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英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー

サラリーマン英語講師が辛口・甘口、両方でレビューしていきます

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カテゴリー: 国内

『 ピンカートンに会いにいく 』 -アラフォー女の人生惨禍・・・もとい賛歌-

Posted on 2019年7月18日 by cool-jupiter

ピンカートンに会いにいく 55点
2019年7月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:内田慈 松本若菜 小川あん 田村健太郎
監督:坂下雄一郎

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『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』とプロットはよく似ている。かつてグループだった女子たちが、幾星霜を経て再会を果たすというものである。だが、公開は『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』よりも、本作の方が早かったのである。

 

あらすじ

アイドルグループのピンカートンは、ライブ当日に突然解散してしまった。それから20年、神埼優子(内田慈)は、派遣社員としてコールセンターで働きながら、芸能界にしがみついていた。そんな時に、レオード会社の松本(田村健太郎)がピンカートン再結成という企画を持ってくる。優子は元メンバーたちを探し歩くが、当時最も売れていた葵(松本若菜)の行方が杳として分からず・・・

 

ポジティブ・サイド

クリント・イーストウッドではないが、この世には二種類の人間がいる。過去をよりどころに現在を生きる人間と、未来をよりどころに現在を生きる人間である。かつてのアイドル時代の夢を忘れられず、それでも仕事をより好みしながら、時には闇営業で役者の仕事を得ていた。事務所を通さずに個人で仕事をゲットしてくることのリスクは、巨大事務所でも弱小事務所でも変わらない。芸能界の闇を、現実に一歩先んじて見せてくれた点は面白いし、評価すべきなのだろう。優子は過去に生きている。そのこと自体は否定も肯定もされるべきではない。しかし、自分の生き方を基準に他人の生き方を否定してはならない。優子がかつてのピンカートンのメンバーたちと再会し、再結成を持ちかける時の話しぶりは醜い。それは優子の語りが、まるで元メンバーたちが自分たちの人生の主役ではないかのように聞こえるからだ。何故か。それは、元メンバーたちが未来を志向して生きているからだ。例えば、子どもがいるメンバー。子ども=未来。分かりやすい等式である。現在の子どもにコミットしなければならないし、一定の年齢までその子どもを育てなければならない。過去を見る暇などない。過去と未来の二項対立ほど分かりやすいものはなかなかない。だからこそ、そこには無数のドラマが生まれ得る。

 

ピンカートンの再結成企画を通じて、メンバーたちが向き合うことになるのは、過去の解散の真相だけではない。現在の自分たちでもある。ブレイク前のアイドルというのは、何者でもない。小説および映画の『 何者 』でも描かれていたが、人間のアイデンティティというものは社会的な属性が第一義である。だからこそ大人は“What do you do?”という問いかけを普遍的に使うのである。だが、その社会的属性にも、自らが獲得するものと社会の側から押し付けられるものとがある。母親像というのは後者の典型であろう。女性は、長ずるに及んで性を奪われ、姓を奪われ、そして名前も奪われる。つまり、誰々さんの奥さん、誰々さんのお母さんという属性や関係で呼称されるようになってしまう。そう喝破したのは栗本薫だったか。

 

何者にもなれなかった自分たちと、何者かにされてしまった自分たち。そんな彼女たちが本当の自分を追い求めてたどり着いたステージは感動的である。過去と現在が交錯し、まだ見ぬ未来への眼差しが生まれる。そこには新しい可能性がある。ステージ上の彼女らと同世代であるJovianも思わずホロリとさせられてしまった。優子は過去の自分から、「これが自分のピークなの?」と問われるが、その答えがクライマックスのステージ上にある。

 

もう一つ、優子と葵の再会のシーンも見どころである。かみ合わない会話がかみ合う。かみ合っているはずの会話がかみ合っていない。その二人の対話が、実はピンカートンの解散の真相と構造的に重なる。このメタ構造には唸らされた。脚本家はかなりの手錬れである。

 

ネガティブ・サイド

内田慈の演技はやや過剰であった。英語にすれば She chewed up the scenery. である。もう少し“演技をしている状態”と“演技をしている演技をしている状態”を峻別して欲しかった。彼女ぐらい豊富なキャリアの持ち主であれば、それは困難なタスクではない。

 

元メンバーの一人娘が難しい年頃で、反抗期にして不登校なのだが、その娘を巡るサブプロットがあまり上手に機能していないように感じられた。冒頭のライブ直前の解散にがっかりさせられる松本少年と相似形を為す存在になるかと思われたのだが。この娘が、母親の再結成パフォーマンスを見ることで未来に向けて一歩を踏み出すことができれば、それは、それがピンカートン再結成の大いなる意義になったはずだし、ピンカートンのメンバーたちの止まっていた時を動かす契機にもなったはずなのだ。このサブプロットを見る側の脳内補完だけに委ねるのは惜しい。というか、監督や脚本、場合によっては編集の職務怠慢であるとさえ言えるだろう。

 

総評

悪い出来ではない。むしろ佳作である。個人的には『 SUNNY 強い気持ち・強い愛 』よりも面白いと感じる。しかし、『 サニー 永遠の仲間たち 』には遠く及ばない。カメラワークや照明、シーンとシーンの繋ぎの編集などに「ん?」と思わされる箇所がちらほらと散見される。それでも現状に閉塞感を感じる人、自分が何者であるのかに悩む人に勇気を与えられる作品に仕上がっている点を評価したい。

 

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 内田慈, 小川あん, 日本, 松本若菜, 田村健太郎, 監督:坂下雄一郎, 配給会社:アーク・フィルムズ, 配給会社:松竹ブロードキャスティングLeave a Comment on 『 ピンカートンに会いにいく 』 -アラフォー女の人生惨禍・・・もとい賛歌-

『 今日も嫌がらせ弁当 』 -Mothering, The World’s Toughest Job-

Posted on 2019年7月11日2020年4月11日 by cool-jupiter

今日も嫌がらせ弁当 70点
2019年7月7日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:篠原涼子 芳根京子
監督:塚本連平

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数年前に“World’s Toughest Job”という動画がバズった。記憶に新しい人も多いかと思う。洋の東西を問わず、母親業というものは過酷を極めているようである。そのような現実において、本作のような作品が世に出ることには大変な意義がある。一つには、本作は実話をベースにしているということ。もう一つには、本作の物語が完全に市井の人のそれであるということ。「ディテールを観察していけば、この世に普通の人間はいない」とイッセー尾形は見抜いた。普通の人の、ちょっと普通ではない物語。そうしたものが今、求められているように思う。

 

あらすじ

八丈島に住む持丸かおり(篠原涼子)はシングルマザー。次女の双葉(芳根京子)はもうすぐ高校生にして反抗期。態度は横柄、口を開くことは無く、伝えたいことは全てLINEで伝えてくる。そんな娘にどうやってお灸をすえてやろうかと考えるかおりに天啓が下りる、「双葉のお弁当を全てキャラ弁にしてしまえ」と。かくして母娘の闘争の幕が上がる・・・

 

ポジティブ・サイド

篠原涼子と吉田羊は女優としての立ち位置が被っているように思っていたが、本作あたりからはっきりと差別化されてきたようだ。すなわち篠原は母親らしい母親で、吉田は母親らしくない母親を演じることが多い、と。人間性ではなくオファーされる役柄のことである。では母親らしさとは何か。それを一言で説明したり、定義づけたりするのは難しい。子どもを産むことではない。それは母親らしさではない。思うに、母親らしさとは、子どもの巣立ちを促すことなのかもしれない。かおりがキャラ弁を作るのは、嫌がらせが目的なのではない。娘を反抗期から次の段階に進ませようとする親心だ。そのことは、双葉が初めて母に寄り添おうと、幼い頃に交わした約束を持ち出してきたところ、優しく、しかし力強く拒絶する様には震えた。篠原自身がインタビューで「 女同士は友達みたいな感じになるんだなと思いましたね。男の子を持つ母親は、親という感じがすごくするけども、女同士だと、一緒に買い物したり、ランチしたり、映画を見に行ったり……女友達と行動しているのと変わらないところがありますよね 」と語っているが、これなどは『 レディ・バード 』のシアーシャ・ローナンとローリー・メットカーフの母娘関係にぴたりと当てはまる。母親らしさというのは、娘を対等に扱えること、娘と正面から向き合えることなのかもしれない。そう考えれば、父と息子が向き合うには大袈裟な仕掛けが必要であるとする万城目学の『 プリンセス トヨトミ 』とは好対照である。昼の仕事、夜の仕事、自宅での内職に家事、そして弁当作り。男親にこれらができないとは思わないが、これらを行った上でなおかつ、娘の昼食時間を不敵な笑みで待ち構えることはできない。しみじみそう思う。生物学的に女の方が生命力が強いのだろう。心底敵わないなと思われた。

