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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 映画

『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

Posted on 2018年9月21日2020年2月14日 by cool-jupiter

幼な子われらに生まれ 70点
2018年9月18日 レンタルDVD鑑賞
出演:浅野忠信 田中麗奈 南沙良 宮藤官九郎 寺島しのぶ
監督:三島有紀子

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180921024132j:plain

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』で鮮烈な印象を銀幕に残した南沙良の映画デビュー作ということで近所のTSUTAYAで借りてきたが、これはなかなかの掘り出し物である。原作は重松清の同名小説だが、そちらの出版は1996年というから20年以上前である。離婚やDVが格段に増えた現在では、本作のような家族構成はさほど珍しいものではなくなった。だが、今日の日本社会の在りようを透徹した目で予見していた重松清の想像力と構想力、そんな彼の作品を現代にこそ映像化する価値があると確信した三島有紀子の炯眼を称えたい。

大企業の係長として順調に40代を送る信(浅野忠信)は子持ちのバツイチ。妻の奈苗(田中麗奈)もバツイチ子持ち。再婚同士で、奈苗の連れ子である2人の娘、薫(南沙良)と恵理子(新井美羽)とともに府中の新興住宅地に暮らしていた。元々、信には心を開かなかった薫が、早苗の妊娠を機にさらに態度を硬化。信を指して、パパではない、他人だと言い、本当の父との再会を望むようになる。が、実父の沢田(工藤官九郎)はDV男であった。だんだんと薫の扱いに手を焼き始めた信は、薫を沢田に引き合わせようとし、さらには堕胎と離婚までも望むようになる・・・

これは、特に男性サラリーマンにとって、非常に身につまされる話である。信自身の言葉を借りれば、「ツギハギ家族」の物語だからである。家族の在り方は時代や地域と共に変わっていくのが必然であるが、それでも我々は家族というものに大いなる幻想を見るし、また見出したがってもいる。こうした家族の形態を別の面から映し出した秀作に『万引き家族』がある。家族というものを機能的な面から切り取りながら、大人の情緒や心理が時に一方通行になりがちであるということを鮮やかに残酷に描き出した傑作である。本作の主題はどうか。血のつながりのある子どもと、血のつながらない子ども、両方を同時に育てられるかということだ。そして、その奥底にあるのは、家族としてのまとまりは血に依るのか、情に依るのかという命題で、さらには機能に依るのかという側面も垣間見える。

主人公の信は、上司の課長の評するところによると、

「有給を全部使う」

「休日出勤は断る」

「飲み会は一次終わりで退散する」 

「子どもを遊園地に連れていく」

「子どもをお風呂に入れてやる」

という、現代の言葉で評せば、まともに父親業に精を出す男ということになろうか。育メンという言葉は当てはまらないだろう。非常に批判を受けやすく、誤解を与えやすい概念である以上に、信は最も手間のかかる時期に二人の娘の面倒は看ていないからだ。そんな信に上司は、

「仕事に打ち込む姿を見せてやるのが子育てなんじゃないのか」

と諭すように言う。これも一つの識見であろう。特に平成も終わりになんなんとするこのご時世、どういうわけか昭和的な価値観のかなりの部分がゾンビのごとく生きており、そうした価値観は、一部の組織や共同体では連綿と受け継がれているようである。信の勤める会社はまさにそうしたところで、信はあえなく倉庫送りとなり、ピッキング業務に従事させられる。この辺りから、信の家族内の亀裂は大きくなり始める。同時に、信の前妻(寺島しのぶ)の夫が末期がんで死の間近にあることも知る。そのことを知らされる信の反応は、弱みを見せる女性に対するものとしては最低最悪の部類に入る。よく知られているように、男は基本的に論理というラベルで記憶をタグ付けし、女は基本的に感情というラベルで記憶をタグ付けしている。夫婦喧嘩でこの特徴はてきめんに現れる。女性の言い分はしばしば、「だいたいあなたはいつもそうなのよ。だから○年前のあの時も~~~」という形を取る。男性には理解できない。すでに終わった事柄で論理的につながりのある事例ではないからだ。しかし、怒りという感情が記憶のタグに書き込まれているとしたら、過去に怒りを感じたエピソードが次々に想起されてくるのは当たり前のことで、信はここを前妻に徹底的に責められる。男性視聴者は心して観るように。恐ろしいのは、こうした女性の特徴が小学校6年生の薫にも既に見られることである。「私、なんかこの家、嫌だ」という薫に、「何故だ」と問いかける信。これでは平行線をたどるのも当たり前である。その信が、最終盤では劇的な変化を遂げる場面がある。詳しくは観てもらう他ないが、年頃の娘の扱いに手を焼いているという男性は、本作から学ぶことは多いはずだ。娘や妻に話しかけるときは、論理的な答えを求めてはならないし、論理的な答えを与えてもいけない。

「妊娠中毒のリスクがあるんだって」

という奈苗の言葉に、

「妊娠しているから中毒になるんだ。堕ろせば中毒にはならない」

と信が返す一幕があるが、これなどは愚の骨頂としか思えない返答だ。どう思った?どう感じた?そうか、そう感じたのか、という寄り添いの姿勢を見せることが肝要であるのに、この時の信は限界まで追い詰められていて、そんな余裕がなかった。我々はこれを反面教師としなければならない。

ありうべき父親像については、クドカン演じるDV男が驚くべきというか、恐るべき変貌を見せる。また、信の実の娘もまた、それ以上の変貌を見せる。詳しくは書けないが、家族が家族であるためには血のつながりは決定的に重要なものではないと本作は力強く断言する。それにより初めて信は薫との和解の途に就くことができた。道は険しいが、確かにその道を歩き始めた。そこに新しい命が生まれてくる。その命を守ることで、家族は家族になれる。そんな夢とも幻想ともつかないビジョンを我々は抱くことができる。何ともいえない浮遊感のようなものが本作の特徴である。明晰夢を見せられているような感覚とでも言おうか。

本作を鑑賞する時には、ぜひカメラワークにも注目してほしい。家族間の不和が増大していくシーンではカメラオペレーターの手ぶれが加わっており、まるで我々自身がその場に傍観者として存在しているかのような感覚を味わうことができる。そうではないシーンは定点カメラ、固定カメラによる撮影が行われている。そして浅野忠信の笑顔と不安と怒りとを綯い交ぜにしたような表情を味わえるだけでも美味しいのであるが、そこに南沙良の本能的、直観的な演技も堪能できるという一粒で二度おいしい話である。物語としても、映像芸術としても、非常に秀逸な作品である。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, 南沙良, 宮藤官九郎, 日本, 浅野忠信, 田中麗奈, 監督:三島有紀子, 配給会社:ファントム・フィルムLeave a Comment on 『 幼な子われらに生まれ 』 -家族の静かな崩壊と再構築への希望の灯-

『 アントマン&ワスプ 』 -小市民ヒーロー奮闘記-

Posted on 2018年9月19日2020年2月14日 by cool-jupiter

アントマン&ワスプ  65点
2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ポール・ラッド エヴァンジェリン・リリー マイケル・ダグラス ウォルトン・ゴギンズ ボビー・カナベイル ハナ・ジョン=カーメン ミシェル・ファイファー ローレンス・フィッシュバーン
監督:ペイトン・リード

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  • 『アントマン』のプロットに関する記述あり

これは秀逸な作品である。前作『アントマン』では、小さくなることのメリットと蟻の大群を操ることのポテンシャルを我々に見せてくれたが、今作はそれらの地平をさらに押し広げた。前作は、小さいアントマンに合わせて相手も小さくなったが、今作では等身大の人間たち、さらには「ゴースト」を相手に戦いを繰り広げ、量子の領域にもダイブする。盛りだくさんである。製作者のサービス精神を感じる。ただ、ちょっとばかりそのサービス精神が旺盛すぎたかもしれないが。

