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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 蜜蜂と遠雷 』 -世界と自分の関わり方を考えさせてくれる-

Posted on 2019年10月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

蜜蜂と遠雷 70点
2019年10月6日 鑑賞
出演:松岡茉優 松坂桃李 森崎ウィン 鈴鹿央士
監督:石川慶 

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恩田陸はJovianのお気に入りの作家のひとりである。最近は若い頃ほど本を読めないし、読む本の種類も変わってきた。だが、それでも恩田陸が原作とあれば観ないという選択肢はない。

 

あらすじ

一躍、若手の登竜門となった芳ヶ江国際ピアノコンクール。そこに集ったトラウマを抱えた少女・栄伝亜夜(松岡茉優)、年齢制限ギリギリの生活者代表・高島明石(松坂桃李)、名門音楽院在籍でマスコミも注目する寵児・マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(森崎ウィン)、パリのオーディションで彗星の如く現れた天才児・風間塵(鈴鹿央士)らはそれぞれの形でお互いに、そして音楽に向き合っていき・・・

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ポジティブ・サイド

異なる楽器に異なるストーリーを比べるのは愚の骨頂であるが、『 四月は君の嘘 』よりも遥かに音楽がクリアであった。演奏の先に景色が広がる。それがサウンドスケープというもので、『 羊と鋼の森 』でも少し触れた。音楽というものは不思議なもので、実体が無い芸術である。そこに様々な意味を付与するのは、演奏者と鑑賞者であろう。たとえば高島明石はそこに芸術家ではなく生活者としての音を表現しようとする。もちろん、それは我々の目には見えないし、我々の耳には聞こえない。少なくとも、それを感知するには並はずれた音楽的素養が必要だろう。だが、これは映画であり、それを感じ取るための映像体験を提供してくれる。高島の労働者、夫、父親としての側面を濃厚に描くことで、感情移入させようという作戦だ。シンプルだが、これは分かりやすい。また高島の言うとある台詞は、音楽家と生活者を分ける上で非常に示唆的であった。JovianはREI MUSICの裏谷玲央氏と懇意にさせていただいていたが、彼自身は自らを演奏者ではなく作曲家を以って任じている。彼の言葉に「一日に8時間とか10時間とかギター弾いている人は完全に別物なんですよ」というものがある。これから本作を鑑賞予定の方は、この言葉を頭の片隅に置いて鑑賞されたい。

 

松岡茉優のキャラの背景も複雑であり単純である。トラウマを抱えたキャラクターで、ピアノが大好きだが、そのピアノが弾けないというのが彼女の抱える課題である。トラウマを克服するには、荒療治であるが、そのトラウマの原因に正面から向き合うしかないという説もある。彼女は向き合えたのか。それは、劇場で確認して欲しい。唯一つ言えるのは、松岡の見せ場である演奏シーンは二つとも見逃してはいけないということである。特に中盤で『 月の光 』を連弾で奏でるシーンは幻想的である。音楽家は言葉ではなく音で対話ができるのである。同じ音楽系の邦画では『 覆面系ノイズ 』にギタリスト同士が音で対話するシーンがあった。もしくはプロレベルのそれを堪能したいということであれば、B’zの『 Calling 』のイントロとエンディングのボーカルとギターの対話に耳を傾けてみよう。クライマックスの松岡の演奏は『 グリーンブック 』のマハーシャラ・アリを彷彿させてくれる。最終的には、プロのピアニストの演奏にアリの顔を貼り付けたようだが、松岡はかなり体を張っている。その努力を大いに称えるようではないか。

 

本作は天才とは何かを問うてもいる。ピアノを持たずに、ピアノではないものでピアノの練習をする天才児。名高い指揮者とそのオーケストラにも臆することなく自分の感性をぶつけていく麒麟児。松坂や松岡のキャラクターたち以上に音楽にのめり込んでいる人種の在り様というのは、凡人の我々の理解を超えている。Jovianは大昔にピアノを習っていたことがあるが、今ではもうすっかり忘れてしまっている。ただ、何の因果か今は英語・英会話を教える職に就いている(いつまでもつのか、この商売・・・)。受講生の中には、高校生や大学生もちらほらいるが、明らかに自分以上のポテンシャルを抱えている若者も確かにいた。そうした者たちを指導する時には多大な緊張感があった。教える者、あるいは本作の中で審査する立場の者は、若い才能を前にして何を見出すのか。それは彼ら彼女らを潰さないこと、長所の芽を伸ばすこと、大きく育てることの責務だろう。指導者や教師が、生徒、弟子、受講生に見出すのは、自らの教えの成果、その結実である。あるいは自らの教えでダメにしてしまった若者である。別にこれは音楽や語学に限った話ではない。自分の子どもや親せきであってもよいし、職場の後輩であってもよい。自らを超える存在に向き合った時に、人は自分の使命を知るのかもしれない。本作は、そのように向き合うことができる作品でもある。

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ネガティブ・サイド

ピアニストは腰痛や肩こり、腱鞘炎に悩まされることが多いと聞く。松坂のキャラあたりに、もう少し腕を振ったり、あるいは無意識のうちにグーパーグーパーをして、腕の疲れを逃がそうとさせる動作や仕草があれば、生活者という面だけではなく年齢制限ギリギリという面を強調できただろう。

 

斉藤由貴が煙草を吸い過ぎである。それは別に構わないが、彼女自身がピアノと向き合うシーンが皆無なのは頂けない。調律師の仕事ぶりに一瞥をくれるとか、ピアノの運搬の様子を厳しく見守るだとか、何か映画的な演出ができたはずだ。それとも編集でカットしてしまったのか。若い才能と対峙するという役割をほぼ一手に引き受ける、つまり観客のかなり多くを占めるであろう年齢層の象徴的なキャラクターなのだから、ささやかな、それでいて印象に残る音楽家的なシーンが欲しかった。

 

総評

音楽好きにも、音楽にはそれほど造詣が深くないという層にも、どちらにも鑑賞して欲しいと思える作品である。演奏の質の高さとストーリーの質の高さが、非常に上手く釣り合った作品に仕上がっている。この世界で自分が果たすべき仕事とは何か、この世界で自分が未来に残すべきものとは何か。そのようなことを考えるきっかけを与えてくれる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I want to play a piano right now.

 

栄伝亜夜の「今すぐピアノを弾きたいんです」という台詞の英訳である。今でも塾や学校では楽器にはtheをつけましょう、と教えているらしいが、実際はtheの有無やthe以外の冠詞を使うかどうかは文脈によって決まる。British Englishならほぼほぼtheをつける。American Englishならtheをつけてもつけなくても良い。どれでもいいから、とにかく何らかの楽器を弾きたいということであれば、a + 楽器である。drumsのように最初から複数形の楽器もあるし、和太鼓のように単数形のdrumもある。何が言いたいかと言うと、英語の冠詞について「こうだ!」とズバリ言い切ってしまう講師がいる塾やスクールはお勧めしませんよ、ということである。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 松坂桃李, 松岡茉優, 森崎ウィン, 監督:石川慶, 配給会社:東宝, 鈴鹿央士Leave a Comment on 『 蜜蜂と遠雷 』 -世界と自分の関わり方を考えさせてくれる-

『 宮本から君へ 』 -非力で不器用で我武者羅な男の人生賛歌-

Posted on 2019年10月12日2020年4月11日 by cool-jupiter

宮本から君へ 70点
2019年10月6日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:池松壮亮 蒼井優
監督:真利子哲也

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あらすじ

宮本浩(池松壮亮)は極めて不器用。しかし純真さと折れない心の強さを持っていた。中野靖子(蒼井優)の交際を開始したばかりの頃、靖子の自宅に元カレが現れ、靖子に暴力を振るう。「この女は俺が守る!」と言い放った宮本は、晴れて靖子と結ばれる。しかし、そんな二人の幸せにさらなる試練が迫って・・・

