて伝わってくる。なんでもかんでも炭火を良しとする向きがあるが、劇中で良人の指摘する通り、炭火はムラがある。本当に炭火に特化した焼肉を提供するなら、タンもカルビもロースもホルモン系もすべて切り方や厚みを変えなければならない。本作はガス焼きの店ばかりが登場し、そのいずれもが薄切り肉に特化している。この一貫性は見事である。

 

また焼肉という料理の特性もしっかりと捉えた議論ができている点も素晴らしい。焼肉というのは一部のお好み焼きや鍋料理と並んで、最後の調理部分を客が担う料理である。だからこそ、店は客と信頼関係を結んでいて、場合によっては一見さんお断りも可能になるとJovianは解釈している(そういう意味では寿司屋の一見さんお断りは意味がちょっとわからない)。良人が焼き方にとことん真剣にこだわる姿勢は元焼肉屋として非常に好ましいものとして映った。

 

良人というキャラが食のライターとして葛藤するところも良い。自分の書いたものが正しく解釈されず、店を苦境に追いやってしまう。それはとても恐ろしいことだ。実際にそうした影響力を持つ個人というのは存在するし、ごく最近でもとある前科者のIT実業家が餃子店の経営を窮地に追いやった。Jovianも映画の出来をコテンパンに酷評することがあるが、それによってダメージを受けている人がいるのかもしれないと感じた(ただし、自分はクソ作品にも美点を見出す努力を忘れていないつもりである)。良人のまっとうな人間としての感覚が、彼の人間ドラマの部分、すなわち母親との関係性や食への向き合い方にリアリティを与えている。

 

相棒となる竹中静香というキャラも悪くない。はっきり言って仕事ぶりはちょっとアレだが、その分、良人の母親への接し方に素の人間性がよく出ていたように思う。余命いくばくもない人間には元気に接するぐらいでいい。息子のパートナーとなるかもしれないと母親に予感させるような女性は、妙にへりくだるよりも堂々としているぐらいがいい。土屋太鳳も年齢的に演じる役柄の転換点を迎えているが、女子高生役ではなく新卒社会人役をまずは違和感なくこなせていた。そして安江役のりょうの若作りと病床での痩せ具合。首筋にしわが大きく見えていたのは、特殊メイクではなく本当に減量した結果なのだろうと思わせてくれた。本作はある意味で一から十まで安江の幻影を追うストーリーである。様々な焼肉職人らと時代や地域を超えて協業してきた安江とその夫のストーリーは描かれることはないものの、その立ち居振る舞いと存在感でキャラクターの重厚性を表現したのは見事の一語に尽きる。

 

焼肉を提供する側の努力や工夫をさりげなく見せているところも好感度が高い。エンドクレジットで一瞬映る厨房には包丁がパッと見で10本ほどあった。Jovianの実家は8本。回らない寿司屋だと1~4本ぐらいが多い気がする。焼肉屋は実は日本で一番包丁を使い分けているところなのだ。また熟成肉を解体するシーンが見られるところもポイントが高い。なぜそれが熟成肉だと分かるのか。店で解体しているからだ。つまり、〇月×日から□月△日まで冷蔵庫で寝かせておいたということが証明できる。今はどうか知らないが、20年ほど前は「熟成肉でござい」と言って売ってくる業者もいたのである(しかも港のマイナス60度とかの倉庫で半年眠っていたような肉)。上等かつ良心的な焼肉屋の舞台裏を大スクリーンで見せるところに寺門ジモンの肉愛が感じられる。エンドクレジットというのが心肉い、いや心憎いではないか。

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ネガティブ・サイド

寺門ジモンに焼肉愛があることは分かったが、映画愛はそれほどでもないのだろう。愛とは愛情だけではなく造詣や、新境地を切り拓いてやろうというフロンティア・スピリットは感じ取れなかった。たとえば「焼肉が最高の演技をしたらどうなる?」とトレイラーは散々煽ってくれたが、果たして肉に熱が加えられていく様をこれまでにない角度で撮影できたか?その音をこれまでにないクオリティで録音できたか?全くダメだった。肉の焼ける様を鉄板や網の裏側から映す、あるいは俯瞰視点からズームインして秒単位で経時的に肉の表面の焼き色がどう変化していくかを捉える“通”の目線など、新規の実験的なカメラワークはまったくなかった。音響にしても同じで、肉が焦げ、脂がはじける音に究極的にフォーカスしたか。一切していない。既存の映画の調理シーンとなんら変わることのないアプローチで、これで「焼肉が最高の演技をした」ところを捉えたとはとても言えない。肉好き、肉通ではあっても映画好き、映画通の作劇術ではない。

 

ストーリーにも説得力がない。本物の店だけを掲載するサイトを作るというが、そんなものの需要がいったいどこにあるのか。Jovianは食べログを盲信してはいないが、集合知というものに対しては楽観的な見方をしている。ごく少数の人間が意見や情報を世に発信するというのはインターネット以前のマスメディア的な権威のやり方そのものであり、敢えて時代に逆行するやり方を採用するからには、既存の集合知(たとえば食べログ)の弱点を修正する、あるいは補完するという意義が必要である。だが結局やっているのは古山というもう一人の権威者との対決で、だったら食べログなどの設定は一切無視して世の中の権威と称される人間に挑戦していく筋立てにするか、食べログには乗らない上質なお店を丹念に救い上げていく筋立てするか、そのどちらかで良かった。安江と良人の関係性を描いていくのなら前者だけにフォーカスすればよく、やたらと「食べログが~、食べログで~」というのは単なるノイズになってしまった。

 

また良人が食運を持っているという設定がまったくもって活かされていない。独特の感覚で上手い店を発掘するという才能も、結局は冒頭の一軒だけ。あとはすべて静香に連れられて行く食べログで星が云々の店がメイン。せっかくの食運という魅力的な属性設定が台無しの脚本である。また静香も正攻法の取材をするのか覆面取材をするのかがはっきりしない。このあたり、脚本を通読した時に誰も何も思わなかったのだろうか。

 

全体的に肉にばかり目が行ってしまい、焼肉屋のその他の工夫を救い上げられていない。冒頭で古山と鉢合わせする店は無煙ロースターがあったにもかかわらず、もくもくと煙が上がっていて、「これは煙とにおいに関するうんちくが聞けそうだ」と期待したが何もなし。その他の無煙ロースターを敢えて使わない店で「いよいよ何か語ってくれるか?」という店でも何もなし。それやったら最初の店は煙の演出いらんやろ・・・結局のところ、牧場の直売契約や仲買業者との付き合いができるかどうかで手に入れられる肉の味は大きく左右される。であるならば焼肉屋で本当に見るべきところはタレや各種調味料であったり、キムチやスープ類などのサイドメニューである。そのあたりをもう少し物語に組み込むべきだったと思う。

 

ひとつ気になったのが和牛と米国産輸入牛の違いを良人が古山と議論していた場面。「お、禁断の和牛と国産牛の違いに触れるのか?」と期待したが、それは無し。興味のある方は「和牛 国産牛 違い」でググられたし。日本の食肉業界および行政の闇が垣間見えることだろう。

 

