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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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タグ: アメリカ

『死の谷間』 ―孤独と交流の狭間に人間の本質を垣間見る―

Posted on 2018年7月3日2021年1月17日 by cool-jupiter

死の谷間 55点

2018年7月1日 シネ・リーブル梅田にて観賞
出演:マーゴット・ロビー キウェテル・イジョホー クリス・パイン
監督:クレイグ・ゾベル

原題は“Z for Zachariah”、ZはゼカリヤのZ、という意味である。映画ファン、特にヒューゴ・ウィービングもしくはナタリー・ポートマンのファンという方であれば、即座に『Vフォー・ヴェンデッタ』を思い浮かべることだろう。これもVは復讐(ヴェンデッタ)のV、という意味である。また古いSF小説ファンであれば、レイ・ブラッドベリの『ウは宇宙船のウ』(R is for Rocket)や『スは宇宙(スペース)のス』(S is for SPACE)を思い起こすだろう。本作の原題の意味は、ZはゼカリヤのZ、である。ゼカリヤと聞いてゼカリヤ・シッチンの名前を挙げる人はかなりのオカルトマニアであろう。またゼカリヤと聞いて「ああ、聖書のゼカリヤ書ね」と分かる人はかなりの博識であろう。作中で一瞬だけではあるが、核戦争を生き延びた人類最後の女性と思われるアン(マーゴット・ロビー)が、”A for Adam”という本を手に取るシーンがある。AはアダムのA、ということだ。このアダムは言わずと知れたエデンの園のアダムである。ゼカリヤという名がここで暗示するのは、それが人類最後の男であるということだ。

そのようなPost-Apocalypticな世界において、人類最後の女として生き延びているのがアン・バーデン(マーゴット・ロビー)である。相棒にして愛犬のファロと共に、狩猟採集生活を送っている。非常に興味深いのは、アンは物語冒頭で対放射線の防護服を身にまとって、街の図書館らしきところから本を頂戴してくるところ。もちろん、食糧や日用品をあらかた失敬した後のことであろうと思われるが、これはサバイバルにおいて実に重要なことだ。貴志祐介の小説の『クリムゾンの迷宮』という佳作がある。シチュエーション・スリラーに分類されるであろう物語で、広大無辺の大地に突如取り残される男女複数名のサバイバル・ゲームを描く。その中で、主人公ペアはゲーム主催者から支給されるものの中から、食糧や武器ではなく、「情報」を選択する。これが決定的に重要な決断で、情報≒知識こそが、長い目で見たときに最も生存に資するリソースなのだということを示している。本作も同じく、アンの住む家には数多くの書籍があり、アン自身も農家で生まれ育ったことから、大自然の中で生き抜く知恵、そして孤独に耐えうる強い信仰を備えていた。一人と一匹の生活は、それなりに上手く回っていた。

そこに闖入者のジョン・ルーミス(キウェテル・イジョホー)がやって来る。科学者にして、黒人で、無神論者であり、酒に飲まれてしまうこともある。アンとは非常に対照的な属性の持ち主である。この二人が協力して、ガソリンを調達するシーンは、知恵が自然を克服する好個の一例である。人間の無力さは、力の欠如ではなく知識の不足から来ることを端的に証明している、非常に印象的な場面である。さらに一歩進んで、ジョンは核汚染されたエリアから来た水で構成される滝を使っての水力発電を思いつく。そのためには木材、それも数年から数十年単位で乾いた木が必要となる。それを調達するために、アンの心の拠り所であり父の遺産でもある教会を解体するか否かで、意見が分かれてしまう。将来ここにやってくる人間のためにも、食糧が保存できるように冷蔵庫などを稼働させなければならないというジョンと、別の人間など来ないと思うアン。信者と無神論者の穏やかな対立を描いた場面であると同時に、子を作るに際して能動の男と受動の女という対極的な姿をも描いた名シーンである。結論を急がずに暮らしを続ける二人の前に、しかし、ケイレブ(クリス・パイン)という若い炭鉱夫だという白人男性が現れる。物語はここから大きく動き始める。

とはいっても、アンを巡る男2人の仁義なき戦いというわけではなく、信仰の有無、肌の色の違いなど、この「死の谷間」を除いて荒廃してしまった世界で果たしてどれほどの意味を持つのか疑わしいことにも、人間は拘泥してしまうのだという、究極的な人間ドラマが描かれる。ケイレブ=Caleb=カレブである。聖書に描かれるカレブは神への信仰を生涯揺るがせにせず、荒涼としたエジプトの大地を脱出し、約束の地へたどり着いた男である。このことを知っていて映画を観る(あるいは原作小説を読む)のと、予備知識なしで観ることで、おそらく違う感想を抱くだろう。それは自分ならばどうするだろうかという主観的な見方と、この名前のキャラクターに込められた運命はこうであるという、運命論的な見方に二分されるのではなかろうか。もちろん、女性目線で分析することも大いに奨励されるべきであろうし、実際に理性と欲望の狭間でアン自身が翻弄されてしまうようなシーンもある。あらゆる場面で自分なりの解釈が可能であるし、創世記の如く、すでに誰もが知っている物語の再解釈と見ることもできる。スペクタクルには欠けるものの、思考実験として大いに知的好奇心をくすぐってくれる作品である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, アイスランド, アメリカ, キウェテル・イジョホー, クリス・パイン, スイス, スリラー, マーゴット・ロビー, 監督:クレイグ・ゾベル, 配給会社:ハークLeave a Comment on 『死の谷間』 ―孤独と交流の狭間に人間の本質を垣間見る―

『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』 ―キャラクターに注目するか、世界観に注目するか―

Posted on 2018年7月1日2020年2月13日 by cool-jupiter

ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー 65点

2018年6月30日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:オールデン・エアエンライク ウッディ・ハレルソン エミリア・クラーク ドナルド・グローバー フィービー・ウォーラー=ブリッジ ヨーナス・スオタモ ポール・ベタニー
監督:ロン・ハワード