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ポジティブ・サイド

とにかく池松演じる宮本という男が良い。宮本の優しさ、暑苦しさ、芯の強さは男性の共感を呼ぶことは間違いない。何故か。それは上述した宮本の属性、特性が男が普遍的に備えているものだからだ。ここで大事なのは、ポジティブな属性や特性を肥大化させて描くことだ。男には当然ダメダメな属性も同じくらいか、あるいはポジティブ属性よりも多く備わっている。そうしたネガティブ属性に焦点を当てた作品は文学的な意味では成功することはあっても、映像芸術としては往々にして失敗に終わる。近年では例えば『 先生! 、、、好きになってもいいですか? 』、『 ナラタージュ 』などが挙げられる。いずれも男の普遍的にダメなところ、すなわち「相手を傷つけたくないと配慮することで相手を傷つけてしまう」というやつである。ちなみに先生と生徒の恋愛もので近年では突出した面白さだったのは『 センセイ君主 』である。また男の普遍的にダメなところを別の角度から捉えた秀作に『 奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール 』がある。

 

Back on track. 宮本はヒロインの靖子を持ち前の猪突猛進の暑苦しさで救い、そして大いに傷つける。そこには確かに男が最も苦手とする共感や思いやり、配慮が欠けている。だが、できないことはできないのだ。できないことをウジウジと悩むよりも、できることを全力でやる。そして当たって砕ける。本作のストーリーには目を背けたくなるようなシーンがあるが、悩んでいても問題が解決するわけではない。かといって当たって砕けても問題は解決しない。しかし、宮本はそこに突っ込んでいく。はっきり言ってアホである。だが、それがたまらなくカッコイイのである。男がアホになるのは、女絡みであることは古今東西の歴史が証明する通りである。この男のアホさ、それをポジティブに言い換えれば芯の強さになるわけだが、それをとことんまで突き詰めたのが宮本である。演じた池松に拍手を送れるかどうかで、その男の精神年齢が分かる。拍手を送れるのは、自分はそうなれなかったし、これからもそうなれないと悟っている中年以降の衰えゆくだけの男である。Jovianがまさにそうである。宮本に嫌悪感を抱けるとすれば、それはその男が宮本と適切な距離を取れない、つまり宮本に近いところにいるからである。逆にうらやましい。

 

ヒロインの靖子を演じた蒼井優も円熟期を迎えたと言えるだろう。劇中でもおそらく30歳手前ぐらいの年齢であると思われるが、男女の交際や結婚に幻想と現実的な感覚の両方を抱いているというキャラクターで、何かあるとコロッと落ちてしまう高校や大学の小娘とは一味もふた味も違うキャラを熱演した。『 彼女がその名を知らない鳥たち 』にも準レイプと言えるシーンがあったが、あちらはヨボヨボの老人、こちらは本格的なレイプシーンで相手は屈強なラガーマン。正直、正視に堪えないシーンである。その前に準・和姦(?)的な宮本と靖子のセックスシーンがあるせいか、余計に凄惨に映る。ベッドシーンそのものも魅せる。『 光 』の橋本マナミや『 無伴奏 』の成海璃子のように、不自然に乳首を隠すのではなく、自然に見えない、見えそうだけれど見えない、という非常に際どい撮影術を駆使しているところも見逃してはならない。絵コンテの段階から、監督、撮影監督、役者の間でこのシーンについてはかなり詰められていたのだろう。プロの仕事を称賛すべし。

 

宮本が立ち向かう敵は強大だが、相手が強い弱いを勘定に入れずに行動するところに強い憧れを抱く男は多いだろう。漫画『 DRAGON QUEST -ダイの大冒険 』のとあるキャラが「相手の強さによって出したりひっこめたりするのは本当の勇気じゃなぁいっ!!!」と喝破するが、この意味では宮本は本当の勇気を持っている。卑怯だとかどうこうとかは関係ない。殺るか殺られるかなのである。Kill or be killed なのである。宮本のような男になれるか。靖子のような女に出会えるか。人生とはままならないものであるが、宮本のような“芯の強さ”を少しでも持てれば、それだけで人生は少しだけ豊かになるのだろう。

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ネガティブ・サイド

宮本の骨折した指の描写はあったか?ギプスや添え木にJovianが気付かなかっただけか?さらに靖子の家族も、怪我人にアルコールをどんどん飲ませてどうする?ビールをコップ一杯ぐらいならまだしも、アルコールは飲めば飲むほど感覚がマヒしたり、判断力を低下させたりするわけで、怪我をしている部分に無理な力を入れてしまい、治癒が遅くなったり、最悪の場合は怪我が悪化するではないか。靖子の母は、宮本に含むところがあるキャラクターなのではないかと勘繰ってしまったではないか。

 

ピエール瀧が病院で「書くもの寄こせ」と言って宮本に教えた住所がタクマの女のヤサであるのはどういうわけか。ピエール瀧の自宅の住所ではなく、タクマの一人暮らししている家でもなく、なぜタクマの女の住所なのか。何か複雑な事情があるにしても、それを最低限の台詞はショットで説明してくれないことには意味が分からなかった。

 

個人的な願望であるが、ピエール瀧の同僚二人に天誅が下らないことも残念。そこは原作をいつか確認してみたいと思う。

 

総評

これは怪作である。いや、快作である。宮本という1990年代のキャラクターを現代に蘇らせた意味は何か。それは取りも直さず、現代人が忘れつつある熱量を取り戻すべしという真利子哲也監督からメッセージに他ならない。ゆとり世代にさとり世代などと揶揄される若い世代に、それよりも上の世代は熱量を以って接してきたか。宮本というキャラにどれだけ共感できるか、あるいはできないかで、観る者の精神的な老け具合が測られてしまうという恐るべき仕掛けが込められている。純粋に中年オヤジを応援したいという向きには『 フライ,ダディ,フライ 』をお勧めしておく。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Marry me!

 

「靖子、俺と結婚しろよ」という台詞があまりに強烈だ。学校ではよく get married to 誰それと学ぶと思うが、受け身になっているのは公式に結婚することを意味しているから。つまり、聖職者なり役所なりに、夫婦であるということを「認められる」必要があるからだ。そうではなく当事者間だけで結婚を論じる時には能動態でOKである。小難しい理屈はよく分からないという人は Bruno Mars の“Marry You ”を100回聴くべし。

 

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Posted in 国内, 映画, 未分類Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, ラブロマンス, 日本, 池松壮亮, 監督:真利子哲也, 蒼井優, 配給会社:KADOKAWA, 配給会社:スターサンズLeave a Comment on 『 宮本から君へ 』 -非力で不器用で我武者羅な男の人生賛歌-

『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

Posted on 2019年10月9日2021年11月7日 by cool-jupiter

ジョーカー 85点
2019年10月5日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ
監督:トッド・フィリップス

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Believe the hype. という表現がある。「誇大広告を信じろ」、つまり「ガチですごいんだ」という意味である。公開前から世界中の批評家やPR担当者たちは本作を手放しで絶賛した。否が応にも期待が高まる。往々にして、Hype can ruin a film. 一部に誤っていると思われる広告やキャッチコピーの類もあるが、本作は間違いなく傑作である。

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あらすじ

アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、緊張すると笑ってしまうという障がいを抱えながらも、ゴッサムの片隅でピエロ稼業をしながら、コメディアンになることを夢見ていた。母親と二人暮らしで、フランクリン・マレー(ロバート・デ・ニーロ)がホストのテレビ番組を楽しんでいた。だが、街も人々も彼の存在をどこまでも軽んじる。そんな時、同僚から護身用にとアーサーは拳銃を手渡され・・・

 

ポジティブ・サイド

冒頭から異様な雰囲気である。男は笑いながら苦しんでいる。笑い過ぎて、呼吸ができず苦しくなったわけではない。その笑い声には陽気さはなく、悲愴感が漂う。笑うことそのものが苦しみで、その苦しみが更なる笑いをもたらしている。そのようにすら感じられる。何ともダークで不安を煽るオープニングである。

 