前作のラストでスコット(ポール・ラッド)とホープ(エヴァンジェリン・リリー)は熱い抱擁とキスを交わしたわけだが、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でキャップ側についてアイアンマン達と闘うということでホープは激怒。もともとアントマンの技術をトニー・スタークにだけは絶対に渡したくないハンク(マイケル・ダグラス)とホープからすれば、スコットのシビル・ウォーへの助太刀参戦は許しがたい背信行為であった。色々とあった末にスコットはFBIの監視下に置かれ期限付きの自宅軟禁。あと3日で解放という時に、量子領域からの奇妙なメッセージを受け取る。そのことをハンクに知らせたスコットは、ホープの手引きで新たなる戦いにその身を投じることになる。

今回のアントマンは、ゴースト、裏社会の武器商人と闘いながら、ハンク・ピム博士の量子世界への初代ワスプ(ミシェル・ファイファー)救出ミッションまでと、てんこ盛りの内容である。目を引くのは、やはりアクションシーンである。前作でもそうだったが、小さくなることのポテンシャルには計り知れないものがある。人間相手の近接戦闘で一方的に相手の攻撃を避けながら、こちらは殴りたい放題というのは、単純に見ていて爽快だし痛快だ。小さくなる、元に戻る、をコンマ数秒で繰り返しながら敵を叩きのめしていくのは、これまでのスーパーヒーローにはなかった戦い方で、この能力を使ってのさらなるアクションの飛躍が今後に期待される。またアントマンのアントマンたる所以、蟻の大群の統率力もパワーアップ。前作レビューで、蟻という生物の持つポテンシャルについてものしたが、本作では蟻さんたちが大暴れしてくれる。ゴーストの量子ゆらぎ状態も、SFのジャンルでは真新しいものではないが、それを納得できるビジュアルに落とし込み、動かすというのが本作のチャレンジである。そして、それはある程度までは成功を収めた。最後に、ハンクがダイブする量子領域では、おそらくだが「アベンジャーズ」の今後の展開への重大な示唆が与えられていたように思う。これらはプラスの面として大いに評価できる。

一方で、これらの要素がネガティブに作用してしまっていることも否めない。例えば、前作ではイエロージャケットがあったことで、アントマンの戦いにもスリルが生まれた。今作では、しかし、武器商人の一味相手にはそうしたスリルはなかった。当然だ。スリルは、相手が対等かそれ以上でないと生まれない。なので、今回は小さくなったり大きくなったりでメリハリをつけた。が、相手が複数いることでややプロットが複雑になり、アクションは増えてもエンターテインメント的要素は増えなかった。同じく、ゴーストというのは魅力的な存在であったが、せっかくトニー・スタークやブルース・バナー以上の天才、ハンク・ピムがいるのだから、その存在の科学的根拠についてもっと語らせてほしかった。嘘を嘘とわかって楽しめるものが、スーパーヒーロー映画を愛でているのだ。量子トンネルも然りだ。前作でハンクは、アントマン・スーツの技術の根本は、原子間の距離を縮めることだと言っていた。それは原子核と電子の間の距離を縮めるということとほぼ同義のはずである。しかし、量子の領域は、それよりもさらに小さい。アントマンはサブアトミックの領域へと永遠に縮小し続けていくことの矛盾を、似非科学でよいから説明をしてほしかった。また量子世界のビジュアルも少し弱い。『LUCY/ルーシー』のクライマックスのビジュアル以上のイマジネーションを炸裂させなければならなかったが、極めて凡庸なイメージに留まったのが残念でならない。

それでもスコットの一人二役やコソ泥仲間のルイスのマシンガントークやギャグ、鉄拳は健在で、こういった連中と手を組むところがアントマンが正に他のヒーロー連中と一線を画すところであり、魅力なのである。色々と無い物ねだりをしてしまったが、それだけ面白い作品であるし、注文をつけたくなるポテンシャルを秘めたフランチャイズなのである。そうそう、劇場でも注意されるが、絶対にエンドクレジットの終わりまで席を立ってはならない。劇場鑑賞前にトイレは必ず済ませ、鑑賞中の水分補給はそこそこに留めておくこと。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, エヴァンゲリン・リリー, ポール・ラッド, マイケル・ダグラス, 監督:ペイトン・リード, 配給会社・ディズニーLeave a Comment on 『 アントマン&ワスプ 』 -小市民ヒーロー奮闘記-

『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

Posted on 2018年9月18日2020年2月14日 by cool-jupiter

響 -HIBIKI-  50点
2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:平手友梨奈 北川景子 小栗旬 アヤカ・ウィルソン 高嶋政伸 柳楽優弥 野間口徹 吉田栄作
監督:月川翔

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編集者の花井ふみ(北川景子)は、新人賞への応募作品に衝撃を受ける。著者は鮎喰響(平手友梨奈)、15歳の女子高生。その文才は、天才という言葉以外では名状しがたいものだった。しかし、響を響きたらしめるのは、その文才よりもむしろ、あまりにも直截すぎる対人関係スキルであった。すなわち、社会性の欠如である。響にとっての人間関係とは、常に個と個のつながり、もしくはせめぎ合いであるようだ。我々はついつい響のエキセントリックな行動の数々、なかんずくその暴力性に目を奪われてしまう。それは時に親友の凛夏(アヤカ・ウィルソン)や編集者のふみにも及び、女と女の仁義なき戦い、平手打ち合戦からピローファイトにまで発展する。その一方で、響は面白い作品を世に送り出す作家には、呼び捨てをしてしまうという社会性の欠如は見られるものの、自ら駆け寄り、無邪気な笑顔で握手を求めるという、年齢相応の行動を見せたりもする。それとは逆に、大御所であっても、名作を生み出す力を無くして久しい作家には敬意を表することはない。むしろ、ハイキックをお見舞いする始末である。

我々は彼女の行動に社会性の欠如をこれでもかと見出すが、その一方で社会性という言葉の持つ空虚さを響に見せつけられもする。その最たるものが、記者会見での謝罪要求を突っぱねるところだろう。暴行を加えた相手に個人的に謝り、相手もその謝罪を容れたのだから、これ以上誰に謝る必要があるのか?という理屈だ。蓋し正論であろう。現実の世界でも、芸能人や著名人、社会的に一定以上の地位にある人間が不祥事を起こした時には、謝罪のための記者会見がセッティングされる。日本人は根本的に謝罪が好きなのだ。そうした謝罪をフルに楽しむための映画には阿部サダヲ主演の『謝罪の王様』が挙げられる。もしくは謝罪会見のお手本中のお手本としては某大学のアメリカンフットボール部部員の例が挙げられよう。

Back to the topic. 社会性と我々が言う時、我々は結局、自分自身の意見を大多数の顔も名前も知らない他者たちに仮託しているに過ぎないことを、響は明らかにしてしまう。「○○○と感じる人もいると思いますが」、「中には□□□という意見もあるようですが」。これらは記者会見だけではなく、ネットの論説記事などでよく見られるセンテンスの類型である。≪editorial we≫と呼ばれる手法である。野間口徹演じる週刊誌記者に対して、響は相手の息子をある意味で人質に取るかのような発言をし、相手から譲歩を引き出す。人間は、社会的な肩書をひっぺがして、徹底的に個の部分を突いてしまえば、実は非常に弱く脆い生き物である。このことは小林よしのりがその著『ゴーマニズム宣言』において、川田龍平氏と厚労省の官僚の面談の場で、あまりにも非人間的な対応に業を煮やした小林は「あなたの子どもに、『お父さんは人殺しなんだよ』と伝えようか」と迫る。その時に初めて、官僚が人間の顔を見せたという一幕が描かれていた。響も記者から記者の皮を剥ぎ取り、人の親たる個の姿を引きずりだした。そうすることで初めて、自分も誰かの子であると相手に思い起こさせたわけだ。我々は人間関係において、相手という人間部分を見ず、相手の社会的な地位や属性にばかり目を向けたがる。大御所作家の祖父江秋人(吉田栄作)の娘の凛夏をデビューさせるところなど、まさにそうだ。大作家の娘にして現役女子高生という属性が話題を呼びやすいだろうという打算がそこにまず働いている。

