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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 配給会社:東京テアトル

『 ちょっと思い出しただけ 』 -鮮やかな回想劇-

Posted on 2022年2月20日2022年2月20日 by cool-jupiter

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ちょっと思い出しただけ 75点
2022年2月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:池松壮亮 伊藤沙莉 河合優実
監督:松居大悟

 

『 くれなずめ 』や『 君が君で君だ 』など、終わらない青春、あるいは青春を引きずる姿を追究してきた松居大悟監督の最新作。またJovianの大学の後輩がプロデューサーも務めている。

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あらすじ

ダンサーだったが、怪我で舞台の照明係に転身した照生(池松壮亮)。タクシー運転手としてコロナ不景気に翻弄される葉(伊藤沙莉)。葉はある客を乗せたことで、照生と付き合っていた、かつての日々を思い起こして・・・

 

ポジティブ・サイド

一年の特定の日付だけを映し出していく構成というと『 弥生、三月 君を愛した30年 』に少し似ているところがあるが、それを名作『 ペパーミント・キャンディー 』のように過去に逆行していく形で提示していくところがユニークだと感じた。作品によっては、視点が今なのか、それとも回想なのか分かり辛いものもあるが、本作はマスク着用や手洗いが生活様式として定着したところから始まっているので、現在と回想の見分けが容易。これは思わぬコロナの副産物だろう。

 

池松壮亮演じる照生が夢と現実の狭間でもがく姿に激しく共感する。同時に軽蔑のような念も覚える。それはおそらく、多くの男が持つ大人になってしまった自分と若者のままでいたい自分の葛藤を具象化させられたかのように感じるからだ。男は基本アホなので、付き合っている女性はいつまでも自分を好いてくれると思い込んでいるし、相手の言う「何があっても好き」のような言葉も鵜呑みにしてしまう。鑑賞中に何度「照生、このアホ、そこはそうちゃうやろ」と思ってしまったか分からない。

 

葉を演じた伊藤沙莉は、これが代表作になるのではないか。決して美人ではないのだが、ある瞬間にめちゃくちゃ可愛く見えるのは本人の力なのか、それともメイクアップアーティストやカメラマンの力なのか。『 息もできない 』のキム・コッピのように、大声を張り上げることも、とびきりチャーミングな笑顔を見せることもできる女優。ラブシーンも普通にいけそう。一番可愛らしいと感じたのは、タクシーを降りるところを照生に止められるシーン。ここでの葉のはしゃぎっぷりは恋する女子の演技としては白眉だろう。浮かれていながらも「言葉にしてほしい」という女子が共通して持つ強烈な願望が駄々漏れになっていて、非常に微笑ましく、かつ恐ろしい。男性諸君、言葉にすることの重要性をゆめ忘れることなかれ。

 

回想を経るごとにちょっとした小道具の存在の有無や照生の行動の違いなどが明らかになっていき、どんどんと物語に引き込まれていく。ただ時間をさかのぼりながらも、未来に向かっている部分もあった。永瀬正敏演じる、待っているおじさんがそれで、このサブプロットはなかなかにパンチが効いている。妻を待ち続ける=妻に執着し続ける姿は、そのまま照生の未来に見えてくるし、事実その通りである。というか、男全般に当てはまるわ、これ。『 パターソン 』でも何気ない日常の連続をある意味で壊す役割を演じた永瀬が、今度はその何気ない日常を延々と続ける姿はある意味で感動的でもあった。

 

男女の幸せだった日々が、理想と現実のはざまで少しずつずれていってしまうという意味では『 花束みたいな恋をした 』とも共通するところがある。しかし、本作では男の情けなさというか、女々しさ(この言葉が不適切でないことを祈る)が存分に表出されていて、かなり酸っぱさ濃いめの甘酸っぱい物語に仕上がった。松居大悟は作家性とエンタメ性をバランスよく表現できる監督で、氏の作品は今後も要チェックであると感じた。

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ネガティブ・サイド

言葉とダンスに関する問答が印象的だったが、特にダンスに関する部分はもっと突き詰められたのではないかと思う。外国映画は字幕か吹き替えかは、それこそ観る側が自由に選択すればよいと思う。ただ、言葉にしてくれないと分からないという時の言葉というのは、言語に関係があることなのか?とは感じた。何語で発話しようとも、なんらかの感情や思考が表現されたという事実は変わらないだろう。

 

もうひとつ、ダンスは言語を超えるというのにも大いに納得したが、ぜひ照生が葉に踊って見せるシーンをもっと取り入れてほしかった。愛情を踊りで伝える照生と、そのメッセージを受け取りながらも十分に解釈しきれない葉のコントラストがあれば、甘酸っぱさの甘さと酸っぱさが両方増しただろうと思う。

 

総評

男性の過去の恋愛への執着を描いた『 僕の好きな女の子 』と対を成すかのような作品。女性が過去の恋愛をいかにカジュアルに忘却できるかを、非常に説得力のある形で描き出している。男性が覚えているのに対し、女性は思い出す(その前提には「忘れる」がある)ものなのだ。そういうわけで、デートムービーにはあまり向かないかもしれない。どちらかというと、男女ともにおひとり様での鑑賞が望ましいと思われる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pop the question

直訳すれば「例の質問をポンッと出す」の意、意訳すれば「プロポーズする」の意。プロポーズの言葉は十中八九、”Will you marry me?”(最後は falling tone で)である。疑問文=質問であるが、語尾は上げずに下げて言うべし。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ラブロマンス, 伊藤沙莉, 日本, 池松壮亮, 河合優実, 監督:松居大悟, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ちょっと思い出しただけ 』 -鮮やかな回想劇-

『 ソワレ 』 -心に残る生き方を-

Posted on 2022年1月2日 by cool-jupiter

ソワレ 70点
2021年1月1日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:村上虹郎 芋生悠
監督:外山文治

新年第一号鑑賞。テアトル梅田で見逃した作品。『 ひらいて 』で印象的な演技を見せた芋生遥だったが、その前作のこちらの方が遥かに鮮烈な役を演じていた。

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あらすじ

東京で役者を目指す翔太(村上虹郎)は芽が出せず、オレオレ詐欺に加担して糊口を凌いでいた。ある夏、翔太は故郷の和歌山のグループホームで演劇を教えることになり、そこで少女タカラ(芋生悠)と出会う。偶然にも翔太はタカラが実の父を刺す場に居合わせてしまい、そこから二人は当て所のない逃避行に出ることになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

村上虹郎がうだつの上がらない役者を好演。オレオレ詐欺で弁護士や代理人を騙る際に持ち前の演技力を発揮。ところどころで垣間見せる「何やってんだろうな、俺は」という表情が印象深い。

 

ただ本作の事実上の主役は圧倒的に芋生悠だ。物憂げというか、悲愴というか、陰のある表情が素晴らしい。天真爛漫なアイドル系の女優がもてはやされる風潮が強い邦画の世界であるが、もっとこのような女優にもスポットライトを当ててほしいと思う。

 

『 ひらいて 』の山田杏奈とのベッドシーンも良かったが、本作ではレイプシーンに加えてトップレスのヌードも披露。体を張るという表現は大げさかもしれないが、ストーリー上の必然性があれば躊躇なく脱げるというのは大女優の資質。そういえば本作にも出演している江口のりこも若いころに『 ジョゼと虎と魚たち 』で脱いでいたっけ。芋生遥には寺島しのぶや安藤サクラの領域にたどり着いてほしいと切に願う。それだけのポテンシャルがあると思う。

 

