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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『 グリンチ(2000) 』 -ジム・キャリーの本領発揮を堪能せよ-

Posted on 2018年11月26日2019年11月23日 by cool-jupiter

グリンチ(2000) 65点
2018年11月23日 レンタルDVDいて鑑賞
出演:ジム・キャリー テイラー・モンセン クリスティーン・バランスキー
監督:ロン・ハワード

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1957年のDoctor Seussによる児童文学“How the Grinch Stole Christmas!”が1966年にアニメーションでテレビ映画化され、さらにそれが2000年に実写版として再製作されたのが本作である。今年(2018年)にはドイツを皮切りにユニバーサルとイルミネーションによってアニメ映画され、日本でも公開間近である。グリンチは元々キャラの名前だったが、1980年代には「クリスマス嫌い」「他人の楽しみを邪魔する嫌な奴」の意を持つ語彙として定着したらしい。Ngramのサーチもそれを示唆している。実に興味深い。

 

あらすじ

山奥の山奥のそのまた山奥のフーヴィル(フー村)ではフー達が暮らしていた。フーはクリスマスが大好きで、今年は期せずして千年紀。村は特に沸き立っていた。その村の外れの山に住むグリンチ(ジム・キャリー)。彼はクリスマスとフーを忌み嫌っていた。しかし、フーヴィルには心優しい少女シンディ・ルー(テイラー・モンセン)がいた。村人に嫌がらせを働いていたグリンチは、全くの偶然からシンディ・ルーを助けるのだが、そのことが彼女の心に与えた影響を、グリンチ自身は知る由もなかった・・・

 

ポジティブ・サイド

まず何と言っても、グリンチを演じるジム・キャリーの怪演を称賛せねばならない。『 マスク 』のスタンリー、『 バットマン フォーエヴァー 』のリドラー、『 ケーブルガイ 』のケーブルガイに並ぶ、渾身の怪演であると言える。つまり、不気味で、妖しく、気持ち悪いのである。これらはすべて褒め言葉である。もしも上記のいずれの作品も未鑑賞という方がいれば、是非観よう。表情から全身の動きまで、全てが人間離れしているというか、色々と批判されることも多いメソッド・アクティングの一つの到達点を堪能することができる。もちろん、本作のグリンチもメソッド・アクティングの一つの完成形である。

 

日本では最新『 グリンチ 』を指して「このあと、どんどんひねくれる」とキャッチコピーをつけているが、それはある意味で正しい。グリンチは生まれた時からグリンチだったわけではなく、とある出来事が原因でひねくれてしまったからだ。このあたりは複雑と言えば複雑、単純と言えば単純な筋立てなのだが、この物語世界にも憎むべき悪役が存在するということに、Jovianは何故かホッとしてしまった。まるで『 ショーシャンクの空に 』における刑務所所長こそが倒されるべき悪なのだと知った時のように。しかし、そこは元は児童文学。そうしたダークなテリトリーに踏み込むことは無く、きれいに着地をしてくれる。そうそう、どういうわけか本作には『 炎のランナー 』を見事にパロったシーンが存在する。しっかりと笑えて、ちょっとホロリとなる。素晴らしい。

 

最近はどこの映画館に行っても『 くるみ割り人形と秘密の王国 』のトレーラーばかりを見せられるが、そのCGの余りの多用のせいで目がチカチカさせられる。CGはどこまで行ってもCGで、更なる技術のブレイクスルーがあれば分からないが、それでもたいていの熱心な映画ファンならば、CGと実物の違いは秒で見分けられるに違いない。本作は製作・公開が2000年ということもあり、CGヘビーにならず、むしろ特殊メイクや着ぐるみ、スタジオ撮影の技術の粋を尽くして(というのは大袈裟すぎるかもしれないが)作られているため、非常にオーガニックな印象を受ける。それがまた新鮮で良い。最新の映画には新しいものの良さがあるし、古い(といっても十数年前に過ぎないが)映画にも良さがある。そんなことを思い起こさせてくれる良作である。

 

ネガティブ・サイド

フーヴィル住人の風見鶏っぷりは何とかならなかったのだろうか。確かに良い話ではあるのだが、グリンチのひねくれまくったパーソナリティの原因は、そもそもフーヴィルにあるのだ。どのような規模であれ、共同体には差別と排除の論理が働くものだが、ファンタジーの世界にまでそれを持ち込む必要はあったのだろうかと疑問に思ってしまった。

 

また、フーの寓話として、子どもはパラソルによって空から運ばれてくるというものがあるのは良いとして、「ハニー、僕たちの子どもだ。君の上司に似ているよ!」などというシーンや台詞も必要だったのだろうか。あまりにも現実世界の論理や秩序を空想世界に持ち込んでしまえば、そこには第二、第三、第四のグリンチが生まれてしまって全くおかしくないのだ。原題の The Grinch というのは、種族を指すために定冠詞 the を付されているわけではないだろう。これは『 オデッセイ 』の原題である The Martian と同じく、「まさに~~~な人」という意味のはずだ。特定個人を識別あるいは想起させるための the であるとJovianは解釈している。もしそうでないなら、シンディ・ルーが不憫だ。

 

総評

創作上の弱点は抱えているものの、創作上のメリットはそれらを上回っている。稀代の役者にしてパフォーマーであるジム・キャリーの円熟味溢れる演技と、オーガニックな世界で繰り広げられるおとぎ話を堪能したいという方は是非借りてくるか、配信で観るべし。アニメ版への良い予習にもなるだろう。

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大阪ステーションシネマのグリンチ

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JR大阪駅からすぐ北にあるグリンチ的なオブジェ

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Posted in 国内, 映画Tagged 2000年代, C Rank, アメリカ, クリスティーン・バランスキー, ジム・キャリー, テイラー・モンセン, ファンタジー, 監督:ロン・ハワード, 配給会社:UIPLeave a Comment on 『 グリンチ(2000) 』 -ジム・キャリーの本領発揮を堪能せよ-

『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

Posted on 2018年11月23日2019年11月23日 by cool-jupiter

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 75点
2018年11月18日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ルーニー・マーラ
監督:デビッド・ロウリー

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どんな文化にも、太陽と月に関する神話、そして幽霊に関する物語が存在するものである。そして太陽、月、幽霊の中で最も多彩に解釈されるのは幽霊ではないだろうか。小説や映画の世界では、幽霊は往々にして悲哀または恐怖をもたらすものとして描かれてきた。本作はそこを転換させ、幽霊のパトス、そこから生まれるエートスを描く。視点が人間→幽霊ではなく、幽霊→人間なのである。これは全く新しい視点からの物語であると言える。

 

あらすじ

ある若い夫婦が郊外の一軒家に暮らしていた。誰もいないはずのところで物が落ちたりするなどの不可解なこともあるが、二人は平和に暮らしていた。ある時、夫が死んでしまった。悲嘆に暮れる妻。しかし、夫は遺体安置所のベッドからシーツをかぶった姿のまま起き上がり、歩いて妻の待つ家へと帰る。幽霊となった男の不思議な旅が始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