すでに世界中で100万回指摘されていることだが、やはり『 タクシードライバー 』によく似ている。その一方で必ずしも似ているばかりでもない。トラヴィスは劇中で最後に自分を袖にした女を華麗に見限るが、アーサーはそうではない。トラヴィスは劇中でも現実世界(我々の生きている映画の外の世界、の意)でも信者を得るが、アーサーは劇中では信者を、現実世界では共感者を得ている。トラヴィスは非モテ男の支持を得た一方で、アーサーの支持基盤は社会の底辺に生きる者、あるいは社会から疎外された者たちだろう。彼の住む集合住宅はオンボロもいいところで、立地も街の中心部から相当に離れている。なおかつ駅から降りてとんでもない上り階段に臨まなくてはならない。街には行政的な課題が山積しているが、市政は動かない。このような地域や状況は、先進国と言われる国でも密かに進行しつつある事態である。これだけでも我々はアーサーやその道化師仲間たちに共感させられる。底辺にいる俺たちだって生きているんだ。この時点で彼らにシンクロしてしまう人間は相当に多いはずだ。そのタイミングを狙って、DCやワーナーは本作を世に送り出してきたのではないか。だとすれば、マーケティング戦略としては満点であろう。

 

日本との類似を指摘する声も多い。実際にJovianもそう思う。十把一絡げに言ってしまえば、いわゆる嫌韓嫌中な方々がアーサーと同じような境遇にいそうだ。偏見であることは承知しているが、どうしても本作はそのように観る者に迫ってくる。社会が悪い。俺は悪くない。俺という人間が生まれきたことには意味があるはずだ。俺の生まれはこの国で、俺の親はこの立派な国の人間だ。そのような妄想的観念が覆された時に人はどうなるのか。KKKの熱心なメンバーがDNA鑑定を受けたら、4代前に黒人がいた、という話は実はよく聞こえてくる。それを機に改心する者もいれば、自殺する者もいたという。自分という人間の出自に関心を持つことは至極当然であろう。問題はそれに強すぎるこだわりを持つことだ。だが、アーサーのように社会に無視され、奪われ、虐げられるだけの者が、他に何を拠り所に生きろと言うのか。

 

アーサーがジョーカーに変貌していく過程にリアリティがあるかと問われれば、無いと答える。ひょんなことから銃を手に入れ、ふとしたきっかけで発砲せざるを得なくなることに必然性はない。だが、自分がそうした立場に置かれた時、どのように反応するだろうかという思考実験の材料にはなる。アーサーという個人に特徴的な意図せざる笑いがこみ上げてくるというコンディションを抱えており、それは確かにハンディキャップになっている。けれども、それが彼がジョーカーに変わっていく触媒ではない。アーサーをジョーカーに変えたものは、陳腐な表現をすれば社会の闇である。寄る辺なき者たちは、きっかけさえあればジョーカーになり得る。本作はそのように主張しているかのようだ。もっと言えば、悪とは善の対立概念ではない。悪とは善の欠如でもない。悪とは、それ自体が救いになりうる。そのような逆説を本作は提示している。クライマックスのジョーカーは、誰がどう見てもゼーロータイによって実際に担ぎ上げられてしまったイエス・キリストのアナロジーに他ならない。もしくは『 Vフォー・ヴェンデッタ 』のパラレル・ユニバースであるとも言えるかもしれない。

 

ホアキン・フェニックスの怪演には感動を覚えたが、特にとあるシーンでアーサーがじっと沈黙するシーンには身震いした。その黒い両目の奥に譬えようのない怒りと悲しみを感じ取ったからだ。目の演技としては今年一番と言っても差し支えないだろう。仮面をかぶる、あるいは顔面に過剰なメイクアップを施す。それは内心にある全ての負の感情を覆い隠すためのものである。顔では笑って、心では泣いている。もしくは顔は笑って、心は怒っている。そのような二律背反のキャラクターをJ・フェニックスは、ジャック・ニコルソンやヒース・レジャーと遜色ないレベルで演じ切った。米アカデミーがどのように反応するのかは分からないが、『 ドント・ウォーリー 』と本作で、本ブログにおける2019年の海外最優秀俳優はJ・フェニックスで決まりである。

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ネガティブ・サイド

終盤のテレビ番組開始前に、アーサーは少し喋りすぎだったように感じる。具体的に言えば、ロバート・デ・ニーロに“Can you introduce me as Joker?”と全てを尋ねる必要はなかった。単に、“Can you introduce me as … ”で、いったん別の場面へカット。そこから出演ゲストの紹介場面に戻って来た時に、初めて“Joker”という名前に言及した方が、よりドラマチックだったはずだ。陳腐と言われるかもしれないが、『 ダークナイト 』においても、バットマンが実際に劇中で“ダークナイト”と呼称されるシーンは最終盤だった。それゆえにそのシーンは観る者に鳥肌を立たせるほどの衝撃を与えた。ジョーカーという名前、顔、風貌にもっとインパクトを与える演出があったはずである。

 

また、これは映画に対する不平不満ではないが、【 本物の<悪>を観る覚悟はできたか? 】だとか【 本当の悪は笑顔の中にある 】というキャッチコピーこそ、誇大広告だろう。アメリカで一番多く使われたと思しき販促フレーズの一つは“PUT ON A HAPPY FACE”であるようだ。「幸せの仮面をかぶれ」という意味である。アーサーという人物の人生そのものがある意味で仮面であることを絶妙に言い表している。単に刺激的なキャッチコピーをつけてみました、というだけでは短期的な利益にはなるかもしれないが、長期的には信用を無くすだけだろう。PR担当企業にはよくよく考えてもらいたい。

 

総評

非常に野心的で挑戦的な映画である。悪が救いであると、ここまで高らかに謳い上げた作品は少ないのではないか。アーサーという心優しい、ある意味でとても哀れな男が壊れていく様には同情を禁じ得ない。しかし、その同情が共感に、共感が信仰に、信仰が人々の具体的な行動に結びついてしまった時、悲劇は起こる。これは純然たるフィクションなのだろうか。それとも現実世界のシミュレーションなのだろうか。一つだけ言えるのは、本作が今年を代表する一本であることは間違いないということである。

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Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

EVERYTHING MUST GO

 

直訳すれば「あらゆるものが消えねばならない」だが、これでは意味不明だ。この go の使い方から“Let it go”を連想できれば英語学習の中級者またはそれ以上のレベルと言える。劇中での使われ方を見れば一目瞭然で「全品売り尽くしセール開催中」というような意味である。Jovianは実際に15歳でアメリカ、ニューヨークを旅行中にこの表示を見たことがあるし、その後のドラマや映画でもチラホラ見かける。知っておいて損はない表現である。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アメリカ, クライムドラマ, ヒューマンドラマ, ホアキン・フェニックス, ロバート・デ・ニーロ, 監督:トッド・フィリップス, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 ジョーカー 』 -救世主の誕生秘話-

『 サラブレッド 』 -一筋縄ではいかない女の友情-

Posted on 2019年10月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

サラブレッド 65点
201910月3日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:オリビア・クック アニャ・テイラー=ジョイ
監督:コリー・フィンリー

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Jovianは『 ウィッチ 』以来、アニャ・テイラー=ジョイの大ファンである。映画ファンならば、○○が出演していたら観る、あの監督の作品は観る、あの脚本家の作品は絶対にチェックする、そういう習性があるものだろうが、アニャはJovianの一押しなのである。

 

あらすじ

感情のないアマンダ(オリビア・クック)と彼女の家庭教師を引き受けている旧友のリリー(アニャ・テイラー=ジョイ)。二人は奇妙な友情を育んでいた。そして、リリーは憎い継父の殺害計画をアマンダと共に練るようになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

これまでも胸元を露わにする服装はちらほら着用してくれていたが、今回は遂に水着を解禁。アニャのファンは狂喜乱舞すべし。というのは冗談だが、それでもプールに潜るアニャは大画面に大いに映える。彼女はどこかファニー・フェイスなのだが、水中で目を閉じて黒髪がたゆたうに任せるアップのショットはひたすらに cinematic である。

