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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: 配給会社:東京テアトル

『 窓辺にて 』 -愛を巡っての珠玉の対話劇-

Posted on 2022年11月20日 by cool-jupiter

窓辺にて 75点
2022年11月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:稲垣吾郎 中村ゆり 玉城ティナ 若葉竜也
監督:今泉力哉

 

『 愛がなんだ 』の今泉力哉がオリジナル脚本で映画化。本作でも愛の不条理さを独特の感性で描き出すことに成功した。

あらすじ

フリーで物書きをしている市川茂巳(稲垣吾郎)は、小説編集者である妻・紗衣(中村ゆり)が担当作家と浮気していることを知るが、そのこと自体にショックを覚えなかった自分自身にショックを受ける。一方で、茂巳は新進気鋭の女子高生作家・久保留亜(玉城ティナ)へのインタビューをきっかけに、彼女の作品のキャラクターのモデルとなった人物と合うことになり・・・

ポジティブ・サイド

なんだかんだで稲垣吾郎あっての映画だなと感じた。と、ちょっと待て。よくよく思い返してみると、Jovianが稲垣吾郎をスクリーンで観るのは、なんと『 催眠 』以来ではないか。4中年の危機とは無縁そうに見えるが、その内面を大きくかき乱された、しかしそのことを決して表面には出さない大人を好演したと言える。

 

本作のテーマは愛の形。それは今泉力哉監督が一貫して追求しているテーマである。妻が浮気をしている。そのことに腹を立てない夫は、妻を愛していると言えるのか。茂巳がサッカー選手である友人・有坂とその妻にそのことを相談するが、その有坂自身も芸能人女性と実は浮気をしている。妻もそのことに気付いている。妻は夫に腹を立てつつも、最終的には許してしまう。なぜなら夫を愛しているから。観ている我々からすれば「なんだ、この茂巳というキャラは。変な奴だなあ」と感じるが、それがいつの間にやら「なんだ、有坂の妻は。変な奴だなあ」に変わっていく。そう。愛とは元々変なものなのだ。愛しているから許せないこともあるし、愛しているからこそ許してしまうこともある。本作はそのことをドラマチックな展開もなく、淡々と見せていく。

 

茂巳は茂巳で、女子高生作家の久保留亜に大いに振り回される。小説のキャラクターのモデルに会わせてもらう中で、ボーイフレンドを紹介され、なぜか二人で軽くバイクのツーリングに出ることに。そうなんだよなあ。人と人とが触れ合い、分かり合うのに、毎回毎回たいそうな理屈が必要なわけでもない。事実、二人は後に思わぬ形で触れ合うことになる。その光景がまたとても微笑ましい。

 

茂巳は誰かに何かを言われるたびに「え?」と素っ頓狂な返事をするばかりで、まったく主体性のある人物には見えない。にもかかわらず、物語は静かに、しかし確実に彼を軸にして進んでいく。茂巳が誰に対しても真摯に耳を傾け、真摯に受け答えする姿勢によって、相手は自分なりに答えを見つけていく。

 

本作は一つひとつの対話の場面が非常に長く、しかもその多くがロングのワンカット。まさに演出する監督と演じる役者のせめぎ合いという感じだが、そのどれもが実に自然に映る。留亜と茂巳がホテルのスイートの一室で語らう場面でぶどうの実がひとつ房から落ちてしまい、それを茂巳が自然に拾い上げる。これは演出なのか、それともアドリブなのか。色々なキャラクターと茂巳がカフェや公園などで語り合うばかりの2時間半の映画が長く感じないというのは、対話の一つひとつがそれだけ真に迫っているからだ。

 

本作は物語論についても非常に含蓄のある示唆を与えてくれる。Jovianの兄弟子(と勝手に思っている)奥泉光は「論文を書くと、自分の中で知識が体系化されていく。小説を書くと、自分の中が空っぽになる」と『 虚構まみれ 』で書いていた。本作でもこのことが強く示唆されていて、今泉力哉は小説家としても相当な書き手であることを窺わせる。書くということは、思いや考えを固定してしまうことであり、それが小説、就中、私小説であれば美しい思い出としてキープしておきたい自身の物語を失ってしまうことになる。このあたりの物書きの機微を茂巳から読み取れた。稲垣吾郎と今泉力哉、なかなかのケミストリーだ。

 

オープニングとエンディングで茂巳が見せる、ある光のアクセサリがまぶしい。愛はそこにあったが、今はない。けれど、愛は確かにそこに存在した。そして、その瞬間は光り輝いていたのだ。手放してこそ実感できる愛、それもまた一つの愛の形ではないか。

 

ネガティブ・サイド

城定秀夫監督の『 愛なのに 』ぐらいのベッドシーンがあっても良かったのでは?また、玉城ティナのシャワーシーンも曇りガラスの向こうにうっすら見える程度に撮影できなかったのかな?ドロドロの不倫と中年とは思えない純朴さの対比が、稲垣吾郎演じる茂巳というキャラをより引き立たせるように思うのだが。

 

DINKSにしても、えらい良い家に住んでいるなと感じた。ロケーション協力に狛江と見えたが、あのエリアでも家賃あるいは月々のローンはかなりのものだろう。二馬力とはいえ、茂巳が一切家で仕事をしているシーンがないのは、少々現実離れしているように見えた。

 

総評

観終わってすぐに思い浮かんだのは B’z の LOVE & CHAIN の歌詞を思い出した。初期からのB’zファンなら

 

愛するというのは信じるということであっても

相手のすべてに寛容であるということではない

束縛された時に感じる愛もある

 

という間奏中の語りを知っているはず。愛というのは難しい。束縛された時に感じる愛もあれば、手放したことで感じる愛もあるはず。シニアのカップルで鑑賞していただきたい逸品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

perfect

日本語にもなっている語。カナダではウェイターが頻繁に使っていた。

 

A:I’ll have this breakfast set.
B:Perfect!

 

A:Two glasses of beer, please.
B:Two glasses of beer? Perfect!

 

など。Good と相槌を打つ際に、時々 “Perfect!” と言ってみよう。

 

次に劇場鑑賞したい映画

『 ザ・メニュー 』
『 ザリガニの鳴くところ 』
『 ある男 』

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 中村ゆり, 日本, 玉城ティナ, 監督:今泉力哉, 稲垣吾郎, 若葉竜也, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 窓辺にて 』 -愛を巡っての珠玉の対話劇-

『 さかなのこ 』 -Normal is overrated-

Posted on 2022年9月5日 by cool-jupiter

さかなのこ 60点
2022年9月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:のん 磯村勇人 柳楽優弥 井川遥 夏帆
監督:沖田修一

 

『 ダーウィンが来た! 』などに時々出てくるさかなクンの半生を、どういうわけかのんが演じる。

あらすじ

ミー坊(のん)は魚に夢中な女の子。長じてもそれは変わらず、高校では変人扱い。ある時、不良の総長(磯村勇人)に呼び出しを食らったミー坊だったが、何故かそこから学校でカブトガニを育てることにつながり・・・

 