本作のプロットについて説明するのは非常に難しい。ほんのちょっとしたことが重大なネタばれになりかねないからである。幽霊となった男が、妻を見守る話・・・というわけではない。それは話の一側面であって、テーマではない。ある意味で、映画製作者は観る者をかなりの程度まで信用しているとも言える。何と言っても『 マンチェスター・バイ・ザ・シー 』でアカデミー主演男優賞を受賞したケイシー・アフレックに、真っ白のシーツをかぶせて、目と鼻の部分にだけ穴を開けた幽霊を演じさせるのである。『 るろうに剣心 京都大火編 』と『 るろうに剣心 伝説の最期編 』で藤原竜也が顔面に包帯をぐるぐる巻きにした際の演技も素晴らしかった。顔が一切見えないというのは、表現をする上で翼を半分もがれたようなものだが、あれにはまだ音声とアクションという片翼が残されていた。本作のケイシー・アフレックは、全身を白いシーツで覆う、小さな子どもが考え付いたようなゴースト像でほぼ全編を通して登場する。台詞もない。過激なアクションもない。それでいて幽霊の感じる執着、困惑、怒りなどのパトスを見事なまでに我々に伝えてくる。歩き方であったり、振り返り方であったり、ほんのちょっとした指先の動きであったりで、これほどまでに内面の心理を描き出せるものなのかと驚嘆させられる。この幽霊の動きや仕草は、大学の映画サークルや同好会のシリアスなメンバー(特に役者志望や劇団員)は必見であろう。

 

今作はできれば英語字幕で鑑賞することをお勧めしたい。というのも、ある時点では言語が英語ではなくスペイン語に切り替わるからだ。といっても字幕などは一切出ない。スペイン語が分からない人には、画面上で何が起こっているのかを把握するのが全くもってお手上げ・・・とはならないのである。ビジュアルストーリーテリングの極致とも言うべきで、幽霊とスペイン語ファミリーの存在のコントラストが、何よりも雄弁に一連のシーンを語ってくれるのである。このシーンもまた、映画製作を志す者にとっては必見であろう。

 

本作はここから、予想外の展開を見せる。というよりも観る側の想像力を裏切る、または試すかのような展開と言うべきかもしれない。ここで幽霊の生前の職業を思い起こすべきだろう。彼は音楽家だったのだ。作曲し、歌い、レコーディングもする、コンポーザーにしてシンガーにしてオーディオ・エンジニアでもあったわけだ。音楽が瞬間ではなく全体で成り立っていることは、アンリ・ベルクソンの時間=意識の持続という説を援用せずとも理解できる。時間は直線でも等間隔でもない。メロディがありリフレインがあるのだ。これ以上は、劇場で本作を鑑賞して考察をしていただきたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

パーティーで酔ってべらべらと喋る男は果たして必要だったのだろうか。あまりにも説明的で、観ている最中は「ほうほう、なるほど」と思えたが、観終わってしばらくしてからは印象が変わった。このシーンはノイズである。

 

もうひとつ弱点を挙げるとするなら、序盤の妻の食事シーンだろうか、おそらく4分ほど固定カメラでロングのワンカットを映すシーンがあるが、ここは2分程度に抑えられなかったのだろうか。典型的な悲嘆のシーンで、物語の進行上ではずせないことは理解できるが、Jovianの嫁さんや左隣の人などは、ここで寝てしまっていた。惜しいかな、序盤でもっと多くの人を引き付けることさえできていればと思う。

 

総評

細部に突っ込むべきところや、説明されないままの箇所も残る。そうしたモヤモヤを許容できなければ、観るべきではないのだろう。しかし、この幽霊を通じて世界を追体験すれば、「生」の意味に新たな発見があるであろう。死および死以後に関しての新たな仮説が提示されたわけで、文学ではなく映画がこれを行ってくれたことに意義を認めたい。非常に野心的な傑作映画である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ケイシー・アフレック, スリラー, ルーニー・マーラ, 監督:デビッド・ロウリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』 -新発想で描く幽霊のパトスとエートス-

『 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ 』 -受け継がれていくシカリオの系譜-

Posted on 2018年11月21日2019年11月23日 by cool-jupiter

ボーダーライン・ソルジャーズ・デイ 65点
2018年11月18日 大阪ステーション占め間にて鑑賞
出演:ベニシオ・デル・トロ ジョシュ・ブローリン イザベラ・モナー
監督:ステファノ・ソッリマ

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脚本家のテイラー・シェリダンは、常に境界(ボーダー)や周辺(マージン)に問題意識を抱いている。そのことは『 ウィンド・リバー 』や前作『 ボーダーライン 』でもお馴染みである。それでは、今作は何と何の境界にフォーカスし、何の周辺に意識を向けているというのか。その一つが正義の概念であることは間違いないが、暗殺者の持つ人間性と非人間性の境界もテーマであることは疑いようがない。

 

あらすじ

アメリカ国内で数人が大型店舗で同時に自爆するというテロ事件が発生。CIA特別捜査官マット(ジョシュ・ブローリン)は、犯人たちがメキシコ経由でやってきたという情報をキャッチ。メキシコ国内の麻薬カルテルの大ボスの娘を誘拐し、それを密入国斡旋カルテルの仕業に見せかけ、両者の衝突と弱体化を画策する。その計画実行のために、家族を麻薬カルテルに殺された暗殺者にして旧知のアレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)と再び手を組むマットだったが・・・

 

ポジティブ・サイド

暗殺者アレハンドロの新たな一面。これは賛否両論が生まれるだろうが、Jovianはポジティブに捉えたい。家族を殺されたことは前作『 ボーダーライン 』で触れられていたが、その娘の持っていた特徴、さらにそれに対処する為にアレハンドロが持っていた技能。これがアレハンドロに人間味を与えている。その時、血も涙も捨てたはずだったアレハンドロの胸に去来した思いは何だったのか。父であることを思い返したのだろうか。とあるシーンで孤高の暗殺者らしからぬ狼狽を見せるのだが、我々はそれを見て大いに困惑する。しかし、家族の元に旅立っても良いはずのシカリオが新たに生きる意味や目的を見出したとすれば、それは何であるのか。それを見届けなくてはならないと思わせるエンディングが待っている。

 

捜査官のマットも渋い。というか、崇高なる目的の達成のためなら人権はゴミ、人命はクソのように扱う男が、言葉もなく打ちひしがれるシーンには少し胸が痛んだ。自らの正義の正統性を証明しようとすることもなく、政府の職員でありながら政権批判を平気で繰り広げる男も camaraderie を感じるのだ。人と人とのつながりの強さの源は血なのだろうか。それは同じ血を分け合うことで生じるものなのだろうか。それとも同じ場所で同じように血を流すからこそ生まれるものなのだろうか。前作とは打って変わって、主要キャラクターの人間性を深堀りしようとしたところに面白さがある。そこを期待しないファンも一定数いるのは間違いないだろうが。

 

本作は、アメリカの追求しようとする正義の基盤を根底から揺るがすような展開を見せる。といっても、実はたいしたことではなく、冒頭でテロを犯した者たちはホーム・グロウンのテロリストだったということだ。そんなことは世界中のだれでもが知っている。没落の途にある先進国では、国民が国籍だけを根拠に自らを正義、そうでないものを悪と決め付ける傾向が見られるようだ。フランス然り、アメリカ然り、極東の島国然り。アレハンドロやマットの思想や行動には、国というものに縛られない強さがある。アレハンドロはコロンビア人だし、マットはアメリカ人ながらアメリカ政府の命令には素直に従わない。国と国を隔てる国境線が正義の境界を象徴していた前作から、自らの属する国や集団を超越したところに個の存立を見出し、行動していくマットやアレハンドロの人間力は、見習いたいとは決して思わないが、尊敬に値する。

 