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まず『スター・ウォーズ』という世界についてのおさらいをしておこう。スター・ウォーズは未来の世界のSF物語ではない。A long time ago in a galaxy far far away…で始まる通り、おとぎ話なのだ。John Williamsの、あのテーマ曲のイントロで一気にあの世界に引き込まれる感覚、というのはスター・ウォーズファンならずとも共有できる感覚だろう。おとぎ話の世界には独特の文法が存在する。それは往々にしておじいさん、おばあさんの形であったり、王や王国の形であったり、動物との意思疎通の形であったり、魔法や怪物の形で存在する。このように考えればスター・ウォーズという一大叙事詩が、言葉そのままの意味で、詩という独特の形式で英雄譚を語る手法を採用していることが分かる。

人はスター・ウォーズ世界に見出すものは、個人により、また時代により大きく異なる。そのことは『ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス』に詳しい。初期三部作に戦う女性像を見出す人もいれば、古き良き西部劇を見出す人もいるだろう(カンティーナなどは典型的なBar Fightであるが、それがハン・ソロというキャラを何よりも雄弁に物語るシーンでもあった)。壮大なスペース・オペラだと感じる人もいれば、『隠し砦と三悪人』と『オズの魔法使』を足して2で割ったように感じる人もいる。スター・ウォーズの最大の魅力は、何度観ても発見ができる、子どもと大人で楽しみ方が異なる、その世界観に浸るためのアイテムが豊富にあるということである。つまり、スター・ウォーズは旅行なのだ。日常世界からの一時的な脱出なのだ。事実、Jovianは『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を劇場で5回観たし、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は劇場で7回観た。

それを踏まえて言えば、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』には確かにreplay valueがある。ただリピート・ビューイングはあとIMAXや3Dで1~2回かなという印象である。それは娯楽作品としては優れているが、スター・ウォーズ作品としての力は弱い、という評価である。しかし、そんなことは観る前から分かっていたことだ。映画史上で最も愛されるキャラクターであるハン・ソロの若き日を描いて面白くないわけがない。一方で、映画史上で演技力と存在感の乖離が最も大きいハリソン・フォードを乗り越えるのは、誰にとっても困難極まる仕事であろう。もともとジョージ・ルーカスは役者に演じることを求めず、彼ら彼女らの素の姿を自分の世界に配置することを好んでいた。そのことがハリソン・フォードにとっては幸運だったが、後継のオールデン・エアエンライクにとっては不運だった。顔や声がそれほど似ているわけではないからだ。しかし、似せようと努力はしていたし、映画は『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』や『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』と同じく、3~5分ごとに見覚えのあるガジェットやクリーチャーのみならず、どこかで見た構図、どこかで見たカメラアングル、どこかで見たアクションが挿入されるなど、ファンサービスに徹したのか、それとも製作者側がオリジナル・トリロジーの呪縛に囚われているのか判断しかねる部分も多い。最後に登場するダース・モールは新たなスピンオフを明確にオビ=ワン・ケノービにすることを決断したものか。アニメシリーズで復活していたとはいえ、これは嬉しい不意打ちであった。

こういう映画の粗筋などを述べるのは無粋だし、上述したようにスター・ウォーズに何を見出すのかは個々人の自由である。Jovianは、とあるシーンで思わず「だからC-3POはファルコン号と話せたのか」とはたと膝を打った瞬間があった。見た瞬間に気づくべきであったのに、そこに思い至らなかったのは誠に汗顔の至りである。また自分にとってのスター・ウォーズとは、John Williamsの音楽とドロイド、ミレニアム・ファルコン号の三者から成るものであると認識できたのは収穫であった。フォースやライトセイバーが自分にとっては副次的なものであったという気付きはちょっとした衝撃でもあった。日常世界から非日常世界へ飛び出していくことを夢見る若きハン・ソロに自分を重ねても良いし、頭をできるだけ空っぽにして、上質なSFアクション・ムービーとして観るのも良い。満足できれば最高だし、不満足であれば、それはあなたが純粋なスター・ウォーズ愛を持っている証明であると考えよう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, オールデン・エアエンライク, 監督:ロン・ハワード, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『ハン・ソロ スター・ウォーズ・ストーリー』 ―キャラクターに注目するか、世界観に注目するか―

『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』 ―人間関係の変質と本質を描く―

Posted on 2018年7月1日2020年1月10日 by cool-jupiter

ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界 55点

2018年6月28日 WOWOWシネマの録画を視聴
出演:ローズマリー・デウィット ジェニファー・ガーナー ディーン・ノリス アダム・サンドラー J・K・シモンズ アンセル・エルゴート ティモシー・シャラメ オリヴィア・クロシッチア
監督:ジェイソン・ライトマン

原題は”Men, Women & Children”。これをどう訳すのかは翻訳家や配給会社のセールス・プロモーション次第だが、ステイ・コネクテッドはアウト、つながりたい僕らの世界も・・・ぎりぎりアウトのように感じる。つながりたいという視点は、「自分たちはつながっていない。または、悪い意味でつながってしまっている」という、狭隘な、もしくは一段下からの視点になってしまいかねない。実際にそうした見方で凝り固まってしまった、醜悪とも言える人物も登場する。一方で、人間関係、コミュニケーションの本質において、時代の変化やテクノロジーの進化に関係なく、人間は他者とのつながりを求めてしまう生き物であるということも再確認させてくれる。だから、「つながりたい僕らの世界」という日本版の副題は“ぎりぎり”でアウトなのである。その理由は冒頭、唐突に登場するボイジャーにある。この超高速で今も太陽系の彼方のさらに向こう側へ飛び出しつつある探査機は、地球外生命へのメッセージが込められている。そう、人間は、どれだけ技術の進歩を見ても、やはり他者とのつながりをもとめずにはおれない存在なのだ、ということを非常に大袈裟な形でのっけから呈示してくる。原題も、大人の男、大人の女という、つながりを求めあうものの本質的な理解にはなかなか至れない存在同士を対比させ(その事実をコミカルにシリアスに描いたのが『 家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。 』)、さらにその対比存在として、子どもを挙げているではないか。互いが互いを必要としながら、ステイ・コネクテッドとあることができないのは、現代になって生じた問題ではなく、テクノロジーの進歩によって可視化された事柄であるに過ぎない。そのことを本作はしっかりと描いている。

