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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

Posted on 2019年8月13日2019年8月13日 by cool-jupiter

エリザベス∞エクスペリメント 40点
2019年8月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:アビー・リー キアラン・ハインズ
監督:セバスチャン・グティエレス

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確か、未体験ゾーンの映画たちでパンフか何かだけ手に取った記憶がある。地雷臭がプンプン漂っていたが、Again, I was in the mood for garbage. 夏と言えばサメがゾンビのクソ映画祭りなのだが、たまには違うジャンルをば。本作はSFというよりもシチュエーション・スリラーである。しかし、シチュエーション・スリラーと呼ぶには、話があまりにもとっ散らかっているという印象である。期待せずに観た。そして、それで正解であった。

 

あらすじ

エリザベス(アビー・リー)は年の離れた億万長者の夫ヘンリー(キアラン・ハインズ)の自宅へと帰ってくる。そこは山中の湖畔にある豪邸で、室内プールにワインセラー、ブティックかと見紛うほどのドレスに靴まであり、自然に囲まれた別天地だった。しかし、ヘンリーはとある部屋にだけ、エリザベスが入ってはならないと言う。ある時、エリザベスがその部屋で見たものとは、彼女のクローンだった・・・

 

ポジティブ・サイド

ある時点までは万人の予想通りに進む。しかし、そのある時点からはやや予想の斜め上を行く展開になる。屋敷の使用人たちが発する雰囲気が、どこか『 ゲット・アウト 』の屋敷の住人およびゲストたちのそれと似ているのだ。こういう映画は観る者の予想を裏切ってナンボなのである。

 

男女、そして夫婦の仲というのは難しい。『 ゴーン・ガール 』を観るまでもなく、男(夫)と女(妻)が、腹の中に何を抱えているのかは外部の人間からは窺い知れない。夫は妻に何を求めているのか。そのような問いを突き付けられた時、そして本作のヘンリーのような夫に自分がなってしまってはいないかとの不安に襲われる諸賢は多かろうと推測する。いくら天才的科学者であっても、男はその本質においてアホなのではないか。英雄色を好む。古人に言によれば「英雄、色を好む」ということだが、逆に言えば「色を好むから英雄である」とも考えられる。

 

ヘンリーも相当であるが、オリバーもかなり危ない男である。エリザベスが魔性の女だからだと勝手に思い込むことなかれ。この盲目の青年の情念は、正常だとか異常だとかの尺度で測ってはならない。やっていることが、まんま山本弘の小説に出てきそうな無邪気で、それでいて自己中心的な思春期真っ只中の子どもの妄想である。というか、山本弘の小説に、地球が自分の意思で世界を二つに割って、片方に生きていたい生物、もう片方に死にたがっている生物を選り分けるような短編があったが、そこに出てくるアホなガキンチョとオリバーは、本質的に同じ思考、同じ行動原理を持っている。キモイの一言に尽きる。

 

男というのは、どうしようもなくアホな生き物であるということをまざまざと見せつけてくる怪作である。

 

ネガティブ・サイド

いくらなんでもセキュリティが緩過ぎるだろう。本当に見られたくないのなら、厳重に施錠しろ。というか、出入り口を作っては駄目だろう。大富豪にしてノーベル賞受賞者なら、もうちょっと頭を使って欲しい。本作はほぼ全編、邸宅内でストーリーが進行する。つまり、舞台が一つだけなのであるが、このようなご都合主義的なドラマツルギーは創作、演出上の逃げである。こういった部分でサスペンスを生み出し、それを終盤のドンデン返しへの伏線とするような脚本が望まれているのだ。

 

その一方で、家の外に出るためのセキュリティが固すぎる。というか、屋敷の外に通じる道が巧妙にふさがれて、あるいは防弾使用になっていることで、ヘンリーの秘密のクローン保管室への扉がいとも簡単に開いてしまうことに納得ができなくなる。このマッドサイエンティストは頭が良いのか悪いのか、分からなくなってしまう。本作のテーマの大きな部分に、クローンという存在に対してどのような感情を以って接するべきかというものがある。理性と感情は別物である。それは分かっている。だが、それでもヘンリーの行動原理や思考には首を傾げざるを得ないところが多々ある。結婚を「誘拐」に例えるセンスには眉をひそめてしまうし、無数にクローンが存在するならばまだしも、6人しかいない貴重なクローンをいとも簡単に始末してしまうところなど、彼の言う愛は自己と他者の関係のことではなく、性欲のことではないのかとさえ感じられてしまう。底知れないキャラクターに見せかけて、非常に底浅く感じられるのである。

 

また、盲目のオリバーについても疑念が残る。というよりも不可解さが残る。盲目であっても、信じられない能力や技能というのは身につくものだ。フィクションの世界では座頭市しかり、実在の人物では石田検校しかり。だからオリバーが銃をぶっ放すぐらいは気にしない。しかし、注射器を巧みに操るというのは一体全体どういうことだ?どの瓶に入っているのがどの薬品で、その薬品の有効期限はいつまでで、なおかつその薬品の適切な投与量がどれくらいなのかを、盲目でありながらどのようにして把握したというのか。合理的な説明が見当たらないし、思いつかない。

 

総評

扱っているテーマは面白い。しかし、邦題がまずい。∞マークは完全なるミスリード材料だ。同じようなSFチックなシチュエーション・スリラーなら、『 トライアングル 』(2009年 クリストファー・スミス監督作)や『 月に囚われた男 』をお勧めしたい。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アビー・リー, アメリカ, キアラン・ハインズ, シチュエーション・スリラー, 監督:セバスチャン・グティエレス, 配給会社:アットエンタテインメントLeave a Comment on 『 エリザベス∞エクスペリメント 』 -ご都合主義が過ぎる凡作スリラー-

『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』 -脚本家は長谷敏司か、庵野秀明か-

Posted on 2019年8月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 40点
2019年8月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:佐藤健 有村架純 波瑠
監督:山崎貴

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少し前までは中高生でも『 ゴジラ 』を知らない子たちがいた。しかし、さすがに『 ドラゴンクエスト 』や『 ファイナルファンタジー 』を知らないということはないようだ。大学生の頃に、ドラクエはⅦまで一応クリアしたんだったか。それ以降はクリアしていない(プレーはした)。しかし、ⅢのSFC版やⅣのプレステ版はかなりやりこんだ記憶がある。Ⅴの初回プレーでは、もちろん名前はトンヌラ・・・ではなくユーリルと入力。久美沙織の小説の影響である。あの頃は周辺小説(『 アイテム物語 』、『 モンスター物語 』)だけではなく『 4コママンガ劇場 』にもハマっていた。早い話が、当時の自分は少年だったわけである。

 

あらすじ

リュカ(佐藤健)は父パパスと共に世界を旅していた。しかし、謎の妖魔ゲマによりパパスは絶命。リュカはラインハットの王子ヘンリーともども奴隷にされてしまう。十年後、辛くも脱出したリュカとヘンリーは、それぞれの生活に帰っていく。リュカはかつて暮らしていたサンタローズを目指すが・・・

 

  • 以下、本作品、ドラゴンクエストⅤおよび関連作品のネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

グラフィックの美しさとゲームっぽさのバランスが素晴らしい。実際のゲームでも『 ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち 』はFC、『 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 』はSFCである。ファミコンからスーパーファミコンへのレベルアップ時の衝撃は、それをリアルタイムに体験した者にしか分からないだろう。その後、PSやPS2、X-BOXも出てくるわけだが、FCからSFCへの移行ほどのインパクトはなかった。ちょうど良い具合に当時の少年少女、大人たちの想像力を刺激してくれたのだ。デフォルメされた2Dグラフィックが、我々の脳内でほどよくリアルな姿に変換されたのだ。リュカやパパス、サンチョの姿に、少年の日のあの頃を思い返した。

 

原作改変には賛否両論あろうが、少年時代をダイジェスト的にゲーム画面で済ましてしまうのもありだろう。安易にナレーションに逃げるよりはるかにましである。基本的に映画というのものは1時間30分から2時間に収めてナンボである。

 

ベビーパンサーの名前がゲレゲレなのもポイント高し。おそらくリアルタイムの初回プレーでこの名前を選んだのは、漫画家の衛藤ヒロユキ氏とJovian、その他数百名ぐらいではないかと勝手に勘定している。確か父親が何か別のソフトと抱き合わせで買ってきてくれたんだったか。ビアンカの命名センスに喝采を送ったあの日を思い出した。

 