異形、異能、異端。我々は天才あるいは社会の規範に収まりきらない才能をしばしば異類もしくは異種として扱う。天才だから突き抜けた存在になれるわけではない。逆で、我々は突き抜けた存在にしか天才性を見出せない。なぜなら、我々が金科玉条のごとく敬い奉る社会的属性を、天才はそもそも纏わないから。将棋の世界は天才だらけだが、名棋士列伝というのは、そのまま変人・変態列伝であったりもする。そのことは加藤一二三先生を見ればお分かり頂けよう。これは日本だけに当てはまる話ではなく、チェスのグランドマスターを列伝体で語るならば、それもそのまま西洋文明世界の奇人変人列伝となる。特に、ボビー・フィッシャーは『完全なるチェックメイト』で映画化されたが、彼の奇人変人狂人っぷりは伝記『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』に詳しい。

Back on track. 本作では本棚が重要なモチーフになっている。あるキャラクターが本棚の本を、ある法則でもって分類整理しているのだ。そのことを貴方はどう見るだろうか。本の面白さとその著者の人格は統合して考えるべきだろうか。それとも分けて考えるべきだろうか。気に入らないことがあればすぐに暴力に訴える女子高生の部屋に、年齢・性別相応のかわいいぬいぐるみがあることを、貴方はどう受け止めるべきなのだろうか。我々の思考は危険な二分法の陥穽にはまりがちだ。AはAであって、非Aではない。そう感じる我々に絶妙のタイミングで「動物園でキリンをバックに写真撮影するシーン」が訪れる。ここで我々は響は、その異能性にも関わらず、普通の女の子と何ら変わることのない属性を有していることを知り、愕然とする。天才とは突き抜けた存在ではなく、我々が勝手に敬して遠ざける対象であることを知るからである。思い出してほしい。響は、たとえそれがキックであれ握手であれ、舌鋒鋭い批評であれ友情の言葉であれ、常に自分から他者との関係の構築もしくは調節に動き出していた。社会性の欠如は、天才の側ではなく、天才に接してしまった凡人の中に生じるのだ。非常に回りくどいやり方ではあるものの、確かに我々は現実世界でもそのように振る舞っている。

本作の欠点をいくつか挙げさせてもらえれば、まず第一にキャラクターの弱さである。特に幼馴染っぽい男と文芸部に再入部してくれる不良は、マネキンのごとく、ただ突っ立っているだけのことが多かった。また、小栗旬のキャラクターが初めて登場するシーンで、PCで小説を執筆するシーンだが、あれは本当に文字を打っていたのか?それとも適当にキーボードをがちゃがちゃやっていただけなのだろうか?というのも、右手の小指がEnterや句点、読点の位置に全く来なかったように見えたからだ。もちろん、そういう可能性もある。小説家の奥泉光は、小説修業時代に、始めから終わりまでただの一文で書き切る小説や、地の分だけ、逆に会話文だけで完結する小説など、種々の制約を自らに課して物書きに励んだと言う。小栗も、そうした手法を用いていたのかもしれないが・・・ 最後に、直木賞や芥川賞に、現代それほどの価値が認められているだろうか?という疑問がある。又吉直樹の『火花』はそれなりに面白い小説および映画であったが、どう見ても私小説の域を超えていない。いや、ジャンル分けはどうでもよい。現代という、食べログや映画.comといった既存の権威(一部の評論家など)を破壊して、一般大衆の個々の意見を丁寧に拾い上げるシステムが構築され、一定の力を得ているようになった時代に、賞でもって作品の格付けをしようとすることそのものが天才と凡人を分ける思考そのものではないのだろうか。そして、今やネット上の民主的なシステムですら脱構築されようとしているのではないだろうか。そうした時代にあって、天才と向き合うことをテーマにした本作が発するメッセージは決して強いとは言えないだろう。本作を観ようかどうか迷っている向きは、こんなブログ記事の言うことなどあてにせず、「文句を言うなら観てからに」するように(台詞うろ覚え)。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, サスペンス, 北川景子, 小栗旬, 平手友梨奈, 日本, 監督:月川翔, 配給会社:東宝Leave a Comment on 『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

『 プーと大人になった僕 』 -Let’s be busy doing nothing with nothing in particular to do!-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

プーと大人になった僕 65点
2018年9月16日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ユアン・マクレガー ヘイリー・アトウェル ブロンテ・カーマイケル マーク・ゲイティス ジム・カミングス
監督:マーク・フォースター

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原題は “Christopher Robin”、クリストファー・ロビンである。人名をそのまま映画のタイトルにするのは英語圏では割とよくある。近年では『女神の見えざる手』が “Miss Sloane” であったり、有名どころでは『エリン・ブロコビッチ』が “Erin Brockovich” と原題そのままであったり、対して『ザ・エージェント』は原題は ”Jerry Maguire” だったりする。邦画では、たとえば岡田准一の『天地明察』を≪渋川春海≫としてもあまりピンと来ないだろう。しかし、『杉原千畝 スギハラチウネ』は弄くりようがないし、その意義もないという意味で素晴らしいタイトルであると言える。クリストファー・ロビンは、漫画、アニメーション、児童文学の分野では、おそらくチャーリー・ブラウンには劣るものの、最も知名度のあるキャラクターであり人物である。日本で言えば、野比のび太、もしくは、ちびまる子ちゃんに相当するだろうか。

あらすじは不要だろう。邦題がすべてを物語っている。大人になるとはどういうことか。近代以降の哲学や社会学は、子ども=性と労働から疎外されている存在、と定義することが多く、Jovianもこの説に賛成である。年齢だけ重ねても、労働をしなければ大人ではないし、性的に成熟および活発でなければ、それも大人とは言えないだろう。しかし、そこまで小難しく考える必要はない。ちょうどぴったりのCMが現在流れている。それはイオンウォーターのCMで、そこでの安藤サクラの言葉が奮っている。「大人になるのは簡単だ。周りに合わせればいいんだから。逆に大人の世界で子どものままでい続ける方がよっぽど大変だ」と鋭く喝破する。

クリストファー(ユアン・マクレガー)も、幼年期の終わりを迎え、寄宿学校に入学し、家族と離れ、家族を亡くし、年齢を重ねて妻を持ち、子を為し、家族を作り、家庭を守るようになった。しかし、子どもらしさを失ってしまった。子どもらしさを定義することは難しい。しかし、作中のプー(ジム・カミングス)の言葉を借りるなら、「僕は風船が必要じゃないよ。ただ欲しいんだ。幸せになれるから」ということに尽きるのかもしれない。つまり、必要性を第一とするのではなく、自然な欲求に身を任せて生きるということだ。個々人が欲求通りに生きれば社会が成り立たないではないかと突っ込みを入れられそうだが、考えるべきは「幸せ」である。アリストテレスは「幸福」=「人間がそれだけのために生きられて、なおかつ他者の助けを必要とせずに達成できるもの」と説明した。ハイデガーは自分という現存在を「気分」から捉え直した。つまり、良い気分である時には、自分はなりたい自分になれているし、悪い気分の時には自分はあるべき自分から遠ざかっている、というわけだ。もしも貴方が人をぶん殴ったり、暴言を浴びせたりすることで良い気分になるとすれば、それが貴方という人間の幸福なのだろう。もしも貴方が大金を手にするだけで幸せになれるのであれば、それも貴方という人間の幸福だ。しかし、もしも貴方が稼いだ金で家族にプレゼントを買ってあげることに幸せを感じる人間なら?稼いだ金で家族を旅行に連れていくことに幸せを感じる人間なら?にもかかわらず、仕事(というよりも上司)が貴方の幸せの邪魔をするなら?本作はそういう見方もできるし、むしろ映画館の座席のそれなりの数を埋めていた壮年~老年の世代の映画ファンには、上のような見方をした人が相当数いるのではないかと推察する。