登場するのは、女房に逃げられた中年ケント(ディーン・ノリス)とその反動でフットボールを辞め、MMORPGにハマってしまう男子ティム(アンセル・エルゴート)、さらにひょんなことからティムと良い仲になるブランディ(ケイトリン・ディーヴァー)、その母親にして娘のPC、携帯にキーロガーなどを仕込んで、メールやテキストのやりとりを監視、さらに削除、時になり済ましまで行うパトリシア(ジェニファー・ガーナー)、そのパトリシアの開くセッションでケントが知り合うことになる、娘の写真撮影を行いながらハリウッド進出のサポートを目論むジョアン(ジュディ・グリア)、その娘で高校ではチアリーダーを努めるハンナ(オリヴィア・クロシッチア)、そのハンナとひょんなことからセックスできそうになるが、ポルノサイトの見過ぎで生身の女子相手に不能になってしまっていたクリス(トラビス・トープ)、その父親で妻とはセックスレス、息子のPCでポルノサイトを閲覧し、果てはエスコートにまで手を出すドン(アダム・サンドラー)、その妻で「求められたい」という感覚を取り戻したいがために出会い系サイトに登録して不倫を楽しむヘレン(ローズマリー・デウィット)。その他にもハンナのチアメイトで上級生とひょんなことからセックスしてしまい妊娠させられてしまう拒食症気味のアリソン(エレナ・カンポーリス)、その父親のJ・K・シモンズ(役の名前は出てこなかった・・・?)、フットボールを辞めたティムを罵るばかりかブランディに物を投げてぶつけるという暴挙に出て、しこたま殴られるダニー(ティモシー・シャラメ)など、かなり豪華なキャスティングである。

このように人間関係は割と複雑だが、ストーリーそのものは凡庸である。どこかで観た話のパッチワークである。ただし、そこにコミュニケーションとディスコミュニケーションの対立を見出すかどうかが、この作品の評価の分かれ目になる。かつて小説家の栗本薫は『 コミュニケーション不全症候群 』でオタクを「人間を仲間と思わず、機械を仲間と思う人種」と定義した。スマホやPCを対話の相手と見なすのか、それともスマホやPCの向こう側に対話の相手を見出すのか。何やら梅田望夫が「ビル・ゲイツはコンピュータをパーソナルものにすることに大いなる可能性を見出した。セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジはパソコンの向こう側に広がる世界に大いなる可能性を見出した」と言う具合に、新旧のITの巨人を対比してみせた。なにやら本作のテーマにも通じる比喩である。時代と人間の変質と本質の関わりに興味を抱く向きは、観賞必須であると言えよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, J・K・シモンズ, アメリカ, アンセル・エルゴート, ジェニファー・ガーナー, ティモシー・シャラメ, ヒューマンドラマ, 監督:ジェイソン・ライトマン, 配給会社:パラマウント・ピクチャーズLeave a Comment on 『ステイ・コネクテッド つながりたい僕らの世界』 ―人間関係の変質と本質を描く―

『ハクソー・リッジ』 ―戦争と殺人の拒否という大いなる矛盾の弁証法―

Posted on 2018年6月28日2020年2月13日 by cool-jupiter

ハクソー・リッジ 80点 

2017年7月2日 東宝シネマズ梅田 その他爆音上映など複数回観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド テリーサ・パーマー サム・ワーシントン ヒューゴ・ウィービング ビンス・ボーン
監督:メル・ギブソン

まずはメル・ギブソン監督に賛辞を送らねばならない。これは戦争映画の傑作であり、英雄譚の傑作であり、なおかつリアルな軍隊論、戦争論のドキュメンタリー映像でもある。小さな頃の兄弟喧嘩で弟を反射的にレンガで殴打してしまい、意識不明になるような重傷を負わせてしまったデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)。それ以来、彼は「汝、殺すなかれ」の教えを胸に刻みつける。時は流れ、第二次世界大戦も佳境へ。同世代が次々と志願兵となって戦地に赴く中、デズモンドは将来の妻となる看護師のドロシー(テリーサ・パーマー)と出会い、恋に落ちる。そして彼自身も遂に戦場へと向かう決心をする日が来る。無事に入隊するものの、「銃には触らない」「人は決して殺さない」という軍と対極にあるその思想信条に、仲間や上官は困惑し、デズモンドを排除しようとするようになるが・・・

何がこの男をそこまでして戦地に向かわせるのか。そして、銃を持たず、ただただ衛生兵として戦場で傷ついた兵士たちだけを救出していくことにどのような意味があるというのか。自らの身を守る術を持たないまま、戦場に立つことの恐ろしさや危険性をどれほど自覚できているのか。デズモンドが子どもの頃は、ただの性質の悪い飲んだくれにしか見えなかった父親(ヒューゴ・ウィービング)が、息子が戦地に向かうと聞いた時に語る昔話は、これらの疑問に対する彼なりの答えであった。思いの丈をこのような形で見せるのは反則である。劇場でも、そして自宅でも泣いてしまったではないか。懐古趣味とすら映ったその行動は、過去の戦争によって植え付けられたトラウマのせいであったことを我々はここで初めて明確に知る。ウィービングのベスト・パフォーマンスはこれまでは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』であったと思っていたが、今作にこそ彼の最高の演技があると評価を見直したい。