すぎやまこういちの楽曲の力も大きい。小学生の頃にレンタルVHSで『 ドラゴンクエスト ファンタジア・ビデオ 』で、あらためてドラゴンクエストの音楽の魅力を確認したんだった。特に、フィールドの音楽。個人的にはⅢのフィールドの音楽がfavoriteだが、Ⅴのそれも素晴らしい。やはり少年の日のあの頃を思い起こさせてくれた。

 

ネガティブ・サイド

なぜ息子一人だけなのか。娘はどこに行った?その息子の名前がアルスというのは漫画『 ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 』由来なのか。だから最後に異魔神が登場するのか?スラリンがワクチンだというのも、漫画『 DRAGON QUEST -ダイの大冒険- 』のゴメちゃん=神の涙、というネタの焼き直しなのか。占いババは『 ドラゴンボール 』のそれか、またはドラクエⅥのグランマーズか。だからゲマの最期はデスタムーアの最終形態なのか。BGMもⅤ以外が混ざっていたが、そこはなんとかならなかったのか。唐突に登場するロトの剣も、天空シリーズと全く調和しない。それはさすがに言い過ぎか。

 

本作への不満の99%はラストのシークエンスにある。とにかくミルドラースが異魔神なのである。と思ったらウィルスなのである。この世界はすべて遊園地のVRアトラクションだったのである。それを匂わせる描写は確かにいくつかあった。妖精ベラの台詞(「今回はそういう設定なの」)。リュカの口調や口癖(「マジっすか!?」など)。唐突に「クエスト」などという、Vには存在しなかったシステムにリュカが言及する。倒されたモンスターが消える。ゴールドに変化する。ゲーム世界の文法で考えれば当たり前であるが、映画世界の文法ではそうでは無い事柄が散見された。そこはフェアと言えばフェアである。

 

問題は、映画を鑑賞する者の少年時代あるいは少女時代、あるいはその精神を否定する権利がいったい誰にあるのかということである。夢を見て何が悪い?現実から一時的にでも目を背けて何が悪い?何も悪くないだろう、それが社会的に著しい不利益を引き起こさなければ。何よりも、当時も今もゲームはコミュニケーション・ツールなのだ。どのモンスターを仲間にした、仲間にしていない。どのモンスターがどのレベルでどんな強さになるのか。PCは少しは普及していたものの、インターネットなどが影も形もない時代に、小中高校生がお互いの家に遊びに行って、ドラクエやらFFやらストⅡやらに興じて、友情を確かめ合い、深め合ったのだ。それだけではない。関連する小説や漫画で、ゲーム以外でもキャラクター達と出会い、交流していたのだ。そういった体験を虚構であると断じるのは容易い。しかし、虚構に価値が無いとは決して認めたくない。それをしてしまえば、DQだけではなく、あらゆるフィクション(映画、テレビドラマ、舞台演劇、講談、etc)を否定してしまうことになる。大人になれ、というメッセージを発するのは構わない。だが、誰もが持っている楽しかった少年時代を棄損することは許されない。いい大人がいつまでもpuer aeternus=永遠の少年では困る。大人には責任や職務、義務があるからだ。けれど、その大人の心の中に住まう「永遠の少年」を攻撃することは、人格攻撃に等しい。この手法は認められないし、許されない。なによりもこれは『 劇場版エヴァンゲリオン 』の焼き直しではないか。なぜ今になって、このような周回遅れのメッセージを発するのか。岡田斗司夫が『 オタクはすでに死んでいる 』で喝破したように、オタクという人種が隔離され、忌避される時代は終わった。誰もがマイルドにオタクであり、社会もそれを容認しているのが今という時代なのだ。そこに、このようなメッセージを携えて『 ドラゴンクエストV 天空の花嫁 』を映画化する意義はゼロであると断じる。

 

総評

ドラゴンクエストのファンは観てはならない。観なくてもよい、ではない。観てはならない。特に貴方がJovianと同じくアラフォーであれば、本作は忌避の対象である。しかし、ラストのシークエンスを除けば、しっかりしたストーリーのある映像作品として成立してしまっている。そうした意味で、若い世代、またはリアルタイムでファミコンやSFCはけしからんと感じていた、60代後半以上の高齢世代が、本作を適度な距離感で鑑賞できるのかもしれない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ファンタジー, 佐藤健, 日本, 有村架純, 波瑠, 監督:山崎貴, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 ドラゴンクエスト ユア・ストーリー 』 -脚本家は長谷敏司か、庵野秀明か-

『 ANON アノン 』 -近未来SFの凡作-

Posted on 2019年8月8日 by cool-jupiter

ANON アノン 50点
2019年8月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クライブ・オーウェン アマンダ・セイフライド
監督:アンドリュー・ニコル

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TSUTAYAでふと目にとまり、あらすじに興味をひかれた。野崎まどの小説『 know 』のや林譲治の小説『 記憶汚染 』の前駆的な世界、映画『 ザ・サークル 』のテクノロジーと思想が行き過ぎた世界であるように感じられた。暑過ぎて劇場に出向くのが億劫になるので、この時期は自宅での映画鑑賞率が高くなる。

 

あらすじ

あらゆる人間の記憶が記録される世界。第一級刑事サル・フリーランド(クライブ・オーウェン)は他者の記憶にアクセスし、単純作業のように事件を捜査・解決していた。しかし、ある日、街中で何の情報も読み取れない謎の女アノン(アマンダ・セイフライド)に遭遇する。ただの検知エラーだと思うサルだったが、その後、視覚をハッキングされて殺害される人間が次々に現れ・・・

 

ポジティブ・サイド

本作に描かれる社会はSFチックではあるが、充分に我々の予想の範囲内にあるものである。例えばビッグデータの管理と有効活用が叫ばれるようになって久しい。たいていの犯罪は、防犯カメラの映像が決め手になる。人がその目で見るものすべてを記録し、権限のある者だけがそれにアクセスできる社会は、犯罪抑止の観点からはむしろ望ましい。問題はプライバシーが守られるか否かである。Jovianは以前に大手信販会社で働いていたが、そこでは当然のように個人情報保護に腐心していた。だが、会社がもっと注力していたのはプライバシーの保護である。よく言われることであるが、個人情報、すなわち個人を識別できる情報(それは氏名であったり、電話番号であったり、住所であったりする)はある程度の数を集めなくては有用とはならない。プライバシーはそれ自体が貴重な、または危険な情報となる。例えば、貴方がたまたま上司のクレジットカードの明細書を見ることができたとしよう。そこに「○月×日 アデランス ¥43,200」という記載があったら?

 

本作は単なる情報とプライバシーの境目が曖昧になった世界の危うさを描いている。それはプライベートな情報をDFE(Delete Fuckin’ Everything)できるからで、さらに言えば、人間の記憶と記録の境目すらも曖昧になってしまうからだ。『 華氏451 』でも、物理的な実体あるものとしての書物は忌避された。なぜなら、アナログなもの全てを書き換えるのは実質的に不可能だからである。

 

本作でアマンダ・セイフライドが見せる記録操作の鮮やかさやサルの見る世界に、Augmented Reality(AR)やユビキタス社会に思いを馳せずにはいられなくなる。それがユートピアになるかディストピアになるかは誰にもわからない。しかし、セックスが重要なモチーフになっているところに本作の功績を認めたい。何もかもを情報空間で済ませる世界であっても、肉体と肉体をぶつけあう性行為に意味があるとアンドリュー・ニコルは言っているわけだ。エキサイティングなSF作品ではないが、ありうべき未来予想図の一つとして鑑賞する価値は認められる。

 

ネガティブ・サイド

視覚をハッキングすることだけでなく、プロット全体が『 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』の焼き直しに近い。というか、パクリと呼ばれても仕方がないのではないか。士郎正宗はサイバーパンク分野の先駆者である。手塚治虫の『 ジャングル大帝 』がディズニーの『 ライオン・キング 』の元ネタであることは世界中の人間が長年にわたって疑っていることである。本作も士郎正宗のパクリなのではないかという疑惑に今後長く晒されるだろう。

 

サルの上司の無能っぷりが目立つ。なぜ視覚をハッキングする犯罪者がいると分かっていながら、視覚記録を信じようとするのか。殺人事件が起きておらず、サルだけが不可解な経験をしているというのなら話は分かるが、すでに人が何人も死んでいるのだ。もちろん、エンタメ作品やフィクションの警察というのは大体が権力と通じていたり、腐敗していたりするものだ。しかし、そこまでクリシェである必要はない。本作は既に東洋西洋の優れた先行作品にあまりに多くを負っている。