いくつかの弱点を挙げるとすれば、戦争が翳を落とすロンドンというイメージが少し強かった。『ワンダーウーマン』でも特に顕著だったが、ロンドンが舞台となると何故これほど陰鬱なイメージが投影されるのだろうか。どこかで晴れ間が広がるシーンや、明るい陽の光をいっぱいに浴びるシーンがあれば、観る側の心にも光がもっと差し込んだことだろうに、と思われる。その点が最も悔やまれるだろうか。それでも非常によくできた物語であるし、洋の東西を問わず、大人の心に心地よく刺さる映画に仕上がっている。クリストファー・ロビン?プー?イーヨー?ピグレット?そういえば、ディズニー・ツムツムにそんなキャラがいたなあ、ぐらいの認識しかない人でも楽しめるし、そうした大人こそ観るべきであろう。

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, ヒューマンドラマ, ユアン・マクレガー, 監督:マーク・フォースター, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 プーと大人になった僕 』 -Let’s be busy doing nothing with nothing in particular to do!-

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 -心の傷を抱えて生きていく、弱さと強さの物語-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

マンチェスター・バイ・ザ・シー 70点
2018年9月14日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ケイシー・アフレック ミシェル・ウィリアムズ カイル・チャンドラー ルーカス・ヘッジズ マシュー・ブロデリック
監督:ケネス・ロナーガン

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どうか最初の20分だけで、本作を見切らないでほしい。主人公が、仕事には真面目でも陰気でいけ好かない男で、酒場で酔っているわけでもないのに見ず知らずの男たちに喧嘩を吹っ掛けるような奴でも、物語の進行がやたらとスローでも、鑑賞を続けて欲しい。

ボストンで何でも屋として働くリー(ケイシー・アフレック)は兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死によって、望まぬ形で甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人となる。故郷のマンチェスターに帰ってきたリーは、過去と現在の狭間に囚われた自分と、孤独になった甥との関係に何を見出すのか・・・

本作のテーマは、罪と罰である。といっても、ラスコーリニコフのそれではない。例え法的には罪に問われなくても、罪は罪である。社会が罰してくれないというのであれば、自分で自分を罰し続ける。そうした覚悟を持ち続けることが、貴方にはできるか?本作はそうした強烈な問いを観る者に投げかけてくる。

甥のパトリックはホッケーでラフプレーをし、同級生の女子に二股をかけ、彼女の家でセックスに及ぼうとし、免許も金もないのにボートを自分のものにしようとし、葬儀屋の丁寧なお悔やみの言葉を「毎日言っている定型文だ」と切って捨てる。はっきり言って嫌なガキンチョとして描かれているのだが、そのパトリックが思わぬ形で心の傷の深さを露呈するシーンがある。普通は自室のベッドではらりと涙をこぼすであったり、シャワーを浴びながら嗚咽を漏らすなどの、ありきたりな手=クリシェ=clichéを使うことが考えられるが、本作は全く異なるアプローチを取る。このアナロジーは見事と思わず唸った。

本作は過去と現在を頻繁に行き来する。凡百の作品にみられるような、キャラクターがゆっくりと目を閉じたところで暗転、そこから過去の回想が始まる、などという手法は一切使われない。その代わりに、何の前触れもなく、いきなり過去の回想シーンが挿入される。本作が映画の技法の面で最も優れているのは、実はこういうところである。画面に、「5年前/Five years ago」とスーパーインポーズすれば確実なところを、本作は観客/視聴者を信頼している。我々の見る目に全幅の信頼を置いている。説明が全く無かったとしても、映し出されるシーンが過去なのか、現在なのかをすぐに分かるように配慮してくれているもの(例えば兄のジョーがいる、など)もあるが、そうではないシーンでも即座にこれは過去の回想なのだと分かってしまう。編集の勝利だと言えばそれまでだが、これほどBGMやナレーションの力を使うことなく、映像と役者の存在感をもってして語らしめる作品にはなかなか出会えない。なぜ自分は公開当時、劇場に行かなかったのだろう?思い出せない。

物語の終盤、リーが元妻のランディ(ミシェル・ウィリアムズ)と再会するシーンは、涙腺決壊必定である。それはリーが救われるからではない。リーは赦しを求めておらず、救いも求めておらず、癒しも求めていない。にもかかわらず、不意に相手からそれらを与えられた時、受け入れられなかった。それほど彼の悲しみは深いのだ。凍てつくような風を吹かせるマンチェスターの海に、抗うように飛ぶカモメの群れと、水面にただ一羽佇むように留まるカモメ。その残酷なコントラストが、しかし、美しさを感じさせる。心に傷を持つ人に観て欲しいなどとは思わない。しかし、心に傷を抱える人の死のうとする弱さと、それでも生きていこうとする強さに、観る者の心が揺さぶられるのだけは間違いない。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, B Rank, アメリカ, カイル・チャンドラー, ケイシー・アフレック, ヒューマンドラマ, ミシェル・ウィリアムズ, ルーカス・ヘッジズ, 監督:ケネス・ロナーガン, 配給会社:パルコ, 配給会社:ビターズ・エンドLeave a Comment on 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 -心の傷を抱えて生きていく、弱さと強さの物語-

『 3D彼女 リアルガール 』 -オタク男のビルドゥングスロマン・・・ではない何か-

Posted on 2018年9月17日2020年2月14日 by cool-jupiter

3D彼女 リアルガール 45点
2018年9月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 佐野勇斗 清水尋也 恒松祐里 上白石萌歌 三浦貴大 濱田マリ 竹内力
監督:英勉

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180917034514j:plain

筒井光(佐野勇斗)はアニメをこよなく愛する高校生。統合失調症を疑うレベルで、アニメキャラの声を聞き、対話してしまう。そんな光は、ひょんなことから学園カースト最上位に属する五十嵐色葉(中条あやみ)と付き合うことになる。恋愛経験0の光の運命やいかに・・・

まず、オタクの定義を考えておきたい。漫画、ゲーム、アニメなどのコンテンツにどっぷりとハマる人間=オタク、というのは誤りである。なぜなら、それらのコンテンツの明確な境界線は誰にも引くことができないからだ。ジブリ映画の熱心なファンは通常はオタクとは見なされないが、スター・ウォーズの熱心なファンはかなりの確率でオタクである。特定のコンテンツ内部の線引きはかなりデリケートな問題で、それができれば専門家もしくはオタクであろう。またコンテンツを楽しむ方法も変容してきている。例として、将棋が挙げられる。一昔前までの将棋ファンは、プロの強さを堪能していた。つまり、端的に言えば棋譜を味わっていたわけだ。棋譜を鑑賞するには相応の棋力が必要となるが、今では「見る将」という将棋もしくは棋士を見るだけのファンもかなり多い。というか完全に市民権を得たと言ってもよいだろう。梅田望夫の啓蒙の効果もあるだろう。棋士が昼食や夕食に何を食べるのかで盛り上がるファンも多い。彼ら彼女らの中には将棋ファンもいれば将棋オタクもいる。同じことは野球やサッカーにも当てはまる。様々な人が様々な競技や娯楽を、それを提供する側が意図していなかったような方法で楽しんでいる、というのが今という時代なのだ。一億総オタク化時代とまで言う人もいるが、それはオタクという言葉を現代的な意味で用いるならば正鵠を射た表現であると思う。オタク=なんらかの対象の熱心なファン、というのが現代的なオタク像である。