余談だが、Jovianの実家の店のタレは醤油ベースの至ってノーマルなものだったが、隠し味にピーナッツを炒ったものを粉末にして混ぜていた。同じくキムチも至ってノーマルだったが、味付けのために殻をむいたエビを電子レンジで15~20分加熱してパリパリにしたものをゴマすり器で粉末状にしたものを一緒に漬け込んでいた。良い機会なのでここに記録を残しておく。

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総評

肉通には面白い作品かもしれないが、では映画通を唸らせるか?というとはなはだ疑問である。お笑い芸人が映画監督をやってみましたという作品なら『 洗骨 』の方が優っている。こうして考えてみると北野武というのは相当に特異な才能の持ち主なのだなとあらためて思わされる。焼肉好きなら劇場へ行こう。映像美やドラマを求めるなら、スルー可である。

 

Jovian先生のお勧め焼肉屋 

岡山県岡山市の焼肉韓国料理 『 南大門 』

肉も内蔵も鮮度抜群。ユッケやナマセンも超美味だった。岡山の親戚、ホテルOZやホテルmesaのオーナー御用達の名店。もう7~8年行っていないが、食べログによるとまだまだ頑張っているようだ。

 

大阪府大阪市の『 万両 』(南森町店)

某法律事務所の専従経営者の方のお勧め。グルメリポートをやる芸能人やアナウンサーは極度のボキャ貧で「美味し~、やわらか~い」ぐらいしか言えないが、それは主に「脂」の味と触感。ここは「肉」の味と触感を重視している。肉の繊維質まで味わえる、王道でありながら数少ない焼肉屋。

 

大阪府大阪市の和匠肉料理 『 松屋 』(阪急うめだ本店)

文の里の商店街のポスターの文句「いいものを安くできるわけないやろ!」の精神を発揮して、「いいものやから高いに決まってるやろ!」で商売している。肉の柔らかさと噛み応えの両方を堪能させてくれる稀有な店。Jovianは夫婦の誕生日や結婚記念日に行く。それぐらい値段が高く、しかしプレミアム感のあるお店。機会があればぜひ来店されたし。ちなみに『 松屋 』はJovianの大学の後輩の弟が現社長だったりする。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, D Rank, EXILE NAOTO, ヒューマンドラマ, りょう, 土屋太鳳, 日本, 松尾諭, 監督:寺門ジモン, 石黒賢, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 フード・ラック!食運 』 -焼肉愛〇 映画愛△~×-

『 グエムル-漢江の怪物- 』 -怪物を生み育てたのは誰か-

Posted on 2020年11月21日 by cool-jupiter

グエムル-漢江の怪物- 75点
2020年11月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ソン・ガンホ ペ・ドゥナ ピョン・ヒボン パク・ヘイル オ・ダルス
監督:ポン・ジュノ

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『 ゴジラ 』がそうであるように、怪獣は戦争や災害、あるいは人間の業の象徴である。本作を通じてポン・ジュノは何を描こうとしたのか。英語タイトルが“The Host”であるところから、『 パラサイト 半地下の家族 』の対になる作品であることは間違いない。

 

あらすじ

在韓米軍基地は毒薬を漢江に垂れ流していた。その数年後、突如として漢江から巨大なオタマジャクシのような怪物が出現し、人間を襲っていく。怪物に娘ヒョンソをさらわれたカンドゥ(ソン・ガンホ)は家族総出でヒョンソを救出しようとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 パラサイト 半地下の家族 』が韓国人家族と韓国人家族(と韓国人家族)の寄生関係を描いたものであるとすれば、本作の英語タイトルが指し示す“宿主”とは何か。それは歪な韓国社会そのものだろう。歪とはどういうことか。それは宗主国たるアメリカの軍部に言われれば、自らの国土を猛毒で汚染することもいとわない国家の体質だ。いわば、このグエムルは韓国社会の鬼子なのだ。

 

本作は怪獣映画にしては珍しく、怪獣の登場を引っ張らない。開始10分も経たないうちに怪獣が姿を現す。そして人々を襲っていく。ゴジラ級のサイズではなく、マイクロバス程度の大きさの怪獣が白昼堂々と全身を晒して人間を食べていく様は爽快ですらある。凡百の作り手ならば、グエムルの初登場は夜、それも酔っぱらって、ひとり夜風にあたろうと川べりにやってきた者を尻尾でヒュンと引き寄せて終わり、のような焦らす構成にするはず。ポン・ジュノ監督はそれをせず、怪獣の見せ場をいきなり序盤に持ってきた。そうして怪獣の社会に与えるインパクトを最大限に観客に見せつけ、そこから怪獣に対処していく韓国政府や米軍、そして娘を奪われた家族の動きに視線をフォーカスしていく。『 GODZILLA ゴジラ 』のサブプロットになりそうだった「怪獣出現によって離散してしまった(主人公とは赤の他人の)親と子の物語」を、『 エイリアン2 』でリプリーがニュートを救出せんとする勢いで展開される家族の奮闘物語は、日本の怪獣映画ジャンルではあまり見られなかったものだろう。怪獣が暴れていなくても、カンドゥの家族が当局や軍を向こうに回して奮戦して、緊張感が途絶えない。

 

ダメ男であるソン・ガンホが娘のために立ち上がり、一度はあきらめかけた家族が、それでもヒョンソ救出のために一致団結して、韓国の当局や米軍をも相手に回して、堂々とグエムルに立ち向かっていく描写は、リアリスティックとは言えないが、非常に力強く上質なファミリードラマになっている。ぺ・ドゥナがアーチェリー選手というのもいい。映画の世界では『 ロード・オブ・ザ・リング 』のレゴラス、『 ハンガー・ゲーム 』のジェニファー・ローレンスに次ぐ射手で、スマートに標的を素早く射抜くのではなく、泥まみれになって必中のタイミングを待つタイプである。終盤の一撃はひたすらにかっこいい。

 

本作の背景には『 サニー 永遠の仲間たち 』で描かれたような、軍事政権に圧迫されていた民衆の蜂起の歴史がある。グエムルは鬼子であって奇形生物であり、その原因は米軍が作ったとなると、どうやってもベトナムを想起しないわけにはいかない。『 息もできない 』で描かれたように、戦争は人間の心を壊すのである。本作は、家族の再生物語でもあるのだ。『 ブリング・ミー・ホーム 尋ね人 』にも通じる、というか受け継がれたエンディングがそこにある。邦画の世界が『 朝が来る 』で提示したテーマを、韓国は10年以上前に先取りしていたようである。さらにCOVID-19やMERS以前でありながら、マスク姿の市民のパニックを正確に描き出してもいる。ポン・ジュノの慧眼、恐るべし。

 

ネガティブ・サイド

結末がちょっと・・・ 韓国の家族観には感動させられることもあるが、困惑させられることもある。本作はその両方を味わわせてくれるが、感動3:困惑7の割合である。

 

グエムルを倒すための最終兵器もやや???である。グエムルに効いて、人間相手には効いたり、効かなかったりする。もちろん米軍への皮肉なのであろうが、気象条件によっては使用できない兵器というのはいかがなものか。いっそのこと、漢江に対グエムルの物質を大量に放流するぐらいのエクストリームな展開にしてもよかったのではないかと思う。