 

本作は映像美にもこだわりが見られる。ハリウッドで色使いにこだわる代表的な監督はM・ナイト・シャマランだろうか。インド映画の大作は、どれも暴力的なまでに色彩を駆使する。日本では、先日『 Diner ダイナー 』を送り出してきた蜷川実花監督が色彩美へ一方ならぬこだわりを見せている。しかし、『 Diner ダイナー 』の人工的な色ではなく、本作は八丈島の非常にオーガニックな環境の色を直接的に、また間接的に見せてくれる。かおりの私服は一際派手であでやかという感じだが、それが山を背景にしたり、あるいは潮風が吹いているシーンにはめ込むと、不思議なコントラストが生まれる。そうした風や陽光などの豊かな自然の描写を下敷きに、食材を、キャラ弁というある意味で最も人工的な料理に加工していく過程に、人間の人間らしさ、母親の動物的な母親らしさと人間的な母親らしさの両方が垣間見られる思いがする。最近の邦画では、自然と人工の色使いの巧みさ、そのコントラストの際立たせ方では群を抜いているという印象である。

 

ネガティブ・サイド

佐藤隆太のパートは不要である。この父子のサブプロットは劇場鑑賞中にもノイズであると感じたし、今この記事を書きながら思い起こしても、やはりノイズであるとの印象は変わらない。父と息子のドラマを描きたいのなら、単品でいくらでも作れるはずだ。無理にこのような展開をねじ込む必要性も必然性もない。

 

フェイクのエンディング演出も不要である。もちろん、物語をコメディックに語るための演出としては機能していたが、この物語の主眼は、母親による娘の巣立ちの支援であることは明白である。その区切り区切りの場面でこのような演出を挟むのは、コメディ要素を増強することはあっても、ヒューマンドラマの要素を深めることにはならない。バランス的に難しいところだが、個人的には好ましい演出とは映らなかった。

 

トレイラーにもあったが、かおりが倒れるという展開にも不満が残る。もちろん、ドラマチックな演出は必要なことではあるが、脳梗塞である必要はあるのか。ちょっとした過労では駄目だったのだろうか。または胆石だとか急性膵炎だとか。過労が主な原因で罹患する疾患では駄目だったのだろうか。脳梗塞だとリアルすぎて、必要以上にシリアスさが増してしまっていたように思う。

 

キャラ弁当が途中からキャラ弁当でなくなったしまったのも少し残念。メッセージを伝える手段としては受け入れられるが、勉強ネタは過剰であるように思った。特に漢字の穴埋め問題は難しすぎるし、あれだけの難易度なら、もう5秒は考えさせてほしかった。

 

総評

全世代が安心して観られる良作である。題材に普遍性があり、演じる役者に演技力があり、監督が映像にこだわりを持っているからである。元ネタがブログであるというのも良い。パソコン通信からインターネットへの移行期に、この世にはたくさんの濃い方々がおられるのだなと大学生の頃にしみじみ感じたことを思い出す。ネット発で映像化されたメジャーなコンテンツの嚆矢は『 電車男 』であると思われるが、今後そのような作品がますます増えてくるのだろう。テクノロジーの進歩、ネット世界の成熟によって、玉石混交のコンテンツから玉を見出すことが容易になっているからだ。呉エイジ氏の「我が妻との闘争」などは、映画化したら絶対に面白いと思うのだが。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 日本, 監督:塚本連平, 篠原涼子, 芳根京子, 配給会社:ショウゲートLeave a Comment on 『 今日も嫌がらせ弁当 』 -Mothering, The World’s Toughest Job-

『 Diner ダイナー 』 -映像美は及第、演出は落第-

Posted on 2019年7月8日2020年4月11日 by cool-jupiter

Diner ダイナー 50点
2019年7月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:藤原竜也 玉城ティナ 窪田正孝 本郷奏多
監督:蜷川実花

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漫画原作で藤原竜也が出演する作品はハズレが少ないという印象を持っている。『 カイジ 』シリーズしかり、『 デスノート 』シリーズしかり、『 るろうに剣心 』シリーズしかり。それでは原作は小説で、漫画化もされている本作はどうか。かなり微妙な出来栄えである。

あらすじ

人間不信だったオオバカナコ(玉城ティナ)は、ある時、異国の色鮮やかな光景に魅了された。どうしてもそこに行きたいと願ったカナコは即日30万円というバイトに応募する。しかし、それは殺し屋のgetaway driverの仕事だった。裏社会の連中に始末されそうになったカナコは料理の腕をアピールする。すると殺し屋専門のダイナーに送り込まれ、凄腕シェフのボンベロ(藤原竜也)と出会う・・・

 

ポジティブ・サイド

このDinerの内装のサイケデリックさよ。常識ではありえない設定のレストランだが、馬鹿馬鹿しいまでの工夫を施せば、それもリアリティを生み出す。壁のピンクを基調にシックに決めたカウンターとテーブル席から、カビ臭ささえ感じさせる薄暗い個室まで、このDinerは確かに狂っている。客もシェフも狂っている。そんなサイケでサイコな世界に足を踏み入れたカナコが全裸になって全身を清めるのも蓋し当然である。これは禊ぎなのである。そして眼福でもある。『 わたしに××しなさい! 』ではYシャツのボタンをはずして首元、胸元をあらわにしたが、本作ではさらなるサービスをしてくれている。この調子で頑張って欲しい。

 

まるっきりCGだったが、最も原作に忠実に再現されていたのは菊千代であろう。一家に一頭、菊千代。店一軒に一頭、菊千代。こんな犬を番犬に飼ってみたい。また窪田正孝演じるスキンも再現度は高かった。極めてまともに見えるところから、殺人鬼の本性が解き放たれる刹那の演技はさすが。『 東京喰種 トーキョーグール 』でも大学生をまったくの自然体で演じていたが、その演技力の高さを本作でも見せつけた。漫画では悪魔的、サイボーグ的な活躍を見せたキッドも、本郷奏多が好演。菊千代をボコらなかったのは動物愛護法に引っかかるからなのか。続編があるとすれば、キッドの狂気が爆発するのだろう。

 

しかし最大のハイライトは真矢ミキと土屋アンナであろう。『 ヘルタースケルター 』でも顕著だったが、訳あり女、一癖も二癖もある女、凶暴な女を狂気の極彩色で描き出すのが蜷川実花監督の手腕にして真骨頂なのだろう。クライマックスのバトルアクションは彼女の美意識が暴発したものである。ここは必見である。宝塚ファンは劇場へGo! である。

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ネガティブ・サイド

Jovianは原作小説未読で、週刊Young Jumpに連載していた漫画(良いところでWeb送りになったが・・・)を読んでいた。そのイメージで語らせてもらえるなら、藤原竜也はボンベロには似ていない。顔およびイメージの近さで言うなら、高良健吾、山田裕貴、要潤、松田翔太あたりではないだろうか。もしかすると原作小説内のボンベロの外見描写に藤原竜也にマッチするものがあるのかもしれないが、あくまで漫画ビジュアルに基づいた感想で言えば、ミスキャストに思えた。演技ではなく、あくまで外見についてである。

 

そして漫画のオオバカナコのビジュアルと玉城ティナも、何か違う。弱々しくも肝っ玉が据わっており、おぼこいながらも巨乳であるというアンバランスさが特徴だったはずだ。このイメージに当てはまる女優というと、仲里依紗、新川優愛あたり、さらに門脇麦もいけそう。いや、やはり違うか・・・。とにかくメインを張る二人のイメージがしっくりこないのである。