それでは前時代的なオタクとは何か。その最も忌むべき象徴は宮崎勤であろう。今の10代や20代の中には、全く知らないという者もいるかもしれない。詳しくはググってもらうとして、オタク=社会不適合者、オタク=犯罪者予備軍というイメージは、ほとんどすべてこの男によって形作られたと言っても過言ではない。実際に本作中でも、光はしばしば「引きこもり予備軍」と同級生らから呼ばれる。これも一面では正しい。栗本薫はコミュニケーション不全症候群という言葉でもって極めて簡潔に言い表したが、オタクとは人間以外のものとのコミュニケーションを、人間とのコミュニケーション以上に重視する新人類なのだ。栗本薫は、最後の世代の旧人類にして新人類の理解者であると自らを以て任じていたが、おそらく原作者の那波マオの持つオタクのイメージは、もう少し後の時代のものであると推測する。おそらく漫画『げんしけん』と同時代か、その数年後に形成されたイメージだろう。『げんしけん』の最大の貢献のひとつは、オタクの心理的排外主義を明らかにしたことである。「げんしけん」への移籍を希望する他サークル所属者を、オタクたる笹原や斑目は躊躇し、一般人たる春日部さんはあっさりと受け入れるシーンがそのハイライトだ。本作でも恒松祐里が清水尋也をオタクの輪に呼び込むシーンがあるが、当の光はそこでは積極的にはなれなかった。光は旧時代のオタクでありながら、周囲の環境は新時代、現代になっているところに、本作の弱点が露呈している。

本作の欠点を無理やりまとめるなら、光はオタクとして中途半端な存在でありながらも、オタクの長所はあまり体現できておらず、しかしオタクの短所を具現化してしまっているところであろう。光がいろんな人に分け隔てなく接すると評されるのには違和感しか覚えなかった。なぜならそんなシーンはなかったから。冒頭のおばあさんと猫のシーンは、原作者や脚本、監督は光の心優しさを印象付けるために用意したのかもしれないが、逆効果だ。迷わずおばあさんに駆け寄って、工事現場の人間に大声で救急車を呼ぶように頼む。これがあるべき姿で、学校に遅刻したくないからという理由ですべてを抱え込んで突っ走るのは、心優しいオタクではなく極めて自己中心的なオタクだ。なぜなら社会のルール、規範よりも、自分のルール、規範に忠実だからだ。他者を助けるために、他者に頼る、関わるということを拒否するからだ。親友・伊東からしばしば「リアルに関わるな」という助言をもらうが、これらのキャラクターに感情移入しろと言われても、それは難しい。特に旧時代から現代までのオタク像の変遷を知っている者にとっては。とにかく歯痒くなるからだ。

中条あやみのキャラも弱い。おそらく「もやもや病」の持ち主なのだと思うが、そのことがプロットに有効に作用していない。光を好きになるきっかけはどうでもよい。人は人をとんでもない理由から、または特に大きな理由もなく好きになる。しかし、色葉が光に愛想を尽かしてもおかしくないシーンがあまりにも多すぎる。「つっつんは、なんで私と付き合ってるの?」という質問への光の答えを聞いて、それでも別れないというのは、正直理解ができない。この分野には『電車男』という優れた先行作品がある。であるならば、エルメスが電車男を変えたように、色葉が光を変えていく、または光が色葉を変えていくような、そんなプロットが必要だった。お互いが自然体のままで上手く行くのであれば、その他のキャラはばっさりと切り捨てるぐらいのことはできたはずだ。英勉監督は『トリガール!』ではそれなりに上手くオタクの特徴と魅力を引き出せていたのに、今作はなぜこうも切れが悪くなってしまっているのか。物語のペーシングも悪く、カメラワークにも光るものは無く、キャラクターの魅力も少ないとなると、どうしても辛く点をつけるしかない。キャストはそれなりに知名度も実力もある者がそろっているので、観に行くのであれば、彼ら彼女らを見に行く感覚で劇場に向かえばよいのではないだろうか。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ロマンス, 中条あやみ, 佐野勇斗, 日本, 監督:英勉, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 3D彼女 リアルガール 』 -オタク男のビルドゥングスロマン・・・ではない何か-

『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

判決、ふたつの希望 90点
2018年9月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:アデル・カラム カメル・エル・バシャ リタ・ハーエク クリスティーン・シュウェイリー カミール・サラーメ ディアマンド・アブ・アブード
監督:ジアド・ドゥエイリ

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元・新聞記者の先輩がSocial Media上で絶賛されておられたことにインスパイアされ、鑑賞。魂を持っていかれるかと思うほどの衝撃を受けた。邦画、外国映画を合わせて、間違いなく年間ベストである。ベスト級ではなくベストと断言させていただく。

レバノン人にしてキリスト教徒、右派政党のレバノン軍団の支持者であるトニー・ハンナ(アデル・カラム)は妊娠中の妻シリーン(リタ・ハーエク)と、どこか幸せそうに、どこか不幸せそうに暮らしていた。ある日、トニーはパレスチナ人技術者のヤーセル(カメル・エル・バシャ)との間でちょっとした諍いがあり、「クズ野郎」と罵られる。謝罪を求めるトニーに、新規の仕事を受注していきたい上司の仲介もあり、ヤーセルはトニーの自動車修理工場を訪れるが、その場でトニーから「シャロンに抹殺されていればな!」という暴言を受け、思わず激昂し、トニーの腹にパンチを一発お見舞い、肋骨を折ってしまった。これによりトニーはヤーセルを告訴。裁判は、しかし、いつの間にかトニーの思惑を超えた次元にまで到達してしまう・・・

まず、本作の真価を味わうためには、レバノンとその周囲の政治と軍事と歴史についてある程度の造詣が求められるが、新聞や報道で知る程度の知識でも十分に意味は理解できるはずだ。というよりも、むしろレバノンという国固有の事情を全く知らない方が様々な意味やメッセージを本作から受け取ることが容易になるかもしれない。Jovianが受け取った、本作が発しているメッセージは以下の4つである。

1つには、言葉は時に刃物よりも簡単に人を抉るということである。古代ギリシャのヒポクラテスは「医者には三つの武器がある。第一に言葉、第二に薬草、第三にメスである」と語ったとされる。言葉には人を癒す力が宿るのだ。だとすれば、言葉は人を傷つける力を持つことがあるというのは理の当然であるとも言える。『検察側の罪人』で沖野が松倉に対して非常に脅迫的で威圧的な言動をとるが、あれは一にかかって相手の≪犯罪者≫という属性を責め立てるものであった。では、犯罪者ではなく個人の職業を罵ったら?出身地を罵ったら?性別を罵ったら?年齢を罵ったら?名前を罵ったら?国籍を罵ったら?宗教を罵ったら?政治的な思想信条を罵ったら?これらが時として、フィジカルな暴力よりも人を傷つけることを我々は知っているはずである。「シャロンに抹殺されていればな!」という台詞にあるシャロンが誰のことなのか分からないという人は多いだろう。しかし、ロヒンギャ難民に対して「ミャンマー軍に殺されていればな!」などと言えば、相手がどれほど怒り、悲しみ、混乱し、悶え苦しむかは想像に難くないだろう。他者の全人的な存在を否定し、ごく一部の属性を切り取り、それを理由にその相手の死を望むような言葉が許される道理はない。漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』で真田信繁が「人には触れてはいけない痛みがある。そこに触れれば、後は命のやり取りをするしかなくなる」と喝破するシーンがあったが、トニーがヤーセルに投げつけた侮蔑の言葉は正にこれに当てはまる。