ポジティブ・サイド

とにかく魚好きという気持ちが強く伝わってくる作品。かといって、無邪気に魚を愛でるだけではない。魚を食べまくるし、タコにいたっては基本に忠実に岩に打ち付けて身を柔らかくしたりする。この時点で映画はファンタジーではなく、自伝の様相を帯びてくる。普通はタコをバンバン岩に叩きつける描写など入れないだろう。ここで監督や製作者たちの気合が伝わってきた。

 

のん演じるミー坊が総長たちといつの間にか仲良くなったり、他校の不良とも打ち解けたりの流れがコミカルで楽しい。勉強はできないけれど、魚好きという気持ちは周囲に確実に伝わっていく。周りは大人になっていくし、状況は変化していく。それはとりもなおさず、生き方を変えていくことに他ならない。しかし、ミー坊は変わらない。小学校の同級生がシングルマザーとして転がり込んできても、ミー坊は魚好きであることをやめない。井川遥演じる母親がミー坊の気持ちを常に肯定する、一種の親の鑑になっている。

 

当たり前だが、好きを貫くだけで世の中を渡っていけるほど甘くはない。実際にミー坊の人生にも数々の試練が訪れる。ただ、それを跳ね返すだけの強さがミー坊にあり、またミー坊によって人生を変えられた人間たちの助力もあって、ミー坊はさかなクンになっていく。日本は突き抜けた天才が出てこない国だが、それに対する解答というか、解決策のひとつを本作は示しているかもしれない。

 

さかなクンと言えば、最初は「ご」が「ギョ」になる変なオッサンぐらいに思っていたが、知るにつれてすごい、いや、すギョい人だと認識するようになった。その男性のさかなクンを女性ののんが演じることで、ファンタジー性が生まれている。それによって、本作の持つファンタジックなメッセージ性に逆にリアリティが付与されているように感じた。魚好きが昂じて魚ばかり食べたり、図鑑を読みふけったり、水族館に入り浸ったりというのは、子どもにならよくあること。しかし、それが高校生ぐらいになっても継続するとなると、ちょっとおかしいと感じられるかもしれない。『 女神の見えざる手 』で、フォードがスローンに”Normal is overrated” = 普通がなんだ、と諭すように言うシーンがある。普通でないのなら、それもOK。逆に突き抜けるぐらい different であろうではないか。

ネガティブ・サイド

さかなクン本人が出演する必要はあったのだろうか。いや、別に出演してくれてもよいのだが、変質者もどきである必要性が認められない。また、トレードマークのハコフグの帽子に何らかの神秘性というか、妙な光を放って頭から取れないという描写も不要だった。というか、さかなクンの出演パート全てが不要だった。プロデューサーの職権乱用ではないだろうか。

 

ある時点からミー坊の人生が大きく開けていくことになるが、それが全て旧友たちの伝手によるものというのは少々いただけない。おそらくターゲットをかなり低年齢にも広げている作品だと思われるが、「がんばっていればともだちがたすけてくれる」(全て平仮名)という甘い観念を植えつけたりはしないだろうか。「好き」を貫くことの素晴らしさと難しさ、「普通」と「普通ではない」の境界。そういった社会の矛盾というか、ちょっとおかしなところを子どもたちと大人、両方に考えてもらえる塩梅にはなっていなかった。

総評

さかなクン出演パートをどう見るかで印象がガラリと変わりそう。さかなクンのファンの子どもたちが「たいほ」や「にんいどうこう」なる言葉を知っているとは思えない。本作はそうした子どもを対象にしていないと考えるには、ミー坊が大人になった後のドラマの数々があまりにも大人向けだ。ただ日本における教育、日本における子育てが、どこかせせこましいものになっていることをやんわりと指摘する作品としては悪くない。のんのファンならチケットを買って損をすることはないだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

normal

普通の意。日本語にもなっている語だが、この形容詞の基になっている norm という語となると、知っている人が激減する。norm = 規範、基準という意味である。normal とは規範通りである、基準に従っているという状態を指す。abnormal が異常と解釈されるのも、norm から離れているからなのだ。

 

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Posted in 未分類Tagged 2020年代, C Rank, のん, ヒューマンドラマ, 井川遥, 伝記, 夏帆, 日本, 柳楽優弥, 監督:沖田修一, 磯村勇人, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 さかなのこ 』 -Normal is overrated-

『 神々の山嶺 』 -登ることが生きること-

Posted on 2022年7月12日2022年7月12日 by cool-jupiter

神々の山嶺 70点
2022年7月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:堀内賢雄 大塚明夫
監督:パトリック・インバート

原作は夢枕獏の小説。実写映画『 エヴェレスト 神々の山嶺 』はコケてしまったが、本作はかなりのクオリティ。山ガールであるJovian嫁は画面にくぎ付けで、Jovianもキャラクターの生き様に大いに魅せられてしまった。

 

あらすじ

雑誌カメラマンの深町誠(堀内賢雄)は、バーで伝説の登山家マロリーのエヴェレスト登頂を捉えたとされるカメラを買わないかと持ちかけられるが、それを断ってしまう。しかしその直後、長らく姿を消していた登山家・羽生丈二(大塚明夫)が、マロリーのカメラを奪っていくところを目撃する。深町は羽生の行方を追うが・・・

ポジティブ・サイド

冒頭で出てくるジョージ・マロリーの名前にピンと来る人は少数だろうが、「なぜ山に登るのか」「そこに山があるからだ」という問答は多くの人が知っていることだろう。山に登るというのはレジャーでありながら、世界で最も危険なスポーツでもある。本作は、その登山の危険性と不可思議な魅力を二人の男を通じて描き出している。

 

「経営者は登山を趣味にすることが多い」と、とある経営者から聞いたことがある。理由は「孤独になれるから」とのことだった。なるほどなと思う。確かに登山は非常に孤独な営為だろう。だが、趣味ではなく職業、いや、生き様としての登山というものはあるのだろうか。本作はこうした問いにも一定の答えを提示している。

 

羽生丈二の不器用な生き方は、まさに登山家を思わせる。サラリーマンとして和して同ぜず、スポンサーのためではなく自分のために登るのだと公言する。バディに何かアクシデントがあった時には迷わずロープを切ると言い放つ非情さにも似たプロフェッショナリズム。しかし、若い文太郎の身に起きたアクシデントに対してはそのような真似はせず、救出のために最善を尽くそうとする。しかし・・・ こうした体験を通じて、なお山に登り続ける羽生という男の生き様、さらに山そのものが持つ妖しい魅力、いや魔力と言うべきか。そうしたものを解き明かしたいと願う深町の邂逅は実にドラマチックだ。

 

エヴェレストの過酷すぎる環境と、それに挑む羽生、その羽生の姿をカメラと自身の目に刻み付けようとする深町。ほとんど台詞らしい台詞もなく、黙々と頂きを目指す二人の男の姿は、観る側の理解や共感を拒む。明らかにカネのためでも名誉のためでもない。その試みは、死の危険に直面してこそ世を実感できるといった類のものでもない。文太郎への贖罪というだけでも説明がつかない。マロリーがエヴェレスト登頂に史上初めて成功したのかどうかという、当初のミステリーも最早意味を持たない。マロリー、羽生、深町。観る側はこれらの男たちと同化する。神々の山嶺から見える光景とは何か。是非とも味わってほしい。