父親としての側面を強く打ち出したアレハンドロは、おそらく次回作では更なる人間性を発露させるのだろう。それが凶暴で非情で、しかし、激しい愛情に裏打ちされらものになるであろうことは想像に難くない。テイラー・シェリダンの脚本に大いに期待をしたい。

 

ネガティブ・サイド

前作の絵作りと音楽があまりにも良かったせいか、場外オームランの後に普通のホームランを見てしまうと、物足りなくなってしまうようなものか。市街地でありながらメキシコの暗部というか、無秩序を内包した街の光景と、物々しさと恐怖感を与えてくる破壊的なBGMの幸せな結婚関係は、今作では解消されてしまった。In memory of Jóhann Jóhannsson。白い粉のoverdoseとは・・・

 

照りつける太陽、かつてアステカと呼ばれた大地、地平線。美しい絵ではあるが、どこか主題に合わない。赤外線暗視スコープ映像を用いることで、人間を非常に無機質なものとして描き出した前作のような手法も用いられず。このあたりは監督のテイストの問題でもあるので、それを減点対象にするべきでもないのだろう。

 

本作の最大の弱点は、ストーリー中盤でのとあるツイストにあるのだが、その展開が少し弱い。ここでそう来るか、と思わせるタメがあまりにも作為的で、観ている側としては容易に「おかしい、何かがあるに違いない」と身構えてしまう。スパイ映画の構造をそのまま拝借してきたようで、芸が無かった。

 

本作が全体的にややサスペンス不足になるのは、一重にカルテル同士の対立・抗争に重みが無いからだ。麻薬カルテルの恐ろしさは前作で知った。しかし、密入国ビジネスの斡旋カルテルはどのような力=金を持ち、どれだけの警察を飼いならし、どれだけの重火器を所有しているというのか。そのあたりは数分でよいので描いてくれていれば、ボスの娘の誘拐劇にもっとスリルが生まれたであろうに。

 

総評

前作ほどの衝撃は残念ながら無い。それでも意外な展開あり、序盤の前振りが終盤に向けて華麗に収束する展開あり、またイザベラ・モナーという若きタレントとの邂逅ありと、観て損はないような出来に仕上がっている。正義と悪、秩序と混沌、人間と獣性、様々な対立を映し出しながらも、それら対立の境界が模糊になっていく。しかし、マットやアレハンドロ、その他の魅力的なキャラクターらが紡ぎ出せるであろう更なるドラマに今後も期待ができそうである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アクション, アメリカ, サスペンス, ジョシュ・ブローリン, ベニシオ・デル・トロ, 監督:ステファノ・ソッリマ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ 』 -受け継がれていくシカリオの系譜-

『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -フレディ死すともクイーンは死せず-

Posted on 2018年11月19日2019年11月23日 by cool-jupiter

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2018年11月17日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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原題もBohemian Rhapsody である。葛城ユキあるいはCHAGE and ASKAの楽曲‘ボヘミアン’を思い起こす人は多いのだろうか、それとも最早マイノリティなのだろうか。意味は放浪の人、流離う人、旅人、定住しない人などである。ラプソディとは、一曲の中で転調が見られる壮大な音楽を指す言葉である。そう考えれば、ボヘミアン・ラプソディというフレーズ、そして楽曲はQueenというバンドの定義にして本質であると言えるのかもしれない。

 

あらすじ

インド系の青年ファルーク(ラミ・マレック)はヒースロー空港で荷物の仕分けで日銭を稼ぎながら、夜な夜なパブに足を運び、バンドのライブを楽しんでいた。ある日、お気に入りのバンドのメンバーに声をかけたところ、リード・ヴォーカルが抜けたという。ファルークは歌声を披露し、その高音域を買われ、メンバーに加わる。そして伝説の幕が開く・・・

 

ポジティブ・サイド

20世紀FOXの定番ミュージックがエレキサウンド!『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』でも採用されていた手法で、今後はこのような形で観客を映画世界に招き入れるのが主流になっていくのかもしれない。歓迎したいトレンドである。

 

本作を称えるに際しては、何をおいてもラミ・マレックに最大限の敬意を表さねばならない。はっきり言って、長髪の頃のフレディにはあまり風貌は似ていないのだが、短髪にして髭をたくわえ出したあたりからは、シンクロ率が400%に達していた。架空のキャラクターを演じるのは、ある意味で簡単だ。監督、脚本家、演出家などが思い描くビジョンを忠実に再現する、もしくは役者が自身のテイストをそれにぶつけて醸成させていけば良いからだ。しかし、世界中にファンを持つ伝説的なパフォーマーを演じるというのは、並大抵の技術と精神力で達成できることではない。彼の持つ複雑な生い立ちとその時代や地域におけるセンシティブなパーソナリティ、その苦悩、葛藤、対立、軋轢、堕落、和解、そして真実へと至る道を描き出すその労苦を思えば、マレックにはどれだけの賛辞を送ってもよいだろう。何か一つでもヘマをすれば、数十万から数百万というオーダーの映画ファン、音楽ファンから批判を浴びることになるからだ。史実(と考えられているもの)とは異なるシーンも散見されるようだが、そこは事実と真実の違いと受け入れよう。前者は常に一つだが、後者は見る角度によってその姿を変える。たとえば Wham! の名曲、“Last Christmas”は失恋を歌ったものであるが、ジョージ・マイケルのセクシュアリティを知れば、歌詞の解釈がガラリと変わる。フレディ・マーキュリーについても同様のことが言えるのだ。

 

本作はクイーンがいかに楽曲の製作や録音、編曲にイノベーションをもたらしたのかを描きながら、同時にバンドにありがちな衝突も隠さずに描く。Jovianの知り合いにプロの作曲家・音楽家・サウンドエンジニアの方がいるが、「バンドの解散理由っていうのは音楽性の違いが一番ですよ。ギャラの配分とかで揉めることの方が少ないです」とのことだった。クイーンの面々のこうした側面も描かれるのは、クイーンファンには微妙なところかもしれないが、人間ドラマを大いに盛り上げる要素であり、なおかつクライマックス前の一山のためにも不可欠なことだった。そうした描写に加えて、『 ダラス・バイヤーズクラブ 』のマシュー・マコノヒーよりも乱れた生活を送るフレディが家族のもとに回帰していく様は、夜遊びに興じるファルークが父と母のもとに回帰していく様を思い起こさせた。

 

ラストの21分間は圧倒的である。本作鑑賞後に、是非ともYouTubeで同ステージの映像を検索して観て欲しい。その場にいられなかったことを悔い、しかしその場にいたことを確かに実感させてくれるような作品を産み出した役者やスタッフの全てに感謝したくなることは確実である。本作を送り出してくれた全ての人に感謝を申し上げる。

 

ネガティブ・サイド

 

ほとんどケチをつけるところが無い作品であるが、フレディの過剰歯は本当にちょっと過剰すぎやしないか。

 

またバンドの結成からメジャーデビュー、さらにはアメリカツアーまでのトントン拍子の成功が、ややテンポが速すぎるというか、トントン拍子に進み過ぎたように思う。その時期のバンドのメンバーの関係やマネジメントとの距離感にもう数分だけでも時間を割いていれば、中盤以降の人間関係のドラスティックな変化にもっとドラマが生じたかもしれない。

 

あと、これは作品に対する complaint ではないが、本作のような映画こそ発声可能上映をするべきではないだろうか。‘We Will Rock You’や‘We Are The Champions’を、好事家と言われようとも、スノッブと言われようとも、映画館で熱唱してみたいと思うのはJovianだけであろうか。