 

最後に米軍サイドの人間にもなんらかの勧善懲悪的な展開があってほしかった・・・ これは大人の事情で難しいか。

 

総評

シンプルに面白い一作。コロナ禍の今だからこそ再鑑賞する意味や機運が高まっていると言えそう。怪物グエムルのCGっぽさに2000年代を感じさせるが、その他の家族ドラマの部分には普遍性が感じられるし、国家や社会の怪物(およびウィルス)への反応には先見性が感じられる。年末年始は里帰りせずstay homeの予定であるという向きは、本作をwatch listに入れておかれたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

be broad-minded

『 罪の声 』で三頭竜=Three-headed Dragonなど、分詞の形容詞的用法の例を紹介させてもらった続きである。序盤の米軍科学者が“The Han River is a broad river. Let’s be broad-minded.”=漢江は広い川だ。我々も広い心を持とう(そして汚染物質を川に流そう)と言うシーンがある。narrow-minded=偏狭な、狭量な、心の狭い、とセットで覚えよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2000年代, B Rank, オ・ダルス, ソン・ガンホ, パク・ヘイル, ヒューマンドラマ, ピョン・ヒボン, ペ・ドゥナ, 怪獣映画, 監督:ポン・ジュノ, 配給会社:角川ヘラルド映画, 韓国Leave a Comment on 『 グエムル-漢江の怪物- 』 -怪物を生み育てたのは誰か-

『 ホテルローヤル 』 -細部の描写に難あり-

Posted on 2020年11月20日2022年9月19日 by cool-jupiter

ホテルローヤル 40点
2020年11月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:波瑠 安田顕 松山ケンイチ
監督:武正晴

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武正晴監督は、基本的に可もなく不可もない作品を量産する御仁であるが、時に『 百円の恋 』のような年間最優秀作品レベルの映画を時折送り出してくる。本作はどうか。やはり可もなく不可もない出来栄えであった。

 

あらすじ

雅代(波瑠)は大学受験に不合格したことから、家業のラブホテル経営を手伝うことに。しかし、頼みの母が不倫相手と出て行ってしまい、父と二人でホテルを切り盛りすることに。雅代はホテルで働く従業員や、ホテルの客の人生の様々な一面に触れていくことになり・・・

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ポジティブ・サイド

役者陣はいずれも頑張っている。安田顕のオーナーっぷりは堂に入ったものだし、出番こそ少ないものの夏川結衣は milfy なオーラを発していた。余貴美子が呆然自失とした表情で歌う様は、とてもサブプロットとは思えない迫力があった。

 

ラブホテルに来るお客もユニークだ。特に中年夫婦の風呂場での語らいとまぐわいには大いに説得力を感じた。Jovianはとある受講生だった産婦人科の先生に「妊娠は通常ではないけれど正常で、決して異常ではない」と教わったことがある。これを少々言い換えさせてもらえれば、「セックスは日常ではないけれど正常で、決して異常ではない」となるだろうか。若者の恋愛やセックスよりも、中年夫婦のセックスの方が見ていて癒される。これはむずがゆくも新しい発見であった。

 

波瑠は『 弥生、三月 君を愛した30年 』と同じく、高校生から大人までを演じ切った。常にアンニュイなオーラを醸し出しながら、優しさもありならが激情も秘めていた。父親に対してのみ気持ちを言葉にして発するが、それ以外は基本的に表情や立ち居振る舞いで表現しているところが好ましく映った。ラスト近くで服を脱ぐ所作もGood。長回しのワンカットだったが、カメラの距離やアングルを完璧に把握して、“期待させる”シーンを生み出していた。

 

踏切で過去と現在が交錯する演出も面白かった。性とは生であり正なのかもしれないと、ほんの少しだけ感じた。

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ネガティブ・サイド

ラブホのバックヤードにリアリティが感じられない。Jovianには岡山県でラブホをいくつか経営している親戚がいる(岡山県でこの映画のタイトルっぽいホテルを見かけたら、ぜひご利用いただきたい)。なので、親戚を尋ねた時に2度ほど舞台裏をのぞかせてもらったことがある。まず、声などは絶対にバックヤードまで漏れ聞こえてこない(隣の部屋の声が聞こえることはあるが)し、もし構造上それが可能であるならばただちに是正されているはずだ。親戚に言わせると年に1回ぐらい警察がやってきて、ホテルの隅から隅まで見て回るのだ。おそらく仕事をしているふりなのだろうが、行政指導、下手をすれば営業許可の取り消しを食らいかねない建造物の欠陥を何年も何十年も放置するか?信じがたいことだ。

 

またオバちゃん連中の仕事がベッドメーキングばかりで、ラブホの仕事で一番大変とされる泡風呂の後始末については何も描かれなかった。観客のかなりの数がラブホユーザーの生態に興味があると同時に、ラブホを経営・運営する人間に興味があって劇場に足を運んだはず。そうしたラブホを支える仕事人たちのプロフェッショナリズムが映し出されなかったのは残念である。

 

火災報知機のシークエンスは場面のつなぎがおかしかった。廊下に客が溢れ出してきたのに、雅代が携帯で通話し始めると全員がパッと消えた。編集の時点で奇妙さに気が付かなかったのだろうか。

 

メインキャストは頑張っていたが、一部の俳優はミスキャストであるように感じた。特に伊藤沙莉の女子高生役は無理があるし、キャバ嬢の真似事も妙に似合っているせいで、逆にシラケてしまった。というか、武監督は何をどう演出してリアルなキャバ嬢を伊藤に演じさせたのだろう。馬鹿な女子高生が馬鹿なことをやっているという絵を撮りたければ、リアルにキャバ嬢を演じさせる必要はないだろう。上手な演技ではなく下手な演技を指導することも時には必要である。

 

その伊藤沙莉とホテルにやってくる岡山天音の演技・演出面はもう一つ。嘔吐したなら最後に「ペッ」とやりなさいよ。そして口ぐらい拭いなさい。すぐ目の前にトイレットペーパーがあるのだから、それを使えばいいのに、何をダラダラとセリフをしゃべっているのか。仮に酔っぱらって吐いたという経験がなくとも、それぐらいの演技はできるだろう。それとも武監督の手抜きだろうか。

 

雅代が最後にボソッと呟く「あまりに久しぶりなので忘れてしまいました」という台詞も引っかかった。ご無沙汰なのは良いとして、では最後の経験はいつ、どこで?少なくともそれを感じ取らせるようなシーンは必要だったと思う。八百屋の同級生の言う同窓会がそれにあたるのかもしれないが、だったら同窓会で酒を飲んでため息をつく雅代のシーンを挟んでおけば、観る側が脳内で保管できる。手間がかかるのは百も承知だが、そうしたちょっとしたひと手間が作品のクオリティを高めるのである。

 

総評

コメディかと期待して劇場に行くと面食らうだろう。様々なヒューマンドラマが展開されるが、ちょっと非日常感が強めで、そこを肯定的に捉えるか否定的に捉えるかは観る人による。ただし、細部のリアリティについては神経が行き届いているとは言えないし、物語が放つメッセージも極めて不明瞭である。波瑠のファンなら鑑賞しても損はないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I no longer have a home to return to.