戦場シーンは凄惨の一語に尽きる。血みどろなどという表現では生ぬるい、泥と臓物と火薬と煙が入り混じった、命であったモノがそこかしこに散らばっている。もちろん、五体満足な遺体も、死んだふりをしている役者ではなく、本当に仮死状態にでも追い込んでいるのではないのかという迫真の演技。我々はよく「死んだ魚の目」などと言って生気の無さを表現したりするが、今作もひょっとして微妙に目や顔などにVFXを施しているのか。いや、ギブソン監督はCGを多用するスタイルは好まないから、これもやはり迫真の演技か。

戦場の悲惨さが際立つのは、命の火はあまりにも呆気なく消えるのだという、その無慈悲なまでの描写にある。これは日本のテレビ映画『 鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争~ 』でも取り入れられていた手法である。まさかギブソン監督が香川照之を観たりはしていないと思うが、それでもアメリカ人である彼が日本人の水木しげると同じ問題意識にたどり着いたのは興味深い。水木は戦局苛烈と報じられた南部戦線で左腕を失うわけだが、同じく戦争で左腕を失ってしまった人物を我々はちょうど最近、『 焼肉ドラゴン 』の龍吉に見出したところである。つくづく戦争の理不尽さを思い知らされる。ギブソンと言えば『 マッドマックス 』、『 マッドマックス 』と言えばオーストラリア。大日本帝国軍がオーストラリア北部にまで侵攻していたことは、一般にはあまり知られていないのではないか。やってしまったことは取り消しようがないが、やってしまったことを無かったことにしようとしても仕方がない。論語に「過ちて改めざる、是を過ちという」とある。いつか来た道に舞い戻ってはならない。

Back on track. 戦争前の訓練シーンではお決まりとも言える愉快なキャラクター達が登場するが、最も笑えるのはおそらくハウエル軍曹(ヴィンス・ヴォーン)であろう。オーウェン・ウィルソンと組んだ『 ウェディング・クラッシャーズ 』や『 インターンシップ 』で残した印象が強烈で、それゆえに彼が『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹並みに口汚く新兵を罵っていく様は痛快ですらある。しかし、この痛快さが上述した戦場および戦闘シーンの凄惨さを倍増させている。ギブソン監督の手腕である。

その戦場でデズモンドが取る行動、すなわち衛生兵として負傷者の救護にあたることの意味を、観る者はすぐには見出せない。なぜなら、あまりにも呆気なく命が消えていくから。デズモンドが徹宵で戦場を駆け巡り、一人また一人と兵士を救い出していく様には初めはその英雄的行動に感動を、次にはその早く逃げてほしいという祈りを我々にもたらす。なぜ逃げないのか。それがデズモンドの信念であり信仰であると言ってしまえばそれまでだが、これは彼なりの父殺し(あくまでも文学的意味での)になっているのだろう。戦場で共に戦い、ともに死ねなかった戦友たち。父は友の死を悼んでいるのではなく、共に死ねなかったことを悔やんでいる。まるで『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』冒頭でトニー・スタークがスカーレット・ウィッチに見せられたようなビジョンだ。父が戦争に行きたいが許可してもらえない息子の願いを叶えるために、かつての上官を頼るシーンには、このような背景が見えてくる。軍を強くするのは、訓練ではなく「お前を独りでは死なせない」という連帯意識を共有することであろう。父やかつての上官はそれを知っていた。デズモンドは現実にそれを証明した。もしかしたら彼こそが軍人の鑑とすら言えるのかもしれない。なんという逆説であることか。

対照的に、日本軍兵士の描写は極めて陰鬱的である。この点をどう評価するのが、ある意味での思想のバロメーターになるのかもしれない。映画的演出上の脚色と見るもよし、史実の忠実な描写と見るもよし、フィクションとして距離を置くのもよいだろう。ただこの作品を通じて感じた何らかのメッセージを受け取ったのであれば、それを大事にしてほしい。戦争とは往々にして美化されるものだし、逆に美化されなければ、とても戦争などに行けるものではない。平和日本の今に乾杯するためにも、多くの人に今作に触れてほしいと思う。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, オーストラリア, ヒューマンドラマ, 監督:メル・ギブソン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『ハクソー・リッジ』 ―戦争と殺人の拒否という大いなる矛盾の弁証法―

『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

Posted on 2018年6月25日2020年2月13日 by cool-jupiter

沈黙 サイレンス 80点

2018年4月18日 レンタルBlu-rayにて観賞
出演:アンドリュー・ガーフィールド アダム・ドライバー リーアム・ニーソン 浅野忠信 窪塚洋介 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈
監督:マーティン・スコセッシ

原作は高校生の時に読んだが、その頃はあまりピンと来なかった。その後、いつか再読しようとは思っていながら、その機会は訪れないまま、映画化され、それでも都合が合わず、劇場観賞はできなかった。そしてようやくTSUTAYAで借りてきた。心が切り刻まれるような物語であった。たとえば『 ハクソー・リッジ 』に対して、「日本兵の描き方がおかしい」という声を挙げる人がいるが、今作にはそうは言えまい。なぜなら原作者は遠藤周作なのだから。日本の気候や風土の描き方がおかしいという批判は当たるだろう。なぜならロケ地は台湾だから。本作に対して批判すべき点があるとするなら、なぜ皆が皆、ポルトガル語ではなく英語をしゃべるのか、という点ぐらいであろう。