ネガティブ・サイド

登山以外の部分の描写が不足していた。日本社会における、あるいは他国での登山というスポーツの人気、知名度などについてもう少し描写が欲しかった。それがあれば、野口健のような、登山家なのかタレントもどきなのか分からない山登りが生まれてしまう背景などについて想像力を働かせられたのだろうが。

 

ボルトやピトンがふんだんに使われていたが、登山の歴史=道具の発達の歴史でもある。そうした道具の使い方や、あるいは羽生がアルバイトしている店での客への解説などがあれば、登山を全く知らない人でも本作の世界に入りやすくなったのではないだろうか。

 

吹き替えの声の音量が全体的に少し大きいと感じた。声のボリュームだけを5%落とせれば、もっとナチュラルな出来になっていたはず。

 

総評

漫画『 孤高の人 』の加藤文太郎しかり、映画『 フリーソロ 』のアレックス・オノルドしかり。登山家の生き様には理解しがたいところが多い。しかし、理解する必要などないのかもしれない。頭で理解するのではなく、心で感じ取る。それだけでいいのだろう。本作は、紛れもなく観る者の心を打つ力を持っている。山に登る者、それを追いかける者、そうした者たちを睥睨する神々の山嶺の容赦のない環境。なんとも濃密なドラマである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

set up a bivouac

「ビバークを設営する」の意。なにかのクロスワードで 8-letter word のキーになっていて、かなり呻吟した覚えがある。set up の set が過去形で、答えが encamped だった時には「んなもん、ノンネイティブに分かるわけないやろ・・・」とガックリきた。日常英会話ではまず間違いなく使わない表現だが、クロスワード愛好家なら知っておいて損はない・・・かなあ?

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2020年代, B Rank, アドベンチャー, アニメ, ヒューマンドラマ, フランス, ルクセンブルク, 堀内賢雄, 大塚明夫, 監督:パトリック・インバート, 配給会社:ロングライド, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 神々の山嶺 』 -登ることが生きること-

『 ちょっと思い出しただけ 』 -鮮やかな回想劇-

Posted on 2022年2月20日2022年2月20日 by cool-jupiter

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ちょっと思い出しただけ 75点
2022年2月19日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:池松壮亮 伊藤沙莉 河合優実
監督:松居大悟

 

『 くれなずめ 』や『 君が君で君だ 』など、終わらない青春、あるいは青春を引きずる姿を追究してきた松居大悟監督の最新作。またJovianの大学の後輩がプロデューサーも務めている。

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あらすじ

ダンサーだったが、怪我で舞台の照明係に転身した照生(池松壮亮)。タクシー運転手としてコロナ不景気に翻弄される葉(伊藤沙莉)。葉はある客を乗せたことで、照生と付き合っていた、かつての日々を思い起こして・・・

 

ポジティブ・サイド

一年の特定の日付だけを映し出していく構成というと『 弥生、三月 君を愛した30年 』に少し似ているところがあるが、それを名作『 ペパーミント・キャンディー 』のように過去に逆行していく形で提示していくところがユニークだと感じた。作品によっては、視点が今なのか、それとも回想なのか分かり辛いものもあるが、本作はマスク着用や手洗いが生活様式として定着したところから始まっているので、現在と回想の見分けが容易。これは思わぬコロナの副産物だろう。

 

池松壮亮演じる照生が夢と現実の狭間でもがく姿に激しく共感する。同時に軽蔑のような念も覚える。それはおそらく、多くの男が持つ大人になってしまった自分と若者のままでいたい自分の葛藤を具象化させられたかのように感じるからだ。男は基本アホなので、付き合っている女性はいつまでも自分を好いてくれると思い込んでいるし、相手の言う「何があっても好き」のような言葉も鵜呑みにしてしまう。鑑賞中に何度「照生、このアホ、そこはそうちゃうやろ」と思ってしまったか分からない。

 

葉を演じた伊藤沙莉は、これが代表作になるのではないか。決して美人ではないのだが、ある瞬間にめちゃくちゃ可愛く見えるのは本人の力なのか、それともメイクアップアーティストやカメラマンの力なのか。『 息もできない 』のキム・コッピのように、大声を張り上げることも、とびきりチャーミングな笑顔を見せることもできる女優。ラブシーンも普通にいけそう。一番可愛らしいと感じたのは、タクシーを降りるところを照生に止められるシーン。ここでの葉のはしゃぎっぷりは恋する女子の演技としては白眉だろう。浮かれていながらも「言葉にしてほしい」という女子が共通して持つ強烈な願望が駄々漏れになっていて、非常に微笑ましく、かつ恐ろしい。男性諸君、言葉にすることの重要性をゆめ忘れることなかれ。

 

回想を経るごとにちょっとした小道具の存在の有無や照生の行動の違いなどが明らかになっていき、どんどんと物語に引き込まれていく。ただ時間をさかのぼりながらも、未来に向かっている部分もあった。永瀬正敏演じる、待っているおじさんがそれで、このサブプロットはなかなかにパンチが効いている。妻を待ち続ける=妻に執着し続ける姿は、そのまま照生の未来に見えてくるし、事実その通りである。というか、男全般に当てはまるわ、これ。『 パターソン 』でも何気ない日常の連続をある意味で壊す役割を演じた永瀬が、今度はその何気ない日常を延々と続ける姿はある意味で感動的でもあった。

 

男女の幸せだった日々が、理想と現実のはざまで少しずつずれていってしまうという意味では『 花束みたいな恋をした 』とも共通するところがある。しかし、本作では男の情けなさというか、女々しさ(この言葉が不適切でないことを祈る)が存分に表出されていて、かなり酸っぱさ濃いめの甘酸っぱい物語に仕上がった。松居大悟は作家性とエンタメ性をバランスよく表現できる監督で、氏の作品は今後も要チェックであると感じた。

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ネガティブ・サイド

言葉とダンスに関する問答が印象的だったが、特にダンスに関する部分はもっと突き詰められたのではないかと思う。外国映画は字幕か吹き替えかは、それこそ観る側が自由に選択すればよいと思う。ただ、言葉にしてくれないと分からないという時の言葉というのは、言語に関係があることなのか?とは感じた。何語で発話しようとも、なんらかの感情や思考が表現されたという事実は変わらないだろう。

 

もうひとつ、ダンスは言語を超えるというのにも大いに納得したが、ぜひ照生が葉に踊って見せるシーンをもっと取り入れてほしかった。愛情を踊りで伝える照生と、そのメッセージを受け取りながらも十分に解釈しきれない葉のコントラストがあれば、甘酸っぱさの甘さと酸っぱさが両方増しただろうと思う。

 

総評

男性の過去の恋愛への執着を描いた『 僕の好きな女の子 』と対を成すかのような作品。女性が過去の恋愛をいかにカジュアルに忘却できるかを、非常に説得力のある形で描き出している。男性が覚えているのに対し、女性は思い出す(その前提には「忘れる」がある)ものなのだ。そういうわけで、デートムービーにはあまり向かないかもしれない。どちらかというと、男女ともにおひとり様での鑑賞が望ましいと思われる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pop the question