伊藤沙莉演じる女子高生の言う「もう帰る家がない」という台詞の私訳。a home to return toで一種のセットフレーズである。どういうわけか a home to go back to だとか a home to get back to という言い方はほとんどしないし、a home to return to という表現も、おそらく九分九厘は否定形で使われる。a moment of glory を求めてのone night stand の結果、“I no longer have a home to return to.”となる人間が一定数生まれるのも人の世の常であろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 日本, 松山ケンイチ, 波瑠, 監督:武正晴, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 ホテルローヤル 』 -細部の描写に難あり-

『 さくら 』 -リアリティが決定的に足りない-

Posted on 2020年11月18日2022年9月19日 by cool-jupiter
『 さくら 』 -リアリティが決定的に足りない-

さくら 30点
2020年11月15日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:北村匠海 小松菜奈 吉沢亮 永瀬正敏 寺島しのぶ
監督:矢崎仁

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変なおじさんの永瀬正敏と安定した演技力の寺島しのぶ、そしてJovianの推しの一人である吉沢亮と小松菜奈。そして『 うつくしい人 』、『 炎上する君 』の西加奈子の作品ときた。それが、どうしてこうなってしまったのか・・・

 

あらすじ

大学入学のために上京していた長谷川薫(北村匠海)は久しぶりに大阪の実家に帰ってきた。あこがれだった兄、一(吉沢亮)の死により家を出た父が、年末に家に帰ってくるという。薫はまた、屈託のない愛犬のさくらにも会いたかった。家族が離散する前の幸せな長谷川家を薫や妹の美貴(小松菜奈)は思い出していく・・・

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ポジティブ・サイド

まずは中学生から高校生(進学していないが)の年代を演じた小松菜奈に賞賛を。しまりのない表情から、逆にころころと自在に変化する表情までを披露し、まさに箸が転んでもおかしい年頃の娘を好演した。露出度がかなり高めの服装であっても色香を感じさせないのは、お見逸れしましたとしか言いようがない。

 

次いで寺島しのぶ。冒頭で性行為について幼い美貴にも分かる言葉で優しく丁寧に語る様は、そのまま各家庭で実践できそうに感じた。一が家にガールフレンドを連れてきたときには、昭和や平成の初めころにいっぱいいた大阪のおばちゃんの風情を存分に醸し出していた。

 

ストーリーの見どころは何と言っても長男の一。美貴が昭和59年生まれだと一瞬映っていたので、一はまさにJovianの同世代。服装も今の目で見れば全然ファッショナブルではないが、それが逆に時代の空気を濃厚に感じさせてくれた。部屋にイチローのポスターを貼ってあるのもいい。また、携帯が一般的ではなかった頃、手紙や家の電話で恋人とのもどかしいコミュニケーションを堪能できた世代には、一の映し出されなかった恋愛のあれやこれやがつぶさに想像できた。家で誰かがインターネットを見ていると、家の電話が不通になるという光景が繰り広げられる映画が、そろそろ制作されてくるのだろう。

 

閑話休題。一の死、そこに至るまでの物語は非常に痛々しく重い。そこに社会的マイノリティであるLGBTのサブプロットを絡ませる演出はなかなかに心憎い。ネタバレになるので詳しくは書けないが、自分はノーマルでありマジョリティであると思っていても、それは必ずしも永続的なものではない。何かの拍子にそうではなくなることは大いにありうる。そうした時にすがれるものがあるかどうか。人によっては宗教であったり、あるいは家族であったりするのだろう。家族の在り方が多様化する今、本作のような悲劇的かつ喜劇的な一家の物語は一種のケーススタディとなりうるように感じた。

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ネガティブ・サイド

まず第一に言っておかなければならないこととして、誰もかれもが大阪弁がヘタすぎる。寺島しのぶでもこうなのか。『 君が世界のはじまり 』の松本穂香、『 鬼ガール!! 』の井頭愛海、『 セトウツミ 』の菅田将暉や中条あやみのような関西弁ネイティブを使ってほしい。もしくは話の舞台を北関東あたりに移してほしい。別に大阪である必要は全くないではないか。

 

タイトルロールであるさくらの扱いが雑である。というよりも、特にストーリーの主題になっていない。壊れてしまいそうな家族の紐帯としてのさくらは一切描かれていないし、楽しい時も苦しい時も、さくらがいたからこそ長谷川家の一人ひとりが踏ん張れたんだという描写も特にない。なにかもっと『 戦火の馬 』のように、色々と見えないところでドラマを生んでいたという場面が一切画面に映らないので、さくらという犬が長谷川家のかけがえのない一員であるように見えない。むしろ、残飯処理係なのかと思えてしまうような描写があり、矢崎仁監督の手腕を疑ってしまう。

 

長男の一の背中を見て育った薫と美貴、という設定も何やら薄っぺらい。一とその恋人の矢嶋さんの関係の変化に、薫は愛というものの力を知った・・・ようには見えなかった。というのも、肝心要の矢嶋さんの描写が極めて一面的だからだ。変わっていく矢嶋さんや変わっていく一の描写があまりにも弱い。一が料理を手伝うようになっただとか、洗濯物を丁寧にたたむようになっただとか、そんなことでよいのだ。そうしたシーンが全くないのに、薫に「いつか二人は結婚するんだろうなと思った」と独白させても説得力はゼロだ。

 

その薫の独白も量が多いし、説明的すぎる。心象風景を言葉にするのならまだしも、話の前後関係をくだくだしく説明する必要はない。映画ならば映像や音楽、音響などを駆使してそれを行うべきで、原作が小説だからといって小説の技法をそのまま映画に持ってきてよいわけではない。そもそも説明が説明になっていないナレーションまである。一例は「初めの遅れてやって来た反抗期」だ。いや、それ反抗期ちゃうやろ、と映画館でフツーに突っ込ませてもらった。北村は歌手でもあるため声に透明感やしなやかさがあるが、何故か台詞をしゃべらせると情感を伴っているように聞こえない。『 私はあなたのニグロではない 』のサミュエル・L・ジャクソンや『 ショーシャンクの空に 』のモーガン・フリーマンのように、ナレーションだけで聞く側の心を落ち着かせたり、興奮させたり、ざわめかせたり、悲しませたり、といった声の表現力を目指すべきだ。あと、韓国映画(『 息もできない 』がいい)を観て暴力シーンを勉強すべきだろう。

 

トレイラーで“奇跡が起きる”とされた夜の長谷川家の移動ルートも地味に謎だ。劇中で一瞬チラッと大阪府枚方市あたりが住所であるように見えたが、枚方から国道2号は結構な距離がある。また、高速道路上から左手に初日の出を見ていたが、2号線沿線に南北に走る高速道路など存在しない。それとも2号線をひたすら西進して舞鶴若狭自動車道まで行ったというのか?とても信じられない。大阪弁の下手さからも感じたが、場所を関東に再設定すべきだった。

 