この映画が観る者の心を切り刻むのは、その三重の対立構造にある。迫害を受ける信徒と神父、そして迫害する幕府。そして信仰を棄てる者と信仰を棄てない者。そのような彼ら彼女らを見ながら、迫害を止めてほしい、信仰を棄ててほしいと思う自分と、信仰を棄てるな、祈らずとても神や守らんと思ってしまう自分。いずれの立場も分かる。高校生の頃にはあまり理解できなかったフェレイラ神父や井上筑後守、キチジローの選択や決断が、物理的な重みを持っているかのように、心に圧し掛かってくる。宗教的な信仰心と、政治的な信念の間にある違いとは一体何であるのか。それはおそらく、前者には≪沈黙≫の問題がいつでも、どこでも、誰にでも起こりうることではないだろうか。というのも、(為政者にとって)政治的な信念が試されるのは、それが自分のためではなく、他人のためになるかどうかを問われる時である一方で、宗教的信仰は自分が危難に陥った時、さらに他者が危機にある時にも問われるからだ。政治的な決断、自分の内なる声は、他人に聞いてもらうこともできる。しかし、信仰の対象=神が、信徒の苦難の時に沈黙を保つ理由が何であるのかは、誰に問えばよいのか。実際に、宣教師のガルペ(アダム・ドライバー)は信徒の危機を見過ごすに忍びず、結果的に命を落としてしまう。同じく宣教師のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は、その悲劇を目の当たりにするのだが、これとても彼にとっての受難の端緒に過ぎなかった。

今でも小学校の社会科では、踏み絵を教えているのだろうか。小学生の頃の自分は、「形だけのことなら、踏めばええやん」と思っていた。形だけのことで・・・と思うが、我々の社会は一事が万事、形へのこだわりで構成されているではないか。ネクタイはいずれ廃れるかもしれないが、尊敬語と謙譲語の使い分け、お辞儀の角度からハンコの押印の角度に至るまで、形式の尊重は社会の隅々まで行きわたっているように感じる。しかし、信仰はおそらくそうではない。祈り=自己内対話と説明する書籍も読んだことがあるが、対話の相手が沈黙を保っているというところに、信徒の懊悩を感じ取らざるを得ない。なぜなら、我々が後生大事に守っている形式というのは、社会的な要請=他者の存在が当たり前のように前提になっているが、信仰=祈り=自己内対話においては、神の存在を確信しつつも、その不在を強く疑わなくてはならないからだ。

信仰を持つからこそ、棄ててしまう。神に語りかけるからこそ、沈黙が返ってくる。そもそも日本に渡ってきた目的は、フェレイラ師(リーアム・ニーソン)を探し、本当に棄教してしまったのかを確かめるためだったが、そのフェレイラ師もまた、心を切り刻まれてしまっていた。何が、もしくは誰が彼の心を切り刻んだのか、引き裂いたのか。決断の時に、声は聞こえてきたのか、聞こえなかったのか。それは、同じ責め苦を受けるロドリゴと痛苦を分け合うことで実感してほしい。信仰心というものが人を生かし、人を殺す。信仰心が人を救い、人を苦しませる。切り裂かれた心の奥底から湧き起る声は、誰のものなのか。それは、本作を通じて確かめてほしい。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アダム・ドライバー, アメリカ, アンドリュー・ガーフィールド, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 監督:マーティン・スコセッシ, 配給会社:KADOKAWALeave a Comment on 『沈黙 サイレンス』 ―沈黙が意味するのは無視か、無関心か、信仰の不足なのか―

『スウィート17モンスター』 ―大人でもなく、さりとて子どもでもない17歳という諸刃の剣―

Posted on 2018年6月23日2020年2月13日 by cool-jupiter

スウィート17モンスター 70点

2018年3月21日 レンタルDVD観賞
出演:ヘイリー・スタインフェルド ウッディ・ハレルソン ヘイリー・ルー・リチャードソン
監督:ケリー・フレモン・クレイグ

原題は“The Edge of Seventeen”、つまり「17歳の刃」である。洋楽ファンなら、これがスティーヴィー・ニックスに同名のナンバーがあるのを知っているかもしれない。ジャニス・ジョプリンやロッド・スチュワートといったしわがれ声を武器にするシンガーで、マイ・フェイバリットは“Stand Back”である。日本で言えば映画『不能犯』のテーマソング「愚か者たち」を見事に歌い上げたGLIM SPANKYの松尾レミもこの系統のシンガーと言えるかもしれない。

Back on track. この作品で描かれるのは、17歳のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)がくぐり抜けて行く数々の試練である。まず、これを目にするのが10代なのか、20代なのか、30代以上なのかで、ネイディーンへの感情移入度合いが相当に変化してくるであろう。10代であればシンクロ率は400%… 20代でも女性なら100%に到達する人もいるかもしれない。それはあまりにも典型的なトラブルの数々ではあるが、ネイディーンの性格・パーソナリティとも相俟って、とんでもなくエクストリームな展開を見せる。

親友のクリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)が、あれよあれよと言う間にイケメンで秀才の兄のダリアンとベッドイン。最初は兄の気まぐれな遊びかと思っていたが、二人の仲が本物であると知ったネイディーンは大爆発。兄と親友の2人を一気に失ってしまう。と書くと悪いのは2人のようだが、実際はネイディーンのひとり相撲。兄貴も親友も幸せで、自分が幸せではないのは、2人のせいだと勝手に勘違い。そして自分は、片思いの相手に勢いでとんでもないテキストを送ってしまい・・・