2つには、人間は必ずしも理性的に振る舞うわけではなく、感情や欲望のままに言葉を発し行動を起こしてしまう生き物であるということである。哲学者ニーチェの考察を援用させてもらえれば、人間の理性の奥底には欲望が潜んでおり、我々の思考もよくよく分析してみれば欲望に基づいたものであることが分かる。トニーもある時点までは周囲の声に耳を傾けない、ただの頑固親父でしかなかったが、ある時を境に自分の心に向き合い、自分が求めているのは、争いではなく平和的な関係であることを悟る。しかし、一度口から出してしまった言葉はもはや飲み込めない。言葉では自分の心を表せない。そこで行動で自分の気持ちを表す場面がある。人間は愚かな=非理性的な存在ではあるが、それを認め、乗り越えていくだけの強さも確かにある。勇気を持って自分の素直な心に従えば、過ちを改める機会も訪れるのだ。どこかの島国では政治家がひょいひょいとコメントを撤回するが、それをするのならば行動変容、態度変容も同時に見せて欲しいものである。

3つには、人間は非常に狭い範囲でしか物事を考えられない、ある意味で生得的な欠陥を抱えているということである。あいつはパレスチナ人だ、不法難民だ、不法就労者だ、ムスリムだ、だから暴言の対象にしても良いのだ、という論理がトニーの頭の中で一瞬で成立したことは明明白白だ。もちろん、そのような思考回路が成立するための長い期間や環境があったことも考慮に入れるべきではある。それでも、人間はいとも簡単に他者にレッテルを貼る。Jovian自身も「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉を東京の某企業で幾度も聞いた。人口当たりのクレーム発生件数は、明らかに東京>大阪、関東>関西であったにも関わらず・・・ 人間は、理性ではなく、自分の信じたいものを信じるように出来ている。我々は欲望に突き動かされる、無力で非力な存在にすぎないのか。人間が無意識のうちに育てがちな、そして意識的に拡散させる傾向をもつ、差別的な思考については、山本弘が自身の小説内で、おもにロボットやアンドロイドとの対比で描いてきた。『アイの物語』はその中でも白眉であろう。同様のことは栗本薫も評論やエッセイで、主にオタク趣味・やおい趣味擁護の論を展開する中で行ってきていた。人間はほんの少しの肌の色の違いや目の色、髪の色の違いに敏感で、それだけで容赦なく差別に走る、極端に狭い思考に囚われているのだ。もう一度、「やっぱり大阪人はクレーム多いよ」という言葉に注目しよう。「やっぱり」に着目されたい。考えての台詞ではない。既に自分の中に固定観念が存在し、それにたまたま符合するような事態が出来しただけのことなのである。それがこの「やっぱり」の本質であろう。もちろん、この言葉を肯定的なコンテキストやニュアンスで使うことも十分に可能である。だが、貴方も私も「やっぱり○○○は・・・」という思いを抱く、あるいは言葉に出す時、そこに差別的な感情が根付いていないとは言い切れないだろう。人間の持って生まれた弱さなのだ。人間は、現実をありのままに受け入れるよりも、自分にとって受け入れやすい、自分の中に受け入れる土壌のある現実の一側面だけを消化吸収する傾向があるのだ。

4つには、ジアド・ドゥエイリ監督からの「これはレバノンの現実ではなく、あなたの身の回りで起きている事柄なのですよ」というメッセージである。レバノンの状況や周囲の情勢、その歴史に詳しいという人は日本では少数だろう。では、これをアメリカに例えるなら?『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』ような思わぬアシストが転がり込んできたとはいえ、トランプ政権爆誕のニュースに世界が震撼したのは記憶に新しい。それは、ヒラリーが女性層を完全に敵に回してしまっていたという重大なエラーのせいでもあるのだが、他に大きな要因を挙げるとすれば、オバマ政権時代の反動だ。バラック・オバマという黒人議員が大統領職に登りつめることで、アメリカでマイノリティ(実際はマジョリティに近いが)とされてきた黒人およびその他の人種は、社会正義の実現を期待した。ここでいう社会正義とは、恐ろしく端的に言い切ってしまえば、黒人の白人への優越である。しかし、オバマが目指したのは、全人種の平等と公正であった。これにより、民衆の願望とオバマの政治理念の間に齟齬が生じ、アメリカ分断の端緒となったわけである。トランプの出現によってアメリカは The Divided States of America と揶揄されるようになったわけではない。その前政権から、分断の萌芽はすでにあったのだ。公平性の実現によって、自らの権利や利得が侵害されると人は感じるのだ。本作の呈示するメッセージは現代日本にも見事に当てはまる。一部の日本人は、外国人労働者によって日本人の職と所得が奪われていると感じるらしい。東京都心や関西都市部でも、確かにコンビニの店員さんや飲食チェーン店の店員さんに東北および東南アジアの人たちが増えてきた。しかし、彼ら彼女らが日本人の仕事を奪っているわけではない。逆だ。Jovianの後輩に東京都心でカレー屋とラーメン屋のチェーンを営む男がいるが、正社員にもパートにもアルバイトにも、応募してくるのは外国人だらけだと言う。これは彼だけの感想ではなく、同世代。同地域の小規模ビジネス経営者の共通の悩みであるということだ。日本人がやりたがらない仕事を外国人が補完してくれていると見るべきなのだろう。本作のトニーも、ヤーセルに対する負の感情が抑えきれないのだが、彼を外国人、難民、不法就労者という面ではなく、仕事に対して忠実なプロフェッショナルであるという自身とオーバーラップする側面に気がつかされた時、ヤーセルの視界は一変する。我々は彼我の違いではなく、共通点に目を向けるべきなのだ。究極的には、人間は皆、同じ人間なのだという境地を目指すべきなのだ。皮肉なことに、それをまさに究極の能天気さで実現してしまった映画に『インデペンデンス・デイ』がある。宇宙人の襲来を受けたことで、”We can’t be consumed by our petty differences anymore.”という不都合な真実にウィットモア大統領は気付いたのだ。他者を自分と同じく、生きた血肉を持つ人間として見、そして接する。そうすることが如何に困難で、そして如何に実は容易であるのかを本作は非常にドラマチックに我々に見せてくれる。

本作の素晴らしさは、プロットだけではなく、カメラワークや演技、演出全般にも当てはまる。『赤かぶ検事奮戦記』のような関係性が盛り込まれていたりするが、そのことがドラマの主軸にはならない。むしろ、人間は世代、性別や思想信条によって親子であっても、同胞であっても、あっさりと対立してしまうことをあっけらかんと見せつける。主演の男性二人だけではなく、弁護士の対決もサスペンス感たっぷりで、手に汗握る論理と言葉の応酬の裏に、自らの信じる社会正義と紛争の調停への使命感がありありと感じられる。裁判長の威厳と迫力も、アメリカ映画のそれとは段違いである。日本の判事や判事補など、実態はともかくとして、少なくともエンターテインメントの世界では存在感は無に等しい。法廷サスペンス映画としても本作は第一級品である。何よりも役者たちの演技力に脱帽する。レバノンという国が、自らの国の抱える問題や矛盾点をさらけ出し、世界に堂々と配信するという姿勢に感銘を受ける。そして、小規模ながら日本でも配給されることに感謝したい。観て後悔は絶対にさせない、まさに現代人のための映画であると言える。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, A Rank, アデル・カラム, カメル・エル・バシャ, サスペンス, ヒューマンドラマ, フランス, レバノン, 監督:ジアド・ドゥエイリ, 配給会社:ロングライドLeave a Comment on 『 判決、ふたつの希望 』 -現代世界に生きる人の多くに観て欲しい大傑作-