直訳すれば「例の質問をポンッと出す」の意、意訳すれば「プロポーズする」の意。プロポーズの言葉は十中八九、”Will you marry me?”(最後は falling tone で)である。疑問文=質問であるが、語尾は上げずに下げて言うべし。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ラブロマンス, 伊藤沙莉, 日本, 池松壮亮, 河合優実, 監督:松居大悟, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ちょっと思い出しただけ 』 -鮮やかな回想劇-

『 ソワレ 』 -心に残る生き方を-

Posted on 2022年1月2日 by cool-jupiter

ソワレ 70点
2021年1月1日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:村上虹郎 芋生悠
監督:外山文治

新年第一号鑑賞。テアトル梅田で見逃した作品。『 ひらいて 』で印象的な演技を見せた芋生遥だったが、その前作のこちらの方が遥かに鮮烈な役を演じていた。

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あらすじ

東京で役者を目指す翔太(村上虹郎)は芽が出せず、オレオレ詐欺に加担して糊口を凌いでいた。ある夏、翔太は故郷の和歌山のグループホームで演劇を教えることになり、そこで少女タカラ(芋生悠)と出会う。偶然にも翔太はタカラが実の父を刺す場に居合わせてしまい、そこから二人は当て所のない逃避行に出ることになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

村上虹郎がうだつの上がらない役者を好演。オレオレ詐欺で弁護士や代理人を騙る際に持ち前の演技力を発揮。ところどころで垣間見せる「何やってんだろうな、俺は」という表情が印象深い。

 

ただ本作の事実上の主役は圧倒的に芋生悠だ。物憂げというか、悲愴というか、陰のある表情が素晴らしい。天真爛漫なアイドル系の女優がもてはやされる風潮が強い邦画の世界であるが、もっとこのような女優にもスポットライトを当ててほしいと思う。

 

『 ひらいて 』の山田杏奈とのベッドシーンも良かったが、本作ではレイプシーンに加えてトップレスのヌードも披露。体を張るという表現は大げさかもしれないが、ストーリー上の必然性があれば躊躇なく脱げるというのは大女優の資質。そういえば本作にも出演している江口のりこも若いころに『 ジョゼと虎と魚たち 』で脱いでいたっけ。芋生遥には寺島しのぶや安藤サクラの領域にたどり着いてほしいと切に願う。それだけのポテンシャルがあると思う。

 

逃避行の中での二人のコントラストも鮮やかだ。競輪やパチンコで手持ちの金を増やそうとする翔太と、スナックで短期的なバイトを見つけ、堅実に稼ぐタカラ。誰にも頼れず、バイトをさせてくれる家の金まで盗もうとする翔太と、実の母を訪ねて拒絶されるタカラ。社会的な弱者同士の連帯が描かれるのかと思わせて、翔太はタカラに厳しく当たる。この弱い者がさらに弱い者に強く当たっていくという構図は、見ていてなかなかにしんどい。『 パラサイト 半地下の家族 』で描かれた一方の弱者がもう一方の弱者を攻撃するという図である。日韓の社会経済構造が同じというわけではないが、それでも連帯が必要とされる状況でも、連帯が生まれないというのはもどかしい。が、だからこそ生まれるドラマもある。

 

二人の距離が埋まりそうで埋まらないということを、映像が何度も何度も強調する。川沿いの道で、山道で、浜辺で、二人で歩きながらもその距離は縮まらず、そして周囲には誰もいないという画が何度も画面に映し出される。セリフもBGMも削ぎ落され、役者の演技と映像で物語る手法は見事だと思う。

 

若くして、ある意味で救いようのない境遇に陥ってしまった二人だが、人生はやりなおすことはできない。しかし、生き方を一時的にでも変えることはできる。それが役を演じるということで、二人が和歌山の街中で夜中に演じる芝居は、逃避行の中での更なる逃避行で、仮初の生だからこそ、なおさら強く輝いていた。本作の中でも最も美しいシーンだった。

 

翔太が語る「役者になったのは、誰かの心に残ることができるから」という考えが、彼自身の知らぬところで実を結んでいたというのは、ベタながら感動的である。袖振り合うも多生の縁と言うが、人と人とは思いがけない形でつながり合っているのだろう。

 

ネガティブ・サイド

高齢者施設で、老人が突然に倒れ、そのままこと切れる展開は必要があっただろうか。普通に徘徊する人が出る。認知症が進行した人がいる。失禁など、排泄に問題を抱えている人がいる。そうした描写で十分だったのではないかと思う。

 

同じくタカラの父親が死ぬという展開は必要だっただろうか。傷害と殺人だと罪の重さは段違いとなる。そこまで重い十字架をタカラに背負わせるのは、いささかやりすぎだと感じる。

 

またタカラは父親から受けた数々の虐待のせいで、男性、それがとっくに枯れたような老人であっても、触れられることに相当のストレスを感じるというのは、設定からして無理がある。Jovian自身でも病院実習で経験があるが、一定以上の高齢者は本当に体を支えないと歩けないし、あるいは簡単に暴力をふるう(といっても小突いてくる程度だが)患者というのもいる。同級生の女子が尻を触られたなどというのも、日常茶飯事とまではいわないが、看護実習あるあるの一つである。タカラがグループホームの職員を長く続けられているという設定には違和感ありありである。同じことはスナックのアルバイトにも当てはまる。

 

総評

やや不自然なキャラ設定が見受けられるものの、物語の重苦しさ、その先にある一筋の救いの光明に力強さを感じられる作品である。芋生遥は2020年代の邦画を牽引していく力を秘めた女優であるし、村上虹郎も親の七光以上の存在感を獲得しつつある。外山文治は、自ら脚本も書くという邦画では珍しくなりつつある監督で、映画製作に関しては自らのビジョンに忠実でありたいと願っているタイプであると拝察する。もちろん映画も一種の芸能であり、究極的には商業なのだが、このようなタイプの監督が辺縁に存在することは今後の邦画の世界では極めて重要であると思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

DNR

ディーエヌアールと読む。Do not resuscitate. のそれぞれの語のイニシャルをつなげたもので、意味は「蘇生しないで」である。海外の医療ドラマなどでは割と頻繁に聞こえてくる表現である。

She is a DNR. 
彼女は蘇生処置は不要の人だ。

のように使う。医療系の職業の人ならよくよくなじみのある表現だろう。

 

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 村上虹郎, 監督:外山文治, 芋生遥, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 ソワレ 』 -心に残る生き方を-

『 私はいったい、何と闘っているのか 』 -男の独り相撲の見事な映像化-

Posted on 2021年12月27日 by cool-jupiter

私はいったい、何と闘っているのか 70点
2021年12月25日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:安田顕 小池栄子
監督:李闘士男

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『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』と同じ監督、脚本、主演の本作。男という哀れな生き物の脳内を見事に描き出すとともに、言葉そのままの意味で「男らしい男」の生き様を描き出してもいる。

 

あらすじ

伊澤春男(安田顕)、45歳。スーパーの主任として奮闘しつつ、店長への昇格の野心も持つ、良き家庭人。が、やることなすことがどうにも上手く行かないと思えてしまう。そんな中、降ってわいたように春男に店長就任の機会が舞い込んでくるものの・・・