父親不在の家庭で育ったことが大きな影響を及ぼしているのは分かるが、これほどキレやすい高校生というのも、洋の東西を問わず、なかなか見つけられないのではないか。邦題の『スウィート17モンスター』は言い得て妙である。このモンスターを手懐ける時に必要なのは、positive male figureである。そう、『 プールサイド・デイズ 』におけるサム・ロックウェルのような。今作でその役割を果たすには教師のウッディ・ハレルソンである。この男には登場シーンから注目してほしい。おそらく日本の教育機関でこの男の言動が通報されれば、一発で教員として追放されてもおかしくないのではと思う。しかし、17歳のモンスターを大人しく躾けるのには、もう一人の17歳が必要となってくる。それがアーウィン・キムというアジア系アメリカ人、おそらく韓国系アメリカ人だろう(しかし、家族は中華料理屋を経営していてかなり羽振りが良い)。白人であることが必ずしも社会的なステータスを保証するものではなく、White Trashなる言葉さえ生まれている中(その典型例は『 パティ・ケイク$ 』だ)、アーウィンという少年がネイディーンにアプローチしてくる様はある意味、痛快である。観る者によっては、アプローチしていく様、とも表現できるだろう。白人と付き合うのは白人という時代ではない、つまり白人と分かりあえるのは白人だけではないのだ。ほんの少し、自分の殻を破れば、兄や親友が手に入れたような幸せに手が届く。このアーウィンという少年の内面やその努力を知ることで、観る者はネイディーンの幸せを祈りたくなってくる。だが、残念ながら彼の恋心は実らない。怪物の心の殻を優しく溶かしてくれるのは、ウッディ・ハレルソン・・・ではないのだ。このシーンは本当に心温まるというか、直前に母親ととんでもないトラブルを起こしているが故に、余計に輝くシーンとなっている。大人と子どもの境目、他人への不信感、自己嫌悪など、様々なものが入り混じったせいでひねくれるしかなくなった少女がどのように癒されるようになっていくのか。これは誰もが青春の一頃に通ってきた、一種のイニシエーションを極端な形で切り取ってきたストーリーなのだ。私立高校ぐらいなら、道徳の教材として使っても良いのではないかと思わせる完成度である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, ウッディ・ハレルソン, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, 監督:ケリー・フレモン・クレイグ, 配給会社:カルチャヴィルLeave a Comment on 『スウィート17モンスター』 ―大人でもなく、さりとて子どもでもない17歳という諸刃の剣―

『メイズ・ランナー 最期の迷宮』  -最後の迷宮は人の心の中に-

Posted on 2018年6月18日2020年1月10日 by cool-jupiter

メイズ・ランナー 最期の迷宮 50点

2018年6月17日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ディラン・オブライエン カヤ・スコデラーリオ トーマス・ブロディ=サングスター キー・ホン・リー ウィル・ポールター
監督:ウェス・ボール

*一部ネタバレあり

第一作を60点、第二作を50点と考えるならば、今作にもこの点数を付けざるを得ない。まず、迷宮が出てこない。シティーを目指すのは分かるが、一部のポスターにあったような迷路に囲まれた巨大なタワーが立ち並ぶようなシティーではなく、普通に壁に囲われた、どちらかといえあ『進撃のタイタン』のような壁、そして街だ。もっとも、謎の超高層ビル群がそこには存在するのだが。

本作のような、いわゆるYAノベル(Young Adult Novels)を原作にしたヒット映画には他には『ハンガー・ゲーム』シリーズや『ダイバージェント』シリーズがあるが、いずれの作品にも共通するのが、「なぜこんなポスト・アポカリプティックな世界で、これだけ資源を浪費できるのか?」ということ。まあ、これは『マッドマックス』の頃から、決して尋ねてはならない問いなのかもしれないが。

原作のトーマスその他一部キャラが持っていたテレパシーという要素を取り除いたことで生まれたサスペンスもあれば、そのために付け加えられた余計なアクションもあった。特に最後のモブとWCKDの激突と戦闘のシーンは、「とりあえず爆発シーンを入れとくか」程度のやっつけ仕事にしか見えなかった。なぜあのタイミングでローレンスは突撃し、なぜシティーを奪還すると息巻いていた連中は、ビル群を灰燼に帰すまで破壊しつくしたのか。元々がYAノベルだけにあまり深く追及しても仕方がないのかもしれないが、映画のスペクタクルとは爆発や格闘シーンにあるのではなく、活字で表現されない/され得ない細部の描写にこそあるはずだ。まさかそれがラストシーンの Maze ならぬ Maize にあるわけではないと信じたいが・・・

1および2を観たファンであれば観賞して、この結末を見届けるべきなのだろう。そして自分なりにトーマスの目に宿る決意とその手に握りしめた血清の意味について納得がいくように解釈をしてほしい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SFアクション, アメリカ, ディラン・オブライエン, 監督:ウェス・ポール, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『メイズ・ランナー 最期の迷宮』  -最後の迷宮は人の心の中に-

『ワンダー 君は太陽』 -人の見た目が変えられないなら、人を見る目を変えるべし-

Posted on 2018年6月17日2020年2月13日 by cool-jupiter

ワンダー 君は太陽 75点

2018年6月16日 MOVIXあまがさきにて観賞
出演:ジェイコブ・トレンブレイ ジュリア・ロバーツ オーウェン・ウィルソン
監督:スティーブン・チョボウスキー

*一部ネタバレあり

これは傑作である。何が本作を傑作たらしめるのか。それは主人公オギー(ジェイコブ・トレンブレイ)が自分自身の力で何かを成し遂げる様子を逐一カメラに収めているからではなく、むしろオギーの周囲の人間が知らず知らずのうちにオギーの影響を受けているということを観客に非常に分かりやすい形でプレゼンテーションしてくれているからだ。またオギー自身も、決して子どもに似つかわしくない明晰すぎる頭脳やタフすぎる精神力を備えているわけでもない。言わば、ちょっと特殊な顔を数々の手術で治してきただけの普通の男の子なのだ。オギーを見ることは、ある意味で自分自身の暗い心と向き合うことでもある。誰もが何かしらの罪悪感や劣等感に苛まされているものだが、もしもそれがほんのちょっとのきっかけで取り除かれるのであれば、人は人にもっと優しくなれるかもしれない。どうせ自分は背が低いから、どうせ自分は太っているから、どうせ自分は二重瞼じゃないから、どうせ自分は・・・ と自分にマイナスの符号ばかりつけるということを、我々はしがちである。しかし、ほんの少し見方を変えれば、ほんの少し接し方を変えれば、ほんの少し勇気を振り絞れば、何かが大きく変わるかもしれない。そんな気にさせてくれる作品である。