『君の膵臓をたべたい(2018・アニメーション版)』 -アニメ化の意義を捉え損なっている-

Posted on 2018年9月16日2020年2月14日 by cool-jupiter

君の膵臓を食べたい(2018・アニメーション版) 40点
2018年9月13日 梅田ブルク7にて鑑賞
声の出演:高杉真宙 Lynn 和久井映見
監督:牛嶋新一郎

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これは原作小説の良さと実写版映画の良さの両方を、悪い意味で消してしまった残念な作品である。実写版は、主人公の二人に気鋭の若手二人(浜辺美波と北村匠海)を充てることで、いくつかの欠点を抱えながらも傑作となった。であるならば、アニメ版は、実写であるが故の制約を乗り越えなければならない。少なくとも観る側はそれを期待する。そしてその期待は裏切られてしまった。以下はJovianの感想なので、波長が合う人は参考にしていただければ幸いであるし、波長が合わなければ、そんな見方をする人間も世の中にはいるんだな、くらいに思っていただければ幸いである。

まず、何よりもアニメーションの良さとは、写実性から解き放たれることである。だからこそ、あるキャラクターの数年後、数十年後を描くことも容易であるし、その逆にキャラクターの若かりし頃、幼い頃を描くことも可能なのである。実写は人間を使わざるを得ないので、どうしてもそこに解決できない問題が残る。本作をアニメ化するということは、人間では実現できない表現に挑み、成功させなければならないのだが、そんなシークエンスは残念ながら見つからなかった。実写版が原作に付け加えて成功した部分と、それによりキャラクターの成長シーンに違和感を覚えるところなどの解決にアプローチしてほしかった。それにしても、なぜCGでもアニメでも、花火の音は光とほぼ同時に届くのか。本作など、パッと見ただけでも軽く1キロメートルは離れた所から花火が上がっても、音の到達に要する時間は1秒ほどであった。どこの異世界なのだろうか。

「僕」役の高杉真宙は頑張っていたと思う。ただ、「僕」というキャラをあまりにも没個性にしすぎた。実写版にあった、女子だらけのスイーツの店で、周囲の反応に密かに焦り、狼狽していたシーンでも、無表情に抑揚のない声を貫いたのはある意味で称賛に値するものの、それは「僕」というキャラの本質を捉え違えているだろう。『ファイナルファンタジーVIII』のスコールよろしく、「僕」が他人に興味がなく、他人にどう思われているのかについてはどうでもよいという姿勢を貫いているのは、本質的には他者に対する恐れがあるからであり、実際に他者(桜良)との交流を通じて、困惑、動揺、怒りなどのネガティブなエモーションに襲われる。実写版では北村の好演もあり、その点が上手く伝わってきた、しかし、この「僕」はあまりにも無感情すぎたし、ネガティブな感情を見せるのも、他者との交流の経験不足から来るからではなく、単純に呆れているからとしか映らなかったのは大いなるマイナスだ。観る側が「僕」に感情移入するのが著しく困難になるからだ。新人監督と声優初挑戦の若手俳優にそれを望むのも詮無いことではあるのだが。

そして、個人的にもっとも落胆させられたのはラストの共病文庫に関する一連のシークエンスである。詳しくは劇場で体感してもらうしかないが、我々はここで『はじまりのうた』にてキーラ・ナイトレイがヘイリー・スタインフェルドに語った言葉を思い出すべきなのだろう。すなわち、若気の無分別から、露出度が極めて高い服に身を包むヘイリーに、大人の女子たるヘイリーは「確かにあなたはセクシーよ。その服もそそる。けど、それを男の子たちに見せてどうするの?服の中を想像させるのよ」というアドバイスを送るのである。これは映画製作にも当てはまることで、何でもかんでもナレーションしたり、キャラにやたらと説明させるものは、ほとんど間違いなく作品としては二流以下である。もちろん、ラスト一連のアニメーションを楽しむ人もいるだろう。最初に述べたように、これは波長の合う合わない問題でもあるのだ。ただ、実写版が桜という植物の強かさに寄せて、桜良の時を超えるメッセージを仮託したのに対して、今回のアニメ版はあまりにも fantastical な映像でメッセージを届けてきた。それこそがアニメーションにしかできないことだ、と言ってしまえば確かにそうなのだが、桜良の生きた証たるメッセージをあまりにも非現実的なビジョンでもって語るのは、正直テイストに合わなかった。したがって、この点数となる。

東宝シネマズ梅田では、公開からそれなりに時間がたっても、レイトショーのチケットは入手困難な日が続いた。リピーターも多いと思われる。もしも貴方が時間とお金を使って、自分の目で作品の真価を確かめたいという気概ある映画ファンであれば、ぜひ映画館に行って欲しい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, ロマンス, 日本, 監督:牛嶋新一郎, 配給会社:アニプレックス, 高杉真宙Leave a Comment on 『君の膵臓をたべたい(2018・アニメーション版)』 -アニメ化の意義を捉え損なっている-

『はじまりのうた』 -やり直す勇気をくれる、音楽と物語の力-

Posted on 2018年9月14日2020年2月14日 by cool-jupiter

はじまりのうた 65点
2018年9月12日 レンタルDVD観賞
出演:キーラ・ナイトレイ マーク・ラファロ ヘイリー・スタインフェルド アダム・レヴィーン ジェームズ・コーデン キャサリン・キーナー
監督:ジョン・カーニー

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原題は“Begin Again”、「もう一度始めよう」の意である。もう一度、というところが本作の肝である。

音楽プロデューサーのダン(マーク・ラファロ)は、かつては敏腕でグラミー賞受賞者もプロデュースしたこともあるほど。しかし、ここ数年はヒットを出せず、酒に溺れ、妻のミリアム(キャサリン・キーナー)とは別居。娘のバイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)を月に一度、学校に迎えに行くだけの父親業も失格の男。ある日、娘を職場に連れて行ったものの、あえなくその場で解雇を宣告されてしまう。失意のどん底のダンは、しかし、とあるバーでシンガーソングライターのグレタ(キーラ・ナイトレイ)の歌と演奏に聴き惚れる。必死の思いで彼女を説得し、ニューヨークの街中を舞台にゲリラレコーディングを敢行していくことで、ダンの周囲も、グレタと恋人のデイヴ(アダム・レヴィーン)にも変化の兆しが見られるようになる。

『ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ』でも触れたが、アメリカという国は≪セカンド・チャンス≫というものを信じている。本作は、音楽の力を通じで、そのセカンド・チャンスを人々がものにしていくストーリーなのである。燻っていた情熱の残り火を、もう一度完全燃焼させたいと願っているサラリーマンは、日本には大勢ではないにしろ、それなりの数が存在しているはずだ。そんな人にこそぜひ見てほしい作品に仕上がっている。また、娘が難しい年頃になったことで、距離の取り方に難儀するようになった中年の悲哀に対しても、本作は一定の対応方法を提示してくれる。洋楽はちょっと・・・と敬遠してしまうような中年サラリーマンにこそ、観て欲しい映画になっているのだ。

一例を挙げよう。ダンはグレタのギターと歌唱を聴きながら、伴奏のピアノやバイオリンによるアレンジを生き生きと思い描き、歌に命を吹き込むビジョンを抱く。そんな creativity は自分には無縁だと思うサラリーマンも多いだろう。だが待ってほしい。街の中で空き地を見つけて、アパートかオフィスビルが駐車場にならないかと想像を巡らせたことが一切ないという不動産会社や建築・建設会社の社員がいるだろうか。ダンと我々小市民サラリーマンの違いは、スキルや能力ではなく、何らかのポテンシャルに巡り合えた時に、自分を信じられるかどうかである。何らかの可能性ある投資先を見つけられるかどうかではない。小説および映画の『何者』にあった台詞、「どんな芝居でも、企画段階では全部傑作なんだよ」という言葉が思い出される。当たり前といえば当たり前だが、我々はくだらないことよりも素晴らしいものの方を想像しがちだ。その想像を創造につなげていく勇気を持つ人間のなんと少ないことか。そんな小市民たる我々は、ダンとグレタに救われるのだ。