 

また内装や客連中の服装、コスチューム、アクセサリーの派手派手しさ、毒々しさ、色鮮やかさに対して、肝心の料理のビジュアル面での迫力が決定的に不足している。4DXやMX4Dがどれほど進化しても、味は伝えられないだろう。匂いも、火薬や油のそれならまだしも、料理となると相当に難しいのではないか。だが味については料理を堪能する役者の演技で間接的に伝えられる。映画が観客に直接に料理の旨さを伝えるには、映像と音を以ってするしかない。そのことはクライマックスでのボンベロの台詞にも表れていた。ならばこそ、ボンベロの料理シーンにもっとフォーカスした絵が欲しかった。肉の表面に焼き色や焦げ目がついていく様、肉汁の爆ぜる音、包丁が食材の形をどんどんと変えていくところ、野菜や果物、肉の芯に刃が通る音、こうした調理のシーンがあまりにも少なすぎた。ドラマの『 シメシ 』や『 深夜食堂 』、『 孤独のグルメ 』よりちょっと映像を派手目にしてみました、では不合格である。元殺し屋が命がけで作る料理のディテールを伝える絵作り、演出、それこそが求められているものなのだ。

 

最後のアクションは素晴らしい部分は素晴らしいが、クリシェな部分はクリシェである。特に、『 マトリックス 』のようなバレットタイムを今という時代に邦画でこれほどあからさまに取り入れる意味は何なのか。まさかとは思うが、真矢ミキその他のキャストのアクションに注力するあまり、主役のボンベロのアクションは途中からネタが尽きたとでも言うのか。

 

また、一部の販促物に「殺人ゲームが始まる」という惹句があったが、それは漫画もしくは原作小説の展開であって、今作にはそんなものは存在しない。看板に偽りありである。

 

総評

かなり評価が難しい作品である。おそらく絶賛する人と困惑する人に分かれるのではなかろうか。もしくは悪くは無いが、決して傑作ではないという評価に落ち着くのだろう。ただし、結構なビッグネームが出演していながらもあっさりとぶち殺されたり、宝塚女優が脳みそイッてる演技を見せてくれたりするので、芸術作品ではなく、純粋な娯楽作品を観に行く姿勢で臨めばよいだろう。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アクション, スリラー, 日本, 玉城ティナ, 監督:蜷川実花, 藤原竜也, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画Leave a Comment on 『 Diner ダイナー 』 -映像美は及第、演出は落第-

『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

Posted on 2019年7月7日2020年4月11日 by cool-jupiter

哲人王 李登輝対話篇 40点
2019年7月4日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:桃果 てらそままさき
監督:園田映人

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人に勧められて鑑賞。元々少し興味があったので、劇場上映最終日に出陣。着眼点は悪くないと思うが、映画的演出の面、さらに歴史を見つめる視座・視覚にまだまだ改善の余地ありと言わざるを得ない。

 

あらすじ

女子大生の山口まりあ(桃果)は現代の世界の在り方に疑問を抱いていた。悪くなっていくだけの世界に絶望したまりあは湖への投身自殺を図る。しかし、その時、まりあの心に語りかけてくる声があった。それは台湾の元総統・李登輝の声だった。李登輝は言う。あなたの心を変えてみたい。だから私の話を聞いて欲しい。それまで、あなたの命は私に預けるように、と。かくして、李登輝とまりあの心の対話が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

台湾という、ある意味で誰もが余りはっきりと理解していない国に焦点を当てるというのは、着眼点として優れている。そして、地政学的に複雑な場所に位置する台湾が辿ってきた数奇な歴史は、日本が歩んでいたかもしれないifの歴史とシンクロする、あるいはオーバーラップするところも多いだろう。2014年のロシアのクリミア併合や今も続く北方領土問題、前世紀末から続く周辺諸国による南沙諸島の領有争い及び中国の実効支配化、更に尖閣諸島への進出など、現代においても領土的野心を捨てていない大国がすぐ近くに存在するという現実を念頭に置いた上で李登輝の話に耳を傾ければ、グローバリゼーションが着々と進行する中で、どのように「民族自決」にも重きを置いていくべきなのかが見えてくる。

 

歴史を過去の物語とせず、現代を把握する上での貴重な羅針盤や航海図として見るのならば、それは正しい歴史の見方であると思う。そのことがある程度達成されていることが本作の貢献であろう。

 

ネガティブ・サイド

大きくは二つある。まず、まりあというキャラクターがあらゆる意味で駄目駄目である。世界には飢えた子どもがいる、戦争、紛争が絶えない地域がある。自分たちはそれをニュースとして消費するだけである。こんな世界に誰がした?こんな世界に生きる価値は無い!だから死ぬことにする・・・って、アホかいな。ティック・クアン・ドックみたいに燃えるプラカードとして国会議事堂前で絶命するぐらいしてみろ、とまでは言わない。ただ希死念慮を抱く前に、「こんな世界に誰がした?」という問いかけに、自分で答えようとする意気込みぐらい持ちなさい。大学生だろう。色々勉強してみたが、現代史はあまりにも複雑に絡まり合っていて何が何だか分からない、自分はやっぱり無力だ・・・という流れも何もなしに、「死にます」では誰の共感も得られない。2分でいいから、まりあの勉強、および無力感を味わうシーンを挿入できなかったのか。ストーリーボードの時点でそもそもそんな構想は存在しなかったのか。またはポスプロの編集でカットされたのか。いずれにしても、まりあというキャラクターを立たせるのに失敗している。

 

二つには、歴史を単眼的に捉えている点である。複眼的ではないということである。では複眼的とは何か。これについては色々と分析できるが、Jovianが主に用いる思考法は以下である。すなわち、「事実」と「真実」の両方を考える、ということである。

 

まず李登輝総統が語る日本軍による台湾統治の物語は紛れもない真実であろう。しかし事実は、日本が軍事力によって台湾を支配したということである。台湾がそのことによって発展し、教育を授けられ、日本に恩義を感じたというのは真実である。しかし、日本は台湾及び台湾人のために開発援助を行ったのではない。台湾が日本の一部になったからそうしたのである。日本政府が日本の国土を適切に開発し、自国民に適切な教育を与えるのは理の当然である。事実はこうである。それを台湾の人たちがありがたく受け取ってくれたことが真実である。本作は真実の方にばかり焦点を当て、事実を顧みることに余りにも無頓着であるように映った。日本は教育熱心だったのは事実である。そのことは、例えば岡山県の閑谷学校の歴史を見ればよい。藩から独立した財源を確保することで、藩政に支障が出た時や財政難にあっても、教育活動が絶えることなく行われるような仕組みが江戸時代にはすでに存在していたのだ。閑谷学校の例があまりにもマイナーだと言うなら、寺子屋のことを考えるのも良いだろう。日本は大昔から自国民の教育に熱心だった。これは素晴らしい点である。日本の美徳と言ってよい。これは事実である。台湾の人が日本の教育をありがたく思った。これは真実である。台湾は当時、日本の一部だった。これは事実である。日本は自国民たる台湾の人々に教育を施した。これは事実である。事実は事実で、真実は事実に解釈を加えたもののことである。そして、解釈は自分で行うものである。まりあは余りにも無邪気に李登輝の語る真実を受け止め過ぎている。それがJovianの印象である。事実と真実を峻別できていない、すなわち批判的思考=Critical Thinkingができていない。それが、まりあというキャラクターの最大の欠点である。まるで小林よしのりの『 ゴーマニズム宣言 』に次々に洗脳されていった2000年前後の憐れな大学生たちを思い出した。『 主戦場 』には、日本の未来への眼差しがあった。本作は現実の肯定および受容で立ち止まってしまった。そこにある質的な差は大きい。

 