 

総評 

レイトショーにも関わらず、かなりの入りであった。上映終了後、客が退いていく中、4~5組みの年配カップルの、特に男性の方が放心状態という態で席から立てずにいたのが印象的だった。『 万引き家族 』のリリー・フランキーではないが、「もう少しこの余韻に浸らせろ」と言わんばかりであった。似たような現象は『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でも観察された。奇しくもそちらも同劇場でのことであった。近年でも『 ベイビー・ドライバー 』で‘Brighton Rock’が、『 アトミック・ブロンド 』のトレーラーでも‘Killer Queen’が使用されるなど、その音楽の魅力は全く色褪せない。フレディ・マーキュリー、そしてクイーン。彼は死に、彼らは最早かつてのバンドではない。しかし、その功績と遺産、輝きは巨大にして不滅、音楽ファンからのリスペクトは無限である。小難しいことは良く分からないという人でも、‘We Will Rock You’や‘We Are The Champions’を聞いたことがないということは、ほとんど無いだろう。トレーラーでもポスターでもパンフレットでも、何かを感じることがあれば、チケットを買うべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, アメリカ, ラミ・マレック, ルーシー・ボーイントン, 伝記, 監督:ブライアン・シンガー, 配給会社:20世紀フォックス映画, 音楽Leave a Comment on 『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -フレディ死すともクイーンは死せず-

『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

Posted on 2018年11月16日2019年11月22日 by cool-jupiter

マイ・プレシャス・リスト 60点
2018年11月11日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ベル・パウリー ガブリエル・バーン ネイサン・レイン
監督:スーザン・ジョンソン

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原題は“Carrie Pilby”、すなわち主人公である少女の名前である。アメリカの映画は実在の人物であれ、架空の人物であれ、人名だけのタイトルの本や映画を結構作っている。これはお国柄の違いだろう。近年だと『 バリー・シール/アメリカをはめた男 』が当てはまる。キャリー・ピルビーは天才ではあるが、『 響  -HIBIKI- 』における響のような異能の天才ではなく、秀才が高じたような天才である。『 gifted/ギフテッド 』のメアリー(マッケナ・グレイス)ではなく、『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』のリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)のような少女が主役である。それゆえに、凡人たる我々にも共感しやすい物語に仕上がっていると言える。

 

あらすじ

飛び級で14歳にしてハーバード大学に入学(映画.comのあらすじは間違えている)、18歳で卒業したものの、定職を持たず、ニューヨークのアパートで気ままに一人暮らしするキャリー。明晰な頭脳はしかし、社会に還元されず、彼女が唯一まともに話せる相手はカウンセラーのDr. ペトロフだけだった。ある日、キャリーはペトロフから6つの課題が書かれた紙を受け取る。その課題をこなせれば、世界の見方が変わると言われたキャリーは、課題に着手していくが・・・

 

ポジティブ・サイド 

この分野には『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』という優れた先行作品が存在する。天才でありながらも心に抱えた傷のために自分に素直に向き合えないウィル(マット・デイモン)と妻の喪失を受け止めきれないショーン(ロビン・ウィリアムズ)の生々しい交流と清々しい別離の物語で、これを超える作品を産み出すのは難しい。しかし、同じようなテーマに違う角度からアプローチすることはできる。その一つの試みが本作である。そしてそれは一定の成功を収めた。

 

まず主役を女の子に設定したこと。『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』ではスカイラーという女子が、「そんなこと言うなら、もう抱かせてあげない」とウィルを窘めながら、「男って馬鹿ね」と呆れながら安心するシーンがあるが、本作はこれと裏腹なシーンが存在する。そう、古今東西、男は馬鹿なのである。その男の馬鹿さ加減を大いなる包容力で受け入れてくれる女性こそが男の理想像なのである。では、女性目線で見た時、この男の馬鹿さ加減にはどのように対応すべきなのか。しかも、その女子の頭脳は天才的で、その天才が自分よりも賢いと認められるような男が、一皮むけばやっぱり馬鹿だった、となった時、どうすれば良いのか。本作の最大のテーマはある意味でここに尽きる。そして、そうした男の馬鹿さ加減を、あっちでもこっちでも嫌と言うほど見せつけてくれる。世の男性諸氏は居た堪れなくなるであろう。なぜなら、そこに我々が見出すのは、キャリーの天才的な頭脳というフィルターを通して見える世界ではなく、誰がどう見ても馬鹿な男の性(さが)だからである。世の男はこれを観て、大いに縮こまることであろう。そして世の女性はこれを観て、男のことを「本当に馬鹿なんだから」と生暖かい目で見守ってあげるべし。

 

ネガティブ・サイド

キャリーの天才性の描き方が少し弱い。文学作品をいくつか暗唱したぐらいで、もっともっとキャリーの天才性を描き出してくれないことには、物語中盤の大きな山場が盛り上がらない。赤川次郎が何らかのエッセイか、自作のあとがきで「小説や文学で描かれている恋愛はたくさん読んできたが、現実の自分の恋愛も全く同じように始まって、全く同じように終わっていった」と述べていたが、キャリーにもこうした背景が必要だったように思う。極端に頭でっかちな女子が、自分のキャパシティを超えるような事態に遭遇した時にどうするのか、そうした時にこそ頭脳をフル回転させて局面の打開を試みるも上手く行かず・・・という展開を期待したくなったのは、やはり自分が馬鹿な男で、天才女子に嫉妬というか潜在的な恐れを抱いているからなのだろうか。

 

他に弱点として挙げられるのは、キャリーが初めてする仕事や、初めて持つ学校以外の場での人間関係の描写が極端に少ないということである。キャリーの課題は、コミュニケーション力の欠如ではなく、むしろ過剰なコミュニケーション力だからだ。トレーラーにもあったが、カフェでイスを貸して欲しいだけの男性客に「私を口説こうとしても・・・/ Before you move into your moves …」などと言ってしまうあたり、コミュニケーションが下手なのは、能力の欠如ではなく過剰であるのは明らかだ。だからこそ、キャリーの成長とは、キャリーが世界に受容されることではなく、キャリーが世界を受容することなのだ。そしてそれは、冒頭のカウンセリングでマシンガンの如く喋り倒して、ペトロフの言うことなど聞くつもりはないのだという姿から、友人たちに普通に話し、普通に話しかけられるようになる姿に変わっていくことで表現されてしかるべきだったと思うのである。

 

総評 

日本とアメリカを始めとした西洋世界では、幸せの概念が異なる。HappinessはHappenと語源を同じくするのである。ハッピーとは、自分の力でなにがしかのコトを起こす力を持つことを言うのだ。そう考えれば、メーテルリンクの『 青い鳥 』(The Blue Bird)というチルチルとミチルのアドベンチャー物語が、日本では『 幸せの青い鳥 』と訳されたというのは名訳と言うべきであろう。本作も、欠点は抱えながらも、幸せを追求する少女の物語として鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ペル・パウリー, 監督:スーザン・ジョンソン, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

『 ヴェノム 』 -独創性を産み出せなかったダークヒーロー-

Posted on 2018年11月12日2019年11月22日 by cool-jupiter

ヴェノム 45点
2018年11月8日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:トム・ハーディ ミシェル・ウィリアムズ リズ・アーメッド
監督:ルーベン・フライシャー