印象的な点をもう一つ。ダンとグレタが互いに素晴らしいと認めるミュージシャン、アーティストを挙げていく酒場のシーンがある。「どんなものを食べているかを言ってみたまえ。君がどんな人間であるのかを言い当ててみせよう」とはジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの言葉であるが、これは「どんな音楽を聴いているかを言ってみたまえ。君がどんな人間であるのかを言い当ててみせよう」と言い換えることも可能であろう。ダンとグレタは、互いのプレイリストを二股のイヤホンを使ってシェアするが、これなどは我々が互いの本棚や映画のライブラリを見せ合うのに等しい。我々は普段からスーツに身を包み、自分を偽装することに抜け目がない。しかし、自分が普段から聴いている音楽を人にさらけ出すというのは実は非常に勇気がいることだ。もし、この例えがピンと来ないのであれば、あなたのPCやスマホのブラウザのお気に入りを誰かに見せるということだと思ってみてほしい。ダンとグレタの男と女とは一味違う、もっと奥深いところで響き合う関係に感銘を受けるだろう。

それにしてもキーラ・ナイトレイの歌の意外な上手さに pleasantly surprised である。Maroon 5のアダム・レヴィーンが本職の実力と迫力を見せてくれること以上に、彼女の歌う“Like a Fool”に哀愁と力強さが同居することに感動のようなものを覚えた。恋人もしくは元彼がいかに約束を守ってくれなかったかを詰る歌は無数に存在する。Christina Perriの“Jar of Hearts”、Diana Rossの“I’m Still Waiting”など、枚挙に暇がない。それでもJovianがキーラの歌う“Like a Fool”に殊更に魅了されたのは、単にBritish beautyが個人的な好みだからなのだろうか。

いずれにしても、これは素晴らしい作品である。サラリーマンとして、父として、または夫として、とにかく人生に何らかの行き詰まりを感じている男性はここから何らかの「やり直す勇気」を受け取ってほしい。切にそう願う。そうそう、早まってエンドクレジットが始まった途端に再生を止めたり、画面の前から離れたりせず、最後まで観るように。

 

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Posted in 映画, 未分類, 海外Tagged 2010年代, C Rank, アメリカ, キーラ・ナイトレイ, ヒューマンドラマ, ヘイリー・スタインフェルド, マーク・ラファロ, 監督:ジョン・カーニー, 配給会社:ポニーキャニオン, 音楽Leave a Comment on 『はじまりのうた』 -やり直す勇気をくれる、音楽と物語の力-

『 アントマン 』 -闘う目的まで小さいが、そこが大きな魅力-

Posted on 2018年9月13日2020年2月14日 by cool-jupiter

アントマン 65点
2018年9月12日 WOWOW録画観賞
出演:ポール・ラッド エヴァンジェリン・リリー マイケル・ダグラス コリー・ストール アンソニー・マッキー 
監督:ペイトン・リード

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ちょうど3年前の今ごろ、大阪ステーションシネマで観たんだったか。続編観賞前に復習観賞。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では、キャプテン・アメリカ相手に、一般人があこがれの芸能人やスポーツ選手に会えた時のようなリアクションをとって、あらためて小市民であることを印象付けたものの、実際のバトルではとんでもないインパクトを残してくれたことで、ただの蟻んこサイズに縮むだけの男ではないことをライトな映画ファンも認識したことと思われるが、やはりヒーローはスタンドアローンの映画でこそ輝くものだ。そこで(時系列的には逆だが)本作である。

窃盗罪のために入っていた刑務所から出所したスコット・ラング(ポール・ラッド)は、再就職にも失敗し、娘の養育費の工面にも苦労する。貧すれば鈍すとはよく言ったもので、電子工学の修士号まで有しながら、コソ泥にまで堕ちたスコットは、再び盗み稼業に舞い戻るが、そこで盗み出してきたのは奇妙なスーツだった・・・

第一幕は非常にテンポよく進んで行く。なんだこれはという刑務所シーンからの出所、再出発、挫折、悪い意味でのリスタートまでが一気に、しかし過不足の無い映像での説明をもって進んで行く。時々ナレーションや、キャラクターに冗長に喋らせることで物語を動かす作品もあるが、それが有効なのはだいたいの場合、終盤である。そういう意味では、映画作りのお手本のような作品でもある。正義のヒーローらしからぬ小悪党が、実は痛快な義賊であったことが分かるまでの一連の流れは、シルクの滑らかさを持って我々を運んでいく。

第二幕はスコットがピム博士(マイケル・ダグラス)の捨て駒として、アントマンになり、使命を果たすという自覚に目覚めていくのがハイライトだ。博士の娘のホープ(エヴァンジェリン・リリー)は、かつて父がアントマンとして、母がワスプとして、極秘重大ミッションに従事し、その作戦の成功の裏に、母の犠牲があったことを知らなかった。爾来、父とは距離を置いてきたが、真相を知ることで父と和解する。スコットのことをまったく評価していなかったホープが、父が娘に注ぐ愛を知ったことで、スコットを見る目も変わっていく。父親とは何と不器用な生き物なのだろうか。

第三幕では、アベンジャーズの空飛ぶあの人との絡みもある。ここから、あのヒーロー同士の内戦に繋がっていったわけである。それにしても、アントマンの能力の何と地味なことか。小さくなることそれ自体は、科学的に何やらトンデモナイことであることは直感的に理解はできるが、原子間の距離を縮めるだとかの話になると、ちんぷんかんぷんだ。理解できれば立派な物理学者だろうし、実現したらノーベル賞どころではないだろう。しかし、アントマンがアントマンであるのは、何と言っても蟻とのコミュニケーションにある。漫画の『テラフォーマーズ』を挙げるまでもなく、蟻はパウンド・フォー・パウンドでの最強生物は何か、という議論には欠かせない存在であるし、地上のバイオマスに占める割合も人間並みに大きい。蟻にできることは何か、というよりも、集団の蟻を統率してできないことなどあるのか、という具合に問いを立て直す必要があるほど、集団としての蟻の優秀さは図抜けている。蟻さん達とのコンビネーション、チームワークが本作の大きな魅力で、アベンジャーズの他の面々と異なるところである。

アクションシーンは派手さには欠けるが、斬新さは多い。適度にコミカルなところもいい。主人公たちが小さくなる映画には古典的名作『ミクロの決死圏』があるが、我々の文明の辿ってきた道、そしてこれから進む道は、実は宇宙よりも、ミクロの世界なのではないか。量子コンピュータやナノマシンなどの話題は定期的に世間を賑わすし、それらを題材にしたエンターテインメント作品も陸続と生まれつつある。面白さや映画としての完成度はさておき、『ダウンサイズ』などは好個の一例であろう。

今まさに再撮影(?)が進行中のアベンジャーズ映画第4弾において、アントマンの果たす役割は、その体とは反比例、いや比例とも言えるだろうか、して大きい者になることが期待される。さあ、復習観賞ができたら、チケットを予約して映画館に向かうとしよう。

 

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Posted in 映画, 海外Tagged 2010年代, C Rank, SFアクション, アメリカ, エヴァンゲリン・リリー, ポール・ラッド, マイケル・ダグラス, 監督:ペイトン・リード, 配給会社:ディズニーLeave a Comment on 『 アントマン 』 -闘う目的まで小さいが、そこが大きな魅力-

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