逃避行の中での二人のコントラストも鮮やかだ。競輪やパチンコで手持ちの金を増やそうとする翔太と、スナックで短期的なバイトを見つけ、堅実に稼ぐタカラ。誰にも頼れず、バイトをさせてくれる家の金まで盗もうとする翔太と、実の母を訪ねて拒絶されるタカラ。社会的な弱者同士の連帯が描かれるのかと思わせて、翔太はタカラに厳しく当たる。この弱い者がさらに弱い者に強く当たっていくという構図は、見ていてなかなかにしんどい。『 パラサイト 半地下の家族 』で描かれた一方の弱者がもう一方の弱者を攻撃するという図である。日韓の社会経済構造が同じというわけではないが、それでも連帯が必要とされる状況でも、連帯が生まれないというのはもどかしい。が、だからこそ生まれるドラマもある。

 

二人の距離が埋まりそうで埋まらないということを、映像が何度も何度も強調する。川沿いの道で、山道で、浜辺で、二人で歩きながらもその距離は縮まらず、そして周囲には誰もいないという画が何度も画面に映し出される。セリフもBGMも削ぎ落され、役者の演技と映像で物語る手法は見事だと思う。

 

若くして、ある意味で救いようのない境遇に陥ってしまった二人だが、人生はやりなおすことはできない。しかし、生き方を一時的にでも変えることはできる。それが役を演じるということで、二人が和歌山の街中で夜中に演じる芝居は、逃避行の中での更なる逃避行で、仮初の生だからこそ、なおさら強く輝いていた。本作の中でも最も美しいシーンだった。

 

翔太が語る「役者になったのは、誰かの心に残ることができるから」という考えが、彼自身の知らぬところで実を結んでいたというのは、ベタながら感動的である。袖振り合うも多生の縁と言うが、人と人とは思いがけない形でつながり合っているのだろう。

 

ネガティブ・サイド

高齢者施設で、老人が突然に倒れ、そのままこと切れる展開は必要があっただろうか。普通に徘徊する人が出る。認知症が進行した人がいる。失禁など、排泄に問題を抱えている人がいる。そうした描写で十分だったのではないかと思う。

 

同じくタカラの父親が死ぬという展開は必要だっただろうか。傷害と殺人だと罪の重さは段違いとなる。そこまで重い十字架をタカラに背負わせるのは、いささかやりすぎだと感じる。

 

またタカラは父親から受けた数々の虐待のせいで、男性、それがとっくに枯れたような老人であっても、触れられることに相当のストレスを感じるというのは、設定からして無理がある。Jovian自身でも病院実習で経験があるが、一定以上の高齢者は本当に体を支えないと歩けないし、あるいは簡単に暴力をふるう(といっても小突いてくる程度だが)患者というのもいる。同級生の女子が尻を触られたなどというのも、日常茶飯事とまではいわないが、看護実習あるあるの一つである。タカラがグループホームの職員を長く続けられているという設定には違和感ありありである。同じことはスナックのアルバイトにも当てはまる。

 

総評

やや不自然なキャラ設定が見受けられるものの、物語の重苦しさ、その先にある一筋の救いの光明に力強さを感じられる作品である。芋生遥は2020年代の邦画を牽引していく力を秘めた女優であるし、村上虹郎も親の七光以上の存在感を獲得しつつある。外山文治は、自ら脚本も書くという邦画では珍しくなりつつある監督で、映画製作に関しては自らのビジョンに忠実でありたいと願っているタイプであると拝察する。もちろん映画も一種の芸能であり、究極的には商業なのだが、このようなタイプの監督が辺縁に存在することは今後の邦画の世界では極めて重要であると思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

DNR

ディーエヌアールと読む。Do not resuscitate. のそれぞれの語のイニシャルをつなげたもので、意味は「蘇生しないで」である。海外の医療ドラマなどでは割と頻繁に聞こえてくる表現である。

She is a DNR. 
彼女は蘇生処置は不要の人だ。

のように使う。医療系の職業の人ならよくよくなじみのある表現だろう。

 

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 村上虹郎, 監督:外山文治, 芋生遥, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ソワレ 』 -心に残る生き方を-

『 私はいったい、何と闘っているのか 』 -男の独り相撲の見事な映像化-

Posted on 2021年12月27日 by cool-jupiter

私はいったい、何と闘っているのか 70点
2021年12月25日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:安田顕 小池栄子
監督:李闘士男

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『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』と同じ監督、脚本、主演の本作。男という哀れな生き物の脳内を見事に描き出すとともに、言葉そのままの意味で「男らしい男」の生き様を描き出してもいる。

 

あらすじ

伊澤春男(安田顕)、45歳。スーパーの主任として奮闘しつつ、店長への昇格の野心も持つ、良き家庭人。が、やることなすことがどうにも上手く行かないと思えてしまう。そんな中、降ってわいたように春男に店長就任の機会が舞い込んでくるものの・・・

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ポジティブ・サイド

単なる個人の印象だが、日本にはこの井澤春男に自己同一化してしまう男性が200万人はいるのではないか。そんな気がしてならない。35歳から50歳ぐらいの各年齢が100万人、その半分が男性とすれば50万人。35~50の年齢層では50万人×16=800万人。そのうちの4分の1ぐらいは春男に共感するだろうとの概算である。

 

仕事にも一生懸命で結婚もしている、子どももいるし、子育てにも参画している。こうした、いわゆる現役世代の鬱屈、煩悶、野望などの様々な心情が、安田顕によって見事に表出されている。これはキャスティングの勝利だろう。オダギリジョーや滝藤賢一といった同世代の俳優には出せない味がしっかりと出ている。脳内独り相撲を安田顕の高度な一人芝居に昇華させられなかった演出が悔やまれる。

 

仕事も家庭もそれなりに順風満帆のはずなのに、ほんのちょっとしたトラブルやボタンの掛け違いが、思いもよらぬ結果になってしまうことは誰にでもある。春男はそんな我々小市民の具現化で、まさに40代男性あるあるのオンパレードである。年頃の娘たちに小少々邪険にされつつも、しっかりと尊敬されており、末っ子の息子には「パパは僕に似たんだな」としっかりと愛されている。また小池栄子演じる妻が良い味を出している。料理に掃除に洗濯に子育てにと、あまりに良妻賢母である。Political correctness の観点からすれば大いに断罪されそうな家庭像だが、そうさせない秘訣は春男のヘタレっぷりと男っぷりにある。どういう意味か分からないという人はぜひ鑑賞されたし。

 

娘のボーイフレンドが家にやって来るところは、まさに春男という「ダメ男」かつ「男の中の男」の面目躍如。Jovianには子どもはいないが、それでも春男の心が手に取るように分かった。相手の男の応対も満点やね。Jovianはあんなに堂々と「娘さんをください」とは言えなかった。

 

仕事でやらかして謹慎を食らったところからの家族旅行が本作のクライマックス。平々凡々な小市民な春男にほんのちょっとした奇跡が起こる。春男の精一杯の意地とプライドが静かに炸裂するシーンは必見である。

 

本作を観たら、きっとカツカレーを食べたくなることだろう。もしもそう感じることがあるなら、それは安心できる逃げ場所が必要だから。赤ちょうちんでもカレー屋でもいいじゃないか。愛する家族が待つ家にまっすぐ帰れない夜もある。そんな男の哀愁を受け止めてくれる妻がいる。それだけで春男は果報者。春男のように頑張ろう。そう思わせてくれる良作だった。