もちろん、オギーの学校生活は初めはとても辛いものだ。誰もがオギーを「疫病神」扱いする。しかし、そんな中でも手を差し伸べてくれる子どもはいるし、オギーにはその手を握り返すだけの勇気があった。またテストで困っているクラスメイトに、こっそり自分の答案用紙を見せてやるなどの優しさや茶目っ気もある。他校の年上の生徒に友達が殴られたのに対して敢然と立ち向かう姿勢すら見せる。しかし、考えてみれば、こうしたことは全て普通のことであると言える。これがドラマチックであるのは、オギーが特別な少年だからではなく、オギーを特別な少年であると思い込んでいる我々の側にその原因があることが明らかになってくる。そのことを本作はある種の群像劇の形で教えてくれる。

この映画は、オギーの父ネート(オーウェン・ウィルソン)、母イザベル(ジュリア・ロバーツ)、姉ヴィアや愛犬のデイジー、その他にも姉の友人やボーイフレンド、オギーのクラスメイトや友人、教師、校長先生らの目を通じて、オギーの周囲の人間ドラマを構成していく。特に姉ヴィアが経験する親友との突然の断絶と新しい出会いは、『 レディ・バード 』でも似たようなテーマが扱われていたように、普遍的な事象であると言える。それが特殊な色彩と帯びて見えるとするなら、やはりそれは観る側の目にフィルターが掛かっているからなのかもしれない。そのことを暗示するのがオギーが友達のジャック・ウィル(ノア・ジュプ)と組んで発表する理科研究プロジェクトであると思う。

その他、個人的にツボだったのは、スター・ウォーズからチューバッカとダース・シディアスが参戦していること。このぐらいの年齢の子になると、旧三部作と新三部作を分け隔てなく愛でられるということは『 ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス 』でも触れられていたが、時代は確実に進んでいるようである。それでも学校のとあるイジメのシーンでオギーを指して悪ガキのジュリアンが”Darth Hideous”と呼ぶところなどは、前述のジャック・ウィルの子どもらしさとはまた別の子どもらしさを見せられ、ぞっとしてしまった。このクソガキを巡ってはさらに一悶着あり、彼の良心と両親にも見せ場が与えられる。そこで、この世は陽の光と虹だけで出来ているわけじゃないんだ、というロッキー・バルボアの言葉を言葉を思い出す人もいるだろう。また劇中で『オズの魔法使い』が一瞬出てくるのだが、この作品でも虹は重要なモチーフになっている。それをオギーとジャック・ウィルはあっさり観ないという選択をするのだが、ここからもオギーと皆の物語は、魔法ではなく皆の知恵や勇気によって紡がれているものだということが暗示されているようだった。

再度繰り返すが、本作の素晴らしさは、オギーその人ではなく、彼の生きる世界の明るさと暗さ、その両方に我々が魅せられるからだ。愛犬デイジーとの別れや、そのことに独り寂しく涙する父などの姿なくして、オギーの成長はなかったし、物語世界の豊饒さは生まれなかったのではないだろうか。人は変わることができる、それは『スリー・ビルボード』のテーマでもあったが、そのことは本作にも通低している。映画ファンであってもなくても、見て損は無い傑作である。

それにしても主演のジェイコブ・トレンブレイはアダム・ドライバーそっくりだし、親友役のノア・ジュプはトーマス・ブロディ=サングスターに良く似ている。将来に期待が持てそうな子役たちである。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, オーウェン・ウィルソン, ジェイコブ・トレンブレイ, ジュリア・ロバーツ, ヒューマンドラマ, 監督:スティーブン・チョボウスキー, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 『ワンダー 君は太陽』 -人の見た目が変えられないなら、人を見る目を変えるべし-

『プールサイド・デイズ』 -少年に向き合う大人の男-

Posted on 2018年6月17日2020年1月10日 by cool-jupiter

プールサイド・デイズ 65点

2016年にWOWOWで録画観賞
出演:スティーブ・カレル トニ・コレット リーアム・ジェームス サム・ロックウェル
監督:ナット・ファクソン ジム・ラッシュ

初っ端からスティーブ・カレルに左フックを一発喰らったような気分にさせられる。母親の恋人に「お前は10点満点で3点だ」などと言われて、夏のバカンスを楽しめる子どもがどこにいるものか。こんな嫌味な役をやらせると何故かハマるのは往々にしてコメディアン。『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』における品川佑もそんな感じだった。

14歳のダンカンは、母親(トニ・コレット)とそのボーイフレンドのトレントと共に夏を過ごすべく海辺のリゾート地に車で移動していた。そんなダンカンの居場所は車の最後尾の座席とも言えないような空間。現代の“The Way, Way Back”はここを指すようだ。もちろん居心地が悪いのは車の中だけではない。別荘ではトレントの連れ子が派手系のギャルでダンカンとは明らかに違う”人種”なのだ。畢竟、ダンカンはそんないたたまれない場所には長くは留まれない。自転車に乗ってウォーター・パークへ逃避するのだが、そこでパークの従業員のオーウェン(サム・ロックウェル)と出会う。

アメリカではよく、子どもを育てるには Positive Male Figure が必要だ、などと言われる。実際に、父親のいない家庭では、娘が早期に妊娠することが多いとするデータもあるようだ。日本でも昔は欠損家庭(恐ろしい響きだ)、今では父子家庭や母子家庭と呼称されるが、やはり父、あるいは父に相当する人物の不在は子の成長に影響を及ぼすことは想像に難くない。ただし、父は父だから父なのではなく、父親であることの勤めを果たすからこそ父になりうるということを我々は決して忘れてはならない。そのことは『 万引き家族 』におけるリリー・フランキーが逆説的に証明してくれた。その役割を果たしてくれるのは、今作ではサム・ロックウェルなのである。