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『 スパイダーマン3 』でかなり唐突に現れ、かなりアッサリと倒されてしまったヴェノムのスタンド・アローン映画である。その人気の高さから『クローバーフィールド/HAKAISHA 』は、ヴェノム誕生の前日譚なのではないかとの揣摩臆測も呼んだ、ヴィラン(?)・・・というか、悪役生物である。MCU(Marvel Cinematic Universe)において特異な位置を占めるスパイダーマン、そのスパイダーマンの一番の宿敵ヴェノムをフィーチャーするのだから、期待が高まらないはずはない。が、本作は正直なところ、かなり微妙な出来である。本国アメリカではかなり酷評されているため、ポイント鑑賞でチケット代を節約させてもらった。

 

あらすじ

エディ(トム・ハーディ)は持ち前の正義感、行動力、そして舌鋒の鋭さで社会問題に鋭く切り込む売れっ子ジャーナリストだった。しかし、恋人にして弁護士のアン(ミシェル・ウィリアムス)のEメールを盗み見たことから、天才科学者のドレイク(リズ・アーメッド)率いるライフ財団に「人体実験で死者も出しているのではないか」と切り込んでいく。それをきっかけにアンとは破局、仕事でもクビを宣告されるが、財団からの内部通報者の協力を得て取材を続けるうちに、自身も謎の宇宙生物シンビオートに寄生されてしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

トム・ハーディが硬骨のジャーナリスト役がハマっているし、寄生され始めた段階でのクレイジーな行動の数々を、コメディとシリアスタッチの境界線上を行くような絶妙のバランス感覚で演じている。エディという役を、序盤に関しては巧みに表現できていた。

 

悪役のリズ・アーメッドも良い味を出している。無表情のまま、サラリと冷酷極まりないことを口にしたり、いきなり声の調子を変えて恫喝してくるところなどは、インテリやくざを思わせる。マッド・サイエンティストの代表例とも言える死の天使ヨーゼフ・メンゲレよろしく、自らの信ずる道のためならば、人命など鴻毛の軽きに等しいと考えるタイプの科学者で、非常に分かりやすい悪玉である。見ただけで、「なるほど、コイツが倒すべき敵なのだな」と素直に予感させてくれる存在感に I’ll take my hat off.

 

残念なのは、その他の要素(監督、脚本、撮影)にはあまり感銘を受けられなかったところ。もしもヴェノムをフルCGではなく、一部でもよいのでオーガニックな手段で表現できていれば、各キャラクターにもっと血肉が通ったであろうに・・・

 

ネガティブ・サイド

まず言えることは、かなり多くの日本の映画ファンが『 寄生獣 』を思い浮かべただろうということ。特にヴェノムが右腕の先っぽから顔を出すシーンは、ミギーへのオマージュのように思えてならなかった。同時にまさしくそのシーンのヴェノムは『 エイリアン 』のゼノモーフの頭の形も模しており、これもオマージュと捉えるべきであろう。何らかのエイリアンを描くとき、H・R・ギーガーおよびリドリー・スコットの影響から完全に逃れることは難しいのである。問題はオマージュではなく、その先にあるべきはずの独創性がなかったことである。

 

まず冒頭の探査機の地球帰還シーンからして『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』のオープニング・シークエンスと丸かぶりしているし、寄生生命体のシンビオートの寄生前の状態は『 ライフ 』のカルビンをかぶっている。またアクションシーンの山場の一つである、バイクで車の追跡を振り切ろうとするシーンはバットマンを想起させる。とにかくやたらとパッチワーク的な作りになっていて、ヴェノムという魅力的であるはずのキャラクターがどうにも陳腐に映ってしまう。

 

問題はアクション関連のシークエンスだけではない。天才であるはずのドレイクが宇宙探査や外宇宙への移住を目指すのはよい。が、その手段が宇宙生命体との共生???シンビオートが寄生によって地球という好気性の環境に適応するというのなら、人類が何らかの系外惑星なり系外衛星に住むとなった時、真っ先に考えるべきは寄生ではないのだろうか。共生(synbiosis)は基本的に長い時間を経た上で構築される進化論的帰結である一方、寄生は常に一方通行の片利的な関係として起こりうるからだ。これがカイチュウやサナダムシならまだ救いがあるが、脳や神経系に巣食う生物となると洒落にならない。だが、現実的に宇宙に生存できる可能性を求めるとなると、人類が寄生する側にまわるほうがリアリティがあると思うのだが・・・

 

本作の最大の弱点というか欠点は、ヴェノムの回心のプロセスが不透明であることだ。エディに備わっている人並み外れた正義感であるとか、アンへの一途な想いの強さであるとか、相手の社会的地位で態度を変えない公平性であるとか、シンビオートがエディから受ける有形無形の影響をもっと鮮烈に描くべきだった。異色のダークヒーローにして一心同体バディ(buddy ○ body ×)の誕生が、単に寄生してみたら相性が良かった的に描くのは、はっきり言って手抜きではないか。このあたりを追求しないことには、単なるB級SFアクションの一派生作品にしかならない。

 

総評

これから観に行くつもりの方には、MUC有数の人気ヴィランを鑑賞しに行く!という強い気持ちを持たないように注意喚起をしたい。ちょっと暇とカネがあるので『 スーサイド・スクワッド 』の亜種でも観に行ってみるか、ぐらいの気持ちで臨むのが正しい。ただし、『 恋は雨上がりのように 』のあきらのような『 寄生獣 』の熱心なファンであるならば、時間を作って、お近くの劇場へGoである。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アクション, アメリカ, トム・ハーディ, ミシェル・ウィリアムズ, リズ・アーメッド, 監督:ルーベン・フライシャー, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 ヴェノム 』 -独創性を産み出せなかったダークヒーロー-

『 THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 』 -学校という社会の縮図を舞台に繰り広げられる案外まじめなコメディ-

Posted on 2018年11月8日2020年1月3日 by cool-jupiter

THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 60点
2018年11月5日 レンタルDVD鑑賞
出演:メイ・ホイットマン ベラ・ソーン ロビー・アメル アリソン・ジャネイ
監督:アリ・サンデル

 

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近所のTSUTAYAで『 アラサー女子の恋愛事情 』の隣にあったので、カバー裏のあらすじを読むこともなく、タイトルだけで借りてきた。THE DUFFとは何ぞや?なにやらダメ系女子の匂いがするが・・・という好奇心だけでレンタルを決断するに十分なインパクトのタイトルである。

 

あらすじ

ビアンカ(メイ・ホイットマン)とジェスとキャシーは仲良し3人組。しかし、親戚のイケメン・フットボーラーのウェスリー(ロビー・アメル)から「お前はDUFF(=Designated Ugly Fat Friend=)だ」と言われ、大ショック。親友とは一方的に絶交し、さらにはスクール・カースト頂点のマディソン(ベラ・ソーン)に目をつけられてしまう。しかし、ふとしたきっかけからウェスリーに化学を教えるのと交換条件に、どうすればイケてる女子になれるのかコーチングしてもらうことになり・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、アラサーにして女子高生役を演じきったメイ・ホイットマンに最大級の敬意を表したい。『 JUNO ジュノ 』にしてもそうだが、アメリカの学園ドラマ、もしくはティーン映画は、必ずしも美少女というものをフィーチャーしない。日本とは対照的だ。アメリカで尊ばれる女子は、チアのキャプテンを務めて、フットボール部のQBと付き合うような典型的なイケてる系の女子と、自らの意思と能力で道を切り拓いてく self-starter に大別されるようだ。前者の典型がマディソンで、後者の典型がビアンカというわけである。ホイットマンの年齢と見た目のギャップがなければ、逆に本作のビアンカという nerdy にして slutty であるというキャラは成立しなかったかもしれない。それほど彼女の演技は光っている。というか、異彩を放っている。