ネタバレになるため、中盤以降のストーリーについてはものさずにおくが、とにかく映画的な描写がとにかくうすっぺらく、またリアリティに欠ける。これはおそらく原作の原文からして間違っているのだろうが、「悪送球を仕掛けてきた」という文章の何とも気持ちの悪い響きよ。送球の主体は投手ではなく野手だし、送球は仕掛けるものでもない。野球で仕掛けるものといえばバントやヒット・エンド・ラン、盗塁などだ。「悪送球を打てない」という文章の不自然さに西加奈子もその編集も校正担当も、そして本作の脚本担当も誰一人として気が付かなかったというのか。そんな馬鹿な・・・

 

総評

家族という大きくて小さな枠組みが壊れていく、しかし完全に壊れたりはしない。そうしたメッセージは残念ながら非常に不完全な形でしか伝わってこなかった。家族の死、家族の離散、家族の再生というテーマなら『 焼肉ドラゴン 』の方が遥かに面白い。出演者のファン、あるいは原作のファン向けの作品ではあっても、映画ファン向けに仕上がっているとは言い難い作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pop one’s cherry

「さくらんぼをはじけさせる」という意味ではない。これは「処女・童貞を喪失する」の意味である。一と薫の部屋での会話の私訳。ただ性的な意味意外に使うこともある。

 

I popped my skiing cherry.

初めてスキーに行った。

 

Now that I’m twenty, I will pop my drinking cherry today.

二十歳になったから、今日は初めてお酒を飲むんだ。

 

のような使い方もできる。この表現を使えたら・・・というよりもそういう話をできる人間関係を作れたら、外国語でのコミュニケーション能力は上級であると言える。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, E Rank, ヒューマンドラマ, 北村匠海, 吉沢亮, 寺島しのぶ, 小松菜奈, 日本, 永瀬正敏, 監督:矢崎仁, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 さくら 』 -リアリティが決定的に足りない-

『 朝が来る 』 -新時代の家族観を提示する野心作-

Posted on 2020年11月3日2022年9月19日 by cool-jupiter

朝が来る 80点
2020年11月1日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:永作博美 井浦新 蒔田彩珠
監督: 河瀬直美

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あらすじ

清和(井浦新)と佐都子(永作博美)の夫婦は子どもを持とうとするも上手く行かない。清和が無精子症だったのだ。夫婦は、ベビーバトンという団体を通じて、養子を迎え、朝斗と名付け、愛情を注いで育てていくが・・・

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ポジティブ・サイド

永作博美と井浦新の夫婦像はとてつもなくリアルだ。中年の域に差し掛かるDINKsである二人だが、子どもを持つことはあきらめていない。そこで夫が無精子だと分かった時、そして顕微授精に何度も取り組みながらも上手く行かず、「本当はもっと早くにやめたかった」と泣き崩れるシーンには、ノックアウトされた。このあたりの男の心の在りようの描き方に関しては、河瀬直美監督は随一である。『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』の大森監督よりも、実は男という生き物がよく理解しているかもしれない。かといって女性の描き方に穴があるかと言えば、さにあらず。フェミニスト的な意味ではない包容力や理解力がある女性像というものを永作博美から引き出している。息子である朝斗がちょっとしたトラブルに巻き込まれた時にも、毅然と対応した。そこあるのは血のつながり云々ではなく、ただただ絆だった。人は母親に「なる」のではなく、母親で「あろうとする」のだろう。無論、父親も同じである。

 

その意味で最も印象に残ったのは蒔田彩珠。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』で南沙良との共演の印象が今でも戦列に残っているが、この年齢にして早くも代表作を手に入れたか。きらきらと輝く青春真っただ中の中学生を等身大に演じたかと思えば、家族の輪から外れ、似た境遇の者と連帯して何とか都会で生き延びる社会的弱者もリアルに描出した。物語の半分は彼女の背景描写に費やされている。幼くして母親になってしまった者が、どうして母親になり、そしてどうして母親になることをあきらめ、そして何故今また母親になろうとしたのかが克明に描かれる。そのすべてに尋常ではないほどのリアリティがあった。それは演じた蒔田彩珠の演技力。弱弱しい目と声の少女が、恋を知ってまばゆい光を放ち、そして心の内側を隠すかのように化粧を身にまとっていく様が、まるでドキュメンタリーであるかのように感じられた。

 

実際に養子縁組のテレビドラマやセミナー、ベビーバトンの施設のある島の住民や施設利用者の大半は、役者ではなく当事者、つまりは一般人だろう。彼ら彼女らが語る言葉、見せる所作、そして涙に、観る側は否応なく「子どもを産む」ことと「子どもを育てる」ことの難しさを思い知らされる。そして、産むのが誰であれ、育てるのが誰であれ、命は尊ばれるものだということを痛感させられる。こうした役者と普通の人の境目を積極的に取り除く演出をすることで、スクリーンのこちら側とあちら側の境目を揺らいでいく。観る側がどんどんと蒔田彩珠演じるひかりと同化していく。

 

栗原夫妻の元に現れる母親を名乗る女性、それが果たしてひかりなのかどうか。そのミステリでもストーリーをぐいぐいと引っ張っていく。ひかりが知り合うことになるともかが持っている革ジャン。そして、「これを着てれば、なんでもできる気になるんだ」というセリフが、意味深長に聞こえる。前半の栗原夫妻との顔合わせでも彼女の顔は明確には移されず、またマンションに訪問してくるシーンでもその顔はしかとは映されない。彼女はいったい誰なのかという疑問は最後まで明かされない。しかし、その謎の答えを我々ではなく佐都子が出す瞬間、あらゆる感情の波に押し流されることは必定である。

 

本作は朝斗との親子関係や親権についての物語ではない。逆だ。ベビーバトンの代表は「養親が子を選ぶのではない。子が親を選ぶのだ」と言う。その通りだと思う。エンドロールは最後まで絶対に席を立ってはならない。これこそが新時代の日本のあるべき親子観、家族観となるべきなのだろう。

 

ネガティブ・サイド

ひかりが借金の保証人になり、厳しい督促を受けることになるシーンを、より残酷に仕上げられたのではないか。ひかりはともかの保証人に仕立て上げられたが、連帯保証人であるとの言及はなかった。ということは、ひかりさえ突っぱねてしまえば、借金取りはそれ以上の取り立ては(法律上は)できないはずだ。まずは主債務者のともかのところに行かねばらなず、なおかつともかが行方不明ならば、その行方をまずは債権者が探さなければならない。ひかりからの取り立てに成功した借金取りがそうしたことを語ってやれば、ひかりの絶望がもっと深まったはずだ。これはJovianが意地悪すぎるか。

 

ひかりの家族や親族がちょっと硬直的すぎる。特に父親の言動には疑問符がつく。普通なら、ひかりの相手の男の家に乗り込んで、相手の父親や本人を張り倒さんばかりの剣幕で迫るものではないか。別に地元の名士や素封家であるようには見えないが、何をそんなに大人しくしているのか。ひかりの家族や親族があまりにもステレオタイプな保守であることが少々気に食わない。

 

総評

日本社会の行く末について、非常に示唆に富む視点を包含しており、そのことが本作のカンヌをはじめとした様々な国際映画祭への出品や米アカデミーの国際長編映画賞へのノミネートにつながっているのだろう。『 万引き家族 』に続いて、日本の家族観を問い直す作品である。紛れもなく傑作である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Nothing lasts forever.