映像芸術としても粗が目立つ。実写とアニメーションの混合という点では『 真田十勇士 』という駄作が思い出される。本作のアニメーションは欠点とまでは言えない。しかし。余りにも数多く繰り出されてくるクリシェなショットには頭痛がしてきた。具体的には、まりあの振り返りである。廊下を歩くまりあがふと立ち止まり、振り返る。まりあの向こうにはまばゆい光が輝き、それがまりの輪郭をより強く際立たせ・・・って、これは美少女にフォーカスしたアホなラブコメなのか?まりあが自殺を図って、気を失って、目を覚ますところでも、なぜか服がピンクのワンピースに変化していたが、その時のまりあの寝姿がグラビアアイドルのそれだった。だから、そういう構図のショットはラブコメまたは純粋なロマンスもの、またはアイドルにのイメージビデオでやってくれ。園田監督のセンスを大いに疑う。

 

総評

本作を見て、「嗚呼、日本はやはり素晴らしかった」と思える人はあまりにも純粋無垢である。勘違いしないで頂きたいが、Jovianは別に日本の歴史の全てをネガティブに捉えているわけではない。ただし、歴史の一部だけを切り取って、それを現状の肯定の材料にするという思考方法に大いなる疑問を抱いているだけである。子曰く、「過ちて改めざる 是を過ちと謂う」。Jovianは第二次大戦について絶対に譲ることのできない日本の過ちとして、学徒動員を挙げる。兵隊が尽きたら降伏せよ。軍人ではない市民を戦争に駆り出すな。日本政府そして日本国民の大部分はそのことに無自覚である。外国人からの評価を以って、自身の評価につなげるべからず。自身の歴史を引き受けよ。その上で現状だけではなく未来に目を向けよ。しがないサラリーマン英会話講師の精いっぱいの叫びである。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, アニメ, てらそままさき, 日本, 桃果, 歴史, 監督:園田映人, 配給会社:レイシェルスタジオLeave a Comment on 『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

『 町田くんの世界 』 -無邪気な純粋さがオッサンには刺さる-

Posted on 2019年7月6日2020年4月11日 by cool-jupiter

町田くんの世界 70点
2019年7月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:細田佳央太 関水渚
監督:石井裕也

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留まるところを知らない邦画界の漫画の映画化トレンド。しかし、たまに良作が生み出されるから、あれこれとアンテナを張っていなければならない。個人的には『 センセイ君主 』と並ぶ面白さであると感じた。

 

あらすじ

町田一(細田佳央太)は人が好き。呼吸するように人助けをする彼が、ちょっとした不注意で怪我をしてしまい保健室へ。そこで普段はめったに学校に来ない猪原奈々(関水渚)と出会う。町田くんの愚直なまでの親切さに、奈々の心は少しずつほぐれていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず町田くんというキャラが良い。山本弘の小説『 詩羽のいる街 』の詩羽の男子高校生バージョンのようなものを事前に想像していたが、全然違った。町田くんの行動には損得勘定が無い。人が好きだという言葉に裏が無い。思い込んだら一筋で一途。手助けの結果、見返りを求めない。先立つ一切の前提なく行動できることを、イマヌエル・カントは「自由」と呼んだ。町田くんは純粋な自由人なのだ。必ずしも良い人なのではない。劇中、猪原さんを大いに怒らせ、落胆させるからだ。それも悪意や敵意からではなく、他人に対する好意や善意ゆえになのである。こうしたキャラは希少である。そんなキャラクターを見事に現出せしめた細田佳央太を、周囲のハンドラー達は今後しっかり成長させ続けねばならない。

 

だが、もっと頑張って欲しいと願うのは関水渚のハンドラー達である。浜辺美波や南沙良のような、ポテンシャルが発揮されるのは時間の問題、すなわち良い役と出会えるかどうか、と思えるような女優ではなく、ポテンシャルの底をもっともっと掘るべしと思わせるタイプである。浜辺や南は多分、大谷翔平タイプだ。大いなる舞台と機会を与えれば、きっと開花する。しかし、関水は多分、藤浪晋太郎タイプである。現時点のポテンシャルだけで勝負させてはならない。もっとトレーニングを積まねばならない。だが、そうすれば二軍 → 一軍 → オールスター → 日本代表 → MLBという未来も拓けてくるかもしれない。削って磨いてみなければ分からないが、この石はおそらく光る。夜の町田くん宅の前、および自宅前のとあるシーンは、素直になりたいが故に素直になれないという猫的な、王道的な少女漫画的キャラのクリシェを忠実に演じていた。序盤と中盤以降で全く違う表情になるのは、メイクアップアーティストの手腕もあるだろうが、本人の表現力の高さのポテンシャルも感じさせる。売れるうちに一気に売りまくるのではなく、じっくりと確実に成長させてほしい。

 

少女漫画の王道は、自分の気持ちに素直になれないイケメンと美少女の予定調和的な紆余曲折を経て結ばれる。本作はそこをひっくり返した。常に自分の気持ちにまっすぐに生きる少年が、自分の気持ちに苦しむ。人がみんな好きということは、特定の誰かを好きではないということだ。そして特定の誰かを好きになってしまうことは、その他の人たちを傷つけてしまうことになる。町田くんはそのことを恐れている。その狭間で悩み苦しみ、足掻く町田くんの姿は、くたびれたオッサンの心に突き刺さった。『 わたしに××しなさい! 』でも指摘したが、それは青春の醍醐味であり、終わりでもある。その狭間で悩み苦しみ、足掻く町田くんの姿は、くたびれたオッサンの心に突き刺さった。彼の無邪気さ、純粋さは時に周囲には能天気さとも過剰な真面目さとも受け取られる。だが、町田くんほど劇的な形ではないにせよ、オッサンもオバちゃんも皆、このようなビルドゥングスロマンを自ら経験してきたはずだ。美男美女が織り成す美しい物語ではなく、生真面目で一生懸命な少年と、素直になりたいのに素直になれない少女のファンタジックな交流物語は、アラサー、アラフォーの世代にこそ刺さるはずだ。特に町田くんが無意識のうちに実行している存在承認、成果承認、行動承認は、モテ男を目指す全ての男性および職場で居場所を確保したいビジネスパーソンにとって必見であると言える。

 

キャラクター以外の要素も光る。たびたび川原の水門沿いのスペースが映し出されるが、これは猪原さんの心象風景であろう。流してしまいたい思い、溢れ出させてしまいたい想いのメタファーである。そこに暮らす仲睦まじい鴨のカップルにもほっこり。また学校にある二宮金次郎像に思わずニヤリ。様々な事情から全国的に撤去されているが、これも現代の日本人像のメタファーである。終盤のとあるシーンの不自然さも、これで見事に帳消しになっているのである。様々なガジェットも無意味に配置されているわけではない。石井監督、さすがの手練である。

 

ネガティブ・サイド 

主演二人以外のキャスティングが豪華すぎる。それはまだ良い。しかし、一部に高校生役が厳しい者も混じっている。前田敦子は意外に通じる。岩田剛典や高畑充希はちょっと苦しい。大賀はもう無理である。

 

光、照明に関しても、一貫性に欠けるシーンが2、3あった。最も気になったのが、病室が夕陽で満たされていたのに、次にとある場所に移動したときには完全に夜中になっていたこと。普通に考えれば近場の施設であるはずだし、そうでないとおかしい。作中で7月冒頭と明示されたいたはず。つまり、夏至直後である。午後8時としても、空は薄明かりが広がっているはず。病院からいつもの川原まで1時間半以上かかったと言うのか。にわかには信じがたい。

 

町田くんが「キリスト」と一部で呼ばれているというのも少々気になった。原罪を背負った人類の贖罪のために、神は其の子イエスを地上に遣わし、敢えて死なせしめた。愛する対象のために代わって死ぬ。これが神の御業である。愛する妻や子が病気で苦しんでいたら、自分がその苦痛を引き受けてやりたいと願う。それが人の愛である。それを本当に実行してしまうのが神の愛であるが、これを町田くんに適用するのはちょっと違うのではないかと感じる。第一に、町田くんの愛は彼の生活世界の中での博愛である。第二に、あくまで人間イエス・キリストは人格者でも何でもないからである。むしろ、博愛の精神で自らの生活圏から敢えて飛び出し、各地で神の教えを積極的に説き、ほとんどすべての場所でウザがられ、時に迫害すらされたムハンマドの方が、よほど町田くんとの共通点が多い。これは考え過ぎか。