 

犯人の目星があっという間についてしまうのも弱点だ。普通は後から思い起こして、「ああ、あの時のクローズアップはこういうことだったのか」、「あのカット・アウェイはそういうことだったのか」と思わせるカメラワークではなく、「こいつが怪しいですよ」とこれ見よがしに見せつけるようなカメラワークというのは斬新ではあるが、陳腐でもある。極めて少ないキャラクターの中でこれをやられると、否が応でも犯人はこいつであると見当がついてしまう。ミステリ作品ではないとはいえ、これは興醒めである。

 

総評

起伏に乏しい作品である。派手なドンパチも、脳髄をひりつかせるようなミステリもサスペンスもない。だが、文明を見つめる視線がそこにはある。インターネットにどっぷりと漬かっている人ならば、そそられるシーンもいくつかある。梅雨時や猛暑日に室内で時間つぶしに鑑賞するのに適した作品である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, D Rank, SF, アマンダ・セイフライド, クライブ・オーウェン, ドイツ, 監督:アンドリュー・ニコル, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズLeave a Comment on 『 ANON アノン 』 -近未来SFの凡作-

『 アルキメデスの大戦 』 -戦争前夜に起こり得たリアルなフィクション-

Posted on 2019年8月8日2020年4月11日 by cool-jupiter

アルキメデスの大戦 80点
2019年8月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:菅田将暉 柄本佑 浜辺美波
監督:山崎貴

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戦艦大和を知らない日本人は皆無だろう。仮に第二次大戦で沈没した大和のことを知らなくとも、漫画および映画にもなった『 宇宙戦艦ヤマト 』やかわぐちかいじの漫画『 沈黙の艦隊 』の独立戦闘国家やまとなど、戦艦大和はシンボル=象徴として日本人の心に今も根付いている。それは何故か。やまとという名前が日本人の大和魂を震わせるからか。本作は、戦艦大和の建造の裏に大胆なドラマを見出した傑作フィクションである。

 

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あらすじ

時は第二次世界大戦前夜。日本は世界の中で孤立を深め、欧米列強との対立は不可避となりつつあった。そこで海軍は新たな艦船の建造を計画、超巨大戦艦と航空母艦の二案が対立する。戦艦の建造予算のあまりの低さに疑念を抱いた山本五十六は、数学の天才の櫂直(菅田将暉)を旗下に招き入れ、その不正を暴こうとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

『 風立ちぬ 』と共通点が多い。戦争前夜を描いていること、主人公がややコミュ障気味であること、その主人公が数学者・エンジニア気質であることなど、本当にそっくりである。菅田将暉演じるこの数学の天才児は、どことなく機本伸司の小説『 僕たちの終末 』の岡崎のような雰囲気も纏っている。「それは理屈に合わない」という台詞を吐きながらも、滅亡のビジョンを眼前に想像してしまうと、間尺に合わない選択をしてしまうところなど瓜二つである。つまり、男性にとって非常に感情移入しやすいキャラクターなのだ。男という生き物は、だれしも自分の頭脳にそれなりの自信を持っているものなのだ。俺が経営幹部ならこんな判断はしない。俺が政治家ならこういう施策を実施する。そういった脳内シミュレーションを行ったことのない男性は皆無だろう。同時に、男はある意味で女性以上に感情に振り回される生き物でもある。面子、プライド、沽券。こういった理屈で考えれば切り捨てるべき要素に囚われるのも男の性である。櫂という漫画的なキャラクターにして非情にリアリスティックでもあるキャラクターを十全に演じ切った菅田将暉は、20代の俳優陣の中ではトップランナーであることをあらためて証明した。

 

本作は冒頭からいきなり大迫力の戦闘シーンが繰り広げられる。『 シン・ゴジラ 』を手掛けた白組だが、They did an amazing job again! プレステ6かプレステ7ぐらいのCGに思える。思えば『 空母いぶき 』のF-22もどきはプレステ4ぐらいのグラフィックだった。戦闘シーンの凄惨さは写実性や迫真性においては『 ハクソー・リッジ 』には及ばないが、それでも近年の邦画の中では出色の完成度である。特に20mmまたは30mm砲の機銃掃射を生身の人間が浴びればどうなるかを真正面から描いたことは称賛に値する。何故なら、それがリアリティの確保につながるからだ。漫画『 エリア88 』でグエン・ヴァン・チョムがベイルアウトした敵パイロットに機関砲を浴びせるコマがあるが、あの描写は子供騙しである。もしくは編集部からストップがかかり、修正要請が出されたものである。70年以上前の第二次大戦時の戦闘機であっても、その機銃を浴びれば人間などあっという間に肉塊に変身する。そこを逃げずに描いた山崎監督には敬意を表する。

 

本作は今という時代に見事に即している。戦争前夜に、戦争を止めようと奔走した人物が存在したというフィクションがこの時代に送り出される意味とは何か。それは今日が戦争前夜の様相を呈しているからである。前夜という言葉には語弊があるかもしれない。本作は実際には日本の真珠湾奇襲の8年前を描いているからだ。戦争とは、ある日突然に勃発するものではない。その何年も前から萌芽が観察されているものなのだ。現代日本のpolitical climateは異常ではないにしても異様である。圧力をかけるにしろ対話による融和を志向するにせよ、その相手は北朝鮮であるべきで韓国ではない。自民党幹部および安倍首相はアホなのか?そうかもしれない。しかし、我々は第4代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・マディソンの言葉、“The means of defense against foreign danger, have been always the instruments of tyranny at home.”=「 外敵への防衛の意味するものは、常に国内における暴政の方便である 」を思い出すべきだろう。自民党がやっていることは庶民を苛めつつも、庶民の溜飲を下げるような低俗なナショナリズムの煽りでしかない。株価は上がっていると強調しながら賃金は下がっている。雇用は改善していると言いながら、正社員は激減している。身を切る改革を謳いながら、議員定数を増やしている。国益を守り抜くと言いながら、韓国相手の巨大な貿易黒字を捨ててしまっている。そんな馬鹿なと書いている自分でも思うが、これがすべて事実なのだ。国外脱出をしたくなってくる。『 風立ちぬ 』でも二郎が、国の貧しさと飛行機パーツの価格の高さの矛盾を嘆いていたが、櫂も新戦艦の建造費用を「貧しい国民が必死に払った税金」だと喝破する。戦艦大和に込められた思想的な部分を抜きにこのシーンを見れば、クソ性能で超高価格のF-35なるゴミ戦闘機がどうしても思い浮かぶ。身銭を切って幻想を買う。この大いなる矛盾が戦争前夜の特徴でなければ、一体全体何であるのか。『 主戦場 』でミキ・デザキは日本がアメリカの尖兵として戦争に送り込まれることを危惧していたが、そうした問題意識を高めようとする映画を製作しようとしう機運が映画界にあり、そうした映画を製作してやろうという気概を持つ映画人が存在することは誇らしいことである。

 

本作の見せ場である新型戦艦造船会議は、コメディックでありサスペンスフルである。『 清州会議 』的な雰囲気を帯びていながらも、本作の会議の方が緊迫感があるのは、それが現代に生きる我々の感覚と地続きになっているからだろう。一つには税金の正しい使い道の問題があるからであり、もう一つには大本営発表の正しさの検証妥当性の問題があるからである。この会議で日本映画界の大御所たちが繰り広げる丁丁発止のやり取りを、その静かな迫力で一気に飲み込んだ田中泯演じる平山忠道の異様さ、不気味さが、その余りの正々堂々たる姿勢と相俟って、場の全員を沈黙に追いやる様は圧巻である。彼の言う「国家なくして国民なし」という倒錯した哲学は、『 銀河英雄伝説 』のヤン・ウェンリーがとっくの昔に論破してくれているが、それでも国家は国民に先立つ考える人間の数がどこかの島国で増加傾向にあるようだ。憂うべきことである。

 

登場する役者全員の演技が素晴らしく、CGも高水準である。脚本も捻りが効いており、原作者および監督のメッセージも伝わってくる。『 空母いぶき 』に落胆させられた映画ファンは、本作を観よう。

 

ネガティブ・サイド

一部のBGMが『 ドリーム 』や『 ギフテッド 』とそっくりだと感じられた。数式をどんどんと計算・展開していく様を音楽的に置き換えると、どれもこれも似たようなものになるのかもしれないが、そこに和のテイストを加えて欲しかった。『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』ではオリジナルの伊福部サウンドを再解釈し、大胆なアレンジを施してきた。もう少しサウンド面で冒険をしても良かった。