『 スプリング・ブレイカーズ 』で紹介した慣用表現。意味は「何事もいつかは終わりを迎える」。ベビーバトン代表者の言葉である。こうした慣用表現を自然に会話に織り込むことができれば、英語学習中級者の卒業も間近と言える。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, A Rank, ヒューマンドラマ, 井浦新, 日本, 永作博美, 監督:河瀨直美, 蒔田彩珠, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『 朝が来る 』 -新時代の家族観を提示する野心作-

『 罪の声 』 -グリコ・森永事件の独自再解釈ミステリ-

Posted on 2020年11月2日2022年9月19日 by cool-jupiter
『 罪の声 』 -グリコ・森永事件の独自再解釈ミステリ-

罪の声 75点
2020年10月31日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:星野源 小栗旬
監督:土井裕泰

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Jovianは1979年生まれなので、本作で言うギンガ・萬堂事件のモチーフとなったグリコ・森永事件はリアルタイムではあまり覚えていない。しかし、1980~1990年代、三億円事件と並んで雑誌やテレビで頻繁に特集されていたので、事件がどういったものであったかはよく覚えている。ミステリと人間ドラマの要素をほどよくブレンドさせて、2時間20分ほどの長丁場をよくもたせている。

 

あらすじ

テーラーとして慎ましく生きていた曽根俊也(星野源)は、35年前の叔父のカセットテープに吹き込まれた自分の声が、ギンガ萬堂事件に使用されていたことを知ってしまう。同じ頃、大日新聞の記者、阿久津(小栗旬)は平静という時代の終幕に際して、昭和最大の未解決事件であるギンガ萬堂事件の再取材に動き出していた・・・

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ポジティブ・サイド

『 殺人の追憶 』と同じく、全国を震撼させた未解決事件に焦点を当てた作品。ただ、こちらはリアルタイムで事件を捜査する過程を追うのではなく、事件から35年後、二つの異なる視点から事件を再構築していこうという試み。その意味では『 JFK 』に近いとも言える。

 

苦悩しながらも独自に事件を追う曽根と、事件を再取材する阿久津が、一つの流れに合流していくまでがとても緻密に丁寧に描かれていることに好感が持てる。35年経ったからこそ口を開く関係者がいるというのも首肯できる。『 22年目の告白 -私が殺人犯です- 』ではないが、過去の未解決事件の真相というものは常に魅力的である。『 JFK 』の如く、過去の関係者たちから独自の証言を引き出していく過程は非常にスリリングである。証言者Aから証言者Bの存在が浮かび上がり、証言者Bの提示するアイテムから証言者Cの存在が浮かび上がっていく。その糸を、曽根は当事者として、阿久津は新聞記者として、丹念に手繰り寄せる手法に説得力がある。事件によって傷ついた人々への共感や理解が感じ取れるからである。

 

曽根と阿久津が合流してからの取材は変則のバディ・ムービー。曽根は仲間、一種の共犯者的存在を阿久津に見出す一方で、そのことが人生を奪われた「罪の声」のもう一人の主とのコントラストをより残酷に際立たせている。このことが、曽根が疑問に感じ、阿久津が答えを出せなかった、「真実を明らかにする意義」につながっている。真実によって不利益を被る人間もいれば、真実によって救済される人間もいるのだ。そのジレンマを冗長なセリフではなく細やかな表情や情景の描写で描き切ったのは見事である。

 

犯人および真犯人の背景や因果も納得できる。意外性と同時に真実味もあり、時代の移り変わりに際して、時代に取り残された者の末路が見せつけられる。それに理解を示すこともできるし、怒りを抱くこともできる。人間の業の深さを知るとともに、人間の懐の深さも示される。結末は、これ以外に無いというほど締まっている。

 

大阪の街が随所に映し出されるのも、地元民にとっては楽しい。1980年代の事件でありながら、今でも迫真性を伴って観る側に迫ってくるからだ。堂島や心斎橋周辺の景色に馴染みがある人は、本作をそうした視点から楽しめることだろう。

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ネガティブ・サイド

35年という時間に隔てられた過去と現在を行き来する物語であるが、序盤に出てくるラジカセがもうダメである。35年前のアイテムが、まるで昨日使ったものであるかのように、埃一つかぶっておらず、テープに吹き込まれた音声も経年によって変化していないこともポイント減である。そんな馬鹿な・・・ 製作陣の誰一人として、10年ぶり20年ぶりにカセットテープを再生してみたいという経験の持ち主はいなかったのだろうか。

 

株価操作説は説得力がない。『 マネー・ショート 』や『 国家が破産する日 』のように、国家的な動乱や危機であれば、反動も期待できる。しかし、事件が未解決である期間が長くなればなるほど、企業倒産のリスクは高まり、株が紙切れとなるリスクも同時に高まる。実際にリアルタイムで模倣犯が多数発生していたわけで、株価が底値を打つタイミングを読んだり、空売りを仕掛けるタイミングを読んだりするのは、著しく困難だったはずだ。だからこそ、「思ったより儲けが出なかった」もだろうが、それらの模倣犯の中に本当に予告も何もなく菓子に毒を混入する輩がいて被害者が出ていたならば、株価も企業価値もすべてが吹っ飛ぶではないか。また、事件の真相と犯人が明らかにされても、「中央」にまで取材が及ばなければ、画竜点睛を欠くと言わざるを得ない。

 

メディアの役割を問い直すシーンはあるが、警察の役割を問い直すシーンも欲しかった。犯行グループに警察くずれがいることの是非を、架空の現役警察官キャラクターに語らせることはできなかったかと少々残念に思う。

 

総評

終盤のカタルシスにもう一押しが足りないが、それでも本作は十分に面白いと評することができるだろう。一つの謎が解かれるたびに新たな謎が生まれていく過程は、ミステリとしても上質で、実在した歴史的な背景から人間の業を説明するところにヒューマンドラマとしての重厚さを味わえる。小栗旬は少々奇矯なキャラを演じることが多かったが、今回は押さえた演技を優先することで、言葉ではなく行動で語るジャーナリスト像を深掘りできていたし、星野源は市井の小市民ながら職業人として、父として、夫として、息子としての側面全てを出し切った。『 鬼滅の刃 』で劇場に足を運んでくれるようになったライトな映画ファンには、本作にも注目をしてほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

fox-eyed

「キツネ目」の意味の形容詞。何らかの語にハイフンで分詞をくっつけることで、日本語お得意の複合形容詞を英語でも作ることができる。

 

翼を持ったペガサス=Winged Pegasus
一つ目小僧=One-Eyed Child
三足烏=Three-Footed Crow
三頭竜=Three-headed Dragon
八岐大蛇=Nine-headed Dragon

 

など、色々とかっこいい表現が可能になる。そういえばFFⅦのセフィロスのテーマ音楽も“One-Winged Angel”(発音注意 ウィングド× ウィンギード〇)だった。こうした複合語を違和感なく消化できれば、立派な英語中級者である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ミステリ, 小栗旬, 日本, 星野源, 監督:土井裕泰, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 罪の声 』 -グリコ・森永事件の独自再解釈ミステリ-