 

もう一つは、池松壮亮の言う「この世界は悪意に満ちている」が指す世界と、『 町田くんの世界 』がほとんどオーバーラップしないことである。町田くんの世界とはカントやヘーゲル、またはヴィトゲンシュタインが説明するような絶対的な存在としての世界ではなく、フッサールが言うところの生活世界に近いものだ。世界という言葉の意味を意図的にずらして解釈したに等しく、池松演じる記者を狂言回しではなく、ただのパズルの一ピースにしてしまった。

 

最後に、最終盤のショットおよびシークエンスが『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』および『 天空の城ラピュタ 』の、良く言えばオマージュ、悪く言えばパクリであった。かなり長いシークエンスで人によっては冗長に感じるはず。だからこそ、オリジナルな味付けをして、観る側をエンターテインさせる工夫が欲しかった。

 

総評

秀逸な作品である。中学生~大学生ぐらいの層がどのように本作を受け取るのかは分からないが、デートムービーにはなるだろう。逆に、気になるあの子を映画館に誘う時に効果的な作品ではない。町田くん以上の魅力を発することのできる男などそうそういない。男が惚れる男、それが町田くんなのである。仕事に疲れ切ったサラリーマンやOLが、友達になりたい、一緒にご飯を食べたい、と感じてしまうようなキャラなのだ。無名の俳優が主役を演じる漫画の映画化と思い込むなかれ。欠点もあるが、それを補って余りあるエンパワーメントの作用が本作にはある。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ファンタジー, 日本, 監督:石井裕也, 細田佳央太, 配給会社:ワーナー・ブラザース映画, 関水渚Leave a Comment on 『 町田くんの世界 』 -無邪気な純粋さがオッサンには刺さる-

『 新聞記者 』 -硬骨のジャーナリズムを描く異色作-

Posted on 2019年7月4日2020年8月29日 by cool-jupiter

新聞記者 75点
2019年6月30日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:シム・ウンギョン 松坂桃李
監督:藤井道人

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映画大国のアメリカでは『 JFK 』を始め、政治の腐敗を鋭く抉る作品が数多く生産されてきた。近年でも『 バイス 』、『 記者たち衝撃と畏怖の真実 』、『 華氏119 』、『 ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』などが製作、公開されてきた。翻って日本はどうか。『 主戦場 』が話題を呼び、そして本作である。日本の映画界も、遂に物申すことができるうようになってきた。

 

あらすじ

新聞記者の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、不気味な羊の絵をカバーページにした、大学新設計画に関する膨大な資料を受け取った。その周辺を取材する吉岡は、やがて国家的な陰謀の構図に迫っていき・・・

 

ポジティブ・サイド

日本の政治は危機的な状況にある。何を以って危機的と言うかは各人によってことなるだろうが、市民を権力者側の都合で逮捕拘束できるような共謀罪なる法案が成立し、特定秘密保護法などどいう権力者の保身のための法律が存在し、にも関わらず公文書の改竄が行われ、その省庁の監督者である大臣が辞職すらしない国家とその政治状況を指して、危機的という認識を持たない人がいれば、お目にかかりたいものである。そういえば、この大臣、『 主戦場 』で十数年前の国会中継が映し出された時も、堂々と居眠りをしていた。これが我々の選良なのか。暗澹たる気分になってくる。

 

本作は東京新聞の望月記者や元文部科学次官の前川氏などを冒頭の討論番組に出演させることで、スクリーンの向こうとこちら側が同一の世界であるとの認識をより強固にしてくれる。いや、既に各所で指摘されていることだが、大学の新設が総理のお友達事業者ありきで進むこと、レイプ事件のもみ消し、公文書の改竄をさせられた財務省の役人の自殺など、すでに民主国家の腐敗のあり様を極めた感がある日本だが、それを支える組織としての内閣情報調査室にスポットライトをあてた作品はこれまでにあっただろうか。漫画『 エリア88 』の最終盤に内調がちょろっと出てくるぐらいしか思い出せない。この内調なる組織のやっていることのせこさには、新鮮な驚きと落胆、そして呆れがある。詳しくは本作を観てもらうとして、日本の言論空間の大きな一角を占めるようになったインターネットおよび既存メディアへの政治の介入具合には、言いようのない不安を掻き立てられる。そうした仕事のお先棒を担がされる杉原(松坂桃李)は、官僚でありながらも、信頼を寄せる元上司がおり、妻がおり、子どもが生まれる直前であるという極めて私人性の高いキャラクターを上手く表出した。官僚も一皮むけば人間であるということは『 響 -HIBIKI-   』でも指摘した。内調の上司からの「お前、子どもが生まれるそうだな」という言葉を杉原はどう受け取るのか。観客たる我々にその言葉がどう響くのか。思いやりの言葉であると同時に、聞く者の心胆を寒からしめるこの言葉が発されるシーンは、国家の側に属する人間の人間性と非人間性の両方を同時に描き切った名場面である。

 

シム・ウンギョン演じる記者には硬骨の精神を見出すことができる。彼女のバックグラウンドに仕込まれたサブプロットは些か行き過ぎではないかと感じるが、中盤の回想シーンで取り乱す演技、最終盤の電話を受け取るシーンでの恐怖と気概の両方を宿す演技には圧倒された。様々な事情があってシム・ウンギョンがこの役を引き受けたのだろうが、政治への忖度以上に、この役を演じられる俳優が日本の映画界に存在しなかったというのが最大の理由なのかもしれない。それほど圧巻のパフォーマンスである。シム・ウンギョンと大谷亮平の共演がいつか観たい。

 

Back on track. 『 主戦場 』でも感じられたことであるが、日本の政治状況は危機的水準にある。それは、国民が権力の監視を怠ってきた結果に他ならない。税金を公的資金と言い換えていた頃よりも、さらに表面を糊塗するだけの言葉遊び政治と、権力者とそれに追従する者だけへの便益を図る密室政治がより発達してしまった。それは違うと声高に叫ぶ人が現れた。本作は娯楽作品であり、秀逸なサスペンスであるが、同時にノンフィクションとして観られるべき作品でもある。多くの人が本作を鑑賞することを願う。

 

ネガティブ・サイド

やはり、シム・ウンギョンではなく日本人の俳優がキャスティングされなければならなかった。韓国人のシムが駄目だと言っているのではなく、日本の政治の腐敗を撃つのなら、日本人がそれをするべきだ。それも愛国心の一つの形だろう。そうした気骨、気概のある役者または事務所がいなかったということに慨嘆させられる。

 

また、シムの英語は石原さとみよりも立派であったが、agreeの発音のアクセントだけは頂けなかった。まあ、『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』の横浜流星などに比べれば月とすっぽんではあるが。

 

また巨悪の存在が示唆されるばかりで、ここに弱さを感じた。宣伝段階で「官房長官の天敵」というキャッチコピーを使っていたのだから、誰がどう見ても令和おじさんのパロディであると思わせることができる人物を仕立て上げられたはずだ。それぐらいのサービス精神はあってもよかった。『 シン・ゴジラ 』でも中村育二を甘利明そっくりに化けさせたのだから、菅義偉のそっくりさんキャラを生み出すのもお茶の子さいさいだろう。

 

総評

ラストの杉原の台詞を何と聞くか。いや、見るか。それによって鑑賞後に残る余韻が変わる。これは意図した演出だろう。気になる人は是非とも劇場へ。Jovianは本作鑑賞後、すぐさま『 銀河英雄伝説 』のヤン・ウェンリーの言葉、「 人間の行為のなかで、何がもっとも卑劣で恥知らずか。それは、権力を持った人間、権力に媚を売る人間が、安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強制して戦場へ送り出すことです。宇宙を平和にするためには、帝国と無益な戦いをつづけるより、まずその種の悪質な寄生虫を駆除することから始めるべきではありませんか 」を想起させられた。命よりも大切なものがあるというキャッチコピーで始まるのが戦争で、命より大切なものはないというキャッチコピーで戦争は終わると言われる。個人を自殺に追い込んでおきながら何の自浄作用も働かない今の政治権力の構造には空恐ろしさを感じざるを得ない。願わくば、本作が描くプロットが単なる杞憂、絵空事であらんことを。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, サスペンス, シム・ウンギョン, 日本, 松坂桃李, 監督:藤井道人, 配給会社:イオンエンターテイメント, 配給会社:スターサンズ『 新聞記者 』 -硬骨のジャーナリズムを描く異色作- への2件のコメント