 

オリビア・クックも魅せる。『 ラ・ラ・ランド 』でエマ・ワトソンが桁違いの演技力を見せつけたが、冒頭のリリーの住む屋敷を散策して回るシーンと、テレビを観ながら泣いて見せるシーンは、オリビアの演技力の高さを大いに物語っている。

 

監督のコリー・フィンリーは舞台の演出家で、映画の監督はこれが初めてのようだ。先に述べたアマンダの屋敷を見て回るシーンはロングのワンカットで撮影されており、カメラ・オペレーターが役者との絶妙な距離感を保ちつつ、どこか『 バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 』を彷彿させるドラムを主旋律にした人間の不安を掻き立てるようなBGMが奏でられる。『 記憶にございません! 』の中井貴一と吉田羊の情事前のシーンは技術的に際立っていたが、映画的な技法としての完成度は本作のオープニングシーン(馬の後である、念のため)の方が上である。Establishing Shotの極致であり、迷走する人間関係と心理のメタファーになっている。

 

殺人を計画するにあたって、チンケなドラッグ・ディーラーを使うところもよい。やるかやらないか分からない、そんな根性がありそうでなさそうな pathetic な男と、獣性を秘めた女性たちのコントラストがサスペンスを盛り上げている。男という生き物は本質的には女の引き立て役なのかもしれない。Rest in peace, Anton Yelchin.

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ネガティブ・サイド

登場人物があまりにも少ないせいで、オリビアの感情の欠落が周囲の人間にどのように受けとめられてきたのか、あるいは受け入れられずにきたのかが分からなかった。ちょっとエキセントリックな奴、と思われるだけならいいが、「サラブレッドを殺した奴」というのはちょっと違うと思う。走れなくなった馬を安楽死させるのは、割とよく知られた事実であるし、レースに勝てず気性が穏やかな馬は、乗馬クラブに行き、レースに勝てず気性が荒い馬は動物園で肉食動物のエサにされている。これもよく知られた事実である。馬を殺したこと、その方法が残虐であったことを指してアマンダを「ヤバい奴」に認定するのはちょっと納得がいかなかった。これはJovianの実家がかつては焼肉屋で、Jovian自身も小学校6年生の時に牛の屠殺場に実際に親子で見学に行った経験を持つからかもしれない。

 

継父を殺したいほど憎く思っている背景の描写も弱い。登場シーンからして張りつめた空気が二人の間に漂っているが、そうした緊張感の漲るシーンをもう2,3か所、時間にして2~3分ほどでよいので、各所に挿入されていれば、劇中に二つ存在する真夜中のシーンのサスペンスがもっと盛り上がったのにと思う。

 

総評

女は怖い。つくづくそう感じさせてくれる。女性に対して満腔の敬意と言い知れぬ恐怖を抱くJovianのような小市民は、本作のような女の物語を非常に怖く、危うく感じる。これはネガティブにではなく、作品に対するポジティブな賛辞である。小市民男性は本作を観て、男と言う生き物のケツの穴の小ささを再確認しよう。亭主関白を自認する人は観ないことをお勧めする。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

outside the box

 

しばしば think outside the box という使い方をする。直訳すれば「箱の外で考える」だが、意訳すれば「固定観念にとらわれることなく考える」、「既存の枠組みを超えて思考する」ということ。これができるかどうかが、学生にとっても社会人にとっても、ますます重要になってくるだろう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アニャ・テイラー=ジョイ, アメリカ, オリビア・クック, サスペンス, 監督:コリー・フィンリー, 配給会社:パルコLeave a Comment on 『 サラブレッド 』 -一筋縄ではいかない女の友情-

『 惡の華 』 -クソ中二病によるクソ中二病展開のクソ物語-

Posted on 2019年10月6日2020年4月11日 by cool-jupiter

惡の華 20点
2019年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:伊藤健太郎 玉城ティナ 秋田汐梨
監督:井口昇

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劇場で予告編を何度か観ただけで鑑賞。予備知識ほぼ無し。なぜこんなクソ作品を観ねばならんのかとも思うが、カネを出して観てみないことには良いか悪いか分からない。大切なのは、作品を鑑賞した上で意見を述べることであろう。

 

あらすじ

春日高男(伊藤健太郎)は自分が灰色の無味乾燥した世界に生きていると感じる中学生。ボードレールの『 惡の華 』に惑溺することで自尊心を満たしていた。ある日、衝動的に憧れの女子である佐伯奈々子(秋田汐里)の体操服を盗んでしまったところを、問題児の仲村佐和(玉城ティナ)に目撃されてしまう。佐和に脅迫される形で契約を結んだ春日は、仲村に翻弄され、徐々に暴走していく・・・

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ポジティブ・サイド

『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』や『 青夏 きみに恋した30日 』で、うっすらと秋田汐里は印象に残っている。どことなく南沙良を思わせる獣性が感じられ、個人的には良い感じである。『 町田くんの世界 』の関水渚の良いライバルになりそう。切磋琢磨して頑張って欲しい。彼女らのハンドラーはしっかりと仕事をしてほしい。中高生あたりにありがちな意図しないお色気シーンや水着姿を楽しむ向きもあるかもしれない。というか10代半ばなのに、よくこんな○○○○(未遂?)シーンの撮影を引き受けたものだと素直に感心する。

 

飯豊まりえも、登場シーンはそれほど多くないものの、地に足のついたキャラクターを好演した。『 暗黒女子 』よりも、こういうキャラクターの方がより説得力を出せる。女王蜂キャラにはまだ足りないが、クラスの人気者キャラならば充分に見ることができた。

 

ネガティブ・サイド

主人公たる春日高男の中二病の根の深さが全く伝わらない。冒頭の街のシーンを多少セピア調に加工しても、そんなものは小手先のテクニックに過ぎない。街に自分の意識を閉じ込められて、精神に変調をきたしていく物語ならば『 タクシードライバー 』という不朽の名作(怪作?)もある。仲村さんが叫ぶ「どいつもこいつもセックスことしか考えてねえ!」という言葉は、原作を改変してでも高男の心の声にしてしまうべきだった。そうでないと高男が精神の平衡を失ってしまう過程に説得力が生まれない。または邦画の例に倣うなら『 ここは退屈迎えに来て 』で描かれたような、どこまで車で走っても全く変わり映えのしない同じような街並みがエンドレスで続いていくという地方都市の没個性さも使えたはずである。他にも小学生から中学生になっても街並みが何一つ変わっていかないという時系列的な描写があれば、それも高男の精神の変調を説明する役には立ったはずだが、それもなかった。ボードレールを読み耽っているだけの自意識過剰少年には何の共感も抱けないし、彼が壊れていく過程にもリアリティを認められない。「今この瞬間に抑圧された青春を過ごしている、またはかつてそうだった大人たちに本作を捧ぐ」みたいな序文から作品は始まったが、そのメッセージは果たしてどれくらいの人にどれくらいの迫真性をもって届いたのだろうか。疑問である。

 

佐和がエキセントリックなキャラクターであることは分かるが、そんな佐和と高男が共依存のような関係になる描写が決定的に弱い。自分が特別であると思い込まなければやっていられないような家庭環境で育ったわけでもなさそうだし、なにより高男のような読書家がこのような狭量な世界観を持つのだろうか。Jovian自身も相当に鬱屈した青春を過ごしたという自覚症状は今でもあるし、当時もそうした自覚はあったし、はっきり言って根拠のない自信に基づいて周囲の人間をクソムシ扱いしていた。けれどそれが自分の弱さであるという自覚もあった。自分が他人と何も変わるところがないとは認めたくないという過剰な自意識を、自分で意識することができていた。高男と佐和の物語にどうしても入り込めなかったのは、テロ紛いのことでしか意見表明ができない、遅れてやって来たプチ過激派にしか見えなかったからだろう。だが、そうした物語にも名作はある。リブート(続編?)に期待と不安の両方を抱かせる『 ぼくらの七日間戦争 』が好個の一例である。