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ネガティブ・サイド

春男の独り相撲っぷりがくどいし長い。『 私をくいとめて 』では脳内のAと自分が別人として語り合っていたし、『 脳内ポイズンベリー 』では、それこそ人格たちの丁々発止のやりとりがダイレクトに笑いにつながった。また『 勝手にふるえてろ 』は脳内ファンタジーが見事に現実を侵食していた。これらの先行作品に比べると、春男の独り相撲っぷりが少々弱い。というか、これでは脳内一人ノリツッコミで、最初こそ共感できるが、だんだんと飽きてくる。重要なのは最初の10分で春男というキャラの脳内を存分に観る側に刻み付けること。それに成功すれば、あとは安田顕の表情、所作、立ち居振る舞いからオッサン連中は勝手に春男の一人ノリツッコミを脳内補完する。製作側はオッサン以外の観客を意識したのだろうが、そこはもっと観る側を信頼すべきだし、観客ペルソナとしても最上位に来るオッサンにぶっ刺さる作りにすべきだった。

 

開始早々に退場する上田店長の扱いがどうにも軽い。春男が「この人のためなら」と思える人物である一方、スーパーウメヤの他のスタッフが春男の昇進を前祝いする流れはどうかと感じた。

 

井澤家の因果についてはもう少し伏線を遅めに、あるいは控え目にすべきだった。I坂K太郎を読む人なら、開始5分で「ああ、そういうお話ね」とピンと来たはずである。

 

総評

ほぼ安田顕の独擅場である。『 君が君で君だ 』は極端な例だが、男なんつー生き物は脳内の80%は自意識と妄想でできている。そんな夫を助ける小池栄子はグラビアアイドルから女優に見事に変身したと言える。『 喜劇 愛妻物語 』の夫はぐうたらのダメ人間で、共感できる人間を選ぶキャラだったが、こちらの春男は男の良いところ、男のダメなところの両方を見事に血肉化している。30~50代の夫婦で鑑賞してほしいと思うし、あるいは大学生のデートムービーにも良いかもしれない。世の父ちゃんたちは、ああやって闘ってカネを稼いでいるのだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Go ahead.

「はい、どうぞ」の意。相手に何かを差し出す時には ”Here you are.” と言うが、相手に何らかの行動を促したい、あるいは相手から何らかの行動の許可を求められた時に使う表現。しばしば “Sure, go ahead.” のように使われる。相手が何を言っているのかよくよく理解してから使いたい表現である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 小池栄子, 日本, 監督:李闘士男, 配給会社:日活, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 私はいったい、何と闘っているのか 』 -男の独り相撲の見事な映像化-

『 くれなずめ 』 -青春を終わらせるな-

Posted on 2021年5月30日 by cool-jupiter

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くれなずめ 70点
2021年5月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:成田凌 高良健吾 若葉竜也 藤原季節 浜野健太 目次立樹  
監督:松居大悟

 

プロデューサーの和田大輔、なんとJovianの大学の後輩である。隣の寮に住んでいた脳筋の変人だったが、いつの間にやら文化人かつ商売人になっていた。今後もプロデューサーとして活躍していくと思われるので、和田大輔プロデュース作品には是非とも注目してくだされ。

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あらすじ

友人の結婚式のために久しぶりに集まった吉尾(成田凌)や明石(若葉竜也)らだったが、余興が盛大にすべってしまった。気まずい空気に包まれたまま、彼らは二次会までの時間をつぶそうとする。そして、かつての自分たちの友情を回想していき・・・

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ポジティブ・サイド

タイトルに反応して、「くれ~なず~む街の~」と口ずさむのは立派なオッサンだろう。くれなずむというのは、今の季節だと午後6:30から午後7:00ぐらいの逢魔が時が続いていく感じを指す。結婚式に出席するということは、同年代が結婚しつつあるという意味で、独身貴族の時期の終わりを予感させる。しかし、まだ一人を楽しみたい。まだ完全に大人になりたくない。そのような若者のパトスを象徴的に表すタイトルである。

 

成田凌や若葉竜也、藤原季節など売り出し中の若手のエネルギーがそのまま画面にみなぎっている。そこに混じる高良健吾が『 あのこは貴族 』の時と同じく、 condescending  な感じを出すか出さないかのギリギリの線の演技で、若者と大人、フリーターと社会人の境界線上のモラトリアム人間を好演していた。かつての親友たちが各々に成長していたり、あるいは社会参加を拒んでいたり、まるでかつての自分や自分の友人たちとの関係を思い出す世代は多いだろう。特にJovianのようなロスジェネ世代には、その傾向が強いのではないか。

 

アホな男たちのアホな乱痴気騒ぎが延々と続くが、それぞれがロングのワンカットになっているのが印象深い。ワンカットによって場の臨場感が高まるし、観ている側もその場に参加している感覚が強くなる。対照的に回想シーンでは随所にカットを入れ、カメラのアングルを変えていく。まるで記憶を色々と編集しているかのように。こういうことは結構多い。友人の結婚式などに参加して、昔の写真や映像を観ると、自分の記憶と実は少し違っていたりすることが往々にしてあるからだ。

 

主人公である吉尾とその悪友たちの現在のまじわりが、過去の様々なエピソードに繰り返し、あるいは焼き直しになっているところが面白く、リアリティがある。野郎どもの友情というのは時を超える、あるいは時を止めるのだ。おそらく本作の登場人物たちのような30歳前後の男性には、非常に突き刺さる者が多い作品であると思う。

 

割とびっくりするプロットが仕込まれているが、開始数分で非常にフェアな伏線が張られているので、これから鑑賞するという人は、そこに注意を払えれば吉である。

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ネガティブ・サイド

前田敦子は悪い演技を一切していなかったが、これは大いなるミスキャストではなかったか。観た瞬間から「ああ、このキャラの因果はこれだな」と想像がつく。

 

ある時点で舞台が切り替わるが、そこからの展開がどうしようもなく陳腐で、映像としてもお粗末だ(ガルーダ・・・)。下手なCGやVFXなど使わず、素直に高校時代の回想シーンと同じで良かった。原作の舞台のノリを持ってくるのなら、それを映画的に翻案しなければならない。映画→舞台→映画という感じで、トーンの一貫性を大いに欠いていた。

 

また結婚式場から二次会の会場に向かうはずの最終盤の「くれなずむ街」のシーンが、どう見ても盛り場からは遠く離れた場所。ロケーションありきで、絵的なつながりが無視されていた。

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総評

藤原季節が出演していること、そして青春の象徴との別れという意味では『 佐々木、イン・マイマイン 』の方が個人的には面白いと感じた。だが決して駄作ではない。良作である。モラトリアムが長くなった現代、青春ときっぱり決別するのはなかなか難しい。むしろ、青春をできるだけ長く生き続けようとする、つまり日が暮れようとしていながらも、まだまだ暮れないという人生を送る人が増えている。日暮れて途遠しとなる人も同じくらい増えているように思うが、それでも今という時代にを生きる人間にエールを送る作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

afterparty

「二次会」の意。これは実際にネイティブも頻繁に使う表現である。ちなみに三次会はafter-afterpartyと言う。大学生の頃にアメリカ人留学生に教えてもらった時は、”You gotta be kidding me, right?”と反応してしまった。嘘のようだが、本当にそう言うのである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, 成田凌, 日本, 浜野謙太, 監督:松居大悟, 目次立樹, 若葉竜也, 藤原季節, 配給会社:東京テアトル, 青春, 高良健吾Leave a Comment on 『 くれなずめ 』 -青春を終わらせるな-

『 あのこは貴族 』 -システムに組み込まれるか、システムから解放されるか-

Posted on 2021年3月3日 by cool-jupiter

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あのこは貴族 75点
2021年2月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:門脇麦 水原希子 石橋静香 篠原ゆき子 高良健吾
監督:岨手由貴子

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日本の経済的成長の停滞が続いて久しく、貧富の格差がどんどんと広がり、もはやそれが身分格差にまでなりつつあるようだ。上級国民なる言葉も人口に膾炙するようになってしまったが、そのような時代の空気を察知して本作のような作品を世に問う映画人もいるのである。