 

異彩と言えば、『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』の主演を張ったベラ・ソーンの腐れ外道っぷりも見逃せない。フレネミーという言葉では生ぬるい、目があっただけで敵であると認識する/されるような関係を学校のあちこちで築いている。本当に同じ役者かと思うぐらいで、若い似合わず演技力の幅を感じさせる。しかし、演技の幅と言えば、日本にも浜辺美波がいる。

 

逆に、母親役をやらせればこの人の右に出る者なし、というアリソン・ジャネイはその安定した存在感を発揮する。離婚受容プロセスの5段階セミナーには笑うしかない。母と娘の底抜けに明るく、それでいて陰のある会話劇に、日本では失われて久しい親子の対話を見るようだ。

 

本作は cyber bullying =ネットいじめの怖さを面白おかしく描き出す。ストーリー上では、かなりご都合主義的な力技で解決してしまうが、現実ではこうはならない。2015年に全世界的にバズったDover Police DashCam Confessional (Shake it Off)という動画を観て、今も覚えているという人も多いだろう。これはかなり好意的に受け止められた面白動画だが、実際にティーンが同じようなことをしている映像がネット世界にアップされてしまえば、もうどうしようもない。そうした意味では、本作を教育目的に観ることもできるのである。予定調和的な世界であるが、だからこそ安心して楽しめるロマンティック・コメディである。

 

ネガティブ・サイド

人と人との距離感は、人によって異なる。しかし、本作はかなり強烈なDUFF脱却トレーニングを課してくる。自分が同じポジションにいたとして、こんなことができるだろうかと思わされる描写もあった。なにより見知らぬ他人に迷惑をかけることになる。荒療治と言えばそれまでだが、ホラー映画好きのナード女子という設定がもう一つ活かされないのは残念である。

 

また、ウェスリーのキャラクターがあまりにも爽やかで、それでいてかなりの下衆でもある。人によっては、途中で見るのを辞めてしまうかもしれない。特にクライマックスのホームカミングでの行動は、下手をすると一生残るトラウマを与えかねない鬼畜の所業である。もちろん、「それで良い!」という声も上がって然るべきだし、「さすがにやり過ぎだろう」という声も聞こえてきそうだ。ちなみにJovianは後者である。

 

総評

目線をどこに置くかで本作の評価はかなり割れるというか、異なるだろう。学園ドラマとして見るなら凡作になるのかもしれないが、ダイバーシティを重んじ、なおかつ軽んじるアメリカ社会の縮図を本作に見出すのなら、居場所を見出せないマイノリティにも、チャンスはあるというメッセージであるとも解釈できる。日本で鑑賞される際にはそこまで考える必要はないだろうが、ネットいじめの怖さやスクール・カーストの問題点などを抉る物語でもある。中高生を子に持つ親が子どもと一緒に鑑賞してみるのも存外に楽しいかもしれない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, アリソン・ジャネイ, コメディ, ベラ・ソーン, メイ・ホイットマン, ロマンス, 監督:アリ・サンデルLeave a Comment on 『 THE DUFF/ダメ・ガールが最高の彼女になる方法 』 -学校という社会の縮図を舞台に繰り広げられる案外まじめなコメディ-

『 華氏119 』 -アポなし突撃は控え目だが、現実を抉る鋭さは健在-

Posted on 2018年11月7日2019年11月21日 by cool-jupiter

華氏119 75点
2018年11月4日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ドナルド・トランプ
監督:マイケル・ムーア

 

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マイケル・ムーアと言えば、アメリカ随一の社会派映画監督。その視線は、アメリカ社会の内包する問題を常に捉え、それを独自の映像世界に落とし込むことで、アメリカのみならず全世界に警鐘と啓蒙の映画を送り込んできた。それでは今作はどうか。アポなし突撃は控え目だったが、中間選挙目前というこのタイミングでリリースしてくることで、全米の有権者に揺さぶりをかけてきた。果たしてその効果のほどは・・・

 

あらすじ

時は2016年、全世界がアメリカの大統領選に注目しながらも、どこか楽観的な雰囲気が漂っていた。まさかトランプの勝利はあるまい。そう誰もが思っていた時に、トランプ大統領は誕生した。その深層にはアメリカの民主主義および社会が内包する矛盾や対立構造が深く根を張っていた。アメリカ随一の社会派映画監督のマイケル・ムーアがトランプ大統領誕生と、そこに潜む社会問題を独自の視点と手法であぶり出していく。

 

ポジティブ・サイド

ムーアの眼差しは、ドナルド・トランプ大統領個人の資質に向けられるのではなく、そうした大統領を生み出してしまったアメリカ社会、アメリカの有権者、アメリカの政治制度に向けられる。なぜ独裁的傾向を持つ個人を支持する層が存在するのか。なぜメディアに真摯に答えない個人が大衆の支持を集めたのか。なぜ権力を持つ者が、その権力をさらに強固にしてしまおうという試みに歯止めがかけらないのか。ムーアの問題意識は明確だ。個々人の意識や意見が正しく集約されない仕組みに彼は大いに不満を抱いているというわけである。そうしたアメリカ社会の抱える矛盾が一挙に噴出した証明として、彼はトランプ大統領出現を読み解く。

 

実際に、トランプ大統領誕生の報に触れた時の世の反応を覚えている諸賢も多いと思われる。わずか二年前のことなのだ。2020年、アメリカにおいて女性の参政権獲得の100周年を祝って、第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンには20ドル札の表面からは退場を願い、代わって奴隷解放および女性の社会的地位向上の旗手、ハリエット・タブマンに登場願う年に大統領職にあるのは、誰もがヒラリー・クリントンであると半ば盲目的に信じていた。いや、信じたがっていた。そのヒラリーを奉る民主党も、およそ民主主義国家とは思えぬ方法でサンダースを締め出していたという疑惑を、本作はまず追求する。

 

ムーアの視点はミシガン州のフリントという町の水道水問題にも向けられる。州知事がビジネスマンであり、州の政治も会社を経営するように行うと、まるでリー・クアンユーであるかのように宣言、その政治手腕を振るったところ、執政は失政となった。また教師のストライキ、銃乱射事件の多発を受けての高校生の草の根運動など、ムーアはアメリカ社会に強い憤りを感じつつも、問題の解決に動いていってくれるであろう次代の芽に希望を見出している。

 

本作をアメリカ社会の問題と思うなかれ。かの国を蝕む社会構造の矛盾は、そのまま東洋の某島国にも当てはまる。美辞麗句が蔓延るのは、独裁政権誕生の前触れとは、蓋し炯眼であろう。「美しい国」というのは“Make America great again”というキャッチ・コピーと比喩的な意味では大差はないのだ。2018年、日本では『 万引き家族 』の是枝監督が、賞賛と批判の両方を受けた。多様な意見の存在は、民主主義社会では歓迎すべきことである。しかし、日本に内在する最大の問題は、アメリカのそれと同じく、右か左か、0か1か、全か無か、という意識の二極化だ。政治に関して言えば、自民党かそれ以外か。これはアメリカの政治が、民主党か共和党かのほぼ二者択一になってしまっているのと構造的に同じである。