 

何らかの場面の転換が、すべてキャラクターの絶叫で締めくくられるのもワンパターンすぎる。雨の中で叫べば、確かに何かが決定的に終わってしまったようにも感じられるが、一つの作品の中で似たような展開を繰り返すのはいかがなものか。そもそも高男自身にほんのちょっとの勇気があれば、佐伯さんに「付き合ってください」ではなく「ずっとずっと好きでした」と言えれば、円満に解決していた。というか、最近は「好きだ」と伝えずに、「付き合ってください」だけで男女の交際が始まるものなのか。『 勝手にふるえてろ 』でも松岡茉優による「付き合ってくれとは言われたが、好きだとは言われていない」と高揚が一気に冷めるシーンがあった。結局は高男がチキンなだけである。あるいは読書家ではあっても、書物から人間模様を学ぶことができなかった愚か者である。

 

総評

酷評させてもらったが、確かにこうした共依存の関係や過剰な自意識の防衛機制に共感を覚える人もいるだろうとは想像できる。すべては波長が合うかどうかだ。Jovianは、はっきり言ってクソ映画であるとは思うが、それはキャラクターがクソなのであって、演じる役者やそのキャラの生みの親たる原作者、さらに監督その人までがクソとはまでは思わない。『 覚悟はいいかそこの女子。 』では“欠損家庭”、“貧困家庭”といった社会派の要素を込めてきた井口監督であるが、個人の内面を描く物語に関しては、さらなる精進が必要ということだろう。捲土重来に期待。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I am a pervert, too.

 

劇中で仲村さんは「私も変態なんだ」と言っていたように記憶している。変態=pervert、と覚えておけば、ほぼ間違いはない。もう一つ、kinkyという単語もある。英語圏の人間に妙な勘違いをされたくないということから、近畿大学は英語名をKinki UniversityからKindai Universityにしたということである。変態は hentai という International Language にも実はなっている。これも、ある意味ではクール・ジャパンだろう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, E Rank, サスペンス, 伊藤健太郎, 日本, 玉城ティナ, 監督:井口昇, 秋田汐梨, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 惡の華 』 -クソ中二病によるクソ中二病展開のクソ物語-

『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

Posted on 2019年10月3日 by cool-jupiter

ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 75点
2019年9月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クメイル・ナンジアニ ゾーイ・カザン
監督:マイケル・ショウォルター

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191003224355j:plain

 

Jovianはインド映画好きである。だが、インドの隣国パキスタンのことはよく知らない。せいぜい『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でインドから宗教的に分離した国であるということぐらいしか知らなかった。そんなパキスタン出身のクメイル・ナンジアニ自身の逸話が映画化された。外国人が増加しつつある日本においても非常に示唆的な作品であると言えよう。

 

あらすじ

スタンダップ・コメディアンのクメイル(クメイル・ナンジアニ)はパキスタン出身。アメリカで芸人としてのキャリアを追求する一方、因習にうるさい母親たちを断り切れず、形だけの礼拝、形だけのお見合いをしていた。ひょんなことからアメリカ人のエミリー(ゾーイ・カザン)と知り合い、逢瀬を重ね、親しくなるが・・・

 

ポジティブ・サイド

脚本を書いて、それを自分でも演じる映画人としてM・ナイト・シャマランが思い浮かぶが、彼はチョイ役専門である。シャマランの本業は監督であるが、クメイル・ナンジアニはコメディアンにして、映画の主演も張る。そして、見事な演技力。自分で自分を演じるのは存外に難しいものと思う。なぜなら、そんな練習は普通はしないから。そこはしかし、スタンダップ・コメディアンのキャリアが生きている。あらゆる状況を自分の言葉と仕草と小道具で説明し、受け手に何らかの変化(特に笑い)を励起させるという意味ではお笑い芸人は案外、役者の素養を備えているものなのかもしれない。クメイルを見ていて感じるのは、彼は誰に対しても気後れしないのだな、ということ。異国で暮らすことは難しいことだ。異国だからこそ、自国のらしさにこだわってしまうことが人間にはよくある。『 クレイジー・リッチ! 』でも指摘したが、異邦人は自らのユニークさ、違いを殊更に強調しようとする傾向がある。クメイルはパキスタンそしてイスラムの伝統や因習を一方的には否定しない。しかし、それらを受け入れもしない。個人として自立している。アメリカ的と言えばアメリカ的だし、現代的と言えば現代的である。こうした個の強さを兼ね備えた人間の物語にはインスパイアされることが多いが、その逆に「こうした種類の人間にはとても敵わないな」とも思わされる。けれど、よくよく考えてみれば勝つだとか負けるだとかに思いを巡らせてしまうこと自体がおかしなことだ。クメイルの生き様から学ぶべきことは「自分らしくあれ」ということ。これは現代の日本人にとっても inspirational で motivational なことだろう。9.11はきっかけになっているが、たとえあのテロがなくとも、クメイルは自国および自分をネタにした可能性は高い。

 

そうそう、こんな辺境のブログを読んでいる英語教育関係者がいるかどうかは知らないが、multi-national students を教えるに際しては、外国および外国人のイメージをその国の出身者でない者に尋ねるのはタブーである。TESOL、またはそれに類した教授法を学んだ人であればお分かり頂けよう。外国のことはその国の人間に語ってもらう。生徒、受講生には自国のステレオタイプを語ってもらい、それをクラスでシェアするのが原則である。クメイルのパキスタンネタのコメディを笑うのは時に難しいかもしれないが、大坂なおみをネタにした芸人が壮絶に滑ったり、ダウンタウンの浜田がブラックフェイスを批判されても「差別の意図はなかった」として反省しなかったことを、我々はもっと真摯に受け止めねばならない。外国語の教育に携わる人間こそ、語学ではなく国際的な歴史と人権意識を学んでほしいと切に願う。この国では、文法と形式に拘泥するくだらない教育者もどきが余りにも数多く跋扈している。

 

Back on track. ゾーイ・カザンは相変わらずキュートである。プリティーである。こんな女性をバーで口説き、そのままベッドインできれば最高であろう。美人だから最高なのではない。語るのが辛い過去があり、クメイルを好いているが故に、自分を棚に挙げつつも、彼が秘密を打ち明けなかったことに激怒する人間らしさが魅力なのである。男という生き物は、なぜか女性に幻想を抱きがちである。そういった幻想をぶっ飛ばす(性的な意味ではない)夜の語らいシークエンスは、実話か、もしくはそれに近い逸話があったのだろう。このあたりが凡百のラブロマンスとは異なるところであり、我々が人種や宗教、国籍などを飛び越えて、クメイルとエミリーというカップルを好ましく思える所以である。

 

本作はアメリカ版『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』でもある。破局してはいるもののクメイルはエミリーのステディだった。そんな男が相手の女性の両親とどのように向き合い、どのように語り合い、どのように信頼を勝ち得ていくのか。たいていの男性既婚者が通る道ではあるが、見ていて大変に辛い展開もあり、微笑ましくなれるところもある。これらを通して、我々小市民もクメイルとエミリーのドラマに共感できるのである。確かに、我々はinternational / interracial な関係をなかなか築くことができる社会には生きていない。しかし、個としての強さを学ぶことはできるし、実は人種や宗教といった面を取っ払えば、我々一人ひとりは同じく等しく人間なのだというよく分かる。そのような見方を本作は許してくれる。『 8年越しの花嫁 奇跡の実話 』とセットで見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

ネガティブ・サイド

次から次に現れるお見合い相手のパキスタン人女性が揃いも揃って、とてつもなく美人である。そんなことがありうるのだろうか。パキスタン人女性に美人は少ないと言っているわけではない。念のため。アメリカにいるパキスタン人の皆が皆、クメイルのような男ばかりではないだろう。Jovianなら、あの母親が見繕ってきた一人目の相手に一目惚れしてしまったかもしれない。結婚するかどうかは別にして、好意的な気持ちは間違いなく抱く。そういった美女をすべてつれなく袖にしたというのは実話なのだろうか。どうにも信じがたい。『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』のように、存命の人間を描くと、その部分はどうしても美化されがちである。お見合いプロットに出てきた女性たちは、文字通りに美化されすぎていると推測する。そんなことをしなくても、エミリーの魅力は外見ではなく内面にあることは充分に伝わってきた。自身を持ってほしい。