 

あらすじ

良家の子女として育てられてきた華子(門脇麦)は、顔合わせの当日にフィアンセと別れてしまう。次の相手を探すうちに姉の夫の会社の顧問弁護士で代議士も輩出している名家の幸一郎(高良健吾)と出会い、交際が始まる。しかし、幸一郎の影には時岡美紀(水原希子)という女性がちらついていて・・・

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ポジティブ・サイド 

門脇麦の感情を表に出さない演技が光る。フィアンセに顔合わせの当日にフラれたというのに、苛立ちや悲しみを一切見せることがない。家族や親族も華子を特に慰めるでもなく、サッサと次に行くべきと主張するなど非常にドライだ。そしてそのアドバイス通りに次から次へと色んな男との出会いを重ねていく華子の姿は、相手の男がどいつもこいつも社会不適合者気味なこともあり、滑稽ですらある。そんな華子がついに出会った幸一郎が、また存在感、ルックス、学歴、職業、立ち居振る舞いが完璧で、この出会いの時に華子が見せるかすかな瞳の輝きが実に印象的だった。

 

そんな幸一郎には、実は女の影があり、それが地方から上京してきた美紀。幸一郎に講義内容をメモしたルーズリーフを貸したところ、それが返ってくることがなかったというエピソードが印象的だ。苦学の末に慶應義塾に入学したにもかかわらず、実家の経済状態の悪化で退学。ノートもお金も時間も東京に吸われてしまったが、東京は彼女に何も与えてくれなかった・・・というストーリーにはならない。したたかに生きると言ってしまえば簡単だが、美紀が見せる生きる力、決断力、友情の深さに励まされる人は多いのではないだろうか。

 

二人の女性が幸一郎を間接的に媒介して出会うことになるのだが、そこにはドロドロとした女の情念のようなものはない。あるのは人間同士の真摯な向き合い方だ。幸一郎と婚約したという華子に、美紀は幸一郎とはもう会わないと伝え、実際に幸一郎との腐れ縁をスパッと断ち切ってしまう。男と女のドラマをいかようにも盛り上げられる機会を、物語はことごとくスルーしていく。それは本作が描き出そうとしているのが、男や女ではなく人間だからである。

 

「私たちって東京の養分だね」と呟く美紀を見て、自分も良く似た感慨にふけったことがあるのを思い出した。多かれ少なかれ、東京以外の土地から東京へと出ていった人間は、自分は東京という幻想をさらに強固なものとするためのシステムの一部にすぎないと実感することがあるはずだ。自身がマイノリティであるという自覚をもって言うが、本作は『 翔んで埼玉 』と同工異曲なのだ。そして華子も美紀も幸一郎さえも、巨大なシステムに囚われているという点では同じ人間なのだ。

 

敷かれたレールから外れることの困難、敷かれたレールの上を走り続けることの困難。いずれの道を往くにせよ、そうした決断にこそ自分らしさというものが宿るのだろう。生きづらさを抱える現代人にこそ観てほしいと思える作品である。

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ネガティブ・サイド

慶応義塾大学という実在の大学に配慮したのだろうか。もっと『 愚行録 』のように描いてしまっても良かったはず。なにしろテーマの一側面が東京と外部。慶應内部生と慶應外部生というのは、その格好のシンボルだろう。ここのところの暗部をもう少し強調して描くことができていれば、相対的に美紀の生き方がより輝きを増したものと思う。

 

華子と美紀、それぞれの親友との友情をもう少し深めていくシーンがあれば尚良かった。特に、華子の親友のヴァイオリニストは美紀と幸一郎のつながりを目撃する以上に、華子と一笑友人で居続けるのだと感じさせてくれるようなシーンが欲しかった。

 

総評

一言、傑作である。日本の今という瞬間を切り取っていると同時に、抗いがたいシステムから抜け出し、自立的に生きようとする人間の姿を丁寧に描いている。女性ではなく、男性もここには含まれている。B’zはかつて「譲れないことを一つ持つことが本当の自由」だと歌った。その通りだと思う。これが自分の生き方だと受け入れる。そしてその通りに生きる。そうすることがなんと難しく、そして清々しいことか。2021年必見の方が作品の一つである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

set up shop

「起業する」や「開業する」の意。start one’s (own) businessという表現が普通だが、set up shopというカジュアルな表現もそれなりに使われる。これに関連するtalk shop=「仕事の話をする」という表現は『 ベイビー・ドライバー 』で紹介した。同じ表現を様々に言い換えることで、コミュニケーションがスムーズになる。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 水原希子, 監督:岨手由貴子, 石橋静香, 篠原ゆき子, 配給会社:バンダイナムコアーツ, 配給会社:東京テアトル, 門脇麦, 高良健吾Leave a Comment on 『 あのこは貴族 』 -システムに組み込まれるか、システムから解放されるか-

『 花束みたいな恋をした 』 -青春と現実の境目が痛い-

Posted on 2021年2月7日2021年2月8日 by cool-jupiter
『 花束みたいな恋をした 』 -青春と現実の境目が痛い-

花束みたいな恋をした 75点
2021年2月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:菅田将暉 有村架純
監督:土井裕泰

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昨今の邦画では珍しい、映画オリジナル作品。それだけで劇場に向かう価値はある。同じように感じた人が多かったのか、MOVIXあまがさきの5番シアターには老若男女が詰めかけていた。実際の映画の仕上がりも標準以上のものだった。

 

あらすじ

大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は終電を逃してしまったことから偶然に出会う。サブカル趣味が共通する二人はたちまちのうちに意気投合。やがて付き合うことになるが・・・

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ポジティブ・サイド

 

以下、ネタバレに類する記述あり

 

主演の二人がスターでありながら、まったくオーラを発していないところが素晴らしい。まさに等身大の大学生からひよっこ社会人という感じである。おそらく本作が刺さるのは、菅田将暉や有村架純の同世代ではなく、Jovianのような中年世代の方だろう。少女漫画の実写映画化のプロットやキャラクターの背景からは「ああ、俺にもこんな青春があったなあ」とは思えないが、本作の麦と絹の二人からはそれが濃密に感じられる。はたから見れば何のことか分からない話題で盛り上がれるというのは、特に東京の大学生には重要である。地方から出てきて、全く新しい人間関係をゼロから構築する中で同好の士を見つけることは至上ミッションなのだ。大学の部活やサークル、同好会に居場所を見出せれば良いが、それができなかった場合は外に居場所を見つけなくてはならない。麦と絹は一種のアウトサイダー同士なのだ。麦と絹が互いの文庫本を見せあって破顔一笑するシーンでは、大学時代に栗本薫の『 グイン・サーガ 』シリーズや小野不由美の『 十二国記 』シリーズの話題で盛り上がれる女子に出会ったことを思い出した(その女子とは友達で終わってしまった・・・)。作家や作品名などに固有名詞がバンバン出てくるが、そこは自分なりに脳内で改変して楽しめばいい。これはそういう映画である。

 

麦と絹のフリーター同士の交際から同棲、そして徐々に生活に齟齬が生まれてくる流れも巧みで自然だ。自然と言うのは、よくあることという意味ではなく、誰もが自分なりに置き換えて消化できるエピソードになっているということだ。麦が絹に自作のガスタンク映画を見せてやり、その長さに思わず寝入る絹の寝顔を見つめる麦の表情が印象的で、Jovianは『 ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間 』を有楽町で一緒に観た大学の同級生(友達で終わった女子ね・・・)を思い出した。

 