 

Jovianは数学方面にはまったく疎いが、物語序盤で櫂が鮮やかに扇子の軌道計算を行っていた場面は疑問が残る。1930年代にカオス理論があっただろうか。扇子のような複雑な形状の物体は、いくら比較的狭い室内で無風状態であるとはいえ、カオス理論なしには計算不可能なような気がする。それ以前に、櫂は巻尺は常に携行しているが、重さを測るためのツールは持っていないだろう。扇子の重量を計算に入れずに、いったいどうやって軌道計算したというのか。大いに疑問が残った。

 

また数学者が主役で、戦時に活躍するとなると、どうしても『 イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密 』を想起する。櫂の計算能力は天才的ではあるものの、発想力という意味ではアラン・チューリングには及ばなかったように思う。船の建造費を導き出す方程式にたどり着いたのは見事だったが、悪魔の暗号機エニグマに対抗するには、計算ではなく計算機械が必要なのだという非凡な発想を最初から持っていたチューリングの方が、どうしても一枚上手に思えてしまう。事実は小説よりも奇なりと言うが、櫂というfictionalなキャラクターにもっとfictitiousな数学的才能や手腕をいくつか付与しても良かったのではなかろうか。

 

総評

娯楽作品としても芸術作品としても一線級の作品である。日本人の心に今も残る戦艦大和の裏に、驚くべきドラマを想像し、構想し、漫画にし、それを大スクリーンに映し出してくれた全てのスタッフに感謝したい。いくつか腑に落ちない点があるが、それらを差し引いても映画全体として見れば大幅なプラスである。今夏、いや今年最も観るべき映画の一つだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, A Rank, サスペンス, ヒューマンドラマ, 日本, 柄本佑, 歴史, 浜辺美波, 監督:山崎貴, 菅田将暉, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 アルキメデスの大戦 』 -戦争前夜に起こり得たリアルなフィクション-

『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

Posted on 2019年8月7日 by cool-jupiter

ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 80点
2019年8月1日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ポール・ホルデングレイバー
監督:フレデリック・ワイズマン

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エクス・リブリスとは、Ex librisである。exはラテン語でfromの意、librisはliber=本の複数形の奪格である。つまり、From the booksと訳すことができる。本の所有者を示すために、しばしば使われる標語のようなものである。では、ニューヨーク公共図書館の蔵書の所有者とは誰なのか。それを追究しようというのが、本作の刺激的なテーマである。

 

あらすじ

ニューヨーク公共図書館の本館と分館にそれぞれカメラが入り、各図書館ごとに特色あるサービスを提供している様子を捉えていく。そこから、公共の意味、知識の意味、世界の未来像が浮かび上がってくる。

 

ポジティブ・サイド

ドキュメンタリー映画でありながら、本作にはナレーションが存在しない。いや、ナレーションが存在しないドキュメンタリーは他にもある。『 ピープルVSジョージ・ルーカス 』にもナレーションは無かった。本作の最大の特徴はインタビューが存在しないこと、これである。ただ淡々と、図書館で働く人々、図書館を利用する人々の姿を映していく。彼ら彼女らの話、働きぶり、行き方来し方によって、ニューヨークの街、ひいては全米、そして世界における「公共」の意味や「知識」の意味が見えてくる。静かでありながら、非常に野心的で刺激的である。なぜなら、ITだ、デジタル化だ、IoTだと叫ばれるこの時代に、アナログの極致とも言える書物に積極的な意味を見出しているからだ。法条遥の『 リライト 』ではアナログの図書館を指して未来人の保彦は「何という無駄!」と叫んだ。書物に込められた情報だけに着目すれば、蓋し当然の感想であろう。しかし、書物にそれ以上の価値を認めるならば、話は別である。『 アメリカン・アニマルズ 』でも、アメリカ建国時代の書物は、おそらく『 ナショナル・トレジャー 』級のお宝だと見積もられている。何故か。

 

それは、書物が紙とインクという唯物論的存在ではなく、書く者と読む者との間の時間と空間を超えた相互作用として立ち現われてくるからだ。そして、それはニューヨークという街についても当てはまることなのだ。ある分館では、図書がベルトコンベアーで運ばれ、それを図書館員たちが仕分けしていくシーンがあるのだが、その直前に映し出されるのはニューヨークの街の鉄道(『 スパイダーマン2 』でトビー・マグワイアが暴走を止めたものかもしれない)なのである。街を走る鉄道が、図書館内のベルトコンベアーに、街行く人々が、図書館内の書物に例えられているのである。図書館とは、図書を保管し、貸し出すだけの場所ではない。それは人と人との交流の場であり、過去の資産を未来に間違いなく届けるためのタイムカプセルでもあり、なおかつ街、ひいては世界の縮図なのである。

 

我々は図書を物理的な物体として考え、扱うことに余りにも慣れ過ぎている。しかし、それは目が見えるものや手指に不自由を抱えていない者の発想ではないか。ニューヨーク公共図書館が利用者として積極的に含めようとしている障がい者や求職者は、現代日本ではむしろ疎外の対象になっていないか(この点で、れいわ新選組の選挙戦略だけは特筆大書に値する快挙だった)。考えてみれば、図書館とは非常に融通無碍な場所である。我々は中華料理屋やインドカレーショップ、寿司屋といった存在にあまりにも普通に接してきたために、食べ物・・・ではなく事物というものは、そもそも分類されて然るべきものという思考の陥穽にハマりがちである。しかし、巨大な図書館は洋の東西も歴史の古い新しいも清も濁も玉も石も区別しない。究極のダイバーシティがそこに顕在化している。

 

再び翻って日本はどうか。【 戦後憲法裁判の記録を多数廃棄 自衛隊や基地問題、検証不能に 】などという、歴史修正主義を通り越して、歴史廃棄主義とでも呼ぶべき暴挙がまかり通っている。公文書改竄に飽き足らず、公文書を廃棄するのがこの国の与党の実態である。まさに焚書である。『 図書館戦争 』的な世界の現出も近いのかと不安になる。次は坑儒か。埋められるのは誰になるのか。

 

Back on track. 本作ではJovianが私淑している梅田望夫の著書『 ウェブ進化論: 本当の大変化はこれから始まる 』の記述を裏付ける描写がある。つまり、ニューヨークに住む人間の1/3は自宅でインターネットにアクセスできないのだ。これは前掲書の「いやあ、アメリカってネット環境は遅れているのに、ネットの中はすごいんですねえ」という、とある日本人の感想と一致する。森内閣がイット革命ならぬIT革命を強烈に推進してくれたおかげで日本のネット接続環境は世界でもトップクラスである。しかし、肝心要のネットの中身はどうか。日本語圏という、ほぼ閉じた空間にしかアクセスできないのではないか。ニューヨーク公共図書館がネットへの接続を推進する背景には、英語でのコミュニケーション可能空間が広がっているいるからということもある。だが、それ以上に、ネット空間が図書館という空間とフラクタル構造を成していることも見逃せない。世界最大級の超巨大図書館があらゆる地域、時代、著者、内容の書物を飲み込んでいくのと同様に、インターネットの世界にもダイバーシティが存在する。そしてそれは、取りも直さずワールド・シティーたるニューヨークが世界の縮図になっていることと相似形を成している。

 

もちろん、森羅万象は美しいものだけで構成されているわけではない。そこには上っ面だけを糊塗した偽物も存在する。そうしたものに激しい批判を加える知識人の姿も本作は活写する。一例を挙げよう。アメリカ史における最大の負の遺産である「奴隷」を、文献によっては「労働移民」と体よく言い換えているのである。これは『 主戦場 』で化けの皮が剥がれた、「慰安婦」を「姓奴隷」と言い換えるロジックと根本的に同じことである。実に鋭い現実批評であり、フレデリック・ワイズマン監督の意識の根底に人権や人道とは何かという問いが常にあることを示している。

 

ネガティブ・サイド

ほとんど批判すべき箇所が見当たらないが3点だけ。

 

1つには、主人公と呼べる人間が見当たらなかったこと。会議のたびにリーダーシップを発揮するオジさんはいたが、それだけで彼に感情移入することは難しかった。

 

2つには、この巨大図書館の深奥に眠っているはずの貴重な書籍、一般人閲覧不可の書籍、まさに『 アメリカン・アニマルズ 』で盗難されたような書籍を見てみたかった。

 