 

社会の矛盾とは、社会を構成する個人に矛盾が生じていることを意味する。労働者階級に属する人々の中に一定数のトランプ支持者が存在する。そのトランプは、富裕層を相手に商売をし、ブルーカラーやレッドネックを見下すような男であるにもかかわらず。日本も同様である。富裕層や大企業を厚く遇しながら、庶民や中小企業から搾り取る現政権を支持するのは、なぜか社会の下層民に多い(とされる)。いや、日本はもしかするともっと救いが無いのかもしれない。ムーアは本作の水道水問題で、オバマの化けの皮を剥いでしまったが、日本では西日本豪雨の被災地を視察すらせず酒盛りに興じていた為政者連中が今も権力の中枢に鎮座している。

 

本作は、個々人の問題意識≒希望にフォーカスしつつも、その限界点にも着目する。希望を抱くだけでは意味がない。行動こそがいま最も求められているものだ。本作はそれを高らかに宣言する。健全なる社会の健全なる構成員であれかしと願う者は絶対に観るべし。

 

ネガティブ・サイド

トランプを過去のトンデモ権力者とダブらせる演出があるが、これは失敗であろう。トランプ政権に限らず、極右的、排外的性向を持つ政権の登場をアナロジーで理解するべきではない。それをしてしまうと、≪歴史は繰り返す≫。目の前で展開する事象を、すでにあったこととして捉えてしまうような見方をさせてしまいかねない演出は個人的に評価しない。

 

高校生らの運動を力強く支持する姿勢を見せるのは構わないが、自分たちの世代が残してしまった負の遺産、自分たちの世代が広げてしまった断絶などについての反省がもっと見られても良かった。Jovianの元同僚にはシカゴ出身のアメリカ人がいるが、彼が日本に来た理由(というよりもアメリカを去った理由)は、誰もかれもが銃を持っている、ということだった。日本でもこの1~2年で、修学旅行の行き先としてアメリカは除外されるようになってきた。ドローン・ウォーの批判も結構だが、銃乱射事件が起きると銃が売れるというには、あの忌まわしき米ソの冷戦時代、核実験や核開発の報の旅に核軍備を増強したというのと、現代のアメリカ社における銃の増加は奇妙な相似を為す。ムーアの世代こそが冷戦を総括し、反省しなければならないはずだが、そうした≪歴史は繰り返す≫ということに対する危機感の薄さが、やはりどうしても気になってしまった。

 

総評

いくつか気になる点はあるものの、日本にも通じる問題が数多くフォーカスされる。ある意味で非常にアメリカらしいアメリカ映画である。現代アメリカの世相を読み解く重要な示唆が得られるので、大人だけではなく受験を控えた高校生や浪人生にもお勧めできる。小論文やエッセイのネタを本作から拾ってきてもよいだろう。また、ムーアの視点や思考回路は「現実を多層に見る」際のヒントになるだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ドナルド・トランプ, 監督:マイケル・ムーア, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 華氏119 』 -アポなし突撃は控え目だが、現実を抉る鋭さは健在-

『 search サーチ 』 -新境地を切り拓いた新世代の映画誕生-

Posted on 2018年11月4日2019年12月21日 by cool-jupiter

search サーチ 80点
2018年11月3日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:ジョン・チョウ デブラ・メッシング ミシェル・ラー
監督:アニーシュ・チャガンティ

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原題は ”Searching”。離陸と飛行は大成功、きれいに着陸するはずが墜落炎上した感のある『 アンフレンデッド 』と傑作サスペンス『 ゴーン・ガール 』を見事に換骨奪胎した傑作が誕生した。まさに時代の要請する作品というか、テレビドラマの『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』や『 CSI:科学捜査班 』でPCをカタカタカタッと操作するだけで様々な情報を引き出してくるのを見て、そこまで鮮やかに何でもかんでも分かるのか?と疑問に思った向きはきっと多くいるに違いない。そんな疑問を持ったことがある人は是非とも本作を見よう。コンピュータ・リテラシー、インターネット・リテラシーの何たるかを知ることもできるし、人間の抱える様々な業を垣間見ることもできる。

 

あらすじ

デビッド・キム(ジョン・チョウ)とパメラは娘、マーゴット(ミシェル・ラー)を儲ける。彼女の成長と家族の歩みを都度PCに保存するという几帳面な幸せ家族だった。しかし、パメラが病死。父はそれでも気丈に娘の成長を記録し、父親業に邁進する。しかしある日、マーゴットと連絡が取れなくなる。杳として居場所が知れない娘を探すために、デビッドは警察の捜査・捜索と並行して、各種Socian Mediaなどのネット世界に飛び込んでいく。だが、そこで知ったのは、娘のまったく知らない一面で・・・

 

ポジティブ・サイド 

『 アンフレンデッド 』はチャット画面オンリーで進行したが、本作はそれをさらに押し広げて、ネットの世界全体を映し出していく。といっても、我々が見るのは電子がケーブル内を駆け巡るようなイメージではなく、もっぱらPCのディスプレー上に映し出されるブラウザや各種サイト、マウスやアイコンなどである。これは現代人に刺さる。PCやスマホの利便性が非常に高い世界、梅田望夫の言葉を借りれば「ネットのあちら側」に「もう一つの地球」が存在するような世界を、本作は確かに描き出した。これは新時代のアートというよりも同時代のアート、コンテンポラリー・アート(contemporary art)と見なされるべきだろう。しかし、全編これPC操作画面とはあまりにも大胆だ。それがハマるのだから面白いし、恐ろしい。

 

何と言っても、テキストによるやりとりの臨場感。我々もLINEやMessengerのようなアプリを日々使ってコミュニケーションを取っているが、文字を打っては消し、少し書き直したり、あるいは全て消してメッセージ自体を送らなかったりということが時々あるはずだ。頭を冷やすためだったり、相手を思いやってのことだったりと、我々の心の中は文字で表される部分もあれば、その文字の打ち方や書き方、あるいは文字にしようとして文字にならない部分にも現れる。本作はその部分をこれでもかと追求する。決して安易にキャラクターに独り言を喋らせて、観客にていねいに説明しようとしたりはしない。これが実に心地よい。

 

主人公デビッドを演じたジョン・チョウの卓越した存在感と演技力も称賛に値する。IT企業に勤める(というか在宅ワークか)やり手で、PCやネット上の各種ツールを巧みに使いこなす様は、シリコン・バレーで働く中年オヤジの能力の高さを証明し、我々を驚かし続ける。これが次世代の働き方なのか、と。であると同時に、娘と不器用な方法でしか向き合うことしかできない父親という人種の普遍的な悲哀も内包していた。後者の表現力を持つ役者は日本にも沢山いるが、前者を違和感なく表現しきれる役者は40代以上ではなかなか思いつかない。ましてやその両方を一人でこなせる役者となると・・・ まさにハマり役にしてジョン・チョウのキャリア・ハイのパフォーマンスであろう。

 

展開のスピードとダイナミックさ、伏線とその回収、極めてデジタルなBGM、アメリカ社会の俯瞰と縮図、人間愛と人間の醜さ、それら全てがぶちこまれていながら2時間以内に収めてしまう卓越した脚本と監督と編集の術。M・ナイト・シャマランに続く、インド系アメリカ人の素晴らしい作り手が現れた。

 

 