麦の趣味であり夢であるイラストレーター、絹の趣味である「ラーメンと女子大生のブログ」が、二人の生活に占める割合が変化していく様が演出の妙。イラストで身を立てようとして上手く行かない麦と、ラーメン屋巡りはスパッと辞めてしまったかに見える絹。男は年齢を重ねてロマンチストになるが、女性は年齢を重ねてリアリストになっていくという対比が見えて、上手いなと感じた。就職および仕事を巡っての心の在りようの変化も真に迫っている。『 何者 』でも共演した二人だからこそ、このあたりの芝居も非常にスムーズ。

 

別れのシーンも秀逸。これって俺の話なのか・・・、と困惑させられ、同時に痛く共感させられたのが、別れを切り出された麦が、絹に結婚を提案するところだ。若気の至りなのか、自分も血迷って別れ話の席で全く同じことをしたことがある。脚本家・坂元裕二の体験でもあるのか、それとも男性に普遍的な思考回路なのか。おそらく後者なのだと思うが、このシーンでは我あらず涙ぐんでしまった。その後に二人に別れを決断させる演出は反則。このシーンは絶対にB’zの『 いつかのメリークリスマス 』の最後の歌詞にインスパイアされている。間違いない。勝手に断言させてもらう。若者向けではなく、中年向け映画であると、ここで確信した。

 

劇中、邦画では珍しく駅名や地名がポンポン出てくる。飛田給と言えば東京外大。その昔に何回か合コンしたが、戦果ゼロ。明治大は高校の同級生が通っていたので、何度か訪れたことがある。そして何と一瞬だけではあるが、三鷹市芸術文化センター、通称ゲーセンが映っていたではないか。国際基督教大学出のJovianにとって馴染みのあるスポットである。自分のよく知る景色が出てきたことで、ここでもやはり5点オマケしておく。

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ネガティブ・サイド

いつ頃から、「好きです、付き合ってください」が「付き合ってください」だけOKというふうに変わったのだろうか。15~20年ぐらい前は「好きです」がないと、「付き合ってください」につながらなかったと記憶しているが、いつの間にやら「え、俺らってもう付き合ってるでしょ?」みたいな時代になったのか。『 勝手にふるえてろ 』でも松岡と渡辺のそんなシーンがあったが、本作ぐらい中年層にアピールする作品ならば、その世代の若い頃の恋愛文法に従ってほしかった。

 

冒頭から独白が多すぎるようにも感じた。キャラクターの心情を言葉で観客に効かせるのは悪いことではない。それが効果的であることも多い。けれども、本作のように観る側の経験や記憶、感情を刺激する作りであるならば、すべてを麦と絹に語らせるのではなく、行間に余裕を持たせた語りをさせるべきではなかったか。

 

引っかかったのは、麦が絹の髪をドライヤーで乾かしてやるところ。女性の髪に触るという行為は、めちゃくちゃハードルが高い行為に思えるのだが。俺が立派なオッサンの完成だからかな。このエピソードは三日間セックスしまくった後のシャワー後の方がよりリアリティがあったのでは?

 

自称・映画好きが『 ショーシャンクの空に 』を挙げるシーンで麦も絹も表情が凍り付くが、別ええやんけ・・・。『 ショーシャンクの空に 』も、別に最初から大ヒットしたわけじゃなく、徐々に人気が上がっていったメインストリームではなかった作品。ここは『 スター・ウォーズ 』とか『 アベンジャーズ 』と言わせるべきだった。

 

総評

劇場にたくさん来ていたが、10代20代には積極的にはお勧めしない。『 僕の好きな女の子 』同様に、30代40代にこそ観てほしいと個人的に思う。ハッピーエンドでもなくバンドエンドでもない。人生の中で確かにそこにあった青春を、時をかけて慈しめるようになった世代向けの作品。鑑賞後、なぜか無性にB’zのミニアルバム『 FRIENDS 』を聞きたくなった。中年男性B’zファンなら共感してくれるものと思うし、そうでなくとも青春の1ページを確かに思い起こさせてくれることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Those were the days.

劇中の「楽しかったね」の私訳。『 ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打上げ計画 』でも紹介した表現。語学学習はある程度の丸暗記が必要だが、一定以上のレベルに達したら状況とセットで理解することを目指すべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ラブロマンス, 日本, 有村架純, 監督:土井裕泰, 菅田将暉, 配給会社:リトルモア, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 花束みたいな恋をした 』 -青春と現実の境目が痛い-

『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』 -軽妙洒脱なフレンチ・コメディ-

Posted on 2020年11月17日 by cool-jupiter

シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 75点
2020年11月14日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:トマ・ソリベレ
監督:アレクシス・ミシャリク

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『 シラノ恋愛操作団 』という佳作があったが、戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』はいつの時代、どの地域でも、男性の共感を得るだろう。その戯曲の舞台化の舞台裏を映画にしたのが本作である。

 

あらすじ

エドモン・ロスタン(トマ・ソリベレ)に大物俳優クランの主演舞台の脚本を書く仕事が舞い込んできた。だが決まっているのは「シラノ・ド・ベルジュラック」というタイトルだけ。そんな中、エドモンは親友レオの恋の相手とレオの代わりに文通することに。そのことに触発されたエドモンは次第に脚本の執筆にも興が乗っていくが・・・

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ポジティブ・サイド

『 コレット 』と同じくベル・エポック華やかなりし時代である。舞台となったパリの街並みが美しい。街並みだけでなく、家屋や劇場の調度品も、その細部に至るまでが絢爛なフランス文化を表している。まさにスクリーンを通じてタイムトラベルした気分を味わえる。

 

主役のエドモンを演じたトマ・ソリベレがコメディアンとして良い味を出している。特に、周囲の事物をヒントにしてコクランの指定する文体で物語の内容を即興で諳んじていく様は、そのテンポの軽やかさと文章の美しさや雄渾さ、そしてユーモアと相まって、非常にエンタメ色あふれるシークエンスになっている。

 

同じく、親友のレオに成り代わって即興でジャンヌと言葉を交わし合うシーンでもエドモンが才気煥発、女心はこうやって掴めというお手本のように言葉を紡いでいく。このあたりはイタリア人の領域だと勝手に思っていたが、フランス人男性の詩想もどうしてなかなか優れているではないか。

 

現実世界でのエドモンの影武者的な活躍が、エドモンの手掛ける舞台劇に投影されていくところにメタ的な面白さがあり、さらにその過程を映画にしているところがメタメタ的である。エドモンが実際に生きた時代と地域を歴史に忠実に再現してみせる大道具や小道具、衣装やメイクアップアーティストの仕事のおかげで、シラノが先なのかエドモンが先なのかという、ある意味でメタメタメタな構造をも備えた物語になっている。

 

さらに劇中の現実世界=エドモンが代理文通を行っていることが、エドモンの家庭の不和を呼びかねない事態にもなり、コメディなのにシリアス、シリアスなのにコメディという不条理なおかしみが生まれている。そう、エドモンがコクランの無茶ぶりに必死に答えるのも、エドモンがレオの恋慕をアシストするのも、エドモンが妻にあらぬ疑いをかけられるのも、すべては不条理なおかしみを生むためなのだ。

 

主人公たるシラノも、レオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こさせる万能の天才でありながら、その醜い鼻のためにコンプレックスを抱くという不条理に見舞われている。しかし、それこそが本作のテーマなのだ。本作に登場する人物は、皆どこかしらに足りないものを抱え、それを埋めるために奔走している。それが劇を作り上げるという情熱に昇華されていくことで、とてつもないエネルギーが生まれている。

 