3つには、上映時間の長さである。なんと205分である。これではまるで『 アラビアのロレンス 』だ。他の劇場ではどうったのか分からないが、シネ・リーブル梅田では2時間超ドのあたりで10分休憩が設けられていた。長すぎる作品も考えものである。

 

総評

これは大傑作である。弱点もあるが、それを補って余りある“観る者の想像力と知性を刺激する構成”がある。ニューヨークの図書館という一見するとローカルな施設が、人類にとっての普遍の価値を追求しようとしていることに畏敬の念を打たれない者はいない筈だ。現代日本の抱える問題の解決方法への鮮やかな示唆もある。異色のドキュメンタリーであるが、食わず嫌いはいけない。必見の傑作である。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, ドキュメンタリー, ボール・ホルデングレイバー, 監督:フレデリック・ワイズマン, 配給会社:ミモザフィルムズ, 配給会社:ムヴィオラLeave a Comment on 『 ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス 』 -公共とは何かを鋭く問う傑作-

『 旅猫リポート 』 -クソ映画・オブ・ザ・イヤー級のつまらなさ-

Posted on 2019年8月5日2020年4月11日 by cool-jupiter

旅猫リポート 25点
2019年7月29日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:福士蒼汰 高畑充希 広瀬アリス 竹内結子
監督:三木康一郎

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昨年(2018年)、どこの映画館で何の映画を観ても、本作の予告編ばかりをこれでもかと巨大スクリーンで見せつけられたという印象が残っている。はっきり言ってトレイラーだけでストーリーの全体像が見えてしまっている。きっと出来の悪い韓国ドラマよりも、さらに出来が悪いのだろうな・・・。そんな予感を抱いていたが、果たしてそれは正しかった。

 

あらすじ

悟(福士蒼汰)は愛猫のナナ(高畑充希)を里子に出すためにクルマを走らせ、旧友たちを訪れていく。なぜ悟はナナを手放すのか。車中で悟は自分と猫との関わり合いに思いを馳せて・・・

 

ポジティブ・サイド

高畑充希の声が存外に猫に合っていた。猫が喋る作品というと『 銀河鉄道の夜 』や『 ドラえもん 』が想起されるが、高畑の声はどことなく田中真由美や大山のぶ代といった大御所のそれを通じるところがある。

 

あとはナナのあらゆる動きをカメラに収めたcamera operatorの皆さまと撮影監督、そしてそれらを見事に繋ぎ合わせた編集担当者たちに敬意を表したいと思う。

 

ネガティブ・サイド

これは『 コーヒーが冷めないうちに 』に優るとも劣らないクソ映画である。最初から観る人に「どうぞ感動してください!!」と声高にお願いしてしまっている。それで感動できてしまう人は、よほど純粋な心の持ち主か、あるいは最初から涙を流す気満々の人であろう。

 

本作のダメなところ其の壱は、秘密を秘密にしておきたいという製作者の願望が暴走しているところである。はっきり言って両親を事故で失くしてしまった子ども、などというのはあらゆる映像作品でクリシェになってしまっている。にもかかわらず葬儀の場であまりにも不自然な態度をとる大人たち。そして、喫茶店あるいは個室のある店で話せば良いようなことを、当の悟がいるその場で話し合ってしまう無遠慮な大人たち。さらに、悟の家族と親友の家族の不自然なまでのコントラスト。伏線はもう少しさりげなく張って欲しい。

 

本作のダメなところ其の弐は、台本の製作段階でミスがあったとしか思えない変てこな日本語の散見されることである。全てはとうてい思い出せないが、広瀬アリスの言った「お金を貯めて、ちゃんと悲しまないと駄目!」という台詞には、眩暈がした。文脈上、言わんとしていることは分かるが、このセンテンス単体を見た、もしくは聞いた人に意味が伝わるだろうか。これが正しい日本語なのか。撮影中に誰も何も感じなかったというのか。

 

本作のダメなところ其の参は、一部の役者の演技の不味さ、拙さである。悟が富士山麓でペンションを営む高校の同級生夫婦を訪ねた夜、親友はへべれけに酔っぱらっていたが、それがとても酔っ払いを観察したり接した、もしくは自分も酔っぱらってしまったことがあるとは思えない酷い演技だった。そもそも酔うというのは脳のかなりの部分の機能が低下している状態なわけで、もちろん運動能力も低下している。にもかかわらず、悟の肩に担がれた時に、とても悟の側に体重を預けているようには見えなかったし、歩き方もしっかりとしたものだった。その後に、悟との別れ際の妻と悟の思わぬ台詞の応酬に対して見せた混乱と安堵の表情は良かった。顔だけで演技せず、全身を使って演技してもらいたい。

 

その他、細部に腑に落ちない点が多々見受けられた。例えば、竹内結子。なぜ猫が苦手で、テーブルに飛び乗ってしまうほど恐怖心を感じていることを披露した次の瞬間に、ナナを何の抵抗もなく撫で回すのは何故なのか。看護師さんが「巡回行ってきまーす」と言うシーンがあるが、普通は「ラウンド行ってきまーす」だろう。また、医師の死亡確認方法もおかしい。聴診器で心音ぐらい聞け。大昔のことだが、刑事ドラマなどで素人が頸動脈に触れただけで「駄目です、死んでます」などという戯けた死亡確認に激怒した医師会だったか何かの団体がテレビ局に猛抗議したと聞いたことがある。頸動脈で脈が触れなくとも、心臓付近なら微弱な脈がある場合も稀にあるのだ。医療系の団体がテレビ局に抗議する時は医学的なエビデンスがしっかりしていることが多い。サザエさんがピーナッツを空中に投げてパクっとやらなくなったのも、医師の抗議ゆえだった。製作者側は医療業界の事前調査が甘い。また、墓参りのシーンで、虹が出る方向が間違っていた。虹は太陽の反対側に出現する(というか見える)が、墓所の様々なオブジェの影は、虹に対して90~110度右方向にずれていた。つまり、太陽を左手に見ながら悟は虹を見ていたわけで、これは物理的にありえない。

 

ファンタジー映画だから、細かいことはどうでもいいでしょ?という姿勢がありありと伺えるが、その考え方は大間違いである。ファンタジーに説得力を持たせるには、世界の全てをファンタジーに染め上げる(例『 ロード・オブ・ザ・リング 』)か、あるいはファンタジー要素以外のリアリズムを極めるか(例『 シン・ゴジラ 』)のどちらかである。本作は端的に言って失敗作である。

 

総評

まともに鑑賞しようと思ってはいけない。悟に仕込まれた秘密の設定にも驚きはない。猫と人間のドラマチックな関わりを観たいのであれば、NHKで『 地球ドラマチック 』や『 ダーウィンが来た! 』の猫特集をどうぞ。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, ファンタジー, 広瀬アリス, 日本, 監督:三木康一郎, 福士蒼汰, 竹内結子, 配給会社:松竹, 高畑充希Leave a Comment on 『 旅猫リポート 』 -クソ映画・オブ・ザ・イヤー級のつまらなさ-

『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

Posted on 2019年8月3日2020年2月2日 by cool-jupiter

マーウェン 65点
2019年7月28日 シネマート心斎橋にて鑑賞
出演:スティーブ・カレル
監督:ロバート・ゼメキス

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監督はロバート・ゼメキスである。Jovianは『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』シリーズは大好きだが、『 フォレスト・ガンプ 一期一会 』は楽しめなかった。おそらく自分にとって波長の合うゼメキス作品というのは、現実がフィクションに彩られる作品であって、フィクションが現実を彩る作品ではないのだろう。事実、『 リアル・スティール 』はそこそこ面白かったが、『 ザ・ウォーク 』には少々拍子抜けした。本作はどうか。これはフィクションと現実が溶け合う物語である。

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あらすじ

マークの乗る戦闘機はベルギー上空で高射砲に被弾。川に不時着したマークはナチス兵に包囲されるも、友軍の女性らの援護射撃で窮地を脱する・・・という人形劇を、マーク(スティーブ・カレル)は撮影していた。マーウェンと名付けた架空の村、それが彼と女性たちの楽園、そして終わることのないナチス兵との戦いの舞台なのだ。そしてマークは、過去に受けた暴行事件のダメージに今も苦しんでいて・・・

 