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ポジティブ・サイド

単なる個人の印象だが、日本にはこの井澤春男に自己同一化してしまう男性が200万人はいるのではないか。そんな気がしてならない。35歳から50歳ぐらいの各年齢が100万人、その半分が男性とすれば50万人。35~50の年齢層では50万人×16=800万人。そのうちの4分の1ぐらいは春男に共感するだろうとの概算である。

 

仕事にも一生懸命で結婚もしている、子どももいるし、子育てにも参画している。こうした、いわゆる現役世代の鬱屈、煩悶、野望などの様々な心情が、安田顕によって見事に表出されている。これはキャスティングの勝利だろう。オダギリジョーや滝藤賢一といった同世代の俳優には出せない味がしっかりと出ている。脳内独り相撲を安田顕の高度な一人芝居に昇華させられなかった演出が悔やまれる。

 

仕事も家庭もそれなりに順風満帆のはずなのに、ほんのちょっとしたトラブルやボタンの掛け違いが、思いもよらぬ結果になってしまうことは誰にでもある。春男はそんな我々小市民の具現化で、まさに40代男性あるあるのオンパレードである。年頃の娘たちに小少々邪険にされつつも、しっかりと尊敬されており、末っ子の息子には「パパは僕に似たんだな」としっかりと愛されている。また小池栄子演じる妻が良い味を出している。料理に掃除に洗濯に子育てにと、あまりに良妻賢母である。Political correctness の観点からすれば大いに断罪されそうな家庭像だが、そうさせない秘訣は春男のヘタレっぷりと男っぷりにある。どういう意味か分からないという人はぜひ鑑賞されたし。

 

娘のボーイフレンドが家にやって来るところは、まさに春男という「ダメ男」かつ「男の中の男」の面目躍如。Jovianには子どもはいないが、それでも春男の心が手に取るように分かった。相手の男の応対も満点やね。Jovianはあんなに堂々と「娘さんをください」とは言えなかった。

 

仕事でやらかして謹慎を食らったところからの家族旅行が本作のクライマックス。平々凡々な小市民な春男にほんのちょっとした奇跡が起こる。春男の精一杯の意地とプライドが静かに炸裂するシーンは必見である。

 

本作を観たら、きっとカツカレーを食べたくなることだろう。もしもそう感じることがあるなら、それは安心できる逃げ場所が必要だから。赤ちょうちんでもカレー屋でもいいじゃないか。愛する家族が待つ家にまっすぐ帰れない夜もある。そんな男の哀愁を受け止めてくれる妻がいる。それだけで春男は果報者。春男のように頑張ろう。そう思わせてくれる良作だった。

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ネガティブ・サイド

春男の独り相撲っぷりがくどいし長い。『 私をくいとめて 』では脳内のAと自分が別人として語り合っていたし、『 脳内ポイズンベリー 』では、それこそ人格たちの丁々発止のやりとりがダイレクトに笑いにつながった。また『 勝手にふるえてろ 』は脳内ファンタジーが見事に現実を侵食していた。これらの先行作品に比べると、春男の独り相撲っぷりが少々弱い。というか、これでは脳内一人ノリツッコミで、最初こそ共感できるが、だんだんと飽きてくる。重要なのは最初の10分で春男というキャラの脳内を存分に観る側に刻み付けること。それに成功すれば、あとは安田顕の表情、所作、立ち居振る舞いからオッサン連中は勝手に春男の一人ノリツッコミを脳内補完する。製作側はオッサン以外の観客を意識したのだろうが、そこはもっと観る側を信頼すべきだし、観客ペルソナとしても最上位に来るオッサンにぶっ刺さる作りにすべきだった。

 

開始早々に退場する上田店長の扱いがどうにも軽い。春男が「この人のためなら」と思える人物である一方、スーパーウメヤの他のスタッフが春男の昇進を前祝いする流れはどうかと感じた。

 

井澤家の因果についてはもう少し伏線を遅めに、あるいは控え目にすべきだった。I坂K太郎を読む人なら、開始5分で「ああ、そういうお話ね」とピンと来たはずである。

 

総評

ほぼ安田顕の独擅場である。『 君が君で君だ 』は極端な例だが、男なんつー生き物は脳内の80%は自意識と妄想でできている。そんな夫を助ける小池栄子はグラビアアイドルから女優に見事に変身したと言える。『 喜劇 愛妻物語 』の夫はぐうたらのダメ人間で、共感できる人間を選ぶキャラだったが、こちらの春男は男の良いところ、男のダメなところの両方を見事に血肉化している。30~50代の夫婦で鑑賞してほしいと思うし、あるいは大学生のデートムービーにも良いかもしれない。世の父ちゃんたちは、ああやって闘ってカネを稼いでいるのだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Go ahead.

「はい、どうぞ」の意。相手に何かを差し出す時には ”Here you are.” と言うが、相手に何らかの行動を促したい、あるいは相手から何らかの行動の許可を求められた時に使う表現。しばしば “Sure, go ahead.” のように使われる。相手が何を言っているのかよくよく理解してから使いたい表現である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 安田顕, 小池栄子, 日本, 監督:李闘士男, 配給会社:日活, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 私はいったい、何と闘っているのか 』 -男の独り相撲の見事な映像化-

『 くれなずめ 』 -青春を終わらせるな-

Posted on 2021年5月30日 by cool-jupiter

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くれなずめ 70点
2021年5月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:成田凌 高良健吾 若葉竜也 藤原季節 浜野健太 目次立樹  
監督:松居大悟

 

プロデューサーの和田大輔、なんとJovianの大学の後輩である。隣の寮に住んでいた脳筋の変人だったが、いつの間にやら文化人かつ商売人になっていた。今後もプロデューサーとして活躍していくと思われるので、和田大輔プロデュース作品には是非とも注目してくだされ。

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あらすじ

友人の結婚式のために久しぶりに集まった吉尾(成田凌)や明石(若葉竜也)らだったが、余興が盛大にすべってしまった。気まずい空気に包まれたまま、彼らは二次会までの時間をつぶそうとする。そして、かつての自分たちの友情を回想していき・・・

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ポジティブ・サイド

タイトルに反応して、「くれ~なず~む街の~」と口ずさむのは立派なオッサンだろう。くれなずむというのは、今の季節だと午後6:30から午後7:00ぐらいの逢魔が時が続いていく感じを指す。結婚式に出席するということは、同年代が結婚しつつあるという意味で、独身貴族の時期の終わりを予感させる。しかし、まだ一人を楽しみたい。まだ完全に大人になりたくない。そのような若者のパトスを象徴的に表すタイトルである。

 

成田凌や若葉竜也、藤原季節など売り出し中の若手のエネルギーがそのまま画面にみなぎっている。そこに混じる高良健吾が『 あのこは貴族 』の時と同じく、 condescending  な感じを出すか出さないかのギリギリの線の演技で、若者と大人、フリーターと社会人の境界線上のモラトリアム人間を好演していた。かつての親友たちが各々に成長していたり、あるいは社会参加を拒んでいたり、まるでかつての自分や自分の友人たちとの関係を思い出す世代は多いだろう。特にJovianのようなロスジェネ世代には、その傾向が強いのではないか。

 