テレビドラマの『 ER緊急救命室 』で多用されたカメラワークを存分に採用。劇場内の人物をじっくりを追い、ズームインしズームアウトし、周囲を回り、そして他の人物にフォーカスを移していく。まさに舞台上の群像劇を目で追うかのようで、実に楽しい。随所でクスクスと笑わせて、ラストにほろりとさせられて、エンドロールでほうほうと唸らされる。そんなフランス発の歴史コメディの良作である。

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ネガティブ・サイド

マリアをあそこまで文字通りに奈落の底に突き落とす必要があったのだろうか。この瞬間だけは正直なところ笑えなかった。

 

またジャンヌをめぐってエドモンとレオの仲がギクシャクしてしまう瞬間が訪れるが、元はと言えばその元凶はレオその人の発した何気ない一言ではないか。不条理がテーマの本作とは言え、ここだけは得心しがたかった。ここで懊悩すべきはエドモンではなくレオその人ではないのだろうか。

 

リュミエール兄弟の映画発明と同時期なのだから、もっと「活動写真」の黎明期の熱を描写してほしかったと思う。その上で、舞台の持つ可能性や映画との差異をもっと強調する演出を全編に施して欲しかった。コロナ禍において、映画は映画館で観るものから、自宅のテレビやポータブルなデバイスで観るものに変わりゆく可能性がある。古い芸術の表現形態が新しい技術に取って代わられようとする中での物語という面を強調すれば、もっと現代の映画人や映画ファンに勇気やサジェスチョンを与えられる作品になったはずだ(こんなパンデミックなど誰にも予想はできなかったので、完全に無いものねだりの要望であはあるのだが)。

 

総評

戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』のあらすじはある程度知っておくべし。それだけで鑑賞OKである。ハリウッド的な計算ずくで作られた映画でもなく、韓国的な情け容赦ないドラマでもない、とてもフランスらしい豪華絢爛にして軽妙洒脱な一作である。エンドクレジットでも席を立たないように。フランスで、そして世界で最もたくさん演じられた劇であるということを実感させてくれるエンドロールで、『 ファヒム パリが見た奇跡 』のジェラール・ドパルデューの雄姿も見られる。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語レッスン

Non merci

英語にすれば、“No, thank you.”、つまり「いえいえ、結構です」の意である。Oui merci = Yes, thank you.もセットで覚えておけば、フランス旅行中に役立つだろう。別に言葉が通じなくても、相手のちょっとしたサービスや気遣いに対して、簡単な言葉で返していくことも実際にはよくあることだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, コメディ, トマ・ソリベレ, フランス, ベルギー, 歴史, 監督:アレクシス・ミシャリク, 配給会社:キノフィルムズ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』 -軽妙洒脱なフレンチ・コメディ-

『 星の子 』 -信仰深い少女のビルドゥングスロマン-

Posted on 2020年11月2日 by cool-jupiter

星の子 65点
2020年10月30日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:芦田愛菜 蒔田彩珠 永瀬正敏 原田知世 岡田将生
監督:大森立嗣 

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新興宗教に傾倒する家族、特にその娘にフォーカスした物語。個人的に観ていて精神的に消耗させられた。Jovianの大昔のガールフレンドも、まさに本作のちひろのような感じだったからだ。

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あらすじ

ちひろ(芦田愛菜)は未熟児として生まれ、アレルギーにも苦しんでいた。しかし、「金星のめぐみ」という水の力でちひろが回復したと信じた両親は、その水への傾倒を深めていく。中学3年生とったちひろも水への信仰を持っていたが、学校の数学教師に恋心を抱くようになり、信仰心と恋心の間で揺れ動き始めていた・・・

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ポジティブ・サイド

宗教と聞くと『 スペシャルアクターズ 』のようなインチキ宗教を思い浮かべる向きが多いだろう。日本人は基本的に無宗教だと言われるが、それは「神」や「法」といった抽象概念への信仰が薄いだけで、何かを信じる気持ちは普通に持っている。そして、それは圧倒的多数が往々にしてそのことに無自覚である。テレビでちょっと「納豆がダイエットに良い」、「バナナがダイエットに効く」とやるだけでスーパーから商品が消える。最近でもどこぞのアホな府知事が「イソジンでコロナが消えていく」と大真面目に語ったことで、薬局やドラッグストアでイソジンが品薄になった。こうした日本人の傾向を自覚するか、それとも宗教は胡散臭いし、それを信じる人はキモチワルイと思うか、それによって本作の意味(≠評価)は大きく変わると思われる。

 

最初はかなり良い家に住んでいるちひろの一家が、ちひろが中学生になる頃にはあばら家・・・とは言わないまでも、かなりグレードダウンした家に住んでいることが目につく。寝所を変えなければならないほどに、「金星のめぐみ」にカネを使っているということだろう。ちひろの父親は職場関係の人から勧誘され、その父も妻の兄を勧誘する。我々はこうした勧誘行為にうさん臭さを感じるわけだが、本作に描かれるちひろの両親には悪意は認められない。アレルギーに苦しむ娘を救ってくれた奇跡の水に感謝しているという、善意からの行動なのだ。

 

そうした両親に育てられたちひろが「水」の力を信じる一方で、姉のまーちゃんは信仰や宗教に反発し、家を出て、自身の選ぶべき道を模索し、それを掴み取っていく。その過程が詳細に描写されるわけではないが、まーちゃんがどれほど普通を渇望し、それに魅せられているかを幼いちひろに訥々と語る長回しのシーンは、『 真っ赤な星 』での小松未来と桜井ユキの天文観測所での語らいを思い起こさせてくれた。

 

非常に閉じた世界に住むちひろが、岡田将生演じる数学教師に恋をする描写も好ましい。少女漫画原作とは趣が全く異なり、甘酸っぱさを前面に出したりはしない。イケメンだからと言って、内面が素晴らしい人間かと言えば、必ずしもそうではない。見た目に奇行が目立つからと言って、内面的に悪であったり薄汚れていたりするわけでもない。ある意味、常識的な人間社会や人間関係の在り方を見せているだけなのだが、そこにちひろというフィルターを通すだけで、世界の在りようが大きく異なって見える。自分が好きな相手が、自分に対して好意を抱いているわけではない。当たり前のことだ。けれども、そうした当たり前を受け止められないちひろの感情の発露は、見ていてとてもショッキングで痛ましい。逆にそれは、ちひろが両親に注ぎ込まれた愛情の大きさを逆説的に表してもいる。一つひとつの人間関係や事象に安易な善悪のラベリングをしない点で、本作のドラマは深みを増している。高良健吾や黒木華の演じる教団幹部の言動から

 

母を探すちひろ、ちひろを探す母。最終盤の二人のすれ違いは、そのまま彼女らの住む世界が徐々に異なってきていることの表れなのだろう。切れそうで切れない紐帯。それが信仰心によるものなのか、それとも家族愛によるものなのか。大森監督はそこを我々に見極めてもらいたがっている。そのように思えてならない。

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ネガティブ・サイド

岡田将生に両親を変人扱いされたちひろが、混乱のあまりに街を駆けるシーンは、邦画お馴染みのクリシェでもう見飽きた。全力で走る主人公を真横からのアングルで並走するクルマから撮らないと映画人はじんましんでも出るのだろうか。

 

アニメーションで空から落ちていくちひろの描写も、ストーリー全体の流れからするとノイズに感じられた。ちひろの千々に乱れる心象風景を描写するなら、それこそ浜辺で黄昏を見つめるような、映画的な演出がいくらでも考えられたはずだ。

 

『 MOTHER マザー 』で顕著だった、子が親を慕う無条件にも近い愛の描き方が弱かったように思う。自ら家族を捨てたまーちゃんが一報だけを寄こしてくるシーンを映して欲しかった。その報を受けた永瀬なり原田なりが破顔一笑する、または感涙する一瞬を映し出してくれれば、紐帯としての家族というテーマがよりくっきりと浮かび上がってきたことだろう。

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総評

かなり賛否両論が分かれる作品だろう。それは宗教というものに関する嫌悪感が背景にあるからだが、その嫌悪感の裏には無知や無理解、無関心が潜んでいる。本作が今というタイミングで映画化されたことの意義は決して小さくない。宗教=何かを強く信じることだ。停滞・低迷する日本の社会で興隆しつつあるオンラインサロンは一種の教団ではないのか。Jovianは時々そのように感じる。宗教的な背景や信仰心を受容できず、関係を途絶えさせてしまった経験を持つJovianには本作は色々な意味で突き刺さった。ぜひ諸賢も鑑賞されたし。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

put ~ away

『 マリッジ・ストーリー 』でも紹介した「~を片付ける」という表現。「その目障りな水を片付けろ!」という一喝は

Put that goddamn water away!