 

クメイルのコメディアン仲間たちとエミリー、そしてエミリーの両親のinteractionはなかったのだろうか。コメディアン連中は全員、白人。これは事実に即してのキャスティングなのだろうが、無意識のうちに我々が異なる人種の間に感じ取ってしまう緊張感のようなものが、単なる虚妄に過ぎないという展開が、もっと欲しかった。

 

総評

これは傑作である。なぜ劇場公開をスルーしてしまったのか。痛恨の極みである。事実は小説よりも奇なりと言うが、そうした事実の一つひとつは、実は結構、陳腐なエピソードだったりする。例えば、ガールフレンドの父親と会話をするというのは、たいていの男にとっては必須の通過儀礼だ。そうしたイニシエーションは陳腐だが、一つとして同じものはない。クメイルとエミリーの関係も類型的ではあるが、とてもユニークだ。上質のロマンスに興味があれば、是非本作を観よう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get it, man.

 

「 気持ちは分からんでもないがな 」という感じの意味である。【『ジョジョの奇妙な冒険』で英語を学ぶッ!】という奇書で、柱の男カーズが放つ台詞である。“I got it.”=分かった、“I get it.”=分かる、である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, クメイル・ナンジアニ, ゾーイ・カザン, ラブロマンス, 監督:マイケル・ショウォルター, 配給会社:ギャガLeave a Comment on 『 ビッグシック ぼくたちの大いなる目ざめ 』 -我々も目を覚ますべし-

『 アンダー・ユア・ベッド 』 -もっとキモメンをキャスティングせよ-

Posted on 2019年10月3日2020年4月11日 by cool-jupiter

アンダー・ユア・ベッド 65点
2019年9月29日 シネ・リーブル神戸にて鑑賞
出演:高良健吾 西川可奈子
監督:安里麻里

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191003183745j:plain
 

ストーカーという人種、ストーキングという行為が認知されたのは、日本では比較的最近ではないだろうか。一方的に思慕の念を募らせるのは、ある意味では美しいが、それが犯罪を構成するところまで行ってしまっては、止まるに止まれなくなる。『 君が君で君だ 』はそうした止まれない、しかし思慕の対象には近づかない男たちの物語だった。それでは本作はどうか。ベッドの下にまで潜り込む男の物語である。

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あらすじ

彼は誰からも存在を忘れられた男だった。しかし、19歳の大学生の頃、ただ一人自分のことを名前で、「三井くん」(高良健吾)と呼んでくれた千尋(西川可奈子)とマンデリンを飲むことができた。その思い出に浸ること11年、30歳になった三井はもう一度だけ千尋に会いたいと願い、彼女を探し出す。しかし、見つけたのはボロボロに変わり果てた千尋だった・・・

 

ポジティブ・サイド

まずは西川可奈子を称賛しようではないか。『 火口のふたり 』の瀧内公美に優るとも劣らない脱ぎっぷりと濡れ場(というよりレイプか)、そして暴力的・被虐的シーンを演じ切った。19歳の大学生からボロボロに疲れ切った30歳の一児の母までを、わずか1時間30分という間で自在に行き来した(ように編集で見せているわけだが)のは、メイクアップ・アーティストや衣装、照明の力を借りてこそではあるが、やはり本人の繊細な演技によるところが大きい。大学生の頃のくるくると変わる表情とはじける笑顔には、三井ならずともコロッといってしまうであろう。

 

原作の小説もそうであるが、千尋に生まれたばかりの子どもがいるという設定の妙が生きている。その子が話せるようになったら、一巻の終わりだからである。だからこそ、『 君が君で君だ 』の三人組にはなかったタイムリミットが三井にはあり、それゆえに三井のストーキングはエスカレートしていく。この見せ方は実に巧みである。

 

原作小説には結構細かく描写されていた千尋の夫の職場での良い人っぷりをばっさりとカットしたところもグッドジョブだ。物語に不必要なぜい肉はいらない。

 

オムツを吐いて、ベッドの下に息を殺して潜む。それはおぞましい行為である。憧れの女性が乱暴に犯される声を聞き、ベッドの振動をその掌で感じ取る。そのことにえもいわれぬ興奮を覚える三井に、どうやって共感せよというのか。それが、物語が加速していくにつれ、できるようになるのである。この絶妙な見せ方に興味がある人は、ぜひ劇場へ足を運ばれたい。

 

ネガティブ・サイド

0歳の乳児がいるにしては、千尋が貧乳である。もちろん、そういう女性もいるにはいるだろうが、極度のストレスのせいで母乳も出せないという描写が欲しかったところである。ストーカーの怖いところは、現実離れした妄執にある。ならば、それ以外の部分は出来うる限り現実に即しているべきである。それが出来ないのなら、それを納得させるだけの描写や演出を挿入するべきである。

 

高良健吾は素晴らしい役者であるが、今作に限ってはミスキャストだと思われる。何故なら、いくら暗い、存在感の薄い男を演出しても、高良自身の面構えの良さが、三井というストーカーの負の面を中和してしまう。もちろん、外見が人間の中身を表すわけではないは、妄執という面では、変則的ストーカー(?)ものの小説および映画にもなった『 モンスター 』(主演:高岡早紀)という優れた先行作品がある。例えば、高良の顔の良さをほんの少しでも隠せるようなメイクおよび照明の使い方があったのではないだろうか。江戸川乱歩の『 人間椅子 』ではないが、こうした物語には醜男を配置すべきである。

 

原作とやや異なるラストも個人的には気に入らない。三井のレーゾンデートルでもある「喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだ」という思い出が砕かれる瞬間が描かれるべきだった。もしくは編集でカットしたのだろうか。ラストシーンの三井の実存の回復のためにも、敢えて奈落の底に突き落とすような物語展開が直前に欲しかったと思う。

 

総評

ストーキングという行為にはある意味での普遍性がありそうだ。そうした営為が犯罪として認知されるようになったのは法律の整備やプライバシー意識の醸成などが背景にあるだろうが、なによりもテクノロジーの力により、録音、録画、動画撮影に盗聴までもが容易になったことが大きい。三井のような行為は、やろうと思えば誰でも出来るのだ。中島梓は『 コミュニケーション不全症候群 』で、我々が最終的に求めてやまず、それでも手に入らないものとして「他者」を挙げた。他者からの承認である。企業研修では存在承認や行動承認がアホの一つ覚えのように繰り返し叫ばれている。2001年刊の原作小説が現代に映画化される意味は確かに見出せる。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I want to be beside her permanently.