アホな男たちのアホな乱痴気騒ぎが延々と続くが、それぞれがロングのワンカットになっているのが印象深い。ワンカットによって場の臨場感が高まるし、観ている側もその場に参加している感覚が強くなる。対照的に回想シーンでは随所にカットを入れ、カメラのアングルを変えていく。まるで記憶を色々と編集しているかのように。こういうことは結構多い。友人の結婚式などに参加して、昔の写真や映像を観ると、自分の記憶と実は少し違っていたりすることが往々にしてあるからだ。

 

主人公である吉尾とその悪友たちの現在のまじわりが、過去の様々なエピソードに繰り返し、あるいは焼き直しになっているところが面白く、リアリティがある。野郎どもの友情というのは時を超える、あるいは時を止めるのだ。おそらく本作の登場人物たちのような30歳前後の男性には、非常に突き刺さる者が多い作品であると思う。

 

割とびっくりするプロットが仕込まれているが、開始数分で非常にフェアな伏線が張られているので、これから鑑賞するという人は、そこに注意を払えれば吉である。

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ネガティブ・サイド

前田敦子は悪い演技を一切していなかったが、これは大いなるミスキャストではなかったか。観た瞬間から「ああ、このキャラの因果はこれだな」と想像がつく。

 

ある時点で舞台が切り替わるが、そこからの展開がどうしようもなく陳腐で、映像としてもお粗末だ(ガルーダ・・・)。下手なCGやVFXなど使わず、素直に高校時代の回想シーンと同じで良かった。原作の舞台のノリを持ってくるのなら、それを映画的に翻案しなければならない。映画→舞台→映画という感じで、トーンの一貫性を大いに欠いていた。

 

また結婚式場から二次会の会場に向かうはずの最終盤の「くれなずむ街」のシーンが、どう見ても盛り場からは遠く離れた場所。ロケーションありきで、絵的なつながりが無視されていた。

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総評

藤原季節が出演していること、そして青春の象徴との別れという意味では『 佐々木、イン・マイマイン 』の方が個人的には面白いと感じた。だが決して駄作ではない。良作である。モラトリアムが長くなった現代、青春ときっぱり決別するのはなかなか難しい。むしろ、青春をできるだけ長く生き続けようとする、つまり日が暮れようとしていながらも、まだまだ暮れないという人生を送る人が増えている。日暮れて途遠しとなる人も同じくらい増えているように思うが、それでも今という時代にを生きる人間にエールを送る作品に仕上がっている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

afterparty

「二次会」の意。これは実際にネイティブも頻繁に使う表現である。ちなみに三次会はafter-afterpartyと言う。大学生の頃にアメリカ人留学生に教えてもらった時は、”You gotta be kidding me, right?”と反応してしまった。嘘のようだが、本当にそう言うのである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, 成田凌, 日本, 浜野謙太, 監督:松居大悟, 目次立樹, 若葉竜也, 藤原季節, 配給会社:東京テアトル, 青春, 高良健吾Leave a Comment on 『 くれなずめ 』 -青春を終わらせるな-

『 あのこは貴族 』 -システムに組み込まれるか、システムから解放されるか-

Posted on 2021年3月3日 by cool-jupiter

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あのこは貴族 75点
2021年2月28日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:門脇麦 水原希子 石橋静香 篠原ゆき子 高良健吾
監督:岨手由貴子

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日本の経済的成長の停滞が続いて久しく、貧富の格差がどんどんと広がり、もはやそれが身分格差にまでなりつつあるようだ。上級国民なる言葉も人口に膾炙するようになってしまったが、そのような時代の空気を察知して本作のような作品を世に問う映画人もいるのである。

 

あらすじ

良家の子女として育てられてきた華子(門脇麦)は、顔合わせの当日にフィアンセと別れてしまう。次の相手を探すうちに姉の夫の会社の顧問弁護士で代議士も輩出している名家の幸一郎(高良健吾)と出会い、交際が始まる。しかし、幸一郎の影には時岡美紀(水原希子)という女性がちらついていて・・・

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ポジティブ・サイド 

門脇麦の感情を表に出さない演技が光る。フィアンセに顔合わせの当日にフラれたというのに、苛立ちや悲しみを一切見せることがない。家族や親族も華子を特に慰めるでもなく、サッサと次に行くべきと主張するなど非常にドライだ。そしてそのアドバイス通りに次から次へと色んな男との出会いを重ねていく華子の姿は、相手の男がどいつもこいつも社会不適合者気味なこともあり、滑稽ですらある。そんな華子がついに出会った幸一郎が、また存在感、ルックス、学歴、職業、立ち居振る舞いが完璧で、この出会いの時に華子が見せるかすかな瞳の輝きが実に印象的だった。

 

そんな幸一郎には、実は女の影があり、それが地方から上京してきた美紀。幸一郎に講義内容をメモしたルーズリーフを貸したところ、それが返ってくることがなかったというエピソードが印象的だ。苦学の末に慶應義塾に入学したにもかかわらず、実家の経済状態の悪化で退学。ノートもお金も時間も東京に吸われてしまったが、東京は彼女に何も与えてくれなかった・・・というストーリーにはならない。したたかに生きると言ってしまえば簡単だが、美紀が見せる生きる力、決断力、友情の深さに励まされる人は多いのではないだろうか。

 

二人の女性が幸一郎を間接的に媒介して出会うことになるのだが、そこにはドロドロとした女の情念のようなものはない。あるのは人間同士の真摯な向き合い方だ。幸一郎と婚約したという華子に、美紀は幸一郎とはもう会わないと伝え、実際に幸一郎との腐れ縁をスパッと断ち切ってしまう。男と女のドラマをいかようにも盛り上げられる機会を、物語はことごとくスルーしていく。それは本作が描き出そうとしているのが、男や女ではなく人間だからである。

 

「私たちって東京の養分だね」と呟く美紀を見て、自分も良く似た感慨にふけったことがあるのを思い出した。多かれ少なかれ、東京以外の土地から東京へと出ていった人間は、自分は東京という幻想をさらに強固なものとするためのシステムの一部にすぎないと実感することがあるはずだ。自身がマイノリティであるという自覚をもって言うが、本作は『 翔んで埼玉 』と同工異曲なのだ。そして華子も美紀も幸一郎さえも、巨大なシステムに囚われているという点では同じ人間なのだ。

 

敷かれたレールから外れることの困難、敷かれたレールの上を走り続けることの困難。いずれの道を往くにせよ、そうした決断にこそ自分らしさというものが宿るのだろう。生きづらさを抱える現代人にこそ観てほしいと思える作品である。

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ネガティブ・サイド

慶応義塾大学という実在の大学に配慮したのだろうか。もっと『 愚行録 』のように描いてしまっても良かったはず。なにしろテーマの一側面が東京と外部。慶應内部生と慶應外部生というのは、その格好のシンボルだろう。ここのところの暗部をもう少し強調して描くことができていれば、相対的に美紀の生き方がより輝きを増したものと思う。

 

華子と美紀、それぞれの親友との友情をもう少し深めていくシーンがあれば尚良かった。特に、華子の親友のヴァイオリニストは美紀と幸一郎のつながりを目撃する以上に、華子と一笑友人で居続けるのだと感じさせてくれるようなシーンが欲しかった。