『 星の子 』 -信仰深い少女のビルドゥングスロマン-

Posted on 2020年11月2日2022年9月19日 by cool-jupiter

星の子 65点
2020年10月30日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:芦田愛菜 蒔田彩珠 永瀬正敏 原田知世 岡田将生
監督:大森立嗣 

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新興宗教に傾倒する家族、特にその娘にフォーカスした物語。個人的に観ていて精神的に消耗させられた。Jovianの大昔のガールフレンドも、まさに本作のちひろのような感じだったからだ。

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あらすじ

ちひろ(芦田愛菜)は未熟児として生まれ、アレルギーにも苦しんでいた。しかし、「金星のめぐみ」という水の力でちひろが回復したと信じた両親は、その水への傾倒を深めていく。中学3年生とったちひろも水への信仰を持っていたが、学校の数学教師に恋心を抱くようになり、信仰心と恋心の間で揺れ動き始めていた・・・

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ポジティブ・サイド

宗教と聞くと『 スペシャルアクターズ 』のようなインチキ宗教を思い浮かべる向きが多いだろう。日本人は基本的に無宗教だと言われるが、それは「神」や「法」といった抽象概念への信仰が薄いだけで、何かを信じる気持ちは普通に持っている。そして、それは圧倒的多数が往々にしてそのことに無自覚である。テレビでちょっと「納豆がダイエットに良い」、「バナナがダイエットに効く」とやるだけでスーパーから商品が消える。最近でもどこぞのアホな府知事が「イソジンでコロナが消えていく」と大真面目に語ったことで、薬局やドラッグストアでイソジンが品薄になった。こうした日本人の傾向を自覚するか、それとも宗教は胡散臭いし、それを信じる人はキモチワルイと思うか、それによって本作の意味(≠評価)は大きく変わると思われる。

 

最初はかなり良い家に住んでいるちひろの一家が、ちひろが中学生になる頃にはあばら家・・・とは言わないまでも、かなりグレードダウンした家に住んでいることが目につく。寝所を変えなければならないほどに、「金星のめぐみ」にカネを使っているということだろう。ちひろの父親は職場関係の人から勧誘され、その父も妻の兄を勧誘する。我々はこうした勧誘行為にうさん臭さを感じるわけだが、本作に描かれるちひろの両親には悪意は認められない。アレルギーに苦しむ娘を救ってくれた奇跡の水に感謝しているという、善意からの行動なのだ。

 

そうした両親に育てられたちひろが「水」の力を信じる一方で、姉のまーちゃんは信仰や宗教に反発し、家を出て、自身の選ぶべき道を模索し、それを掴み取っていく。その過程が詳細に描写されるわけではないが、まーちゃんがどれほど普通を渇望し、それに魅せられているかを幼いちひろに訥々と語る長回しのシーンは、『 真っ赤な星 』での小松未来と桜井ユキの天文観測所での語らいを思い起こさせてくれた。

 

非常に閉じた世界に住むちひろが、岡田将生演じる数学教師に恋をする描写も好ましい。少女漫画原作とは趣が全く異なり、甘酸っぱさを前面に出したりはしない。イケメンだからと言って、内面が素晴らしい人間かと言えば、必ずしもそうではない。見た目に奇行が目立つからと言って、内面的に悪であったり薄汚れていたりするわけでもない。ある意味、常識的な人間社会や人間関係の在り方を見せているだけなのだが、そこにちひろというフィルターを通すだけで、世界の在りようが大きく異なって見える。自分が好きな相手が、自分に対して好意を抱いているわけではない。当たり前のことだ。けれども、そうした当たり前を受け止められないちひろの感情の発露は、見ていてとてもショッキングで痛ましい。逆にそれは、ちひろが両親に注ぎ込まれた愛情の大きさを逆説的に表してもいる。一つひとつの人間関係や事象に安易な善悪のラベリングをしない点で、本作のドラマは深みを増している。高良健吾や黒木華の演じる教団幹部の言動から

 

母を探すちひろ、ちひろを探す母。最終盤の二人のすれ違いは、そのまま彼女らの住む世界が徐々に異なってきていることの表れなのだろう。切れそうで切れない紐帯。それが信仰心によるものなのか、それとも家族愛によるものなのか。大森監督はそこを我々に見極めてもらいたがっている。そのように思えてならない。

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ネガティブ・サイド

岡田将生に両親を変人扱いされたちひろが、混乱のあまりに街を駆けるシーンは、邦画お馴染みのクリシェでもう見飽きた。全力で走る主人公を真横からのアングルで並走するクルマから撮らないと映画人はじんましんでも出るのだろうか。

 

アニメーションで空から落ちていくちひろの描写も、ストーリー全体の流れからするとノイズに感じられた。ちひろの千々に乱れる心象風景を描写するなら、それこそ浜辺で黄昏を見つめるような、映画的な演出がいくらでも考えられたはずだ。

 

『 MOTHER マザー 』で顕著だった、子が親を慕う無条件にも近い愛の描き方が弱かったように思う。自ら家族を捨てたまーちゃんが一報だけを寄こしてくるシーンを映して欲しかった。その報を受けた永瀬なり原田なりが破顔一笑する、または感涙する一瞬を映し出してくれれば、紐帯としての家族というテーマがよりくっきりと浮かび上がってきたことだろう。

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総評

かなり賛否両論が分かれる作品だろう。それは宗教というものに関する嫌悪感が背景にあるからだが、その嫌悪感の裏には無知や無理解、無関心が潜んでいる。本作が今というタイミングで映画化されたことの意義は決して小さくない。宗教=何かを強く信じることだ。停滞・低迷する日本の社会で興隆しつつあるオンラインサロンは一種の教団ではないのか。Jovianは時々そのように感じる。宗教的な背景や信仰心を受容できず、関係を途絶えさせてしまった経験を持つJovianには本作は色々な意味で突き刺さった。ぜひ諸賢も鑑賞されたし。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

put ~ away

『 マリッジ・ストーリー 』でも紹介した「~を片付ける」という表現。「その目障りな水を片付けろ!」という一喝は

Put that goddamn water away!