『 ザ・ファブル 』 -トレイラーを極力観ずに鑑賞されたし-

Posted on 2019年6月24日2020年4月11日 by cool-jupiter

ザ・ファブル 65点
2019年6月23日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:岡田准一 柳楽優弥 安田顕 山本美月
監督:江口カン

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岡田准一には雰囲気がある。オーラと言ってもいい。絵になる男である。殺し屋を演じるてもそれは変わらない。あとはヤクザ役と会社員役を待つばかりである。

 

あらすじ

その殺人の技術の高さから伝説=Fable、ファブル(岡田准一)とまで呼ばれた殺し屋が、ボスから一年間の休業および殺人禁止を言い渡される。普通に平和に暮らすために大阪の地にやってきたファブルは、ひょんなことからミサキ(山本美月)と知り合う。しかし、そのミサキが裏社会の人間に目を付けられ・・・

 

ポジティブ・サイド

不惑も近い岡田准一が、スタントマン無しで数々のアクションに挑んだことは称賛に値する。Jovian含むアラフォーの男性陣は、全裸で筋トレ・・・をする必要はないが、何らかのワークアウトを日常的に行う必要があるだろう。岡田のアクションをフルに堪能するには、『 散り椿 』のような時代劇よりも、『 図書館戦争 』のような現代のバトルの方が適している。もっと言えば、ガン・アクションと格闘技である。その格闘について言えば、漫画『 CUFFS 〜傷だらけの地図〜 』的なmaneuverが見られる。本作の原作漫画は未読なのだが、南勝久が東條仁並みにB級アクション映画ファンであるならば、是非コミックレンタルを検討しようと思う。

 

最も印象に残ったのは、殺し屋役としての福士蒼汰。正直なところ、上手い演技だとは毛ほども思わなかったが、主演クラスで出演する作品を個人的にはどれも高く評価できないことから、演技者・表現者として方向転換するべきだと常々感じていた。今回はそれを見せてくれたということで一定の評価をしたい。

 

同様のことは向井理にも当てはまる。『 君が君で君だ 』で暴力のにおいをぷんぷん漂わせる男を好演したが、優男もしくはイケメン枠の俳優は、ヤクザ役を演じることがキャリアに良い影響を与えるのかもしれない。

 

しかし、最も高く評価したいのは安田顕である。『 その男、凶暴につき 』の北野武のような狂った警察官を、いつか演じてみてもらいたい。また『 キッズ・リターン 』をリメイクするなら、柳楽優弥のキャスティングはmustであろう。

 

本作は下敷きに『 ターミネーター2 』があるように感じられる。殺戮マシーンが人間との触れあいを通じて、ジョークを学び、涙を流す気持ちまで理解するのと同じように、浮世離れした殺し屋ファブルが、そのスキルを活かして人助けをするところに面白みがある。また、このファブルは決して木石ではなく、自分の武器に愛着を持っている。車の窓から銃身の部品を投げ捨てる前に銃を凝視するところ、身の回りのものでおもちゃの銃を作ってしまうところに、『 続・夕陽のガンマン 』におけるトゥーコと共通点を見出せる。こうした細かい描写の積み重ねが映画の面白さの土台を形作っていく。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のアクションシーンでの文字解説は不要である。『 ジョン・ウィック 』や『 悪女 AKUJO 』を意識していると思しきシークエンスだったが、であるならば作り手はもっと受け手を信頼すべきだった。ファブルという超絶技巧の殺しの達人の妙技を、映像と音響だけで伝えるように努力すべきだったし、そのようにして観客をエンターテインすべきである。

 

岡田准一は大阪府枚方市出身にして現・超ひらパー兄さんのCMをよく知っている者として、今作で披露してくれるギャグやスキットは、それほどインパクトのあるものではない。「ワイが、枚方生まれ枚方育ちの、スーパーひらパー兄さんで、おま!」が当時の関西の女子に与えたインパクトを超えるものではなかったように思う。また、枚方市出身の大阪弁ネイティブとは思えないほど、ぎこちない大阪弁であった(兵庫県民のJovianがそこまで言っていいのかどうかは分からないが・・・)。

 

江口カン監督の東京ジャイアニズム的な感性も鼻についた。JR大阪駅周辺の地図を画面に大写しにした次の瞬間に、通天閣および新世界を映すのはどういう了見なのか。大阪→新今宮→岸和田、または大阪→大阪城→枚方のような撮り方および映し方はできなかったのか。

 

全体的にシリアスなパートとギャグのパートのバランスが悪く、それが全体のトーンの一貫性を損なっていた。山本美月も変顔を披露してくれたことは称えたいが、それを吹き飛ばすほどの泣き顔もしくは笑顔が見せらないのであれば、ただの道化である。木村文乃も見せ場に乏しかった。ファブルが素人認定したmaneuverで、仮にもプロを倒してしまうというのはどうなんだ?

 

総評

原作未読者の感想としては、普通に楽しめるアクション映画である。ただ、岡田准一の新たなポテンシャルを呼び覚ました作品ではないし、物語全体のトーンに一貫性がないところも気にかかる。CM畑出身の監督なので、一瞬のインパクトを重視するきらいがあるのだろうが、映画は基本的に90~120分である。江口監督には時間の使い方にもう少し慎重かつ大胆になって頂きたい。最大の見せ場は、本編トレイラーでほぼお披露目済みなので、鑑賞を考えている人はとにかくトレイラーから距離を取るべし。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, C Rank, アクション, 安田顕, 岡田准一, 日本, 監督:江口カン, 配給会社:松竹Leave a Comment on 『 ザ・ファブル 』 -トレイラーを極力観ずに鑑賞されたし-

『 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 』 -オタクに媚びるのもほどほどに-

Posted on 2019年6月21日2020年4月11日 by cool-jupiter

青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 45点
2019年6月20日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:石川界人
監督:増井壮一

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一時期、Jovianは何かの弾みで舞城王太郎や清涼院流水、浦賀和宏を読み出して、ラノベ方面にも手を出していた。今は、葉山透の『 9S 』の11巻以降と範乃 秋晴の『 特異領域の特異点 』の3巻を待っているだけである。たまには頭をリフレッシュさせるかと、タイトルだけ見て本作のチケットを購入した。何とも評価に困る作品であった。

 

あらすじ

梓川咲太は、女優にして恋人の桜島麻衣との交際も順調で、学校やバイト先でも仲間に恵まれ、幸せに暮らしていた。、しかし、咲太の初恋の相手の牧之原翔子が現れたことで、咲太と麻衣の関係が少しギクシャクし始めた。なぜなら翔子は「中学生」と「大人」として、二人同時に存在しているため・・・

 

ポジティブ・サイド

ストーリーの軸がぶれなかったの良かった。各キャラに合わせて色々なサブプロットを展開させなかったのは正解である。開始早々、原作未読者を置いてけぼりにする作りになっていることは分かった。これは潔い。ならばこちらは登場人物たちの背景や関係を把握することに努めるのみである。幸か不幸か、どこまでも定番のキャラクターたちが揃っていて、人物の属性把握は極めて容易い。同学年の寡黙な理系メガネ女子や、バイト先の年下妹系キャラなど、これまでに100万回見たり読んだりしてきた紋切り型のキャラクター造形はむしろありがたい。型どおりのキャラクター達が、とあるキャラクターが抱える謎に迫っていくストーリーも100回は体験した気がする。だからこそ分かりやすい。

 