「ずっと隣にいたい」 そんな三井の純愛とも狂気とも知れない気持ちが切なさと共に迫ってくる。ずっと=forever と暗記している人が多いが、ちょっと違う。Permanentlyも押さえておきたい語彙。パーマをかけるのパーマである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, スリラー, 日本, 監督:安里麻里, 西川可奈子, 配給会社:KADOKAWA, 高良健吾Leave a Comment on 『 アンダー・ユア・ベッド 』 -もっとキモメンをキャスティングせよ-

『 記憶にございません! 』 -毒は少なめの政治コメディ-

Posted on 2019年10月2日2020年8月29日 by cool-jupiter

記憶にございません! 70点
2019年9月28日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:中井貴一 ディーン・フジオカ 吉田羊 石田ゆり子
監督:三谷幸喜

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「そのようなことは、えー、わたくしの記憶にはですね、えー、全くございません」 小学校高学年ぐらいだったJovianは徐々にテレビのニュースを見るようになったが、このような答弁をするオッサン連中を見て、記憶力が悪くても政治家になれるのか、と無邪気に感じたことを今でも覚えている。そんないたいけな少年だったJovianも今ではすれっからしになってしまった。だからこそ、本作を楽しめるのだとも言える。

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あらすじ

2.3%という史上最低の支持率を叩き出してしまった黒田啓介(中井貴一)は、演説中に一般人に投げられた石が頭に命中してしまい、小さな頃の記憶以外を失ってしまった。人望も人徳もなく、記憶までなくしてしまった黒田は、秘書官らのサポートの元、記憶喪失を隠しながら公務を行うのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

この撮影の仕方は通常の映画撮影のそれではない。舞台演劇を映画化するような際に用いられる撮影技法がふんだんに使用されている。たとえば『 オペラ座の怪人 』の舞台の映画化などが好例である。光と影のコントラストを鮮やかに映し出したり、遠景と近影を使い分けたりといったことは、ほとんどしない。その代わり、ロングのショットで忠実にキャラクターの仕草や表情を映し出す。物語の冒頭や締めにドラマ『 ER 』的なキャラクターの入れ替わり立ち替わりショットを入れることはよくある。『 恋は雨上がりのように 』で、あきらのバイト先でそのようなショットが使われたし、ドラマ(および映画)の『 コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命- 』のエンドクレジットのシーンはまんまERのパクリである。しかし、全編これ、ロングのショットでキャラクターの近影を映し続けるというのは、邦画ではかなり斬新なアプローチである。それゆえに中井貴一の表情の演技が抜群の輝きを放っている。I take my hat off to撮影担当の山本秀夫氏。

 

キャラクター同士の掛け合いも適度な笑いを喚起する。特に黒田総理が自身の家に帰ってきたシーンや家族との団らんになっていない団らんシーンは、プッと吹き出さずにはいられないおかしさがある。小池栄子のコミック・リリーフも効果的に各シーンを和ませ、吉田洋と中井貴一の“現場”から放たれる期待感と失望感は、漫画的な面白さだけではなく「本当にこういう現実があるのかも?」というリアリティを有していた。実際に山尾志桜里議員を思い起こした観客も多いだろう。ちなみに不倫はある種の普遍性を有した文化であることは『 ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ 』からも分かる。

 

永田町や官邸内の権力闘争、ジャーナリズムと権力の関係、政治と庶民の関係など、かつてないほどに政治に対する期待が高まっている中で、肝心の政治がそれにほとんど答えられていない。そんな中で、一種の清涼剤的な役割を本作が果たしていることが現在の快調な興行収入につながっているのかもしれない。事実、法人税を少し上げれば消費税を下げられるのではないかという黒田の無邪気な疑問は、まさにれいわ新撰組の主張そのものである。こうした現実へのうっ憤を、本作はある程度晴らしてくれるのである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20191002010926j:plain


 

ネガティブ・サイド

英語で ”all persons fictitious” disclaimer と呼ばれる注意事項がある。日本語では「この物語はフィクションで登場する人物・団体・出来事等は架空であり実在のものとは関係ありません」というアレである。本作は開始早々に「この物語はフィクションで登場する人物・団体・出来事等は架空ですが、類似のものがあるとすれば、それはたまたまです」と宣言する。こちらは期待に胸を躍らせて『 新聞記者 』のパロディもしくはコメディのような現政権批判が見られるのかと期待したが、不発だった。念のために言っておくが、Jovianは自民党が嫌いなわけではなく、権力全般が嫌いなのである。特に権力を正しく使わない人間が嫌いである。

 

Back on track. 「総理の奥さんになれば、何でもできるんですねえ」という黒田の台詞は、当然のことながらアッキード事件を指しているわけだが、三谷幸喜はもっともっと現実の政治を面白おかしくパロディにできるはずだし、そうすべきだった。K2プロジェクトというのも、正直なところ期待外れ。もっと国立競技場だとか、五輪絡みのアホな建設プロジェクトをパロって、現実を鋭く抉りながらも、笑いに昇華できたはずだ。

 

全体的に役者は良い芝居をしているが、一部、ディーン・フジオカの台詞はアフレコになっていた?唇の動きと発せられる言葉が一致しないように見えるシーンが序盤にあった。確かにロングのショットを多用していて、ひとつNGがあれば最初から全てやり直しという、非常に難しい撮影現場であったと思うが、もしもアフレコするのであれば、もっとリップシンクに厳密になってもらいたいと思う。『 空飛ぶタイヤ 』でフジオカを指して、スーツ以外の衣装はまだ着こなせないと評したが、逆に言えばスーツは着こなせているのだ。

 

総評

中学生にはちょっとアレな描写もあるが、高校生ぐらいからならOKだろう。政治とは何か。誰のために政治が行われるのか。もちろん、気に入らない政治家に石を投げつけるのは論外であるが、大して毒でも刃でもない言葉を浴びせるだけで警察に排除されてしまうのが昨今の日本なのである。政治ネタを笑うと共に、政治に対する意識をもう一度高めるためにも、本作を見て大いに笑い、そして政治に対する目を厳しく持とうではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I don’t recall.

 

ドナルド・トランプ米大統領の選挙戦でロシア側と接触したとされる人物が、この台詞を連発したことは記憶に新しい。rememberという動詞を使いたくなってしまうが、覚えているものをそのまま思い出せるならremember、頑張って頭の中をあれこれ探って思い起こす時にはrecallを使うべし。車に欠陥が見つかればリコールされる、というアナロジーで理解しよう。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, コメディ, ディーン・フジオカ, 中井貴一, 吉田羊, 日本, 監督:三谷幸喜, 石田ゆり子, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 記憶にございません! 』 -毒は少なめの政治コメディ-

『 ブラインド 』 -韓流サスペンスの秀作-

Posted on 2019年9月30日 by cool-jupiter

ブラインド 75点
2019年9月25日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ハヌル
監督:アン・サンフン

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『 見えない目撃者 』は文句なしに逸品であった。リメイクとは原作が面白いから作られるわけで、ならば本作の面白さは観る前から保証されていたとも言える。事実、日本版とはかなり異なるが、どちらも面白さを保っている。

 

あらすじ

 

警察学校を卒業したミン・スア(キム・ハヌル)は、孤児院で育った弟的存在のドンチョルを交通事故で死なせてしまい、自身も失明してしまう。それから3年。ある時、乗り込んだタクシーが人身事故を起こしてしまうのに遭遇。だが運転手は犬をはねたと言うばかり。追及するスアを置いて、運転手は逃走する。スアは警察に事件を報告するも、警察はなかなかまともに取り合わず・・・

 

ポジティブ・サイド

日本版とは異なり、こちらは最初から犯人が分かっている。それによって生み出されるスリルとサスペンスも上質である。狂信者ではなくサイコパス。殺すことに外在的な理由は不要。そして暴力性も日本版の犯人よりも上。怖さもこちらが上である。一般論だが、バイオレンスにおいては韓国映画は邦画の上を行っている。

 

また主役のスアの描写も素晴らしい。聴覚だけではなく嗅覚や触覚もフルに使って周囲の情報を手に入れ、分析し、自分のものにする。その説明的な描写が説明的でありすぎず、かといって些細でもありすぎず、ちょうど良い塩梅である。そして触覚。盲導犬のスルギとの触れ合いがふんだんに描写され、彼女の第一のパートナーはスルギであるということがよくよく伝わってくる。日本版では母親と一緒に暮らしているなつめが、母親よりもパムを気にかけてしまうところに少し違和感を覚えてしまったが、オリジナルはそこのところをよく分かっている。

 

クライマックスの暗闇の中での逃走劇と反撃も素晴らしい。目が見えないというハンディキャップをアドバンテージに変えてしまった秀作に『 ドント・ブリーズ 』があるが、スアの嗅覚が冴え渡るシーンに息を飲みつつもニヤリ。日本版も生姜焼きを当てるくらいなら、なつめの五感を活かした演出をもっと設けるべきだった。最後の対決の舞台が孤児院であることに意味があるという点では、オリジナルの勝ち。スアが犯人を倒すシークエンスのサスペンスは日本版の勝ちか。全体的には甲乙つけがたい出来である。