14歳というのは不思議な年齢で、まさに子どもと大人の中間地点と言える。第二次性徴が終わっている頃とはいえ、肉体的な成熟はまだまだ先だし、精神的な成熟はもっともっと先だ。そうした自らの変化に誰もが戸惑う時期で、女子はだいたい母親から一通りのレクチャーを受けるものだが、男子に対してしっかりと向き合う大人の男というのは、今はどれほどいるのだろうか。というよりも、昔から日本にはこのような意味での「父親」はあまり存在しなかったのではないかと思う。だからこそ一頃、『父性の復権』なる文庫が飛ぶように売れていたのではないか。

話が逸れた。プールに逃げ場を見出したダンカンは、オーウェンにアルバイトに誘われる。別荘に居場所がないダンカンには断る理由は無い。かくしてダンカンの一夏の成長物語が始まる。本作の素晴らしいところは、オーウェンというキャラがダンカンを対等の男として扱うところであり、大人のあれやこれや(たとえば恋愛や仕事振り)についても隠さないところである。それはつまり、大人に成りきれていない男子を体現しているとも言える。威厳や威圧で関係を構築しようとするトレントと、仲間意識で関係を構築するオーウェンのどちらが「父親役」としてふさわしいのかは言うまでもない。ダンカンも一夏の恋を経験し、オーウェンも同僚のケイトリンと真剣交際に至る一方で、トレントは別荘の目と鼻の先で浮気・・・ 当たり前のように一悶着があり、そしていよいよ夏も終わり、別離の時へ。

最後の最後でトレントに立ちはだかるオーウェンは、間違いなく父親像を体現していた。人生には Positive Male Figure と Negative Male Figure の両方が存在するが、オーウェンは間違いなく前者であった(ちなみに後者でいっぱいの映画の代表例はエドガー・ライト監督の『 ベイビー・ドライバー 』)。それにしても幸薄い母親役と言えば『 シックス・センス 』の時からトニ・コレット、その一方で殺人者からレイシストの暴力警察官役までこなすサム・ロックウェルが共演するというのは、それだけでなかなかに味わい深いものがあった。夏に観賞するにはぴったりであるし、ファミリーもしくは父子で堪能するのも良いだろう。素晴らしい作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, サム・ロックウェル, ヒューマンドラマ, 監督:ジム・ラッシュ, 監督:ナット・ファクソン, 配給会社:20世紀フォックス映画Leave a Comment on 『プールサイド・デイズ』 -少年に向き合う大人の男-

女神の見えざる手

Posted on 2018年6月8日2020年2月13日 by cool-jupiter

女神の見えざる手 85点

2017年10月22日 大阪ステーションシネマおよびブルーレイにて観賞
出演:ジェシカ・チャステイン マーク・ストロング クリスティーン・バランスキー
監督:ジョン・マッデン

ロビイスト映画の、これは白眉である。『 シン・ゴジラ 』並みのポリティカル・サスペンスであり、『ア・フュー・グッドメン』のようなスリラーでもある。銃メーカーがロビイング活動を請け負う会社に、女性が銃に対しても抱くイメージを変えてほしいと依頼するところから物語は始まる。銃を持つことで手に入れられる安心、強い母親のイメージ、それらを前面に押し出してほしいという依頼をしかし、ジェシカ・チャステイン演じるエリザベス・スローンは一笑に付す。ここから彼女は所属する大手ロビー会社を退社。マーク・ストロング率いる小さなロビー会社に移籍し、銃規制法案に働きかけていく。

冒頭に、“Lobbying is about foresight. About anticipating your opponent’s moves and devising counter measures. The winner plots one step ahead of the opposition. And plays her trump card just after they play theirs. It’s about making sure you surprise them. And they don’t surprise you.”という独白がある(実際には聴聞会のリハーサルだが)。この台詞の意味をよくよく噛みしめて今後の物語展開を見守って欲しい。予想してほしいではなく、見守って欲しいと願うのは、エリザベスの孤高の強さと弱さをその目に焼き付けてほしいからだ。話の展開を予想して、当たった外れたと一喜一憂することにさほどの意味は無い。少なくともこの映画に関しては。なぜなら、このストーリーの先が読める人は、余程のすれっからしか、さもなければロビイストだからだ。

それにしても、このエリザベス・スローンというキャラクターは異色である。2016~2017年にかけては、特に女性の女性性を大きく覆すような映画が多数公開されてきた(最も分かりやすい例は『ワンダーウーマン』と『ドリーム』か)ように感じるが、その中でも最も輝いているのは、おそらくこの Miss Sloane であろう。敵も味方も欺き、睡眠時間も削り、ストレス解消と言えば男娼を買うことで、勝つためなら法律違反も厭わないその姿勢は、観る者に問いかける。「あなたはここまでやりますか?」と。同時に、「ここまでやって勝った先に、いったい何があるのか?」という問いも必然的に発生する。彼女が求めたのは勝利なのか、それとも自己満足だったのか、それとも安息だったのか。ラストシーンで、彼女の目線の先にある者/物はいったい誰/何であったのか。

それにしてもジェシカ・チャステインという稀代の女優はここに来て、一気に花開いた感がある。『 ゼロ・ダーク・サーティ 』や『 モリーズ・ゲーム 』でも同工異曲のキャラを演じきったが、『 ヘルプ 心がつなぐストーリー 』では少し抜けたようでいて芯に強さのあるキャラも演じた。『 スノーホワイト 氷の王国 』のような微妙な作品に出演したこともあるが、作品のそのものの完成度の低さが、彼女自身の演技力や存在感を棄損したことは一度もない。希有な女優であると言える。何でもかんでもアメリカ様の後追いをする島国の、政治に危機意識を持つ人、キャリアに対して妥協を許したくない人にはぜひ観てほしい逸品である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, サスペンス, ジェシカ・チャステイン, フランス, 監督:ジョン・マッデン, 配給会社:キノフィルムズLeave a Comment on 女神の見えざる手

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