 

総評

一言、傑作である。日本の今という瞬間を切り取っていると同時に、抗いがたいシステムから抜け出し、自立的に生きようとする人間の姿を丁寧に描いている。女性ではなく、男性もここには含まれている。B’zはかつて「譲れないことを一つ持つことが本当の自由」だと歌った。その通りだと思う。これが自分の生き方だと受け入れる。そしてその通りに生きる。そうすることがなんと難しく、そして清々しいことか。2021年必見の方が作品の一つである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

set up shop

「起業する」や「開業する」の意。start one’s (own) businessという表現が普通だが、set up shopというカジュアルな表現もそれなりに使われる。これに関連するtalk shop=「仕事の話をする」という表現は『 ベイビー・ドライバー 』で紹介した。同じ表現を様々に言い換えることで、コミュニケーションがスムーズになる。

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2020年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 水原希子, 監督:岨手由貴子, 石橋静香, 篠原ゆき子, 配給会社:バンダイナムコアーツ, 配給会社:東京テアトル, 門脇麦, 高良健吾Leave a Comment on 『 あのこは貴族 』 -システムに組み込まれるか、システムから解放されるか-

『 花束みたいな恋をした 』 -青春と現実の境目が痛い-

Posted on 2021年2月7日2021年2月8日 by cool-jupiter
『 花束みたいな恋をした 』 -青春と現実の境目が痛い-

花束みたいな恋をした 75点
2021年2月6日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:菅田将暉 有村架純
監督:土井裕泰

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昨今の邦画では珍しい、映画オリジナル作品。それだけで劇場に向かう価値はある。同じように感じた人が多かったのか、MOVIXあまがさきの5番シアターには老若男女が詰めかけていた。実際の映画の仕上がりも標準以上のものだった。

 

あらすじ

大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は終電を逃してしまったことから偶然に出会う。サブカル趣味が共通する二人はたちまちのうちに意気投合。やがて付き合うことになるが・・・

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ポジティブ・サイド

 

以下、ネタバレに類する記述あり

 

主演の二人がスターでありながら、まったくオーラを発していないところが素晴らしい。まさに等身大の大学生からひよっこ社会人という感じである。おそらく本作が刺さるのは、菅田将暉や有村架純の同世代ではなく、Jovianのような中年世代の方だろう。少女漫画の実写映画化のプロットやキャラクターの背景からは「ああ、俺にもこんな青春があったなあ」とは思えないが、本作の麦と絹の二人からはそれが濃密に感じられる。はたから見れば何のことか分からない話題で盛り上がれるというのは、特に東京の大学生には重要である。地方から出てきて、全く新しい人間関係をゼロから構築する中で同好の士を見つけることは至上ミッションなのだ。大学の部活やサークル、同好会に居場所を見出せれば良いが、それができなかった場合は外に居場所を見つけなくてはならない。麦と絹は一種のアウトサイダー同士なのだ。麦と絹が互いの文庫本を見せあって破顔一笑するシーンでは、大学時代に栗本薫の『 グイン・サーガ 』シリーズや小野不由美の『 十二国記 』シリーズの話題で盛り上がれる女子に出会ったことを思い出した(その女子とは友達で終わってしまった・・・)。作家や作品名などに固有名詞がバンバン出てくるが、そこは自分なりに脳内で改変して楽しめばいい。これはそういう映画である。

 

麦と絹のフリーター同士の交際から同棲、そして徐々に生活に齟齬が生まれてくる流れも巧みで自然だ。自然と言うのは、よくあることという意味ではなく、誰もが自分なりに置き換えて消化できるエピソードになっているということだ。麦が絹に自作のガスタンク映画を見せてやり、その長さに思わず寝入る絹の寝顔を見つめる麦の表情が印象的で、Jovianは『 ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間 』を有楽町で一緒に観た大学の同級生(友達で終わった女子ね・・・)を思い出した。

 

麦の趣味であり夢であるイラストレーター、絹の趣味である「ラーメンと女子大生のブログ」が、二人の生活に占める割合が変化していく様が演出の妙。イラストで身を立てようとして上手く行かない麦と、ラーメン屋巡りはスパッと辞めてしまったかに見える絹。男は年齢を重ねてロマンチストになるが、女性は年齢を重ねてリアリストになっていくという対比が見えて、上手いなと感じた。就職および仕事を巡っての心の在りようの変化も真に迫っている。『 何者 』でも共演した二人だからこそ、このあたりの芝居も非常にスムーズ。

 

別れのシーンも秀逸。これって俺の話なのか・・・、と困惑させられ、同時に痛く共感させられたのが、別れを切り出された麦が、絹に結婚を提案するところだ。若気の至りなのか、自分も血迷って別れ話の席で全く同じことをしたことがある。脚本家・坂元裕二の体験でもあるのか、それとも男性に普遍的な思考回路なのか。おそらく後者なのだと思うが、このシーンでは我あらず涙ぐんでしまった。その後に二人に別れを決断させる演出は反則。このシーンは絶対にB’zの『 いつかのメリークリスマス 』の最後の歌詞にインスパイアされている。間違いない。勝手に断言させてもらう。若者向けではなく、中年向け映画であると、ここで確信した。

 

劇中、邦画では珍しく駅名や地名がポンポン出てくる。飛田給と言えば東京外大。その昔に何回か合コンしたが、戦果ゼロ。明治大は高校の同級生が通っていたので、何度か訪れたことがある。そして何と一瞬だけではあるが、三鷹市芸術文化センター、通称ゲーセンが映っていたではないか。国際基督教大学出のJovianにとって馴染みのあるスポットである。自分のよく知る景色が出てきたことで、ここでもやはり5点オマケしておく。

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ネガティブ・サイド

いつ頃から、「好きです、付き合ってください」が「付き合ってください」だけOKというふうに変わったのだろうか。15~20年ぐらい前は「好きです」がないと、「付き合ってください」につながらなかったと記憶しているが、いつの間にやら「え、俺らってもう付き合ってるでしょ?」みたいな時代になったのか。『 勝手にふるえてろ 』でも松岡と渡辺のそんなシーンがあったが、本作ぐらい中年層にアピールする作品ならば、その世代の若い頃の恋愛文法に従ってほしかった。

 

冒頭から独白が多すぎるようにも感じた。キャラクターの心情を言葉で観客に効かせるのは悪いことではない。それが効果的であることも多い。けれども、本作のように観る側の経験や記憶、感情を刺激する作りであるならば、すべてを麦と絹に語らせるのではなく、行間に余裕を持たせた語りをさせるべきではなかったか。

 

引っかかったのは、麦が絹の髪をドライヤーで乾かしてやるところ。女性の髪に触るという行為は、めちゃくちゃハードルが高い行為に思えるのだが。俺が立派なオッサンの完成だからかな。このエピソードは三日間セックスしまくった後のシャワー後の方がよりリアリティがあったのでは?