ネガティブ・サイド

敢えて弱点を上げるならば、あまりにデジタル・ヘビーなところ。PCやネットに世界にどっぷりと浸かっている人間でなければ、そもそも意味が分からないという場面も多い。というか、ほとんど全部だ。たとえばJovianの同世代なら、半分程度は間違いなく本作を楽しめるだろうが、Jovianの両親世代となると、どうだろうか。『 クレイジー・リッチ! 』の冒頭で、モブが各種アプリで一挙に情報を通信、共有していたシーンが何のことやら分からなかった、という声も聞いたことがある。

 

敢えてもう一つ注文をつけるとするなら、それはエンディングのクレジットシーンだろうか。『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』は冒頭の配給会社のロゴのシーンから、アカペラ・モード全開で、一気に物語世界に入って行けた。同じく、最近は上映が終わり、劇場が明るくなると、人々は真っ先にスマホの電源をONにする。そこまで見越して、クレジット・シーンをPC画面上のあれやこれやと関連した構成、たとえば『 バクマン。』が漫画の単行本の背表紙を効果的に用いたような、そんなクレジットが見られれば、映画世界と現実世界がシームレスに結ばれたかのような感覚を我々は味わえただろう。しかし、それは無い物ねだりというものだろうか。

 

総評

一言、傑作である。今年、というか今月中に絶対に劇場で観るべき一本である。今後、こうしたスタイルの映画が陸続と生産されると予想される。『 ブレア・ウィッチ・プロジェクト 』がPOVに火をつけたように、本作もPC画面上で繰り広げられるドラマというジャンルに火をつけた元祖として、評価されるだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, サスペンス, ジョン・チョウ, ミステリ, 監督:アニーシュ・チャガンティ, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 search サーチ 』 -新境地を切り拓いた新世代の映画誕生-

『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』 -考えるな、感じろ-

Posted on 2018年11月1日2019年11月21日 by cool-jupiter

ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 65点
2018年10月28日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アナ・ケンドリック レベル・ウィルソン ヘイリー・スタインフェルド ブリタニー・スノウ アンナ・キャンプ ジョン・リスゴー ジョン・マイケル・ヒギンズ
監督:トリッシュ・シー

 

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女子高生がそのまま女子大生になり、女子寮でワイワイギャーギャーと騒ぐノリの本シリーズも遂に卒業、完結編。前二作で発展を見せたベラーズの主要な面々とトレブルメーカーズやその周辺の男子らとの関係を、本作は開始3分で切って捨てるかのごとく説明してしまう。なるほど、ベラーズの面々が思い悩む対象はもはや男ではないというわけだ。さて、では本作で彼女らは何から卒業するのだろうか。

 

あらすじ

バーデン大学の名門アカペラ部ベラーズ。世界大会で優勝を成し遂げ、アカペラに注いだ青春も終わりを告げた。メンバーそれぞれが社会の荒波に乗り出していったが、ある者は父親不明の子を宿し、ある者は会社を辞め、ある者は失業中で、と皆が皆、順風満帆というわけではなかった。 そんな折に元ベラーズの面々にエミリー(ヘイリー・スタインフェルド)からリユニオンの招待状が届く。ベッカ(アナ・ケンドリック)やエイミー(レベル・ウィルソン)らは勇んで駆けつけるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

こうしたシリーズ物の常として、過去のキャラとの再会は絶対に不可欠の要素である。ゲロ吐きオーブリ-やステイシーらもしっかりと登場してくれる。もちろん例の審査員二人組もいるので安心してほしい。ステイシーに至っては、妊娠中だ。時の流れだけではなくキャラクターたちの年齢の積み重ね、状況や人間関係の変化、それでも変わらないアカペラへの情熱やベラーズへの愛着が、開始10分で全て描かれる。『 ジュラッシク・ワールド 』が不評だったのは、懐かしのグラント博士やマルコム博士を登場させなかったことが一因だ。一方で、『 スター・ウォーズ/フォースの覚醒 』は過去作の振り返りやファンサービス要素をてんこ盛りにしてしまったところが一部のファンの不興を買った。本作は、そのあたりをかなり良い塩梅にまとめていると言える。何よりもシリーズ恒例だった、ステージ・パフォーマンス中の粗相がないのだ。アホな女子大生物語では最早ないのですよ、と製作者がファンにメッセージを送っているのである。

 

一方で、しっかりと笑うべきシーンも用意してくれている。何よりも笑ってしまったのが、ジョン・リスゴーがChicagoの“素直になれなくて”のあの一節を熱唱するところ。『 マンマ・ミーア! 』でピアース・ブロスナンが歌うS.O.Sを上回る惨劇である。周りが皆、本職ではないとはいえ、それなりに歌唱力のあるメンツ揃いだから、なおさらその酷さが光り輝く。

 

本作は色々な意味で、父親というpositive male figureたるべき存在がフォーカスされる。家父長制的な面を家庭内に色濃く残すアメリカ社会に女性として出ていく面々がいる中で、ある者は戦い、抗い、ある者は素直に愛情を打ち明ける。家族の在り方を社会の在り方に重ね合わせているわけだ。のみならず、ベラーズというファミリーの物語にも一つの終止符が打たれるわけだが、そこには『 焼肉ドラゴン 』に見られた家族像と共通するものが確かにあった。少しだけだが、ほろりとさせられた。

 

ネガティブ・サイド

監督がころころ変わるシリーズなので仕方がないのかもしれないが、アフレコの多用はいかがなものか。シリーズで一番アガるのは、やはりリフ・オフ対決で、本作でも漏れなくリフ・オフはある。しかしながら、そこでアフレコをあからさまに用いてしまうと対決の臨場感が薄れてしまう。ここはどうしてもマイナスの評価をつけざるを得ない。

 

またコンテストが米軍基地慰問ツアーというのは、あまりにも能天気すぎやしないか。今作の大きな肝は、体は大きくなっても頭や心はどこか子どものままのベラーズの面々が、精神的な成長と成熟を果たすことだったはずだ。米軍のためにエンターテインメントを提供するというのはWWEなどもやってきたことで、それ自体は別に構わない。しかし本作のテーマに沿っているかと言われれば疑問である。キャラ設定の都合でこうなりましたという感が拭えない。一方で、メンバーが巻き込まれるアクシデントの解決には米軍は動かない。もう少し何か、ストーリーにリアリティというか深みというか、一貫性が欲しかった。

 

総評

前二作(『 ピッチ・パーフェクト 』、『 ピッチ・パーフェクト2 』)を鑑賞していないと何のことやら分からないシーンや人間関係もあるが、本作からいきなり見始めても、なんとなく楽しむ分には問題ないだろう。できればレンタルやネット配信で復習してから劇場へ行ってもらいたいが、何かの間違いでチケットが手に入った、友人知人に誘われたという人は、臆することなく行ってみよう。

 

ところで、本作鑑賞前にグッズ売り場を覗いていたら、とある観客が売り場の係員に本作を指して「これってどういう映画なんですか?」と尋ねていた。その答えが奮っていた。『いやあ、僕も観たわけじゃないんですが、たしかオペラの話だったような・・・』いやいや、アカペラとオペラは全くの別物やで?と無関係ながら突っ込みを入れられなかった自分に今も悔いが残っている。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アナ・ケンドリック, アメリカ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:トリッシュ・シー, 配給会社:シンカ, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 ピッチ・パーフェクト ラストステージ 』 -考えるな、感じろ-

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