ポジティブ・サイド

Jovianはトイ・ストーリーに興味は持ってこなかったが、人形劇にも一定の面白さがあることが分かった。人形とは、端的に言って依り代である。自分でありながらも、自分ではない自分をそこに投影することができる。マーク自身がいみじくも語るが、なぜ第二次大戦を舞台に、人形劇を展開し、それを写真に収めるのか。それはアメリカが善である戦争だったからと言う。つまり、マークは自分自身を善に捉えたいという願望もしくは欲求があるのである。さもなければ、そうすることでしか癒しを得られない事情がある。一見、平和的に見えるマークの暮らしに、彼の抱える暗黒面が垣間見える。彼は悪人ではない。ただ、心に抱えた闇がちょっと人より濃いだけである。彼が食らった暴行事件の大元の原因は実に他愛ないものである・・・と言い切れないのが、本作の評価を一部の批評家の間で難しくしているところだと推測する。マークは、本命女性(の人形)以外には優しく接するものの、本質的に優しくはしていない。一部のシーンで明らかになることだが、彼は身の回りの女性たち(本命除く)を性的な欲望の対象にしない。はっきり言って、これで好感度をアップしてくれる女性は、よほどのウブか、あるいはプロであろう。普通の一般的な女性というのは『 愛がなんだ 』のテルコのように「わたしって、そんなに魅力ないか?」と拗ねてしまうものなのだ。人形ではあるが、胸を丸出しの女性をオブジェのように扱うマークに恐れ慄いた男女は多いのではないだろうか。Jovianは、マークの在り方をそこまで奇異であるとは思わない。彼は、作家の本田透と非常に近い思考の持ち主なのだろう。つまり、一途な純愛を貫こうとするあまりに自分の気持ち悪さに気がつかないのだ。自分の気持ちだけに忠実になって、対象を見ずに暴走する。それは時に若気の無分別などとも言われたりするが、早い話が「恋は盲目」なのだ。いい年こいたオッサンが中学生ぐらいの精神年齢でロマンティックな夢を見る。いくらマークが心に抱える闇があるとはいえ、これを美しいと感じるのはマイノリティで、マジョリティはこれをキモいと感じるだろう。Jovianはもちろんマイノリティだ。

 

『 アリータ バトル・エンジェル 』が切り拓いた、実写とCGのシームレスなつながりを、スケールは全く違うが本作も多用する。というよりも、アリータはいつの間にか実写(そのほとんどは実際はCGのはず)世界に違和感なく溶け込んだが、本作ではいつの間にか我々はマークの妄想世界である人形劇世界、マーウェンに違和感なく溶け込む。ただし、これもかなり人を選ぶ演出だろう。マーウェンはマークにとっての桃源郷であっても、客観的にはそうではないからだ。好意的に見ればマークは芸術家でマーウェンは芸術作品だ。しかし否定的に見れば、マークはキモオタでマーウェンは同人作品だ。このあたりも波長が合うかどうかで見方が綺麗に割れるであろう。Jovianは波長が合った。マークは象牙の塔に住む芸術家である。

 

マーウェンを荒らすナチス兵との終わりなき闘争がマークの心象風景であるというメタ的構造も良い。中盤から終盤にかけて、マークの心的世界が現実世界を侵食することを明示するカメラワークがある。スクリーンそのものに語らせる、映画の基本的な技法にして究極の技法でもある。その上で、誰もが揺りかごの中で一生を全うできる訳ではない。現実世界は時に疲れるし、ロッキー・バルボアに説教されるまでもなく「世界は陽光と虹だけでできているわけでもない」=“The world ain’t all sunshine and rainbows.”それでも、幸せは世界に存在する。メーテルリンクの『 青い鳥 』と同じく、それに気付けるかどうかなのだ。ほろ苦さを漂わせながら、甘酸っぱさを予感させつつ物語は閉じる。なんとも不思議な余韻である。

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ネガティブ・サイド

再度強調するが、本作を堪能できるかどうかは、ゼメキスの世界観と波長が合うかどうかにかかっている。おそらく普通の映画ファンの7割は波長が合わないと思われる。彼ら彼女らはマークに都合の良い妄想全開のマーウェン、そして健気に甲斐甲斐しくマークを見守る人形たちを「非現実的」、「人格者」、「性格良すぎ」と見るであろう。もっとダイレクトに言えば、マーウェン=ハーレムだと捉える向きもいるはずだ。そこでプラトニックに振る舞うマークを心から格好いいと思える人は少数派で間違いない。マークは万人受けしないキャラなのだ。男からも女からも好かれにくいキャラなのだ。最初からマイナーな層しか狙っていないのかもしれないが、それを万人受けする作品に昇華させてこその巨匠だろう。マーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノのように、アクが強くても、メジャーヒットする作品を生み出せる人は生み出せるのだ。

 

スティレット・ヒールは1960年代になって初めて作られた、つまり第二次大戦中には決して存在しないことを明示するシーンがあるが、「マーウェンでは時々不思議なことが起こるのざ」とマークは嘯く。その時のBGMは“Addicted to love”。これは1980年代の楽曲だろう。マーウェンという独特な空間の神秘性を棄損してしまっている演出であるように感じるのはJovianだけだろうか。

 

『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』のパロディをやるなら、徹底的にやってもらいたい。デロリアンは権利関係か何かで使えないのか?それなら、燃えるタイヤ痕もいらない。非常に中途半端な演出であり、シークエンスだった。

 

裁判所のシーンも、保護司や弁護士はマークがああなってしまうことは予見できなかったのだろうか。日本でもレイプ被害者の女性が裁判員裁判で、フード、サングラス、マスク、マフラー、手袋などの完全装備で出廷したという新聞記事を読んだ記憶がある。何がきっかけでPTSDを発症するかは分からないが、それでも避けられる不安や懸念は避けるべきだ。このあたりが事実に基づくのか、事実と相違するのかは調べてみなければ分からない。しかし、マークがマーウェンから卒業するきっかけ作りのための態の良い演出に使われてしまった感は否めない。

 

総評

観る人を選ぶ映画であることはすでに述べた。誰にお勧めしたいかよりも、どんな人にお勧めしないか、それを語ったほうが有益かもしれない。中高大学生ぐらいのカップルのデートムービーには間違いなく不向きである。君達は素直に『 天気の子 』でも観に行きなさい。オッサンからの心からのアドバイスである。大人のお一人様も避けた方が良いだろう。自分を客観視した時に、「何やってんだ、俺は?」と感じることはある程度以上の年齢の人間には避けられない、一種の賢者タイムであるが、それをチケット代を払って大画面に没頭した後に味わいたいという奇特な人は、きっとマイノリティであろう。

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, スティーブ・カレル, ヒューマンドラマ, ファンタジー, ロバート・ゼメキス, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 マーウェン 』 -Welcome to Marwen, a traumatized man’s fantastical oasis-

『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

Posted on 2019年8月1日2020年5月23日 by cool-jupiter

アバウト・レイ 16歳の決断 70点
2019年7月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エル・ファニング ナオミ・ワッツ スーザン・サランドン
監督:ゲイビー・デラル

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LGBTは、おそらく人類誕生の昔から存在していた。“生産性が低い”とどこかの島国のアホな政治家が主張する彼ら彼女らが、歴史を通じて存在してきたのは何故か。それには諸説ある。日本でも、江戸川乱歩の傑作長編『 孤島の鬼 』などは歴史に敵に新しい方で、安土桃山時代の織田信長や、室町初期の足利義満、またはそれ以上にまで遡る歴史がある。近年、LGBTをテーマにした作品が数多く生産されている。メジャーなものでは『 ボヘミアン・ラプソディ 』、マイナーなものでは『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』など。本作は諸事情あって公開が延期されるなどした作品であるが、それもまた時代であり世相であろう。

 

あらすじ

レイ(エル・ファニング)はトランスジェンダー。生物学的には女性だが、精神的には男性、そして肉体的にも男性として生きたいと強く願っている。しかし、未成年のレイがホルモン療法を受けるには、両親の同意が必要。母マギー(ナオミ・ワッツ)は悩んだ末に、レイをサポートすることを決断する。そのために、レイの父、自らの元夫の協力と理解を得ようとするが・・・

 

ポジティブ・サイド

エル・ファニングが好演している。おそらく、この撮影前であれば、肉体的な成熟具合が不十分であるため、男性的な肉体を欲するようになる動機が弱くなる。これよりも後のタイミングで撮影するとなると、完全に女性になってしまい、中性さが失われる。つまり、決断の遅さが目立ってしまい、観る側の共感を得ることが困難になる。公開が遅れたことは残念であるが。それゆえに『 孤独なふりした世界で 』との距離感、つまり中性性と女性性の差が際立つ。つまり、ベストタイミングでの撮影だったわけである。とても年頃の女の子とは思えない、大股開きでの座り方。男子との取っ組み合いのけんかの後に、気になる女子に「女を殴るなんて、あいつらサイテー」と言われた時の複雑な表情。胸の膨らみをサラシで隠し、ダボダボの服で身体の曲線を目立たなくさせ、生理が止まると医者に説明を受けた時には心底嬉しそうに笑う。エル・ファニングのキャリア屈指のパフォーマンスではないだろうか。But as for her career, the best is yet to come!