咲太というキャラが、どこまでも純粋なところも共感しやすい。男という生き物は、その実際の生態は別にして、自分自身を純であると認識する傾向がある。本作の狙う客層は95%は男であるだろうし、事実劇場の客はほぼ100%男性(一人客5割、グループ客5割であったように見えた)だった。このようにデモグラフィックをはっきりさせた映画は鑑賞しやすい。メインターゲットの人々にとっては、一昔前に流行ったイージー・リーディングならぬイージー・ウォッチングが可能となる。不覚にもJovianは咲太というキャラを少し応援してしまった。

 

ネガティブ・サイド

王道的なキャラクター、王道的な展開というのは、一歩間違えれば陳腐で凡庸となる。本作はそのあたりの境界線上をかなり慎重に綱渡り的に進んで行くが、相対性理論やら量子力学、超ひも理論、タイムトラベルを持ち出してきたあたりで、面白さが半減してしまった。確かにオタクは、本田透の分析に頼るまでもなく、最先端科学理論と格闘技が好きな生き物である。だからといって、意味のないガジェットにまで凝る必要はない。理系メガネ女子が読む「超ひも理論」の書籍に、ダジャレ以上の何の意味があるのか。タイトルからして『アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 』へのオマージュになっているには分かるが、それならせめて最低限の科学的一貫性を維持してもらいたい。相対性理論でタイムトラベルを説明するのなら、量子力学を持ち出さないでほしい。この二つの理論の相性は残念ながらすこぶる悪い。オタク相手に媚びたいのかもしれないが、おそらく通常のオタクはもっと科学的に洗練された、あるいは哲学的に深みのある設定を好むのではないか。それとも、それはJovianの世代の感覚で、今の10代や20代は、それっぽい用語や小道具を随所にちりばめておけば満足するのだろうか。タイムトラベルものというのはどこまでも矛盾に満ちているものだが、本作は『 アベンジャーズ/エンドゲーム 』が採用した、時間=意識説を用いる一方で、歴史を分岐しうる時間線の如く扱っている。無茶苦茶である。支離滅裂である。途中のウサギは『 ドニー・ダーコ 』へのオマージュなのか。やたらと難解SFを模すれば良いというものではないだろう。少しは『 ペンギン・ハイウェイ 』を見習うべきだ。

 

また、入浴シーンやキャラのバストアップのシーンなど、必然性を感じないアングルのショットがところどころで挿入されるのは何なのか。ストーリーテリングの上で必然性があればよいが、とてもそのようには感じられなかった。サービスとエンターテインメントを履き違えていないか。

 

総評

それなりに楽しめるものの、作り手の過剰なサービス精神がマイナスに作用しているという印象を受けた。あくまで原作未読者の感想である。ただ、ラノベが元々は1950~1960年代のSF作品の劣化コピーの延長線上に生まれたものとの認識を持てば、それほど目くじらを立てるほどのものではないのかもしれない。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, SF, アニメ, 日本, 監督:増井壮一, 石川界人, 配給会社:アニプレックスLeave a Comment on 『 青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない 』 -オタクに媚びるのもほどほどに-

『 さよならくちびる 』 -見事に切り取られた鮮烈な青春の一コマ-

Posted on 2019年6月16日2020年4月11日 by cool-jupiter

さよならくちびる 75点
東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:小松菜奈 門脇麦久 成田凌
監督:塩田明彦

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Jovianはアメリカ人ではヘイリー・スタインフェルドとアニャ・テイラー=ジョイ推しであるが、日本人では小松菜奈推しである(『 渇き 』と『 溺れるナイフ 』はWOWOW放送場を録画したままで未視聴なのだが・・・)。そして門脇麦にも高い評価を与えている。その二人が出演する作品が、どういうわけか flying under my radar. 大慌てで出勤前に劇場鑑賞してきた。

 

あらすじ

ハル(門脇麦)とレオ(小松菜奈)は、シマ(成田凌)という元ミュージシャンかつ元ホストをローディーにして、「ハルレオ」というインディーバンドを組んでいた。しかし、ユニット内のメンバーの思いは微妙にすれ違い続け、そして解散前のツアーが始まる・・・

 

ポジティブ・サイド

『 ここは退屈迎えに来て 』で、やや調子っぱずれに歌っていた門脇麦。『 坂の上のアポロン 』で、結局歌わずじまいだった小松菜奈。この二人が予想以上の歌唱力を披露してくれた。成田凌も含めて、ギターを弾く演技もなかなか堂に入っていた。ギターを弾く姿というのは、手元よりも全身、立ち姿や座った時の姿勢で決まるような気がする。ピアノを弾く姿も、手元よりも全身の方がしっかり、はっきり表現されているように思う。『 グリーンブック 』のマハーシャラ・アリ然り、『 ラ・ラ・ランド 』のライアン・ゴズリング然り。

 

閑話休題。本作はバンドメンバーを巡る物語であるが、音楽以外の面も良い。ハルとレオとシマの報われない三角関係が、説明的な台詞もほとんどなく描かれる。ビジュアル・ストーリーテリングの面で秀逸なのである。レオが料理をしないこと、そのレオがハルの料理に胸を打たれる一連のシークエンスに、我々は否応なくレオのこれまでの境遇に思いを馳せずにいられなくなる。冒頭のシーンからレオは観る者に「なんなのだ、この尻軽は」と感じさせるばかりなのだが、それはきっと求められることが無かったが故の反動なのだ。単なる美少女キャラから複雑な事情や内面を抱えたキャラを演じられるようになった小松菜奈の今後がますます楽しみである。決してベッドシーンを期待しているわけではない。これまで見せてくれなかった歌唱シーンを見せてくれたのだから、今後も作品ごとに新たな地平を切り開いてほしいということである。

 

ハルを演じた門脇麦にも称賛を。100人に9人はLGBTがいるということで、もはや彼ら彼女らは珍しい存在ではない。しかし、ただ単に存在するということと、その存在が他者に認知されること、そして受け入れられるということは別物である。シマとレオの必要最低限の会話だけから、ハルの過去から現在に至る苦悩と懊悩の全てが見えてくる。ハルとレオの interaction の一部には重要な示唆が含まれている。それはLGBTもパートナーを選ぶということである。当たり前だが、ノーマルな男が全ての女性を恋愛の対象(≠欲望の対象)にするわけではないし、ノーマルな女性が全ての男性を恋愛対象にするわけでもない。それと同じことである。本作はハルとレオという対照的な人物の繋がり方を映し出すことで、我々がいかに人間関係を恋愛感情や肉体関係でもって規定したがっているのかを逆説的に炙り出す。ハルとレオは我々が期待するような関係で結びついているわけではない。にも関わらず我々は彼女らのユニットの存続を心から願ってしまう。この脚本、そして演出は見事である。唸らされる。

 

シマを演じた成田凌は、私的2019年国内最優秀俳優の認定は間違いのないところ。元ミュージシャンにして元ホストという雰囲気を確かに漂わせていた。それは、煙草を取り出した女性に即座にライターを差し出すところではなく、レオの恋慕を頑なに無視し、安易な肉体関係を結ぼうとしないところだ。また、ライブでもギターやタンバリンを演奏するところで、スポットライトを浴びようとしない佇まいも良い。そして演奏シーンで手元が移るのは、実はほとんど全部シマだったりと、音楽映画の音楽映画らしいところ、役者ではなく本当のミュージシャンですよ、と思わせたい部分の演出をほとんど一手に引き受けているところも渋い。一番スポットライトから遠い男が多分一番楽器の練習を積んできたのだろう。ハルレオのユニットメンバーの中で、おそらく最も劇的な変化を見せるのはシマであると思う。それはJovianが男性であることと無関係ではないだろうが、彼の人生において非常に重要なピースが入れ替わる瞬間の目の演技が素晴らしい。そして声も。言っていることと、心の中で思っていることが見事に一致していない。クズな男ばかりを演じてきた成田であるが、本作は期せずしてクズ男のビルドゥングスロマンとしても成立しているのである。かなりご都合主義的な展開もあるが、この着地の仕方にも唸らされた。

 