という感じだろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, C Rank, ヒューマンドラマ, 原田知世, 岡田将生, 日本, 永瀬正敏, 監督:大森立嗣, 芦田愛菜, 蒔田彩珠, 配給会社:ヨアケ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 星の子 』 -信仰深い少女のビルドゥングスロマン-

『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

Posted on 2020年8月16日 by cool-jupiter
『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

ファヒム パリが見た奇跡 75点
2020年8月14日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:アサド・アーメッド ジェラール・ドパルデュー
監督:ピエール=フランソワ・マンタン=ラバル

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Jovianはチェスの基本的なルールしか知らない。指したことは3~4回だけである。チェスの映画は『 完全なるチェックメイト 』ぐらいしか観ていないし、それに関連して『 完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 』を読んだぐらいである。フィッシャー=小池重明以上の人格破綻者、と言えば、そこそこディープな将棋ファンには伝わるだろう。それぐらいのチェスの世界の知識でも本作は楽しめるし、むしろチェスの知識がない方が人間ドラマに集中できるかもしれない。

 

あらすじ

ファヒム(アサド・アーメッド)はバングラデシュの天才チェス少年。チェスのグランドマスターに会うという名目で、父に連れられてフランスのパリにやってきた。ファヒムはチェスのクラブに通い、チェスを学び、フランス語を覚え、同世代の子らと友情を育み、シルヴァン(ジェラール・ドパルデュー)とも奇妙な師弟関係を結んでいく。しかし、ファヒムの父の不法滞在が明らかになり、国外退去が時間の問題となってしまい・・・

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ポジティブ・サイド

ファヒムを演じたアサド・アーメッドの演技力に鳥肌が立った。『 存在のない子供たち 』の主人公ゼインや『 アジョシ 』のキム・セロンに並ぶ存在感。緊迫した政治状況にあるバングラデシュで屈託なく生きる子どもが、母との別離、外国での暮らし、友情、師弟関係、親子関係、そしてチェスを通じて成長していく様には純粋に胸を打たれた。印象的だったのは、チェスの対局時に一手指すごとに相手を射抜くような目を見せること。将棋の対局では盤上から視線をそらさない者と対戦相手に視線を向ける者の両方がいるが、チェスのでも同様らしい。その目に宿る力強さには名状しがたいものがあった。目は口程に物を言うものである。

 

ファヒムを取り巻く同世代のチェス仲間たちも良い味を出している。特にファヒムにフランス語のスラングを教え込む男の子には、『 IT イット “それ”が見えたら、終わり。 』のリッチー・トージアと共通するものを感じた。下品なスラングを教える/教わるというのは、友情を育む一つの有効な方法である。Jovianも大学の寮で“Hold on a minute, playa.”だとか“Sup, pimp?”などの、今では絶対に使えないようなアレやコレな表現を教えてもらったことを懐かしく思い出した。また、ファヒムが難民センターの子らと意思疎通をしていくシーンでは、ジェスチャーの有効性と文脈理解の重要性の両方が示されている。外国語学習者は、言葉だけではなくもっと“コミュニケーション方法”を学ぶべきだとの自説の意を強くした次第である。

 

Back on track. 本作はファヒムの文学的な意味での「父殺し」の物語でもある。チェスや将棋というのは、だいたい子どもは父親から教わるものだろう。そして、最初はどうやったって経験者には敵わない。だが、長じるにつれて上達し、子どもはだいたい父親を負かすものだ。本作でもファヒムは実の父親をチェスで負かし、そして精神的な父親であるジェラールのトラウマを、彼の代理として打ち消す。単純にチェスの勝ち負けだけでその過程が描かれるのではなく、ファヒムの内面の葛藤や対戦相手との関係、そしてジェラール自身の過去が投影されていることが、本作のクライマックスを大いに盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド 

ファヒムの父親の描き方が少々乱暴であるように感じた。バングラデシュでは消防士という非常に堅い仕事に就きながら、フランスではまったくの愚鈍な足手まといになってしまっていた。それは別に構わない。ただ、文化や風俗習慣の違いを素直に受け入れられないのは良いとしても、なにか見せ場の一つや二つは用意できなかったか。たとえば難民センターの消火器の置き場所をもっと適切なところに変更するとか、プロフェッショナルでありながらもその能力を発揮する場や時がない、という描き方もできたはず。そうしたシーンがないため、この父親が善人ではあるが無能であるというふうに映ってしまう。移民が無能なのではなく、環境がそうさせるのだというメッセージを発するべきだったのではないだろうか。

 

難民センターで知り合ったサッカー少年たちのその後はどうなったのだろう。ファヒム親子の土壇場の大逆転劇は確かに感動的であるが、ひとつ間違えれば「フランスは才能ある移民だけしか歓迎しない」というメッセージにもなりうる。今日、政情が不安定という国の多くは、その原因が現在の国連常任理事国のかつての帝国主義的政策に端を発するのだから、フランスは責任ある国家として世界の融和を目指すという立場を表明すべきだったと感じる。

 

総評

色々とフランス社会の描かれ方に不満もあるが、本作は紛れもない良作である。こういうドラマを見せられると、ボビー・フィッシャーを拘留したのは職務に忠実だったと言えるが、精神的に相当ダメージを与えるような処遇をしたとされる日本の出入国管理局について、あらためて考えさせられる。本作はフランス映画として観るよりも、明日の日本社会を描いた作品として観るべきである。『 ルース・エドガー 』のレビューでも述べたが、日本にもファヒムのような天才児が出現または到来する、あるいは将棋界に藤井聡太並みの外国人棋士が生まれても全く不思議はないのである。そうした一種の未来シミュレーションとして本作を鑑賞することも可能である。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語レッスン

parfait

英語で言えば“Perfect”、日本語で言えば「完璧」である。ただ、日本語でもそうだが、完璧でなくてもバンバン使う表現である。カナダ人が好んで使う表現だという印象を持っている。実際にカナダに旅行に行った時、どこのウェイターもウェイトレスも、注文を言い終わると“Perfect!”を連発していた。フランス旅行の際に、ホテルやレストランの従業員に一声かける時に使えるかもしれない。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アサド・アーメッド, ジェラール・ドパルデュー, ヒューマンドラマ, フランス, 伝記, 監督:ピエール=フランソワ・マンタン=ラバル, 配給会社:STAR CHANNEL MOVIES, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ファヒム パリが見た奇跡 』 -日本のありうべき未来が見える-

『 ルース・エドガー 』 -多面的な上質サスペンス-

Posted on 2020年6月10日2022年3月7日 by cool-jupiter

ルース・エドガー 70点
2020年6月7日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ケルビン・ハリソン・Jr ナオミ・ワッツ オクタビア・スペンサー
監督:ジュリアス・オナー