 

自称・映画好きが『 ショーシャンクの空に 』を挙げるシーンで麦も絹も表情が凍り付くが、別ええやんけ・・・。『 ショーシャンクの空に 』も、別に最初から大ヒットしたわけじゃなく、徐々に人気が上がっていったメインストリームではなかった作品。ここは『 スター・ウォーズ 』とか『 アベンジャーズ 』と言わせるべきだった。

 

総評

劇場にたくさん来ていたが、10代20代には積極的にはお勧めしない。『 僕の好きな女の子 』同様に、30代40代にこそ観てほしいと個人的に思う。ハッピーエンドでもなくバンドエンドでもない。人生の中で確かにそこにあった青春を、時をかけて慈しめるようになった世代向けの作品。鑑賞後、なぜか無性にB’zのミニアルバム『 FRIENDS 』を聞きたくなった。中年男性B’zファンなら共感してくれるものと思うし、そうでなくとも青春の1ページを確かに思い起こさせてくれることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Those were the days.

劇中の「楽しかったね」の私訳。『 ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打上げ計画 』でも紹介した表現。語学学習はある程度の丸暗記が必要だが、一定以上のレベルに達したら状況とセットで理解することを目指すべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2020年代, B Rank, ラブロマンス, 日本, 有村架純, 監督:土井裕泰, 菅田将暉, 配給会社:リトルモア, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 花束みたいな恋をした 』 -青春と現実の境目が痛い-

『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』 -軽妙洒脱なフレンチ・コメディ-

Posted on 2020年11月17日2022年9月19日 by cool-jupiter

シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 75点
2020年11月14日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:トマ・ソリベレ
監督:アレクシス・ミシャリク

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『 シラノ恋愛操作団 』という佳作があったが、戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』はいつの時代、どの地域でも、男性の共感を得るだろう。その戯曲の舞台化の舞台裏を映画にしたのが本作である。

 

あらすじ

エドモン・ロスタン(トマ・ソリベレ)に大物俳優クランの主演舞台の脚本を書く仕事が舞い込んできた。だが決まっているのは「シラノ・ド・ベルジュラック」というタイトルだけ。そんな中、エドモンは親友レオの恋の相手とレオの代わりに文通することに。そのことに触発されたエドモンは次第に脚本の執筆にも興が乗っていくが・・・

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ポジティブ・サイド

『 コレット 』と同じくベル・エポック華やかなりし時代である。舞台となったパリの街並みが美しい。街並みだけでなく、家屋や劇場の調度品も、その細部に至るまでが絢爛なフランス文化を表している。まさにスクリーンを通じてタイムトラベルした気分を味わえる。

 

主役のエドモンを演じたトマ・ソリベレがコメディアンとして良い味を出している。特に、周囲の事物をヒントにしてコクランの指定する文体で物語の内容を即興で諳んじていく様は、そのテンポの軽やかさと文章の美しさや雄渾さ、そしてユーモアと相まって、非常にエンタメ色あふれるシークエンスになっている。

 

同じく、親友のレオに成り代わって即興でジャンヌと言葉を交わし合うシーンでもエドモンが才気煥発、女心はこうやって掴めというお手本のように言葉を紡いでいく。このあたりはイタリア人の領域だと勝手に思っていたが、フランス人男性の詩想もどうしてなかなか優れているではないか。

 

現実世界でのエドモンの影武者的な活躍が、エドモンの手掛ける舞台劇に投影されていくところにメタ的な面白さがあり、さらにその過程を映画にしているところがメタメタ的である。エドモンが実際に生きた時代と地域を歴史に忠実に再現してみせる大道具や小道具、衣装やメイクアップアーティストの仕事のおかげで、シラノが先なのかエドモンが先なのかという、ある意味でメタメタメタな構造をも備えた物語になっている。

 

さらに劇中の現実世界=エドモンが代理文通を行っていることが、エドモンの家庭の不和を呼びかねない事態にもなり、コメディなのにシリアス、シリアスなのにコメディという不条理なおかしみが生まれている。そう、エドモンがコクランの無茶ぶりに必死に答えるのも、エドモンがレオの恋慕をアシストするのも、エドモンが妻にあらぬ疑いをかけられるのも、すべては不条理なおかしみを生むためなのだ。

 

主人公たるシラノも、レオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こさせる万能の天才でありながら、その醜い鼻のためにコンプレックスを抱くという不条理に見舞われている。しかし、それこそが本作のテーマなのだ。本作に登場する人物は、皆どこかしらに足りないものを抱え、それを埋めるために奔走している。それが劇を作り上げるという情熱に昇華されていくことで、とてつもないエネルギーが生まれている。

 

テレビドラマの『 ER緊急救命室 』で多用されたカメラワークを存分に採用。劇場内の人物をじっくりを追い、ズームインしズームアウトし、周囲を回り、そして他の人物にフォーカスを移していく。まさに舞台上の群像劇を目で追うかのようで、実に楽しい。随所でクスクスと笑わせて、ラストにほろりとさせられて、エンドロールでほうほうと唸らされる。そんなフランス発の歴史コメディの良作である。

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ネガティブ・サイド

マリアをあそこまで文字通りに奈落の底に突き落とす必要があったのだろうか。この瞬間だけは正直なところ笑えなかった。

 

またジャンヌをめぐってエドモンとレオの仲がギクシャクしてしまう瞬間が訪れるが、元はと言えばその元凶はレオその人の発した何気ない一言ではないか。不条理がテーマの本作とは言え、ここだけは得心しがたかった。ここで懊悩すべきはエドモンではなくレオその人ではないのだろうか。

 

リュミエール兄弟の映画発明と同時期なのだから、もっと「活動写真」の黎明期の熱を描写してほしかったと思う。その上で、舞台の持つ可能性や映画との差異をもっと強調する演出を全編に施して欲しかった。コロナ禍において、映画は映画館で観るものから、自宅のテレビやポータブルなデバイスで観るものに変わりゆく可能性がある。古い芸術の表現形態が新しい技術に取って代わられようとする中での物語という面を強調すれば、もっと現代の映画人や映画ファンに勇気やサジェスチョンを与えられる作品になったはずだ(こんなパンデミックなど誰にも予想はできなかったので、完全に無いものねだりの要望であはあるのだが)。

 

総評

戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』のあらすじはある程度知っておくべし。それだけで鑑賞OKである。ハリウッド的な計算ずくで作られた映画でもなく、韓国的な情け容赦ないドラマでもない、とてもフランスらしい豪華絢爛にして軽妙洒脱な一作である。エンドクレジットでも席を立たないように。フランスで、そして世界で最もたくさん演じられた劇であるということを実感させてくれるエンドロールで、『 ファヒム パリが見た奇跡 』のジェラール・ドパルデューの雄姿も見られる。

 

Jovian先生のワンポイントフランス語レッスン

Non merci

英語にすれば、“No, thank you.”、つまり「いえいえ、結構です」の意である。Oui merci = Yes, thank you.もセットで覚えておけば、フランス旅行中に役立つだろう。別に言葉が通じなくても、相手のちょっとしたサービスや気遣いに対して、簡単な言葉で返していくことも実際にはよくあることだ。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, コメディ, トマ・ソリベレ, フランス, ベルギー, 歴史, 監督:アレクシス・ミシャリク, 配給会社:キノフィルムズ, 配給会社:東京テアトルLeave a Comment on 『 シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい! 』 -軽妙洒脱なフレンチ・コメディ-

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