 

女三世代で暮らす中には緊張が走る瞬間や女性特有の人間関係、B’zの『 恋心 ~KOI-GOKORO~ 』が言うところの「女の連帯感」を感じさせる場面もある。祖母ちゃんが立派なゲイで、彼女とパートナーの間には、家族といえども入り込めない空気が存在するのである。だが、そこに冷たさはない。自分の信じる道、生きると決めた道を行く姿勢を見せることが、レイの生き方をexemplifyすることになるからだ。三世代それぞれに異なる女性像を描くことで、単なる家族の物語以上の意味が付与されている。

 

それにしてもナオミ・ワッツの脆さと強さ、健気さと不完全さを同居させる演技はどうだ。日本では篠原涼子、アメリカではジュリア・ロバーツらがタフな母親を演じ、好評を博しているが、それもこれもナオミ・ワッツのようなactressがバランスをとってくれているからだろう。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーの一番の肝である、父親からホルモン療法の同意書を得るというミッションをこれ見よがしに引き延ばすのはよろしくない。すれっからしの映画ファンならずとも。この筋道は簡単に読めてしまう。

 

レイが地域や学校で苦悩する姿の描写が足りなかった。例えば、ゲイならばパートナーを見つけることができれば、それが自身の幸福にも相手の幸福にもつながる。しかし、トランスジェンダーというのは、自分自身の身体と精神が折り合えないところに辛さがある。パートナーを見つけることが問題解決になるわけではない。自分が自分を見るように、他人が自分を見れくれない。だからこそ、自分の身体を変えて、新しいコミュニティで新しい生活を始めたいという、レイの切なる気持ちを見る側が素直に共感できるような描写がもっと欲しかったと思う。

 

総評

ライトではなく、しかし、シリアスになりすぎないLGBTの物語、そして家族の別離と再生の物語である。日本で誰かリメイクしてくれないだろうか。こういったストーリーは現代日本にこそ求められているはずだ。その時は行定勲監督で製作してもらいたい。日本映画界でも出来るはずだし、やるべきだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, エル・ファニング, スーザン・サランドン, ナオミ・ワッツ, ヒューマンドラマ, 監督:ゲイビー・デラル, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 アバウト・レイ 16歳の決断 』 -Being born into the wrong body-

『 The Witch 魔女 』 -韓流サイキック・バトル・アクション-

Posted on 2019年7月28日2020年8月26日 by cool-jupiter

The Witch 魔女 70点
2019年7月24日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ダミ チョ・ミンス チェ・ウシク パク・ヒスン
監督:パク・フンジョン

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シネマート心斎橋で観たいと思っていて、タイミングが合わせられなかった作品。ようやくDVDにて鑑賞。韓国映画はインド映画と同じく、でたらめなパワーを感じさせるものが多い。本作の出来具合も相当でたらめである。しかし、パワーもすごい。

 

あらすじ

血まみれの少女ク・ジャユン(キム・ダミ)は森を駆け抜け、追手から逃れた。子のいない酪農家夫婦に育てられたジャユンは、親友の誘いでソウルのテレビ番組に出演し、ちょっとしたマジックを披露する。しかし、次の瞬間から謎の男たちに追われることになり・・・

 

ポジティブ・サイド

タイトルロールを演じるキム・ダミの純朴さと不気味さ。『 テルマエ・ロマエ 』でルシウスは日本人を指して「平たい顔族」と呼称するが、彼女の顔も相当平たい。しかし、この顔が中盤から後半にかけて、魔女のそれに一変する。素朴な少女が凶悪な殺人者に変貌する瞬間の表情とアクションは必見である。

 

R15+指定であるのは、セクシーなシーンが含まれるからではく、バイオレンスシーンが存在するからだ。Jovianは暴力シーンをそれほど好まない。ただ、時々「さて、血しぶきでも見るか」という気分になることがある。そうした時に北野武の過去の映画を観返したりすることはある。年に一回ぐらいだろうか。近年だと『 ディストラクション・ベイビーズ 』が暴力を主軸にした邦画だったろうか。邦画は顔面の痣などをメイクアップで作り出すことには結構熱心だという印象がある。『 岸和田少年愚連隊 』シリーズのサダやチュンバが思い出される。本作は自身が受けたダメージよりも、返り血(という言葉では生ぬるい)で自身が敵に与えたダメージを表現する。その血の量は余りにも過剰である。ジャユンが魔女として覚醒するシーンで、とある男を掌底でぶちのめすが、このシーンでは思わず『 ターミネーター2 』でT-800がT-1000に顔面を鉄器具で少しずつ破壊されていくシークエンスを思い出した。1分足らずのシーンであるが、一回ごとに顔面に特殊メイクを施すので撮影に5~6時間かかったとレーザーディスクの付録小冊子に書かれていたと記憶している。ジャユンが男をボコるシーンはさすがに5時間はかかっていないだろうが、男を殴るたびに新たに血反吐を浴びるため、メイクアップアーティストはさぞかし大変であっただろうと推察する。容赦の無い流血描写および遠慮の全くない返り血描写こそ本作の肝である。

 

本作のもう一つの醍醐味はアクションである。『 ジョン・ウィック 』ばりのガン・アクション、『 LUCY / ルーシー 』を彷彿させるサイキック・アクション、往年のブルース・リーばりの格闘アクション、こうしたバトルを盛り上げてくれる要素のほんの少しでもいいから、超絶駄作『 ストレイヤーズ・クロニクル 』に分けて欲しいものである。いくつかコマ送りを使っているところもあるだろうが、スタントマンやダブルは使わず、全てのアクションはキム・ダミが行っているようである。日本の女優でこれだけ動けるのは、土屋太鳳にどれだけいるか。杉咲花もいけるか。決してセクハラだとかエロいだと捉えないで頂きたいのだが、彼女たちとキム・ダミの体型を比較することは、それはそのまま浅田真央とキム・ヨナの比較をすることになろう。彼女らに技術的な差はなかったように思うし、あったしても決定的な差ではなかったはず。単純にキム・ヨナの方が背が高く、手足がスラリと長かったので、見映えが良かったのだろうと思う。

 

Back on topic. 本作の最大の特徴は脚本の緻密さにある。冒頭のモノクロのオープニング映像こそ刺激的だが、前半の30分はかなり退屈というか、起伏に乏しい。しかし、それも全て計算された作りになっていることに驚かされた。映画の面白さの大本は演技、撮影、監督術にあるが、映画の面白さの根本は脚本にあると言ってよいだろう。本作は文句なしに面白い。

 

ネガティブ・サイド

Infinity世界のライプリヒ製薬のような会社が諸悪の根源であるらしいが、その全貌がほとんど見えない。本社がおそらくアメリカにあること、子どもを使った人体実験を屁とも思っていないこと、しかし、サイキッカーたちの軍事兵器化などには乗り気ではないということぐらいしか分からない。巨悪の存在の大きさや異様さを、出てくる情報の少なさで語るというのは常とう手段である。ただ、今作における会社、本社の情報は余りにも少なすぎる。架空の社名で良いので、一言だけでも言及して欲しかった。

 

漫画『 AKIRA 』や、前述した『 LUCY / ルーシー 』と同じく、一定の間隔でクスリを摂取しなければならないという設定も陳腐だ。もっと別の設定は考えられなかったのだろうか。例えば、凶暴性を開発された子どもとは逆に、治癒の超能力を持った者がおり、その者を味方につけなければならない、といったような。何から何までバトルにするのは爽快ではあるが、そこにほんの少しでも癒しや救いのある展開があっても良かったのに、と個人的には感じる。

 