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“Black Lives Matter”の抗議運動は止まりそうもない。もちろん、良い意味で止まってほしいと切に願う。『 ハリエット 』で描かれた「地下鉄道」が黒人と白人の両方によって運営されていたように、差別する側が廃止する運動を起こさないことには、問題は解決しない。そしてかの国の白人大統領は市民に銃口を向けることを厭わぬ姿勢を鮮明に打ち出している。そんな中、アメリカからまたも秀作が送り出されてきた。

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あらすじ

ルース(ケルビン・ハリソン・Jr)は裕福な白人家庭に養子として育った優等生。だが、高校教師のハリエット・ウィルソン(オクタビア・スペンサー)はルースの書いたあるレポートをきっかけに彼の心の闇を嗅ぎつけて・・・

 

ポジティブ・サイド

物語の振り子があっちこっちにすごい勢いで振れていく。白人vs黒人というような紋切り型の対立軸はここにはない。あるのはできる黒人と落ちこぼれの黒人の対立軸、白人とアジア系の対立軸、血のつながった家族と養子縁組をした家族、とにかくそこかしこに火種・・・と言っては大げさだが、人間関係を緊張させる要素が潜んでいる。そうした人間関係の中心に位置するのがルースであり、彼の言動は学校や家庭といった水面に良い意味でも悪い意味でも常に波紋を呼ぶ。この見せ方は上手い。巧みである。日本の少女漫画を映画化した作品でも、完璧超人な男子キャラが学校の外ではトラブルや心の闇を抱えていることが多い。だが本作のルースは、その闇の深さや濃さを容易に周囲の家族や教師に悟らせない。いや、映画を観る者すらもある意味では彼に翻弄される。いったいルースは善量なのか、それとも悪辣なのか。彼が善だとすれば、様々な対立軸の総てにおいて善なのか。そうした観る側の疑問がそのまま劇中でサスペンスを盛り上げる。

 

見た瞬間に分かることだが、主人公ルースは黒人、両親は白人。ああ、養子なのか、ということがすぐに察せられるが、interracial marriageやinterracial relationshipsという言葉が存在するように、人種と人種の間には越えがたい壁、埋めがたい溝がある。そして戦争・紛争の絶えない地域で幼少期を過ごしたルースが、アメリカという“一見すると平和な国”に順応するのはたやすくなかったであろうことも容易に想像がつく。Jovianは両親に「子育てに見返りなんかないで。親からしたら、子どもが一人で歩いたり、言葉をしゃべったりしただけで満足や」と言われたことがある。このあたりが血のつながりと養子の差、違いなのかと少しだけ思う。無償の愛を注ぐ母エイミーと父ピーターが、実子ではないルースに対して疑念を生じさせていく過程には、胸が締め付けられるような悲しみと、怒りの感情が呼び起こされるような身勝手さの両方がある。両親、特に母エイミーの視点からルースの行動を見ると、思い通りにならない我が子への苛立ちの気持ちが、血がつながっていないからこそ増幅される、だからこそエイミーはそれを必死で抑え込もうとする、という二重の苦悩が見えてくる。いやはや、なんとも疲れる映画体験である。

 

だが最も我々を披露させるのはオクタビア・スペンサー演じるハリエットである。彼女自身、黒人として様々な経験を経て教師という職業に身を捧げている。同じ教育に携わる者としてJovianはハリエットの善意が理解できる。黒人にはそもそもチャンスがあまり巡ってこない。だからこそ、そのチャンスを確実につかめそうなルースをさらに引き上げるために、劣等生の黒人生徒を排除した。ハリエットはそれを善意で行っている。Jovianは映画を鑑賞しながら、岡村隆史の「コロナ後の風俗を楽しみにしよう」という旨の発言、そしてその発言の擁護者たちを思い起こしていた。「岡村は女性を貶めたのではなく、一部の人間を励まそうとしていた」という論理である。ちょっと待て。善意に基づいた言動なら、その結果が苦痛をもたらしても正当化されるというのか?これではまるで戦前の大東亜共栄圏建設のスローガンと同じではないか。そしてこのようなエクストリームな論理がある程度幅を利かせているところに、戦後75年にして、日本がいまだに“戦争”を総括できないという貧弱な歴史観しか持たないことを間接的に証明している。

 

Back to track. 教師たるハリエットの誤りは明白である。だがそのハリエットが、自身だけではなく身内に苛まれていることを、とてつもなくショッキングな方法で我々は見せつけられる。ハリエットの教育方法は本当に誤りなのか、ハリエットが一部の生徒に厳しく接することは彼女の罪なのか、と我々は自問せざるを得なくなる。

 

最終盤のルースの行動によって、我々は彼の本当の姿はこうだったのか!と、これまたショッキングな方法で見せつけられる。だが、ラストのラストで彼が取る行動、そして見せる表情には『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』のように自分から逃げようとしているかのようである。だが、彼が逃げようとしている自分とは誰か?善良な優等生ルースなのか、それとも狡知に長けた怪物なのか。その解釈は観る者に委ねられているのだろう。

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ネガティブ・サイド

D-runnerの正体が明かされない。かなり高い確率でデショーンなのだろうと思われるが、もう少しD-runnerがいったい誰なのかを示唆してくれる描写が欲しかったところ。この文字面だけでは drug-runnerに思えてしまい、かなり剣呑である。そういう効果を狙ってのことだろうが。

 

ステファニー・キムというキャラクターは素晴らしかったし、演じた役者も見事の一語に尽きる。だが、彼女にこそルース並みの演出を求めるべきではなかったか。本作は視点によって、また対立軸のこちらかあちらかで善と悪がころころと入れ替わる。そのことにキャラクターだけではなく観る側も振り回される。だが、ステファニー・キムのようなキャラクターこそ、劇中登場人物は振り回されるが、観ている我々は「ははーん、こいつは本当はこうだな」と思わせる、あるいはその逆で、登場人物たちは一切振り回されないが、観ているこちらはステファニーの本性、立ち位置について考えが千々に乱れてまとめようにもまとめられない、そんな工夫や演出があってしかるべきだったと思う。

 

本作は珍しく校長が無能である。いや、『 ワンダー 君は太陽 』や『 ミーン・ガールズ 』でも分かるように、アメリカの校長というのは有能、または威厳の持ち主でないと務まらない。なぜこの人物がこの学校で校長をやっているのか、そこが腑に落ちなかった。

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総評

秀逸なサスペンスである。現代アメリカ社会の問題がこの一本に凝縮されている。こうした作品を鑑賞することは、現代日本人にとって決して無駄なことではない。日本の小学校では両親の片方が日本人、もう片方がフィリピン人、ブラジル人、イラン人という生徒が増加傾向にある。そのこと自体の是々非々は問わない。しかし確実に言えることは、いずれそうしたinterracialな出自の子たちの中から超優等生が生まれてくる、ということである。日本の学校、そして社会・国家はそうした子をどう受容するのか。本作は一種の教材であり、未来のシミュレーションでもある。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

keep ~ in the loop

常に~を情報共有の輪に入れておく、のような意味である。作中では母エイミーが息子ルースに「私たち、最近keep each other in the loopができてなかったでしょ」と言っていた。日常生活で使っても良いが、どちらかというとビジネスの場で使うことが多いように思う。単にin the loopという形でも使われることが多い。実際にJovianの職場でもイングランド人が“Why am I not in the loop?”と立腹する事案が先日発生した。同僚や家族、友人とはkeep each other in the loopを心がけようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オクタビア・スペンサー, ケルビン・ハリソン・Jr., サスペンス, ナオミ・ワッツ, 監督:ジュリアス・オナー, 配給会社:キノフィルムズ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ルース・エドガー 』 -多面的な上質サスペンス-

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