という感じだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 原田知世, 岡田将生, 日本, 永瀬正敏, 監督:大森立嗣, 芦田愛菜, 蒔田彩珠, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 星の子 』 -信仰深い少女のビルドゥングスロマン-

『 82年生まれ、キム・ジヨン 』 -男性よ、まずは自分自身から変わろう-

Posted on 2020年10月13日2022年9月16日 by cool-jupiter

82年生まれ、キム・ジヨン 80点
2020年10月9日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:チョン・ユミ コン・ユ チョン・ドヨン
監督:キム・ドヨン

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大学の同級生たちがFacebookで原作書籍をベタ褒めしていたことから興味を持っていた。本当は本を読んでから劇場に向かうべきだったのだろうが、色々あってそれもかなわず。封切初日のブルク7のレイトショーは75%ほどの入り。その8割以上は仕事帰りと思しき20代と30代の女性たち。この客の入りと客層だけで、本作の持つ力が分かる。

 

あらすじ

ソウルの専業主婦のジヨン(チョン・ユミ)は家事に育児に忙殺されている。ある正月、夫の実家で過ごしている時に、ジヨンは憑依状態になってしまった。夫デヒュン(コン・ユ)は妻の身を案じて、心療内科への通院をそれとなく勧めてみるが・・・

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ポジティブ・サイド

これが韓国の1990年代から2010年代の韓国の空気なのか。まるで故・栗本薫(中島梓)が『 タナトスの子供たち 過剰適応の生態学 』で喝破したように、女性は長じるに及んでアイデンティティを喪失していく。すなわち、「〇〇さんの奥さん」や「□□くんのお母さん」として認識されるようになる。日本人の栗本の1990年代の論考が、そのまま同時代から現代の韓国社会に当てはまることに驚かされる。自分というものを「誰かにとっての誰か」として認識せざるを得ない状況で、ジヨンが自分を「母の娘」であると認識するのは畢竟、自然なことだろう。序盤の夫の実家のシーンで統合失調的な症状を呈するジヨンの姿に、自分の母や叔母の姿を想起する男性は(劇場には少なかったが)きっと大いに違いない。なぜ夫の実家であるのに、赤の他人のはずの嫁がそこで率先して働くのか、疑問に思った人は多いだろう。Jovianも中学生ぐらいの頃にふと気が付いた。あまりにも当たり前のことが、実は当たり前でも何でもないのだ。

 

メインの登場人物に誰一人として明確な悪人がいないところが、本作を複雑かつリアルなものにしている。誰もジヨンを意図的に攻撃もしないし抑圧もしない。ただ、本人の思う価値観を出しているだけに過ぎない。痴漢に遭いそうになったことを指して「スカートの丈が短いのが悪い」というのは、確かにそういう面もあるのだろうとは思う。だが一方で、なぜスカートという形態の衣料品を女性は身に着けるのか。スカートだけではない。エプロンもそうだし、化粧もそうだ。極論すれば、マタニティ・ドレスすらもそうなのだ。特定の個人に抑圧者や差別主義者はいない。しかし、社会というシステムにそうした構造が抗いようもなく組み込まれている。ジヨンは個人としての生き方と社会的な役割の間のジレンマに引き裂かれる現代人(その多くは女性)の代表者なのだ。

 

一方で、現代の男性(夫、そして父親)を体現しているのはコン・ユ。『 トガニ 幼き瞳の告発 』、『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』でもチョン・ユミと共演したが、今回はついに夫婦役。このデヒュン、実に良い男で育児も積極的に手伝ってくれるし、妻を気遣う言動も忘れない。ああ、俺もこういう風にならなきゃいけないな・・・と思わせてくれる。それが罠である。どこがどう罠であるかは、ぜひその目で確かめて頂きたいと思う。一点だけ事前に念頭に置いておくとよいのは病院の待合室の光景。もし想像できないのなら、ぜひ大きな病院の待合スペースを覗いてきてほしい。女性は一人で受診しているが、男性はかなりの確率で伴侶と一緒である。これは日本も韓国も同じなようである。

 

それにしても韓国映画は母の愛を実に力強く描く。『 母なる証明 』は別格(というかジャンル違い)としても、母親も祖母の娘で、祖母も曾祖母の娘という視点は、当たり前であるが、新鮮だった。我々は安易に「母は強し」などと言うが、母とはその人間の全属性ではない。母とは妻でもあり、娘でもあり、それ以上に一個人なのだ。本作でもチーム長やジヨンの同僚など、女性たちの置かれている社会的な抑圧構造が詳細に映し出される。女性を女性性という記号でしか認識できないアホな男がいっぱい存在する中で、女性たちは実に個性豊かなバックグラウンドを持っていることがエネルギッシュに開陳される。そうした一連のストーリーを消化したうえで、ジヨンが職務に復帰するのを断念するシーンの悲壮さが観る者の胸に穴を開ける。そうか、これが女性の背負わされるジレンマなのか・・・と、我々アホな男はようやく気が付くのである。

 

本作は各シーンの隅々にまで神経が行き届いている。街中のちょっとした看板や、すれ違う人、景色の遠くぼやけて映る人影までもが、明確な意味を有している。特に、終盤にジヨンが路上でベビーカーを押すシーンの遠景に、もう一人ベビーカーを押す女性がぼんやりと見えている。そう、ジヨンはこの社会の至るところにいるのである。いきなり社会変革などする必要はない。アジアの文化の大親分の中国は儒教という抑圧的な道徳を生み出した。だが、その経典の一つに「修身斉家治国平天下」という遠大なる処世訓がある。まずは自分自身をしっかりしろ、そして家族で家のことを整えよ、そうすれば国が治まって、世界も平和になるということだ。社会や国家はそうそう変わらない。そのことは物語終盤で明確に主張される。だが、自分自身や家族は良い方向に変えられる。まずは「隗より始めよ」である。

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ネガティブ・サイド

ジヨンの弟も父親も、作劇的には非常に良いキャラである。つまり、悪いという意識がなく誰かを追い詰め、時に傷つけている。そうした二人が話し合うシーンが欲しかったと思う。男同士で、娘そして姉に対してどのように思い、どのように接してきたのか、あるいは接してこなかったのかを語らうシーンが欲しかった。実際に言葉を交わさなくてもよいのだ。なんらかの自省につながる話をしているのだと、観る側に感じさせる一瞬の演出だけでもよかったのだが。

 

ジヨンの憑依現象の第2番目に登場する人格は不要だったのでは?ジヨンに憑依してくる人格は常に誰かの母であった方が一貫性もあったし、その方が逆に怖さも際立ったものと思う。

 

総評

女性の生きづらさや息苦しさ、社会的・心理的な抑圧の構造をこれほど鮮やかに描き出した作品は稀ではないか。本作を観て、「俺も反省せねば」と思う韓国人男性は多いだろうし、それは日本人でも同じだろう。いや、「女の敵は女」を地で行くような国家議員数名が今も跋扈しているだけ、本邦の方が事態は深刻かもしれない。このご時世に劇場にやって来た多くの女性客、そして不自然なぐらいに少ないと感じた男性客の比率に、問題の根はより深く広く根付いているかもしれないと感じ取るのはJovianだけではないはず。芸術的な面では『 はちどり 』に譲るが、社会的なメッセージ性では本作が少し上だろう。男性諸賢、本作を劇場鑑賞すべし。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

オッパ

ジヨンが夫デヒュンに呼びかける際に使う表現。意味は「お兄さん」だが、血がつながっていなくても、親しい年上の男性に使うらしい。『 悪人伝 』では男同士の呼びかけにヒョンが使われていたが、オッパは女性→男性で使われるようである。何語であれ、語学学習は背景情報のリサーチと学習とセットで行いたい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, コン・ユ, チョン・ドヨン, チョン・ユミ, ヒューマンドラマ, 監督:キム・ドヨン, 配給会社:クロックワークス, 韓国Leave a Comment on 『 82年生まれ、キム・ジヨン 』 -男性よ、まずは自分自身から変わろう-

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