これは製作者というよりも、日本の提供会社、配給会社への注文。開始早々から「第一部」とは明言されているが、ジャケットにもそのことを強調しておいてもらいたい。

総評

傑作である。どこかで見たシーンのパッチワーク作品であるとも言えるが、そこは韓流のでたらめなパワーで押し切ってしまっている。続編の存在の匂わせ方に稚拙さがあるが、続編そのものは非常に楽しみである。『 ラプラスの魔女 』など比較にはならない、本物の魔女が解き放たれるのだろう。さあ、この魔女のもたらす破壊と暴力と殺人の妙技を皆で堪能しようではないか。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アクション, キム・ダミ, サスペンス, チェ・ウシク, チョ・ミンス, ミステリ, 監督:パク・フンジョン, 配給会社:カルチュア・パブリッシャーズ, 韓国Leave a Comment on 『 The Witch 魔女 』 -韓流サイキック・バトル・アクション-

『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

Posted on 2019年7月26日2020年4月11日 by cool-jupiter

天気の子 55点
2019年7月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:醍醐虎汰朗 森七菜
監督:新海誠

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あらすじ

関東は異常気象で数十日も雨が降り続いていた。家出少年の帆高(醍醐虎汰朗)は、ふとした縁から、オカルト記事ライターの事務所で職を得る。精勤する穂高は、ある時、陽菜(森七菜)という少女のピンチを救う。弟と二人暮らしの陽菜は、しかし、実は祈ることで天気を晴れにすることができるのだった・・・

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以下、ネタばれに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

雨、雨、雨で気分が滅入るが、その分、晴れ間の美しさはとびきりである。そして『 シン・ゴジラ 』を思わせる、近未来的な東京(武蔵小杉は神奈川か)の景観はファンタジーとリアリティの境界線上にあると感じられた。現実の世界での突拍子もない事象にリアリティを持たせるためには、まずは舞台となる世界そのものを現実<リアル>から少しずらすことが必要である。本作はその導入部で成功している。何故なら、東京の爛熟した発達模様と、大都市に特有の不潔で冷酷な生態系が発達する場所の両方がフォーカスされるからだ。そして、穂高と陽菜の二人、いや主要なキャラクター達は全員、比喩的な意味での日の当たる場所に出ることはない。東京という摩天楼のひしめく街区ではなく、木造のおんぼろアパートや、明らかに空襲を免れた痕跡である、込み入った狭い路地が錯綜する地域に住まうのが穂高や陽菜である。この舞台設定により、我々はほぼ自動的にこの若い男女に感情移入させられるのである。

 

メインヒロインの陽菜のキャラクターは本作を救っている。はっきり言って、狙って作ったキャラクターである。新海誠の趣味が全開になったようである。あるいは、全ての男に媚びを売るためなのだろうか。器量良し、料理良し、家事良し、人柄良し、そしてなによりも年上と思わせておきながら年下である。これは反則もしくは裏技である。姉萌えと妹萌えの両方を満足させるからである。といっても、前振りや伏線はしっかりと用意されているので、アンフェアではない。

 

そして穂高についても。本作は典型的なボーイ・ミーツ・ガールであるが、同時に A Boy Becomes a Manのストーリーでもある。A Child Becomes an Adultでないところに注意である。大人とは何か。それは『 スパイダーマン ホームカミング 』で、ピーターとトニーが交わす会話に集約されている。つまり、責任ある行動を取れるかどうかなのだ。しかし、少年と男は違う。我々はよくプロ野球選手などが「優勝して、監督を男にしたい」と言ったりするのを聞く。ここでいう男が生物学的な意味での雄を意味するわけではないことは自明である。男とは、自らの信念に忠実たらんとする姿勢、生き様のことなのだ。そういう意味では、穂高は子どもから大人になろうとしているのではなく、少年から男になろうとしている。大人であっても男ではない男はたくさん存在する。むしろ、大人になってしまうと男になることは難しい。それは大人だらけのプロ野球の歴史を見ても、“男”という枕詞が定冠詞の如く使われる選手は、「男・前田智徳」ぐらいしか見当たらないことからも明らかである。そして、穂高は確かに男になった。その点においては、自らの信念に忠実であり続けた新海誠監督を評価すべきなのだろう。

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ネガティブ・サイド

これは周回遅れのセカイ系なのか。ひと組の男女の関係がそのまま世界の命運に直結するというプロットを、我々は90年代後半から00年代終盤にかけて、これでもかと消費してきたのではなかったか。『 君の名は。 』も、確かにそうした系譜に連ねてしまうことはできなくもないが、星というこの世(地球)ならざるものの存在が、世界をセカイに堕してしまうことを防いでいた。天気は、しかし、それこそ身近すぎて、世界がいともたやすくセカイに転化してしまう。それがJovianの受けた印象である。宇宙的なビジョンが挿入されるシーンがあるが、そのようなものは不要である。蛇足である。天気・天候と宇宙の関係を追求したものとしては梅原克文の伝奇・SF小説の傑作『 カムナビ 』がある。話のスケールもエンターテインメント性も、こちらの方が遥かに上である。惜しむらくは、梅原の著作はどれも映像化が非常に困難だということである。しかし、いつか勇気あるクリエイターたち(できれば『 BLAME! 』をアニメ映像化したスタジオにお願いしたい)が『 二重螺旋の悪魔 』をいつか銀幕上で見せてくれる日が来ると信じている。

 

Back on track. セカイ系は既にその歴史的な役目を終えたというのが私見である。それは西洋哲学史が、神、絶対者、歴史という抽象概念な概念としての世界から、フッサール以降は「生活世界」にフォーカスするようになり、さらに現代哲学は言葉遊びと現象学、脳神経科学、、心理学などが複雑に絡み合う思想のサーカス状態である。セカイ系は、思想的には「生活世界」=森羅万象という思考に帰着するものだ。自らの生きる、実地に体験できる範囲の世界のみを現実と認識することだ。しかし、そこには重要な欠落がある。想像力だ。人間の持つ最も素晴らしい能力である、想像力を弱めてしまうからだ。穂高は陽菜のために関東を犠牲にしたと言えるが、それは少年が男になる過程としては受け入れられても、子どもが大人になる過程としては違和感しかない。穂高もそうだが、それは須賀というキャラクターに特に象徴的である。この人物は、大人にも男にもなり切れず、大人のふりをした決断をする。もちろん、アニメ映画の文法よろしく、最後には主人公の味方になるのだが、それまでに見せる須賀の想像力の無さには辟易させられる。まるで自分というおっさんの至らない面をまざまざと見せつけられているようだ。「大人になれ」という須賀の台詞には、軽い怒りさえ覚えた。それも監督の意図するところなのだろうが。

 

雨を降らせ続けるという決断を下したのであれば、それがどれほど甚大な被害をもたらす決断であるのかをしっかりと描かなくてはならない。昨年(2018年)の西日本豪雨の被害はまだ我々の記憶に新しい。土砂災害もそうであるが、長雨により発生するカビ、金属の腐食、農作物の不作、疫病の発生、生態系への影響など、「昔に戻る」で決して済まない事態が出来することは日を見るより明らかだ。だいたい、あの銃があの状況で使えてしまうことがそもそもおかしい。いずれにせよ、穂高と陽菜の決断の結果、世界が“想像を超えた災厄”に見舞われていないと、それはセカイ系の物語としては不完全だ。というよりも、セカイ系の文法からも外れているではないか。特に世界全体がリアリティを欠いている。児童相談所は一体何をやっている?地域の公立小中学校は?警察も無能すぎる、と言いたいところだが、富田林署から逃げ出した男が実在するわけで、ここは減点対象にしない方が良いのだろう。

 

空の世界の描写も『 千と千尋の神隠し 』の白と式神のオマージュなのだろうか。もっとオリジナリティのあるビジョンは描けなかったのだろうか。細かい部分にも不満は残るが、全体を通じてやはりミュージック・ビデオ的な作りであるとの印象は避けられない。愛にできることを問うのは美しいが、愛が必然的に伴うネガティブな部分の描写の弱さ故に、子ども向け作品としてしか評することができない。

 

総評

最近、特に年齢を感じる。肉体的にそうだ。風邪をひいて、回復するのに4~5日を要するようになってしまった。精神的な老いも感じる。対象の新しい可能性を探ろうとするよりも、既知のものとのアナロジーで語ることが多いことは自覚しているが、仕事でも私生活でも何かを変えなければならない時期に来ているのかもしれないと感じた次第である。本作について言えば、オッサンの鑑賞に堪える部分は少ないだろう。しかし、中高大学生カップルあたりは、『 君の名は。 』と同じくらいに楽しめるのではなかろうか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ファンタジー, 森七菜菜, 監督:新海誠, 配給会社:東宝, 醍醐虎汰朗Leave a Comment on 『 天気の子 』 -不完全なセカイ系作品-

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