 

ネガティブ・サイド

目撃者の少年ギソブが犯人に狙われ、襲われてしまったところから捜査とスアの警護に加わる流れがやや説得力に欠ける。未成年の少年の無鉄砲さと、警察官に対してうっすらと抱いていた信頼と正義への期待、そういったものがあまり見せられないままに、ギソブが巻き込まれていく描写が弱い。ギソブの友達の存在はむしろ不要で、一人さびしい少年の設定の方がよかった。

 

犯人の設定にも少し不満が残る。産婦人科医で堕胎手術の専門家ということだが、普通の外科医で良かったのでは?またこの犯人がギソブを殺さずにおく理由も見当たらない。刑事を刺した後には余裕綽々デ身だしなみをチェックしていたのに、ギソブに関してはそうはならなかった。これはご都合主義だろう。また言及する順番が前後したが、刑事の死に様にも不満が残る。この点では日本版リメイクの圧勝である。

 

総評

『 見えない目撃者 』のクオリティの高さから、本作にも再び注目が集まるだろう。どちらにも良さがあり、どちらにも弱点があるが、それは個人の好みによってポジティブにもネガティブにもなりうる。韓流映画のバイオレンスが苦手だという人を除けば、本作はカジュアルな映画ファンにもハードコアな映画ファンにもお勧めできる逸品である。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

アラッソ

 

色々と韓流を見ていると、同じフレーズが同じような場面で使われていることに気づく。それがこの「アラッソ」である。意味は「分かった」である。外国語学習をしていて、自分は初級の殻を破りつつある、あるいは破ったと言える人は、まず辞書を脇に置くべし。そして、読む、あるいは聞くことに集中して、何度も何度も現れてくる表現の意味を文脈から類推しよう。Jovianの指導経験から、すぐに辞書を引く人は伸びない、ということが言える。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, キム・ハヌル, サスペンス, 監督:アン・サンフン, 配給会社:ブラウニー, 韓国Leave a Comment on 『 ブラインド 』 -韓流サスペンスの秀作-

『 ピクセル 』 -レトロゲーマーのノスタルジー映画 -

Posted on 2019年9月29日 by cool-jupiter

ピクセル 65点
2019年9月23日 レンタルBlu-rayにて鑑賞
出演:アダム・サンドラー ミシェル・モナハン ピーター・ディンクレイジ
監督:クリス・コロンバス

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カーラ・デルヴィーニュとアシュリー・ベンソンの交際1年のニュースに、彼の国の自由さを感じた。Pretty Little Liarsの主要キャストのその後を追いかけようと、『 トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 』に続いて、トローヤン・ベリサリオの『 マーターズ 』を探しているも、クソ映画との評判のせいか見つからず。ならば、劇場で観たこちらを最鑑賞。

 

あらすじ 

サム(アダム・サンドラー)はゲームの天才少年だった。長じてもゲームに興じ、妻に逃げられた冴えない中年のサムは、ある時、ホワイトハウスに召集される。かつて宇宙に送られたメッセージに含まれたゲーム映像が宣戦布告と受け取られ、宇宙人がゲームの形式で地球を攻撃してきたのだ。サムたちはこの危機をクリアできるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

ドンキーコングやパックマンが隆盛を極めた時期とJovianが小学生になる、つまりゲームをプレーできるようになる時期は微妙にずれていた。が、ここに登場するゲームはどれもこれも懐かしいものばかりである。特にスペースインベーダーは親父と銭湯に行った時に、よくプレーさせてもらったし、百円玉を山と積んだオッサンのプレーを傍で眺めていたこともある。古き良き時代という言葉は好きではないが、ノスタルジックな気持ちにさせてくる映画であることは間違いない。特にアラフォーには刺さる作品であろう。

 

本作は子どもであり続けることと大人になることの両方が追求される、ユニークな作品でもある。主人公のサムは子どもの頃から大好きだったゲームに大人になっても興じているが、彼は世界大会の決勝で敗れたことが、抜けない棘のように心に刺さったままなのだ。その棘が抜ける瞬間こそが作品にとってもサムというキャラクターの成長にとってもハイライトなのである。一個人の内面の変化が世界の危機を救う(または引き起こす)というのは、『 新世紀エヴァンゲリオン 』に象徴されるように、オタクの好物テーマなのである。そのことをクリス・コロンバス監督はよく理解している。オタクの好きなレトロゲームをふんだんに使い、リアルに再現しているから面白いのではない。オタクが苦手とする心の成長をドラマチックに描いているから面白いのである。

 

だからといって、オタクの生態を美化しているわけでもない。特にサムの友人ラドローによる米軍精鋭への pep talk の脱線ぶりはたくまざるユーモアを生み出している。『 ハクソー・リッジ 』ではヴィンス・ヴォーンが恐ろしくも面白おかしい鬼軍曹を好演したが、あちらは毒の効いたユーモア。こちらはコミュ障の哀れさとみじめさが笑える形で爆発する。笑ってはいけないはずなのに、笑ってしまう。

 

もちろん、ロマンスもあるので安心してほしい。ピーター・ディンクレイジの趣味はちょっと理解できないが、ラドローの趣味は理解できる。もちろん、逆の意見もあるだろう。大切なことは、「愛」の形の多様性を認めることだ。そんな教訓も得られるエンタメ作品である。

 

ネガティブ・サイド

地球人は、やはり宇宙人による侵略を受けないと一つにまとまることができない生物なのだろうか。これは『 インディペンデンス・デイ 』以来、いやそれ以前から、ずっと立てられ続け、そして答えを出せていない問いである。ID4から幾星霜、我々の間の分断は進むばかりである。日陰者たちが活躍する物語には胸がスカッとするものの、現実の人間社会の問題は何一つ解決しないという寂しさも残る。最後に残るハイブリッドは素晴らしいと思うが、アダム・サンドラーとミシェル・モナハンのロマンスも描いて欲しかったと思う。

 

街中にピクセルが放たれた時こそ、米軍兵士が活躍する場で、そこにスペクタクルがあるべきだったと思う。なぜなら、屈強なソルジャーたちを大活躍させながらも、やっぱり最後はアーケイダーズでないと手に負えないという流れが欲しかったからだ。イギリスの対センチピードでそうなったが、あれはゲームのルールを軍人が理解できていなかったからで、ルール関係なしの市街戦なら、米軍兵士の独壇場だったはず。そこで彼らを大活躍させ、しかし、最後はやはりレトロゲームでないと決着がつけられない、という流れの方がもっとノレたと思うのだが。

 

総評

二度目の鑑賞だが、フツーに面白い。ただし、あくまでフツーの面白さであって、それ以上ではないので注意。今の若い世代では何のことやら分からない描写もあるだろう。個人的には、中学生ぐらいの頃だったか、『 スーパーマリオクラブ 』で日米のマリオカートのチャンピオン同士のマッチレースで、全米王者(子ども)が日本王者(子ども)を圧倒したのを思い出した。ゲームでもやはりアメリカは王国なのである。だからといって日本のゲーマーが劣るわけではない。かつてゲーマーだった少年少女であれば、レンタルや配信で一度はチェックされたし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Did I do good?

 

「俺は上手くやったかな?」 goodは基本的に形容詞なので、文法的には少々おかしい。しかしそんな事を気にしていては、外国語の運用能力など身につかない。言語学習は基本的にネイティブスピーカーの真似をすることである。これと同じような台詞は『 ベイビー・ドライバー 』でも聞こえる。ジョン・ハムがアンセル・エルゴートに“You did good, kid.”と言う台詞がそれである。機会を見て、一度使えば身に着く簡単フレーズだろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アダム・サンドラー, アメリカ, コメディ, ピーター・ディンクレイジ, ミシェル・モナハン, 監督:クリス・コロンバス, 配給会社:ソニー・ピクチャーズエンターテインメントLeave a Comment on 『 ピクセル 』 -レトロゲーマーのノスタルジー映画 -

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