演出面では、各キャラの歩調に注目してみて欲しい。普通、誰かと一緒に歩いていると、歩調というのは合ってくるものだ。誰しも経験があるだろう。しかし、本作のハル、レオ、シマは見事に歩調が合わない

 

本作の肝は「さよならくちびる」というタイトルにもなっている楽曲である。そしてそのくちびるが誰のものなのかを、本作はオープニングのタイトルシーンで示唆する。くちびるというのは不思議なもので、くっつかないと出せない音声、離れていないと出せない音声がある。本作を見終わったら、ぜひ「さよならくちびる」の歌詞を意味を考察してみて欲しい。そこには豊穣な意味の世界が広がっていることを約束する。

 

ネガティブ・サイド

歌詞を画面にスーパーインポーズする演出は個人的には好ましくなかった。ハルが作詞に使っているノートをアップにするか、もしくはスーパーインポーズするにしても字体をハルの筆跡に近いものにしてほしかった。そうすればもっと彼女たちの音楽や歌詞の世界に入っていきやすくなったのにと思う。

 

またレオの痣が化粧であまりにも呆気なく消え過ぎである。いや、ステージ上でそれを消すぐらいは容易いのかもしれないが、車の中やレストランでまで綺麗に消えているというのは・・・ 途中でハルレオの追っかけファンである女子中学生ぐらいのペアが登場するが、その片方の子の歌唱力たるや・・・ ハルレオより普通に上手いのである。LGBTとしての生きづらさを抱えている自分が、ハルレオの楽曲によって救われたという実感を歌の形で吐露する非常に象徴的なシーンであるが、もうちょっと歌を普通に歌うようにディレクションできなかったのだろうか。

 

後は重箱の隅をつつくようで申しわけないが、シマの運転シーンである。背景が合成なのは構わない。ただ、それなりのカーブをゆるーく曲がっていくのに、ハンドルを全く動かさないというのはどうなのだろうか。直進の道路でやたらとハンドルをちょこまか動かすのも目に付くが、曲がるべきところではそれなりにハンドルを切ろうではないか。

 

総評

『 ボヘミアン・ラプソディ 』的なテーマと構成である。もちろん、映画の構想から実際の製作に要する時間を考えれば剽窃とは考えられない。むしろ、原案/脚本も務めた塩田監督の先見性、時代を読む慧眼に敬服すべきなのだろう。素晴らしい作品が世に送り出された。これは劇場鑑賞必須である。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, B Rank, ヒューマンドラマ, 小松菜奈, 成田凌, 日本, 監督:塩田明彦, 配給会社:ギャガ, 門脇麦, 音楽Leave a Comment on 『 さよならくちびる 』 -見事に切り取られた鮮烈な青春の一コマ-

『 小さな恋のうた 』 -プロモ映画としても何か足りない-

Posted on 2019年6月9日2020年11月11日 by cool-jupiter

小さな恋のうた 40点
2019年6月8日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:佐野勇斗 森永悠希 山田杏奈 
監督:橋本光二郎

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MONGL800の歌には不思議なインパクトがあった。事実、『 小さな恋のうた 』は平成を通じて男性がカラオケで歌った曲としては一位という集計データもあるらしい。そしてJovian機体の橋本光二郎監督がメガホンを取ってこの名曲の誕生秘話をドラマ仕立てにしたというのだから、期待も高まる。Alas, I did it again. Don’t ever get your hopes up.

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あらすじ 

沖縄の高校生、リョウタ(佐野勇斗)とシンジ、コウタロウ(森永悠希)はバンドを組んで、真摯に音楽に打ち込んでいた。しかし、シンジとリョウタが交通事故に巻き込まれてしまい・・・

 

ポジティブ・サイド

山田杏奈は頑張っていた。山田は『 わたしに××しなさい! 』の頃より少しふっくらしたように感じたが、存在感も増していた。良いことである。前半はほとんど台詞もないが、それが爆発する終盤手前のシーンは見事の一語に尽きる。

 

森永悠希にも感銘を受けた。『 カノジョは嘘を愛しすぎてる 』ではドラムを叩き、『 羊と鋼の森 』ではピアノを弾きこなし、本作でもドラマーを演じ切った。楽器を弾ける役者は希少価値がある。もちろん、音は後からプロが入れ直しているだろうが、主要キャストの中では森永の演奏シーンが最も迫真性が感じられた。

 

世良公則のキャラクターも良かった。不可解な言動を取る大人が数名存在するこの世界で、子どものまま素直に大きくなったような大人の存在は一種の清涼剤であった。

 

ネガティブ・サイド

 

以下、マイルドなネタばれ記述あり

 

沖縄を舞台にするのはよい。それがモンパチの出身地なのだから。しかし、そこで描写すべき沖縄成分が圧倒的に不足していた。米軍基地の軍人相手に商売するバーは構わない。しかし、沖縄の空と海、沖縄らしい料理、方言をもう少し、時間にして2分で良いから描写して欲しかった。このあたりは『 洗骨 』から学ぶべきだろう。

 

不可解なのは、バンドのメンバーたちが東京の方角に向かって叫ぶシーン。しかし、そこには夕陽が。沖縄のどこの地点でも、いつの時点でも、夕陽の方角に東京は無い。何故こんな初歩的なミスを犯すのか。まさか朝日なのかとも思ったが、放課後のシーンなので夕陽で間違いない。滅茶苦茶もいいところだ。

 

全体的には物語のトーンとテーマに統一感が感じられない。楽曲の素晴らしさを売りにしたいのか。それとも友情の強さ、美しさを前面に押し出したいのか。それとも国境を超えた少年少女の心温まる交流劇を見て欲しいのか。監督の意図が分かり辛い。楽曲の素晴らしさを売りにしているわけではなさそうだ。何故なら、もしそうであるなら学園祭の屋上ライブをあのタイミングでストップしてしまうのは理にかなっていないからだ。全曲披露して、その上で教師にしこたま説教を食らえば良い。男同士、バンドメンバーの結束や友情、絆がメインテーマというわけでもなさそうだ。もしそこに焦点を当てるなら、ヴォーカルがドラマーに向かって「お前はただ叩いているだけでいいよな」などと言えるわけがないからだ。Jovianがドラマーなら相手を20発はぶん殴るだろうし、Jovianがヴォーカルでポロっとこんなことを口走ってしまったなら、20分は土下座する。そういう描写こそが必要なのだ。佐野の演じるリョウタが、この瞬間から甘ったれたガキンチョにしか見えなくなってしまった。米軍基地内に暮らすリサとの交流がメインというわけでもないようだ。沖縄の現実と米軍基地の問題を切り離すことはできない。デモ隊と基地の対立、デモ隊と主人公らの関係が特に強く描かれるわけでもなく、そこにさらに親子の葛藤という対立軸まで放り込まれても、こちらはとても消化しきれない。

 

他にも、序盤のシーンではシンジに影がなく、終盤のシーンではシンジに影があるという具合に、演出面でも統一を欠いた。影云々は、製作者側の意図的なものかもしれないが、ただでさえ色々な面でとっちらかってしまっている作品に、これ以上を混乱をもたらすような演出は不要である。

 

総評

高校生がバンドを組んで学園祭でパフォーマンスをするという映画なら『 リンダ リンダ リンダ 』の方が一枚も二枚も上手である。だが、Jovianが嫁さんと鑑賞した劇場内では、かなりの人数の女子が泣いていた。「もう2時間ずっと泣きっぱなしやったわ」という声も聞かれた。当たり前田は広島カープであるが、一レビュワーが低く評価しているからといって、作品の質が低いというわけではない。作品とそれを鑑賞するものの間には、波長のようなものがあり、それが合うと評価が高くなりやすいのだ。モンパチのファンであるなら、劇場鑑賞も一つの選択肢として検討しても良いのではないか。

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Posted in 国内, 映画Tagged 2010年代, D Rank, ヒューマンドラマ, 佐野勇斗, 山田杏奈, 日本, 森永悠希, 監督:橋本光二郎, 配給会社:東映, 音楽Leave a Comment on 『 小さな恋のうた 』 -プロモ映画としても何か足りない-

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